ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』における 画面上の身体の存在論
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査読論文
ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』
における画面上の身体の存在論
―加齢・接触・転倒の主題をもとに
早川 由真
はやかわ ゆうま 立教大学大学院 現代心理学研究科映像身体学専攻博士課程後期課程 映画研究
序論
ジョン・カサヴェテスの監督第
9作目にあたる『オープニング・ナイト』 (
Opening Night, 1977)は、画面上で
4 4 4 4演技をするということはどのような事態であるのかと いう問題を直接的に提示した作品である。この映画の特異な点は、ジーナ・ロー ランズ演じる主人公の舞台女優マートル・ゴードン自身が、この問題に直面する ことにある。作品中でマートルは、『セカンド・ウーマン』という舞台において ヴァージニアという女性の役で主演を務めるのだが、自分の役を演じることに困 難を覚え、葛藤を繰り広げる。カサヴェテス本人は次のように語っている。
それらに向き合うことに抵抗するとはいえ、マートルは最終的に、その 複数のジレンマを受け入れ、解決しなければならない。そのジレンマは、
彼女がやっているこの劇の核に位置するだけでなく、彼女自身の存在に 関する、基本的な複数の現実[
the basic realities]をも反映している(…)。
(
Carney 2001: 424)
この映画の持つ豊かさを、映画監督自身の発言に還元してしまうつもりは全く
ないが、作品に対するひとつの批評として、ここでのカサヴェテスの発言は非常
に触発的である。マートルの存在に関する「基本的な複数の現実」とは何か。ま
た、それを反映させたジレンマとは、どのようなものだろうか。さらに、マート
ルはそのジレンマを、いったいどのようにして解決したのだろうか。
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これらは、この作品を理解するうえで重要な問題だが、これまで十分に議論さ れてきたとは言い難い。これは、これまでのカサヴェテス研究が厳密にショット を見ていくことよりも、伝記的な事実と映画テクストの境界を曖昧にし、映画テ クストの内部と外部を通底するものとして作品を論じてきた傾向と関連してい る。カサヴェテス研究の先駆者であるレイモンド・カーニーは、それまで無視さ れてきた無名の映画作家を擁護するために、戦略的に「伝記的事実」を「彼の映画 と同じ資格を持つテクストとして」扱ったとしている(カーニー
1997: xi)。近年 のカサヴェテス研究者、ジョージ・コウバロスは、カーニーを批判しつつ、「伝記 的なものと映画的なものの連結を、どのように別様に考えるか」という問題関心 を示しているが、いまだ折衷的である(
Kouvaros 2004: xi-xv)。
無論、カサヴェテス作品における、テクストの境界を越えた物語世界への想像 を促す魅力を否定するつもりはない。だが、カサヴェテス研究においては、そう した側面が強調されるあまりに、綿密な画面分析に基づいて、彼の作品がどのよ うに構築されているのかということを探究するアプローチが、これまで積極的に 取られてこなかった。そこで、本論文は、先行研究の成果を参照しつつも、画面 上における映画テクストを丹念に読み込んでいくというアプローチを採択する。
カサヴェテスによる特徴的な俳優演出を考慮しつつも、画面上の身体が織りなす 主題を探究する方法を採っている。具体的には、『オープニング・ナイト』の物語 内容に内在しつつ、加齢、接触、転倒という
3つの主題をたどることで、先述の 問題を明らかにしていく。そして、少女・ナンシーの存在に着目することで、こ の映画作品がより普遍的な問題、すなわち、現実においてではなく、舞台上にお いてでもなく、画面上において存在するとはどういうことなのか、という問題を 提示していることに迫りたい。
第
1節では、加齢の主題を軸に、なぜナンシーという存在がマートルを葛藤さ せる原因となったのかという問題に、画面上の身体というものの特性を考察しつ つ迫っていく。
1.1では、加齢の主題がどのように明示されているのかを確認す る。
1.2では、ナンシーが、マートルにとっての若さの表象に還元される存在か どうかを検証する。
1.3では、ハーゲナーによる、ジーナ、マートル、ヴァージ ニアという
3つの同一性の交流という主張を批判的に検討する。
1.4では、ナン シー、ひいては画面上の身体にとって加齢とはどのような事態かという問題を論 じる。
第
2節では、接触と転倒の主題を軸に、ナンシーがマートルを演技の困難へと
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陥らせた具体的な画面上の要素を見ていく。
2.1では、ナンシーの自動車事故に
おける主題の提示に着目する。
2.2では、ナンシーが接触を禁じられた存在とし て表れていることを分析する。
2.3では、マートルの接触と転倒の身振りによる 表象に対する抵抗を見ていく。
1
画面上の存在
1.1 加齢の主題
マートルの存在の基底にある「複数の現実」とはどのようなものか。また、そ れを反映した、彼女を葛藤させるジレンマとはどのようなものだろうか。それを 明らかにするためには、この作品の重要なモチーフである加齢について考える必 要がある。加齢は、ストーリー上重要なモチーフであると同時に、この映画が提 示するより大きな問題に繋がる糸口となる。すなわち、画面上の身体にとって歳 をとるとはどういうことなのか、という問題である。
『オープニング・ナイト』は、歳をとることをストーリー上のモチーフにした作 品である。「加齢[
aging]は深刻な問題だ。それは恐怖だ」とカサヴェテスは言う。
彼の説明によれば、「この映画の最初のアイデア」は次のようなものだった。「自 分がかつてそうだったようには魅力的でなくなったとき、自分自身や自分の能力 にそれほど自信がなくなったとき、気力があまりなくなり、自分でもそれに気が ついているとき、どのようにしてやってのけるのか」 (
Carney 2001: 408-409)。た しかに、すでに
40代後半に差し掛かっていたカサヴェテスにとって、加齢は決 して無視できない、現実的な問題として目の前にあった。同じく、夫より
1年だ け遅く生まれた妻ジーナ・ローランズにとっても、加齢は「きわめて繊細な問題」
だったと言えるだろう(
Carney 2001: 408-409)。
そのような、作り手たちが現実において直面していた切実な問題に、登場人物 である舞台女優マートル・ゴードン(ジーナ・ローランズ)も同じく直面してい る。そのことは映画の序盤から示されるのだが、興味深いのは、ある事件を機 に、マートルにとって舞台上で演技することが困難になってしまうことである。
