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近代企業の指導原理

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(1)

近代企業の指導原理

そ の生成 と変容 の意 味‑

笠 原 俊 彦

Greet i ngst o my DearReaders i nst eadofAbst r act

Thi sma ybet hel a s tt he s i so fmi net ha tma r kst hee ndo fmyuni ve r ‑ s i t y‑ l i f e.Tho ug h r a t he rl o ng,i tc o nt a i nso nl yt wos i mpl ea s s e r t i o ns: ( 1 ) t hes t udyo fbus i ne s sa dmi ni ns t r a t i o ni nJ a pa n,c a l l e d ' Ke i e i ‑ ga ku' , ha sbe e nt hes t ud yofmode r nbus i ne s sf r o m t hevi e w‑ po i ntofi t se t ho s , t hes pi r i to fmo de r nc a pi t a l i s m;( 2 )t hes pi r i to fmo de r nc a pi t a l i s m ha s c omet or e s e mbl et hes pi r i to fpr e ‑ C a pi t a l i s m,byt hei nc e s s a ntpr e s s ur e a ndi nva s i o no ft hi s ,a ndKe i e i ‑ ga kui sno wc o nf r o nt e dwi t ht hepr o bl e m o ft hes e l e c t i o no fi t so bj e c ta ndvi e w‑ poi nt

t ha tki ndo fq ue s t i o ne v

e r ys t ude nto fs oc i a ls c i e nc e si sf o r c e dt oa ns we rs ol o nga sheha sc o n‑

s c i e nc ea ndr e s po ns i bi l i t ya same mbe ro fo urs oc i e t y.

Lo a dedhe a vi l ya ndf a t i gue d

a tt hee ndo fhi st oi l s o meJ O ur ne y , ama na s ks .

̀ oh,Lo r d/

Wa st hi st hewa y t ha tIc o ul ds e r ve

mydut ywi t hyo urc a l l ? ' Noa ns we r.

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lence .

Ma nyTha nksa ndGo odLuc k. /

(2)

Keywords:

Tr a ns f o r ma t i o noft hes pi r i to fmode r nc api t a l i s m,Rec o ve r yo ft he s pi r i to fpr e‑ C a pi t a l i s m,Soc i a lr e s po ns i bi l i t yo ft hes t ude nto fKe i e i ‑ ga ku a nda nyo 仇e rs c i e nc e s.

近代資本主義の精神の変容 前資本主義の精神の復活 研究者の社会的責任

1 序

2 企業の指導原理 と経営学

( 1 ) 企業の指導原理の研究 と経営学 ( 2 ) 営利原則否定論 と営利原則肯定論 ( 3 ) 企業の利潤獲得能力の発展的維持 一 藻利説 における企業の指導原理 ‑

3 資本主義の精神の生成

一 ヴ ェ‑バーの所論を中心 として ‑ ( 1 ) 前資本主義の精神 と近代資本主義の精神 ( 2 ) 資本主義の精神の生成 についての仮説 ( 3 ) カルヴ ァン主義 と資本主義の精神の生成

4 資本主義の精神 と大衆消費社会

( 1 ) 清教主義的資本主義の精神 とその功利主義化

‑ ヴ ェ‑バーにおける資本主義の精神の変容 ‑ ( 2 ) 資本主義の精神の変容 と藻利説

( 3 ) 資本主義の精神の変容 とフォーデ ィズム ( 4 ) 資本主義の精神 と大衆消費社会

5 資本主義の精神 と投機許容性

( 1 ) 社会的欠乏の充足のための生産 ( 2 ) 浪費のための生産

( 3 ) 資本主義の精神 と投機許容性

(3)

6 前資本主義の精神の復活 と資本主義の精神 ( 1 ) 生産的営利原則 と収奪的営利原則 ( 2 ) 前資本主義の精神の復活

( 3 ) 資本主義の精神への前資本主義の精神の作用

7 生産的社会 と収奪的社会

( 1 ) 資本主義の精神 と生産的社会 ( 2 ) 前資本主義の精神 と収奪的社会

8 結

1 序

近代的大企業が, どの ような考 え方 ない し思惟 によって指導 され運営 され ているか。いい換 えれば,企業の指導原理 は何か。 これは,著 し く重要な問 題 であ る。だが,それに もかかわ らず, この ことの重要性 を意識 し,深い思 索 を巡 らせて形成 された学説 は,広 く社会科学の諸分野 を見渡 してみて も, 極めて少ない。

例 えば,社会科学 の代表 ともい うことので きる経済学 においては,企業が 利潤 を 目的 としていること,あ るいは企業 が利潤原則ない し営利原則 によっ

●●

て指導 され運営 されていることは, 自明であ り, したが って,企業 が どの よ うな考 え方ない し原理 によって指導 されているかな どとい う問題は,そ もそ も生 じようがない, とす る考 え方が,む しろ一般的であ った。

ところが,経営学 *においては,企業の指導原理 を営利原則 に求め る見解 は,一般的ではなかった。

ドイツの経営学 的研究であ る経営経済学 ( Be t r i e bs wi r t s c ha f t s l e hr e ) に おいて は,その生成 の当初 か らかな り長期 にわた って,企業 の 目的 ない し

* ここに経営学 とは, もち ろん, 日本 で生成 し発展 した学 問であ り, これ に類似のあ る いは これ に相 当す る他の学 問, とりわけ ドイツの経営経済学 お よびア メ リカの経営管理

論 か ら区別 されなければな らない。 これ ら後者 は経営学的研究 ではあ って も,経営学 で

はない。

(4)

指 導 原 理 は ,私 的 目的 として の利 潤 ( Gewi nn,Pro f i t) な い し利 潤 性 ( Rent abi l i t at ) で は な く, 社 会 的 な い し公 的 目的 と して の 経 済 性 ( wi r t s c ha f t l i c hke i t ) であ る, とい う見解 が支配 的であ り, これが戦前の わが国の経営学 に大 きな影響 を与 えた ことは,周知の事実である。そ して, 戦後の経営学 においては,とりわけア メ リカのバー リ ( A. Be r l e ) お よび ミ‑

ソズ ( G. C .Me a ns ) の 「会社革命論 」 ( Co r po r a t eRe vo l ut i o n) にも とづ く

「資本 と経営の分離論」が主張 され,大企業の 目的が私的 目的 としての利潤 ではな く,社会的ない し公的 目的 としての利害関係者の利害の調整 である と い う見解 が,多 くの人び との支持 を得たのであ る。

ここに一般的であ った ものは,企業の 目的ない し指導原理 を,利潤 とい う 私的価値 にではな く,何 らかの社会的ない し公的価値 に求め る見解であ り,

この見解 は,営利原則否定論 として特質づけ られ るものであった。経営学 に おけるこの ような営利原則否定論 の存在 は,経営学 においては,企業が どの ような考 え方 によって指導 され運営 されているか とい う問題が,た しかに意

●●●●

識的 に とりあげ られ,それについて少な くともある程度の思索が巡 らされて いた こ とを示す ものだ, といえな くはないであ ろ う。

しか し,経営学 において一般的 ともいわれ うるこの ような営利原則否定論 は,われわれを, とうてい満足 させ うるものではない,それは,論理的 に納 得のい くものではない し,また, とりわけ,現実の企業 を説 明で きるもので はないか らである。そ こに展開 されているものは,極めて不十分 といわれざ るをえない理論 であ る *

