︻史料 紹介︼茨城県巡査
﹁飯塚源造日記﹂︵明治前期︶︿そのー>1明治九年那珂郡一揆への警察活動の記録ー 長谷川伸三・高橋裕文・会澤潤子編
号8第叢論浦五 3
⇔軸く 須・芳賀・塩谷・河内郡での一揆幹部の捜索・逮捕のための活動を記録したもので︑事後の復命報告のためか︑一日ごとの行動が詳細に書 モれ五月晦日︑古ヶ崎村稲荷へ代参仕候︑夫より戸頭村迄帰宅仕︵明治七年︿一八七四﹀︶
4 鋤 かれている︒とくに圧巻なのは③11︵および③ー3の一部︶の日記四月十八日︑守谷町二探索御用二付自宅罷居候
踊幽劃日で︑ 一揆幹部の人相書が載せられ︑髪型や顔立︑体格︑声の特徴︑妻帯の有無まで細かく記され︑従来言い伝えでしか分からなかった人間像が彷彿と浮かび上がってくる︒また重要なのは︑そこに紙漉き︑煙 八月二十五日︑乙子村より戸頭村へ参り自宅泊り一 ︵明治八年︿一八七五﹀︶ 二月二十二日︑取手宿出立︑戸頭村昼︑夫より高野村・大柏村順
灘囎虹酬蹴
五月十九日︑戸頭村迄帰り︑戸頭泊り嘉永六年︵一八五三︶以来︑関東取締出役管轄下の守谷町組合︵二十
号8第 ︵﹃茨城県警察 境町支庁で警 実翌三月八日から出 上巻︑一六 ︵第一四大区︑飯塚らは八月に引 同 ﹃閏東
一 5
叢 飾・相馬両郡の︷部が茨城県に編入された︵﹃茨城県警察史﹄上巻︑三六七頁︑﹃守谷町史﹄三四三頁︶︒であるから相馬郡は明治六年三年月日役 職発令者
論浦五
八七三︶から同八年三八七五︶までの二年間︑千葉県に属していたのであった︒︵明治五年︶ 二・二十七
︵捕亡方︶六等附属印旛県
6
九・十五︵明治八年︶相馬郡野木崎村在勤〃管轄下妻支庁警察掛龍ケ崎出張所
︵三︶ 六七十一・二十九︵明治九年︶ 六・十六 八日二十二警察掛一等附属一等選卒茨城県三等巡査第四課雇︵探索掛︶警察第九出張所詰
名村町 すが#菅生村︑内守谷村︑寺畑村︑新宿村︑つつど筒戸村︵九大区一小区︶
飯塚はその後︑明治十年二月取手警察署詰︑同十一年三月土浦警察 岡村︑寺田村︑野之井村 ︵九大区三小区︶
署詰︑同十三年八月四等巡査任命︑同十四年三月三等巡査任命など︑
号8第叢論浦五 明治九年︵一八七六︶十二月十日から︑飯塚は那珂郡一揆の 任地を離れ茨城県北西部から栃木県にかけて一 ︑︐揆幹部の探索をおこなった︒その行程は何度も書き直され︑四種類の行程が重複して書かれているが︑およそ整理してみると次のようにな なお行程が大きく異なる場合は︑他方を︻︼で示した︒
二十一日二十二日 ひ Φさカ ひざわ たかぶ お だ上小瀬村←氷ノ沢村←下・上桧沢村←高部村←小田の野村︻←上小瀬村︼︵泊︶ こぶね小田野村←大岩村←小舟村←上小瀬村←北塩子村←τるた照田村←野上村←岩崎村︵泊︶ 泊︻上小瀬村←北塩子村←照田村←野上村←久慈郡小
7 年月日探索行程︵茨城・栃木県︶
二十三日二十四日二十五日二十六目二十七日二十八日二十九日
8
十一日十二日十三日十四日十五日十六日十七日十八日十九日
のであるが︑ ト その際一揆幹部の特徴を記した人相書が使われている︒そこで書かれている幹部の名前は次のようである︒
山野を躁渉し探索できたのも︑
逃亡していた小林彦右衛門の立ち回り先としては︑ しかし︑彦右衛門は磐城国白川郡桂田村で逮捕されている︒こうした探索により追い詰められ︑ 各地の戸長の持つ戸籍簿や地図︑さらには広い人脈を利用したからであろう︒大区小区制の下で戸長・副戸
9 一 村 名 11ψ一揆幹部名︵二十一名︶長として再編成された村役人層は︑く発揮したのであった︒権力の末端としての機能を遺憾な
上小瀬村
ので︑飯塚らが長五郎宅に行き︑はいないといわれた︒ 妻の実家の久慈郡赤土村後藤長五郎方から十二月十一日に妻を連引したということな 彦右衛門は長五郎宅に潜伏している見込みであった︒ところが︑ 家内の者に尋ねると彦右衛門は立ち廻って 明治十年︵ 八七七︶ 月二十八日︑ 捕縛された主な幹部は次の通り
