中島敦──人と文学(山下)一七三 本稿は、二〇一八年八月一一日におこなわれた日本近代文学館主催のセミナー「「教室」と「文学」をつなぐ──日本近代文学館を橋渡しとして」での講演の前半部分に基づいて、加筆したものである。
一 中島敦の祖父・父母
まず、中島敦の家系についてお話しします。中島家はもともとは、尾張中島郡を領した中島氏であったようで、その後、江戸に下りました。中島家の墓は、台東区浅草の光明寺にあります。中島家の家業は、身分の高い人が乗る駕籠を作ることで、神田乗物町に住んでいました。駕籠を作って納入するのが仕事で、手広くやっていたようです。十一代中島清右衛門、良雅の息子が慶太郎で、後に撫山と号した漢学者になるわけですが、この人が敦の祖父です。この慶太郎については『明治畸人伝』(内外出版協会、一九〇三年)に次のような記述があります。 山 下 真 史 中島敦││人と文学
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中島撫山翁名は慶太郎、東都乗物町の豪商某の長男なり、その生家は乗物屋にして、江戸草創より連続せし旧家なり、
翁幼少より学を好み、長じて亀田鵬斎の子、鶯谷の門に入り、
慶太郎は、本来なら乗物駕籠を作って売るという家業を継ぐはずだったのですが、少年の頃に学んだ漢学が好きになって、亀田綾 りようらい瀬・鶯 おう谷 こくの門下生になり、漢学で身を立てようと思うようになります。漢学が好きになったことと裏表の関係でしょうが、慶太郎は商売が嫌いだったようです。『明治畸人伝』の続きを読んでみます。
当時町人の権力なき殆ど幇間的挙動を以つて、常に時の幕吏及び諸侯の邸吏を饗し、御用仰付けらるゝを名誉とせり、翁性篤実にして殆ど君子の風あり、故に心に之を愧ぢ、遂に意を決して家をその弟に譲り、富貴を見ること土芥の如し、自ら清貧に安んじ、
つまり、町人は注文を貰おうと思って、太鼓持ちのような言動をする、慶太郎はそれが嫌だった、富貴などはゴミみたいなものだと思って、清貧な生活を送ったということです。どうも商売という俗な仕事が性に合わなかったのでしょう。もっとも、慶太郎はすぐに家を捨ててしまったわけではなく、慶太郎の祖父が亡くなるまでは家業をしてました。二九歳のときに、祖父が亡くなると、従弟に家業を譲って、今の東京都中央区の両国橋近くの矢ノ倉というところに引っ越して、三〇歳のときに漢学塾を開きました。ちなみに、弟の栄 えい之 の甫 すけは、杉 さん陰 いんと号した画家でして、谷文晁の一派の南画を描いていますので、家業は継がず、従弟に譲ることになったのでしょう。
慶太郎が最初に開いた漢学塾は演孔堂ですが、翌年には、同じく綾瀬の門下生であった人の後を継いで、神田お玉が池付近、現在の岩本町付近に移ります。お玉が池というのは、現在はなくなってしまいましたが、当時この付近に
中島敦──人と文学(山下)一七五 は漢学者が多く住んでいました。孔子を祀った湯島聖堂が近かったことも関係しているのでしょう。その後、明治維新を経て、一八七三年(明治六年)、撫山四五歳のときに、埼玉の久喜に幸 こう魂 こん教舎を開き、そこで地域の教育に力を注ぎました。この幸魂教舎は、撫山の人柄もあって、近隣からも塾生が来るようになり、私塾として栄え、場所も一回移動して、大きくなり、埼玉の教育に貢献することになりました。教育の内容は、漢学の他、神道や日本の古典、『万葉集』や『古事記』なども取り入れていたそうです。この幸魂教舎は、一九八五年(明治一八年)には名前を言 げん
揚 よう学舎と変え、二年後に私立専門学校として認可されると、一九一一年に撫山が八三歳で亡くなるまで、四〇年間続きました。撫山が亡くなったのは、敦が二歳のときです。
撫山には、子供が一二人いました。中島敦の父親、田人は男の子では六番目になります。ここで、田人の兄弟、敦のおじさん達について、少しお話ししておきましょう。
まず、撫山の次男、中島端蔵(または端)です。この人は斗南と号した漢学者で、一八九三年(明治二六年)、久喜の江面村に宮内翁助と一緒に明倫館という学校を開いて、その初代館長になっています。中島敦は、周りの人からこのおじさんに性格が似ていると言われていたそうです。小説「斗南先生」は、三造という敦を思わせる主人公が、斗南について、エピソードを紹介しつつ、考えたことを語るものです。小説全体の解説は出来ませんが、中島端は実際、かなり奇矯な行動をする人だったらしく、「斗南先生」には次のような記述があります。
