ヱ23
モ ダニ ズ ム が 夢 見 たユ ー トピア ドイ ツ 田園 都 市 建 設 の 歴 史(5)
一 ヘ レ ラ ウの頂 点:祝 祭 週 間 一
副 島 美由紀
1.ヘ レ ラ ウ の 文 化 史 的 布 置
ドイ ツ最 初 の 田 園都 市 で あ る 〈ヘ レ ラ ウ 〉 とい う現 象 を なぜ 記 憶 ・記 述 す る意 味 が あ るの か を考 え る に あ た り,集 約 的 に以 下 の3点 を指 摘 して お きた い 。
1.田 園 都 市 構 想 は,労 働 者 コ ロニ ・・一一・や芸 術 家 コ ロ ニ ー,あ るい は ジ ー ドル ン グ(集 合 住 宅 も し くは新 興 住 宅 地)建 設 そ の 他 の生 活 改 革 運 動 に託 さ れ た 理 想 を総 合 す る形 と して19世 紀 末 の イ ギ リス に 誕 生 した もの で あ る。イ ギ リ ス の 田 園 都 市 で あ る レ ッ チ ワー ス や ウ ェル ウ ィ ンが 順 調 に発 展 し た の に比 べ,ド イ ツ の 田 園 都 市 建 設 計 画 は世 界 大 戦 に よ っ て大 き く阻 害 され た 。 ヘ レ ラ ウ の は し か も そ の 発 展 の 経 緯 が ヴ ァイ マ ー ル 期 か ら ナ チ ス 時 代 に か け て 次 々 と出来 した 社 会 の 変 化 を反 映 して い る とい う点 で,歴 史 性 を濃 厚 に帯 び て い る。
2.ヘ レ ラ ウの 建 設 は 〈ドイ ツ工 作 連 盟 〉 の 進 歩 的 な建 築 家 達 の 手 に よ る も の だ が,特 に住 宅 デ ザ イ ン の選 定 機 関 とな っ た 〈建 設 と芸 術 鑑 査 委 員 会 〉 の 働 き もあ り,共 同体 の 景 観 に はXNヴ ィル ヘ ル ム 時代 と して は類 を見 な い1"と 言 わ れ る よ う な統 一 感 が 生 まれ る こ とに な った 。 特 に 〈ダル ク ロー ズ学 校 〉
と して 知 られ,ヘ レ ラ ウの 象 徴 的 建 築 物 とな った リ ト ミ ック学 校 の 祝 祭 劇 場 は,ハ イ ン リヒ ・テ ッセ ノ ウ の 最 高 傑 作 と して ドイ ツ の 建 築 史 上 に名 を残 す
1Hartmann
,Kristiana,Reformbewegung,in:WernerDurth(Hrsg.),Entwurf zurModerne,Stuttgart,1996,S.30.
ヱ24 人 文 研 究 第105輯
こ と に な る。
3.ヘ レ ラ ウ は 培 楽 の ペ ス タ ロ ッヂ と呼 ばれ た エ ミー ル ・ジ ャ ッ ク=ダ ル ク ロー ズ(EmileJaques‑Dalcroze,1865‑1950)を 招 聰 し て彼 の 提 唱 す る
リ ト ミ ック教 育 を住 民 教 育 の 中心 に据 え た。 同 時 に子 供 達 に手 作 業 の 学 習 を 課 し,労 働 と芸 術 活 動 を調 和 させ た 生 活 の 実 現 を 目指 した 。 そ れ に よ っ てヘ レ ラ ウ は本 来 の 田 園 都 市 構 想 の枠 を越 え,後 年駐 日 フ ラ ン ス大 使 とな る ポ ー ル ・ク ロー デ ル が 「新 しい 人 間 性 の 実 験 場(laboratoired'unehumanit6
nouve11)2」 と呼 ん だ よ うに,〈 新 教 育 〉の実 践 の 場 と もな る。 この 点 にお い て ヘ レ ラ ウ は,田 園 都 市 と して は数 年 後 に建 設 され た 〈田 園 都 市 シ ュ タ ー ケ ン〉
や 〈田 園 都 市 フ ァル ケ ンベ ル ク〉 と,ま た 芸 術 家 コ ロ ニ ー とし て は ヴ ォル プ ス ヴ ェー デや モ ン テ ・ヴ ェ リタ と性 格 を異 に して い る。
以 上 の よ うに,ド イ ツ 最 初 の 田 園都 市 と して建 築 史 上 画 期 的 な存 在 とな っ た ヘ レ ラ ウで は あ るが,そ の 名 を最 も効 果 的 に世 に知 ら し めた の は や は りダ ル ク ロ ー ズ 学 校 の 存 在 とそ の 学 校 祭 で あ る。 ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 が 年 に一 度 に 開 催 した 学 校 祭 は祝 祭 週 間 と呼 ば れ,リ トミ ッ ク教 育 理 論 の 実 践 を 紹 介 す る の み な らず,オ ペ ラや 演 劇 の リ トミ ッ ク に よ る芸 術 的 表 現 を発 表 す る場 で も あ っ た 。 特 に1913年 の 祝 祭 週 間 に は ヨー ロ ッパ 中 か ら舞 台 芸 術 ・文 学 関 係 者 が 訪 れ,爪 世 界 的 な成 功"と 言 わ れ る ほ ど の文 化 史 的 出来 事 とな っ た 。 ま さ に ヘ レ ラ ウの 歴 史 の 頂 点 で あ る。
本 論 で は筆 者 の これ ま で の 論 文3が 田 園都 市 に 関 して 紹 介 し て きた こ とに 基 づ きな が ら,特 に祝 祭 劇 場 と祝 祭 週 間 とに焦 点 を 当 て,そ の理 想 や 後 世 に 及 ぼ した 文 化 的影 響 に つ い て 論 じて み た い。
2Lorenz
,Karl,WegenachHellerau,Dresden,1994,S.49.
3副 島 美 由 紀 「モ ダ ニ ズ ム が 夢 見 た ユ ー ト ピ ア:ド イ ツ 田 園 都 市 建 設 の 歴 史(1)〜
(4)」,小 樽 商 科 大 学 「人 文 研 究 」 第96〜103輯,1998〜2002.
モ ダ ニ ズム が 夢見 た ユ ー トピ ア ドイ ツ 田園都 市 建 設 の 歴史(5) 125
2.ル ・コ ル ビ ュ ジ エ と"総 体 と して の 芸 術 作 品"
多 くが 〈ドイ ツ 工 作 連 盟 〉 の メ ン バ ー で あ っ た 進 歩 的 な 建 築 家 に よ る ヘ レ ラ ウ の 建 築 物 の 中 で も,ハ イ ン リ ヒ ・テ ッ セ ノ ウ(HeinrichTessenow,1876‑
1950)に よ る ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 の 校 舎 は 最 も知 名 度 が 高 く,テ ッ セ ノ ウ の 最 高 傑 作 と も言 わ れ て い る 。 こ の 建 築 の 価 値 を 早 くか ら認 め て い た 者 の 中 に, ヘ レ ラ ウ の 建 設 に 参 加 し た い と い う 希 望 が 叶 わ な か っ た 若 き 日 の ル ・コ ル
ビ ュ ジ エ が い る 。
1910年,ウ ィ ー ン とパ リ で の 修 行 を 経 て ベ ル リ ン へ や っ て 来 た 建 築 家 志 望 の シ ャ ル ル ・エ ド ゥ ア ー ル ・ジ ャ ン ヌ レ(CharlesEdouardJeanneret1887‑
1965)は,著 名 な 建 築 家 で あ る ペ ー タ ー ・べ 一 レ〆ン ス の 事 務 所 で 働 き 始 め る 。 直 に ド レ ス デ ン 郊 外 の ヘ レ ラ ウ を 訪 れ る が,そ こ に は 兄 の ア ル ベ ー ル ・ジ ャ
ン ヌ レ が 住 ん で い た 。 音 楽 家 で あ っ た ア ル ベ ー ル は 既 に ジ ュ ネ ー ヴ 時 代 か ら ダ ル ク ロ ー ズ の 元 で 学 ん で お り,1909年 ダ ル ク ロ ー ズ と共 に ヘ レ ラ ウ に 移 り 住 ん で リ ト ミ ッ ク 教 師 兼 作 曲 家 と し て 活 動 し て い た 。 彼 は バ ウ ハ ウ ス の オ ス カ ー ・ シ ュ レ ン マ ー が 《ト リ ア デ ィ ッ ク ・バ レ エ 》 を 考 案 す る 際,作 曲 面 で の 協 力 者 と な っ て い る4。兄 の 住 む 誕 生 し た ば か りの 田 園 都 市 に 感 銘 を 受 け た シ ャ ル ル は,両 親 に 次 の よ う に 書 き 送 っ て い る 。 「特 に こ こ の 新 し い も の に 魅 了 さ れ て い ま す 。 新 し い 絵 画 や 音 楽,文 学 の 様 式 に 。(̲)僕 は 探 求 者 を 愛 す る5。」も ち ろ ん 関 心 の 中 心 は 建 築 で あ っ た 。 ノ イ ・ビ ー ダ ー マ イ ヤ ー と も 言 う べ き リ ー マ ー シ ュ ミ ッ トの 様 式 に は 感 心 し な か っ た が,テ ッ セ ノ ウ の 仕 事 に は 強 く興 味 を 惹 か れ た 。 ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 建 設 の 準 備 段 階 で そ の 設 計 図 を 目
4Scheper
,Dirk,OskarSchlemmer:dastriadischeBallettunddieBauhausbUh‑
ne,Berlin,1988,S.25.こ の 共 同 作 業 は 第 一 次 大 戦 に よ る ジ ャ ン ヌ レ の 帰 国 に よ っ て 頓 挫 し て い る が,1922年 の バ レ エ 上 演 に は ダ ル クu一 ズ 学 校 出 身 の ダ ン サ ー が 参 加 し て い る 。
5DeMichelis
,Marco,HeinrichTessenow,1876‑1950:dasarchitektonische Gesamtwerk,Stuttgart,1991,S.13.
