芹 澤 数 雄
目 次
はじめに 経世済民の経済学
豊かな社会は実現したか 経済学者の見解 豊かな社会は実現したか 社会心理学者の見解 ケインズの欺瞞 自己欺瞞?
ガルブレイスの敵前逃亡 封印されたのは?
歌を歌うこと 生産の問題が消える 結びにかえて
付論 科学の中に答えはあるか
付論 科学は絶対ではない 科学こそが騙す
福岡大学経済学部
はじめに─経世済民にもとづく経済学
経済学の問題が解くに値するかどうかは経済学では判断できない。経済学 は経済問題があるということを前提にして出発する。したがって、経済問題 が設定されたところで、暗黙のうちに経済問題が解くに値することが前提と される。いかなる問題でも、経済問題として取り上げられた段階で、経済問 題の資格を得る。すなわち、設定された段階で価値判断が行われているので ある。たとえば、すでに生産の問題は解決したかどうかという問題は、経済 学の範疇でさまざまに論ずることができる。すなわち、この問題は解くに値 することがすでに価値判断されているのである。したがって、生産の問題が 解決済みかどうかという問題自体が、解くに値するかどうかを経済学の範疇 では論ずることはできない。解くに値すると、すでに価値判断されているか らである。そこで、生産の問題が解決済みかどうかの問題が解くに値するか どうかは、あらためて判断を求められることで、はじめて問題として表面に 現れる。
一般に科学の問題は、それが解くに値するかどうかは問われない。問題と して設定された段階で、すべて解かれるべき問題になる。したがって、科学 の問題が解くに値するかどうかは、あらためて価値判断を求められなければ ならない。解くに値しない問題が設定され、さまざまなかたちでその問題が 論じられると、そのことによって、設定された問題は重要な問題になる。た とえば、生産の問題が解決済みであるかどうかという問題は、生産の問題が 重要な問題であることを示すことになる。われわれ一般大衆にとって求める べきは生産であり、生産の問題が重要だと思わせることになる。これによっ て、生産が重視されることになる。すなわち、生産こそが一般大衆の幸福を 実現するのに寄与するというメッセージを与える。そして、幸福が実現して
いないなら、その原因は生産の不足だという判断を与えることになる。
経済学の問題が解くに値するということは、人間の幸福が生産により実現 されることを前提にする。同じことだが、生産こそは人間の求めるもの、善 であるという隠れた価値判断がここにある。
経済学は経済の問題を扱う学問である。本稿でも経済の問題を扱うが、こ れまでの経済学の範疇にはない問題と取り組むことになる。
これまで経済問題と認定されたものは、経済学者の間で経済学の問題であ るという合意が得られた問題であった。それ以外に経済学の問題とする基準 はない。だからこそ、経済問題とは経済学者が取り組んでいる問題であると いわれる。本稿で扱う問題は、そのような意味で、経済学者の仲間うちでは 経済問題とはいわれない問題である。しかし、経世済民という経済学の本来 の定義からすると、至極正当性をもつ問題であり、これこそ経済問題である と認定されるものである。これに対して、これまで経済問題として解かれて きたものは経世済民という枠に中に入らないものが少なからず存在し、そう いう意味では経済問題を解いていることにはならないと判断せざるを得ない。
本稿ではなんらかの命題を論理的に証明するという目的は持っていない。
論証は演繹の問題であり、前提と使われる論理が与えられたなら、正しいか、
誤っているかの問題として定式化される。これまで数多く議論された経済学 の問題はこの範疇で問われ、したがって、その命題の真なることを、ないし は偽りであることを論証しようと試みる。われわれはこのような命題の証明 を行おうとするのではない。むしろ、命題が問われている価値前提、隠され て、当然のこととされる形而上学、イデオロギーを問う。この問いを通じて、
経世済民の民を済くの意味を読者に問いかける。民を済けることが単にもの を与えることだと思われている。このような思い込みの背景には、功利主義 があることは明らかだ。したがって、功利主義の次元に居直ることでは、本
稿の意図を理解することは難しい。本稿では、経世済民の意味を問いかけ、
本当に済くの意味の理解を促すことにある。
功利主義の背景には価値ニヒリズムがある。ニヒリズムではまさに本当の 価値の存在を認めることができず、したがって価値はあったとしても擬似価 値である市場価値だけしか認めることができない。ニヒリズムを偽装した功 利主義は快楽だけに価値が存在していると考え、それ以外の価値を見ること はない。
われわれは、快楽、苦痛は本来の人間の幸福、真の人間の幸福には意味を 持たないと考える。だからこそ、多くの快楽を実現させるであろう高い
が実現しても、幸福は実現しない。また、当然のこととして人間の幸福と 密接な関係をもつ平和も実現しない。ところが、経済学を含め、科学といわ れるものは、価値ニヒリズムに立っていることにさえ気づいていない。だか らこそ、幸福も、満足も、平和も、この社会の人間の心から消え去っている のだ。
価値ニヒリズムの克服なしに、真の学問の責務を果たすことにはならない。
そして、ニヒリズムの克服は客観的レベルで実現するものではなく、個々の 主体の努力、その理解を通じて行われるしかない。このことに目を瞑り、あ たかも幸福の実現、善の実現が客観的なレベルで可能であるかのごとく装い、
夢幻の世界に閉じ込めるかの如き学問では、学問の名に値しない。
功利主義を超える努力をしないでは、本稿の意図は理解することは難しい。
繰り返し述べておくが、真の経世済民、真の人間の幸福、真の善、望むべき もの、という次元に立つことを要請する。これこそが、学問である経済学の なすことであると考える。それこそが真の科学の役割である。以下の論述は、
