1 桑野:朝鮮顕宗代の朝清関係と望闕礼
久留米大学文学部紀要国際文化学科編第三十六号(二〇一九)
【キーワード】朝鮮後期、朝清関係、顕宗、康熙帝、望闕礼、習儀、丁卯・丙子胡乱、明清交替、対明義理論、宋時烈
【目 次】はじめに一 顕宗即位当初の望闕礼(1)清使の入京と望闕礼の準備(2)政務に優先する習儀二 顕宗代前半期の朝清関係と望闕礼(1)康熙帝の即位と朝鮮政府の対応(2)南明政権の崩壊と朝鮮(3)清使の入京と儒者官僚の対清観 ①弘文館修撰金萬均の辞職 ②清使入京の弊害三 顕宗代後半期の朝清関係と望闕礼(1)安秋元事件とその波紋
①朝鮮人逃亡者隠匿をめぐる清使の査問
②顕宗におよぶ「罰銀の辱」(2)萎縮する対明義理論(3)清使接待儀礼を欠席した右議政洪重普 (4)三藩の乱前夜むすびはじめに
朝鮮王朝(一三九二~一八九七年)にとって一七世紀の明清交替(華夷変態ともいう)とは何だったのか。朝鮮国王と儒者官僚の対明観と対清観を、宮中儀礼の側面から照射することができるのではなかろうか。たとえば、第一九代朝鮮国王粛宗(在位一六七四~一七二〇年)は粛宗三〇年(一七〇四)三月一九日に王宮昌徳宮の後苑(王室庭園)に祭壇を築き、明最後の皇帝である毅宗崇禎帝(在位一六二七~四四年)を祀った。まさに崇禎帝の六〇年目の命日であった。翌年に粛宗は大報壇と命名されたこの祭壇で神宗萬暦帝(在位一五七二~一六二〇年)を祀り、以後、この祭祀儀礼が定着する。萬暦帝が壬辰倭乱(文禄・慶長の役。一五九二~九八年)の際に朝鮮に援軍を派遣したことは周知のとおりである。朝鮮国王は大 ダイチン清国 グルンと宗属関係をむすびながらも、滅び去った明に対する恩義(「再造の恩」という)を宮中儀礼という装置によって文武官僚の前で表明していたのである )1
(。しかし、この装置の原型は一四世紀後半の元明交替期に求めることができるのではなかろうか。そこで、筆者は望闕礼と呼ばれる朝鮮の対明遥拝儀礼に着目した。高麗第三一代国王恭愍王(在位一三五一~七四年)は一三七二年冬至に王都開京(ケソン)の宮殿にて文武百官を率い、明の太祖洪武帝(在位一三六八~九八年)を遥拝して万歳三唱した。一三九二年に朝鮮王朝を建国した太祖李成桂(在位一三九二~九八年)も正月元旦と冬
朝鮮顕宗代の朝清関係と望闕礼
桑 野 栄 治
2 久留米大学文学部紀要 国際文化学科編第36号
至にこの対明遥拝儀礼を実践している。成宗一六年(一四八五)に施行された朝鮮王朝の基本法典『経国大典』に「正・至・聖節(=皇帝の誕生日)・千秋節(=皇太子の誕生日)に殿下は王世子以下を率いて望闕礼を行う」と明記される )2
(ように、朝鮮国王は名節のたびに王都漢城(ソウル)の景福宮勤政殿にて大明皇帝に忠誠を誓うとともに、文武百官にみずからの王権を可視化する舞台装置として望闕礼を実施していたのである )(
(。とりわけ宣祖(在位一五六七~一六〇八年)は壬辰倭乱の最中にあっても望闕礼を実施し、後金の台頭後に明・後金との二重外交を展開した光海君(在位一六〇八~二三年)も明との君臣関係を確認する望闕礼を執り行っていた )(
(。ところが、一七世紀半ばの明清交替を契機に朝鮮国王による望闕礼は変容を余儀なくされる。二度にわたる後金(清)軍の侵攻(丁卯・丙子胡乱。一六二七・三六~三七年)のすえに仁祖(在位一六二三~四九年)が南漢山城を出て太宗ホンタイジ(在位一六二六~四三年)に降伏すると、本来は大明皇帝と朝鮮国王の君臣関係を確認する宮中儀礼が、朝鮮の王世子(のちの孝宗)と文武百官が漢城滞在中の清朝の使節とともに大清皇帝に忠誠を誓う儀礼に変質したのである。さらに孝宗(在位一六四九~五九年)代にも清使の漢城訪問が正月元旦と重なったため、朝鮮の王宮で文武百官が望闕礼を執り行った事例を二件発見した。とりわけ、清使の訪問に備えて文武百官が望闕礼のリハーサル(習儀という。通常二回)を行う記録が頻出することも明らかになりつつある )(
(。さて、韓国の歴史学界に眼を転じると、たとえばユンソッコ氏によれば、明清交替後には仁祖一六・一七・二七年と英祖元年(一七二五)に望闕礼が実施されたというが、『朝鮮王朝実録』の記録のみに頼ったうえ、史料の誤読もある
)(
(。また、桂勝範氏は大報壇に執着した朝鮮後 期支配エリート層の「停滞性」を論じるが、高麗末期に始まる望闕礼と一八世紀の大報壇祭祀との連続性如何については語っていない。桂勝範氏によれば、粛宗三〇年三月七日に粛宗は備忘記(王命)を下して「宣武祠と愍忠壇に官員を遣わして祭祀し、望闕礼を行うことによって明国が滅んだ日を哀悼していた当時の慣行に不満を表示し、崇禎帝に対してみずから祭祀しようとする心情をあらわした」という
)(
(。しかし、丙子胡乱後の仁祖による望闕礼は「当時の慣行」ではなく、仁祖代における望闕礼の実施状況についても何ら説明がなされていない )(
(。筆者の喫緊の課題は、明の皇帝のために大報壇祭祀を挙行した粛宗と文武百官が、明清交替後に変容した望闕礼をいかに運用したかについて解明することにある。東アジアの国際環境が変貌した一七世紀朝鮮の宮中儀礼を素材とすることにより、朝鮮王朝の対明観と対清観を可視化することが可能となるであろう。そのためには一七世紀の朝清関係の推移を注視しつつ、当該期における朝鮮儀礼研究の空白を埋める必要がある。たとえば崔韶子氏は、清が中国支配を完成させる康熙年間(一六六二~一七二二年)になると、「朝鮮はすでに確保され、そしてすでに安定した忠実な朝貢国家として認識されるようになった」と結論づけた )(
(。朝鮮では顕宗(在位一六五九~七四年)から粛宗の治世年間にまたがる長期間であり、「忠実な朝貢国家」と位置づけることが可能かどうかも含めて検証しなければなるまい。顕宗代前半期には南明政権崩壊の情報が朝鮮にもたらされ )(1
(、とりわけ顕宗代後半期になると朝鮮人逃亡者の隠匿をめぐる安秋元事件 )((
(につづき、済州島に漂着した南明船乗組員の送還論議 )(1
(も発生しており、朝清関係は依然として不安定要素を抱えていた。そこで本稿では如上の課題を念頭に、基本史料の『朝鮮王朝実録 )(1
(』『承政院日記 )(1
(』のほか、議政府官員の動静を記録した『議政府謄録』、
( 桑野:朝鮮顕宗代の朝清関係と望闕礼
議政府をしのぐ最高議決機関となった備辺司による『備辺司謄録 )(1
(』、礼曹で作成された『勅使謄録』『朝賀謄録 )(1
