筑紫文学圏論 第一山上憶良・第二大伴旅人、筑紫 文学圏
著者 大久保 廣行
学位授与大学 東洋大学
取得学位 博士
学位の分野 文学
報告番号 乙第111号
学位授与年月日 1999‑03‑15
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00004059/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
大 久 保 廣 行 著
11
筑 紫 文 学 圏 論
− ︲︲︲ ︲− −−・ ︲ll− ︲ =− −大伴旅人
筑紫文学圏
− ︲−− −︲ −− ︲−︲− −︲− −−︲︲−︱︲−
笠 間 書 院 刊
次 目
目
次
I 大 伴 旅 人 の 論
第 一 章 旅 人 と 筑 紫
−. ‑J
筑紫とのかかわり⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝︑
.
う (■' ‑ )
∩
けじめに ろ
武人としてI征〜人情川人特車時代 4
文人としてI人宰帥時代 ︲
㈲ (川
風Lと文芸吐界 19
結び パ.
n
W Jベ ーj﹁いやし﹂の意識
ト )
□ ∩
けじめに 25
作れと作⁚川構造
﹁いやし﹂の語義
三 時 空 意 識
]
∩ (コ (呵
けじめに 妁
筑紫の認識 叩
現実の筑紫 %
鄙の意識 S
四 鄙のみやび
∩
∩
けじめに 乃
みやびの歌巻 77
第 二 章 旅 人 の 文 学
一 讃 洒 歌 二 首
26 29
( I ' M )
㈲
(六) ㈲
] (七) (陽
﹁いやし﹂の川辺
結び 羽
幻影の構築
みやび志向
結び 71
6 5 68
みやびの構造 84
結び 93
桶
Z",
・杓 95 フ 5
次
川 川
二 重
口 う
はじめに 95
歌詐末尾の二回
層的発想⁝⁝⁝⁝
ド けじめに 114
口 文9 的意図と挨拶性
目 亡友迫慕 20
96
1 n
三 短歌形式の可能性⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
四
り う
∩
けじめに 乱
未奏の・長歌 147
ことばとこころの収川L尨味の
終焉とその文学
∩
∩ (二)
けじめに
jf︲N 8如︒? □
︒人.t一し年
178 182
収隋造性
150
(丿 ( 川
讃酒歌の
結び
位 置
no
107
四 憶良との対話 126
㈲ 追和歌から亡妻悲傷歌群へ
因 結び 140
洲 (叫
㈹
迪鎖的展開−い・わゆる述作︲
虚構の匪界︱いわゆる物ぶ性
結び 173
囚 残された人々
㈲ 旅人の文学
囚 結び 196
188 190
い6 n^
166
114 178 146
IV
II 筑 紫 文 学 圏 の 論
第 一 章 筑 紫 文 学 圏 の 時 間 と 空 間
一
地理的位相
ド 地名衣現とのかかわり
口 鄙の意識 213
二 大 宰 府⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
ド はじめに 216
い 人宰府の沿革 七
三 果てなる意識⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
ド けじめに 宍・
い 時間的果て 253
: : 201
□
結び
215
固 新文9 の志向 222
㈲結び 229
川 空間的果て 2 41
叫 幻び 24
2 ろ2 216 201
V 目 次
第 二 章
一
一一
四 ゝ J
集 団 に よ る 詠 出
梅 花 の 宴 歌 群 の 展 開
( う .
