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1920-1930年代のヨーロッパ映画における亡命ロシ ア人とロシアのイメージ

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ア人とロシアのイメージ

著者 メリニコワ イリーナ

雑誌名 言語文化

巻 14

号 4

ページ 353‑376

発行年 2012‑03‑10

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012722

(2)

1920-1930年代のヨーロッパ映画における 亡命ロシア人とロシアのイメージ

メリニコワ・イリーナ

0.

 革命後にロシアを去った文化人や芸術家は、彼らの亡命を受け入れた国々 の芸術的な雰囲気だけでなく、西欧における「ロシア神話」の形成にも影響 を与えた。1920年代に映画は技術的にも芸術的にも飛躍的に発展し、より重 要なコミュニケーション手段となった。そして、ロシアからヨーロッパ映画 界への人材流出は、サイレント映画時代後期におけるロシアとロシア人のイ メージ形成に重大な影響を及ぼすこととなったのである。ドイツやフランス、

イタリアやチェコではロシアの古典文学が映画化され、ロシア史を主題にし た映画が撮影された。これらの映画は、主にヨーロッパの観客を意識して作 られたものであったが、そのいくつかはソ連や、アメリカ、そして日本でも 上映された。本稿で論じられる時代のソ連映画はすでに、革命前のロシア映 画とも、亡命者による映画芸術とも異なる独自の映画スタイルを生み出して いた。その独自性とは、言うまでもなく、エイゼンシュテインやプドフキン 等によるモンタージュ技法である。しかしながら、そういった新しいソ連映 画における革命的なロシアのイメージは、商業的で娯楽的で大衆的な映画に 慣れ親しんできた西欧の観客にはあまり向いていなかった。イデオロギー性 の強いソ連映画が、西欧でなかなか普及できなかったことは、周知の事実で ある。1920年代の西欧では、映画やそれ以外の文化活動全般において、ロシ アのイメージを創り出していたのは、主に亡命者たちの映画であった。

 本稿では、亡命映画監督のうちでもっとも才能豊かなアレクサンドル・ヴォ ルコフに注目したい。サイレント映画期の亡命ロシア人スター、イヴァン・

『言語文化』14-4:353−376ページ 2012.

同志社大学言語文化学会 ©メリニコワ・イリーナ

(3)

モジューヒンが出演し、観客にも好評であったヴォルコフの作品を三本選び、

これらを例にとって、ヨーロッパ映画におけるロシア神話がどのように創り だされてきたのかを考察する。

 亡命者映画に見られる民族的特徴への関心は、ヨーロッパ映画界のなかで ロシア人による映画作りがきわだった潮流として台頭し始める前から既に存 在していた。西欧で映画製作に参加した亡命者の多くは、果たしてロシア国 外でも「ロシア映画」作りは可能かと、思いを巡らせ、亡命者の新聞雑誌は、

ロシアを主題とする映画やロシア人が参加して製作された映画の批評を積極 的に発表していた1。ロシア人美術担当者、撮影技師、俳優、端役にはヨーロッ パ映画に残した業績を記録していこうという動きもみられた。彼らのおかげ でヨーロッパとアメリカの映画の様相は著しく変化したにもかかわらず、彼 らは無名のまま忘却の彼方へ追いやられていたからである。例えば、1924年 からパリに移住していた文学者でも芸術家でもあるユーリイ・アンネンコフ

(1889-1974)は、1968年にロシア語雑誌『ヴォズロジュデーニエ』(200-204号)

に国外映画のロシア人スタッフの名簿を発表した2。アンネンコフは、彼ら の名前がロシア映画史に刻まれるべきであると考えたのである。

 ロシア国内外の研究者が、亡命ロシア映画人の活動に注目するようになっ たのは、ペレストロイカの時期、つまり1980年代後半からである3。映画製 作機関や映画製作者に関する数多くの資料が取り上げられ、当時の刊行物や 回想記に現れた亡命者の作品に対する諸評価の分析がなされた。しかし、亡 命ロシア人が参加して製作された映画そのものが資料として分析されること は依然として稀である。その主な理由は、これらの映画を入手することの難 しさにある。これらの映画の大半は世界各国のフィルム・アーカイヴに所蔵 されており、特別な祭典で上映されたりしない限り、それらが一般観客の目 に触れることはない。だからこそ、我々は、もっとも成功した亡命作家の一 番有名な作品から分析を始めることが必要である。彼らは、映画製作を行う にあたって、ロシア的な題材がヨーロッパの観客にも、ロシアからの亡命者 たちにも受け入られやすいように、シナリオや演出を脚色する方法を模索し た。本稿では、資料として、『カザノヴァ』(1926年)、『白魔』(1930年)、そ して『無名戦士』(1931年)という三本の映画を取り上げる4。最初の作品は

(4)

サイレント映画で、後のつはトーキーである。上記の亡命作家たちの映画 に見られる自己表象は、その後の亡命者の作品にも受け継れる基本的な形式 を提示したと考えられる。

1.

 本稿の中心人物は映画監督アレクサンドル・ヴォルコフ(1885-1942)と 映画俳優イヴァン・モジューヒン(1889-1939)である。彼らは革命後、ヨ シフ・エルモリエフの映画会社と共にフランスに渡ってきた映画人である。

ヨシフ・ニコラエヴィチ・エルモリエフ(1889-1962)はパテ社(フランス)

のロシア支部で、最下層から出世を始め、やがて支部長の座まで上り詰める ことができた。彼が自主的な映画製作を始めたのは1915年になってからで あったが、それでも彼は亡命前に、当時最も優秀とされた俳優や監督たちが 参加した作品を200本近く撮影している。

 エルモリエフは、まだロシアにいた頃に、既に革命以前からA.ハンジョン コフ社の大スターとなっていたI.モジューヒンを引き抜き、自らの会社に起 用することに成功していた。この事実は、エルモリエフのプロとしての実力 を示している。革命勃発後エルモリエフに限らず、ロシアの首都などで活躍 していた映画陣は、ロシア南部に位置するヤルタという街に移動した。ヤル タでも赤軍が迫って来ると、エルモリエフのグループはコンスタンティノー ポリとマルセイユを経由してパリに向かった。パリ到着後、モントレイュと いう町に位置したパテ社の古いスタジオで仕事を始めることができたのは、

エルモリエフの並外れた経歴のおかげである。

 「エルモリエフ・シネマ」スタジオはわずか年で解散したが、その会社 の所有者や名称が変わっても、スタジオの母体は異なる芸術的及び商業的な 団体として生まれ変わり、存在し続けた。ロシアから亡命してきた映画製作 者は、同胞同士で協力しあいながら仕事を続けようとしたのである。そのた め、かつては将校であった者や文学者、公爵であった人々さえもが次第に映 画製作に参加するようになった。一方で、亡命ロシア人の間では、ヨーロッ パやアメリカ映画のエキストラとして仕事をすることで、家計をたてること も一般的であった。作家ウラジーミル・ナボコフや革命家レフ・トロツキー

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のようによく知られた亡命ロシア人の多くも、映画撮影に参加することで、

