︵32︶長崎には一八五八︵安政五︶年七月に英語伝習所︑横浜には一八
六一︵文久一︶年に英学校を︑幕府が設立している︒
﹃文部省第一年報﹄の東京開成学校の説明には︑元治三︵一八六
六︶年﹁此時蘭学漸ク衰へ︑英独仏ノ三学日二盛ンナリ﹂とあり︑蘭
学衰退の時期が数年ずれている︒
︵33︶ ﹃岡山大学所蔵・池田家文庫総目録﹄ ︵一九七〇年︶による︒
︵※︶伊蔵栄二﹁熊板建とその著書﹁和蘭文典前編﹂について﹂ ﹃福島
県史学﹄8号︵一九六九年︶によると︑一七九九︵寛政十一︶年
生れで︑ 一八五二︵嘉永五︶年に松前藩医となっている︒
本稿がなるに当って︑引用文献にお名前をかかげた方々をは
じめ︑京都市立西京商業高等学校図書館・京都大学附属図書
館・大阪府立中之島図書館・岡山大学附属図書館︵池田文庫︶・
京都府立総合資料館・天理図書館・津山洋学資料館・津山キリ
スト教図書館・津山市立図書館の︑お世話になりました︒
終わりになりましたが︑昭和五十八年度内地研修にさいし︑
わがままな研究をご寛恕下さいました京都大学文学部教授朝尾
直弘先生に感謝いたします︒
︵一九八四年三月二六日︶
前号拙稿﹁﹃民間格致問答﹄の著者ボイスと訳者大庭雪斎﹂の訂正
伺ぺの上段12〜14行目 初版本の一部〜ほか︑同年←この部分を削除
し︑同年を一八五八年とする︒
㈹ぺの下毅19行目 ボイス←ボスマ
翻ぺの下段⑲行目 オランダの国章である←︹オランダの国章である︺
⑳ぺの上設2行目 9ω爵←暮︒︒昌 ふれながる ふれながさ⑱ぺの上段24行目 行令した←行令しむ
四ぺの下段1行目 出版毒出板 きく きき㈲ぺの下段3行目 聞←聞 働ぺの下段8行目 読む←読⑬ぺの下段12行目 繰返←操返 こうじよう かうじゃう四ぺの下段21行目 高上←高上⑳ぺの上段14丁目 経あ←子鳥︒用ひあ←用ひ給︒⑳ぺの下毅9〜10行目 団b︾即の嶋がひっくりかえっている嘔一︾︾図が 一重幻となっている︒ ︵訂正おわり︶
フランスの七月革命︵一八三〇︶
︵21︶このほか︑ ﹃ガラマチカ﹄ ・ ﹃ルディメンタ﹄ ・ ﹃センタキス
﹄ ・﹃民間格致問答﹄に︑協会の書記︵幹事︶として序文をよせてい
る︒︵22︶京都大学附属図書館所蔵本︒全三冊︒青の聴けいの入った毎半葉
二十行の和紙︵ごく一部はけいなし︶で︑左袋とじ︒大きさはb︒b︒﹄× せん嵩め8で︑三冊目は︑それぞれ一㎝ほど大きくなっている︒題籔はな
い︒ところどころ朱で本文に訂正がされている︒一冊目は︑白紙三葉
ののち表紙と標題紙各一葉︑序言四葉・メッセージ三葉・目次一二
葉︑白紙二葉についで本文百二十二葉︵丁づけあり︶・白紙一葉で︑
全体では白紙六・墨付一四三葉からなる︒本文の内容は第一講から第
四講の途中︒二冊目は︑白紙一葉・本文八九葉︑白紙一二葉で︑内容
は︑﹂冊目のつづきがら第八講の見出しまで︒三冊目は五一葉からな
り︑最後の第十二講がその内容である︒写本が全部で三冊であったか
どうかはわからない︑また蔵書印︵?︶がきりとられた跡がある︒
︵23︶杉本つとむ前掲注︵1︶書豆の=五五−六ニページにある日本
での翻刻本の写真が便利である︒
︵24︶シーボルト﹃江戸参府紀行﹄ ︵斎藤信訳・平凡社・一九六七年︶
の一八工六年三月十八日︵文政九年二月一〇日︶の条︒
﹁涼庭はヨ:ロッパの学問の偉大な友であり︑かつ当地で最もは
やった医師のひとりである︒彼は日本におけるオランダ書籍の最大の
コレクションをもち︑その値段は小判三百枚に達する﹂︒
︵25︶京都大学附属図書館蔵︵新宮本︶︒
︵26︶前掲拙稿注︵12︶の働ぺ上段︒
︵27︶日本科学史学会編﹃日本科学技術史大系・教育1﹄ ︵第一法規・
一九六四年︶=一七ぺ︒
︵28︶ ﹃全国国立大学所蔵・貴重図書目録﹄ ︵広島大学附属図書館・一
九七三年︶によると︑長崎大学に次の蔵書がある︒
切巳U9臼2騨窪q同ざ昌巳σqωo﹃8一90ド﹇o箆oPおbooo・
ぎ汗︒・・暮巨爵ロ巳︒.卜︒胡の.Hbo曾α×μ㊤幽α§.︵一8葺す冨oqooh8く︒お
げ二幅O害旨菩首葺OをO舞O団出ロぴqOUO<ユ09器正配暮巴馨U①o一日P
Z鈴σq器辞ど幽霞言oq鼻①聴曽同︒︒鼠bロの︒一︶︒
