当
初
の
仏
教
J.W. de Jong述
久留宮圓秀訳
近年,学老たちの間で,ブッダ直説の教えを復元することの可能性について活発な議論が展 開されてきた。1987年8月にライデンで開催された第八回世界サンスクリット語学会の折り,
この目的にそって「最初期の仏教」を扱う研究集会が催されたが,対立する意見を一致させる には至らなかった。勿論,この問題が討論されたのはこれが最初というわけではなく,ブヅダ の像そのものやかれの教えに関する研究は,この150年間における仏教研究の中心課題の一つ であった。相違する見解の総てをこの一回の講義のなかで公平に論評することは不可能である が,しかし討議の中で話題となった議論のいくつかをここで改めて検討することは価値のない
ことではないと思われる。
もし「当初の仏教」について語ろうとするならば,われわれは真っ先に外ならぬブッダ自身 に注目すべきである。われわれはブッダについて何を知っているのか。ブッダの伝説,それは 何世紀もの長い期間を経て造り上げられてきたものであるから,かれの誕生以来から(さらに は誕生以前の遠い昔からまでも)ニルヴァーナ(浬葉)に至るまで,かれの生涯を事細かに語 りかけてくれている。学者たちはその伝説のなかに含まれている歴史的事実を確定しようと試 みてきた。例えば,大学の教科書として広く使われている『不思議の国,インド』の中で,バ シャムは「ブヅダの生涯の中で,ある事実はかなりはっきりしている。かれはヒマラヤの山裾 の小部族,シャーキャ族の長の息子であった。かれは求道者となり,そして新しい教義を提唱 して多数の弟子たちの支持を得た。コーサラとマガダの王国及びガンジス河の北部にある諸の 部族の土地で多年にわたる教化をした後,B.C.486年からB.C.473年までの間のある時期に,
おそらく後者より前者の日付に近いと思われるが,80歳でこの世を去った」(Basham,1954,
PP. 256−7)と記している。バシャムは伝説のほとんど全てを不要として捨て去っている。他の 学者たちはこの点ではもっと保守的であり,伝説の大部分を歴史的事実として認めている。
バシャムやかれと同様に考える学者たちはどのようにしてこうした「かなり確実な史実」に 到達したのであろうか。かれらが採用した方法の特徴については,すでに1896年にヘンドリッ ク・ケルンが次のように述べている。すなわち,ある人々は「奇跡的で神話的な要素のある話 を取り除くことによって歴史的核心を見っけだすことが可能となるという見解をもっている。
そうした人々は,自分たちの批判的手順によって,本来のものに極めて近い像を復元すること
20 法華文化研究(第20号)
ができると,信じてしまいがちである」(Kern, p.12)と,評した。しかしながら,コソゼが指摘 したように,仏伝中の史実は仏教徒たちの信じてきた伝説を切り離すことはできない(Conze,
p.34)。高名なベルギー人の学者であるエチュンヌ・ラモットは次のように書いている。「歴 史的真実に到達するためには,伝説的な要素を捨てるだけでは十分でない。人は伝説を使って 歴史を書くのではない」(Lamotte、1983, P.6)と。コソゼをもう一度引用しよう。「ブッダと はその人個人の中に体現された一種の類型である。且つ外ならぬその類型こそが宗教的生活に 関心をもたせるのである。……ブッダとは異なった時代に異なった個々の人物にこの世に顕現 する一種の原型であり,その人物の個性はまったくどうでもよいのである」(Conze,pp.34−35)。
ブ・rダが類型であって個人でな1、・ということは,しばしばブヅダたちについて述べるジャイナ 経典の中に見られるブッダ(Buddha)という単語の用例からも明白である。例えば,あるジャ ィナ経典には,「過去のブッダたち,そして未来のブッダたち,かれらは,あらゆるものがその 基礎として大地を有しているように,(そのように)謂わば寂静をかれらの立脚地としている」
(Jacobi,1895, PP・314−5)とある。
ブ・・ダの代わりに使われるもう一つの術語にジナ(勝老)がある。この術語はジャイナ教の 創設者であるマハーヴィーラに対しても使われている。仏教徒のテキストはブヅダの代わりに,
タターガタ(如来)というもう一つ別の術語をしばしば使っている。この術語の意味について 多くの論文が書かれているが,しかしいかなる満足のいく説明も提示されていない。仏教にと って甚だ代表的であると思われるこの術語さえもが,ジャイナ教のテキストの中に見いだされ る(cf. Jacobi,1895, p.320)。ブッダの呼称は他にも幾つかあるが,仏教の起源について多くを 教えてくれることができるという点からその中の一つだけを挙げれば,それはシュラマナ(沙 門),パーリ語でサマナである。サマナとは,当時の人々がブッダの弟子たちに対して,またし ばしば沙門ゴータマと呼ばれるブッダ自身に対して使った単語である(Franke,1913, p.304)。
「サマナ」は主として遊行の修行者のことをいい,ピック(比丘)たち以外の,宗教的求道の 立場で努力している(語根5γα〃2一は「努力する」を意味する)人々すべてを含んでいる。この サマナ(沙門)はテキストの中でしばしばバラモンと並記されている。両者は紀元前300年頃 にパータリプトラ(華子城;現在のバトナ)の町を訪れたギリシャ人メガステネスの記述の中 にも見いだされる点からしても,その区別はまさに古くから確立していたものであろう。その テキストからわれわれはブヅダについて,二つの重要な事柄を学ぶのである。かれは弟子たち によって彼等に彼が説いた究極の真理を見たブッダ「目覚めたひと」であると考えられている。