次の順序で行われる。
第一節では、豊かな社会の実現について、経済学者の見解を聞く。続く第
二節では社会心理学者の見解を聞く。第三節では豊かな社会実現後の社会に ついてのケインズの不安について説明する。第四節では、ガルブレイスの見 解について検討する。第五節では、経済問題を究極的に問うと、すなわち真 の経済学、真の幸福を求める学問の観点からすると、ケインズのいう歌を歌 えることこそ問題解決になることを示す。そして、歌を歌うことについてケ インズ、ムアを引用しながら検討する。そして、歌を歌うこととは、問題は すでに解決されていること、問題はそもそもそこにはなかったことを知るこ とである、ということを確認する。第六節では、若干の結論を示して、結び とする。
付論では、本稿の基本的な姿勢である科学至上主義に対する批判を示す。
そもそもこれまでの問題は科学的に問うのが適当だったのかを問題にする。
経世済民に立つ経済学の観点から、科学の中に答えがあると想定することの 過ちを示す。また、科学が絶対でないこと、むしろ欺瞞の温床になりうるこ とを示す。
豊かな社会は実現したか─経済学者の見解
価値判断、驚嘆、謎解きといった現象は、事象のある特定の局面に限って かかわることではなく、事象全体にかかわることである。それは、浅薄な人 物にではなく、高度な思索のできる人物に顕著に現われるものである。注
豊かな社会は実現したのだろうか、生産水準の不足の故に実現していない のであろうか。それとも生産水準の問題とは関係なく捉えることが豊かな社 会実現の正しい捉え方なのだろうか。誤った問題の設定は、誤った方向への 注意喚起になってしまう。正しく問いを問わなければならないだろう。
経済問題がすでに解決済みのものである場合、それを相変わらず問題視し ているとしたらどうであろう。それは社会に対して誤ったメッセージを与え ることになる。解決する問題など存在しないにも関わらず、あたかも重要な 問題であるかのごとく思い込み、貴重な資源がつぎ込まれ、多くの人々を翻 弄するとしたらどうだろう。本当のところは重要な問題ではないにもかかわ らず、重要な問題であると思わされ、それが社会システムの中に組み込まれ ているとしたらどうだろう。その結果、誤った目的をもたされ、目の前にあ る真の幸福が隠されてしまっているとしたらどうだろう。
すべての真理が、等しく追求し、考察するに値するものであろうか。たと えば、与えられた面積の砂浜にある砂粒の数などはどうか。注
重要な問題こそ解くに値するものであって、重要でない問題は重要でない 問題だと示されなければならない。これまで重要であったからといって、ま たその問題を解くことを生業にしている多くの人たちがいるからといって、
重要でないにも関わらず、重要な問題であるかのごとく装うことは許されな いことだろう。さまざまな職業が社会変化の過程で新しく生まれ、また消滅 していった。それは社会の要請である。もし必要とされない職業があって、
それに従事している人たちがいるとするなら、その職業に従事している人た ちにとってそれは不本意なことであろう。本当に従事するに値する仕事こそ 意味がある。もし必要とされないものであるなら、必要とされるかたちで提 供すべきであろう。財・サービスを提供する側も提供される側も、真に必要 とされる財・サービスかどうかを問い続ける必要がある。
経済問題が解決していないなら、どう解決していけばよいのかを検討すべ きである。経済問題が解決しているのなら、その証拠を示し、いまだ解決し ていない問題を解決すべく努めることである。また、経済問題が解決してい ながら、いまだ解決していないと思わせるなら、その原因を問うことである。
そもそも経済問題が経済問題として存在していたわけではない。人間から 独立して経済問題が存在するのではない。人間があって、その人間が生きる 上で問題が発生し、その問題が経済問題と名づけられたのである。しかし、
人間が直面する問題は状況によって変化する。したがって、恒常的に存在す るわけではない。かつて重要視されたが、もはや重要視されなくなった問題 も数多くある。以前は認識されなかった経済問題も、重要な経済問題と認識 されるようになった。失業の問題などはいい例であろう。
実際には失業がしばしば非常に多かったにもかかわらず、 失業 という 用語が十九世紀後期まで一般には用いられなかったという事実である。注
経済問題一般も同様である。現在のようなかたちで経済問題が認識されて いたわけではない。はじめは、経済問題とさえ認識されなかったはずである。
それが重要な問題として認識され、そして現在に至っている。だからといっ て、それがいつまでも存在するわけではない。ケインズもいっているように、
経済問題は、生産の問題は恒久的な問題ではない。
重大な戦争と顕著な人口の増加がないものと仮定すれば、経済問題は一 年以内に解決されるか、あるいは少なくとも解決のめどがつくであろうと いうことである。これは経済問題が 将来を見通すかぎり 人類の恒久的な 問題ではないことを意味する。注
ケインズは近い将来、絶対的必要は満たされることになることを予想して いる。すなわち、豊かな社会の到来を予想していた。その結果として経済問 題は解決されてしまう。これは経済学は重要な学問ではなくなってしまうこ とを意味するという。同じ指摘がハロッドによってもなされている。
人間の欲望は満たされることのないものだ、とよく言われます。しかし、