本文でのべた長崎奉行管轄下の活字板摺立所は︑出島蘭館内に出島 阿蘭陀印刷所がもうけられたことによって︑一八五八︵安政五︶年に廃止となった︒この出島印刷所の印刷物は洋書のリスト︹古賀前掲書癖︵5︶七一四⁝一六ぺ︺をみると︑U霧二四もしくはdoN冒9と印刷されているので︑<︒涛の−昌葺慧爵導傷Φは活字板摺立所の最後の印刷物である可能性が強い︒なお︑田αqoU①<艮︒︒・︵O自口①蕾Uo<ユ︒︒︒のことか︶は出版人である︵標題紙の全訳は前掲拙稿注︵12︶の⑤ぺを参照されたい︶︒ 新宮涼庭の旧蔵書に︑背革の表紙がついた同じ翻刻本があり︑ ﹁長崎東衙官許﹂の朱印がみえる︵京大附属図書館蔵︶︒︵29︶ ﹃赤松則良半生談﹄前掲注︵9︶の一三ページにこうある︵ただし︑一部をかな書きに変えた︶︒ 安政二尊︹一八五五︺年の二月に下田から江戸へ帰ったが︑父︹下 田奉行伊沢美作守組与力︺は下田に在って外国人との応接に親しく あずかってからつくづく感じたものと見え︑﹁世の中の者は嬢夷々々 と騒いでみるが︑之は到底言ふべくして行はれるものではなく︑一 度アメリカのもとめに応じて開港を承諾した上は︑ついで英.仏其 他の国々に対しても亦拒絶することの出来るわけにはいかぬ︒され ばだんだん外国との交渉は年を逐ふて繁くなって行くのは当然だか ら︑是からの者は洋語を学ばねば十分御上︵おかみ︶の御用に立 たぬ﹂と云って︑私に英語を学ばせやうとしたが︑其頃は未だ英語 を教へる所は江戸に無いので︑先づ和蘭語を学ぶことにして︑幸ひ 父の旧知である坪井信良先生が深川冬木町八幡裏に塾を開いてみた のをたよって︑私は十五歳の春から通学することになった︒ 赤松則良︵大三郎・一八四一一一九二〇︶の場合は︑例外的かもし
れない︒︵30︶ ﹁慶応義塾諸則﹂ならびに﹃福翁自伝﹄ ︵一八九九年︑のち旺文
社文庫二九七〇年︶一二四i=二一ぺ︒
︵31︶ ﹁蕃書調所起源憎悪﹂ ﹃日本教育上資料第七巻﹄ ︵文部大臣官房
報告課・明治二五︿一八九二﹀年・六六五一六六ぺ︶および岩波書
店編集部編﹃近代日本総合年表﹄ ︵岩波書店二九六八年︶によっ
た︒ なお︑明治六︵一八七三︶年の判断では︑ ﹁万延元く一八六〇V年
六月⁝⁝英仏二語学ヲ置キ︑且化学ノ科を設ケ︑旨旨二語ヲ置ク﹂
︵﹃文部省第一年報﹄︶となっている︒
一 240 一一
︵7︶同前七〇七ぺ︒
︵8︶東京科学博物館﹃江戸時代の科学﹄ ︵博文館・一九三四年︶三四
〇ぺ︒ただし︑ ﹃国書総目録﹄には見えない︒
︵9︶ ﹃格致問答﹄をテキストとして使っていた幕末の教育機関は︑管
見のかぎり︑次のようなものがある︒
︒坪井信良の日興堂︵一八五五年ごろ︶⁝⁝赤松範一編注﹃赤松則良
半生談﹄平凡社・一九七七年・一五べに﹁ヤンキ!ヘンキー問答書﹂
とある︒
・佐藤泰然の順天堂⁝⁝山内陛雲の自伝に﹁ヘンチー・ヤンチー窮理
問答等を写本して読み﹂とある︒戸石四郎﹃関寛斎﹄三省堂・一九八
二年・二四べによる︒
︒越前大野藩洋学館⁝⁝地元の一蘭学生が会読に使われていた﹁蘭書
目録﹂を手控えに残している︵一八五九年︶︒岩治勇一﹁大野藩にお
ける洋学教育について﹂ ﹃蘭学資料研究会研究報告﹄第一八三号︵一
九六⊥ハ年︶・﹁大野北洋学館の学習方法に関する資料﹂ ﹃医学選粋﹄
第九号︵一九七七年五月一日︶による︒
このほか︑佐賀藩蘭学寮なども確実だろう︒
︵10︶前掲書注︵8︶三〇四ぺ︒
︵11︶ ﹁帝国大学新聞﹂昭和五︵一九三〇︶年四月一四日号︑のち矢島
祐利﹃科学的断片﹄ ︵理学社・一九四八年︶所収︑二重ー二五ぺ︒
︵12︶拙稿﹁﹃民間格致問答﹄の著者ボイスと訳者大庭雪斎﹂ ﹃津山工
業高等専門学校紀要﹄第21号一九八三年
なお︑℃.ρ§臣ロ団ω①P男旨匹oo吋鴇Zδ庫妻ZΦ島︒艮町在籍ωoげ田︒σq鑓臨の︒げ
壽︒a︒昌げ︒o吋く︒一トピ︒崔Φ口︵お巨i由Qo︶にはボイスが見えないことも︑
彼の紹介がないに等しい状態だった一因かもしれない︒
︵13︶前掲注︵12︶の凹1㈲ぺ︒
︵14︶吉田忠二八世紀オランダにおける科学の大衆化と蘭学﹂同編
﹃東アジアの科学﹄ ︵小草書房・一九八二年︶八三ぺ︒ただし︑引用
は天理図書館蔵本によっており︑ ︵ ︶は割注である︒なお︑同氏に