他面,当時の人々は,かれをサマナの一人であり,バラモンたちとは区別されるサマナたちに 属していると考えた。
ブッダがボーディ「日覚め」(悟り)に到達したその瞬間から,かれはもはや普通の人間では なかった,ということはひょっとしたら理解しにくいかもしれない。ある学者たちは,ブッダ の生涯を目の当たりにしたひとたちによって記憶が保持されている間は,ブッダは人類の教師 でちると考えられていたと,信じている(Bareau,1980, p.8)。このことはテキストによって 確認されていない推測である。ボーディを得た後間もなく,かれが名前や通り名「尊師」で語り かけられた時,かれは答えた。「止めなさい,比丘たちよ。タターガタ(如来)に向かって名前 や「尊師」という通り名で語りかけることを」(V・1,p.9)と。アージーヴィカ派(邪命外道)
の弟子であるウパカがブッダに出逢ったとき,かれは次のように話しかけた。「尊師よ。あな たの感官は完全に純粋であり,あなたの顔色に非常に輝き,非常に澄み切っている。誰のため に,浮師よ,行くのか,誰があなたの師か,誰のグンマ(法)をあなたは主張するのか」と。
フヅダに答えた。
「あらゆるものに打ち勝った,わたしは全智であろ,あらゆるものの間にあって汚されず,
すべてを捨離し,欲望を破壊して束縛されず,おのれ自身で知れば,誰に従うべきか……
わたしに師はなく,一人としてわたしのようなものは存在しない。神々を込めてこの世界 にわたしに等しきものもなし。なぜなら,わたしはこの世界でアルハット(阿羅漢,応供)
であり,わたしは最上の教師であり,ただ一人ですべてに目覚め,わたしは冷静となり,
ニルヴァーナ(浬繋)を得たからである」(Horner,1951, pp.11−12)。
ブッダは真実を師から学んだのではなく,自分自身でそれに到達したのである。ある有名な テキストの中で,ブッダは次のように宣言していろ。「わたしは古くからの道,過去のブッダ たちの通った古の道を見た」(S.H,106)と。この宣言の中で重要なことは「見たjという言 葉であるrブッダが見るものはダンマ(法)であり,それはかれ以前にも先のブッダたちによ
って見られた永遠に存在する真実である。
すでにヴニーダの時代に,ヴ=一ダ詩人たちは内的心象によってヴ=一ダ讃歌を見たと言わ れている一ヴェーダの仙人(r$i)は内的眼を使って神秘的天的なものを見るのである(Geldner,
1,1951,p. 2,n.2)。他の宗教では,予言老が神の教えを聞くのは,外ならない耳をもってする のであるから,重要な感官は耳に外ならない。インドでは,認識方法(pram麺a;量)のうち で,まず最初に言及されるのは常に直接知覚(pratyaksa;現量)である。超Fl然的真実への 洞察は内的心象によって獲得される.われわれの哲学という語に相当するインドの言葉はダル
シ∵ナで,それは文字どおりには「見ること」であり,六派哲学の体系を示すのに使われる用
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22 法華文1ヒ研究(第20号)
1956年に,二千五百年以前の5 B. C・のブッダの浬葉を記念してブヅダ・ジャヤンティの 祭典が執り行われた。544 B. C.とはスリランカ,ビルマ,タイ,カンボジャという上座仏教 の国々に伝承されたブッダのニルヴァーナ(浬薬)の年代である。1837年,ジョージ・ターナー は上座仏教伝承の年代記に60年の矛盾があることを指摘した。このことはブッダのニルヴァー ナの年代を484/483 B. C.に引き下げることになり,以来,西欧の学老は多少の相違はあっても この年代を採用している。バシャムは「486B.C.と473 B. C.の間のある時」と言っている。
1982に出版された最近のインドの歴史書では,これが「インドの歴史の中の最初の歴史的日付」
であると言われている(Bechert,1991, p.3)。しかしながら,この年代は伝承上の年代であっ て歴史的に考証された年代ではないと指摘する学者たちも依然としている。
近年,ハインツ・ベッヘルトは,仏陀の生涯に関して,上座仏教や大乗仏教の国ノ・で使用さ れているいろいろと相違する年代記を再検討した。1988年4月にかれによって「歴史上のブ・・
ダの年代,および歴史編纂と世界の歴史にとってそれを確定することの重要性」と題するシン ポジウムが計画され,そこでこの問題が可能なあらゆる角度から検討された。500ページ以上 からなる1冊の報告書が既に出版され,さらに2冊がこれから出る予定である。シンポジウム 参加者の意見が一致するにはとうてい到らなかったが,全体の流れはおよそ480 B. C.という早 い年代を捨てて,420 B. C.から350B. C.の範囲の遅い年代を支持する方向にあった(Bechert,
1991a, p.15)。ベヅヘルトが,ニルヴァーナの年代を確定する唯一の方法は間接的証拠を使用 することにあると指摘しているのはいみじくも正論である(1991b,p.235)。しかしながら,ブ
ッダのニルヴァーナを4世紀に起こったことと結論づけるのに,間接的証拠(p.10)で十分足 りるかどうかは疑問である。当面は,ブッダに600B.C.から300B.C.の間,インド束部の マガダ国に生きていたという極めてあいまいな記述を超えないということにしておくのがある いは賢明であるかも知れない。
仏滅年代論はともかく,われわれはブッダの教説についてより詳細な情報を得ていろであろ うか。まず最初に,ブッダは説法に際してどんな言語を使用したのかという問題がある。ブt・・