〈狂躁性を帯びた峻厳が、彼には、大人げなく見えたのである。(略)伯父は幼児から非常な秀才であつたといふ。六歳にして書を読み、十三歳にして漢詩漢文を能くしたといふから儒学的な俊才であつたには違ひない。にもかゝはらず、一生、何らのまとまつた仕事もせず、志を得ないで、世を罵り人を罵りながら死んで行つたのである。〉〈狷介にして善く罵り、人をゆるすことを知らなかつた。〉〈時々破裂する伯父の疳癪(その故にやかま
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の伯父と、甥や姪達から呼ばれてゐた。)〉一七六
〈伯父は、いつてみれば、昔風の漢学者気質と、狂熱的な国士気質との混淆した精神──東洋からも次第にその影を消して行かうとする斯ういふ型の、彼の知る限りでは其の最も純粋な最後の人達の一人なのであつた。〉
この通りだとすると、だいぶ激しい気性の人だったようですね。中島家の中には、こういう激しい気質の人と、その逆にきわめておとなしい気質の人がいたようで、中島端の直ぐ下の弟、三男の竦 しよう之助は、そのおとなしい気質の人でした。この人は、玉振と号した漢学者で、甲骨文字の研究者でした。「斗南先生」には玉振について次のような記述があります。
〈其の伯父の直ぐ下の弟──つまり三造にとつては斉 ひとしく伯父であるが──の、極端に何も求むる所のない、落著いた学究的態度の方が、彼には遙かに好もしくうつつた。その二番目の伯父は、そのやうにして古代文字などを研究しながら、別にその研究の結果を世に問はうとするでもなく、東京の真中に居ながら、髪を牛若丸のやうに結ひ、二尺近くも白髯を貯へて隠者のやうに暮してゐた。〉
この玉振は、久喜の言揚学舎の校長にもなり、教育にも力を注ぎました。近年玉振の詩を集めた『玉振道人詩存』(明徳出版社、二〇一二年)という本も出版されています。
それから、四男の若ノ助ですが、この人は関家に養子に行きます。小説「斗南先生」では、「渋谷の伯父」と呼ばれています。のちに、聖公会のキリスト者になりますが、漢学者の家からキリスト者が出たというのは、ショッキングなことだったようで、斗南は撫山には伝えない方がいいという旨の手紙を残しています。
五男の開蔵ですが、この人は山本家に養子に行きます。東大の工学部を卒業して海軍省に入り、軍艦の建造の仕事をしていました。一九二六年、目黒区洗足に移り住んだので、「斗南先生」では「洗足の伯父」と呼ばれています。
田人を飛ばして、その弟、七男の比 ひ多 た吉 きですが、この人は軍の翻訳・通訳の仕事をして、中国の清朝の最後の皇
中島敦──人と文学(山下)一七七 帝、溥儀に仕え、溥儀の通訳をしていました。敦は比多吉が満洲にいたときに遊びに行ったことがあります。比多吉は、経歴は東京外語大学の支那語科を卒業し、明治三五年、二六歳で中国に渡ったことになっていますが、先日、佐野眞一という人の『甘粕正彦──乱心の曠野』(新潮文庫、二〇一〇年)という本を読んでいたら、比多吉の息子さんの話が紹介されていて、それによると、経歴はでたらめで、一八歳のときに中国に渡っているということです。比多吉は、諜報活動、スパイをしていたようで、そのために本籍や経歴がでたらめになっているのだそうです。それが本当かどうかも確かめようがないのですが……。 以上、撫山の子供たち、中島敦からするとおじさんにあたる人たちについてお話ししましたが、ユニークな人たちというか、変わった人が多い印象です。 さて、次に、中島敦の父親、田人についてお話しします。田人は一八七四年(明治七年)の五月五日生まれです。ちなみに敦の誕生日も五月五日になっています。おそらく、二人ともその前後に生まれたのでしょうが、縁起のいい端午の節句を誕生日にしたのでしょう。田人は、漢文科の教員免許を取ったのち、斗南が初代館長を勤めていた久喜の明倫館で教え、その後、神田の錦城中学校で教えています。錦城中学で教えている間に、東京外国語学校のドイツ語別科に入学して、修了し、清語(中国語)の勉強もしています。一九〇五年(明治三八年)千葉県立の銚子中学校、五ヶ村組合立銚子中学校の教員となり、このとき敦の母となるチヨと結婚します。