■■ ‑ )
けじめに
251
宴の歓の史的流れと
葛 井 氏 の 歌 詠 と 伝 統
∩
∩ よじめこ 卵C
C 1﹄
反復長堤の意図 ﹁梅花の歌﹂
299
喇権の短詠と﹃懐風藻﹄
∩
∩ j
けじめに
長屋.L
序文の叙述
引 り 516 肩2
領巾座の嶺歌群の形成・・
(う う
ト )
はじめに
作行と伝承
歌肘の構辻
ろ卜 い1 ろ40
25^
( 三 )
( 陽 (.つ
(叫
㈲ ( 固 (n) (六)
㈲
﹁梅花の歌﹂
紅び 29 の形成
葛井氏の伝統
幻び 31
詩宴の素材
1−・L111Iljl
がひ 33
3 32
305 ろ26
人万.年作歌群の構成
ぜび 碩
268
伺8
9
■It−をφ嘩バー2
298
??8 ^16
\ ' l
第 三 章
一
.八
一
論 所 七収
追 和 歌 の 方 法
追和歌の創出・こ=
ド けじめに
= 筑紫え⁝Y圈の
fV‑ ^歌の特徴 ■)り
有間追悼歌と﹁帥老﹂庄記
ロ けじめに 宍
に﹈ 打開辿悼歓の作歌時期 77
家持作歌の試み⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
O けじめに
(
第四期歓人の
初出︵原題︶
あとがき
一
覧 辿和のありぶ 9 4
郷9 }95
叫 ミ )
辿和歌の方法
抑び リ
日﹁帥老﹂よ記の意味
叫 結び
390
365
∩ 辿和と依興の収なり
個 幻び 41
383 408
37 フ め9
394 418 羽5
引 目 玉
索
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1︲︲lχ・ゝXjj耳Jガリ⁝⁝⁝⁝
人名索引⁝⁝⁝⁝ 八川︱
左問回
I 大 伴 旅 人 の 論
1 1 筑 紫>‑ の か か お り
第 一 章 旅 人 と 筑 紫
一
筑 紫 と の か か わ り
)
けじめに
現在残る人件旅人の作品の人肌には筑紫で詠まれたもので︑人宰帥として人宰府に在った期間袖厄斤〜がごろ着任
〜人〜.y!汀人竹⁚とな丿心I・に集中している︒しかしその中には︑下野国の防人の火長のように︑﹁今︲よりは
顧みなくて人君の醜の御楯と出で立つわれは﹂︵20四とし式の︒ご⁚立てを謳歌するものは
首も含まれてはいない︒
帥という︒官職を心接的に前面に打ち出して歌うレ﹂いうことをしていない︒つまり︑歌を官職に本什させるものとし
て機能させることはなかったのである︒むしろ彼にあっては︑現実の職責と最も遣い位置にあったのが歌というべ
きであろう︑歌が人字帥と直結するものでないとすれば︑筑紫に在ることの旅人個人の意識と結びつけて︑それは
捉えられなくてはならないだろう︒筑紫に在ることが彼に何をもたらしたのか︑それがそれ以前の彼をどう変えた
のか︑その結米どんな方向へと彼の歌を向かわせたのか︑などといった道筋がちっと明らかにされる必安があろ
I ■P, ‑章 旅 心 能
のしトに旅人文学が開花築点かれたものなのか︑その接筑伴紫という地理・風LAl人旅な人の経験とのどのよう つ
考究を小論の課題に据えたいと思う︑
∩
武人として1征〜人持節人将車時代
人京府が設置されたのは筑前国であるが︑敢えて北九州さらには几州全域を指すよ几紫の呼称を川いたのは︑
旅人がかかかったのは筑前田だけに限らないからである︒その筑紫とは旅人は一休いかなるつながりを持ったの
ヤ
旅人は少なくとも二度は筑紫へ赴いている︑即ち︑征隼人持節人将軍としてハ︒ト六歳の時に五ヶ月ほど︑大宰帥
として六ト四歳から三年近く︑筑紫の地に足を踏み入れていたことは確かである︒そゝ﹄でまず征隼人持節人将軍時
代の問題から考えてみることにしよう︒
1 最初の筑紫下向
