明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高 橋 亨
は じ め に 明代中国の政体について︑かつて我が国では明快な評価が為された︒すなわち︑中国は宋代に﹁近世﹂と呼ぶべ
き時代に移行し﹁君主独裁制﹂が成立したが︑明代はその趨勢が極まった時代として位置づけられたのである︒言
うまでもなく︑このような理解を首唱したのは内藤湖南である︒内藤は﹁近世﹂の政体の特質を説くに当たり︑ま
ず君主権力の強化に言及し︑それを強調した
︵ 1 ︶
︒戦後になると︑宮崎市定によって﹁宋代以降近世説﹂はより精緻化される︒その宮崎も君主権の拡大を﹁近世﹂の特徴として重視した︒ただ︑宮崎は︑君主独裁を皇帝の恣意が全て
に優先される体制とは見なさない︒宮崎は︑独裁君主は全ての国家機能を統轄するが︑あくまでも﹁政治様式﹂﹁制
度﹂に制約された存在ととらえており︑内藤説を単純に祖述したわけではなかった
︵ 2 ︶
︒ 以上のように︑我が国東洋史の泰斗が中国﹁近世﹂の政体に対して行った評価には若干の相違がある︒とは言え︑明代の政体を象徴する現象として︑彼らは等しく﹁内閣官
︵ 3 ︶
﹂の職責に着目していた︒例えば︑内藤は内閣官が担っ た票擬 皇帝が下す批答の原案作成︵ 4 ︶
に注目し︑内閣官を﹁独裁君主﹂の秘書役あるいは﹁代筆の役﹂に過ぎ六九
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
ない存在と見なす︒そして︑君主権力が強化された結果︑政治上の最高機関は独裁君主の秘書に過ぎなくなったと
いう見解を打ち出したのである︒また︑宮崎も票擬を取り上げ︑それをあらゆる国家機能が君主の名のもとに統括
される﹁天子独裁﹂に便利な制度と見なした
︵ 5 ︶
︒後に発表された明代政治制度に関する論著が︑これら碩学の説より得た示唆について明言しているとは限らない︒とは言え︑内閣官の性質や政治的影響力を検討することで︑明代に
おける政体の特質を窺おうとする観点は︑現在まで根強い影響力を保持してきたと思われる
︵ 6 ︶
︒ 右のごとく︑明代の政体を研究するうえで内閣官の職責を焦点とする所説の淵源は︑中華圏の研究動向をたどれば明瞭となる︒例えば︑明代内閣について詳細な検討を行った先駆的業績として王其榘の著作がある︒王は主に﹃明
実録﹄を博捜し︑各時期における内閣官の職務・政治活動を網羅的に跡付けた︒その上で︑内閣官の性質について
結論を下すが︑そこでは黄宗羲が﹃明夷待訪録﹄で述べた﹁入閣辦事なる者は︑職は批答に在るのみなれば︑猶お
開府の書記のごときなり︒其の事既に軽く︑而して批答の意も︑又た必ず内より之を授けられ︑而る後に之を擬せ
ば︑其
︵ 宰 相 ︶
の実有りと謂うべけんや﹂という評価こそが妥当だと強調する︵ 7 ︶
︒王の著作が発表されて後︑中華圏の論著では︑果たして内閣官を単なる皇帝の書記と見なすべきかという問題をめぐり︑少なからず再検討が試みら
れた︒そこでも︑往々にして内閣官が担った票擬の評価に論及された
︵ 8 ︶
︒ 実は︑先に触れた内藤の学説も黄宗羲の主張より着想を得ている︵ 9 ︶
︒要するに︑日本・中華圏を問わず︑内閣官の職責に注目し明代の政体の特質を論じることは︑明末清初に遡ることができる古い論点と言える︒ただ︑そもそも
黄宗羲は明代の政体における﹁宰相不在という欠陥﹂を批判するために︑右の点を強調したことには注意が必要だ 七〇
明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 ろう︒何より︑明代の内閣官が負った職責は︑黄宗羲が難じた票擬のみではない︒ 例えば︑正統年間
︵ 一 四 三 五 〜 一 四 四 九 ︶
以後の内閣官は経筵に関わる諸事務を管掌しており︑かつて筆者はその制度が整備された過程を考察した︒経筵は九卿大臣などが列席し月三度行われる儀礼的な進講と︑講官などに任命
された臣僚のみが参与する毎日の進講 日講 からなる︒この形式は︑始め八歳で即位した英宗を教導するた
めに整備された︒しかし︑土木の変の後は︑成年に達した景泰帝に対しても︑臣僚がその実施を要求した︒そこで︑
経筵の実施を求めた臣僚の言辞を分析すると︑土木の変に到る皇帝の無謀な行動を制御できなかった反省から︑皇
帝の日常をできる限り掣肘する制度の確立が希求されたことが窺える︒結果として︑経筵に参与する臣僚の選定︑
進講で用いるテクストの査閲は内閣官の職責に帰す︒そして︑このとき成立した経筵実施の次第が後代に継承され
た
︶10
︵
︒こうして皇帝の教導を管掌する立場を得た内閣官について︑もはや強大な君主権力の出現を象徴する皇帝の秘書か否かという観点に拠って︑その性質を評価するわけにはいかないだろう︒
右のように︑内閣官は︑時代の要請に従って新たな職掌を獲得していった︒そういった職掌の形成過程を把握す
れば︑内閣官の性質についてより総合的な理解が得られるはずである︒特に我が国では︑内閣官の職責について先
述のように理解し︑それを宋代以後に現れた政体を象徴する現象と位置付けてきた︒それならば︑内閣官の職責に
いかなる政治的意義があったのかを把握することで︑明代までに中国で発展してきた政体の特質をつかむ新たな手
がかりを捉えられるのではないか︒
このような関心に基づき︑本稿では︑最終的に内閣官の職責に加わる皇太子の教導に関する制度が︑天順年間
︵一
七一
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
四五七〜一四六四︶
に確立されるまでの経緯を分析する︒明代において皇太子の不在が初めて政治問題化したのが︑本稿第一節で考察の対象とする景泰年間
︵ 一 四 五 〇 〜 一 四 五 七 ︶
である︒そこで︑当時の臣僚たちの動向を追い︑どの時点で︑如何なる理由で皇太子という存在が最も必要とされたのかを把握する︒それを踏まえることで︑内閣官
が皇太子の育成に関わる職責を負った意義が明瞭となる︒その結果︑当該時期における内閣官の性質について新た
な評価を提示できるだろう︒
一 景泰年間の皇太子不在と臣僚による危惧表明 ︵1︶皇太子不在に対する批判 明朝では︑宣宗の治世
︵ 一 四 二 五 〜 一 四 三 五 ︶
までは早くに皇位継承者が決定されており︑皇位継承者が不在の時期は長期化していない︒したがって︑それに対する不安が臣僚から表明されることもなかった︒その後︑宣徳十年
︵ 一 四 三 五 ︶
正月に宣宗が崩御すると︑皇太子の朱祁鎮が八歳で即位する︒ただ︑朱祁鎮 英宗 の治世は土木の変によって唐突に終わる︒そこで擁立された景泰帝の治世では︑皇帝が敢えて皇太子を立てないという局面が生
じた︒それに対して︑臣僚たちが強く皇太子冊立を要求するという情況が︑明代史上初めて現れる︒本節では︑そ
の間の動向から︑皇太子不在によって具体的に何が危惧されたのかを把握していく︒
正統十四年
︵一四四九︶
