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ジョルジュ・バタイユにおける 経済と宗教

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Academic year: 2021

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はじめに

私は経済と宗教とに強い学問的好奇心を持っている。その理由を自ら対象 化したいと考えて、異端の文学者ジョルジュ・バタイユが書いたものを読ん できた。だから、これは特殊で私的な欲望に基づく研究である。だが、この 研究は同時に、経済と宗教との根源的な関わりを一般的に明らかにすること に繋がるはずである。この論文が書かれなければならなかった理由がそこに ある。これまでになされたことのない、経済学と宗教学の対話である。

バタイユの、おそらくは代表的な小説であろう『眼球譚』は、性と暴力、

冒涜と殺戮に満ちている。しかし、最も罰当たりなバタイユは絶え間なく宗 教性を追求し続けた。戦間期にバタイユは『無神学大全』を発表した。最初 の『内的経験』は 年から 年にかけて書かれ、 年に出版された。 冊 目の『有罪者』は 年に出版され、 部作最後の『ニーチェ ― 好運への意 思』は 年の出版である。

直後、バタイユの関心の対象はなぜか経済学へと変化する。経済学 部作

ジョルジュ・バタイユにおける 経済と宗教

山 﨑 好 裕

福岡大学経済学部

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の最初で唯一出版された『呪われた部分Ⅰ ― 消尽』は 年から書き継がれ、

年に出版された。バタイユは続いて、 年から 年に『エロティシズムの 歴史』の、 年から 年に『至高性』の原稿を執筆したが、出版されないま まになった。その後も、私が生まれた 年に亡くなるまで、ほぼ途切れず に著書を出し続けている。

経済と宗教とに共に関心を持つ者にとってバタイユはなんとも魅力的では ないか。ただ、これまでそうした研究者がいなかっただけである。

.限定経済と普遍経済 ― 古典派経済学との比較

バタイユは限定経済という見方に対して、普遍経済を対置しなければなら ないと述べる。限定経済は、我々の経済学が古典派時代から受け継いできた 観点であり、生産、そして、生産的労働を中心とし、そこに価値を見出す経 済観である。これに対して、来るべき普遍経済は、実は原始に存在し、今な お我々の経済活動の根底にあり続けている経済であり、消尽、すなわち、バ タイユの言う非生産的消費が中心となる経済である。

我々は現在もなお生産を中心に経済を考えている 。一国の経済を支える のは国内総生産であり、我々はそれが %伸びるかどうかに一喜一憂してい るではないか。それでは、なぜ物は生産されなければならないのか。一般に 財は資本財と消費財に分けられる。資本財は、投資によってこれまでの資本 に付け加わり、次年度の生産のために再び貢献することになるような財であ る。資本財は使用によって毎年少しずつ物理的にも擦り減りながら価値を喪 失していくが、こうした資本減耗は生産的消費と呼んで一向にかまわない。

他方、消費財は生産と何の関係もないように見える。我々に消費されてし

ジャン・ボードリヤールは、これを「生産の鏡」に囚われている状態と 言った。

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まえば、直ぐに姿を失い、資本財のように次の生産に使われることはないか らである。だが、我々とは経済学の見方では労働力のことであるから、消費 財は生産になくてはならない労働力を再生するための不可欠の投入財なので ある。また、経済学において消費財は有用性の概念と深く結びついている。

消費財が消費されるのはそれが効用と呼ばれる有用性を持つからに他ならな い。だから、古典派経済学やマルクス経済学のように投下労働を価値の源泉 と見るにしても、今のミクロ経済学の元になった限界学派の経済学のように 効用を価値の源泉と見るにしても、限定経済は価値という観念と切り離すこ とができない。

バタイユが限定経済に対置する普遍経済は、全くこれまでの経済学とは異 なる捉え方である。

制限された経済の視座から普遍経済のそれに移行することは、本当に ひとつのコペルニクス的転回を実現している。つまり、思考と、それか ら道徳を転倒してしまうということなのである。最初から、およそ見積 もることのできる富の一部が損失に、あるいは可能な利得なしに非生産 的使用にゆだねられているならば、見かえりなく商品を譲るのは当然で あり、不可避でさえあるのだ 。

全く生産的でない消費を重視する視点は、バタイユが 年代に書いた論 文「消費の概念」に既に現れていた。バタイユはこの論文のなかで消費を明 確に二つの部分に分けてみせる。一つは、生産と保存という過程に還流され ていく部分で、これが生産的消費である。そして、バタイユが重視するのが、