役老四年・≒一二月ニト九日︑人宰府からの奏言があり︑隼人が反乱を起こし︑人隅の国守陽佼麻Mを殺宋⁚しか
と告げた︒薩摩の隼人の反乱は︑大宝二年・し・︑・・和銅六半乙〜などに兄られるが︑そのたびごとに鎖圧されて︑
霊勉三年こ︒し一四目いには人隅・薩摩二国の隼人は刺廷で風俗の歌舞を奏工したのであったが︑貞Lの期間が八年交
替から六年制へと短縮されたものの子叫ぐ斤リ︑国内での父けの老疾と妻子の貧窮は深刻をきわめ︑加うるに造
4
と の か か お り
1 1 筑 紫
籍の徹底を図ろうとする中火政府の強行施策に対する反発が一挙に噴き出たものらしい︒
事態の我大さに驚いた朝廷は︑三月旧⁚目には中怖丿瀧中務卿正四位下であった人伴旅人を征隼人持節人将軍に任
命し︑笠御室とし勢八人の二人を副将軍に立てて急濾鎮定に向かわせた︒六月Fし︲には詔がドリ︑その戦功を称
えて︑兇徒は剪り掃われて酋帥は㈲縛され︑寇党は叩頭して敦風に摩いたとして︑盛熱の原野での製苫を慰問し忠
勤を労っている︒しかし︑それが完令な制圧には至らずなおも苫戦を強いられたことは︑八月十二目人将軍の旅人
が佇班である右人に藤原不比等の病没入川イリ
・
によって帰京を命ぜられた時︑副将軍以下は︒隼人がいまだ平らかならずという理山から︒なおも現地に駐屯させられたことによって明らかである︒介わせて一四〇〇余人もの隼
人を斬佇・獲虜して彼らが都に帰還できたのは︑翌養老五年にU月のことであった︒同六年四月には将車以下の功労
者に勲位が授けられ︑七年斤月には薩摩・大隅の隼人六二四人が朝貢して風俗の歌舞を奏にしており︑さしもの人
乱もやっと鎮静を見たのであった︒
今回の筑紫派遣の期間︑旅人は存の終わりから夏の盛りを中心に秋の半ばまで︑南九州に在って車旅に明け暮れ
た口々を送ったのだった︒五ト六歳の都人Lである旅人にとっては︑南田の原野の暑熱は相当こたえたことだろ
う︑しかし彼はそれに肝易するいとますらないほど︑おのれの務めに没頭したはずである︒やや誇張があるにせ
よ︑先の詔がよくその忠勤ぶりを物語っている︑まさに人白yから令権を託されたとの使八叩感に燃えて︑朝廷への滅
私奉公に徹したのであった︒それはきわめて囚難に満ちた任務ではあったが︑旅人にとっては決して厭い避けるべ
きものではなかった︒むしろ︑自にに課せられた重責を着実に遂行することに名誉とな⁚ぴを感じたに違いない︒輝
かしい戦果をトげて人伴の名を揚げることこそ︑おのれ自身にとっても氏族にとっても面目を施すものであり︑︒
旅 人 と筑 紫 章
第
I
族の繁栄につながるものであったからである︒
このように軍旅に厚念した旅人には︑歌を詠む余裕など企くなかったものと思われる︒事実︑この間旅人はまだ
首の歌も残してはいない︒初めて目に触れる︑都とは異なった自然や風土も︑特殊な状況下にあっては風流の対
象となるはずもなく︑隼人と共にすべてが征圧されるべき対象であった︒その自然は自分を慰め包み込んでくれる
ものではなく︑わが行く于に立ちはだかって執拗に拒絶と抵抗を続ける存在であった︒加えて南田の夏の丼さは一
層その嫌悪感をつのらせ︑自然と自己との懸隔をさらに広げたことだろう︒旅人は武人として乍人と冷戦せねばな
らなかったが︑もう一つ自然の猛威との戦いも余儀なくされて︑いずれにも初の厳しい休験を昧かったのであっ
た︒心を落ち着けて歌作に耽ることなど令く考えられなかったとうI⁚つてよいだろう︒
それから遡ることト年前︑旅人は隼人とこんなかかわりも持ったのだった︒即ち︑和銅三年こ丁の元日︑時の
元明大白五加大極殿で拝賀朝貢を受けた際︑左将軍正五位上であった旅人は雨将車穂禎老︶︑右将車佐伯石湯・剛0 軍小
野馬養︶と共に︑藤原京の宮城門外の朱雀大路を東西に騎兵を分列させ︑その間を南の隼人・北の蝦夷を率いて行