よると︑﹃鋳人書﹄の種本は︑同協会の出版物く巳寄一〇ω甲oh8畠曾・
ヨ冒霧昌彗象︒爵﹂︒︒ミ・︹民衆読本・教育者ハンドブック︺の序文だ
ということである︒
︵15︶拙稿前掲注︵12︶の個1⑱ぺ︒ ︵16︶藤林普山﹃訳鍵﹄ ︵一八一〇年刊︶には︑竃毘虜昌巷bo巻﹁火伴ノ集会﹂ ︹仲間の集会︺とある︒︵17︶前号の拙稿・注︵12︶の㈲ぺで︑ ﹁初版本﹂としたのは誤りである︒︵18︶前掲書注︵14︶︑および注︵12︶の㈹1働ぺ参照︒︵19︶前年︵一八三〇年︶にメンバーとなった︒前掲拙稿注︵12︶の㈲ぺ︒︵20︶ ﹃閑︾O塁昌oN旨国Z﹄ ︵岩波書店・一九六四年︶ によって︑
一八一〇一三〇年の間にあるゴチックの文章をひろいあげると︑次の
ようである︵一二一二一一五ぺ︶︒
︵数学・物理・化学︶
光の波動説が確立される︒
気体の研究が進んだ︒
化学の基本的な法則が明らかにされる︒
つぎつぎにいろいろな元素がしらべられる︒
有機化学の発展︑化合物の研究が原子論によって進められる︒
ファラデーは電気学の基礎をつくる︒
︵地学・生物学・医学︶
古生物学が発達し︑近代的地質学が確立される︒
はじめてまとまった進化論の体系が提出される︒
自然分類の考えが普及し︑分類体系が現代のものに近くなる︒
比較発生学が発達し︑後成説が確立される︒
生物学者の航海がいっそうさかんになる︒
細胞説がたてられ︑細胞の構造や分裂についての研究がすすむ︒
医療の方法がすすむ︒
︵技術の発達︶
汽車と汽船が実用化され運輸に変革をもたらす︒
都市に大戸業がはじまり︑副産物のタールが注目される︒
蒸留酒とテンサイ糖の製造のため近代的装置が発達する︒
ネジや兵器の部品の互換式大量生産がはじまる︒
︵社会の動き︶
イギリスに工場法が成立し︑労働組合が公認される︵一八二五︶︒
最初の周期的経済恐慌がおこる︵同︶︒
しょ︶の語に精し︒享和一︵一八〇一︶年藩の教職となり劃一を兼ね
た︒のち江戸に役し古賀精里に学ぶ︒藩主の寵遇厚かりしが︑故あっ
て罷められ︑年五十七にて残﹂とある︒︶熊坂蘭斎は﹁一般に画家と
して知られている洋学者﹂ ︵岡村前掲書二二三ぺ︶であったのかもし
れない︒︵*︶
なお︑一八四八年に巻一がでた箕作二更の﹃︵改正増補︶蛮語箋﹄
は︑ ﹁執心之者へ授与致候儀﹂はみとめられたようだが︑横文字が
入ったことによって﹁書物単二露塵弘之儀﹂は︑許されなかった︒許
可されるようになったのは︑蕃書調所で授業が始まった一八五七年の
ことであり︑箕作玩甫︵一七九九一一八六三︶はその時蕃書調所の教.
授職出役であった︵﹁市中取締続類集﹂ ﹃古事類苑︵文学部二︶﹄一
八九六年︑のち吉川弘文館・一九七四年・一〇三三−三四ぺ︶︒
最後に︑ ﹃ガラマチカ﹄と﹃センタキス﹄ の﹃和蘭文典前後編﹄
は︑象先堂︵伊東玄朴︶・適々塾︵緒方洪庵︶などで使われ︑一八五
七︵安政四︶年に開校した幕府の蕃書調所でもこの﹁両文典﹂が使わ
れていた︵前号の拙稿㈲1切ぺ︶︒大槻如電﹃新撰洋学年表﹄ ︵昭和
二く一九七二V年︑のち柏高社・昭和三八年︶には蕃書調所の開校式
の箇所に﹁当時は蘭学を主として英語を副とす︑両文典は蘭英の両文
典なり﹂とあるが︑著者の弟大槻修二が洋書調所と改称された一八六
二︵文久二︶年に入学して英文典を学んだことと︑その頃の情況とが
ないまぜになった結果だろう︵大槻修二﹁和蘭字典文典の訳述起原﹂
﹃史学雑誌﹄第一〇〇⁝一〇三号・明治三十一︿一八九八﹀年三−六
月︒高田宏﹃言葉の海へ﹄新潮社・一九七八年︶︒原平三﹁蕃書調所
の創設﹂ ﹃歴史学研究﹄第一〇三号︵昭和一七年九月号︶では︑ ﹁蕃
書調所規則覚書﹂への注に﹁両文典とは箕作玩甫複刻の和蘭文典前後
編﹂ ︵八六一ぺ︶とあり︑前掲﹃日本洋学編年史﹄には︑ ﹁以上の両
文典とは和蘭文典文法編及び和蘭文典文章編のことなり﹂となってい
る︒ 盛んに用いられたこれらの文法書への手引きとして﹁和蘭文典用
の簡易な辞典も︑安政三 ︵一八五六︶年に飯泉士譲﹃和蘭文典字類
前編﹄︑安政五年に高橋重威﹃和蘭文典字類後編﹄がでて﹂いる︵惣
郷正明﹃図説日本の洋学﹄築地書館二九七〇年・八ぺ︒なお︑ ﹃和