(』など各官庁の謄録類を活用しつつ、顕宗代における望闕礼の実施状況について整理・分析することにしたい。
一 顕宗即位当初の望闕礼(1)清使の入京と望闕礼の準備孝宗一〇年(一六五九)五月四日に孝宗が昌徳宮寝殿の大造殿にて四一歳で急死すると、五日後の五月九日、一九歳の嫡男顕宗が仁政門にて即位し、文武百官の賀礼を受けた )(1
(。いまだ清の承認を得ていない「朝鮮国権署国事」顕宗は六月に外戚の右議政鄭維城を告訃兼請諡承襲使として北京に派遣する )(1
(と、一〇月初旬には清より弔祭・冊封の両使出来との報告が届き、前兵曹判書洪命夏(実兄の洪命耉は丙子胡乱で殉死)が遠接使に任じられた )(1
(。北京では弔祭使の工部尚書郭 グォコ科一行と冊封使の文華殿大学士蒋 チャンヘデ赫徳一行が九月下旬に漢城に向かって出発している )11
(。一〇月二四日には遠接使洪命夏の報告を受けた迎接都監が、清使の入京は来月の一一月八日になるであろうと上奏し、関係部署への周知を顕宗に依頼した )1(
(。この日、司憲府持平金萬基(礼学者金長生の曾孫)が近侍機構である弘文館の副修撰に任じられると、「彼の人の来るに値う毎に、班行に随参するを得ず」との事情により、みずから解任を申し出ている )11
(。父金益兼は丙子胡乱の際に江都(江華島)で右議政金尚容(斥和派金尚憲の実兄)とともに殉死しており、のち顕宗二年に金益兼は金尚容らを祀る江都の忠烈祠(仁祖二〇年創建、孝宗九年賜額)に従享された )11
(。金萬基にとって「彼の人」つまり清使との接待儀礼に参席することは苦痛であったに相違ない。はたして一一月八日、清使一行が敦義門(西大門)外の迎賓館である慕華館に到着し、 世祖順治帝(在位一六四三~一六六一年)より亡き孝宗に諡を「忠宣」と賜った )11
(。むろん、宗廟に奉安する神主(位牌)に清から賜った二文字の諡を使用しないことは、すでに仁祖への賜諡後、孝宗と領議政李敬輿・右議政趙翼とのあいだの密議によって決定していた )11
(。朝鮮政府が懸念したのは、清使の入京が名節の冬至と重なるのではないかということであった。まずは礼曹保管の『勅使謄録』に残る二件の記録をみてみよう。A一、曹単子、迎勅及冬至望闕礼習儀、初度来十一月初四日、二度初七日、議政府良 ニ中兼行事啓下矣、迎勅吉日以初八日已為停當云、而其前各様習儀、勢難排日挙行、迎勅及望闕礼初二度習儀、初四日並為兼行、迎勅三度習儀、則正日只隔一日云、前頭日字皆有妨碍、不得已以初七日定行、(中略)迎勅・吊祭各日習儀時、床卓排設等事、令都監検飭挙行何如啓、依所啓施行為 セヨト仰セラレマシタ良如教、B一、曹啓曰、自前勅使在館時、若値節日、自上間或有闕中、率百官行望闕礼、勅使則率都監官員、行礼於館所之時矣、今月初九日冬至節日、令都監預為定奪、依此例挙行、而闕中親行一款、則依前例自政院臨時稟旨挙行何如、伝曰、允、(順に『勅使謄録』第五、己亥一〇月三〇日・一一月初四日条。史料中の波線は吏読。以下、同じ)一〇月三〇日の史料Aは冬至の望闕礼の習儀に関する奏案である。来たる一一月九日冬至の節日に清使が漢城に滞在中であろうと想定した礼曹は、顕宗に望闕礼の実施について上奏した。これまで清使が漢城南部会賢坊の南別宮(明・清使節の留館所。現ソウル市中区小公洞のウェスティン朝鮮ホテル)滞在中に名節を迎えた場合、朝鮮国王は王宮の正殿で文武百官を率いて望闕礼を行い、南別宮では清使が迎接都監の官員を率いて行礼することになっていたからである )11
(。望闕礼の
( 久留米大学文学部紀要 国際文化学科編第36号
習儀は迎勅の習儀とあわせて初回は来たる一一月四日に、二度目は七日に議政府にて実施するよう決定していたが、冬至当日までの日程が厳しいことから一一月四日にまとめて実施するよう要請し、顕宗の裁可を得ている。永世遵守の基本法典である『経国大典』に「詔勅を迎うるとき及び正・至・聖節・誕日の賀礼に、百官は期に先んじて儀を習う」とあるように、文武百官は事前に習儀を行い、名節の宮中儀礼に備えなければならない )11
(。次に一一月四日の史料Bによれば、清使の行礼については前例を参考に事前に迎接都監で決定して望闕礼を挙行することとするが、王宮で顕宗がみずから望闕礼を実施するか否かについては、「闕中親行の一款は、則ち前例に依り政院より時に臨 およばば旨 おおせを稟 うけて挙行するは何如」とあり、九日の冬至直前に王命を取り次ぐ承政院が上奏して顕宗の指示を待つこととなった )11
(。すでに孝宗三年冬至には百官が早朝より議政府にて二度の習儀を実施したのち、当日の出御については承政院が直前に国王の意向を伺うよう、礼曹が上奏して裁可を得た前例が『朝賀謄録』に残る )11
(。顕宗としても現実的な礼曹の提案に異論をはさむ余地はなかった。清使が漢城滞在中であれば南別宮での望闕礼はやむを得まいが、王宮で顕宗が率先して望闕礼を挙行する必要はあるまい。そもそも、顕宗は一〇月下旬に孝宗の亡骸を京畿楊州の寧陵(太祖健元陵の西岡。のち顕宗一四年に驪州の世宗英陵の東方に遷葬)に葬ったばかりであり )11
(、冬至には埋葬後の喪祭として七虞祭を執り行わなければならない。埋葬当日に顕宗は位牌を昌慶宮の文政殿に奉安して初虞祭を執り行い、翌日には再虞祭を行っていた )1(
(。そのため、顕宗としては凶事の七虞祭と慶事の望闕礼を同日に王宮にて実施することは躊躇されたに相違ない。一方の清使も弔祭と望闕礼を同日中に実施することは困難であろう。そこで礼曹は、清使入京後に迎接都監を介して 日程調整を願い出るよう、顕宗に提案している )11
(。冬至が迫ると、朝鮮政府の動きはあわただしくなる。一一月七日に礼曹は、清使が南別宮で望闕礼の実施を希望した場合に備え、前例により皇帝の象徴である闕牌(「闕」字を刻んだ位牌)と黄儀仗など会場の設営を当該官庁に指示するよう要請して裁可を得ている )11
(。次に提示するのはいずれも冬至前日の記録である。C①一、政院啓曰、以礼曹啓辞、明日冬至望闕礼、政院臨時稟処事啓下矣、(自)前雖勅使入京之日、毎以権停例為之矣、明日望闕礼亦依前例 只令百官行礼事分付何如、伝曰、允、(『勅使謄録』第五、己亥一一月初八日条)C②金寿恒以迎勅 (接)都監言啓曰、明日館所望闕礼行不行、問於大通官、則答以早朝以弔祭進去、望闕礼則不行云矣、敢啓、伝曰、知道、(『承政院日記』第一五八冊、顕宗即位年一一月初八日乙丑条)冬至の望闕礼の挙行に関しては、承政院が直前に上奏して対処するよう決定していた(史料B)。そこで承政院は、明日の冬至は前例により百官に略式の権停礼(権停例ともいう)を命ずるよう進言し、顕宗の裁可を得たのである(史料C① )11