生活費を稼いでいた。

 1922年、パリではエルモリエフのスタジオをベースに新たな映画スタジオ が生まれた。「アルバトロス」と名付けられたそのスタジオは、驚くべき文 化現象となった。エルモリエフ自身はスタッフの一部と共に、映画製作が著 しく安価であったドイツに移り、アルバトロスの指導は、エルモリエフに招 かれたユダヤ系ロシア人のプロデューサー、アレクサンドル・カメンカとノイ・

ブロッホに任された。アルバトロスは、形式的にはフランスの映画会社であっ た。ジャン・エプステインやマルセル・レルビエ、レネ・クレールのような、

後にフランス映画の巨匠となった人々が頭角をあらわしたのもアルバトロス である。他のフランスの映画スタジオと違っていたのは、アルバトロスの経 営陣と製作スタッフの大半は亡命ロシア人であったという点である5。  パリのエルモリエフ・シネマとその後継者であるアルバトロスの諸作品は 当初、ロシア的な題材を基礎とはしていなかった。この点において、アルバ トロスは他のヨーロッパ諸国における亡命ロシア人による映画製作活動と大 きく異なっていた。例えば、1920年代初頭のドイツでは、ロシアの古典文学 が頻繁に映画化されていたが、アルバトロスで働いていた亡命映画人は、現 代的なテーマを扱ったオリジナルな脚本を執筆して演出を行ったり、フラン スの文学作品を映画化したりしていた。興味深いことに、ロシアでは革命前 から西欧の娯楽小説の映画化がなされており、物語の舞台となっているヨー ロッパ都市の民族的・地理的な実態がよくわからない、ブルジョア生活を主 題とするメロドラマが多く作られていた。

 フランスで活動していた亡命ロシア人の映画活動における最も重要な特徴 は、東洋的な題材の使用であった。そもそも、パリではS.ディアギレフのバ レエ団が「ロシア・シーズン」と呼ばれた公演を行って以来、芸術における 民話的なエキゾチズムと東洋的なエロティシズムがロシア独自のものだと考 えられていた6。例えば、監督のヴィアチェスラフ・トゥルジャンスキーは、

国外で仕事を始めるや否や『千夜一夜物語』の映画化に着手した。トゥルジャ ンスキーには、「ロシア・バレエ」や優れた舞台美術、そしてロシア人の東 洋的な本質を詠ったロシア神話の知名度をうまく利用することができると分

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かっていたからである。ほかの亡命映画人たちもやはりオリエンタリズムの 流行を重視していた。

 ヴォルコフ監督は、ロシアの有名な劇場俳優一族ヴォルコフ家の子孫で あった。彼の映画監督としてのキャリアはロシアで始まったにも関わらず、

ロシアにいた間、彼はわずか数本の映画しか作ることができなかった。フラ ンスに亡命した後、ヴォルコフはまずジュール・マリの小説『秘密の家』を 映画化したが、主役はI.モジューヒンであった7。その後、大デュマの戯曲で

「キーン、または天才と放蕩」(1923)が作られた。ここでは、偉大なイギリ スの俳優キーンの役を、やはりI.モジューヒンが演じている。この両作品は、

同じくヴォルコフが演出し、モジューヒンが主演した次の作品『過ぎ行く影』

(1924)と同様にフランスの観客に大いに歓迎され、「ヴォルコフ・モジュー ヒン」のペアは一躍名声を得た。

 1924-25年にかけてヴォルコフ監督は、ほぼ年間、アベル・ガンスのア シスタントとして彼の巨大なプロジェクト「ナポレオン」で働いた。これは アルバトロスを拠点に組織された特別な映画会社で、その運営は亡命ロシア 人(撮影技師、技術スタッフ、俳優、エキストラ)の力によるところが大き かった8。ヴォルコフは、アベル・ガンスを映画の巨匠として高く評価して いたが、彼との仕事は、映画製作の経験だけでなく苦い絶望をももたらした。

撮影の際に金銭的な問題が起こり、謝礼も支払われず、ガンスのロシア人ス タッフの著作権は制限された。これによってヴォルコフの芸術家としてのプ ライドが傷つけられたことは言うまでもない9

 I.モジューヒンについて言うならば、彼はフランスで映画出演をするよう になってからも大人気で、彼の飛び抜けた演技力は、たちまち評判となった。

フランスに渡ってきた監督たちと違って、サイレント期の俳優はよりスムー ズに他国の映画界に参入することができた。ところが、モジューヒンは監督 の仕事にも挑戦し、1923年に彼はヴォルコフと共同で、自分の脚本によるき わめて個性的な映画『燃える炎』を制作した。そこで彼は、ドラマティック な色調とコミカルな色調を巧妙に混ぜ合わせ、シンボリズムとアヴァンギャ ルドのスタイルを取り混ぜながら、一度にいくつもの役を演じていた10。こ の映画によってモジューヒンは、単に俳優としてだけでなく、映画芸術の新

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たな道を探求する、多面的な才能がある人物として認められた。モジューヒ ンの発見のいくつかが、その後のドイツの表現主義やルイス・ブニュエルの 映画に代表されるシュールリアリズムを想起させるのは、単なる偶然ではな いだろう。しかし、大衆的な観客にはやはり、ヴォルコフ監督の映画『キー ン』に登場するイギリスの劇場俳優キーンや、ジャン・エプステインの『蒙 古の獅子』(1924)における東洋の王子、そしてロシアの映画監督V.トゥルジャ ンスキーが制作したジュール・ヴェルヌの冒険小説の映画化である『ミシェ ル・ストロゴフ』(1926)に登場する皇帝の急使のような役の方が身近であっ た。私見では、最後の『ミシェル・ストロゴフ』は、西欧における「ロシア 神話」形成に多大な影響を及ぼした極めて重要な作品である。ここで、それ を詳しく分析することはできないが、一稿を改めて論じてみたい。

 1926年の時点で、モジューヒンはすでに、偉大な俳優やアヴァンチュリス ト、あるいは「気高い野蛮人」の役で、ヨーロッパの観客を魅了していた。ヨー ロッパの観客は、モジューヒンが演じたこれらの登場人物のさまざまな性格 描写、すなわち、俳優としての才能、冒険と人生の転機への情熱、気品のあ る内面性、エキゾチックな振る舞いを、単なる俳優の演技として受け止める だけでなく、そこに実際のロシア人の人間性を看て取り、これがロシア人の 特徴なのだと理解した。モジューヒンが「ロシア神話」の生ける具現者とな るために必要だったのは、これらのイメージにロシアの文化的、歴史的背景 を結びつけることであった。

2.

