• 検索結果がありません。

中 島 敦 ─ ─ 人 と 文 学 中 島 敦 ─ ─ 人 と 文 学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "中 島 敦 ─ ─ 人 と 文 学 中 島 敦 ─ ─ 人 と 文 学"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

中島敦──人と文学(山下)一七三   本稿は、二〇一八年八月一一日におこなわれた日本近代文学館主催のセミナー「「教室」と「文学」をつなぐ──日本近代文学館を橋渡しとして」での講演の前半部分に基づいて、加筆したものである。

  中島敦の祖父・父母

  まず、中島敦の家系についてお話しします。中島家はもともとは、尾張中島郡を領した中島氏であったようで、その後、江戸に下りました。中島家の墓は、台東区浅草の光明寺にあります。中島家の家業は、身分の高い人が乗る駕門、で、が、す。この慶太郎については『明治畸人伝』(内外出版協会、一九〇三年)に次のような記述があります。             中島敦││人と文学

(2)

一七四

中島撫山翁名は慶太郎、東都乗物町の豪商某の長男なり、その生家は乗物屋にして、江戸草創より連続せし旧家なり、

翁幼少より学を好み、長じて亀田鵬斎の子、鶯谷の門に入り、

  慶太郎は、本来なら乗物駕籠を作って売るという家業を継ぐはずだったのですが、少年の頃に学んだ漢学が好きになって、亀田 りようらい おう こくの門下生になり、漢学で身を立てようと思うようになります。漢学が好きになったことと裏表の関係でしょうが、慶太郎は商売が嫌いだったようです。『明治畸人伝』の続きを読んでみます。

当時町人の権力なき殆ど幇間的挙動を以つて、常に時の幕吏及び諸侯の邸吏を饗し、御用仰付けらるゝを名誉とせり、翁性篤実にして殆ど君子の風あり、故に心に之を愧ぢ、遂に意を決して家をその弟に譲り、富貴を見ること土芥の如し、自ら清貧に安んじ、

  つまり、町人は注文を貰おうと思って、太鼓持ちのような言動をする、慶太郎はそれが嫌だった、富貴などはゴミみたいなものだと思って、清貧な生活を送ったということです。どうも商売という俗な仕事が性に合わなかったのでしょう。もっとも、慶太郎はすぐに家を捨ててしまったわけではなく、慶太郎の祖父が亡くなるまでは家業をしてました。二九歳のときに、祖父が亡くなると、従弟に家業を譲って、今の東京都中央区の両国橋近くの矢ノ倉というところに引っ越して、三〇歳のときに漢学塾を開きました。ちなみに、弟の えい すけは、 さん いんと号した画家でして、谷文晁の一派の南画を描いていますので、家業は継がず、従弟に譲ることになったのでしょう。

  慶太郎が最初に開いた漢学塾は演孔堂ですが、翌年には、同じく綾瀬の門下生であった人の後を継いで、神田お玉が池付近、現在の岩本町付近に移ります。お玉が池というのは、現在はなくなってしまいましたが、当時この付近に

(3)

中島敦──人と文学(山下)一七五 は漢学者が多く住んでいました。孔子を祀った湯島聖堂が近かったことも関係しているのでしょう。その後、明治維て、年()、に、 こう こんき、注ぎました。この幸魂教舎は、撫山の人柄もあって、近隣からも塾生が来るようになり、私塾として栄え、場所も一て、り、た。は、他、典、や『す。は、年( げん

よう学舎と変え、二年後に私立専門学校として認可されると、一九一一年に撫山が八三歳で亡くなるまで、四〇年間続きました。撫山が亡くなったのは、敦が二歳のときです。

  撫山には、子供が一二人いました。中島敦の父親、田人は男の子では六番目になります。ここで、田人の兄弟、敦のおじさん達について、少しお話ししておきましょう。

  ず、男、蔵(す。で、年()、喜の江面村に宮内翁助と一緒に明倫館という学校を開いて、その初代館長になっています。中島敦は、周りの人からす。説「は、が、斗南について、エピソードを紹介しつつ、考えたことを語るものです。小説全体の解説は出来ませんが、中島端は実際、かなり奇矯な行動をする人だったらしく、「斗南先生」には次のような記述があります。

