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南アジア研究 第29号 016書評・古賀 万由里「竹村嘉晃『神霊を生きること、その世界―インド・ケーララ社会における「不可触民」の芸能民族誌―』」

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Academic year: 2021

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(1)書評. 書評. 竹村嘉晃『神霊を生きること、その世界. インド・ケーララ社会における「不可触民」の芸能民族誌. 』. 竹村嘉晃『神霊を生きること、その世界 イン ド・ケーララ社会における「不可触民」の芸能 民族誌 』 東京:風響社、2015年、398頁、5000円+税、ISBN 978-4-89489-209-5. 古賀万由里 本書は、著者が平成23年度に大阪大学大学院人間科学研究科に提出し た博士学位請求論文「神霊を生きる人びとの『現在』 南インド・ケー ララ州のテイヤム祭祀の実践者たちをめぐる民族誌的研究」をもとに加 筆・修正を施したものである。ケーララ州北部に住む旧不可触民が、現 代のグローバル社会の中で、神霊の担い手という自らのカーストの伝統 的職業といかに向き合っているか、その葛藤と成功を、実践者のライフ ヒストリーから描いている。 「テイヤム」とは神を意味し、具体的にはムッチロートゥ・バガヴァ ティやヴィシュヌムールティなど、様々な名前と由来をもつ。テイヤム となる人はテイヤッカーランと呼ばれるが、ワンナーンやマラヤン・ カーストなど旧不可触民に属する男性がテイヤッカーランとなりうる。 テイヤッカーランは神霊を讃えて勧請し、化粧や頭飾り装飾品を身につ けることにより「神」へと変貌する。テイヤムとなったテイヤッカーラ ンは、神話に応じてパフォーマンスを繰り広げ、最後に供物を受け取り、 祭主や村人に祝福の言葉をかける。祭主は、テイヤッカーランより上の カーストであり、祭儀が行われる場は、祭主の家や地域の同一カースト で所有しているカーヴ(社)である。 テイヤムは派手な様相から国内外の研究者の目を引き、ケーララの民 俗学者や海外の人類学者の研究対象となってきた。だが、それらの研究 のほとんどは、自らがテイヤッカーランである場合を除いて、テイヤッ カーランと時空間を共有することの少ない立場に身をおきながら調査を 行ってきた。それに対して竹村氏は、ジェイというワンナーンの青年と 彼の父親カルナーカランの家に居候をしながら、祭儀の時には彼らのグ ループに同行し、彼らと生活をともにしながら祭儀のあり方の変化や人 間関係を観察することによって、彼らの生活を生き生きと描くことに成 功した。 231.

(2) 南アジア研究第29号(2017年). 次に本書の構成と内容を紹介する。本書の章立ては以下の通りである。 序章 「ひと」と生活世界を紡ぐ芸能民族誌 第一部 インドの神霊パフォーマンスの「現在」 第一章 「神霊になること」. テイヤム祭儀と「不可触民」をめぐる. 現代的位相 第二章 「表されること」. テイヤム神とメディアとの多元的な結. びつき 第二部 神霊を生きる「不可触民」たちの今日の姿 第三章 「稼ぐこと」. グローバル時代における伝統的職業の新た. な位相 第四章 「受け継ぐこと」 祭儀の活性化とカースト意識の再編 終章 「ひと」としての実践者と生の記述にむけて あとがき 序章の冒頭では、本書の主人公ともいうべきジェイとの出会いが述べ られている。この青年との出会いがなければ本書のように実践者に踏み 込んだものは書けなかったであろうと思われるくらい重要な出会いであ る。本書の目的は、テイヤム祭儀の場で自らが霊媒となる旧不可触民層 の実践者たちの生活世界と、グローバル化した現代社会がいかに相互に 影響を与えているかを解明することであるという。カースト・ヒエラル キーの中で「虐げられた人々」と一括りにするのではなく、彼らの生活 世界に立って生のありようをとらえようとするところに筆者のスタンス が窺える。 第一章のケーララ社会の概要では、ケーララは産業基盤が乏しいため、 湾岸諸国へ職を求めて出稼ぎに行く移民者が増加していることと、ケー ララ州政府が新たな産業として、観光開発に力を入れていることを記し ている。またケーララは左翼勢力が根強く、カンヌール県は共産党の支 持基盤が強い地区であることも述べられている。これらのデータは、次 から述べられるテイヤムの表象とテイヤッカーランの職業選択の伏線と なる。 次に、テイヤム祭儀の概要が述べられている。テイヤム祭儀の起源や 神霊の種類、祭儀が行われる場、そして祭儀の担い手のワンナーンとマ 232.

