七九
イスラエルにおける﹁精神革命﹂ ︵ Ⅰ ︶
︱古代イスラエルの社会と思想︱
伊東 俊太郎
目次はじめに│イスラエルという呼称について
Ⅰ 古代イスラエルの社会と歴史
︵ⅰ︶シリア文明の一部としてのイスラエル
︵ⅱ︶イスラエル民族の成立
︵ⅲ︶統一王国時代
︵ⅳ︶統一王国の分裂から北王国イスラエルの消滅まで
︵ⅴ︶南ユダ王国の継続と滅亡
︵ⅵ︶ペルシア時代
︵ⅶ︶ヘレニズム時代 Ⅱ 古代イスラエルの思想と宗教
︵ⅰ︶古代イスラエル思想の特徴
︵ⅱ︶契約と律法
︵ⅲ︶預言者たち
︵a︶アモス│〝正義〟の預言者
︵b︶ホセア│〝慈悲〟の預言者
︵c︶イザヤ│〝救世〟の預言者
︵d︶エレミア│〝新しい契約〟の預言者
︵ⅳ︶おわりに│旧約聖書と新約聖書連続と断絶
注
文献表 論文
八〇
はじめに│イスラエルという呼称について
﹁イスラエルにおける﹁精神革命﹂﹂と題するに当って︑まずこ
こでいう﹁イスラエル﹂︵
Israel
︶という呼称
について述べてお
かねばならない︒これまで扱ってきた︑ギリシア︑中国︑インド
の﹁精神革命﹂において︑ギリシア︑中国︑インドはひとしく国
名であるとともに﹁地名﹂であったが︑﹁イスラエル﹂はこの点
において異なる︒﹁イスラエル﹂とは元々は地名
ではなく︑人名
である︒
イスラエル十二部族の長とされるヤコブ︵
Jacob, Ya aq ō b
︶が︑
1
ヤボク川の渡し場で彼らの一族を渡し終えたそのとき︑突然何者
かが現れてヤコブに戦いをいどみ︑夜明けまで彼と格闘すること
となった︒ところがそのものはヤコブに勝てないと分ると︑﹁お
前の名はなんというか﹂と尋ねた︒﹁ヤコブです﹂と答えると︑
その人は言った︒﹁お前の名はもはやヤコブではなく︑これから
はイスラエル︵
Israel, I 㶄 e r ā ē l
︶と呼ばれる︒お前は神と闘って勝ったからだ
︒﹂この人とは神︵エル︶にほかならなかったから︑
2
﹁イスラエル﹂とは﹁神は争う
﹂という意味で︑﹁神が争う﹂人ヤ
コブその人を指す︒そこからまたヤコブの十二人の息子たちを含
む言葉となり︑この十二人の息子たちを祖とする十二部族も﹁イ
スラエル﹂とよばれることとなる︒さらにはこの十二部族が住定 した土地全体も指すようにも転用された︒しかし統一王国が分裂
以後の北方の国も﹁イスラエル﹂とよぶので︑この二つは区別し
なければならない︒そこで本稿で﹁イスラエル﹂とよぶのは︑前
者イスラエル十二部族の定住したところの意味で用い︑分裂後の
イスラエルは﹁北イスラエル﹂とよぶこととする︒
こういう点で﹁イスラエルにおける
﹂はこれまでの言い方︑ギ
リシア︑インド︑中国における
とは直ちに同じではないのである
が︑その領域範囲は現在の国家︑イスラエルの領土と大体一致す
るとみていただいてよい
︒
3
Ⅰ 古代イスラエルの社会と歴史
今日︑古代イスラエル史を︑例えばアブラハムが紀元前一五〇
〇年ごろメソポタミアのウルの町を出発してカナンの地に向っ
た︑などという記述からはじめることはできない︒︵いまだにそ
の種の記述が世界史の教科書に見出すこともあるが︑そのような
ことは決して専門家の間ではもはや許されなくなっている︒︶
最近一九七〇年から一九八〇年代に﹁聖書考古学﹂が著しく発
展し︑旧約聖書における記述をそのまま歴史的事実であるとする
ようなことは出来なくなった︒旧約聖書に書かれていることは︑
歴史そのものではなく︑後のユダヤ民族がそうであったと信じた
八一
イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―
いと願ってつくり上げた︑一つの物語りであると見做さなくては
