中世における僧侶の学問
ー談義書という視点から
l
渡 辺 麻里子
はじめに
僧侶にとっての学問とは︑経典や宗旨を学ぶことである︒経典は︑仏の教え(悟り)を﹂記したものであって︑そ
れを学ぶことは︑仏の教えを理解し︑仏の悟りの境地に近づくことを意味していた︒学問の一定段階においては︑
論義・竪義といった試験が行われたが︑それは修学と同時に出世の階梯にも必須であり︑重要な意味を持ったので
ある
学問の方法には︑談義という︑先生から口述で教えてもらう方法があった︒これは現代で言えば︑講義のような ︒
形で
ある
︒
また自身で本を読み学ぶためにも︑知りたいことが‑記されている本を︑閲覧・書写の許可を得て書写さ
せてもらい入手するという方法などがあった︒
談義
は︑
早くから注目され︑談義書と文学の関わりゃ︑談義書の範囲・種類など︑様々な方面から研究が進めら
れてきた(1)0
さらに近年︑寺院資料の調査が進むにつれて︑僧侶の学問活動が具体的にどのように行われていた か︑より実態的に解明されるようになってきた
EE
本稿では︑稿者の調査対象である談義書に注目し︑実際に談
義書を調査して知りうる中世の学僧の学問の実態について検討し︑談義書研究の課題について述べたい︒
一︑談義と談義書
まず初めに︑談義である︒僧侶にとって︑師について学び︑教えを受けることは重要であった︒学問を究めた学
僧が︑経典や宗旨の講義を行い︑その講義を受講して教えを受けた︒この講義のことを︑﹁談義﹂といい︑先生の
し よ け
立場の学僧を﹁能化﹂︑受講する学生を﹁所化﹂といった︒また︑このような談義を行う寺院を談義所(談所・談
義処・学室・学問所・学林)と呼んだ︒広義には︑談義は在俗の者に対しても行われ︑談義の場は寺院に限らない
が︑本稿では︑特に僧侶の学問活動に限定して話を進めることにするす)O
こうした経典の講義の歴史は古く︑天台宗においては︑最澄が父母の菩提のために行った坂本生源寺と戸津観音
堂の直談が︑日本の最初の直談であるとされる︒なお坂本生源寺の直談はすでに断絶しているが︑戸津観音堂の直
談は︑﹁戸津説法﹂として︑現代においても行われている︒
談義を通じて著された本を︑本稿では談義書と総称する︒従来は
﹁直
談抄
﹂
と呼び習わしてきたが︑﹁直談﹂と
いう語が多義語であるため︑
その語を用いず﹁談義書﹂と記す
(4)0中世には各地の談義所を中心として︑盛んに
経典の談義注釈が行われた︒談義書と一口に言っても︑幅が広い︒講師(能化)が自らの講義の手控えとして用音
U
したものもあれば︑講義を受ける者(所化)が筆録したもの︑所化が筆録をまとめ直して能化の校閲を経たものな
ど多様である︒
また談義の内容であるが︑その対象は幅広く︑﹃法華経﹄の他︑﹃阿弥陀経﹄﹃観無量寿経﹄﹃党網経﹄﹃大日経﹄
などの様々な経典や﹃法華文句﹄﹃法華玄義﹄などの注釈書について談義が行われた︒﹃法華経﹄の談義書として
は︑春海﹃法華直談私類来抄﹄︑叡海﹃一乗拾玉抄﹄︑尊舜﹃鷲林拾葉紗﹄︑実海﹃轍塵抄﹄︑栄心﹃法華経直談抄﹄
などが挙げられる︒また論義に備えたいわば受験勉強として︑義科・宗要など︑論題についての談義も行われた︒
談義書の中には︑談義の実態を具体的に示してくれる本もある︒例えば第一に︑談義の日付を克明に記したもの
がある︒今日は何月何日と︑毎日講義録の始めに日付が記されるのである︒またある本では︑連日の談義の中で︑
﹁今日は竹生島詣でのために休講﹂と記された日があった︒どれ位の期間で談義するのかについても︑指標になる︒
第一
二に
口述の跡を残すものがある︒例えば︑﹁前回は:まで進んだので︑今日は:::から﹂と︑
その日の談義 の冒頭に︑今日はどこを談義するのか説明しているのが記録されている︒これはあたかも現在の学校で︑
今日は
:・からなので︑教科書の何頁を開けるように﹂などといった先生の言葉と同じである︒第三に︑
同じ日の同じ談 義を複数の所化が筆録したものが一箇所にまとまって残っていることがある︒内容や日付から︑同じ講義を受けて