小舟村内田六兵衛︵三郎右衛門︶︑*本橋治左衛門︑内田であった︒
幹部名
逮捕期日逮 捕 状 況 氷之沢村彦右衛門︑岡崎作兵衛本橋治左衛門十二月十九石塚戦争で負傷し︑茨城郡錫号8第叢 ︵③11がある︶人相書には背丈︑これに︑ ﹁明治九年日記﹂︑③ー3﹁︵探索日記︶﹂︑*は双方に記述 肉付き︑色︑顔︑眉︑鼻︑口︑歯︑言舌︑種痘あと︑髭︑髪︑妻帯などが詳しく書かれている︒ 明治五年︵一八七二︶の壬申戸籍の家族関係による親類縁 日午後三時
論浦五
者の情報を加え︑ 茨城郡・那珂郡︑栃木県那須郡の村々を探索した︒茨城県南の地を任地とする飯塚が︑土地勘のない茨城県北や栃木県で岡崎作兵衛十二月二十三日那珂郡野上地内で︑倉持・長岡・平間・堀込・飯塚・小林ら六
D軸パ幽
名の巡査で捕縛した︒岡崎は巡査岩間捨松・渡辺弥之助の首を検死し︑埋葬させた︒ 本橋治左衛門︑岡崎作兵衛の逮捕の場合は︑巡査六人で取り組んでいる︒これは︑前日に探索により隠れ家を確認した上で付近に宿泊し︑次の日人数を集めて逃げられないように包囲して捕縛した︒捕縛すると︑警部臨時出張所が置かれていた大宮宿まで護送し︑取り調べを行
10 鵬駅栗田清助一月十一日氷之沢村で捕縛された︒い調書を作った︒
部髄繊劃継蹴大町善六十二月十八日︵十七日か︶ 日記には︑上小瀬村大町善六と野口村川澄瀧鵬の調書が載せられている︵③ー1﹁明治九年日記﹂︑③ー3﹁︵探索日記︶﹂︶︒このうち大町善六調書には︑明治十年︵一八七七︶の官側の史料﹁那珂郡暴動録﹂にも書かれてなく︑いままで明らかでなかった事実が多々記されている︒特に重要なのは︑一揆蜂起の決定をなした会議の様子が具体的に述べられていることである︒それは︑十一月二十五日の上小瀬村岡崎
森島源之允十二月十九日大宮宿で捕縛された︒新八宅での会議で︑参加者は次の十三名であった︒ ︵上小瀬村︶岡崎新八︑小林彦右衛門︑小森太郎衛門︑大町小左衛
大町馬吉捕縛日不明上小瀬村で捕縛された︒ 門︑大町馬吉︑大町寅吉︑大町善六︵小舟村︶本橋治左衛門︑本橋利助︑小森銀次郎︑長山︵栗田︶
内田伊平捕縛日不明実は捕縛されていなかった︒善兵衛︑内田六兵衛︑藤田常次
川澄喜兵衛捕縛日不明川澄は﹁石塚戦争へ繰り込んだ時︑同村泉屋某へ火を掛け奔走し︑ひとかたならぬ暴行をした﹂とされる︒捕縛後︑調書が そこで︑岡崎新八・本橋治左衛門が﹁今般貢租の儀につき︑出訴を ・らち見込んでも︑戸長に差し出しては燈が開かないので︑村々で申し合わせの上県庁へ侵入すべし︒もっとも笠闘︵士族︶との申し合わせが行 ●き届いているので人数は多分に繰り出す︒かつ茨城県士族も繰り出す
取られている︒ 手はずになっているので︑諸人に他言いたさず︑密かに村々に申し勧めるべし﹂と話したので︑一同は同意した︒ここで︑笠間士族へ一揆
︵③ー1﹁明治九年日記﹂︑ ③12﹁日記﹂︶
参加への工作がなされていたということは従来知られていなかった︒この十三人が一揆指導部であったが︑これが血判を押し命をかけて運
号8第叢論浦五 動を誓い合ったという十三人であろう︵木戸田四郎著﹃明治維新の農た者の名が列挙されており︑その数は次の通りであった︒
11 業構造﹄一四九頁︶︒実はこの十一月には﹁明治九年減税歎願書連名簿﹂が作られていて︑上小瀬村十三人︑小舟村六人︑氷之沢村三入︑
村名 逮捕 自訴 合計
五五人楽① 八人 九人 一人 一人 二人 一人 一人 一人二〇人※③三八人 一人四三人※② 一※①このうち三六人 は十二月十四日 に逮捕︒※②十二月十六日に 逮捕︒※③この二〇人は村
また︑十二月十日︑一揆勢と県官・士族隊が戦った石塚村で銃を発
合計