ダはその現地の言葉,すなわちマガダではマーガディー(マガダ語)を,そしてその他の国々で はそこの方言を語った,と一般には考えられている。恐らく,かれの時代には,インド東部の 中期インド・アーリヤ語の諸方言の間の相違はそんなに大きなものではなく,ある言語すなわ ち方言から別のそれに切り替えることは容易であったであろう。しかしながら,ブッダの説法 のままの言葉づかいに関連するものは何も残っていない。かれの説法はパーリ語でわれわれ:こ 伝えられている。パーリ語とは,現在スリラソカや東南アジアの仏教徒たちが信奉している上 座部,すなわちテーラヴァーディンという仏教の一部派に属する仏教聖典の文献語として後の
時代に発展した言葉である。伝承によれば,パーリ語テキストと註釈書は紀元前第3世紀にセ イロンに伝えられた。テキストと註釈書の両者は紀元前第1世紀に書き留められた。この情報 に数世紀後に書かれたセイロンの年代記の中に見いだされるのであるが,たとえその情報が正 しいとしても,このことは当時書き留められたテキストがわれわれの現在手にしているテキス トと同一であるということを意味しているわけではない。パーリ語テキストには何ら古い写本 がないのである。テーラヴァーダ(上座仏教)の国々に保存されている最古の日付を持った写 本でも紀元後15世紀に書かれたものである。現在われわれの手にするパーリ語聖典は多かれ少 なかれ紀元後第5世紀の有名な註釈家ブヅダゴーサ(仏音)の時代から同じ形式であったよう である(Walpola Rahula,1956, p. xix)。幾世紀もの間,仏教のテキストは口頭で伝えられて いたばかりでなく,マガダ語や同類の方言のもともとの言い回しからパーリ語へ翻訳されたも のでもある。またその伝播過程の詳細もはっきりしていない。
カ ノ ノ
経典,すなわちテキストの確定し固定した集録のあるものはパーリ語で書かれたものだけで ある。パーリ語聖典はティピタカ「三つの籠」(三蔵)と呼ばれ,僧・尼集団の規律であるヴィ ナヤ・ピタカ(律蔵),ブ・・ダの教えを含むスヅタ・ピタカ(経蔵),そして仏教の学問的部門 であるアビダンマ・ピタカ(論蔵)から成っている。三ピタカの中のテキストは系統立てて配 列されている。例えば,スッタ・ピタカは五部(ニカーヤ)から成っており,そのうちの四つは
ブ・・ダに帰せられる説教で構成されている。すなわちディーガ・ニカーヤには34の長いス・・タ があり,マッジマ・ニカーヤには中程度の長さの152のスッタが含まれ,サンユッタ・ニカー ヤぱ56のサンユッタの内容別に収集分類された(sαrPiyutta)2889のスッタで構成され,そして 最後にアソグッタラ・ニカーヤは節の数にしたがって11の段階に整理された2300以上のスッタ を集めたものである。これら四つの部門は大部分が散文で書かれているが,第5番nの部門で あるクッダカ・ニカーヤは,ダンマパダ(法句経),スッタニパータ(経集),テーラガーター
(長老偏),テーリーガーター(長老尼偶)というような偏頚で書かれた著名なテキストから成
v「 F 、 →
つ k・ 乙)⊃
このように膨大なテキストの集録 スッタ・ピタカはパーリ語聖典協会編のもので2倦を 数える一の中にあって,そこに相違や矛盾があるのは驚くべきことではない。こうした矛盾 を会通する一つの方法に,ブヅダ自身の教え或いは初期仏教の教えが時を経ながら展開してい った結果であると考えろことである。相違する層を区分けしようとする種々の試みがなされて きた。そうした試みの一つがリィス・ディヴィY.tヅ夫人によってなされたのであり,彼女は夫 とともに,パーリ語テキストを校訂したり翻訳したり,重要な仕事をした。彼女は晩年の20年 間で,ブヅダの初源の教え,すなわち彼女が謂うところのシャキャの教義に関する非常に驚異
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的で革命的な理論を展開した(C.A. F. Rhys Davids,1928,1932,1934)。彼女によれば,僧 と僧院の伝統が初源の教えの本質を根底から変化させたことになる。
仏敦の基本的教義の一つは,苦悩(t { )・苦悩の原因(集)・苦悩の停止(滅)・呂:悩の停Lヒへ 導く道(道)という「四つの崇高なる真実」(四聖諦)の教えである。リィス・ディヴt ヅ夫 人によれば,「道」という「第四の真実」が最も重要なものであったが,それが後に改江され て4番日の地位に落とされたのは僧院のせいであるという。その「道」の教えとは,二この世 の務めの安泰と,臨終の時ではなくてあの世での発展(現世安穏・後生善処)を願う俗人たち への教えであった。記録資料のまさしくその語法が修道価値を帯びたのは,僧と僧精神とが最 高の権威を有するようになった後の時代のことであった」のである。初期仏教のもう一つの基 本的教義は「無我」の教えである。しかしながら,リィス・ディヴィッヅ夫人によれご,プヅ ダは我を説いたとし,彼女はアッター(自己,我)の語をaman−in−mallと翻訳した。西欧 の指導的学者たちは,サキャの初源の教義に関する彼女の復元を完膚無きまでに拒絶した
(Winterni七z,1929,1931,1933,1936;de La Vall6e Poussin,1937, pp.257−8)。コンゼは仏
教に関する彼の著書の中で次のように正しく認識している。「初源の」仏教を復元しようとする あらゆる試みは次の一点で共通している:「ブッダの教義は,仏教徒たちがそれであると理解
しているものではなかったということ」(Conze,1951, p.27)である。