第二の、非生産的消費であった。非生産的消費として、奢侈、葬儀、戦争、

『ジョルジュ・バタイユ著作集』第 巻、 ページ。

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宗教行為、モニュメントの建立、賭博、娯楽、芸術、生殖を目的としない セックス などがあげられる。このような生産と保存の過程から逸脱した消 費はバタイユにとって根源的なものである。それは、バタイユの宗教研究に も現れた、ヘーゲル的なものと異なり、体系へと回収されていかない否定性 とピッタリ対応している。バタイユの言葉では、生産的消費が未来を前提に しているのに対して、非生産的消費の意味は現在の瞬間のうちに与えられて いる。

非生産的消費は必ず恍惚の感覚を伴い、宗教的な祝祭性を帯びている。バ タイユのあげる有名な例がポトラッチという消尽慣習に他ならない。バタイ ユはマルセル・モース『贈与論』からの明らかな影響の下、しかし、それと は異なり、ネイティブ・アメリカンの部族同志の富の華々しい贈与による戦 闘という意味を強調する。モースやカール・ポランニーのように、「結局は 一種の交換行為である」という見方を認めないのである。バタイユでは濫費 への破壊的な衝動が強調されている。そして、バタイユはこのポトラッチの 理由への考察を通じて、非生産的消費の原因へと迫っていく。

ポトラッチを一方的に富の消尽と解釈するわけにはいかない。最近に なってはじめて、私はこの困難を解決することができ、「普遍経済」の 原理にかなり両義的なベースを与えることができた。それは、エネルギー の浪費は常に事物の反対であるが、事物の秩序のなかに入り込み、事物 に変わって考慮される、ということである 。

バタイユは違ったが、ケインズや折口信夫といった同性愛者の性行為も典 型的であろう。

前掲書、 ページ。

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バタイユがここで事物の秩序と言っている通常の意味での経済循環からす ると非生産的消費は異物である。だが、それはエネルギー循環というより広 い観点からすれば、システムの維持になくてはならない要因ともなる。バタ イユが事物の秩序にだけ注目することを限定経済とし、より広くエネルギー 循環を考えることを普遍経済と呼ぶ理由がここにある。

システムの維持に非生産的消費が必要なのは富の過剰性に原因がある。そ して、富が過剰なのは、我々に富をもたらすエネルギーが過剰だからである。

バタイユによれば、太陽からくるエネルギーが地球上の生物にとって必要以 上のものであることが根本である。バタイユはこれを、太陽が我々にエネル ギーの無償の贈与をしてくれているという事態として捉える。太陽の贈与の 無償性は、ポトラッチにおける贈与の激しい無償性と相似的である。また、

それは神の無償の愛という宗教性すら帯びている。

過剰なエネルギーは過剰な富を生み、それを処分しなければ、システムに 溢れてシステムを破壊する。だから、人類はシステムの維持のために非生産 的消費、あるいは過剰性の消尽をしなければならない。だから、禁欲ではな く蕩尽こそが道徳的なはずである。キリスト教とブルジョア道徳によって、

こうした本来の在り方が転倒してしまっただけなのだ。

さて、バタイユの非生産的消費であるが、詳しい者はそれがある古典派経 済学者の議論と瓜二つであることに直ぐ気づくはずである。しかし、今まで それを指摘した者はいない。なぜか。それはバタイユの研究者は古典派経済 学者の著作を読まないし、古典派経済学の研究者はバタイユの著作を読まな いからである 。理由はそれだけだ。

アダム・スミスによって開かれた流れから二人の経済学者が現れ、古典派

岩野( )はバタイユの経済思想を、 年に『クリティック』誌に発 表された論文「実存主義から経済学の優位へ」を中心に論じている。この 論文はジャン・ポール・サルトルからの批判に応えたものである。

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経済学の基礎を築いた。年下の一人はデイヴィッド・リカードウである。彼 は極めて論理的なかたちで演繹的な経済学体系を構築した。商品の価値は投 下労働量に比例して決まるという労働価値説を初めて厳密に定式化し、生産 要素である労働と資本への所得分配の変化が価格に対して与える影響を詳細 に分析した。リカードウの体系の特徴についてセイの法則ということが言わ れる。セイの法則は「供給は自らの需要を作り出す」という命題で表現され る。生産は同額の購買力を生み出すから、生産した財は必ず購入される。労 働者の消費は生存水準に固定された実質賃金水準に対応しているから、それ 以上でもなければそれ以下でもない。雇用量は資本家が蓄積した賃金基金を 実質賃金率で割ることで決まるから、人口を増やして経済を成長されるため には、資本家の禁欲と資本蓄積が必要である。つまり、この体系に非生産的 消費が入り込む余地はない。