* この こ とについては,例 えば 「資本 と経常の分離論 」 を代表 す る占部都美博士 の所説 についてのわた くしの次の論文 を参照 されたい。

笠原俊彦稿 「営利原則 と組織的均衡 の原則一 占部都美博士 の所論 を中心 として‑( 1 ) 」

松 山大学論集第 6 巻第 3 号,平成 6 年 8 月。

笠原俊彦稿 「営利原則 と組織的均衡 の原則一 占部都美博士 の所論 を中心 として‑ ( 2 ) 」 松 山大学論集第

6

巻第

4

号 ,平成

6

10

月。

笠原俊彦稿 「営利原則 と組織的均衡 の原則‑ 占部都美博士 の所論 を中心 として‑ ( 3 ) 」

松 山大学論集第 6 号第 5 号,平成 6 年 1 2 月。

(5)

だが,他方で,われわれは, この ような経営学の うちに,企業を指導す る 思惟を卒直 に問題 とし, これについて深い思索を巡 らした,一 つの学説が存 在することを知 っている。それは,企業の指導原理 に関する経営学説 として は,唯一卓越 した存在 といわれるべ きものである。藻利重隆説が これである。

藻利の この学説は,わが国において,経営学 に携 わる研究者 に強い衝撃を与 えたのみでな く,経済学 に携 わ る研究者 の少な くとも一部 に も衝撃 を与 え たのである*。

この学説 は,近代資本主義 が一 つの隆盛期 を迎 え,継続事業体 ( goi ng c onc e r n) としての性格 を もつ大企業 を成立 させた時代 におけ る企業の指導 原理を, この歴史的発展の うちに明 らかにし, これにもとづいて企業の管理 を解明しようとするものであった

われわれは,そ こに, 日本 における経営 学の生成以来,初めての体系的学説の成立を認め ることがで きる。

それは,企業 における管理の体系の考察において, この体系の一部 として の労務管理 を,生産管理の一部 としての人事管理 か ら区別 されるもの として 理論的に確立 したのであ り,この ことによって,例 えば,のちに一部の人び とによって 「日本的経営」 と呼ばれ ることにな った企業の行動様式 に,一 つ の理論的基礎 を与 える等,幾多の著 しい業績を収めた。だが,われわれが こ こで とりわけ注意 しなければな らないことは, この ような個別的業績ではな い。われわれは,それが,近代資本主義の隆成期 における企業の指導原理 を 解明 した こと,そ して, これによって企業管理ない し経営管理 を基礎づけた ことを重視 しなければな らない。それは,近代企業の指導原理 を詳細 に解 明 し, これを基礎 とすることによって,企業の管理活動の体系的理論 を,初め て示 しえたのである。

* とりわけ企業の指導原理が展開されている藻利の著作は,次の ものである。

藻利重隆著 『 経営学の基礎』 ( 新訂版),森山書店

,1973

年。

われわれは, この著書の初版が出版 されて以来, これを読 んだい く人かの学生 を経営 学研究への途へ と志 させた ことを知 っている。 もっ とも, この学説 を受け継 ぎこの発展

を志す こととな った者は,極めて少数である。

(6)

しか しなが ら, この ような藻利の理論 は,卓越 したその内容 に もかかわ ら

●●●●

ず,近代資本主義の発展のある時期 における,企業 , とりわけその指導原理 を解 明 し, これをその基礎 とす るものであった。 したがって,それは,その 時期 における企業の状況 に よって制約 されているこ とが忘れ られてはな らな

い 。

だが,歴史は さらに続 いてい く。そ して,近代資本主義 も企業 も変化 し続 け る。この ように して,われわれに とっての現在 は,すでに藻利の時代 とは, すでに,いささか異 ってい る。そ して,研究者 は, 自らが置 かれている現実 を解 明 しよう とす る限 り,現実なるものが歴史的に変容 してい くことを理解 し,この変容の うちに在 る現実 を把握 し,これを理論化 しなければな らない。

われわれは,歴史的発展の うちに企業を解 明 しよう とした藻利の理論 を,そ の後 における企業の歴史的変容 に対応 しうるものへ と改変 しなければな らな いのであ る。

この ような視点か ら近代資本主義企業 を考察 しようとす る とき,われわれ は,何 よ りもマ ックス ・ヴ ェ‑バー ( Ma xWe b e r ) の学説 , とりわけかれ の論文 「プロテスタンテ ィズムの倫理 と資本主義 の精神」 *を看過 す るこ と がで きない。

この論文 に示 されているヴ ェ‑バーの所説の検討 によって,われわれは, 藻利 のい う企業 の指導原理 を, よ り明確 に歴史の うちに位置づけて理解 し,

●●●●●

この ように して,その歴史的意味を よ り良 く知 るこ とがで きる。 それは,第 一 に,藻利の学説 における企業の指導原理 が,それ以前の近代資本主義企業 の指導原理の歴史的発展の うちに如何 に して成立 しえたのかを,われわれに 理解 させ る。それだけではない。それは,また,第二 に,藻利の時代以降に おける企業の指導原理 が如何 に変化 して きたのかを理解す る手掛 りを ち,わ れわれに与 えるのである。

* M.We be r ̀ Di eP7 1 0 t e S t a nt i s c heEt hi kundde rGe i s td e sKa pi t al i s mu5 ' , " Ge s a mme l t e

Auf s a t z ez urRe l i g iO ns s o z i o l o g ie I " , I . Auf l . , J . C. B . Mo hr( Pa u lSi e be c k), T也bi nge n,1 9 2 0.

(7)

われわれは,ヴ ェ‑バーのい う近代資本主義の精神の生成 と発展ない し変 容の うちに,藻利のい う企業の指導原理の成立 を位置づけ理解することがで きる。われわれは,また,近代資本主義の精神の更なる変容,そ してヴ ェ‑

●●

バーのいわゆる前資本主義の精神の復活 とその作用の うちに,現代の状況を 理解することがで きる。そ して, この後者 について,われわれは,さ らに,

●●●●●●●●●●●●●

とりわけ藻利後,今 日に至 る,企業の指導原理 と企業管理 との変化を理解 し

●●●●●●● ●●

うるとともに, これに伴 う経済社会の状況の変化 をも理解す ることがで きる のである。

2 企業の指導原理 と経営学

(1 )企業の指導原理の研究 と経営学

経営学は,わが国に生成 した学問である。わが国においては, 明治維新以 降,近代資本主義企業が急速 に輸入 され*,形成 されるこ ととなったのであ るが,経営学は, この近代資本主義企業ない し近代企業を対象 とする研究 と して生成 したのである**。

ところで,近代企業の成立 と発展は,わが国に経営学を生成 させたばか り ではない。それは, ドイツにおいては, とりわけ経営経済学,アメリカにお いては, とりわけ経営管理論 ( b us i ne s sa d mi n i s t r a t i o no rma na ge me nt ) 等 の近代企業 を対象 とす る経営学的研究***を生成 させた。 しか も, 日本の経 営学 と, これ らドイツおよびアメ リカの経営学的研究 とは,それぞれ,ほぼ

* 近代資本主義企業 の輸入 とは,い うまで もな く,近代資本主義企業 とい う考 え方 ない

●●●●

し行動様式 の輸入であ る。 この こ とは,企業 あ るいは これを含む社会制度 を どの ように

●●●

理解 す るか とい う問題 の解決 に示唆 を与 える。 わた くしの理解 では,社会制度 は外在化

●●●●●

された価値 であ る。

** 経営学 の生成 について まず注 目されなければな らないのは,い うまで もな く,後 に も述べ る,上 田貞次郎の 「 企業経済論」形成の試 みであ る。

● ●●●●

*** ここに 「経営学的」研究 とは,経営学 に相 当す る研究 とい う意味であ る。 すで に

明 らかな ように,それは,経営学その ものではない こ とに留意 されたい。

(8)

