高丘連河内伝考 : 萬葉集人物伝研究(十)
著者 川上 富吉
雑誌名 大妻女子大学紀要. 文系
巻 49
ページ 1‑14
発行年 2017‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00006413/
大妻女子大学紀要―文系―第四十九号、平成二十九(二〇一七)年三月
高丘連河内伝考
萬葉集人物伝研究(十)
川上富吉
キーワード
萬葉歌人、渡来・帰化、令侍東宮、文章・文雅、大学頭
一 、 はじめに
『萬葉集』巻第六、雑歌部に、
高丘河内連の歌二首故郷 ふるさとは遠 とほくもあらず一 ひと重 へ山 やま越 こゆるがからに思 おもひそ我 あがせし(6一〇三八)我 わが背 せ子 こと二人し居 をれば山高み里には月は照らずともよし(6一〇三九)
とある高丘連河内(もと、樂浪河内)の、出自・系譜・関係人物等の文芸的な伝記考究が小稿の目的である。
二、その氏・姓・名について
高丘連河内(樂浪河内)の出処は、『萬葉集』中、 ①巻第六、目録に、高丘連河内歌二首(本文に、高丘河内連)②巻第十七に、天平十八(七四六)年正月、応詔歌(
左注に、高丘連河内
17
三九二六)と二ヵ所に見え、『続日本紀』に、
③和銅五(七一二)年七月十七日播磨国大目従八位上樂浪河内。④養老五(七二一)年正月二十三日正六位下樂浪河内、令侍東宮。⑤養老五(七二一)年正月二十七日学業に優遊し、師範に堪ふる者として、賞賜の一人、文章の正六位下樂浪河内。⑥神亀元(七二四)年五月十三日正六位下樂浪河内、高丘連を賜氏姓。⑦天平三(七三一)年正月二十七日正六位上高丘連河内、外従五位下。
高丘連河内伝考
⑧ 天平三(七三一)年九月二十七日 外従五位下高丘連河内、右京亮。 ⑨ 天平十三(七四一)年九月十二日 散位外従五位下高岳連河内、京都の宅地班給。 ⑩ 天平十四(七四二)年八月十一日 造宮輔外従五位下高岡連河内、造離宮司。 ⑪ 天平十七(七四五)年正月七日 外従五位下高丘連河内、外従五位上。 ⑫ 天平十八(七四六)年五月七日 外従五位上高丘連河内、従五位下。 ⑬ 天平十八(七四六)年九月二十日 従五位下高丘連河内、伯耆守。 ⑭ 天平勝宝三(七五一)年正月二十五日 従五位下高丘連河内、従五位上。 ⑮ 天平勝宝六(七五四)年正月十六日 従五位上高丘連河内、正五位下。 ⑯ 神護景雲二(七六八)年六月二十八日 (内蔵頭兼大外記遠江守従四位下高丘宿禰比良麿卒伝) 父樂浪 河内、正五位下大学頭。
と十四ヵ所に見え、 『藤氏家伝』 (下、武智麻呂伝)に、
⑰ 神亀・天平初期(七二四~七三八) 文雅、高丘連河内
と、 計十七ヵ所に見える。 時 間的順序から見て、 ③ が初出で、 「樂浪 河内」とあり、⑥神亀元(七三四)年に、賜氏姓「高丘連」となり、 以後、 ① ②を含め⑮天平勝宝六 (七五四) 年まで、 氏姓名の表記は 「高丘連河内」と一貫している
(1)。⑯の「大学頭」については後述する。 なお、論述の基礎として、⑯の記事の全文をここに、示しておくこ とにする。
内
うちの蔵
くらの頭
かみ兼大
だい外
ぐゑ記
き遠
とほつ江
あふみ守
のかみ従四位下高丘
たかをか宿
り。 父 樂浪 河内 は正五位下 大 学 頭 なり。 神 亀 元年、 改 めて高
ちちささなみのかふちだいがくのかみじんくゐあらたたかの祖 沙門 詠 は、 近 江 朝 の歳 癸 亥 に次 るとき、 百 済 より 帰 化 け
おやしやもんゑいあふみのみかどほしみづのとゐやどくだらまゐおもむ比 良 麿 卒 しぬ。そ
ひらまろしゆつ丘
をか連とす。比
ひ良
ら麿
まろ、少
わかくして大学
だいがくに遊
あそび、書
しよ記
きを渉
せふ覧
らむし、大
だい外
ぐゑ記
きに歴
れき任
にむして、外従五位下を授
さづけらる。宝
ほう字
じ八年、仲
なか満
まろが反
へんを告
つぐ るを以
もちて従四位下を授けらる。 景
きやう雲
うん元年、姓宿
を賜 はる。
たまこの中、 「景雲元年、 姓宿
元(七六七)年三月二十七日条に、 を賜はる。 」は 、『続日本紀』 神護景雲 河内
かふち国古
ふる市
ち郡の人、従四位下高丘連比良麿に姓宿
を賜ふ。
とある。
(一) 氏「樂浪」 ・「高丘」について
氏「樂浪」について、早くに言及したのは契沖『萬葉代匠記』精撰 本で、 『続日本紀』を引用して、
高丘河
申、 播 歌二首 本姓ハ樂浪ナリ。元明紀云。和銅五年七月甲 國大目從八位上樂浪河
テ
正 倉
能效ヲ 功績ヲ メ位一
階ヲ賜
フ月
戊申
朔庚午、
詔一
疋、
布三十
端元正紀云。
養老五年正
ヲ從五位上
佐爲王、 正六位下樂浪河
ノ 等ニテハ
ヨリ
之令
侍ヘラ 東宮
ニ 焉。
同月甲
戌、
詔賜
諸河
博士物ニヲ ハ科
、
各賜
ノ十五
疋、
絲十五
口聖
武紀云。
ヲ、
布三十
端、
鍬二十 亀元年五月
辛未、」 正 六位下樂浪 河
ノ賜
ニ丘 高
ト孝
紀云。
寶六年正月、 正五位下。
稱德紀云。
護景