いると明確に判断できるのである︒受講の仕方を比較してみると︑一方の所化は細やかに記しているのにもwつ
方の所化は実に簡略な記述になっていたりする︒怠惰な学生であったのか︑眠かったのか︑ついていけなかったの
か︑現代の学校でノ!トをとらない学生の姿を思いながらつい想像を廻らせてしまう︒
なま
談義書からは︑このようにして当時の学僧の生の姿が垣間見え︑現場での息づかいが伝わってくるようである︒ 談義書を一点一点読み解いて行くことによって︑
より具体的に談義の実際の様相を明らかにしていくことが可能で
あろ
う︒
二︑本の書写 さて前節では︑僧侶の学問の方法として︑談義ということについて検討した︒続いて本節では︑もう一
つの方法
である︑本の書写について検討していきたい︒
本は︑書いてある内容が重要であるのは言うまでもないが︑書かれた内容の他にも︑本の諸所(多くは末尾)
字
、
ー
記された識語や奥書などといった︑本文とは異なって付された文章からも︑様々なことを知ることができるのであ る
﹁識
語﹂
と﹁
奥書
﹂ は同じものを指すという意見もあるが︑識語は巻中どこにでも記されることがある点で区 別することが多い︒識語・奥書からは︑本の成立した年月︑著作者名︑執筆動機︑
その本の伝来︑書写年代︑書写 者︑書写時の状況︑所蔵者など︑様々な情報が示される︒
尊舜(一四五一
1
一五一四)という学僧が︑﹃法華経﹄を解説した﹃鷲林拾葉紗﹄という本がある︒数点ある写 本のうち
(5
︑檀王法林寺(互に所蔵される﹃鷲林拾葉紗﹄(以下檀王本と略す))
の奥書を通じて︑本からどのような ことが分かるのか︑確認してみたい︒なお﹃鷲林拾葉紗﹄には︑書写して遣されている写本と︑刷られたもの
版 本)があり︑さらに﹃日本大蔵経﹄には活字(翻刻)もある︒
しかし︑活字では分からないことが︑
写本によって
判明することが︑多々あるのである︒
檀王本﹃鷲林拾葉紗﹄全十冊には各冊奥書が付されている︒まず巻五から見てみよう︒
檀王法林寺蔵﹃鷲林拾葉紗﹄第五冊︑奥書
A
子時永正九年目七月上旬候︑於常州黒子千妙寺抄也︒僻草有レ憧︑賢鑑多レ恐︑
窺 慰 愚 慮 而 己
︒
釈桑
門尊
舜円
一一
B
本
7.三
子時永正十四年引三月廿五日書之了︒
C
ム
﹁
1一 五
天正七年仲冬十日︑於一石州福屋之内都河杖渓庵室雪窓下書詑︒
専求
西︑
四 十 齢
奉為紹隆三宝︑報謝四思一︑開仏知見︑無作三身而己︒
第五冊の奥書は︑内容から三部に分けられる︒私に
A 1
Cの記号をつけた︒
A 1
C共に年記があり︑A
・
Cには人名
が一
記さ
れる
︒
C
の﹁
A
7 一 五
﹂
は︑檀王本が何時︑何処で︑誰によって書写されたものかを一不す︒檀王本は︑書写
者﹁専求西﹂(四十歳)が︑の杖渓寺において書写
した事がわかる︒﹁専求西﹂とは︑﹁専ら西方浄土を求める﹂音山で︑浄土僧が用いる名である︒この場合は︑﹁以八﹂ 天正七年(一五七九)仲冬十日に︑石見国福屋郷都河(都川)
という僧が別称として用いた︑ものであった︒以八
(7
は︑室町後期から江戸初期にかけて活躍した浄土僧で︑)
天 文
八年
に生まれ︑一九年
凹)九月十問日に
七十五裁で没
識は存易︑
や
の著者で知
であ
る︒
四十歳の頃の以八は︑
によれば
しばしば通っていたとあるので
こうして
によってことがわかるのである︒
さら
本 は ちを見ると︑永王十
五一七た
れ / 今
C
らにその
方t
E
九 年 五た奥書を持つ
したことが
るのである︒Aの
ぴ 〉
によ
て
あ る 自筆という
シ )
はないて
ぴ 〉
において著したものであること
その
ハ十
であったとなどがわかる︒
このように奥書は
の書写年代︑
。 〉
またその本は︑どのよ
σ 〉
か︑といっることができるのである︒
またさら
記されていることもあるの同じく壇王本
苦 心
冊の
見
てみよう︒
A
子 日 寺 永 E︑昂︑染一菟室︑
刻
刀 三
実︒
葉翻
↓
︑為
而 己
四明賎士
B
E
︑於書功
詑︒
為紹鋒三宝︑︑関仏知見︑
一身
詰
Zc
専 求 西
A泣によ
で ︑