蘭文典字類後編﹄について︑ ﹃国書総目録﹄は前編と同じ選者をあ げ︑刊行年をおそらく﹁安政丁巳季冬雄飛軒主人識﹂からとって安政四年としており︑とも﹂に誤りだと思われる︶︒︵2︶ ﹃ガラマチヵ﹄の大部分と﹃センタキス﹄とを訳したものである︒︵3︶初編二冊は︑一八五⊥ハ︵安政三︶年に開彫され︑翌年に刊行されている︒ ﹃訳和蘭文語五﹄と同じ年の刊行である︒︵4︶ ﹁三都書物﹂として︑次の名がある︒
江戸日本橋通一丁目
一同同同罪同
日本橋通二丁目
芝明神前
浅草茅町二丁目
横山町三丁目 和泉屋金右衛門
下谷御成道 紙 屋 徳 八
京都二條通柳馬場東入 若山屋 茂 助
大坂心斎橋通安堂寺町 秋田屋太右衛門
︵5︶古賀十二郎﹃長崎洋学史﹄上巻︵長崎文献社二九六六年︶に
は︑安政二乙卯︹一八五五︺年六月︑長崎奉行荒尾岩見守が閣老阿部
伊勢守へ ﹁阿蘭陀活字板蘭書摺立方雪害﹂について建白し︑同年八
月にこれが採用された︑とある︵六九七−九九ぺ︶︒ その前段がある︒
前年五月に幕政改革意見三十七ケ条を起草し
勘定奉行が翌月に提出した答 げじき ﹁蘭書之儀に付而は︑下直に手に入候之含 ︑ ︑ ︑ ︵原平三・前掲注ωの八二
これに呼応した動きが︑ 一年後に長 須葦屋山城屋岡田屋和泉屋須原屋 茂兵衛佐兵衛嘉七吉兵衛伊 八
長崎奉行がイニシアチブをとったかによめるが︑
老中首座の阿部正弘は︑
ている︒この改革案の諮問にこたえて︑
申書﹁海防建議﹂には︑
ヘ ヘ ヘ ヘ ヤ ヘ へ有ド之︑当時長崎奉行に懸上中に御座候﹂
六ぺ︒傍点は引用者︶とある︒
崎奉行が出した具体案﹁阿蘭陀活字板摺立方之儀二付奉レ伺候書付﹂
であった︒
この結果︑西役所に設立した活字板摺立所を︑長崎奉行は﹁御勘定
方︑御目付方などが時々見廻り︑印刷全備の上︑役々立会ひ︑検査を
済ましたる上︑印刷の届出をなし︑一部つつ幕府の天文方へ納入﹂し
た︵古賀同前二六九九ぺ︶︒
︵6︶古賀同前書七〇三ぺ︒
一 242 一
丈ではあるが⁝⁝﹂ ︵二一九一二〇ぺ︶と記されているが︑この書を
﹁研究的な立場から補う﹂ことをめざした蘭学資料研究会編﹃箕作
玩甫の研究﹄ ︵思文語・一九七八年︶には︑和蘭文典前編は﹁玩甫が
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ自分で書いて板刻したもの﹂ ︵四六七ぺ︑傍点は引用者︶とある︒
︹もっとも﹃箕作院甫﹄の付録には︑ ﹁清水卯三郎君の話によると︑
院甫が自分で書いてそれを刷らしたもの﹂ ︵二六ぺ︶とあるが︺︒筆
者も前号の拙稿でこの書によったのだが︑どうなっているのだろう
か︒ 岡村千曳氏によると︑熊坂震音の和蘭文典の上巻は﹁のちに箕作家
の蔵版となり︑同家から上巷に下巻を合せて刊行された﹂ ︵﹁亜欧堂
田善とヨハン・エリアス・リーディンガー﹂昭和十二︿一九三七﹀年
十二月と昭和十三年七月︑のち﹃紅毛文化史話﹄創元社・昭和二八
く一九五三V年・二二三ぺ︶とあり︑杉本つとむ氏によると︑ガラマ
チカの場合﹁板下が同一でないところも︑部分的︵たとえば本文二六
丁︶には了承できる﹂ ︵同前書皿の一一四七ぺ︶程度だという︒筆者
には熊坂版との比較の機会がまだない︒なお︑目下刊行中の﹃国史大
辞典2﹄ ︵吉川弘文館・一九八○年︶の﹁和蘭文典﹂の項目には︑熊
坂蘭斎の名は見えない︒
﹁明確な履歴が判明しない﹂ ︵杉本同前書﹇〇二七ぺ︶熊坂につい
て︑さきの﹃︵文明.移入に関する︶古書展覧会目録﹄は︑次のように
のべている︒
熊坂健は奥州保原町︹福島県伊達郡ほばら町か︺熊坂伝右衛門の子
で生家は酒造家であるが︑医学に志し修業の辛めに江戸に出て一角
の蘭学者になった︒本書の外に﹃軽騎加部別煙霧攣﹄といふ馬術の
本を安政三︵一八五六︶年に出版してみる︒ ︵七ぺ︶︒
なお︑書名の﹁加刺別訴﹂はカラペインなどといわれた国碧尋閂甘
力iビン銃︹騎銃・馬上銃︺のことだろうから︑馬術の本というよ
り﹁軽騎兵のカルビン銃の操典﹂ ︵岡村前掲書手二三ぺ︶であろう︒
岡村千曳氏の前掲書には︑この書の前編の口絵﹁ペルシャ馬図﹂の写
真がかかげてある︵二二三ぺ︶︒しかしながら︑この書名は岩波書店