1930年代には,より古い,経典以前の仏教を復元するためのもう一つの試みが;ff 一ランド人 のスタニスラス・シニイエルによってなされた(Schayer,1935,1936,1937)。シ=イ=ルにょ れば,経典の中には一般に認められた経典の視点とは矛盾したテキストがあり,これらのテキ ストはより古い,経典以前の仏教を残している個所であると考えねばならない。経典以前の仏 教というシェイエルの考えを詳細に説明することはできない。かれの主要な結論の一つは,初 期仏教にに識という永遠不滅の要素があったということである。この立場はあらゆうものには 非永続性がある(諸行無常)と説く経典の教えと明らかに矛盾する。シ=イエルは仏敦は常に サンサーラ(輪廻)からの解放(解脱)をその最終Ll的としていると考えていたが,この解放 はその本来の形においては個我の終息ではなかった。それはモークシャ(解放;解脱)でらった のであって,ニルヴァーナ(浬藥)ではなかった。シ=イエルは1941年に42歳でこの;1Lを去っ た。かれの早い死去が輝かしい経歴を短く切ったのである。シ=イエルがかれの発想をもっと 体系的に伸ばし得なかったことは残念なことである。しかしながら,かれの発想は弟了のコン スタンチン・レガメイの研究を鼓舞し,そのレガメイはインド仏教の研究及びシニイエルの研 究と関連した初源仏教の問題に関する論文でシェイエルの発想を発展させた(Regamey,1951,
1957)。シ=イエルは,仏教が後世代によってその初源の型をすっかり変ったものへと換骨奪
胎させられたという論理を,全く可能性が無いとして斥けるとしている。しかしながら,例え ば,シニイエルがしたように,ニルヴァーナの概念を初期仏教の教義から払拭してしまうのは 疑いなく伝統的仏教に対して少々やりすぎである。仏教の経典の中に発見され,かつ経典仏教 の発想と必ずしも脈絡が通じていない幾つかの重要な概念の存在を指摘している点で,シニイ ェルの研究は有益であるが,しかしそれらを経典前の仏教の復元のための基礎として採用する ことはできないと思う。彼以後,「経典以前の仏教」を再構築しようとする彼の試みを継承する 老は,レガメイを措いて,誰もいない。
シ=イェルは,ブヅダの教えの本質に関する何らかの確実性を手にすることは出来ないとい う意見を持っていた。エリヅヒ・フラウワルナーの意見は全く違っている。かれはその教えの 中にある相違をブッダ自身の思考の過程であり展開の結果であると説明しようとした。フラウ ワルナーは最初の説法(初転法輪),すなわちブッダがベナレスの近くのイシパタナにある鹿の 園(鹿野苑)で五人の比丘のグループに説いた説法を引用する。ブッダはまず中道を説いた。
「比丘たちよ,これら両極端は,この世(世俗)を離脱したひと(出家者)によっては実践され るべきでない。両極端とは何か。激情と結合したもの,即ち低俗,卑獲,粗野,下劣,無益な ものと,自己を苛むことと結合したもの,即ち苦しく,下劣で,無益なものとである。こうし た両極端を避けて,如来は中道の知識を得るのであり,それが見解と知識を与え,寂静へ,洞 察へ,目覚め,ニルヴァーナへと向かって行くのである」と。次いでブヅダは四つの崇高な真 実(四聖諦)を説く:「さて比丘たちよ,これが苦悩に関する崇高な真実(苦諦)である:誕生 は苫痛である(生苫),年老いることは苦痛である(老苦),病むことは苦痛である(病llt−1: ),死
は苦痛である(死苦),憂い,悲嘆,落胆,絶望は苦痛(愛別離苦)である。不快なものとの出 会いは苦痛である(怨憎会勘,願っているものが得られないのは苫痛である(求不得苫),要 するに貧欲の五つのカンダ(即ち,人を構成する五つの要素,五纏)は苦痛である(五陰盛iE i)。
一さて比丘たちよ,これが1?r悩の原因に関する崇高な真実(集諦)である:快楽と結びっい て転生へと導く渇愛であり,到るところに快楽を見いだす渇望である,すなわち恋情を求める 渇愛,生存を求める渇愛,非存在を求める渇愛であるc さて比丘たちよ,これが苦悩の停 止に関する崇高な真実(滅諦)である:かの渇愛を余すこと無く停止すること,放棄,捨て去 ること,解放,無頓着である。 さて比丘たちよ,これが苦悩の停止へと導く道に関する崇 高な真実(道諦)である:これは崇高な八種の道(八正道)であり,すなわち,正しい見解(正 見),正しい意図(正思),正しい会話(正語),正しい行動(正業),正しい生計(正命),正し い努力(正精進),正しい記憶(正念),正しい精神集中(正定)である」(E.J. Thomas, 1927,
p.87)と。わたしが主要な部分のほんの一部を引用したに過ぎないこの説法(転法輪)はブッ ダ自身によって獲得された洞察の記憶を誠実に反映していると,フラウワルナーは信じている
26 法華文化研究(第20号)
(Frauwallner, p.183)。かれによれば,この説法は,ブッダが正覚の夜に発見した真実を,簡 単な用語で説いている。しかしながら,それ以来かれは40年以上の間かれの教義を説き続け,
そしてかれの弟子たちに一層詳細な説明を与えることが必要となった。このようにして,解脱 への道に関して,より詳細な教示が時の経過の中でかれによって展開されたのである。
フラウワルナーの本が出版されて10年後,1963年に,アンドレ・バローがr経蔵並に古律蔵 にあらわれた仏伝文学の研究 正覚の追求から舎利弗・目連の改宗まで一』を出版した。
この研究において,バローは,正覚の追求から,ブッダの二人の有名な弟子,シャーリプトラ とマウッドガリャーヤナの改宗に至るまでのブッダの生涯の時期を扱った多くのパーリ語と漢 訳のテキストを研究している。バ・一は先学たちを批評して,かれらは成立の異なった資料を それらの年代を勘定に入れないで使っていると指摘した。かれはトリピタカのスートラ(経)と ヴィナヤ(律)の部門に属する数少ないテキストに基礎を置いて研究を進めたが,かれが使った テキストはその同部門の中にある他のものよりももっと古いとかれが考えているものであった。