八月十五日︑英宗は土木の変によってオイラートのエセン=ハンの捕虜となる︒そこで︑二歳だった英宗の長子朱見深を急遽皇太子に立て︑英宗の弟である郕王朱祁鈺が朱見深を補佐して国政を総攬する 七二
明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 ことになった︒ただし︑結局は臣僚たちが年長者を即位させるよう求めたことから︑八月二十九日に朱祁鈺の即位が決定され︑彼は翌月に即位する
︶11
︵
︒これが景泰帝であり︑その治世は皇帝=叔︑そして皇太子=侄という体制で始まり︑翌年は景泰元年とされた︒その後︑明朝とオイラートとの講和が成ると︑英宗は景泰元年八月に北京へ帰還
する︒しかし︑景泰帝は英宗の帰還を望んでおらず︑英宗は皇城の東南にあった南宮に幽閉されてしまう
︶12
︵
︒このような情況のもと︑景泰三年
︵一四五二︶
に皇太子が易えられることになった︒その年︑広西思明府の土官知府黄鈞とその父黄が︑黄の庶兄黄に殺害される︒そして︑黄は処罰を回避
するため︑皇帝に阿ることを思いつき︑景泰帝の子を皇太子とするよう請うた︒その上奏をうけると詔が下され︑
四月二十二日に文武臣僚を召集した会議が行われる︒その結果︑魏国公徐承宗以下の武官大臣︑吏部尚書王直及び
内閣官陳循以下︑在京文官衙門の堂上官らが連名で黄の提起に従うべきだと上奏する︒すると︑早くも同日に東
宮官が設置され︑永楽年間
︵ 一 四 〇 三 〜 一 四 二 四 ︶
より終始中央官界にあった元老格の礼部尚書胡濙と王直らが太子太師を兼ね︑内閣官陳循・高穀らが太子太傅を兼ねて︑翰林院の臣僚らが詹事府・左右春坊・司経局のポストに就
くこととなった
︶13
︵
︒そして五月二日には︑景泰帝の長子朱見済が皇太子となり︑朱見深は沂王とされた︶14
︵
︒そもそも当時兵部右侍郎だった李賢に拠れば︑景泰帝はもとから皇太子のすげ替えを考えており︑あらかじめ内
閣官に金銀を下賜したため陳循らはその意に従った︑という︒加えて︑李賢は東宮官の設置も﹁宮僚美秩﹂のばら
まきだったと批判する
︶15
︵
︒実際に︑太子三師・太子三少を兼ねた胡濙・王直そして陳循らについては︑従来帯びていた官職の俸給と併せて﹁二俸﹂を支給することがわざわざ命じられている
︶16
︵
︒会議を行わせたとは言え︑景泰帝の朱七三
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
見済冊立の意向は始めから明白だった︒
なお︑ここで本節以下に頻出する明代東宮官の概略を示しておく︒それは詹事府・左右春坊・司経局から成り︑
本来は次のような職掌となっていた︒まず左右春坊は︑皇太子から皇帝に提出する奏本及び臣僚が皇太子に提出す
る啓本といった文書の管理︑及び皇太子の教導に関する事務などを管掌し︑春坊大学士
︵正五品︶
・庶子︵正五品︶
・諭徳
︵ 従 五 品 ︶
・中允︵ 正 六 品 ︶
・賛善︵ 従 六 品 ︶
などの官員を擁した︒司経局は︑各種典籍の管理などを行い︑洗馬︵ 従 五 品 ︶
以下の官員がこれに属する︒そして︑詹事府は皇太子の輔導に関する諸事務を総攬する︒長官は詹事︵ 正
三品︶
で︑次官は少詹事︵正四品︶
である︶17
︵
︒さて景泰四年
︵ 一 四 五 三 ︶
十月︑山西道監察御史張鵬が上奏し︑﹁文学侍従之臣﹂の選抜を行い︑皇太子をその教導下に置くことを求める
︶18
︵
︒翌月︑礼部が張鵬の上奏内容について検討し報告した結果︑皇太子の教導を行うスタッフが整えられる︒この時︑胡濙・王直︑内閣官陳循・高穀・王文・江淵・蕭鎡・商輅︑そして郕邸旧僚の儀銘・兪
山・兪綱が︑毎日輪番で皇太子の教導の場に侍すこととされた︒その上で︑左春坊大学士兼翰林院侍読彭時が毎日
進講を行い︑詹事府府丞李侃・李齢・右春坊右賛善兼翰林院検討銭溥・翰林院編修劉吉が毎日テクストの読解を指
導し︑吏部郎中王謙・中書舎人兼司経局正字趙昴が輪番で習字の指導に当たることになった
︶19
︵
︒このスタッフのもとで朱見済は皇太子としての資質を涵養するはずであった︒しかし︑朱見済はその月に薨じてしまう
︒したがって︑
20
その教導はほぼ実施されずに終わっただろう︒朱見済のほか景泰帝には子がなく︑皇帝はそれ以後皇太子を立てよ
うとしない︒先述のように︑これは明朝において初めての事態である︒ 七四
明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 この未経験の事態に臣僚たちは当然ながら危惧を抱く︒それは︑まず景泰五年
︵一四五四︶
二月に表面化する︒このとき︑前年冬から続いていた天候不順により︑文武臣僚に直言をうながす勅が下された
︶21
︵
︒そこで︑貴州道監察御史鍾同と礼部郎中章綸がそれに応じて上奏を行う︒しかし︑景泰帝は下獄・拷問という過酷な処断でそれに応えた︒
﹃英宗実録﹄の景泰五年五月十四日の記事に拠れば︑
まず鍾同が上奏し︑さらに章綸も上奏を行うに及んで︑合わ
せて下獄させられたという
︶22
︵
︒鍾同はモンゴルの捕虜から得た情報の報告にかこつけて︑英宗の子を皇太子に立てるよう主張した︒鍾同は︑その中で﹁伏して望むらくは⁝⁝日を択び礼を行い︑其
︵ 朱 見 深 ︶
の儲位︵ 皇 太 子 の 位 ︶
を復し︑仍お蹇諤の
︵忠実で正直な︶
儒臣を選び︑日々講読に侍せしむれば︑聖学を緝煕し︵光輝かせ︶
︑用て祖宗が無疆の休
︵無限の福運︶
を延べ︑天下幸甚たるに庶からん﹂と述べる︒この上奏に対して︑景泰帝は心中不快であったが︑臣僚を集めた会議を行い︑如何に対応すべきかを報告するよう命じたという
︶23
︵
︒景泰帝自身も事の重要さは認識しており︑黙殺しきれなかったのだろう︒
一方︑章綸は十四項目にわたる上奏を行う︒その第七項目で︑朔望日あるいは節日に臣僚を率いて南宮にいる英
宗に朝見すべきこと等を景泰帝に求めた︒その上で﹁儲位に至っては︑亦た久しく虚しうすべからず︒伏して望む
らくは皇上気を同じうせる猶子
︵ お い ︶
の義を推し︑詔して沂王をして復た儲位に居らしめ︑以て天下の本と為されんことを﹂と要請したのである
︶24
︵
︒さて︑同様の上奏を行い下獄した人物には︑さらに南京大理寺左少卿廖荘がいる︒景泰五年七月︑廖荘は上奏を
行い︑まず折々に景泰帝が英宗と面会するよう求めた︒それから﹁⁝⁝臣窃かに以為えらく︑太上皇帝の諸子は皇
七五
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
上の猶子なり︒宜しく親近の儒臣をして経書を講読せしめ︑天下の臣民をして暁然と皇上に天下に公たるの心有り
て︑天下を私するの意無きを知らしむべきなり﹂と主張した
︶25
︵
︒廖荘は︑翌年八月に母の喪に服すために南京を離れ︑北京に赴き景泰帝に謁見する︒そこで︑景泰帝は怒りを爆発させ彼を杖八十に処したが︑死ななかったため陝西定
羗城駅駅丞とされた
︶26
︵
︒したがって︑当然ながら廖荘は南京にいた時に右の上奏を行ったことになる︒皇太子不在に対する不安は︑北京の外にいる臣僚にも共有されていた︒
