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雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

『フロス河の水車小屋』におけるマギーの感情によ る教育の諸側面 −福音主義と功利主義の対立の視 点から−

著者 門田 守

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 47

号 1

ページ 139‑155

発行年 1998‑11‑10

その他のタイトル Aspects of Maggie's Education through Her Feelings in The Mill on the Floss −From the Viewpoint of the Opposition of Evangelicalism and Utilitarianism−

URL http://hdl.handle.net/10105/1492

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Bull. Nara Univ. Educ, Vol.47, No. 1 (Cult. & Soc), 1998

『フロス河の水車小屋』におけるマギーの感情による教育の諸側面

‑福音主義と功利主義の対立の視点から‑

門 田   守 (奈良教育大学英米文学教室)

(平成10年4月20日受理)

キーワード: エリオット、感情、福音主義、功利主義

は じ め に

ヴィクトリア朝社会を規定する二大概念として、

ウィ〜ナ(PhilipP.Wiener)は『概念史辞典』 (Dictio‑

na叩ofthe History of Ideas)において福音主義(Evan‑

gelicalism)と功利主義(Utilitarianism)を挙げてい る。

たとえば、福音主義については以下のような主張がな されている。

‥. Evangelicalism stressed the nonrational, emo‑

tional element of religious experience and person‑

al holiness within the family;.‑ It exercised its pervasive influence mainly by creating a strong sense of family and of self‑discipline. The Evangel‑

ical watchwords of "duty and "earnestness ap‑

peared in the writings of professed Victorian ag‑

nostics and of working‑class radicals as well as in the sermons of Evangelical ministers. (4.217 b)

福音主義は家父長を中心とする家族単位において聖書を 輪読することにより、ヴィクトリア朝社会に浸透して いった。その指導的原理は「義務感」や「勤勉さ」と いった情緒面に重きが置かれていた。

福音主義が家の内部から社会に働きかけたのに対し、

功利主義は逆に社会から家の内部へと圧力をかけ続けた。

同辞典では功利主義について、こう説明している。

Utilitarianism posited self‑interest, explainable on the basis of an egoistic psychology of pleasure and pain, as the governing impulse in human be‑

havior. Its exponents were committed to the possi‑

bility of improving man s estate through rational education of individual egoism and political and legal reform of existing social structures. (4.218 a)

理性的に最大多数の最大幸福を実現することが、功利主

義の指導原理であった。ただ、その幸福実現への関心が 人間の物質的かつ外面的生活の向上にのみ向けられてい たことは指摘されてよいであろう。

さて、ジョージ・エリオット(GeorgeEliot)の『フ ロス河の水車小屋』 (The Mill on the Floss, 1860)は、

この二つの概念のぶつかり合いに沿ってプロットが展開 しているように恩われる。本稿ではヒロインであるマ ギー(Maggie Tulliver)の人間的成長に焦点を当てつ つ、彼女の葛藤と成長の裏側に福音主義と功利f̲義のせ めぎ合いの側面があることを論じたい。併せて、彼女の 成長が情緒的に自己を解放することによって実現された 面にも言及したい。

I.マギーの自尊心の維持と愛されたい欲求

子供時代のマギーには、二つの衝動がたぎっていたよ うに思われる。それは自尊心を維持して自我世界を確立 することと、愛への欲求を通じて己を他者世界に開くこ

とに縮約されよう。マギーは手に負えないほど気の強い、

きかん坊の娘であった。母親がせっかく彼女の髪の毛に カールをかけてくれても、その見栄えが気に入らなけれ ば、わざと頑を水に漬け髪型を台無しにしてしまうので あった。あたかも復讐心に満ちているかのように、勝手 に髪にカ‑ルをかけさせないぞとわめき立てる少女で

>3Bm

マギーには、怒られたときに逃げ込める慰安所があっ た。それは大きな水車小屋の屋根裏部屋であった。その お気に入りの逃避場所において、彼女は思う存分にある 呪物に折鑑をすることができたのである。暗い部屋の中 でマギーは一人で、木製の「呪物」 "the Fetish" (79) たる人形の頑に釘を打ち込んで楽しむのであった。これ は身代りの苦悩を人形に負わせようとしている行為に患 える。こういう行為によって、マギーは大変に気の強い

(3)

ilm 門 田

少女であるばかりでなく、極めて他罰的な少女であるこ とがわかると思う。

マギーが人形いじめをする行為の描写は、旧約聖書の 中の事件に範を取っている。つまり、土師記(Judges) の4章21節に出てくるケ二人(the Kenite)のへベル (Heber)の妻ヤエル Gael)が、カナン(Canaan)の 王ヤビン(Jabin)の軍隊の指揮をしていたシセラ (Sisera)を殺害する場面がモデルとなっているのであ る。へベルはイスラエル人のモーゼ(Moses)の血を引 く子孫である。そして、カナンのシセラはイスラエル人 を迫害する部族に属するのである。シセラはイスラエル 人を迫害するので、神が彼と彼の軍勢を懲らしめる。シ セラはイスラエル人との戦いから逃れてヤエルのテント にやって来るが、ヤエルは彼を編してテントに休ませて やる。しかしながら、怨念に満ちたヤエルは彼のこめか みにテントを設営する時に使う杭を打ち込んで殺してし まうのである。このようにである。

But Jael, Hevers wife, took a tent peg and a ham一

mer in her hands, approached him [Sisera] soft‑

ly, and drove the peg into his temple, to that it pierced through into the ground, and he died without awakening from his deep sleep. (Judges

4:21)

エリオットは聖書的奥行きをもって、マギーの恨みの強 さを表しているのである。

その人形にマギーは、いわゆる「身代りの苦悩」 "vi‑

carious suffering" (79)を負わせるのである。その打 ち込まれた3本の釘は過去9年間にわたる彼女の多くの 苦悩の代弁をしていた。最後の釘が一番強く打ち込まれ ていたのだが、それはマギーの大嫌いなグレッグ叔母 (Aunt Glegg)への恨みの念を表していたのだ。さて、

ここでマギーはある奇妙な心理的動きを示す。彼女は人 形の頑に釘を打ち込んだことを後悔し、それ以来人形い じめをやめてしまうのだ。人形いじめをやめる理由づけ には、明らかに自己矛盾が認められる。というのは二つ ある理由の中で、一方はあくまで加虐的であるのに対し、

他方は内面の癒しを求めるものであるからだ。マギーは あまりにもたくさんの釘を人形の頑に打ち込んでしまっ たので、それ以後その頑を壁にぶつけて味わう快楽を享 受できなくなるのではと後悔する。その一方で、自分の 怒りが治まった時にその人形に湿布を当てるふりをする 喜びが半減してしまうのではと心配するのである。なん のことはない。彼女は人形をいじめては、いじめた後で 痛かったでしょうと人形を癒してやるふりをしていただ けなのである。その"to comfort it [her doll], and

make believe to poultice it when her fury was

abated" (79)という所作は、自分の苦しみをフェティ シュを通じて表し、かっ癒しの行為を演出する意味が

あったのである。その後、マギーは人形の頑を水車小屋 の屋根を支える2本の四角い柱の役目をしている煉瓦の 煙突に擦りつけたり、あるいはぶっけたりして自分の心

の癒しを得るのである。

とすると、人形をいじめかつ癒す行為は、実は自分自 身を癒してもらいたい、かつ愛してもらいたいという願 望の外在化に過ぎないのではないだろうか。マギーは人 形を傷っけることによって、虐げられた自分を再現して

