第 二 帝 政 と 普 通 選 挙 制
高
村
忠成
第二 帝政 と普 通選 挙制
目次一はじめに
二帝政の統治原理三帝政の統治構⁝造
四普通選挙制五帝政の政治的諸相
六むすびにかえて
一はじめに
93
第二帝政をどう見るか︑換言すれば︑近代フランス政治史上︑第二帝政をどう位置付けるかは古くて新しい課題で
ある︒この点についての今目までの研究動向を僻撤してみると︑すでに指摘されているように︑最初はその体制は近
代化︑民主化への逆行ととらえられ︑やがて︑第五共和政との関連で現代的問題を解釈するためのモデルとされ︑さ
らに最近では︑帝政は時代の逆行ではなくむしろ民主化への継続︑近代化への契機とみなされるようになってきてい
94
(1)る︒マイナスのイメージからプラスのそれへと大きく転換がはかられてきたのである︒
歴史的事象の解釈は︑もちろん︑立場により︑イデオロギーにより︑また時代の推移に伴って差異が生じてくるの
はやむをえないことである︒とくに︑大人物︑大事件になればなるほどその傾向は著しい︒それらは複雑な様相を呈
しているし︑異なった光をあてれば異なった光彩を放つからである︒それだけに︑それらの解釈にあたっては視座が
大切になる︒一定の視座からの体系的な分析が歴史事象解釈の必要条件であることは論をまつまい︒
そこで本稿では︑第二帝政解釈にあたって普通選挙制の問題に焦点を絞り︑そこに視座をすえて考察を加えてみる
ことにする︒本稿の論点は︑結論を先取りしていえば︑第二帝政期における普通選挙制の実施が︑近代フランスの政
治史上︑議会制︑とくに普通選挙制に根ざした議会政治を定着させるうえで何らかの役割を果たしたのではなかろう
かというところにある︒本稿は近年の第二帝政研究の延長線上にあるが︑ただ前記の結論にいたる過程において︑第
二帝政期の普通選挙制がいかなる機能と性格をもち︑その役割を果していったのかを少しく考察してみようとの意図
を有している︒
(1)いわゆるボナパルティズムの見直しをはかったわが国の先駆的業績としては︑西川長夫﹁ボナパルテイズムとデモクラシ
ーー第二帝政研究の視角からー﹂(﹃思想﹄五八三号)がある︒そして第二帝政の国家機構について新たな視点を紹介した
ものとして︑中谷猛﹁フランス第二帝政の統治集団・国事院と知事団体についてー集権的独裁制の一側面ー﹂(﹃立命館法
学﹄==〜一二四︑一九七五年)がある︒また︑中木康夫﹃フランス政治史上・中・下﹄(未来社一九七五年)は見落せ
ない︒さらに︑一九七七年には中木康夫氏による第二帝政の研究動向が紹介された︒中木康夫﹁フランス第二帝政1ーボナパ
ルテイズムの歴史的性格1最近の研究動向を中心にー﹂(﹃西洋史研究﹄新輯第六号)︒そして︑河野健二編﹃フランス・ブ
ルジョア社会の成立ー第二帝政期の研究ー﹄(岩波書店︑一九七七年)︒その他︑平野武﹁フランス第二帝政の憲法について
の覚書8﹂(﹃熊谷法学﹄第=巻第二号︑一九七八年)︑岡田信弘﹁フランス選挙制度史㈹﹂(﹃北大法学論集﹄第三〇巻第
三号︑一九七九年)がある︒これらの文献により近年の第二帝政の研究動向はかなり把握できよう︒とくに中木前掲論文に
最近のフランスの研究動向が詳しい︒その他︑ωε餌冨ピ●6餌日Oσo戸﹃曹勲ら§匙黛駄ミ肉象︑ミ軸繕卜惣ミ昼§きdミ識
鶉冒ミ︑賊轟§ξ℃園暮αq興ωd巳く巽獣け団中㊦ω︒︒鴇巳刈︒︒●匂呂口餌巳ζロユ9ピ8讐℃郎誌守妹き§ミo謡&﹀ぎミ鳥§導9謎ミ越
㍉ミ謡も恥讐いo巳oP一〇刈○︒℃bロ・崔㊤lH︒︒心・も参照︒たとえば後者の論文には︑﹁二十世紀の全体主義に比べればルイ・ナポレ
オンの政治体制は︑敵対者を抑圧しているとはいえ︑おだやかなものである︒彼自身も全く反動的な人物ではなかった︒ま
して経済的観点からするならば︑第二帝政期はフランス史において極だって重要な段階となっている︒その約二十年間は︑
急速な拡大期であった﹂(Hoげ口m巳蜜二誌9いo¢αqF§●9赴P嵩P)との指摘がある︒
二帝政の統治原理
第二帝 政 と普 通選挙 制
95
ルイ︒ナポレオン・ボナパルトはなによりも歴史を重視した︒時代の統治原理は歴史の教訓を無視してはありえよ
うがないからである︒彼が亡命生活の中で学んだことは︑歴史の考察と︑それに立脚したボナパルト家再興のための
方途であったといっても過言ではない︒王政ー大革命(共和政)1帝政‑王政ー二月革命(共和政)とめまぐるしく
変化するフランスの歴史の中から彼が学んだことは︑いかにしてこの国に安定と秩序をもたらすかということであっ
た︒それは換言すれば︑国民の間の分裂を防ぎ︑協調性を確立するにはどうすればよいかということである︒この意
味で彼の政治態度は愛国的であり︑崇高な使命感に裏打ちされたものであったといえよう︒だがそうした理性的理念
だけでは︑彼は亡命者から共和国の議員になり大統領になり︑そして皇帝になることは不可能であっただろう︒彼の
そうした行動を支えていたものこそボナパルト家の再興という野心であった︒ルイ・ナポレオンの政治理念は︑まさ
に理性と情念の合成物であったといっても過言ではない︒
彼が自己の政治観を確立するにあたって︑否定の対象とし︑また教訓ともしたのは︑目の当たりに見た七月王政で