が、は、る。ふ。六歳にして書を読み、十三歳にして漢詩漢文を能くしたといふから儒学的な俊才であつたには違ひない。にもかゝはらず、一生、何らのまとまつた仕事もせず、志を得ないで、世を罵り人を罵りながら死んで行つたのである。〈狷介にして善く罵り、人をゆるすことを知らなかつた。〈時々破裂する伯父の疳癪(その故にやかま

0 0 0

の伯父と、甥や姪達から呼ばれてゐた。)〉

(4)

一七六

は、ば、と、──影を消して行かうとする斯ういふ型の、彼の知る限りでは其の最も純粋な最後の人達の一人なのであつた。

  この通りだとすると、だいぶ激しい気性の人だったようですね。中島家の中には、こういう激しい気質の人と、その逆にきわめておとなしい気質の人がいたようで、中島端の直ぐ下の弟、三男の しよう之助は、そのおとなしい気質の人た。は、で、た。述があります。

── ひと──の、い、著いた学究的態度の方が、彼には遙かに好もしくうつつた。その二番目の伯父は、そのやうにして古代文字などを研究しながら、別にその研究の結果を世に問はうとするでもなく、東京の真中に居ながら、髪を牛若丸のやうに結ひ、二尺近くも白髯を貯へて隠者のやうに暮してゐた。

  は、り、た。た『(明徳出版社、二〇一二年)という本も出版されています。

  ら、が、す。説「は、れています。のちに、聖公会のキリスト者になりますが、漢学者の家からキリスト者が出たというのは、ショッキングなことだったようで、斗南は撫山には伝えない方がいいという旨の手紙を残しています。

  五男の開蔵ですが、この人は山本家に養子に行きます。東大の工学部を卒業して海軍省に入り、軍艦の建造の仕事をしていました。一九二六年、目黒区洗足に移り住んだので、「斗南先生」では「洗足の伯父」と呼ばれています。

  て、弟、 が、訳・て、

(5)

中島敦──人と文学(山下)一七七 帝、溥儀に仕え、溥儀の通訳をしていました。敦は比多吉が満洲にいたときに遊びに行ったことがあります。比多吉は、経歴は東京外語大学の支那語科を卒業し、明治三五年、二六歳で中国に渡ったことになっていますが、先日、佐の『──』(庫、ら、んの話が紹介されていて、それによると、経歴はでたらめで、一八歳のときに中国に渡っているということです。比多吉は、諜報活動、スパイをしていたようで、そのために本籍や経歴がでたらめになっているのだそうです。それが本当かどうかも確かめようがないのですが……。  以上、撫山の子供たち、中島敦からするとおじさんにあたる人たちについてお話ししましたが、ユニークな人たちというか、変わった人が多い印象です。  て、に、親、す。年(す。ちなみに敦の誕生日も五月五日になっています。おそらく、二人ともその前後に生まれたのでしょうが、縁起のいい端午の節句を誕生日にしたのでしょう。田人は、漢文科の教員免許を取ったのち、斗南が初代館長を勤めていた久喜の明倫館で教え、その後、神田の錦城中学校で教えています。錦城中学で教えている間に、東京外国語学校のドイツて、し、語(す。年(校、五ヶ村組合立銚子中学校の教員となり、このとき敦の母となるチヨと結婚します。その後奈良の郡山中学校、静し、て、校、す。一九三一年(昭和六年)に五七歳で日本に戻ってきてからは、学校勤めは辞めていたようですが、敦が横浜高女を休職して南洋に行ったときは、代わりに教えに行っていました。中学校の先生で通したわけですが、転勤は非常に多かったように思いますね。  は、す。は、す。局、前、く、思います。あまり個人的な話は残したくなかったのでしょう。

(6)