雲二年六月庚子
藏頭高丘宿 比良 呂卒。其 沙門詠 江癸亥自
百濟 歸學振。河 正五位下、大學頭、ノ
(二)改爲高丘
亀元年比良 呂少
大學
覧書記スヲ
賜
景雲元年、 姓宿ヲ ト 河 カ事、紀中ニ引
處處ニ見エタリ。 ノ紀ノ 、落字アリ。ノ上下ニ落字アルヘシ。
ヲ得テ推量スヘシ。沙門詠トハ、詠(朱)沙門
(河 (消)用タマハムタメニ、
)ニテ渡リ來ルヲ、才學ヲ シ」(シ)テ (消) 俗セシメ給ヒテ、 江ノナレハ、樂浪ハ
和訓ノ サヽナミヲ氏ニ賜ヒタル 。 ニ樂浪アリ。百濟ノ人ニテ、本姓樂浪ナレハ、 九夷ノ中(朱)ニ
テ呼氏 。 學振ノ下ニモ、當世ノ字ナト落、河 ノ上ニハ、必ヘシ
ノ字アルとし、天智二(六六三)年、百済より帰化した沙門詠(詠の上下に落字あるべし)が河内に渡来、その才学を用いるために還俗させて、近江 (2)の古名「樂浪(和訓サヽナミ)を氏 (3)としたか、または、前漢の武帝が前一〇八年に衛氏朝鮮を平定して置いた樂浪郡によるかとし、本姓樂浪(音にて呼ぶか)と言っている。この見解のいずれを採るか判断に迷うが二つを懸けていたかと思われる。沙門「詠」は、還俗後、氏「樂浪(ラクロウ・ささなみ)」、名は「詠」(あるいは―詠・詠―か (4))ということになったと見られる。氏「高丘」について、早く指摘したのは海北若冲『万葉作者履歴』で、姓氏録を引用している。佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇で、河内国諸蕃、漢に、
高丘 たかをかの宿
すくね。百済国 くだらのくにの公族 こうぞく、大 たい夫 ふ高侯 かうかうの後 すゑ、広陵 くわうりようの高 かう穆 ぼく自 より出 いづ。
高丘宿
あるに由あるか、又は広陵は一本高陵ともあれば、高陵といへる 讃岐国三木郡高崗(多加乎加)郷、土佐国高岡郡高岡郷とノノノノ タカヲカ
高丘の氏名について、栗田寛は「高丘は、和名鈔、 高丘宿 あわせた美称かもしれない。 疑わしい。ただし高丘は、その祖、広陵の高穆の名の高と陵とを 広陵を高陵に作った本はないので、高陵の地名によるというのは 韓土の地名によりて、高丘を氏にせるにもやあらん」とするが、比良麻呂賜 紀』神護景雲元年三月丙子条に「河内国古市郡人従四位下高丘連 二四)五月に樂浪河内が高丘連の氏姓を賜わり、さらに『続日本 未条に「正六位下樂浪河内高丘連」とあるように、神亀元年(七
の旧姓は樂浪、後に連。『続日本紀』神亀元年五月辛 姓宿 三月に高丘連比良麻呂が宿」とみえるように、神護景雲元年(七六七) の姓を賜わった。
とし、「高丘は、その祖、広陵の高穆の名の高と陵とをあわせた美称」かもしれないとしている。とすると、音で「コウキュウ」とでも呼んだのか。北村季吟『萬葉拾穂抄』は、「高丘 ヲカ」として、賀茂真淵『萬葉考』は「高丘 ヲカ」で「たかをか」と訓み、『菊亭文庫本新撰姓氏録』には、
高 タカ丘 ヲカノ宿 スク祢 ネ百済国公族。大夫高侯之後。廣陵高穆之後也。
とあって、「たかをか」と訓んでいる。橘千蔭『萬葉集略解』は「タカヲカノカフチ」、鹿持雅澄『萬葉集古義』・『萬葉集人物伝』は、「タカヲカノカフチ」、以後、「たかおか」と訓むのが定着している。
(二)名「河内」について
名「河内」は、子の比良麻呂の宿祢賜姓記事に、「河内国古市郡の人」とあり、『和名類聚抄』(巻五)に「河内 加不知」とあり、「カフチ」と訓んでいたことが知られる。河内国は、古く、応神朝末期に渡来土着した百済の学者王仁一族が古市に居住して西文首氏となった地域で、百済からの渡来人の多くが居住したことで知られる。『日本歴史地名
高丘連河内伝考
大系9、大阪府の地名Ⅱ』の「古市郡」に、
高丘宿
たものであろう。 らく詠が西琳寺に住したことから、この地に本貫をもつことになっ した沙門詠の孫で、父は大学頭となった楽浪河内であるが、おそ
比良麻呂も当郡に本貫をもつが、彼は百済滅亡後に渡来 とあるが、父の沙門詠の来日還俗は、近江在住のころで、その古名「樂浪」にちなんだもので、その後、西琳寺の住僧になったとは考えにくい (5)。詠の子、河内が出生したのは、「河内国」であったため「楽浪」の「河内」と命名 (6)されたと考えられる。「古市( 不留知)」によって「古市・古人」でもよかろうが、「樂浪 ささなみの河内 かふち」としたのは、字面も音も意味も、文雅の趣きがあって、二重の好字嘉名 (7)であり、文章・文雅・大学頭とされた人物にふさわしい命名、名乗りであるといえよう。(三)姓「連」・「宿祢」について
姓「連」については、⑥神亀元(七二四)年五月十三日条の、渡来系の人々への賜姓記事に、
従五位上
さちの妙 めう観 くわんに姓を河上 かはかみ忌寸と賜ふ。従七位下王 わうの吉 きち勝 しように新 にひ
城 き連、正八位上高 かうの正 しやう勝 しように三 み笠 かさ連、従八位上高 かうの益 やく信 しんに男 を
従五位上吉宜、従五位下吉智首に並に吉田連、従五位下 きちのよろしきちのちしゆならびきつた