ならない︒もちろんその記述のなかには歴史的事実を反映したも
のもあるであろうが︵とくに統一王国以後︶︑それも無批判にう
けとってはならない︒
最近十数年間におけるこの方面の史料批判は︑聖書考古学の成
果や周辺諸国の歴史研究によって︑聖書の歴史内容の大幅な変更
が求められ︑古代イスラエル史は大変な激動期を迎えているので
ある︒
我々は旧約聖書の記述を︑更めてまず第一に最近の考古学的研
究に踏まえて見直し︑第二にはイスラエル人自身の記述だけでは
なく︑周辺の国々の人々がどう語っているのかを碑文や文献に基
づいて再検討しなくてはならなくなってきている︒︵それはちょ
うど我々がかつて古事記の記述を歴史そのものの記述としていた
のを︑戦後には批判的に考古学発見や他の国の文書とつき合せて
考え直してきているというようなことが︑旧約聖書の記述につい
ても最近はじまったということである︒︶その結果として︑とく
に他国の歴史記述に現れてこない︑統一王国以前の歴史的事実と
されているものは︑ことごとく批判的検討を要する︒
まず第一にアブラハムがウルから出発したというようなこと
は︑何らの歴史的証拠がないばかりか︑当時の状況を考えると︑ 多くの羊をつれてあの長い距離︵ウルからハランまで︶を移動す
ることは不可能である︒この記事はむしろはるか後の前六世紀の
バビロン捕囚以後において︑彼らがバビロニアで出合ったこの文
明の起源地のことを︑いわばアブラハムの出自を権威づけるため
に︑書き加えたのであろう︒アブラハム│イサク│ヤコブという
系譜もきわめてあやしい︒ヤコブの十二人の息子とかれらのエジ
プト行きも作為的なものであり︵イスラエルの十二部族について
は後述参照︶︑従ってまたヨセフのエジプトでの物語りもほとん
ど信じられない︒一人の東からの流れ者がいきなりファラオの側
近に出世したなどということは︑エジプトの歴史のどこにも書か
れていない︒彼らのエジプト入りに問題があるなら︑モーセの
﹁出エジプト﹂の記述もそのままではありえないであろう︒いっ
たい六〇万人もの壮年の男子を伴っての出国など︑それがあれば
何らかの歴史的証拠を残すはずであるが︑このような移動のこと
は︑エジプトの歴史では何も述べられていないのみならず︑考古
学的証拠もまったくない︒これに続くヨシュアのカナンの地の征
服も︑イェリコの占拠をはじめとして︑ほとんど考古学によって
否定されている︒おそらく︑カナンの地でいくつかの紛争はあっ
たであろうが︑それをヨシュア一人による征服物語りにしたのは
虚構であり︑ヨシュアなる人物も﹁つくり出された英雄﹂だと思
八二
われる︒
我々はこのような古代イスラエル史の一大転換期に直面して︑
従来の神話的サガ的記述にのみ依拠するのではなく︑新しい見地
に立って古代イスラエル史を再建し︑よってもってこの一神教的
世界の成立の背景にある真相に迫らなくてはならない
︒
4
︵ⅰ︶シリア文明の一部としてのイスラエル
今日ではいわゆるイスラエル民族の成立は︑紀元前十二世紀で
あると考えられるが︑その背景をなすシリア文明というものを︑
まずとり上げねばならない︒前三五〇〇年頃にメソポタミア文明
が成立し︑前三〇〇〇年頃にエジプト文明が成立したが︑この両
文明の間に前一五〇〇年頃からシリア文明が︑とくに地中海の東
海岸にフェニキアを中心として繁栄した︒イスラエル民族は︑こ
のシリア文明の一部として成長したと考えてよい︒シリア文明の
なかで遅れてやってきたイスラエルの成立は︑もとは農耕村落と
少数の原初的都市の集合体であった︒
イスラエル民族成立以前のこの地域の考古学的時代区分は︑次
のようになる︒
1
.初期青銅器時代前三五〇〇│二二〇〇
2
