論 説
家電産業 にお ける大量生産体制 の形成(1)
一 日立製作所栃木工場の電気冷蔵庫生産 を対象に一
西 野 肇
はじめに
I 栃木工場 のアウ トライ ン
1 工場設立の経緯
2 生産体制の概況
3 冷蔵庫 の構造 と生産工程
Ⅱ 第一期 (1940年代末〜50年代初頭)
1 経営環境 と生産動向
2 工程改善 と合理化 :コンプレッサ生産
3 工程改善 と合理化 :キャビネ ッ ト製缶作業
4 工程管理方式の改革
5 小括 (以 上、本号)
Ⅲ 第二期 (50年代初頭〜50年代末)
Ⅳ 第二期 (50年代末〜60年代 中葉) おわ りに
は じめ に
本稿 の課題 は、 日本の家電産業 において、大量生産 を実現す る生産体制がいかにして形成 され て きたのかを、個別企業の一工場 に即 して歴史具体的に明 らかにすることである。課題設定の意 味 について若干敷衛 してお こう。
電力業の発展や生活様式の変容等の要因 を背景 として両大戦間期 に芽生 えつつあった 日本の家 電産業 は、戦後の高度成長期 に耐久消費財産業 としてその地位 を確立 し、 日本 における「大衆消 費社会」の成立 を象徴す る存在 となった。「機械が大衆消費財 として売 られるとい う時代」の到来 であ り、それ まで と異なって、重化学工業が資本財だけでな く大衆的消費 と直結するようにな り、
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こうした消費動向の制御が販売面での重要課題 となった1ヽ「大衆消費社会」の経済的側面 におけ る構成要素 として、 このような大量生産、マス・ マーケティング、及び大衆消費の連鎖 を挙 げるこ とに異論 は少ないであろうが、家電産業 は自動車産業 と並んでその典型例 と見なされたのである。
従 って、斯業 に関 しては数多 くの研究が積 み重ね られて きた。だが、その圧倒的多数 は流通面の 検討であ り、そこでは とりわ け流通系列化、特 に松下電器のそれが焦点 とされて きたのであるの。
これに対 して、消費 はともか く、生産面 についての研究 は著 しく立ち後れている。生産面 という場 合、その分析 レベル としては、産業 レベル と、個別企業・ 工場 レベルの二つが差 し当た り設定で きようが、 とりわ けそれが甚だ しいのは後者であろう。勿論、研究 その ものは皆無ではない。例 えば、東北大学の研究 グループによる日立製作所 に即 した優れた成果のは特筆 に値 しよう。しか し なが ら、 これ ら家電産業の生産 システム研究 は、高度成長後、 日本経済 あるいは日本産業の国際 競争力が注 目を集める80年代以降が主要な対象であ り、その意味では歴史分析 とい うより実態調 査 としての性格が濃厚であった。従 って、家電産業 に即 してみた場合、驚異的な拡大 を遂 げなが ら産業 として確立する重要なプロセスー時期的 には取 りも直 さず高度成長期が中心 となろう一 に おける生産 システムの実像 は極 めて不明瞭である。断片的な記述 な り図像 な りを手がか りに、各々 が漠然 としたイメージを抱いているに過 ぎない とい うのが現状 なのではないか。こうした状況 は、
家電産業の発展史 をバ ランスよ くトータルに把握す るうえでの重大 な難点 と言わざるを得 ない。
そ こで本稿 は、 日本家電産業 における生産 システムの歴史的発展プロセスを、 日立製作所栃木 工場の電気冷蔵庫生産 を対象 として検討 し、 この空 白を埋 めることを試みたい。冷蔵庫 を選 んだ のは、所謂三種の神器 として、自黒 テレビ・ 電気洗濯機 と並ぶ高度成長期の主要製品だつたか ら であ り、 この点 に異論 はあるまい。 また、 日立 を対象 とす るのは、冷蔵庫 メーカーの トップない し上位の一角を占め続 けたか らである。確かに、企業間競争の渦中で1960年代 に入 る頃か らそれ までの優位性 に騎 りが生 じ、 シェアの点で 日立 は松下(製造 は中川電機)、 東芝の後塵 を拝す るこ とになった。だが、 これ らと互角に競 いつつ冷蔵庫生産の主役 を担い続 けた こともまた事実であ る。その意味で、栃木工場の生産 システムについて、 トップか らの陥落 という「失敗」 を招いた
。中岡哲郎『人間と労働の未来』中央公論社 (中公新書)、 1970年、p.115。
a近年の代表的な成果 としては、孫一善「高度成長期 における流通系列化」(伊丹敬之他編『ケースブック日本企業 の経営行動1 日本的経営の生成 と発展』有斐閣、1998年)、 桂相鐵「流通系列化政策の歴史的展開」(嶋口充輝 他編 『マーケティング革新の時代4 営業・ 流通革新』有斐閣、1998年)等が挙げられ、ごく最近では、戦前か ら現在 までの家電流通の歩みをコンパク トにまとめた、生相鐵「家電流通」(石原武政・矢作敏行編『日本の流通 100年』有斐閣、2004年)が ある。 もっとも、 これらは家電産業史あるいは家電産業論 としてというより、流通・
マーケティング研究の一分野 として位置付けた方が適切であろう。即ち、流通・ マーケティングにおける系列化 という特徴的行動を検討するために、医薬や化粧品等 と並んで家電が好個のケースとして俎上に載せ られてき た、 と。従って、独禁法 との兼ね合いから、経済学・経営学のみならず法学的観点からも、このテーマは注目さ れてきたのである。いずれにせよここで確認 しておきたいのは、家電産業について語 られる際には、まずは流通 面か らのアプローチが支配的であつたことである。
0徳永重良・杉本典之編『FAからCIMへ』同文舘、1990年、及び、本稿のテーマ とは異なるが、杉本典之・河野昭 三・ 平本厚・小倉昇『情報化への企業戦略』同文舘、1990年。
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一要因 として、ネガティブに描 き出す ことを本稿 は意図 していない。