同時期 に生成 した ことが注意 されなければな らない。 そ して,わが国に生成 した経営学 は,その後,戦前 は,主 として ドイツの経営経済学 を,戦後 は, 圧倒 的にア メ リカの経営管理論 を輸入 し, 自らの うち に取 り入れ る過程 を経

●●●●●●●

つつ,藻利重隆に よって,企業の総合理論 として体系化 され るこ とになった のである*。

この ような経営学の主要課題 を,われわれは,次の二 つに求め ることがで きるであろう。

( 1 ) 近代企業の指導原理の解 明

( 2 ) これにも とづ く企業活動 としての企業管理 の体系的研究 が これであ る。

われわれは, この二 つの うち,前者 が 「 経営学原理」の名で,また後者 が

「 経営管理論」の名で,わが国の大学 において講義 され研究 されて きた こと を知 っている。われわれが以下 に とりあげ ようとす るものは, この うちの前 者 に他 な らない。 それは,近代企業の研究 としての経営学の基礎 ない し基幹 をなす ものであ り,それゆ えに こそ,「経営学原理」の名 において講義 され て きた ものなのであ る**。

(2 )営利原則否定論 と営利原則肯定論

さて,われわれは,藻利 に したがって,近代企業の指導原理 に関す る経営 学者の見解 を,大 き く二 つに分 けることがで きる。一つは営利原則否定論 で あ り, もう一 つは営利原則肯定論であ る***。

* わが国においては,戦後, とりわけアメリカのさまざまな経営管理論が輸入される際, それ らが学問的反省のないままに支持 されて一 つの混乱 ともい うべ き状況が生 じている のであ り,一 つの学問 としての経営学 を形成 しようとす る動 き,ましてやその成果 は, 藻利の学説の他には,少ない。

●●●●●●

* * これは,すでに述べた藻利の前掲書の全体 において展開 されているものに他な らな

* い。 * * この ことについては,次を参照の こと。

藻利重隆前掲書,第‑章 および第二章。

(9)

営利原則否定論 は,企業の 目的ない し指導原理が私的 目的 としての利潤な い し利潤性 *であ ることを否定 し, これに代 えて,何 らかの非営利 的 目的 と しての社会的ない し公的 目的 を主張す るものである。 ここでは,例 えば,企 業の利害関係者 とい う社会の広範 にわた る人び との全体の利害の調整 ,財の 生産 による社会 の福祉 と発展への企業の貢献 ,が論 じられる。 これが, とり わけ第二次大戦後 に,「資本 と経営の分離論」 , 「企業公器論」 , 「 企業の社会 的責任論」等の主張 として現 れた ものであることは,い うまで もない。

この ような主張 は,戦前 か らわが国の経営学 に影響 を与 えて きた ドイツの 経営経済学 におけ る経済性 とい う考 え方 ,そ してア メ リカのバ ー リお よび ミ‑ソズの 「 会社革命論」における準公的会社 の社会的 目的 とい う考 え方 が, 戦後 の民主主義 ,さ らにはマル クス主義の思想 によって,いわば活性化 され, また,バーナー ド ( C.Ⅰ . Ba r na r d) を中心、 とす るいわゆ る 「 近代組織論」 に おけ る組織体一般 に妥当す る抽象的 目的の観念等が とり入れ られ ることによ って,形成 されて きた ものである, といわれ うるであ ろう。

この ような営利原則否定論 の うちに,われわれは, しば しば,価値判断に よる事実認識 のあか らさまな歪 みを見 るこ とがで きる**。 それ に もかかわ らず, この ような営利原則否定論 こそ,戦後のわが国の経営学界 において圧 倒的 ともいわれ うる程 の支持 を受けて きた し,いま もなお,根強い支持 を受

けているように見 えるのであ る***。

これに対 して,企業の 目的ない し指導原理が利潤 ない し利潤性 であ ること

* わた くLが知 る限 り, ドイツにおいては,利潤 ( Ge wi nn)は,広 く利潤額お よび利潤 率を意味す るもの として,利潤性 ( Re nt a bi l i t a t )は,利潤率 とりわけ資本利潤率 と意味 するもの として用い られているようである。

** この 「 歪み」については,次を参照の こと。

笠原俊彦稿 「 社会科学 における偏見的実在判断の形成 と価値判断の処理 ‑ ミュルダー ルの所論 を中心 として ‑ 」『 香川大学経済論叢』第 57 巻第 4 号,昭和 60 年 3 月。

*** この ことは,あ る学説 ない し理論の支持者 が多数であ るこ とが,その学説 が学問 ない し理論 として優れていることを示す ものではない ことを,明確 に している。 これは, ポパー ( K.Po ppe r )のいう 「 理論の進歩」の理論の現実的妥当性に関する一つの問題点 ●●●

である。そ して, これは,科学社会学の研究対象をもなすであろう。

(10)

を承認する営利原則肯定論の支持者は,少数である。マルクス主義の立場 に 立つ者を除けば,われわれは,経営学界の うちに,極めてわずかの営利原則 肯定論者を見出しうるのみである。そ して,われわれは, この ような営利原 則肯定論者 を代表する研究者 として,何 よ りも藻利重隆の名をあげなければ な らない。

(3 )企業の利潤獲得能力の発展的維持 一 藻利説 における企業の指導原理 一

藻利は,営利原則否定論 を代表す る幾人かの研究者 に対 して,透徹 した論 理 にもとづ く批判 をな し*,資本主義体制 においては営利原則 こそが企業の 指導原理 として認め られざるをえないことを主張 した。 しか も, この場合, かれは,ただ,営利原則が企業の指導原理であることを主張 しただけではな

●●●●●●●●●

い。かれは,企業の営利原則が,企業 とともに歴史的に発展 し変質すること を主張 した。 そ して,かれは, この ような考 えに したがって,かれの時代の 近代的大企業の指導原理 としての営利原則の特質 を明 らかにするとともに, これにもとづいて,企業の総合理論 としての経営学の壮大な体系を構築 した のである**。

●●●●●●

藻利 においては,企業の歴史的発展は,企業の固定化 として理解 され る。

かれは,企業がその二大要素 としての資本 と労働 との固定化 によって,それ 自体 も固定化する, と考 える。

* 藻利 が批判 した 「営利原則否定論」 を代表 す る者 は,藻利 と同門の研究者 ,東京商科 大学増地膚治郎ゼ ミナールの古川栄一 ,山城葦 ,そ して占部都美である。

** 藻利 は,経営学 を形成す るために考慮す るべ き主要研究 として,次の ものをあげ る。

ドイツにおけ る経営経済学 ,経営科学 ( Be t r i e bs wi s s e ns c ha f t e n) (この うち に含 まれ る 労働 科学 ( Ar bei t s wi s s ens c haf t en) ,狭義 の経 営科学 ない し経 営組織論 ( Bet r i e bs or ‑ ga ni s a t i o ns l e hr e) ) ,経営的社会政策論 ( di ebe t r i e bl i c heSo z i a l po l i t i k) ない し経営社会学

( Be t r i e bs s o z i o l o gi e) ,アメ リカにおける経営管理論 ,社会学的ない し制度論的協働論 ,

制度論的企業論 ,企業経済学 ( Ma na ge r i a lEc o no mi c so rBus i ne s sEc o no mi c s ) が これで

あ る。 この他 に,社会科学 の他の諸研究, とりわけ経済学的諸研究が重要 な もの として

考慮 され ることは,い うまで もない。

(11)

ここに資本の固定化 とは, とりわけ企業における機械 ・設備の大型化,新 鋭化 に伴 い,企業資本の固定資産への投下が,絶対額 においてのみな らず, 流動資産への投下 に対する比率 において も,増大することを意味する。そ し て,労働 の固定化 とは,労働組合運動の発展を契機 として,企業が労働者を 安易に解雇することが困難 にな り, 雇用の長期化が進展することを意味する。