先に見た朱見済冊立時の根回しに窺えるように︑景泰帝は自分の子が皇統を継承することに執着するようになっ
ていた︒したがって︑廖荘の言う﹁天下を私する﹂という言辞は︑皇帝の個人的執着によって︑皇太子不在という
異常事態を生じさせていることへの批判に他ならない︒一方︑皇帝個人の願望を抑制し︑皇位継承者を確保し教導
を施しておくことを︑彼は﹁天下に公たる﹂態度と評した︒では︑廖荘は何ゆえ景泰帝の態度を﹁私﹂と断ずる痛
烈な言葉を吐かねばならなかったのか︒景泰帝の治世七年目︑廖荘らの行動の背景にあったであろう臣僚たちの危
惧がより具体的に表出することになる︒
︵2︶視朝の停止と皇太子の冊立 景泰七年
︵一四五六︶
十二月︑景泰帝は病を発する︒八年正月元旦には奉天殿に臨御するが︑六日は太廟における時享の祭祀を執り行えず︑十四日に到ると朝儀へ臨むことができなくなる︒元老格の胡濙を筆頭とした臣僚たちが
ついに行動に出たのは︑この十四日である︒この日︑胡濙らは上奏して問安しつつ︑皇太子の冊立を要請する挙に 七六
明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 出た
︶27
︵
︒さらに︑同月十四日から十六日にかけて景泰帝が﹁視朝﹂ 朝儀に臨むこと をできなくなるに及んで︑臣僚たちはまた礼部より召集をかけた会議を行い︑皇太子冊立を要請しようとする
︶28
︵
︒ここで︑この間の動静について︑当事者たちが遺した史料から詳細を追ってみる︒
当時︑内閣官だった蕭鎡が︑同じく内閣官だった陳循のために墓誌銘を著している︒それに拠れば︑正月十四日︑
内閣官の陳循・高穀・蕭鎡・商輅は右順門で太監興安と接触し︑かつて永楽帝が視朝できなかった時︑臣僚に皇太
子のもとへ赴き朝参して政務報告を行わせた先例について述べ﹁必ず正統に復し︑皇太子に朝参を代視させる﹂こ
とを請うべきだと伝えたという︒朱見深を皇太子に復位させる考えであろう︒そして︑陳循はすぐに礼部侍郎鄒幹・
姚虁と会議の実施について打ち合わせた︒会議では陳循が上奏文への署名を促し︑その結果賛同者が多くなった︒
十五日︑上奏が為されたが︑景泰帝はそれを拒否する︒十六日︑裁可を得ることを期したが︑すでに日が暮れてい
たため間に合わなかった︒そうこうしているうちに︑十七日早朝になって英宗の復辟が断行されたのだという
︶29
︵
︒陳循は英宗復辟後に遼東鉄峯衛での充軍に処されるが︑天順五年
︵一四六一︶
十二月に原籍に戻して民としてくれるよう上奏している︒そこでは︑十四日に景泰帝が朝儀に臨めなくなると︑すぐに高穀らと皇太子の復位を請願すべく
議論し︑礼部に臣僚たちを集めさせてから上奏を行ったと弁明している
︶30
︵
︒また︑同じく内閣官だった商輅は︑成化年間になり監察御史林誠らによって︑景泰年間の行状を弾劾される︒成
化四年
︵一四六八︶
九月に商輅が行った弁明に拠れば︑十四日に景泰帝が視朝できなかったとき︑太監興安が商輅及び陳循らを右順門に召して︑政事の処断を誰に託すべきかを文武大臣と議論するよう求めた︒この時︑商輅は皇太
七七
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
子冊立を請うことをまず提言したという
︶31
︵
︒以上は︑景泰末年に政界中枢にいた者たちの言であり︑自分たちに英宗父子を排斥する意図はなかったと釈明す
る意図が多分に含まれる︒ただ︑天順年間に内閣官となる李賢も以下のように回顧する︒すなわち︑景泰帝が不豫
となった時︑内閣官王文と太監王誠が︑仁宗の第五子襄王朱瞻墡の子を皇太子に立てようと画策した︒そして︑景
泰帝の病がさらに篤くなると︑太監興安が臣僚たちに皇太子冊立を請うよう促し︑会議が行われた︒その結果︑早
く皇位継承者を選ぶよう要請する上奏文も準備されるに至ったという︒かくして︑十七日に英宗復辟が為されたこ
とを記した上で︑李賢は﹁是の時景泰朝せざること已に四日なり﹂と強調する
︶32
︵
︒この李賢の筆致からも︑十四日に景泰帝が視朝できなくなったことで︑皇太子冊立を求める臣僚たちの動きが一挙に顕在化したことが窺える︒
さて︑明代の朝儀︑特に日々午前中に行われる﹁早朝﹂では︑皇帝が奉天門に臨御し︑各官庁からの上奏内容に
裁可を下すことになっていた︒以前に筆者は﹃皇明条法事類纂﹄が収める成化年間の檔案に︑奉天門で聖旨が拝受
されたことを明記するものが一定数存在することに注目し︑それらの分析を行った︒ちなみに︑成化年間は皇帝が
まじめに早朝に臨み続けたという評価が伝わっており︑記録された聖旨は皇帝が早朝の際に奉天門で下したもので
ある蓋然性が大きい︒これを踏まえ﹃皇明条法事類纂﹄の記事を分析した結果︑早朝の場ではおおよそ次のような
手続が行われたことが窺えた︒
①各処から上奏された案件について︑六部・都察院など関係する中央官庁が講じた処置が上奏され︑それを裁
可する聖旨
︵﹁是﹂など︶
を下す︒ 七八明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 ②各官庁あるいは臣僚個人から上奏された案件について︑関係する中央官庁にまわし処置を講じさせることを裁可する聖旨
︵﹁該衙門知道﹂ ﹁該衙門看了来説﹂など︶
を下す︒③地方官あるいは地方に派遣された中央官庁の臣僚の上奏が︑通政使司を通して報告され︑それに対して関係
する中央官庁にまわし処置を講じさせることを裁可する聖旨を下す
︵﹁該部知道﹂ ﹁該衙門看了来説﹂など︶
︒④各地から寄せられた臣民の訴え ﹁建言民情﹂ について通政使司が報告し︑それらについて礼部主催の
会議を行うことを裁可する聖旨を下す
︵﹁是﹂ など︶
︒また︑会議に参加した臣僚たちから処置を講じるべき案件数が報告されると︑それらを関係する中央官庁にまわすことを裁可する聖旨を下す
︵﹁是﹂など︶
︒聖旨の内容自体は型にはまったものでよかったのだろう︒重要なことは︑皇帝の裁可を得たという体裁を整え︑内
外の行政に関わる案件の処理を進めることであった︒したがって︑皇帝がまじめに日々の早朝に臨みさえすれば︑
その手続は滞りなく進むはずであった
︶33
︵
︒とすれば︑視朝の杜絶によって︑最も危惧されたことは行政の停滞であろう︒だからこそ︑臣僚たちは︑皇帝が視朝というつとめをこなせなくなった時点で︑それを代行できるスペア 皇太子 の冊立を求める行動に出ざるを得なかったのである︒
以上を踏まえれば︑視朝を代行できる皇位継承者の確保と育成は︑行政の停頓を回避するための根本的な措置と
言える︒そして︑章綸・鍾同・廖荘が立て続けに上奏を行ったのは︑皇帝は自らのつとめを果たせなくなった時に
備えるべきだ︑という認識が臣僚間に共有されていたからに他ならないだろう︒
七九
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
二 天順の立太子と東宮講読 ︵1︶皇太子育成のための施策 景泰八年
