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大塩の乱と大阪周辺の米穀市場

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

大塩の乱と大阪周辺の米穀市場

著者 本城 正徳

雑誌名 高円史学

巻 11

ページ 1‑20

発行年 1995‑10‑01

その他のタイトル The Oshio Rebellion (大塩の乱) and the Rice Market nearby Osaka

URL http://hdl.handle.net/10105/8720

(2)

大塩の乱と大坂周辺の米穀市場

は じ め に

本     城     正     徳

天保八︵一八三七︶年二月十九日に元大坂町奉行所与力大塩平八郎が起こした大塩の乱は幕藩体制の動揺を象徴する事件

であり︑それゆえ︑戦前からの長い研究史を有している︒そこでは乱の史的意義や民衆運動史上の評価・位置づけを中心的

なテーマとしつつも︑大塩与党勢力の構成や組織︑社会的経済的基盤のあり方︑乱前後の社会状況︑大塩の思想や学問等々︑

乱をめぐる様々な諸問題が議論されてきてい整

本稿では︑こうした研究史を念頭におきつつ︑米穀市場問題とりわけ食糧=飯米問題の視点から大塩の乱を検討しようと

するものである︒天保凶作期という食糧問題のもっとも深刻化した時期に勃発している大塩の乱には︑すでに諸先学が指摘

するように明らかに米騒動的な側面が存在しており︑したがって研究史的にみても飯米問題に関しては多くの論者が論及し

ている︒しかしその多くは大坂市中を対象とし︑また乱の背景としての状況の説明にとどまっているように患われる︒この

点︑近年の酒井一氏や青木美智男氏の研究では市中のみならず町続在領等のより幅広い食糧問題がとりあげられており︑注

(3)

︵2︶

目される︒しかし総じていえば︑従来の研究史では当該期における米穀市場問題とりわけ大坂周辺地域における飯米市場間

題を正面に据えた形での乱の分析はなお不十分であり︑大塩の乱研究発展のためにもさらなる追究が必要であると田心われる︒

本稿では︑以上のような問題関心と視点から大塩の乱にかかわるいくつかの論点を提示してみたいと考える︒

一近世後期における大坂周辺の米穀市場

大塩の乱との関係において近世後期︑当面化政〜天保期の大坂とその周辺地域における米穀市場関係を考えるとき︑少な

︵ 3

くとも以下の二点に注目しておく必要がある︒すなわちその第一点は︑大坂周辺の畿内農村︑当面大塩の乱への参加・関与

が明らかな摂津・河内両国農村部︵乱への関与村については後掲表4参照︶においては︑遅くとも元禄〜享保期以降広汎な

農村部飯米消費市場が形成・拡大しており︑しかもそれは周辺産米︵地域内産米︶のみならず他国米に依存するレベルにま

で達していたという事実である︒それは主要には当該期畿内農村における高度な農民的商品経済の発展を基底的条件とする

二つの飯米需要構造︵①綿作・青物作農家に代表される非米作商品生産者とその家族による飯米購入︑②非農業者的下層民

とその家族による飯米購入︶に基づくものであった︒まず①については︑例えば大坂鈴木町南役所支配下の河内国八郡︵石

川・丹南・志紀・安宿部・丹北・渋川・君江・高安郡︶幕領が文化三︵一八〇六︶年一〜八月にかけて少なくとも五千五百

石余にのぼる﹁西国米﹂を大坂・堺より購入していること︑この数値は﹁卸支配所郡々平年買取候凡石高﹂であり︑さらに

その理由が﹁摂河州之儀者︵略︶畑場者勿論︑田清二さへ無拠木綿作仕付候村ミに御座候︑是悲共他国米質入不申候ハ而者︑

不相叶﹂という点にあったことが知られ怒近世中期以降の畿内農村では周知のように田方綿作に象徴される顕著な綿作の

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発展がみられたわけだが︑そこでは主穀生産にくい込むまでの綿作展開の結果︑綿作農家=商品生産者自身が飯米購入者化