藻利によれば, この ような資本 と労働 との固定化は,企業 を一時的ない し流 動的存在 か ら持続的ない し固定的存在へ と変化 させ る。 この ことこそ,企業 の固定化の意味に他な らない。

●●●

藻利 によれば,企業の歴史的発展 としてのその固定化は,やがて,継続事

●●

業体 ( goi ngc o nc e r n) としての企業 を生成 させ ることにな る。 ここに継続 事業体 としての企業 とは, これを永遠 に存続 させて行 こうとする意図を もっ て運営され る企業を意味する。

この ような企業の発展は,他方 において,企業の指導原理 としての営利原 則の発展 をもた らす こととなる。短期的 ・一時的に利潤 を得 ようとす る意図

●●●●●●●

によって特質づけ られ る営利原則ない し短期的営利原則か ら,長期的 ・持続 的に利潤 を獲得 し続け ようとする意 図によって特質づけ られる営利原則ない

●●●●●●● ●●●●●●●●

し長期的営利原則への発展,一言 にしていえば,営利原則の長期化が, これ である。

この ような営利原則の長期化は,永遠 に存続 して行 こうとする意図を もっ

●●●●●●●●●●

て運営され る継続事業体 としての企業の成立 に伴い,無限の将来 にわた る利

●●●●●

潤の極大化 とい う内容 をもつ営利原則を結実 させる。 この営利原則は, これ

●●●●●●●●●

を企業管理 の観点か ら見 るとき,企業の利潤獲得能力 ( e a r ni ngpo we r ,Er ‑

●●●●●● ●●●

t r a gs kr a f t ) の発展的維持 とも表現 され る。企業の遠 い将来 にわた る利潤 *

* ここで , 「 遠い将来 にわたる利潤」 とい う語句の 「わた る」 に傍点を付 したのは, これ ●●●

が, しば しば,現在 を無視 し遠 い将来のみを重視す るものだ, と曲解 されているか らで

あ る。なお,藻利の この ような考 え方は,不思議な こ とに,当時は,多 くの人び との賛

同を得 ることにはな らなかった。われわれは,継続事業体 としての企業 とい う考 え方が

必ず しも一般的 とはいわれえな くなった今 日になって,む しろ, この ような考 え方 に賛

同する声を聞 くのである。例 えば次を参照 されたい。

(12)

の獲得のためにこの能力を形成 しようとす る意図を表す もの としての営利原 則が, これである*。

藻利 は,経営学の対象を継続事業体 としての大企業 に求め, これを,その 利潤獲得能力の発展的維持 とい う内容を もつに至 った営利原則の観点か ら考 察 しようとする。 かれは, この ような考 え方 にもとづいて,企業の管理を体 系的に合理化 しようとし,それを総合管理 と部門管理 とに分け,さ らに部門 管理 を生産管理 と労務管理 とに分けるとともに, これ らの管理のすべてが実 体的側面 と価値的ない し費用的側面 をもつ ことか ら, ここに実体的管理 と費 用的管理を理解す る。そ して,かれは,これ ら管理 についての徹底的な思索

によって,かれの学説体系を形成することになったのである。

藻利の この ような学説は,表面的には, これを受け継 ごうとする者が少数 であ ったにもかかわ らず,実質的 には,わが国の学界 に大 きな影響 を与 えた。

われわれは,例 えば,かれによって創始 された多 くの学術用語,そ して この 基礎 にある考 え方のい くつかが,今 日,その創始者の名を意識することな し に,いわば常識 として通用 していることを知 っている。そ して, この場合, われわれは,生産管理 としての人事管理か ら区別 され る労務管理が,かれに よって初めて明確化 され深 く広 く研究 された ことをも, ここで再び指摘 して おかなければな らないであろう。

●●●● ●

ここにいう労務管理は,生産力の一つ としての人力ない し労働力の合理的

●●●● ●●● ●

利用を課題 とする人事管理 とは異な り,労働力の所有者 としての労働者 につ いて,企業 における人間的処遇 を課題 とす る。それが,継続事業体 としての 企業の長期的営利原則,企業の利潤獲得能力の発展的維持 にもとづ く企業の

北城恰太郎稿 「IBM の コーポ レー ト ・ガバ ナンス」,日本経営学会 『 経営学論集 7 6 集 ・ 日本型経 営 の動 向 と課題 』千倉書房 ,平成 1 8 月 9 月 お よび 「日本経 営学会第 79 回全 国大 会報告」 におけ る同氏の発言。

* この こ とについては, とりわけ次 を参照 の こ と。

笠原俊彦稿 「藻利重 隆博 士 におけ る企業 の指導原理 ( ‑) 」 『 経 営 と経済』第 8 4 巻第 1

号,2 004 年 6月,1 4‑1 5ペー ジ。

(13)

施策 として論理づけ られ ることは,い うまで もない*。

以上の ような藻利の研究の全体は,かれの次の ような学問観 に もとづいて い る。 かれにおいては,学問は,広 く入寮 のためにあ り, この一 つ としての 社会科学 は,人間社会のためにある。そ して,社会科学の一 つ として企業の 問題 を研究す る経営学 は,企業の発展 に寄与 し, この ことを介 して社会の発 展 に貢献す るためにあ る。

この ような藻利 の学問観, とりわけ経営学観 は,企業の発展が社会の発展 を もた らす こ とを,その前提 としている。 そ して,かれの思惟の うちに, こ の ような前提 を置 くことを可能 とす るもの こそ,近代的大企業の指導原理 と しての長期的営利原則,企業の利潤獲得能力の発展的維持,の倫理的性質 に 他な らない。 かれにおいては,長期的存在 としての近代的大企業 は,長期的 営利原則をその指導原理 とす ることによって社会の発展 に貢献 しうるのであ り,経営学 は, この ような企業の発展 に資す ることに よって,社会 の発展 に 貢献 す るこ とがで きる, と考 え られているのである。

ところで,この ような近代的大企業 お よびその指導原理 は,藻利 によれば, 企業 とその指導原理 との歴史的発展 に よって成立 した, と考 え られ るもので あった。それ らは歴史的経過 の うちに形成 され るのであ り, したがって,過 去 を もつ とともに,未来 を ももつ ものであ ることが注意 されなければな らな い。それ らは,それ らが成立す る以前の歴史的経緯 を有 しているだけでな く, さ らに成立以降の歴史的変容の可能性 を も有 しているのであ る。

そ こで,歴史的発展の うち に成立 した とされ る,継続事業体 としての近代

* 今 日では常識の一つ とな っているこの労務管理 とい う考 え方は,わた くLが藻利ゼ ミ ナールの学部学生であ った ( 1 9 62 ‑ 3 年)頃には,学界において,ほ とん どのひ とが受 け容れ るものではなかった。それに もかかわ らず,それは,実務界に受け容れ られ,そ の実践 に大 きな影響を与えたのである。その後 1 0 数年 を経て,この実践は , 「日本的経営」

の名で呼ばれることにな り,藻利は,一部の人び とによって , 「日本的経営」の理論の形 成者 として理解 されることになるのであるが, しか し,かれ 自らは,かれの理論 を, 日

●●●●

本の企業 に特殊 な理論 としてではな く,資本主義経営 としての企業の一般理論 として理

解 していた ことが注意 されなければな らない。

(14)

的大企業 と,利潤獲得能力の発展的維持 とい うその営利原則 とは,さ らに歴

●●●●●●●●●

史的に変化 してい く,と考 え られなければな らないはずである。この ことは, 藻利が考察の対象 とした企業 とその指導原理 が,今 日では当時 とは異な る様 相を示 しているように見 え,藻利の理論 が,今 日ではそのままには妥 当 しえ な くなっている と思われ ることか らして も,われわれを納得 させ うるであろ