126 人 文 研 究 第105輯
に した彼 は,テ ッセ ノ ウ に手 紙 を書 き,こ の設 計 ・建 築 作 業 に参 加 した い 旨 を伝 え る。 が,テ ッセ ノ ウ は後 に ル ・コル ビュ ジエ と名 乗 る こ の若 き建 築 家 の協 力 を望 ま ず,べ 一 レ ンス の 事 務 所 を辞 め て で も,と 考 えて いた ル ・コル ビ ュ ジ エ は落 胆 す る。 そ れ で も彼 は 自分 の ノ ー トに 「事 実 は と言 う と,テ ッ セ ノ ウ と ジ ャ ック とザ ル ツ マ ンが ヘ レ ラ ウ の た め に設 計 した こ の劇 場 が,時 代 の芸 術 的 発 展 を 示 す 一 つ の 道 標 に な るだ ろ う とい う こ とだ 。」と書 き記 し て い る6。彼 は2年 後 に再 び ヘ レ ラ ウ を訪 れ,完 成 した 祝 祭 劇 場 を 目 に す る。 そ れ は確 か に多 くの 人 が 目 を見 張 る建 築 だ った 。 周 囲 を見 下 ろす よ うに して 拓 か れ た 台 地 の上 に建 つ この建 物 を見 て,人 は古 代 の 体 育 館 の よ う だ と言 い,
また 教 会,あ る い はイ タ リア の 修 道 院 の よ う だ と も言 っ た 。 が,讃 美 者 は こ の建 物 に,機 能 に 仕 え る テ ッセ ノ ウ の意 志 を見 て い た 。 劇 場 内 の舞 台 空 間 を 設 計 した ア ドル フ ・ア ッ ピ ア は ダ ル ク ロ ー ズ に宛 て て 書 い て い る 。 「この建 物 の 建 築 は あ なた が そ こ に芽 生 え させ よ う とし て い る生 活 の 前 で は後 退 し な く て は な らな い とい う こ とを,テ ッ セ ノ ウ は全 く天 才 的 に理 解 した の で す 。 驚
くべ き直 観 で す。 誰 で も これ ほ ど う ま くは で き な か っ た で し ょ う7。」 ダ ル ク ロー ズ が 実 現 し よ う と して い た 黙生 活"の 目的 は,ま ず 生 徒 達 の 身 体 を リ ト ミッ ク教 育 に よ っ て 肉 体 的 お よび 精 神 的 生 命 の リズ ム を感 受 す る もの に造 り 変 え,そ れ に よ っ て 個 々 の生 の 機 能 を活 性 化 す る こ と,そ して 彼 らの活 力 全 体 を統 合 して 集 団 に よ る感 情 的 ・芸 術 的 表 現 を可 能 た ら しめ る こ とで あ る。
自 ら も音 楽 家 を 志 した こ との あ る ル ・コル ビュ ジエ も,劇 場 の 建 築 的 意 味 とダ ル ク ロー ズ の リ ト ミ ッ ク教 育 とは不 可 分 の もの で あ る こ とを理 解 した 。 彼 に はR.シ ュ トラ ウ ス に代 表 さ れ る 「狭 量 で歪 ん だ モ ダ ニ ズ ム の音 楽 」が 最 終 的 に は 自己 解 体 につ なが りか ね な い と思 えた の に対 し,ダ ル ク ロ ー ズ の 音 楽8と リ トミ ッ ク は 「単 純 さ と喜 び,融 合 へ の希 求 と健 康 へ の 回 帰 」を もた ら
6ibid .,S.14.
7フ ラ ン ク ・マ ル タ ン
,チ ボ ル ・デ ヌ ス 他 著,『 作 曲 家 ・リ ト ミ ッ ク 創 始 者 エ ミ ー ル ・ジ ャ ッ ク=ダ ル ク ロ ー ズ 』 全 音 楽 譜 出 版 社,1977,p.82.
モ ダニ ズ ム が夢 見 た ユ ー トピア:ド イ ツ田 園都 市 建設 の歴 史⑤ ヱ27
す よ うに 思 わ れ た9。そ し て祝 祭 劇 場 の建 築 は,そ の よ うな 改 革 の 意 志 を持 っ た 「共 同 体 に可 視 的 な表 現 を」 与 え る もの だ っ た 。 新 しい もの を作 る情 熱 と ギ リシ ャ建 築 の古 典 的 明 快 さへ の 回帰 願 望 との両 極 間 で 自分 の ス タ イ ル を模 索 し て い た ル ・コル ビ ュ ジエ に とっ て,xx禁欲 的 で簡 素"10な 美 に よ っ て周 囲 を 瞠 目 さ せ た テ ッセ ノ ウ は,重 要 な模 範 の 一 人 とな った 。1913年 に もル ・コル ビ ュ ジ エ は テ ッセ ノ ウ とヘ レ ラ ウ に つ い て 書 き記 して い る 。 そ こで は テ ッセ ノ ウ は 「あ の教 育 施 設 の建 設 に よ っ て,良 き もの と有 益 な もの との結 合 を固 定 し た」 人 物 で あ り,さ らに 「この建 築 の 巨 匠 は た だ 一 瞬 た り と も美 しい も の を作 る と主 張 した こ とが な い 。 彼 は 自分 が 住 処 を作 っ て あ げ た 人 々 の た め に奉 仕 し よ う と した のだ 。 ま さ に そ れ故,ヘ レ ラ ウ は様 々 な箇 所 で,つ ま り あ らゆ る尊 大 さ を排 除 す る こ とに成 功 して い る箇 所 で,と て も美 しい の だ 」
とい う記 述 が 続 く。 ル ・コ ル ビ ュ ジ エ に は,ダ ル ク ロー ズ とテ ッセ ノ ウ が そ れ ぞれ 「、善"と 、有 用 性"の 時 代 」の 到 来 を告 げ て い るか の よ う に思 わ れ た 。 そ こで は 「幸 福 は有 用 性 を持 ち」,街 は 「総 体 とし て の芸 術 作 品 」 とな る11。
ル ・コ ル ビ ュ ジ エ の 見 た ヘ レ ラ ウ は そ の 実 現 可 能 性 を秘 め て い た 。 そ こ に は
「何 か 天 才 的 な もの が 誕 生 す る た め の,芸 術 家 達 が 総 体 と して の 芸 術 作 品 を 目 指 し て前 進 す る た め の 最 適 な 前 提 条 件 」が あ る,と 彼 は記 し て い る12。 ル ・コ ル ビ ュ ジ エ の"ド ミノ ・シ ス テ ム"が 発 表 され る の は翌 年 の1914年 で あ る が, 後 年 顕 著 と な る純 粋 主 義 に対 す る彼 の志 向 は,す で に上 述 の テ ッセ ノ ウ讃 美 に表 れ て い る。 イ ン ド はパ ン ジ ャ ブ州 の新 都 チ ャ ン デ ィ ー ガ ル 市 の 建 設 に よ っ て1955年 に実 現 した 彼 の都 市 計 画 の夢 も,あ るい はヘ レ ラ ウ との遭 遇 に よ っ て萌 芽 し て い た の か も しれ な い。
8リ ト ミ ッ ク 理 論 を 発 表 す る 前 の ダ ル ク ロ ー ズ は シ ャ ン ソ ン や ダ ン ス 音 楽 の 作 曲 家 と し て 知 ら れ て い た 。
9DeMichelis
,Marco,ibid.,S.14.
10Sarfert
,ibid.,S.25.
11DeMichelis
,ibid.,S.14.
12ibid .,S.14.