いたのである。マギーはただ単に人形に八つ当りしてい たわけではない。彼女は虐げられた自分を人形として客 体化していたのである。さらに寂しくも、客体化された 自分に想像上の湿布を当てることによって、誰かに癒さ れるという願望を満足させていたのである。

愛されたいという願望は、マギーの父親との関係にも 認められる。彼女は小さい頃から父親が大好きであった。

彼女はいっだって自分が災難に陥ったときには、必ず父 親が救いに来てくれるはずだと信じていた。後に詳しく 論じるように、彼女は家出してジプシー集団に同化しよ うと試みたO しかし自分のジプシーたちに対するイメー ジは誤りだと気づき、彼女は彼らのコミュニティから逃 げ出そうとするのである。そのとき、彼女は父親がナイ トの如く馬に乗って助けに来てくれるはずだという、半 ば確信に近い願望をもつのである。

しかし、マギーの家庭は十分な愛に満ちた場所ではな かった。父親は近隣のウェイケム家(theWakems)と の水車小屋を巡る訴訟事件で敗訴して、家父長としての 権利を喪失し、ただの勝抜け同然になってしまう。母親 はもともとドドスン家(theDodsons)という硬い規範 的な家系の出であり、マギーとはしっくりいっていな かった。権威主義的なグレッグ叔母や陰気なプレット叔 母(Aunt Pullet)などに愛情を期待することは、もっ てのほかである。そうすると、マギーにとって唯一家族 としての温かみをもたらしてくれる存在は兄のトム (Tom)しかいないのである。

マギーが人形に対する所行で伝えているメッセージは、

家族という愛情によってつながれた集団に帰還したいと いう願望である。家族としての秤はトムが握っている。

マギーが家を追われた後、タリバー家に戻れるかどうか はひとえに兄の意向にかかってくることを思い出そう。

トムとの和解は家族愛を取り戻す行為に他ならない。ト ムとの和解を中心としたマギーの共同体への帰属感の獲 得は、トム一夕リバー家(家族集団)一ドルコート・ミ ルの近隣集団という順番に拡大していくであろう。つま り、宗教的指導原理を除けば、これは福音主義の影響力 伝播の図式そのものなのだ。家庭から追放されたマギー が真撃な愛を求めて明確に福音主義運動に加わるきっか けが、彼女の幼い時代に既に芽生えていたのである。と もあれ、人形の折艦にまつわるマギーの心理は、彼女が

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家族的な愛に飢えていることを表していると確認すべき であろう。

ところで、 『フロス河の水車小屋』における風景には、

どんな意味が充填されているのであろうか。フロス河や、

その回りの自然や人物たちの描写には一定の意図が込め られている。この共同体にこめられた意味とは、それが 一種のモラル空間であるということに行き着くと思う。

その世界に、畢責、マギーとトムが帰って行くのである。

イギリス中部のトレント河(the Trent)がモデルと なって、フロス河が描かれている。厳密に言って、ドル コート・ミルはフロス河の川端にはなく、その支流にあ るリップル河(theRipple)の河畔に立っている。その わけもあって、エリオットはこの作品に地名をつけず、

最初はSister Maggieとしたのである。それを現在のタ イトルにしたのは、出版者のブラックウッド(John Blackwood)の勧めによる(Mudge xxviii‑xxx)c だ から、 『フロス河の水車小屋』といっても、ヒロインの マギーの姿が色濃く投影されていて当然なのである。た だし、ドルコート・ミルはフロス河の‑支流リップル河 の岸辺にあるため、エリオットはタイトル変更には多少 の異議を感じたようではある。

さて、タイトルはともかくとして、ドルコート・ミル の辺りの風景はどんな意味をもつのであろうか。リップ ル河は語り手に対して慈しむような声でさらさらと語り かけている。これは風景が(1)擬人化されていること、

さらに(2)それが語り手の過去という時間の相と切っ ても切れない関係にあることを示している。風景は語り 手の思い出と深くつながっている。これはもちろん、

『フロス河の水車小屋』にエリオットの自伝的要素が込 められていることの反映でもある。

水車小屋の回りの風景には、包み込むような優しさが 満ちている。 「湿り気」 "moistness" (54)が惑っている ことも、そのしっとりとした優しさの現れであろう。御 者が荷馬車を進めて行く場面で、馬自身がもっと鞭を揮 いなさい、荷車をもっと進めなさいと示唆していると言 われる。このようにである。

‥. the strong, submissive, meek‑eyed beasts, who,

I fancy, are looking mild reproach at him [the wag‑

goner] from between their blinkers, that he should crack his whip at them in that awful manner, as if they needed that hint! (54)

そして馬は商った水を飲み、また歩み出す。これは、い かにも実直で善良なモラル社会のイメージを伝えている。

次に出ている少女の描写は、おそらく作者エリオット自 身の姿であろう。水車がぐるぐると絶え間なく回って、

水を送り出しているのが彼女の目に映る。あたかも先ほ どの馬の描写と同じように疲れることなく、水車はまる で時を刻むように一定の単調なリズムで水を送っている。

ド・フリース(Ad de Vries)の『イメージ・シンボ ル事典』 {Dictionary of Symbols and Imagery)によれ ば、水車(mill)とは時の象徴でもあり、すべての周期 的運動を表している(321b)。また回転するものという メタファーから見れば、水車とは車輪(wheel)と親近 性をもち、運命や永遠のシンボルともなる(497b)。因

果応報の女神ネメシス(Nemesis)が回転する車輪を携 えて、人の運命を決めることを想起してもいいだろう。

一定のノイズを発しながら回転する水車は、厳しい、働 く人間のイメージを帯びている。水車は甘美ではあるが 厳しさを帯びて描かれている。 「時は真実をためす」

"Time tries truth"という諺があるが、まさに水車でイ メ‑ジされた時は最後にマギーとトムにお互いの真の姿 を示し、少なくとも表面上は和解させることになるのだ。

リップル河の流れる土手は"the banks seemed like home" (93)とあるように、まさにマギーとトムにとっ

て家としてイメージされている。そして、主流フロス河 は普段はまったく何の変化もなく穏やかに流れているけ れども、 「暴瀧濡」 "Eagre"(93)が現れるとあらゆるも のを飲み込んでしまう激流と化す。そうしてみれば、フ ロス河自体も永遠や運命という相を帯びていないだろう か。こういう風景や町の空間的処理がモラル性を帯びて

いることは、マギーとトムの最終的な和解に至る裁きを 与えるのが超自然的な摂理、いわば神の配剤であること を示唆している。フロス河の氾濫が予示されていること は、小説の結末が「機械仕掛けの神」 ideusexma‑

china)的な偶然の産物ではないことを示す効果を挙げ ている。実際、洪水はこの小説の着想時に、最も最初に エリオットと夫ルイス(GeorgeHenryLewes)によっ て考え出されたクライマックスであった (Haight b.