一七八   敦の母親は、岡崎チヨという人で、小学校の教員をしていました。とても頭のいい人だったそうですが、家事には疎かったそうです。敦が生まれてすぐに離婚することになりますが、離婚の原因はよく分かりません。ちょっと出かけていたらそのまま家を追い出されたという説もありますが、真相はよく分かりません。その後、チヨは復縁を申し出ますが、中島家の反対で実現しませんでした。チヨは、離婚後、実家の岡崎家に戻って、敦とともにしばらく暮らが、て、き、す。後、六歳年下の桜庭進平氏と結婚して一子をもうけますが、三五歳で亡くなってしまいます。敦、一二歳のときです。チヨが亡くなるときに、敦の名を呼んだという話が伝わっています。また、後に敦は母親が自分の写真を胸に抱いて死んだと聞いて、自分でもチヨの写真を撫でながら見つめていた、というエピソードが残っています。このチヨのことは、近、調て『──『と、』(社、しました。お墓が青山の高徳寺にあることも分かりました。私も何年か前にお参りに行きましたが、お寺の人の話では、すでに縁者がなく、無縁仏になっているので、もう少しで墓石をどけて共同墓地に埋葬するところだった、と言っていました。結局、二〇一七年(平成二九年)の夏に長男の たけしさんがご自宅に墓石だけ引き取りました。亡くなってから、九五年して、孫の所に戻ってきたわけです。

  年譜に沿って   ここからは、年譜に沿ってお話しします。敦は、一九〇九年(明治四二年)生まれで、太宰治や松本清張と同い年です。今、二歳までの話はしましたので、一九一四年から始めます。

  年()、き、は、す。で、縫の先生だったそうです。カツは、敦に厳しく当たったようで、怒鳴り散らしたり、庭の木に縛り付けて折檻したりしたということです。

(7)

中島敦──人と文学(山下)一七九   年()、き、が、は、校に転校しています。どちらの学校でも成績優秀でしたが、身体は弱かったようです。浜松の担任からは、身体を丈夫にするために十分静養することを勧められています。  て、年()、て、城(現・入し、卒業後、当時、朝鮮の学習院と言われた京城中学校に入学します。京城中学は、生徒はほとんどが日本人でしが、て、は、た。た。は、一高に入るまで、京城で六年間過ごしましたが、この体験は、一高生のときに書いた「巡査の居る風景──一九や、た「す。る風景」は、朝鮮人でありながら日本の警察機構の手先になっている巡査の苦悩を書いたもので、関東大震災のときす。友人との交流を描いたものです。二つの作品を比べると、「虎狩」の方が遙かに出来がいいと思います。

  で、に、て、か、た。は、誌「」(に「で、す。つ(ん。心、力・に、──。故郷という感覚も郷土愛という感情もよく分からないと言うわけです。今ちょうど、甲子園で高校野球をやっていますが、ああいうところに見られる郷土愛なども、敦が見たら不思議と感じることでしょう。故郷がないという感覚は、寂しいことであるのかも知れませんが、逆に言えば、いろいろな土地の文化を客観的に見られると言いますか、どっちが優れているとか劣っているとかではなく、それぞれの土地に合った良さがあるという見方ができるということでもあります。特に京城で暮らしたことは、中島敦が様々な文化を相対的に見る姿勢の元になったとも言える

(8)

一八〇

う。か、の、は「陵・も、姿ころがありますが、そういう姿勢は、数回の転校や外国生活の中から生まれたと言えるかも知れません。

  この、物事を相対的に見る姿勢というのは、逆に言えば、根無し草といいますか、確固とした視点がないとか、絶対的な感覚がないとか、信念がないとかいうことでもあります。それは、自分を信頼できず、自分のやっていることを常に意識せざるを得ない自意識過剰という厄介な事態を引き起こします。未完に終わった「北方行」という長編小説の中に「一つの仮説さへ信ずることが出来れば、人間は幸福になれるんだがね」という言葉が出てきますが、これは自分には絶対と信じられるものがないので、自意識過剰から抜け出せないということでもあります。この自意識過剰というのは、中島敦の固有の問題ではなく、実は、当時の青年たちに共通の病でありましたが、敦の場合、生育環て、う。か、は、お話しすると長くなるので止めますが、結論だけ言えば、自意識過剰を、自分の逃れられない性情として受け入れたと考えています。揺るぎないアイデンティティとか、信念とか、絶対というものなしに生きることを、自分の生き方として受け入れたのだと思います。ま、学校教育の観点から見ると、そういう生き方はあまり推奨されそうもないのですが、中島敦はそういう生き方を受け入れたのだと思います。