()。ところが、迎接都監の報告を受けた左副承旨金寿恒(金尚憲の孫)の上奏によれば、南別宮に滞在中の清使は早朝より弔祭を執り行うため、望闕礼は行わないとの回答を清使随行の大通官(朝鮮語通事)李一善 )11
(を介して得たという。顕宗は「知道せり(相判った)」と事務的に裁可を下している(史料C②)が、迎接都監の報告に安堵したであろう。この年正月下旬に麟坪大君(仁祖の三男)宅の弔問に訪れた清使の内大臣(皇帝の側近官)馬 マルジハ爾済哈一行も、着用すべき冠帯を準備していないという理由から正月二九日の順治帝の聖節(本来は正月三〇日)を祝賀する望闕礼を南別宮にて行うことはなかった )11
(。
( 桑野:朝鮮顕宗代の朝清関係と望闕礼
一一月九日冬至の実録記事には「上、七虞祭を親行す」とあるように、顕宗が亡き孝宗の魂殿(国喪三年間、位牌を奉安する殿閣)である敬慕殿にてみずから喪祭を行ったと記すにすぎない )11
(。また、『承政院日記』には「七虞後、政院、大王大妃殿に問安す。答えて曰く、知道せり」とあり、その後あらためて承政院と二品以上の政府高官が昌徳宮に住まう大王大妃(仁祖継妃の荘烈王后趙氏)につづいて王大妃(孝宗妃の仁宣王后張氏)・顕宗そして中宮(明聖王后金氏)に順次、単子(礼物の目録)を捧げて冬至の祝賀に代えたという )11
(。『備辺司謄録』『議政府謄録』は顕宗即位年の記録を一切欠くため、文武百官が昌徳宮にて略式の望闕礼を行ったかどうかは判然としない。ただ、かつて孝宗四年正朝に南別宮で迎接都監が清使につづいて望闕礼を実施し、慶徳宮(のちに慶熙宮と改称)の正殿である崇政殿では議政府が行礼しており、さらに孝宗九年正朝にも南別宮で迎接都監が清使とともに望闕礼を実施し、昌徳宮正殿の仁政殿では百官が行礼していた )11
(。この二件の事例から推せば、清使入京中の顕宗即位年冬至にも孝宗代の前例を踏襲し、百官が王宮にて略式の権停礼により望闕礼を実施した可能性は排除できない。しかし、弔祭を優先する清使が南別宮にて望闕礼を行わないのであれば、顕宗はもちろん百官も冬至の望闕礼を行うことはなかったであろう。こうして一〇日間あまり漢城に滞在した清使一行は一一月一九日に帰国の途につき、顕宗も慕華館に行幸して漢城郊外まで彼らを見送った )11
(。翌年正月には王族の益平尉洪得箕を正使、大司諫鄭知和(領議政鄭太和の従弟)を議政府右参賛に臨時昇格させて副使、司憲府持平の経歴を持つ李元禎を書状官とする謝恩使一行を北京に派遣し、亡き孝宗のための弔祭と諡号の下賜に加えて顕宗に対する朝鮮国王冊封に謝意を表している )1(
(。 ところが、冬至にはいまひとつ朝鮮政府を混乱させる案件が発生していた。吏曹判書宋浚吉が父母の墳墓の遷葬のため辞職して帰郷したいと上疏すると、翌日に弘文館副提学兪棨は「此の人若し退くを聞かば、則ち宋時烈も亦た焚黄を以て暇を乞い下去せんと欲す」と困惑した。修撰趙胤錫もまた「此の新政の初めに當たり、此の人決して帰るを許すべからざるなり」と陳情し、顕宗に宋浚吉の帰郷を引き留めるよう進言している )11
(。かつて孝宗八年一二月に清使出来との報告に接した宋浚吉が帰郷を願い出ると、孝宗は宋時烈の同調を憂慮して慰留させたことが想起されよう )11
(。もちろん、今回の宋浚吉の帰郷は弔祭使・冊封使の入京と直接的な因果関係は認められない。しかし、顕宗の勉留にもかかわらず、清使帰国後の一二月一〇日に左参賛宋時烈は帰郷し、両宋(宋時烈と宋浚吉)と同じく金長生の門人である掌楽院正李惟泰もまた八〇歳になる老母の奉養を理由に帰郷した )11
(。
(2)政務に優先する習儀年末の一二月二二日に顕宗は、後苑で起きた落雷と宮中の異変により昌徳宮を避けて慶徳宮へ移御し、孝宗の魂殿も慶徳宮の啓祥堂へと移された )11
(。四日後の一二月二六日になると、顕宗がはじめて迎える正朝に向けて望闕礼の準備が進められた。『承政院日記』によれば、右副承旨李殷相が望闕礼の習儀に参席すべく、退出を願い出て顕宗の許可を得ている )11
(。しかし、今回は清使の入京がないうえ国喪期間であり、顕宗が順治帝のために百官を率いて正朝の望闕礼を実施する必要はあるまい。翌日に礼曹の報告を受けた右承旨金寿恒は「来る正月初一日、宗廟以下、各陵殿正朝祭を十七処に行い、初九日、魂殿・宗廟・敬慕殿・寧陵に春享大祭を行う」ため、祭官の補充を要請している )11
(。おそらく顕宗は祖宗のための正朝祭を優先し、望闕礼は前例により「権 かりに
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停めよ」と暗に指示したに相違ない。正月三〇日は順治帝の聖節であるが、習儀に関する記録さえ確認できず、聖節当日にも顕宗が望闕礼を実施した形跡はない。一〇月下旬には先頃謝恩使の任務を終えて北京より帰国していた益平尉洪得箕と礼曹参判鄭知和が上疏して辞職を請い、備辺司もこれを妥当と判断した )11
(。謝恩使一行が帰国の際、鳳凰城の柵門外にて馬四匹を購入した従者がいたため、礼部より詰問の咨文が届いていたからである。備辺司は礼部の指示どおりに従者を杖刑六〇のうえ流配とし、使臣の両名は免職処分とする旨を清に報告することとした )11
(。そして一一月になると、冬至の望闕礼に関する記録が以下のとおり三件残っている。D(南龍翼)又啓曰、小臣冬至望闕礼初度習礼 (儀)進去、下直、伝曰、知道、E李正英啓曰、明日冬至望(闕)礼二度習儀相値視事、頉稟、伝曰、知道、F李慶徽啓曰、明日冬至習 (望闕)儀礼、依近例為之之意、敢啓、伝曰、知道、(順に『承政院日記』第一六五冊、顕宗元年一一月一三日甲子・一六日丁卯・一九日庚午条)まず、左承旨南應翼が冬至の望闕礼の習儀のために退出している(史料D)。ついで、明日一七日は二度目の習儀にあたることから、事前に都承旨李正英が政務の一時停止を要請する(「視事頉稟」という。「頉(탈)」は朝鮮国字で特別な事情の意)と、顕宗も慣例により裁可を下した(史料E)。百官による望闕礼の習儀は政務執行に優先する業務であり、同僚の南應翼が一七日の二度目の習儀のために議政府に赴いたことも、当日の記録で確認することができる )11