九九人八二人一八一人 へ下げ渡された︒砲した農民の名前が記されている︒ ︵上小瀬村︶大町善六︑初田幸三郎︑初田源助︑初田善八︑大町太 郎右衛門 ︵氷之沢村︶︵平塚︶五左衛門 このうち︑平塚五左衛門は発砲したことを認めたが︑初田幸三郎は竹槍を持って出たが︑石塚では官員に抗敵せず逃走したとして︑鉄砲を持っていたことさえ認めなかった︒初田善八は岡崎新八の兄で︑一揆後自殺している︒ ③ー3﹁︵探索日記︶﹂には︑飯塚巡査らが取り扱った逮捕︑自首し
こうして︑七︶ そして︑一︑〇五八人︑
四月水戸へ書類が送付された︒ 明治十年五月︑ 実刑十二人︑ 一揆幹部と参加者が逮捕される一方︑自首し︑大宮警部臨時出張所で取り調べが行われ︑た︒また︑明治十一年︵一八七八︶六月には幹部クラスの数十人の判決がなされ︑同年八月には本橋治左衛門︵斬刑︶︑岡崎新八
三十三か村の人民一︑〇九五人に︑沙汰なし二十一人という裁判判決が下っ 一︑ 宦宦尢]人が明治十年︵一八七 願罪金 ︵絞刑︶︑
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号8第叢論浦五 吉田俊純﹁下伊勢畑村にみる明治九年那珂一揆の背景﹂︑﹃東京家政学院筑波女子大学紀要﹄第五集︑二〇〇一年吉田俊純﹁史料紹介・下伊勢畑文書にみる明治九年の農民一揆﹂︑﹃耕人﹄第七号︑二〇〇一年 ■
13
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︿史料﹀③ー1︑﹁明治九年日記﹂︵表紙︶︵横半帳︶﹁ 明治九年十二月十日 日 記 飯塚源造 ﹂一︑
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第四大区五小区 那珂郡上小瀬村巡査渡辺弥之助ヲ殺ス︑井二 〇 岡崎 新八石塚村ニテ警部恒吉ヲ砲発ス 三十二年六ヶ月同人妻ハ久慈郡赤土村後藤長五郎ノ娘二御座候那珂郡門井村大串幸五郎へ妹ヲ遣し候︑同郡小田野村大金庄吉是 ︵口Vハ新類之者候也
一︑ 16
同郡同村松草村戸長宅ニテ ○小森太郎右衛門 1
へ潜伏有之哉
公金ヲ奪取大巨魁人 三十五年︵張り紙︶
§那珂郡東野村半助井同郡高巣村名前不訳︑栃木県那須郡矢又村坂本坪名前不訳︑同人甥有之 ︹大耶抽∨那珂郡高部村︑大那内村︑大内村字荒屋敷ト申坪ニテ政右衛門︑碁下金村字ヲコチ坪堀江佐三郎︑佐貫村字岡多坪忠五郎︑夫より須 一賀川往来ノ西側ノ間等ノ内︑右村々へ立廻り候哉難計候也
︵窟子Ψ同人親類那珂郡鳥子村酒造家川野藤右衛門︑同郡入本郷村関伊三郎︑同人伯父ハ久慈郡盛金村字桧沢口坪字名サンシヨウ大夫同人伯父久慈郡小川村庄五郎是又親類候也
同郡同村 兵次右衛門事小舟村ニテ巡査岩間 ○ 大町 善六 〇捨松ヲ竹鎗ニテ突留ル 三十四年一ヶ月
17
︵張り紙︶一︑ 苒痰ォ方 ﹇︑髪半髪
号8第 一︑
叢論
︵張り紙︶農間渡世馬口労
浦五
同人兄相田常七ナル者先年より東京ノ方へ罷居候間︑若シ同人方 右之者十二月十八日捕縛相成候事
D 同郡同村︵挟み紙︶
初パ醐喘︵上小瀬村ニテ捕縛同村栗田新左衛門所ニテ刀ヲ取ル石塚村ニテ相勤巨魁人 ︑丈並体
一︑ 大町寅吉弟 大町馬吉○ 拾八年十一痘痕ナシ
ケ月
制ロ﹈
一︑ レ大ナル方一︑ 鼻低き大ナル方︵挟み紙︶
瀧鯛劃酬灘
一︑ F黒き方一︑歯並揃一︑髪惣髪 農間渡世ナシ右巡査岩間捨松ヲ一︑一︑一︑一︑眉太き方口並体言舌ノロシ肉太り候方 同郡同村 橋本角兵衛
18
竹鎗ニテ突留ル一︑丈高き方一︑目大ナル方一︑口大ナル方一︑色青白き方一︑痘痕無之一︑言舌アラキ方 農間渡世紙漉ケ月
﹂﹂
?W第叢論浦五 19
一︑ ハ長き方一︑眉細キ方一︑鼻高キ方一︑肉細キ方一︑言舌早き方 農間渡世煙草刻巨魁人一︑丈並より少々高き方
20