 ヴェネチィアの偉大なアヴァンチュリストで旅行家、作家であったジャコ モ・カザノヴァ(1725-1798)は、剣での決闘や、愛の葛藤が最大の見せ場 となるダイナミックな冒険映画にはもってこいの登場人物である。カザノ ヴァの著書『カザノヴァ回想録』には、1764年のほぼ一年に及んだロシア滞 在が描かれており、ロシアの題材と情景は映画にも反映された。脚本はヴォ ルコフとI.モジューヒン、そしてドイツの作家ノルベルト・ファルク11の三 人によって書かれた。ノルベルト・ファルクはすでにドイツで大規模な歴史 映画の脚本を執筆した経験を持っていた。カザノヴァの映画はシネ・アリア

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ンスとシネロマンという映画会社の尽力によって製作された。これは、絶大 な力を有するハリウッドと対抗するために、ヨーロッパで多国的に映画製作 及び配給を行う国際的な企業として創設された二つの会社であった。撮影は イタリア(ヴェネツィア)、ドイツ、そしてフランスで行われた。撮影クルー の構成もやはり国際的であった。全ヨーロッパ的な規模で活動するアヴァン チュリストについての映画というアイデアそのものが、全ヨーロッパ的な文 化価値の堅固さの確認を可能にしたのである。カザノヴァがロシアを訪れた エカテリーナ大帝の時代が、西欧文化の一部として認識されている数少ない ロシア史のエピソードであることも見逃せない。

 映画はカザノヴァの回想記を文字通りにたどったものではなく、歴史年表 的な信憑性のあるものでもない。これは美術的な場面描写の連なりであり、

したがってダイナミックでユーモアにあふれ、俳優モジューヒンの才能を完 璧に示すことができたのである。カザノヴァのロシア旅行は映画の中心的な 部分であり、上映時間の三分の一を占めている。第部で我々はヴェネツィ アにおけるカザノヴァを見る。彼のことは街の少年たちでさえ知っており、

夫たちは皆彼を恐れ、だまされた人たちは、密告用のライオンの口の形をし た箱に、不満を書いた手紙を次々と投函していく。カザノヴァは女性に言い 寄るのが上手で、公爵夫人も庶民の女性も女優も惹きつけることができ、ヴェ ネツィアの異端審問は、彼には不道徳の罪だけでなく妖術の罪があると訴え たほどである。

 魔法による変身の描写は、ロシア人の美術家やアニメーション作家が以前 から得意としていた映画シーンである。ディアギレフのロシア・バレエ団が 公演を行って以来、フランスではロシア人作家による舞台演出のレベルの高 さが評判となり、ディアギレフが提示した演技と音楽と舞台セットの総合演 出は、他のロシア人演出家とも結びつけられるようになった。エルモリエフ 社、そして後にはアルバトロスで働いていた美術家のB.ビリンスキー、A.ロ シャコフ、V.メインガルト、またカメラマンのF.ブルガソフやN.トポルコフ は、きわめて優秀な人材であった。そして、ヴォルコフのように外国で活躍 していたロシア人映画監督は、ロシア人美術スタッフの優れた技術だけでな く、1910年代のディアギレフ・バレエ団の人気が生み出したロシア人美術家

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に対する観客の期待をも上手く利用していた。映画では、女性の靴下止めが しおり代わりに挟んである妖術の本が登場して、モジューヒン(カザノヴァ)

はその小道具を巧みに使いこなしており、最後にはそこから悪魔自身が飛び 出してくる。このエピソードで、主人公は自分の妖術を披露し、風船のよう に膨らんでみせる。

 カザノヴァの享楽的な人生は、エロティシズムの栄光であり、ヴェネツィ アの退屈でいくらか馬鹿げた貴族社会と対置されている。ヴェネツィアはま た、警察国家としても笑いものにされている。映画ではロシアが、ヴェネツィ アとは正反対な、生き生きしたカオスとして描かれている。まだヴェネツィ アにいるときにカザノヴァは、「ロシア精神」を保持するエカテリーナ女帝 の寵臣オルロフ伯爵と会い二人ともストリップショー付きの宴に参加してい る12。バレエを踊るダンサーたちの影でできたシルエットは、舞台の幕を通 して撮影され、繊細なエロティシズムは喜劇性と結びついている。オルロフ とカザノヴァはある女優を巡って剣で決闘をする寸前までいくが、ダンスの 際に彼らの剣につけられた花輪をどうしても払い落とすことができなかっ た。

 オルロフとのエピソードは、カザノヴァが性的魅力に溢れるロシアへ逃れ るきっかけを生み出している。カザノヴァはロシアで、自らの本当の名前で はなくフランスの仕立て屋デュポンの名前を名乗る。カザノヴァは道すがら、

彼の箱馬車と旅行許可書を盗み、デュポンが保持していた商品やパリの最新 流行の品物を宣伝するために、エカテリーナ女帝の寝室に直接やってくる。

モジューヒンはすでに、革命以前のロシアの映画『コロムナの家』で女性の 衣装をまとった男性の役を演じたが、ここでも彼は女装という喜劇的な状況 を見事に演じ切る。カザノヴァは、ぎこちなく、女帝の足に靴を履かせよう とし、踵が入るべきところに爪先を入れようとする。また、彼は頭に男性用 の帽子を被ったまま、鯨骨で広げた女性用のスカートを着てみせたりする。

カザノヴァの中性的な性格は、これまでも指摘されてきたが、このことは映 画のなかで非常に輝かしくユーモラスに表現されている。

 実際には、カザノヴァはエカテリーナ大帝が即位してから年後にロシア を訪れていたが、映画『カザノヴァ』ではこの歴史的事実には反してエカテ

(10)

リーナはまだ女帝ではなく、愚かで横柄なピョートル世の妻として表象さ れているので、我々は彼女を、夫に侮辱され、騙された苦悩する女性として 認識するのである。ピョートル世は自分の愛を肥満した伯爵夫人ヴォロン ツォヴァに捧げている。(エカテリーナ女帝の役はシュザンナ・ビヤンシェッ ティが、ヴォロンツォヴァの役はロシアのオペラ歌手ニーナ・コシェツが演 じている。)このようにして、宮廷のクーデターとエカテリーナ女帝の即位は、

カザノヴァの目線で描かれ、正当化されている。(映画ではピョートル世 の暗殺については何も語られない。)カザノヴァは新たな女帝を祝福する豪 華な祝祭に参加する。双頭の鷲の刺繍が施された、10メートルにも及ぶエカ テリーナのスカートの裾13を大勢の幼い黒人の子供たちが運んでいく。カザ ノヴァの同行者も黒い肌を持つ腕白な男の子である。カザノヴァは彼をまだ ヴェネツィアにいたときから奉公させ、ロシアにも連れてくるのだが、彼は 早速、エカテリーナに仕える黒人の子供の中に自分のガールフレンドを見つ けた。この喜劇的な一場面は、エカテリーナの舞踏会で以前から知り合いだっ た貴婦人と出会ったカザノヴァの新しい愛のたくらみを際立たせる。エカテ リーナ大帝自身はカザノヴァが自分に注目していないことに傷つき、ヴェネ ツィアから逃げてきたカザノヴァを城塞に幽閉する命令を出す。しかし、エ カテリーナは「犯罪者」であるカザノヴァを郊外の宮殿に連れて行き、そこ で彼女はロシアの農婦が着る衣装であるサラファンと頭飾りを身に付けて彼 を待ち伏せするのである。カザノヴァは道すがら箱馬車から飛び降りるが、

自らの召使いにエカテリーナ宛の手紙を持って行かせる。手紙の中身は女帝 の心を揺り動かし、彼女は少年に褒美の金貨を与える。カザノヴァは再びヴェ ネツィアへ戻るが、そこでは新しいロマンス、新しい冒険、カーニヴァルへ の参加、牢屋への監禁、そしてそこから脱走などが彼を待ち受けている。