その事件とは、少女・ナンシーの自動車事故である。ナンシーの死、演技の困難、
加齢の問題、この
3つは密接に関係している。なぜ、ナンシーの事故はマートル
を葛藤させる決定的な引き金となったのか。なぜ、それは演技の困難という形に
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なって表れるのか。この節では、主に少女・ナンシーとマートルの関係性を分析 することによって、この作品が画面上の身体という存在をどのように提示してい るのかを見ていく。
まずは、ナンシーの事故以前において、映画が加齢のモチーフをどのように提 示していたかを確認しておく。その後、ナンシーの自動車事故を経て、演技の困 難というマートルの問題がどのように表れていたか、具体的に画面を見ていく。
楽屋の扉を通り抜け、舞台裏にマートルが姿を見せるショットから、この映画 は始まる。傍にアシスタントのボビー(ジョン・フィネガン)と、ケリー(ルイー ズ・フィッチ)を従えており、静かに、テキパキと小道具の準備をしたり、酒を 引っかけたりしている。どうやら、舞台『セカンド・ウーマン』本番上演中の舞 台裏らしい。レバーが引かれるショットが映しだされる。続いて、緞帳が上がっ て行くのを下から捉えたショット。画面を埋め尽くす観客が舞台側の正面から映 されたショットが続く。そして、舞台に入ってきたマートル演じるヴァージニア と、モーリス(ジョン・カサヴェテス)演じるその夫・マーティとのやり取りを客 席側から捉えた長めのショットにつながる。観客の後頭部が画面にわざと映り込 むような視点で撮られている。
オープニング・クレジットに至るまでは、この
5つのショットで構成されてい る。ここにおいて既に、加齢の問題は明示されている。舞台上には、
3枚の写真 が掲げられている。ステージの右側の壁には、子供の写真が飾られているが、こ の場面では台詞によって言及されるだけで、画面には映らない。舞台中央の階段 の奥には、黒いフードを被った年老いた女性の全身が映された巨大な写真が置か れている。そして向かって右側、テーブルのあたりには、同じく黒いフードを 被った老婆の顔が大きくクロース・アップで映された写真が掲げられている。黒 いフードを被った
2人は、同じ人物だろうか。クロース・アップで映された老婆 の顔には、無数のしわが刻まれているが、巨大な全身像の顔にはそれほどのしわ がない。会話のなかでマーティは、老婆の顔に刻まれたしわ[
wrinkle]に言及す る。「すべてのしわに苦痛があり、すべての苦痛には年月がある。そしてすべて の年月には人間が、死が、歴史が、そして優しさがある」とマーティは語る。加 齢は、老婆の写真におけるしわとして、まず提示されるのである。
そして、オープニング・クレジットの後、客席を埋め尽くす観客たちの写真の
うえに、ドレスの裾を翻す金髪の女優のイメージがオーバー・ラップで映しださ
れ、ジーナ・ローランズによるナレーションが重なる。「誰もが愛されたい。
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歳の頃、私は何でもできた。それはとても簡単だった。私の感情[
emotion]は私
の外観[
surface]にとても近かった。それが段々と、連絡を取り合う[
to stay intouch
]のが難しくなっていった」。この台詞によって、マートルにとっての問題
が、感情と外観の乖離にあり、その原因が歳をとったこと、すなわち加齢にある ということが明示されている。つまり、若さとは感情と外観が接触[
touch]し、
折り合いがついている状態のことであり、他方で加齢とは、それらが乖離してし まった状態のことである。
次の場面は、本番の舞台中である。出番を待つ間、鏡の前に座って一息ついた マートルは、鏡に映った自分の顔を少し見つめたあと、悪い冗談だと言わんばか りに手で払いのけるような仕草をし、顔を背ける。ここには、ヴァージニアの衣 装を着て鏡に映った自分の像に対する違和感として、マートルにとっての加齢の 問題が表れている。すなわち、マートルにとって感情と外観の乖離という加齢の 主題は、画面上において彼女自身の顔に刻まれたしわと、それに対する違和感と いうかたちで示されているのである。
このように、映画のごく序盤から、加齢というモチーフが繰り返し提示されて いることがわかる。しかし、この時点ではまだ、マートルは演技の困難という問 題に直面してはいない。その問題が顕在化するのは、少女・ナンシーの自動車事 故を経てからである。
舞台終了後、劇場裏に出てきたマートルのもとに、青いレインコートを目深に かぶった少女が、ファンの大群を掻き分けながら現れる。少女はマートルの熱心 なファンらしく、愛の言葉をしきりに口にしながら彼女に抱きつき、ナンシーと いう自分の名を告げてサインをせがむ。マートルが車に乗り込んでもなお、少女 は窓ガラスにへばりつき、マートルとの接触を試みる。だが車が走り出した直 後、車道に佇んでいた少女に対向車が衝突し、彼女は激しく転倒する。この事故 によって、少女は命を落としてしまうのである
1。
事故の後、リハーサルの場面で、マートルはモーリスから平手打ちを受けるの を頑なに拒み続けることになる。事故の直前までは、多少の違和感を抱いていた にしても、役柄を演じることはできていたのだから、明らかに少女の事故が決定 的な引き金となり、マートルは演技に支障をきたしている。
改めて問う。なぜ、ナンシーの事故はマートルを葛藤させる決定的な引き金
1 この場面については、接触と転倒の主題に着目しながら、2.1で詳しく論じる。
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となったのか。なぜ、それは演技の困難という形になって表れるのか。それが、
マートルの、ナンシーの死に対する罪悪感によるものと考えることは難しくな い。実際、事故に対してほとんど関心を示さない他の登場人物たちの些か異様な 振舞いに比べて、マートルは事故直後、夕食をとても摂る気にならず酒を飲んだ り、事故の記事を探して何種類も新聞を買ったりしており、自分のせいで命を落 とした少女に対して良心の呵責を感じているだろう。しかし、そうした振舞いの すべてを、すでに起きてしまった出来事に対する事後的な罪悪感として説明して しまうことは躊躇われる。なぜなら、少女は命を落とした後も幾度もマートルの 前に、目前の出来事として現れるからである。事故以後も現れるナンシーという 存在は、マートルにとってどのような意味を持つのか。
1.2 ナンシーという存在
自動車事故によって命を落としながらも、少女・ナンシーはその後、
4度にわ たって画面上に登場する。カサヴェテスによれば、現れる少女は幽霊のような
「幻想[
fantasy]」ではなく、マートル自身の「想像[
figment]」だという(
Carney2001: 410
)。カサヴェテスの発言の意図は、それぞれの概念の定義が不明瞭なた
