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2 水平結合・垂直統合戦略とスタンダード社の設立

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(1)

【研究ノート】

・D・ 1 世

企業家活動 富 集積,1839−1911年(1)

鮫 島 真 人  

目   次 は じ め に

1 ロックフェラー家のルーツと企業家ロックフェラーの誕生

 1. 1 ロックフェラー家のルーツとビッグビル

 1. 2 企業家ロックフェラーの誕生  1. 3 恐慌とロックフェラー

2 水平結合・垂直統合戦略とスタンダード社の設立

 2. 1 南北戦争と石油産業の誕生

 2. 2 水平結合・垂直統合戦略と盟友フラグラー

 2. 3 スタンダード社の設立と南部開発会社事件(以上,本号)

3 スタンダード社の増資とタイドウォーター事件とトラストの形成(以下,

次号)

 3. 1 スタンダード社の増資

(1)

と「クリーヴランドの大虐殺」

 3. 2 スタンダード社の増資

(2)

とパイプライン輸送の独占  3. 3 タイドウォーター事件とトラストの形成

4 反トラスト運動とスタンダード社の解体と富の集積

 4. 1 垂直統合戦略の拡大と技術開発

 4. 2 反トラスト運動とアイダ・ターベル

 4. 3 ジャージー・スタンダード社の解体と富の集積 お わ り に

(2)

は じ め に

 北米大陸に石油が存在することは古くから知られていたが,アメリカの石 油産業は

1859

年のペンシルヴェニア州タイタスヴィルにおける,エドウィン・

L・ドレーク大佐による油井掘削から始まったといわれている.近代的油井と

石油精製技術の開発のおかげで,石油産業に原油生産業者,石油精製業者お よび石油販売業者が生まれた.そのなかに,クリーヴランドの精油業者となっ たジョン・

D

・ロックフェラー

1

世(John Davison Rockefeller, Senior, 1839-1937,以下,

ロックフェラーと略記)がいた.

 ロックフェラーは,

1870

年にオハイオ・スタンダード社(以下,スタンダード社)

を設立し,1882年にスタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)を形成して「石 油王」と呼ばれ,19世紀末までに,原油生産業,石油精製業,石油販売業を 包括する石油産業を一代で創造し,巨万の富を手に入れた.その過程で彼は 強引な買収と敵対する業者を叩き潰し,自分のものにするという意味で「ラ バー・バロン(泥棒貴族)1)とも呼ばれた.

 また,熱心なバプティスト派の信者であるロックフェラーは,20世紀にな

1) ヘンリー・D・ロイドやアイダ・ターベルが悪徳資本家の代名詞としてロックフェラーの企 業家としての成功を冷酷さと不正によるものだとして「ラバー・バロン」と呼んだ.「ラバー・

バロン」とは,中世のイギリスの悪質な貴族が領内を通行する旅人から通行料をとっていたこ とに由来して,当時の人々は彼らを「ラバー・バロン」と呼んだ.それにならって,金儲け の機会があれば,情け容赦なく,また際限なく利益を追求する投資家や資本家が19世紀後半 から20世紀のアメリカにかけて,世間やマスコミから「ラバー・バロン」と呼ばれたのであ る.1934年にアメリカの作家であったマシュー・ジョセフソンが,19世紀の大企業家を題材

にしたRobber Baron(泥棒貴族)という著書を出版して大ベストセラーとなった.Lloyd, Henry

D., (1894) Wealth Against Common Wealth, Wisconsin, Harper and Brothers. Tarbell, I., (1905) The History of the Standard Oil Company, New York, McClure.「石油王」ロックフェラーと同様に「ラ バー・バロン」と呼ばれた代表的な人物を挙げると,「鉄道王」コーネリアス・ヴァンダービル ト(Cornelius Vanderbilt,1794-1877,以下,ヴァンダービルトと略記)「鉄鋼王」アンドリュー・

カーネギー(Andrew Carnegie,1835-1919,以下,カーネギーと略記)「金融王」ジョン・P・

モルガン(John Pierpont Morgan,1837-1913,以下,J.P.モルガンと略記)の3人であり,ロッ クフェラーを含めて4人である.ヴァンダービルトの評伝に関しては,Renehan, Edward J. Jr., (2007) Commodore: The Life of Cornelius Vanderbilt, Basic: A Member of the Perseus Books Group, Stiles,T. J., (2009) The First Tycoon: The Epic of Cornelius Vanderbilt, Alfred A. Knopf.などがある.