 ヴォルコフ監督の『カザノヴァ』には、革命前のロシア映画では決して描 かれることのなかった、歴史的事件が反映されている。それはすなわち、エ カテリーナ大帝によるクーデターを取り巻く歴史的出来事の描写である。王 家の私生活を描くことは、帝政ロシアの検閲で禁じられていた。だからこそ、

革命勃発以降、亡命ロシア人コミュニティーを含むロシア社会のロマノフ王 朝の知られざる歴史に対する関心は、これまでにないほど高まっていた。特

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に、エカテリーナ大帝は、ロシア国内だけでなくヨーロッパ全土で広く知ら れていた歴史的人物であったため、恋多き女性であったエカテリーナとカザ ノヴァの恋愛物語は、ロシア人の観客にとっても、ヨーロッパの観客にとっ ても関心をそそる魅力的な題材であった。カザノヴァの自伝では、エカテリー ナは彼を疑い続け、恋人同士になることはなかったと記録されているが、ヴォ ルコフはこの事実を自由にアレンジしたのである。自伝にはまた、カザノヴァ がロシアの農民女性(当時、農奴制はまだ廃止されていなかった)を買って、

ゼミーラという東洋風の名前を付けた後、自分の妾にしたというエピソード が記録されているが、これも映画からは省略されている。ロシア社会の影と も言うべき農奴制の歴史を映画に反映させることはおそらく、ロシア人ヴォ ルコフと亡命ロシア人コミュニティーにとって受け入れ難い行為であったの だろう。その代わり映画におけるカザノヴァは、エカテリーナ女帝の心に愛 の勝利を収めることができたのである。映画『カザノヴァ』におけるロシア の首都サンクトペテルブルグは、さほどエキゾチックではないヴェネツィア と同じようなヨーロッパの町として描かれ、明るくて親切で機知に富むカザ ノヴァは、そこで穏やかな日々を過ごしている14

3.

 次に取り上げる『白魔』(1930)という作品は、形式的にはL.トルストイ の中編小説『ハジ・ムラート』の映画化である。『白魔』を製作するにあたっ て、ヴォルコフ監督は、『カザノヴァ』でも用いたロシア的な題材を再び利 用しただけでなく、部分的には同じ舞台装飾さえ用いた。しかしながら、こ れらのふたつの映画はスタイルにおいて著しく異なっている。この時期に映 画人は進化の過程にあった――映画界に音響が到来したのである。R. ヤン ギーロフも指摘している通り、映画『白魔』には、英語、ドイツ語、フラン ス語の三ヵ国語が吹き込まれていた15。筆者は、その吹き込みのバージョン を見ることができなかったが、世界のフィルム・アーカイヴにはこの映画が 部分的に音響付きで保存されており、それにはオーケストラの音楽や、

M.ジャーロフ指揮のドン・コサック合唱団、また多少の騒音などが録音さ れている。ただし、登場人物たちは台詞を発せずに、映画には字幕が付いて

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いる。

 映画『白魔』のプロデューサーは、またしてもN.ブロッホとG.ラビノヴィ チであった。彼らは『カザノヴァ』のプロデューサーでもあったが、この映 画はドイツのスタジオ、ウーファで製作された。ヴォルコフ監督は再び、主 役にイヴァン・モジューヒンを起用した。彼はちょうど1928年の秋に10ヵ 月に及ぶアメリカ旅行から戻ってきたばかりであった。残念ながら、モジュー ヒンはアメリカで望んでいたような成功をつかむことができなかったが、

チェチェンの山岳民族ハジ・ムラートの役は、モジューヒンにとって映画に おける最後の大ヒットとなった。トーキー映画は彼に向いていなかったから である。サイレント映画で活躍した大勢のスターたちもそうであったように、

モジューヒンは新しいタイプの演技方法に順応することができなかった。そ れだけでなく、彼は外国語を話すことが全くできず、美しい調子の声も持ち 合わせていなかった。しかし山岳民族ハジ・ムラートには台詞がなく、エキ ゾチックなイメージと優雅なジェスチャーが引き立っており、その役柄はモ ジューヒンにスターとして輝く最後のチャンスを与えた。

 A.ヴォルコフとM.リンスキー16によって書かれた映画の脚本は、原作とは かなり異なる。トルストイの作品では、ハジ・ムラートとロシアの植民地政 策に対抗する山岳民族の酋長イマーム・シャミールの対立が描かれるが、こ の人の対立は、お互い強いリーダー同士である人物たちの政治的な憎しみ と関係している。シャミールはハジ・ムラートの家族を人質にとり、ハジ・

ムラートは家族を解放するために、ロシア人の側につく。トルストイの中編 小説において、コーカサス戦争は、幾つかの登場人物の視点から描かれてい る。それはすなわち、山岳民族のハジ・ムラートの視点、ロシア軍兵士と将 校の視点、また軍上層部の指揮官とニコライⅠ世の視点である。映画ではし かし、「気高い野蛮人」である「白魔」ハジ・ムラートのみに焦点が当てられ、

彼が文明と衝突して悲劇的な死を遂げる様が描かれている。

 映画の冒頭でハジ・ムラートは自分の故郷にいる。小さな村で彼は年老い た母と10歳の息子のユスフと共に暮らしている。彼は愛情あふれる父親だが、

妻を亡くしたばかりである。シャミールの姪で村一番の踊り子サイラは、ハ ジ・ムラートに対して恋心を寄せており、彼女はダンスをすることで、自ら

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の愛を表現する。ところが、ハジ・ムラートはまだ悲しみに浸っており、サ イラを見ようともせず、これがシャミールの怒りを買う。シャミールとハジ・

ムラートの口論が始まるが、これはロシア軍による突然の襲撃によって遮ら れ、サイラはロシア軍に捕虜として連れて行かれてしまう。ハジ・ムラート はロシアの部隊を峠で攻撃するが、捕虜にしたロシア人兵士に慈悲をかけ、

村人たちが捕虜に石を投げて殺そうとするところを止める。彼は、捕虜たち の命を助けようと主張するのである。シャミールは再び激怒し、ハジ・ムラー トは脱走を余儀なくされる。そこで、シャミールはハジ・ムラートの年老い た母親と幼い息子を人質にとる。自らの家族を救うため、ハジ・ムラートは コーカサスのロシア総督に降伏し、総督は親切にも「お前は捕虜ではない、

お客だ」と宣言する。ハジ・ムラートは直接ペテルブルグの皇帝のもとへ送 られる。

 トルストイの原作では、踊り子のサイラなど存在せず、コーカサスの人々 が捕虜に親切にすることはない。逆に、残酷な復讐の習慣や、ロシア人征服 者に対するチェチェン人の根絶しがたい憎しみが描かれており、ハジ・ムラー トの家族も実は、一夫多妻制の大家族である。トルストイのハジ・ムラート はロシア人と手を組むにあたって、グルジアの町チフリスまで旅することは あっても、基本的に故郷の山から出ることはなく、ペテルブルグで皇帝に面 会することもない。ヴォルコフ監督の映画は、コーカサスとロシアの歴史を あまりよく知らず、トルストイの原作をも読んだことがない観客のために、