め定かではないが、ナンシーが通常の登場人物とは異質であることは、次のこと からひとまず言える。第一に、このナンシーはマートル以外の登場人物には見え ないという設定であり、同じ場に居合わせるマニーや霊媒師の女性も、ナンシー の姿を目にすることはない。第二に、マートルとナンシーは、
2人だけに聞こえ る音楽を聴いている。自動車事故の場面、その後の
4度の登場場面すべてにお いて、ナンシーのテーマともいうべき、同じ曲が流れている。
2回目の登場場面 で、
2人は流れている音楽を耳にし、ナンシーはその曲が、男たちと遊ぶ夜には いつも流れていたものだと述懐する。こうしたことから、ナンシーはマートルの 作り出した想像として画面上に現れると、ひとまず仮定できる。
社会学者の大澤真幸は、精神分析の概念を用いつつ、マートルにとっての加齢 の問題を、マートル自身の身体に孕まれた他者や、ナンシーという他者像を介し て以下のように説明する。大澤によれば、そもそも俳優は、他者を演じているた めに不可避的に分裂を孕んだ存在である。俳優と役柄との分裂は、「ファースト・
ウーマン(若かった自分)とセカンド・ウーマン(すでに年老いた自分)との間の
距離として、一人の女性の内的な分裂の中に」検出される。これは、楽屋の場面
においてマートルが鏡を見ながらとった仕草からもわかるように、もう若くはな
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い自分への違和感と、そんな自分がもう若くはないヴァージニアという役柄を演
じていることへの違和感において示されていた。そこで大澤は、ナンシーの幻想 をマートルにとっての「理想自我」としての他者像に位置づける。ナンシーはマー トルにとって、いわば過去の若き日の自身のイメージに重なる存在である。しか し、その他者像は「同一化不可能」な「異なる関係の軸上」、つまり自分とは異なる 身体において定義されているため、それは自己から遠ざかった「自我理想」として 再構成されてしまう。最終的に、
4度目の登場の場面において、マートルはナン シーと格闘し、ナンシーを「殺す」ことになる。マートルは、すでに死んでいる少 女の幻想を殺すことによって、「理想自我」と「自我理想」を同時に否定し、セカン ド・ウーマンとしての自分自身を受け入れる。そこにおいて、マートルは葛藤に 勝利し、ニューヨークでの初日の舞台を迎えることができた(大澤
1993: 42-47)。
大澤の説明は興味深いのだが、留保すべき点が
2つある。第一に、大澤の説明 では、ナンシーはあくまでマートルにとっての若さを表象する存在に還元されて しまっている。第二に、大澤のいう俳優の「不可避的な分裂」においては、舞台 と、映画における条件の違いが踏まえられていない。第二の点はひとまず置き、
まず第一の点を検証する。
ナンシーは、単にマートルの想像にすぎず、マートルにとっての若さの表象に 還元されてしまう存在なのだろうか。ナンシーは自動車事故で命を落とした、あ くまでマートルとは別の存在ではないのか。これについて、ジョージ・コウバ ロスの鋭い指摘が参考になる。コウバロスによれば、ナンシーは単にマートル の想像の産物であるにとどまらない。事故の後、
4度にわたって現れるナンシー は、「マートルだけでなく、このフィルムにおける時間と空間をも圧倒する、よ り物理的な力、あるいは分裂のエネルギー」であり、あまりに「肉体的」な存在感 でもって映しだされている(
Kouvaros 2004: 145)。事実、事故の後に現れるナン シーは、事故前の場面とは対照的に照明がはっきりと当てられており、幻想や想 像と呼ぶにはあまりに綺麗に撮られている
2。ナンシーは、マートルにとっての 想像や、若さの表象に還元されてしまう存在ではなく、フィルム全体の時空間に 作用する、もっと物理的な、独立した存在なのではないか。
2 事故前のナンシーは、青いフードの陰になって、顔がはっきりと映らないように撮られており、事故後の、顔にはっ きりと照明が当てられたナンシーとは対照的である。この移行は、2.1において、接触と転倒という主題に関連して 論じる。
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ナンシーがマートルの想像にとどまらないことが決定的に示されるのは、扉 を開けたマニーの表情を映したバスト・ショットの後、マートルに切り返した ショットである。ここでは、ナンシーが立っていると思われる場所が、扉のフ レームに隠されて映り込まないフレーミングになっている[図
2]。
このフレーミングは何を意味しているか。もし仮にこのショットのフレーミン グが実際のそれではなく、マートル、マニー、ナンシーの三者を同一フレーム内 に収めるものであり、かつマニーがナンシーの存在を知覚しなかったとすれば、
ナンシーは、マートルには見えるがマニー(他の人物)には見えない存在として 画面上に映されていることになる。すなわち、その場合ナンシーはマートルの想 像上の産物であるか、あるいはマートルにだけ見える幽霊ということになる。だ が、実際のショットでは、ナンシーは扉のフレームにブロッキングされているの で、その後ろに存在しているのかどうか判別できない
3。より正確に言えば、そ のショットにおいては存在していないのである。したがって、マートルやマニー がナンシーを知覚するかどうかは、そのショットにおいてはそもそも問題となら ない。ナンシーは、映っているショットにおいて存在し、映っていないショット
3 ここではブロッキングという概念を、「前景の人物や事物が後景の人物や事物と重なること」という意味で用いる。以 下の文献を参照した(木下 2016: 89)。
図1
図2
たとえば、ナンシーの
2回目の登 場場面では、洗面所の扉が開いた音 に気付いたナンシーが振り向くと、
マートルとナンシーが画面手前を見
つめるショットに繋げられる。この
ショットで、ナンシーの全身が初め
て映しだされるのだが、着目すべき
は
2人の対照的な表情である。マー
トルは優しく微笑みかけているのに
対し、 ナンシーはこちらを睨みつ
け、息も荒く険しい表情を見せてい
る。ナンシーは、マートルから独立
した身体を持ち、思考し、行動する
存在なのである[図
1]。
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には存在しない。画面上に映っているか否かということだけが、ナンシーの存在
を規定している。
このことから、次のように考えられる。ナンシーは、マートルにとっての想像 や、若さの表象には還元できない独立した存在であり、複雑で微妙な、画面上の 身体の在り方を提示している
4。では、そうした画面上の身体の在り方とは、ど のようなものか。また、マートルは、なぜそのような存在であるナンシーに接す ることで演技の困難に陥るのか。
1.3 ジーナ/マートル/ヴァージニア
