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現代青年における「成人感」の発生とその社会的規定要因(1)

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茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)34号(1985)111−129      111

現代青年における「成人感」の発生とその社会的規定要因(1)

一問題発見的考察

菊 池 龍三郎* 安 達 喜美子**

(1984年9月29日受理)

AGrowing Sense of Adulthood and its Social Causative Factors in Today s Adolescents(1)

一AProbe Study一

Ryuzaburo KIKUCHI*and K㎞iko ADACHI**

(Received September 29,1984)

@      !

1 はじめに一本研究の意味づけ

1)大学における教育実践の前提

われわれ大学教育に携わっている者にとって,かなり以前からすでに共通の認識になっている事実 がある。それは端的に言ってしまえば,高等教育機関としての大学が,その教育実践の前提として いる「学生像」と,現実の学生の意識や行動の諸相とが,著しくかけ離れたものになってしまって いるという至極当り前の事実である。

本来,大学においては「学生」とは学問研究への真摯な姿勢,知的および人格的陶冶に堪えられる 十分な能力を有する「青年」である,という学生像が制度成立の理念的前提となっている。明らか に,これは二つの前提を含んでいる。第一の前提は,学生の学生たる所以は,彼らが単に大学に所 属しているという形式的条件を満たすことにあるのではなく,何よりも学問研究を通して真理を明 らかにしていくに足る意欲や態度や能力を備えているという実質的条件を充足することにあるとい う前提である。第二のそれは,学生がより上位の青年という概念に含まれており,なおかつその「青 年」自体が不変な実体ではなく,極めて時間的,空間的制約を受ける存在であるという事実である。

そして,この理念の場合「学生」という概念の系に含まれるある一定の意味内容を,つまり一定の

「青年観」を了解事項として含んでいるということである。大学が伝統的に制度成立の理念前提と している学生とは,わが国の場合,実際はドイツ理想主義的,ロマン主義的な「青年観」があり,

そこから自動的に演繹された「学生観」であった。それが現実の大多数の青年の実相とは相容れな い部分を含んでいたとしても,本来「国家ノ枢要二応ズル」学問を学ぶ学生にとって,それこそ彼

* 茨城大学教育学部教育学研究室

** 茨城大学教育学部教育心理学研究室

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らの彼らたる所以として_定の社会的権威を持ち続けていたと考えられる1)。っまり,今日のように 大衆化される以前の,階級性を色濃く反映した伝統的な大学においては,教育実践の前提として想 定される「学生観」は,社会的には少数の「青年」についてしか妥当しないロマン主義的な青年観 と二重写しになっていた。したがって,「学生とは……の青年である」という規定においては,「学 生」も「青年」も,いずれも少数の社会的存在に関する観念であったため,意味内容としてはほぼ 同等であったと見られる。

今日,大学における教育実践が困難さを増しているのは,学生が学習に身を入れなくなったとい う意味での第一の前提が崩れたためばかりでなく,実はそれ以上に深刻なのは,第二の前提,つま り学生が青年であるという規定に内包される一定の「青年観」と比べて,われわれが日常的に見聞 する学生の意識や行動の諸相が非常に異なってきているという事実によるのである。それに関して は後に簡単に述べることとして,要するに,制度成立の実質的な前提が崩れて,了解事項ではなく なり,もはや単なるタテマエと化しているのである。言い換えるなら,大衆化し,程度の差こそあ れレジャーランドと化した大学の中では,学生の学習を成り立たせる学問への渇望や憧憬は,所与

●   ●

の前提,より正確に言えば一種の了解事項ではなくて,今や,いわば当為の世界に属するところの

「信仰」や「思い込み」の類いであると言って良い。かくして,タテマエの化した理念における「思 い込み」としての青年観と現実の青年との乖離は増々大きくなる。

確かに,大学教育が前提としている「思い込み」としての青年観に限らず,一般に青年観という ものは,その時代の年長世代が青年世代に対してかくあるべき(プリスクリプティブ)と考える期 待や拘束の了解事項を含んでいる。したがってそうした見方は,いつでも現実の青年に対する財価 を含んでいることは事実である。だからこそ青年世代は,いつの時代でも年長時代にとって慨嘆の 対象であったのである。

ただし,現代と異なるのは,そうしたかくあるべきと考える期待や拘束の了解事項が,その時代 の青年の自己形成に対して一定の影響力を持ち得ていたこと,言い換えれば,青年の現実の存在

(ディスクリプティプ)に対する規定性を持っていたと言うことである。

学生とは,大体18〜22,3歳の青年期に位置する存在である。そして,これがわれわれの研究課 題でもあるのだが,近年われわれが見聞する学生達の意識や行動から彼らがそれ以前の発達課題を まだ背負い続けているという実感を持っている。それはとりも直さず,われわれが携わっているの は,何よりも「青年期の教育」であるという当然の事実をわれわれに改めて想起させるのである。

一例を挙げてみよう。われわれが所属する教員養成学部の四年間のカリキュラムの中で,教育実 習は,制度的にも実質的にも重要な意義を持っているとされている。ただし,国公私立を問わず大 学にとって教育実習が重荷なのは,それが他の何らかの授業科目によって代替不可能な科目で,必 ずどこかの小・中・高校などで引き受けてもらわざるを得ない性質のものだからである。それゆえ 実習を依頼する相手校に対する配慮が欠かせないものとなる。そこで特に実習予定者に対する事前 の指導は,彼らの意識や行動の現状とそれに対する大人達の低い評価に顧みて,微に入り細を穿つ 内容にならざるを得ない。とりわけ挨拶や言葉遣い,容姿や服装に関する注意等が否応なしに多く なる。そこでは「学生はもう一人前の大人である」といった思い込みや期待は通用しない。しかし 何よりもわれわれが憂慮するのは,学生達自身がこちら側のそうした子供扱いにほとんど抵抗を示 さなくなっているという事実なのである。これは教員養成学部の学生に限った傾向ではないと見

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菊池・安達:現代青年における「成人感」の発生(1)      113