︵一四五七︶
正月十七日︑奪門の変により南宮から担ぎ出された英宗が復辟し︑景泰八年は天順元年となる︒景泰帝に重用された内閣官陳循らは弾劾を受け失脚した
︶34
︵
︒そして︑早くも十八日には︑定襄伯郭登が八項目にわたる上奏を行い︑その中で皇太子の冊立に言及する︒それについては関係官庁に対応を協議させている
︶35
︵
︒その結果︑如何なる報告が為されたのか︑史料上に明確な記載は見出せない︒ただ︑同月二十五日には︑左春坊大学士兼
翰林院侍講だった倪謙らが通政使司左参議兼侍講とされるなど︑景泰年間に東宮官を帯びた人間たちが一斉に東宮
官を外されている
︶36
︵
︒これは︑景泰期に行われた朱見済の冊立を否定し︑あらためて皇太子を立てるという意思表示であろう︒かくして︑天順元年三月六日︑沂王朱見深が皇太子に復位する
︶37
︵
︒それに先立ち三月一日には︑国子監祭酒劉鉉を詹事府少詹事に任ずるなど︑新たに東宮官の任命が為された
︶38
︵
︒ところで︑天順二年
︵一四五八︶
正月になると︑朱見深の安全の確保につとめた孫皇太后に﹁聖烈慈寿皇太后﹂の徽号がたてまつられる︒おそらく︑自らの幽閉と朱見深の廃位を経験し︑英宗も自分の子による皇統の継承につい
て相当に敏感になっていた︒それゆえ︑朱見深を保護した皇太后に対して︑目に見えるかたちで報恩したのだろう
︶39
︵
︒いずれにせよ︑朱見深が皇太子となると︑その地位を確固とするための施策が進められる︒それは皇太子に対する
政務報告と教導の実施であった︒ 八〇
明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 まずは︑朱見深 憲宗 自身の回顧を見てみよう︒成化十八年
︵一四八二︶
十二月︑皇太子が学ぶべき故事を集成した﹃御製文華大訓﹄が完成する︒それに附された御製の後序に次のようにある︒﹁惟うに我が祖宗制を定め︑
皇太子既に立てらるれば︑凡そ中外諸司の政務の須らく奏陳すべき者もて︑率ね啓聞せしむるは︑正に其をして聞
見を広め︑治体に達せしめんと欲すればなり︒朕も皇考
︵ 英 宗 ︶
に侍せし日︑亦た嘗に命を奉じ︑出でて群臣に見え︑政理に預聞せり︒⁝⁝﹂と
︶40
︵
︒﹁出でて群臣に見え﹂云々という文言から推せば︑朱見深は臣僚の朝参を受けるかたちで政務報告を聴いたのだろう︒
さて︑皇太子に対する朝参の詳細な規定を確認できる最も早い例は︑永楽二年
︵一四〇四︶
四月に朱高熾 仁宗 が皇太子に冊立された際に︑それに先立って定められた﹁東宮朝儀﹂の儀注である︒それに拠れば︑皇帝に対する朝参を終えた後︑文武の臣僚たちは太子三師・太子三少︑及び詹事府・左右春坊・司経局の臣僚らが居並ぶ文
華殿に赴き︑皇太子に﹁啓事﹂ 政務報告 を行うこととされた
︶41
︵
︒この後︑どれほどこの儀注に忠実に皇太子への朝参が行われたのかを窺わせる史料は乏しい︒とは言え︑前節で見た景泰年間の情況については次の史料を確
認できる︒
景泰三年
︵一四五二︶
四月に刑科都給事中から春坊司直郎とされた林聡について︑時期は不明ながら︑内閣官商輅が﹁固より是れ美職なるも︑但だ即目
︵現在のところ︶
政務頗る簡なれば︑未だ有用の才を以て︑閑散の地に置くを免れず﹂と上奏している
︶42
︵
︒永楽二年の儀注に拠れば︑春坊司直郎は啓事の際に儀礼に外れる行為を監視し︑また啓事及び進講の後に︑単独で皇太子と接触しようとする者を糾弾する役割を負う
︶43
︵
︒実は景泰三年五月に︑礼部が文武八一
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
臣僚による皇太子朱見済への朝参を毎日あるいは朔望日に行うよう要請した時﹁朱見済はまだ幼年であるから︑朔
望日のみ朝参せよ﹂という詔が下されていた︒結果︑官職の除授を受け謝恩すべき臣僚︑及び赴任等により辞去す
べき臣僚が朔望日に朝参することになる
︶44
︵
︒このような措置が採られたために︑景泰年間の春坊司直郎は閑職に近かったのだろう︒なお︑後代にあっても皇太子がまだ幼年のうちは︑まず同様の形式を用いることで︑臣僚からの朝参
に慣れさせたことが窺える
︶45
︵
︒加えて︑後の史料には次のような記録も存する︒嘉靖二十三年
︵一五四四︶
五月に南京礼科給事中游震得が皇太子の教導に関わる五項目を上奏し︑教導が行われた後には︑皇太子に朝参の儀礼︑及び群臣と接見し重要案件を処理
すること等を習わせるよう主張した︒游震得の要請に対して︑礼部は皇太子が教導を受ける時を待って︑﹁累朝旧
典﹂を調査し報告することを請い︑﹁上之を然りとす﹂という対応を得たという
︶46
︵
︒おそらく皇太子に対する朝参は各時期に実施されており︑その次第を伝える具体的な記録が蓄積されていたのではないだろうか︒
ちなみに︑地方官や地方に派遣された臣僚が上奏を行う際に﹁啓本﹂の提出が為されたことが︑断片的ながら明
代各時期の史料に窺える
︶47
︵
︒明末の史料だが︑万暦二十九年︵一六〇一︶
に総兵官尤継先から啓本が提出された際︑内閣官沈一貫は︑啓本は﹁聴断﹂を要するものではないため︑皇帝が目を通した後に皇太子のもとにまわし参考に備
えさせればよい︑と述べている
︶48
︵
︒実際に皇太子に政務処理を委ねる情況が出来していなければ︑啓本は皇太子の見識を広める資料としてあつかわれたのである︒朱見深に対しても啓本の提出は為されたと思われる︒
以上のように︑皇太子には臣僚からの政務報告に触れることが求められた︒特に朝儀形式での臣僚との接触は︑ 八二
明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 即位のあかつきに速やかに視朝をこなせるようにしておくための練習に他ならないだろう︒さて﹁はじめに﹂で述べたように︑天順年間には皇太子の教導に関する制度が整備され︑それが実施される︒実は︑その教導の場も皇太子に具体的な政事について知見を得させる機会となり得た︒以下では︑あらためて天順年間に叙述を戻し︑この時の教導がどのように実施されたのかを見ていく︒ ︵2︶皇太子に対する教導の開始と天順の儀注 天順二年
︵一四五八︶
正月︑刑科給事中王理の上奏をきっかけとして︑皇太子に対する教導の開始が指示される︒王理は︑東宮官を選任して日々進講の場に侍させ︑皇太子としての徳性を養うべきであると主張した
︶49
︵
︒そして三月に到り︑あらためて礼部より皇太子の教導の開始が要請されたので︑吏部・礼部に翰林院と共同でそれに参加すべ
き臣僚を選定し︑儀注を制定するよう指示される
︶50
︵
︒その結果︑礼部によって儀注が進呈され︑まず四月八日に教導を始めることとされたが︑これは言わば太子三師・
太子三少並びに東宮官のお目見えの儀式である︒儀注に拠れば︑その後は︑毎日早朝が終わり次第︑皇太子は教導
の場に臨み︑﹁侍班官﹂・﹁侍読・講官﹂がそこに赴く︒彼等はそこで東班と西班に分かれる︒東班の侍読官は四書を