脚色されている。『白魔』では、『カザノヴァ』と同様に、ペテルブルグの宮 殿の美しい内装が描かれる。ただ、今回我々が目の当たりにするのは、エカ テリーナ大帝の時代における宮殿ではなく、ニコライ一世時代のそれである。

映画のなかで観客は、「冬の宮殿」や、宮廷付属バレエ劇場の桟敷、舞台裏、

郊外の公園に位置するパビリオンなどを目にする。このパビリオンでは、前 回エカテリーナ大帝がカザノヴァを待っていたのである。今度はこれらを背 景に、チェチェンの山岳民族ハジ・ムラートと宮廷付属のバレリーナになっ ていた村の踊り子サイラのロマンスが繰り広げられる。当然ながら、トルス トイはこのようなことには全く触れていない。

 宮廷の侍従の部屋に住むこととなったハジ・ムラートは、主人の幼い息子

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と一緒にきちんとロシア語を学習し、主人の息子に親切にし、友情を育む。

この男の子は、彼に実の息子ユスフを思い起こさせるのだ。ハジ・ムラート は首都に十分慣れ親しみ、宮廷の芝居にも参加する。劇場の舞台ではチャイ コフスキーのバレエ『眠れる森の美女』が上演されていることが、バック ミュージックからわかるが、皇帝がホールに登場すると音楽は変わり、グリ ンカのオペラ『皇帝に捧げし命』の一部である有名な合唱『栄光あれ』が響 く。このように、映画の製作者は音楽を効果的に利用することで、ロシア人 作曲家の栄光やロシア・バレエの伝統、ロシアにおける専政の歴史を観客に 思い出させる。実際、ロシア皇帝ニコライ一世は映画のなかで、残酷な征服 者、手に負えない好色漢として描かれ、崇敬されることはない。山岳民族ハ ジ・ムラートがより高潔に見えるのは、この対比のためである。

 劇場の観客ホールでハジ・ムラート見かけたバレリーナ・サイラは、彼に 助けを求める手紙を書く。彼女には皇帝がしつこく付きまとっているからで ある。ハジ・ムラートは、ピョートル大帝の銅像(「青銅の騎士」像)や、

ネヴァ川の畔にあるエジプトのスフィンクス像を背景にサイラと密会する。

これらは、ペテルブルグに行ったことのある者なら、誰もが知っているはず の有名な場所で、亡命者たちのノスタルジーを掻き立てたことであろう。少 し前に文字を書くことを習得していたハジ・ムラートは、愛の告白として、

雪の上に「サイラ」という名前を書く。彼は宮廷の侍従と、皇帝の愛人で女 官でもあったネリドヴァの行動的な援助によって、皇帝の目の前からサイラ をさらっていく。そして、ひそかにサイラと結婚し(我々はモスクで奇妙な 結婚の儀式を見る。白髪の老人の僧侶が恋人たちの手をつなぎ合わせ、彼ら にリンゴを半分ずつ与えるのである)、それから二人はペテルブルグを離れ る。

 その後、物語の舞台は再びコーカサスへと変わる。映画の製作者は、観客 がロシア人にもコーカサス人にも共感できるように、「すべての人にはそれ ぞれの真実がある」というトルストイの理解を映画に反映させようとした。

ハジ・ムラートは選択を迫られる。ヴォロンツォフ将軍はハジ・ムラートに シャミールと戦うように命令し、シャミールはもしハジ・ムラートが「聖戦」、

つまり「異教徒」であるロシアのキリスト教徒たちとの聖なる戦いの旗のも

(15)

とに再び立ち上がらないならば、ハジ・ムラートの家族を滅ぼすと言い、ハ ジ・ムラートを脅すのである。これに対して、ハジ・ムラートは自分の民族 とは決して戦わないと、何度も繰り返し語っている。

 戦争とは対比される和解のシンボルとして、ロシア正教の復活祭が映画に 登場する。聖歌斉唱、十字架行進、鐘の音、花火といった教会の儀式の場面 が非常に詳しく写される。この祭日は、ロシア側からの釈明を象徴している。

軍人たちは皆教会の中では武器を持たず、ロウソクを手にしている。この場 面は、トルストイが人生の最後に発展させ、世界中で有名になった、キリス ト教的な教えを表している可能性もある。しかし、トルストイ自身は、まさ にこのような教会の儀式を否定していた。ハジ・ムラートは、武器を持って いないまま教会から出て来る無防備なロシア人たちを攻撃すると、コーカサ スの人々に約束していたが、結局これを実行しない。ハジ・ムラートが攻撃 を回避した理由は、詳しく説明されないが、ロシア人は結局、彼を裏切り者 として捕える。ハジ・ムラートは脱走し、シャミールが壁の中に生き埋めに させようとした息子を解放するために自分の村へ急ぐ。

 彼に追いついたロシア軍の発砲で致命傷を負ったハジ・ムラートは、命の あるうちに息子を救うと、サイラに息子の世話を頼み、馬に乗って英雄とし て故郷の村に入る。彼はアラーの祈りを口にしながら、美しく高潔に死んで いく。そして、彼の遺体は三日月の軍旗に包まれる。シャミールは「そうだ、

アラーを讃美せよ、彼はお前を聖なる軍旗の下に返したのだ!」と結ぶ。

 映画『白魔』の一連の音響(ロシアの民謡、チャイコフスキー、教会の合 唱)は、亡命者の観客を大いに喜ばせた。歌がロシア語で歌われたこと、ま た、数多く存在した亡命ロシア人の合唱団のなかでも特に有名であったセル ゲイ・ジャーロフ指揮のコサック合唱団が出演したことは重要であった。ベ ルリンの日刊ロシア語新聞『ルーリ』のなかで、ある批評家はヴォルコフの 映画について次のように書いている。「―前略―ドン・コサック合唱団の歌 が大変すばらしい。力強い鐘の音は、特に早朝の復活祭の場面で、音響と視 覚的印象が完璧な統一感を達成している。舞台装置の装飾の面については、

熟練した腕によって愛情をこめて作られているのが分かり、映画を単に飾っ ているだけではなく、強い印象を与える。ロシアの兵士たちが山道を行きな

(16)

がら歌を歌う場面はすばらしい。ペテルブルグの皇帝のバレエはなんと冷や かに、なんと調子よく、なんとなめらかに、上演されているのだろう。なん という効果だ、速歩もギャロップも疾駆も、馬の走りはどれもが美しい。誇 張された曲芸師も、全てが素晴らしい。」(「ルーリ」1930年月31日)

 このようにして、批評家が、音楽や演出方法を絶賛するのと同時に「馬の 走り」を褒めるのは、驚くべきことではない。映画には、乗馬の名手として 知られるコサックが出演しているのである。当時、乗馬が上手であった亡命 者たちの多くは、世界各国でサーカスの公演を行い、しばしば映画にも出演 していた。このように、亡命者の観客が映画で注目した点は、しばしば他の 観客とずれていた。彼らにとって重要なのは題材そのものではなかったので ある。(例えば、すでに引用された批評において、筋がトルストイの原作と かけ離れている点が批判されている。ハジ・ムラートのペテルブルグにおけ る場面が特にそうであった。)亡命者が重視していたのは、ロシア文化が正 確に伝えられているかどうか、あるいは、亡命者コミュニティーが考える「ロ シア文化を象徴するもの」が上手く表象されているかどうかという問題であ る。映画に登場するロシア文化の象徴は、例えば、歌の合唱、バレエ、舞台 のデザイン、馬の調教、ロシアの俳優学校の熟練ぶりなどである。