(。このように望闕礼の習儀が忠実に二度実施されているのは、先の謝恩使の馬匹購入事件が遠 因であったと思われる。そのうえ、進鷹官の急報により今後は手鷹の貢献を免除するとの礼部の咨文が届くとともに、口頭ながら清の朝鮮語通事李一善より皇后(側室のドンゴ氏。孝献敬皇后と追尊)が死去したため、モンゴル諸王が弔慰のため続々と入朝しているとの情報も得ていた )1(
(。しかし、冬至の前日になって同副承旨李慶徽は「明日冬至の望闕礼、近例に依り之を為すの意、敢えて啓す」と上奏し、顕宗の裁可を得た(史料F)。「冬至習儀礼」は「冬至望闕礼」とすべきところを書写官が誤ったのであろう。李慶徽がいう「近例」とは、前年冬至に清使が入京した際に想定していた略式の権停礼ではあるまい。実際に冬至当日の一一月二〇日は承政院・玉堂(弘文館)のほか二品以上の高官が慶徳宮に住まう大王大妃・王大妃・顕宗そして中宮に順次、単子を捧げて問安し、冬至を祝った )11
(。清使の出来に備えて百官は事前に二度の習儀を執り行ったが、清使の入京がないのであれば、名節の望闕礼を実施する必要はなかろう。顕宗二年正朝は前年の冬至と同様、議政府・承政院・弘文館が顕宗以下、大王大妃・王大妃・中宮に順次、問安したとの記録が残るにすぎない )11
(。実録記事によれば、癸亥政変(仁祖反正ともいう)で功績をあげた豊安君趙潝が死去している )11
(が、靖社功臣三等の死が正朝の宮中儀礼に直接影響したとは考えられない。『承政院日記』には前年暮れの一二月下旬に次のような記録がみえる。G政院啓曰、(中略)而但明日是望闕礼習儀、自前習儀、則視事例為
頉稟、而獄囚疏決一日為急、前頭歳下、吉日無多、何以為之、敢稟、伝曰、此非視事之比、明日挙行似無不可矣、(『承政院日記』第一六五冊、顕宗元年一二月二一日壬寅条)承政院は来たる正朝に備えて望闕礼の習儀に参席する予定であり、「前より習儀せば、則ち視事は例として頉稟を為す」慣例も承知してい
( 桑野:朝鮮顕宗代の朝清関係と望闕礼 た。「視事頉稟」の慣例は一カ月前の冬至の史料Eにみたとおりである。ところが、習儀の日程が刑曹による罪人の結審と重なったため、顕宗は「此、視事の比に非ざるに、明日の挙行、不可も無きに似たり」と習儀の挙行にやや含みを持たせる回答をした(史料G)。政務に優先する望闕礼の習儀を国王みずから停止させるわけにはいかず、かといって年の瀬のこの時期に吉日が残り少ないことも事実である。その翌日に習儀に関する記録はなく、顕宗臨御のもと律に照らして罪人の量刑処分が確定している )11
(。それゆえ、習儀はいうまでもまなく正朝の望闕礼も停止されたと考えられる。法制史上、宗廟大祭の前日と当日のほか望闕礼の習儀は政務に優先せよ、との王命が下るのは二年後の顕宗三年のことである )11
(。『経国大典』の増補版として英祖二二年に刊行された『続大典』の規定から推せば、百官は習儀の終了後には通常業務に戻っていたと考えてよかろう )11
(。
二 顕宗代前半期の朝清関係と望闕礼(1)康熙帝の即位と朝鮮政府の対応顕宗二年正月二二日には右承旨閔熙が聖節の望闕礼の習儀のため、退出を願い出て許可された )11
(。朝鮮政府はひきつづき皇后の訃報を通達する清使の入京に備えていたのであろう。ところが、まもなく義州府尹李時術より皇后ではなく順治帝の訃報が届き、工曹判書金南重を遠接使として平安道義州へ派遣することにした )11
(。備辺司はホンタイジが死去した「癸未年」(仁祖二一年)の前例を参考に接待儀礼の準備に着手するとともに、承政院には当該年の日記を搬出して至急調査するよう、顕宗に要請して裁可を得ている )11
(。さらに『勅使謄録』には、H一、曹単子、既聞皇帝訃音、明日聖節望闕礼習儀停行何如啓、依 所啓施行為 セヨト仰セラレマシタ良如教〔聖節正月二十九日〕、(『勅使謄録』第五、辛丑正月二五日条)とあり、皇帝の訃報に接したため、顕宗は礼曹の上奏どおりに望闕礼の二度目の習儀を停止させた。順治帝の崩御ともなれば、清使が漢城で聖節を祝う望闕礼を行うとは考えられず、もはや百官が習儀を行う必要はあるまい。清使の太常寺卿馬 マロハ羅哈一行が入京したのは、聖節前日の正月二九日のことである。顕宗は外戚の領議政鄭太和以下数名とともに慶徳宮の便殿である興政堂に臨御して勅書を迎え、その後、正殿の崇政殿にて勅書が宣読されると、文武百官は亡き順治帝のために挙哀の儀を行った )1(
(。かつてホンタイジの死後、朝鮮では百官が昌慶宮明政殿の殿庭にて挙哀の儀を執り行い、療養中の仁祖も礼曹の反対を押し切って哀悼の意を表していた )11
(。それゆえ、顕宗としても仁祖代の前例を踏襲せざるをえなかったであろう。順治帝の遺詔ともいうべき勅書には、「朕が子玄燁は佟 トゥンギヤ氏妃の所生なり。年八歳にして岐嶷穎慧、克く宗祧を承くるに、玆に立てて皇太子と為す。即ち典制に遵いて持服すること二十七日、服を釈きて皇帝の位に即く。特に内大臣索 ソニン尼・蘇 スクサハ克薩哈・遏 エビルン必隆・鰲 オボイ拝に命じて輔臣と為さしむ」とある )11
(ように、いまだ八歳の幼い康熙帝を補佐する四人の輔政大臣の存在もあわせて朝鮮に布告されている。翌三〇日には永安尉洪柱元・戸曹参判李正英を皇帝喪陳慰兼進香使に、また漢城府左尹沈之溟・礼曹参議李袗を皇后喪進香使として北京に派遣することが決定した )11
(。もちろん、聖節の望闕礼実施に関する記録はない。清使に対しては前例にならって滞留を促すよう、顕宗は迎接都監に指示している。南別宮の西宴庁にて迎接都監・承旨・大臣・中使(王命を奉じた内侍)の順に、清使の帰国を引き留めるのも外交儀礼である )11
(。そして任務を終えた清使一行は二月四日に漢城を
( 久留米大学文学部紀要 国際文化学科編第36号
離れた )11
(。この清使入京を前後して二月二日には、聖祖康熙帝(在位一六六一~一七二二年)の登極を通達すべく清使が出来する、との報告が義州府尹李時術より届き、吏曹判書鄭致和(鄭太和の実弟)を遠接使として派遣した )11
(。二月二八日に清使の翰林院掌院学士折 ジェケネ庫納一行が入京すると、顕宗は慕華館にて勅書を迎え、崇政殿の殿庭にて勅書が宣読されたのち、清使を接見した )11
(。顕宗は三月三日にあらためて興政堂にて清使を接見し、清使一行は三月七日に帰国することになる )11
(。前日、備辺司は「前皇帝、本国を留念して弊を除くの事、一二に非ず」との理由から漢城府に指示し、都城の父老を郊外に集めて皇帝の恩恵に感謝するよう要請したところ、顕宗は裁可を下している )11