う。

そ こで,われわれは,藻利の理論 の中心 に置 かれている近代企業 とその指 導原理 を,その成立 までの経過のみな らず,成立後の変容を含む よ り大 きな 歴史の流れの うちに,見直 して理解 しなければな らない。この こ とによって, われわれには, 藻利 がその理論 の基礎 とす る企業 とその指導原理 とについて, これ らの成立 に関す るかれの所論 を検討す る機会 だけでな く, これ らのその 後の変容 を理解す る機会 もが与 え られるであろ う。そ して, とりわけ この後 者 に関 していえば,われわれには,また,企業 とその指導原理 との変容 によ

って,企業 の管理 が如何 に変化せざるをえなかったか,を理解す る機会 もが 与 え られ るであろう

それだけではない。われわれは,さ らに,企業 とその 指導原理 との変容が,社会 に対す るその意味を如何 に変化 させ ることにな っ たか,を も知 ることがで きるのであ る。 この ことは,藻利 における経営学の 社会的意味が,その対象 とこれを考察す る観点 との社会的意味に関わるもの であるこ とか らして,決 して軽視す ることので きる問題ではない。

この ように,藻利の理論 の中心 に位置す る近代企業 とその指導原理 とを, よ り大 きな歴史の流れの うちに見直 して理解す ること, これは,藻利説のあ

●●●●●●

る意味での相対化すなわち歴史的相対化 を意味す る。近代企業 とその指導原 理 との歴史的考察 に も とづいて形成 された藻利説 は,さ らに よ り大 きな歴史 の流れの うちにこれを見 ることによって,相対化 されなければな らない。 こ の ことは,経営学 に携わ る者, とりわけ大学 において 「 経営学原理」 を担 当 する者 に とって, 自らが担 わざるをえない課題なのであ る。

われわれは, この ような課題 を幾分 かで も達成 しようとす るに際 して とり

(15)

うる手掛 りを,マ ックス ・ヴ ェ‑バーの所説,なかで も ,1 9 0 4 ‑5 年 に初め て発表 された論文 「プロテスタンテ ィズムの倫理 と資本主義の精神」*の う ちに見出す ことがで きる。 これは,近代資本主義企業の指導原理の生成 と特 質 とを明 らかに しているだけでな く,その変容をも明 らかにしているか らで ある。ヴ ェ‑バーが近代資本主義の精神あるいは簡略的に資本主義の精神 と 呼ぶ ものの生成 と変容が, これである。

3 資本主義の精神の生成

‑ ヴ ェーバーの所論 を中心 として‑

(1 )前資本主義の精神 と近代資本主義の精神

ヴ ェ‑バーは,広義 において資本主義 といわれ うるものについて,二つを 区別す る。前資本主義 ( de rPr e ka pi t a l i s mus ) * * お よび近代資本主義 ( de r mode r neKa pi t a l i s mus ) が これである。

● ●

こ こに近 代 資 本 主 義 は , 「合 理 的 な経 営 に も とづ く資 本 利 用 」 ( di e r a t i o na l eBe t r i e bs ma Bi geKa pi t a l ve r we r t ung) すなわち合理的な生産体系へ

● ●

の 資 本 の 投 下 と, 「合 理 的 な 資 本 主 義 労 働 組 織 」 ( di e rati onal e kapi t a l i s t i s c heArbei t sor ga ni s a t i o n) すなわち利潤 を得 るための合理的な

●●

分業的協業の組織 としての生産体系の形成 とによって,特質づけ られる経済

* わた くLが以下 において用いるのは,すでに明 らかな ように, この論文の 1 9 2 0 年版 で ある。

なお,ヴ ェ‑バーの この論文の内容の詳細な説 明については,次を参照 されたい。

笠原俊彦著 『 企業の営利 と倫理 ‑M. ヴ ェ‑バー研究‑』税務経理協会 ,2 0 0 3 年 1 1 月.

わた くLが この書物 を著 したのは,わが国におけるヴ ェ‑バーの上記論文 の翻訳 お よ び研究 に,著 しい不満 を感 じざるをえなかったためであ る。 この ことは,例 えば,大塚 久雄訳 ( 岩波書店)の最初の部分 を拙著 と比較 されただけで も ( そ して願 わ くば原書を 参照 され確認 されれば一層),明 らかであろう。少な くともわが国において,ヴ ェ‑バー の この論文は, これが出版 されて以来, これまで,理解 され ることがなかった ように見 える. もっ とも,残念なが ら,わた くLは,市場性を考慮 し,上記書物 を, もともとの 原稿を大幅に削除 した形で出版せざるをえなかった。

** この言葉は,名詞の形でヴ ェ‑バーの上記論文 に記 されているわけではない。

(16)

行為 を意味す る。われわれは,それが,大略 ,いわゆ る産業資本主義 ( I n‑

dus t r i a lCa pi t a l i s m) に相当す る と考 えることがで きるであろう。

これに対 して,前資本主義は,合理的な生産体系への資本の投下 と ,利潤

を得 るための合理的な分業的協業の組織 としての生産体系の形成 とが,いま だ特質 とはなっていない経済行為を意味する。 この ような前資本主義 に相当 するもの として,われわれは,直ちに,産業資本主義 に先立 つ とされる近世 のいわゆる商業資本主義 ( Co mme r c i a lCa pi t a l i s m) を想起 しうるであろう

だが,それは, この ような商業資本主義 に相当す る資本主義のみを意味する ものではない。それは, この商業資本主義ばか りか,それ以前,実に古代 か ら存在 して きた営利的経済行為を も含む ものに相当することが注意 されなけ

●●

ればな らない。 これは,総 じて近代資本主義が現れる前に存在 していた資本

●●

主義を意味す るものなのであ り,ヴ ェ‑バーは近代資本主義以前の資本主義

とい う意味を込めて, これを前資本主義 と呼ぶのである。

この場合,われわれは, この前資本主義が近代資本主義の出現 によって消 滅 して しまったわけではない ことに注意 しておかなければな らない。それは,

●●●●●●●●●

近代資本主義 によって代表 される時代,近代資本主義の時代 にも消滅するこ とはなかった。そ して,それは,のちに見 るように,近年,再び大 きな勢力 を伴 って復活 しているように見 えるのである。

さて,ヴ ェ‑バーは,以上の前資本主義 と近代資本主義 とい う二つの資本

●●

主義のそれぞれに対応する精神 として,前資本主義の精神 と近代資本主義の

●● ●●●●

精神 とを理解する。 この二 つが, ともに広義 において資本主義の精神 といわ

●●●●●●●●●●●●●●

れ うるのは, これ らがいずれ も利潤を求めることを特徴 とす る精神だか らで ある。だが,ヴ ェ‑バーによれば, この二つは,その他の点では,性質を大

きく異にす る。

●●●●●

かれによれば,第一 に,前資本主義の精神は,良心のない営利の精神 とし

て特質づけ られる。それは,倫理 を無視 し, 自らの利益のみを追い求め よう

とする精神であ り, この ような精神 によって導かれる経済行為 としての前資

(17)

本主義は,戦争,海賊,投機,高利貸な どの形 における営利行為の うちに現 れる自由放縦ない し冒険 としての特質をも

つ 。

それゆえに,ヴ ェ‑バーは,

この前資本主義 を, 「 『冒険』資本主義 ( ≫Abe nt e ue r《‑ Ka pi t al i s mus ) *

とも呼ぶのである。われわれは, この ような前資本主義の精神 と前資本主義 こそ,シ ェーンプルー ク ( Fr i t zSc h6npf l ug) のい う古典古代か らの利潤 に 対す る倫理的嫌悪感 ない し侮蔑感を生み出 した ものだ