次に、対象 とす る時期 は概ね敗戦直後の占領期か ら60年代中葉 まで とす る。始期 は栃木工場発 足の時期 に規定 されているためであ り、加 えて、高度成長期の生産体制 を理解す る上で当該期の 検討 は不可欠 と考 えるか らである。一方、終期が60年代半 ばまでであるのはやや不充分 な感があ るか もしれない。 この点 は、得 られた資料上の制約 に加 え、 より積極的には、 この時期 までに高 度成長期全体 をある程度展望 しうる生産体制が構築 された との判断 に基づ くものである。。
具体的な検討内容 については以下の通 りである。 まず、全体 を以下の二つの時期 に区分す る。
第一期 は合理化活動 の端緒が確認 で きる40年代末か ら50年代初頭 までであ り、主 に占領軍向け冷 蔵庫 を生産 していた時期である。第二期 はそれ以降、50年代末頃 までであ り、冷蔵庫が緩やかに 普及 し始 めるとともに本格的な設備投資が始動す る時期である。そ して第二期 は50年代末か ら60 年代 中葉 までであ り、普及のテンポが加速 し各社間の販売競争が激化す る中で、生産量の飛躍的 拡大 と機種数の漸増が進む時期である。以上の区分 を踏 まえた うえで、主要工程、即 ち各職場 レ ベルでの合理化の展開に注 目し、 これを解明する。その際、冷蔵庫生産上の二大工程である、 コ ンプレッサ(圧縮機)生産工程 と、キャビネ ッ ト(筐体)生産工程 との生産技術上の差異性 に留意 し、両者 を区別 して検討する。一方、 これ ら生産活動の円滑な遂行上不可欠の要素である管理活 動、即 ち工程管理面 を重視 し、 これを個別 に検討す る。そ して、 これ らの要素 を含んだ冷蔵庫生 産 システムの発展過程の特質 を、各時期毎 に把握 してゆ くこととす る。
なお、栃木工場の生産 システムを検討 した先行研究や調査報告 はこれ までい くつか存在するつ。
これ らはいずれ も80年代前半のコンプレッサのロータ リ化 におけるFAの展開や、80年代末の冷蔵 庫生産 ラインのCIM化をテーマ としてお り、その意味では前述の研究動向 と同様である。従 って、
本稿 の時期 とはやや隔た りがあるため、先行研究 としての検討対象には馴染 まないであろう。勿 論、 この ことは内容 その ものの価値 とは無関係であ り、 これ らが極 めて有益な情報 を提供 してい
る貴重 な成果であることは付言 してお きたい。
ところで、本稿 は家電製品た る冷蔵庫の生産 システム及び生産技術 を分析するものであるが、
それを進めるに当た り意識一あ くまで「意識」に過 ぎず、離ヒ較」ではないが一 しているのが、 自 動車産業で培われて きた生産 システムである。 その理 由は第一 に、 自動車 と家電 は ともに量産型 機械工業 との同 じ範疇 に属するか らであるが、 こうした一般的理由に加 え第二 に、両者の生産工 程・ 生産技術上 の類似性が極 めて高い ことである。冷蔵庫生産工程 については後 に具体的に説明
。 この点 は日立のケースに即 した一応の判断であ り、家電産業全体、あるいは冷蔵庫のみに限ってみて も、妥当性 の検証 は今後の研究 の進展 に委ね られている。
つ岩井正和 『日立・ 東芝・ 松下[FA]の最前線』 ダイヤモ ン ド社、1986年 、同『 日立・ 東芝・ 松下[CIM]の最前線』
ダイヤモ ン ド社、1992年。河野昭三「家電成熟工場 のFAとCIM」 、河野昭三・富田義典「冷蔵庫用圧縮機製造工 程 のFAと労働」(以上二点 は徳永・ 杉本編前掲書所収)等。
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す るが、キャビネ ッ トとコンプレッサに即 してみると、前者 は鋼板 の塑性加工・ 溶接等の点で、
車体 との類似性が認 め られる。 その うえ後者 は、言わばエ ンジンの入出力関係 を逆転 した もので あるため、生産技術 はもとより構造上 も酷似 しているのであるの。そして第二 に、生産 システム研 究 に関 しては自動車産業のそれが最 も蓄積が厚 く、恰好の参照事例 と考 えるか らである。だが、
そ こにはある種 の問題が伏在 していることにも注意せねばな らない。
自動車産業の生産 システムに関す る膨大 な研究史の整理 は本稿 の課題 をはるかに超 える作業だ が、それ らの大多数 は トヨタ自動車、即 ち「 トヨタ生産方式」を対象 としていた ことは疑 いない。
本稿が「意識」しているの もまさにこれ らの うちの、歴史的形成過程 に関する一連の研究のである。
このような、「 トヨタ生産方式」研究の盛行 は、それ 自体 は望 ましいことであろう。だが一方で、
研究者当人の意図を離れ、それを以て「 日本的生産 システム」と同一視する論調 を不可避的に生み 出す ことにもつながった。 自動車産業 における トヨタの地位、そして日本の国民経済における自動 車産業の地位 を考慮すれば、 こうした理解 も故なしとしない。だが、両者 は明確 に峻別すべ き議論 であ りの、 この問題 を看過 してはな らない。従 って、仮 に「 日本的生産 システム」なるものの析出 を目指すのであれば、対象を自動車産業、 ましてや トヨタのみに限 ることな く、 まずは同 じカロエ 組立型の各産業0製品の生産 システムに関す るケーススタディの蓄積が急務 となるはずであろう。
そ こで、広義の 日本の生産 システム研究 について、本稿 のテーマ上歴史分析 に限って一瞥 して お くと、中岡哲郎 の先駆的業績"の後、90年代以降い くつかの重要な成果が現れている。「史的職 場類型論」 との方法 に基づ き、近現代 日本の機械・ 化学工業 における職場 レベルでの技術・ 労働 の変遷 を描 ききった山本潔の研究10や、「 トヨタ生産方式」の相対化 を意図 して、戦時・戦後期の
「流れ作業」方式の展開に注 目した和田一夫の成果11)等である。 また、戦前・戦時期の航空機工業 における生産技術の形成過程 を詳細 に明 らかにした前田裕子の研究1幼、明治期か ら戦時期 までの 0冷蔵庫 と自動車 の類似性 については、R.S.テ ドロー (近藤文男監訳)『マス・ マーケテ ィング史』 ミネルヴァ書 房、1993年、p.369、 及 びR.バチ ェラー (楠井敏朗・大橋 陽訳)『フォーデ ィズム』 日本経済評論社、1998年、p.