しっつあり︑しかもそれは他国米に依存するレベルに達していたのである︒

一方②の飯米需要構造については︑例えば天保四︵一八三三︶年に河内国河内郡喜里川村から出された願書の一節に﹁村

方出生米︵略︶年内無難二御納所仕︑翌春占村内困窮之百姓︑壱升弐升ツ〜之貫米を以渡世仕候義二御座候﹂とあること︑

そして翌五年正月に同村と隣村の池島村から出された願書によれば︑こうした村内下層民による飯米購入が︑天保期以前よ

りの日常的関係として部分的にもしろ大坂からの買入米=他国米に依存する形で展開していたことが判明す整従来の研究

によっても︑商品経済の発展した近世後期の大坂周辺農村では農民層の分解が進展し多くの下層農が析出される一方で︑綿

業を軸とする社会的分業の発展と対応しっつ︑彼ら下層農が小商人化・賃労働者化という二つのコースを中心に脱農者化の

傾向を強めることがすでに明らかにされている︒こうした下層農脱農者化の進展は村内における飯米購入者層︵部分的にも

しろ自己飯米を貨幣によって購入する階層︶の形成にはかならず︑幕末期の畿内農村で広汎に成立する無高無作層はその象

徴的存在であった︒彼ら無高無作は完全な脱農者眉目全面的な飯米購入階層であって︑天保〜明治初期の畿内農村では村内

全戸数の一〇〜五〇%程度に達していたことが判明しているのである︵多数の大塩の乱への関与村の位置する摂津国東成・

︵ 6

西成郡︑河内国渋川郡についても同様の状況が確認される点に注目︶︒

さて︑大坂周辺地域の米穀市場に関して第二に注目すべき点は︑以上明らかにした農村における他国米依存が︑すでに紹

介した事例からも看取されるように当該期にあっては主として大坂大津米への依存であったという点である︒この点は﹁芦

︵ 7

政秘録﹂という大坂側の史料によっても確認できる︒すなわち本史料によれば︑十八世紀後半〜十九世紀初期の大坂大津米

とりわけその中心をなす堂島米市場取引米の恒常的な飯米としての販売圏=﹁定式浜方請持﹂地域が判明し︑それはA=畿

(5)

内諸都市︵大坂・京都・伏見・堺・尼崎︶︑B=畿内在郷町︵摂津国平野郷・西宮︑河内国八尾・久宝寺︶︑C=大坂市中接

続・近接諸村︵いわゆる﹁町続在領﹂地域︑村名が明記されているのは摂津国西成郡佃・伝法・稗島・大和田・福・難波・

木津・西木津・勝間・今宮村︑同国東成郡南平野町・北平野町・天王寺村︑同国住吉郡住吉村・新家村・安立町︶︑D=周

辺農村部︵東在・北在・灘目︶の四グループからなっていることが知られるのである︒Dグループの﹁東在﹂とは大坂の東

方に位置する河内国村々を︑﹁北在﹂とは大坂の北方に位置する摂津国村々を︑また﹁灘目﹂とは摂津国武庫・兎原郡沿岸

部に位置する村々を総称する名称である︒先に村方側の史料から確認した河内国村々の飯米の他国米=大坂大津米依存とは︑

この大坂側の史料にいう﹁東在﹂ への販売であったことが明らかとなろう︒すなわち︑近世後期の堂島取引米は畿内諸都市

のみならず広汎な畿内農村地域︵B・C・Dグループ︶ へも飯米として日常的に販売されていたのである︒︵図1を参照︶︒

その際注目されるのは︑こうした大坂への飯米依存関係が右のCグループ︵綿作よりはむしろ青物作地帯としての特徴を有

し︑大量の非農業者的下層民が存在する︶についてより顕著に認められるという点である︒例えば天保五年の史料によれば︑

︵ 8

今宮村・勝間村は以前より﹁年々飯米者︑不残堂島より買入﹂の村柄とあり︑これら地域の飯米の大半︵場合によってはす

べて︶が市中からの供給に拠っていたことが判明するのである︒

以上︑近世後期の大坂周辺農村︵在郷町を含む︶にあっては︑平年時においても程度の差こそあれ︑すでにその飯米を大

坂に依存する構造が成立していたことを明らかにした︒大坂周辺地域における天保の飢饉とは︑まさにこうした構造を前提

として発生していたのである︒そしてこの天保凶作期すなわち大塩の乱勃発時における米穀市場を考えるとき︑改めて注目

されるのが領主的対応とりわけ大坂町奉行所の対応のあり方であり︑その市場への影響という問題である︒そこで次節では

天明凶作期との比較を中心にこの点を検討してみたいと考える︒

(6)
(7)