連、 ふさろくの
兄 え麻 ま呂 ろに羽 う林 りむ連、正六位下賈 か受 じゆ君 くんに神 かむ前 さき連、正六位下樂浪 ささなみの河内 かふち
に高 たか丘 をか連、正七位上四 し比 ひの忠 ちう勇 ように椎 しひ野 の連、正七位上荊 けい軌 のき武 むに香 かぐ山 やま連、従六位上金 こむの宅 たく良 らう・金 こむの元 ぐわん吉 きちに並に国 くに看 み連、正七位下高 かうの昌 しやう武 むに殖 うゑ槻 つき連、従七位上王 わうの多 た宝 ほうに蓋 みかさ山 やま連、勲 ぐん十二等高 かうの禄 ろく徳 とくに清 きよみ原 はら連、無位狛 こま
正六位下賓難大足に長丘連、正六位下胛巨茂に城上連、従六位下 ひなのおほたりながをかかふこもきのへ 位上物部用善に物部射園連、正六位上久米奈保麻呂に久米連、 もののべのようぜんもののべのいそのくめのなほまろくめ
乎理和久に古衆連、従五位下呉粛胡明に御立連、正六 のけをりわくこすごしゆくこみやうみたち 谷那庚受に難波連、正八位上答本陽春に麻田連。 こくなかうじゆなにはたほのやすあさだとあり、二十四人中、「
二月四日)中に、 「連」姓である。これは、聖武天皇即位、神亀改元の宣命(第五詔。
妙観に河上忌寸」とある他、二十三人は また、官 つかさ々 つかさに仕 つかへ奉 まつる韓 から人 ひと部 ども一二人にその負 おひて仕へ奉るべき姓 かばね名 な賜ふ。によるもので、この神亀元年五月十三日以降、⑮天平勝宝六(七五四)年正月十六日条の記事まで「連」姓で、子の比良麻呂が、神護景雲元(七六七)年三月二十七日に賜姓「宿祢」までは、「連」姓であったことになる。なお、「連」は、『日本書紀』天武天皇十三(六八四)年十月一日制定の「八色の姓」の第七位に当る。
三、その閲歴について
(一)出自・家系
その出自について、初めて言及したのは、契沖『萬葉代匠記三』で、(前項「二
北若冲『万葉作者履歴』の引用する『新撰姓氏録』河内諸蕃高丘宿
(一)」)引用の、子、比良麻呂の卒伝記事(⑯)、および海条で、要録すれば、
百済国の公族、大夫高侯の後、広陵高穆より出づ。高丘比良麻呂の祖、沙門詠は、天智二(六六三)年、百済国より、帰化した。父、樂浪河内、後、高丘河内と改賜氏姓。
ということで、もと百済国の人で、沙門詠が百済滅亡後、日本に移住
した。その詠の子で、「樂浪河内」と名乗っていたとなる。「近江朝歳次癸亥自
百済「国を去る心を知らし」め、 さ 年八月に白村江において大唐軍に大敗し、九月七日に百済は降伏し、
帰化」とあるのは、『日本書紀』天智天皇二(六六三)辛酉 (十一日)に、牟 む弖 てに発 みち途 たつ。癸亥 (十三日)に、弖 て礼 れに至る。甲戌 (二十四日)に、日本 やまとの船 ふな師 いくさと佐 さ平 へい余 よ自 じ信 しん・達 だち率 そち木 もく素 そ貴 くゐ子 し・谷 こく那 な晋 しん首 す・憶 おく礼 らい福 ふく留 る、
せて国民等、弖礼城に至る。明日に、発船して始 あはくにのたみどもてれのさしくるつひふなだちはじめて日本 やまとに向 むかふ。
とある。天智二(六六三)年九月二十四日のことで「弖礼城」は、慶尚南道「南海島」の古名か (8)。日本の何処に何日着いたのか、その後、何処に移住したのか不明。
(二)年齢・閲歴について
高丘河内の年齢・出生地・母について確たる史料はない。河内の出生地が河内国であることはその命名から、および、子の枚良麻呂が「河内国古市人」とあることからも推定できる。出生・死沒については、『続日本紀』等の史料によってあるていどの誤差はあっても推定することが出来る。その初出③から最後⑮を年譜的に逐一検討することによって、その生沒・閲歴・関係人物について考察してみることにする。
③和銅五(七一二)年七月十七日
播磨国大目 だいさうくわん従八位上樂浪 ささなみの河内 かふち、勤 つとめて正 しやう倉 さうを建 たてて、能 よく功 くう績 しやくを効 いたす。位 くらゐ一階を進め、
あしぎぬ十匹、布 ぬの卅端を賜 たまふ。 とあって、山陽道九ヵ国の大国の大目で従八位上であったことがわかる。大国の国司は、「守・介・大掾・少掾・大目・少目・史生三人」で、大目は従八位上。この正倉の功により、従七位下に進んだ。この年、一月二十八日に太安万侶撰の『古事記』が献上された (9)。翌六(七一三)年五月二日に、『風土記』撰進の命があった。この前後、和銅元(七〇八)年三月十三日、守正五位上巨勢邑治任。霊亀元(七一五)年五月二十二日、巨勢邑治任右大弁、守従五位下石川君子任とある。国司の任期は四年であるが、巨勢邑治は和銅元年三月十三日から霊亀元年五月二十二日まで守であったか。とすると、守巨勢邑治の下で風土記編集の仕事が始まり、後任の守石川君子の任期初期にかけて作業が続いたものと思われる。その間、樂浪河内が大目、あるいは、掾クラスに昇任していたか。いずれにしても、河内が編集作業にかかわった可能性はあるとみられる。井上通泰『播磨風土記新考』は河内説、秋本吉郎『(日本古典文学大系本)風土記』は三人の時代、吉野裕『(東洋文庫本)風土記』邑治、河内の二人説があって確定したわけではないが、河内と『播磨風土記』編述の関係は興味ある課題である。