  年()、が、す。久喜出身の折原氏と結婚して、そのお子さんが折原 いちという推理小説作家です。折原一は、ですから、敦の甥っ子にす。す。に、す。

  年()、に、母、す。が、き、大連幼稚園の先生をしていました。田人の結婚相手は三人とも何かの先生だったわけです。敦はこのコウとも仲く、か、す。は、年、

(9)

中島敦──人と文学(山下)一八一 が、す。た、は、で、相当の借金を作って、亡くなった後、田人と敦でその借金を大変な思いをして返済したようです。中島敦は、継く、る「う。が、母に恵まれなかった故に、「母なるもの」が恋しいという気持ちは持ち続けていたようです。

  一九二六年(大正一五年)の四月、四年終了時に、第一高等学校に合格します。通常五年かかるところを四年で突破したわけです。その記事が「京城日報」に載ったということを森敦が書いています。森敦というのは、敦より二学で、に「す。を「て、ど、見つかりませんでした。ただ、森敦の作り話というわけではないでしょうから、何かで報じられたことは確かでしょう。ちなみに、この時期の新聞を色々調べていて分かったのですが、この年の高等学校の入試は、学校を二つのグループに分けて行う試みの第一回目で、一高は、三月の一七日から二五日に入試を行っています。合格発表は四月八日た。も、が、で、た。今だったら、徹夜してでも採点するでしょうけどね。

  さて、敦は、東京に戻って、高等学校に通い始めますが、その夏、両親のいる大連に行って肋膜炎に罹り、休学することになります。このころから、敦は小説家になることを志し始め、高等学校の「校友会雑誌」に小説を発表していきます。この時期の小説には、大正末から爆発的に流行した新感覚派的表現が見られ、内容的には社会問題に対する関心も見られます。

  年(す。に「景()」を「す。D市のDというのは、大連のイニシャルで、内容は満鉄の総裁、満鉄で働く人々などを書いたものです。新感覚派とが、か、り、した。四月、東京帝国大学の国文学科に入学します。この間、いとこの あや さんとの結婚も考えたようです。

  年()、す。て、

(10)

一八二

いにタカさんに求婚しますが、タカさんには故郷に許嫁もいたし、中島家からも反対されます。敦はこのときまだ学生で、おそらくは、学歴の違いなども反対の理由だったのでしょう。敦はそれでも愛知県のタカさんの実家に了解を取り付けに行ったりして、なんとか、卒業後に結婚することになります。その間、タカさんの親戚が久喜の中島家に乗り込んで、お金を要求したり、敦がタカさんの関係者に切りつけられて怪我をしたという話も残っています。真偽のほどはよく分かりませんが、ともかくも、大変な思いをして結婚にこぎ着けたわけです。

  この年、江戸時代の将棋の天才、天野宗歩の棋譜を集めた「天野宗歩全集」を読んでいますが、中島敦は将棋が好で、す。は、が、と、す。は、で、それ以後その人は来なかったそうです。

  一九三二年(昭和七年)一二月、敦は卒業論文「耽美派の研究」を書いて提出します。耽美派というものについて概説した上で、日本の耽美派、永井荷風や谷崎潤一郎を中心に論じたものです。原稿用紙四二〇枚というのはすごい枚数ですが、今、私がこれを卒論として採点すると不可にすることになると思います。作品の初出の調べ間違いなども結構ありますが、何よりも決定的なのは、剽窃があるということです。もっとも昔はそういうことにはあまり神経質じゃなかったのかも知れません。今は、自分の意見と他人の意見をはっきりと分けて書くというのは、基本なんですけれども、昔は評論的な書き方でもよかったのかも知れません。

  ただ、この論文で注目すべきは、若い人がほとんどマルキシズムに惹かれたこの時期に、耽美派について研究していたという点です。プロ文全盛期に、あえて耽美派について論じた点には注意すべきでしょう。敦は、この論文の中で、小説はなにも社会の役に立たなければならないわけではなく、耽美派は芸術としての美を追求するところに価値がある、と述べています。先ほど、敦は社会問題に関心があったことを言いましたが、この論文を見ますと、この時期には、そうした関心を失っていたようにも見えます。しかし、私の考えでは、必ずしもそうとは言えないと思います。この問題については、後でお話しします。