るべきであろう。

無論,こういった傾向について別の見方もある。そしてそれが一定の説得力を持っていることも また事実である。すなわち,それは竹内の指摘するように,専門能力の開発と知識人の生産に「失 敗」している日本の大学は,そうだからこそ高学歴社会の宿痢から免がれ,体制の安定化機能に

「成功」していることになる。高学歴社会の中の低位就業が社会問題化しないのも,専門的知識人 は企業が必要に応じて社内教育によって生産するのだから過剰生産が起らない,というわけである。

日本の企業は専門家であることよりも所属企業への帰属意識を重視するが,基礎学力充分,専門能 力不充分の大学生は,このような日本的経営にとってまことによい人材である。そして,企業が社 風にはじまる「強い文化」を教化するにも好都合である。レジャーランドの大学生が専門的知識や 対抗的教養の「爽雑物」を欠いているからである2)。

そしてわれわれは,そうした学生像の変化は,現代における青年の意識と行動の変化を確実に反 映,否,実際にはその先端的な部分において変化を先取りしていると実感するのである。そしてそ うした変化とその方向を正確に把握することなしには,大学教育,と言うよりも青年教育の展望を拓 くことはできないと考える。

2)青年像の変化と教育実践

そういう意味で,大学における教育実践(無論,青少年教育一般についても言えることであるが)

は,実践においてわれわれが想定する学生像が大きく変化したという理由によって成り立ちにくく なっていることは事実である。

それを示す事実は大学のキャンパス内で散見することができる。例えばその代表的な光景として 中野は「選択的共同意識」と名づけられるべき教師一学生の関係が見受けられなくなったことを 指摘している。「選択的共同意識」とは,講義が終わったあとなど学生達が教師の周りを取り囲ん だり,あるいは教師につきまとい,それに教師が応えていくという関係に含まれる。それぞれが差 し出すある「心理的触手」のことである。中野に言わせれば,学生が教師につきまとうという関係 一構図は,教育という営みにとって,大変に有効な補助機能を果してくれた。学問にかかわる観 察と思考の苦痛と快楽を伝達し納得させるためには,教師と学生の間に,あるメディアが必要であ って,それは決して教室・講義・演習といった制度や場や状況ではなく,お互いが相手に差し出す

「心理的触手」なのであり,それが「選択的共同意識」である。ひと昔前には大学のキャンパス内 の到る所で見かけたこの関係とそれを支える意識が失われたというのである3)。

学生が教師につきまとうという関係  構図が,果して中野の言うほどありふれた日常的な光景       1

ナあったかどうかについては多少の吟味を必要としよう。確かにそれは「大学キャンパス」という 語から容易に連想しやすい光景ではあるが,大学によって事情の異なる一般化しにくい光景である

とも考えられるからである。なぜならば,教師一学生(生徒)の関係は,本来は,教師の専門的 能力を背景としての階層関係でもあったからである。いわゆる古典的な教育的関係論に従えば,教 師一学生(生徒)の関係は,本来は権威一服従の関係であった。そして教師に権威を付与する

ものは,彼の職務が学生(生徒)の発達に奉仕するという固有のイデーに関係することにあり,そ のための専門的能力を彼が持っているからであるとされた4)。

しかし見方を変えて言えば,教師との間に越えようのない差があったからこそ,学生の中に教師 個人やその権威をもたらす専門的知識についての関心が生じたとも考えられるのである。そうした

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越えようのない差が学生の中に教師に接近する心理的ベクトルを生み出し,そうした差を双方が暗 黙裡に確認した上で,学生から教師への接近は許容されると考えられるのである。したがって,かかる 接近が日常的に見聞される光景であったかどうかは別として,教師と学生の間にそうした心理的触 手がはたらいていたことは推測としては成り立つのである。

しかし現代の大学においては,一般的には,そうした教師  学生の関係は余り見られなくなっ ている。明らかに学生の心理的ベクトルは教師に向いていない。教師に対する依存的関係は年を追

って顕著になりつつあるが,これは上述の意味での心理的触手による接近ではない。こうした傾向 をもたらした原因としてはいろいろ考えられるが,それはいわゆる大学の大衆化というような大雑 把な説明だけでは解読困難な傾向なのである。ひとつには,大学がuni−versus(一つのものに向う)

ではなくなってきているという事実,あるいは総合大学の実質的原型であるStudium Generaleの 持っていた共同体的紐帯が失われたという原因があげられよう。そしてそれは大学と社会との関係 の変化を忠実に反映している。大学は,そうした「一つのものに向う」社会的,文化的,心理的空 間ではなくなってきているのである5)。そしてさらに,そうした背景としてわれわれは,教師の方 の変化もさることながら,やはり青年の意識と行動の著しい変化という原因をあげなければならな いと考える。

そして,大学における教授一学習の補助的機能の役割を果す心理的触手が教師と学生の双方か ら延びてこなくなったというところに,すでにわれわれは,大学における教育実践の前提として想 定される青年像,ないし了解事項としての青年観の変化を見ることができるのである。

そこのところをもう少し詳しくのべてみたい。大学というひとつの空間の社会的心理的紐帯の解 体をもたらしたものは何であったのか。少し長い引用になるが,再び中野の言を要約してのべてみ たい。すなわち,かって母親からの脱出,権威としての父親への懐疑,制度としてのあるいは運命とし ての家族への疑いから青年達は自我のアイデンティティの確立におもむき,外的宇宙,他者とつく る世界,社会へと出発った。そこに「選択的共同意識」に基づく連帯をつくった。しかし今,懐疑 から生まれるベクトルは外側を指さず,自らを向いている。砂場での,リビングでの一人遊び,テ レビとの戯れが,テレビゲームに,ルービックキューブに,ウォークマンに,マイコン遊びになる。