13)。ただ、神の配剤は外部的に物語に働きかけるので はなく、内部的に必然的に起こったものと考えるべきで あろう。後に述べるように、エリオットはセント・オッ

グ(St. Ogg)という水車小屋をめぐる環境の堕落を歴 史的に記述することによって、神不在の状況であっても、

この共同体が罰としての洪水に飲み込まれることをモラ ル的に正当化しているように患える。タリバー兄妹の家 たる岸辺を同心円として、回りの地域全体が運命の懲罰 を受けるのは、モラル的に容認され得るのである。

さて、トムが寄宿学校から帰って来てからの兄妹の交 流で、ますますマギーが愛情に飢えていたことが明らか になってくる。語り手は、自然とは"thedeepcunning

which hides itself under the appearance of open‑

ness" (84‑85)をもつと述べ、われわれが普通予想す るのとまったく違う性質を人間はもち得るのだと言う。

ちょうどそのように、一見性格がきっそうなマギーが本 当は愛に飢えた優しい少女に、柔和そうな少年のトムが 厳しい性格の頑固者になってしまうのである,トムが頑

(5)

142

門 田

間者で瓦解した家族の再編成に消極的であるのに対し、

マギーが感性が豊かで家の情緒的結束を目指しているこ とは押さえておくべきであろう。ここには、やがて決裂

していく二人の間に起こる障碍が予示されていると思う。

それは兄と妹の間を埋めるべきものが感情、センティメ ントであったということである。そしてマギーにはいろ いろな苦労を通して培ったセンティメントがあるのに対 し、トムにはそれがなかったということである。逆に言 えば、トムはセンティメントを否定することによって、

やっとの思いで物理的に水車小屋を再び手に入れたので ある。ただし、それはそこに住まう人間の結束がない

「空っぽの家」であった。

もう少し詳しく、マギーの心理を迫っていこう。彼女 は飼っていた兎に餌をやるのを忘れて、うっかり彼らを 死なせてしまう。そのことでトムは怒り、マギーを楽し みにしていた釣りに連れて行ってやらないと言い出す。

またも、マギーは水車小屋の屋根裏部屋の逃避場所で一 人で嘆く。ここでの彼女の心理は端的に、今後彼女が必 要としていくものを提示している。絶対に下に降りてや

るものかと思った後で、愛への渇仰が"the need of be‑

ing loved, the strongest need in poor Maggie's na‑. I

ture, began to wrestle with her pride, and soon

threwit" (89)というように、彼女の中に起こるのだ。

たわいもない事件かもしれない。しかし、彼女の愛され たいという欲求は今後の彼女の人生全体を決めていく衝 動となるのである。

マギーの葛藤は自尊心と愛への欲求の間で起こる。そ して、自尊心は自我世界に彼女を幽閉し、愛への欲求は 彼女を他者世界に開くのである。語り手は堂々と、愛の 欲求にはどうあっても従わねばならない、ちょうど馬の ように従順にその欲求の蛎は負わねばならないのだと言 う。このことと冒頭の馬が従順に範に従うことを重ね合 わせれば、セント・オッグが非常にモラル性の濃密な空 間であることが理解されるであろう。語り手はまた、老 いるということは自己抑制を学ぶことだと言う。ただし それに付け加え、自己抑制して尊大にも他人と距離を保 つことは、同時にそれだけ多く悲しみを飲み込む行為で もあると言う。このようにである。

We learn to restrain ourselves as we get older.

We keep apart when we have quarrelled, express

ourselves in welトbred phrases, and in this way pre‑

serve a dignified alienation, showing much firm‑

ness on one side, and swallowing much grief on the other. (91)

他者と対立して、彼あるいは彼女から距離を置くにして も、感情の面での嘆きを忘れるなという示唆であろう。

本来の自己を隠して威厳を保っても、他者との距離の悲 しみを忘れればなんにもならないという謂でもあろう。

人が老いても、社会が発展しても、裸の感情は維持され ねばならないという例をェリオットは示しているように 思われる。

マギーは裸の感情を大切にし、父親を中心とした情緒 的集団として家を捉えた。これは福音主義的な家の見方 であろう。これに対し、トムは兎を死なせたマギーを許 せないし、コインを賭けたゲームで負けてもコインを渡 さない友人ボブ(Bob)も許せない。理性的に見れば、

トムは完全に正しい。約束で兎の世話を引き受けた、す なわち広義の契約を交わしたマギーはそれなりの罰を受 けてしかるべきである。トムは兄弟関係や友人関係に既 に契約に基づく社会の概念を持ち込んでいるのだ。最大 限に有効に社会を働かせるために、契約は当然必要であ る。トムは社会を運営するために必要な功利性を幼くし て身につけてしまったのだ。ただし、こうした功利的性 格は後々彼を苦しめ、彼の人間的成長を阻害することは 指摘しておいてよいであろう。

マギーがジプシー集団に加わろうと家出するのは、家 庭内の汚辱を避けるために本来いるべき共同体を離れ、

個我の世界に閉じこもりたかったからである。だから空 間的に広いダンロー共有地(Dunlow Commons)に逃 げ去っても、彼女は心理的には自閉的方向に向かうのだ。

その実、彼女の心の裏側には共同体への愛着が息づいて いる。なぜなら、いっもマギーはお前は髪が強くカール し、まったく女らしくなく、まるでジプシーのようだと 言われ続けてきたからである。だから、彼女は当然ジプ

シーが自分を仲間だと考えてくれると思うであろう。家 を捨てる行為は、本質的には家を求める行為なのである。

彼女はジプシーたちに、このように一緒に暮らそうと言 う。

'I'm come from home, because Im unhappy, and I mean to be a gypsy. I'll live with you, if you like, and I can teach you a great many things.'(173) 彼女は、ジプシーたちなら自分を優しく受け容れてくれ るだろうと夢想する。幼い彼女の想像力では、ジプシー 集団は愛に満ちた高貴な人々なのである。家で言われ続 けてきた"half wild" (168)という性格を自分と共有す る人々と暮らしてみたい、そして愛されたいという欲求 が家出の動機の裏側にあったことは間違いないであろう。

しかも、ジプシーという概念は彼女の内面にだけある ものである。彼女はジプシーの実態がわかったとき、そ んなはずはないと惜然とする。マギーはジプシーたちの 女王になり、皆と楽しく暮らすのだとさえ考えていた。

彼女はジプシーたちの中に友人を見つけようとさえして いたのだ。要するに社会的規則から切り離された自我世 界に憧れっっも、彼女自身の真なる自分の欲求である共 同体への帰属を求めていたのが、家出の本質であったの だ。ちょうど『サイラス・マーナ‑』 (Silas Marner,

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1861)の中で、サイラス、が精神的荒野たるラヴィロー (Raveloe)で同胞意識を住民たちと確立したように、

マギーも一度は人間不信に陥ってリップル河水域を離れ た実際の荒野に出なくてはならない。またもっと大きな 流れで見れば、二人の男との恋愛の失敗のためにトムの 逆鱗に触れたマギーは、一度は水車小屋を出て行かねば ならない。そこからトムと和解するという動きに至る小 説の流れは、 『サイラス・マ‑ナー』と同じく家族的同 胞愛の獲得を目指しているのである。

それはともかく、ジプシー集団はマギーが帰属したく なるような共同体ではなかった。マギーがジプシーに求 めたのは真筆な同胞愛であったが、逆にジプシーが彼女 に求めたのは銀の指貫を始めとする金目のものだけで あった。彼女がこんな放浪集団の女王になるのは、まっ たく考えられないことであった。彼女はジプシーたちを 捜しながらも、逆に彼らから逃げ出してしまう。 『フロ ス河の水車小屋』において、逃避と帰属とはキー・ター ムとなるであろう。マギーは自分に対する近代的社会生 活の罵買雑言から逃れるために、ジプシー集団に加わろ うとした。そしてこの後でセント・オッグへの、つまり 文明生活への批判がくることはエリオットの戦略の一環 であろう。つまり、マギーを追い出してしまうセント・

