199
体育の社会学的研究課題
§文化社会学的側面の研究課題
鮪研究室 大 西 国 男
Topics of Sociological Research
in Physical Education (N。.5)
by
Kunio Onishi
Co皿tinue Some items for studyi皿g Culture〜Sociological
Profiles〜a, b, c, d
・)
窒?戟Eti・n b・tween・p・・t。 and,・。i。l m。bility
1.to be social mobility 2. sports in social mobility 3.sportmanships in social mobility
f)relation between recreation and social mobility 1.main obiect of recreation
2. recreation in grouPlivin9 3.recreation in socialmobility
乃σ7αん∫σ7z勿θ7s∫砂,ル翫o.1ごψαπ.
Oo 30,1962
§文化社会学的側面の研究条件 V 社会移動とスポーツ
1 社会移動ということ
さきにレクリエーションに関連する問題を社会変動の立場で研究することが可能である と述ぺておいた(紀要9体育社会学における研究の対象)が、社会の動きや体制の変化の原動 力となるのは集団内の個人の拘束や,地位,役割に関する問題,集団間の斗争や枇会的緊 張の問題などに深い関連を持つということができよう。
社会変動の問題は,以上のような社会的緊張を中心課題として考察するところに論拠を
置くのであるが,このような立場の中でレクリエーションやスポーツやアマチュアリズム の問題が如何にからみ合って実践されているかという事実が主題のねらいである。
社会的緊張を階級,役割,地位のような相互関係や社会的組織の面に重点を置いて論じ たり,集団内部や集団間における相互の心理的状態や態度行動に重点を置いて論ずるむき が考えられるが,そのヒになお前二者を融合した全体的な立場で,体制や構造の変化とい う点に仁眼を概いたもの即ち,巨視的な立場で…社会体制から他の社会体制にいかに変化 し変遷してきたかに焦点を置く場合もある。これは歴史的な過程において研究しようとす る立場である。
生活における不満,反感,競 争心,緊張,斗争などが社会の動きや体制の変革の原動力 となることは(前掲,現代社会学P.325)必然的なものであって,これの原因は個人問,集団 間の自己の安全福祉,利益,価値観などが他によって妨害され危うくされるのではないか という懸念によって生ずる緊張から来るということである。
紀要8号に集団の構造機能についていろいろの見解を掲げたのであったが,現在では総 合的社会変動の歴史的過程の研究や段階的発展的に社会一般の体制や構造の変化を論じて 行く試みが少くなり,むしろ実態調査にもとずく実証的,経験的研究が尊重される傾向が あると考える。事実現代において社会変動を思弁的,理論的に明らかな見解を表明するこ とは困難なことであろう。
従って,現代社会学の研究の力点は社会体系内部における変容の過程におかれることが 多く,全体的な変動過程に置かれていないのである。実態調査や経験的研究に重点を置く 現代では,調査技術の信頼性と精密化に著しい進歩と努力が重ねられ,これが最も重要な 要素として高く要求されている。従って,巨視的な広範にわたる全体社会的変動の研究に は多くの不便と繁雑を生ずることが予想される。この点で特定の社会の特定の領域の集団 においては,かなり多くの経験的研究の成果があがっていると見ることができよう。
集団構造,階級制度,人間関係,価値観などの特質,変化,進歩発展の諸現象について は社会学者の好んで研究する※主要な研究課題となっている。即ち社会的変動の研究が社 会的移動に席を空けて,全体社会の内部における個人,集団,社会的地位や勢力の推移を 探究する試みとなってきている。