個室は,ステレオ装置(ラジカセ)とマンガ本と,本と,ポスターと,電話と,ブディックを思わ せるインテリアによって装置化される。

メディアとの奇妙な対話が始まる。マイコンと戯れる若者は,最も近い他者一母親の変形一 に話しかけているようだ。さまざまのメディアが個室の中に引きずり込まれ,擬人化されて,彼ら にとって唯一の他者となる。仮構された他者,人形やぬいぐるみの延長上にしかない他者,みず からの投影でしかない他者,その他者との自閉的な対話の世界こそが個室である。ウォークマンは この物理的個室の外,つまりは街頭で個室をつくり出すためのメディアと言えよう。

「選択的共同意識」のつくる中間的共同体の社会により近い位置に,社会化され規模の大きくな った集団として企業,会社,役所,組合,地域社会のような契約的意識を原理とする利益集団があ る。ひとは誰しもこうした集団を選ばねばならない。入ることは入るのだが,孤立した若者達はそ こでの振舞い方を知らない。現在,金銭によってしか測定できない「利益」が若者たちをこの種の 利益集団にかろうじて結びつけている。

利益集団の外側には,ひととひととの結合を一切要求しない「群衆」という集合形態がある。孤

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菊池・安達:現代青年における「成人感」の発生(1)         115

独な若者たちは,この「群衆」という形の「集り」を好む。キャンパスの集合形態はまさにそれで ある。盛り場,催し物,イベントにおける集合のありようもそうである。ここには同一の物理的,

社会的空間に群れているという行為の共通性はあるが,ひととひととの結合を求める共同意識はな く,いうならば,行動の類似性があるにすぎない。そして,この集合形態の装置が街頭であり,都 市空間であり,そこに装備された「情報」と「もの」と「こと」と「ひと」の全てが意味を発散し ている。つまり,街頭に出た個室は,都市空間の発するメッセージに同調し,その意味を解読する 同調のメカニズムとコードを持っている。

このようにのべて中野は,どうやら新しいタイプの「個人主義」が形成されつつあるのではない かと示唆している。それは伝統的な近代型個人主義ではありえない。内面を支配しているのは,防

ッコイイ」「ダサイ」という言葉が象徴する極めて主観的な皮膚感覚的美意識(フィーリング)と「ム カック」「ユルセナイ」という言葉が示している極私的倫理意識と,自愛と自虐を同時に含む心理的 ベクトルと,純化された欲望自然主義とであり,これらがこの新しい個人主義の原理となる。した がって他者意識,社会性,共同主観は形成されない6)。

以上のような現代の,特に大学生に関する描写が,どの程度現代の青年像として妥当し得るのか 一応は疑ってかかる必要はあろう。われわれはここに描かれている青年像もまた青年に関するある 種の思い込みとしての青年観に類するものでないのかと危惧しないでもないからである。つまり,

そうした説得力のあるかに見える青年像が,現代青年一般に関しての青年観に安易に一般化される 例をわれわれはしばしば見てきているからである。しかし中野の描く青年像は,やはりそれなりの 説得力を持っているとみることができよう。確かに,記号及び記号現象,そして記号の豊醸な産出 空間としての都市の文化との関連でのみ,青年達の意識や行動が語られ過ぎるきらいがあるとはい え,現代青年の意識や行動の持つある種の「異文化性」を的確に描写していると考えるからである。

特に中野がr現代若者文化考』の一連のエッセイの中で展開する現代青年論は,現代社会の根源的 な変化,およびその変化をもたらしている原因との関連で青年を解読しようとしているからである。

しかしわれわれは,このように現代青年のある種の異文化性を強調することだけではすまされな いと考えている。それだけでは青年教育のための有効な手がかりを引き出すことはできないからで ある。われわれは,したがって,現代青年がわれわれ大人世代,および大人社会が持つコードでは 最早十分には解読ができないほどの異質性を持っているということを確認した上で,彼らへの接近 をどのようにして図るべきかを考えねばならない。その手がかりとしてここでは「成人感」の発生 という事象に視点を向けることにした。確かに,大人あるいは大人社会が,現代青年にとって必ず しも強い吸引力を持ったり,強制的な拘束力を持つ存在ではなく,したがって彼らの心理的ベクト ルは大人の方を余り向いていないという傾向があることは既にのべた通りである。しかし強弱の程 度,早い遅いの違いこそあれ,そしてモラトリアム世代と表現されようとも,彼らに何らかの形で

「成人感」らしきものは発生する。それは,彼らが「社会」や「大人」との出会いを観念的であれ 経験を通してであれ,何らかの形で試行する時と深く関わっている。多分,現代青年,特に大学生 などの場合,「成人感」は極めて観念的というか抽象的にしか認知されていないと考えられる。し かし,そこに彼らがたぐり寄せ,あるいは彼らに映じた「社会」や「大人」があることもまた事実 である。われわれはその意味で,現代青年における「成人感」の発生を問うことは大きな意味があ ると考えた。そこから青年教育のための有効な資科と手がかりが引き出し得ると期待されるからで

ある。

(6)

2 わが国の青年研究の現状と問題点

前節においてすでに指摘したように,われわれが日常接している青年の近年における変貌は,彼 らの教育に携わる者に彼らへの対応に際して不安と戸惑いを与えている。かつて,われわれが暗黙 裡にその前提にしてきた「学生像」ないし「青年像」をもってしては,彼らとの対応の現場におい て処し切れない部分を残してしまうという現実に直面せざるを得ないからである。

そのような青年の変貌をわれわれの多くが確かな実感として感じとっているにもかかわらず,さ らには,そのような実感を持っているであろうはずの研究者達によって,数多くの青年研究の成果 が種み重ねられているにもかかわらず,青年心理学に対して従前通りの批判や疑問が提起され続け ている現実を見る7)。つまり,発達的観点の欠落や青年問題を社会的状況の中に抱えこまれた問題 として見るという視点の欠落が指摘される状況が,今なお続いている。