168の指摘 も参照 の こと。
η主な もの として、小川英次編『 トヨタ生産方式の研究』日本経済新聞社、1994年、藤本隆宏『生産 システムの進 化論』有斐閣、1997年、佐武弘章 『 トヨタ生産方式 の生成・ 発展・ 変容』東洋経済新報社、1998年、等が挙 げ ら れ よう。 また、下川浩一・藤本隆宏編著『 トヨタシステムの原点』文 員堂、2001年 は当事者 の回述記録であるが、
その内容 は極 めて興味深 く、示唆 に富んでいる。なお、 トヨタ生産方式の歴史的起源 に関す る近年の研究サーベ イ としては、松井幹雄「 トヨタ生産 システムの源流 に関す る一考察」(拓殖大学『経営経理研究』71号、2004年2 月)があるが、そ こでは紡績業 との関連が重視 されている。
的最近の指摘 としては、佐武弘章「 トヨタ生産方式 と日本的生産 システム」(『大原社会問題研究所雑誌』498号 、2000 年5月)、 長谷川信「戦後 日本 の企業 システム」(社会経済史学会編『社会経済史学の課題 と展望』有斐閣、2002 年)等。
"中岡哲郎「戦 中・ 戦後 の科学的管理運動 (上)(中 )(下)」 (大阪市大 『経済学雑誌』82巻1号・3号・83巻1号、 1981年5月・9月・ 82年 5月)。
Ю)山本潔 『日本 における職場 の技術・ 労働史1854〜1990年』東京大学出版会、1994年。
11)和田一夫「 日本 における『流れ作業』方式の展開(1)(20完)」 (東京大学 『経済学論集』61巻3・ 4号、1995年 10月 01996年1月)。
口)前田裕子 『戦時期航空機工業 と生産技術形成』東京大学出版会、2001年 。
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工作機械工業の生産現場 を、技術者の役割 に着 日して明 らかにした山下充の研究13)等は、日本の生 産技術、あるいは生産 システムの発展過程 に関す る個別産業 に即 した歴史実証研究がいよいよ本 格化 しつつあることを示 していよう。 さらに、 日本 における科学的管理法の導入過程 を解明 した 成果1のも見逃す ことが出来ない。
これ らはいずれ も実証水準の高 さや個々の事実発見等、学ぶべ きところの多い優れた研究であ る。但 し、山本の成果 を別 とすれば、対象時期 は戦前・ 戦時期が中心であ り、中岡や和田の研究 で も復興期 までに とどまっている。勿論、歴史分析 における対象時期の設定 は、研究者各々の問 題意識の反映であるし、対象産業の個性 に規定 され る面 もあることは否めない。従 って、 このよ うな対象時期の限定性 は本質的な問題ではない。 とはいえ、やは り量産型機械工業の確立・ 定着 期 を正面か ら歴史分析の対象 とする必要があることは、「 日本的生産 システム」論者 に限 らず広 く 認 め られ るところであろう。
前述のように、筆者の主要な問題関心 は、あ くまで高度成長期 を中心 とする日本家電産業史の トータルな解明であ り、本稿 は主観的 にはその作業の一環 に過 ぎない。そのうえ、現時点で「 日 本的生産 システム」 について論評 しうるだけの用意 もない。斯様 に視野狭窄のきらいがある本稿 ではあるが、以上の ような文脈 においては、「 日本的生産 システム」の意味内容 を豊富化かつ明確 化 してゆ くための、 ささやかな一素材 として位置付 けることも強ち不当ではない と考 えている。
なお、本稿 に関する、ある意味で致命的な難点 についても一言釈明せねばならない。それは、生 産現場の問題 を扱 いなが ら、労働者 に関わる領域 の検討がほぼ欠落 していることである。例 えば、
労働編成・ 作業組織や能率管理、あるいはこれ らをめ ぐる労使間の角逐の様相 は判然 としないう え、何 よ り職場 レベルでの人員数等の基礎的事実す らも把握 し得ていない15ゝ「生産 システム論 は 労使関係論 を抜 きにしては論 じられない し、労使関係論 もまた生産 システム論 を組み込 まない限 り成立 しない」10と言われ るように、近年、労働史研究、経営史研究の双方か ら相互の協働の必要
10山下充 『工作機械産業 の職場史1889‑1945』 早稲 田大学 出版部、2002年 。
10代表的 な研究 として、高橋衛『「科学的管理法」と日本企業』御茶の水書房、1994年 、佐々木聡『科学的管理法の 日本的展開』有斐閣、1998年。
10もっ とも、この点 をある程度の期間 にわた り解明す ることは、基礎的 というよりかな り困難 と言った方が よいか もしれ ない。 こうした作業 を自動車産業 を対象 として行 った数少ない成果 として、植田浩史・片渕卓志「 自動車 工場 に関す る一考察」(大阪市大 『季刊経済研究』25巻3号、2002年12月)がある。
10野村正賞 『 日本の労働研究』 ミネルヴァ書房、2003年 、p.250。
1の前者 については市原博「生産管理 システムの 日本的展開 と労働者」(上井喜彦編『社会政策学会年報4 二一世紀 の社会保障』御茶の水書房、1997年)、 後者 については橘川武郎「経営史研究 と労働史研究」(社会政策学会編『社 会政策学会誌1 日雇労働者・ ホーム レス と現代 日本』御茶の水書房、1999年)等。
1助例 えば、造船業 に関す る上田修 の以下の諸研究 を参照。『経営合理化 と労使関係』ミネルヴァ書房、1999年、「戦 後復興過程 における造船生産 システムの展開」(1)(2)(『桃 山学院大学総合研究所紀要』26巻1号・27巻 1号、2000 年9月・2001年7月)、「生産・能率管理」(佐口和郎・橋元秀一編著 『人事労務管理の歴史分析』 ミネルヴァ書房、
