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イスラエルにおける﹁精神革命﹂ ︵ Ⅰ ︶

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(1)

七九

イスラエルにおける﹁精神革命﹂ ︵ Ⅰ ︶

︱古代イスラエルの社会と思想︱

伊東  俊太郎

目次はじめに│イスラエルという呼称について

Ⅰ 古代イスラエルの社会と歴史

︵ⅰシリア文明の一部としてのイスラエル

︵ⅱイスラエル民族の成立

︵ⅲ統一王国時代

統一王国の分裂から北王国イスラエルの消滅まで

南ユダ王国の継続と滅亡

ペルシア時代

ヘレニズム時代 Ⅱ 古代イスラエルの思想と宗教

︵ⅰ古代イスラエル思想の特徴

︵ⅱ契約と律法

︵ⅲ預言者たち

   アモス正義の預言者

   ホセア慈悲の預言者

   イザヤ救世の預言者

   エレミア新しい契約の預言者

おわりに│旧約聖書と新約聖書連続と断絶

文献表 論文

(2)

八〇

はじめに│イスラエルという呼称について

イスラエルにおける精神革命﹂﹂と題するに当ってまずこ

こでいうイスラエル﹂︵

Israel

という呼称

について述べてお

かねばならないこれまで扱ってきたギリシアインド

精神革命においてギリシアインドはひとしく国

名であるとともにであったが︑﹁イスラエルはこの点

において異なる︒﹁イスラエルとは元々は地名

ではなく人名

である

イスラエル十二部族の長とされるヤコブ

Jacob, Ya aq ō b

が︑

1

ヤボク川の渡し場で彼らの一族を渡し終えたそのとき突然何者

かが現れてヤコブに戦いをいどみ夜明けまで彼と格闘すること

となったところがそのものはヤコブに勝てないと分ると︑﹁

前の名はなんというかと尋ねた︒﹁ヤコブですと答えると

その人は言った︒﹁お前の名はもはやヤコブではなくこれから

はイスラエル

Israel, I 㶄 e r ā ē l

と呼ばれるお前は神と闘って

勝ったからだ

︒﹂この人とは神にほかならなかったから

2

イスラエル神は争う

という意味で︑﹁神が争う

コブその人を指すそこからまたヤコブの十二人の息子たちを含

む言葉となりこの十二人の息子たちを祖とする十二部族も

スラエルとよばれることとなるさらにはこの十二部族が住定 した土地全体も指すようにも転用されたしかし統一王国が分裂

以後の北方の国もイスラエルとよぶのでこの二つは区別し

なければならないそこで本稿でイスラエルとよぶのは

者イスラエル十二部族の定住したところの意味で用い分裂後の

イスラエルは北イスラエルとよぶこととする

こういう点でイスラエルにおける

はこれまでの言い方

リシアインド中国における

とは直ちに同じではないのである

その領域範囲は現在の国家イスラエルの領土と大体一致す

るとみていただいてよい

3

Ⅰ 古代イスラエルの社会と歴史

今日古代イスラエル史を例えばアブラハムが紀元前一五〇

〇年ごろメソポタミアのウルの町を出発してカナンの地に向っ

などという記述からはじめることはできない︒︵いまだにそ

の種の記述が世界史の教科書に見出すこともあるがそのような

ことは決して専門家の間ではもはや許されなくなっている︒︶

最近一九七〇年から一九八〇年代に聖書考古学著しく発

展し旧約聖書における記述をそのまま歴史的事実であるとする

ようなことは出来なくなった旧約聖書に書かれていることは

歴史そのものではなく後のユダヤ民族がそうであったと信じた

(3)