このような青年研究の問題1生は,われわれの1人がすでに述べていることであるが8),青年研 究の方法論上の問題もさることながら,もっと基本的に,青年研究において青年を見る研究者の視 点が常に,大人社会の中で了解事項的に前提としてきた観念的な「青年観」の域を出られずにいる ということに根差しているといえる。すなわち,多くの青年研究者たちがその研究に際して,彼ら の「思い込み」による「青年像」を基準として,そこから出発しているということである。例えば ステユーデント・アパシイ(Students apathy)が問題になる。すると,多くのアパシイ研究が現わ れる。そしてそれらのいずれもが,そのようなアパシイ状況が今時の大学生の特徴であるかのよう に問題にする。しかしよく考えて見れば,往時の学生にもまさにアパシイ状況を見ることができる。

しかしそれは,現在よりははるかに少ない数の選ばれた上級学校生においてであった。さらに言え ば,そのようなアパシイ状況は,むしろ,かつての選ばれた彼ら上級学校生の特権でもあった。そ れ故,旧制の高等学校や大学などの上級学校生のアパシイは大人社会からほとんど問題にされるこ とはなく,比較的好意的に見守られた。だから研究対象にもなり得なかったし,大学生の問題とし て騒がれることもなかった。無論アパシイもまた少数者の特権であったという点で現代の大衆化さ れた大学・学生におけるそれとの違いは明白ではあるが。

ところが,今,ステユーデント・アパシイ等という言葉で取り沙汰されると,それがいかにも現 在の大学生に特有に見られる問題であるかのように研究対象として注目し始める。その背後には,

「大学生とは勉学にいそしむ,大人への憧れに支配された青年である」という大人側の「思い込み」

(というよりは,むしろ,「期待」と言った方がより適切であるかもしれない)による「青年像」

と,青年とはそうであったはずであるというもう1つの「思い込み」とがあるように思う。その単 純な思い込みが,現在の青年研究の出発点になっていはしないかというのが,1つの大きな疑問で ある。またもう1つの疑問は,現在言われているステユーデント・アパシイの状況が大学生に特有 に見られるものなのだろうかということである。言われたことのみを言われた通りにしかしない,

あるいは,そのようにしかできない小・中・高校生,自分のすることが見つけられずに,自分の不 幸,不遇は他人のせいであるとアルコール中毒になっていく主婦,週日はただ同じ時間に出勤し決 められた仕事を型通りに遂行し,決まった時間に帰宅し,テレビを見て寝るという生活,休日は終

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菊池・安達:現代青年における「成人感」の発生(1}      117

日ゴロ寝とテレビの生活を繰り返しているある種のサラリーマン達等のこれらの状況はアパシイと は無縁のものなのだろうかという疑問がある。

このような社会的な状況を無視して,単に青年だけに目を向け,彼らを調査の対象にすることに よって出てきた結果を,そのま、青年に見られる現象であるとか,問題であると結論を急ぎすぎて きたのではなかったかということを問題点として指摘したいと思う。つまり青年を被験者にしたか ら青年の結果として出てきたことであって,他をその対象に選べば他の者が持つ結果として出てく るかもしれないことを青年の結果として思い込む誤ちを犯していないかという疑問があるのである。

また,いかなる青年の特徴もその社会的状況とは無縁ではない。青年の現状が全体社会の所産であ ることを考えれば,青年の諸特徴は社会の文脈の中から生じてきている部分を多く持つのだという ことが当然考慮されるはずである。

もう1つは,われわれが青年の諸特徴を捉えようとするとき,研究者側の考える尺度にのせて測 ろうとすることの問題性である。研究者側の枠組が優先されることの問題性である。それでは常に,

研究者側の持っている「青年像」が基準になり,その尺度上でしか青年が捉えられないからである。

その場合に基準となる「青年像」もまた同様のプロセスを経て作り上げられた,いわゆる,「思い 込みの青年像」であり得る危険性を持っている。したがって,そこには二重の思い込みと誤りが含 まれる危険性があるのである。そのようにして捉えられた「青年」は恐らく現実の青年との間に大 きな「ずれ」を持つものとなろう。青年研究の結果が青年教育と結びつくためには,現実の青年を どれだけ正確に把握し得るかに懸っているといえよう。

3 本研究の構想と計画

1)研究目的

2で述べたように,従来の青年研究はその量の霧しさにもかかわらず,青年の現実に迫るという 点では一長一短があった9)。それはわれわれの一人がすでに青年研究の現状に関する論考の中で指摘 しているように10),青年を現実の社会に生きる存在として把えるという視点が欠落しがちであった ということなのである。

青年は全体社会の所産であり,したがって青年を理解するということは,彼らを彼らが生きる社会の 文脈から解き明かしていくことなのである。

その意味でも従来の青年研究においては,一方では小川が指摘するような,余りにも「唯心論的」

に解釈された青年の「自己」概念の問題が1勘他方では青年をもって青年を語らせるという実証的 手続きを欠いた「青年観」の類が多かったという傾向は否定し得ないと考える。そのために,青年 教育などの領域からの要求には,十分には応えられないという結果を招いたと言えるのである。も

っとも青年教育などが青年研究に期待する内容にしても,徒らに観念的な青年観のレベルの要求か ら実践的なハウツウのレベルに至るまで多岐にわたり,青年研究の方でその要求に応えきれなかっ たという事情もある。

われわれが本研究において目指すのは,青年教育のための有効な手がかりを引き出すことにある。

既に1において詳しく述べたように,例えば大学教育に限って言えば,実践の拠り所として想定さ

(8)

れた学生像と現実の学生像が著しく異なってしまったために教育実践は困難になった。誰れもが彼 ら学生が幼児的で依存的であると慨嘆し,教育が難しくなったことを憂慮する。われわれもまた同 じ思いを持っている。しかし2でも述べたように彼らの実態はまさしく全体社会の反映なのであり,

大人社会の所産でしかないのである。そうした現実を彼ら自身に語らせること,それをできるだけ 忠実に読み取ること,それを通して彼らの生活現実への接近の方策を見出すことが本研究の目的で