B
は専求西の
であ
る︒
A
永 正
月一一告に︑需陸国黒子千持品寸別当一房において
ぴ 〉
の汗を拭いなが
︑
. B F叩'LV十J
て後世の
る 者 た ち に 示 そ う と し た こ と な ど が として
たようで︑
と 記 し て
いる
︒
︑さらに 版 本 に は
が記されている︒つまり︑自分たちの
次
ぴ 〉
していた の で あ る
︒ こ う し た 動 機 は
︑ と り わ け 尊 舜 や 実 海 と い た 談 義 僧 に と っ て は 重 要 な
で あ っ た と 考 え ら れ る
E o
一一
一︑
本の
授受
│唯
接 人 の 世 界i
斗品︑
て ︑
々
現 代
た が
︑ 本 節 で は
の の菌難 さについ
ておきたい︒
ことで誌なか
の間難さもあるが︑
それ以前に
いうものが
書 写
どw
か見ること
すら
かったも
ので
あれ
ノ︑
まで
ι
行 き 着 くw }とが
であった
れる
︒ おいては
に法を伝えていくのであるが︑相一列車の中で
ついては︑師匠
一人に対して︑多数の弟子の中︑
選ばれた一人にのみ教える
﹁唯
授一
人﹂
ということが行われた︒天台恵心流の三
重相伝の場合︑初重
( H
初度︑教重)を受け︑第二重(日行重)を受けた後︑
ただ一人が︑第三重(リ証重)を受 けることが出来るのである︒身延文庫蔵﹃深秘見聞﹄(旦は︑身延山第十二世日意がまだ天台僧で泰芸という名の時
代の文明四年四月十一日に︑金鍾談義所の学頭栄源から一二重相伝を受けたことを一不す貴重な書物である︒その表紙
には︑﹁東陽頒之書
深秘見聞︿証重
唯授一人﹀第三重﹂と記されている︒なお身延文庫には︑泰芸(日意)が
授かった初重・二重の書物も揃っていて重要である︒
唯授一人﹂の相伝について
﹁不
可他
見﹂
つまり他の者には見せてはならないと述べることは︑本の奥書にも
しばしば確認できる︒
‑此抄者︑雄レ為一極秘︑不思議感得申︑写置之者也︒唯授一人相伝云々︒其源秘曲︑不可及他見云々︒
身延文庫蔵﹃血肱面授聞書﹄(叩))
‑惣ジ一ア秘伝抄事ナレ共︑唯授一人相伝シテ写之ヲ候畢︒(身延文庫蔵﹃教学抄聞書﹄
(U
また唯授一人﹂
とまではいかなくとも
﹁不可見不可口外︑甚深不思議ノ相伝也﹂(は)などのように︑他見を禁
じる言辞は多々見られる︒他にも例えば
﹁不可他見﹂﹁不可門外﹂﹁不可窓外﹂などの表現がしばしば使われる︒
さらに念の入った誠めが記されたものもある︒
‑惣
ジテ
此抄
ハ︑
守レ
器︑
可被授之︒設雄与千金︑非其機者︑努々不可被許者也︒師資伝来之誠也者︑
如此加筆処也云々︒(叡山文庫真如蔵﹃第二重伝授紗見聞﹄(日))
この奥書には︑大事な事柄は
法 器 つまりこの教えを受ける資質があると思われるものにだけ授けるもので
あっ
て︑
たとえどんなに大金を積まれでも︑その資質の無い者には︑授けることを許可してはならない﹂という誠
めが書かれているのである︒﹁たとえ大金を積まれでも﹂という言辞が現実に即したものであることは︑また後に
触れるが︑このように重要な教えの流布・拡散は︑厳しく誠められていたのである︒
このことは︑逆に言えば︑重要な教えを伝授してもらうことの難しさを物語っている︒常陸国月山寺第二世の尊
栄は
︑
比叡山において︑直海撰集の﹃雑々私用抄﹄を懇望する︒三十歳で比叡山に行った時に︑主日写が許されたも
のの
︑
二十四巻全部の書写は叶わなかったため︑不足の巻の書写を願う︒その本望を達したのは︑六十六歳で堅義
のために再び登山した時であった︒その問︑実に三十六年である︒
これだけ苦労して入手した本であるから︑当然︑弟子には大切にするようにとの言辞を遺すことになる︒
‑右此抄者︑恭直海法印御類束︑杉生一流之明筆也︒自付弟外者︑不可免許可秘云々︒(巻十五)
‑末
代学
者︑
可為唯授一人︑不可及他見︑留贈後賢共期仏恵︒(巻二十三)
‑縦
雄投
珍財
︑
不可
免許
︑
返々不可他見他言耳云々︒(巻十八)
右のような︑大切にするようにという言辞が︑ほぼ巻ごとに記されているのである︒巻十八には︑珍財を投じら