※たとえば,技術革新がもたらす労使関係の変化,都市化の進行にともなう社会解体の諸現象,組 織体の官僚主義化にともなうホワイトカラーの増大,家族制度の変化と家族内の人間関係の推移,
教育制度の刷進と人々の職歴や社会的地位の変化,産業国営化や税制の改革にともなう階層構造の 変化などの問題は,こんにち実社会の動きに関心をもつ社会学者の主要な研究課題となっている(
へ O掲,現代の社会学P.329)
以上のような社会移動に対する概念からスポーツ,レクリエーション,アマチュアリズ
大西:体育の社会学的研究課題 201
ムの意義や価値について思索し,文化社会学的研究の一側面としてとりあげようとしてい
るo
2 社会移動とスポーツ
社会変動は社会体制の変動の歴史的な過程であって,巨視的な高度の流動性をもった現象 をとりあげて論じようとしているものであると述ぺたが,人間社会の長期的な動態として ・ 歴史学,政治学,社会学,経済学などの広範な対象を持ハのであるから,この問題の解明 には多くの困難が予想される。然し現実社会は変動し静止することを知らない。これは吾 々の実感として避けることのできない現実であり,過去の流れから現在に身をゆだねさら に未来に移動する人間社会の変動を身に滲みて感受するところである。
このような大きな流れの中においても吾々は流動の実在する地点(個人,集団)を取り 出して研究することもできようし,あるいはその一断面(地域社会)を取り出して分析し てみる可能性も十分もち得ると考えられる。このように横につながる層のいろいろの角度 からの研究から,次に重なる屑へと研究の課題を移して行くときやがてく長い過程を経る であろうが〉現在は過去になり,人類の歴史として文脈を作り得ることになろう。さきに 社会移動の立場において研究される傾向になって来たと考えた現代社会学の課題は,ここ でも十分意義をもっと考えることができる。
世界の歴史の転換期とも目される隣国における独立,中立など急激な国家的政治的経済 的な変動と大飛躍が云々されている現在に,吾々の身近な周辺において刻々と移り変るさ まざまな社会運動や労働組合,世論や政治的問題意識,その他の第二次的集団の飛躍的な 擾頭,階級的斗争のなまなましい現実は激しく流動する現代の特質とみるべきであろう。
社会の発展段階として,現在マルクス主義において述べるところによると,原始共同 体,奴隷制,資本主義,社会主義の四段階を設定し,はるか末来には共産主義の段階が展 望されているようである。 またその他の社会関係の類形化※は記述には役立っであろう が,全体的社会変動を把えるための体制概念としては静態でありすぎようとのぺている。
※コントの「神学的,形而上学的,実証的段階」という三段階説,スペンサーの「軍事型社会から 産業型社会へ」テンニーズの「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」デュルケムの「機械的連 帯から有機的連帯へ」(前掲,社会学,福武直P.185)
@ ρ
現代のスポーツとスポーツマンの姿に関する兎角の問題において,その主軸となるのは
社会的なりや非社会的なりやの問題であり,スポーツ社会のアマチュアリズム問題,スポ
一ツマンシップの近代的発展の問題であろう。
スポーツが近托社会の再建に役立ちスポーツマンシップが価値ある社会問題意識のうちに おいて発展するところに現代的感覚の成長がある。古代,中世,近世にわたって連めんと 流れるアマチュアリズムやスポーツマンシップは,その時代の苦難を背負いながら社会の1 響導に大きな働らきをしたものである。現代20世紀後半においては再び社会的問題として
その苦難に身をよこたえるといわざるを得ないであろう。而して古代,中世,近世のそれ
゜ に止まるものでなくて現代の祉会の要求と試練に答えて大きく21世紀に生まれ出でんとす るものである。