オッグ自体にも欠陥があったと言えるのである。マギー にはあり余るほどの愛情があった。その彼女の愛情の発 露は身体障害者フィリップ(Philip Wakem)への対応、

没落した父親への慰め、母親の肩代りをしようとする努 力などに見て取れるであろう。エリオット自身が世俗的 宗教に別れを告げたことからもわかるように、彼女の宗 教的信念は慣習の上にではなく、真筆な心情主義を基礎 として成り立っていた。それがシュトラウス(David Friedrich Strauss)の『イエスの生涯』 (The Life of Jesus Critically Examined, 1835)の英訳などの仕事に 結びっくのであろう。シュトラウスは超自然的に人間生 活に介入する神の存在を信じ得ず、大学教授職を諦めて までイエスの人間性を明かそうとしたのだ(Hodgson xv‑xvi)。とすると、誠の心情にこそ宗教的基礎があり、

セント・オッグ的な、つまり大方のヴィクトリア朝的な 因習的宗教生活は本来のキリスト教思想に反するものと なる。マギーの行動と世俗的キリスト教批判はエリオッ

トの中では連動している描写なのである。

セント・オッグは、最初は宗教的に堅固な町として描 かれている。確かに"a town which carries the traces

of its long growth and history, like a millennial

tree" (181)というように、この町は千年も生き続けた 樹木として比喰されている。それは古めかしい田園的美 徳を保ち、ローマ時代からの遺跡の重みをもった共同体 であった。それは忘れられた過去と確かにつながった町 であった。住民たちはたとえ異教時代の名残であろうと

も、漬神的にそれらを引き倒すことはしなかった。そし てセント・オッグというこの町の創設者である聖人に捧 げられた、もともとの礼拝堂の名残である壁の一部分は 教区教会の鐘突き台として残っているのである。最初は、

この町を古い伝統が生き残った場所として捉えて差し支 えないだろう。この町の創設者はオッグ(Oggtheson of Beorl)という渡守りで、嵐の晩に貧しい子持ち女を 危険を顧みず渡してやり、後に聖人に列せられる人物で ある。その女は聖女であって、オッグを祝福し、彼の船 の今後の安全を保証してやる。そしてその船を祝福した 者はその徳によって、この町を洪水が襲ったときには救 われるであろうと、彼女は言う。そうしてみれば、この オッグの船はノアの箱船の比職で語られていることは明 確である。そして後に洪水が起こったときには、この船 の地先に聖母マリアが立っているのが見え、多くの船乗

りたちが安堵したのである。

こういう伝説があるにも拘わらず、セント・オッグは 次第に歴史的に下降線を辿る。この町では内乱の時代に、

清教徒側も王党派側も自らの宗教的信条に従って死を選 び、あるいは追放されもした。こういう固い秩序空間と してこの共同体を捉えることは可能である。ところが、

こうした秩序空間としてのセント・オッグは次第に分裂 と堕落を始める。これはヴィクトリア朝社会が抱えてい た問題の噴出であると言ってよい。まずは、新しい町と 古い町の対立が起こってきた。グレッグ夫人の古き良き 時代は遥か遠くに去ってしまい、安定してはいるが、活 力のない時代がやってくる。人々が信仰によって大きく 生活を左右される時代は既になくなってしまった。伝導 師たちは人々の心を揺り動かす必要を感じなくなったし、

たまに非国教徒の演壇で熱狂的演説が行なわれることは あったが、大した反響は呼ばなかった。人々は変化とは 縁を切ってしまい、妙に安定した社会がやってきた。ま

た、プロテスタントたちも安全さの中に居座って、分裂 や改宗を意に介することはなくなった。これらは、とり も直さずヴィクトリア朝の社会状態を反映していると 言ってよいであろう。

国教会主義者は非国教会主義者を軽蔑視するが、仮に 相手が景気の良い卸商でもしているならば、その相手は 除外して考え、概ね宗派の違いは軽視していた。カト

リック教徒に選挙権を認めるかどうかという問題は、細 かな議論によって宗教的には地獄に落ちる連中でも政治 的には選挙権を与えるべLという、理解に苦しむような 議論を張る弁士も出てきた。一般にセント・オッグには 公共心の無さがはびこり、政治的無関心と宗教心の欠如 が当り前のことになってしまった。この町では宗教とい

う精神的支柱が失われてしまったのである。

言い換えれば、旧来の宗教によっては、セント・オッ グ、すなわち典型的なヴィクトリア朝社会は救えないと

(7)

144

n tu

いうことになるのである。エリオットは既成宗教には荷 担していないし、福音主義派に直接的に加わることはな かった。エリオットが受けた福音主義の教育について、

‑イト(Gordon Haight)は彼女の教師であったミス・

ルイス(MissMariaLewis)との関連でこう言っている。

Miss Lewis's religion was mild and sentimen‑

tal, emphasizing love and salvation rather than hell fire. She read her Bible constantly and taught its moral examples to her pupils; she visited the sick, comforted the mourner, and embroidered slip‑

pers for the curate. The Evangelicalism she incul‑

cated in Mary Anne was a gentle benevolence, more like the teaching of the early Wesleyans than the harshness of Amos Barton, who talked of nothing but sin and the need of an unobtain‑

able mercy, (a. 18‑19)

総じてエリオットの受けた福音主義教育は、マギーがセ ント・オッグで実践した福祉活動に合致している。すな わちこの小説においては、宗教的教義としてよりも実践 的内容として福音主義が捉えられていると考えてよいで あろう。またジェイ(ElisabethJay)は、福音主義を

"a wide range of doctrinal positions and attitudes to church government, embraced variously by An‑

glicans and Methodists" (16)として捉え、宗教的教 義としての幅広さを認めている。福音主義は家庭を信仰

の単位として考え、家族単位でまとまって聖書を読み合 い、信仰の砦とする恩想であった。そうしてみれば、マ ギーの示している家族への、また兄への愛情の欲求は宗 教的代替物としての、精神的支柱の追求であろう。セン ト・オッグの状態を措くことは、ヴィクトリア朝社会の 世俗主義を批判することでもあった。そのスタンスは思 想としての福音主義に依拠しっっ、家族愛を讃美する姿 勢につながるのである。

Ⅱ.対立する性格の兄妹

マギーとトムの対立する性格について、その詳細を 迫っていこう。まず、この兄妹の交流の中で、ラテン語 の学習はどのような意味をもっているのだろうか。ラテ ン語をどうしても学びたいと言うマギーに、エリオット は非常に巧みに彼女の心情を描き込んでいるように思え る。それには二つの大きな要素がある。最初のものは簡 単である。つまり、マギーがラテン語を習うのはトムと 共通の関心をもちたいからである。そこにはトムがラテ ン語は女が習えるものではないという主張に対する反発 心もあったかもしれない。確かにマギーは非常に気が強 い女であった。マギーにはルーシー(Lucy)という従 姉妹がいる。マギーはルーシーがトムの気に入って、自