皇太子とともに読み︑西班の侍読官は経書または史書を読む︒また︑毎日巳の刻になると︑侍班官・侍読官・侍講
官そして﹁侍書官﹂が再び皇太子のもとに赴き︑まず午前中に学習した四書について東班の侍講官が進講し︑経書
または史書について西班の侍講官が進講を行う︒進講が終われば︑侍書官が進み出て習字を指導する︒以上の説明
八三
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
は﹃英宗実録﹄に拠るが
︶51
︵
︑ほぼ同内容が﹃明会典﹄﹁東宮出閤講学儀﹂の項に収められている︶52
︵
︒要するに︑この時の儀注が後代にあっても参照すべき典範となったのである︒
儀注進呈の後︑吏部・礼部・翰林院によって︑教導に参与する臣僚が選出された︒﹃英宗実録﹄に拠れば︑まず侍
班官として︑内閣官李賢が日々教導の場に侍すこととされた︒同じく内閣官の彭時・呂原も一日おきに交替でその
場に侍す︒また詹事府詹事陳文・少詹事劉鉉も日々その場に侍し︑翰林院学士李紹・劉定之・侍読学士銭溥は交替
で一日ごとに侍すことになった︒そして﹁講読官﹂に︑翰林院学士倪謙・尚宝司卿兼翰林院侍講黄諫・尚宝司司丞
兼翰林院編修万安・尚宝司司丞兼翰林院編修李泰・左春坊左中允孫賢・右春坊右中允劉珝・左春坊左賛善牛綸・右
春坊右賛善司馬恂が任命され︑日々四人ずつが教導に当たる︒講読官とは先述の侍講官・侍読官の略称だろう︒さ
らに侍書官に︑太常寺少卿黄采・中書舎人兼司経局正字呉謙が充てられ︑一日交替で習字の指導に当たることとさ
れた
︶53
︵
︒この後︑儀注に従い四月には文華殿の東側にある﹁左春坊﹂と呼ばれる空間で皇太子の教導が始められる
︶54
︵
︒後でまた触れるが︑李賢は教導実施に先立ち︑英宗に召されてそのカリキュラムについて尋ねられた︒その際︑文華殿
の﹁左廊﹂で講学させるよう命じられたというが
︶55
︵
︑そこが左春坊なのだろう︒ちなみに万暦年間︵一五七三〜一六二
〇 ︶
には︑この文華殿左廊での皇太子の教導について︑遵うべき﹁故事﹂として言及されることがあった︶56
︵
︒さて天順二年七月になると︑暑熱の時期に入って講学は暫時停止していたが︑涼しい時期に到ったので再開するよう︑李
賢が請うている
︶57
︵
︒皇太子の教導は︑気候を勘案して適宜中断しつつ実施されていた︒ 八四明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 ところで︑先に見たように︑天順二年三月︑侍読官・侍講官には東宮官を帯びた臣僚と翰林院官の肩書きのみを有する臣僚が任命されている︒彼等が教導に従事した様子について︑日々そこに侍すことになった陳文の伝記には﹁翰林院の臣僚が左側に侍し︑東宮官を帯びた臣僚が右側に侍して︑交互に進講した﹂という主旨の記述がある
︶58
︵
︒ここに言う肩書による分班が︑先に見た儀注とどのように関係するのかは判然としない︒ただ︑﹃明会典﹄﹁詹事府﹂
の項は︑皇太子の教導について﹁天順以後︑止だ東宮官と翰林院官とをして班に分かれて講読せしむ﹂と明記する
︶59
︵
︒つまり︑もっぱら翰林院官と東宮官を帯びた臣僚が共に進講を行うという人員構成についても︑天順年間の体制が
その濫觴とされた
︶60
︵
︒以上のように︑天順期の皇太子の教導は︑後代に継承されるモデルとなったが︑そこでは実際に何が行われたの
か︒まず︑あらためて天順以前の儀注を確認しておこう︒﹃明会典﹄﹁詹事府﹂の項は永楽二年の儀注を収める︒そ
こには﹁凡そ講読し畢われば︑上位発落せる五府の軍政・六部の緊要の事務︑及び四夷を撫諭せる恩意に遇うごと
に︑其の大経大法 3333
︵ あ る べ き 原 理 原 則 ︶
は︑詹事府官は春坊官と同に︑縁由を将って︑文華殿講書の後︑衆官未だ退かざるの時に於いて︑一一敷陳す
︵ 論 述 す る ︶
﹂とある︶61
︵
︒なお︑この規定は朱高熾 仁宗 を皇太子に立てる際に進呈された﹁東宮朝儀﹂儀注の最後の条項に基づく
︶62
︵
︒もともと皇太子に対する朝儀と教導の実施は不可分の施策だったのだろう︒果たして永楽以後これと同一形式で行われたのかは不明だが︑天順期の教導では︑その際に臣僚
が時事問題に説き及んだことが窺える︒
天順年間に皇太子の教導に与った劉珝は︑次のような言を遺す︒すなわち﹁凡そ聖躬に関わること有り︑臣民に
八五
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
切なること有り︑及び一切の大経大法 3333あれば︑必ず中宵にして起き︑天に黙祷して︑愚誠を竭くさんと誓い︑以て
聖心を感動せしむ︒知れば言わざるは無く︑言えば亦た復た忌避すること無し
︶63
︵
﹂と︒実は︑この一節は皇太子時代から皇帝即位後まで一貫して朱見深 憲宗 に進講してきたことを回顧した文脈に含まれており︑皇太子に対
する進講についてのみ述べた言ではない︒ただ︑劉珝は朱見深即位からほどなくして著されたと思われる文章の中
でも︑即位の前年に皇太子だった朱見深に侍し﹃尚書﹄﹁無逸﹂篇の読解を指導した際に︑そこから﹁時事数条﹂に
説き及んだと述べる︒さらに︑その文章では︑朱見深の即位詔に示された各地の臣僚による物産の進貢の停止︑各
地に配置された鎮守官の撤廃等といった施策は︑あたかも進講によって朱見深に時事へ関心を持たせた結果だと誇
らんばかりに記す
︶64
︵
︒﹃明実録﹄に拠れば︑少なくとも弘治︵ 一 四 八 八 〜 一 五 〇 五 ︶
・正徳︵ 一 五 〇 六 〜 一 五 二 一 ︶
ころまでは︑皇太子の教導に参与する臣僚の控え所が皇城内南側にある端門の左側に設けられており︑そこで詹事府・左
右春坊・司経局が他官庁とやり取りした文書や典籍を管理していたことが窺える
︶65
︵
︒あるいは︑その中に時事問題について参考に資するような文書も含まれていたかも知れない︒
いずれにせよ︑劉珝の言より︑天順期に行われた皇太子の教導では︑進講にともない時事問題にまで踏み込むこ
とが許容されていたと考えられる︒先に見たように︑皇太子は朝儀形式による臣僚との接見になじむことが求めら
れた︒加えてこのようなかたちで教導を行えば︑日々の進講もまた︑やがて負うことになる臣僚の上奏に裁可の言
を発するというつとめについて︑皇太子に自覚を促す施策となり得ただろう︒ 八六
明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 ︵3︶内閣官の職責へ ところで︑皇太子の教導が始められた時期︑特に英宗から信任されていたのが内閣官李賢である︒彼は天順元年
︵ 一 四 五 七 ︶
二月に内閣に入る︒ただ︑彼が英宗より格別の信任を勝ち得た決定的要因は明確ではない︒天順元年六月︑奪門の変に功績があった太監曹吉祥と忠国公石亨の策動により︑李賢は内閣官徐有貞とともに下獄させられる︒
そして福建布政司右参政とされたが︑英宗が信任する吏部尚書王翺の取り成しで内閣に復帰する︒その後に李賢に