これに異を唱えたのが、リカードウを経済学へと導いたトマス・マルサス であった。マルサスは経済成長の天井となっているのは有効需要であるとす る。有効需要が十分にあって商品が順調に売れるような状況でなければ、経 済は発展していかない。では、有効需要はどこから来るのか。労働者は生存 水準以上の消費ができないから期待できない。資本家も禁欲的だからダメで ある。残されたのは、リカードウによって寄生的階級と見なされた地主であ る。マルサスは地主の、ズバリ非生産的消費こそが経済を救うと主張したの であった。マルサスとバタイユの類似は用語が同じであるだけではない。バ タイユが最後に行き着いたように、マルサスでも非生産的消費が経済を維持 するのに欠かせないということになっている。リカードウの経済学は限定経 済に、マルサスの経済学には普遍経済に実によく対応する。

ジョン・メイナード・ケインズは、リカードウでなくマルサスに軍配が上 がっていれば、経済学はよほどマシなものになっていただろうと述べた 。 これに対して、バタイユがリカードウやマルサスを読んだとはとても思えな

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い。しかし、仮にも経済学を論じようとしたからにはその手の本を何冊かは 読んでいただろうし、間接的な影響関係はあったと断じて間違いないだろう。

.至高性とエロティシズム ― 折口信夫からの照射

バタイユの至高者の概念は既に見た消尽からの直接の帰結である。至高者 とは消尽し、決して生産しない者である。逆に、持たざる者は自分の生存に 必要な分だけしか消費できない。消尽する至高者は消費のなかに決して有用 性を見ない。消尽による有用性の世界からの聖なる逸脱は崇高な生を開示し てくれる。そうでない人々は、だから、至高者に直面したときに神的なもの に出会ったという感情を持たざるをえない。この意味で、至高者の持つ至高 性を客観的なものとして捉えることはできず、常に深い主観性のなかに現 れる。

私が言いたいのは、自分の時間の一部をあてて至高者のために労働す る大衆の個々人が、この者を至高者と認めているということである。つ まり、個々人は至高者の中に自己を認めるということなのだ。個々の大 衆の目には、至高者もまずは対象であるはずなのだが、大衆はもはや至 高者の中に対象を見ることなく、逆に主体を見出すのだ。厳密に言うと、

一般的には彼の同類たち、特に同じ共同体に属している者たちについて も同様のことが言える。しかし、彼にとって、至高者は自分の努力の一 部が特権的に結びつく内的な実存という深い真理なのである。この一部 とは彼が自分以外のものに結びつけるあの分け前なのだ 。

ケインズとバタイユの関係について、唯一直接言及した論文として山﨑

)がある。

『至高性』(人文書院)、 ページ。

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こうして至高者は共同体の個々人が主体性を映す鏡となる。我々はここで、

バタイユと同世代であるジャック・ラカンの大文字の他者という概念を想起 せざるをえないであろう。また、象徴天皇制度について坂本( )が語る、

あのスタイルと瓜二つであることにも気づくのである。

至高者との深い主観性における交流は、バタイユにおいてエロティシズム の一種である。エロティシズムの本質は、肉体的なものにせよ、精神的なも のにせよ、他者との結合であり、存在の連続性ということへの接近を意味し ている 。天皇への恋闕の情が怪しく艶めかしいものであるのもこのためだ ろう。

日本民俗学の話である。柳田国男にとって、神は共同体に隣接する山や海 にいて村落を守る先祖の霊であった。しかし、柳田に師事した折口信夫にとっ ての神は、共同体の外からふらりと来訪する「まれびと」である。村人は

「まれびと」を饗応する。「まれびと」は饗応を受けて、人々の日ごろの労 働の賜物を非生産的に消費するのである。「まれびと」は専ら消尽する者で あるため、至高者としての性格を身に帯びて神となるのだ。

安藤( )は、折口の「まれびと」概念が本来持っていた構造として、

「みこともち」と「ほかいびと」という貴賤の 極を摘出している。「みこ ともち」は神の言葉を預かり知る天皇のことであるが、天皇はまさに蕩尽を 事とする至高者である。天皇が天の下を統べることを古く「しろしめす」と 言ったが、これは国々から献上される御食(みけ)を消尽することに由来す る言葉である。

「みこともち」がなぜ「まれびと」かと言えば、それは日本古来の物語プ

この意味でのエロティシズムは宗教性と緊密に結びついている。キリスト 教神秘主義のエクスタシー体験もそうだし、インド後期密教の瑜伽が尸林 において賤民の娘とセックスをすることであったのもそうである。中世日 本でも観世音菩薩は僧侶たちと夢の中でしばしば性交した。