2003年)。 上 田の著書 に対 しては野村前掲書 も高い評価 を与 えている。 その他 にも、「 日本的生産 システム」との 関係か らは、QCサー クルの実態解明 も重要な論点 となろう。これについての代表作 としては、法政大学産業情報 セ ンター編 『 日本企業の品質管理』有斐閣、1995年。
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表I‑1 栃木工場主要事項年表
冷凍機課新設 電気冷蔵庫 の設計開始
日立会 。真生会合併,栃木工場労働組合結成 栃木工場全施設,賠償指定
工場(第二工場)新営認可 第二製品倉庫竣工 第一製品倉庫竣エ
第二製品倉庫竣 工 第一,第二工場竣工 初の部分帰休発生
小型冷凍機 を清水工場 (川崎工場分工場)へ移管
技術部資材課 に価 第四製品倉庫竣工 能率向上運動開始(5/1〜 9/15) 自動鋳造設備稼働開始
パ ッケージ型エアコン,カー クーラー等 を清水fr場へ移管 設備課(PM担当,工場長直属)
不良低減運動実施 (2/16〜 6/15)
チ ャ ンバ加 工 用100トン トラ ンス フ ァプ レス稼 働
第四工場(小型冷蔵庫生産)完成 不良低減運動実施(7/16〜 12/15) デミング
性が提唱 されてお り1つ、 これを実践 した注 目 すべ き成果 も現れつつある181。 本稿 もこの点 の重要性 について は十分承知 してい る もの の、残念 なが ら資料的制約19によ り検討が及 ばなかった ことを断つてお きたい。
I 栃 木工場 の ア ウ トライ ン
1 工場設立の経緯
まずはじめに、本稿が対象 とす る時期の栃 木工場の概況 について、必要な限 りで紹介 し てお くことが必要であろう20。 理解 の一助 と して、栃木工場 に関す る略年表 を表I‑1と し て掲 げるので、以下、適宜参照 されたい。
栃木工場 は、 日立製作所社内で家電製品た る冷蔵庫・ エアコン、及び各種業務用冷凍機 の生産 を主に担当す る、冷凍機器の専門工場 である。だが、抑 もは戦時期 に日立製作所社 内で初 めて直接兵器 (機銃)を生産する目的 で設立 された工場であつた。 その際、多賀工 場の分工場 として発足 した ことが重要な特徴 である。多賀工場 は、家庭用電器品等 を主 と す る「平和産業 のマス・ プロダクション」の 目的で39年 4月 に現在の 日立市域 に新設 され た工場であ り、 日立全社 の中核的存在た る日 立工場が担当 していた冷蔵庫生産 も、 これに
加工・ 外筐製缶作業の機械配置 を1流れ作業」化 事務改善 につ き日本能率協会 よ り指導(1/31〜 2/11)
10フィー ト剪断機稼働開始
幣i場梁皇早翠写1鶉 」蘊 1∫腋[場のあ口,
注1 ‑は月が確定で きない ことを示す.
2 月に関 しては±lヶ月程度の誤差 を含む事項 がある。
Ю)本稿で主に使用 した資料は日立製作所栃木工場の内部資料であ り、注記の際は「 日栃資料、〇年○月○日」(月ま で しか記載のない資料 もある)の ように略 した。 また、煩雑さを避 けるため、文章の引用等に際 しては逐一注記 せず、対象事項の冒頭である程度 まとめて典拠を示すようにした。なお、異なる資料で日付が重複する場合があ るが、その際は、一応の先後関係は判明するので、これに基づき①・②のように番号を付 した。従つて、本稿で 参照・ 利用する順序が前後することもある。
20以下、特 に断 らない限 り、多賀工場十年史編纂委員会編『多賀工場十年史』奥付無 し(謄写版、発行は1951年と 推定)、『栃木工場のあゆみ』株式会社 日立製作所栃木工場庶務課、1960年、日立栃木五十年史編纂委員会編『日 立栃木五十年史』株式会社 日立製作所冷熱事業部、1995年による。
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伴い5月に多賀 に移管 された21、それ以前の戦前の冷蔵庫生産 にも目を向けると221、冷凍機生産 を 担当 していた亀戸工場 で1925年か ら研究開発 に着手 し、数々の困難 を克服 した後、漸 く32年 よ り 東芝(芝浦製作所)、 三菱電機等 と並んで市販 を開始 した。 その後、生産規模拡大 に伴い、冷蔵庫 生産 は35年 に日立工場 に移管 され231、 そ して多賀 に再移管 されたのである。だが、この間必ず しも 生産 は順調 に推移 したわけではな く、 コンプレッサ機械加工の精度や内箱の表面処理(琺瑯加工) 等の点で、依然 として技術的課題 を抱 え続 けていた。
さて、設立後の多賀では家電製品 を含 めた生産体制整備が図 られつつあったが、既 に日中全面 戦争が泥沼化の様相 を呈 してお り、ほ どな くして各種計器類や電装品等、量産品的軍需品が生産 品 目上の中心 となった。更 に42年6月には海軍 より新たに機銃の生産 を要請 されたため、既 に進 行 していた、機銃用照準器、及び銃架の製作 も含 めて新工場設立 により対応す ることとし2り、栃木 県南部の下都賀郡瑞穂・ 水代・ 富山の三村 (現在 の同郡大平町)に跨 る約60万坪 の建設用地 を取 得 した。建設工事 は43年5月か ら開始 されたが、敷地の地形上排水工事が必要 となるな ど難航 し た。44年4月か らは並行 して多賀か ら生産設備類 の移転作業が進 め られ、製品試作 にも着手 した。