 イヴァン・モジューヒンは亡命者にとって文化人の一人であり、彼らはモ ジューヒンの成功を世界中に拡散してしまったロシア・ディアスポラ全体の 成功として受け止めていた。例えば、ハルビンで出版されたロシア語雑誌『ル ベージュ』は、読者に新しい映画作品を紹介する欄があり、中国や満州で上 映されていない映画でも、亡命ロシア人と関係のあるものは、リストアアッ プされていた。モジューヒンは、他の有名な亡命映画俳優と同様に、さまざ まな国を移動し、彼を映画のなかで見る亡命者たちの団結に貢献した。故郷 を懐かしむ山岳民族の役を演じたモジューヒンは、映画のなかで常に「自分 の民族に反することをしない」ための選択を迫られ、亡命者たちは、自らが モジューヒンと同じ立場にあることを容易に連想することができた。映画の メイン・ソングは映画の冒頭で、盲目の山岳民族の歌い手が歌っているが、

一度ならずオーケストラにアレンジされたり合唱になったりした。映画のな かで、それはバックミュージックとして響くが、故郷を懐かしむ思いを表現

(17)

しており、「故郷の国へ、あそこへ」と張り裂ける魂について語っている17。 当然ながら亡命者たちはこの歌を自分についての歌として受け止めていた。

モジューヒン自身が、亡命して年が経つ頃に、自らをD.W.グリフィス映画

『散りゆく花』の主人公と重ね合わせていたことは興味深い。『散りゆく花』

の主人公は、ロンドンで落ち着けず、孤独を感じている中国人である。(中 国人の役はリチャード・バーセルメスが演じている18。)

 このようにして、ロシアのコーカサスにおける植民地政策を題材とした映 画では、ロシアのイメージが、ペテルブルグの式典とカフカスの山々と村落 の光景、あるいは帝政国家創設の歴史に関するナレーションを通して直接伝 えられるだけではなく、一連の音響や亡命者がロシア国外に渡ってから創り だすことができた「ロシアン・スタイル」の特徴を応用することで、表象さ れている。例えば、復活祭の儀式の場面を革命前のロシア映画で描くことは 不可能であった。教会の機密の描写は検閲によって禁止されていたからであ る19

 ここで再び注目したいのは、『白魔』における「ロシア」のイメージが、

ニコライⅠ世時代にコーカサス戦争を戦ったロシア人兵士だけでなく、チェ チェン人であるハジ・ムラートによっても象徴されている点である。映画に おいてだけでなく、亡命者たちの生活においても、カフカスや東洋的なエキ ゾチズムは頻繁に活用されていた。オリエントのモチーフは、ロシア出身の 芸術家、デザイナー、ファッションデザイナー、手工業者の作品においても、

キャバレーやバラエティーショーの歌手、ダンサー、俳優にとっても、秘密 と謎に満ちたエキゾチックな東の国としての「ロシア」のイメージを創り出 す重要な役割を担っていた。コサックやロマの合唱、カフカスの剣を口で持 つ情熱的な踊り、バレエのディヴェルティスマンの「民族」舞踊などは、「ロ シア」の娯楽施設の通常の演目であった。ロシア料理のレストランなどは

「シャヘラザード」、「カフカス」、「カズベク」、「クナク」という看板さえ掲 げた。コサックが身に着けていた毛皮帽とチェルケス風のカフタンも、ロシ アのサラファンや大きな花柄のプラトークと同じように、ロシアの生活様式 の特徴として認識されていた。

(18)

4.

 映画『無名戦士』は完全なトーキー映画として1931年に撮影された。これ はフランスとドイツ合作である。スタッフロールには、ウラジーミル・スト リジェフスキー20が監督として記されており、『カザノヴァ』と『白魔』の 監督であったアレクサンドル・ヴォルコフは「芸術指導」を行ったと書かれ ている。ヴォルコフがどの程度仕事に参加したかを判断するのは、今では不 可能である。しかし、ストリジェフスキーが自分で撮影した他の映画(『皇 帝の密使』1929、『ヴォルガの船曳人夫』1935、『朝のない夜』1938)と比べ ても、『無名戦士』は極めて水準が高い。俳優イヴァン・モジューヒンはこ の映画で初めて、「自分自身」について語り、自分自身を演じた。彼に任さ れたのは、フランス語を充分に話せない、フランス在住の亡命ロシア人の役 である。初めて亡命ロシア人がヨーロッパ映画の主役になり、しかも、彼は 金持ちでも貴族でもない、何百万人もいる平凡なロシア人の一人であった。

 戦争と革命で家族と引き離され、イヴァン・チェルノフはとうとうフラン スで船から降りる。住所が書かれた紙を手にして、イヴァンは自分の妻のオ リガの家へ行く。オリガは留守で、イヴァンは彼女に手紙を書いて小間使い に渡してもらおうと考える。そして居間に通されると、イヴァンは部屋で喪 章がつけられた自分の写真と、フランス語で「愛する妻へ」と下に書かれた 別の写真を見つける。イヴァンはオリガが自分のことを死んだと思い、再婚 したことを知る。そこで彼は名前をジャン・レノに変えて、自らの人生も大 きく変えー多くの亡命ロシア人と同じように、フランスの外人部隊に参加す る。

 舞台は、パリからアルジェリア、あるいはチュニジアのような植民地へと 変わる。そこで我々はフランスの駐留軍を目にする。ジャン・レノ(イヴァ ン)はほかの皆と同じように勤め、ほかの皆と同じようにその土地の居酒屋 で楽しみ、現地の踊り子に目をとめる。ロシア人の主人公は、そのステレオ タイプ通り、東洋を理解する人物とされ、西欧と東洋の仲介人役を担う。踊 り子が蛇に咬まれたとき、ジャン・レノは彼女を死から救い(アフリカの砂 漠においても、彼はくじけることがない)信頼できる忠実な友人を得る。

(19)

 その後物語は急展開する。城塞に、新しい要塞司令官が妻子を連れてやっ てくる。すると、突然現地の部族が攻撃を始める。要塞司令官の妻はなんと、

かつてジャン・レノと結婚していたオリガであった。彼女は、幼い息子を連 れてフランス人の夫に同行し、ここに来て大変な目に合った。主人公は、以 前の妻に隠れて息子と会おうとするが、歳の少年は、フランス語の下手な、

見知らぬ兵士に全く興味を示さない。しかし、ジャン・レノは自分の命も顧 みずに、自分の仲間たちと前の家族を水不足から救おうとする。地元の踊り 子の助けを借り、彼は水を調達して、隣街の駐留軍から救援を得ることに成 功する。オリガは、イヴァンがすぐ近くにいることにも、皆を救ったのは実 は彼だったのだということにも、気付かないままでいるが、彼女の夫は(自 らが戦闘で負傷したときに)イヴァンが見せた勇気のある行動と妻に対する 気遣いを高く評価し、街を去る際は、オリガの息子に「おじさん」(ジャン・