ヱ28 人 文 研 究 第105輯
現 在,都 市 郊 外 の静 か な 住 宅 地 とい っ た風 情 の ヘ レ ラ ウの 町 並 み を眺 め る と,こ の 時 の ル ・コ ル ビ ュ ジエ の感 慨 を追 体 験 す る の は容 易 で は な い 。 しか し松 林 に縁 取 られ た 砂 地 勝 ち の痩 せ た 畑 地 に一 流 の建 築 家 の 手 に よ る住 宅 群 が 一 斉 に建 ち始 めた 当 時 の 状 況 を思 え ば,そ こ に新 時 代 が 到 来 した よ う に思 わ れ た の も無 理 か らぬ こ とだ っ た ろ う。 し か も"類 を見 な い 統 一 感"と 言 う の は,何 も住 宅 の 景 観 に 関 わ る だ けで は な か っ た 。"ヘ レ ラ ウ建 設 の父"と も 言 うべ き カ ー ル ・シ ュ ミ ッ トが 経 営 す る家 具 工 場 〈ドイ ツ ・ク ラ フ ト工 房 〉 は,も と も と家 具 だ け で はな くイ ンテ リア関 係 の 商 品 も製 作 し て い た 。 シ ュ ミ ッ トが 田 園 都 市 の 建 設 に 着 手 した と き,建 築 家 の ヘ ル マ ン ・ム テ ー ズ ィ ウ ス が 多 少 の 椰 楡 を込 め て 「彼 の 関 心 は ク ッ シ ョ ン か ら街 作 り まで 及 ん で い る」
と語 っ た こ とが伝 え られ て い るが13,確 か に ヘ レ ラ ウ で は 〈ク ラ フ ト工 房 〉の 職 人 お よび 建 築 家 の 間 に,「 衛 生 学 的,社 会 的,芸 術 的 な観 点 に お い て 一 致 し た 建 設 の 理 念14」が 誕 生 し よ う と して い た 。 従 って 「ク ッ シ ョ ン か ら街 作 り ま
ヘ レ ラ ウ時 代 の ア ル ベ ー ル ・ ジ ャ ン ヌ レ(左)と 弟 の ル ・ コル ビ ュ ジ エ
祝 祭劇 場
モ ダ ニ ズ ムが 夢見 た ユー トピア:ド イ ツ 田園 都 市建 設 の歴史(5) 一Z29
で 」とい う の は 決 して 誇 張 で は な か っ た の み な らず15,1919年 ヘ レ ラ ウ に職 人 達 の 互 助 組 織 で あ る 「手 工 業 者 協 会 」を作 っ て 彼 らの技 術 と地 位 の 向 上 を 図 っ た テ ッ セ ノ ウ に も当 て は ま る表 現 で あ っ た16。20世 紀 初 頭 あ た りか ら建 築 家 達 の 問 に徐 々 に浸 透 し始 め,ヘ レ ラ ウ の建 設 に よ っ て初 め て 実 現 化 され た 総 合 芸 術 と して の 理 想 的 な 街 作 りの理 念 は,そ の 後 バ ウハ ウ スや ブ ル ー ノ ・タ
ク ラ フ ト工 房 で 作 られ た ク ッ シ ョ ン(1910頃)と 家 具(1912)
ハ イン リヒ ・テ ッセ ノ ウ
テ ッセ ノ ウ に よ る 掛 け 時 計(1910)
13ibid .,S.16.
14Fasshauer
,Michael,DasPhanomenHellerau,1997,Dresden.S.70.
15Arnold
,Klaus‑Peter,VomSofakissenzumStadtebau,Dresden/Basel,1993, S.95.
16Sarfert
,Hans‑J茸rgen,Hellerau:DieGartenstadtundKunstlerkolonieDres‑
den,1992,S.132.
ヱ30 人 文 研 究 第105輯
ウ トの 思 想 に 引 き継 が れ て 行 く。
1908年 に建 設 が 始 ま っ た 時 に 主 導 的 な 役 割 を 果 た し た の は ミュ ン ヒ ェ ン の建 築 家 リ ヒ ャル ト・リー マ ー シ ュ ミ ッ トで あ る 。 そ の他 に ヘ ル マ ン ・ム テ ー ズ ィ ウ ス,テ オ ドー ル ・フ ィ ッシ ャー,フ ラ ン ツ ・シ ュー ス タ ー等 が ヘ レ ラ ウ建 設 に参 加 した 。 テ ッセ ノ ウ は遅 れ て や っ て 来 た か た ちで は あ るが,ヘ レ ラ ウの 記 念 碑 的 建 築 物 とな る作 品 を残 し,そ れ は彼 の評 判 を一 気 に高 めた 。 ル ・コル ビ ュ ジエ の記 述 とほ ぼ 同 時期 に,芸 術 批 評 家 の カ ー ル ・シ ェ フ ラ ー (KarlScheffler)が 次 の よ う に書 い て い る。 「我 々 の時 代 の 他 の建 築 家 達 が 野 心 を持 っ て 古典 た らん とす る な ら ぼ,テ ッセ ノ ウ とそ の建 築 は 実 に密 や か に 謙 虚 な 古 典 とな り得 て い る。 っ ま り,彼 は建 築 に対 す る時 代 の生 き生 き と し た欲 求 を,必 要 が 美 とな る地 点,用 途 を持 っ て 生 ま れ た 物 が そ の存 在 を響 か
ム テ ー ズ ィ ウ ス に よ る住 宅 ム テ ー ズ ィ ウ ス に よ る ヘ レ ラ ウ の デ ザ イ ン
'灘1聾 難 難 泌
リーマ ーシュミットによる住 宅 フィッシャー による住 宅 テ ッ セ ノ ウ に よ る住 宅
モ ダニ ズ ム が夢 見 た ユ ー トピア:ド イ ツ田 園都 市 建 設 の歴 史(5) !31
せ る地 点 まで,探 求 し た の だ17。」
実 際 この 祝 祭 劇 場 の空 間 は,時 代 の変 遷 に伴 い赤 十 字 や ナ チ ス 政 府,ま た ソ連 軍 に よ っ て如 何 に転 用 され よ う と も,身 体 の活 性 化 に奉 仕 す る とい う そ の 用 途 に だ け は 忠 実 で あ り続 けた と も言 え る の で あ る。
3.祝 祭 劇 場=フ ェ ス ト シ ュ ピ ー ル ハ ウ ス
ダル ク ロー ズ 学 校 は ダル ク ロー ズ の リ ト ミ ック教 育 の理 想 と田 園 都 市 創 設 者 達 の理 想 とが 交 差 す る場 で あ った が,そ の校 舎 が 〈祝 祭 劇 場:フ ェ ス トシ ュ ピー ル ハ ウ ス 〉 と呼 ばれ る背 景 に は,ダ ル ク ロー ズ の リ トミ ッ ク構 想 の 原 点 が 深 く関 わ っ て い る。
リ トミ ッ ク教 育 の 出 発 点 に 関 して は,彼 が 教 え て い た ジ ュ ネ ー ヴ の音 楽 学 院 で リズ ム を う ま く体 感 で きな い 生 徒 達 が い る こ と に気 づ い た こ とが 言 わ れ て い るが,ス イ ス に お け る祝 祭 劇(フ ェ ス トシ ュ ピー ル:Festspie1)が ダ ル ク ロー ズ に 与 えた 影 響 も忘 れ られ るべ き で はな い。こ こで 祝 祭 劇 とい う の は, 19世 紀 末 か ら20世 紀 初 頭 にか け て フ ラ ン ス 語 圏 ス イ ス で 開催 さ れ た 様 々 な 祭 典 に お け る演 劇 的 催 し の こ とで あ る。 ス イ ス で は この 頃 共 同 で 歴 史 的 再 生 を祝 う欲 求 が 高 ま っ て い た ら し く,多 くの共 同 体 に よ っ て歌 謡 祭 の よ うな も の か ら壮 大 な 歴 史 絵 巻 の 上 演 に 至 る ま で の様 々 な形 態 に よ っ て祝 祭 が 行 わ れ た 。 それ ら は キ リス ト受 難 劇 や神 秘 劇,あ るい は カ ー ニ ヴ ァル に お い て 民 衆 が 合 同 で 劇 的 な 表 現 を行 う と い う ス イ ス の伝 統 に基 づ い て お り,リ ヒャ ル ト ・ヴ ァ ー グ ナ ー が 《未 来 の芸 術 作 品 》 に つ い て の主 要 な理 論 的作 品 を ス イ ス にお い て 書 い た の も恐 ら く偶 然 で は な い 。
ダ ル ク ロ ー ズ は よ くこれ らの祭 典 に参 加 し,大 衆 が揃 っ て演 ず る時 の 「絶 大 な 力 」に感 銘 を 受 けた と語 って い る が18,彼 自身 もい くつ か の祝 祭 に作 曲家
17ibid .,S.16.
18『 作 曲 家 ・ リ ト ミ ッ ク 創 始 者 エ ミ ー ル ・ ジ ャ ッ ク=ダ ル ク ロ ー ズ 』 ,p.53.