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ロットである貴種流離譚から説明できる。尊い血筋の者が草臥れた姿で諸国 を流浪し、やがて聖化されていく話はおそらく幾万回も語られ続けてきた。

高天原を追われ、やがて、中つ国の支配者である大己貴へと血統を繋げる素 戔嗚も、最初蓑笠姿で諸国を流浪しなければならなかった。そもそもが高天 原の支配者、天照も天岩戸に隠れなければならないほどの苦痛を味わった。

やんごとなき身の上は試練によって保証されねばならないのであって、当時 もっとも苦しかった試練が草枕に身を置くことなのである 。

「ほかいびと」とは物乞いや河原乞食のことである。同時に彼らは芸能の 民であった。彼らは歌舞音曲を事とし、村々を渡り歩いて放浪の旅を続ける。

バタイユが非生産的消費の典型として芸能や娯楽をあげていたことを思い出 してほしい。「ほかいびと」の存在そのものが蕩尽を象徴する。非人である 彼らは賤しさの極みにおいて神性を身に帯びる。常民たちの目に映る彼らは、

祝祭というハレの日にどこからともなく姿を現す来訪神なのである。

折口信夫が 年に発表した論文「道徳の発生」に、既存者という不思議 な用語が忽然と現れる。これは正直かなり際どい。なぜなら、平田篤胤のキ リスト教絶対神へのあこがれを受け継いだ概念だからだ。篤胤は、天地初め て開けしとき、高天原に造化三神が成ったのでは困ると思った。三柱が、天 地が始まってから、高天原という誰が造ったともしれない場所に生成したと いうのではありがたみが薄いのである。そこで篤胤は神話を大胆に書き換 える。

古ノ伝二曰ク、古天地イマダ生ラザリシ時、天御虚空に成リマセル神 ノ御名ハ、天之御中主神、次二高皇産霊神、次二、神皇産霊神、コノ三 柱ノ神ハ、並ナ独神成リマシテ御身ヲ隠シタマイキ

中世の本地物のほとんどが、神が人であったころに命の失うような受苦体 験をする話になっているのもこのためであろう。

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これで造化三神はこの世界から超越した存在になった。三柱はこの世が始 まる前に既に存在していた既存者である。

ただ、ここで注目しておきたいのは、既存者概念のこの側面ではない。そ うではなくて、既存者がこの世界の外部の存在であるというこの一点である。

「まれびと」はこの世の存在ではなく、この世の外からやってくる。彼らは この世界の外にいるという意味で既存者であり、蕩尽の祝祭を通じて至高者 となっていく。祝祭は共同体がこの世の外部と接する特異な時空のことを意 味しているのである。

おわりに

バタイユはいわゆる宗教体験を重視していた。だが、彼はキリスト教的な 信仰からの脱却と乗り越えを意図していたので、宗教性を帯びないように内 的経験という言葉で同じことを表した。内的経験は突然人を襲い、客観的に 捉えようとすると必ず手から逃れて輝きを失ってしまう。内的経験を把握す るには、その内側からあるがままに眺めなければならない。我々が内的経験 において直覚するような、「恍惚が顕わにする暗い未知なるもの」を神と呼 ぶことはできない。なぜなら、そう言った途端に見たものは変質し、死せる 対象と神学的概念だけが残るからである。この意味で内的経験は現れつつ隠 れるものである。

内的経験において、人は深淵に吸い込まれるような恐怖と同時に、永遠と の連続性の実感から来る恍惚とを同時に感じる。これは蕩尽を行ったときに 感じる、自虐的な滅亡への予感と祝祭性の高揚感が与える官能的な甘美さの 共存とよく似ている。人類の経済活動のなにか深い奈落の底に、過剰を消尽 せずにはおかない無意識の欲動が潜んでいることを誰も否定できないであろ う。かくて、日常性の尽きる生の極北にして死の一歩手前において、経済と 宗教はその相貌を一つにするのである。

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参考文献

安藤礼二『神々の闘争 ― 折口信夫論』講談社、 年。

岩野卓司『ジョルジュ・バタイユ ― 神秘経験をめぐる思想の限界と新たな可能 性』水声社、 年。

坂本多加雄『天皇論 ― 象徴天皇制度と日本の来歴』文藝春秋社、 年。

山﨑好裕「経済学における公衆の発見:J.M.ケインズと精神医学思想」福岡大学 経済学部先端経済研究センター・ワーキングペーパー、 年。

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参照

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