八一

イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―

いと願ってつくり上げた一つの物語りであると見做さなくては

ならないもちろんその記述のなかには歴史的事実を反映したも

のもあるであろうがとくに統一王国以後︶︑それも無批判にう

けとってはならない

最近十数年間におけるこの方面の史料批判は聖書考古学の成

果や周辺諸国の歴史研究によって聖書の歴史内容の大幅な変更

が求められ古代イスラエル史は大変な激動期を迎えているので

ある

我々は旧約聖書の記述を更めてまず第一に最近の考古学的研

究に踏まえて見直し第二にはイスラエル人自身の記述だけでは

なく周辺の国々の人々がどう語っているのかを碑文や文献に基

づいて再検討しなくてはならなくなってきている︒︵それはちょ

うど我々がかつて古事記の記述を歴史そのものの記述としていた

のを戦後には批判的に考古学発見や他の国の文書とつき合せて

考え直してきているというようなことが旧約聖書の記述につい

ても最近はじまったということである︒︶その結果として

に他国の歴史記述に現れてこない統一王国以前の歴史的事実と

されているものはことごとく批判的検討を要する

まず第一にアブラハムがウルから出発したというようなこと

何らの歴史的証拠がないばかりか当時の状況を考えると 多くの羊をつれてあの長い距離ウルからハランまで移動す

ることは不可能であるこの記事はむしろはるか後の前六世紀の

バビロン捕囚以後において彼らがバビロニアで出合ったこの文

明の起源地のことをいわばアブラハムの出自を権威づけるため

書き加えたのであろうアブラハム│イサク│ヤコブという

系譜もきわめてあやしいヤコブの十二人の息子とかれらのエジ

プト行きも作為的なものでありイスラエルの十二部族について

は後述参照︶︑従ってまたヨセフのエジプトでの物語りもほとん

ど信じられない一人の東からの流れ者がいきなりファラオの側

近に出世したなどということはエジプトの歴史のどこにも書か

れていない彼らのエジプト入りに問題があるならモーセの

エジプトの記述もそのままではありえないであろう

たい六〇万人もの壮年の男子を伴っての出国などそれがあれば

何らかの歴史的証拠を残すはずであるがこのような移動のこと

エジプトの歴史では何も述べられていないのみならず

学的証拠もまったくないこれに続くヨシュアのカナンの地の征

服もイェリコの占拠をはじめとしてとんど考古学によって

否定されているおそらくカナンの地でいくつかの紛争はあっ

たであろうがそれをヨシュア一人による征服物語りにしたのは

虚構でありシュアなる人物もつくり出された英雄だと思

(4)