(。順治帝による貢鷹の免除についてはすでに述べたとおりである。帰国当日、鄭太和が右議政元斗杓らとともに清使を迎恩門外まで見送ると、清使もまた顕宗を気遣い、国王みずから郊外まで出御するにはおよばない、と伝言した )1(
(。かつての朝清間の緊張感はいくぶん和らいだかのようである。三月下旬には進賀兼謝恩正使として元斗杓以下、副使洪瑑・書状官金宇亨の一行が北京に向けて出発した )11
(。七月に北京より帰国した進賀使元斗杓は清国の情勢について、「皇帝年纔かに八歳、四輔政有りて国事を担當し、庶務を裁決す。太后に関 あずか
り白 もうせば、則ち別に可否する無く、惟だ唯諾するのみ」と報告した。情報源は捕虜となった朝鮮人ながら、四人の輔政大臣が幼年の康熙帝を支える独裁政権であったことを看取している。また、「前 さきに朝会の時、千官例 おおむね皆な斉会するも、今は則ち太半来らず」ともいい、清の綱紀は乱れていたようである )11
(。とはいえ、越境朝鮮人に対する清の取り締まりは厳しく、鴨緑江を越えて人蔘を採っていた平安道龍川の民三名のうち二名が閏七月に鳳凰城で拘束され、九月に義州に押送され た三名は礼部の指示どおりに国境にて梟首となり、龍川府使は罷免、龍川弥串鎮の水軍僉節制使は徒三年の流配処分となった )11
(。すでに明清交替後の仁祖二六年(一六四八)には不法越境の主犯を「境上梟示」として厳罰処分する王命が下っていたが、鴨緑江以北の朝鮮人による不法活動は根絶されていなかった )11
(。こうした清国の新体制と北方の緊張関係のなか、一〇月に都承旨金佐明(国舅金佑明の実兄)は冬至の望闕礼の習儀のため二度にわたって退出を請い、顕宗もこれを許可した )11
(。臣下は礼と法を遵守して名節の望闕礼に備えなければならず、国王としても事前の習儀を停止させるわけにはいくまい。幼君とはいえ、康熙帝がはじめて迎える冬至である。習儀の前日には次のような記録が残る。I(鄭萬和)又以[一字缺]曹言啓曰、来二十日賓庁武臣講書、當為設行、而與冬至望闕礼習儀相値、講書不得為之之意、敢啓、伝曰、知道、(『承政院日記』第一七〇冊、顕宗二年一〇月一九日乙丑条)この史料Iによると、二〇日に予定されていた武臣堂下官の講書 )11
(と望闕礼の習儀の日程が重なったため、左副承旨鄭萬和が講書の停止を願い出ると、顕宗は許可した。すでに述べたように、前年暮れの一二月下旬に正朝の望闕礼の習儀と刑曹による罪人の結審が重なった際に、顕宗は「此、視事の比に非ず。明日の挙行、不可も無きに似たり」と回答し、習儀の停止もやむなしと判断していた(史料G)が、一年後の今回は習儀の優先を即断している。『清実録』によれば、この年の冬至は一一月一日丙子である )11
(が、『承政院日記』『備辺司謄録』は当該年月日条の記録を欠き、実録記事には旱魃にともなう飢饉に見舞われた忠清・慶尚・全羅道の三南地方への敬差官派遣記録のほか、清廉潔白な咸陵君李澥(靖社功臣二等)が俸禄を辞退したとの記録が残る )11
(。に
( 桑野:朝鮮顕宗代の朝清関係と望闕礼
わかに判断しがたいが、顕宗が慶徳宮にて冬至の望闕礼を実施したとは考えられない。それでも年末の一二月下旬には「臣処大、習儀もて進去す」と断片的ながら『承政院日記』に記録があり、左承旨洪処大が正朝の望闕礼に備えて習儀に参席していた )11
(。
(2)南明政権の崩壊と朝鮮顕宗三年正朝の実録記事には「清国、康熙と改元す」とあるにすぎず、望闕礼に関する記録はない )1(
(。北京でも康熙帝は亡き順治帝のために景山の宝宮(霊廟)にて祭礼を執り行っており、宗室の諸ベイレ以下、文武百官・モンゴル諸王および使臣の朝賀礼も免除していた。もっとも、進賀使として派遣された錦林君李愷胤(成宗の四代後孫)・副使柳慶昌・書状官呉斗寅一行は三節年貢使を兼ねていたことから、康熙帝のために「冬至・元旦・萬寿節」を祝い、歳貢の礼物を献上している )11
(。そのうえ、顕宗は前年七月に議政府と合議のうえ賷咨官を派遣して康熙帝の聖節を問い合わせ、八月付けで礼部より「萬寿聖節」は「三月十八日」との回咨を得ていた )11
(。にもかかわらず、この年顕宗三年は三月一八日の聖節、そして一一月一一日の冬至にも望闕礼が実施された形跡はなく、習儀の記録さえ確認できない。名節と清使の入京が重なることがなかったため、望闕礼の予行演習さえ実施する必要はなかったのであろう。冬至の場合、その二日前に平安道観察使任義伯より清使出来との報告があり、礼曹判書金寿恒を遠接使に任命した )11
(。この清使一行の入京は、後述するように一二月四日のことである。それゆえ、冬至に昌徳宮ではこれまでどおり承政院・弘文館と二品以上の高官が大王大妃殿以下、四殿に単子を捧げて問安している )11
(。むしろ注目すべきはこの間、四月の実録記事に「清兵、小雲南(=ミャンマー)に入り、永暦皇帝を執らえ以て帰る。大明絶えて祀らず」 と記されていることである )11
(。五月には清使の工部尚書喇 ラハダ哈達一行が入京し、「雲南告捷」の勅書と「義州査事」の咨文をもたらしている )11
(。後者は鴨緑江を越えて伐採する辺民の責任者として義州府尹李時術を問責することにあり )11
(、とりわけ前者は南明政権の滅亡に関する情報であった。しかし、事前に顕宗は便殿の熙政堂にて領議政鄭太和以下の大臣と備辺司堂上を引見した際に、「永暦擒にせらるるの説、果たして信ずべきか。未だ其の真贋を知らざれども、朱氏の君たる者、擒にせらるるに似たるなり」と語ったように、半信半疑であった )11
(。さらに顕宗が「未だ知らざるに、頒詔は乃ち雲南告捷の事なり。所謂永暦は果たして何人か」と問うたところ、左副承旨沈世鼎は「臣、曾て書状官を以て赴燕す。其の時、已に永暦の説有り。此、必ずしも虚しからず」と回答している )11
(。沈世鼎は孝宗五年に進賀使麟坪大君の書状官として北京に赴いた経験があるから、永暦帝(永明王。在位一六四六~六一年)に関する情報は若干ながら入手していたのであろう )1(
(。それでも、雲南平定を祝賀する進賀使として派遣されることになった鄭太和は、漢城出発の二日前に顕宗の御前で「訳官李芬、新たに北京より還り、永暦皇帝、清兵に囲み逼られ、自ら縊るに至ると云う。而れども彼中(=清国)の夸言、亦た何ぞ信ずべけんや」と語っており、南明政権の崩壊には懐疑的であった )11
(。ところが、冬至から一〇日後の一一月二〇日に陳奏使鄭太和・副使許積・書状官李東溟らが北京より戻り、沿路にて入手した情報ながら永暦帝は清兵に捕らわれ、雲南に逃れていた朱氏の子孫もまた殺害されたと報告した )11
