第十節 第二次世界大戦中の長崎医科大学
第.十節 第二次世界大戦中の長崎医科大学
第二次世界大戦は欧洲においても︑大平洋並びに東ア
ジアにおいても︑枢軸諸国の劣勢は年と共にあらわな状
態に陥って来た︒昭和十八年から二十年に至るまでに実
に惨敗を重ね乍らも国内に対しては︑なお︑決戦対策乃
至は必勝の信念が唱導され︑大和魂が鼓吹されて行った︒
国内における衛生行政はこれに呼応して体制を整えたが︑
敗色濃い内外の事情は遂に昭和二十年八月十五日の無条
件降伏に至らねばならなかったのである︒そしてこの間︑
戦争に狂奔した政治の余波は伝統ある長崎医科大学をも
灰塵に帰せしめたのである︒
昭和十八年︵一九四三年︶一月十六日︑国立健康保険
療養所官制が公布され︑同月︑大政翼賛会は結核予防対
策を政府に答申したが︑同月三十日︑本学では勅令第五
三号を以て︑官立医科大学官制定員表中︑改正されると
ころがあり︑技手二名を一名に︑看護婦十二名を十一名 に減員された︒これは大学関係者が出征して了って︑職 員の減員を余儀なくされた結果である︒ 二月二日︑保険医及び保険薬剤師の指定に関する件が 制定され︑三月十二日︑薬事法の公布︑同月︑保険医︑ 保険歯科医及び保険薬剤師の療養担当規程の制定をみて︑ 社会保障の制度が漸く法的な基礎を固めて来たのであっ た︒又︑同月︑日本学術振興会はBCGの研究成果を発 表し︑結核対策に一役を買ったのである︒ 五月十一日︑教授国房二三は学生主事の兼任を命ぜら れ︑七月二十七日には勅令第六一四号を以て︑臨時附属 医学専門部職員定員表中︑改正されるところがあった︒ 十月六日︑薬剤師会令が公布され︑同月二十日︑教育 に関する戦時非常措置方策が閣議で決定されたのである が︑いよいよ戦時体制が医学教育に影響を及ぼすに至る
のである︒
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同月二十三日︑医薬品及び衛生材料配給機構の整備要
綱及び小売薬業整備要綱が定められて︑枢軸国の配給制
度が採用されたのである︒十一月一日︑厚生省の改組に
より︑人口局が健民局となり︑社会局を廃止して健民局
と勤労局にその事務が移管された︒これは健民修練の目
的で各地に設立された健民修練所の管理その他の修練場
の監督に当ったことを示すのである︒本学ではそうした
施設はなかったが︑前記のような報国団の活動の一部に
包含される行事であった︒
昭和十九年︵一九四四年︶は戦局の苛烈化で敗戦の色が
益々濃くなって来たが︑二月二十五日︑決戦非常措置要
綱が閣議で決定され︑更に国内政治の統制を強化しよう
とした︒本学では三月三十一日︑勅令第二〇〇号を以て︑
官立医科大学官制︑第十九号四項中︑﹁専門部二主事ヲ
置ク﹂とあるのを﹁部長﹂に改め︑昭和十五年の勅令第二
七八号改正の臨時附属医学専門部官制中︑﹁臨時附属医
学専門部﹂を﹂臨時二附属医学専門部﹂と改正し︑叉﹁主
事﹂を﹁部長﹂と改めた︒これによって︑従来の長崎医
第九章 長崎医科大学 科大学臨時附属医学専門学校は長崎医科大学附属医学専 門学校となった︒叉︑附属医学専門部官制定員表中︑改 正されるところがあったが︑同日︑教授長谷川高敏は願 により附属医院長を免ぜられ︑教授内藤勝利は後任附属 医院長に補せられた︒そして教授角尾晋は願により兼任 の臨時附属医学専門部長を免ぜられ︑教授高木純五郎は 後任主事に補せられた︒四月一目︑前記学則改正により 教授兼附属医学専門部主事高木純五郎は医学専門部長に 補せられたが︑叉︑附属薬学部専門教授兼主事江口虎三 郎は薬学専門部長に補せられた︒四月十九日︑附属薬学 専門部教授清木美徳は兼任学生主事に補せられた︒ このような戦時中の窮迫した中で︑なお医学研究を重 ねた病理学教授吉田富三は六月二十八日に東北帝国大学 教授に任ぜられて長崎を去ったのである︒この大学にお ける種々の研究中︑肉腫の研究を進めたのが最も知られ