進したのだった︒辺境支配の国威を顕示するデモンストレーションであるが︑そのいわば司今回役を果たしえたこ
とは︑旅人にとってはこのLもなく晴れがましいものであった︒父の大納汀安麻昌も存命であったから︑このの姿
は武の伝統を誇る大伴氏としてまことに面目躍如たるものであったに相違ない︒この時旅人は四L六歳︑正史︵﹃続
︲本紀﹄︶にその名が記レ留められた最初である︒だが︑その後ト年間の記録は︑﹃続口本紀﹄によれば︑次のように
叙位と任官のみである︒
6
]I 筑 紫 との か か お り
︿叙 位﹀ ︿任 官﹀
和銅四年I.ご四月 従四位下
和銅七年︵ニ︶ト 月 左将軍
霊亀元年ご︒が正月 従四位Lに
霊亀元年こ︒と五月 中務卿
養老二年︵ズ︶三月 中納言
養老三年︵ご︶正月 止四位下
ト年という時間の隔たりを置いてはいるか︑他の簡略な記事に比して以Lの二つの記録が詳細であるということ
は︑それだけ朝廷への奉仕という政治的意味合いが濃かったことを示すものであろう︒大君の命によって力を揮う
場を与えられたという>}とは︑旅人にとっては名誉以外の何物でもなく︑自己の栄達のためよりも︑大伴氏の運命
を賭けて全うすべき重責としてそれを受け止め︑全知全能を傾け尽くして事に当だったに違いない︒それは﹁至公
私無きは︑国土の常風︒忠を以て君に事ふることは︑臣子の恒道なり︒﹂︵養老︒瓦年ぶリ︒トし︲弔という人皇側の常に
抱いていた要請にも介致するものであった︒まさに天皇を頂点とする古代律令国家体制の中に組み込まれた高級宮
人の姿がそこにはある︒それも天皇側近として奉仕する武門としてのあり方において1.
2 武門の伝統
そもそも占来大伴氏は人き伴の造として輿を統率して朝廷に仕え︑軍事に携わって忠誠を尽くしてきた︒遠阻人
旅 入と 筑 紫 第 'ちy
I
忍目命は大孫の降臨に際して大津久米命と玖に先導をつとめ︑その三吐のト孫遊臣八叩は神武人山Eの東征の折に
智将として車を率いてその忠勇ぶりが評価吝れた︒雄略人白Eの時人伴室屋は人迫を賜り︑そのf談は新羅遠征車
の人将となって遠征︑戦叱︒その八全村は武烈刺から欽明朝まで仕えてで人自匹の任厚く権力を揮った︑さらにその
いわ I﹄ でひこ︷しに磐と狭fぼは任那の救援を八叩ぜられ︑磐は筑紫に留まってべ韓に備え︑狭乃彦は脂島に渡って新羅を討っへそ
の後人伴氏は蘇我氏の繁栄の陰に隠れて第
化れらせ叙に位紫人に宍云年瓦人戦が徳艮にかずわ︑き退はらか右
大臣となって返り咲いた程皮である︒さらにその弟馬来田・吹負兄弟はて巾の乱の勲功著しく映負け将車に汗すら
れ
る≒長徳のf御行・安麻呂も人武側の功将であった︒御行はのち持統八年飛りに氏トを認められ︑同ト年には人
怖︒
⁚し有ちな﹁人君は神に坐たせば赤駒の匍匍ふ川井︒れと︑して資人八〇人を賜り没さ後正広弐有大臣を追贈を
都となしつ﹂︵19四ズじという一昨はf申の乱の平定後の御行の作であるが︑服従奉仕の対象である人白f.を絶対化
し神格化する新しい天白E観を明確に打ち出している︵刊山出氏盲愁し⁚悩人件旅人・山ト憶心旅へ︒人伴氏という氏族の
性格をよく示していると︒
⁚
うべきである︒一方︑弟安麻呂も宋鳥︒几年・︒八よに新羅使饗応のために筑紫に派遣され
た外︑式部卿・参議・兵部卿を歴任して慶雲二年I万大納汀となり︑さらに大宰帥を兼ねて正三位にに1 進する︑
和銅じ年Iぶ︶に莞じた時は大納づ⁚兼人将軍であり︑従二位を迫贈された︑この時安麻昌のf旅人は托ト歳で︑人
伴氏の再度の栄達ぶりを眼の当たりに見だのではあったが︑もはや客観情勢としては藤原不比等の前には金村はど
の権力は持ちうべくもなかったのであった︒