ある。

2)研究計画・方法

研究目的で述べたわれわれの考え方,すなわち青年教育のための有効な手がかりを得ること,そして そのためには青年が全体社会の所産であるという立場を確認することは,当然,われわれの研究計 画や研究方法の面で補強されなくてはならないと考える。研究方法に関しては次の4でもその基本 的な性格が述べられるので概略を示すに留め,ここでは主に今後取り組むべき研究計画の大要を述 べておきたい。

① 現代青年の幼児性の問題一「成人感」の発生とその阻止因

現代青年の幼児性が取り上げられるようになって久しい。それは大人世代にとっては慨嘆の材料 であった。ところが今われわれが留意すべきことは,そうした「幼児性」が青年自身にとって引け 目として感じられるべき負の傾向では必ずしもなくなってきているという事実である。つまり,彼 らの幼児性が,端的に言ってしまえば,いわば大手を振って罷り通るようになってきているという ことなのである。ひとつには,大半の青年が幼児性を帯びれば,その幼児性はもはや秘匿されるべ き負性ではなくなるということが考えられる。

しかし幼児性が大多数の青年について共通に語られる傾向であるとすると,それはもっと別の文 脈からの説明をも必要とするであろう。ひとつ考えられるのは文明論,文化論からの説明である。

わざと可愛げに振舞ったり,子供っぽくバカげた行動をする傾向は,単なる逆行現象,退行現象で はなく,再び中野の解説を借りて言えば,それらもまた時代の烙印を押されているという。

それはオイルショック以後,高度成長の挫折を予感し,実感してからプリミティブなものへの志 向が,文明批判から日常生活での些細なことがらの選択に至るまで顕著になってきたことと深く関 わっている。自然,肉体,健康,歴史,伝統的な習俗・生活様式・しきたりといったひとつながり のカテゴリーへの回帰は,生活行動から思想運動を含む文化のあらゆる位相に現われ始め,このテ 一マは,この十数年を通じて変わらぬ文化運動・文化現象の通奏低音のひとつであった。こうした 風向きの若者における現われのひとつがモラトリアム人間であり,彼らにおける幼児期への逆行現 象である。と中野は言う12)。

青年は全体社会の所産であるという基本的認識に立つならば,青年における幼児性をかかる周辺 的な文化やマイナーな文化の自己主張という文明論的な位相から解釈することは,それなりの説得 力を持っていると考える。しかし青年の幼児性,言い換えれば大人性の獲得の遅れないし拒否は,

無論,それだけで解釈できるものではないと考える。なぜなら,4で後述するように,高度技術社 会においては,青年に勢力を賦与する「技術的要件」は増々準備されていくであろうが,しかし現 代社会はまた一方で,青年をしていつまでも「永すぎた春」の状態のままにしておく技術外的諸装 置もつくり出しているからである。例えば現代の資本制社会の市場のメカニズムに組み込まれた若 者文化の中では,その生産と廃棄のサイクルが増々短縮するため,青年達にその中で成長,発達す

(9)

菊池・安達:現代青年における「成人感」の発生(1)      11g

る時間的余裕を与えない。さらに若者文化の内容的な幼児化という現象がこの傾向に拍車をかける。

その意味で,中野による青年の幼児性という現象の文明論的位相からの解釈は,資本制社会におい て文化の生産と廃棄のサイクルが短縮したことによって,「成長」や「発達」が必要とする時間と いう契機が十分に充足され得なくなっているという事実を見落している。この他,青年に「永すぎ た春」を強いる技術外的強制の装置として,家族における親子関係,特に母子関係という性的特徴 を帯びた関係の優位も挙げなければならないし,青年に甘えを許し,それを助長する全体として弛 緩した社会構造の問題も挙げられなければならないと考える。

一体,彼らが「引きずっている」とわれわれが考える幼児性とは何であるのか。それは前述した ような本来できうる限り早期に獲得されるべき「大人性」の欠落ないし未獲得という意味で,つま り負の傾向としてのみ見てよいのかどうかということが,われわれにとって最も重要な意味を持つ 課題なのである。つまり,青年の幼児性を慨嘆したり,批判することは易しい。しかしそれでは大 学教育も含めた青少年教育のための実践的な指針を見出すことはできないのである。

なぜこのようなことを言うのか。ひとつには,現代青年の中には意外にも成熟した人格への憧れ があるという事実の指摘もあるし13),またここで彼らが示す幼児性は,単なる幼さという意味だけ では片付けられない意味合いを持っていると考えるからである。これに関しては再び中野の言う文 明論的な位相からの解釈を借りて述べてみよう。即ち,現代青年の示す幼児性もまたわれわれの時 代や社会のある雰囲気と共鳴し合っていると言う。中野に言わせれば,現代青年が示す幼児性と,

また彼らが一方で示す「感覚の洗練さ」とは,実は文明が停帯と,停帯という事態についての人々 の意識が醸し出す文化の燗熟と深く関わっている。燗熟した文化は幼児性と洗練さを伴っており,

青年の幼児性と感覚の洗練さはこれをそのまま反映している,と言うのである14)。一方で青年の中 に成熟した人格への憧れがあったり,また彼らの幼児性が単なる幼さではなく感覚の洗練さを伴っ ているという指摘はわれわれの注意をひく。そこでわれわれは青年の幼児性というものを,もっと 別の視角から捉えていくべきであると考えたのである。

われわれは,そうした問題を今後の研究の射程に置きつつ,当面は次のような手順で問題への接 近を試みたい。まず彼ら青年にとって自分がもう大人であると感じるか,それともまだ子供である

と感じるかという「成人感」を問う必要があると考えた。そして次にその中で特に「まだ子ども」と 感じている青年にとってその理由,つまり大人と感じることを阻止している原因を明らかにする必 要がある。 (本稿の4はこれの予備的,中間的報告である。)そして,成人感の発生因や阻止因が多 様であるように見えながら,実は若干のカテゴリーに収れんするのではないか,特に学生などの場 合そういう傾向があるのではないかという予想を持っている。われわれはその中で,青年達にとっ て大人になるということがどのようなイメージで認識されているのか,それはまた彼らにとってど の程度の重みを持ち,どの程度の拘束力を持つことであるのか,を明らかにしたい。