満たされた状態は、思ったほど遠いことではないようです。技術が急速に進 歩すれば、経済的な財が、人々が必要とするだけ(或いは、それに近く)得 られるほど豊富に生産されることが可能です。 満たされることのない 欲 求は、芸術上の精進というような専ら非経済的な目標へ向けられることにな るでしょう。また、無限に手に入らぬ特殊なタイプの経済的な財が幾つか残 ることはあるでしょう。しかし、それも、人間生活の全体的なパターンから 見れば、あまり重要なことではありません。そうなれば、経済学は、重要な 研究問題としての影が薄くなります。注
シューマッハーはすでに経済問題は解かれたという。すでに経済問題は存
在しないという。
とりわけ、経済的な問題はすでに解決された収斂する問題であることを悟 るだろう。われわれはいかにして十分なものを供給するかということ、そし てそのためにはいかなる暴力的、非人間的、侵略的な技術も不必要なことを 知る。経済的な問題は現実にはないのであり、これまでもなかったのである。
だが、道徳的問題はある。そして道徳的問題は解決されれば未来の世代が努 力なしに生きられるような収斂する問題ではない。否、それは拡散する問題 であり、理解され、乗り越えられるべき問題なのである。注
ケインズの指摘は半世紀以上も前である。そしてそろそろ一世紀ほど経と うとしている。過去 年の間の経済発展は目覚ましいものであったのは事実 である。これはおそらくケインズ、ハロッドの予想を上回るものであったこ とは間違いないだろう。そうであるとすると、すでに豊かな社会は訪れてい るのかもしれない。すなわち、経済問題はすでに解決済みの問題であるかも 知れない。
われわれは専門家の意見に大きく左右される環境にある。経済問題につい ては経済学者が最も理解していると思われている。したがって、経済学者が 経済問題は解決済みであるといえば、解決済みの問題になってしまう。また、
数多くの経済学者が経済問題について論じていれば、いまだ経済問題は解か れていないと考えられてしまう。
経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合 にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配 するものはそれ以外にはないのである。どのような知的影響とも無縁である
とみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが 普通である。権力の座にあって天声を聞くと称する狂人たちも、数年前のあ る三文学者から彼らの気違いじみた考えを引き出しているのである。私は、
既得権益の力は思想の漸次的な浸透に比べて著しく誇張されていると思う。
もちろん、思想の浸透はただちにではなく、ある時間をおいた後に行われる ものである。なぜなら、経済哲学および政治哲学の分野では、二五歳ないし 三 歳以後になって新しい理論の影響を受ける人は多くはなく、したがって 官僚や政治家やさらには煽動家でさえも、現在の事態に適用する思想はおそ らく最新のものではないからである。しかし、遅かれ早かれ、良かれ悪しか れ危険なものは、既得権益ではなくて思想である。注
ケインズのいうように、経済学者の影響力は大きいことは認めなければな らない。しかし、だからといって経済学者の見解が正当なものであるわけで はない。
ここで重要なことは、生産の問題はかたづいたかどうかを科学の問題にし ていることである。経済問題が科学の問題として、客観的問題として存在し、
それがすでに解かれたかどうか、それともまだまだ解かれてはいないとする か、それを問題にしているのである。
豊かな社会は実現したか─社会心理学者の見解
経済学者ではなく、社会心理学者の見解に耳を傾けてみよう。
人間同胞( )の理想はかなりの程度、経済的競争によって促 進された。すばらしい科学的進歩、新しい工場建設、産業機構のさらにめま ぐるしい進展、これらは人間の物質的繁栄、身体的健康を大いに増進してく れた。そして、歴史上、はじめて、現代の産業や科学は地球上から飢餓や物 質的欠乏を一掃することの可能なほど大量に生産することができるように なった。科学と競争的勤勉さが人類を普遍的な同胞愛という倫理的理想へさ らに近づけつつあると主張しても過言ではない。注
経済的問題は、すなわち生産不足の問題は乗り越えられるべき、ないしは 乗り越えられた問題である。いまや、より同胞愛や倫理的理想の実現にエネ ルギーを注ぐべきだとロロ・メイはいう。やはり、ワクテルも同様の指摘を する。生産の問題はすでに解決済みの問題で、その先の問題こそ重要である と主張する。
すべての鍋にチキンを という経済的奇跡は、アメリカではほぼ達成さ れた。われわれはアリストテレス式の経済制限を回避し、彼が生まれながら の貴族だけのものとした経済力をはるかに超えたところ、アメリカ大衆の経 済状態を引き上げることができた。だがいまこそ、アリストテレスやその他 の思想家が二 年以上にもわたって問いつづけてきた、重要な問題に立 ち戻るときである。われわれは手に入れた豊かさと余暇の可能性を、なんの ためにどう使おうとしているのだろうか。注
フロムももはや生産の問題は解決済みの問題だという。
過去数世紀にわたって、誇りと楽天的精神とが、西洋文化を他からぬきんで たものとしてきた。すなわち、理性の誇りは人間が自然を理解し克服するた めの道具として働き、また楽天的精神は人類のもっとも深い希望を、すなわ ち、最大多数の最大幸福を、実現するために働いてきたのである。・・・生 産の問題が それは過去においては問題であったが 原理的には解決されて いるということは、ほとんど疑う余地がない。ここに、人間は史上で初めて、
全人類の一体化という観念と、人間のための自然の征服という観念とを、も はや夢ならぬ現実の可能性として、認めることができるのである。人間が誇 りを持ち、自己自身と人類の将来とに自信を持つのは正当ではないであろう か?