一Z32 人 文 研 究 第105輯
とし て 関 わ る こ と にな る。 まず1896年,ジ ュ ネ ー ヴ で 開 催 さ れ た ス イ ス全 国 博 覧 会 の 際,彼 の作 曲 した 祝 祭 劇 『ア ル プ ス の詩 』 が500名 の参 加 者 に よっ て 演 じ られ た 。 郷 土 愛 と労 働 を讃 えた オ ラ ト リオ風 作 品 で,翌 年 に は ロ ン ド ンで も上 演 され て ダ ル ク ロ ー ズ をス イ ス第 一 級 の作 曲 家 の 地 位 に押 し上 げ た と言 う19。ま た1903年 に ロー ザ ンヌ で ヴ ォー 州 独 立 祭 が 開 催 さ れ た 時,1800 人 が ダル ク ロー ズ の 創 作 し た歴 史 音 楽 劇 『ヴ ォ ー州 フ ェス テ ィヴ ァル 』 を演
じて 大 成 功 を収 め た 。 特 に この 時 の 上 演 に はパ リの演 出 家 フ ィル マ ン ・ジ ェ ミエ が 振 り付 け を担 当 した 。 ジ ェ ミエ は後 に フ ラ ンス 国 立 大 衆 劇 場 を設 立 し て"演 劇 の改 革 者"と 呼 ぼ れ た 人 物 で,「 あ ら ゆ る民 族 を迎 え て,青 空 の下 で 演 じ られ る荘 厳 に して 崇 高 な る 古代 演 劇 」を理 想 とし て い た20。ジ ェ ミエ との 共 同 作 業 は ダ ル ク ロ ー ズ に大 きな 示 唆 を与 え,「身 体 の 動 き と,空 間 と時 間 に お け る変 化 との 関 係 に つ い て根 本 的 に学 ぶ機 会21」とな っ た 。ダ ル ク ロ ー ズ は 自 分 の 芸 術 に 「動 き」 を組 み入 れ る こ とを決 意 し,音 楽 学 院 の授 業 で 生 徒 と
「ス テ ップ を踏 む」こ と を始 め る 。 この時 ダル クローズが想起 した リ トミック の理 想 は次 の よ う に 要 約 で き る だ ろ う。 まず 「音 楽 」 「運 動 」 「詩 」 の三 位 一 体 が 可 能 に な る こ と,ま た 個 人 が そ の 感 情 や傾 向 を表 現 す る と同 時 に集 団 と
して も そ れ を表 現 す る こ と。 彼 は祝 祭 劇 に お い て見 出 され る階 級 的 平 等 性 を 愛 し,リ ト ミ ッ ク に も共 同 性 を求 め た 。 リ トミ ッ ク に よ る祝 祭 劇 に よっ て 「音 楽 」 「運 動 」 「詩 」 の結 合 が 可 能 に な る と した ら,そ れ は彼 自身 の 言 葉 に よ る
と 「群 衆 の感 情 表 現 に 基 づ く未 来 の 芸 術 様 式22」 に な る はず で あ った 。 1906年,舞 台 美 術 家 の ア ドル フ ・ア ッ ピア(AdolphAppia,1862‑1928)
が ジ ュネ ー ヴ で ダル ク ロー ズ に 出会 った 時,二 人 の芸 術 観 は強 く呼 応 し合 っ て生 涯 の強 力 関 係 が 生 まれ る。 ゴ ー ドン ・ク レ イ グ と並 ん で20世 紀 を代 表 す る舞 台 装 置 家 と言 わ れ るア ッ ピ ア は,音 楽 家 に な る た め の 教 育 を受 け なが ら
エ9ibid .,p.185.
20ibid .,p.55.
21ibid .,p.56.
22ibid .,p.354.
モ ダ ニ ズム が夢 見 たユ ー トピ ア:ド イ ツ 田園都 市 建 設 の 歴史(5) 133
もバ イ ロ イ トで 見 た ヴ ァー グ ナ ー の オ ペ ラ に ひ ど く失 望 し,以 来 演 出 の 改 革 に全 精 力 を捧 げ よ う と して き た人 物 で あ る。 しか し実 際家 とい う よ りは理 論 家 で,ヘ レ ラ ウ の 舞 台 を製 作 す る まで は演 出 に 関 す る数 冊 の 著 書 に よ って 知 られ て い た 。 リ ト ミ ック との 出 会 い はア ッ ピ ア の 理 論 に具 体 的 な ビジ ョ ン を 与 え,彼 の創 造 力 を解 放 す る糸 口 とな った 。 彼 は 「芸 術 を一 部 の エ リー トか ら解 放 し て民 衆 の 手 に返 す 」 と同時 に 演 劇 芸 術 を一 つ の総 合 芸 術 に した い と 考 え て い た 。 そ こで は演 劇 ホ ー ル は サ ー カ ス に お け る よ うな 公 正 な社 交 場 と な り,「 昔 の教 会 に お け るが ご と く,人 々 が 議 論 で き る」よ う な場 とな るべ き だ っ た。 「こ う して 劇 場 はひ とつ の 生 活 の場 と な り,(...)人 々 が 話 し合 え る最 初 の サ ロ ン23」に な るべ き と思 わ れ た 。ア ッ ピ ア とダ ル ク ロ ー ズ は共 に民 衆 の た め の総 合 芸 術 の場,リ トミ ッ ク に よ る祝 祭 劇 を行 う劇 場 空 間 を夢 想 して い た が,1910年,そ れ を実 現 させ る機 会 が 訪 れ る。
一 方 ヘ レ ラ ウ に お い て も階級 的 平 等 性 は重 要 な概 念 だ っ た。 ヘ レ ラ ウ の 目 的 は そ も そ も労 働 者 に良 質 の住 環 境 を提 供 す る こ とで あ り,一 戸 建 て の 邸 宅 で さ え経 済 力 を つ けた 将 来 の労 働 者 の た め に と考 え られ て い た 。 上 述 の 「新 しい 人 間 性 」 教 育 の対 象 は労 働 者 の子 供 達 で あ り,ヘ レ ラ ウ で は ダル ク ロー ズ 学 校 の寄 宿 生 の み な らず 子 供 達 全 員 に リ ト ミ ック が 教 え られ た 。 ペ テ ル ス ブ ル グ の帝 室 劇 場 支 配 人 で あ っ た ヴ ォ ル コ ン ス キ ー伯 爵 の 回想 に よ る と,ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 を初 め て 見 学 した 際,労 働 者 の 子 供 達 が リ トミ ッ ク を学 ん で い るの を見 て 彼 が 驚 い て い る と,校 長 の ヴ ォル フ ・ドー ル ンが 傍 らで 「全 く, 何 とい う未 来 の人 だ ろ う!」 とつ ぶ や い て い た と言 う24。1912年7月21日 付 けの 「ベ ル リ ン 日報(BerlinerTageblatt)」 はバ レ エ ・リュ ス の メ ンバ ー達 の 高 貴 な 自然 児 ぶ り を讃 えた 後 で,ヘ レ ラ ウ に つ い て こ う書 い て い る。「こ こ ヘ レ ラ ウ で起 こ っ て い る こ と はひ ょっ と した ら もっ と喜 ぼ しい こ とか も知 れ な い 。 何 故 な ら この子 供 達 は も っ と我 々 に 近 い か らだ 。 我 々 の直 中 か ら出 た
23ibid .,p.109.
24ibid .,p.91.
ヱ34 人 文 研 究 第105輯
もの で あ り,我 々 そ の もの で あ り,明 日の 我 々 自身 だ か らだ25。」 また,ア プ トン ・シ ン ク レア も ピ ュ ー リッ ツ ァ賞 受 賞 作 品 『世 界 の終 わ り』26の中 で 「新 し い人 間 性 」に対 す るヘ レ ラ ウ の 希 望 を代 弁 し て い る。 「い ず れ 必 ず ヘ レ ラ ウ の子 供 た ち の 中 か ら未 来 の オ ル フ ェ ウ ス が 現 れ,人 々 の感 覚 を魅 了 し,精 神 を鼓 舞 し,貧 欲 や 憎 悪 の嵐 を鎮 め る だ ろ う。(̲)ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 の 富裕 階 級 の生 徒 た ち は,工 場 地 区 で あ る郊 外 の 労 働 者 た ち の子 弟 と肩 を並 べ て 一 緒 に踊 っ て い る で は な い か 。ミュ ー ズ の 神 殿 の 中 に は 階級 も国 民 も人 種 もな い。
あ る もの はた だ,美 と歓 喜 の夢 を抱 い た 人 間 性 の み で あ る27。」
エ ミ ー ル ・ジ ャ ッ ク
=ダ ル ク ロ ー ズ ア ド ル フ ・ア ツ ピ ア
ダルクローズ学校 と子供 達 ヘ レ ラ ウ の 〈子 供 祭 り〉(1912)
25Lorenz ,ibid.,S.97.
26Sinclair
,Upton,World'send,NewYork,1940.
27Sinclair ,ibid.,p.5.