レノ)にキスをするようにと言う。彼はまた、ジャン・レノを軍曹に昇進さ せ、彼に駐留軍を任せ、家族と共に街を後にする。

 この映画は、亡命者たちにとって、全く新たな状況のなかで撮影された。

映画が音響を獲得したことで、フランス語を母国語としない多くの亡命ロシ ア人が映画に出演できなくなったうえ、彼らの亡命はこれから先も続くこと が次第に明確となった。ソ連ではスターリン体制が堅固になり、国境を越え ることは日増しに難しくなってきていた。国外にいるロシア文化のエリート とソ連の文化人たちとの連絡交流は、人為的に制限された。(エイゼンシュ テインがスターリンからの電報によってメキシコ出張から呼び戻されたの は、1932年のことであった。)ソ連はもう、亡命者が製作した映画を上映の ために買い付けることはせず、1920年代に購入されていた亡命者の映画は上 映されなくなった。

 一方で、1930年代に入ると、亡命者たちは、1920年代の前半のように、ロ シア人同士だけで集まり、団結して映画製作を行うことはしなくなった。彼 らは仕事を得るために、国外のあらゆる映画スタジオに所属し、ばらばらに なっていった。ロシア神話の代わりに、革命や国内戦など、ソ連についての 神話が世界の映画で描かれるようになった。『無名戦士』はロシア国外に出 ることになった人々の過去ではなく、これらの人々の現在の状況を反映した

(20)

最初の作品である。我々が映画のフィナーレで見る、仲間たちとともに歌を 歌いながら列を組んで快活に行進する無名戦士の姿は、彼が家族と自らの思 い出を失い、自分の名前さえ失った人間であることを明快に示している。

5.

 ロシア革命以降、ヨーロッパには大勢の人が亡命した。亡命後、最初の10 年間は、特にフランスとドイツでロシア人の映画人、文学者、芸術家、ある いは専門を持たない人々でさえもが、映画界で仕事を見つけ、ヨーロッパの 観客や亡命者の需要を満たす映画作品を作ることができた。1920年〜1939年 頃までの亡命ロシア人の文化的アイデンティティは、国外のロシア人学校や ロシア語の新聞雑誌によってだけでなく、映画のなかの「ロシアン・スタイ ル」とロシア人俳優スター、ときにはロシア的な題材によっても維持された。

これらの映画の観客の大部分は亡命者ではなく、一般的なヨーロッパの観客 のためには、ロシアの文化的歴史的神話を書き直すことが不可欠であった。

亡命映画人は、観客の要求と自分自身の芸術上、思想上の主張との間でバラ ンスを取りながら、この文化的神話の改造を試みた。このバランスの維持を 可能にしたのは、ヨーロッパとアメリカの映画が創り出した、エキゾチック で歪められたロシアとロシア人の誇張されたイメージを、亡命者の新聞雑誌 が受け入れずに厳しく批判したことである。

 1926年から1931年にかけて作られたA.ヴォルコフ監督、I.モジューヒン主 演の本の映画は、ロシア的な主題を表象するためのつの異なる手法を示 している。第一の方法は、非リアリズム的な演劇的虚構とドラマ化である。

映画『カザノヴァ』ではカーニヴァルが象徴的に使われたが、これはロシア の革命以前の銀の時代の文化では大変重要なものであった。ロシアのモダニ ズム文化にも反映された18世紀を好む傾向は、この映画の描写のスタイルを 方向づけている。「カーニヴァル」のスタイルはエカテリーナⅡ世と彼女の 時代の「史実」とは明らかに異なるが、誰も抗議しなかった。ヨーロッパで 有名な俳優イヴァン・モジューヒンは、技量も人気も絶頂にあるときに、カ ザノヴァというヨーロッパ全体の文化的神話の主人公を演じたのである。

 第二の手法は、A.ヴォルコフの『白魔』のなかで提示されている。この映

(21)

画には幾つかの異なる要素が集められており、観客はそのなかから自分にあ うものを選ぶ権利を与えられた。トルストイの中編小説『ハジ・ムラート』

を題材にしたこの映画では、19世紀半ばのカフカスの情景とペテルブルグの 華やかさを写実的に描くことが目指された。作品におけるロシアの歌や教会 音楽は、ロシアの魂を突き動かすと同時に、ヨーロッパの観客をエキゾチッ クな景色によって満足させた。この映画は、帝国主義的なオリエンタリズム 特有の題材をもとに、コーカサスの気高い英雄ハジ・ムラートの愛と死を詠っ たドラマである。しかし、これはまた、モジューヒンが才能豊かに演じた、

慣れ親しんだ文化環境から引き離された人物についてのドラマでもあり、亡 命者についての物語と同然でもあった。

 第三の手法は、『無名戦士』で示された。亡命者たちの精神的なトラウマ と亡命者たちが社会に適応することが問題にされ、題材そのものとなった21。 ロシア国外の映画監督たちはしかし、この第三の道を進み続けることはな かった。『無名戦士』以降の世界映画史において、亡命ロシア人を主役とす る映画が作られることは極めて稀であった(チャップリンの『伯爵夫人』)。

通常ロシア人というのは、端役として描かれている(『ペペ・ル・モコ』

1936年、『カザブランカ』1942年)。ロシア人運転手、ロシア人ウエイター、

ロシア人売春婦といったキャラクターたちは、映画におけるロシア人表象の 定番である。

 「第一の波」として、革命直後にヨーロッパに亡命してきたアレクサンドル・

ヴォルコフは、ロシア国外で活躍していた亡命映画監督のなかでも、もっと も才能豊かだったと言えよう。彼は、フランスだけでなく、ドイツやイタリ アでもロシアを題材にした映画をいくつか撮影している。これらの映画で彼 は『カザノヴァ』で選んだ道、すなわち歴史的背景のなかの非リアリズム的 な演劇的虚構、優雅な芸術的構成、ヨーロッパ文化史の一部となったロシア についての神話を表現し続けた。しかし、残念ながら、1930年代以降、彼は もう、それらの映画で以前のような成功を収めることはなかった。ヴォルコ フはさらに、東洋の架空の国での専制君主に対する反乱を描いた『千夜一夜 物語』(1933年)、ロシアにおける伝説的なコサック強盗を描いた『ステンカ・

ラージン』(1936年)、後にエリザベータ女帝となったピョートル一世の娘と、

(22)

若いロマの男性との恋愛を描いた『皇女の愛』(1941年)などを制作している。

 本稿の日本語の推敲で木寺律子氏の貴重な助言をいただいて、ここに感謝 の意を表したい。

1 ヨーロッパにおけるロシア人の映画人の活動については、アレクサンドル・モ ルスコイ編集のパリの雑誌Кинотворчество - Театр(1923-26年)が定期的に紹介 している。しかし映画については、映画専門ではない他の亡命者の刊行物にも書 かれていた。

2 Y.アンネンコフのリストはロシアで1996年に出版された。Ю.Анненков. Русские в мировой кинематографии. Киноведческие записки, №30. 1996. С.4-56参照。

3 モノグラフの名称だけを挙げよう。 Н.Нусинова. Когда мы в Россию вернемся...