れたとしても︑伝授を許さないようにという誠めが記される︒これは︑先に述べた﹁大金を積まれでも﹂に通じる
ものであるが︑尊栄にとっては︑これは実は自分自身が伝授してもらうために行った行為でもあり︑まさに現実的
な忠言であった︒例えば︑巻一の奥書には﹁随分之施物﹂を行ったこと︑巻二十四には
﹁若
干之
捧物
﹂
をしたこと
が記されている︒常陸国から出かけていった尊栄が︑比叡山内で重要な書物を書写出来た理由には︑そうした
施
物﹂﹁捧物﹂が考えられ︑その効果によって伝授を受けたと思われる尊栄にとっては︑珍財を投じられても渡さな
いようにとい
ろ
きわめ
った
のであったのであ
さでH
﹂こ
まで
︑
に至るまでの
べてきたが︑ではなかっ
奥書に︑書写出来た喜びを語るのとは別に︑
写し終わった時の感想を嘆患を交えて記すことがある︒例えば︑﹃枕
; タ タ
月集﹂どには︑﹁子持逗宝八日歳霜月十一一員︑相ィフ硯氷︑灯火
と つまり︑十二月の寒さで硯の水が凍るの
したている
c
この
先
︑染︑拭
刻
として
ぴ 〉
ぴ 〉
︑
︑
︑
A h d冶
しえ
︑ヵ
いたのであると
そ
ぴ 〉
べている︒
士 ︑
るほど用例が多い︒
飽にも
れてしまい
はかど
らなかった
とか
し終わると明け方の
び 〉
聞こえた︒(つまり徹夜
い た ど な ど
その
活動の厳
しさを述べることがある︒
さて
て︑こうして同円であっても寵単に本の
の許可が得られない状況の中
内鷲林拾
グ 〉
? ミ ミ
ぴ 〉
とになる︒
t 1 "
の
び 〉
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っているの
槽一土本吋鷲棒拾葉紗﹄第十冊︑
キヅ愛︑芸倒吉川ノ住二ノ宮右京兆春詮法名実誉宗青一︿者︑身離レ仕二式内功成名遂コい心己︑婦一仏道一語広功深︑党
︿部
分)
機士
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一レ
一殿
︑知
二浄
国ノ
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レ敗
︒単
二期
二顕
次在
生一
専称
一弥
陀名
号一
︒許
是依
一宿
善内
ニ薫
︑知
識外
ニ催
一一
也︒
子時
天
士
立当菌︑
冨
之
院主法印乃開レ減閲レ書長時ンテ之︑此抄一者︑開仏知見之肝心︑顕本遠寿之命︑肱位︒尤自流秘蔵︑出旦柁門ノ所レ
窺乎︒但今時属末法︑人少一宿薫一︑車ニ僧侶猶倦習学一一俗流一一争力求﹂解義一︑就中公軍事々繁︑坐箸巨多
1 0
而志欲一尋討披閲セント︑恐ハ是在家ノ韮口薩欺︒古日︑賢者ノ説黙ハ待レ時待レ人︒今既値其人宣得リャ怯此法一感悦
ンテ
借レ
之︒
美談
ンテ
与レ
之︒
公拝領ノ願満︑披覧ノ望足ヌO
長いため概要を述べると︑安芸国吉川の住人である二宮春澄(法名︑実︑誉宗真)は︑武門に仕える身であったが︑
今では︑仏道に深く帰依し︑仏の浄土を願って︑専ら阿弥陀の名号を称えていた︒天正七年(一五七九)の春夏の
こと︑伯香の国人に謀叛を起こす者がおり︑
それを治めるために︑宗真は将軍と千兵と共に安芸国を出立して︑出
雲国の月山富田城に宿営した︒その滞在時︑﹃鷲林拾葉紗﹄という本が︑伯誓国大山の龍蔵坊に有ることを知る︒
そこで良い媒介者を頼み
一通の封書に求法の志を述べて︑﹃鷲林拾葉紗﹄の借用を嘆願した︒大山寺龍蔵坊の院
主法印は︑書簡の内容を読み︑
深く嘆く︒﹁この﹃鷲林拾葉紗﹄という抄物は︑仏の知見を開く肝心の書︑仏の顕
本・遠寿を保つ命︑肱で︑
天台宗にとって重要なものであるから︑自流(天台)
で秘蔵して︑他門(浄土)に見せる
べきものではない︒しかしながら︑今の時代は末法となり︑人々の心は乱れ︑僧侶も修学を疎み︑公の軍事に忙し
く︑計略をめぐらすことに従事している事も多い︒そんな時代に︑閲覧の要望とは︑きっと在家の菩薩なのだろう︒
古くから言うように︑賢者の説黙(菩薩の聖行)
は︑時を待つことと人を待つことである︒今私は︑待っていた人