分よりも彼女が彼に可愛がられるのに腹を立て、彼女を 泥水の中にたたき込んでしまう。ルーシーは散々な目に 通って帰って来るだが、こういう事件は逆に見れば、マ ギーの愛情への真筆な欲求の強さを表しているとも言え る。マギーはトムとの交流の機会をラテン語学習に求め、

ラテン語の高い学習能力を示すことで、彼に一目置いて もらいたかったのだ。

もう一つは、マギーがラテン語を学ぶ際に、その学習 を逃避の場として用いているのではないだろうかという 点である。マギーはどこか知らないところへ行きたい憧 れをラテン語学習に抱いていた。彼女が好んだ文章は、

このようなものであった。

These mysterious sentences snatched from an un‑

known context, ‑like strange horns of beasts and leaves of unknown plants, brought from some far‑

off region, gave boundless scope to her imagina‑

tion, and were all the more fascinating because they were in a peculiar tongue of their own, which she could learn to interpret. (217)

ラテン語はそのエグゾティシズムにより、彼女に想像力 を働かせて現実から逃避する場を与えた。さらに、マ ギーは断片的な例文はど好きだったとも言われる。遠方 へという衝動に、現実から逃れたい気持ちがマギーにあ ることが表されている。また、断片性を好むことはマ ギーの内部にある他者との関係性からの逃避願望を表し ているのではないだろうか。何の辻榛もない、バラバラ の文章を好んだのは、彼女自身の内的状態と微妙に適合 する。とすれば、ラテン語とはマギーにとっての逃避の 場であって、ラテン語学習の際にも、彼女は家出事件の

ときと同じ心理状態にあったことがわかると思う。

エリオットがこのように逃避する人間を措き、その人 物に懲罰を与えて更生させようとしたことの裏側には、

オースティン(Jane Austen)的な、健全な倫理観が あった。彼らはイギリス小説の分野でも、堅実な倫理主 義に則って書いた作家たちである。マギーが懲罰を受け るように、オースティンの作品でもヒロインたちは似た ような苦難を与えられる。その例は『ノーサンガ‑僧 院』 (NorthangerAbbey, 1818)のキャサリン(Catherine Morland)がゴシック趣味に魅せられて、タイトルと同 名の僧院に入り、その蒙昧さを恋人のヘンリー(Henry Tilney)に非難される場面に明瞭である。キャサリンは 現実に目覚めて、へンリ‑と結ばれるのである。 『分別 と多感』 (Sense and Sensibility, 1811)ではロマンテッ クな恋愛に憧れるメアリアン(Marianne Dashwood) はウィロビー(Willoughby)というプレイボーイに偏 されて、家から出てロンドンで痛い目に遭う。メアリア ンは病気から回復して、プランドン大佐(Colonel Brandon)という堅実な相手と結ばれる。これもパ

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ニッシュメントを通して、人間が再生するテーマである。

エリオットも同じ倫理的地平に立っ作家であるが、オー スティンには寄って立っべき18世紀から継承された、

古いモラル・コードがあった。オースティン自身も中上 流階級の狭い社会的階層にのみ、小説の舞台を求めたの である。彼女の小説では世襲制のジェントリー層がしっ かりとした基盤を保ち、恋人関係でも家族関係でも父権 的構造が一般的に堅固であった。そういうモラル・コー ドが家の内・外に張り巡らされて、倫理とは客観的に承 認され得るものであったのである。

ところが、 19世紀ヴィクトリア朝の盛りのエリオッ トにとって、そういう客観的なモラル・コードが決めら れにくかったのである。オースティンには感情と理性の 調和ある、社会的に承認されたバランス感覚に人間のコ ングクトの基準があったのであるが、どうやらエリオッ トにはそれがない。エリオットは階級の壁、経済的格差 の壁を通り抜けて万人をまとめる基準を「感情の真筆 さ」に求めたのである。そして「感情の真筆さや正し さ」はどこにあるかと言えば、それは「もって生まれた 愛情」にしか求め得ないのである。エリオットにとって のセンティメントは、自分が昔からもっている「過去に おいて育まれた感情」にしかないのである。ラテン語学 習の場面の後で、語り手が"There is no sense of ease

like the ease we felt in those scenes where we were

born…" (222)と言うとき、人間の過去の体験にこそ ヴィクトリア朝のモラル・コードが求められているので ある。

語り手は、生まれ育った場所では外在物は自分の身体 の延長のように思われ、平凡で醜いかもしれない物でも 温かみに満ちている、と言う。エリオットが頻繁に過去 の体験に拘るのは、 『フロス河の水車小屋』自体が彼女 にとって自伝的要素のある作品であることも関係してい るであろう。たとえばボーデン‑イマー(Rosemarie Bodenheimer)は、マギーを"George Eliot's most overtly autobiographical heroine" (102)と呼んでい

る。トムにしても、エリオット自身の兄アイザック (Isaac)の姿を帯びている。語り手は、古い過去への愛 着が宗教的精神の源泉になるのだとも説く。過去への憧 れを支えるのは子供の頃からの愛情の体験である。末だ 汚れない頃に味わったいわば「原」体験とも言うべき素 朴な人間愛が道徳性や宗教的観念の源泉であると、語り 手は言いたいのである。経済重視のヴィクトリア朝にお ける人間のモラル性の秤を、エリオットは過去における 純粋な愛情の体験に求めているように思われる。ロマン 派の時代が「変革の時代」であるならば、 19世紀ヴィ クトリア朝の時代は「発展の時代」と言ってよいであろ う。進化論恩想がバックボーンにあったヴィクトリア朝 社会では、時の経過に応じて人間は進化するのだという

考え方が受け容れられていた。ちょうどワ‑ズワス (William Wordsworth)が言ったように「子供は大人 の父親」なのであって、幼児期の体験といった「過去」

が「未来」の人間の在りようを規定していくのである。

エリオットは非常に人間臭く、 「他者への思いやり」に マギーの道徳性の起源を見ている。マギーが困った時に 頼るのは家族愛であるし、また身障者フィリップを思い やるのも、子供の頃の孤立の体験を彼に被せて見ている からに他ならない。要するに、彼女は「他者への思いや

り」の意識から、彼を愛するようになるのである。また、

彼女自身のセクシュアリティの発露が見られるスティー ブン(StephenGuest)というルーシーの婚約者への大 人の愛は、最終的には捨てられることになる。マギーは 自分が本来大好きなスティーヴンを自分の過去の人間た ちとの関わりを切りたくない、すなわち自分を「過去」

との幹から切り離したくないと患うからこそ諦めるので ある。それは自分の幸福のためには、 「他者への思いや り」を無駄にしたくはない、すなわち「他人の苦悩」の 上に安住して幸せを味わいたくないと思うからであろう。

このように、 『フロス河の水車小屋』では「過去の記憶」

は義務や道徳の源泉となるのである。

マギーのフィリップへの愛情は何に基づいているので あろうか。マギーはトムとは正反対の態度を彼に示す。

トムは背中の曲がったフィリップをただ単に気持ち悪く 思い、すなわち何ら情緒性の深みをもたずに、表層的な 好き嫌いのレベルで反応するだけである。フィリップも トムがあまり好きではない。フィリップはその曲がった 背中の体つきと平行して、歪んだ人間性の少年になって しまっている。彼の気難しい感受性の突然の噴出は、い らいらしやすい、間欠的に経巡ってくる神経質な性格の せいでもあった。しかし、こんな歪んだフィリップに、