二 天保凶作期における市中救他政策の展開と食糧問題の所在

表1・2は天明・天保期における主要な市中救他政策の実施過程を整理したものである︒両表によってまず最初に確認さ

れるべきは天明・天保期の救他政策には共通性があり︑大きくいって①官米払米・施行方式︵天保期には囲米売払が加わ

︵ 9

︶ る︶②民間施行方式③市場政策としての市中飯米維持政策の三本柱からなっているという点である︒大坂についていえば︑

①は十七世紀段階の中心的な救他方式であり︑②は享保期以降に登場する救他方式である︒③の方式は十七世紀から存在す

るが︑この時期には酒造制限令や買占禁令程度であり︑天明期になって初めて本格的な市中飯米維持政策が登場する︒表中

にも示した米穀他所他国売禁令︵大坂市中以外の地域への米穀販売を禁止することにより︑市中有米の量的確保とそれによ

る市中米価の引下が目的︶と市中米価の直接的な抑制令がそれである︒天明凶作期には大坂での最初の大規模な打ちこわし

︵ 1

0 ︶

︵米一揆形態の打ちこわしであり︑大坂打ちこわしの基本類型を示す︶が発生するのであるが︑この時期はまた大坂におけ

る市中救他政策が︑その基本的枠組みという限りにおいてはぼ出揃う時期でもあったわけである︒

しかしその一方において︑天明・天保期の救他政策には以下の三点の重要な相違が認められる︒その第一点とは︑両表か

ら明らかなように︑天明期には諸政策の実施状況にかなり大きなばらつきが認められ︑救他政策は明らかに打ちこわしの事

後対策的に打ち出されているのに対して︵打ちこわしが起こった天明七年五月十〜十二日直後の時期にもっとも集中的に諸

政策が実施されている点に注目︶︑天保期の場合︑救他政策は凶作の影響が出始めた当初の段階︵天保四年︶ より早期的か

つ総合的に実施されているという点である︒天保期におけるこうした対応は︑明らかに天明期の経験をふまえたものとみて

よく︑そこでは︑直轄都市における再度の米騒動=打ちこわしを未然に防止せんとする幕府・大坂町奉行所の明確な意図が

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(9)

看取されるのである︒こうした領主側の意図・認識については︑例えば天保八︵一八三七︶年二月四日に出された堂島米相

場抑制令にみえる﹁米価高直二而︑諸人難渋二及ヒ候二付︑仲買共心ヲ用ヒ︑平準之相場取続候様︑追々申諭候︵略︶俄ニ

︑︑

米価高直二相成候而ハ︑人気騒立︑不容易次第二而﹂との文言に明らかであろう︒そして本稿の主題である大塩の乱との関

連からいえば︑右の史料が大塩の乱勃発︵二月十九日︶のまさに直前の時期に出されている点は注目に値する︒町奉行所側

は天保凶作期の当初段階から大塩の乱勃発直前に至るまで︑都市打ちこわし状況に対する切実な危機意識を有していたと判

断できるからである︒

天明・天保期救他政策の相違点の第二点は︑天明期に比して天保期の救他政策が全体として強化・拡大されているという

点である︒この点は︑天保期の救他政策の核をなしている市場政策としての市中飯米維持政策の実施状況から明らかである︒

すなわち天明期の場合︑米穀他所他国売禁令は天明四︵一七八四︶年二月・同五年一月・同七年五月の三回発令されている

がそれぞれ比較的短期間で全面的に解除されている︒それに対して天保期の場合︑米穀他所他国亮差略令︵差略とは制限の

意味︒但し後述するように事実上禁止令として機能している︶は天保四年十一月・同七年十一月の二回発令されているがい

ずれもほぼ一年間にわたって実施された上に︑全面的には解除されず緩和されるにとどまっているのである︒同様の事態は︑

市中飯米維持政策のもう一方の柱である市中米価の抑制政策についても指摘できる︒すなわち天明期の場合︑市中米価の元

相場となる堂島米相場に対する直接的な抑制令は打ちこわし発生直後の天明七年五月に一度発令されているだけなのに対し

て︑天保期の場合は︑天保四年十一月を皮切りに同八年に至るまで頻繁かつ継続的に発令をみているのである︒そこでは︑

市中小売米価と市中米穀小売商を主対象とした天明期の段階から︑元相場である堂島米相場と堂島米仲買をも対象とした天

保期の段階︵卸売米価・小売米価の両者に対する二重の抑制令実施の段階︶ へという抑制政策における明らかな強化・拡大

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動向が指摘できる︒その際重要なのは︑これら強化・拡大された市中飯米維持政策がともにかなりの程度実効性を有してい