に会ったのである︒
どうして惜しむことがあろうか︒感悦してこの﹃鷲林拾葉紗﹄を貸し与えよう﹂と︒こうして
大山龍蔵坊の院主法印は︑この讃辞を添えて︑実誉宗真に﹃鷲林拾葉紗﹄を与えた︒宗真は︑拝領の念願を果たし︑
閲覧の望みを満たした︒そして以八専求西)に見せることになるのである︒
本来起こり得ない︑他宗の者に自宗の貴重書を貸し与えることが実現したのは︑戦乱の世にあって︑なお学問に
志そうという求道心に︑心を動かされたからであった︒
なおこの時代︑戦乱の世を嘆く言辞は︑諸書に散見される︒﹃鷲林拾葉紗﹄もまた︑戦乱の世に乱れた人の心や︑
学問をしようとしない僧侶に不安を覚え︑後の世のために記した本であったのである︒
四︑書写に関わる物語 前節では︑奥書などの情報から知ることのできる︑著者者︑著者年代︑著述場所︑書写者︑書写年代︑書写場所︑
書写の事情などについて検討してきた︒本節では︑
その他︑奥書や識語によって知りうる︑
その本の伝来や成立に
関わる物語を確認していきたい︒
前節で引用した檀王本﹃鷲林拾葉紗﹄の奥書にはまだ続きがあり︑
そこには以八が書写に至るまでの葛藤が措か
れている︒以下引用する︒
進一
一使
王町
レ送
与友
人一
魯道
者井
郡拙
一一
︑
ノ善
心/
冥薫
︑
々々惇然之︒是台門ノ秘冊︑今我家一一到来也︒太々奇れ於マハ戯正是公
又ノ非仲奉公ノ余慶乎︒重視々々︒予本無二解説之力一︑宣有書写之斗︒休駄良久仕時︑異日
田
'己A、
↑ 寸
公既於忙々:軍旅尽レ意︑彼警中ノ明珠求得一フル︒予安坐悠々寂室不遍此衣裏ノ宝玉二白得ス︒何不
ソキ
漸 柏 田 自 顧 不 肖
︒ 何 魁 巳 励 レ 心
︑ 息 凍 硯 一
︑ 染 鶏 距
︑ 払 一 雪 案
︑ 馳 魚 網
︒ 只 是 欣 慕 前 代 之 賢 訓 留 与 後世之君子者也︒伏希奉
為︑紹隆三宝︑報謝四恩
開仏知見︑無作三身而巳︒
長いので一旦ここまでを見ておくと︑ここは︑
以 八 が
﹃ 鷲 林 拾 葉 紗
﹄ を 閲 覧 し 書 写 す る こ と に な る 経 緯 が 記 さ れ る
︒ 実 誉 宗 真 は
︑
﹃ 鷲 林 拾 葉 紗
﹄ を 手 に 入 れ る と
︑ 友 人 で あ る 私 ( 以 八 ) に見せてくれた︒﹃鷲林拾葉紗﹄を閲覧 した私は︑思いがけなくも天台宗の秘本が今︑我が浄土宗にも到来したことに対する感激にあふれる︒
とはいえ白 分にはそれを理解し書写する力が不十分に思え︑書写をためらってしばらく思案する︒思い至ったのは︑宗真は︑
大変忙しい軍旅の中で︑意を尽くして︑このようなノ暑中の明珠
(かけがえのない宝)を得たが︑私は︑安穏と静か な部屋で悠々と過ごしていて︑この衣裏の宝玉を得たことであった︒我が身の不肖を反省し︑自らの心を励まして︑
固まった硯に息を吹きかけ︑固い筆に塁をつけ︑蛍雪に向かって紙を広げて書写したのである︒
書きながらもまた葛藤が起こる︒
それが以下の部分である︒
一 〆 一 ナ ニ ト
或人云︑既ニ是専修念仏之行者ナリo
為 一
Jブ
什慶
一読
二書
此経
疏一
乎︒
予
ヱ ミ
不一
見レ
ィ民
ヲ
O若欲一学解︑従レ凡至一
聖乃至仏果一二切無碍︑皆得レ学也︒若欲二学行一者︑必藷二有縁之法一︑少キ用一功労一多得レ益也︒若明一此文
何暗J
彼 理 乎
︒ 特
FU
今経ノ始終結二帰弥陀一︑此書/深奥習納名号一︒既歴見聞誰不一j信行
一︒
雄し
然︑
但 是 台 家ノ解義︑観門之深々也︒争力如一J五口宗ノ仰信称名之高々(耶︒宜哉︒一念無下︑功恵誠乎︒万徳所帰ノ宝号ヲ
仰願ノ︑能難所難︑
同称一名字一帰一弥陀︒能讃所讃︑共離一苦界生楽邦一駕
o
又賦
二五
言一
求一
一一
笑之
示︒
難 問 響 幽 林
吾曽一不動心三千無作ノ法本有実相ノ音︒
天正第八孟春念四日︑於プ石州福屋之内︑都河ノ杖渓庵室雪窓下♂全部十冊書功詑︒
西方行者以八専求西
四旬有一齢︒
ここでは︑
以八が﹃鷲林拾葉紗﹄という典籍をどのように認識したかが描かれる︒初めは自問自答の形式によっ