その後奈良の郡山中学校、静岡県立浜松中学校と転勤し、さらに海を渡って、ソウルの龍山中学校、それから大連の第二中学校と勤めています。一九三一年(昭和六年)に五七歳で日本に戻ってきてからは、学校勤めは辞めていたようですが、敦が横浜高女を休職して南洋に行ったときは、代わりに教えに行っていました。中学校の先生で通したわけですが、転勤は非常に多かったように思いますね。 田人は、性格としては好人物と言われています。中島敦の小説では、「プウルの傍で」という私生活に取材した習作に出てきます。「プウルの傍で」は結局、敦の生前、活字化されることはなく、本人としては捨てた作品だったと思います。あまり個人的な話は残したくなかったのでしょう。
一七八 敦の母親は、岡崎チヨという人で、小学校の教員をしていました。とても頭のいい人だったそうですが、家事には疎かったそうです。敦が生まれてすぐに離婚することになりますが、離婚の原因はよく分かりません。ちょっと出かけていたらそのまま家を追い出されたという説もありますが、真相はよく分かりません。その後、チヨは復縁を申し出ますが、中島家の反対で実現しませんでした。チヨは、離婚後、実家の岡崎家に戻って、敦とともにしばらく暮らしますが、自分の父親が亡くなったこともあって、敦が二歳三ヶ月になったとき、敦を手放します。チヨはその後、六歳年下の桜庭進平氏と結婚して一子をもうけますが、三五歳で亡くなってしまいます。敦、一二歳のときです。チヨが亡くなるときに、敦の名を呼んだという話が伝わっています。また、後に敦は母親が自分の写真を胸に抱いて死んだと聞いて、自分でもチヨの写真を撫でながら見つめていた、というエピソードが残っています。このチヨのことは、最近、武内雷龍氏が色々調べて『夏雲──『山月記』中島敦と、その母』(海象社、二〇一二年)という本を出しました。お墓が青山の高徳寺にあることも分かりました。私も何年か前にお参りに行きましたが、お寺の人の話では、すでに縁者がなく、無縁仏になっているので、もう少しで墓石をどけて共同墓地に埋葬するところだった、と言っていました。結局、二〇一七年(平成二九年)の夏に長男の桓 たけしさんがご自宅に墓石だけ引き取りました。亡くなってから、九五年して、孫の所に戻ってきたわけです。
二 年譜に沿って ここからは、年譜に沿ってお話しします。敦は、一九〇九年(明治四二年)生まれで、太宰治や松本清張と同い年です。今、二歳までの話はしましたので、一九一四年から始めます。
一九一四年(大正三年)、五歳のとき、敦は、最初の継母を迎えます。カツという人で、この人は奈良の郡山の裁縫の先生だったそうです。カツは、敦に厳しく当たったようで、怒鳴り散らしたり、庭の木に縛り付けて折檻したりしたということです。
中島敦──人と文学(山下)一七九 一九一六年(大正五年)、敦は父親のいる奈良の郡山に行き、小学校に入学しましたが、翌々年には、浜松の小学校に転校しています。どちらの学校でも成績優秀でしたが、身体は弱かったようです。浜松の担任からは、身体を丈夫にするために十分静養することを勧められています。 転校はさらに続きまして、一九二〇年(大正九年)、父親の転勤に伴って、京城(現・ソウル)の龍山小学校に転入し、卒業後、当時、朝鮮の学習院と言われた京城中学校に入学します。京城中学は、生徒はほとんどが日本人でしたが、朝鮮の裕福な家庭の子供も若干いて、敦は、その一人と仲良くなりました。ここでも成績は抜群でした。敦は、一高に入るまで、京城で六年間過ごしましたが、この体験は、一高生のときに書いた「巡査の居る風景──一九二三年の一つのスケッチ」という小説や、卒業してから書いた「虎狩」という小説に生かされています。「巡査の居る風景」は、朝鮮人でありながら日本の警察機構の手先になっている巡査の苦悩を書いたもので、関東大震災のときに朝鮮人虐殺の知らせを聞いてショックを受けるというものです。「虎狩」は小学校から中学校にかけての朝鮮人の友人との交流を描いたものです。二つの作品を比べると、「虎狩」の方が遙かに出来がいいと思います。