現代のスポーツは,すでに古代ギリシャのものでなく,近世イギリスのものでもないの であって,全く現代に適合したものであるという点を強調すべきである。現代のスポーツ は高度に発展して来た文化の中に生々発展し,個人と社会の存在の中で高度に文化化して 人類の発展と共にあり,この点では人類の生存形態そのものであるということができるの である。
史実に示される如くスポーツが社会的特性の中にはっきりした地位を占め,政治的宗教 的文化の形成に反映するところは大きい。中世の体育,ルネヅサンス後の体育は貴族の性 格を形成し,ゼントルマンシップがスポーツマンシップであり国家の独立繁栄と体操,植 民地支配の完遂がスポーツマンシップによって象徴される。このようにスポーツが人間だ けでなく人類の存在において特別の役割を果すものであることを認めざるを得ないのであ
る。
然し現代のスポーツがその時代の価値を創造し,その時代の信條に合致しているかどう かという疑問の発するところはどこか,それはスポーツを古い競争競技の模倣であったり,
体操を愛国的表現に置きかえようとする体操家的表現形態で満足しようとしたり,スポー ツがゼントルマン的気質のまね事であるというような印象を与えるところにあるのではな いかと、・う点である。
われわれが祖先から受け継いだ文化的所産として精神的にも身体的にも一歩踏み出すご とに積極的でなければ,現代のスポーツは発芽しないで止まるであろう。即ち時代の信條 に適応し時代と民族と社会とともに20世紀の苦難をのり切ることは不可能となる筈であ
る。
巷間でスポーツマンシップが保守的精神であり,前近代的感覚であって現代社会におい
ては過去に郷愁をもつ単なる文化財的遺産であるかに見るむきもある。このような見解の
啓蒙は軽卒な精神的立場でのみ理解させることは不可能であって,現代スポーツの認識不
足を招来するもとともなりかねない。然りといって精神指導者,教育者,歴史家,政治家
の誘導を待つのか,興味をもって自発的に働きかけて来る人を待つべきであろうか,最早
大西:体育の社会学的研究課題 203
それは許されないのである。
われわれは自分達の手で,スポーツやスポーツマンシップが現代の信条にかなったもの であるという明らかな態勢をスポーツマン自身が烈しい努力によってかち取り,うち立て るべき時である。このような誘導を信条とし使命とする指導者の現われることこそ現代ス ポーツを救うものであって,新しい指導者はスポーツの知識で万能なる力を発揮して,精 神教育と身体教育を指導する役割を受け持たなければならない。
スポーツのもっ大規模な教育的課題を果すためには,多くの学問的領域を必要とし,そ れら個々の領域が集約されて初めて現代スポーツの社会的意義を正しく認めることになろ
う。
スポーツマン〈現代に生活する人間として〉は近代的な諸自由権を保障され自由,平等,
独立を基本とする個人として行動することが可能である。このことはそれぞれ各自の目的 に応じ,それぞれ分化した集団を作り,それに属しあるいは多くの集団に同時に分属する ことによって各自の生活の自由を求め,身分的秩序からぬけ出し,また地域的封鎖から解 きほぐされて各自それぞれの生活欲求を充たしながら生きて行くことができるのである。
3 社会移動とスボーツマンシップ
スポーツマンシップの価値体系を自由,平等,独立の個人的行動の自由権におく事は勿 論であるが,奉仕,忠誠,愛清,没我,謙譲などの語彙によって表現する場合や,己の権 利を守るとともに相手の権利を尊重する正義と友愛の立場においては,すべてスポーツマ ンが己の目的に応じ己の選んだ集団の中において一定のルールのもとに自由に参加し,充 実したチームの発展と生活要求を満たさんがために集団の中から個人の昇華した姿である
と見ることができよう。
労働組合の勤労に対する報酬の要求は,奉仕の世界と異った信条の存在する事は当然で
ある。これは,この事に関する問題の出発点から考えて論ずべきであり,以上の言葉の本 質を自己の置かれる特定の立場におきかえ,理論上の合理的立場においてのみ論じようと するところに認識の不十分があり,議論の惹起点がある。即ちすでに知る如く,仕事と遊 戯,スポーツの内的,精神的相違に気が付かないためであ。る