た点である︒まず他所他国売差略令については︑天保四年十一月の差略令に対して堂島米仲買が﹁他所亮等者専ラ差略可致

︵ 1

2 ︶

旨︑先月被仰渡も有之候二付︵略︶他所積等之儀者︑注文先と為相断罷在候﹂とあり︑実際には他所積禁止令として機能し

ていることが判明する︒この点は村方側の史料によっても確認でき︑例えば摂津国西成郡高畑村・増島村の天保五年三月

︵ 1

3 ︶

﹁施行帳﹂には﹁去巳年連作二付︑追ミ米直段も高直二相成︑而亦大坂市中米津留二相成﹂とある︒一方米価抑制令につい

ては︑天保七年十一月の堂島側の史料に﹁当所︵大坂−引用者註︶之義ハ格別従公儀御世話も御座候二付︑外々より直段下

︵ 1

4 ︶

直ニモ可有之﹂とあることが判明する︒凶作期ゆえ市中米価も高値とはなっているのだが︑それでも大坂については幕府の

﹁格別﹂な﹁御世話﹂︑すなわち強化・拡大された市中飯米維持政策実施の結果︑他地域よりも低水準の米価の実現していた

ことが知られるのである︒

なお︑以上の第二の論点との関連で留意されるのが江戸廻米の一件である︵天保七年九月〜翌八年五月にかけて大坂町奉

行所の命により兵庫から江戸に対して計三万七三四七石余の廻米が実施されてい璽この江戸廻米は著名な大塩の轍文に

も﹁大坂の奉行並諸役人とも万物一体の任を忘れ︑得手勝手の政道をいたし︑江戸へ廻米いたし︑天子御在所の京都へは廻

米の世話も不致﹂として登場する︒しかしながら注目すべきは︑この時期の大坂では米穀他所他国売緩和令が逆に強化され

ており︑︵天保七年十一月二十七日に差略令に切り替えられる︶︑しかもその直後の十一月二十九日の町蝕では︑江戸からの

江戸廻米推進令を記した後にわざわざこの江戸令については大坂で取り扱っている﹁蔵米・雑穀等﹂は適用外であること︑

また他所他国売差略令についても﹁触渡候趣心得達無之﹂よう厳命しているのである︒さらに加えて天保七年十二月には大

坂町奉行所が江戸商人たちの大坂での米穀買入活動に対して大坂の米関連商人たちの関与・協力を全面的に禁止しているこ

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表3 天保5年・7年大坂堂島出米量

国 名 郡 名 町  村  名 天保 5 年分 天保 7 年分

( 右) ( イi)

山城 京 毎 日  6 30 毎 日  5 20

〝 伏見 7 0 4 0

和 泉 堺 15 0 5 0〜6 0

摂 津 住 吉 平野郷 1 ケ月 20 0 1 ケ月 19 0

河 内 若 江 八尾 20 20

摂 津

東 成 天王寺

南北平野町

1 ケ月 35 0 1 ケ月 28 0

難波村 1 ケ月 100 1 ケ月  8 0

木津村 4 0 4 0

西 成 今宮村 30 20

勝間村 1 20 9 0

積多村 2 00 15 0

住 吉

≡≡町)

1 ケ月  8 0 1 ケ月  6 0

註)『米商旧記』(『大阪経済史料集成』第4巻、80〜81 貢)に拠る。註(3)拙著第5章参照。

︵16︶

と︵﹁一切貪着致間敷候事﹂︶が判明する︒以

上のような諸事実を勘案した時︑この時期の

兵庫よりの江戸廻米を徴文にあるように ﹁得

手勝手の政道﹂とのみみることは適切ではあ

るまい︒むしろそこでは︑大坂町奉行所の大

坂市中第一主義的対応が色濃く認められるの

︵ 1

7 ︶

で あ

る ︒

さて︑天保期救他政策の特徴として指摘し一

ておきたい第三の点は︑天保期の場合︑当初 10

段階より町続在領=大坂接続・近接村と一部

の畿内在郷町に対しては飯米供給に関する特

例的な配慮が確認できるという点である︒す

なわち大坂町奉行所は米穀他所他国売差略令下の天保五年・同七年にあっても︑年間を通じての特例的な飯米供給=堂島出米

を認めているのである︒衷3がこれら両年分の堂島出米を整理したものだが︑それによれば京都・伏見・堺といった畿内諸

都市と並んで︑出米量の点からいえば規模は小さいものの︑在郷町である平野郷や八尾︑それに大坂南郊の天王寺村以下

一〇ヶ村に対して出米の行われていることが判明する︵これら町村のほとんどが前節で明らかにした堂島の﹁定式浜方茜巨

地域である点に注目︶︒すなわち特例的政策の前提には︑前節でも指摘したこれら村々における強い市中への飯米依存関係

(12)