バローが上述のテキストの研究に採用した手法を明らかにするには,ブッダの最初の説法
「ダルマの輪の回転の経」(初転法輪経),パーリ語でダンマチャヅカパリヴァッタスッタ(先 にわたしはそのなかの両極端,中道,四諦を取り扱っている個所を引用したのだが)に関する 彼の研究をもっと詳しく考察する必要がある。フラウワルナーは,この説法がブッダの最古の 教えを忠実に反映していると信じていた。バP 一一は,このパーリ語テキストと,他の諸テキス
トに見える,四諦には言及しないが,両極端と中道を扱っている説法の初まりの部分とを比較 して,フラウワルナーとは別の結論に達した。ひとつのテキストはその説法の最初の部分だけ を含み,五比丘のみならず不特定多数の比丘たちに対して語りかけているのである。バローは そこにこの説法がブッダの最初の弟子たちにではなく比丘たち一般に対して語りかけられたの であるという古い伝承系統の記億を見るのである。
最初の説法に言及している諸テキストを研究して,バローは両極端と中道を扱っている最初 の部分は文体と内容の両方の点で最も古いものであると結論する。しかしながら,もう一っ別 のテキストである「聖なるものに関する説教」(ariyapariyesanasutta, Majjhirna−nikaya 26)
もまた,五比丘に対して語った説法を内容としている。この説法の中で,ブヅダは五つの欲望 の対象である物質的形態(色),音声(声),臭い(香),味わい(味),接触(触)を扱い,そ
していろいろな瞑想段階を教えている。このテキスト及びその漢訳テキストの中に,四諦に関 する言及がないのは,恐らく最初の計画段階で四諦の教義を載せることに抵抗があったという
ことを意味しているばかりでなく,最初の説法の主題を知らなかったという証拠でもあると,
バローは言う。バローは,最初の説法の内容に関しては異なった複数の伝承があり,そうした 伝承は恐らく大部分の部派に存在しており,B. C.4ないし3世紀の根本分裂以前の時期に遡
ると,結論している。
バローは,著書の結論の章で,自らが選んだテキストを分析して,多くの結論を引き出して いる。それぞれのスートラ(経典)は別々の伝承に属するエピソードから成っていると,かれは 指摘している。これらのエピソードは,教義の重要な点を説明するために相互に組み合にわさ れたのである。これらのスートラは別々の部派に属しているとは言え,共通した意図を示して いる。バローによれば,このことは次の三つの方法で説明され得ることになる:
1.部派の間の相違はほとんどない。
2.初期においては他の部派からの借用が安易になされた。
3.それらは問題となっている三つの部派が,まだ別々に分派していなかった時期,すな わちB.C.4世紀の末に遡る。
そうしたスートラ(経蔵)はブッダが覚りを開くまでの一代記を記述している。ヴィナヤ(律 蔵)の仏伝は開悟から始まっている。それらが作成されたのは主として次の三つの理由からで あると,バローは信じている。
1.最初の改宗者たちの授戒式を正当化するため。
2.ブッダを称讃するため。
3.ウルヴ=一ラーやベナレスのような聖地の当地案内書から多くの資料を得ていた。
バローによれば,ヴィナヤ(律蔵)中に語られたこれらのブッダの伝記は一つの共通した源 泉に遡り,その源泉は,これらのヴィナヤ(律蔵)が3世紀後半から2世紀前半頃の三つの部 派(Theravadin, MahiSasaka, Dharmaguptaka)が形成される以前の時期に位置する。こう
した伝説の形成に関して,バローはいくつかの動機を挙げている。一っは,ブッダが教えたと 考えられる教義の或るポイントを正当化したいという願望である。他の場合には,こうした伝 説はブッダの伝記(仏伝)を直接に物語ったりしないが,重要と思われた教義を説明している のである.別の章句は再び僧伽の規律を教えるという目的にもどっている。ヴィナヤ(律蔵)
のなかに,改宗と具足戒授与の物語りを使って僧団を美化しようとする編纂者の意図を見て取 ることができる。
教義の発展段階をバローは五つに分けている。第一段階では,ニルヴァーナは,再生と生存 の連続(輪廻)の最終的停止として,苦悩からと同様,死からの解放とみなされている。仏教 本来の目標は,再生することの消滅した永遠の至福の状態である。しかしながら,その状態に 到達するために必要な方法については一言も語られておらず,従ってわれわれには,真の実在 性に目覚めることだけで十分なのか,また一連の瞑想に入るべきなのか,あるいは一連の倫理
28 法華文化研究(第20号)
規律を遵守しなければならないのかどうかも判らないのである。カルマン(業)の法則につい てさえも何もいわれていない。四諦に関していえば,伝統的な教義では第二諦と第四諦とに一 層の関心が置かれているにもかかわらず,苦と苦の滅に関する第一諦と第三諦1こ関してのみ言 及されているにすぎない。四諦は教義が展開していく過程の第二段階で始めて記述され,有名
な縁起の教義は第三段階で初めてあらわれるのである。
バローは自分が使った資料の性格を十分に勘酌しなかった。かれが研究したテキストは,文 字に書き留められる以前は,何世紀ものあいだ口頭で伝承されてきた。前述したとおり,伝承 によれば,パーリ語聖典は紀元前第1世紀に文字に書き留められた。しかしプ・・ダゴーサ(仏 音)の時代,すなわち紀元後第5世紀以前には恐らく少なくとも現在の形態をまだ取っていな かった。バロー自身も,上座部のパーリ語聖典は紀元前第1世紀のヴァッタガーマニー工の治 世にアヌラーダプラで開催された結集で恐らく改変され,均一化されたであろうといっている。