仕事に対する報酬は当然要求すべきである。然しスポーツに対する報酬はアマチュアリ ズムの精神から当然考えられないことである。個人が自己と自己チームのために奉仕し,
同一目的的にグループのために献身することは,自由な自主的活動であり目的活動の一つ
である。これに対して報酬を要求することは起り得ないのである。然しこれが個人の目的
的集団でなく,自から参加した集団活動でない場合には明らかに拘束を生じ,しかも好ま
しくない活動を仕事のために奉仕するとすれば,そこには精神的圧迫と肉体的労苦を生じ 労働に対する報酬を要求する権利を生ずる。
このように異なった立場と異った条理に立つ二面が相対 した時,それぞれの接する点が 社会生活の現実面では全く共通した外観く外部的諸要素〉を持つ場合が多く,そのため両 者共通の価値体系や精神体系を持つ如く誤認する。ここで誤ってならないのは内部的諸要
素であり精神体系の面である。以一ヒのような異なった立場で夫々自己の立場を注張して譲 らないところにヌポーツと報酬,仕事と奉仕の混同を生ずる可能性を包含していると云う ことができる。
スポーツマンシップが日常生活に転移し,フェアプレーといわれる態度,行動が社会生 活の中で営まれるのは好ましい姿であることは理解できるが,地域社会,集団社会におけ
る人間関係から来る拘束の中においては,スポーツやレクリエーションのもつ諸要素をそ のまま受諾することは不可能である面がうまれてくる。この点に考慮を払うことを忘れス ポーツマンシップの転移を個人や集団に要求することが無理な場合をかえりみず,却って
自己意識過乗に陥ってしまう場合がおこる。
性格の形成にっいては先の紀要に述ぺたが,社会環境や集団内パーソナリティの形成か やがてある形の性格を形成する可能性を持つことは知るところである。然し,吾々は多く の集団の多くの役割をそれぞれ上手に処理する事によって生活するのである。それぞれの 社会,それぞれの集団において,その集団のもつイデオロギー,価値行動,生活習慣をう
まく調節することによって立派に社会生活を送って行く。これら各集団の特質や信条をス ポーツ集団のそれのようにスポーツマンシップによって万事調節を試みるのは困難なこと である。
スポーツマンなるが故に他の集団のイデオロギーに対してスボーツマンシップによって すぺて処理することは満足されない事もあろう。特に問題の焦点を仕貌こ対する報酬とス
ポーツマンシップによる奉仕において対立させる時は,相互の妥協は困難となる。
然しさきに触れた如く,スポーツとスポーツマンシップを時代の信条に合致し社会の要 求に応ずるように啓蒙,研究,指導すぺきであるから,スポーツマンシップをして前近代 的感覚の申し子であるといわしめる事には多大の反省と反発を持つべきである。即ち愛国 的表現,ゼントルマン気質,体操家的模倣から来ると思われる過去のスポーツ形態から明 らかに脱皮した近代的スポーツの存在価値を明確にし,伝承文化化したスポーツを飛躍し た立場で認識せしめるぺきである。
われわれが参加する集団体系のよって来る所が,人間の総括的な関心や欲求による自セ
的集団(未分化,実体的)と,人間の特定の関心や目的による意図的人為的集団(組織的)
大西:体育の社会学的研究課題 205
の何れに発するとしても,現代社会が大社会一大衆社会一総合的全体的社会へと移行する ことによって,地域的にも機能的にも隔絶されたく封建的,血縁,地縁にもとつく生活〉
生産力の未発達な,交通範囲の狭少な社会から脱皮して地域的封鎖からときほぐされ,身 分的秩序からぬけ出した近代的人間く平等,自由,独立の権利をもった〉として存在を保 つのである。
前近代的人間の如く他の社会から隔絶された孤立的な性格を全く持たないのであって,
目的に応じた集団を自由に作ることができ,他の社会集団にも自由に参加することができ るのであるから,スポーツ集団にあっても国際的交流発達に著しい進展をとげ機能的分化 の現実を見ることができる。