八二

われる

我々はこのような古代イスラエル史の一大転換期に直面して

従来の神話的サガ的記述にのみ依拠するのではなく新しい見地

に立って古代イスラエル史を再建しよってもってこの一神教的

世界の成立の背景にある真相に迫らなくてはならない

4

シリア文明の一部としてのイスラエル

今日ではいわゆるイスラエル民族の成立は紀元前十二世紀で

あると考えられるがその背景をなすシリア文明というものを

まずとり上げねばならない前三五〇〇年頃にメソポタミア文明

が成立し前三〇〇〇年頃にエジプト文明が成立したがこの両

文明の間に前一五〇〇年頃からシリア文明がとくに地中海の東

海岸にフェニキアを中心として繁栄したイスラエル民族は

のシリア文明の一部として成長したと考えてよいシリア文明の

なかで遅れてやってきたイスラエルの成立はもとは農耕村落と

少数の原初的都市の集合体であった

イスラエル民族成立以前のこの地域の考古学的時代区分は

のようになる

1

初期青銅器時代前三五〇〇│二二〇〇

2

中期青銅器時代前二二〇〇│一五五〇

3

後期青銅器時代前一五五〇│一一五〇シリアフェニ

キア文明

4

器時代第期 前一一五〇│九〇〇

5

鉄器時代第期 前九〇〇│五八六

メソポタミアやエジプト文明は前一五五〇年以後もシリア

フェニキア文明は前一一五〇年以後ももちろん継続している

︒ ︶

5

イスラエル民族の成立

それではこのイスラエル民族はいかにしてカナンの地

6

出現したのであろうかそのためには前一二〇〇年頃にカナン

の地に大きな変動が生じていたことに注目せねばならない

学的に後期青銅器時代の末期から鉄器時代の第への移行期

である前一二〇〇年頃にそれまでカナンの地で乱立していた都

市国家が相ついで破壊され棄され衰退していったことが示

されているこのようなカナンの都市国家群を没落させたもの

いったい何であったかはっきりしていることはこの地方

へのわゆる海の民﹂︵

sea people

の侵寇である

海の民どうやらアナトリア半島の南部海岸に拠点を

もった海洋民族で前十三世紀後半から前十二世紀にかけて

地中海岸に侵入した謎の民族である

彼らはペリシテ王国

}

エジプト文明

7

メソポタミア・      

}

イスラエル文明

(5)

八三

イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―

Philistia, P e lešeth

のいわゆるペリシテ人五都市ザ︑アシ

ュケロンエクロンアシュドドをつくり他の地中海

東沿岸の諸都市を衰亡させていたこの衰亡した諸都市の農民

従来の地に居ることができずれまであまり住んでいなか

った東部の丘陵地帯に移って農耕・牧畜を続ける生活を選択した

と考えられる

しかし他方これと時を同じくして各地で既存の秩序の中に入

りこんでいたハビル﹂

Habiru

いう集団がカナン地方に出

現していたという事実にも注目しておかねばならないらは既

成の国家集団には属さずの法的保護の枠外にいた人々であっ

たようだハビルのこの地への移動も併せて考えねば

ならぬであろう

8

ところでこの中央山岳地帯への人々の集住について最近考古

学的に驚くべきことが知られるようになった一九八〇年代から

九〇年代にかけてイスラエルアメリカーロッパの研究者

によって来のように特定のテルを掘り下げてゆくの

ではなく範囲にわたる表層調査を行うことにより紀元前二

〇〇〇年頃の平野部の都市国家群の没落に呼応するかのように

北部のガリラヤ山地中央のサマリヤ山地そして南部のユダ地方

│つまりそれまで人々があまり住むことのなかったイスラエルの

表Ⅰ 中央高地における鉄器時代第Ⅰ期の居住地

フィンケルシュタイン&シルバーマン『発掘された聖書』,

145

ページ

(6)