そして45年 1月 、職制上 ようや く多賀工場か ら独立 し、正式に栃木工場が発足 したのである。だ が、資材不足 をはじめ とす る戦争末期 の悪条件や、高精度の機銃生産 における技術不足等の要因 によ り、敗戦 までの生産台数 は僅か47台に過 ぎなかった。
それではいかなる経緯で、銃器工場が、冷蔵庫 を含む冷凍機器工場 として戦後新たに再出発 し たのであろうか。 その理由は単純 であ り、 もともと創立時 より栃木工場 は、来 るべ き戦争終結後 は平和産業た る冷凍機関係工場への転換が予定 されていたか らである。45年3月の東京大空襲後 に業務用冷凍機部門が亀戸工場か ら栃木 に疎開された ことは、その現れ と推測 される。 これが戦 後 その まま根付いたのであ り、冷凍機部門については比較的簡明な構図であった。
一方、冷蔵庫部門はやや複雑な経緯 を辿 った。 これを日立工場以来の組織的側面か ら追跡 して ぉ こぅ25p。日立工場 における冷蔵庫生産 は、多賀移管 までは冷蔵庫課 という独立の一課 を設 けて担 当 していた2のが、移管 を契機 としてこれが試作課 と改称 された。その理由は判然 としないが、当時 生産面で難渋 してお り、‐旦試作 レベルに立 ち戻 るべ きとの意図、及び時節柄、冷蔵庫 という奢
2りこれ は冷蔵庫部門のみでな く、他の製品 を含む日立工場「商品部」全体の移管であった。
2幼日立 を含 めた戦前期の冷蔵庫生産 については、拙稿「戦前期 日本の家電産業一電気冷蔵庫 を中心 に」(東京大学『経 済学研究』44号 、2002年3月)を参照 されたい。
2oこの ような、「亀戸工場が試作 を担当 し、日立工場がそれ を譲 り受 け商品化する工場間の調整」は、冷蔵庫 に限 ら ず しば しば行われていた ことが指摘 されている(吉田正樹「戦前 におけるわが国電機産業 の企業者行動」、『三田 商学研究』22巻5号、1979年12月、p.62)。
20因みに、この時本社側で海軍 との折衝 に当たったのは、創業者小平浪平のパージ後社長 となる倉田主税であるが、
新工場建設 にまで立 ち至 った背景 には、数々の戯画的エ ピソー ドで知 られ る、戦時中の陸海軍対立があった (倉 田『 しみだ らけの人生』1982年、p.250)。
2助以下 は とりわ け前掲、『多賀工場十年史』 に依拠 している。
20日立工場50年史編纂委員会編 『日立工場50年史』 日立製作所 日立工場、1961年、p.26。
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修品的商品 を部署名 に冠す ることが憚 られた こと等が推測 され よう。冷蔵庫 の試作及び生産 は行 われた ものの、果た して40年7月 の奢修品等製造販売制限規則 により冷蔵庫生産 は禁止 されたの である。だが、試作 は密かに継続 され、その一方で、当面の作業不足 を補 う目的で工作機械類の 試作 も新たに始 められた。そ して42年 1月 に試作課 は同 じ商品部内の工機工場課 に吸収合併 され、
「発展的解消」 を遂 げた。 日立工場で主にフライス盤 を製作 していた工機工場が工機工場課の母 体であ り、多賀設立 とともに こち らに移管 されたが、工場建家 自体 は日立 に残 された。ところが、
40年10月の多賀への工場移転 を契機 に、生産統制上の理由か らフライス盤製作 は日立工作機 (41 年 日立精機 に合併)に移管 され ることにな り、技術者数名が転属 した他 は「現場 には100名以上 の 従業員 と機械が残 った」。その代替作業 として浮上 したのが、前述 した照準器 と銃架の生産であ り、
これが栃木工場への移転部門であつた ことは既 に指摘 した通 りである。
従 って、敗戦後の状況 は、銃器工場 の冷凍機器 (冷蔵庫)工場への転換 とい うよ り、冷蔵庫部 門の、工作機械生産 (の経験 を有す る)部門を加 えた上での旧態復帰 と理解 した方が よい。 その 限 りでは工場創立時の意図 は実現 した と言 えよう。但 し、それはあ くまで結果であ り、冷蔵庫部
図I… 1 栃木工場の固定資産・ 従業員数・ 冷蔵庫生産台数の推移
門の栃木移転 は戦時期 の要請 に基づ くもので あった ことは留意すべ きである2つ。
2 生産体制の概況 続いて、栃木工場 の 冷蔵庫生産が どのよう な推移 を辿 ったのか、
主 に数量的側面か ら概 況 を把握 してお こう。
図I‑1は固定資産・従 業員数・ 生産台数の推 移 を示 した もの で あ る281。 これによると、冷 蔵庫生産 は55年 に1万
2つ念 のため付言すれ ば、以上 はあ くまで組織 面か らの追跡であ り、あたか も冷蔵庫生産 の設備や人員が その まま温 存 されたかの ように理解 してはな らない。
281なお、従業員数・ 固定資産 は資料上の制約か ら冷蔵庫部門のみの抽 出が不可能であ り、冷凍機等、それ以外の生 産部 門 を も含 む数値 である。
700,000
600,000
500,000
400,000
300,000
200,000
100,000
0
ヨ 菫 彗 菫 ヨ 塁 塁 塁 塁 塁 匿 屋 菫 菫 重
資料:日立製作所『有価証券報告書 』各期,日栃資料,1964年9月 20日,1964年9月 21日,『栃木工場のあゆみ 』よ り作成.
注 固定資産 。従業員数は各年9月現在.