.中期青銅器時代前二二〇〇│一五五〇
3
.後期青銅器時代前一五五〇│一一五〇シリア・フェニキア文明
4
.鉄器時代第Ⅰ期 前一一五〇│九〇〇5
.鉄器時代第Ⅱ期 前九〇〇│五八六︵メソポタミアやエジプト文明は前一五五〇年以後も︑シリア・
フェニキア文明は前一一五〇年以後も︑もちろん継続している
︒ ︶
5
︵ⅱ︶イスラエル民族の成立
それではこの﹁イスラエル﹂民族は︑いかにしてカナンの地
に
6
出現したのであろうか︒そのためには︑前一二〇〇年頃にカナン
の地に大きな変動が生じていたことに注目せねばならない︒考古
学的に︑後期青銅器時代の末期から鉄器時代の第Ⅰ期への移行期
である前一二〇〇年頃に︑それまでカナンの地で乱立していた都
市国家が相ついで破壊され︑放棄され︑衰退していったことが示
されている︒このようなカナンの都市国家群を没落させたもの
は︑いったい何であったか︒はっきりしていることは︑この地方
への︑いわゆる﹁海の民﹂︵
sea people
︶の侵寇である︒﹁海の民﹂とは︑どうやらアナトリア半島の南部海岸に拠点を
もった海洋民族で前十三世紀後半から前十二世紀にかけて︑東部
地中海岸に侵入した謎の民族である
︒彼らは﹁ペリシテ王国﹂
}
エジプト文明7
メソポタミア・}
イスラエル文明八三
イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―
︵
Philistia, P e lešeth
︶のいわゆるペリシテ人五都市︵ガザ︑アシュケロン︑エクロン︑ガト︑アシュドド︶をつくり︑他の地中海
東沿岸の諸都市を衰亡させていた︒この衰亡した諸都市の農民
が︑従来の地に居ることができず︑それまであまり住んでいなか
った東部の丘陵地帯に移って農耕・牧畜を続ける生活を選択した
と考えられる︒
しかし他方これと時を同じくして︑各地で既存の秩序の中に入
りこんでいた﹁ハビル﹂︵
Habiru
︶という集団がカナン地方に出現していたという事実にも注目しておかねばならない︒彼らは既
成の国家集団には属さず︑その法的保護の枠外にいた人々であっ
たようだ︒この﹁ハビル﹂人のこの地への移動も併せて考えねば
ならぬであろう
︒
8
ところでこの中央山岳地帯への人々の集住について︑最近考古
学的に驚くべきことが知られるようになった︒一九八〇年代から
九〇年代にかけて︑イスラエル︑アメリカ︑ヨーロッパの研究者
によって︑従来のように特定のテル︵遺跡︶を掘り下げてゆくの
ではなく︑広範囲にわたる表層調査を行うことにより︑紀元前二
〇〇〇年頃の平野部の都市国家群の没落に呼応するかのように︑
北部のガリラヤ山地︑中央のサマリヤ山地そして南部のユダ地方
│つまりそれまで人々があまり住むことのなかったイスラエルの
表Ⅰ 中央高地における鉄器時代第Ⅰ期の居住地
フィンケルシュタイン&シルバーマン『発掘された聖書』,
145
ページ八四
地に突然多発的に小規模な居住地が出現してきたことが分ったの
である︒後期青銅器時代には二五の集落しかなかったのに︑鉄器
時代第Ⅰ期には二五〇︵人口四万五千︶に増え︑鉄器時代第Ⅱ期
では五〇〇以上︵人口十六万︶に増加している︒それらの集落は
みな丘の上のゆるやかな斜面などにつくられ︑なかにはすでに都
市的なものもあったが︵シケム︑シロ︑ベテル︑イェルサレム︑
ヘブロン︶︑多くはみな村落規模の集落で︑人口はせいぜい数百
人程度で︑神殿︑宮殿などの公共建築物はなく︑社会的階層性も
あらわれていない︒この山丘地帯の文化は︑後の統一王国まで続
いているので︑この紀元二〇〇〇年頃にはじまった居住民の集団
が︑後のイスラエル人の祖先│﹁原イスラエル﹂人であると考え