が存在していたのである︒大坂打ちこわしの基本類型がこれら町続在領を発火点とする形で発生・拡大をとげているという

︵ 1

8 ︶

先学の指摘をふまえるとき︑これら町続在領に対する飯米優遇政策の重要性は明らかであろう︒町奉行所はこれら地域に対

する飯米供給を市中並に優遇することにより天明期打ちこわしの再現をできうる限り食い止めようと意図していたと判断で

きるからである︒

では以上のような救他政策が実施・展開された結果︑天保凶作期すなわち大塩の乱勃発時︵直前︶の大坂周辺米穀市場は

どのような影響を受けたのか︒とりわけこれら地域における当該期の飯米問題をめぐる矛盾の構造・所在はいかなるものと

して把握できるのか︒この点に関しては︑当面以下の二点が指摘できる︒まずその第一点は︑食糧問題における地域間のレ

ベルでの矛盾・対立関係の存在である︒すなわち︑すでに明らかにしたように大坂町奉行所は天保凶作期にあってはその当

初の段階から天明期の場合とは格段に強化・拡大された救他政策を展開している︒その結果天保凶作期においては︑単に凶

作に基づく米不足の所産としてだけでなく︑むしろ右のような市中第一主義的政策=都市防衛政策を主たる要因とし︑大坂

市中︵都市︶対畿内農村︵周辺農村地域︶という地域間レベルでの食糧=飯米をめぐる矛盾・対立関係が形成されていたの

である︒そしてその際注目すべきは︑前述したように町続在領および一部の畿内在郷町については特例的な措置=堂島出来

が認められているという事実である︒すなわちこれら地域にあっては市中飯米維持政策によって切り捨てられたその他の大

坂周辺地域農村とは異なり︑当該期の食糧問題・矛盾はかなりの程度緩和されていたと判断できるからである︒

指摘しうる第二の点は︑右の市中飯米維持政策の結果切り捨てられた側にあっては︑それゆえに食糧問題をめぐる地域内

︵村内︶ レベルでの矛盾・対立関係が一層深刻化しているという点である︒すでに第二即で述べた通り近世中期以降の大坂

周辺地域においては広汎な農村部飯米需要の展開と大坂大津米の結合が認められたわけだが︑その一方において︑そこでは

一11−

(13)

当然ながら地域内供給米とりわけこの場合上層農民を中心とする農民販売米とこれら飯米需要との結合関係も並存していた︒

すなわち当該期の大坂周辺地域にあっては︑上層農民と中下層農民︵非米作商品生産農家および非農業者的下層民︶が飯米

をめぐって売り手と買い手の関係に明確に分化をとげつつあったのである︒少し時期は下がるが慶応の打ちこわしの翌年に

あたる慶応三︵一八六七︶年の河内国交野郡田口村奥野家︵同家は慶応二年に三八石余の米販売を行っている上層農民であ

る︶の﹁金銀出入帳﹂に登場する﹁誠以︑米売ものハ悦ひの時節︑御上様二御心配恐入奉候︑下々者難渋之様相聞﹂との記

︵ 1

9 ︶

述は︑こうした上層農民の立場と飯米をめぐる農民間の利害・対立関係の存在を端的に示すものとして注目される︒天保凶

作期に実施された大坂市中第一主義的な飯米市場政策は︑凶作以前には部分的にもしろ供給されていたこれら一般農村地域

への大坂大津米を事実上全面的に途絶せしめるのであり︑それゆえ明らかにこのような農民間の階層的な矛盾・対立関係を

一層激化させたのである︒

12

三 米穀市場問題からみた大塩の乱

以上︑まず第一節では近世後期大坂周辺地域における特徴的な米穀市場関係のあり方を明らかにし︑次いで第二節では大

塩の乱勃発時︵直前︶における飯米市場の構造とりわけその矛盾の所在について検討した︒では︑以上のような米穀市場問

題が大塩の乱のあり方を規定した一つの社会的経済的な条件であったとみなしたとき︑そこではどのような論点を指摘しう

るであろうか︒以下三点にわたる指摘を試みたい︒

まず指摘しうる第一の論点は︑近世中期以降成立する大坂と周辺地域農村間の本来的・通常的な米穀=飯米市場関係のあ

(14)