② 青年期の始期と終期,大人の始期

次に青年期がいつ始まり,いつ終るかについて問題にしたい。柴野によれば,一般にある一つの 時期が他の時期と比べて独自なものとして区別されるためには,生理的・身体的な成熟の程度と,

それらが社会構造との関係においてどのように位置づけられるかという社会的・文化的条件が問題にな る。乳・幼児期は発達の初期の段階であり,保育・保護を必要とする時期であるという意味でライフ・

サイクルの中の独自の年代として認められる。これに対して青(少)年という時期は,成熟や発達

(10)

の面から見て急激な変化を示す時期であると共に,社会の人々の彼らに対する認知のしかたも多様 であるということから,一つのまとまった世代として成立するのが困難である,と言うのである15)。

大人による認知だけではない。青年自身の自己認知にも「大人」に近いものから「子ども」に近い とするものまで多様なのである16)。

青年学から見れば,青年期は子どもから大人に向う「成長」と「移行」の時期である。しかしこ の時期は,既に述べたように,子どもと大人の両方の性質を持つためその始期と終期をいつにする かということが常に問題になる。発達加速現象とモラトリアム延長によって,青年期は始期と終期 の曖昧なまま長くなる傾向がある。つまり青年期も移行期が長くなって,幼年期から成人期までの 間が「少年期」「青年(青春)期」「ユース期」「ヤング・アダルト期」というような分節のされ 方もある。柴野によれば,これらは一連の「変容した青年期」であり,いずれもモラトリアムとい

う共通の特徴を持った移行期である,とされる17)。

われわれは,まず青年期について青年自身がその始期と終期をどう見ているかの検討から入りた い。これに他の調査を含めて青年期の始期と終期,さらにその分節的な構造を彼らの「役割」の認 知と達成という面から考察してみたい。これによって青年教育自身が従来極あて大雑把な青年期概 念をもって実践を構想してきたのに比し,より分節化された青年期観に対応した実践的な内容と方 法の開発が可能になることと思われる。

われわれはそれと関わって,青年自身が「大人」はいつ頃から始まると考えているか,その理由 は何かということもたずねている。これによってひとつには,彼らが考える大人であるための客観 的な条件を明らかにすることができよう。そして,これは予想であるが,青年期から成人期に移行 する期間に遭遇するいくつかの出来事の構造と順序を,わが国の現代の青年の意識を通して明らか にすることが可能になるかもしれない18)。つまりこれらの検討を通して,青年自身が大人になる時 期と達成すべき条件をどのように考えているか,それが時間的展望の中で見えてくるのではないか と期待している。

③ 現代青年の成熟の社会的規定因

すでに1及び3−2)一①で述べたように,学生を始めとして青年一般に個人的感覚による規定 性が強まっている。すなわち「カッコイイ」「ダサイ」という言葉が示す極めて主観的な一種の皮膚感 覚的美意識「ムカツク」 「ユルセナイ」という言葉が示す極私的倫理意識,自愛と自虐を同時に含 む心理的ベクトル,純化された欲望自然主義によって形成される新しい個人主義,幼児性と洗練さ,

そして遊戯化した性と暴力等である。先に引用した中野の一連のエッセイの中で描かれるこれら現 代青年の諸相は,感覚的規定性の強まりと,それに反比例して「社会」というものの相対的な綾少 化を示している。

しかし多分そうであるにしても,例えばフィーリングという言葉が示しているのは,同調のチャ ンネルと周波数は,たとえ閉鎖的な集団においてであれ,彼らの中でのある種の「社会的コード」

に従っているのではないかということである。確かに,彼らにおいては社会性の発達は一般的には 遅れていると言われている。そうした現状に顧み,社会に種極的に関与していく態度を養うために

「社会参加」の必要が説かれる。しかしいかなる意味でも彼らの中に社会性は育っていないのか。

そのことを,彼らが自らたぐり寄せた社会についての見方とその中での自己像と,さらに彼ら自身 が持っている自己と社会との接点を見出すことによって明らかにしてみたい。

(11)

菊池・安達:現代青年における「成人感」の発生(1}         121

3)研究方法・対象

われわれが採ろうとしている研究方法の特色については,2で指摘した青年研究の現状と問題点 を踏まえて次の4でも述べるので,ここではごく簡単に触れるに止める。最近では青年研究におい ても例えば青年社会学などの分野で新しい方法も採用されてきている19)。しかしわれわれは,そう

した近年の動向も含めて,それらがいずれも青年のマクロな分析には一定の有効性は持ち得ても,

個々の青年の普通の姿とはどこか違和感があるのである。これは松原がかって指摘した青年薪究に おけるデータ解釈の問題,特に多数派の意見を集めて平均像を描くだけの研究方法の問題20)とも 関わっている。

われわれは,青年は全体社会の所産であるという研究の前提を方法論的に深化する必要を感じて いる。そのための既に提案されている研究モデル21)なども今後参考にしなければならないと考え ている。しかしわれわれが当面やるべきことは,青年をして青年を語らせ,その表現に浸り切るこ と,できる限りこちら側で枠を設けず,記述されたメッセージを忠実に読み取ることである。これ を託身法(commit法)と呼びたい。われわれの方法は,いわゆる質問紙法に依っているが,記述 の仕方は自由記述法である。そしてその上で回答を性急に範疇化することを避け,細かな表現にも 忠実に最初はできるだけ細かく分類した。その場合次のことに留意した。青年が自由記述の中でわ れわれに送ってくるメッセージを解読するには,それを彼が作成するときに用いたコードやコンテ クストを知る必要がある。しかし実はややもするとわれわれの「青年観」をもってコードにしてし まうことが多い。そこでわれわれは,彼らのコードを知るためにも,彼らのメッセージに含まれる 細かな表現を忠実に読むしかないと考えたのである。この方法は決して新しいものではなく,調査 に関与する者に一般に求められる姿勢であり態度であると言ってもよい。