バローが扱ったテキストの漢訳に関していえば,それらはほとんどが400A. D.頃にインド語 原典から翻訳されたものである。それらのテキストが中国に将来される以前に,どのようなイ
ンド方言で書かれていたかを知ることは容易でない。幾つかの場合において,中国人翻訳者た ちは写本を手元に置いておらず,インド人仏教僧がテキストを暗記していてそれを諦え,それ を翻訳者たちが中国語に翻案したのであった。
しかしながら,第一に,これらのテキストが文字で記録されないまま数世紀の間伝承されて きたということが,それらを歴史上の出来事とする証拠として採用するには信頼性にまったく 欠けるとしているわけではない。歴史研究の素材として使用に耐えないのは,口頭伝承テキス トとしてそれらには極めて当然のことなのである。例えば,バローは,そうしたテキストは別 々のエピソードから構成されていると正しく指摘した。例えば,あるテキストが三つのA, B,C という部分に分割され得るとしよう。別のテキストはAとBだけを含んでいるとしよう。ここ でCの部分は後に増補されたのであるという結論を引き出すことは出来ない。異なった複数の
口頭伝承が同時に存在していたのである。例えば,ある伝承では甲という主題がブ・・ダの最初 の説法で説かれたと述べ,別の伝承では別の乙という主題が説かれたとしているように。甲乙 どちらの主題が歴史的真実を反映しているかを決定することは恣意によることになるであろう。
年表を作成し史的事実を描き上げることが可能なのは,編纂の時期と場所が少なくとも大凡の 確実性をもって知られる真の歴史的記録を入手したときに限られる。ここで扱っている問題の 仏教テキストの場合,すなわちパーリ語聖典及びそれに相応する漢訳テキストの場合には,素 材の性格は主要なテーマの識別を可能にするのみである。そうしたテキストはブッダの伝説の なかに歴史的核心を発見することをわれわれに許さないが,しかしそれらは初期仏教の教えに 関する多くの情報を提供してくれる。しかしながら,この情報はどの主題が最初に教えられ,
どれが後期のものかをわれわれに告げるものではない。初期の要素と後期の要素との識別を可
能にするのは,仏教以外の別の情報源が存在する場合にのみである。
バローの研究は,上座部のパーリ語テキストと漢訳の中に知られる他の部派のテキストを比 較研究して初期仏教の教義を再現しようとする従来の西欧の学者たちの試みのうち,最も意欲 的なものである。仏教に関する一般書のほとんどは今でも,最古期の仏教を記述する際に,専 らパーリ語テキストのみから引用している。バローの研究は,経典テキストの比較研究によっ て,教義の発展段階を樹立しようとするものであり,それは仏教テキストを分析的に扱った素 晴らしい実例である。こうした研究方法は近年,フラウワルナーの弟子たちであるラムベル ト・シェミットハウゼンやティルマン・フr一ッター(Schmithausen,1981;Vetter 1985,1989,
1990),そして日本の荒牧典俊(cf. deJong,1991, P.34)によって採用されている,しかしな がら,シェミットハウゼンは,フラウワルナーがしたように,そうした発展段階を,特定の年 代とかブッダ自身に帰することができるとは考えていない。他の学者たちはこうした分析的方 法を全く斥けている。シュミリトハウゼンの言葉を借りれば,彼らは「少なくともニカーヤ(経 典)の素材の大部分の基本的同質性と実質的確実性を強調している」のである。こうした学者 たちによれば,「経典テキストはブッダrl身の真正の教義をかなり首尾一貫した構図で描き出 すために採用される」のである(Schmithauzen,1990, p.1)。
かくも基本的に対立する二つの見解があるなかで,折表の道を見いだすことが可能であるか どうか疑問である。勿論,仏教の経典の中に相違や,また矛盾までもあるということは確かで ある,仏教徒自身もその事に気がついていた、一つのパーリ語テキストである『ミリンダの問』
は,恐らくもともとはインドでサンスクリvtト語またはブラークリット語で書かれていたので あろうが,そのかなりの部分は,ブッダによって成された明らかに矛盾した陳述から生じた混 乱の解決に当てられている。インドの西北部で紀元前2世紀に統治していたギリシャ人王で名 前をメナンドロスといったミリンダ王によってナーガセーナ比丘に投げかけられた82の難問の 形でそれらは提出されている(cf. Norman,1983, pp.110−112)。例として先に記した個所を引 用してみよう。即ち,ブッダは往古の道,過去のブッダたちが遵った古くからの道を見たと宣 言したそれである。ミリンダは世尊も次のようにいったと述べる。「比丘たちよ,如来,応供,
正覚老は日覚めていなかった道に「]覚めた人である」(Mi1. P.217;Horner,1964, P.11)と。
ミリンダによれば,これらの陳述のうちの一つは誤りのはずである。ナーガセーナは蒙伏せ ず,どちらの陳述も正しいと言う。ナーガセーナによれば,ブ・・ダは自身が智慧の限で陰想し ていた時に往古の道を発見した故に,往古の道を見たと言ったのである。かれがその這を実践 可能にしたから,かれはn分が口覚めていなかった道に目覚めたと言ったのである。われわれ の日からすれば,ナーガセーナの解決はむしろ言葉の遊びである。もしわれわれが原典分析の 手法に従うならば,ブ…ダは目覚めていなかった道に目覚めたという陳述は経典の中に3回発
30 法華文化研究(第20号)
生していることがわかる。一個所では,この陳述はブッダ自身によってなされ(S. m,p.66),
他の二個所では,ブッダの二人の弟子シャーリプトラとアーナンダとによってなされている