しかもなお現代人は不安に感じ、次第々々に迷いを深めてゆくのである。
彼は一生懸命に働き、努力しながら、しかも自分の活動は空しいものだと漠 然と感じている。事物に対する自分の力が大きくなればなるほど、彼は個人 的生活と社会的生活とにおいて自己の無力を感じてしまう。自然を使いこな すための新しい、より良い手段を作り出しながら、彼はそうした手段によっ てがんじがらめになり、そうした手段に意味を持たせる、ただ一つの目的を 見失ってしまっている。その目的とは 人間自身である。人間は自然の支配 者となりながら、自らの手によって作り出した機械の奴隷になってしまって いるのである。彼は事物についてあらゆる知識をもちながら、人間存在とい う、もっとも重要で基本的な疑問については、すなわち人間とは何か、いか に生きるべきか、人間内の巨大なエネルギーを解放して生産的に用いるには どうしたらよいか、といったことについてはまったく何も知らないのである。
注
社会心理学者の見解では、生産の問題はすでに解決済みのものであり、生 産の問題よりも重要な問題、真の人間の問題に焦点を当てるべきだという。
さて、経済問題が過去の問題、すでに解かれた問題であれば、効用、満足 が実現しているはずである。経済学は基本的に功利主義に基盤を置いている ことはすでに確認した。そこで、生産の問題がかたづいたということは、満 足が実現することを意味する。ところが、満足が実現していないという指摘 がある。
満足を求めない者がいるだろうか?誰もが満足を求めているにもかかわら ず、私たちの暮らしには、不満が蔓延している。なにを達成しようが、いく らお金をかせごうが、いかに多くの幸運に恵まれようが、十分ではないとい うのが、現代の悲劇である。一つの欲求を満たすと、かならず次の欲求がつ いてくる。
あなたは高級別荘地に家をもてるかもしれない。世界中のどんな富豪よりも お金をかせげるかもしれない。それでも、満足感はすり抜けていく。注
豊かな社会は実現した、生産の問題は解決済みである、経済の問題は恒久 的な問題ではないし、現に問題は解決されている。しかし、それにもかかわ らず、満足感のない社会に生き続けている。これまで手に入らなかったよう な財、サービスが自由に利用できるようになった。しかし、満足感は、やっ てくるはずの幸福な社会は実現していない。いわゆる経済福祉の水準は上昇 したことは事実である。ところが、満足感、幸福感はやってこない。
われわれの経済福祉は絶えず上昇しているのに、結果としてより幸福に なったとは感じていないのである。注
生産水準は向上し、便利で快適な生活は実現したようだ。無論、すべての 人が快適な生活をしているわけではない。しかし多くの人は裕福になり、貧 しさからの苦痛からは自由になり、これまで貧しかったがゆえに味わえな かった快楽を味わえるようになったことは事実である。しかし、満足はやっ てこないのだ、幸福にはなっていない。われわれは思い違いをしているので はなかろうか。幸福を求めていたのに、結果は幸福の実現ではなかった。
われわれは、いくら水を注いでもコップがいっぱいにならないと感じてい る。底のどこかに穴があいているのである。注
シューマッハーは、われわれは求めているものを知っている、そしてそれ を得たと思ったが、実は求めているものとは異なったものを手にしているの だという。
人はパンを求めているのに、石を与えられている。注
われわれはパンという幸福を求めていた。幸福は快楽の実現と苦痛の回避 だ。快楽の実現と苦痛の回避は生産増大によって実現する。こういう論理で 功利主義は生産増大をその目的にした。
生産は増大したから結果として幸福が実現するはずであった。ところが現 実には幸福は実現しない、満たされていない。
快楽の実現、苦痛の回避は実現したであろう。しかし、快楽と苦痛と満足 は、そして幸福は関係していない。
苦しみとつらさのない文明は、人類の理想のように見える。しかし、苦し
みを遠ざける仕組みが張りめぐらされ、快に満ちあふれた社会のなかで、人々 はかえってよろこびを見失い、生きる意味を忘却してしまうのではないだろ うか。注
快楽の実現、苦痛の回避こそがパン、すなわち幸福だ、こう信じた。しか し、現実は、石は石であって、パンではなかった。すなわち、快楽は実現し たが、幸福は実現しなかった。
大衆は心底不満であって絶望し、幻滅している。しかし、まさに不満を持 ち、幻滅しているからこそ、全力をもって全体主義への信仰を深めていかざ るをえない。今手にしているものを失うならば、何が手元に残るというのか。
彼らは、体に悪いことを知りつつ、無限と忘却を求めて麻薬の量を増やす麻 薬中毒患者と同じである。注
豊かな社会になっても問題は、不満は解消されないということはすでに指 摘されていたという。
今日世界全体に目をやると、耕作は日ごとに進展し、人口が増えている ことは、もはや疑う余地がない。人跡未踏の地はなく、われわれはあらゆる 土地について十分に知るに至り、交易に門戸を閉ざす所は見当たらない。か つては荒れ果てた危険に満ちた土地が、今では快適な農場に変貌し、昔日の 名残をほとんどとどめていない。われわれは田畑の開墾とともに森林を押し やり、羊や牛の飼育により野獣を追放してしまったのである。そのうえ、砂 漠にさえも播種し、岩には植樹し、沼地は排水したため、かつては人家がほ とんどなかった地域さえも、大都市ヘと変貌したのである。地球上には、も
はやわれわれが恐れるような島はなく、険しい岩肌の海岸は消え、あらゆる 場所に人間は住居を構え、政府を置き、文明生活を営むに至った。こうして、
われわれは地上隈無くはびこり人口過剰を来してしまったため、自然の恵み だけに頼っていては生きながらえることさえ困難な状態に陥っているのだ。
しかもわれわれは欲望を次第にふくらませ、不満を募らせるようになったた め、生存のための量の獲得はいっそう困難になっている。こういう状況にあっ ては、悪疫、飢饉、地震などの災害が過剰人口を減らし、人類を救済してく れるものと感謝の念で歓迎されるありさまである 。
以上は 霊魂について ( )という論文で、テルトゥ リアヌスが西暦二一 年に著したものです。これにより、現在私たちが陥っ ている困難な状況は幾世代も前から継続しているものであることがわかりま す。私たちはこのままでよいのでしょうか。何か取り返しのつかない事態が 起こってしまったのではないでしょうか。いったい何が問題なのでしょうか。