(。二三日に顕宗は昌徳宮の養心閤にて領議政鄭太和・左議政元斗杓・右議政鄭維城・戸曹判書鄭致和を引見し、輔政大臣が国政を専管して「児皇」(康熙帝)に上奏しないなど、鄭太和から最新の清国情勢に聞き入った。政府首脳部はまもなく入京する清使につい
10 久留米大学文学部紀要 国際文化学科編第36号
ても気がかりであったとみえる。元斗杓が「聞くならく、清使、三田渡の碑閣を見んと欲すと云う。南漢の事、誠に慮るべし」と発言するや、顕宗は「前に在る勅使、亦た曾て往見せしや否や」と問うた。鄭太和が「己卯年(=仁祖一七年)、馬 マフタ胡出来の時、碑閣を見、仍りて南漢に往けり」と回答すると、顕宗は「必ず往見せんと欲せば、則ち将に奈何せん」といささか不安な様子であった。当時、礼曹参議であった鄭太和は遠接使として清使一行に応対した経験がある。鄭太和は「必ず往見せんと欲せば、則ち奈何ともすべき無し。而れども亦た豈に弥縫の事無からんや」と回答するほかなく、顕宗は「應に答うべきの語、預め定めざるべからず」と語っている )11
(。遠接使金寿恒の報告によれば、清使は一一月一七日に義州を出発し、一二月四日に入京予定という )11
(から、顕宗も対応に迫られていたと思われる。かつて仁祖一七年(一六三九)に清使の戸部承政マフタ一行が「大清皇帝功徳碑」(三田渡碑ともいう)の工役の進捗状況を視察すべく入京したが、遊猟に託けて南漢山城まで視察したマフタ一行は修築した城壁を取り壊すよう仁祖に厳命していた )11
(。丙子胡乱後に講和条件としてホンタイジにより提示された「清太宗南漢山詔諭」(いわゆる丁丑約条)では城郭の修築を禁じられていたからである )11
(。にもかかわらず、孝宗代より南漢山城は江都とならんで軍事要塞化されつつあり )11
(、顕宗は軍備増強の露見を恐れていたのであろう。一二月四日に清使の都察院左都御史覚 ギョロ羅雅 ヤブ布蘭 ラン一行が康熙帝の祖母(孝荘文皇后)と嫡母(孝恵章皇后)ならびに生母(孝康章皇后)への尊号加上を通達すべく、雪のなか入京した )11
(。清使接見の当日、仁政殿では顕宗が領議政鄭太和を招き入れて「接見の時、彼若し碑閣に往見するを以て請と為せば、則ち奈何せん」と問うたところ、鄭太和は「若し此の言を出せば、難色を示す勿かれ」と進言した )(11
(。清使としては「大 清皇帝功徳碑」が建つ漢江ほとりの三田渡でホンタイジの「恩徳」を称えたい意向があり、顕宗としては三田渡碑閣の保存状態もさることながら、南漢山城への視察を憂慮していた )(1(
(。三日後の一二月七日に清使両名は従者の護衛を率いて三田渡碑閣を視察し、迎接都監より報告を受けた顕宗も反対する理由はなかった。その日の夕刻、吏曹判書洪命夏とともに清使に随行した迎接都監は南別宮に戻ると、「弊無く往還す」と報告していることから、とくに問題は生じなかったとみえる )(10
(。そして一二月一三日、清使は一〇日間の漢城滞在を終えて帰国した )(10
(。後日、進賀兼謝恩正使として右議政鄭維城以下、戸曹参判李曼を副使、宗簿寺正兼司憲府掌令朴承健を書状官とする一行が北京に派遣される )(10
(
が、帰国の際に随行員が禁輸品目の硫黄を買い入れたため、朝清間で物議を醸すことになる(後述)。この清使一行の帰国後、一二月には正朝の望闕礼に向けて習儀が二度実施された )(10
(。しかし、名節の望闕礼は孝宗代と同様、形骸化していたものと推察される。正朝を明日に控えた一二月末日の記録をみてみよう。J南龍翼啓曰、明日正朝望闕礼、依前例為之之意、敢啓、伝曰、知道、(『承政院日記』第一七七冊、顕宗三年一二月三〇日己巳条)伴送使の報告は確認できないが、おそらく清使一行は一二月末までに鴨緑江を渡ったものと判断したのであろう。都承旨南龍翼は「明日正朝の望闕礼、前例に依り之を為すの意、敢えて啓す」と上奏し、顕宗の裁可を得た。この史料Jは、二年前に承政院が冬至の前日に「近例に依り之を為すの意」を上奏した史料Fとほぼ同文である。翌日の顕宗四年正朝は、実録記事には顕宗が大司諫閔鼎重の辞職願を受理しなかったとの記録が残り、『承政院日記』は承政院・弘文館のほか医官が問安したと記録するにすぎない )(10
(。つまり、この年正朝も顕宗が百官
11 桑野:朝鮮顕宗代の朝清関係と望闕礼 を率いて望闕礼を実施したとは考えがたい。百官はさしあたり礼と法に則って望闕礼の習儀を行うが、朝鮮国王は清の皇帝のために名節の望闕礼を行うことはない、というのが「前例」であったと判断するほかない。かつて丙子胡乱による明から清への宗主国交替後、仁祖一六年正朝の実録記事には「上、宮庭に位を設け、西のかた中原に向かいて哭拝す。皇明の為めなり」と記録されたように、仁祖は明政殿にて崇禎帝のために「哭拝の礼」を執り行った )(10
(。しかし、南明政権の滅亡後、顕宗が永暦帝のために哀悼する宮中儀礼を実施した形跡はみあたらない。「雲南告捷」の勅書が届いたとはいえ、顕宗にとっては信じがたい現実であったのかも知れない。その後も、清に派遣される朝鮮使節は南明政権に関する情報収集にあたった。顕宗四年二月には冬至使呂爾載一行が北京での任務を終えて山海関に到着すると、漢城に訳官を先んじて派遣し、「訳輩をして彼中の事情を探問せしむるに、則ち或いは云う、西蜀・雲南・貴州等の地、皆な已に平定し、永暦の敗没は虚に非ずと。或いは云う、永暦死せず、南方を保有すと。未だ孰れか是なるを知らず」と、北京会同館で入手した情報を伝えた )(10
(。呂爾載一行は三月に漢城に戻り、清の雲南平定や呉三桂の動静に加え、「臣、回りて豊潤(=河北省玉田県の東方)に到り、一漢人の稍や文字を解するものに逢着す。永暦死せず、尚お南方を保つと言う。清人誇大の言、信ずべからず」と、あらためて書状官李端錫の見聞録を献上した )(10
(。前日の二月末日には孝康章皇后の訃報を通達する清使が出来するとの報告に接し、吏曹参判朴長遠を遠接使として義州に派遣した。『国朝五礼儀』『大明集礼』のいずれの礼書にも皇后に対する挙哀の儀の規定がなかったが、左議政元斗杓は「彼既に勅を遣わして訃を通ず。若し 挙哀せざれば、則ち彼必ず之を訝る」と顕宗に進言したところ、その儀註については今後協議することとし、兵曹判書金佐明の判断により、礼書に規定がない旨をひとまず迎接都監を介して清使に伝えることにした )((1