以L人伴氏の系譜の概略一旅人の系譜と生沁についての詐糾な究明は︑︒汗味皆災氏の﹁人件旅入9 説し⁚万低喩人声ツ什家研究にト︑の
ちにい万便囃の作家と什⁚I所収しに尽くされている︶をたどったのは︑人伴氏が人白Eの親衛単の統率者としての機能を果たし︑
8
1 1 筑 紫.と の か か お り
占米人和政権碓立の戦いに参山し︑朝廷の勢力拡人に改献し続けてきたことを記録のトで確認しておきたかったか
らである︒
たとえ時代が変わって︑政治を動かす中心勢力の座は藤原氏に移行しつつあるにしても︑伝統に輝く武門の名族
の折持だけは高く掲げて訪れることはなかった︑それは︑次の家持が﹁陸財田より公を出せるJ雫⁚を貿ける歌一
片﹂︵18川完四〜川七︶や﹁族に喩せる歌よ︲﹂︵20四四豆〜四門六じ︶で︑翁曲を尽くして﹁祖の職﹂や﹁祖の名﹂を強
調していることでも容砧に納得できよう﹃︒それは︑人件氏がいかに衰運の一途をたどろうとち︑最後までは火って
はならない拠り所であったからである︑
遠い祖先の功裳を耳にして育ち︑伯父や父の勲功と栄進を目にしてきた旅人にとっては︑かかる武門の伝統を守
って武人としての生を打くことが︑人伴家の棟梁たる者に課せられた生きぢであったはずである︒だから︑左将軍
として隼人・蝦火を率いての和銅ペ年の騎馬行進も︑征隼人持節人将車として従車した養老四年の隼人の乱の治定
も︑人伴氏のちを人ドに示すL核一遇のチャンスとばかり︑桁魂込めて勅命の実現を図ったことだろう︒無語に人
任を果たし成功を収めたことは︑人伴氏の栄光の灯を絶やさぬことへの人きなど⁚びをもたらしたはずである︒それ
はあくまでも朝延と直結し︑朝征への服従奉仕という形式を通じてのみ町能なものだったのである︒
そんな旅人の心を歌に結品させたのが︑次の作である︒
暮存の川に芳野の離Iにぐしし時に︑中納︒⁚人伴卿の 勅を本りて作れる歌.a 門昌行リ
み︒⁚野の 片野のヅ⁚は 山柄し 八くあらし 川柄L清けくあらし 九地と 良く久しく 万代に 変ら
゛゛1 ・片万 ︲4・ドヶ
9
liU人 と筑 紫 ぐ
弟
l
反 歌
庁にmし象の小河を今にればいよよ清けくなりにけるかも︹.よ
肺勉兄乍よ...⁚⁚⁚即位して問も4 いや武人自Eかし⁚野の離Iに行乍した時︑六卜歳を迎えた旅人は巾納じ⁚として
従駕のノ付に加かったのであっかこそして︑現況の離宮を讃災しその水筒不変をひたすら願う心を︑佛教思恕に基
づく山水による称楊や人地長久の修詐に漢籍の恕を借り︑さらにはや武即位の・﹈︲.命の祠句を援川して離宮の万匪不
改をこいねがうなど︑直ハ拠に根ざした友現を集中的に川いることによって小そうとしたのであった・清水仙4 氏尿人
の・回括儀札I万薗¨弟じ⁚yのらに万雌臨声川収.とりわけフ︲.命の訓句を川いたのは︑川位のぶのド旨を奉じ︑服
従の心を表明する新休の応勅賛歌﹂朽山山氏仙柚巾であることを意味するものであった.また︑国家の1 平と人白E
治匪の安寧を願うそのスタイルは︑公言詩における人白E讃徳のそれを踏賜するものでもあった辰に.口明氏よ俗と.憂
琴−人ぽ峨人りこ柴歌人論〜白⁚にバ低〜と中川I入第.ツ四第八ぐ所収.だから︑従米あまり燃焼度の高い作品とは認め
られてこなかったこの歌に対して︑伊藤匹氏が︑新帝の治に夢を託した自鳳と人伴の血に燃えて﹁﹁われ﹂ならば
﹃倭歌しをもってかくうたうという述心 し車の文学であったに 万八奏ト歌︱脹人論9 説り吋諸国A第...几作...⁚ケ︑のち
に〜低回の歌八と作岫レトーふ代仙歌心支♀︑第べ■:‑*'‑t: '節叫啓と積極的な伴仙をソえたのは注目に価する.人白.Eを直接神と
して讃える形こそとっていないものの︑その﹁祝憲と臣従のぷ﹂・村山出氏前掲じはそのまま完の御行の心につなが
るものがある.まことに︑人伴のちを身に負つだ申怖.