(参考)一般に遊戯,スポーツとよばれる行為はカントがく無関心性〉において規定したように,
第一次生活空間である生産,労働的技術から…定の角度と巨離をもって遊離した身体技術を基調と する第二次生活空間とも呼ぶべさ特殊な実存ということができよう。
われわれがスポーツマンシップと称しているのは,このスポーツという特殊領域を堺として体得 された,また体現さるぺきスポーツ精神であり,特殊なモラルの体系であり,それぞれの歴史的社 会的条件に規制されながらもなおこの国家や階級を超えた自由,平等,友愛に輝やくスポーツ王国 の憲章として華々しくかかげられていろものである(体育の哲学,P.116〜117:浅井浅一他,黎明 書房,1962)
L
Xポーツが夫々の歴史的社会的条件によって規制され時代の思潮によってその性格を異 にしつつ発展したことは事実であるが,やがてそれは民族や国家を超え階級を脱して独自 な世界を拓きっつ現実世界から遊離した存在となっていると云ってもよかろう。このこと はスポーツが独自な立場でしかもスポーツの世界独特の絶対的なルールくその競技者のあ らゆる活動から全く独立に〜この意味において絶対に客観的かつ無条件的に〜決定されて いる一っの明自な規定があります…競技者がその競技者としてあるかぎり,かれは一歩も その先に出ることはできません(スポーツの哲学,P23:滝沢克己,内田老鶴圃 1961)〉によっ て規制されているためである。
而して吾々の現実生活においてスポーツのもたらす超越的な至高の世界が現実的世界に 放つ光は強く現実生活に影響して離れるところがないのであって,かくの如く現実から遊 離した特殊的存在がその純粋性への憧れと祉会意識におけるある…つの規準となって現実 に反映するのである。即ち現実から遊離するが故に却って現実社会に価値を生ずるのであ
スポーツは生産,労働技術から遊離した身体技術を基調とするものであって,人間の生
活が生産的労働技術を根底とするものであるとすれば,スポーツは生産技術から昇華し抽
象化された特殊の技術世界を作っているのである。このように遊離し影響を与えながら密 着すると云う矛盾性を持っているのである。
スポーツが社会の信条と一致し,社会のイデオロギーと結ぶかけ橋となるところにこそ スポーツは技術的精神的最高頂であり,人聞能力,努力の極限であり,美的力である。然 し現実に自由k義国家と社会主義国家の二つのイデオロギーの中に解消され吸収密蔚され て,それぞれ国家機構の中にその現実の姿を出現しているのである。そこにプロフェショ ナルスポーツ,ステートアマチュア,ブロークンタイムペイメント,アマチュアスポーツ などの問題を投げかけるのである。
われわれがスポーツ的現実を考察するとき,いろいろの点で矛盾を感じつつあることは 事実である。身体と精神,ヒ体性と社会性を主軸とする対極的な矛盾的性格を包蔵してい
る。また必然性と偶然性,斗争性と協調性,娯楽性と厳粛性,原始性と近代性と云った矛 研性は,スポーツとスポーツマンの置かれる特殊的存立であると云うぺきであるα
而しでこのような現実の中ですぐれた健康と精神力の結合を希念し,主体性と社会性の 昇華がスポーツマンシップとしてのモラルを形成し,協同,責任感,遵法と自由寛容の精 神となり,自制,忍耐,沈着,敢斗,知性,礼儀,明朗,快活の如きスポーツ的人間像を 描きあげることができるのである。
このような交錯と矛盾の中にあってスポーツマンシップが現実から遊離し超越性を持つ ということが,神聖視され絶対視されるときスポーツに対する期待と要求はますます大と なり,現実生活面のモラル以一ヒに厳しい価値体系をもって批判される結果となって来る。
これこそ人々の憧れであり希望である。
斯の如く考えるときスポーツは現実社会の持つ生活の危機と緊張く実際には現在的瞬間 が危機ならざるはないというぺきであろうが,現実にはそのような瞬間が真に自覚される ことは極めてまれである〉の場合にあってなおかつ危険を克服し,不安から脱出すべく純 粋な自己存在的努力として精進するのである。