④養老五(七二一)年正月二十三日
従五位上佐為王、従五位下伊部 べ王、正五位上紀 き朝臣男 を人 ひと・日下部 くさかべ
宿
老、従五位上山田史三方、従五位下山上臣憶良・朝来直賀 おゆやまだみかたやまのうへおくらあさこか須 す夜 や・紀 き朝臣清 きよ人 ひと、正六位上越 を智 ち直広 ひろ江 え・船 ふね連大魚 おほうを・山 やま口 ぐち忌寸田 た
主 ぬし、正六位下樂浪 ささなみの河内 かふち、従六位下大 おほ宅 やけ朝臣兼 かね麻 ま呂 ろ、正七位上土 は
師 じ宿
退朝の後、東宮に侍らしめたまふ。 みかどさがりとうぐうはべ
百村、従七位下塩屋連吉麻呂・刀利宣令らに詔して、 ももむらしほやきちまろとりのせんりやうみことのり⑤
養老五(七二一)年正月二十七日詔 みことのりして曰 のたまはく、「文 ぶん人 じん・武 ぶ士 しは国 こく家 かの重 おもみする所なり。医 い卜 ぼく・
高丘連河内伝考
方 はう術 じゆつは古 こ今 こん、斯 これ崇 たふとぶ。百 ひやく僚 れうの内 うちより学 がく業 げふに優 いう遊 いうし師 し範 はむとあるに堪 たふる者 ひとを擢 ぬきいだして、特 ことに賞 しやう賜 しを加 くはへて後 こう生 せいを勧 すすめ励 はげますべし」とのたまふ。因 よりて、明 みやう経 ぎやう第一の博士 はかせ従五位上鍛 かぬ冶 ち造大 おほ隅 すみ・正六位上越 を智 ち直広 ひろ江 えに、各 おのおの
あしぎぬ廿疋、糸 いと廿
上額田首千足、明法の正六位上 ぬかたちたりみやうばふ を賜ふ。第二の博士正七位上背奈公行文・調忌寸古麻呂、従七位 たませなかうぶんつきこまろ
、布卅端、鍬廿口 ぬのくは 集宿 やづめ 虫万呂、従七位下塩屋 むしまろしほや連吉 きち麻 ま呂 ろ、文 もん章 じやうの従五位上山 やま田 だ史御 み方 かた、従五位下紀 き朝臣清 きよ人 ひと・下 しも毛 つけ野 の朝臣虫 むし麻 ま呂 ろ、正六位下樂浪 ささなみの河内 かふちに、各 おのおの
あしぎぬ十五疋、糸 いと
十五
、布卅端、鍬廿口。 ぬのくは位上悉斐連三田次、正八位下私部首石村、陰陽の従五位上大津 しひみたすききさきべいはむらおむやうおほつ
術の正六位上山口忌寸田主、正八 さんじゆつやまぐちたぬし連首 おびと、従五位下津 つ守 もり連通 とほる・王 わうの仲 ちう文 もん・角 ろく兄 え麻 ま呂 ろ、正六位上余 よの
秦 はだ勝 かつ・志 し我 が閇 へ連阿 あ弥 み
、医術の従五位上吉宜、従五位下呉粛 だいじゆつきちのよろしごしゆく胡 こ明 みやう、従六位下秦 はだの朝 てう元 ぐゑん・太 た羊 や甲 か許 こ母 も、解 げ工 こうの正六位上恵 ゑ我 が宿 下胸形朝臣赤麻呂に、各 むなかたあかまろおのおの
国成・河内忌寸人足・竪部使主石前、正六位下賈受君、正七位 くになりかふちひとたりたてべいはさきかじゆくんあしぎぬ十疋、糸 いと十
正八位下記多真玉、従六位下螺江臣夜気女・ きたのまたまさざえやけめ 和琴の師正七位下文忌寸広田、唱歌の師正七位下大窪史五百足、 わこんしふみひろたしやうかしおほくぼいほたり
、布廿端、鍬廿口。 ぬのくは位下置始連志志女には、各 おきそめしげしめおのおの
田連刀自女、正七 まむたとじめあしぎぬ六疋、糸 いと六
口。武藝の正七位下佐伯宿 ぶげいさへき
、布十端、鍬十 ぬのくは 式麻呂、従七位下凡海連興志・板 のりまろおほしあまこごしいた安 やす忌寸犬 いぬ養 かひ、正八位下置 おき始 そめ連首 おびと麻 ま呂 ろに、各 おのおの
あしぎぬ十疋、糸 いと十
布廿端、鍬廿口。 ぬのくは
、④は、皇太子首親王(聖武天皇)への各分野の能吏十六人に、退朝(朝廷での執務を終えて退出)した後の勤務外の仕事ではあるが重要な仕事に当った。この前年、養老四(七二〇)年五月二十二日、『日本紀』撰上。八月三日、養老律令撰定(養老二年上撰)に功のあった藤原不比等が死沒している。河内は③和銅五(七一二)年に従七位下に昇叙し、九年後④
⑤
養老五(七二一)年に二階進
み正六位下とある。④⑤
の時
点で官職は明記されていないが、官位相当から「図書助・大 学助・文章博士」のいずれかの中、⑤
に「文章」の四人の一人『藤氏家伝』(下武智麻呂伝 (られている ( への献上を意図した分類和歌集である『類聚歌集』を編纂したと考え ④に「従五位下山上臣憶良」とあったが、
⑤
にはない。この頃、東宮 人の一人であることから、「文章博士」であった可能性はある。なお、 )に、神亀六(七二九)年当時
、「文雅」の六 )。憶良との交流はあったが、どのていどなのか不明。 )
⑥
神亀元(七二四)年五月十三日従五位上
さちの
妙