(3) 書評. 竹村嘉晃『神霊を生きること、その世界. インド・ケーララ社会における「不可触民」の芸能民族誌. 』. ラヤンについて記載されている。その後で、本書の分析対象の中心であ るジェイと彼の父親カルナーカランのグループについて、詳細に述べら れている。グループ成員のテイヤムへのコミットメントは一様ではなく、 湾岸諸国へ出稼ぎに行くものや他の職業と兼業しているものなどさまざ まである。 第二章では、テイヤムが政治や芸術、観光産業や経済市場の中で、い かに表象されているのかを分析することにより、グローバル社会におけ るテイヤムの消費のされ方を論じている。はじめに、イギリス植民地時 代から現代にいたるまで、テイヤム祭祀がいかに記述されてきたのかを、 活字メディアという枠組みの中で考察する。植民地時代の入植者からは 「悪魔祓い」と記述されていたテイヤムが、インドの民俗学者らによって 神として崇められ、さらに現代では西洋近代の概念「アート」として解 釈されるようになった。次に、テイヤムが日常生活の中で用いられるテ イヤムのイメージを紹介している。オートリキシャーに貼られたテイヤ ムの写真や、左翼系政治集会の看板など、テイヤムのイメージはケーラ ラ州北部では日常のあらゆる場面で目にする。さらにテイヤッカーラン を主人公とする映画やドラマも作成されている。また州政府の主催する イヴェントでの舞台公演や、ガイドブックの表紙にもテイヤムは登場し ている。2000年以降は、ブログや SNS などを用いたテイヤムの情報に特 化したサイトが現れ始めており、それらが湾岸諸国やムンバイ、デリー などで暮らすマラヤーリー(ケーララ人)たちの故郷との接点となって おり、祭祀の資金集めにも利用されていることを指摘している。 第三章では、テイヤム祭儀の主体であるテイヤム実践者に焦点を当て、 彼らの生活がテイヤム祭儀の実践によっていかに変容しているかを分析 している。テイヤム実践者であるジェイのライフヒストリーから、彼が テイヤム実践者としての収入だけで生活環境を大きく変えていった様子 を描いている。ジェイは短大在学中から、徐々に父親がテイヤムを担う 権利をもつタラワードゥ(旧家)で、父親に代わってテイヤムを引き受 けるようになった。またヒンドゥー寺院へ毎日参拝に行くようになり、 信仰と宗教的知識を身につけるようになった。そして親戚筋のテイヤム 祭儀を手伝ううちに、徐々に自らのテイヤムのスタイルを確立したいと いう願望が生まれてきた。結婚資金を貯めるためにガルフ行きを考えて いたが、ムッタッパン・テイヤムの依頼があったため渡航を断念した。 233.