ところで、今見たように、敦は何度も引っ越ししていて、そのせいか、ここが故郷という感覚を持ちませんでした。後に敦は、勤め先の学校の雑誌「学苑」(一九三七年七月)に「お国自慢」という題で、こんなことを書いています。〈故郷といふ言葉の持つ(と人々のいふ)感じは一向わかりません。猛烈な愛郷心、郷土的団結力・生活や言葉の上の強烈な郷土的色彩等々をもつた方にお逢ひする度に、羨望と驚嘆との交じつた妙な感じに打たれます〉──。故郷という感覚も郷土愛という感情もよく分からないと言うわけです。今ちょうど、甲子園で高校野球をやっていますが、ああいうところに見られる郷土愛なども、敦が見たら不思議と感じることでしょう。故郷がないという感覚は、寂しいことであるのかも知れませんが、逆に言えば、いろいろな土地の文化を客観的に見られると言いますか、どっちが優れているとか劣っているとかではなく、それぞれの土地に合った良さがあるという見方ができるということでもあります。特に京城で暮らしたことは、中島敦が様々な文化を相対的に見る姿勢の元になったとも言える
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でしょう。「光と風と夢」とか、南洋もの、あるいは「李陵・司馬遷」にも、文化を相対的に見る姿勢が窺われるところがありますが、そういう姿勢は、数回の転校や外国生活の中から生まれたと言えるかも知れません。
この、物事を相対的に見る姿勢というのは、逆に言えば、根無し草といいますか、確固とした視点がないとか、絶対的な感覚がないとか、信念がないとかいうことでもあります。それは、自分を信頼できず、自分のやっていることを常に意識せざるを得ない自意識過剰という厄介な事態を引き起こします。未完に終わった「北方行」という長編小説の中に「一つの仮説さへ信ずることが出来れば、人間は幸福になれるんだがね」という言葉が出てきますが、これは自分には絶対と信じられるものがないので、自意識過剰から抜け出せないということでもあります。この自意識過剰というのは、中島敦の固有の問題ではなく、実は、当時の青年たちに共通の病でありましたが、敦の場合、生育環境もあって、特にこの病が深かったと言えるでしょう。中島敦が自意識過剰にどのように対処したか、ということは、お話しすると長くなるので止めますが、結論だけ言えば、自意識過剰を、自分の逃れられない性情として受け入れたと考えています。揺るぎないアイデンティティとか、信念とか、絶対というものなしに生きることを、自分の生き方として受け入れたのだと思います。ま、学校教育の観点から見ると、そういう生き方はあまり推奨されそうもないのですが、中島敦はそういう生き方を受け入れたのだと思います。
一九二三年(大正一二年)、最初の継母のカツが、澄子を生んで産褥熱で五日後に亡くなります。澄子さんは後に久喜出身の折原氏と結婚して、そのお子さんが折原一 いちという推理小説作家です。折原一は、ですから、敦の甥っ子に当たるわけです。大変マニアックな小説家として評判です。ちなみに、奥さんは新津きよみという推理小説作家です。
一九二四年(大正一三年)、敦一五歳のときに、第二の継母、コウが来ます。この人は出身は大阪ですが、このとき、大連幼稚園の先生をしていました。田人の結婚相手は三人とも何かの先生だったわけです。敦はこのコウとも仲が悪く、顔が醜いとか、化粧が派手だとか言っています。コウは、一九三六年、敦が二七歳のときに亡くなります
中島敦──人と文学(山下)一八一 が、敦はそのお葬式で口笛を吹いていたという話も伝わっています。また、このコウさんは、着物道楽だったそうで、相当の借金を作って、亡くなった後、田人と敦でその借金を大変な思いをして返済したようです。中島敦は、継母二人ともと折り合いが悪く、いわゆる「母なるもの」に飢えて育ったと言えるでしょう。作品には現れませんが、母に恵まれなかった故に、「母なるもの」が恋しいという気持ちは持ち続けていたようです。
一九二六年(大正一五年)の四月、四年終了時に、第一高等学校に合格します。通常五年かかるところを四年で突破したわけです。その記事が「京城日報」に載ったということを森敦が書いています。森敦というのは、敦より二学年下の後輩で、後に「月山」で芥川賞を取ります。私はこの記事を「京城日報」を見て、丹念に探したんですけど、見つかりませんでした。ただ、森敦の作り話というわけではないでしょうから、何かで報じられたことは確かでしょう。ちなみに、この時期の新聞を色々調べていて分かったのですが、この年の高等学校の入試は、学校を二つのグループに分けて行う試みの第一回目で、一高は、三月の一七日から二五日に入試を行っています。合格発表は四月八日でした。しかも、七日に発表予定のはずが、採点が終わらないので、発表を一日延ばしたという記事がありました。今だったら、徹夜してでも採点するでしょうけどね。