対する寵遇は増し︑彼は日々顧問に召されるようになったと伝えられる
︶66
︵
︒先にも述べたが︑皇太子に対する進講の開始に先立ち︑李賢は英宗からそのカリキュラムについて諮問されたと
いう︒そこで︑李賢は四書・経書・史書のうち﹃大学﹄﹃尚書﹄を先に読むべきこと等を答え︑習字についても心得
を述べた︒そして︑李賢が教導に当たる臣僚二十人を選定すると︑英宗はそれら一人一人に評価を下したという
︶67
︵
︒そもそも︑李賢の女婿である程敏政が著した彼の伝記は︑李賢自ら皇太子を教導する臣僚の選任を請い︑また英宗
が李賢に命じて進講に携わる臣僚を統括させたと伝える
︶68
︵
︒あるいは進講実施に到る経過の背景には︑李賢の主導があったのかも知れない︒
さて︑﹃明会典﹄﹁翰林院﹂の項は︑内閣官が皇太子の進講を﹁提督﹂﹁提調﹂すると規定する︒それに拠れば︑提 督・提調とは︑侍講官・侍読官・侍班官などを翰林院官・東宮官より選出し︑あらかじめ提出された﹁直解﹂ 講義内容の解説文 を査閲し内容を確定することを言う
︶69
︵
︒実際に用いるテクストに問題があれば︑内閣官がそれを裁定することもあった︒例えば︑成化十九年
︵一四八三︶
三月︑かつて翰林院侍講学士のポストにあり︑皇太子に八七
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
対する進講を担当した焦芳は︑そこで用いられた﹃御製文華大訓﹄が引く程頤﹁上太皇太后書﹂の文言の当否につ
いて詹事府詹事彭華と対立した︒そこで︑テクストの改訂を内閣官万安らに訴えたところ︑万安は彭華を呼び出し
て出典を質したという
︶70
︵
︒このように講義内容の裁定が内閣官のもとに持ち込まれたのは︑内閣官が教導を統轄する立場にあったからに他ならない︒そして天順以降︑皇太子が立てられるたびに︑内閣官に皇太子の教導の﹁提調﹂
が命じられたことは︑歴代の史料に確認できる
︶71
︵
︒また仮に皇太子が立てられなかったとしても︑皇位を継承する可能性が大きい人物に対しては︑やはり内閣官がその教導に関与していたことが窺える
︶72
︵
︒要するに︑先に見た天順期の皇太子教導における李賢の事蹟は︑以後内閣官の負うべき職責として継承されたと考えられる︒
先述のように︑李賢が皇太子の教導に深く関わった一因として︑当然彼が英宗より格別の信任を得ていたことが
挙げられる︒ただ︑注意したいのは︑正統から景泰にかけて経筵の制度が整備された結果︑経筵に参与する臣僚の
選定︑講義内容の査閲などが︑内閣官の管掌事項となっていた事実である︒既に︑内閣官が皇帝に対する進講に関
わる職責を得ていた以上︑同じく進講を行う皇太子の教導の管掌も︑内閣官に帰したことは自然な流れだっただろ
う
︶73
︵
︒いずれにせよ︑天順以降の内閣官は︑現君主そして次期君主に対する教導の管掌を職責として負うことになったのである︒
ところで︑復辟後の英宗は健康に問題を抱えており︑天順二年
︵一四五八︶
閏二月には一時不豫におちいる︒その際︑皇太子朱見深を遣わして︑昊天上帝を祀りその加護を請うた
︶74
︵
︒天順四年七月にも足疾を発し臣僚と面会できなくなり︑李賢らに問安されると︑﹁朕は今治療に努めており︑すでに回復したので︑明日視朝する﹂と述べている︒ 八八
明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 この時︑皇太子を派遣して七廟・太皇太后・宣宗皇帝の霊に対して︑病をおして視朝を実施した旨を報告している
︶75
︵
︒皇帝自身も︑視朝を体調回復の際にまっさきに行うべきつとめと認識していた︒天順六年十二月︑やはり足疾によ
り視朝できなくなった際にも︑七廟等に対して同様の弁明が行われたという
︶76
︵
︒しかし︑天順七年
︵一四六三︶
十二月︑英宗はまたも不豫におちいり︑視朝できなくなる︶77
︵
︒年が明けて八年正月二日︑また不豫となり︑皇帝が視朝できないという情況が五日続き︑ついに皇太子が文華殿で政事を視ることとなっ
た
︶78
︵
︒当時︑礼部左侍郎だった鄒幹の伝記によると︑皇太子による視朝代行は彼の上奏によって行われたという︶79
︵
︒とすれば︑臣僚からの要請によって︑皇太子による視朝代行が為されたことになる︒七日には︑会昌侯孫継宗・内閣
官李賢ら文武臣僚が︑英宗に体調の回復に専念するよう上奏している
︶80
︵
︒﹃英宗実録﹄を見ると︑
その後も英宗﹁不視朝﹂の記事が続き︑十二日には︑孫継宗・李賢らによって﹁陛下はす
でに皇太子に命じて視朝させておられますので︑臣等は従来どおり心を尽くして政事を処理しております︒陛下に
おかれましては︑病気療養に専念していただきたい﹂という主旨の上奏が為されるに到る
︶81
︵
︒ついに︑臣僚たちは︑皇帝に対してそのつとめから退くよう促した︒この後︑英宗が視朝できない情況が続き︑十六日に英宗は皇太子と
太監たちを召し︑皇太子を即位させることを告げる︒翌日︑英宗は崩じた
︶82
︵
︒以上のように︑この時︑内閣官李賢はじめ臣僚たちは皇帝に引退を勧告し︑視朝に重大な断絶を生じさせること
なく︑皇帝の代替わりを済ませた︒彼等が不安なくこの挙に出ることができたのは︑皇太子の冊立そしてその教導
によって︑皇帝のスペアを確保していたからに他ならない︒
八九
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
お わ り に 本稿第一節では︑景泰年間における臣僚たちの動向より︑皇太子という存在が最も必要とされるその時はいつな
のかを把握した︒それは視朝の停止︑すなわち行政案件の処理に関わるつとめを皇帝が果たせなくなった時であり︑
皇太子とは即時それを代行できるスペアとして据えおくべき存在だった︒ただ︑以後の歴史を見ると︑嘉靖
︵ 一 五
二二〜一五六六︶
・万暦︵一五七三〜一六二〇︶
には皇太子が不在︑あるいは皇太子の教導が実施されなかった時期が長期化したし︑正徳
︵ 一 五 〇 六 〜 一 五 二 一 ︶
のようにそもそも皇子がいない時期もあった︒したがって︑第二節で見た天順の情況は皇太子の冊立・育成が相当順調に行われた一例に過ぎないとも言える︒あるいは︑それゆえにこそ︑
この時に確立された皇太子教導の儀注は︑理想的な有り様を示す典範とされたのだろう︒とは言え︑同節で述べた
ように︑天順以降に皇太子あるいは皇位継承者と目された人物がいれば︑内閣官がその教導に与った︒それでは︑
このような職責をも負うことになった内閣官について︑如何なる評価ができるのか︒ここで﹁はじめに﹂で述べた
関心に立ち返ってみたい︒
﹃明実録﹄を通読すると気付くが︑
時代を経るに従い︑臣僚から皇帝の為すべき事柄として要求されたことに︑共
通した内容が認められるようになる︒それは日々の経筵と視朝の実施であり︑さらにそれらを行うことを前提とし
た上で︑積極的に臣僚と接触する機会を設け議論を行うことであった
︶83
︵