られる︒
しかしこの人たちはいったいどこからやって来たのだろうか︒
それが前に述べたような︑東地中海沿岸の都市国家の崩壊によっ
て山丘地帯に移り住んだ人々というだけでは︑従来のカナン人が
イスラエル人になったということで
︑いわゆるイスラエル民族の
9
言語的文化的特質をなんら説明することにはならないだろう︒
そこで筆者の考える仮説は︑この原イスラエル人は決して一種
類のものではなく︑むしろ多様な集団の集まりであり︑その多様
な集団が︑相互の生き残りをかけて︑次第に共通の文化的統一性 をつくり上げていったと考える︒
まず第一にこれに加わっているのは︑アブラハムに率いられた
とされる集団︵かりに﹁アブラハム集団﹂と名付ける︶で︑彼ら
はおそらく北シリアのハラムに関係をもった農耕牧羊民だが︑カ
ナンの地に下って︑当時ヘブロンを中心とする南に入って︑この
新居住民集団の重要な一部を構成したと考えられる︒彼らの﹁牧
羊文化﹂ととくに﹁割礼﹂の習慣を︑新集団の団結のしるしを示
すものとして導入したであろう︒彼らはいわゆるイスラエルの
﹁ 十 二 部
族﹂
の う ち 南 部
の﹁
ユ
ダ﹂︵
Judah
︶
と﹁
シ メ オ
ン﹂
︵
Simeon
︶などの主要な構成員となったと思われる︒第二にモーセに率いられたとされる集団︵かりに﹁モーセ集団﹂
とよんでおく︶が︵彼らが云う六〇万は多すぎるとして︶数百人
の単位でエジプトを集団脱出した可能性がある︒彼らはシナイ半
島のどこかで﹁ヤハウェ﹂信仰をとり入れ︑これをイスラエル新
集団の共通のものとして団結を強めたであろう︒それ以前には︑
この中央山地の人々の宗教は︑近東一帯に拡がっていたさまざま
な﹁エル﹂信仰︑とくに農耕神﹁バアル﹂信仰であったが︑モー
セ集団の影響により︑周辺勢力に対する精神的団結のよりどころ
として︑これをうけ入れたのであろう︒モーセ集団は︑十二部族
のうち中心部を占める
﹁ マナセ
﹂︵
Manasseh
︶︑﹁
エフライム
﹂
八五
イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―
︵
Ephraim
︶と﹁ベンヤミン﹂︵Benjamin
︶の主要構成員となったであろう︒しかしヤハウェとエル諸神︑とくにバアル神との対
立・対抗は後々まで繰返し続くことになる︒
第三は︑周辺都市国家の崩壊後に移住したカナンの農民たち
で︑彼らはまことに多様な集団であった︒これをかりに﹁カナン
集団﹂と名付けておこう︒しかし山岳高地の新居住居者たちが︑
いちはやく農耕作業やその施設の建設をやりえたのは︑これらの
居住者の存在による︒中央高地の東側の斜面には大麦︑小麦の栽
培が行われ︑西側斜面にはオリーブやブドウの樹が植えられた︒
この移住者たちは︑十二部族のうち︑北の﹁アシェル﹂︵
Asher
︶ ︑
﹁ ナフタリ
Naphtali
﹂︵︶︑﹁
ゼブルン
Zebrun
﹂︵︶︑﹁
イサカル
﹂
︵
Issachar
︶︑﹁ダン﹂︵Dan
︶︑﹁ガド﹂︵Gad
︶︑﹁ルベン﹂︵Reuben
︶などの部族を構成したであろう︒
つまりイスラエルの﹁十二部族﹂というのは︑ヤコブの十二人
の息子たちを祖とする種族ではなく︑またヨシュアが﹁くじ﹂で
彼らに土地を割り当てたというのでもなく︑一二〇〇年頃から始
まった移住者たちの土地的集団的まとまりを示しているものだと
考えられるのである︒そしてその集団が相互の生き残りをかけ
て︑宗教的文化的統合を推め︑﹁イスラエル﹂という連合体をつ
くっていったと想定してよいだろう︒つまり﹁アブラハム集団﹂
表Ⅱ イスラエル十二部族のカナンへの定住。『旧約聖書』新共同訳,
2001.