て︑心情が記される︒﹁ある人は︑専修念仏の行者が︑どうして経疏を読書するのか﹂と非難するが︑私は︑
そ の
疑問は当たらないと答える︒﹁もし学解を望めば︑凡人から仏果に至るまで︑すべて遮るもの無く︑陸自学ぶことが
でき︑学行を望めば︑
必ず︑有縁の法が助けて多くの益を得る︒この経疏を明らかにすることは︑専修念仏の理を 暗くすることにはならない︒特に今の経(法華経)
の始終は阿弥陀に帰結し︑この﹃鷲林拾葉紗﹄の深奥は︑阿弥 陀の名号に習納している︒この経疏を見聞することを経ても︑信行に変わりはない︑宜しいかな︒﹂
とい
W 70
天台
の﹃法華経﹄の解説書を︑浄土宗の立場で解釈し︑全ては阿弥陀の名号に帰すと見なしている点は興味深い︒
ところで以八は専修念仏の行者であり︑こうした経疏(経典の注釈書)
を読書することを自分自身で批判するの
には理由があった︒
以八
は︑
天文八年(一九三九)に︑磐城(福島県)に生まれた︒十一歳の時︑いわき能満寺の天蓮社存洞上人の
もとで出家し︑学問に励んだ後︑浄土宗名越派の学皐である円通寺(栃木県大沢)
に移って修業し︑さらに︑白旗
派の大巌寺(上総国生実)の道誉貞把について修学した︒道誉は当時の浄土宗を代表する碩学で︑以八の学問の素
質に感心した道誉は
一家の奥旨を全て授与したという︒一心に学問を修めた以八だが︑ある時から学問による名
利を厭い︑二十八歳の夏には︑師を離れて︑念仏三昧を勧める諸国遊行を始めてしまう︒衣食ともに節倹で︑現在 光明院に伝えられている七条袈裟は︑平生この袈裟一つしか用いなかったというものである︒
一度は学問を究めて
後︑学問では人を救えないと学問を捨て︑念仏三昧を選んだ以八であったからこそ︑今こうして再び学問の書を手 に取ることに臨時をするのであるが
一方で︑学問を究めた学僧であったからこそ︑﹃鷲林拾葉紗﹄の価値や︑
そ の本が︑宗真の求道心によって天台の門を出て浄土宗のもとに来たことの重要性が理解できたのである︒
﹃鷲林拾葉抄﹄の伝本は複数あるが︑﹃鷲林拾葉抄﹄の本文にはそれほど大きな差がなく︑いずれも﹃鷲林拾葉
抄﹄という本である︒しかしこのように見てくると︑檀壬本には︑他本とは異なる伝来の物語があることがわかる︒
写本
には
︑
それぞれ一本ずつ背負った歴史があり︑固有の存在理由があるのである︒
玉︑談義書研究の現在
以上︑談義書研究において︑本は︑その中身の重要性は勿論のこと︑その本の存在白体が︑様々な実態を現代に
伝えてくれる貴重な資料となっている︒一点一点に解明の積み重ねが︑談義主目の総合的な研究には不可欠である︒
しかしながら研究は︑資料の多さに比して十分に進められてはいない︒それは︑原資料の多さに対して︑翻刻や諸
本整理の基礎作業が進められておらず︑資料を不特定多数の人と共有できる状態に至っていないことが考えられる︒
基礎作業の遅れの理由は様々あるだろうが︑何より︑談義書などを記した文字の解読の難しさが挙げられるだろ
う︒僧侶が経典や経旨を勉強する時に使用する文字は︑記家文字と称される︑一種独特な文字であった︒稿末に付
した檀王本﹃鷲林拾葉紗﹄の本文を見ていただくと︑古文書や和歌の散らし書きとも全く具なる字形が確認できる︒
古文書や文学で用いるくずし宇は︑複数の宇を続けて書いていくため︑字形がくずされて判読しにくい上に︑
どこ
が一文字なのか判然としないことがある︒それに比べて︑記家文字は︑二宇一宇は独立しているので一見読みや
すく感じるのだが︑実際読もうとすると︑すぐに簡単ではないことに気付く︒仏書の場合︑特有の略字を用いてい
るためである︒略し方は︑共通の理解があったようだが︑古文書に見られるくずし宇とは異なるもので︑知らない
となかなか読みにくい︒そのため辞書も古文書や文学作品用ではなく︑仏書用のくずし宇辞典を用いる必要があ
る︒また仏書中の専門用語もまた難しく知識がないと判断し切れないところがある︒具体例で見てみよう︒
右の写真は︑檀王本﹃鷲林拾葉紗﹄の第一冊冒頭の部分である︒一行目から本文を翻刻すると以下のようになる︒
鷲林拾葉紗
第一巻
序
口口口