︒かくして︑特に嘉靖以降の記述には﹁朝講﹂という熟語が現われるようになる︒文字通り朝儀と講学の意味であり︑﹁朝講の暇に︑何々ということも行っていた 九〇
明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋 だきたい﹂という文脈で︑皇帝に精勤を求める際に用いられた
︶84
︵
︒要するに︑経筵を実施してしかるべき日常をおくり︑君主が果たすべき行政上の責務として視朝をこなすこと︑これが明代の臣僚たちが皇帝に求める最低限のつと
めとなった︒だからこそ︑それが一つの熟語となったのである︒
はじめに述べたように︑経筵の実施に関わる諸事務は︑景泰年間までに内閣官の管掌事項となった︒加えて本稿
で得た見地を踏まえれば︑皇太子の教導は視朝の杜絶を回避する施策の一環と見なすことができる︒つまり︑内閣
官は︑皇帝にしかるべきつとめを課す﹁朝﹂﹁講﹂の継続的実施に関わる職責を併せて担うことになったのである︒
とすれば︑さしあたり天順年間において︑内閣官は皇帝を頂点に据えおく政体を順当に機能させるために︑最緊要
の職責を負うことになった存在と評価できるだろう︒それは︑皇帝が為すべき事柄について相当具体的な認識が形
成されていく時流において現れた現象であった︒
註
︵1︶ 内藤の見解は︑ ﹃支那論﹄ ︵文会堂書店 一九一四年﹃内 藤湖南全集﹄ 五所収︶ ︑﹁概括的唐宋時代観﹂ ︵﹃歴史と地理﹄ 九︱五 一九二二年 同﹃全集﹄八所収︶ ︑﹃支那近世史﹄ ︵弘 文堂 一九四七年 同 ﹃全集﹄ 一〇所収︶ に窺える︒なお︑ 内 藤に﹁近世﹂という時代区分を着想させた時代背景につい ては︑拙稿﹁中国﹁近世﹂政体イメージの再検討に向けて 中 国 明 代 政 治 史 研 究 の 可 能 性﹂ ︵﹃吉 野 作 造 記 念 館
東 ア ジア文化交流叢書﹄ 創刊号 吉野作造記念館 二〇一五年︶ で 詳しく述べた︒ ︵2︶ 宮崎の見解は︑ ﹃東洋的近世﹄ ︵教育タイムス社 一九五 〇年﹃宮崎市定全集﹄二所収︶ ︑﹃中国史﹄下︵岩波書店 一 九七八年 同﹃全集﹄一所収︶に窺える︒ ︵3︶ 明代通じて内閣に入った臣僚の肩書は一様ではない︒
九一
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
そこで︑本稿では内閣設置から間もない永楽六年の﹁巡狩 合行事宜﹂ に見える ﹁翰林院内閣官﹂ という呼称 ︵﹃太宗実 録﹄巻八二 永楽六年八月己卯条︶に基づき︑ 内閣官と総称 する︒ ︵4︶ 明代最末期の情況だが︑票擬のプロセスは︑谷井俊仁 ﹁改票考﹂ ︵﹃史林﹄七三︱五 一九九〇年︶に詳しい︒ ︵5︶ 内 閣 官 に 対 す る 内 藤・宮 崎 の 評 価 に つ い て は︑ 註 ︵1︶ ・ ︵2︶に示した論著を参照のこと︒ ︵6︶ 関連する論著は数多いので︑ここでは書名に内閣を冠 す る 専 著 の み に 言 及 す る︒ ま ず 挙 げ る べ き は︑ 山 本 隆 義 ﹃中 国政治制度の研究 内閣制度の起源と発展﹄ ︵同朋舎 一九六 八年︶である︒山本は﹁あとがき﹂で︑内閣制度の起源を ﹁王命の起草﹂ を管掌する ﹁天子個人の秘書的存在﹂ と見な し︑天子の威権が強化されれば︑その政治活動は顕著にな ると述べる︒その上で︑明代を﹁天子独裁制機構﹂が大成 した時代とする ︵五三三〜五三六頁︶ ︒明言こそないが︑ 君 主権力が極度に強化された明代だからこそ︑内閣官の政治 活動が活発化し得たという認識なのだろう︒また近著に︑ 城 地 孝 ﹃長 城 と 北 京 の 朝 政 明 代 内 閣 政 治 の 展 開 と 変 容﹄ ︵京 都大学学術出版会 二〇一二年︶ がある︒城地は ﹁序章﹂ で 内閣制度の沿革を略述するが︑そこで票擬を担ったがゆえ に 内 閣 は 政 策 決 定 に お け る 影 響 力 を 拡 大 し た と 言 う︵ 九 頁︶ ︒ そ し て︑ 各 章 で の 個 別 具 体 的 な 政 策 決 定 過 程 の 分 析 を 経て︑ ﹁終章﹂ では内閣官が誘導した政策決定も皇帝の意向 で 簡 単 に 覆 さ れ た こ と 等 を 再 確 認 す る ︵四 〇 〇 頁︶ ︒ そ の 筆 致より︑ 先学が提起した ﹁独裁﹂ ﹁専制﹂ というイメージに 基づき︑右の点を強調したことが窺える︒ ︵7︶ 王其榘 ﹃明代内閣制度史﹄ ︵中華書局 一九八九年︶ 第 六章﹁明代内閣制的幾箇特点﹂三四八頁︒なお︑黄宗羲の 言は﹃明夷待訪録﹄ ﹁置相﹂に﹁入閣辦事者︑ 職在批答︑ 猶 開府之書記也︒其事既軽︑而批答之意︑又必自内授之︑而 後擬之︑可謂有其実乎﹂とある︒ ︵8︶ 例えば︑ 譚天星 ﹃明代内閣政治﹄ ︵中国社会科学出版社
一九九六年︶第六章﹁内閣権力地位評価﹂では︑内閣を 皇帝の ﹁文書房 ︵秘書室︶ ﹂ とする王其榘の見解を注記で批 判しつつ ︵二二二頁︶ ︑ むしろ票擬によって内閣官の ﹁宰相 化﹂の道が開かれたと見なす︒ただし︑譚氏が宰相化の実 態を分析する上で焦点とする ﹁相職﹂ ﹁相権﹂ 等の定義はや や 明 確 さ を 欠 く ︵二 一 九 〜 二 三 〇 頁︶ ︒ や や 最 近 の 著 作 に 方 志 遠﹃ 明 代 国 家 権 力 結 構 及 運 行 機 制 ﹄︵ 科 学 出 版 社 二 〇 〇 八年︶があり︑その第三章﹁内閣制度的形成及其在国家権 力結構中的地位﹂では︑票擬において内閣官が皇帝の望む
九二明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋
聖旨の起草を拒絶した事例を取り上げ︑内閣は官僚集団の 利益を代表し︑皇帝権力に制限を加えることができたと評 価している︵六七〜六八頁︶ ︒ ︵9︶ 内藤が ﹃明夷待訪録﹄ を参照したことは︑ ﹃支那論﹄ ﹁自 序﹂に明言がある︒ ︵
︵ 年︶を参照のこと︒ 立を分析の焦点として ﹂︵ ﹃史林﹄九五︱三 二〇一二 10︶ 拙稿﹁明代内閣職掌形成過程の研究 経筵制度の成
︵ 丁 卯・己 巳・丙 子 条︑ 同 巻 一 八 三 同 年 九 月 癸 未 条 に 拠 る︒ 11︶ 一連の経過は︑ ﹃英宗実録﹄ 巻一八一 正統十四年八月
︵ ︵研文出版 二〇〇三年︶に詳述されている︒ ﹃ モ ン ゴ ル に 拉 致 さ れ た 中 国 皇 帝 明 英 宗 の 数 奇 な る 運 命 ﹄ 12︶ 土木の変から英宗の北京帰還に至る過程は︑川越泰博
13︶ ﹃英宗実録﹄巻二一五
景泰三年四月甲申・乙酉条︒ ︵
14︶ ﹃英宗実録﹄巻二一六
景泰三年五月甲午条︒ ︵
︵ 記事に拠る︒ 15︶ 李賢 ﹃古穣集﹄ 巻三十 ﹁雑録﹂ ﹁景泰欲易太子﹂ 以下の
16︶ ﹃英宗実録﹄巻二一五
景泰三年四月丁亥条︒ ︵
︵ 事府﹂の項に拠る︒ 17︶ 正徳 ﹃明会典﹄ 巻一七〇・万暦 ﹃明会典﹄ 巻二一六 ﹁詹
18︶ ﹃英宗実録﹄巻二三四
景泰四年十月庚戌条︒ ︵
19︶ ﹃英宗実録﹄巻二三五
景泰四年十一月戊辰条︒ ︵
20︶ ﹃英宗実録﹄巻二三五
景泰四年十一月辛未条︒ ︵