(S.1,p.191;M.皿,p.8)。これらの内の二個所では,次の言葉が続く。「しかしこの弟子たち は今,かれの後を追って道に随順するものである」(Horner,皿,1959, PP. 58−59)。これが本 来の文脈であり,この文脈の中でブッダは目覚めていなかった道に目覚めたと言われることが 可能なのである。最初の個所では,この一節の最後の部分は省かれ,その陳述はブッダ自身に 帰せられるようになった。しかしながら,それはまったく反対でもありうる。ブッダは異なっ た状況でこうした明らかに矛盾した陳述をなした。目覚めていなかった道に日覚めたという陳 述が後にシャーリプトラとアーナンダに帰せられ,そして今弟子たちはブーtttダの後からその道 筋1こ従ったという言葉で補ったのである。
この例は原典分析の難しさを示している。われわれは仏教経典中に相違と矛盾があるのだと いう事実を認めなければならない。アソーカ法勅の一つに,「善く語られたものは何であれ世 尊ブt ダによって語られた」という一節がある。パーリ語のスッタ(経)の中で,ウッタラ比 丘が神≒の王であるサッカ(帝釈天)に,「善く語られたものは何であれ全て世尊の言葉である」
(Weller,1957;Collins,1990, p.94)と説明している。 この成句に関する最新の研究で,ステ ィーヴン・コリンズは次のように書いている。注日すべき点はここでは単純に,ウソタラが自 分の説くものはブv7ダに由来するが,大乗的意味で,すなわち大乗的意味に従えば「永遠のダ ルマの真実は歴史的にみていかなる出所のテキストであれ,そこに顕示されているかも知れな いのであるから」(Collins, p、94),それで自分の見解を解釈することになんら文法的には誤りが ないと言っていることである,と。ブソダの言葉はそれらが文字で書き留められて仏教徒の経 典となるまでには,何世紀もの間にわたって口頭で伝承されたということを人は忘れてはなら ない。仏教徒の伝承によれば,英語で Councils と呼ばれる会合(結集)が時・ あった。パー
リ語ではサンギーティであり,それは「歌うこと」或いは「合詞すること」を意味する。われ われが手にしているこれらの結集に関する記述は当てにはならないが,それらが開催されたと いうことは確かにありそうなことである。時が経過するにしたがって,読涌されてきていた諸 テキストの信頼性を決するための規準を設定することが必要となってきた。これらの基準にし たがって,テキストはスートラ(経)とヴィナヤ(律)の精神,及び一般的に仏教のグルマ(法)に
も矛盾しないことが必要であった(Lamotte,1947)。これらの規準が大幅な自由裁量を許して いたこと,かつ,あるテキストが正当でないと斥けられる以前に,然るべき強力な理由のあっ たことは明らかである。多分,いくつかの部派は他の部派以上にこれらの規準を適用するのに 厳格であった。かれらのス・ タが完壁な集録で保存されてきたのは,上座部の部派の場合だけ である。他の部派の体系からは,サンスクリソト語で書かれた断簡が残されているにすぎない。
膨大な量のテキストが漢訳で保存されてはいるが,しかし西欧語に翻訳され,またこれに相応 するパーリ語テキストに対比されたものはその中のほんの数点にすぎない。これらのテキスト の全てを詳細に研究し,そしてそれらの一致点を明確にすることは将来の課題であろう。すで になされた研究から,一つのスッタの異版間にある相違は,カズンズが言うように,「ほとん ど重要性をもたない事柄一スッタの位置,それぞれの話者の名前,或いは事件発生の細かな 順序のごとき記事において最も顕著である。そうした相違の中で,教義上の,或いは部派の相 違に基づいているものは極ごく稀である」(Cousins,1983, P.5)と思われる。もし将来の研究 がこの結論を正しいと証明するならば,別ノ・の経典テキストの中に見いだされる教えの基本的 な相違と矛盾は,諸の部派が形成されるのに先立つ時期に,すでに存在していたということに なろう。すでにわれわれが見てきたように,これらの相違に大きな重要性を伺 する分析派と,
経典テキストの同質性を強調する「一致派」一適切な表現が無いのでこんな言葉を使うので あるが との間には基本的見解の相違がある。もしひとが両極端を避けるならば,そのとき ひとは,シュミットハウゼンが言う「われわれが現在もっているような経典テキストから,ブソ ダ独自の教義はさておき,最初期の仏教の教義すら復元することの可能性をすこぶる疑ってい る」(Schmithausen,1990, p.2)学者たちによって進められた懐疑的な見解を採用せざるを得 ないのであろうか。
厳密に言えば,懐疑論者は確かに正しい。かれらがいうような正確な言い回しで,初期の仁、
教の教義を再構築できる十分な証拠があるわけはない。しかしながら,同じ一つの教義を再三 再四にわたって.説いているうちに,一致していく多くのテキストがあるのも事実である。こう
した教義が仏教の早い時期に発生したことに大いにありうる。反対論者によってま用偏厄的と も,保守的とも,伝統的とも,因習的とも呼ばれているこの見解ほ,極端な見解を避ける中庸 な道を意味する。経典テキスト中に見いだされる矛盾を考慮に入れる時,経典テキスト問の同 質性を信じることは出来ない。さらにまた,それらは多く後期の増補を含んでいることは疑い ない。逆に,最初期の仏教の教義についてに何も言い得ないと主張するのは批判的に過ぎるで あろう。われわれはブッダの心を読むことば出来ないが,しかしかれがもしかれの教えによっ てかれの聴聞者たちに大きな衝撃を与えなかったのであれば,かれは仏教の創始者として敬慕 されはしなかったであろう。経典の文書のなかに見いだされるような仏教の基本的考え方はか れによって宣言されたものであろう。そしてそれはかれの弟子たちによって伝承され発展させ