より八六
﹁モーセ集団﹂﹁カナン集団﹂という三つの集団がエジプトとアッ
シリアの二大勢力の間にあって言語︑宗教︑慣習を一にして強固
に団結して﹁原イスラエル﹂をつくり上げたのである
︒
10
実際ラメセス二世の息子メル
・エン
・プタハ
在位前一二一三│一二〇三︶が︑パレスチナに遠征したときの記
Mer -en-Ptah
︵念碑が残されており︑そこにはじめて︵前一二〇七︶聖書外の史
料に﹁イスラエル﹂の名称が登場するが︑それはまだ一種の種族
連合体であったことが示されている︒当時ようやくイスラエルと
いう部族連合体がつくり出され︑相互の団結のための文化的きず
なを生み出しつつ︑周囲のペリシテ人︑アンモン人︑モアブ人ら
との差異化をはかって︑民族統一体として自らを保ったと考えら
れる︒
その文化的きずなとは︑まず第一に﹁ヘブライ語﹂の使用であ
り︑ついで﹁ヤハウェ信仰﹂と﹁祭儀﹂︑そして﹁割礼﹂のよう
な習俗であり︑またある種の﹁食物規定﹂である︒実際この原イ
スラエル人の居住地からは︑周辺地域と異なり︑豚の骨が現われ
ないことが︑考古学的に実証されている︒
︵ⅲ︶統一王国時代
前一二〇〇年以前からすでに都市国家を形成していたカナン人 や︑この時期に前後して民族国家を建設した︑東方や南方のアン
モン人︑モアブ人︑エドム人とは異なり︑当初のイスラエルの
人々はその後二〇〇年も国家形成や王制の設立を行わなかった︒
それは偶然とは云えず︑彼らの宗教│ヤハウェ信仰は︑種族的な
ものだとしても︑国家
宗教ではなく︑国家によって上から定めら
れ強制されるものではなく︑あくまでも神と個人との契約に基づ
くもので︑その意味で平等な社会であり︑王のような特別な権力
者は認められなかったのである︒従って二〇〇年間︑この種族統
合社会では士師︵
Judges, Š ō ph ē t ī m
︶とよばれる一種の指導者が選ばれ︑事に当っていた
︒
11
しかしイスラエル種族統合体が次第に大きくなり︑他国との通
商の増大や戦争の頻発などにより︑内部の集権化や外敵に対する
軍事化が必要となってきた︒とくに緊急を要したのは西南のペリ
シテ国との対抗であった︒ペリシテの都市連合王国は東のイスラ
エル地域への侵入をしばしば試み︑それを迎え撃って勝利するに
は︑どうしても一時的指導者たる士師では対抗できず︑こちらも
統一的持続性をもった王制をとった強力な軍事力で刃向うよりほ
かはなかった︒それゆえ士師・預言者であったサムエル︵
Samuel,
Š e mû ē l
︶の時代に︑まずサウル︵Saul, Š ā ū l
︶がイスラエル全体の王に立てられ︑彼がペリシテ人との戦いで戦死した後には︑
八七
イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―
彼の下で戦功をたてていたダビデ︵
David, D ā wid
︶が輿望を担って王位についた︒彼はペリシテ人の軍隊を徹底的に破って︑彼
らを海岸地方に押し戻し︑いわゆる﹁統一王国﹂を築き上げた︒
彼は軍事的天才であったばかりでなく︑政略にも富み周囲の国々
︵アンモン︑モアブ︑エドム︶を抑え込むと︑自らが七年間統治
していたユダの主都ヘブロンに置いてあったヤハウェの﹁契約の
箱﹂をイェルサレムに搬入し︑あらためてここを﹁統一王国﹂の
主都とした︒イスラエルは彼の統治下の数十年の間に部族連合か
ら統一王国へと発展したが︑その実質的な支配領域はダンからベ
エルシェバまでのいわゆる十二部族の居住範囲で︑周囲の国々は
ただ勢力下に抑えておくにとどめたようである︒
ダビデについては伝説が多いので︑その実在性を疑うものもな
いではなかったが︑一九九三年から九四年にかけての調査で︑イ
スラエルの北方テル・ダン︵
T ell Dán
︶という遺跡からアラム語の碑文が見つかり︑そこに﹁ダビデの家﹂という刻文が見出され
たことにより︑その実在性がほぼ確認されたと云ってよい
︒
12
ダビデは四十年間統治したと云われているが︵﹃列王記﹄上︑
2
章│11
︒在位︑前一〇〇六年頃│九六六年︶︑その治世の末期には必ずしも安泰なものではなく︑王位継承についても争いがあ
り︑母親を異にする息子アドニヤ︵
Adoniya, Ad ō ni â
︶とソロ モン︵Solomon, Š e l ō m ō