まず、マートルの直面した困難がどのようなものだったのか、見ておく必要が あるだろう。マートルにとってのヴァージニア、ジーナ・ローランズにとって のマートルは、自身の身体の内にある、どこか距離を置いた他者として存在し ているだろう。現実においてジーナはマートルという他者を孕み、舞台上におい てマートルはヴァージニアという他者を孕んでいる。この、ジーナ、マートル、
ヴァージニアという
3つの存在が、マートルの存在の基底にある「複数の現実」で あると仮定しておく。では、それを反映したジレンマとはどのようなものか。
マートルという存在は、現実の演者/登場人物/役柄、すなわちジーナ/マー トル/ヴァージニアという複数の層を併せ持っている。『オープニング・ナイト』
の映画テクストを越えて、その複数の層についてまず整理しておかねばならな い。ローランズをはじめ、カサヴェテス監督作品に出演している演者たちは、複 数の映画テクスト間に、現実と密接に関係した独自のイメージを構築しているか らだ
5。
マルテ・ハーゲナーは、その『オープニング・ナイト』論の結論部分において、
4 他方で、脚本家のサラ(ジョーン・ブロンデル)は、マートルにとっての加齢を表象する存在であるといえるだろう。
サラは、ナンシーのように画面上の身体性を明示することはなく、あくまで一般的な登場人物として描かれている。
ただし、ナンシーの3度目の登場場面の直後、次のような興味深いショットは存在している。サラの部屋において、
サラの身体は扉のフレームにブロッキングされているが、画面奥の鏡に映り込むかたちでマートルと同一画面に収ま るというフレーミングが選択されている。鏡、あるいは画面奥の洗面台という装置が、それぞれナンシーの1度目、2 度目の登場場面と共通している。このショットにおけるサラとマートルは、マートルとナンシーの関係を想起させる。
5 よく知られているように、カサヴェテスは、妻であるジーナ・ローランズや、ベン・ギャザラ、ピーター・フォーク、
シーモア・カッセルといった親しい俳優たちを繰り返し起用し、ある種の家族的な制作体制を築いた。マルテ・ハー ゲナーによれば、そうした体制は「顔、身振り、運動、そして音の反復と変化」の「濃密な質感[dense texture]」を 映画テクストにもたらしており、「現実の時間と映画の時間は、それゆえ、様々なフィルム群、多様な視覚経験、そ して多くの年月を横断する無数の方法で潜在的に接続する」。演者と観客がともに「25年以上にわたって歳をとって きた」と振り返るハーゲナーの感慨深い記述にあるように、「現実の時間」と「映画の時間」の親和性が、カサヴェテス 作品の魅力のひとつであることは間違いない(Hagener 2012: 198-199)。
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以下のように書いている。
幾つもの登場人物を、彼らの「現実の」生活と、ステージ上で演じる役柄 との間で宙吊りにすることによって、また彼らを(専有的な関係性、私的 空間、安定した自己といった)個体性や同一性についてのあらゆる伝統的 な指標の外側に位置づけることによって、あるいはまた幾つもの映画史的 な先行者や後継者たちを呼び起こすことによって、この映画は、それが自 発的なものであれ準備されたものであれ、また私的なものであれ公的なも のであれ、どんな演技行為にも含まれる、必然的に交流的で、一時的な領 域を明らかに示していると言える。(
Hagener 2012: 206)
ハーゲナーにとって、この映画は、演技行為に含まれる「交流的」で、「一時 的」な領域を示すものである。そうした性質は、登場人物たちが、「現実の」生活 と「ステージ上で演じる役柄」との間で「宙吊り」になり、いかなる「個体性」や
「同一性」をも保証されないことによって示される。演者/登場人物/役柄とい う形で表すなら、あるひとつの身体は、ジーナ/マートル/ヴァージニア、ある いはジョン/モーリス/マーティという複数の層をたえず揺れ動くものとして描 き出される。「もし我々が、目の前で現在演じているのがジーナか、マートルか、
ヴァージニアかと結論づけようとするなら、それはいかなる瞬間においても、致 命的な誤解を生む(
Hagener 2012: 198)」とあるように、演者/登場人物/役柄 は、それぞれが同一性を保持しておらず、たえず交流的、一時的状態に置かれて いる。テクスト内の要素が、テクスト外の「現実」を想像させるといったかたち で、外部はテクスト内に入り込んでいる(たとえば、ジーナとジョンの「現実」に おける関係性)。
ハーゲナーの主張では、演者/登場人物/役柄は、「いかなる瞬間においても」
交流的、一時的状態に置かれているとされる。だが、そう主張することで、ジー ナ、マートル、ヴァージニアの同一性を必要以上に撹乱してしまいかねない。
マートルは、ナンシーの事故以前には問題なくヴァージニアを演じ、表象するこ とができていたからだ。
また、演者という「現実」と、登場人物との交流的状態を強調してしまうと、
現実と映画が識別不可能なものとして重ね合わされてしまうおそれがある。そう
ではなく、本論文では、この映画において提示される画面上に固有の身体に着目
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したい。ジーナも、マートルも、ヴァージニアも、あくまで画面上において提示
されているからだ。
そこで、先述した大澤の論考への
2つ目の留保が、画面上の身体への端緒とな る。大澤のいう俳優の「不可避的な分裂」においては、舞台と、映画における条 件の違いが踏まえられていなかった。ここで着目したいのは、まさにこの、舞台 と映画における存在の条件の違いである。マートルのジレンマとは、映画に固有 の、画面上の身体であることをめぐる葛藤のことではないだろうか。ナンシーと の遭遇によってマートルは、ヴァージニアという役柄を表象することができなく なる
6。では、どのようにしてナンシーは表象を不可能にしたのか。すでに見た ように、ナンシーはマートルにとっての若さの表象であるという理由で、マート ルに葛藤をもたらしたのではない。ナンシーの提示する複雑で微妙な、画面上の 身体にその鍵があるのではないか。
1.4 絶対的〈分身〉
舞台と、映画における存在の条件の違いとはなんだろうか。丹生谷貴志は、映 画において画面上に映しだされた身体を、アントナン・アルトーの概念を流用し つつ「絶対的〈分身〉」と呼び、演劇における舞台上の身体、すなわち「相対的〈分 身〉」と区別した(丹生谷
1996)。丹生谷によれば、演劇における舞台上の身体は、
登場人物であると同時にそれを演ずる俳優でもあるという「二重の存在」である。
その二重性の間には間隙があり、「劇的世界に内属しようとするバイアスとそこ から外部へと逃走してゆこうとするバイアス」が危うい均衡を形成している。だ が、映画における画面上の身体は、それとは全く異なる存在である。画面上の身 体は、「その世界からの逃亡」を夢見ることができない。