このことは不安から自己脱出をはかるばかりでなく危機的状況を変革することによって 純粋な自己存在を計るということであって,これがやがて何らかの社会的行動として発現
されることになるであろう。スポーツマンシップが現実から遊離してなおかつ現実から離 脱することが出来ず,却って現実社会に生きるものであり,再建への意志となり新しい創 造活動をなす基調となるものであることを知るに十分である。
以ヒのような現実より遊離するために,より現実的ならざるを得ないスポーツであるか ら,商業意志や国家意志によって毛体的人間の存在をおびやかされ,一方ではスポーツマ ンシップの可能性としてスポーツを人間形成の道とし,世界平和の道であるとすると同時
、
大西;体育の社会学的研究課題 207
に反面ではイデオロギー,民族対立の場として主体的人間の領域から去って国家や民族の 権力意志のままに利用され得る可能性をも持ち得るのである。
スポーツマンシップを現実から遊離した特殊な道徳律体系の中におき,現実の場と無縁 のものであるとして別格扱いすることは不可能である。スポーツはあまりにも吾々生活の 中に浸透しているのであり,しかも現実社会の様相はスポーツの場において再現されてい
るo
「スポーツは遊びであり生活は仕事である」「スポーツが気軽に楽しめるのは何といっ ても実際の社会での生活のようには重い責任がないからだ」(前掲スポーツσ)哲学P.16)ス ポーツは気軽であるが生活は真剣であるということは実際スポーツ競技場において許され ることであろうが,一度競拠こ対する気軽さ無責任さ投げやりな行動が生ずれば,それは 最早スポーツとしての興味もなければ意味もなくなってしまうのである。スポーツは一っ 一つが完結した人生の縮図であって,危機を打壊し不安の緊張を脱却しようとする人間の 努力の場に等しいといって過言ではない。
われわれは現実を直視することによって,失われつつある人間の主体性と自由・平等の 基本的権利をとり戻し,国家や民族の権力意志に身をゆだねあるいは転落崩壊する如き事 態に至ることに対して強い意志と自主性,生命性をもって立ち向うところに,スポーツマ ンとスポーツマンシップのもつ大きな使命を発見するであろう。
W 社会移動とレクリエーション 1 レクリエーションの本旨
レクリエーションに関する理論的説明は,いろいろの文献により多くの機会に理解する ことが出来るようである。然しこれらの理論のいくつかを考察しても,子供の遊戯に関す るものに論拠を置き「遊戯説」に関係して述べる場合が多く,十分満足されるような理論 的説明がなされている事が少ない。即ちあるものは不完全でありあるものは一部の説明に 止る場合も多いのである。これらの説明は誤まりであると云うことはないが年令,性別,
環境,個人の要求,生活機能,民族性などによって種々雑多なレクリエーションの選択が なされるので,派生する論旨に広範囲にわたる説明の必要が生ずるのである。
このことがレクリエーションの定義を打ち立てるために困難を来すもとであり,レクリ
エーションの重要性と人生におけるレクリエーションの意義の考察を進める上の課題とな
っているのである。レクリエーションに関する理論のかずかずを考察して行くとき,そこ
に社会移動による現代的なレクリエーションの考え方を知ることが出来るのであって,現
在レクリエーションのプロフィールやレクリエーション活動の傾向,人間的要求などレク
るo l レクリエーションが人間生活の重要な一部面であり,しかも電要な彼詞を果していると 云うことが,メ{められるようになったのは最近のことであり「遊び」よりもずっと広い意味 を持つと云うことがわかって来た。然し遊びとレクリエーションが同意語として用いられ ないこともないのであって,これはおとなのレクリエーションを特徴づけるものは子供の 遊びのそれと殆んど同じであるというところにあろう。