八四

地に突然多発的に小規模な居住地が出現してきたことが分ったの

である後期青銅器時代には二五の集落しかなかったのに

時代第期には二五〇人口四万五千に増え鉄器時代第

では五〇〇以上人口十六万に増加しているそれらの集落は

みな丘の上のゆるやかな斜面などにつくられなかにはすでに都

市的なものもあったがシケムベテルイェルサレム

ヘブロン︶︑多くはみな村落規模の集落で人口はせいぜい数百

人程度で殿宮殿などの公共建築物はなく社会的階層性も

あらわれていないこの山丘地帯の文化は後の統一王国まで続

いているのでこの紀元二〇〇〇年頃にはじまった居住民の集団

後のイスラエル人の祖先│原イスラエル人であると考え

られる

しかしこの人たちはいったいどこからやって来たのだろうか

それが前に述べたような東地中海沿岸の都市国家の崩壊によっ

て山丘地帯に移り住んだ人々というだけでは従来のカナン人が

イスラエル人になったということで

いわゆるイスラエル民族の

9

言語的文化的特質をなんら説明することにはならないだろう

そこで筆者の考える仮説はこの原イスラエル人は決して一種

類のものではなくむしろ多様な集団の集まりでありその多様

な集団が相互の生き残りをかけて次第に共通の文化的統一性 をつくり上げていったと考える

まず第一にこれに加わっているのはアブラハムに率いられた

とされる集団かりにアブラハム集団と名付ける

はおそらく北シリアのハラムに関係をもった農耕牧羊民だが

ナンの地に下って当時ヘブロンを中心とする南に入って

新居住民集団の重要な一部を構成したと考えられる彼らの

羊文化ととくにの習慣を新集団の団結のしるしを示

すものとして導入したであろう彼らはいわゆるイスラエルの

﹂︵

Judah

Simeon

などの主要な構成員となったと思われる

第二にモーセに率いられたとされる集団かりにモーセ集団

とよんでおく彼らが云う六〇万は多すぎるとして数百人

の単位でエジプトを集団脱出した可能性がある彼らはシナイ半

島のどこかでヤハウェ信仰をとり入れこれをイスラエル新

集団の共通のものとして団結を強めたであろうそれ以前には

この中央山地の人々の宗教は近東一帯に拡がっていたさまざま

エルとくに農耕神アル信仰であったが

セ集団の影響により周辺勢力に対する精神的団結のよりどころ

としてこれをうけ入れたのであろうモーセ集団は十二部族

のうち中心部を占める

マナセ

﹂︵

Manasseh

︶︑

エフライム

(7)

八五

イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―

Ephraim

ベンヤミン﹂︵

Benjamin

の主要構成員となっ

たであろうかしヤハウェとエル諸神くにバアル神との対

立・対抗は後々まで繰返し続くことになる

第三は周辺都市国家の崩壊後に移住したカナンの農民たち

彼らはまことに多様な集団であったれをかりにカナン

集団名付けておこうしかし山岳高地の新居住居者たちが

いちはやく農耕作業やその施設の建設をやりえたのはれらの

居住者の存在による中央高地の東側の斜面には大麦麦の栽

培が行われ西側斜面にはオリーブやブドウの樹が植えられた

この移住者たちは二部族のうちアシェル﹂︵

Asher

︶ ︑

ナフタリ

Naphtali

﹂︵

︶︑

ゼブルン

Zebrun

﹂︵

︶︑

イサカル

Issachar

︶︑﹁ダン﹂

Dan

︶︑﹁ガド﹂

Gad

︶︑﹁ルベン﹂︵

Reuben

などの部族を構成したであろう

まりイスラエルの二部族というのはヤコブの十二人

の息子たちを祖とする種族ではなくまたヨシュアが

彼らに土地を割り当てたというのでもなく一二〇〇年頃から始

まった移住者たちの土地的集団的まとまりを示しているものだと

考えられるのであるそしてその集団が相互の生き残りをかけ

宗教的文化的統合を推め︑﹁イスラエルという連合体をつ

くっていったと想定してよいだろうつまりアブラハム集団

表Ⅱ イスラエル十二部族のカナンへの定住。『旧約聖書』新共同訳,

2001.

より

(8)