り方からするとき︑天保期を含む近世後期の大坂において︑農民を主体勢力とするあるいは農民をも含み込んだ形での米騒

動︑米一揆形態の打ちこわしが起こりうる客観的条件︑社会経済史的な意味での前提条件は確かに存在していたという点で

ある︒すなわち︑大坂周辺地域では近世中期以降︑在郷町のみならず一般農村部においても︑程度の差こそあれ大坂大津米

に飯米を依存する構造が一般的・恒常的に成立していたのであり︑そこでは︑大坂市中住民と周辺農民の間に飯米市場をめ

ぐる共通の利害・条件がもともと存在していたのであった︒したがってその限りにおいては︑凶作等によって食糧問題が深

刻化した場合︑都市民のみならず広汎な周辺農民が参加・達合した形で大坂=都市で打ちこわしを引き起こすという潜在的

な可能性は十分存在していたといってよいのである︒その意味では衷4として整理した大塩の乱処罰者一覧に登場する村々

の領域︵摂津国西成・東成・島下・川辺郡・河内国茨田・交野・志紀・渋川郡︶が第一節で明らかにした堂島取引米の﹁定

式浜方請持﹂地域と︑その大枠においてはぼ一致している点は十分に注目されるべきである︵前掲図1参照︶︒またこうし

た観点からみた場合︑大塩の主観的意図や組織的・民衆的基盤の有無といった問題はさらに別個に検討される必要があるに

せよ︑大塩の徴文が﹁摂河泉播村村庄屋・年寄・百姓並小前百姓共へ﹂という宛所を有し︑大坂周辺農村・農民に配布され

ている事実についても︑その意味するところを改めて考えてみる必要があると田心われる︒

指摘しうる第二の論点は︑しかし実際に起こった大塩の乱についていえば︑以上のような米穀市場のあり方を前提として

実施された幕府の救他政策とりわけ市中飯米維持政策の展開が︑乱の規模や参加構成員をかなりの程度規定しているという

点である︒すなわち衷4に拠って︑乱の全処罰者の八〇六人の地域的内訳をみると︑つとに諸先学によって指摘されている

ように︑市中で起こった米騒動的な打ちこわしであるにもかかわらず︑市中からの処罰者が大変少ないのである ︵﹁大坂市

中﹂﹁無宿﹂﹁武士﹂﹁家族・奉公人﹂を合わせても全処罰者の一三・八%︶︒また天明や慶応の打ちこわしでは打ちこわしの

ー13−

(15)
(16)

発火点となった町続在領=大坂接続・近接地域農村からの処罰者も少なく︑とくに天保五・七年に堂島米が許可された大坂

南郊の村々では一入も処罰者を出していない点が注目される︵前掲図1も参照︶︒以上の状況は︑乱の実質的な参加者といっ

てよい首謀者および蜂起荷担者として処罰された者に限定した場合もほぼ同様に指摘することができる︵武家関係者に無宿

をも含めた市中からの参加者の割合はなお二九・二%にとどまっている︶︒

天保凶作期において大坂町奉行所が天明の大打ちこわしを重要な教訓としつつ︑天明期に比して格段に強化・拡大された

市中飯米維持政策を展開したこと︑とりわけ打ちこわしの発火点となった町続在領に対しては明確な政策的配慮を行ってい

たこと等はすでに前節において指摘した通りである︒右に述べた乱の処罰者・参加者に関する諸事実は︑こうした幕府当局

者側の領主的対応と密接に開運しているとみてよい︒町続在領まで拡大された形での強力な市中飯米維持政策の展開は天明

期や慶応期のような大坂市中での大規模な打ちこわし=全面的な都市民・周辺農民の蜂起の条件を相当程度緩和しえたと判

断できるからである︒大塩の乱についていえば︑摂河両国在郷町への特例的な飯米供給に関しても同様の関係を指摘するこ

とができる︵平野郷・八尾からも乱の処罰者は出していない︶︒米穀市場問題の視点からいえば︑大塩の乱の参加者・処罰

者の中心は明らかに右に述べた市中飯米維持政策からははずれた地域︑拡大された形での大坂第一主義的政策によって切り

捨てられた地域にこそ求めうるのであり︑その意味において︑大塩の乱と前節で指摘した地域間レベルでの飯米矛盾のあり

方には対応関係が指摘できるのである︒そして以上の考察が妥当であるとすれば︑諸先学によって指摘されている乱の参加

構成員に占める大塩与党勢力︵門弟である下級武士と淀川左岸村々の上層農民が中心︶の圧倒的比重ないし突出ぶりについ

ても︑それは結果としての突出であったと考えることが可能となろう︒すなわち天保凶作期の大坂にあっても︑本来的な飯

米供給関係︑米穀市場の構造からいえば︑大塩与党による蜂起を牽引車として天明期や慶応期に匹敵する全面的かつ大規模

一15−

(17)