(4) 南アジア研究第29号(2017年). 通常のテイヤム祭祀には複数のテイヤムが祀られるのに対し、ムッタッ パン祭儀ではムッタッパンのみが奉納される。また、他のテイヤム祭儀 は、テイヤムを担う権利をもつもののみが行えるが、ムッタッパンは依 頼があれば引き受けることができる。ジェイはムッタッパンの実践者と して次第に知名度をあげ、ムッタッパンだけで生計を立てられるように なっていった。ジェイは地元の人からだけでなく、ムンバイやドゥバイ に住むマラヤーリーからも祭儀の依頼が来るようなり、図らずともドゥ バイへ行くことになった。ムッタッパン祭儀は他のテイヤム祭儀に比べ 時間が短く、人手が少なくて済む割には高額の報酬を得ることができる。 だがジェイがムッタッパン神の担い手として成功するにつれ、他のテイ ヤム祭儀に携わる親戚グループとの関係は悪化していった。また、ジェ イは祭儀の場だけではなく、日常においても人々から敬意を表され、祭 主となったものから相談を受けるようになった。このように、テイヤム 実践者がムッタッパン祭儀に特化することで生活環境が大きく変わった ことを指摘している。 第四章では、若手実践者の参入や、近代教育や左翼思想がテイヤム祭 儀の継承に与える影響について述べている。かつてのテイヤッカーラン は小学校以降学校へは行かず、親や親戚についてテイヤム祭儀の場に行 き、早くから実践者となっていた。ワンナーンやマラヤンのカーストに 男性として生まれれば、伝統的職業であるテイヤッカーランになるのが 常であった。ところが現代では、高等教育まで進む若者がいて職業の選 択肢が広がってきている。テイヤッカーランを副業とするものや、他の 職が得られるまでのつなぎの職と考えている若者も少なくない。テイ ヤッカーランに専念していた旧世代のテイヤムと現代の若者のテイヤム を比べると、祭文の知識や託宣の技術の点で若者はまだ祭主の家のもの たちを満足させるには至らない。旧世代からは、若者は信仰のためでは なくカネのために祭儀をやっていると非難されている。旧世代と若者世 代とでは、テイヤムに対するコミットメントの仕方が変わってきている という現状が描かれている。 父カルナーカランは息子のジェイに賃金労働に就くことを望んだにも 関わらず、ジェイはテイヤッカーランとなる道を選択することになり、 結果として生活向上を実現した。さらに、甥のアクショイは、大学で化 学を専攻しながらも、ジェイのムッタッパン祭儀に同行し、助手を務め 234.

(5) 書評. 竹村嘉晃『神霊を生きること、その世界. インド・ケーララ社会における「不可触民」の芸能民族誌. 』. ている。グローバル資本が流動する中で、テイヤッカーランは新たな活 路を見出し、あえてテイヤム祭儀を続ける選択をとることによってワン ナーンのアイデンティティを肯定的にとらえていることが指摘されてい る。 終章では、全ての章の要約がまとめられている。序章にも書かれてい るが、この本で試みたことは、芸能実践者の生活世界に相場をおくこと によって、現在を生きる彼らの生のあり様を理解することであるという。 本書の特徴の一つは、調査方法である。一人のテイヤム実践者に密着 取材したという手法は、今までもケーララの民族誌では見られなかった ものである。外国人という他者でありながら彼らと生活を共にし、情報 や知識を共有することによって、テイヤムの実践者にはならないが、彼 らの世界に近づいていっている。日常会話の中で語られたであろう言葉 が数多く引用されているが、こうした語りは形式的なインタビュー調査 では得難い。実践者の本音と思われる言葉が聞けているのは、筆者が実 践者と良好な人間関係を築いている証である。ただしその反面、対象の 集団以外の集団員の生活や祭儀、また祭主側のテイヤム祭儀へのかかわ り方に対しての情報と考察が少ないのが気になる点である。ムッタッパ ン祭儀の実践者の活動に焦点を絞っているが、ワンナーンの中でも多く は、祭儀を代々行うことができる権利をもつ寺院での活動が中心であり、 彼らの生活レベルは決して高いとは言えない。ジェイのように生活環境 が上がっているのは、むしろ珍しいケースである。一つの集団と共に生 活をしていると、他の集団の話を聞くことは難しいことなのかもしれな いが、調査対象者と比較する上でも多集団の語りを取り入れた方が、テ イヤム祭儀にかかわる実践者全体の中での社会的・経済的地位がより明 確になったであろう。 筆者とガルフ行きを考えていたジェイが出会ったときから、ジェイが ムッタッパン神で成功してくるまで10年間近くの歳月が流れている。筆 者はジェイ家から情報をもらうだけではなく、ジェイと交わした会話や、 筆者がフィールドに持参したパソコンやビデオカメラなどから、ジェイ 家の人々に何らかの影響を与えたと考えられる。つまり、筆者のフィー ルドでの存在感は大きく、テイヤッカーランの生活の変化にも関わって いるといえる。人類学者は無色透明ではないので、調査地の人々に何ら 235.