.⁚
というし場からの発恕であり友現であった︑その意味では
晴れがましい公的な儀礼歌としてごけ入れられるはずであった︑ところがなぜか灸しを経ることなく終わり︑彼は
生涯に二度と再びこの種の儀礼的な長歌に腐心することはなかったのである︑しかもこの作は︑現在伝わる旅人の
u
かj り
と の 力 筑 紫
∩
歌の巾では⁚収も初期の唯一のもので︑このあと人字帥として筑紫にド向するまでの川年間というもの︑一作も残さ
ない比卜目刈間となってしまうのもいかにも象徴的である︒旅人の全休の作品俳の中では︑最初にして最後の石公
的な儀礼歌は確かに毀質で孤ししているけれども︑そI一仁ヤるまでの旅人のありようをたどれば︑それはごく自然
にあるいは必然として生み出されたものであったと︒ご⁚うことができよう︒
(つ
久人としてI人生帥時代
旅人の二度目の筑紫ド向jそれは︒︒︒⁚うまでもなく人字帥として筑前にある人宰府に赴任することで現実のもの
となった
︒
神亀門年じ・︒じy
木からが谷にかけてのころと考えられており︑征隼人持節人将車として筑紫の地を踏んで以来八年後のことで︑旅人は六ト四歳の老齢に達していた
︒
1 大宰府の状況
そもそも人字府は︑朝鮮竹島経竹の兵姑低地と叫川統治の拠点として︑宣︒化人白E.几年乱人・に耶津こほ多地万に
設けられた﹁行家﹂が起源という︒その後人川⁚〜年︷万の自村汀の敗戦で竹島からの撤退を余儀なくされ︑国防L
の危機會憂慮して現在地 柚岡県人万的巾 まで後退した︒回二年には水城の人堤を築き︑四年には人野山と楠山に
それぞれ伽鮮式の山城を構築して︑川辺の防禦休制を固めたのであった︑しかし人陸からの侵攻は免れたので︑以
後田防の府は人昨やよし隔からの使節の接遇を屯唆な職務とする外交の府として︑また西海道所属の4 囚〜島會政治
・経済・車jの片面で総括する統治の府として栄えていくのである︒その組織は 1職⁚只令﹂によれば︑中火の神峨
5i‑< K i 筑 紫 I 弟 心
行に対する仁仲や瓜政Iに対する帥以ドの四1 官とその他の行入計.仔○ちから成り︑防人吋・し船岡とか政所・汗
馬所などの諸川・所今検成した.地八回制のうち雌人のもので︑さながら中火政府の縮小版といった観を⁚にし︑
ご心の朝廷﹂︵3≫四︶と称しても誇張にはならないばどであった 卜に⁚︑H第.竹フ.