注
人間は本来幸福にはなれないというのが、フロイトの見解である。
フロイトは人間性に対して悲観的な展望をもっていた。彼の考えの前提か らすると、必然的にそうならざるをえなかったのだ。彼の見方によれば、人 間はどちらの方向へと向かおうとも不満をいだく運命にあるのだ。人間は、
自分自身や文明をそこなうことなく、初源の本能的な欲動を満足させること のできる生活を営むことはできないのである。人間は、一人きりであっても、
他人と一緒であっても、幸福にはなれない。人間には、自分が苦しむか、他 人を苦しませるかのどちらかしか選べないのである。注
フロイトの言うように、人間は幸福にはなれないのであろうか。幸福とい うありもしないものを望むことが誤っていたのであろうか。あたかも生産の 問題を解決すれば幸福が得られるとしたことが誤っていたのだろうか。だか らこそ、生産の問題が解決されたと思わせる環境が整っても、依然として満 足は訪れず、無論のこと幸福にはなれないのだろうか。
それとも、幸福は実現し得るが生産の問題と無関係であったのだろうか。
経済学は、科学は功利主義を暗黙のうちに前提している。ないしは、一般大 衆が功利主義を暗黙の前提にして生きている。一般大衆に奉仕するのが科学、
経済学という現代の学問の役割だと思われている。そうであってみれば、経 済学が一般大衆の欲しいと思っている幻想を提供をするのはごく自然なこと だ。
科学そのものは、われわれの科学は 否、一切の科学は、生の徴候として 見た場合、そもそも何を意味するか? 一切の科学は何のためのものである か、さらに辛辣に言えば、どこから生じたものであるか? どうであろう、
科学性とは事によると単に悲観主義にたいする恐怖、悲観主義からの逃避に すぎないのではなかろうか? 一種の巧妙な正当防衛ではなかろうか 真理 にたいする? また、道徳的に言えば、卑怯と虚偽のごときものではなかろ うか? 非道徳的に言えば、一種の狡智ではなかろうか?注
さらに、科学は現実から目を逸らし、夢見る者を、さらに深く眠り込ませ るためにのみ役立つだけだという。
理論的文化の胎内に睡んでいる禍つ日が漸次近代人を不安に駆り立て始め、
彼が安き心もなく、従来貯えきたった経験の中から、危険を逸らすための手
段を探し求め、しかも彼自身かかる手段をまともに信じるわけにもいかず、
かくして彼が己れの辿りゆくべき末路を予感し始めている間に、普遍的な才 能に恵まれた偉大な人物たちは信ずべからざる深慮をもって、科学の武器そ のものを利用することによって科学の限界と制限一般を証示し、これによっ て普遍妥当性と普遍的合目的性とにたいする科学の要求を断固として否定す ることに成功したのであった。因果律に拠って事物の最奥の核心を探求し得 ると僭称するかの妄想は、この証示によって初めてその正体を見破られたの である。・・・楽観主義が、永遠の諸真理に対して何らの危惧をも抱かずこ れに依拠することによって、一切の世界の謎の認識可能性と探求可能性を信 じ、空間と時間と因果性とを絶対に無制約なもっとも普遍妥当的な法則とし て取り扱ったとき、カントが暴露したのは次の事実であった、すなわち、こ れらの法則は本来、マーヤの業である単なる現象を唯一かつ最高の現実に持 ち上げ、この現象を事物の最奥にある真の本質の代わりに置き、これによっ てかかる本質の実際の認識を不可能ならしめることにのみ役立つにすぎない ということ、すなわち、ショーペンハウアーの文句に従えば、夢見ている者 をさらに深く眠り込ませるためにのみ役立つにすぎないということであっ た。注
わたしたちは、科学の持っているその特殊性を充分に認識しながら、それ が示す問題と、解決のための処方箋を吟味しなければならない。
幸福、満足を求めていた一般大衆は、科学である経済学によって満足が、
幸福が実現することを信じていた。科学にこそ力があると信じていたのだ。
そして、経済学は一般大衆の望みに従うように、ものの所有によって、すな わち多くの生産が実現することによって、幸福が、満足が実現するというか たちで問題を定式化した。科学である経済学は、一般大衆が真の幸福の実現
という苦難に立ち向かうのを回避する手段を与えたのだ。
しかし、ここで性急に結論を出すのは差し控えなければならない。むしろ、
経済学による、科学による問題の定式化が一般大衆を微睡ます構造を見出し ておかなければ、さらに科学、経済学はその微睡ます手段を開発するだろう。
それは、功利主義を暗黙のうちに信仰する一般大衆が望むものであるし、や はり功利主義の虜になっている科学者、経済学者が喜んで提供しようとする ものだからだ。
ケインズの欺瞞─自己欺瞞?
ケインズが豊かな社会はまだ訪れていない、生産の問題がすなわち経済問 題はまだ解決済みではないとした理由をあらためて考えてみよう。ケインズ によると、経済問題が解決したことになると、困ったことが起こるという。
経済問題が解決されるならば、人類はその伝統的な目的を奪われることに なるだろう。
これは、果たして恩恵となるだろうか。人生の真の価値が全面的に信じら れるならば、この予想は少なくとも恩恵の可能性を開くものである。しかし 数限りない世代にわたる長期間、普通の人のなかに育まれてきた習慣と本能 が、わずか二、三 年のうちに放棄を求められるように再調整されることを 考えると、私は不安を禁じ得ない。
当世風の言葉を使えば、一般的な 神経衰弱 を予想せざるをえないので はないだろうか。われわれは、すでに私がいわんとしていることを多少とも 経験している。つまりイギリスやアメリカでは、富裕な階級の妻たち、すな わち不幸な婦人たちの間ではすでにありふれたものとなっているような神経 衰弱がそれである。彼女たちの多くは、その財産の故に、伝統的な努めや仕 事を奪われている 彼女たちは経済的必要という刺戟を奪われると、料理や 洗濯や繕いものに十分な楽しみを見出すことができないにもかかわらず、そ れら以上に楽しいことを見出すことも全くできないのである。注
このように、経済的必要がもはや切羽詰まったものではなくなると、目的 の喪失が起こる。これは厄介な問題だ。経済以外に価値を、目的を見出せな い人たちにとって、そしてそれは大部分の人だが、いかに時間を過ごすかが
大問題となり、簡単に解決はできない。
人生が耐えられるのは、歌うことができる人たちにとってだけであろう そして、われわれのうちで歌うことができる者は何と少ないことだろう!