国書研究室編﹃国書総目録﹄ ︵全八巻プラス一巻・岩波書店・一九六
三−七六年︶にはみえない︒そこには次の編著があがっている︒ からえ ﹃英吉利文話書﹄一冊︑ ﹃山水唐画指南﹄二巻二冊︵安政五く一八 五八﹀年刊︶︑ ﹃山水四君子花鳥名画類聚﹄一冊︵嘉永響く一八五 しゅれき四V年賊︶︑ ﹃珠礫画譜﹄初編一冊︵嘉永七戸・安政二︿一八五五﹀年期︶︑ ﹃竹石帖﹄一巻︵嘉永七年成︶︑ ﹃適山画譜﹄編一冊︵嘉永六年蹟・同七年序︶︑ ﹃マートシカッペイ語法書﹄二冊︑であり︑彼が翻刻した﹁ガラマチカ﹂と﹁センタキス﹂が﹃マートシカッペイ語法書﹄二冊として顔をだしている︒ 当畢水五︵一八五二︶年の例言をもつ忙裏主人編の﹃西洋学家訳述目録﹄ ︵﹃文明源流叢書第三﹄所収・国書刊行会・大正三︿一九一四﹀年︶には︑ ﹃英吉利文話書﹄ ︵写︶・﹃マートシカッペイ語法書面﹄ ・﹃蛮語箋一﹄がある︵四七五ぺ︶︒最後の書﹃蛮語箋﹄ ︵刊本・一冊︶を﹃国書総目録﹄は採用していない︒その書名に相当する箇所には︑寛政一〇︿一七九八V年序・熊秀英︵桂川中事︶著の刊本があがっている︒これに手を加えた﹃︵改正増補︶蛮語箋﹄全二冊を箕作玩甫が発刊している︒嘉永一︵一八四八︶年に刊行され﹃蛮語箋一﹄と穂亭主人が記したその第一冊目の凡例には︑ ﹁此書︑原係二森島忠良画一︑忠良寛政間人︑当時洋学未二甚明一︑訳語往々失二確当・⁝⁝﹂とある︒ ﹁西洋医書翻訳を輯むるを以て専門とす﹂る﹃西洋学家訳述目録﹄の編者は︑箕作紫川︵玩甫︶の著述のなかに﹃増補蛮語箋﹄二冊とあげている⁝第一冊目の目録にある﹁巻二﹂がでたのは︑安政四︵一八五七︶年のことである一のだが︑桂川桂林 ヘママ ︵森島中良一七五四−一八○八︶の箇所には︑ ﹃類聚紅毛訳語﹄ ︵写
本︶はあっても︑その改題本である﹃蛮語箋﹄はもちろんみえない︒
未詳の編者穂亭主入が森羅万象氏にまどわされた格好だが︑とする
と︑ ﹃日本洋学編年史﹄ ︵大槻如電原著・佐藤栄七増訂・錦正社・一
九六五年︶にも見える︑熊坂蘭斎についての﹁健の名は秀央︵一に秀
英︶﹂ ︵四八ニー三ぺ︶も検討の余地がある︒しかし︑マートシカッ
ペイ語法書を二冊翻刻しているので︑こうした著作が蘭斎にあっても
おかしくはないと考えられたからこそ︑刊行の年︵嘉永七年︶に叙を
よせた校訂者・桐園先生11桐隠居士も︑西洋学家一一七名のうちに数
えたのだろう︒ ︵なお︑桐園先生とは︑ ﹃日本洋学編年史﹄による
と︑日向飯肥︵おび︶藩の儒者壱岐桐園だとの説があるようだ︒ ﹃大
人名辞典﹄ ︵平凡社・一九五七年︶によると桐園は﹁長崎に赴き︑
吉村正隆の門に学び︑兵術に通じ槍術を善くし︑また象車︵しょう
︵23︶マチカ﹄などの協会の出版物の翻刻本にある︒ ﹁日本における ︵24︶オランダ図書の最大の所蔵家﹂ とシーボルトがのべた新宮涼
庭︵一七八七〜一八五四︶ の旧蔵本である一夕Zuい日O一20\
8酔畠︒\国国22HωO国幻Z︾目dd卑\ω900一げ8屏.\HQ◎窃目● ︵25︶りΦ置︒戸には︑その図はない︒受賞作だけに協会がつけたとす
ると︑ ﹃民衆の自然科学﹁民間引致問答︺
て書かれたものなのに︑賞はえなかった﹂ ︵26︶の人名二曲ハの説明は︑誤りとなろう︒
平野俊平による﹃理学訓蒙﹄の翻刻は︑ ︵27︶うである︒それには︑先述の
崎奉行の下での洋書の翻刻として︑
(一
ェ五八︶
︵28︶う︒それだけではなく︑ ︵29︶やむなくオランダ語を学ぶという少年が︑
年にはすでにでている情況があった︒
九〇一︶が
は︑﹁五ケ国条約ノ事成り︑
六︵一八五九︶年であり︑そのため
し︑三︑四年後には ︵30︶生徒ノ数モ次第二増加﹂したという︒
府の蕃書調所は︑三︑ ﹄は﹁ボイスによっというく聾昌幽①﹃︾僧初編二冊で終ったよ
﹃格致問答﹄などの三冊につぐ長
﹃民間格致問答﹄が安政五
年に上梓されてしまったことも原因となるだろ
英語を教える所が江戸にはないので︑
一八五五︵安政二︶
福沢諭吉︵一八三五〜一
﹁蘭書ヲ以テ時事二当ルニ足ラザルヲ悟﹂ つたの
外国入ノ渡来漸ク繁多ナル﹂安政
﹁専ラ英文ノ読法ヲ研究﹂
﹁漸ク之ヲ生徒ノ教授二用ヰ⁝⁝是レヨリ
一八五七年に開校した幕
四年後には精錬方を設けたほか︑英語・ ︵31︶