輌 200
m 800 600 佃 200
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―‑48‑一
台、58年にほぼ10万台 に達 した後、64年 には70万台 を突破す る とい う急激 な増加 を見せた。つ ま り、僅かこの10年間で70倍という、文字通 り爆発的な増加 を遂 げたのである。 こうした急増 に対応 するため、従業員数 は53年 の750人か ら、58・ 9年の伸び率鈍化 を挟みつつ も、64年 には6,000人 へ と8倍に増加 した。一方、生産設備 を中心 とす る固定資産 もほぼ同様 の増加傾向 を辿 っている。
その一方で、6405年にいずれの項 目もかな り鋭角的に減少 していることも判明 し、特 に従業員 数の落 ち込みは大幅であった。65年不況が家電産業 に及ぼした影響の大 きさを窺わせ るが、今回 はそれについての検討 は見送 らざるを得ない。 それは ともか く、固定資産 の推移 をもう少 し細か く見 ると、三つの画期が認 められ る。即 ち、54年、57〜 8年、及び61〜63年 であるが、 これ らは 各々第一工場、第二工場、及び第二0第四工場 の新築 に照応するものである。 そこで、工場建家 レベルでのレイアウ トの変遷 を図I‑2により確認すると、① の通 り45年の工場発足当時には木造 の南・ 中・ 北 (銃架 にちなんで架南・ 架中・ 架北 とも称 され る)工場、及 び熱処理・ 鋳造工場等 が主な建家であったが、第一か ら第四ない し第五 まで順 に新工場・ 製品倉庫が建設 された結果、
60年代半 ばには② のような姿 となった。南・東方 に向けた敷地・建家の拡大状況が看取で きよう。
各工場の概要 を予め述べてお くと、第一工場 は工場創立後冷蔵庫生産 を目的 とした初の本格的 設備投資であ り、53年 に建設 された。当初二棟 に分割 されていたが、56年の増築 によって一棟 に 統合 された。第二工場 は、生産増加 に対応 して、 とりわけ主力機種た る量産品=小型機種の専門 工場 として建設 され、第一工場増築工事 とともに58年半 ばに竣工 した。当時 は「東洋一のオー ト メーシ ョンエ場」 と華々 しく喧伝 され、周囲の耳 目を大いに集めた存在であった。第二工場 は、
第一工場 の一角で行われていた冷蔵庫用 コンプレッサ生産の拡張 と、南・ 中・ 北工場各々で分散 していた業務用冷凍機、お よび冷機応用品用 コンプレッサ生産 の集約化 を目的 として60年 に建設 された、 コンプレッサ・ 冷凍機の専門工場である。 そして第四工場 は、主力機種生産の一層の効 率化 を目指 し、 とりわ け工程管理面の新技術 を積極的に導入 して63年 に建設 された工場である。
その結果、第四工場稼働後の冷蔵庫生産 ラインは、2A(第二工場Aライ ン)02B(第二工場B
ライン)04C(第四工場Cライン)の三系列 に整序 された20。 なお、敷地中製品倉庫がかな りの 面積 を占有 しているのは、後述する冷蔵庫の季節 (夏物)商品 としての性格 に起因する。即 ち、
年間 を通 じて比較的平準化 されている生産活動 に対 し、出荷時期 は著 しく偏 つてお り、それ まで の期間はメーカー (工場)側で在庫 として保管す る必要があるためである30。
これ以降の主な建家新築 につ き触れてお くと、69年 に第二工場南側 にエアコンエ場の第五工場、
そして79年に南・ 中・ 北工場 を解体撤去 した跡地 に第六工場が建設 され、その後現在 までの間、
2"従って、 この時点では既に第一工場は冷蔵庫主力工場の座 を第二・ 第四工場に譲っていたことになる。
3oこれに関 し、②図中には第二製品倉庫が見当たらないが、第二工場建設時に建家 として「合体」されたためであ る。後の72年に「鋳造工場南側の雑木林 を切 り開」いて、改めて第二製品倉庫が建設された(前掲、『日立栃木五 十年史』p.265,109)。
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ヽ①
①設立時
図I…2 栃木工場建家 レイアウ トの推移
資料:『日立栃木五十年史』p.8
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資料 :労働運動20年史編纂委員会編『労働運動20年史』日立 製作所栃木工場労働組合,1967年,p.11をもとに,日栃資料 等 によ り加筆。
●
―‑50‑―
図I‑3 栃木工場組織図
資料 :『 栃木工場のあゆみ』p.23,34,『栃木』1959年8月 25日,1960年8月 25日,1962年3月1日,1964年9月l日よ り作成.
第 二 冷 蔵 庫 課
第 二 製 造 部
第 一製 造 部
第 二 検 査 課
第 一検 査 課
ヤ ビ ネ ツ ト 課
第 二 設 計 課
第 一製 造 部 第
二 製 造 部
二 検 査 課
第 検一 査 課
第 一キ ャ ビ ネ ツ ト 課 第 ニ キ ャ ピ ネ ツ ト
圧 縮 機 課
二 製 造 部
蔵 庫 設 計 部
ニ キ ャ ピ ネ ツ ト 課
第 一キ ャ ビ ネ ツ ト
研 究 課
第 二 設 計 課
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これ らに匹敵す る規模の建家 は新築 されていない。従 って、工場建家 レベルで言 えば、高度成長 期の栃木工場の冷蔵庫生産体制 は、第四工場建設 を以てほぼ整備 された ということになろう。本 稿が対象時期 を65年 中葉 まで としたひ とつの根拠 はこの点 に求め られ る。
次 に、 この間の組織・職制の変遷 を図I‑3によ り確認する。論点 に関わ る個別部署の変更、新 設等 については後 に改めて個別 に言及す るので、 ここでは大 まかな動向の把握 に とどめている。