かくて人間の創造以来はじめて、人間は真に恒久的な問題 経済上の切迫 した心配からの解放をいかに利用するのか、科学と指数的成長によって獲得 される余暇を賢明で快適で裕福な生活のためにどのように使えばよいのか、
という問題に直面するであろう。注
豊かな時代が到来したときに、その豊かさを享受することができるのは、
活力を維持することができて、生活術そのものをより完璧なものに洗練し、
生活手段のために自らを売り渡すことのないような国民、歌うことができる 人だけである。
われわれはあまりに長いこと楽しむようにではなく、懸命に努力するよう に訓練されてきているからである。自らの身を処するということは、特別の 才能をもたない普通の人間にとって恐るべき問題である。とくに彼が伝統的 な社会の土壌や習慣や愛すべきしきたりに根をもっていないとすれば、なお さらそうである。・・・独立の所得を得ているが、結社や義務や義理をもた ないこのような階級の大部分は、自分たちに課せられている問題の解決に、
惨めな失敗を重ねているように私には思われるからである。注
豊かになると、恐るべきことになる。そこに幸福はなく、惨めな失敗があ るだけだという。同じ問題を指摘するのはトルストイである。
われわれのように富裕で、有閑無為なすべての人は、みなこういう狂人な のだろうか? そして私は、ほんとうにわれわれがそうした狂人であること をさとったのである。少なくともこの私は、まさしくそういう狂人なのであっ た。注
裕福で、これといった仕事もない人間、トルストイの仲間の大地主は狂人 であるという。トルストイ自身も狂人だったと告白する。また、オルテガも 世襲貴族に関して、自己の力で生み出したのではない、あり余るほどの豊か さは、欠陥人間を生み出すという。
あり余るほど豊かな可能性をもった世界は、人間の存在形式に自動的に重 大な変形をもたらし、欠陥の多いタイプ、 相続人 という普遍的な種類に 包含しうるタイプの人間を生んだのである。 貴族 はその特殊な一例にす ぎず、甘やかされた子供もまた別の一例であり、われわれの時代の大衆人も そのより広汎にわたるいっそう根本的な例である。注
ガルブレイスも指摘する。
富があるために物事を理解するのが妨げられるということは疑いない。貧 しい人は、持っているものが少ないからもっと必要なのだという彼の問題と 解決策とをいつもはっきり理解している。裕福な人は心配事が多くなるので、
それらをどう処理したらいいのかわからないことがそれなりに多い。そして ゆたかに生活することを身につけるまでは、富の使い方を間違ったり、馬鹿 げたことをしたりすることがよくあるものだ。注
この問題に直面したケインズはたじろぎ、まだ生産の問題は解決していな いと宣言したのだ。ケインズは本当の問題から逃げ、あたかもまだ関わるべ き問題、すなわち経済問題があるかの如き宣言をした。これには、自分の周 囲の歌を歌えない人々への同情があったのだろう。また自分自身も経済問題 がなくなると、経済学者としては意味をもたなくなる、こう考えたのではな かろうか。経済問題を解くことで、ケインズは歌を歌っていたのだ。しかし、
解くべき経済問題がなくなれば、ケインズは歌を歌えなくなる、歌を歌うに は経済学は必要だ、そう思い込んだのかも知れない。歌を歌う手段である経 済学を目的化してしまったのだ。やはり専門家であったのだ。専門家に居直っ てしまったのだ。他者への憐憫の情は自己への憐憫でもあった。自己へも、
他者へも厳しくなかったのだ。自己へも、他者へもやさしくはなかったのだ。
ケインズ自身の絶対善ではなかった。すなわち、他者への、世界への絶対善 でもなかった。いいかえると、真の問題は生産の問題ではなく、人間の問題、
歌を歌えるかどうかの問題であった。しかし、それをすりかえて、生産の問 題にしてしまったのだ。それは自己の真の欲求への道を閉ざすという自己欺 瞞をおかした。さらにはいまだ生産の問題が解決していないというメッセー ジを与え、一般大衆が真の幸福への道を目指すことを妨げたのだ。難問を一 般大衆につきつけることの恐怖を感じたのかも知れない。そこで一般大衆が 手近に得られるものを与えたのかもしれない。ここで同じ問題を扱ったガル ブレイスの見解を確認しておこう。
ガルブレイスの敵前逃亡─封印されたのは?
ゆたかな社会が実現しているかどうかについて、ガルブレイスは疑ってい ない。生産は重要ではなくなった、このように判断する。
生産は、生産される財貨のためにはもはや緊要ではなくなった。・・・し かし、失業した人は、所得がえられなくて困る。・・・需要および生産の後 退は、近代の大会社にとってまだ防衛策がとられていない主要なリスクであ る。注
貧困ではない、それは明瞭だという。なぜなら、明らかに感じられる欲望 は既に満たされ、いま重要視されている欲望は、教えられてはじめて認識さ れる類のものだからだ。そういう意味では、すでに指摘されるまでもなくわ かっている欲望、自知されている欲望はすでに満たされているのだ。
貧困が世界の致るところにみられても、われわれが貧困でないことは明ら かだ。食事、娯楽、交通、水道やガスなど、一世紀前には金持でも享受でき なかった楽しみや便宜を普通の人でもえられるところでは、貧困の世界で急 務とされていたことは意味を失ってしまう。人々のたくさんの欲望がもはや その人自身にもはっきり意識されないほど、時代は大きく変わっているのだ。
広告やセールズマンにより、いわば合成され仕込まれて初めて欲望がはっき りするほどである。そしてまた広告やセールズマンの仕事は現代の職業とし て最も重要で手腕を要するものの一つとなっている。十九世紀のはじめには、
自分の欲しいものが何であるかを広告屋に教えてもらう必要のある人はいな かったであろう。注
さらに、本当には生産を重要視していない証拠、豊かな社会になっている 証拠として、われわれに問いかける。