オランダ語にか ドイツ語・フランス語の授業を開始している︒
わって︑英・仏語あるいはドイツ語・ロシア語への要請が高 ︵32︶まったことが︑平野の翻刻を一冊で終らせたもっとも大きな理
由ではなかったろうか︒
備前岡山面出め平野俊平は︑ ﹃理学訓蒙﹄を翻刻する二年前 の嘉永七︵一八五四︶年に伊東玄朴︵一八○○〜七一︶の象先堂に入塾していた︒彼については改めて報告する予定だが︑彼 ︵33︶の書はどれも﹁池田家文庫﹂には見当らない︒
注
︵1︶江戸の︿白山草堂﹀による熊坂蘭斎︵健︶が︑天保十一︵一八四
〇︶年にガラマチカを﹂﹃和蘭文典︵前編︶﹄として翻刻している︒杉
本つとむ氏は﹃︵江戸時代︶蘭語学の成立とその展開五﹄ ︵早稲田大
学出版部・一九八一年︶への註記で
箕作三三の方が知られていて︑︑この熊坂蘭斎の方が不当に過小評価
されているのは︑きわめて遺憾である︒箕作は名門故にこうなった
かもしれないが︑それは本質的には何の関係もなく︑むしろ天保
十一年刊の熊坂のものを何のことわりもなしに用いている箕作こそ
批難されるべきである︒今までにこうした指摘のないのは学者の怠
慢であり︑真理を愛する学徒として失格である﹂ ︵Wの一〇二六
ぺ︶とのべられている︒
熊坂の﹃和蘭文典︵前編︶﹄ ︵一冊︶については︑大正十四︵一九
二五︶年九月に大阪毎日新聞社で開催されたさいの﹃︵文明移入に関
する︶古書展覧会目録﹄ ︵荒木幸太郎編・蟹行社︶にこうある︒
勝俣錠吉郎氏め﹁英学事始﹂ ﹃英語青年﹄大正十二年四月五月号に
よると⁝⁝本書が復刻された翌々年の天保十三年に箕作玩甫が同一
の原本を同一の書名で刊行してみるが︑箕作版にはこの熊坂版と同
一の版木で刷った部分がある︒或は箕作の塾で和蘭文典を上梓する
時︑製版半ばにして熊坂版のあるのを知り︑その版木のある部分を
譲受けたものではなかろうか︒.⁝⁝箕作版が日本最初の蘭文典の復
刻だと称せられてみたが︑箕作版より二年前に熊坂健に依って蘭文
典が復刻された事が本書︹展示された勝俣氏所蔵の熊坂版︺に依っ
て明かになった︵六一七ぺ︶︒
呉秀三﹃箕作玩甫﹄ ︵大正三く一九一四V年・大日本図書︶の本文
には︑和蘭文典前後編は﹁院甫の著作したものではなく︑唯翻刻した
一一@244 一
これにつづく著者ボイスのメッセージじσ①二αq巨には︑
章がつけたされている︒ 次の文
読者へのメッセージ
一この第二版によせて一
一八=年に私がこの書﹃民衆の自然科学︹民間格致間答︺
﹄を書いたとき︑科学は今日みるようなレベルではなかった
だけではなく︑その時期いらい目覚ましい進歩をとげてきて ︵20︶いる︒しかしながら︑本書の性格上︑少しばかりの箇所でさ
え詳細にわたってのべたり︑こうした進歩を大いに利用した
りすることはできなかった︒わずかに手を入れることのでき
た二︑三の箇所では︑最新の発見にならってでぎるかぎり
絵宮簿に示し・図旨oq霞Φ昌を変えて︑少しばかり説明を加え
た︒そのさい︑科学上の発見がもたらした利益については︑
力をこめて論じておいた︒自然科学の知識をもっと多く知
り︑化学の一番の基礎にひとわたり出くわすためには︑読者
に﹃自然科学教科書︹格致問答︺﹄ ︹第一版は一七九八年︺
の一八二八年にでた最新の第五版を読まれるようおすすめ
する︒ この小著のなかにそれらを 十分にとり扱われて
いるわけではないが一読者は疑いなく見つけだすことだろ
う︒ ヨハネス・月ボイス
アムステルダムにて
一八三〇年一二月三一日
長崎での翻刻本にはみえなかった社会福祉協会の﹁序言﹂の ︵21︶執筆者の名前があげられており︑書記ラフェッケスは︑大庭雪斎が用いた原本︵第二版︶で︑︿ボイスはオランダ王立機関のメンバーとなった﹀と特記している︒民間団体であるこの協会を︑雪斎が﹃訳和蘭文語﹄で使った﹁文社﹂から﹁文社官﹂
﹁文社官府﹂ へと変えたことに係わりをもっているのだろう
︵こう訳した方が翻訳・出版に有利ではあるが︶︒
ボイスの﹁読者へのメッセージ﹂によると︑さし絵や図表が
入っているとのことであるが︑ ﹃理学訓蒙﹄や安政五︵一八五
八︶年の長崎での翻刻本には絵はみえない︒
︵図2︶は︑ ﹃理学訓蒙﹄の標題紙︵図1︶の原図を六〇%