研究の内容から言っても,調査対象は,学生だけに限られるべきではない。当然,勤労青年をも 含めて,さらに学歴別,居住地別等の属性も考慮して調査対象を広げなければならない。これにつ いては既にその方向で始めているのでその結果は稿を改めて報告したい。ただし,だからと言って 学生を対象とすることに意味がないわけではないことは当然である。学生こそ青年を一般的に代表す る社会階層であり,現代の代表的な文化としての都市文化や,また現代社会の深層における変化に 最も鋭敏に反応する階層であるからである。

したがって学生を取り上げたということは,確かにある面では研究の限界を示すものと言えるかもし れないが,しかしサンプルが取り易いという技術的な理由だけでなく,学生が良くも悪くも現代社 会の全体を最も端的に示している反映する存在であるという事実から見れば,むしろ積極的な意味

もあるということは指摘しておきたい。

4 「成人感」の発生とその阻止因

1)現代学生の子ども返り

既に1および3で述べたことであるが,われわれが日々接している学生達の中に,近年特に子ども 返りとでも言い得るような現象が目につくようになっている。そのひとっは,かっては幼児期か児童 期にのみ見られた「○○チャン」式の名の呼び合いの大学生における一般化である。何かの子ども

(12)

向けの唄の歌詞に,「アッチャンはネ,本当はアツシって言うんだ,本当はネ。だけど,ちっちゃい から自分のことアッチャンと言うんだヨ,おかしいネ」というのがあったと記憶しているが,実は 年齢的には「ちっちゃくない」はずの大学生において,近年,「○○チャン」式の呼び方がごく普通 になってきており,中には自分のことをそう呼ぶ者さえいる。最近同じような唄が再び登場してき たが,今の学生ないし若者は,それが少しもおかしくない,当り前のこととして受げ入れているの で,「おかしいネ」が少しも実感を持たないのである。このような現象は決して少なくはなく箋か なり一般的に見られているのである。つまり行動の面において大学生に子ども返りが起っているの ではないかというのがわれわれの実感である。

そのような実感は大学生の「大人認知,子ども認知」を10年間にわたって調査し,その変化を概観 した先行研究22)によって証明されている。つまり近年の学生にあっては,自分を「子ども」と認 知する者が「大人」と認知する者をはるかに上まわっているのである。そして「子ども」認知の理

由も多様性を示してきている。すなわち,学生は種々の理由を挙げては自分を何とか「子ども」と考え たい傾向があるらしいのである。つまり,モラトリアム延長を意識したということなのであろう。

そうだとすると,学生にそれを意識させ,自分を「子ども」と認める根拠となるもの,すなわち彼ら の中に「成人感」が発生するのを阻止する原因となっているものがあるはずである。そこで学生に

「子ども」のままでいさせようとするもの,つまり「成人感」の発生を妨げているものは何かを取 り上げ,現代の学生達の行動の背景にある意識や考え方を探ってみることにする。

2)調  査

3で述べているように,調査やその結果の整理に当たって,われわれはできるだけわれわれの枠 組で学生を規定しないように留意した。そのため,われわれは可能な限り学生の自由記述にまかせ,

それに沿っていくという方法をとっている。われわれはこのような方法を託身法(commit法)と名 づけようと考えていることはすでに述べた。

ここで検討されるために用いられた問は次の2問である(調査は全10項目で実施されているが,

他の項目についての検討は稿を改めて行いたい)。

(D あなたは自分を「もう大人」だと思いますか。それとも「まだ子ども」だと思いますか。

(2)なぜそう思うのですか。その理由を書いて下さい。

以上の2問とも,調査者の考え方を押しつけないという考えから自由記述の方式を採った。

調査対象者は大学教員養成学部2年次,男113名,女121名の計234名。

調査実施は昭和58年10月上旬(後学期開始の第一時目の授業時間)。

3)結  果

前述の問の(1)に対する反応の分布はTable 1に示す通りである。

Table 1に見られるような青年の自己認知の子どもから大人までの拡がりは青年期特有のものであ ろう。また,半々とか,大人と子どもの両方を肯定したり,あるいは両方を否定したりするという 反応も青年期特有のものであると同時に,子どもから大人になっていく過程にある青年期の位置を よく表わしているものといえる。

ところで,自分は「もう大人になった」と感ずる,いわゆる「成人感」の発生はどのような過程 をたどってみられるのであろうか。われわれは,人の意識の中で「自分はもう子どもじゃない」と いう意識が発生したからといって,そのことが直ちに「自分はもう大人だ」という意識(感覚)の

(13)

菊池。安達:現代青年における「成人感」の発生(1)      123

Table 1 学生の自己認知

(N=234)

M F T

自己認熱%

f   % f  % f  %

も う 大 人 32  28.3 25  20.7 57  24.4

より大人的 3   2.7 8   6.6 11   4.7

薦暮診 11   9.7 11   9.1 22   9.4

より子ども的 5   4.4 9   7.4 14   6.0 まだ子ども 60  53.1 68  56.2 128  54.7 わからない 2   1.8 0   0 2    8

113 100.0 121 100.0 234  100.0

発生には結びつかないと考えた。むしろ,「自分はもう子どもじゃない」という意識(感覚)の発 生は同時にその人に子ども的でない行動,つまり大人的行動を許容させ,それがやがて,気がついて みたら「もう大人」になっていたという実感へと結びついていくのではないかと考えたのである。

その場合,「大人的行動」をとるとは次のようなものではないだろうか。すなわち,彼らはまず大 人の行動を模倣する。しかし大人の持っている社会での役割(職業等)に基づく行動はまだ取得も 遂行もできない。したがって,模倣するのは本来は就職など具体的な役割を取得した後に許される 一種の二次的,付加的行動,例えば「タバコを吸う」とか「お化粧をする」とか「大人っぽい服装 をする」等の行動ではないかと考えられる。つまりこの場合の「大人意識」とは,装い,演じられ るある種の作為の意識ではないのだろうか。そしてその後に多分,「就職」などがやってくる。そ のうちにいつの間にか上述の作為の意識は消える。言い換えれば,意識しなければ「大人意識」は 現われない,そういった性質のものではないかと考えるのである。