めう観 くわんに姓を河上 かはかみ忌寸と賜ふ。従七位下王 わうの吉 きち勝 しように新 にひ城 き連、正八位上高 かうの正 しやう勝 しように三 み笠 かさ連、従八位上高 かうの益 やく信 しんに男 を
従五位上吉宜、従五位下吉智首に並に吉田連、従五位下 きちのよろしきちのちしゆならびきつた
連、 ふさろくの
兄 え麻 ま呂 ろに羽 う林 りむ連、正六位下賈 か受 じゆ君 くんに神 かむ前 さき連、正六位下樂浪 ささなみの河内 かふち
に高 たか丘 をか連、正七位上四 し比 ひの忠 ちう勇 ように椎 しひ野 の連、正七位上荊 けい軌 のき武 むに香 かぐ山 やま連、従六位上金 こむの宅 たく良 らう・金 こむの元 ぐわん吉 きちに並に国 くに看 み連、正七位下高 かうの昌 しやう武 むに殖 うゑ槻 つき連、従七位上王 わうの多 た宝 ほうに蓋 みかさ山 やま連、勲 ぐん十二等高 かうの禄 ろく徳 とくに清 きよみ原 はら連、無位狛 こまのけ乎 を理 り和 わ久 くに古 こ衆 す連、従五位下呉 ご粛 しゆく胡 こ明 みやうに御 み立 たち連、正六位上物 もの部 のべの用 よう善 ぜんに物 もの部 のべの射 い園 その連、正六位上久 く米 めの奈 な保 ほ麻 ま呂 ろに久 く米 め連、正六位下賓 ひ難 なの大 おほ足 たりに長 なが丘 をか連、正六位下胛 かふ巨 こ茂 もに城 きの上 へ連、従六位下谷 こく那 な庚 かう受 じゆに難 なに波 は連、正八位上答 た本 ほの陽 や春 すに麻 あさ田 だ連。
神亀元(七二四)年二月四日、聖武天皇即位、改元の宣命(第五詔)中に、大赦・叙位・賜物のことがあり、渡来人の改賜姓について、
また、官 つかさ々 つかさに仕 つかへ奉 まつる韓 から人 ひと部 ども一二人にその負 おひて仕へ奉るべき姓 かばね名 な賜ふ。
とあって、「賜姓は本人の申請によるのがふつう。従ってこのような詔があっても、多少の
時
日を要する。この場合は五月辛未に実施 (。」 )
され、⑥の二十四人の多数に一括賜姓 (
この頃重要な人物について、⑰『藤氏家伝』(下、武智麻呂伝)に、 三月四日、藤原武智麻呂任大納言となり、藤原四兄弟の時代となる。 この後、神亀六(=天平元年。七二九)年二月十二日、長屋王の変。 ⑥でも正六位下で、文章博士であったか。 高丘連」とある。④養老五(七二一)年に正六位下とあり、三年後の があり、「正六位下樂浪河内に )
六 ろく年 ねんに、大納言 だいなふごんに遷 うつる。公 こう、為人 ひととなり温 やは雅 らかにして、諸 もろもろの事 ことを備 そなへたり。既 すでに喉舌 こうせつとなりて、帝 みかどの猷 のりを賛 ほめ揚 あぐ。出 いでたまへば乗 しよう
輿 よに奉 つかへまつり、入 いりたまへば枢 すう機 きを掌 つかさどる。朝 てう議 ぎあるに至 いたりては、平 たひらかなることを持 たもちて和 あまなふことを合 はかる。朝廷 みかど、上下 かみしも安静 しづかにして、国 くにに怨
うらみなし。是 この時 ときに当 あたりて、舎人 とねり親 しん王 わうは知 ち太 だい政 じやう官 くわん事 じ、新 にひ田 た部 べ親 しん王 わうは知 ち
惣 そう管 くわん事 じ、二 じ弟 てい北 ほく卿 きやうは知 ち機 き要 えう事 じとあり。其 その間 ころ、参 さむ議 ぎの高 かう卿 きやうには、中 ちう納 なふ言 ごん丹 たぢ比 ひの県 あがた守 もり、三 さむ弟 てい式 しき部 ぶ卿 きやう宇 うま合 かひ、四 し弟 てい兵 ひやう部 ぶ卿 きやう麻 ま呂 ろ、大 おほ
蔵 くら卿 きやう鈴 すず鹿 かの王 おほきみ、左 さ大 だい弁 べん
かづら木 きの王 おほきみあり。風 ふう流 りうの侍 じ従 じゆには、六人部 むとべの王 おほきみ・長田 ながたの王 おほきみ・門部 かどべの王 おほきみ・狭 さ井 ゐの王 おほきみ・桜井 さくらゐの王 おほきみ・石川 いしかはの朝臣 あそみ君 きみ子 こ・阿倍 あへの朝臣 あそみ安 やす麻 ま呂 ろ・置 おきそ始 めの工 たくみら十余人 とたりあまり
あり。宿 しゆく儒 じゆには、守部 もりべの連 むらじ大 おほ隅 すみ・越 を智 ちの直 あたひ広 ひろ江 え・肖奈 せうなの行 かう文 ぶん・
集 やつめの宿 すく
紀朝臣清人・山田史御方・ きのあそみきよひとやまだのふびとみかた
虫麻呂・塩屋連吉麻呂・楢原造東人らあり。文雅には、 ねむしまろしほやのむらじえまろならはらのみやつこあづまひとぶんが 井連広成・高丘連河内・百斉公 ふぢゐのむらじひろなりたかをかのむらじかふちくだらのきみ倭 やまと麻 ま呂 ろ・大倭 おほやまとの忌寸 いみき小 を東 あづま人 ひとらあり。方 ほう士 しには、吉 きち田 たの連 むらじ宜 よろし・御 み
立 たちの連 むらじ呉 ご明 みやう・城上 きのへの連 むらじ真 ま立 たて・張 ちやう福 ふく子 しらあり。陰 おむ陽 やうには、津守 つもりの連 むらじ