人々は外部的な強劇によらず専らその内部的衝動によってのみ種々の活動を欲し,無数 の類をメ暴にするレクリエーション活動が生まれる。人間の老幼,男女の共通にもつレクリ エーションへの欲求は山新しい経験への欲求②創造的表現への欲求③身体活動への欲求
④社会関係の満足⑤競争のよろこびであり,これらの活動欲求く身体活動〉は基本的なも のであり健全なレクリエーションとして効果を期待しやすいものである。現在の体育がレ クリエーション問題の解決と関連してその目標を考えるのはこの事情から首肯されよう。
レクリエーションの選択は,各人自己表現の機会を見出し,楽しみ,くつろぎ,スリル や競争意欲,仲間意識,興奮,挑戦,参加のよろこびなどを得るところに存在するのであ って,選んだ経験がこの活動を満足させない活動であればそれは最早レクリエーションと いうことは出来ないのである。レクリエーションとしての価値を持つためには,活動がそ の人の身体的,精神的,情緒的な要求に合致したものでなければならないのである。
以上のような特徴から考えて,レクリエーションは①参加者を元気づけ健全で人生を農
かにする(Anderson, J.M)②仕事その他拘束的活動く睡眠・食事・身仕度・通勤等〉 「
から解放され,自由な時間leisureに営まれる自発的活動の総体である「(Newmeyer・
M.H, Crosby,N)の如き説が生まれるのであって・結果よりも何かをしていると云うこと 自体に興味を持つのである。
レクリェーションの活動形成は①明らかに快適な活動に対する衝動を満足させ得る度合 に関連して,選択し得る機会の範囲が定まるのであり②その場における直接の満足によっ てそあ活動をもたらすのである。従ってレクリェーションの選択は個人の主体的条件及び 環境的条件によって多種多様である。しかも前者に徹して選択することは困難であり,現 実事態の処理はむつかしいのであって,後者の見解にたって選択される場合が多い傾向に あると云うことができよう。
レクリェーシ・ンの内容に関する適切な表現は困難であり,類語または訳語をもって註 釈を加えるには多くの不備がある。 J.R. Sharmanは余暇を賢明にかつ上手に1吏うこと
である<wise use or good using of leisure time>と定義している・
大西:体育の社会学的研究課題 209
レクリェーション活動を考察する場合に考慮すべき問題としてとり上げるとき,次の事 柄を検討する必要が生ずる。
その1 余暇とレクリエーションに対する関心が広まると余暇とレクリエーションは密 接不離のものであって,本質的には同一であると云う誤謬をおこすようになって来る。然
し余暇=レクリエーションであると云う考え方には多分に難点がある
余暇は個人に休息,くつろぎ,生命力を与える時間であり,余暇利用を賢明に有効に行 うことは人々の生活の一部面であり最も重要なことの一つである。多くの余暇を持ち得て もレクリエーシヨンとして利用する機会がなければ,それは却って無益有害となる可能性 を持っている。余暇を利用することによって仕事以外の時に人々を創造的活動に参加させ 互の交流,人聞関係の円滑調整をはかるべきである。余暇を建設的なレクリエーションに 利用する機会がなければ,余暇はかえって重荷となるであろう。
その2 仕事とレクリエーシッンは全く正反対のものであるという考え方は一般的なも のである。仕事は苦労が伴い退屈と倦怠を生ずる。然し自分の仕事の中にレクリエーショ
ンを見出す人もあれば,そのように努力する人もある。これは個人の仕事が非常に面白く 満足するものであって,自分の仕事に完全に打ち込んで情熱をそそいで行く時,仕事以外 の時のレクリェーションを必要としないということになる。一般的にはレクリエーション は仕事と別個に考えられるべきものであって,レクリエーションは仕事から解放された時 に行われる。従って仕事とレクリエーションは対立的なものであり,かつ密接な関係をも
っていると解するのである。