モ ダ ニ ズム が夢 見 たユ ー トピ ア:ド イ ツ田 園都 市 建 設 の歴 史(5) ヱ35
この 頃 欧 米 で は 〈新 教 育 運 動 〉 が起 こっ て お り,フ ラ ンス の教 育 改 革 者 ド モ ラ ン,ス ウ ェー デ ン の エ レ ン ・ケ イ,ロ ー マ の モ ン テ ッ ソ リ,イ ギ リス で は 〈ボ ー イ ・ス カ ウ ト〉 の ベ イ デ ン=パ ウエ ル,ア メ リカ のJ.デ ュー イ らが 児 童 中 心 主 義 的 あ る い は 自主 的 活 動 重 視 の 教 育 実 践 を ほ ぼ 同 時 期 に始 めて い た 。 ドイ ツ に お け る 同様 の 試 み と して 知 られ るゲ オ ル ク ・ケ ル シ ェ ン シ ュ タ イ ナ ー(GeorgKerschensteiner)の 〈労 作 教 育 〉や,ヘ ル マ ン ・リー ツ(Herman Lietz)の 〈自 由 学 校 〉もや は りこ の時 期 に始 まっ て い る。 ヘ レ ラ ウ は 当初 リー ツ の後 継 者 に あ た るパ ウ ル ・ゲ ヘ ー プ(PaulGeheeb)の 〈自由 学 校 〉 招 致 を 考 え て い た が,こ れ らの 〈新 教 育 運 動 〉 に は ヘ レ ラ ウ の望 ん だ 〈芸 術 〉 が 欠 け て い た 。す る と1909年 に ダ ル ク ロ ー ズ の リ トミ ッ ク講 習 会 が ドレ ス デ ンで 行 わ れ,ヘ レ ラ ウの オ ー ガ ナ イ ザ ー で あ る ヴ ォル フ ・ ドー ル ン の考 え を変 え た 。 彼 はア ッ ピア の 劇 場 構 想 を もす ぐに感 激 を持 っ て理 解 し,す ぐ に ドレ ス デ ン王 立 劇 場 支 配 人 の ゼ ー バ ッハ 伯 爵 を長 とす る 〈リ トミ ッ ク学 校 設 立 委 員 会 〉 を作 っ て資 金 を調 達 す る。 こ う して ヘ レ ラ ウ は ダ ル ク ロー ズ とア ッ ピ ァ の夢 に構 築 物 を与 え,ダ ル ク ロ ー ズ は ヘ レ ラ ウ に住 む労 働 者 の 子 供 達 に音 楽
と リズ ム の 喜 び を与 え,後 世 に は祝 祭 劇 場 の建 物 が 残 さ れ る こ とに な る。
4."世 界 が ヘ レ ラ ウ に 目 を 注 ぐ"
ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 は 正 式 名 を 〈ジ ャ ッ ク=ダ ル ク ロ ー ズ 教 育 施 設(Bil‑
dungsanstaltJaques‑Dalcroze)〉 と言 い,ま ず は ド レ ス デ ン の 旧 議 事 堂 を 仮 校 舎 と し て1910年 に 開 校 し た 。生 徒 は ジ ュ ネ ー ヴ か ら ダ ル ク ロ ー ズ に 従 っ て や っ て き た45名28を 含 め 約100名,校 長 は ヘ レ ラ ウ 共 同 体 の 牽 引 役 で あ る ヴ ォ ル フ ・ ド ー ル ン で あ る 。 こ の 年 に は ドイ ツ の モ ダ ン ・ダ ン ス の 理 論 開 拓 者 と言 わ れ る ル ドル フ ・ フ ォ ン ・ラ バ ン(RudolfvonLaban,1879‑1958)
が ミ ュ ン ヒ ェ ン で 舞 踊 学 校 を 開 き,ま たR.シ ュ タ イ ナ ー は オ イ リ ュ ト ミー の
2815人 と い う 説 も あ る
。
136 人 文 研 究 第105輯
創 始 とそ の 劇 場 とな る ゲ ー テ ア ヌ ム構 想 に着 手 して い る。 ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 の校 舎 で あ る祝 祭 劇 場 は1911年 の 秋 に は 完 成 し,そ の 周 囲 に生 徒 達 の下 宿 す るペ ン シ ョン や宿 泊 施 設,中 庭 に は 日光 浴 場,校 内 に12の 教 室 と食 堂,図 書 室,浴 室 等 を備 えた 一 大 教 育 施 設 が 誕 生 した 。 教 室 に は1時 間 に5回 空 気 を 循 環 させ る空 調 設 備 が あ っ た と言 う29。
ア ッ ピ アが 設 計 した 劇 場 空 間 に は 固定 され た舞 台 は な く,60の 可 動 式 階 段 が あ っ て それ を様 々 に組 み合 わ せ る こ とが で き た 。 後 に 自分 の戯 曲が こ こで 上 演 され る こ とに な る ポ ー ル ・ク ロ ー デ ル が このi舞台 を詳 細 に説 明 す る文 を 書 い て い る。「ヘ レ ラ ウ の ホ ー ル が 目指 し て い るの は,バ イ ロイ トの よ うな サ ロ ン で も殿 堂 で もな く,非 常 に広 くて造 形 的 な手 段 に よ っ て,芸 術 家 に 必 要 な 素 材 を提 供 す る こ とだ 。(...)舞 台 は決 して 固定 され て い な い 。 そ れ は動 く 諸 要 素 か ら構 成 され て お り,そ の 形 は三 次 元 の形 を とっ て い る。 この諸 要 素 はお 互 い に は め込 む と直 方 体 に な る よ う にで き て お り,あ ら ゆ る可 能 な組 み 合 わ せ を選 ぶ こ と に よ っ て露 台 に も,壁 に も,柱 に も,階 段 に も な るの で あ る。 数 分 の う ち に,昔 の聖 史 劇 の舞 台 さ なが らに,い くつ もの 階 を もっ 舞 台 を作 る こ とが で き る。 そ の形,高 さ,奥 行 き を 思 うが ま ま に変 え る こ と もで き る30。」 しか も舞 台 と客 席 の 間 に は 明 確 な 仕 切 りが な く,観 客 は幕 間 に は ホー ル と舞 台 との 間 を 自 由 に 行 き来 して 舞 台 の様 子 を見 る こ とが で きた 。
そ して ア ッピ ア の 舞 台 芸 術 理 論 に と って 決 定 的 な 役 割 を果 た す 照 明装 置 を 担 当 した の が,ミ ュ ン ヒ ェ ンで 画 家 兼 舞 台 美 術 家 と して 活 躍 して い た グ ル ジ ア 生 まれ の ア レ ク ザ ン ダ ー ・フ ォ ン ・ザ ル ツ マ ン(AlexandervonSalzmann) で あ る 。ア ッ ピ ア の意 図 を理 解 した ザ ル ツ マ ン は,「光 が 自 由 に漂 い,音 と同 じ よ う に動 き,音 と同 じ よ う に抽 象 的 で 瞬 間 的 な もの とな る」 よ う な装 置 を 考 案 した 。先 の ク ロ ー デル の文 章 を引 用 し よ う。「天 井 に は,動 くフ ィル タ ー が び っ し り と配 置 され,さ な が ら一 連 の 投 光 器 とな っ て い る。 これ らの 投 光
29Sarfert
,ibid.,S.58.
30『 作 曲 家 ・ リ ト ミ ッ ク 創 始 者 エ ミ ー ル ・ ジ ャ ッ ク=ダ ル ク ロ ー ズ 』
,p.83,84.