八六

モーセ集団﹂﹁カナン集団という三つの集団がエジプトとアッ

シリアの二大勢力の間にあって言語慣習を一にして強固

に団結して原イスラエルをつくり上げたのである

10

実際ラメセス二世の息子メル

・エン

プタハ

在位前一二一三│一二〇三パレスチナに遠征したときの記

Mer -en-Ptah

念碑が残されておりそこにはじめて前一二〇七聖書外の史

料にイスラエルの名称が登場するがそれはまだ一種の種族

連合体であったことが示されている当時ようやくイスラエルと

いう部族連合体がつくり出され相互の団結のための文化的きず

なを生み出しつつ囲のペリシテ人アンモン人モアブ人ら

との差異化をはかって民族統一体として自らを保ったと考えら

れる

その文化的きずなとはまず第一にヘブライ語の使用であ

ついでヤハウェ信仰﹂︑そしてのよう

な習俗でありまたある種の食物規定である際この原イ

スラエル人の居住地からは周辺地域と異なり豚の骨が現われ

ないことが考古学的に実証されている

統一王国時代

前一二〇〇年以前からすでに都市国家を形成していたカナン人 この時期に前後して民族国家を建設した東方や南方のアン

モン人モアブ人エドム人とは異なり当初のイスラエルの

人々はその後二〇〇年も国家形成や王制の設立を行わなかった

それは偶然とは云えず彼らの宗教│ヤハウェ信仰は種族的な

ものだとしても国家

宗教ではなく国家によって上から定めら

れ強制されるものではなくあくまでも神と個人との契約に基づ

くものでその意味で平等な社会であり王のような特別な権力

者は認められなかったのである従って二〇〇年間この種族統

合社会では士

Judges, Š ō ph ē t ī m

とよばれる一種の指導者

が選ばれ事に当っていた

11

しかしイスラエル種族統合体が次第に大きくなり他国との通

商の増大や戦争の頻発などにより内部の集権化や外敵に対する

軍事化が必要となってきたとくに緊急を要したのは西南のペリ

シテ国との対抗であったペリシテの都市連合王国は東のイスラ

エル地域への侵入をしばしば試みそれを迎え撃って勝利するに

どうしても一時的指導者たる士師では対抗できずこちらも

統一的持続性をもった王制をとった強力な軍事力で刃向うよりほ

かはなかったそれゆえ士師預言者であったサムエル

Samuel,

Š e mû ē l

の時代にまずサウル

Saul, Š ā ū l

がイスラエル全

体の王に立てられ彼がペリシテ人との戦いで戦死した後には

(9)

八七

イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―

彼の下で戦功をたてていたダビデ

David, D ā wid

が輿望を担

って王位についた彼はペリシテ人の軍隊を徹底的に破って

らを海岸地方に押し戻しいわゆる統一王国を築き上げた

彼は軍事的天才であったばかりでなく政略にも富み周囲の国々

アンモンモアブエドムを抑え込むと自らが七年間統治

していたユダの主都ヘブロンに置いてあったヤハウェの契約の

をイェルサレムに搬入しあらためてここを統一王国

主都としたイスラエルは彼の統治下の数十年の間に部族連合か

ら統一王国へと発展したがその実質的な支配領域はダンからベ

エルシェバまでのいわゆる十二部族の居住範囲で周囲の国々は

ただ勢力下に抑えておくにとどめたようである

ダビデについては伝説が多いのでその実在性を疑うものもな

いではなかったが一九九三年から九四年にかけての調査で

スラエルの北方テル・ダン

T ell Dán

いう遺跡からアラム語

の碑文が見つかりそこにダビデの家という刻文が見出され

たことによりその実在性がほぼ確認されたと云ってよい

12

ダビデは四十年間統治したと云われているが︵﹃列王記

2

章│

11

前一〇〇六年頃│九六六年︶︑その治世の末期

には必ずしも安泰なものではなく王位継承についても争いがあ

母親を異にする息子アドニヤ

Adoniya, Ad ō ni â

とソロ モン

Solomon, Š e l ō m ō

との確執が生じた結局ソロモンが勝

って︑彼は前十世紀のなかばに即位した︒在位前九六五年

二六年

彼はエジプトフェニキアアラムアラビア半島などと幅広

く交易を結び莫大な富を蓄えたと云われるこの富を利用して

主都イェルサレムを中心に大規模な建築活動を行った市の北東

部にレバノン杉で装麗な神殿を建てかつてダビデがもたらした

契約の箱をそこに安置したソロモンはこの神殿のほかに自

らの豪華な宮殿もつくったといわれるがそのあとは残っていな

しかしハツォルメギドゲゼルに同一様式の構造をもった

城門のあとが発掘されているからそれらはソロモンの時につく

られたのであろう

またソロモンの時代にはこの経済的繁栄の下に貴族階層

記階層戦士階層職人階層などの社会階層の分化が生じ

ぞれの専門家が現れたとくに﹂︵

scribe, s ō ph ē r

︶と

ばれる文字を扱う役人が重要な役割を演ずるようになる

旧約聖書のヤハウェ︶資料というのはこのあたりの時代

から書かれはじめたのであろうまたこのことは次の時代に

預言者が現れその内容が文字で我々に伝えられるよう

になるソロモンの時代に重んぜられたエジプト由来の

(10)