縮少したものである︒メダルの左に﹁社会福祉のために﹂︑右
に﹁協会の国国幻勺男くω︵名誉賞︶﹂とある︒この図は長崎での
︵図2︶ 一一一昌櫓融、綱一
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離蟻
κ初版本の写歪孟福祉協会から賞訓轟としてすでに出版されてい範
︵三︶
ボイスの﹃ホルクス・ナチュールキュンデ ︹民衆の自然科
学・民間格致問答︺﹄は︑大衆に支えられながら科学がひろが
︵図1︶左・表紙見返し︑右・標題紙︵西京高校蔵︶
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︵18︶りすすんでいくオランダで︑一八一一年に初版が︑一八三一年
には増補された第二版が出版された︒川本幸民︵一八一〇〜七 かんらん
一)
ェ﹃気海観瀾広義﹄全十五巻︵一八五一〜五六年刊︶で利
用し︑雪斎が翻訳したのも︑この第二版であった︒
第二版の翻刻本である﹃理学訓蒙﹄は︑縦二五・八x横一
八・ニセンチメートルの大きさで︑標題紙一葉のほか︑五十四
丁からなっている︒ ︵図1︶に︑表紙見返しとそれにつづく標
題紙をあげておく︒内容は︑序文・目次から第四講までで︑五
十四丁ウラにくご凋O国くOO閑い国N一20︹第五講︺としたとこ
ろで翻刻が終っている︒
初版の序文は前号で紹介したので︑第二版でつけ加わった所
を訳してみよう︒
出版元である社会福祉協会︵共益社︶の序言くOO幻しσ国圏○目
には︑次の部分が加わっている︒
これまでの序言は︑第一版と同じように置かれている︒現
在でも読者にはボイス自身のすぐ次のメッセージを参照する
ようにおすすめする︒ ここでは︑前のページのボイスの名
前のあとに︑科学・文学・芸術にわたるオランダ王立学士
院国︒巳口αq三評Z国O国幻ピ>2ωO出ぎ警胃⊆旨くき≦08亭
ωoげO℃OoPトΦ#OH貯離昌畠①①印ωoゴooロΦ国q昌ω8ロの会員となつ
︵19︶た︑とつけ加えるだけでよかろう︒
協会の訓令により
圭日記 ヘンドリックUラフェッケス
アムステルダムにて
一八一一=年一月二一日
一 246 一一
︵6︶とある︒ ︵ただし︑古賀氏によると︑この書と工芸辞曲ハとは複 ︵7︶刻されたかどうか不明とのことである︶︒
﹃格致問答﹄は︑そこにでてくるオランダ語を解読するため ︵8︶に専用の辞書﹃格致問答字書﹄ ︵前編一冊︶さえ作られたほど
だから︑当時の入々の評価の高さもわかろうというものであ
︵9︶る︒ ︵なお︑著者J・ボイス匂Oげ9︒昌口①ωσσ犀ごω︵じロロ園◎・︶︵H刈①蒔〜 ︵10︶目︒︒ωQ︒︶の科学書は︑これを含めて三〜四冊が輸入されたよう すけとしだ︒その科学書についてのべたものに︑古くは矢島祐利氏の一 ︵11︶九三〇年の論文﹁蘭人ボイスの理学書について﹂がある︒経歴
については︑前号の拙稿﹁﹃民間格致問答﹄の著者ボイスと訳 ︵12︶者大庭雪斎﹂を参照されたい︶︒
︵二︶
語学書である﹃ガラマチカ﹄ ﹃センタキス﹄︑そしてボイス
の窮理書﹃格致問答﹄ ﹃民間格致問答﹄などの原本は︑いずれ
も同じオランダの出版社から出たものである︒このほかにも同 ︵13︶じ出版元の爾書がかなり輸入され︑日本国内で翻刻されてい
る︒そこで︑一七八四年に創設されたこの出版元・社会福祉協
会︵共益社︶がどのように組織され︑ どのような活動をして
いるかは︑当時の蘭学者の関心をひいたものと推測される︒
仁慈の獄の関係者の一人・小関三英︵一七八七〜一八三九︶
ちゅうじんしょは︑訳書﹃二人書﹄のなかで︑
此編は各種の党を悉く説き示すにあらず︒只我が国人に最有
用なる﹁マートシカッペイ・トット・ニュット・ハン・ヘッ
ト・アルゲメーン﹂と名づくる所の党︹社会福祉協会︺を説