丹生谷は、俳優が心不全で倒れた場合を例にあげる。舞台上で俳優が心不全 で倒れた場合、登場人物と俳優の二重性における併存は崩れ、劇は崩壊してし まう。演劇はこのような「贋の総合」のうえに成り立っている。一方、映画にお いては、俳優は心不全で死ぬことができても、画面上の存在は死ぬことができな い。「エリザベス・テーラーは、或いはイーストウッドは、死ぬことが出来る
4 4 4 4 4 4 4 4。
6 演出家のマニー(ベン・ギャザラ)の台詞によれば、彼がマートルに期待しているのは、彼女が問題なく、上手に ヴァージニアを「表象する」ことである。また、脚本家のサラ(ジョーン・ブロンデル)も、「脚本通りにやればヴァー ジニアが現れる」という台詞にもある通り、自分の書いたヴァージニアという人物が表象されれば良いと思っている。
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しかし、映画の中に
4 4いるクレオパトラもハリー・キャラハンも決して死ぬことは できない[傍点原文]」。ここで言われているのは、登場人物のストーリー上にお ける死のことではない。登場人物の死は、「それを演じた俳優の身体的事件とは 一切関わりのない事件として」生起する。画面上の身体は、俳優たちの実存と全 く無関係に、「フィルムが存在し、映写が開始される度に、永遠に自身を反復し 続ける何ものか、俳優とはまったく別の場所に属する何ものか」である(丹生谷
1996: 126
)。端的に「死ぬことができない」と表現されているように、画面上の身
体は、生死を越えた存在であり、俳優の存在する現実世界とはまったく別の場所 において「永遠に自身を反復する」独自の生を展開する存在、すなわち絶対的〈分 身〉である。
画面上の身体は、「その世界からの逃亡」を夢見ることができず、永遠に自身 を反復する。それは、ショットに映しだされる限りにおいて存在し、ショットが 終わるとともに消え去ってしまう、そうした独自の生をもつ存在である
7。ナン シーは、まさにそうした存在であることを明示することで、マートルを根源的な 問いに向かわせているのではないだろうか。
1
回目の登場の場面では、ナンシーとマートルの全身が映されることなく、断 片的なクロース・アップ、超クロース・アップによって
2人の目元や口元の表情が 映しだされる。まず、椅子に座るマートルの右側から、横顔だけが映される。伏 せた顔を、ゆっくりと上げる。ショットが替わると、わずかに輪郭のぼやけた、
正面の鏡に映ったマートルの像が、目を閉じてゆっくり顔を伏せるが、やがて目 を開け、鏡を見つめる。次のショット、手前左側にぼやけた影が入り、画面奥 のマートルがこちらを向く。ショットが替わり、若い女性の目元の超クロース・
アップが映る。ナンシーである。驚き、笑みを浮かべたマートルの表情が挿入さ れる。次のショットでは、
2人は右手を合わせようとするが、その距離は触れそ
7 ここでは画面上の「身体」という言葉を用いるが、カメラが向けられた現実の対象の生命の有無を限定しないという 意味において、これは「物体」と書き換えられてもよい。たとえば、ジークフリート・クラカウアーは、登場人物を演 じようとする舞台俳優とは異なり、映画における演者は、それを取り囲む諸々のイメージのなかに、「諸物体のなか の物体」として存在すると主張した(Kracauer 1960: 93-101)。また、スタンリー・カヴェルは、映画における物体 と人間の「存在論的平等性」を指摘している(カヴェル 2012: 70)。カヴェルにとってこうした「存在論的平等性」は、
チャップリンやキートンなどの喜劇俳優といった類型の創造を可能にする、映画のメディウムにおける必然的な条件 のひとつであった。たしかに、画面上の身体は、周囲の物体と同等の権利でそこに映しだされる。対象が意志を持っ ているかどうかに関係なく、カメラは必然的に対象を平等に写しとるからである。ダイ・ヴォーンは、リュミエール 映画における「自生性(spontaneity)」を指摘している。生命を持たないものも、人物たちも、画面上においては等 しく「自生性に組み込まれ」、独自の存在様態を生きている(ヴォーン 2003: 37)。リュミエールの作品は、こうした 存在様態を見事に示している。
ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』における 画面上の身体の存在論
039
うで触れない程度に保たれている。
ここで音楽が始まると、次のショッ トで、マートルの頭越しに、はじめ てナンシーの表情が映る。口元に笑 みが浮かぶ。切り返し、マートルの 超クロース・アップ。微笑んで、挨 拶のような一言を声に出さずつぶや
く。そこからショットは、切り返しながら、マートルとナンシーの口元や目元 を、超クロース・アップで映しだしていく。
ここでまず言えるのは、ナンシーは全体像のわからない、断片的な存在として 画面上に出現するということである。ここではナンシーは眼として、口元とし て、手として、ショットに映される限りで存在している。ノックの音とともに ショットが替わり、マートルは我に返るが、そこで辺りを見回しても、ナンシー はもはや存在しない。さらに言えることは、マートルもナンシーと同様、ここで は断片的な存在として映されているということだ。ナンシーが告げているのは、
マートルもまた画面上の存在であり、ショットともに消える儚い存在に過ぎない という事実ではないか。そして、そうした事実がありながらも、この映画では マートルはひとつの表象として画面に映り込み、登場人物として物語を担ってい る。この二面性こそが、マートルのジレンマではないのか。
だが、そうした画面上の儚い存在は、そもそもどうやって歳をとることができ るのだろう。そのような独自の生をもつ存在にとって、加齢とはいったいどのよ うな事態なのか。この場面でまず言えることは、マートルの目元に刻まれたしわ が超クロース・アップで映されているということである[図
3]。画面上の身体に とって加齢とは、しわの刻まれた顔として存在することではないか。したがっ て、マートルの葛藤とは、画面上の身体として、しわの刻まれた顔として存在す るという事態に、どう決着をつけるかという問題であると言えるだろう。別の主 題をたどっていくことで、どのようにしてマートルが闘い、決着をつけたのかが 明らかになってゆく。
図3
立教映像身体学研究
5
040
2
表象に対する抵抗
2.1 接触の主題
この節では、この映画における接触と転倒の主題に着目しつつ、ナンシーが マートルを演技の困難へと陥らせた具体的な画面上の要素について見ていく。
マートルにとって加齢とは、感情と外観の乖離であった。その身体のうちで、
感情と外観がうまく接触しないことが問題となっていた。その問題は、他者との 関係においても、行為としての接触の困難というかたちで画面上に表れている。
ここでいう接触とは、文字どおり身体同士の物理的接触のことである。彼女は孤 独に苛まれており、かつては性的な関係にあったと思われる男たち、すなわち、
モーリス、マニー、デイヴィッド(ポール・ステュワート)との物理的な接触を 望んでいる。しかし、もう若くはない彼女は、かつてのようには男たちと接触で きない。モーリスと抱擁、接吻を交わしても、彼には「君はもう僕にとって女で はない」と言われ、それ以上の接触を拒絶される。マニーとの一夜も、たとえ