︵田子∨那珂郡鳥子村川野市郎平井真壁郡町屋村伯父井姉両人住居有之候 金間島∨由︑且伯父ハ高野村国松忠右衛門・那珂郡国長村源右衛門︑伯母ハ同郡吉丸村関照蔵・同藁村川上忠平︑同人ノ嫁ノ姉ハ野州︵晶響那賀郡武部村薄井嘉兵衛︑右場所へ立廻り候哉も難計候也 一︑面長キ方一︑肉中肉一︑眉太キ方一︑髪並体一︑一︑一︑一︑色黒キ方口並体歯並体鼻少々高き方 同郡同村 同郡同村 市太郎事自首 O 長山鷹之助〇 二十三年五ヶ月一︑丈並体 一︑色白キ方 大巨魁人一︑丈並体一︑眉太キ方一︑色小麦ハタ一︑眼並体
一︑一︑一︑一︑
号8第叢論浦五 ﹇︑
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号8第叢論浦五 二等 戸田伸蔵 笠間町 八百屋弥右衛門右之者より本橋治左衛門距跡探索仕り候趣ヲ以石塚村ニテ面会致候 一
23
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号8第叢論浦五 半七妻ハ治左衛門ノ姉治左衛門妻ノ姉縁付十二日治左衛門二見掛ケ候者治左衛門弟縁付居候嶋半七ノ生家治左衛門妻ノ姉縁付治左衛門弟治左衛門妻ノ妹縁付居候
26
号8第叢論浦五 27
D靱く 同十六日︑右同断滞在︵張り紙︶同廿六日︑同所出立︑同郡狭原村外弐ケ村ヲ経テ大田原駅一泊り︑里 程五里︑一同落合
測酬棚間日髄麟
同十八日︑同所出立︑同郡高久村︑勝見沢村へ本橋治左術門距跡 探索致し︑阿波山村へ一泊り同十九日︑阿波山村出立︑春園村より錫高野村へ出張︑同日午後 三時頃︑同村治左衛門捕縛之上大宮宿へ一泊り
虹巡︵張り紙︶
継茨 倉持政之助 堀込 東馬 飯塚 源造 ︵肥珂郡∨本月廿日︑大宮駅出立︑同郡上小瀬村一泊り︑里程三里 ︷下桧8同廿一日︑同所出立︑同郡氷ノ沢村︑桧沢村︑上桧沢村︑高部村︑小 田野村工一泊り︑四里同廿二日︑同所出立︑同郡大岩村︑小舟村︑上小瀬村︑北塩子村︑照
同廿七日︑那須郡大田原村出立︑同郡大和久村︑髄村︑鹿畑村︑ 刈切村︑宇田川村︑佐良土村経テ湯津上村へ一泊り︑ 里程四里拾八丁同廿八日︑同所出立︑狭原村ヲ経テ同郡黒羽町ニテ一同落合︑同 町桜屋元平宅へ一泊り︑里程弐里拾八丁
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号8第叢論浦五 29
一︑
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一︑
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一︑ 菇ム太き方一︑眼大き方一︑鼻高き方一︑唇厚き方一︑歯能揃タル方一︑職綿打渡世其外常体 本年十二月十四日捕縛人名左二
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号8第叢論浦五 35
一︑ 菇ム太き方一︑眼大き方一︑鼻高き方一︑唇厚き方一︑歯能揃タル方一︑職綿打渡世其外常体 本年十二月十四日捕縛人名左二
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号8第叢論浦五 37
一︑ 二日︑同廿三日︑同廿四日︑同廿五日︑
38
号8第叢論浦五 ∩ロ 3
﹇付記﹈史料の解読は高橋・会澤が行い︑長谷川が校訂した︒解題は高橋が作成した︒次回には①︑②を史料紹介し︑明治二年と明治七〜九年の巡査の勤務状況を明らかにしたい︒ 今回の史料紹介に多大の御配慮を頂いた同志社大学人文科学研究所︑高久嶺之介氏︑および牛米努氏の御教示に感謝致します︒ ︵二〇〇一年五月︶ ︹はせがわ しんぞう/本学人文学部教授︺ ︹たかはし ひろふみ/茨城県立東海高等学校教諭︺ ︹あいざわ じゅんこ/茨城県教育委員会︺