スペースの都合上、全てを図示 しているわけではないが、傾向を伺 うには充分であろう。 これ を みる と、 あらゆる面での拡大状況 に対応 した、組織 の肥大化状況が一見 して明 らかである。敗戦 直後の臨時職制か ら45年 11月には6課体制へ再編 された後、48年12月に技術0製造・ 総務 の二部 制が採用 された。 この体制 は10年以上 とかな りの期間続いたが、60年代 に入 って部 レベルの拡充 が急速 に進め られた。設計課・ 検査課・ 経理課の部への昇格、製造部の分割 (コ ンプレッサ関係 とそれ以外)、 設計部の分割 (冷蔵庫部門の専門化)等である。 この ような経緯 を経て、60年代半 ばには8部24課を擁する体制 となったのである。
3 冷蔵庫の構造 と生産工程
さて、栃木工場 に直接関連する固有の論点ではないが、 ここで行論の必要上、電気冷蔵庫の機 能・構造、及び生産工程 につ き、図I‑4によ りつつ説明 してお こう。 ここでは対象時期の代表的
図I‑4 冷蔵庫生産工程の概要
鋼板0→
拿颯}→③→外筐
]碁 3]筐
〇 → キャビネット
材料→
C)→棚網刊∈)
I署8二言じÌ;亀桑」,D
8 可
スチック化が徐々に進み,製缶工程は真空成形工程となる。
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ク ル コ
ン プ レ ツ サ
ラ ト ト プ イ フ ド の
機種、即 ち密閉式の 1ド ア製品 を念頭 に置 いてお り、栃木工場 における生産方法 をモデル としつ つ も、一般性 を保つ よう留意 している。
まず、冷蔵庫 はその構造・ 機能・ 生産工程のいずれの観点か ら見て も、二つの異なるセグメン トが結合 された製品 と特徴づけられ る。ひ とつは、冷却作用 を実際 に担 う冷凍サイクルであ り、
言わば冷媒 (フロン)の循環器系統である。 もうひ とつは、収容物 を外気か ら遮薇 し保冷す るた めのキャビネ ッ トである。 これ らは各々別個 に加工・ 組立 され、最終工程 (総組立)で組 み合わ され ることで冷蔵庫 として完成す るのである。
冷凍サイクルは主 に以下の部品群 か ら構成 され る。文字通 リサイクルの心臓部であ り、冷蔵庫 全体 を含 めた基幹部品 としてのコンプレッサ(圧縮機)、 コンプレッサか ら吐出された高温高圧冷 媒 の放熱・液化のための コンデンサ (凝縮器。冷蔵庫背面 の黒色 のプレー トあるいはワイヤ)、 冷 媒減圧用のキャピラ リチューブ、液化冷媒 の蒸発 を促 し、庫内を冷却するエバ ポレータ(蒸発器。
製氷室 を兼ね る)、 そ して これ らを連結す る配管類である。コンプレッサを更 に部品単位 に細分化 す ると、 フレーム、 ピス トン、クランクシャフ ト、 コネクティングロッ ド(コ ンロッド)、 バ ラン スウェイ ト等が主であ り、これ らは鋳造、機械加工、熱処理等 を経て成形 され る31ゝ フレームは内 燃機関のシ リンダブロックに相当するので、 これ らの名称か らも自動車エ ンジンとの構造的・ 技 術的類似性が理解 され よう。主要工程 は部品の機械加工だが、就 中シリンダ とピス トンの招動面の 精度が重要である。 そ して これ らが動力源のモーター とともに組 み立て られ、最後 にチャンバで 密閉 (椀状 にプレス した二つの鋼板 を溶接)されて コンプ レッサが完成す る。 これ と他の部品が 溶接等で接合 され冷凍サイクルが組 み上が ると、気密試験、サイクル内乾燥、冷媒封入へ と進 む。
一方、キャビネ ッ トは部材毎 に大別す ると、主 に外筐・ 内筐・ 扉 の二つである。 これ らの加工 作業 は、製缶作業 と総称 され る鋼板 (高級仕上鋼板)の剪断・ プレス・ 曲げ0孔開け・ 溶接等で ある323。 外筐 は文字通 り冷蔵庫の外形 をなす最大の部材であ り、堅牢性が要求 され る。一般的に、
長方形 に剪断 された鋼板 を逆U字型 に屈曲 し 綱口ち、冷蔵庫正面か ら見て両側面 と上面 となる)、
これに背面板 を接合 して成型 され る。次 に、内筐 は外筐内に収納 され、主 として食品である内容 物 の保存環境 となる部材である。外筐 と同様 に鋼板 を三面 となるように曲げて成型 されるが、正 面か ら見て側面・背面・側面 とな り (胴板)、 これに上下板 を接合 して完成す る。なお、図の注記 の通 り、内筐 は後 に素材がプラスチ ック とな り、加工作業が真空成形 に転換す ることが、他の製 缶部材 との相違点である。そして扉 は、冷蔵庫の正面 となるため、販売時の訴求点の必要上、様々 な意匠が施 されることが多い。工程 は、外内筐 と異な リプレス (絞り)加工が主体 をなす ことが
3Dなお、今回の論稿では鋳造工程 を考察の対象外 としているが、栃木工場 におけるその合理化過程 について も、い ずれ稿 を改 めて検討す る予定である。
321製缶作業 とは、一般的 にはボイラや橋梁、船舶等、厚板や鉄骨 を用いた大型構造物 の製作 を指すが、冷蔵庫や洗 濯機等の薄板加工作業 も、メーカーではその ように称 していた。
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特徴である。
これ らを経た後、部材毎 に塗装 され る。主な作業 は、脱脂・ 洗淡等の下地処理、下塗・ 乾燥、
上塗等である。外筐・ 扉 に関 しては製品の外観 をなす ものであるか ら、美観確保が重要であ り、
また内筐 は変色・ 腐食・ 臭気等 に対す る耐性 も備 えねばな らない。時期 によ り異なるが、機械加 工、製缶等の工程 と比較す ると、 自動化 に適合的な装置産業的工程であ り、懸垂式 コンベアによ
る一貫作業化が比較的早 く進んだ。 こうして塗装が完了す ると、 まず別々に成形 された外筐 と内 筐 を接合 し、両者の空隙 に断熱材 を充填 した後、扉 を組み付 けてキャビネ ッ トが完成する。 そし てようや く最終工程 (総組立)で冷凍サイクル とキャビネ ッ トが組 み合わ され、棚網等その他細 かな部品の取付 けや配線等が施 され、点検、梱包 を経て完成 に至 るのである。