な米一揆形態の都市打ちこわし︵町続在領を発火点とする典型的な打ちこわし︶が展開・拡大する可能性はあったのだが︑

右に述べたような領主的対応が一つの重要な要因となって実際の乱の規模は大幅に縮小・限定されたものとならざるをえず︑

その結果︑乱の参加構成員に占める大塩与党勢力が大きく突出することになったという理解ができるのである︒

さて米穀市場問題の視点からみたとき指摘しうる第三の論点は︑前節で指摘した米穀市場の今一つの矛盾すなわち飯米を

めぐる地域内︵村内︶レベルでの矛盾・対立関係の存在が︑村落上層農民による下層農民の乱への動員を一層困難なものに

したであろうという点である︒大塩門下の上層農民による下層農民の乱への動員の困難性という問題は︑すでに乾宏巳氏が

︵ 2

0 ︶

世直し状況の急速な展開︑豪農−半プロ問の敵対関係の形成という視点から指摘・注目されているわけだが︑飯米市場の視

点からいっても︑両者の間には販売者対購入者という明白な矛盾・対立関係の存在すること︑こうした関係が市中第一主義

的な飯米市場政策によって一層激化せしめられていることを確認しておきたい︒これらの点は︑乱の中心的勢力をなした淀

川左岸地域諸村が︑畿内農村のなかでは相対的な意味で米作地帯としての特徴をもつがゆえに︵上層農民はより明確に米の

︵ 2

1 ︶

供給者・販売者としての性格をもつがゆえに︶︑十分考慮されるべき問題であると思われる︒

−16−

おわ日ソ に

大塩の乱は第一義的には政治史的事件である︒したがって︑そこではまず大塩平八郎という人物の思想および政治的行為

としての乱のもつ意味が注目されねばならないし︑彼を中心とする門下一党の思想的・政治的結合のあり方やその基盤といっ

た従来からも主要に追究されてきた諸問題が重要なテーマとなってくる︒

(18)

しかし農民を主体勢力とする米一揆形態としての打ちこわしという大塩の乱のもつ今一つの側面に着目するとき︑乱全体

を明らかにするためにはさらに多角的な視点からする分析が必要であると思われる︒本稿で注目した飯米=米穀市場問題も

そうした視点の一つであり︑考察を通じてこうした視点が一定の意味をもつことを明らかにしたつもりである︒大塩の乱の

全体像やその史的意義を広く近世民衆運動史において︑とりわけ近世都市打ちこわし論︵大坂でいえば天明期から慶応期に

続く打ちこわしの系譜︶のなかで位置づけ評価していく上においても︑右の視点は重要であると思われる︒本稿で提示した

二︑三の論点のさらなる検討をも含め︑今後の研究の進展を期待したい︒

﹇ 註 ﹈

へ1︶ 関連する研究は多いが︑代表的な研究書としては幸田成友﹃大塩平八郎﹄︵東亜堂書房︑一九〇九年︶︑石崎東国﹃大塩平八郎伝﹄

へ大絶間︑一九二〇年︶︑岡本良一﹃大塩平八郎﹄︵創元社︑一九五六年︶等があり︑一九七〇年代までについては酒井一﹁大塩の乱

と畿内農村﹂︵﹃講座日本近世史﹄第六巻所収︑有斐閣︑一九八一年︶が適切な研究史の整理を行っている︒八〇年代以降も研究は

進んでおり︑右の酒井論文のはか中瀬寿一・村上義光﹃民衆史料か語る大塩事件﹄︵晃洋書房︑一九九〇年︶︑森田康夫﹃大塩平八

郎の時代﹄︵校倉書房︑一九九三年︶︑相蘇一弘﹁大塩の乱の関係者一覧とその考察﹂︵﹃大阪市立博物館研究紀要﹄ 二六︑一九九四

年︶︑酒井一﹁大塩与党をめぐる村落状況﹂︵﹃日本社会の史的構造﹄近世・近代編︑思文閣出版︑一九九五年︶等が発表されている︒

また天塩事件研究会の機関誌﹃大塩研究﹄も実証的研究を中心に着実に号数を重ねている︒

︵2︶ 酒井註︵1︶前掲﹁大塩の乱と畿内農村﹂︑青木美智男﹁天保一揆論﹂︵﹃講座日本近世史﹄第六巻所収︑有斐閣︑一九八一年︶︒

︵3︶ 誌面の制約から︑本節での記述は第二節以下の論旨の展開上必要最小限なものにとどめる︒本節に関するより詳細な考察は拙著

ー17−

(19)