不思議とマギーは愛情を寄せている。その理由は、マ ギーが小さい頃から愛情の演出の模範行為を積んできた からだと思われる。彼女の例の屋根裏部屋での、人形虐 めと癒しの演出行為である。マギーは自分によって可愛 がられたら嬉しいと患うものを可愛がることをたいそう 好んだのである。彼女はトムが好きであったが、たびた びもっと自分に愛されることを望んで欲しいと思ってい た。これはマギー白身が愛情に飢えていたこと、つまり 自分もこのように愛されたいと思っていたことを明かし ている。フィリップに対しては、彼が自分と同様におそ らく愛情に飢えているのであろうとマギーは感じ取った のであろう。つまり、 13歳ばかりのマギーは過去の体 験から、愛情の交流の表現方法を学んでいたのである。

これは、マギーによるセンティメントの学習過程と言っ てもよいであろう。

フィリップは慈善心から、愛情をマギーに返すように なる。彼はまた、彼女が満たされない知性への渇望をた

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門 tij

ざらせ、同時に愛惜をかけてもらいたいと願っているこ とを悟る。彼は彼女が小さくて、可愛くて、しかもまる で王女が魔法によって小さな動物に姿を変えられてし まったかのような印象を受ける。つまりマギーは最初か らトムが好きであったのに、トムはその愛情に応えてく れなかったのである。だから、フィリップは最初はマ ギーの欲求を兄の代理であるかのように満たしてやろう とするのだ。ここにあるのは慈善の意識であり、相手を わがものとせずにはおられない欲望の嵐ではない。いず れは、それがいっしか本物の恋愛意識に発展していくの ではあるが。

マギーもできるだけフィリップの身体障害には触れな いようにして、できれば本当の兄になって欲しいとさえ 言う。このようにである。

'I wish you were my brother. Im very fond of you.

And you would stay at home with me when Tom went out, and you would teach me everything‑

wouldn't you? Greek and everything?'(260) トムがラテン語なら、フィリップにはギリシア語という 具合に、マギーには満たされない知的欲求があった。し かし依然としてマギーはトムを愛しているので、トムが フィリップを嫌いである限り、マギーとフィリップとの 関係は進展してはいけない。また、トムは足を怪我した 折りに一時的にフィリップと親密になりはしたが、やは りフィリップは気に入らない人間でしかなかった。まず はフィリップとマギーは慈善の意識で関係を深めるが、

彼女の兄のトムが彼らの愛情の発展の障碍になっている ことを確認しておこう。そしてもしトムに深いセンティ メントがあり、また慈善的心理の持ち主であったならば、

まだドルコート・ミルに関する裁判沙汰が起こっていな いこの段階でなら、彼は妹とフィリップの関係を歓迎し たであろうことは想像できると恩うのである。とすると、

マギーの成長の障碍になっているのは実はトムのフィ リップを受け容れない人間的頑なさや、友人の歪んだ身 体を嫌悪する表層的人間観や、情愛をもって隣人に接し 得ない理性的態度であったと思われるのである。

Ⅲ.福音主義と功利主義、そしてヴィクトリア朝 批判

タリバー家の破産とそれにまつわる父親タリバー氏の 零落ぶりへのマギーとトムの対応から、どんなことが言 えるであろうか。マギーは‑‑トに基礎を置く福音主義 的態度を取るが、トムは一般に功利的態度、かつ社会的 面子を萌んじる公共的な態度を取ることに終始すると思 う。トムとフィリップは仲違いを起こしている。気性の 違いもさることながら、彼らの間を裂いたのはタリバー 家とウェイケム家の間でドルコート・ミルをめぐって訴 訟事件が持ち上がっているからである。当然に、好むと

好まざるに拘らず、マギーとフィリップの問も疎遠にな る。すなわち"The Golden Gates Are Passed"という 章のタイトルに現れているように、ここで彼らの幼年時 代の祝福された時代は終わりを告げると考えて差し支え ないであろう。

幼いマギーの顔つきにはいろいろ悩んだ後の結果であ ろうか、どことなく大人ぶった様子が窺われた。その大 きな原因は水車小屋の水脈をめぐる裁判であり、とうと うこの裁判に父親タリバー氏は負けてしまう。もともと 相手方のウェイケム氏が弁護士であることから推して、

裁判が不利なことはわかりきっていた。

その裁判をめぐるいざこざについて見る前に、マギー とトムの人間性をおそらく包摂するような、ヴィクトリ ア朝の時代精神の二つの型について振り返っておきたい。

まず一つ目の福音主義とは、家族を基礎単位として宗 教的教育を施し、 ‑ートや情愛によって個々の家族成員 を結び付けるものであった。その際に社会の安定や宗教 的博愛精神はまずは家庭の内部から始まるものであった。

マギーのこれまでの態度からもわかるように、彼女は‑

賞して家族‑の帰属と離反を繰り返していた。屋根裏部 屋での愛情に飢えてはいるが、それを素直に表現してト ムを中心としたタリバー家の家族に打ち解けられないこ とがその一つである。また家を出て、ジプシー連中の一 団に加わりたいと思っているが、いざとなると父親に助 けを求めてしまうことなどは、家族からの離反と和合を 繰り返すマギーの態度のその一例である。マギーは徐々 に家族的価値に目覚め、福音主義的態度を受け容れるよ うになるのである。

もう一つのヴィクトリア朝の主導概念は功利主義で あった。功利主義は‑ートよりも理性、主に経済的功利 性を特徴としている。またそれらの思想の浸透のあり方

については、このようである。

Characteristically, whereas Evangelical influence originated in the family and spread from the home into Victorian society, the utilitarian influ‑

ence was exercised primarily in the discussion of public affairs in public debate and spread thence into the Victorian home. (Wiener 4.220 a)

福音主義は家族を単位として、内側から人間の内面の問 題の解決を図る宗教的な概念であった。 『フロス河の水 車小屋』の文脈で言えば、マギーはまさしく家族的情愛 こそ何物にも代え難いものであると考えていた。このこ とから推して、マギーの福音主義的姿勢は明白であろう。

これに対して、功利主義はまずは公共的・社会的問題の 解決あるいは調停の目的から、ヴィクトリア朝のイギリ

スの家庭に浸透していった。それはそもそも、外側から 家庭に入っていった概念なのである。ベンサム(Jeremy Bentham)は、功利主義者をこう定義する。

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A man may be said to be a partisan of the principle of utility, when the approbation or dis‑

approbation he annexes to any action, or to any measure, is determined by and proportioned to the tendency which he conceives it to have to aug‑

ment or to diminish the happiness of the commu‑

nity… (67)

共同体の利益を最大限に考慮する人間が、功利主義者の 謂なのである。とすると、 『フロス河の水車小屋』では トムの常々、社会の中での家の在り方を重んじる態度は、

この功利主義的態度を反映していると考えてよいと思わ れる。さらに、トムがウェイケム家に対する借金を返す という経済行為にのみ人生の‑大目標を設定することな どは、彼がこの功利的人生観の影響下にある人間である と考えてよいことの裏付けになっている。また、タリ バー家とウェイケム家の裁判自体が社会的調停行為で あったことも思い起こしてよいであろう。いわば、トム はクリバ‑家の幸福のための外面的条件整備にのみ、あ くせくと精出しているのである。マギーはちょうどその 逆に、家族の内面的満足のいく生活にこそ重きを置いて いるのである。このように彼ら兄妹の背後にはヴィクト リア朝の思想的背景があるわけで、ベルリンガー(Alan W. Bellringer)の言うように、単に両者の性格を合一 させれば完全な人格ができあがるわけではない(54)。