*

*と考 えるこ とがで

きるであろう。

●●●●●

これに対 して,第二 に,近代資本主義の精神は,まず,良心のある営利の 精神 として特質づけ られる。だが,それは,単 に,良心があ ることによって 特質づけ られるだけではない。そ こにおける良心は,ヴ ェ‑バーが近代資本 主義 の精 神 の典 型 として示 すベ ン ジ ャ ミン ・フ ラン ク リン ( Benj ami n

●●●●●●●

Fr a nkl i n) のそれ***に明 らかな ように,倫理的実践原理 としての性質 を も

●●●●●●●●●

つ。すなわち,それは,生活のあ らゆる部分 における体系的な実践の原理な

●●●● ●●

い し生活基準 としての倫理 とい う性質をもつのである。 しか も, この ような 精神 によって導かれる経済行為 としての近代資本主義は,そのすべての部分

●●●●●●●

において, 自らを体系的 に合理化す る経済行為 としての特質 をもつ。 この よ

●●●●●●●●●● ●●

うにして,近代資本主義の時代 には,体系的な合理的生産体 としての経営 を

●●●●

特質 とす る近代企業が形成 されるのである。

われわれが知 る限 り,前資本主義の精神 と近代資本主義の精神 との二つの うち,後者 は,ほ とん ど気づかれることがなかった。一般 に,人び との意識 の うちにあった もの ( そ して今で もあるもの)は,前者のみであ り, これが 企業の営利の精神ない し営利原則その もの と同一視 されていたのである。そ

* M.We be r ,a.a.0. ,S・1 81 .

** Vgl .Fr i t zSc h6npf lug ,Be t r i e b s wi r t s c ha ft s l e hr e ,Me t ho d e nundHau Pt s t r b ' mun ge n ,

Zwe i t e,e r we i t e r t eAuf la geYo n" Da sMe t ho de n pr o b l e m i nd e rEi n z e l u ) i r t s c ha ft s l e hr e ̀ ̀ , He r a us ge ge be nYo nHa nsSe i s c ha b,C.E.Poe s c he lVe r l a g ,1 9 3 3/1 9 5 4 ,SS ・1

0

1 ‑1 02 .

*** ヴ ェ‑バーがあげているのは,フラン ク リンの " Ne c e s s a r yHi nt st oThos ewho

wo ul dber i c h"( 1 7 3 6 年)および " Ad vi c et oaYo ungTr a de s ma n' ' ( 1 7 4 8 年)の二冊の書

物である。

(18)

して,営利 における良心ない し倫理は, これが ときに気づかれることがある として も,ほ とん どの場合,現実の うちにたまさかに現れる,いわば例外的 変異 としてのみ扱われていた。

だが,ヴ ェ‑バーは,企業の営利の精神の うちに,明確 に異な る二つの型 を見 出し,これを,二 つの資本主義の精神 として理解す る。この二つの うち, かれが近代資本主義の精神 と呼ぶ ものは,歴史の うちに個別的に現れる現象

●●●●

ではない。それは,ヴ ェ‑バーによれば,大量現象 として現れた ものであ り,

●●●●●●●

実に近代資本主義の文化を構成するものなのである。

この ような近代資本主義の精神の特質 としては,その倫理的実践原理 とし ての特質のみが注意 されなければな らないわけではない。ヴ ェ‑バーによれ

●●●●●●●●

ば,それについては,さらに,天職 に対する義務 ( Be r u f s p f l i c h t ) とい う思 惟が問題 とされなければな らない。

近代資本主義の精神には,フランク リンの例について これを見 るとき, 冒 らの職業を神によって与 え られた使命すなわち天職 ( Be r u f , c a l l i n g) として 理解 し, これに尽 くす ことが, 自らの義務である, とする思惟が存在する。

ヴ ェ‑バーによれば, この思惟 こそ,近代資本主義の精神を基本的に特質づ ける。そ して,近代資本主義の精神の倫理的実践原理 としての特質は, この 天職 に対する義務 という特質か ら派生す るものなのである。われわれは,ヴ ェ‑バーが, この ような考 えか ら,近代資本主義の精神を, しば しば,天職 に対する義務 とい う言葉 によって置 き換 えていることに注意 しなければな ら ない。

なお,ヴ ェ‑バーは,近代資本主義を資本主義,近代資本主義の精神を資 本主義の精神 と, しば しば簡略化 して呼ぶ。われわれ も,以下,ヴ ェ‑バー にしたがって,誤解 を招 く恐れのない限 りで, この ような呼び方を用いるこ

とにしよう。

(19)

(2 )資本主義の精神の生成についての仮説

ヴ ェ‑バーは,近代資本主義文化 としての資本主義の精神が,歴史的にど の ように して形成 されたか,を問題 とする。

この資本主義の精神の歴史的形成 を考察す るに際 して,かれは,人間の歴 史が経済 によって必然的に決定 され, この経済がその時 々の文化を必然的に 決定する, とい う史的唯物論ない し唯物史観を, 自らが とるわけではない こ とを予め明 らかにす る。そ して,かれは,また逆 に,文化が経済 を必然的に 決定する, とい う考 え方を, 自らが予め とるわけではない ことも明 らかにす

る。

かれによれば,何 らかの歴史的経過 は,む しろ,さまざまな原因によって, しかも,そのさまざまな様式 と程度 におけるその作用 によって,形成 され う る, と考 え られるべ きであ り,それが実際に どの ようにして生起 したかは, 史実の検討 によって明 らかにされ る以外 にないのである。ヴ ェ‑バーは, こ の ように考 えて,資本主義の精神の生成を明 らかにしようとする。

ヴ ェ‑バーは,資本主義の精神が,かれの時代 には,近代的大企業 におい て働 く人び と,とりわけその上層の人び とによって担われている,と考 える。

しかも,かれによれば, この上層 の人び とは,圧倒的にプロテスタン トによ って占め られている。そこで,ヴ ェ‑バーは,プロテスタン トが,如何 にし て こq)ように企業の上層の地位を占め,資本主義の精神を担 い, これによっ て企業を運営することになっているのか,を問題 とする。

ヴ ェ‑バーは, この問題 に対す る一つのあ りうる解答 として,まず,唯物

史観 に沿 った次の ような仮説 を提示する。それは,( ∋かつて,富裕であ り近

代企業の担 い手であ った人び とが,カ トリシズムか らプロテスタンテ ィズム

に改宗 し,そ して,②その後,かれ らプロテスタン トは,富裕であるがゆえ

に,その子弟 に財産 を残 し,または近代的教育を受けさせ ることによって,

これ ら子弟が,近代企業の出資者,管理者 または上層の熟練労働者の地位 に

就 き,富裕 となることを可能にして きた, とい う説である。

(20)

ヴ ェ‑バーに よれば, この説 は,た しかに,その後半② においては,富裕 者であるプロテス タン トの子弟が近代的大企業の地位 に就 くのに有利であっ

●●●

た とい う,一 つq) 事実を明 らかに している.だが,それは,その前半( 丑にお

●●●

いて,そ もそ も,かつて,富裕 な人び とが何故 にプロテスタンテ ィズムに改

●●●

宗 したか, とい う理 由を明 らかに していない。 しか も, この説の後半( 参は, 前半( 丑を前提 とし, これにもとづいて成 り立 っているのであ り,前半( 丑につ いて生 じるこの疑 問に対する理 由が明 らかにされない限 り,後半( 参も,その 説得 力の大半 を失 うことにな らざるをえないのである。 そ こで,ヴ ェ‑バー は,次 に, この理 由を尋ね ることになる。