通 とほる・余 よの真 ま人 ひと・王 わうの仲 ちう文 もん・大津 おおつの連 むらじ首 おびと・谷 こく那 な康 かう受 じゆらあり。暦 りやく算 さんには、山口 やまくちの忌寸 いみき田 た主 ぬし・志 し紀 きの連 むらじ大 おほ道 ぢ・私 きさきべの石 いは村 むら・志 し斐 ひの連 むらじ三 み田 た次 すきらあり。咒 しゆ禁 こむには、余 よの仁 にん軍 くん・韓国 からくにの連 むらじ広 ひろ足 たりらあり。僧 そう綱 かうには、少 せう僧 そう
都 づ神 じん叡 え・律 りち師 し道 だう慈 じあり。並 ならびに天休命 おほみことに順 したがひて、共 ともに時 ときの政 まつりごと
を補 たすく。 とあり、④⑤に名の見えた人物と重なる者が多い。「文章」とあった樂浪河内は、「文雅」六人の一人として、高丘連河内として挙げられている。⑥神亀元年に高丘連河内となったのを承けている記述である。なお、この前後、長屋王佐保宅にての詩会の詩の多く載る『懐風藻』に、河内の詩は一首も採られていないことも課題の一つである。また、④⑤とこの『家伝』に見える人物の中、④に「従五位下山上臣憶良」とあった、憶良の名は、⑤および、この『家伝』に見えないのは何故か疑問が残る。
⑦天平三(七三一)年正月二十七日
正三位大 おほ伴 とも宿
大井王に従五位上。従四位下多治比真人広成・紀朝臣男人・大野 おほゐたぢひひろなりきをひとおほの 佐為王に並に従四位上。正五位上桜井王に従四位下。従五位下 さゐならびさくらゐ
旅人に従二位を授く。従四位下門部王・春日王・ たびとさづかどべのおほきみかすが朝臣東 あづま人 ひとに並に従四位上。正五位上大 おほ伴 とも宿
位下。従五位下波多真人継乎・久米朝臣麻呂・石川朝臣夫子・高 はたつぐをくめまろいしかはふしたか 平群朝臣麻呂・小野朝臣老、従五位下石川朝臣比良夫に並に正五 へぐりまろをのおゆいしかはひらぶ 下。正五位下中臣朝臣広見に正五位上。従五位上石上朝臣勝雄・ なかとみひろみいそのかみかつを
祖父麻呂に従四位 おほぢまろ橋 はし朝臣嶋 しま主 ぬし・村国 むらくに連志 し我 が麻 ま呂 ろに並に従五位上。外従五位下巨 こ勢 せ朝臣奈 な
麻呂・津嶋朝臣家道、正六位上石川朝臣加美・大伴宿 でまろつしまいへみちいしかはかみおほとも 兄 え麿 まろに並 ならびに従五位下。正六位上息 おき長 なが真人名 な代 しろ・当 たぎ麻 ま真人広人 ひろひと・巨 こ
曾 そ倍 べ朝臣足 たる人 ひと・紀 き朝臣多 おほ麿 まろ・引 ひけ田 た朝臣虫 むし麿 まろ・巨 こ勢 せ朝臣又 また兄 え・大 おほ伴 とも
宿
御助・佐伯宿 みすけさへき 人足・佐味朝臣足人・佐伯宿 ひとたりさみたるひとさへき 伊益・土師宿 これますはじ 千村・ ちむら 集宿 やづめ田辺史広足・ たなべひろたり
虫麿・物部韓国連広足・船連薬・難波連吉成・ むしまろもののべのからくにひろたりふねくすりなにはよしなり五位下。
井連広成・高丘連河内・秦忌寸朝元に並に外従 ふぢゐひろなりたかをかかふちはだてうぐゑん正六位上から外従五位下に進む。この叙位記事(人物)の中に、『藤氏家伝』と重なる人物は、「風流侍従」の門部王・狭井(佐為)王・
高丘連河内伝考
桜井王らの名がある。門部王は『萬葉集』(3三二六)の作者か。佐為王は④令侍東宮にも名が見える。橘諸兄(
左注・ 『萬葉集』に作歌はないが、名が見える(6一〇〇四左注・一〇〇九
城王)の弟で、橘佐為。16
三八五七左注など)、また、佐為王婢の一首(がある。
16
三八五七)⑧天平三(七三一)年九月二十七日
外従五位下高丘連河内を右京亮とす。
右京亮は従五位下。この年、七月二十五日に大伴旅人沒(六十七歳)。翌四(七三二)年十月十七日、「従五位上紀朝臣清人を右京亮」とある。清人は④令侍東宮の一人で、『藤氏家伝』文雅の一人でもあった。天平九(七三七)年十二月二十三日、「従四位下門部王を右京大夫、外従五位下太朝臣国吉を亮。」とあり、脚注六に「右京大夫の前任者は、これまで藤原麻呂が京職大夫として兼ねていた (
良沒か(七十四歳)。天平九(七三七)年「是の年の春疫瘡大きに発 こえきさうおほおこ であったか。天平五(七三三)年、この年六月以後、年内に、山上憶 月と短期間で、その後⑨天平十三(七四一)年九月十二日まで、散位 時、大夫は藤原麻呂であったか。紀清人の任右京亮まで僅か一年四ヵ 紀朝臣清人(天平四年十月丁亥条)。」とある。河内が右京亮となった の長官がそれぞれ任命されたか。」と、脚注七に「右京亮の前任者は 。ここで左右京職 )
る。初め筑紫より来りて夏を経て秋に渉る。公卿以下天下の百姓、相継 つぎて没死 しぬること、勝 あげて計 かぞふべからず。」とある。藤原四卿沒。九月二十八日、鈴鹿王知太政官事・橘諸兄大納言・多治比広成中納言となり、「脚注六」に、「疫病により多くの官人が病没したため、その欠員を埋めるための特別の任官及び叙位。」で、十二月十二日・二十三日・二十七日と任官叙位の記事が続くが、高丘河内の名はない。 ⑨天平十三(七四一)年九月十二日木工 もくくの頭 かみ正四位下智 ち努 ぬ王、民 みん部 ぶ