そこで,われわれは「成人感」の発生の過程を次のように考えてみた。

① 身体的・生理的成熟(十知的発達)

@     ↓

A 子ども性の否定意識(感覚)

↓↑

③ 大人的行動の取り入れ(大人に許されている行動の自己への許容)

@     ↓

C 大人意識(成人感の発生)

「成人感」の発生の過程をこのような図式で考えた時,成長加速現象(acceleration)が全国的に 汎化した現在,身体的・生理的成熟の徴候がほゴ12歳頃に現われ始めるとすると,20歳になりほゴ 身体的・生理的には成熟しきっているであろう大学生に,Table 1に示されているように「まだ子

(14)

ども」という認知が多く見られるのは何故なのかという疑問が生ずる。彼らにはまだ自分の子ども 性の否定意識が本当にないのだろうか。それでいながら,われわれが日々接している現実の彼らの 行動を見ると,飲酒・喫煙に始まる諸々の大人的行動(子どもには認められていない行動)の自己 への許容がある。彼らの現実の行動と意識との間にはずれがあるのかもしれない。現実には大人的 行動を自分に許容しながら,自己の子ども性を否定させない意識のもとにあるものは何かを,彼ら の自己認知を成り立たせている事柄を分析することによって明らかにすることを試みた。

われわれは,大学生の自己認知を成り立たせている事柄の間には次のような関連があるのではな いかと考えてみた(Fig 1)

大人認知の理由

qども・大人両方肯定く       大人性肯定理由

@      子ども性否定理由子ども・大人両方否定く       大人性否定理由

qども認知の理由

      成入感の発生因

qどむ性肯定理由一 J箋饗 }〕

@       −1騰欝副

Fig 1 「成人感」の発生因とその阻止因の出現過程

そこでまず,「成人感」の発生を阻止しているものは何かを,「子ども認知」を成り立たせてい る原因を検討することによって明らかにして行こうとするのが本稿の目的である。

男女による成熟の速度や様相の違いを考慮して,結果の検討は男女別々に行うことにした。

男子学生によって記述された自分を「まだ子ども」であると認める理由,すなわち,「成人感」

の発生を阻止している要因はTable 2に示す通りである。またTable 3は女子学生の結果を示した ものである。

Table 2および3に示す通り,

Table 2男子学生による「成人感」発生の阻止因       大学生たちに自分を「まだ子

記述された理由 出現率 成人感発生の阻止因

自活できていない

ども」であると認めさせ,「大 l」であるとは認めさせない 生活能力がない 17.1 経済的自立の欠如      理由はいくつかに範疇化でき

経済的に自立できていない

る。男子学生に見られたカテ

親の助けなしでは生活できない ゴリーを便宜的に,「経済的自

親に頼るところが多い 立の欠如」,「親への依存(経

親の世話を受けている 済的・精神的)」,「精神的未熟

経済的・精神的に親から自立 36.6 親への依存      さの自覚」,「社会人としての

できていない 自覚や責任感の欠如」,「学生

自立していない 若いという形式的身分認知」,

親の意見に対して納得できない 「大人への未満」,「子ども性

への不満」と名づけておく。

また,女子学生にみられるそ

(15)

菊池・安達:現代青年における「成人感」の発生(1)         125

精神的に未熟 れも同様便宜的に「経済的自

自分に責任持てる行動ができ 立の欠如」,「親への依存(経

ていない 済的・精神的)」,「精神的未熟

考えを自分一人では決められ さの自覚」,「社会人としての

ない 自覚や責任感の欠如」,「学生,

考えが幼稚,浅い,甘い 28.0

      子ども扱いという形式的身分精神的未熟さの自覚

自分の考え方が確立していなし 認知」,「子ども性への愛着」

まだ学ぶことがある と名づけておくことにする。

経験に乏しい これらのカテゴリー名の厳

自己中心的 密な検討や,各カテゴリー間

他人に対する甘えがある の関連や構造についての検討

は今後にゆずることとし,本 社会的独立がなされていない 稿で用いているものは便宜的,

社会人としての自覚が確立し 社会人としての自覚.  仮設的なものである・

ていない

ミ会的責任感が自覚されてい

6.1 責任感の欠如       これらから・大学生に「成

@       人感」が発生するのを阻止し

ない ている要因は彼らが学生であ

学生だから り,経済的に親に依存せざる

まだ若い を得ないという事実にその根

昔と余り変っていない 「学生」・「若い」       を持っているのではないかと

大人より高校生に近い 7.3 等という形式的身分      いうことを読み取ることがで

社会的に認められていない 認知      きる。これらの要因の関連を

親が生きている限り子供 われわれはFig 2に示すよう

大人に対して不満がある

      に考えてみた。われわれの考大人への不満

自分をだましきっていない(自 2.4

       え方の特徴は,彼らの「精神(大人に対する否定

    畠

ェにうそをつけない)

      的未熟さの自覚」を単に彼ら的評価)

が学生であり「若い」,あるい まだ大人になりたいと思って

子ども性への不満    は「幼い」ということに直接 いるところがある

搗zを持ちながらそれを徹底 オて追求できない

2.4

      的に結びついているものでは(大人に対する肯定

I評価)        ないと考えたことろにある。

@       学生であり若い彼らは,まず 何よりも経済的に親に頼らざ るを得ないという事実によっ

      て親への依存が意識され,まTab】e 3女子学生による「成人感」発生の阻止因

記述された理由 出現率

      た同時にそれは社会人として成人感発生の阻止因

の自覚・責任感の欠如を意識 経済的に独立・自立していない

10.9 経済的自立の欠如    させるのではないかとわれわ 自活していない

れは考えた。つまり,「親へ

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