八八

文学の勃興もこれによる

13

けれども栄華を極めたソロモンの時代にはまた多くの理

想化され誇張された部分ティフサからガザにいたるまで

フラテス西方全域を支配下においた﹂︵列王記章│

などの記述は明らかに誇大でありその支配領域はダビデのと

きのものとさほど変りはなかったであろう

シェバの女王の来訪に象徴されるように諸外国との接触も深

かったと思われるが周辺諸国の記述にソロモンの名が登場す

ることはほとんどないのは意外である

統一王国の分裂から北王国イスラエルの消滅まで

ソロモンは政治的能力も経済的能力もあったがその富の蓄積

は税の苛斂誅求や強制労働の強化によって人々の恨みをかうも

とをつくったまた貧富の差も拡大しその富の方も享受したの

貴族・官僚層など宮廷文化に属する南のユダ族出身者であっ

働かされ搾取され続けた北側の人々は九二六年のソロモン

の死を機としての不満を爆発させたソロモンの子レハブア

ム︵

Rehaboam, R e hab e ā m

在位前九二六│九一〇は南のユダ

部族などの王権をつぐことはできたがエフライム以北の部族た

ちはシケムに会議を開き統一王国からの離脱を宣言した て彼らの指導者だったヤロブアム

Jeroboam, Y ā rob e ā m ,

在位

前九二六│九〇七亡命中のエジプトから呼び戻して彼らの

王としたここに北王国イスラエル南の王国ユダ

きく分裂してび統合されることはなかった

その後北王国イスラエルの王は十九代を数えることになる

クーデターによる王朝交代が頻発し十九人の王のうち八人

が暗殺や自殺においこまれ三代以上にわたる王朝を形成したの

後述のオムリ王朝とイエフ王朝のみであるこの不安定性は

北王国ではイスラエル系の神ヤハウェとカナン系の神バアルな

どとの対立がつねに止まずそのためそのころから社会的力をも

った預言者たち﹂︵

prophets, n e bî îm

が出現して王権への反

逆に肩をもったことが挙げられよう︒︵いわゆる預言者

躍は分裂後のことなのである︒︶

オムリ

Omri, Om e rî

はユダヤ軍団の司令官であったが

乱の結果王に挙げられた在位前八八五│八七四︶︒他のイスラエ

ル王と異なり素性も父も不明であるそれにもかかわらず

の後比較的安定した王朝をつくり得たのは周辺国との葛藤を避

共存共栄を目指す路線にきりかえたことによろうオムリは

また北のフェニキアとも同盟を結び

シドン王の娘イゼベル

Izebel, Ī zebel

を息子アハブ

Ahab, Ah e ā b

妻として迎

(11)