Русское кинематографическое зарубежье. М. 2003; Р. Янгиров. «Рабы Немого».

1920-1930-е годы. М. 2007; François Albera. Albatros : des Russes à Paris, 1919-1929.

Mazzotta. Cinémathèque française, 1995.

4 映画の原題は以下のとおりである。Casanova, Le Diable Blanc (Der Weisse Teufel), Le Sergent X (Sergeant X. Geheimnis Des Fremdenlegionärs).

5 スタジオ「アルバトロス」のフランス映画史における意義は、A.カメンカによっ

て保存されたスタジオのアーカイブからフランスの映画フィルムライブラリー

(Cinémathèque Française)が開かれたことにもある。スタジオ「アルバトロス」

については Albera, 1995.

6 Albera, 1995; Мельникова, 2010.

7 通常の標準規格の映画La Maison du Mystèreが撮影され、これは1922年に上映さ れた。また1923-1929年にかけて6部の同名シリーズも作られ、それも同様に人気 を集めた。

8 ナポレオンの役は最初I.モジューヒンがする予定であった。

9 亡命ロシア人の映画『ナポレオン』への寄与は、スタッフロールに書かれてい るよりもはるかに大きい。このことについては Brownlow 1983, с. 546-564;

Янгиров 2007, с. 215-228参照。

10 Нусинова 1988.

11 ノルベルト・ファルクは、オーストリア出身のジャーナリストで作家であり、

当時すでにドイツ映画の大規模な歴史的映画のために脚本を書いていた。『デュ・

(23)

バリ夫人』(1919)と『アンナ・ボレイン』(1920)である。

12 カザノヴァの本『カザノヴァ回想録』によると、彼はオルロフとロシアで最初 に1764年に会い、その後彼に会ったのは、リヴォルノとヴェネツィアで1770年の ことであった。

13 映画研究者のナタリヤ・ヌシノヴァが個人的に話してくれたところによると、

フランスで一度ならず行われた年配の亡命者に対するインタヴューで、ロシア人 女性たちはほとんど形だけのわずかな報酬でコートを縫ったと答えたという。こ の仕事をすることで捨ててきた祖国への愛国心を示すことができ、思い出を大切 にすることができると思ったからである。豪華な衣装と亡命者による映画の優雅 な構成は、少しでも収入がほしいと強く願ったロシア人たちが大勢存在していた ことによって可能となった面もある。

14 1934年モジューヒンはカザノヴァについての新しい映画で再び主役を演じ、こ のときはフランスの映画監督レネ・ベルベリの元で仕事をしたが、映画は成功し なかった。

15 Янгиров, 2002.

16 ミハイル・リンスキー(1878-1940)は本名をモイセイ・シュレジンゲルといい、

オデッサで芸術家兼戯画家、およびジャーナリストとしての活動を始め、亡命後 にも活動を続けた。彼はパリでナチによって、他のユダヤ人捕虜とともに銃殺さ れた。

17 映画ではプロの作曲家が3人も仕事をしていた。マイクル・レーヴィン、マルク・

ローランド、ウィリー・シュミット・ゲントナーである。シュミット・ゲントナー は1930-50年代のドイツ映画では主導的な役割を果たした。映画の主題歌は、彼 らのうちの誰かが作曲したのかもしれないし、あるいはロシア民謡を改作したも のであったのかもしれない。現時点において、確実な回答を出すのは困難である。

18 映画『散りゆく花』(Broken Blossoms, 1919)にはI.モジューヒンの詩が捧げられ ている。(Кинотворчество, 1924, №4) Albera, 1995, с. 105; Н.Нусинова, 2003, с. 285 参照。

19 ソ連映画でもやはり、教会の儀式と教会音楽や聖歌の要素が、エイゼンシュテ インの『イワン雷帝』(1946)の際に初めて使われた。それ以前、宗教は危険な ものとされ、無神論のプロパガンダのために禁止されていた。

20 ウラジーミル・ストリジェフスキー(1892-1977)は本名をラドチェンコといい、

ロシアでは俳優として仕事を始め、1920年に亡命して、監督としてドイツ、フラ ンス、イタリアで映画撮影を行った。

21 これまでにも、亡命ロシア人はアメリカ映画の主人公になったことがある。ヨ

ゼフ・フォン・シュテインベルグの『最後の命令』(The Last Command, 1928)とい う作品だが、これはハリウッドで端役を演じる公爵についての話である。(公爵 をエミール・ヤニングスが演じ、アメリカのアカデミー賞を受賞した。)しかし『最

(24)

後の命令』では、主人公にとってすべては過去になり、映画の主な場所はロシア 革命のフラッシュバックで、フィナーレで主人公はロシア革命についての映画撮 影の際に自分自身を演じながら死ぬ。

参考文献

Н. Нусинова. «Костер пылающий» Ивана Мозжухина: выбор творческого пути как поиск новой родины. Киноведческие записки, №3, 1988, с.68-85.

Н.Нусинова. Когда мы в Россию вернемся. Русское кинематографическое зарубежье.

М. 2003.

И. Мельникова. «Тайны Востока» - ориентальные мотивы в творчестве российских кинематографистов зарубежья и образ экзотической России. 辺境と異境―非中心に おけるロシア文化の比較研究、 No.2、 2011、60-75.

Р.Янгиров. Даты и факты из истории русской кинематографии за рубежом: 1920-1924.

Русская эмиграция: литература, история, кинолетопись. Материалы международной конференции. Таллинн, 12-14 сентября 2002. Таллинн, 2004. С.436- 438.

Р. Янгиров. «Рабы Немого». 1920-1930-е годы. М. 2007.

F. Albéra. Albatros : des russes à Paris, 1919-1929. Mazzotta. Cinémathèque française, 1995.

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L. Borger. From Moscow to Montreuil: the Russian Emigres in Paris 1920-1929.

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K. Thompson. The Ermolieff Group in Paris: Exile, Impressionism, Internationalism.

Griffithiana, no.35-36, 1989, p. 50-57.

Эмигранты и образ России в европейском кино 1920-30 годов

Послереволюционная эмиграция деятелей культуры и искусства

России оказала влияние не только на художественную атмосферу в

принявших эмигрантов странах, но и на формирование «русского

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мифа» на Западе. В статье предлагается анализ трех успешных у западного зрителя фильмов самого талантливого из режиссеров эмиграции Александра Волкова со звездой европейского немого экрана Иваном Мозжухиным в главной роли. Материалом для статьи послужили следующие киноленты: Казанова, 1926; Белый Дьявол, 1930; Сержант Х, 1931. Стратегии само-репрезентации, использованные в этих фильмах их создателями-эмигрантами, хорошо отражают процесс поиска «русских» сюжетов и стилистики в тот период, когда кинематограф во всех странах Европы осваивал звук и одновременно испытывал сильнейшее давление голливудской кинопродукции.

Russian Emigrants and the Image of Russia in the European Cinema of the 1920-30s

Irina M

ELNIKOVA

Keywords: Alexander Volkoff, Ivan Mosjoukine, the image of Russia, Russian emigrants.

参照

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