2人の抱擁が映しだされていようと、彼にとってそれは舞台の成功のために演出家 として果たした義務にすぎず、かりそめの逢瀬にすぎない。このような接触が、
マートルの孤独を根本的に解消することはない
8。
では、マートルはどうすればよいのか。そこで、序盤におけるマートルのナン シーとの遭遇、そして自動車事故が、接触、そして転倒という主題を提示してい ることに着目する。この遭遇、そして自動車事故は、どのようにしてマートルに 葛藤をもたらしたのか。その場面を見てみよう。
舞台の本番中、楽屋で出番を待っていたマートルが、準備を整えて扉を開けて 出て行こうとする瞬間、ショットは劇場裏に切り替わる。扉が開くと、中から 出てくるのは演出家のマニー(ベン・ギャザラ)とその妻ドロシー(ゾーラ・ラ ンパート)である。スターたちや演出家、脚本家を出待ちしていた熱烈なファン
8 ペトラ・レフラーは、この映画における距離と近接の運動がリズムを作っていると指摘しており、そのなかでマート ルの男たちとの関係について言及している(Löffler 2009: 72)。
ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』における 画面上の身体の存在論
041
たちが、 握手やサインを求めて群
がる。舞台はすでに終わっている
9。 出演者やスタッフがファンに揉まれ ているなか、そこにマートルが登場 する。
すると、 青いレインコートを目 深にかぶった少女が、 ファンの大
群を掻き分け、劇場から出てきたマートルの前に現れる。彼女は「アイ・ラヴ・
ユー」をしきりに口にしながら、マートルに抱きつく。サインを要求し、マート ルは動揺しながらもそれに応じる。雨が降り始め、マートルたちはファンを掻き 分けて車に乗り込む。相手が車に乗り込んでもなお、少女はガラスの向こうから 投げキッスを送り続ける。夕立に濡れたガラスに隔てられ、レインコートの陰と なった顔貌がぼんやりと映しだされる[図
4]。少女は、ガラス窓に隔てられても なお、掌で窓に触れることで、マートルに接触しようとしている
10。この直後、
自動車事故は発生する。ここに、接触の主題が極めて興味深いかたちで表れてい る。事故の瞬間がどのように映されていたか見てみよう。
夕立に濡れた窓ガラス越しに、ナンシーは車内のマートルに触れようとしてい る。ショットが替わり、マートルの乗った車がロングショットで映しだされる。
車が走り出した直後、彼女はまだ車道にいる。すると、対向車がクラクションを 鳴らす音が聞こえ、次に鈍い衝突音が聞こえ、彼女は転倒する。両手をあげ、所 持品は宙を舞い、身を半ば翻しつつ倒れ、地面に転がるのがロングショットで示 される。
注意深く見ると、車との衝突の瞬間が、マートルの乗った車によってブロッキ ングされていることがわかる。つまり、ナンシーは実際には車と接触していない
9 ジル・ドゥルーズは、カサヴェテスにおける空間とは「情動を濃厚に含む非連結空間」だという(ドゥルーズ 2008:
214)。本論文では詳しく取り上げないが、2つのまったく異なる時空間を捉えたショットを扉の開閉によって並列さ せるという編集はこの映画の特徴のひとつである。ジョージ・コウバロスは、空間の非連結や不一致を指摘しつつ、
この映画に表れるステージは「時間が全方向に流れる場所であり、行為、身振り、音は、まさにその安定性を侵食す る」と書いている(Kouvaros 2004: 130)。事実、この映画はひたすら扉が映る作品だと言うこともできる。そうし た扉の存在は、本論文との関わりにおいては、本文や注に書かれているように、フレームがブロッキングに加担した り、マートルが自らの身体を打ちつける相手となったりといったかたちで表れている。
10 感情と外観の乖離を問題とするマートルとは対照的に、この少女は、マートル自身の台詞によれば、感情と外観が密 接に連関した存在である。人混みをかき分けて対象に接近し、愛の言葉を浴びせながらいきなり抱擁する存在。対象 への距離をやすやすと踏破し、接触しに行く存在。マートルにとって感情と外観の連関とは、一途に対象へと向か い、接触へと向かう行動のことであり、この行動こそが若さの証である。
図4
立教映像身体学研究
5
042
のである。当然、実際に車が演者に 衝突していたら、演者の命の保証は ない。したがって、衝突しても怪我 を負わないように工夫するか、衝突 させないまでも衝突したように見え るべく工夫するか、現実においては どちらかの方法しかない。この場合 は後者である。少女は衝突された演技をしており、クラクションや衝突音によっ て衝突の印象が作られている。そして走り去る車が、絶妙なタイミングで少女を ブロッキングしている[図
5]。
現実における演者の命の保証という要請が、画面上では奇妙な主題となって表 れる。すなわち、ナンシーはここで接触を禁じられた存在として提示されてい る。事故前の少女の顔は、レインコートの陰になりぼんやりとしか映されていな かった。しかし、事故によって、顔を覆っていたフードが外され、降りしきる雨 のなか初めてナンシーの顔が露わになる。ナンシーはここで、別の存在、すなわ ち接触を禁じられた存在に移行したのである。では、ナンシーがその後の登場場 面において、一貫して接触を禁じられていることを具体的に見てみよう。
2.2 接触を禁じられた存在
たとえば
1度目の登場場面では、すでに言及したようにマートルとナンシー は、互いに右手を合わせようとするが、それらの手は触れそうで触れ合わない距 離に保たれていた。
2度目の登場場面では、ナンシーはマートルと会話を交わす が、物理的に接触している様子はない。
3
度目の登場場面は少々複雑である。ナンシー出現の音楽を耳にしたマートル は、部屋の中にナンシーを探すが、見つからない。ホーム・バーに近づくと、ふ と音楽が消え、酒瓶を手に何か言おうとした瞬間、画面左からナンシーが突然現 れ、マートルの右腕を掴みにかかる。だが掴んだかに見えた直後、卓上の銀製の 容器が倒れるショットに替わってしまう。またすぐにショットが替わり、回転し ながら
2人は地面に倒れ込む。
2人は掴みあっているはずであり、わずかに映り 込む左手の指によって、マートルは左手でナンシーの頭を鷲掴みにしていること が想像されるが、ショットサイズはバスト・ショットほどに寄っており、手持 ちの撮影であることに加え
2人も激しく動くため、はっきりと接触した部分はフ
図5
ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』における 画面上の身体の存在論
043
レーム内に映り込まない。ナンシーが地面に倒れこむと、ショットは替わり、切