八九

イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―

えたまた彼はそれまでの北イスラエル王国の首都をティルツァ

からサマリアに移したそれまでのイスラエル系でもカナン系で

もない中立の都市を新設して両者の軋轢を緩和するためであっ

オムリの息子アハブは父王の政策を継承して自分の娘を南ユ

ダ王国の王子と結婚させているしかしアハブの妻イゼベルはカ

ナンの豊穣神バアルを崇拝しヤハウェ信仰の人々を迫害したの

それに対し預言者エリヤ

Eliyah, Eliyy ā hû

反逆したこ

とはよく知られている︶︒アハブの息子ヨラム

Joram,

Ye r ō r ā m

の王位にあったとき前八四五年アラム王国のハザエ

ル︵

Hazael, Hazeh ē l

が南進してきたのでこれと戦い負傷して

イズレエルで休養中ときのイスラエル軍の指揮者イエフ

Jehu,

Y ē hû

がクーデターを起しヨラムのみならず王母イゼベルを

はじめオムリの一族を皆ほろぼしたの背後には預言者エリシ

Elisha, El ī š ā

の教唆があったとされオムリ王朝の異教

アル崇拝をこの際断ち切り来のヤハウェ信仰に戻す一種の

宗教改革を狙ったとされる実際イエフが実権を掌握した後

アル崇拝者を虐殺したと伝えられる

イエフ在位前八四五│八一八が王位についた後イエフ王朝

はほぼ百年持続するがそれは概して多難の時代であった

頃再び東方アッシリアの勢力が及んできたからであるしかし四 代目のヤブロアム二世在位前七八二│七四七の時代は

シリアも国内の分裂もあり力も弱くなったのでイスラエルの土

地も大きく回復されソロモンの時代に匹敵するような経済的繁

栄を謳歌した他面その経済的繁栄の利益を得たのは少数の特

権階級の人々だけであったのでそこに貧富の差による社会層の

分断と不平等が増大したそのときイスラエルの最初の記述預言

者アモス

Amos, Ā môs

が登場しこの格差社会を強烈に批

判したことは注目される︒︵後述

イエフ王朝が途絶えた後北イスラエル王国の最後の王となる

ホシェア

Hoshea, Hôš ē a

在位後七三二│七二三はじめ

はアッシリアに臣従していたがティグラトピレセル

T iglath-

Pileser

大王が死ぬとエジプトと結んでアッシリアへの貢納を

拒否しイスラエルの独立をはかったしかし彼はティグラト・

ピレセルを継いだシャルマナサル五世

Š almanassar V

に打ち

破られ捕えられてアッシリアに送られた王を失ったサマリア

の人びとはその後二年間に亘り抵抗したが前七二二│二一年つ

いにアッシリア軍に征服されたこの戦いの間にシャルマナサル

五世の王位を奪ったサルゴン二世

Sargon II

サマリアを

占領した後住民の強制移動を行い彼らをアッシリア領の各地

にばらまきその代りにアッシリアによって征服された複数の異

(12)