モ ダニ ズ ム が夢 見 た ユ ー トピア:ド イ ツ田 園都 市 建 設 の歴 史(5) ヱ37
器 が 動 く と,光 は望 むが ま ま に透 明 に も な り,影 に もな り,ど ん な明 る さで も作 り出 す こ とが で き るの で あ る。 俳 優 をぺ しゃ ん こに して 背 景 の布 に 張 り 付 け て し ま うあ の フ ッ トライ トの野 蛮 な 光 に代 わ っ て,一 種 の乳 液 状 の 環 境, 楽 園 の ご とき雰 囲 気 が 作 られ た の で あ る31。」 ザ ル ツマ ン はxx光 の魔 術 師"と
祝 祭劇 場の 舞台 校 舎 内 シ ャ ワ ー 室
校 舎 内 フ ロ ァ
校舎 内:練 習室
校 舎 内=図 書 室
1912年 の 学 校 祭 《オ ル フ ォ イ ス 》 の 第2幕
138 人 文 研 究 第105輯
も呼 ば れ る よ う に な り,ヘ レ ラ ウ の住 人 とな っ て 〈ドイ ツ ・ク ラ フ ト工 房 〉 の生 産 に も芸 術 面 で 協 力 した 。 ダ ル ク ロー ズ学 校 の 校 章 と して 後 者 の正 面 壁 に 穿 た れ た 陰 陽 巴 を選 ん だ の も彼 で あ る。
1912年6月,第1回 の学 校 祭 が 開 催 され た 。そ れ は 生 徒 達 の芸 術 性 を高 め, 彼 らの 活 力 を総 合 す る機 会 で あ る と同 時 に学 校 に とっ.て宣 伝 活 動 を伴 った 興 行 的 な催 しで も あ り,ダ ル ク ロー ズ の 作 曲 に よ るパ ン トマ イ ム や バ ッハ や べ 一 トー ベ ン の 曲 に振 り付 けた リ ト ミ ッ ク の舞 踊 作 品 が 披 露 さ れ た32。 ダ ル ク ロ ー ズ の リ トミ ッ ク教 育 は そ も そ も1906年 頃 か ら ジ ュ ネ ー ヴ 以 外 の ヨー ロ ッパ の 諸 都 市 で 紹 介 さ れ始 め,徐 々 に音 楽 ・舞 踊 関 係 者 の 関 心 を集 め る よ う に な っ て い た 。 よ っ て ヘ レ ラ ウ の学 校 祭 に は これ を機 会 に リ トミ ッ ク教 育 の実 践 を見 学 し よ う とす る ヨー ロ ッパ の 文 化 エ リー ト達 が 多 く訪 れ,学 校 祭 は ま さ に祝 祭 週 間 とな っ た 。 こ の 時 一 番 の 意 欲 作 はCW.グ ル ック の オ ペ ラ
《オ ル フ ェ ウス とエ ウ リ デ ィ ケ》第2幕 の上 演 で,観 客 の 一 人,ア ウ グ ス ト・
ホル ネ ッ フ ァ ー は その 時 の 印 象 を次 の よ う に記 して い る 。「観 客 に明 か され て い る の は,空 間 の感 覚,光 の 力,生 命 を得 て 見 え る もの とな っ た 音 楽 で あ り, 我 々 が 用 い る最 も完 全 な楽 器 で あ る 肉体 の 美 し さで あ る33。」第1回 の 学 校 祭
は子 供 も含 め て250名 が 参 加 し,2週 間 の 問 に約4000人 もの 観 客 が訪 れ て成 功 裏 に終 わ っ た34。
さ ら にヘ レ ラ ウの 名 声 を高 め た の が,1913年 の第2回 学 校 祭 で あ る。 この 年 ダ ル ク ロ ー ズ学 校 の生 徒 数 は約500に 達 して お り,し か も彼 ら は14力 国 か ら集 ま っ て き た極 め て イ ン ター ナ シ ョナ ル な集 団 で あ っ た 。2年 目の 祝 祭 週 間 に は2つ の主 要 演 目が あ った 。 まず 前 回2幕 の みが 上 演 され た オペ ラ 《オ ル フ ェ ウ ス とエ ウ リデ ィケ》 の全 幕 上 演 で,ド イ ツ で も最 初 の完 全 上 演 の試
31ibid .,p.83.
32ダ ル ク ロ ー ズ の 「ナ ル シ ス と エ コ ー 」,バ ッ ハ の 「フ ー ガ と イ ン ヴ ェ ン シ ョ ン 」, べ 一 トー ベ ン の ピ ア ノ ソ ナ タ 「熱 情 」 か ら ア ダ ー ジ オ 等 で あ る 。
33『 作 曲 家 ・ リ ト ミ ッ ク 創 始 者 エ ミ ー ル ・ ジ ャ ッ ク=ダ ル ク ロ ー ズ 』 ,p.92.
34Fasshauer
,ibid.,S.177.
モ ダニ ズ ム が夢 見 た ユ ー トピア:ド イ ツ田 園都 市 建 設 の歴 史(5) 139
み で あ る 。 ま た,ポ ー ル ・ク ロ ー デ ル の 戯 曲 《マ リ ア へ の お 告 げ 》 が,演 劇 作 品 と し て プ ロ の 俳 優 を 交 え て 上 演 さ れ た 。 そ れ は リ ト ミ ッ ク 作 品 で は な か っ た と は 言 え,ヘ レ ラ ウ の 芸 術 家 コ ロ ニ ー が 世 に 問 う た 自 信 作 だ っ た 。《マ リ ア へ の お 告 げ 》 は ク ロ ー デ ル が 故 郷 タ ル ド ノ ア の 口 碑 を 基 に し て 書 い た 中 世 風 奇 跡 劇 で,〈 ヘ レ ラ ウ 出 版 〉 を 興 し た ヤ ー コ プ ・へ 一 グ ナ ー が 自 ら翻 訳 し て 出 版 し,こ の 翻 案 に は 賛 否 両 論 が あ っ た も の の,例 え ば トー マ ス ・マ ン は
『非 政 治 的 人 間 の 論 考 』 の 中 で,「 フ ラ ン ス と ド イ ツ の 共 通 の 芸 術 的 形 而 上 学 的 財 産 」 が 感 じ ら れ る 例 と し て 《マ リ ア へ の お 告 げ 》 を 挙 げ,「 こ こ 久 し く, こ れ ほ ど 強 力 な 文 学 的 一 お よ そ 芸 術 的 な 印 象 を 受 け た こ と が な か っ た 」 と 記 し て い る 。 ま た へ 一 グ ナ ー の 仕 事 を 「へ 一 グ ナ ー の 翻 訳 が,ど の 程 度 ま で 原 作 の 効 果 を 伝 え て い る か,人 々 は 気 づ い た ろ う か?」 と賞 讃 し,さ ら に リ
ヒ ャ ル ト ・デ ー メ ル が 作 品 の 読 後,翻 訳 者 に 宛 て て 「こ れ を 前 に す る と精 神 の 知 っ た か ぶ り は こ と ど と く沈 黙 し て し ま い,た だ 魂 が 息 を 殺 し て 見 入 る ば か りで す 」 と書 き送 っ た 話 を 紹 介 し て い る35。 上 演 の 際 に 演 出 を 担 当 し た の は,ヘ レ ラ ウ 芸 術 家 コ ロ ニ ー の 作 家,エ ミー ル ・シ ュ ト ラ ウ ス だ っ た36。
こ の 時,人 口1900人 の 村 落 は5000人 も の,し か も 多 く は 著 名 な 訪 問 者 を 迎 え た 。 ロ シ ア か ら訪 れ た の はS.ラ フ マ ニ ノ ブ,1.ス ト ラ ヴ ィ ン ス キ ー,K.
ス タ ニ ス ラ フ ス キ ー,当 時 メ イ エ ル ホ リ ド を 擁 し て い た ペ テ ル ス ブ ル グ 帝 室 劇 場 の ヴ ォ ル コ ン ス キ ー,S.デ ィ ア ギ レ フ,V.ニ ジ ン ス キ ー,国 内 か ら は ザ ク セ ン 王 家 の 皇 子,マ ッ ク ス ・ラ イ ン ハ ル ト,ゲ ア ハ ル ト ・ハ ウ プ トマ ン, エ ル ゼ ・ラ ス カ ー=シ ュ ー ラ ー,マ ル テ ィ ン ・ブ ー バ ー,オ ス カ ー ・コ コ シ ュ カ,加 え て イ サ ド ラ ・ダ ン カ ン,ジ ョ ー ジ ・バ ー ナ ー ド ・シ ョ ウ,ア プ ト ン ・ シ ン ク レ ア,シ ュ テ フ ァ ン ・ツ ヴ ァ イ ク,フ ラ ン ツ ・ヴ ェ ル フ ェ ル,R.M.リ ル ケ と ル ー ・ア ン ド レ ア ス=ザ ロ メ,ア ン リ ・ヴ ァ ン ・デ ・ヴ ェ ル デ,ボ ー
35Mann
,Thomas,BetrachtungeneinesUnpolitischen,FrankfurterAusgabe, FischerVerlag,1983,S.404‑406.
36Fasshauer
,ibid。,S.177.
140 人 文 研 究 第105輯
ル ・ク ロ ー デ ル37,ダ リ ウ ス ・ミ ヨー,エ ル ネ ス ト ・ア ンセ ル メ,ま た フ ラ ン ス大 使 や イ ンゼ ル 出版 社 の 社 主 夫 妻 等 々,一 部 を列 挙 す るだ けで も この 祝 祭 週 間 が 如 何 に芸 術 家 達 の 関 心 を呼 ん だ か が 伺 え る。
す べ て が 培 楽 よ り過 剰 に な ら な い38"こ と を 旨 と して 演 出 され た 《オ ル フ ェ ウス とエ ウ リデ ィケ 》,ま た 《マ リアへ の お 告 げ》に も共 通 す る質 素 な衣 裳 と 白い カ ー テ ンへ の投 光 照 明 だ け を使 っ たi舞台 美 術,こ れ らの象 徴 的 で 精 神 的 な 意 匠 は,ゼ ンパ ー に よ る オペ ラ 座 の ネ オ ・ル ネ サ ンス 式 装 飾 や マ ッ ク ス ・ラ イ ンハ ル トの 華 麗 な 演 出 を見 慣 れ た 目 に は,、 挑 戦 的 な ほ ど純 粋 主 義 的39"に 映 った だ ろ う。批 評 家 達 は そ の 困 惑 を複 雑 に表 現 しな が ら も概 ね ヘ レ ラ ウ に対 し て は好 意 的 で,次 の よ う な評 を残 して い る。「裁 定 を下 す に は時 期 尚早 で あ るが,(̲)こ れ は否 定 し難 い 誠 実 な不 断 の 試 み,進 歩 に 向 か うヘ レ ラ ウ の 努 力 で あ り,最 も頑 固 な 否 定 論 者 で さ え注 目す べ き もの で あ る40。」「改 革 の試 み と して 最 初 に演 じ る演 目 と して は,グ ル ッ ク が オ ペ ラ の改 革 を 目指 し て作 った この作 品 ほ ど適 切 な もの はな か っ た ろ う。 今 日で も通 用 す る こ の 音 楽 劇 の 規 範 は(̲)ヘ レ ラ ウ にお い て初 め て実 現 した41。」 「ミュ ン ヒ ェ ン の 芸 術 劇 場 が 貫 徹 で き な か っ た も の,マ ッ ク ス ・ライ ンハ ル トが 努 力 して も果 た せ ず にい る もの,こ こで幸 運 な試 み とな っ た もの,そ れ は記 念 碑 的 な 演 劇 で あ る42」等 で あ る 。よ り 自由 に もの が 言 え る芸 術 家 達 の評 価 は割 れ た 。E.ア
ン セ ル メ は 「行 き は野 次 馬 だ が 帰 り は巡 礼 者 に な る43」 と評 し,ア プ トン ・シ ン ク レア は 《オ ル フ ェ ウ ス》 へ の反 応 につ い て 「喝 采 の嵐 が 劇 場 を揺 す ぶ っ
37後 に 駐 日 及 び 駐 米 フ ラ ン ス 大 使 と な る クn‑一 デ ル は
,こ の 時 ハ ン ブ ル ク の 領 事 館 に 勤 務 し て い た 。
38Lorenz
,ibid.,S.30.