り返しで拳を振りあげて威嚇のような仕草をするマートルが捉えられる。さらに 切り返し、地面に横たわったナンシーが、起き上がり掴みかかろうとすると、立 て続けに、翻ったマートルの背中、腕を大きく振り上げて掴みかかろうとするナ ンシー、這うようにしてマートルに腕を伸ばすナンシーを背後から捉えたショッ トが示され、次のショットでは逃げてきたマートルがクローゼットルームの側か ら示されると、地面にはマートルの着ていた毛皮が落ちており、ナンシーはすで に映っていない。
2人は一見激しい乱闘を繰り広げているようだが、
2人が接触 する部分は、フレーミングとモンタージュによってフレーム内から排除されて いる。
接触の禁止は、直接対決の趣を呈する
4度目の登場場面においても示されてい る。霊媒師の部屋を訪れたマートルは、辺りを見回し、ナンシーの登場を告げ る音楽が突然力強く鳴り響くと、振り向いて「そこにいたの[
There you are.]」と 言う。扉を開けてナンシーが現れる。ナンシーがマートルに詰め寄り、マート ルが立ち上がって後ずさりしていくのがショット/リヴァース・ショットの切 り返しによって示されるのだが、この場面の最後に家の主人が現れるまではロ ングショットが示されないため、ここでの
2人の位置関係はよくわからない。ナ ンシーがいよいよマートルに触れそうになり、マートルが怯むと、ナンシーは
「じっとして[
Stand still!]」 「握手したいだけ[
I just wanna shake your hand.]」 「触 りたくないの[
Donʼ
t you wanna touch me?]」と言い、右腕を振り上げる。すると マートルは身体を右側にねじり、呻き声が漏れる。ナンシーが右腕を振り上げる のはわかるのだが、マートルとの間に距離があり、接触したようには見えない。
直後に、ナンシーの背後から、同じく右腕を振り上げたナンシーと、おそらく マートルのものであろう呻き声が示されるショットが、別の角度から
2度立て続 けに示される。かなり短いショットが続くが、アクション繋ぎと言っていいだろ う。これらのショットにおいても、
ナンシーの身体によってブロッキン グされており、接触の瞬間はよく見 えない[図
6]。
一方、その直後のマートルによる ナンシーに対する殴打においても、
接触の瞬間は明示されない。最終的
図6立教映像身体学研究
5
044
にマートルは、近くにあった置物を手にとってナンシーに投げつけ、地面にはガ ラスの破片が散らばるのだが、それがぶつかる瞬間は映されていない。ナンシー は、接触が明示されないまま、鼻から血を流し地面に倒れ、そして消える
11。
以上見てきたように、ナンシーは一貫して接触を禁じられた存在である。男た ちに拒絶され、孤独を解消することはできないにしても、男たちとの画面上にお ける物理的な接触を禁じられているわけではないマートルと比べれば、その違い は明らかである。接触を禁じられたナンシーにとってできることは、転倒という 身振りのみである。
では、いったいなぜナンシーは接触を禁じられた存在として示されるのか。ひ とつ明らかなことは、フレーミングやモンタージュを介して、その身体が断片化 されることによって、ナンシーは接触を逃れていることだ。つまり、画面上にお いてナンシーが他の身体と接触している部分が、空間的/時間的に排除されてい る。これは、映っているからこそ存在する、言い換えれば、映っていないものは 存在しないという態度である。ナンシーは、フレーミングとモンタージュの効果 によって徹底的にショットの外部を空間的/時間的に排除した存在であり、まさ にそのことによって物理的接触を禁じられているのである。
そしてまさに、ナンシーのこうした特性がマートルの葛藤をもたらしている。
ナンシーは、物語の登場人物であり物理的接触が不可能ではないマートルも、自 分と同じように画面上の存在にすぎず、ショットとともに消える儚い存在なのだ と告発し、マートルをショットの間隙に引きずり込もうとしているかのようだ。
マートルは、画面上の存在でありながら、一方で登場人物として舞台上で演技を するという任務を果たさなくてはならない。マートルはこのジレンマをどのよう にして解決するのか。
2.3 主題の継承
マートルは、ナンシーとの遭遇によって、自身もまた画面上の存在にほかな らないという事実を突きつけられ、演技の困難に陥る。「年齢に関係なく演じる 方法を模索している」とサラに語っているように、マートルが、ヴァージニアを 表象することなく演じる方法を模索するのも、自身が舞台における相対的な〈分
11 また、激しい殴打を受けているはずなのに、マートルがサングラスを落とさないことも奇妙である。サングラスは、
何事もなかったかのようにマートルの顔の上に在り続けている。ここにはやはり、接触が欠落している。
ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』における 画面上の身体の存在論
045
身〉である一方、画面上の絶対的〈分身〉として存在しているからである。役柄
=ヴァージニアも、登場人物=マートルも、ともに画面上の存在であり、絶対的
〈分身〉であるほかはない。では、どのようにすればマートルはオープニング・ナ イトを全うできるのか。画面に目をやれば、ナンシーの提示した主題をいかに引 き継ぐかということ、つまりいかにして接触することが可能か、あるいはどのよ うに転倒し、そこから起き上がることができるかということがマートルにとって 問題となっていることがわかる
12。
自動車事故の直後のリハーサルで、マートルが演技に支障をきたすのは、まさ にモーリスからの平手打ち(接触)を拒絶し、自ら転倒してしまうという身振り によってなのである。さらに、その後の上演では、モーリスからの平手打ちを受 けたあと、舞台上に転倒し、仰向けに寝転んだまま起き上がれなくなってしま う。やがて起き上がり、役柄名のマーティではなく、モーリスの名を口にしてし まうことで幕は降ろされるのだが、重要なのは、この寝転がるという身振りに よって『セカンド・ウーマン』という舞台が脚本から逸れ、予定通りに上演されな くなってしまうということである。ヴァージニアという役柄の再現=表象に対し て、またそれを要請する戯曲の上演に対して、マートルは転倒、そして寝そべる という身振りで抵抗しているのである。
転倒、そして横たわるという一見即興的な身振りが、役柄の再現=表象に対す る抵抗として機能している。だが、ここでのマートルの即興的な身振りは、ジー ナにとっては少しも即興的ではない。言うまでもなく、彼女はあくまで『セカン ド・ウーマン』の上演に抵抗するマートルという、『オープニング・ナイト』の脚 本に書かれた登場人物を忠実に上演しているからだ
13。たとえば、ロングショッ トの長回しで、ジーナの演技をひたすら記録するというアプローチはここでは選 択されていない。一見出来事の偶然性に肉迫しうるかに思われるそのようなアプ ローチはここでは排除され、代わりに構成されたフレーミングと、幾つかのモ
12 カサヴェテスは転倒の身振りを頻繁に作品に登場させている。映画監督の塩田明彦は、倒れるという身振りを用いた 世界三大「気絶する女」監督として、溝口健二、フランソワ・トリュフォー、ジョン・カサヴェテスの名を挙げている