きやう従四位下藤 ふじ原 はら朝臣仲 なか麻 ま呂 ろ、散位外従五位下高 たか岳 をか連河内 かふち、主税 しゆさいの頭 かみ外従五位下文 ふみ忌寸黒 くろ麻 ま呂 ろの四人を遣 つかはして、京都 みやこの百 はく姓 せいの宅 たく地 ちを班 あかち給 たまはしむ。賀 か世 せ山 やまの西 にしの路 みち
より東 ひむかしを左 さ京 きやうとし、西 にしを右 う京 きやうとす。
この時、散位外従五位下高岳連河内とあって、「散位」で、恭仁京の宅地班給使となっている。恭仁宮・恭仁京は、天平十二(七四〇)年十二月十五日、恭仁宮を京都と定め、翌十三年閏三月十五日には、
詔 みことのりして曰 のたまはく「今より以 の後 ち、五位以上は、意 こころに任 まかせて平 な
城 らに住むこと得 えじ。如 もし事 ことの故 ゆゑ有りて退 まかり帰 かへるべくは、官 くわん符 ふを賜 たまはりて、然 しかして後 のちに聴 ゆるせ。其 それ、平 な城 らに見 いま在 ある者 ひとは、今 け日 ふの内 うち
を限 かぎりて、悉 ことごとく皆 みな催 もよほし発 たて。自 その餘 ほかの、他 あだし所 ところに散 あ在 られたる者 ひと
も亦 また、急 いそぎ追 おうべし。」とのたまふ。
とあって、五位以上に恭仁京への移住を促し、同年八月二十八日に、平城の二市を恭仁京に遷 うつす。九月八日、正四位下智 ち努 ぬの王 おほきみと正四位上巨勢朝臣奈弖麻呂との二人を造宮卿とし、造営が本格化して、同十五年十二月までに、大極殿・大安殿・皇后宮・朝堂などの殿舍及び東西二市が完成したが、二十六日に「是 ここに至 いたりて更 さらに紫 し香 が楽 らきの宮 みやを造 つくる。仍 よりて恭仁宮の造 ざう作 さくを停 とどむ。」とあり、十六年閏正月に天皇、難波宮へ行幸。二月二十六日、難波宮を皇 みや都 ことする勅 みことのりが宣せられた。この恭仁京時代、河内との関係を考える三つのことがある。一つは、造宮卿智努王(後、文室眞人)との交流である。智努王は十四年正月七日「宮殿を造るに勤めるを以て」賜物(東
三百屯)。同年八月十一日に、
六十疋、綿⑩ 天平十四(七四二)年八月十一日 詔
みことのりして 曰
のたまはく、 「朕
われ、近
ちかつ江
あふみ国甲
かふ賀
か郡紫
し香
が楽
らき村に行 幸
みゆきせむ」 とのたまふ。 即
すなはち、造
ざう宮
くうきやう
正四位下智
ち努
ぬの王
おほきみ、輔
すけ外従五位下高
たか岡
をか連河内
かふちら四人を造
ざう離
り宮
くう司
しとす。
とあって、 紫 香楽宮造営 (十七年正月に 「 遷
新京 の作歌、 二つは、 この間、 『萬葉集』 に 、 天平十五 (七四三) 年八月十六日 定できる。 地班給使として共に仕事をした智努王との関係が密であったことを推 能力などの評価もあって、⑨散位から造宮輔となった。これには⑨宅 いるのだが、先の⑨宅地班給使として土地測量の技能、人事の采配の の文書行政にとどまらず土木建築の技能をも有していたことを語って 一二)年、播磨国大目の時の正倉建造の功績、おそらく文章家として 宮司の長官と次官という関係。これは、河内のかつての③和銅五(七 」) の ための造離
十五年癸
き未
びの秋八月十六日、 内
うち舎人
どねり大伴
おほともの宿
すく祢
ね家持
やかもちの久
く迩
にの京
みやこを讃
ほめて作りし歌一首 今造る久
く迩
にの都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし (6一〇三七) 高丘
たかをかの河内
かふち連
むらじの歌二首 故郷
ふるさとは遠くもあらず一
ひと重
へ山
やま越ゆるがからに思ひそ我
あがせし (6一〇三八) 我
わが背
せ子
こと二人し居
をれば山高み里には月は照らずともよし (6一〇三九)
の三首(家持一首・高丘河内二首)がある。河内の作歌として知るこ とのできるのはこの二首である。家持の題詞に「讃
久迩京
作歌」と ながら 『 続日本紀』 に 記録はない
(あるが、 「この歌の詠まれた天平十五年八月十六日に関しては、 残念
解は失考である。 『続日本紀』に、 。」 と して、 恭 仁京での作とする見
)(天平十五年)七月癸亥
二十六日、紫香楽宮に行幸
みゆきしたまふ。 (天平十五年) 十一月丁 酉
二日、 天皇恭仁宮に還
かへりたまふ。 車
すめら駕
みこと紫 香楽に留
りう連
れんすること 凡
おほよそ四月なり。
とあることからみて、この三首の詠は、紫香楽宮でのある宴席(仲秋 の名月、 十六夜の月の宴。 家 持も同席した宴。 ) で 披露されたもので あって、恭仁京での作ではない。内舎人である家持は行幸に供奉して いたはずであるし、高丘河内もまた、紫香楽宮造宮輔として、紫香楽 宮に滞在していたはずである。この三首は紫香楽宮にあって、恭仁京 を詠んだもので、伊藤博『萬葉集釋注 三』の当該歌三首の鑑賞は、 新都恭仁京と 旧 都 奈良 京としているが、いずれも紫香楽宮と恭仁京と