︶との確執が生じた︒結局ソロモンが勝って︑彼は前十世紀のなかばに即位した︒︵在位前九六五年│九
二六年︶
彼はエジプト︑フェニキア︑アラム︑アラビア半島などと幅広
く交易を結び︑莫大な富を蓄えたと云われる︒この富を利用して
主都イェルサレムを中心に大規模な建築活動を行った︒市の北東
部にレバノン杉で装麗な神殿を建て︑かつてダビデがもたらした
﹁契約の箱﹂をそこに安置した︒ソロモンはこの神殿のほかに自
らの豪華な宮殿もつくったといわれるが︑そのあとは残っていな
い︒しかしハツォル︑メギド︑ゲゼルに同一様式の構造をもった
城門のあとが発掘されているから︑それらはソロモンの時につく
られたのであろう︒
またソロモンの時代には︑この経済的繁栄の下に貴族階層︑書
記階層︑戦士階層︑職人階層などの社会階層の分化が生じ︑それ
ぞれの専門家が現れた︒とくに﹁書記﹂︵
scribe, s ō ph ē r
︶とよばれる文字を扱う役人が重要な役割を演ずるようになる︒多分
﹃旧約聖書﹄のヤハウェ︵J︶資料というのは︑このあたりの時代
から書かれはじめたのであろう︒またこのことは︑次の時代に
﹁記述﹂預言者が現れ︑その内容が文字で我々に伝えられるよう
になる︒ソロモンの時代に重んぜられた︑エジプト由来の﹁知慧
八八
文学﹂の勃興もこれによる
︒
13
けれども﹁栄華を極めたソロモン﹂の時代には︑また多くの理
想化され誇張された部分﹁ティフサからガザにいたるまで︑エウ
フラテス西方全域を支配下においた﹂︵﹃列王記﹄上︑5章│4︶
などの記述は︑明らかに誇大であり︑その支配領域はダビデのと
きのものとさほど変りはなかったであろう︒
シェバの女王の来訪に象徴されるように︑諸外国との接触も深
かったと思われるが︑周辺諸国の記述に︑ソロモンの名が登場す
ることはほとんどないのは意外である︒
︵ⅳ︶統一王国の分裂から北王国イスラエルの消滅まで
ソロモンは政治的能力も経済的能力もあったが︑その富の蓄積
は税の苛斂誅求や強制労働の強化によって︑人々の恨みをかうも
とをつくった︒また貧富の差も拡大し︑その富の方も享受したの
は︑貴族・官僚層など宮廷文化に属する南のユダ族出身者であっ
た︒働かされ搾取され続けた北側の人々は︑九二六年のソロモン
の死を機として︑その不満を爆発させた︒ソロモンの子レハブア
ム︵
Rehaboam, R e hab e ā m
在位前九二六│九一〇︶は南のユダ部族などの王権をつぐことはできたが︑エフライム以北の部族た
ちはシケムに会議を開き︑統一王国からの離脱を宣言した︒そし て彼らの指導者だったヤロブアム︵
Jeroboam, Y ā rob e ā m ,
在位前九二六│九〇七︶を︑亡命中のエジプトから呼び戻して彼らの
王とした︒ここに﹁北王国イスラエル﹂が﹁南の王国ユダ﹂と大
きく分裂して︑再び統合されることはなかった︒
その後北王国イスラエルの王は︑十九代を数えることになる
が︑クーデターによる王朝交代が頻発し︑十九人の王のうち八人
が暗殺や自殺においこまれ︑三代以上にわたる王朝を形成したの
は︑後述のオムリ王朝とイエフ王朝のみである︒この不安定性は
北王国では︑イスラエル系の神ヤハウェとカナン系の神バアルな
どとの対立がつねに止まず︑そのためそのころから社会的力をも
った﹁預言者たち﹂︵
prophets, n e bî îm
︶が出現して王権への反逆に肩をもったことが挙げられよう︒︵いわゆる﹁預言者﹂の活
躍は分裂後のことなのである︒︶
オムリ︵
Omri, Om e rî
︶はユダヤ軍団の司令官であったが︑内乱の結果王に挙げられた︵在位前八八五│八七四︶︒他のイスラエ
ル王と異なり︑素性も父も不明である︒それにもかかわらず︑そ
の後比較的安定した王朝をつくり得たのは︑周辺国との葛藤を避
け︑共存共栄を目指す路線にきりかえたことによろう︒オムリは
また北のフェニキアとも同盟を結び
︑ シドン王の娘イゼベル
︵
Izebel, Ī zebel
︶を息子アハブ︵Ahab, Ah e ā b
︶の妻として迎八九
イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―
えた︒また彼はそれまでの北イスラエル王国の首都をティルツァ
からサマリアに移した︒それまでのイスラエル系でもカナン系で