有益な仕事を通してレクリエーションの存在価値が生ずるという考え方によると,レク リエーションは仕事の合間々々に役目を果すのみであり生活全体を満たすものでなく,自 然な姿,必須の要素と云うぺきものでもない。自分でかち取るべきものであり,働らいて 得べきものであるということになる。即ち仕事によって得べきものであり,その間にく余 暇を利用して〉レクレエーションによって仕事の活力を再成すると云うことになる。
生活の必須要件は仕事であり働らくことであって,それによって設けた余暇を利用して レクリエーションするのであるから,レクリエーションは生活の付属物であると考え,自 然な姿として社会生活に反影すべきものとは限らないという見解は,現代社会においては 到底受け入れられない理論である。現代のレクリエーションはすでに人間生活の必須要件 であり,仕事の合間にレクリエーションするという考え方のみでなくレクリエーションす るために仕事のプログラムを如何に組み立てるかということである。そしてなおかつ仕事 の中に打ちこめるものよろこびを感ずるものを発見し,仕事=レクリエーションと云う考
え方への飛躍を見ようとするのである。
その3 レクリエーションが人々の健i康を増進し,主活を楽しみ,人格を向上させ,技 術を修得して再生産力や士気を旺盛にするところに意義があると決論づけてしまって,レ クリエーションがそれ白体で目的であり,経験することによ て,よろこび,満足,幸福 感を味わうものであると云うことを忘れがちである。実際レクリエーションが個人的社会 的に望ましい目的を果し得る手段となっていることは事実である。
レクリエーションには,それ自体の価値く余暇を利用することによって人宝の亨楽,経 験による各人各様の満足,よろこび〉が存在するので,それが個人的,社会的要求に応じ,
その目的を果し,地域祉会の問題解決に貢献し,ますます向上するために役立つとすれば レクリエーションに大きな満足を期待できるのである。
余暇の利用,余暇活動がレクリエーションたるためには個人的に有益であり,社会的に 許容できる活動のみに考えるのが普通である。然し余暇の利用はあてもない自由な活動,
賭け事,その他馬鹿げた不真面目な自由奔放な活動の中にレクリエーションがあると考え るむきがある。
昌
激Nリエーションの以上の面は,レクリエーション教育くrecreation educatlon〜comm−一 umity recreation>と商業レクリェション<comrnercial recreatlon>の立場で考察するこ
とができる。個人的にも,公共的にも,地域的にも社会的にも価値があり,望ましいレク リエーションの種目によってのみrecreation progrumが組まれることは当然であるが,1 一般大衆にはこのプログラムに組まれない他の多くの活動がレクリエーションであると云
う考えもある事を考慮に入れるぺきである。
その4 レクリエーションが運動意欲の発露であり,自由な拘束されない活動であり,
くつろいだ生活であって,元来日的や規律や努力,学習などを必要としないものであると いう観点の存在することである。しかしレクリエーションの多くのものは,高度の精神的 集中と技術的努力のもとに畜積された汀動を要求するものである。
全くくつろいだものであり,努力も精進もない所には精神的刺戟もなく征服のよろこび も支配の経験もなく,望ましい自己表現の機会を得ることも出来ないのであり,不活発な 不満足な時間の空費に終ることになってしまう。この点で人々が余暇の賢明な利用に当っ てレクリエーションの規律,統制,身体的努力,精神的勤勉,技術の向上,情緒的統一安 定をはかるところにレクリエーションの意義が存するのである。
〔註〕 道徳的に健全で,精神的及び身体的向上をもたらし,他人の権利を尊重し,自発的な動 機に基づき喜びと完成の気分を与えるものでなければならない(レクリエーション総説G.Dバトラ
一著,三隅達郎訳,べ一スボールマガジン社,1962)
今日レクリエーシ.ンの盛況は地域社会の要求からも教育の面からもおこっている。商
亀