(。三月三日に顕宗は病気のため慕華館で清使一行を出迎えることはできなかった )(((
(ものの、その翌日、便殿に出御して清使を接見した。顕宗は喪中に着用する黲袍・翼善冠・烏犀帯の出で立ちで勅書を受け取り、百官とともに挙哀の儀を執り行って哀悼の意を表している )((0
(。清使一行は日本製の鳥銃四挺と刀剣四振を求め、三月九日に帰国した )((0
(。清帝室の不幸ゆえ、聖節の三月一八日に顕宗が百官とともに王宮にて望闕礼を挙行する必要はなかったと思われる。清実録に「萬寿節、行礼を停止す」とあるように、紫禁城でも清の文武百官が康熙帝の萬寿聖節を祝う儀礼は停止された )((0
(。
(3)清使の入京と儒者官僚の対清観①弘文館修撰金萬均の辞職顕宗四年一〇月一〇日、義州府尹金宇亨より清使二名出来との情報が漢城に入ると、刑曹判書許積を遠接使に、司諫院正言宋昌を案内役の問礼官に任命し、また礼曹判書洪命夏を迎接都監館伴、戸曹判書鄭致和を提調として清使の入京に備えた )((0
(。その二日前には宋時烈の門人である司憲府執義金萬均(金萬基の従兄)が弘文館修撰に任用されている )((0
(。一一月六日に顕宗は清使の刑部右侍郎勒 レデホン徳洪一行を慕華館に迎えたのち、仁政殿にて引見した )((0
(。今回の清使の入京目的は、進賀使が帰国する際に禁輸品目の硫黄をひそかに買い入れた朝鮮人馬夫(馬飼)の許龍・彦男両名を尋問し、処罰することにあった )((0
(。一一月九日に南別宮で行われた清使と顕宗の協議の結果、許龍と彦男は斬刑、彼らを同
12 久留米大学文学部紀要 国際文化学科編第36号
行させた訳官梁孝元と写字官李翊臣は罷免のうえ辺境に充軍(罪人を軍役に服務させること)、正使鄭維城と副使李曼も責任を問われて罷免となる )((0
(。この清使一行は一一月一五日に帰国の途についており )(01
(、彼らの漢城滞在期間が冬至と重なることはなかった。『議政府謄録』によれば、冬至の一一月二三日には左議政元斗杓が四殿に単子を捧げて問安したといい )(0(
(、議政府以下の百官が昌徳宮にて望闕礼を実施したとは考えがたい。この清使入京をめぐっては当時の儒者官僚の対清観が垣間みえ、興味深い。まず第一に、清使に随行した会同館の提督李一善に対する嫌悪感である。鳳凰城に到着した李一善は「勅使」と自称し、かつて丙子胡乱後に来朝した通事韓巨源(平安道昌城出身)の例にならって接待するよう礼部の咨文を根拠に強要したところ、遠接使として派遣されていた許積は「咨文に、陞せて勅使と為すの語無し。提督の自ら居るに勅使を以てするは、事理不當なり」と反論して対立した )(00
(。その後、李一善は迎恩門外の留館所である弘済院で賄賂を要求したばかりでなく、仁政殿での接見の際には清使と並び立ち、清使が椅子に着席すると、李一善は王命を待つことなく正使気取りで椅子に着席したという。史官はこの光景について「群臣見る者、憤痛せざる莫し」と記録している )(00
(。後日、「平安監司に命じ、大通官李一善・金巨軍等貿う所の皮物を輸送せしむ。一善等、我が国の人を以て清国通官と為り、我が国事を専管し、其の喜怒に随い、貽弊萬端、朝廷之を畏る。凡そ請う所有れば、従わざるを得ず」と記された )(00
(ように、朝鮮語通事の行動は目に余るものがあった。第二に、清使入京の直前に弘文館修撰金萬均が辞職願を提出したことである。祖母が丙子胡乱の際に江都で死去したため、近侍として陪従することはできない、というのが出仕を拒んだ理由であった。左承 旨徐必遠は「丁丑の乱より後、若し父母の禍を被る者に非ざれば、則ち辞免を許さず」との慣例を理由に、金萬均を非難した。なるほど金萬均の辞職が許可されるのであれば、同様の理由で辞職する者があいつぎ、内政に支障が生じるであろう。かつて顕宗即位年に清使が入京する直前に、「彼の人」とは同席できないとして副修撰の解任を申し出た従弟の金萬基とはやや事情が異なる。すでに述べたように、金萬基の父は江都で殉死しており、「父母の禍を被る者」に該当する。しかし、金萬均の辞表を受けつけた右副承旨李慶億と同副承旨金寿興(金尚憲の孫。金寿恒の仲兄)は、同僚の意見が手厳しいとして待罪した )(00
(。金萬均が義禁府に下されると、宋浚吉の門人であった弘文館応教南九萬らも情状酌量を訴えて上疏したため、顕宗は金萬均を罷免のうえ釈放するよう命じている )(00
(。後日、かつて丁卯胡乱で長兄の宋時熹を失った右賛成宋時烈は「彼中の事に与るを欲せざるは、固より人心の當に然るべき所」と金萬均を擁護して辞職し、「人の人為る所以、国の国為る所以は、只だ是れ人倫にあるのみ。苟くも或いは此れを去れば、則ち人類は禽獣に入り、中国は夷狄に淪 しずまん」と上疏して徐必遠と対立した )(00
(。年末になって司憲府の上奏により、李慶億が東班堂上官でありながら正朝の陳賀礼(朝賀礼)の習儀に参席しなかったとして大司諫を免職されている )(00
(が、李慶億の行動が政府に対する抗議の意志表示なのか、あるいは職務怠慢にすぎないのかは判然としない。ともあれ、咸鏡道観察使に転じた徐必遠は度重なる弾劾によって翌年六月に辞職に追い込まれ、金萬均は九月に修撰に復帰することになる )(00
(。顕宗五年正朝は、承政院・弘文館のほか二品以上の高官と六曹堂上官・大司憲が四殿に年始を祝う単子を捧げて問安し、その後、服喪中の大王大妃を除く三殿に対して陳賀礼を行った )(01
(。この年は清使の入京がなく、三月中旬に承政院では右承旨元萬石が習儀に参席した )(0(
(ものの、
1( 桑野:朝鮮顕宗代の朝清関係と望闕礼 一八日の聖節に望闕礼が実施されたとの記録は確認できない。すでに述べたように、朝鮮政府は顕宗二年に礼部に照会し、康熙帝の聖節が三月一八日であることを承知していた。それから三年後、朝鮮政府はようやく聖節の望闕礼に向けて習儀を実施したのである。八月には丙子胡乱の際に清の捕虜となっていた安秋元が北京を脱出して瀋陽より義州にたどり着いた。平安道観察使李正英は義州府尹姜裕に指示してひとまず安秋元を捕らえ、この事案を漢城に急ぎ報告すると、顕宗に協議を命じられた備辺司は「仍お秋元を義州に置くは、事甚だ便 よろしくし難きを以て、内地に移送して其の衣食を支給し、凍餒せざらしめんことを」と要請し、顕宗の裁可を得ている。一三歳で捕虜となった京畿豊徳の安秋元は、祖父の名前と居住地を覚えていたという )(00