さて、タリバー家とウェイケム家を巡る裁判とはこの ようなものである。

The particular embodiment of the evil pnnci‑

pie now exciting Mr Tulliver's determined resist‑

ance was Mr Pivart, who, having lands higher up the Ripple, was taking measures for their irriga‑

tion which either were or would be or were bound to be (on the principle that water was water) an infringement on Mr Tulhver's legitimate share or waterpower. (313)

もともとタリバー氏の宿敵はウェイケム氏ではなく、ピ バート氏というリップル河上流の地主なのである。ウェ イケム氏はいわば、地主の手先の弁護士に過ぎないので ある。悪の手先の弁護士に、ただ単に苦からよく知って いるという理由で、夕リバー氏は突っかかっていくだけ なのである。

さて、その裁判に負けて以来のタリバー氏の子供たち の反応は、やはり違うのである。よく見れば、トムには 幾分楽観的な面、さらには鼻持ちならない家系に関する 自尊心があった。まさか、父親が不名誉を被ろうなどと は考えたことがなかった。少し、彼の性格について見て みよう。

Tom had never dreamed that his father would

̀fail:' that was a form of misfortune which he

had always heard spoken of as a deep disgrace, an disgrace was an idea that he could not associ‑

ate with any of his relations, least of all with his father. A proud sense of family respectability was part of the very air Tom had been born and brought up in. (267)

自尊心が人一倍に強いトムは、まかり間違っても自分の 家にだけは不名誉な事件は起こり得ないと思っていた。

確かに、トムは父親こそ誇り高き人間だと崇め立ててい る。ただし、裁判に負けた父親の気持ちについては、実 際、彼は何も慮ってはいない。そして、トムは案外気の 弱い側面も見せている。 "Tom turned his cheek pas‑

sively to meet her [Maggie's] entreating kisses, and

there gathered a moisture in his eyes, …" (268)と

いう貝合に、トムはマギーに癒しのキスを求め、ホロリ と目に涙を浮かべてしまう。表向きの強い性格には似っ かわしくない、女々しさが露呈しているのである。

トムとマギーは同じく家を大事にするが、微妙に違う のは、その内側から家を見るのか、あるいは外側から家 を見るのかという違いである。トムは確かにちゃんと恩 慮と日制心をもった少年であったが、他人に対する柔和 な側面は薄かった。裁判に負け、次第次第にトムは感受 性の乏しい青年になっていく。また、かなり物語が進ん だ部分で、トムはマギーが家族のために平織り縫いの仕 事を引き受けたり、小金をせっせと貯め込んでいるのを 見て、きっと借金を返して、お前が身を落とさなくても よいようにしてやると言う。確かに、トムの最終的目標 としては家族の安寧なる暮らしを実現することであるが、

彼は金銭を蓄え、タリバー家の社会的対面を保つことに よって、外側から家を支えるのである。その例がある。

̀Id rather not have any employment of that sort, uncle. I dont like Latin and those things. 1 don't know what I could do with them unless I went as usher in a school; and I don't know them well enough for that: besides, I would as soon carry a pair of panniers. I dont want to be that sort of person. I should like to enter into some business where I can get on‑a manly business, where I should have to look after things and get credit for what I did. And I shall want to keep my mother and sister.'(313)

リベラルな教育を受けて、教職に就くなんてことは、ト ムの眼中にはない。トムがもともとはラテン語を学んで いることを自慢していたのは、単なるスノッバリィの魂 れに過ぎない。いまや、彼は荷龍担ぎでもいいから、

手っ取り早く金になり、名誉を獲得できる仕事に就きた いのだ。ラテン語、ギリシア語、歴史等、パブリックス クールを中心とする紳士教育を施せば息子を立派に育て

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門 田

上げられるだろうというタリバー氏の思惑は、見事に外 れてしまった。トムが上のような就職の相談をする ディーン叔父(UncleDeane)は、一介の商人である。

彼は紳士教育とは何の縁もない。ここには、叔父の下で 仕事を覚えて、功利性の側面から家の再興を図るトムの 姿がある。

さて、この腕力ででも功をなし名を遂げる行為は、ま さに功利主義の中核である自助の精神そのものではない であろうか。 『セルフ・ヘルプ』 (Self‑Help withIllustra‑

tions of Conduct and Perseverance, 1866)の中で、ス マイルズ(Samuel Smiles)は真面目に働き成功を収め

る商人に対してこう賛辞を述べる。

Mr. Helps has gone much nearer the truth when he said that consummate men of business are as rare almost as great poets‑rarer, perhaps, than veritable saints and martyrs. Indeed, of no other pursuit can it so emphatically be said, as of this, that "Business makes men." (311)

ヘルプス氏が商人の美徳を称え、語り手が「商売は人を 造る」とまで豪語するとき、その自助の旺盛な精神はト ムのがむしゃらな頑張りと重なってくる。この時代のベ ストセラーであった『セルフ・ヘルプ』に、エリオット が無関心だったとは患えない。彼女はトムの男らしい生 き方に、時代の功利的精神の危険性を感じ取っていたの ではないだろうか。

さて、逆にマギーは‑‑トの側面で家族のためを思っ た。家が破産したことを知ったとき、マギーが真っ先に 訪れたのは父親の許であり、以後彼を介助することをこ そ自分の日課とする。マギーの心配は家庭の再建よりも、

まずは肉親の無事なのである。マギーは父親の世話はも とより、母親を助けて家事をきりもりし始めるのである。

母親はマギーの手が荒れて若さを失うことを恐れて、つ とめて自分が手が荒れる仕事をしようとしている。マ ギーの家族中心主義については、親戚の叔父や叔母への こんな発言に特に明らかであろうと患われる。

̀Why do you [Maggie's relatives] come, then,'

she burst out, ̀talking, and interfering with us and scolding us, if you don't mean to do anything to help my poor mother‑your own sister‑if you've no feeling for her when she's in trouble, and won t part with anything, though you would never miss it, to save her from pain. Keep away from us then, and dont come to find fault with my father‑he was better than any of you‑he was kind‑he would have help you, if you had been in trouble.

Tom and I dont ever want to have any of your money, if you won't help my mother. Wed rath‑

er not have it! we'll do without you.'(296)

これは父親を責めにきて、口だけ達者で何も援助してく れない叔父や叔母たちへの、マギーの怒りの言葉なので ある。普段はあれこれと付き合いがあるのにも拘わらず、

本当に苦境に立った時には助けてくれずに、一族の恥で あると罵る叔父や叔母たちは、マギーにはどうしようも なく腹立たしい存在であった。がむしゃらに家族的な内 部の愛情を尊ぶ点で、マギーには明らかに福音主義的な 行動を示す傾向があったのである。

確かに単純にトムとマギーが兄妹であり、従って男女 の差が家族観の違いに反映されるのだと言うことはでき るだろう。しかし、それだけでは合点がいかない部分が ある。それらは二つの点に要約できる。つまり、(1)な ぜトムはマギーを、まことに彼女を愛していると思われ るフィリップと付き合わせてやらなかったのであろうか。