アンドリュー・カーネギーに関してはカーネギー,アンドリュー,(2002)『カーネギー自伝』↘

(3)

ると,企業家活動で集積した富を用いて組織化されたロックフェラー財団群2)

を設立し,医学,衛生,農業および教育などの分野において合衆国内だけに 留まらず,世界各国で科学的手法を用いてフィランソロピー活動をおこない,

「慈善のロックフェラー」と呼ばれた.

 ロックフェラーは企業家活動において,生まれたばかりで,まだモラルも なく,混沌として投機的な産業と見做されていた石油産業に一定の秩序を与 えた.彼は当初からあらゆるコストを下げるために徹底した原価計算をおこ ない,帳簿管理に基づく資金調達を背景に規模の経済を実践し,品質重視の 薄利多売の商売を行って,この事業からの利益を輸送タンクの製造や駅構内 のターミナル設備の建設など輸送と貯蔵に再投資した.

 ロックフェラーは会計を重視したが,現場を疎かにすることなく,この事 業につきものの肉体労働に自ら進んで従事した.彼は石油産業の統合を進め る過程で,競争相手はもちろんのこと,敵対者でも有能な人材を仕事仲間に 引き入れ,事業の重要事項については事前に仕事仲間と十分に相談して知恵 を絞った.決定事項を素早く実践し,幾度となく企業革新を行いながら,40 年足らずで石油産業をアメリカの代表する産業に成長させた.

 ロックフェラーに関するこれまでの研究を大きく分類すると,彼のルーツ から全生涯を対象とするロックフェラーの経歴に関する研究と,アメリカの 石油産業をリードしたスタンダード社に関する研究に分かれる.

中央公論新社,やCarnegie, Andrew, (1889) Wealth, North American Review, CCCXCI., June 1889, などがある.J. P.モルガンに関して代表的なものとしては,チャーナウ,ロン,(1993)『モル ガン家―金融帝国の帝国盛衰―』上,,日経BP社.J.P.モルガンとロックフェラーの個 別的金融資本に関する日本語文献では,晴山英夫,(1976)「第一次大戦前のアメリカにおける 企業支配―その準備的一考察―」『商経論集』(北九州大学)121号,pp.37-74;玉置紀夫,

(1967)「スタンダード石油トラストの形成・展開・解体―個別的金融資本の成立過程に関す る研究―」『経済学年報』(慶應義塾大学)第10号,pp.193-246.

2) ロックフェラー財団群とは,ロックフェラーが出捐者(Founder)となり設立された①ロック フェラー医学研究所(1901年設立),②一般教育財団(1903年設立),③ロックフェラー衛生委 員会(1909年設立)④ロックフェラー財団(1913年設立)⑤中国医学財団(1914年設立)⑥ロー ラ・スペルマン・ロックフェラー記念財団(1918年設立),そしてジョン・D・ロックフェラー 2世(John Davison Rockefeller Jr.,1874-1960)が設立した⑦国際教育財団(1923年設立)の7 のフィランソピー財団を指す.

(4)

 前者の研究では,彼は石油産業を食い物にし,他人を犠牲にして利益をあ げ,モラルに反する社会の敵(Public Enemy)だとした

Lloyd (1884)

3)に始まり,

4

年の歳月と

5

万ドルの費用をかけて資料を綿密に検討してロックフェラー 批判を展開した

Tarbell (1904)

4)がある.それに対して,ロックフェラーを絶 賛した

Nevins (1940, 1953)

5)

中立的な立場で述べたとされる浩瀚な伝記チャー ナウ(2000)6)がある.新しいものとしては,引退後のロックフェラーの趣味 および日常生活の一部を紹介した彼の孫であるデイヴィッド・ロックフェラー

(2007)7)がある.

 後者の研究では,スタンダード社の協定運賃と運賃リベートについて分析 をおこなった

U. S. Industrial Commission (1900)

8)

,同社の増資,ジャージー・

スタンダード社の子会社とその株式保有比率を分析した

Hidy and Hidy (1955)

9)

がある.合衆国における原油精製量,精製費用などの分析をおこなった

Williamson and Daum (1959)

10)がある.同社の経営発展について垂直統合論を 用いて説明をおこなったチャンドラー(1979, 1986, 2005)11)

,スタンダード社

解体後の史的研究を述べた伊藤(2004)12)

,坂本

(2008)13)がある.

3) Lloyd, H.D., (1894) Wealth Against Commonwealth, Wisconsin, Harper and Brothers.

4) Tarbell, Ida M., (1905) The History of the Standard Oil Company, 2vols, New York, McClure.

5) Nevins, Allan, (1940) John D. Rockefeller: The Heroic Age of American Enterprize, Vol.1, New York, Charles Scribner s Sons. Nevins, Allan (1953) Study in Power: John D. Rockefeller, Industrialist and Philanthropist, Vol.1, NewYork, London, Charles Scribner s Sons.