凡此法花経者︑三世/諸仏出世/本懐衆生成仏/直道也︒サレハ今日/教主
釈尊為説一此経イ華厳ニ擬宜ン︑乃至般若ニ挑汰ンテ四十余年/開設二種々ノ方
便イ︑根機純熟ンテ感応道交時至処一一
o
鷲嶺八年ノ問︑官一二此妙法イ︒遂ゴ 大事/因縁寸顕1へり
出世
/嘉
懐イ
︒
又成仏直道卜者︑権教権門意ハ修行ニ送一一時
略
日目
頭の
﹁妙法花経﹂や︑
四行目の
﹁修行﹂など︑独特の略字が確認できる︒
この翻刻の困難については︑実はすでに中世から生じていた問題でもあった︒例えば︑身延文庫蔵﹃宗要宗﹄(日) の奥書に︑﹁当夏中所用之問︑各々頼入︑令頓写之問︑定市損落之両字︑
文義誤数多可有之︒後見之学侶︑直談奉
頼許候﹂と見える︒
つまり限られた期間で急いで写させたので︑きっと字が落ちていたり︑文意が間違って書写し た誤りの箇所が多々あるだろう︑というのである︒本の書写を許可される期間は短いため︑大急ぎで写さなければ ならないことはよくあることである︒﹁読めない字があったが確かめられないので︑
そのまま書いておく︒帰郷し てから識者に確かめたい
と か
﹁文音山不通の箇所があるが︑そのままにしておく﹂
と奥書に記されていることは
多い
︒
また﹁初心薄学之問︑損落字︑後見中々恐々也﹂(日)といった︑自身の学の不足のために書き誤っているか
もしれないという不安を述べたものも多い︒
これらの言辞には︑謙遜もあって︑文字通りには受け取れないが︑
それでも期聞が限られていて急がざるを得な
︑ ︒ ︑
J P
一
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小Jいいwつ
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ただろう︒な
の 一 一 一
一 口 辞 に
は ︑
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べたものも多い︒﹁悪筆﹂
之悪
筆﹂
と 述
る者までいた︒
か な
る ︒
しかし困難さばかり一言っていて
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C
の整信と提供比︑今後さら
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だろ
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て︑目録整備も必要である︒特に︑
際
不明なこと
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1を 行
って
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ている段階である︒
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れる必要
があ
ろう
︒
信わりにの研究は
の整備をされた本が少ないため北︑否が応でも
写本を手にして研究せざるを
ことによって︑写本でしいことを知ることも多い︒
実援に本を触らないとわからない
どとは︑たの装績などはてわかるものであ
る
は︑大変ヒ等な紙に︑つらえてあり︑い木箱に絞めている︒貴
重な物として大切にされてきたことが照的確にできるのであ
のものである︒辻︑本に関わっ人々がに存在しており︑生々しい
る ︒
ま
斗4山一つとして問じものはなく
占
占
七三
にある意味を負っている︒
の調査をし︑実際に本を手に取り検証していくことは︑現代にあって忘れられ︑
眠れる本を︑今に呼び起こす作業
でも
ある
︒
本は︑様々な事を︑現代に伝えてくれる︒本を通じて︑
文学・歴史・宗教などといった分野に限らず︑枠組みを
取り払って︑日本の﹁文化﹂を学ぶことが可能となるであろう︒
談義書の研究という観点でみれば︑膨大な資料が現在に遺されているにもかかわらず︑まだまだ埋もれたままで︑
見向きもされていない本が多く存在している︒一点一点開いて風を入れ︑本の語る声に耳を傾けながら︑現代によ