タリバー家が憎むべきはウェイケム氏ではなく地主のピ バート氏であって、ましてや身障者のフィリップではな いのである。それと(2)マギーは宗教的で教区牧師に も可愛がられ、慈善市に積極的に協力するのに、トムは 父親譲りで宗教心が疎かった。むしろ、マギーの宗教性 が社会的広がりをもつようになるのに対して、兄のそれ はせいぜいが学校での礼拝に留まっているように患える。

こうして見ると、この兄と妹の次第に深まっていく対立 関係は、ヴィクトリア朝社会の功利的傾向と福音主義の 相克ではなかったか。彼らの見かけ上の和解が互いの死 で終わらなければならなかったのは、逆にその二つの思 想の根深い対立関係を表しているのではないかと思われ

る。

さて、エリオットは第4巻「屈辱の谷」("THE VALLEY OF HUMILIATION")において、ロ‑ン河 (The Rhone)流域の風景描写に執劫に拘っている。こ

こでの彼女の姿勢はロマン主義の批判であり、かつヴィ クトリア朝の俗物性への攻撃であると思われる。ローン 河はアルプスのロ‑ン氷河に発し、フランス南東部を流 れて、地中海に注いでいる。その河の両岸の崇高な城郭 には、どこか人の気持ちを高揚させるところがあった。

ロマン派たちがインスピレーションの源とした、他なら ぬアルプスの崇高な風景がそこにはあった。そそり立っ 城郭とは、取りも直さず、孤高のイメージである。ロマ ン主義は内攻性かつ自我中心性を特徴とする。ワーズワ スは自分の経験した感情の高まりを反舞し、それを詩に 写していった。少し時代を下って、シェリー(Percy ByssheShelley)の書くものは暇想の中で捉えられた 精霊や妖精であり、そこには彼の革命思想が織り込まれ

ていった。バイロン(GeorgeGordonNoelByron)に しても、ほとんどの作品が自己言及的であり、詩劇のど の登場人物も何らかの形で彼自身の陰影を帯びている。

ロマン派の基本的戦略として、風景を措くとき、その風 景は否応なく内面描写の性格を帯びてしまうのである。

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エリオットは、自分がロマン派とはまったく違う感性を もっていることを示そうとした。彼女はもっと風景を人 間化して示そうとしたのだ。彼女がアルプスの城郭を好 むのは、そこに純粋な宗教的熱情に燃え、十字軍に参加 し、異教徒の軍隊の前で殉死した王侯のひたむきさを想 像するからである。また、語り手に身を借りたエリオッ

トの視線はロマン派的に外の自然の崇高さには向かわず に、よく見れば"these dead‑tinted, hollow‑eyed, an‑

gular skeletons of villages on the Rhone, oppress

me with the feeling that human life…is a narrow,

ugly, grovelling existence" (362)という発言から明 確なように、ローン河の流域の虐げられた大衆の悲惨な 生活ぶりに向かっているのがわかる。つまり、エリオッ トは風景よりも家の内部の人間たちの生活に拘っている のである。これはロマン派とは違って、家や社会という 人間集団の関係にまず拘るヴィクトリア朝の感性の表明 であると言ってよいと思われる。

その後に続くのは、ごくひとまとめに表現して、それ こそ十字軍のように社会が純粋に宗教的な熱情で突き動 かされるのではなく、ただの因習でのみ動かされるよう になったという社会批判である。語り手の視点はローン 河の流域という直接『フロス河の水車小屋』とは関係の ない遠方から、ヴィクトリア朝の社会風土全般の批判、

セント・オッグの町やリップル河周辺の農村、さらには とりわけドドスン家やタリバー家の精神性やそこからの マギーやトムへの影響へというように移動する。つまり、

遠方あるいは周縁から物語の中心へ向かうという形式で、

社会的堕落がドドスン家やタリバー家に影響を与えてい たことを言おうとしているように思われるのである。

語り手によるヴィクトリア朝社会の堕落への糾弾はさ らに続く。彼女によれば、人々が隣人のために自己犠牲 的につくそうとする崇高な原理や、信念に対してどこま でも忠実であろうとする高貴なヴィジョンはもはやなく なってしまった。社会には因習的な、非宗教的な人間の 群れが溢れるようになった。クリスチャン・クリードは 廃れ、道徳性は弱体化し、さらに人々と大地とのつなが りは希薄になっていく。そしてついには、印象的な記述 として、人間はドドスン家やタリバー家の家族のように

「蟻的な」 "emmet‑like" (363)存在になってしまうの である。ドドスン家の宗教は因習の塊である。彼らは習 慣的に尊いとされているものなら何でも、崇拝の対象と してしまうのだ。ドドスン家は世間体を重視し、空っぽ の習慣を遵守し、かつ誠意ある人間性を見極められない 家族になっていく。語り手はこのようにドドスン家の本 質を喝破する。

The Dodsons were a very proud race, and their pride lay in the utter frustration of all desire to tax them with a breach of traditional duty or pro‑

priety. (364)

習慣や世間体の重視は、一族と見なされ得る親族しか愛 情の対象としない態度に結びついていく。そして、同じ 気風が実はタリバー家にも流れ込んでいた。タリバー氏 もまた狭量であり"the church was one thing and com‑

mon‑sense another, and he wanted nobody to tell him what common‑sense was" (366)とあるように、

彼は自分こそが常識の中心と信じて疑わなかったのであ る。

このように、全部の描写が求心的にヴィクトリア朝の 特定の家庭であるタリバー家の状態へと収赦してくるの である。デンティス(Simon Dentith)は"the habits and values of the Dodsons and Tullivers, the provin‑

cial middle class, operate as a powerful check on the development and growth of Maggie (and indeed Tom) (44)と言う。しかしながら、こうした外部的 影響のネガティブな要素をもろに受けて、タリバー家的 気質を受け継いでいるのはもちろんトムである。彼は家

の社会的体面に特に敏感であり、一族と関係のない連中 にはまるで冷たい。とりわけマギーが一族に相応しくな いことをすれば、彼はきっぱりと妹を捨てるような行為 に出てしまう。こうした彼の行動は、タリバー家の精神 的事情を端的に反映しているのであろう。つまり、トム という硬い殻を被ったような人間性が成立する背景には、

宗教性や道徳性の緩やかな時代的堕落があったのである。

そして、そういうトムの功利性を埋め合わせる人道性の 現れとして、福音主義的なマギーが慈善心に燃えて宗教 的活動を開始するのである。これら二つの人間性は、や はり功利的世俗主義と博愛的福音主義との対立として ヴィクトリア朝という時代を反映しているのである。

Ⅳ.自己放棄の誤りと感情の豊かさの発見

父親の落馬事故をきっかけとして、タリバー家はます ます崩壊の道を辿っていく。その家族の崩壊に対するマ ギーの心の支えは、彼女の内面生活を揺り動かしたトマ ス・ア・ケンビス(Thomas a Kempis)の説教書との 出会いであった。彼はドイツ中世の僧侶であるが、彼の 著書との出会いはマギーをどのように変えていき、まだ どのような問題点をはらんでいるのであろうか。

零落したタリバー氏は無気力になり、ちょうど子供の ようにマギーの世話なくしては暮らせなくなる。しかし いくら彼女が父親の世話をしても、彼はそれに見合う愛 を返してくれることはなかった。 "How she wished he

would stroke her head, or give some sign that he was soothed by the sense that he had a daughter

who loved him!" (371)という言葉に表されているよ うに、マギーは父親を癒すことで逆に自分も癒されたい

参照

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