39Schneider
,Detlev,Grenzuberschreitungen,in:DresdnerHefte,Jrg.15,Heft 51,Dresden,1997,S.57.
40Lorenz
,ibid.,S.28.
41ibid .,S.30.
42ibid .,S.31.
43『 作 曲 家 ・ リ ト ミ ッ ク 創 始 者 エ ミ ー ル ・ ジ ャ ッ ク=ダ ル ク ロ ー ズ 』
,p.92.
モ ダ ニ ズ ムが 夢見 たユ ー トピア:ド イ ツ 田園 都市 建 設 の 歴史(5) 一Z41
た 。男 も女 も立 ち上 が り,新 しい 芸 術 表 現 の 告 知 に対 す る感 動 を示 し た44」と 書 い た 。祝 祭 週 間 を体 験 して27年 を 経 た あ とに 発 表 した小 説 『世 界 の終 わ り』
に お い て,シ ン ク レ ア は主 人 公 を 高 揚 感 に満 ち た ヘ レ ラ ウで 育 っ た幸 福 な子 供 と して 描 い て い る。G.B.シ ョウ も 《オ ル フ ェ ウ ス 》 を 「グル ック の 作 品 上 演 の 中 で も最 高 の 出 来 の 一 つ45」 と評 して い るが,テ オ ドー ル ・ホ イ ス は疑 問 を感 じて 狼 狽 した46。 また 《マ リア へ の お告 げ 》を見 た原 作 者 の ク ロ ー デ ル は す っ か り感 動 し,「 わ た しが 劇 場 で 正 真 正 銘 の 美 を見 た の は こ れ が 初 め て で す 」と複 数 の知 人 に書 き送 っ た が47,リ ル ケ は手 厳 し く,こ の 「喧 伝 され た 実 験 室 」が た だ の 「光 の試 験 管 」 に終 わ っ て し ま い,「 ヘ レ ラ ウの 人 々 は大 き な 子 供 の よ う に 自分 た ちが 理 解 し て い な い こ とに 関 わ っ て い る」「あ あ,も っ と 現 実 的 な もの を見 に行 け ば よか っ た … … 」と嘆 い た48。 ドビ ュ ッ シ ー に 至 っ て は,ニ ジ ン ス キ ー が 自分 の 音 楽 を基 に 作 品 《遊 技 》を振 り付 け た こ とを知 り,
友 人 に 次 ぎ の よ う に書 き送 っ て い る。「愚 劣 な こ とで す!ダ ル ク ロ ー ズ 流 だ と言 っ て もよ い で し ょ う。 とい う の も,わ た し はダ ル ク ロ ー ズ 氏 が 音 楽 に対 す る最 悪 の 敵 の一 人 だ と考 えて い る か らで す!ニ ジ ン ス キ ー とい う若 い野 蛮 人 の 心 に彼 の 方 法 が どん な 害 悪 を及 ぼ した か,あ なた に は想 像 が っ くこ と
と思 い ます49。」
と もあ れ,リ ト ミッ ク理 論 の 実 践 方 法 を確 か め に行 くに せ よ,建 築 と舞 台 の 目新 しい 造 型 を見 に行 くに せ よ,多 くの 文 化 人 達 が ヘ レ ラ ウ を訪 れ ね ば な ら な い と考 え て 実 行 し,結 果 と し て 祝 祭 週 間 は 黙世 界 が ヘ レ ラ ウ に 目 を注 ぐ50"と 言 わ れ た 文 化 史 上 の 出来 事 とな った 。 こ の年1913年 に はイ サ ドラ ・ ダ ン カ ンが ベ ル リ ンで さ しあ た っ て の最 終 公 演 を行 っ て い るが,バ レエ ・リュ
44Sarfert
,ibid.,S.32.
45ibid .,S.32.
46『 作 曲 家 ・ リ ト ミ ッ ク 創 始 者 47ibid .,p.93.
48Sarfert
,ibid.,S.111,112.
49『 作 曲 家 ・ リ ト ミ ッ ク 創 始 者 50Sarfert
,ibid.,S.40.
エ ミ ー ル ・ジ ャ ッ ク;ダ ル ク ロ ー ズ 』,p .87.
エ ミ ー ル ・ ジ ャ ッ ク=ダ ル ク ロ ー ズ 』,p .91.
ヱ42 人 文 研 究 第105輯
ス と ア ン ナ ・パ ブ ロ ヴ ァ の舞 踊 団 は大 巡 業 で 同 時 に世 界 を巡 っ て お り,ラ バ ンが ミュ ン ヒ ェ ンか らア ス コ ー ナ の モ ン テ ・ヴ ェ リ タ に移 っ て 舞 踊 塾 を 開 き, 前 年 初 め て オ イ リュ ト ミー を上 演 した シ ュ タ イ ナ ー は ス イ ス の ドル ナ ッハ に 第 一 ゲ ー テ ア ヌ ム を建 て て い る。 ドイ ツ の空 気 が 舞 踊 熱 を帯 び て い た 時 代 で
あ っ た 。
1913年 の 《オ ル フ ォ イ ス 》
祝 祭 週 間 の 劇 場 と訪 問 客(1913)
1913年 の 《オ ル フ ォ イ ス 》
《マ リ ア の お 告 げ 》 の 舞 台
塾
ヘ レラ ウ を訪 れ た ア ン ナ ・ パ ブ ロ ヴ ァ とバ レエ 団
モ ダ ニ ズム が夢 見 たユ ー トピ ア:ド イ ツ 田園都 市建 設 の 歴史(5) ヱ43
5.祝 祭 週 間 の 反 響
し か し ヘ レ ラ ウ の リ ト ミ ッ ク 教 育 と 祝 祭 週 間 に 出 現 し た 革 新 的 な 芸 術 表 現 は 短 期 的 に 話 題 に 上 っ た だ け で は な く,世 界 の 音 楽 教 育 及 び 舞 台 芸 術 に 様 々 な 影 響 を 与 え た 。 ま ず 何 よ り も20世 紀 のi舞踊 界 に 及 ぼ し た 影 響 と し て,ダ ル ク ロ ー ズ の 教 え を 受 け た 最 も 有 名 な"弟 子",ニ ジ ン ス キ ー と バ レ エ ・リ ュ ス を の 例 が 挙 げ ら れ る だ ろ う 。 ニ ジ ン ス キ ー は1912年,バ レ エ ・リ ュ ス の ド レ ス デ ン公 演 の 際 デ ィ ア ギ レ フ と共 に ヘ レ ラ ウ を 訪 れ,リ ト ミ ッ ク の 教 え を 受 け る 。 そ の 時 知 り合 っ た 教 師 の 一 人 で 後 に マ リ ー ・ラ ンバ ー ト と名 乗 る ミ リ ア ム ・ラ ン ベ ル ク(MarieRambert,1888‑1892)が バ レ エ ・リ ュ ス の リ ト ミ ッ ク 教 師 役 と な り,彼 女 と の 共 作 に よ り 《春 の 祭 典 》 が 出 来 上 が る 。 ま た 前 述 の ニ ジ ン ス キ ー の 《遊 技 》 は,確 か に 彼 が ダ ル ク ロ ー ズ の 思 想 を 実 践 し よ う
と し て 創 作 し た も の だ と言 わ れ て い る 。 ポ ー ラ ン ド人 の ラ ン バ ー トは そ の 後 イ ギ リ ス に 亡 命 し て ロ ン ド ン で 〈ブ リ テ ィ ッ シ ュ ・バ レ エ 〉 を 創 設 し,イ ギ
リ ス ・バ レ エ の 先 駆 者 と な っ て ア ン ソ ニ ー ・テ ユ ー ダ ー ら を育 て て い る 。 ド イ ツ 表 現 舞 踊 の 象 徴 的 存 在 と し て ドイ ツ の 舞 踊 史 に お け る 最 も重 要 な 芸 術 家 で あ り,日 本 の モ ダ ン ・ダ ン ス に も 影 響 を 与 え た マ リ ー ・ヴ ィ グ マ ン (MaryWigman,1886‑1973)は,ヘ レ ラ ウ の ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 の 第 一 回 卒 業 生 で あ る 。 卒 業 後 す ぐ に 教 師 と し て 母 校 で 教 え 始 め る が,突 出 し た 独 自 の 表 現 力 を 持 っ て い た 彼 女 は リ ト ミ ッ ク に 飽 き 足 ら ず,同 僚 の ス ザ ン ヌ ・ペ ロ テ ッ ト と共 に ラ バ ン を 頼 っ て モ ン テ ・ヴ ェ リ タ に 赴 く こ と に な る 。 ま た,ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 か ら ヴ ィ ク マ ン の 学 校 を 経 由 し て 渡 米 し,《 キ ス ・ ミ ー ・ケ イ ト》