ヴ ェ‑バーは, この理 由 として考 え られ うるもの として,やは り唯物史観 にで きる限 り沿 って,次の仮説 を提示す る。

近代企業の担 い手 としての富裕な人び とは,経済の領域 におけ る伝統主義 か ら自由にな った人び とであ り, この ように経済的伝統主義 か らの 自由を得 た人び とは,次 に,宗教の領域 において もまた,カ トリシズム とい う伝統 か ら自由にな り,プロテスタンテ ィズムに改宗するこ とになった,すなわち, 経済的伝統主義 か らの 自由が, 宗教的伝統主義 か らの 自由を もた らしたのだ,

と。

だが,ヴ ェ‑バーによれば, この理 由については,① ここに宗教的伝統主 義 か らの 自由 といわれるものが,宗教 か らの人び との生活の 自由ではな く, たんに,人び とが一 つの宗派 か ら他の宗派へ改宗 した ことを意味す るもので あ った こと, しか も,② ここに人び とが改宗 した当時のプロテスタンテ ィズ ムが,カ トリシズム と比較 にな らない程 に厳 し く,生活 の全体 を, したが っ て経済生活 を も,徹底的 に規制 す るものであった こと,が注意 されなければ

●●

な らない。 ここに経済的伝統主義 か らの 自由によって もた らされた といわれ

●●●

るものは,歴史上比べ るもののないほ どの著 しい宗教的不 自由であ った。そ

れに もかかわ らず, この説 は,経済的 自由を求めた人び とが,何故 にこの よ

うに厳 しい宗教的不 自由を求めたのか とい う,まさに この ことを,まった く

(21)

説明 しうるものではないのである。

この ようにして,唯物史観 に沿 った以上の仮説は,近代的大企業の上層 に 圧倒的 に存在するプロテスタン トによって資本主義の精神が担われている理 由を,説 明することがで きない。そ こで,ヴ ェ‑バーは, この理 由の説 明を 求めて,かれの思考 を転換する。かれは,いまや,資本主義の精神 と同じ く

●●●●● ●●●

思惟の一つであ りなが ら,プロテスタンテ ィズム とい う宗教的思惟が,資本

●●●

主義の精神 とい う経済的思惟 を生成 させたのではないか と考 える。そ して, かれは, この ような仮説の形成 に向って,一歩を踏み出す ことになる。 この 一歩 とは,ヴ ェ‑バーの時代における,経済的に比較的恵まれた階層 と比較 的恵まれていない階層 との双方 について,それぞれの階層 におけるプロテス タン トの家庭 とカ トリックの家庭 との,教育 と職業に関する志向ない し思惟 のあ り方を尋ねること, これである。

ヴ ェ‑バーは,かれの時代 について,一方 において,比較的経済的に恵ま れ,そのため,その子弟に比較的高等な教育を受けさせ る資力をもつ階層 に 関 して,プロテスタン トとカ トリック とを比較する。そ して,かれは,プロ テスタン トの子弟が,近代企業 に勤めるに適 した,いわゆる近代教育機関へ と進学 しようとす るのに対 して,カ トリックの子弟が,古典語を中心 とする 伝統的教育機関へ と進学 しようとす る志向を もつことを明 らかにす る0

ヴ ェ‑バーは,同 じく,かれの時代 について,他方 において,比較的経済 的に恵 まれてお らず,そのため,子弟に比較的高等な教育を受けさせ る資力 を もたない階層 に関 して,プロテスタン トとカ トリック とを比較す る。そ し て,かれは,プロテスタン トの子弟が,手工業企業で職業的予備教育を受け た後,近代企業の機械制工場 に転 じ, ここで上層の労働者 になろうとするの に対 して,カ トリックの子弟が,その ような職業的予備教育の後 も,手工業 企業 に留ま り,そ こで親方 になろうとする志 向をもつ ことを明 らかにする。

ヴ ェ‑バーによれば,以上二 つの事例は,プロテスタン トが,比懐的裕福

な階層 と比較的貧 しい階層 とのいずれにおいて も,近代企業への志向をもつ

(22)

のに対 して,カ トリックが,比較 的裕福な階層 と比較的貧 しい階層 とのいず れにおいて も,近代企業への志 向を もたない ことを示 している。そ して, か れによれば,プロテスタン トとカ トリックの この ような志 向の相違 は,主 と

●●●●

して,それぞれの家庭 における宗教教育の相違 に よって生 じてい る, と考 え られざ るをえない。 ここでは,宗派 による宗教教育の違 いが,一方 を して近 代企業 を志 向させ,他方 を してそ うさせない, とい う違 いを もた らしている

と考 え られざるをえないのであ る。

●●●●●●●●●●●●

この ことは,正確 には,ヴ ェ‑バーの時代 において,宗派 による家庭の宗 教教育の違 いが, とりわけプロテスタン トを近代企業の上層の地域 に就 かせ る有力な要因であった ことを意味 している。だが,それは,また,ひ とに,

●●●

この こ とが,かつて,プロテス タンテ ィズムに改宗 した人び とが富裕 であっ た こととも関連す るのではないか, とい う疑問を抱懐 させ るであろ う。 この ような疑問について,われわれが注意 しなければな らない こ とは,もちろん, 人び とが,近代企業 の形成 に携 わ り富裕 とな ったがゆえに,プロテス タンテ

●●●●●●●●●●●●

ィズム に改宗 したのではな く,逆 に,人び とが,プロテス タンテ ィズムに改

●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●

宗 したがゆ えに,近代企業の形成 に携わ り富裕 になったのではないか, と

うこと, これである。

この ように考 えて くる とき,ヴ ェ‑バーに よれば,さ らに,次の ことが想 起 されなければな らない。それは,プロテスタン トとカ トリック とについて は,被支配者 としての民族的,宗教的少数者 は,支配者 としての多数者 に比 べ,営利生活の分野 で繁栄する, とい う歴史的に一般的 に見 られ る経験 が, 当てはま らない こ と, これであ る。プロテスタン トについては, これが支配 者であ り多数者であ るか,または被支配者であ り少数者であるか,にかかわ らず,歴史的 に常 に経済的合理主義への特異 な志向が見 られ るのに対 して, カ トリックについては, この ような志向は見 られないのであ る。

以上の ことか ら, ヴ ェ

ー は

,カ トリック とは異な るプロテス タン トの

近代企業志向が, とりわけプロテスタンテ ィズム とい うキ リス ト教宗派 の内

(23)

面的特質によるのではないか, とい う考 えを抱懐する。 この ようにして,か れは,カ トリシズムのそれ との対比において,プロテスタンテ ィズムの内面 的特質 を問題 にす ることになる。

この ことについて,ヴ ェ‑バーは,まず,かれの時代の ドイツにおいて一 般的であった,次の ような考 え方を とりあげる。それは,カ トリシズムが非 現世的,禁欲的であるのに対 し,プロテスタンテ ィズムは現世的ない し現世 享楽的であ り, この ようなプロテスタンテ ィズムの特質が,プロテスタン ト を近代企業志向的にしているのだ, とい う考 え方であ る。

だが,ヴ ェ‑バーは,かれの時代 に一般的な この ような考 え方 に与するこ とがで きない と考 える。なぜな ら,かれによれば,かれの生 きている現在は

●●●●●●●●●

ともか く,過去についてみれば, ドイツにおいて も,事態は, この一般的考 え方 に示 されているもの とは,まった く異なっていたか らである。過去にお いては, ドイツのみな らず, イギ リス,オランダ,フランス,アメ リカのプ ロテスタンティズムは,いずれ も非現世的で禁欲的であった。そ して,それ にもかかわ らず,かつてのプロテスタン トは,際立 って資本主義の精神を有 していたのであ り,近代資本主義を担 っていたのであ る。