養老から神厄年問にかけて︑完にも触れた迦り︑隼人の状況は旅人らの鎮圧が功を灸してひとまず静穏を収り戻
しているが︑海外との関係は慌ただしい動きが生じてくる.即ち︑霊威く年じ.ぺ にはそれまで▽託年間巾絶して
いた遣唐使の復活任命が行われ乱八宍︑ヒフー.年
・
白銅グに唐が潮海部の祁督に人祚栄を冊封して成しした潮海田が︑神威四年
・
じyには使を︲本に派遣して旧交を開いたので︑ヤ年I速引田虫麻リ⁚を潮海使として送ってそれに応えている
.
からには︑それらを卜㈲つて︑この期問には新報との人使の交換が前にも増して頻繁になされている二とが特に目を引く︑わずか八年はどの間に︑︲本からは元芒二半りIペ・.︑.半・六半・神威.几半ごと四㈲も
新粧使の派遣が通続し︑その間を縫って新4 からも元首二乍・斤半・し半・神威く乍と四川の来朝が度暇なるので
ある
■
f)の時制新釈との禎植的な外交が朝廷にとってきわめて慨要な課題となっていたことが窺われるが︑人字府を経山しての.内田使節の往来に︑府の対応は繁忙をきわめたものであったことがト分想像できよう.
そのため︑従来人率帥が八⁚わせ米かしてきた︑府の心轄国である筑前の一般政務・行政を切り離し︑新たに田川
を設けてそれに委ねるむ策が採られたらのらしい.そうした肢情から︑神威三年八八︑山しし憶良の初代の筑前守
が誕生したのであるうと推察される 拙柚心代筑烈士の吋能社\輿紫七9 ㈲論 山ト忙︷ぷんと≒とIJろが︑その当時大
字帥がだれであったかは明らかにする二とができないノ霊威く年豹べに多冶比池守が任命されて以来︑後任者に
関する.副史の記録は見当たらないのである︑この問の石投格者を検討して︑﹁養老三乍辿ドまでが池守︑養老じ
12
筑 紫 と の か か;*)')
川
年〜二までが藤原房前︑神厄四年・にしまでが安倍広庭﹂という推定も提示されているが予山城児氏人什旅人〜丿
便s講皿手ハ往︑のちに戻人小卜と改題ご人9 旅人逍声呻部哺収≒あるいは帥不在の空自期間もあったかもしれない︑
憶良は内政に精励するかだから︑その渡唐経験や豊富な学識を生かして府の政務・特に外交即を補佐したであろう
こともありえないことではない︒
2
二度目の筑紫下向
いずれにせよ︑外岡との禎極的な交渉を促進し︑西海道の内政の安定を図る政策の中で︑中納ト⁚の旅人は兼任の
人宰帥として現地赴任を命ぜられたのであった︑人伴氏が古来新羅とは深いかかわりを待ってきたこと︑大納ト⁚に
までなった父安麻⁚y⁚も人宰帥や人将軍を兼任したy﹄と︑旅人自身も持節大将軍として隼人の鎖定に当たったことな
どを考え介わせれば︑人宰帥としての旅人はまさに最適の人選どっかとIえよう︒帥の任命を左遷とに几る考え方も
あるがこ川崎庸之氏長足ト時代−︑力気叱の周辺−トよ紀万蛾の匪庁︑野村巾黄氏﹁艮足︒L政班体制から藤叫f休制へ〜汗令政治の諸様相に︒な
ど八むしろ右のような必然的川山に基づくものと捉えてよいと思われる︒だから旅人は︑﹁人夫と思へるわれ﹂
︵6九六ぺ︶という栄光の武人としての自覚のトに︑若いや武帝を支えて﹁人衣の 遠の朝廷﹂︵5足四︶を治める使命
と屯八をずっしりと感じながら︑再び筑紫へと足を踏み入れたのであった.その気概のほどは︑着任後問もなく樅
された宴席徊藤防氏は記入の遊狂の折の友啼と根・一心されるソいわ⁝梁史釈︷.二Iで︑少弐の石川足人から
さす竹の人宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも片︵6祐と
と㈲情を込めて歌いかけられたのに対し.旅人が
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