﹃幕藩制社会の展開と米穀市場﹄︵大阪大学出版会︑一九九四年︶第一・四章を参照されたい︒

︵ 4 ︶ ﹃ 松 原 市 史 ﹄ 第 四 巻 ︑ 二 三 三 〜 二 三 五 頁 ︒

︵ 5

︶ ﹁

村 方

願 書

控 ﹂

︑ 喜

里 川

村 中

西 家

文 書

︵6︶中村哲﹃明治維新の基礎構造﹄第二章︵未来社︑一九六八年︶等︒

︵7︶大阪府立中之島図書館所蔵︒堂島米市場関係者の作成とみられる︒

︵ 8

︶ ﹁

永 代

録 ﹂

︑ ﹃

大 阪

編 年

史 ﹄

第 一

八 巻

︑ 三

〜 四

頁 所

収 ︒

︵9︶備荒貯蓄としての囲米は大坂でも寛政改革時に本格化している︒この点︑﹃大阪市史﹄第二参照︒

︵10︶酒井註︵1︶前掲﹁大垣の乱と畿内農村﹂︒また関連する近年の研究として岩田浩太郎﹁打ちこわしと都市社会﹂︵﹃岩波講座日本通史﹄

第一四巻︑一九九五年︶がある︒

︵ 1 1 ︶ ﹃ 米 商 旧 記 ﹄ ︑ ﹃ 大 阪 経 済 史 料 集 成 ﹄ 第 四 巻 ︑ 八 二 〜 八 三 頁 所 収 ︒

︵12︶﹁永代録﹂︑大阪市史編纂所所蔵︒﹁永代録﹂は堂島米市場に関する詳細な編年記録である︒

︵13︶大塩事件研究会の井形正寿氏のご教示に拠る︒

︵ 1

4 ︶

﹃ 米

商 旧

記 ﹄

︑ 註

︵ 1

1 ︶

前 掲

書 ︑

七 九

頁 ︒

︵15︶﹃兵庫県史﹄第五巻︑一五七〜一六〇頁参照︒

︵16︶﹃大阪市史﹄第四下︑一二四二〜三頁︑一二四三〜四貢︒

︵17︶敏文では﹁廻米の世話も不致﹂とされた京都に対しても︑実際には表3に示したように大規模な飯米供給が行われている点に留意︒

また︑本文で指摘した観点からさらにいえば︑この江戸廻米が兵庫を舞台とし︑当初は兵庫の米商人達に強制する形で実施されて

ー18−

(20)

いる点も注目される︒というのも︑化政〜天保期は納屋米︵商人取扱米︶集散市場として兵庫が大きく市場的発展をとげた時期で

あり︑こうした大坂と兵庫との市場的対抗関係をもふまえれば︑右の江戸姐米政策にはさらに多様な政策意図を看取しうるからで

ある︒すなわちそこでは︑まず第一に大坂市中飯米維持という大坂町奉行所にとっての最優先課題の存在が︑第二に︑しかしなが

ら同時に可能な範囲で江戸=幕府中央の意向にも配慮せざるをえない大坂町奉行所の立場が︑そして第三に︑以上の線に沿った形

での大坂町奉行所側の巧みな兵庫利用策それも抑圧的な意味での兵庫市場利用政策としての側面が︑それぞれ認められるのである︒

︵18︶酒井註︵1︶前掲﹁大塩の乱と畿内農村﹂︒﹁永代録﹂によれば天保五年には大坂北郊の町続在領︵西成郡川崎・北野・曽根崎・福島

村︶ へも特例的な堂島出米の行われていたことが判明する︒なお天明凶作期の場合︑天明四年九月に松安庄右衛門の出願をうけ同

支配下の﹁町続在地鵜米駄売崖﹂に対して堂島出米の許可されている例が知られる︵﹃大阪市史﹄第三︑一〇四九〜五〇百︶︒但し︑

﹁町続在地﹂の米小売商がどの程度松安支配下に属していたのか不明であり︑また実際に宝島米の販売が行われたかについても確認

で き

な い

︵19︶﹃枚方市史﹄第三巻︑六七五貢︒乾宏巳﹁大塩の乱と農民的基盤﹂︵﹃ヒストリア﹄六九号︑一九七五年︶では︑大塩の乱に参加した

河内国茨田郡門真三番村の茨田郡士家の経営分析が行われており︑凶作年の天保四年には石当り米価の上昇により経営収支の黒字

額が文政十二年〜天保三年の年平均黒字額の約三・五倍に激増していることが明らかにされている︒

︵ 2 0 ︶ 乾 註 ︵ 1 9 ︶ 前 掲 ﹁ 大 塩 の 乱 と 農 民 的 基 盤 ﹂

︵21︶以上の問題を先に指摘した第二の論点から捉えなおせば︑天保期の市中飯米維持政策によって切り捨てられた地域にあっても︑地

域内における食糧矛盾のあり方は決して一様ではないということになろう︒これら地域にあっても︑矛盾の矛先がすべて自動的に

大坂に向かうのかといえば︑事態はそれほど単純ではないからである︵切り捨てられた地域全体からいえば︑乱への関与村は少数

−19−

(21)

派に過ぎない点に留意︶︒こうした問題を全面的に解くことはもはや今後の課題とせざるをえないのだが︑ここでは︑大坂周辺地域

における個別領主︵逓・旗本等︶ レベルでの救他政策の検討とともに︑階層的矛盾に対する村・農民レベルでの対応のあり方︵矛

盾緩和の程度︶が検討課題になるであろうことを指摘しておきたい︒

﹇ 付

記 ﹈

本稿は本年三月の大塩事件研究会総会での報告をもとにしている︒報告に際して貴重なご意見を頂戴した諸氏に改めて御

礼を申し上げます︒ ︵奈良教育大学教育学部︶

参照

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