過去の緊急事態に際して、われわれは生産増加のための措置に真剣に取り 組んだ。現在同じことをしようと思っても、おそらく失敗するであろう。そ れは無知や惰性のためというよりは、むしろ無理な努力をしてまで生産を増 加する必要は認められないという理由によるものである。換言すれば、生産 に対するわれわれの関心はそれほど重要度の高くない問題に対する関心なの かもしれない。生産増加のための有効な手を打とうと考えるほどには生産増 加に熱心でないのだ。われわれは生産の現状に満足している。ということは、
問題がひとりでに解決するかぎりにおいてしかわれわれは生産に関心をもっ ていない、というのに近い。注
このようにガルブレイス自身は豊かな社会になったことを確信している。
しかし、社会一般は、一般大衆はこのことを理解しない。豊かであると指摘 されても、生産重視を改めるのが適切であったとしても、そこに困難がある なら、豊かさであることを認めることはできない。豊かであることを認める ことは困難と向かい合うことになる、一般大衆は困難を避けたいのだ。困難 を避けることがすべてになる。
観念が人に受け入れられるようになるのにはいくつもの要因がある。われ われは真理と便宜とを結びつけて考えることがかなり多い。ここで便宜とい うのは、利己心や個人的な幸福に最も密接に合致したもの、または無駄な努 力や生活の破綻を避けるのに最も好都合なもののことである。また、自尊心 に貢献することも非常に受けいれやすい。注
われわれは理解しやすい概念、受け入れやすい概念にしがみつくのだ。利 己心はわれわれにとって一番わかりやすいし、したがって受け入れやすい。
これに対して、利己心を超えることは、大変な努力を要求する。したがって、
易きを求める人間としては、遠くにあって努力を必要とする概念は避け、近 くにある、効用、快楽という概念を当然のこととして支えとする。
おぼれそうな人がいかだにしがみつくように、最も理解しやすい観念にし がみつく。このことは既得利益の最高の表現である。というのは、知識の既 得利益は他のどんな宝物よりもいっそう大切に保護されているからである。
人々が以前によく勉強したことを弁護するに当って宗教的な情熱にも似た態 度を示すことがよくあるのは、まさにこうした理由によるものである。注
また、緊急事態が発生しているのではないかと思わせる事態になっても、
簡単にこれを処理できないと思われれば、問題を先送りする傾向がある。
必要緊急の仕事を避ける最良の方法の一つは、済んだ仕事に没頭している ようにみせかけることである。注
このようにして、豊かさが実現していても、あたかもまだ貧しく、したがっ て相変わらず生産が問題だと思おうとするのだ。
さらに豊かさが実現しているとしても、それを前提とできない構造がこの 社会にはあるのだ。
ゆたかさが経済上の事実であると仮定して議論することがとくに便利であ るとか、容易であるとか考えてはならない。それどころか、そうした仮定は
多くの重要な人々の威信と地位を脅かし、新しい思想に直面する大きな恐怖 をあらわにするのである。われわれがここで直面するのは、既得利益の中で も最大のもの、つまり精神の既得利益である。注
しかし、豊かな社会を豊かだと認められない構造はあるが、だからといっ て豊かさを認めず、相変わらず生産が問題だとしておくと、せっかく手に入 れた豊かさ自体を失う羽目になりかねない。
自己を誤解したゆたかな世界にとっての諸問題は深刻で、ゆたかさ自体を 脅かすことにもなりかねないが、貧困な世界にあっては、差し迫った貧困が あるというだけでのことからして、誤解などというぜいたくなことはある筈 がないが、同時に何の解決策もある筈がないからである。注
しかしこのことが可能であったのは、まだまだ生産の問題であるというこ とを信じさせる構造があったものと思われる。
経済学は本来、経世済民が、したがって幸福の実現こそが目的である。し かし、伝統的経済学は、さらに一歩踏み出し、功利主義に従い、快楽・苦痛 の次元で捉えた効用を最大化することが満足をもたらし、幸福になると前提 される。効用、満足を実現することは財の消費によって実現する。かくして、
満足が、幸福が実現しないとしたら、それは消費が不足しているからだ。す なわち生産の増大によってやがて幸福は、満足は実現する、こういう構図で ある。さて、生産が十分に増大しても相変わらず生産第一主義で推移してい る原因を、ガルブレイスにしたがって整理してみよう。
ガルブレイスによると、そもそも生産第一主義が当然のこととされる背景 がいくつかある。まずは、富の再分配の問題である。貧富の差があれば、富
の再分配の問題が起こってくる。これを解決するのは難しい。しかし生産が 増大するならば、貧富の差を解消する方向で分配できる可能性が生ずる。こ れは生産増大を正当化することになる。
昔は生産が第一の関心事であり、近代には保障が広く求められるように なったが、これらは現代では生産にたいする関心に集約されることとなった。
実質所得がふえれば、富の再分配にからむ昔の恨みを買わずにすんでしまう。
高水準の生産は有効な経済的保障の基礎となった。注
さらに国家の生き残りをかけた競争も、生産増大を正当化することになる。
これらの要因は、生産がいくら大規模になっても、生産そのものの重要性は 失われない根拠を提供する。というのも、絶対的に生産が増大しても、分配 の不平等は必ず残っている。分配の不平等是正に対する要請が存続するかぎ り、生産増大の重要性は減ずることはない。また、国家の生き残りをかけた 生存競争に勝つためには、仮想敵国に対して優位に立たなければならない。
優位は相対的ということだから、生産がいくら増大しても、その重要性は大 きくなることはあっても、小さくなることはない。
生産増大に伴う国家的威信の競争もこの点に関係する。その結果、生産自 体の重要性が巧妙に弁護されることとなった。この弁護論によると、生産の 重要性は生産規模とは別個のものてある。注
ガルブレイスによると、経済学者は生産の重要性に対して特別な既得権益 をもっているという。伝統経済学の中心課題は生産である。生産の重要性を 前提にして経済学は構成されている。そういう経済学を教えている立場から、
もし生産の重要性を取り除いてしまうとしたらどうだろう。経済学の中心課 題がなくなってしまうとしたら、どうだろう。これまでの教育を否定するこ とになってしまうであろう。また、教えるべき中心課題がなくなってしまう。