あった︒彼の目から見れば︑その王政は何ともいえない中途半端なものであった︒反動でもなければ進歩でもない︒
かといってその両者を総合した革新的なものでもない︒いわば煮え切らない︑優柔不断な体制であった︒だから︑七
月王政はその内政にしても外交にしても︑ことごとく退嬰的なものとして彼の目には映ったのである︒
ただし︑だからといって彼は七月王政の全てを否定しえたのかというと決してそうではない︒その王政のもつ人民
96
の意思を配慮した政治︑とくにイギリスを敵としない協調的な外交方針などについては︑ルイはある程度容認したと
いっても過言ではない︒要するに︑彼がカんで断罪するほどには︑彼は七月王政の方針をまるっきり捨て去ったわけ
ではなかった︒むしろ︑議会制︑産業興隆︑協調外交などを受け継ぎながら︑いかにしてそれらをさらに発展させる
かに意を注いだのである︒
(1)しかし彼が七月王政を決定的に認めえない点は︑その消極性にあった︒行政権のより強大なること︑国家元首の絶
対制︑皇帝の立場の強化︑これこそ彼の主眼点であった︒革命の原理︑人民の意思は尊重する︑そうせざるをえな
い︒だが同時に皇帝の権威は絶対である︑というのが彼の理想であった︒すなわち︑人民主権と権威の原理の調和こ
(2)そボナパルティズムの基幹原理である︒この点に関して七月王政の理論的指導者フランソワ・ギゾー閃鎚需o一ω〇三N9
(3)とルイの見解の差異を例示してみよう︒ギゾーはイギリス革命史についての著作の中で次のようにのべた︒﹁君主は︑
公共の世論の指導者というよりも︑国家の諸勢力の調停者であり︑マネージャーであるべきだ﹂と︒それに対してル
イは反論する︒﹁すべての政治権力は人民に由来しなければならない﹂︒しかし﹁皇帝が行動をおこすのに人民の意見
の表明を待つようなことは第一帝政にはなかった︒むしろ世論とは別に行動をおこし︑既成事実をつくってその承認
を求めるのが慣例であった﹂︒﹁スチュアート朝が失敗したのは︑国王が自分たちの時代の思想の先頭に自らがたたな
かったからである︒国王は決してリードされるべきではない﹂︒
主権は人民にある︒だが政治指導は絶大な権力を握る皇帝が行なう︒この論理を貫徹するためには︑しかし︑これ
に伴ういくつかの不安を除去しなければならなかった︒その第一が︑皇帝に権力が集中した時︑悪事が行なわれる心
配がないかどうかということである︒それに対してルイは︑人民は︑皇帝に対する事前の拒否権をもっている︒皇帝
(4)の行動を制止する手段は人民の手中にあると強調した︒ここに人民投票のひとつの淵源がある︒そしてさらに彼は続
ける︒二人の首長によってなされた革命は︑一般に人民の利益に傾く︒というのは首長は成功を確かなものにする
第二帝 政 と普 通選挙 制
97
ため︑国民の心情を重視せざるをえないからである︒そしてまた︑首長は自らを保持するためには︑勝利をかちえた
利益に忠実でなければならないからである︒それに対して大衆によってなされた革命は︑しばしば首長の利益のみに
傾倒する︒というのは︑人民は勝利の暁に自分たちの願望は達成されたと思い︑長い間︑勝利をえるために必要とし
(5)たすべての努力を放棄してしまうからである︒それが民衆というものの性質なのである﹂︒
これらのルイの主張がすべてまやかしであるとはいわないまでも︑そこにはいくつかの誤謬があったことは否めな
い︒というのは︑例えば人民投票は一見民主的のように見えても審議の原理はないし︑また︑人民の代表機関である
議会を超然ないしは無視する危険性を有するので︑実施の方法いかんによっては非常に非民主的なものになる恐れが
あるからである︒まして強制的権威のもとでは︑人民は皇帝の質問に肯定的に応答する傾向があることは否めない︒
いうまでもなく民主政治は︑反対意見を含めた様々な世論の表出を容認し︑その上で合意を形成していく方法であ
り︑ある意味では︑それはプロセス重視︑手続尊重の運営なのである︒ルイは︑自分は時代の趨勢をみてとる能力を
( 6 )
有する︒それはまさに民主的方向に向っていると自負していたが︑少なくとも彼には︑原理としての民主主義はあっても︑手続や︑方法としてのそれは希薄であったといえよう︒じつに第二帝政の変遷過程は原理としての民主政が︑
やがて制度︑体制としての民主政に変化し︑そうなることによって実質化していくプロセスなのである︒
ただいくつかの問題点を孕みながらも︑ルイの考えの中には︑皇帝と人民のリンク一ぎ犀によって国家︑社会は安
定し強化するとの強い信念があった︒皇帝は人民の要求と願望を予知する能力をもつ︒また︑人民は皇帝が必ず要求
を満たしてくれるであろう︑最適の計画を遂行してくれるであろうとの信頼を彼に寄せる︒この両者の絆の中に政治
(7)は安定し︑秩序が維持されるのである︒そして︑ルイのこの信念はとくにアンの監獄の中での社会理論にと発展する︒
周知のように︑それ以前のボナパルティズムは主として政治理論であった︒しかし︑ルイは皇帝の権力をたんに理論
的に正当化するだけではなく︑現実的な実効力をもたせるにはどうしたらよいかということを真剣に模索した︒そし