(塩田 2014: 14)。
13 カサヴェテスの映画は即興ではなく基本的に脚本に忠実だが、脚本が即興的状況を生み出すように構成されているこ とはある。この映画に関してヴィエラは以下のように書いている。「カサヴェテスは、俳優たちやキャラクターたち が相互作用できるような空間を作り出す、即興的状況の連続に向けて脚本を構成したのであって、俳優たちはそうし たカサヴェテスの書いたものを反映している」(Viera 2004: 157)
立教映像身体学研究
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ンタージュが選択されている
14。だが重要なのは、ここでは転倒という身振りに よってマートルの抵抗が提示されていることにある
15。
あるいは、どのように接触するかという問題もある。ナンシーの
3度目の出現 の後、動揺したマートルが、サラの部屋を訪れる場面では、彼女はサラの前に姿 を現すやいなや、何かに突き動かされたように扉のフレームに自らの身体を打ち つけ始める。乾いた鈍い音が重ねられる。サングラスは割れ、目元から血が流れ ている。マートルの葛藤が、扉のフレームへの接触というかたちで表れている。
そして、最終的にマートルは、酔いつぶれて転倒し、起き上がりながら演技を するという答えを出す。泥酔した状態でオープニング・ナイトに姿を見せたマー トルは、起き上がろうとして何度も地面に倒れながら、楽屋に向かって這うよう に進んでいく。制作進行役のレオ(フレッド・ドレイパー)が助けようとするが、
マニーがそれを制止する。ふらふらの状態でメイクを施され、周囲に見守られる なか、彼女はついにステージに立つ
16。もっとも、これもジーナにとっては即興 ではない。彼女は脚本にしたがって、酔っ払った演技をしている。重要な点は、
ここでは転倒し、起き上がるという身振りである。
直後の舞台では、マートルとモーリスが、戯曲にはない即興的な芝居を繰り 広げる。この芝居はもともと即興で演じられたが、合計
3回にわたって撮影され た。カメラ位置を変えた複数のテイクで撮影されたショットが、編集によって繋 ぎ合わされ、即興的な芝居の雰囲気が作り出されている(
Carney 2001: 422)。つ まり、物語においては即興という設定だが、これは編集による複数のテイクの総 合であり、画面上に映っているものを単純に即興であるとは言えない。むしろこ こで着目すべきは、
2人の和解が、すれ違いざまに互いの足首に接触するという 身振りによって表れていることだろう。
14 たとえば、平手打ちの後、舞台上で寝転がり、起き上がることができないでいるマートルに対し、はじめ相手の出方 を伺っていたモーリスは、徐々にマートルに近づいてゆき身をかがめ、観客席のほうを眺めたあと、マートルの身体 から離れつつ立ち上がるが、この動作を介してアクションつなぎでモーリスに寄った短いショットへと移ったかと思 うと、次の瞬間には舞台に設けられた階段の上からマートルを俯瞰撮影でとらえたショットに移る。一回きりのテイ クで、そのときに生じた唯一の出来事を記録するというアプローチではなく、複数のテイクを様々なカメラ位置で撮 影し、モンタージュを積極的に用いるという方法で、画面上で唯一の出来事が生じているかのような印象を作り出す というアプローチが為されている。
15 なお、横たわる身振りと俯瞰撮影との関連性について、映画監督の青山真治による以下の文章を参照。青山は『ビッ グ・トラブル』を論じるうえで、地面に横たわるアラン・アーキンの身体の上をトラックが走っていく瞬間を俯瞰撮 影でとらえたショットに、偏在性(特異な視点)と遍在性(様々な視点)を両立させるカサヴェテスの作家性を見出し ている(『カサヴェテス・ストリームス』 1993: 151-153)。
16 詳述しないが、困惑し、マートルを見守り、ときには手助けをする周囲の人々、舞台のスタッフやキャストたちの振 る舞いや表情が豊かに映しだされており、この場面の魅力となっている。
ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』における 画面上の身体の存在論
047
そして、着目すべきはラストにお
けるマートルとドロシーの抱擁であ る。ドロシーは、与えられた台詞は 多くはないが、映画全編を通じてた びたび画面に映り込んでいる。彼女 は、夫・マニーに頼まれ、舞台稽古 の際に客席や舞台裏で、夫を介した
微妙な関係にあるマートルをじっと見守る存在である
17。そうした存在であるド ロシーは、終盤での舞台終演後、満面の笑みを浮かべ「ブラボー!」と叫んでい る。舞台裏では、ピーター・フォークやシーモア・カッセルなど、カサヴェテ ス作品の常連の演者たちが姿を見せ、現実/登場人物/役柄の境界が曖昧に思 えるような演出が為されている。だが、この場面の最後、すなわちクロージン グ・ショットにおいてこそ、マートルがジレンマを解決する瞬間が映されている。
ドロシーはマニーと肩を組み、まっすぐにマートルのもとへ駆けつける。ピー ター・ボグダノヴィッチが登場しているが、彼はドロシーによって払いのけられ る障害として、ドロシーが他の存在を押しのけ、まっすぐにマートルに向かっ ていることを示す指標として存在しているにすぎない
18。
2人のこの抱擁の瞬間、
画面はストップ・モーションになり、エンディング・クレジットが画面に重なる ように映しだされていく。徐々にズーム・アップによってマートルの顔が拡大さ れていくと、その目元から頬にかけては、満面の笑みが作り出したしわがはっき りと刻まれているのを見て取れる[図
7]。
これはどういうことなのか。それは、マートルが、このショットにおいてはこ のしわの刻まれた顔として画面上に存在しているということだ。ここには、鏡の 中の自分の顔に刻まれたしわへの違和感はもはやない。彼女の感情と外観は、こ こではしわというかたちで重なっている。重要なのは、それが、ドロシーとの抱
17 マリア・ヴィエラは、そのようなドロシーの在り方に着目し、周縁に位置する物質的な身体性をもつ存在としてドロ シーに言及している(Viera 2004: 167)。たとえば、マートルがリハーサルを抜け出し、劇場の入り口で脚本家のサ ラと口論している傍にドロシーが立っている場面である。ドロシーは、壁際にじっと立ちながら俯いて、その場をや り過ごそうとしている。マートルによって半ばブロッキングされて見えなくされているが、彼女はその場を動こうと せず、壁との狭い隙間にありながら、微笑みを浮かべているのが見える。ドロシーは、マートルのように感情と外観 の乖離について深刻に悩むことはない。むしろ、その物質的な身体性を発揮し、状況と遊戯的な関係を取り結ぶので ある。こうした身体性は、深夜、マートルからの電話を受けている夫・マニーのそばで、ふざけてベッドで転がりま わる印象的な場面にも当てはまるだろう。
18 ボグダノヴィッチは、B班の撮影に協力したことでカメオ出演している(Carney 2001: 424)。
図7