6) チャーナウ,ロン,(2000)『タイタン―ロックフェラー帝国を創った男―』上・下,日経BP社.

7) ロックフェラー,D.,(2007)『ロックフェラー回顧録』新潮社.

8) U. S. Industrial Commission, (1900) Report of the Industrial Commission, Vol.l, Trust and Industrial Combinaitions, Washington, U. S. Industrial Commission.

9) Hidy, R.W. and M.E. Hidy, (1955) Pioneering in Big Business, 1882-1911: History of Standard Oil Company, NewJersey, NewYork, Harper.

10) Williamson, H.F. and A.R.Daum, (1959) The American Petroleum Industry: The Age of Illumination, 1859-1899, Evanston, Northwestern Univ. Press.

11) チャンドラー,A. D. Jr.,(1979)『経営者の時代―アメリカ産業における近代企業の成立―』上・

下,東洋経済新報社.チャンドラー,A. D. Jr.,(1986)『アメリカ経営史』亜紀書房.チャンドラー,

A. D. Jr.,(2005)『スケール・アンド・スコープ―経営力発展の国際比較―』有斐閣.

12) 伊藤孝,(2004)『ニュージャージー・スタンダード石油会社の史的研究―1920年代初頭か

60年代末まで―』北海道大学図書刊行会.

13) 坂本義和,(2008)『スタンダード・オイル・ニュージャージーの解体後における研究開発活動』

千倉書房.

(5)

 本稿では,チャーナウ(2000)の参考文献には入っていなかったが,ロック フェラーを客観的に捉え,もっとも中立的な立場で述べたと思われる

Abels (1967)

14)と井上(1959a, 1959b, 1959c, 1968, 1974, 1987)15)の考察をベースにおく.

American Petroleum Institute (1928)

16)および

Williamson and Daum (1959)

を使 用し,合衆国における原油・精油の生産量・国内消費・輸出を分析し,その 時に応じた南部開発会社事件,精油会社の買収,タイドウォーター事件など を通じてロックフェラーの事業の進め方を考察する.

 S.O.T.の形成については,Nevins

(1953, 1940)

およびアメリカ石油工業の 成立について述べた小谷(2000)17)を使用し,反トラスト運動については,

Tarbell (1904) ,大井

(2006)18)

,ロックフェラーとターベルのトラストについ

ての抗争を述べた

Weinberg (2008)

19)を使用した.ジャージー・スタンダード 社の解体後の同社株価の高騰とロックフェラーの富の集積に関しては,Abels

(1967)

および

Hidy and Hidy (1955)

等を分析して同社の解体前後のロックフェ

ラーの富の集積を明らかにした.

 本稿では,ロックフェラーの生い立ちを振り返り,企業家として辿っていった

14) Abels, Jules, (1967) The Rockefeller Millions:the Story of the World’s Most Stupendous Fortune,

London, Muller.(エイベルズ,ジュールズ(1969)『ロックフェラー―石油トラストの興亡―』

河出書房新社.)

15) 井上忠勝,(1959a)「スタンダード・オイル・トラスト前史」小林喜楽,山下勝治編『経営理

論と経営政策』中央経済社,所収,pp.271-302.井上忠勝,(1959b)「スタンダード・オイル・

トラスト形成史における問題点」『企業経営年報』(神戸大学)第9号,pp.51-76.井上忠勝,(1959c)

「スタンダード・オイルとウォール・ストリート」『国民経済雑誌』(神戸大学)99巻第4号,

pp.30-45.井上忠勝,(1968)「ビッグビジネスと世論―スタンダード石油を中心として―」

『国民経済雑誌』(神戸大学)118巻第3号,pp.18-34.井上忠勝,(1974)「スタンダード石油の 初期海外戦略」『国民経済雑誌』(神戸大学)118巻第3号,pp.18-34.井上忠勝,(1987)『アメ リカ企業経営史研究』神戸大学経済経営研究所.

16) American Petroleum Institute, (1928) Petroleum: Facts and Figure, New York, American Petroleum Institute.

17) 小谷節男,(2000)『アメリカ石油工業の設立』関西大学出版部.

18) 大井浩二,(2006)「マックレーキング運動―サミユエル・シドニー・マクルーア『自叙

伝』―」佐々木隆・大井浩二編『資料で読むアメリカ文化史 3 都市産業社会の到来―1860 年代―1910年代―』東京大学出版社,pp.373-385. Cather, W., (1997) The Autobiography of S. S.

McClure, Lincoln, University of Nebraska Press, pp.237-245.