これでは職業としての経済学は成り立たない。
通念が生産をどのように正当化しているかという事情を、社会にたいする 生産の特殊な重要性ではなく、経済学にたいする生産の特殊な重要性という 点からまず見ることにする。生産における既得利益についてはのちに考察す ることにして、ここで注目すべきことは、経済学者が特別な既得利益をもっ ていることである。生産の重要性は経済学者の経済計算の中心である。あら ゆる既存の教授方法も、またほとんどすべての研究も、生産の重要性という 基礎の上に立っている。与えられた資源からの生産を増加させる行為は善で あり、重要とされている。生産を抑えたり滅少させたりするものはどんなも のでも、その程度に応じて悪であるとされている。注
このように、経済学のもっている構造も、社会の構造も、生産第一主義か ら脱却しにくい構造を持っている。
豊かな社会になった、すでに生産は重要な問題ではなくなった、こう認め ることの困難については十分論じた。そこで、正面突破を試みるしかない。
ガルブレイスは過去の経済学者であるマーシャルを引用する。
経済学では目的は問わないという不文律があった。目的を問うというのは はじめから封印された問題であったのだ。
経済学は財貨に関するものだが、・・・その財貨について判断を下す権利 はないとされた。財貨が必要なものか不必要なものか、重要なものか重要で
ないか、というようなことは、経済学の領域には入らないものとされた。ア ルフレッド・マーシャルがこの点に関して与えた規則は、ほかの多くの場合 におけるのと同様に、それ以後の経済学者によって忠実に守られている。マー シャルは次のように述べている。 経済学者は精神状態の現れを研究するの であって、精神状態それ自体を研究するのではない。経済学者は、いくつか の精神状態が同じような行動意欲を起こさせるものであることがわかれば、
彼の目的上、まずそれらを同様に取り扱うのである。 注
しかし、マーシャルはこれが最終的目的地点であるとは考えていなかった。
彼はそのすぐあとで、このような単純化は 出発点 にすぎないと付言し ている。この単純化は経済学を科学的にする上において非常に貢献したのは 事実だが、その後の経済学者はいつまでもこの出発点にとどまることに満足 していて、またそれが学者的慎みであり、科学的な美徳であるとして満足し ていた。こうした慎みの必要は若い学徒の心の中に強くたたきこまれている。
いっそう多くの食料がほしいという欲望は正しく、もっと高価な自動車がほ しいという欲望は軽薄である、というようなことをいいたくなる人は、経済 学の訓練が全然なっていないとされてしまう。注
こんなふうに、目的を問わないことが経済学の姿勢となった。ロビンズも 同じである。目的に対しては問わない、いかなる目的をも研究対象、価値判 断から自由というのがロビンズの立場である。
経済学は、所与の諸目的を達成するために諸手段が希少であるということ から生ずる、〔人間〕行動の側面を取扱うものである。このことの当然の帰
結として、経済学は諸目的の間では全く中立的であることとなる。換言すれ ば、およそいかなる目的にせよ、その達成が希少なる手段に依存するかぎり、
それは経済学者の第一の任務と密接な関係をもつこととなる。経済学は目的 それ自体を取扱うものではない。経済学は、人間は、定義され理解しうる行 動をなす傾向をもつという意味において、目的を持つものと想定し、そして その目的に向かっての前進が手段の希少性によってどのように制約されてい るか この希少な手段の処分がこれらの究極的な価値判断にどのように依存 しているか をたずねるのである。注
生産が重要ではないということはすでに認識された。それにもかかわらず、
生産が重要だと思わせることは、他の問題をひき起す。
われわれが生産それ自体をかくも重要視する原因となっている幻想の体系 は、それ自身危険な、害悪のあるものである。注
生産こそが重要だということは、生産を可能にする需要が存在しなければ ならない。しかし、もはや自発的な需要は存在せず、したがって生産を正当 化するためには需要を創出しなければならない。ここに登場するのがガルブ レイスの依存効果である。しかし、ただ単に需要を創出したとしても、支出 に結びつかなければ意味がない。しかし、支出を可能とする資金がない。そ こで消費者金融が普及することになる。
今日の欲望造出方法における一つの危険は、それに関連した負債発生過程 である。消費者の需要は、消費者の借金する意志と能力とにますます依存す るようになる。注
わが国でも問題になっている消費者金融がひき起す負債の問題である。消 費者金融の根因は依存効果にある。また、デモンストレーション効果を利用 した依存効果にある。企業が多額の宣伝広告費をかけるというのに、借金の 面倒を考慮するのは当然だという。
何十億ドルものかねを使って人々の欲望をかきたてているほどの社会が、
これらの欲望のための金融までもみてやらないとしたら、むしろ不思議とい うべきであろう。そしてさらに、これらの欲望を実現するための借金が負担 の軽い望ましいものであることを人々に説得するとしても、それは当たり前 のことだ。事実そのとおりになった。消費者金融に関する宣伝と消費者金融 の仕組みは、物資の製造や欲望の育成と同じく、近代的な生産の一部となっ ているのだ。ピュリタン的な精神が放棄されたわけではない。それは近代的 販売の巨大な力に圧倒されたにすぎない。
この過程全体を眺めると、消費の増加は消費者負債の おそらく比例的以 上の 増加をもたらすと考えてよかろう。注
造られた欲望を満たすこと、そのために借金地獄を造り出すこと、これが 当然の帰結であるなら、生産重視の構造は改められなければならないだろう。
ガルブレイスの認識は正しい。そこで古い目標である生産重視が否定された なら、新しい目標が必要とされる。
古い目標が疑わしいものになれば、新しい目標に対する関心が次の思想的 な仕事であるばかりでなく、それは避け難い仕事である。注
しかしここには大きな困難がある。真正面から通念と対決せざるを得ない