られ,そして最終的に,固定した決まり文句に成文化されたものと思われる。
ブ・・ダの教えはいたるところで比丘たちによって説かれ,そして徐ノ;に異なった部派が牛じ た。テキストは口頭で収集され,それを最終的に書き留めたのはこうした部派であった。中心
32 法華文化研究(第20号)
的権威を失って異説が聖典のなかに出てくるのは驚くべきことではなく,
に新しく展開するようになるのはまさに大乗の初まり以後のことである。
目に見える形で完全
初期の仏教を研究するには,仏教が興起した背景を吟味することが碇要である。仏教聖典は シニラマナ(Sramana)たちの学派が多くあったことを述べている。ディーガ・ニカーヤの冒 頭のスー tタであるブラフマジャーラスヅタ『梵網経』は仏教徒が遠離しなければならない62の 思想上の異見を数え挙げている(Norman,1983, P.33;あるジャイナ教のテキストは363の思 想上の異見と記しているJacobi,1895, P.385)。それらの中で聖典を伝承している学派はジャ イナ教だけてある。ジャイナ教は仏教聖典の中に何回か触れられているが,仏教はジャイナ教 聖典1こは滅多に記されていない(Jacobi,1895, p.414)。したがって,ジャイナ教の方が仏教 よりも古いということが言えよう。ジャイナ教と仏教の教義にはいくつかの点で著しく類似し ている。両者はともにアヒンサー(不殺生)の重要性を強調し,これはジャイナ教ではより徹 底したものとなっている。アヒンサーの教義は,動物の生け蟄が非常に重要な役目を果たして いたバラモン教の核心に衝撃を与えた。ジャイナ教と仏教の両老はバラモン教が教えるような 祭式による清めを否定した。あるジャイナ教テキストは宣言する。「もし完成というものが水 に触れることでもって獲られるならば,魚や亀,海蛇,鵜,カワウソ,それに水中に住む悪鬼 というような多くの水中の生物たちは完成に達するであろう」(Jacobi,1895, pp.294−5)と。
同じ発想が仏教のテキストであるテーリーガーター『長老尼偶』のなかにある。「あなたに実際 に次のように言う人は無知であることを知らないのだ。『真に,ひとは沐浴により邪悪な行為 から解放される』とcさて,(そうであるならば)蛙も亀も皆天界に赴くであろう。アリゲー
ターもクPコダイルも,そしてその他の水中に棲むものもである」(Norman,1971, p.26;see also notes on 87−91, p.81;Ud.1,9)と。ジャイナ教徒と仏教徒との両者は,通常バラモンと
呼これるものは真のバラモンではないと宣言している。ジャイナ教テキストから数行を引用し てみよう。「愛欲,憎悪,恐怖から放免されたひと,(そして)黄金を磨くが如く,火で清める が如く,自分に(磨きをかけるひと),かれをわれわれは〈バラモン〉と呼ぶ」また「人は行為 によって,バラモン,あるいはクシャトリヤ,あるいはヴァイシャ,あるいはシュードラとな る二(Jacobi,1895, PP.138−140)。そして仏教テキストであるスッタニパータ『経集』から,
二激情,憎悪,慢心,偽善を,あたかも錐の先から芥子の種を(落とすように)遮脱したひと,
そのひとをわたしはバラモンと呼ぶ」そして「生まれによってひとはバラモンとなるのではな く;生まれによって非バラモンとなるのでもない。行為によってひとはバラモンになるのであ り;行為によって非バラモンとなるのである」(SN 631 and 650;Norman,1984, pp.106−107)。
ブ・・ダは,自分は往古の道,先の時代のブソダたちが遵った太古の道を見たと宣言した。あ
当初の仏教(de Jong・久留宮) 33 るジャイナ教テキストは宣言している。「わたしから学べ,心を集中して,ブッダたちによって 示された道を,それはそれに遵う比丘を導く,あらゆる苦悩の終息へと」(Jacobi,1895, p.203)。
ジャィナ教の聖典と仏教の聖典とに共通の基盤があるばかりではない。最近の研究は,同一の 偏頸が両方の宗教の聖典にあると言うことを示している。これらの偶頒はジャイナ教と仏教の 経典のうちの最古層に属している(Bell6e,1980,1983:Nakamura,1983;Yamazaki,1990)。
中村は2巻からなる初期仏教の思想に関する研究の中で,仏教経典のなかのより古い偶頸に基 づいて仏教の教えの最古の形を復元しようとした(Nakamura,1970−71)。当然のことながら,
この方法に反対する異論が唱えられた(Murakami,1979)。これらの偶頒の多くが仏教以外の テキストのものと平行しているという事実は,それらが遊行せる修行者であるシュラマナ(沙 門)たちの間に当時流行していた偶頚の集録に含まれていたことを物語っている。これらの偏 頚のなかの幾つかはまたマハーバーラタのような別のテキストの中にも見いだされる。したが って,ジャィナ敦徒と仏教徒が共有していた思想,及びジャイナ教と仏教の聖典に伝えられて いる沙門たちの詩作を研究すれば,ブッダ時代の沙門たちの思索と実践をある程度まで知るこ
とができる。
ブッダ自身の教えの内容を,そのとおりに,あるいは少なくとも正確に知ろうなどというこ とは決して出来ることではなかろう。しかしながら,初期仏教の基本的な考え方はパーリ語や サンスクリット語,漢訳の経典の中に頻繁に繰り返し述べられているので,それらはわれわれ にとって,たとえブヅダ白身の教えではないとしても,少なくとも初期の仏教の教えを理解す
るための最良の手引となっているのである。
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