読み
変えるべきであ
ろう。また、河内の二首目は、仲秋八月十六日の いさよひ(十六夜)の月を詠んだ集
中、
唯一
例である。
他に「いさよ ふ月」三首(6一〇〇八
忌部首
黒麿・
7一〇〇八・
7一〇八四)があ るが、 い ずれも八月十六日夜のものとは
確定できない。 なおその
結句、
原文「
不曜十
方余思」の「
曜」について、
「
曜は集
中ここにのみ
用ゐられて
ゐる文
字である。 本
意は日の
輝く
意であるから、
テルに
用ゐられる。 (
鴻巣盛廣『萬葉集
全釋』 ) 「
曜」の文
字ここに一
例あるのみ。 「
光」と同じく
テルと
訓む。 「
曜」は
万葉集にこの一
例のみ。日・月・
星の
明るく
輝く
意。「
明月
清景を
曜らす」 (
晋・
張華「
情詩」) 。(新日本
古典文
学大
系本 『萬葉集』 )
とある
珍しい
用字で、 『新
撰字鏡』(
享和本・
群書
類聚本)に「
曜耀、
高丘連河内伝考
照也光明也
「其二」 新大系本の脚注の張華「情詩」は、『玉台新詠』巻二、情詩五首の ある。『詩経』檜風、羔裘に「日出有曜(日出でて曜たり)」とあるが、 えう 曜(七・七十三ウ)」・『類聚名義抄』に「曜テラス(佛中、九七)」と
テル良須(日部二)」・『色葉字類抄』に「光彩照 テラス明
淸景
光照 玄
幽人守
靜夜 廻身入帷
束帶俟將
廓落晨星稀寐假
精爽 覿 我佳人
巧笑媚
權靨 寤言增 聯娟眸與眉 長悽然心獨悲
であるが、岩波文庫本『玉台新詠集(上)』(鈴木虎雄、一九五三年五月)・新釈漢文大系本『玉台新詠上』(内田泉之介、一九七四年二月)ともに「かがやく」と訓んでいる。河内の「照 てらす」は和風表現か。ここに、河内の中国詩文の教養と和歌創作の一端を窺い知ることができる。なお、この年前後に登場する高丘王との関係を考えてみることも必要かと思う。高丘王の父祖は不詳であるが、天平十五年五月五日の宣命第十一詔の授位者の一人に、「无位高丘王、従五位下」。同年六月三十日任官者の一人「従五位下高丘王を右大舎人頭」。十八年六月十一日「従五位下高丘王に従四位下」。天平勝宝元年三月三日「左大舎人頭従四位下高丘王、卒しぬ」とあり、天平十七年四月左大舎人寮解に「従五位下守頭□□王(久仁宮留守)」とあるのは高丘王である (
。 )
⑪天平十七(七四五)年正月七日
天皇、大安殿に御 おはしまして、五位己上を宴 うたげしたまふ。詔 みことのりあり て、叙位…
中略
… …外従五位下高丘連河内に外従五位上を授く。 さづ
中略 に饗を賜ふ。禄、亦差有り。 みあへ …宴訖りて禄賜ふこと差有り。百官の主典己上に朝堂 をはろくたましな
とあるこの叙位者の中に、家持、従五位下とある。この年五月十一日、都を平城に復し、九月二十五日、天皇、平城に還御。
⑫天平十八(七四六)年五月七日
外従五位上菅 すが生 ふ朝臣古 こ麻 ま呂 ろ・巨 こ勢 せの斐 ひ太 だ朝臣嶋村 しまむら・物部 もののべの依 よ羅 さみ朝臣人 ひと会 あひ・高 たか丘 をか連河内 かふち、外従五位下
民忌寸真楫に並に従五位下を授く。 たみまかぢさづ
原造東人・小治田朝臣諸人・ ならはらあづまひとをはりだもろひと内位の従五位下に昇叙した。この五日前の任官記事に「従四位下紀朝臣清人を武蔵守とす。」とある。この年正月一日、「朝 でうを廃 やむ」(元日朝賀の儀をとりやめる。)脚注に「万葉三九二二題詞には「十八年正月、白雪多零、積地数寸也」とみえる。関連あるか。」としている。この月、地震三回(十四日・二十九日・三十日)あり。さて、『萬葉集』に、
天平十八年正月、白 はく雪 せつ多 おほく零 ふり、地 つちに積 つむこと数 すう寸 すんなりき。時に左 さ大 だい臣 じん橘 たちばな
きやう、大 だい納 なふ言 ごん藤原 ふぢはらの豊 とよ成 なり朝臣 あそみ及 および諸 しよ王 わう諸 しよ臣 しん等 ら
を率 ゐて太 だい上 じやう天 てん皇 わうの御 ご在 ざい所 しよ中 ちう宮 ぐうの西 さい院 ゐんに参 ま入 ゐり、供 きよう奉 ほうして雪 ゆきを掃 はらひき。ここに詔 みことのりを降 くだして、大 だい臣 じん参 さん議 ぎ
せて諸王 あはしよわうは大 おほ殿 とのの上 ほとりに侍 じせしめ、諸 しよ
きやう大 だい夫 ぶは南 みなみの細 ほそ殿 どのに侍 じせしめて、則 すなはち酒 さけを賜 たまひて肆 し宴 えんしたまひき。勅 みことのりして曰 のたまはく、「汝 なむぢ諸 しよ王 わう
きやう等 ら、聊 いささかにこの雪 ゆきを賦 ふして各 おのおのその歌を奏 まうせ」とみことのりたまひき。左 さ大 だい臣 じん橘 たちばなの宿 すく祢 ねの、詔 みことのりに応 こたへし歌一首