なお、構造や生産工程の他 に、当該期の冷蔵庫の、言わば商品 としての特徴 を指摘 しておかね ばな らない。それは、需要が春・ 夏期 に集中する季節性 を伴 っていた ことである。そのため、冷 蔵庫やエア コン等の冷凍機応用品業界では、前年10月か ら当年 9月 までを一年間 とす る、冷凍年 度 とい う特有の年度区分が採用 された。需要、あるいは出荷の季節性 は、生産活動 に対 しては制 約要因 となるが33D、̲方で販売面 に着 目すると、この ことは年毎の境界が比較的明確であることを 意味す る。そのため、1958年な らば58年型 との形で、各社 とも単年度毎 にモデルチェンジ (変化 の程度 には議論の余地があるが)を行 う製品政策 を採用 し、その上で毎年秋頃に翌年の新製品を 発表す る、斉一的な販売競争 を展開 したのである。 その際、冷蔵庫普及の初期段階、つ まり概 ね 50年代 には、 日立 はシェア上の優位性 を背景 に、製品価格形成 において主導権 を握 ることが一般 的であった。
Ⅱ 第一期 (1940年代末〜50年代初頭)
1 経営環境 と生産動向
敗戦後間 もないこの時期に、冷蔵庫に対する需要を創出したのはアメリカを中心 とする占領軍 であった。その詳細については既に明 らかにしたので3り、栃木工場の分析に関係すると思われる範 囲でポイン トを述べてお く。
第一に、数量面から概観すると、冷蔵庫に対する占領軍の需要は概ね46年から50年の間に生 じた
30出荷時期 の季節変動 に対 し、一定 の設備 や人員 を前提 とすれ ば、生産活動 は年間 を通 じた平準化が望 ましい。 こ のギャップの緩衝器 となるのが前述 した倉庫群であるが、そのキャパ シテ ィにも限界があ り、生産活動 もある程 度 の季節変動 は免れない。 これ をどの ように調整 していたのかは実 は大 きな論点である。 とりわ け、機械工業 あ るいは家電製品一般 としてではな く、冷蔵庫固有の生産 システムに即 した検討 を志す際 には重要である。に もか かかわ らず、 この点 に関 しては殆 ど論及で きていない。他 日を期 したい。
30拙稿「 占領期 日本の家電産業一電気冷蔵庫 を中心に」(『歴史 と経済』181号、2003年10月)参照。
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が、その規模 はおよそ1万 7千台程度であった。これ に対応す る生産量 をみる と、年単位での ピー クは48年 の7,700台、四半期別 にみると49年第一期の3,000台弱であった。後か ら見ればご く僅か だが、敗戦後 という状況 を勘案すれば膨大な数 とみるべ きであろう。 この うち日立の受注数 は三 菱電機の4,300台、中川機械(後の中川電機)の 3,400台に次 ぐ3,000台余 りで、18%を占めていた。
第二 に、生産が安定化 したのは47年春以降だった ことである。 それ までは各社 とも部品・ 諸資 材 の欠乏、ない しは品質不良、そ して技術不足 のため、生産水準 は低位 に とどまり品質 も粗悪で あった。 これを解決 したのが、占領軍側か らの指示 による47年初頭 の設計変更 と、 これ以降積極 化 した占領軍の実地的な技術指導であった。
第二 に、かか る技術上の問題 は全てメーカー側 の責 に帰せ られ るわ けでな く、相応の根拠があっ た ことである。具体的 には、占領軍か ら指示 された製品仕様 の特異性であ り、開放式の指定であ る。冷蔵庫用 コンプレッサには現在 まで主流の、圧縮機構 と電動機が一体 となってチャンバで密 封 され る密閉式 と、両者が各々独立であ り、モーターの動力 をベル トで圧縮機構 に伝達 して駆動 す る開放式の二種があった。家庭用製品には密閉式の方が適 してお り、 この ことを理解 していた 日立や三菱電機、東芝の各 メーカーは戦前 に既 に密閉式製品 を開発・ 市販済みであった。 これに 対 して、 占領軍側 は敢 えて開放式の生産 を指示 したのであ り、メーカーは未経験技術 の習得 を強 い られたのである。 こうした要求の背景 には、 日本 メーカーの技術水準 に対す る不信感があった と思われ る。開放式の密閉式 に対す るメ リッ トは、故障の際の分解修理が可能・ 容易な ことであ り、占領軍 は日本 メーカーの技術水準では故障の発生 は不可避 と判断 していた と推測 される。
第四に、全体 としては49年半 ば以降市場規模が急激 に縮小 した ことである。48年12月の経済安 定9原則 によ り占領軍 の調達方針が緊縮化 した結果、需要 は激減 あるいは消滅 に等 しくな り、51 年の生産量 は全国で2,000台を割 り込む水準 にまで落 ち込んだ。従 って、50年前後 にはメーカーは 一般民需市場開拓の必要性 に直面 しつつあった。だが、そのためには占領軍向け仕様 を、 日本市 場 の実情 に合わせ るため密閉式 に転換 した上で より小型化す ることが不可欠であった。つ まり、
新製品開発が各 メーカーに とり喫緊の課題 となったのである。
以上 を踏 まえて、この間の栃木工場の大 まかな動向をみると3つ、敗戦直後 は臨時職制 を制定 し、
折か らの作業停止 と食糧不足への対応 として農産課・ 農技課が設置 され、農産物の栽培・ 研究が 行われた。だが、同時 に冷蔵庫生産体制整備 の動 きは非常 に機敏であった。敗戦翌月の45年9月
に早 くも冷凍機課 を新設 し、10月には占領軍 よ り民需転換 の許可 を得て11月に職制改正 により生 産体制 を整 え、12月か ら冷蔵庫の設計 を開始 したのである。占領軍 より386台の受注が決定 したの は翌年の3月の ことであ り、 これに 3ヶ 月余 り先行 していたのである。 この ことは、前述のよう
30以下特 に断 らない限 り、前掲、『栃木工場 のあゆみ』、『 日立栃木五十年史』 による。
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