九〇

民族をサマリアに送り込んだこの移住政策が被征服民の民族

性を解体するのにいかに有効であったかは散らされたイスラエ

ル人が移住先の人々に吸収されもはや神の民として自己同

一性を保ち得なかったことによって証されるかくて北王国を構

成していた部族は︑﹁失われた十部族とよばれるようになる

このようにして北イスラエル王国は滅亡したがその際かなりの

人々が難民として密かに南ユダ王国に逃れたと推定される

北からの移住者によって北イスラエル系の伝承資料エリヤ

やエリシャの物語預言者アモスやホセアの言葉などが南のユ

ダ王国に伝わり後の加筆補正をうけて最終的に旧約聖書にとり

入れられたと思われる

南ユダ王国の継続と滅亡

北イスラエル王国が滅亡した後も南のユダ王国はなお一五〇

年ほど継続した北イスラエルでは王朝はしばしば交代したが

南ユダ王国はアタルヤ

Athaliah, Athaly ā hû

の六年間を除

十九代の王はすべてダビデ王朝に属する

14

南のユダ王国にとって最初の大きな危機は第十三代目の王ヒ

ゼキヤ

Hezekiah, Hiz e qiyyâ

在位前七二八│六九七のとき

アッシリア王センナケリブ

Sennacherib

在位前七〇六│六八 が前七〇一年にシリア・パレスチナに遠征しユダ王国もラ

キシュをはじめ多くの拠点を占拠された結局ヒゼキヤはセンナ

ケリブに降伏したがイェルサレムは占領されずセンナケリブ

は撤退したこのとき預言者イザヤ

Isaiah, Y iša e ā hû

が登場

ヒゼキヤを強く激励している︒︵後述

ヒゼキヤの息子マナセ

Manasseh, M e naššeh

在位前六九八

│六四二の長い治世の後その息子アモン

Amon, Ā môn

位前六四二│六四一︶は即位の翌年に臣下の陰謀により暗殺され

アモンの息子のヨシヤ

Josiah, Y o šiy ā hû

在位前六四〇│六〇

が八才で即位し第十六代目の王となったが彼こそ南ユダ

王国の王で後期の最も注目に価する人物である彼の治世一八年

二十六才のときに改修中のイェルサレム神殿から︑﹁律法の書

なるものが発見されたがこれは後の申命記のもととなるも

のでいわゆるシヤ改革原点となった

ヨシヤはこれに

15

基づいてイェルサレム神殿の祭儀をヤハウェ宗教に純化するとと

もにイェルサレム以外の地方聖所をすべて廃止し祭祀をイェ

ルサレム神殿だけに限定したこうした改革を行ったヨシヤも

当時アッシリアに代わり抬頭してきた新バビロニアやメディアの

連合軍と対峙したエジプトのネコ二世

Nechoh II

とメギドで出

Jehoiakim,

(13)

九一

イスラエルにおける「精神革命」(Ⅰ)―古代イスラエルの社会と思想―

Y e hôy ā qîm

在位前六〇八│五九八新バビロニアに臣従してい

たが遂に反逆を試みたので新バビロニアのネブカドネツァル

二世

Nebuchadnezzar II

前五九八年にイェルサレムを攻め

ヨアキムの継いでいたヨアキン

Jehoachin, Y e hôy ā khîn

在位前

五九八│五九七をはじめ神官軍人技術者を捕え

殿の財宝とともにバビロンに移したこれが第一次バビロン捕囚

であるしかしこのときはユダ王国はまだ亡ぼされずイェルサ

レム神殿も破壊されなかったそしてヨアキムの叔父ゼデキヤ

Zedekiah, S id e qiyy ā hû

在位前五九七│五八七が王位を継い

彼ははじめはネブカドネツァルに忠誠をつくそうとしたが

自国の好戦派にそそのかされてバビロニアからの独立をはか

る周辺諸国アンモンモアブドムなどとともに前五八

八年反乱を起したこれに対しネブカドネツァルはすぐ反応し

前五八七年のはじめにユダの全領域を征服しゼデキヤは捕えら

れて目をえぐられ行政的宗教的知識人とともにバビロンに送ら

れたこのときイェルサレムは徹底して破壊され殿も火を放

たれ焼きつくされたこれが第二次バビロン捕囚であるかくし

て南のユダ王国も滅亡したのである

すでにエレミア

Jeremiah, Y iremey ā hû

が預言したように

神は決してユダ王国のためだけに存在するのではなくそれも過 ちもおかせば罰し亡ぼすことによって世界の歴史を審判するの

である︒︵後述

アッシリアによって亡ぼされた北王国と新バビロニアによって

滅された南王国とではその後の運命は異なっていた前者では

アッシリアの強制移住政策により北イスラエルの人々はアッシリ

ア各地にばらばらにされてしまったが後者では移住後バビロン

近傍にまとまって住むことが許されユダ王国の知識人のまとま

りは崩れず民族的同一性は保持されたイスラエル十二部族の

うち王国滅亡を越えて生き残ったのはユダ部族を中心とする

旧ユダ王国の人々だけであったのでここからギリシア語で

ウダイオイ﹂︵

Iouda oi

とよばれるいわゆるユダヤ人

いう呼称が生れた

ともあれ北イスラエル王国につぐこのユダ王国の滅亡は

ユダ王国の知識人に激烈な影響を与える彼らの神ヤハウェは彼

らの王や国を救うことなく亡ぼしてしまうこともいとわないこ

とがはっきりとしたからであるこの事実についてあらため

て彼らはイスラエルの民の歴史を再考察しなければならなくなっ

た︒これには二つのグループがありその一つはユダ王国で公的記

録を編纂していた役人・書記たちでいわゆるヨシヤ改革

参照

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