もない中立の都市を新設して︑両者の軋轢を緩和するためであっ
た︒オムリの息子アハブは父王の政策を継承して自分の娘を南ユ
ダ王国の王子と結婚させている︒しかしアハブの妻イゼベルはカ
ナンの豊穣神バアルを崇拝し︑ヤハウェ信仰の人々を迫害したの
で︑それに対し預言者エリヤ︵
Eliyah, Eliyy ā hû
︶が反逆したことは︑よく知られている︵後述︶︒アハブの息子ヨラム︵
Joram,
Ye r ō r ā m
︶の王位にあったとき︑前八四五年アラム王国のハザエル︵
Hazael, Hazeh ē l
︶が南進してきたのでこれと戦い負傷してイズレエルで休養中︑ときのイスラエル軍の指揮者イエフ︵
Jehu,
Y ē hû
︶がクーデターを起し︑ヨラムのみならず王母イゼベルをはじめオムリの一族を皆ほろぼした︒この背後には預言者エリシ
ャ ︵
Elisha, El ī š ā
︶の教唆があったとされ︑オムリ王朝の異教︵バアル︶崇拝をこの際断ち切り︑本来のヤハウェ信仰に戻す一種の
宗教改革を狙ったとされる︒実際イエフが実権を掌握した後︑バ
アル崇拝者を虐殺したと伝えられる︒
イエフ︵在位前八四五│八一八︶が王位についた後イエフ王朝
はほぼ百年持続するが︑それは概して多難の時代であった︒その
頃再び東方アッシリアの勢力が及んできたからである︒しかし四 代目のヤブロアム二世︵在位前七八二│七四七︶の時代は︑アッ
シリアも国内の分裂もあり力も弱くなったので︑イスラエルの土
地も大きく回復され︑ソロモンの時代に匹敵するような経済的繁
栄を謳歌した︒他面その経済的繁栄の利益を得たのは︑少数の特
権階級の人々だけであったので︑そこに貧富の差による社会層の
分断と不平等が増大した︒そのときイスラエルの最初の記述預言
者アモス︵
Amos, Ā môs
︶が登場し︑この格差社会を強烈に批判したことは注目される︒︵後述︶
イエフ王朝が途絶えた後︑北イスラエル王国の最後の王となる
ホシェア︵
Hoshea, Hôš ē a
在位後七三二│七二三︶は︑はじめはアッシリアに臣従していたが︑ティグラト・ピレセル︵
T iglath-
Pileser
︶大王が死ぬとエジプトと結んでアッシリアへの貢納を拒否し︑イスラエルの独立をはかった︒しかし彼はティグラト・
ピレセルを継いだシャルマナサル五世︵
Š almanassar V
︶に打ち破られ︑捕えられてアッシリアに送られた︒王を失ったサマリア
の人びとはその後二年間に亘り抵抗したが︑前七二二│二一年つ
いにアッシリア軍に征服された︒この戦いの間にシャルマナサル
五世の王位を奪ったサルゴン二世︵
Sargon II
︶は︑サマリアを占領した後︑住民の強制移動を行い︑彼らをアッシリア領の各地
にばらまき︑その代りにアッシリアによって征服された複数の異
九〇
民族をサマリアに送り込んだ︒この移住政策が︑被征服民の民族
性を解体するのにいかに有効であったかは︑散らされたイスラエ
ル人が移住先の人々に吸収され︑もはや﹁神の民﹂として自己同
一性を保ち得なかったことによって証される︒かくて北王国を構
成していた部族は︑﹁失われた十部族﹂とよばれるようになる︒
このようにして北イスラエル王国は滅亡したが︑その際かなりの
人々が難民として密かに南ユダ王国に逃れたと推定される︒この
北からの移住者によって北イスラエル系の伝承︵E資料︑エリヤ
やエリシャの物語︑預言者アモスやホセアの言葉など︶が南のユ
ダ王国に伝わり︑後の加筆補正をうけて最終的に旧約聖書にとり
入れられたと思われる︒
︵ⅴ︶南ユダ王国の継続と滅亡
北イスラエル王国が滅亡した後も︑南のユダ王国はなお一五〇
年ほど継続した︒北イスラエルでは王朝はしばしば交代したが︑
南ユダ王国はアタルヤ
Athaliah, Athaly ā hû
︵︶ の六年間を除
き
︑十九代の王はすべてダビデ王朝に属する︒
14
南のユダ王国にとって最初の大きな危機は︑第十三代目の王ヒ
ゼキヤ︵
Hezekiah, Hiz e qiyyâ
在位前七二八│六九七︶のとき︑アッシリア王センナケリブ︵
Sennacherib
在位前七〇六│六八 一︶が前七〇一年にシリア・パレスチナに遠征し︑ユダ王国もラキシュをはじめ多くの拠点を占拠された︒結局ヒゼキヤはセンナ