や 《マ イ ・ フ ェ ア ・ レ デ ィ 》 等 の ミ ュ ー ジ カ ル を 作 っ た ハ ン ニ ャ ・ホ ル ム (HanyaHolm,1893‑1992)は さ ら に ア ル ヴ ィ ン ・エ ・fリ ー(AlvinAiley, 1931‑1989)等 を 教 え て い る 。 ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 は 他 に も ル ドル フ ・ボ ー デ, ゲ ル トル ー ト ・フ ァ ル ケ,ヴ ァ レ リ ア ・ク ラ テ ィ ー ナ 等 の ダ ン サ ー を 輩 出 し て は い る が プ ロ の 舞 踊 家 を 育 て る こ と が そ の 目 的 で は な く,「生 徒 を ほ ぼ 全 員 育 成 し,そ の エ ネ ル ギ ー の 集 合 が 舞 踊 ・演 劇 の 土 壌 を 準 備 し た51」 と言 わ れ る
ヱ44 人 文 研 究 第105輯
よ うに,音 楽 ・リ ト ミ ック の 教 師,俳 優,演 出家 とし て活 躍 す る人 材 を育 て た こ と こ そ そ の功 績 と して評 価 され るべ きだ ろ う。
音 楽 教 育 や 身 体 訓 練 の 方 法 とし て の リ ト ミ ック の 普 及 に もヘ レ ラ ウ は大 き な役 割 を果 た した 。1910年,ペ テ ル ブ ル ク の 帝 室 劇 場 支 配 人 ヴ ォル コ ン ス キ ー が ベ ル リン を訪 れ た 折 り,ダ ル ク ロ ー ズ の噂 を聞 く。 す ぐ に ドレ ス デ ン に赴 い て仮 校 舎 で の授 業 を見 学 した 彼 は,以 来 使 命 感 に打 た れ た か の よ う に ペ テル ブ ル ク,モ ス ク ワ,リ ガ に リ トミ ッ ク学 校 を 開 き,ダ ル ク ロ ー ズ を巡 回 公 演 に 招 い て ロ シ ア に お け る リ ト ミッ ク の 伝 道 師 とな る。 ヴ ォル コ ン ス キ ー 自身 は 革 命 後 パ リ に亡 命 した が,リ ト ミッ ク教 育 は ソ連 時 代 に も継 続 し て 行 わ れ,オ ペ ラ歌 手 や 俳 優 な ど舞 台芸 術 家 養 成 の 方 法 と して も応 用 され た 。 ロ ン ドン に ヘ レ ラ ウ の 分 校 と も言 う べ き リ ト ミッ ク 学 校 を作 っ た の はパ ー シー ・B.イ ン グ ァム(PercyB.Ingham)で,彼 の 父 親 が 既 に ジ ュ ネ ー ヴ で ダ ル ク ロ ー ズ の レ ッス ン を受 け て お り,自 分 が 関 わ る ロ ン ド ンの 学 校 で リ ト ミ ッ ク教 育 を実 践 して い た 。息 子 のパ ー シー は1911年 にヘ レ ラ ウ を訪 れ て学 院 を見 学 す る とそ の翌 年 イ ギ リス で ダ ル ク ロー ズ ・リ ト ミ ック の巡 回 公 演 を 組 織 し,イ ギ リス の音 楽 家 や 教 育 家 達 に そ の 理 念 を広 め た 。G.B.シ ョウ も こ の 時 初 め て リ ト ミ ック の 実 技 を見 学 し て い る。イ ン グ ァ ム が1913年 に設 立 し た ダ ル ク ロ ー ズ ・リ トミ ッ ク ・ロ ン ドン学 院 は翌 年 に は900人 もの 生 徒 を抱 え る組 織 とな り,リ トミ ッ ク の発 展 に とっ て 重 要 な布 石 を成 した 。
ドイ ツ で俳 優 養 成 の 方 法 と して最 も早 く リ ト ミ ック取 り入 れ た演 劇 人 の一 人 が マ ッ ク ス ・ラ イ ンハ ル トで あ る。 実 は ダ ル ク ロ ー ズ の 巡 回講 演 を最 も早 く,最 も熱 狂 的 に受 け入 れ た 都 市 はベ ル リン で あ り,ラ イ ンハ ル トは1910年 か ら 自 ら の率 い る くドイ ツ座 〉 の俳 優 達 に リ ト ミッ ク講 習 を課 して い る52。
ヴ ォル コ ン ス キ ー と共 に ヘ レ ラ ウ を訪 れ,数 ヶ月 学 校 に 滞 在 した ジ ョル
51ibid .,S.58.
52Bablet ,Misolette,DermusikalischbesetzteGestus‑AdolphAppiaund Jaques‑DalcrozeinHellerau,in:DresdnerHefte,Jrg.15,Heft51,Dresden, 1997,S.61.
モ ダニ ズ ム が夢 見 た ユー トピア:ド イ ツ田 園都 市建 設 の歴 史(5) ヱ45
ジ ュ ・ピ トエ フ は,ヘ レ ラ ウ で 身 に つ け後 の 舞 台 活 動 に役 立 て た 「新 しい感 覚 」 に つ い て 次 ぎ の よ う に語 っ て い る。
「理 解 さ れ る必 要 が あ るの は,ダ ル ク ロー ズ は,身 体 の 中 に新 しい 要 素 を何 一 つ 作 り出 して い るの で は な い と言 う こ とだ。 彼 は そ の 要 素 を混 沌 と した身 体 の 動 きの 中 に見 つ けだ し,そ れ を明 確 化 し,そ れ に訓 練 を施 す こ とに よっ て,人 間 の 意 志 と思 考 に従 う よ うな 顕 在 物 と して い るの で あ る。 この 要 素 は 我 々 が 持 っ て 生 まれ た 才 能 で あ る。 し か し我 々 が しば し ば知 らな い ま まで い る才 能 な の だ 。 ダル ク ロー ズ は そ れ を見 つ け,そ の感 化 力 と効 力 に 気 づ き, そ れ に存 在 を与 え る とい う魔 術 を成 し遂 げ た 人 な の だ53。」彼 は そ の 後 パ リへ 出 て劇 団 活 動 を始 め るが,1923年 に ピ ラ ンデ ル ロ の 《作 者 を探 す 六 人 の 登 場 人 物 》 に よ っ て 大 成 功 を収 め,フ ラ ン ス語 圏 にお け るチ ェー ホ フ や トル ス ト
イ の戯 曲 の紹 介 に よ っ て も重 要 な役 割 を果 た した 。
ダ ル ク ロ ー ズ,ア ッ ピア,ザ ル ツマ ン の共 同 作 業 が 後 世 に与 え た 影 響 と し て指 摘 す べ き は,ア ッ ピア が 考 案 した 水 着 の よ う な簡 素 な コ ス チ ュ ー ム が 以 来 徐 々 に現 代i舞踊 の 世 界 で 受 け 入 れ られ た こ と,ま た 照 明 を重 視 し た 立 体 的 ・象徴 的 なi舞台 美 術 の 方 法 が 継 承 され た こ とで あ る。 ドイ ツ で ア ッ ピ ア様 式 のi舞台 装 置 をい ち早 く取 り入 れ た の は,マ ッ クス ・ラ イ ンハ ル トの 次 世 代 と も言 うべ き レオ ポル ト ・イ ェ ス ナ ー で あ,彼 もヘ レ ラ ウ 爪巡 礼 者"の 一 人
イ ェ ス ナ ー に よ る 《リチ ャ ー ド三 世 》 の 舞 台(1920)
53『 作 曲 家 ・ リ ト ミ ッ ク 創 始 者 エ ミ ー ル ・ジ ャ ッ ク=ダ ル ク ロ ー ズ 』 ,p.89.