(。二年後に朝鮮政府を揺るがす安秋元事件の発端であるが、清がただちに動き出すことはなく、朝鮮では冬至を迎えようとしていた。K李俊耉啓曰、明日冬至望闕礼[缺]、令攸司囚禁治罪、同門守門将鄭承天、常時不能禁断雑人、以致闌入亦為非矣、推考何如、伝曰、允、(『承政院日記』第一八六冊、顕宗五年一一月初四日辛卯条)史料Kによれば、同副承旨李俊耉は冬至を明日に控え、望闕礼の挙行に関して裁可を仰いだようである。ただし、この史料には欠落があるうえ、関係者外の侵入を制止できない王宮の門番を取り調べるよう要請し、顕宗の裁可を得たという。史料Kはすでにみた史料FJと同様、承政院が「明日冬至の望闕礼、近例に依り之を為すの意、敢えて啓す」と上奏し、顕宗は「知道せり」と回答したのではあるまいか。昌慶宮の宣仁門(東牆門)より侵入したうえ差備門(便殿の正門)外で鉦を打ち鳴らして直訴した保人(兵役遂行者の必要経費を支援する壮丁)金南碩、ならびにこれを阻止できなかった守門将鄭承天の取り調べについては一一月二四日にほぼ同文の記録が残っており )(00
(、英祖代 の『承政院日記』改修の際に誤って一一月四日の記録として謄写されたのであろう。そして翌五日に議政府・六曹は王室へ物膳(香醞酒のほか飲食料品)を献上して冬至を祝い、承政院・弘文館と二品以上の高官が順次、四殿に問安した )(00
(。となれば、承旨は冬至の前日に望闕礼を前例にならって停止するよう、顕宗に申し入れていたと考えてよかろう。むろん、清使の入京はないゆえ、顕宗もこれを許可したことになる。
②清使入京の弊害顕宗六年正朝は例年どおり、承政院・弘文館のほか二品以上の高官と六曹堂上官・大司憲が年始の挨拶をして問安した )(00
(。二月下旬になると、北京より帰国した冬至使鄭致和が「時に清主幼沖にして、大小の政令は皆な四輔政に出づ。将に二月十二日を以て首輔政孫伊の孫女を以て后と為さんとす。冊封の後、當に頒赦勅使の行有るべしと云う」と報告している )(00
(。「首輔政孫伊」とは輔政大臣筆頭格のソニンであろう。清使がいずれ入京するとなれば、三月一八日の康熙帝の聖節には清使とともに望闕礼を挙行することになるやも知れない。三月上旬に顕宗は大臣と備辺司堂上を引見し、礼曹判書鄭致和よりかつて清と盟友関係にあったモンゴルのホルチン王家がいまや清の脅威となっていることを知る )(00
(。内陸アジア情勢の余波も朝鮮にとっては不安材料のひとつであったと思われる。三月中旬には礼曹が聖節の望闕礼に向けて準備を進めていた。L一、曹単子、聖節望闕礼二度習儀、當行於今日、而雨勢如此、似當退行是 デアリマスガ白乎矣、十六日・十七日皆不吉、他無退定之日、初度習儀既已設行、二度則節 此ノ度ノミ哛停行何如啓、依所啓施行、(『勅使謄録』第四、乙巳三月一五日条)
1(
久留米大学文学部紀要 国際文化学科編第36号 望闕礼に関する記録が『勅使謄録』に残っていること自体、当時の朝鮮政府が清使の入京を想定していたことを物語る。望闕礼の一度目の習儀はすでに終えていたが、二度目の習儀の際には雨の勢いが激しくなったため、礼曹が停止を要請して許可された。本来であれば、二度目の習儀は延期すべきところであるが聖節までに吉日はなく、やむなく今回のみ停止を決断したという。しかし、実際には清使が三月に入京することはなく、一八日の聖節当日に望闕礼が実施されることはなかったであろう。そして一〇月、朝鮮政府は二年ぶりに清使を迎え入れる準備を始める。清使の目的は太皇太后・皇太后の尊号加上と皇后(孝誠仁皇后)の冊封を通達することにあった )(00
(。義州府尹鄭鑰と平安道観察使李正英の報告によれば、清使が鴨緑江を越えるのは来月一一月八日もしくは九日であり、備辺司は遠接使・問礼官のほか館伴以下、迎接都監の官員の任命と派遣を顕宗に要請して裁可を得た。その日のうちに遠接使に大司憲朴長遠、問礼官には弘文館副校理金錫冑(金佐明の長男)が任じられている )(00
(。さらに備辺司は「勅行来らずして今已に二年、三路各站の館宇・供帳・諸具及び凡そ接待に干するの事、或いは生疏慢忽の弊無くんばあらず」との理由から、義州から漢城へ上京する清使の接待については京畿・開城府のほか黄海・平安道観察使と開城留守らに文書を送って周知徹底させるよう、顕宗に要請して裁可を得た )(01
(。一一月一二日には遠接使朴長遠より、清使は七日に無事に鴨緑江を渡り、二五日頃に入京するであろうとの報告が入る )(0(
(。清使が漢城滞在中に冬至を迎えることはない、と朝鮮政府は判断したに相違ない。一一月一五日冬至の記録は以下のとおりである。M冬至、陳賀権停、待開門、二品以上、四殿単子問安、時領議政鄭太和・左議政洪命夏進参、右議政許積・薬房問安進参、右賛成宋 時烈在外、西壁(=右参賛)未差、(『議政府謄録』顕宗六年一一月一五日条)清使はいまだ入京していなかったため、康熙帝のために望闕礼を実施して冬至を祝う必要はあるまい。この日は中宗(在位一五〇六~四四年)の忌辰にあたることから、冬至の陳賀礼は「権に停む」措置が取られたが、昌徳宮では二品以上の政府高官が開門を待って四殿に問安し、領議政鄭太和・左議政洪命夏・右議政許積らも参席した。右賛成宋時烈は出仕を辞退したまま亡き父宋甲祚を祀る家廟(睡翁公廟)で焚黄礼を行って品官を得たことを報告し、忠清道連山の孤雲寺に入って金長生の遺稿集『沙渓先生遺稿』を校訂していた )(00
(。「彼中の事に与るを欲せざる」金萬均と同様、宋時烈も清使とは距離を置いていたようである。顕宗が清使の工部左侍郎科 コルコダイ爾科代一行を慕華館に迎え入れたのは、予定どおり冬至から一〇日後の一一月二五日のことである。顕宗は仁政殿で「清主、内大臣噶 ガブラ布剌の女黒舎里(=赫 ヘシェリ舎里)氏を納れて后と為す」との趣旨の勅書を拝謁したのち、清使を接見した )(00
(。一二月に入り、清使が鳥銃二挺のほか弓二張・筒児(矢筒)二本・片箭(銃筒に入れて撃つ火箭)一〇部を要求すると、迎接都監は顕宗に上奏して許可されている。一二月六日に清使は漢城を離れたが、「時に両使以下大通官等、求請の物、紀極有る罔し。過ぐる所の州郡、之が為に虚耗す」といい、二年ぶりに漢城を訪れた清使と通事の収賄行為は沿路の郡県を疲弊させた )(00
(。年末の一二月二一日に承政院は業務多忙にもかかわらず、左承旨姜栢年・右副承旨李晩栄が文書作成の過失を問われて出仕できない状況にあり、翌日に予定されている正朝の望闕礼と王大妃誕日(一二月二五日)の賀礼の習儀に支障を来すと上奏したところ、顕宗は後任の補