ているものであった︒六月︑社会保険診療報酬算定協議会の設置があり︑十 丹一日には政府は︑簡易保険健康相談所及び公立健康保
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第十節 第二.次世界大戦中の長崎医科大学
健相談所を保健所に統合した︒
十一月︑長崎県立教員保養所が設置され︑教授影浦尚
視はその所長を兼任した︒
そして十二月十九日︑本学では勅令第六六八号を以て
官立医科大学官制職員定員表中︑助教授︑助手の項を改
正した︒
昭和二十年︵一九四五年︶一月頃よりアメリカ空軍の
日本本土攻撃の大空襲が始められ︑日本の悲運は日に日
に明らかとなって来た︒三月六日︑勤労動員令の公布が
あり︑十八日には決戦教育措置要綱が閣議で決定し︑国
民学校初等科を除き︑学校における授業を四月から一ケ
年間停止することにしたのであった︒戦争に駆り立てら
れた状態では学問及び思想の発展は望み得べくもなかっ
たが︑四月一日︑連合国軍の沖縄上陸作戦が始って︑戦
局は益々非となり︑内閣の改変を余儀なくされる段階と
なって来た︒五日には医師免許の特例に関する件が公布
されていたが︑七日には遂に鈴木貫太郎内閣の成立をみ
た︒五月九日︑軍の要請による国内医薬資源確保のため の研究要員︑嘱託について学内の会議があり︑二十一日︑ 国民医療法に基いて︑保健婦規則が制定され︑更に保健 婦を中心とする衛生行政としては六月二十七日に保健婦
養成所指定規程も制定されている︒五月二十二日︑戦時教育令が公布され︑学校単位の学 徒隊及び地域単位の連合体を組織させ︑戦時緊切な要務 や訓練に従わせた︒そしてその制定に際して︑政府は趣 旨の徹底・目的達成方について訓令を発した︒ 六月︑本学では勅令第三七二号を以て︑官立医科大学 官制中︑改正されるところがあったが︑本学にあっては 益々戦局に相応する措置が配慮されて行ったのである︒ 即ち六月二十二日︑義勇隊の結成式が行われたが︑七月 十二日︑警報中でも講義が続行された︒ 本学では七月二十三日︑附属薬学専門部教授兼大学助 教授兼学生主事小野直治は学生主事を免ぜられ︑同日︑ 医学専門学部教授松尾京哉は兼任学生主事に補せられた︒ 叉︑医学専門部教授兼大学助教授石崎戌は兼任学生主事
に補せられた︒
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七月二十六目︑ポッダム宣言が発表されて︑目本の降
伏を奨める連合国の意図が明らかにされたが︑戦争は更
に押し進められて行ったのである︒
八月一日︑長崎に来襲したアメリカ空軍の投下した五
発の直撃弾は長崎医科大学附属医院外科手術室︑産婦人
科教授室︑手術室︑図書室及び耳鼻咽喉科手術室︑生化
学教室等を爆災し︑看視に当っていた学生三名が死亡し
た︒その後︑大学では退院できる人を出来るだけ早く退
院させたので︑大半が退院した︒その後︑六日まで講義
を休んでいた︒八月六目︑広島に投下された原子爆弾は
新型爆弾と云われて報導されたが︑七月末からの東京出
張より帰崎途上の角尾学長は広島の被爆状況を見聞し︑
八月八日︑帰校と同時に周囲の人にも阿鼻叫喚の様子を
談じ︑学生にも講話を与えるところがあった︒
ところで︑八月九目午前十一時二分︑角尾学長の伝え
られた新型爆弾が長崎に投下されたのである︒
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