ケリブに降伏したが︑イェルサレムは占領されず︑センナケリブ
は撤退した︒このとき預言者イザヤ︵
Isaiah, Y iša e ā hû
︶が登場し︑ヒゼキヤを強く激励している︒︵後述︶
ヒゼキヤの息子マナセ︵
Manasseh, M e naššeh
在位前六九八│六四二︶の長い治世の後︑その息子アモン︵
Amon, Ā môn
在位前六四二│六四一︶は即位の翌年に臣下の陰謀により暗殺され︑
アモンの息子のヨシヤ︵
Josiah, Y o šiy ā hû
在位前六四〇│六〇九︶が八才で即位し︑第十六代目の王となったが︑彼こそ南ユダ
王国の王で後期の最も注目に価する人物である︒彼の治世一八年
︵二十六才のとき︶に改修中のイェルサレム神殿から︑﹁律法の書﹂
なるものが発見されたが︑これは後の﹁申命記﹂のもととなるも
ので︑いわゆる﹁ヨシヤ改革﹂の原点となった
︒ヨシヤはこれに
15
基づいてイェルサレム神殿の祭儀をヤハウェ宗教に純化するとと
もに︑イェルサレム以外の地方聖所をすべて廃止し︑祭祀をイェ
ルサレム神殿だけに限定した︒こうした改革を行ったヨシヤも︑
当時アッシリアに代わり抬頭してきた新バビロニアやメディアの
連合軍と対峙したエジプトのネコ二世︵
Nechoh II
︶とメギドで出会
い︑
殺 さ れ て し ま
う︒
ヨ シ ヤ の 子 ヨ ア キ
ム︵
Jehoiakim,
九一
イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―
Y e hôy ā qîm
在位前六〇八│五九八︶は新バビロニアに臣従していたが︑遂に反逆を試みたので︑新バビロニアのネブカドネツァル
二世︵
Nebuchadnezzar II
︶は︑前五九八年にイェルサレムを攻め︑ヨアキムの継いでいたヨアキン︵
Jehoachin, Y e hôy ā khîn
在位前五九八│五九七︶をはじめ神官︑役人︑軍人︑技術者を捕え︑神
殿の財宝とともにバビロンに移した︒これが第一次バビロン捕囚
である︒しかしこのときはユダ王国はまだ亡ぼされず︑イェルサ
レム神殿も破壊されなかった︒そしてヨアキムの叔父ゼデキヤ
︵
Zedekiah, S id e qiyy ā hû
在位前五九七│五八七︶が王位を継いだ︒彼ははじめはネブカドネツァルに忠誠をつくそうとしたが︑
自国の好戦派にそそのかされて︑新バビロニアからの独立をはか
る周辺諸国︵アンモン︑モアブ︑エドムなど︶とともに︑前五八
八年反乱を起した︒これに対しネブカドネツァルはすぐ反応し︑
前五八七年のはじめにユダの全領域を征服し︑ゼデキヤは捕えら
れて目をえぐられ︑行政的宗教的知識人とともにバビロンに送ら
れた︒このときイェルサレムは徹底して破壊され︑神殿も火を放
たれ焼きつくされた︒これが第二次バビロン捕囚である︒かくし
て南のユダ王国も滅亡したのである︒
すでにエレミア︵
Jeremiah, Y iremey ā hû
︶が預言したように︑神は決してユダ王国のためだけに存在するのではなく︑それも過 ちもおかせば罰し亡ぼすことによって︑世界の歴史を審判するの
である︒︵後述︶
アッシリアによって亡ぼされた北王国と新バビロニアによって
滅された南王国とでは︑その後の運命は異なっていた︒前者では
アッシリアの強制移住政策により北イスラエルの人々はアッシリ
ア各地にばらばらにされてしまったが︑後者では移住後バビロン
近傍にまとまって住むことが許され︑ユダ王国の知識人のまとま
りは崩れず︑民族的同一性は保持された︒イスラエル十二部族の
うち︑王国滅亡を越えて生き残ったのは︑ユダ部族を中心とする
旧ユダ王国の人々だけであったので︑ここからギリシア語で﹁イ
ウダイオイ﹂︵
Iouda oi
︶とよばれる︑いわゆる﹁ユダヤ人﹂という呼称が生れた︒
ともあれ︑北イスラエル王国につぐ︑このユダ王国の滅亡は︑
ユダ王国の知識人に激烈な影響を与える︒彼らの神ヤハウェは彼
らの王や国を救うことなく︑亡ぼしてしまうこともいとわないこ
とが︑はっきりとしたからである︒この事実について︑あらため
て彼らはイスラエルの民の歴史を再考察しなければならなくなっ
た︒これには二つのグループがあり︑その一つはユダ王国で公的記
録を編纂していた役人・書記たちで︑いわゆる﹁ヨシヤ改革﹂を