さて、敦は、東京に戻って、高等学校に通い始めますが、その夏、両親のいる大連に行って肋膜炎に罹り、休学することになります。このころから、敦は小説家になることを志し始め、高等学校の「校友会雑誌」に小説を発表していきます。この時期の小説には、大正末から爆発的に流行した新感覚派的表現が見られ、内容的には社会問題に対する関心も見られます。
一九三〇年(昭和五年)に飛びます。一月に「D市七月叙景(一)」という作品を「校友会雑誌」に発表します。D市のDというのは、大連のイニシャルで、内容は満鉄の総裁、満鉄で働く人々などを書いたものです。新感覚派とプロレタリア文学の融合を目指したようですが、話が大きすぎたのか、(一)のみで終わり、続編は書かれませんでした。四月、東京帝国大学の国文学科に入学します。この間、いとこの褧 あや子 こさんとの結婚も考えたようです。
翌一九三一年(昭和六年)、本郷の麻雀荘に勤めていた橋本タカと出会います。敦は一目惚れして、一週間後くら
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いにタカさんに求婚しますが、タカさんには故郷に許嫁もいたし、中島家からも反対されます。敦はこのときまだ学生で、おそらくは、学歴の違いなども反対の理由だったのでしょう。敦はそれでも愛知県のタカさんの実家に了解を取り付けに行ったりして、なんとか、卒業後に結婚することになります。その間、タカさんの親戚が久喜の中島家に乗り込んで、お金を要求したり、敦がタカさんの関係者に切りつけられて怪我をしたという話も残っています。真偽のほどはよく分かりませんが、ともかくも、大変な思いをして結婚にこぎ着けたわけです。
この年、江戸時代の将棋の天才、天野宗歩の棋譜を集めた「天野宗歩全集」を読んでいますが、中島敦は将棋が好きで、強かったそうです。将棋のエピソードとしては、少し後の話ですが、大会で賞品を貰うくらいの腕自慢の人と、将棋を夜八時頃から朝五時まで四〇局くらい指したことがあるそうです。結果は、敦が全部勝ったということで、それ以後その人は来なかったそうです。
一九三二年(昭和七年)一二月、敦は卒業論文「耽美派の研究」を書いて提出します。耽美派というものについて概説した上で、日本の耽美派、永井荷風や谷崎潤一郎を中心に論じたものです。原稿用紙四二〇枚というのはすごい枚数ですが、今、私がこれを卒論として採点すると不可にすることになると思います。作品の初出の調べ間違いなども結構ありますが、何よりも決定的なのは、剽窃があるということです。もっとも昔はそういうことにはあまり神経質じゃなかったのかも知れません。今は、自分の意見と他人の意見をはっきりと分けて書くというのは、基本なんですけれども、昔は評論的な書き方でもよかったのかも知れません。
ただ、この論文で注目すべきは、若い人がほとんどマルキシズムに惹かれたこの時期に、耽美派について研究していたという点です。プロ文全盛期に、あえて耽美派について論じた点には注意すべきでしょう。敦は、この論文の中で、小説はなにも社会の役に立たなければならないわけではなく、耽美派は芸術としての美を追求するところに価値がある、と述べています。先ほど、敦は社会問題に関心があったことを言いましたが、この論文を見ますと、この時期には、そうした関心を失っていたようにも見えます。しかし、私の考えでは、必ずしもそうとは言えないと思います。この問題については、後でお話しします。