(11)

中島敦──人と文学(山下)一八三   一九三三年(昭和八年)に敦は大学の卒業前に就職活動をしますが、朝日新聞社には最後の身体検査で落ちてします。に、長・は、年()、と、チ、す。す。く、で、朝日新聞社は採用を見送ったのでしょう。結局、敦は、横浜高等女学校に勤めることになります。一方、東大の大学院にも籍を置いて森鷗外の研究をするつもりでしたが、こちらは籍を置いただけだったようです。  敦が横浜高女に勤めることになったのは、当時の横浜高女の理事長が、敦の祖父の中島撫山の教え子で、敦の身体が弱いことは承知で、敦に声をかけたからです。この横浜高女は、当時は女子教育のエリート校で、敦は、国語、社会、英語などを教えていました。大変人気があった先生だそうで、教え子の話によりますと、中島敦が教壇に立つときだけ、生徒が教卓にバラの花を挿した花瓶を置いたことがあるそうです。次の先生のときには、どかしてしまったそうですが……。横浜高女は、今は、男女共学の横浜学園高等学校となって、戦前とは場所が変わって続いていますが、その跡地は今、もともと付属の幼稚園だった元町幼稚園になっています。その敷地の中に「山月記」の冒頭を敦の字で刻んだ碑があります。もっとも、「山月記」は原稿が残っていないので、「弟子」など別の作品の原稿の文字を集めたものですが……。後に、この横浜高女の教え子たちが中心となって「中島敦の会」というのを作り、毎年一二月四日の命日の近くに会を開いていました。今は、研究者も加わって、講演会・朗読会などを行っています。教え子が、だ、あります。そういえば、この学校、女優の原節子の通っていた学校としても有名ですね。  は、年()、 たけしす。が、に行かず、その後、タカさんが同居を希望して、東京・横浜近辺を子供を連れて転々と間借りしても、敦は同居することを許しませんでした。同居したのは、二年ちょっと経ってからです。子供が生まれて同居できるのに、同居しないのは不思議ですが、これは、敦の女性関係が原因だったようです。こう言いますと、意外に思う方もいらっしゃると思います。中島敦の小説には、恋愛の話とか、色っぽい話がないし、写真も謹厳実直な感じですし、おまけに病弱

(12)

一八四 だったわけで、女性関係は問題が無い人のように思われがちですが、そんなことはありません。結婚前にも色々あったことは本人がタカさんに宛てた手紙にも書いていますし、いとこの あや さんとも関係がありました。ま、今日の基準からすると、とんでもない男だと、糾弾されることになりそうですし、読者にとってもイメージダウンということになるんでしょうが、戦前はそんなに珍しいことでもなかったですし、中島敦の女性関係には母親から受けられなかす。た、せん。

  て、年()、誌「に「稿す。城にいたときの朝鮮人の友人とのつきあいをもとにしたもので、テーマは、植民地における支配者と被支配者の関係と言えるでしょう。結果は、選外佳作ということで、雑誌に作品名と名前だけが載りました。この結果を友だちの氷は、狩、り。に、る。か、に。る。す。は、が、は、年、誌「投稿しています。これは数年前、私が「文芸」の復刻版の解題を書いているときに見つけたのですが、このときも選た。は、が、は、前ですから、中島敦の作品に間違いないでしょう。敦はこの頃から小説の投稿を繰り返したのですが、なかなか文名が上がらないという状態が続くわけです。

  年(は「ず、て、書きます。また、横浜高女での教員生活に取材した私小説風の作品「かめれおん日記」を書きます。これらは、自分の性格について語ったり、やる気の出ない自分の状態を書いたもので、なんとも暗い感じを受ける作品ですが、これらの私小説風の作品は、必ずしも、自分のことを語っただけのものではないでしょう。おそらくは、当時の鬱々とした青年たちの一つの典型を描くつもりだったのだと思います。

参照

関連したドキュメント

 文学部では今年度から中国語学習会が 週2回、韓国朝鮮語学習会が週1回、文学

社会学文献講読・文献研究(英) A・B 社会心理学文献講義/研究(英) A・B 文化人類学・民俗学文献講義/研究(英)