この ような事情 を考 えて,ヴ ェ‑バーは, ここに,かれに独特の一つの仮 説を提示する。かつてのプロテスタンテ ィズムの非現世性ない し禁欲 と,近 代資本主義的営利生活への参加の志 向ない し近代資本主義の精神 との間に

●●●●●●●

は,内面的な親和性があったのではないか, とい う仮説 が, これである。

この仮説は,非現世的な古プロテスタンテ ィズム と,極めて現世的 と見 え る近代資本主義の精神 とを,結びつけようとするものであ り, この意味で,

●●

一つの逆説 ともいわれ うるものであった。それは, 現世的 とされるヴ ェ‑バー

の時代の ドイツのプロテスタン トか ら見て も,逆説 としか考 えられないもの

であった。なぜな ら,ヴ ェ‑バーの時代のプロテスタン トは,すでに,宗教

に無 関心 とな ってお り,時 には, これに敵対的 とさえな っていたか らであ

る。

(24)

それにもかかわ らず,ヴ ェ‑バーは,かれの上記仮説 を とりあえず維持 し, これを歴史的研究によって検討 しようとする。 この理 由の一つは,かつて,

●●●

歴史的に最 も重要なプロテスタンテ ィズムのさまざまな宗派のすべてにおい

●●●●●●●

て,卓越 した資本家的事業感覚 と信仰心の強烈 な形態 とが,同一の人間集団

●●●●●●

の うちに共存 していた ことにある。 この ことは, とりわけカルヴ ァン主義 に おいては,常 に見 られたのである。そ して,かれによれば, このカルヴ ァソ 主義 こそ,資本主義の精神の発展を促進 した ように見 えるのである。

この ようにして,ヴ ェ‑バーは,次に,古プロテスタンテ ィズムの如何な る内面的特徴が,資本主義の精神を生成 させるよう作用 したのか, と問 うこ とになる。

(3 )カルヴ ァン主義 と資本主義の精神の生成

ヴ ェ‑バーは,プロテスタンテ ィズム と資本主義の精神 との関連を考察す るに際 して,まず,ル ターない しル ター主義 と資本主義の精神 との関連 を と

りあげる。すでに述べた ように,ヴ ェ‑バーは,資本主義の精神の基本的特 質を,それが天職 に対する義務 とい う思惟をもつ営利の精神であるところに 見出したのであるが, この 「 天職」 という言葉 と観念 とは,ル ターが聖書を ドイツ語 に訳する際に述べて明 らかにし, これが,その後,プロテスタンテ ィズムの全体 に拡まった ものだか らである。

ヴ ェ‑バーによれば,ルターは,現世の人び との職業が神 によって与 えら れた使命 としての天職 であ り,それゆえに,それは宗教的価値 をもつ, と述 べたのであ り, この ことは,ル ターの画期的な業績であった。だが,ヴ ェ‑

バーによれば,ル ターは,同時に, この天職 を,すでに各人が就いている社

会的身分 としての職業 と同一視 し,各人の身分 としてのその職業は神の摂理

によるものであるがゆえに,各人はその身分に留 ま り,その職業 において神

に尽 くせ, と教 えた。 この ことによって,ル ターは,かれの天職観のそれ以

上の発展を阻止することとなったのである。

(25)

ヴ ェ‑バーによれば,天職 という観念は,ル ター主義 によってではな く, かれが禁欲的プロテスタンテ ィズム と呼ぶ もの,なかで もカルヴ ァソ主義, によって発展 させ られることになった。そ こで,われわれは, ここでは, と

りわけカルヴ ァソ主義に焦点を合わせ, これ と資本主義の精神 との関係を概 観することとしよう

そのためには,われわれは,まず,カルヴ ァソ主義の 特徴を明 らかにす ることを必要 とする。われわれは,カルヴ ァソ主義の特徴

を,カ トリシズムのそれ との対比 において述べてお くことにしよう。

カ トリシズムにおいては,神は,人間に,慈愛 に満ちた顔 を向ける。人間 のすべては,その祖先であるアダム とイヴ以来の原罪を負 ってお り,原則 と

して,天国へ行 くことを許 されていない

しか し,カ トリシズムによれば, この ように原則 として天国か ら排除されている人間 も,神を信仰 し善行を積 めば,神 によって許 され救われて,天国へ行 くことがで きる。 この ように, カ トリシズムの神はL 、人間を許 しこれを救済 しようとす るのであ り,人間に 優 しい神なのであ る。

この ようなカ トリシズムにおいては,人間の生活は,二 つに分け られる。

一つは,修道僧の生活であ り, これは救いを求めて神 に仕 えるための禁欲的 生活である。 もう一 つは,一般の人び との生活であ り, これは,む しろ,罪 禁欲的で現世享楽的な生活であ り,それゆえに, しば しば罪を犯す生活であ る。 この ような生活 を送 る世俗の人び とも,信仰 と善行 により救われ る。か れ らは,その罪を告 白し悔い改めることによって,許 されるのであ る。

この場合,経済生活 において利潤を得 ることは,神 に喜ばれることではな い, とされる。利潤 は他人か らの収奪 によって得 られるものであ り,それゆ えに,端的 にいえば,利潤は悪であ り,これを追求する行為は罪なのである。

だが, この罪 も,例 えば,人生の終わ りに,富を教会に寄付 し,または債務 者 に高利 による利潤 を返済する等の償いをなす ことによって,救 され るので ある。 ・

これに対 して,カルヴ ァソ主義 においては,神は,人間に,著 し く厳 しい

(26)

顔を向ける。神は,人間のために在 るのではな く,神 自らのためにある。神 は, 自らの栄光を高めるために, このための道具 として,人間を用いるので あ り,人間のためにその力を用いるのではない。 この ような神 も,人間の一 部 については, これを許 し,天国に再生 させ る。だが, この ことを,神は, 人間への愛のためになすわけではな く,ただ 自らの栄光を現すためになすの である。

カルヴ ァン主義 によれば,神は, 自らの栄光 を現すために,永遠の過去 に おいて,人間の うちの少数の者 に恩寵 を与 え,これを救 うことを定め られた。

これが,カルヴ ァソ主義の 「 恩寵 による救い」の教説であ り,一般 に予定説 と呼ばれているものである。 この場合,神は,人間の側 における何 らかの理 由によって,誰 を選び これを救 うかを決定 されたわけではない。神は,ただ, その悪意 によって,人間の うちの特定の少数の者 を選ばれたのであ り,まさ に, この ことによって, 自らの栄光を示そ うとされたのである。絶対者であ る神は, この決定ないし予定を決 して変 え られることはない。人間が如何 に 信仰 し善行をなそ うとも, この ことによって,神は,その予定を変 え られる ことはない。そ もそ も,各人が如何なる行為 をなすか, これ 自体 も,神が永 遠の過去 に決定ない し予定 された ことなのである。そ して,各人は, 自分が 果 して選ばれているのか否かを知 ることがで きない。

この ように, この世 における如何なる救いの手段を も奪 われ,ただ一人, 神に対峠することとなったカルヴ ァソ主義信徒達は,絶 え難い孤独 に陥いる こととな った。 しか も, 自らが救われているのか否かを知 ることがで きない かれ らは,せめて, 自らが救われていることを確信 したい とい う強力な願望 をもつことになった。

カルヴ ァン主義牧会 は,信徒達の この願望 に,その天職観 によって応 える ことになる。 この天職観は,次の ような内容をもつ。

神は,その栄光を現すために,各人に天職 を与 え,各人が,天職労働 によ

って合理的な社会の形成に参加 し,福祉を増大 させることを欲 された。各人

参照

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