中島敦──人と文学(山下)一八三 一九三三年(昭和八年)に敦は大学の卒業前に就職活動をしますが、朝日新聞社には最後の身体検査で落ちてしまいます。ちなみに、中島敦の身長・体重は、一九四一年(昭和一六年)、三二歳のときの記録によりますと、身長一五九センチ、体重四五キロです。かなり痩せています。身体壮健という感からは遠く、持病のぜんそくもあったので、朝日新聞社は採用を見送ったのでしょう。結局、敦は、横浜高等女学校に勤めることになります。一方、東大の大学院にも籍を置いて森鷗外の研究をするつもりでしたが、こちらは籍を置いただけだったようです。 敦が横浜高女に勤めることになったのは、当時の横浜高女の理事長が、敦の祖父の中島撫山の教え子で、敦の身体が弱いことは承知で、敦に声をかけたからです。この横浜高女は、当時は女子教育のエリート校で、敦は、国語、社会、英語などを教えていました。大変人気があった先生だそうで、教え子の話によりますと、中島敦が教壇に立つときだけ、生徒が教卓にバラの花を挿した花瓶を置いたことがあるそうです。次の先生のときには、どかしてしまったそうですが……。横浜高女は、今は、男女共学の横浜学園高等学校となって、戦前とは場所が変わって続いていますが、その跡地は今、もともと付属の幼稚園だった元町幼稚園になっています。その敷地の中に「山月記」の冒頭を敦の字で刻んだ碑があります。もっとも、「山月記」は原稿が残っていないので、「弟子」など別の作品の原稿の文字を集めたものですが……。後に、この横浜高女の教え子たちが中心となって「中島敦の会」というのを作り、毎年一二月四日の命日の近くに会を開いていました。今は、研究者も加わって、講演会・朗読会などを行っています。教え子もさすがに高齢になって会には参加できなくなってしまいましたが、「中島敦の会」の事務局はまだ、横浜学園内にあります。そういえば、この学校、女優の原節子の通っていた学校としても有名ですね。 私生活の上では、この年(一九三三年)、長男桓 たけしが生まれます。タカさんが地元に戻って生むのですが、敦は会いに行かず、その後、タカさんが同居を希望して、東京・横浜近辺を子供を連れて転々と間借りしても、敦は同居することを許しませんでした。同居したのは、二年ちょっと経ってからです。子供が生まれて同居できるのに、同居しないのは不思議ですが、これは、敦の女性関係が原因だったようです。こう言いますと、意外に思う方もいらっしゃると思います。中島敦の小説には、恋愛の話とか、色っぽい話がないし、写真も謹厳実直な感じですし、おまけに病弱
一八四 だったわけで、女性関係は問題が無い人のように思われがちですが、そんなことはありません。結婚前にも色々あったことは本人がタカさんに宛てた手紙にも書いていますし、いとこの褧 あや子 こさんとも関係がありました。ま、今日の基準からすると、とんでもない男だと、糾弾されることになりそうですし、読者にとってもイメージダウンということになるんでしょうが、戦前はそんなに珍しいことでもなかったですし、中島敦の女性関係には母親から受けられなかった愛情を求めるという一面もあったように思います。「母なるもの」を多くの女性に求めた、と言えるかも知れません。
さて、一九三四年(昭和九年)、中島敦は雑誌「中央公論」の新人特集号に「虎狩」という作品を投稿します。京城にいたときの朝鮮人の友人とのつきあいをもとにしたもので、テーマは、植民地における支配者と被支配者の関係と言えるでしょう。結果は、選外佳作ということで、雑誌に作品名と名前だけが載りました。この結果を友だちの氷上英廣に知らせる手紙では、〈虎狩、又してもだめなり。但し何とか佳作と称するところに、はひつてゐる。なまじつか、そんなところに出ない方がよかつたのに。すこしいやになる。〉と書いています。この手紙からは、前にも応募したことがあるということが分かりますが、敦は、さらに翌年、「趙大煥と虎狩」と題名を変えて雑誌「文芸」に投稿しています。これは数年前、私が「文芸」の復刻版の解題を書いているときに見つけたのですが、このときも選外佳作でした。「文芸」の発表時には、作者の名前は出てきませんが、趙大煥というのは、虎狩に出てくる友人の名前ですから、中島敦の作品に間違いないでしょう。敦はこの頃から小説の投稿を繰り返したのですが、なかなか文名が上がらないという状態が続くわけです。
一九三六年(昭和一一年)には「北方行」という長編小説がうまくいかず、その一部を切り出して、「狼疾記」を書きます。また、横浜高女での教員生活に取材した私小説風の作品「かめれおん日記」を書きます。これらは、自分の性格について語ったり、やる気の出ない自分の状態を書いたもので、なんとも暗い感じを受ける作品ですが、これらの私小説風の作品は、必ずしも、自分のことを語っただけのものではないでしょう。おそらくは、当時の鬱々とした青年たちの一つの典型を描くつもりだったのだと思います。