みがえらせていきたい︒
そして一点一点から得られた少しずつの情報を検証し︑蓄積していくことによって︑中世
の僧侶の学問について︑より実態的に明らかにしていくことが出来るのである︒
︿付﹀檀王法林寺蔵﹃鷲林拾葉紗﹄写真
‑写真
1
檀王法林寺蔵﹃鷲林拾葉秒﹄表紙‑写真2檀王法林寺蔵﹃鷲林拾葉紗﹄第二冊奥書‑写真
3 檀王法林寺蔵﹃鷲林拾葉紗﹄第一冊序品
‑写真4 檀王法林寺蔵﹃鷲林拾葉紗﹄第十冊識語
j
主(1
)談義の研究については︑渡辺守邦﹁法花直談私類緊抄解説と翻刻﹂(﹃国文学研究資料館紀要﹄七︑一九八一年三月)︑同﹁もう
一つの﹃法華経直談抄﹄﹂(﹃説話文学研究﹄一七︑一九八二年六月)︑同﹁直談紗と説話﹂(﹃国文学解釈と鑑賞﹄四九巻一一号︑一九八
四年九月)︑同﹁解説﹂(﹃法華経直談紗古写本集成﹄臨川書居︑一九八九年)︑永井義憲﹁講経談義と説話││﹃鷲林拾葉紗﹄に見えた
るさ﹄やき竹物語﹂(﹃大妻国文﹄四︑一九七三年三月)︑同﹁解題﹂(﹃法華経鷲林拾葉紗﹄︑臨川書居︑一九九一年)←(改稿)﹁﹃鷲
林拾葉紗﹄ーーその撰者と文学││﹂(﹃大妻国文﹄二五︑一九九四年三月)︑慶田哲通﹃中世仏教説話の研究﹄(勉誠社︑一九八七年)︑同
﹃中世法華経注釈書の研究﹄(笠間書院︑一九九三年)︑同﹃天台談所で法華経を読む﹄(翰林書房︑一九九七年)︑中野真麻理﹃一乗拾玉
抄の研究﹄(臨川書居︑一九九八年)などを参照︒
(2
)大須真福寺など各地の寺院で悉皆調査が行われ︑蔵書目録や奥書集成︑貴重資料の翻刻などが報告されている︒その意義については︑西
岡芳文﹁称名寺聖教と金沢文庫蔵書の歴史的意義﹂(﹃中世文学研究は日本文化を解明できるか﹄中世文学会編︑笠間書院︑二
O O六
年)
︑
渡辺匡一﹁地域寺院と資料学﹂(﹃同右﹄)などを参照︒
(3
)
﹁談義﹂﹁談義所﹂についての定義は︑﹃岩波仏教辞典(第二版)﹄(稿者執筆)を参照︒
(4
)直談の語については︑拙稿﹁渡辺麻里子﹁直談の位相﹂(﹃天台学報﹄四三︑二
O O一年一一月)︑拙稿﹁談義書(直談抄)の位相﹃鷲
林拾葉紗﹄・﹃法華経直談抄﹄の物語をめぐって﹂(﹃中世文学﹄四七︑二
O O二年六月)︑小川豊生﹁︿直談﹀考天台口伝法門のメテ
解釈と教材の研究﹄四六・一O︑二
O O
一年八月)︑大島薫﹁﹁直談﹂再考﹂(﹃日本仏教綜合研究﹄三︑二
O O
オロジil│﹂(﹃国文学
五年五月)を参照︒
(5
)未見の本を含めて五本︑檀王法林寺蔵本を合わせて六本の写本が知られる︒﹃鷲林拾葉抄﹄の伝本については︑拙稿﹁檀王法林寺蔵﹃鷲
林拾葉抄﹄について﹂(﹃論叢アジアの文化と思想﹄一二号︑二
O O三年二一月)を参照︒
(6
)京都市左京区︑三条京阪そばに所在︒
(7)以八の伝は︑﹃以八上人行状記﹄(﹃浄土宗全書﹄第七巻﹁伝記系譜﹂所収﹃光明院開基以八上人行状記﹄︒光明院十四世素信著述)︑並び
に﹃続日本高僧伝﹄巻第九(﹃大日本仏教全書﹄一O四︑一七二頁)︑﹁芸州厳島光明院沙門存易伝﹂)に詳しい︒
(8
)OOO年三執筆の動機については︑拙稿﹁法華経註釈書の位相││﹃轍慶抄﹄の﹁訓読之志﹂を端緒としてll﹂(﹃仏教文学﹄二回︑二
月)参照︒
1 1 1 0 9 身 身 身 延 延 延 文 文 文 庫 庫 庫
ム、 ム、 防 北
口 口 1よと
口 口 代 2 1 十 1 4 5 世
。 。 日
,目、
B 5 1
0
(ロ)身延文庫蔵﹃俊範面授口決﹄︑台口2・
10
(日)叡山文庫真如蔵﹃七箇之大事﹄中︑﹃第二重伝授妙見聞﹄︑真如(内)・H・M・師
︑ ぺ
︐
J a q
易ム︑J(日)叡山文庫生源寺蔵﹃枕月集﹄︑生源寺蔵(内)・6
・品
・
2(
(日)身延文庫蔵﹃宗要集﹄第四冊︑台宗1・
10
﹃身延文庫典籍目録﹄下︑四四二頁(身延山久遠寺︑二
OO
五年
)︒
(同)身延文庫蔵﹃宗要集私﹄︑台宗2・
80
﹃身延文庫典籍目録﹄下︑四五四頁︒
付
本稿は︑平成十八年十二月二日に︑弘前大学国語国文学会において講演したものの一部を︑書き改めたものです
記c