(6) 南アジア研究第29号(2017年). かの形で影響を与えている。しかし民族誌の多くは、自らと現地の人々 とのやり取りを特に記述せずに、出来事を客観的に分析している。本書 は、身近で生じている実践者たちの行動と会話が主な観察対象であるの で、調査者の立ち位置の見当がつく。調査者と被調査者の接触時間は相 当長いと思われるので、両者間の会話や筆者の発言から受けた実践者の 影響などが記されると、より臨場感のある民族誌になるのではないだろ うか。 テイヤムは、研究者によって儀礼、信仰、アート、崇拝、神霊儀礼、憑 依儀礼、芸能と、定義の仕方が異なっている。著者は副題からもわかる ように、 「芸能」と捉えている。そのため、関連する先行研究として、舞 踊研究や芸能研究、舞踊人類学に相当する研究が挙げられている。おそ らく、著者の関心がもともと芸能や舞踊にあったため、テイヤムを見た ときに芸能として位置付けたのであろう。そのため、あまり宗教研究や 儀礼研究との絡みが見られないが、本書でテイヤッカーランも述べてい るように、テイヤムは宗教儀礼(アニュシュターナム)であるため、南ア ジア人類学のヒンドゥー儀礼研究のコンテクストの中で論じる必要もあ るかと思われる。 本書は、1人のテイヤッカーランから見た、実践者がテイヤムにもつ 姿勢や、グローバル時代における伝統文化の変容をとらえている。ガル フ出稼ぎ移民のグローバル資本によるテイヤム寺院への寄進や、イン ターネットによるムッタッパン祭儀の隆盛は、ローカルな神がグローバ ル化している状況をよく表しているといえる。また、今までのテイヤム の研究書では書かれていなかった点が多く指摘されている。旧世代のも つカースト意識と若者がもつカースト意識の違いからくる、他カースト のテイヤッカーランへの接し方の相違や、テイヤッカーランが日常でも 助言を求められ、霊的職能者としての役割が一時的ではなく恒常的であ ることなどである。 著者は実践者に密着した調査体験を生かし、彼らの生の声や行動、所 作を細やかに描いている。祭儀の場だけにとどめず、実践者の生活世界 に広げて社会や政治経済との関係性を分析しているため、より人と祭儀 との関わりと社会との関係性が見えやすくなっている。本書はフィール ドワークの一つの方法論としての指南書としても、また南インドの芸能 を担う実践者の生活世界を描いた民族誌としても良書であるといえる。 236.

(7) 書評. 竹村嘉晃『神霊を生きること、その世界. インド・ケーララ社会における「不可触民」の芸能民族誌. 』. この先気になるのは、次世代のテイヤッカーランである。都市部や外 国で稼ぐマラヤーリの資金により、テイヤム祭祀は年々規模を拡大化し ている。豊かになるほど祭祀に費やすゆとりも増え、テイヤム祭儀も隆 盛になっているといえる。それでは、テイヤッカーランはこの先、祭儀 だけで十分な暮らしがでるようになるのだろうか。それとも他の職業を かけもつテイヤッカーランが主流となるのであろうか。甥アクショイの ように、学業とムッタッパン祭儀を両立させるものは今後、どのように 展開していくのであろうか。平日は賃金労働、休日はムッタッパンとい うように、使い分け、テイヤムで世界を股にかける、コスモポリタンな テイヤム実践者が登場するのかどうか。次世代のテイヤッカーランの動 向に関する分析も期待される。 こが まゆり ●開智国際大学. 237.

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