21︶ ﹃英宗実録﹄巻二三八
景泰五年二月乙巳条︒ ︵
22︶ ﹃英宗実録﹄巻二四一
景泰五年五月甲子条︒ ︵
︵ また︑景泰帝の反応も同史料に拠る︒ 読︑庶緝煕聖学︑用延祖宗無疆之休︑天下幸甚﹂とある︒ ﹁ 伏 望 ⁝⁝ 択 日 行 礼︑ 復 其 儲 位︑ 仍 選 蹇 諤 之 儒 臣︑ 日 侍 講 ﹁貴州道監察御史贈大理寺左寺丞諡恭愍鍾公同伝﹂に見え︑ 23︶ 鍾同上奏の概略は︑焦竑﹃国朝献徴録﹄巻六五 程楷
24︶ ﹃敬郷楼叢書﹄
所収 章綸 ﹃章恭毅公集﹄ 巻十二 ﹁修徳 弭灾疏﹂に﹁至於儲位︑亦不可久虚︒伏望皇上推同気猶子 之義︑詔沂王復居儲位︑以為天下之本﹂とある︒なお︑文 言は相異するが︑ ﹃憲宗実録﹄ 巻二三八 成化十九年三月甲 寅条の章綸附伝にも︑その上奏内容が記録されている︒ ︵
25︶ ﹃英宗実録﹄
巻二四三 景泰五年七月庚戌條に ﹁⁝⁝臣 窃以為︑太上皇帝諸子皇上之猶子也︒宜令親近儒臣講読経 書︑使天下臣民暁然知皇上有公天下之心︑而無私天下之意 也﹂とある︒ ︵
26︶ ﹃英宗実録﹄巻二五七
景泰六年八月庚申条︒ ︵
癸亥条︑八年正月丙寅・辛未・己卯条に拠る︒ 27︶ 一連の経過は﹃英宗実録﹄巻二七三 景泰七年十二月
九三
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
︵
28︶ ﹃英宗実録﹄巻二七三
景泰八年正月辛巳条︒ ︵
︵ 殿大学士兼文淵閣大学士陳公墓誌銘﹂に拠る︒ 29︶ 蕭
鎡﹃尚約文鈔﹄巻十﹁前光禄大夫少保戸部尚書華蓋
30︶ ﹃英宗実録﹄巻三三五
天順五年十二月庚寅条︒ ︵
︵ 31︶ 商輅﹃商文毅疏稿﹄ ﹁乞恩弁誣辞職疏﹂に拠る︒
︵ 事に拠る︒ 32︶ 李賢 ﹃古穣集﹄ 巻三十 ﹁雑録﹂ ﹁初景泰不豫﹂ 以下の記
︵
間の ﹁早朝﹂ ﹂︵ ﹃歴史﹄ 一二三 二〇一四年︶ を参照のこと︒ 33︶ 早朝に関する分析については︑拙稿﹁明代中国成化年
34︶ ﹃英宗実録﹄巻二七四
天順元年正月甲申・丁亥条︒ ︵
35︶ ﹃英宗実録﹄巻二七四
天順元年正月癸未条︒ ︵
36︶ ﹃英宗実録﹄巻二七四
天順元年正月庚寅条︒ ︵
37︶ ﹃英宗実録﹄巻二七六
天順元年三月己巳条︒ ︵
38︶ ﹃英宗実録﹄巻二七六
天順元年三月甲子条︒ ︵
軍制と政治﹄後編﹁政治と軍事 英宗回鑾を中止として 39︶ 孫皇太后への報恩については︑川越泰博﹃明代中国の ﹂ 第 二 章﹁ 回 鑾 拒 否 ﹂︵ 国 書 刊 行 会 二 〇 〇 一 年 ︶ に 詳 しい︒ ︵
40︶ ﹃憲宗実録﹄
巻二三五 成化十八年十二月庚午条に ﹁惟 我祖宗定制︑皇太子既立︑凡中外諸司政務須奏陳者︑率令 啓聞︑正欲其広聞見︑而達治体也︒朕侍皇考日︑亦嘗奉命 出見群臣︑預聞政理︒⁝⁝﹂とある︒ ︵
︵ る︒ 朝 儀 ﹂︑ 及 び﹃ 太 宗 実 録 ﹄ 巻 三 十 永 楽 二 年 四 月 癸 酉 条 に 拠 41︶ 正徳﹃明会典﹄巻四三・万暦﹃明会典﹄巻四四﹁東宮
︵ とある︒ 是美職︑ 但即目政務頗簡︑ 未免以有用之才︑ 置於閑散之地﹂ 42︶ 商輅﹃商文毅公集﹄巻三﹁薦春坊林聡疏﹂に﹁⁝⁝固
︵ 万暦﹃明会典﹄巻二一六﹁詹事府﹂に見える︒ 会典﹄ 巻四四 ﹁東宮朝儀﹂ ︑ 及び正徳 ﹃明会典﹄ 巻一七〇・ 43︶ 春坊司直郎の職務は︑ 正徳 ﹃明会典﹄ 巻四三・万暦 ﹃明
44︶ ﹃英宗実録﹄
巻二一六 景泰三年五月丙申条︒なお︑ 万 暦﹃明会典﹄巻二一九﹁鴻臚寺﹂に︑ ﹁謝恩﹂ ﹁見辞﹂に該 当する官員についてまとめられている︒ ︵
︵ こと︑寒冷な時期はそれをしばし免じたことが窺える︒ 戊寅条から︑朔望日は文武臣僚に皇太子へ朝参させていた 条︑巻一三四 十一年二月辛巳条︑巻一七三 十四年四月 45︶ 例 え ば︑ ﹃ 孝 宗 実 録 ﹄ 巻 一 三 一 弘 治 十 年 十 一 月 辛 亥
46︶ ﹃世宗実録﹄巻二八六
嘉靖二十三年五月甲辰条︒ ︵
巡按御史執問贖杖還職﹂とあり︑朱見済が皇太子だった時 ﹁山西按察司僉事王豪奏事︑ 不具 啓本 ︒都察院劾其違例︑ 命
3347︶ 例えば﹃英宗実録﹄巻二二六 景泰四年二年甲辰条に
九四明代天順年間における皇太子教導制度の確立 高橋
期に啓本が提出されたことが窺える︒また﹃憲宗実録﹄巻 二○○ 成化十六年二月辛酉条に﹁降監察御史李敬為貴州 査城駅駅丞︒初敬自陝西巡按回京︑以疾未復命︑遣人齎 奏
3啓本
33投進︒⁝⁝﹂とある︒さらに﹃世宗実録﹄巻一一○ 嘉靖九年二月辛未条が収める江西道監察御史周
襗の上奏は ﹁一︑ 明 史 職︒ ⁝⁝ 於 凡 詔 令・典 章・封 除・廃 置・災 祥・賞 罰・ 百司奏啓之類
333333︑皆得次第直書︑而蔵之史局︑俟年終彙 輯成書︑ 以備実録之考﹂ と主張する︒傍点は引用者︒以下︑ 同じ︒ ︵
48︶ ﹃神宗実録﹄
巻三六六 万暦二十九年十二月戊辰条︑ 沈 一貫﹃敬事草﹄巻十﹁言啓本不必批答掲帖﹂に拠る︒ ︵
49︶ ﹃英宗実録﹄巻二八六
天順二年正月己丑条︒ ︵
50︶ ﹃英宗実録﹄巻二八九
天順二年三月壬寅条︒ ︵
51︶ ﹃英宗実録﹄巻二八九
天順二年三月乙巳条︒ ︵
︵ 出閤講学儀﹂ ︒ 52︶ 正徳﹃明会典﹄巻五十・万暦﹃明会典﹄巻五二﹁東宮
53︶ ﹃英宗実録﹄巻二八九
天順二年三月己酉条︒ ︵
54︶ ﹃英宗実録﹄巻二九○
天順二年四月乙丑条︒ ︵
︵ 読書﹂以下の記事に拠る︒ 55︶ 李賢 ﹃古穣集﹄ 巻二十五 ﹁天順日録﹂ ﹁礼部請太子出閤
56︶ 王 弘 誨 ﹃太 子 少 保 王 忠 銘 先 生 文 集 天 池 草 重 編﹄ 巻 二 ﹁請 ︵ 分日入侍皇長子︑⁝⁝﹂とある︒ 其学問該通操持厳正者数人︑循祖宗時文華左廊講読故事︑ るが︑そこに﹁臣請得如輔臣早教之言︑即于侍従詞臣中択 召対豫教疏﹂は︑万暦十八年正月頃に著されたと考えられ
57︶ ﹃英宗実録﹄巻二九三
天順二年七月癸卯条︒ ︵
58︶ ﹃国朝献徴録﹄
巻十三所収 劉定之 ﹁資政大夫正治上卿 太子少保礼部尚書兼文淵閣大学士贈少傅諡荘靖陳公文伝﹂ に拠る︒ ︵
︵ 会典﹄巻二一六﹁詹事府﹂にも同内容がある︒ 翰林院官︑ 分班講読﹂ と見える︒表現は異なるが︑ 万暦 ﹃明 59︶ 正徳﹃明会典﹄巻一七〇に﹁天順以後︑止令東宮官与
︵ かったのだろう︒ 者のみが︑皇太子に対する進講に従事していたわけではな 順以前にあっては︑専ら翰林院官・東宮官のポストにある の地位にあった李至剛が皇太子に進講したことを記す︒天 楽二年に左春坊大学士を兼ねてはいたが︑同時に礼部尚書 里続集﹄巻三十三﹁中順大夫興化府知府李公墓表﹂は︑永 十 余 人 侍 太 子 読 書 禁 中︒ ⁝⁝﹂ と 見 え る︒ ま た︑ 楊 士 奇 ﹃東 十 洪武元年二月庚午条に ﹁命選国子生周琦・王璞・張傑等 60︶ 天順以前の情況については︑例えば﹃太祖実録﹄巻三
61︶ 正徳﹃明会典﹄巻一七〇﹁詹事府﹂に﹁凡講読畢︑毎
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