くなり︒蓋此党の主とする所は︑価廉にして︑且つ捷径了 解し易き諸学芸の書を著して︑貧士に与へ︑彼等をして学芸 に通じ︑道徳を知らしめ︑是に因て良師となるべき人材を成 立して︑郷教に参するにあり︒有功を賞するにあり︒総て士 民の教訓・研智に係る事は︑季春何学にても︑母型にて造り 出すなり︒故に毎年此党より﹁プレイス・フラーゲン﹂ ︵開 策の事にて其々の学を書に著したる者には︑幾許の賞を与へ んと募る也︶を出して︑対策撰にあたれるものには︑ ﹁エー たから ルペンニング﹂ ︵金銀を以て造れる賞与の貨なり︶を与へて ︵14︶ 之を賞するなり︒とのべている︒ ﹁大衆の精神的な幸福と高い文明の普及に最大の関心を注い﹂で社会福祉の増進をねがう社会福祉協会の性 ︵15︶格︑ボイスの﹃民間格致問答﹄の成立の由来とその背景になっているオランダ各地での地域学会の誕生と科学啓蒙活動の様子︑ それらをうかがわせてくれる紹介となっている︒ ところで︑ボイスのこの書く︒貯ω・2良説=H罵鐸昌住Φ︹民衆の自然科学︺・この﹁とびきり上等の科学啓蒙書﹂の第二版を︑大庭雪斎は﹃民間格子問答﹄ ︵全六巻︶と題して一八六二〜六五年にかけて刊行した︒この出版元は︑当時文社とか原語の音をかりてマートシカッペイとかよぼれ︑ さきの訳書﹃訳和蘭文語﹄ ︵一八五六〜五七年刊︶では雪斎も文社としていた︒とこ ぶんしゃかん かんぶろが︑今度はこの民聞団体を︑文社官とか文社官府と訳してい︵16︶る︒その事情を︑一八五八︵安政五︶年に長崎で翻刻された同書の初版︵一八一一年版︶を利用しながら︑前号でさぐってみた︒ ヘ ヘ へ 実は︑雪斎が利用した第二版︵一八三一年版︶が︑長崎での
翻刻の二年前の一八五六︵安政三︶年に︑平野俊平心血﹃理学
翻訳書﹃民間格致問答﹄と
その原語版﹃理学訓蒙﹄
(一
j
幸
田 正 孝
昭和五十九年四月十八日
蘭学を学ぼうとする者にとって︑オランダ語の本格的な入門
書として欠くことのできないテキストが﹃ガラマチカ︹和蘭文
典前編︺﹄や﹃センタキス︹和蘭文典後編︺﹄であり︑また窮
理学の理解に欠かせないのがJ・ボイスの著書であった︑と
いってもよかろう︒当時の入々の評価のほどを︑文法書につい ︵1︶ては知られていることとして︑ ここではボイスの﹃格致問答
︹自然科学教科書︺﹄についてみよう︒
佐賀藩蘭学寮の教導である大庭雪斎︵一八〇五〜七三︶が訳 ︵2︶した﹃訳和蘭文語﹄全五冊︵一八五六〜五七年刊︶の最終巻の
巻末に︑出版書店の次のような公告がある︒
書落問答箕作笙校正初編二冊既等覚綿弓毎回
二編ノ中二冊既 刻二編ノ下近刻 ランシヨトボシ タマくキチン 原書ハ乏クシテ且ソ価貴シ︒偶々奇書珍本アリト雛モ︑容易
二机上二置キガタシ︒此ヲ以テ先生為二曝書ヲ翻刻セシメ︑
ショセイ ジ 生徒ヲシテ学ビヤスカラシム︒此書ヤ︑窮理ノ入学ニシテ自
モンジトウ ソノウヘヅ エガ テイネイハンプク 問自答二説キ︑其上図ヲ描キ丁寧反覆ノコス処ナシ︒実二儒 門ノ大学ト謂フベシ︒殊二文法モ正シケレバ︑和蘭文典ト共 二必読スベキ書ハ之レニ勝ル・ハナシ︒ みつくり しゆうへい 同じ文面は︑ここにいう﹁箕作先生﹂・すなわち箕作秋坪
︵宣信斎二八二五人六︶の巖梓﹂である﹃嚢問答讐 ︵3︶︵安政五︿一八五八﹀年三彫︶ の巻末にも掲げられている︒ ︵4︶︵﹃訳和蘭文語﹄と﹃格致問答﹄は︑同じ﹁三都書物﹂から発
行されているせいか︑この部分と奥付は同板のようである︶︒
この文章は出版元の宣伝ではあるが︑ ﹁儒門ノ大学﹂ともい
うべき必読文献であったことは︑箕作秋坪の他にも有力な翻刻
者がでたことから推測できる︒
ペリーおよびプチャーチン来航後の緊迫した情勢のなかで︑
幕府は洋書の印刷・販売を開始している︒老申首座阿部正弘 すりたて
(一
ェ一九〜五七︶が長崎奉行に活字板摺立所を一八五五︵安 ︵5︶政二︶年に設立させた︒古賀十二郎氏によると︑翌年からオラ
ンダ語の文法書二種類各一冊︵部数は各々五百部余り︶︑つい
でオランダ語の歩兵調練書全三巻の刊行をはじあている︒同じ
安政三︵一八五六︶年の暮に長崎奉行が老申へ提出した報告書
には︑これから印刷する予定の書名三つがあげられている︒そ
れは︑オランダ語英語の対訳字書一冊︑オランダ語の工芸辞典
一冊︑それにボイスの﹃格致問答ズpε賃屏⊆コ巳σqωoげoo子︒①胃﹄
である︒その書面の﹁覚﹂には︑
ボイゑ著述
一 ナチュールキュンデイグ・スコールブック 初巻一冊
右ハ学校二而教諭印書相用候究理書二監修学之老必用尊書二御
座候ρ
一 248 一