19) Weinberg, Steve, (2008) Taking on the Trust: The Epic Battle of Ida Tarbell and John Rockefeller, W. W.

Norton & Company.

(6)

富の集積の過程に焦点を当て,彼の企業家活動,会計,人材,組織,インフラ整 備についての企業革新を検証し,彼の事業に対する考え方や姿勢を明らかにする.

なお,本稿はロックフェラーのフィランソロピー活動全体を解明するための歴史 研究における前提条件を明らかにする.対象期間はロックフェラー誕生の

1839

年から持株会社ジャージー・スタンダード社の解体後の

1911

年までを設定する.

 本稿において第

1

章では,ロックフェラー家のルーツ,ロックフェラーの 少年時代,彼への父親ビルのビジネスについての教えおよびクリーヴランド にある卸売会社に就職した彼の仕事内容や生活ぶりについて,Abels

(1967)

を 使用して述べる.

 ロックフェラーの企業家活動において,重要な転機となる大規模な

4

つの 恐慌(Panic)

,1857

年,1873年,1893年,1907年については,恐慌と暴落の 歴史を述べたブルナー

/

カー(2009)20)を使用し,それらの恐慌の前後に彼が 採った企業戦略を考察する.

 第

2

章では最初に南北戦争の特需の影響を受け,ロックフェラーは事業 を拡大させ,精油業へ進出し,彼の本業が精油業となり,戦争後の

1866

年 に 彼 が 採 っ た 企 業 戦 略 に つ い て

American Petroleum Institute (1928)

お よ び

Williamson and Daum (1959)

を使用して分析する.次に彼が優秀な仕事仲間 を得てスタンダード社を設立し,彼が「ラバー・バロン」と呼ばれるきっ か け に な っ た 南 部 開 発 会 社 事 件 に つ い て,Abels

(1967)

U. S. Industrial Commission (1900)

を使用して鉄道会社との関係を考察する.

 第

3

章では,スタンダード社の

2

度の増資について

Nevins (1940, 1953)

およ び

U. S. Bureau of Corporations (1907)

21)を分析し,ロックフェラーの精油会社 の買収とパイプライン輸送の独占について考察する.

 この一連の行為によって同社のトラスト形成は目前であったが,同時にペ ンシルヴェニアの原油生産業者を追い詰めることになり,タイドウォーター

20) ブルナー,R.F. / S.D.カー,(2009)『ザ・パニック―1907年金融恐慌の真相―』東洋経済新報社.

21) U. S. Bureau of Corporations, (1907) Report of the Commissioner of Corporations on the Petroleum Industry, Part I. Position of the Standard Oil Company in the Petroleum Industry, Washington, G. P. O.

(7)

事件を引き起こすことになった.この事件はロックフェラーにとって今まで のなかでもっとも厳しい戦いであったが故に,彼がどんな手段を使っても諦 めることなく,相手を徹底的に潰すことを世間に示した事件であったことを 述べる.また,どのような過程で

1879

年のトラストから

1882

年の

S.O.T.

へ の移行したかについても

Stevens (1913)

22)

U. S. Bureau of Corporations (1907)

を比較分析して述べる.

 第

4

章ではトラストの形成後,垂直統合戦略の拡大の具体例として,オハ イオ州ライマ油田の自社生産とそれに伴う脱硫技術の開発と原油市場への積 極的な介入のための原油販売会社の買収について考察する.反トラスト運動 について

Weinberg (2008)

および大井(2006)を使用して述べたあと,ジャージー・

スタンダード社の解体後の同社株価高騰とロックフェラーの富の集積につい て明らかにする.

 おわりにでは,ロックフェラーの企業家活動を総括し,フィランソロピー 活動に引き継がれた彼の事業に対する考え方や姿勢を明らかにする.

1 ロックフェラー家のルーツと企業家ロックフェラーの誕生

1. 1 ロックフェラー家のルーツとビッグビル

 ロックフェラーは

1839

7

8

日ニューヨーク州の内陸部リッチフォード という片田舎で薬の行商人兼金貸しで貪欲に金を稼いでいた破天荒な人物で あった父ウィリアム・A・ロックフェラー(William Avery Rockefeller,1810-1906,

愛称ビッグビル,以下

,

ビルと略記)と強烈な自尊心の持ち主で熱心なバプティ スト派(Baptist,洗礼派)信者の母イライザ・D・ロックフェラー(Eliza Davison

Rockefeller,1813-89)

6

人兄弟の長男に生まれた.

 ロックフェラーは母のイライザ以上に,熱心なバプティスト派の信者にな るのである.彼がバプティストであることは,彼の思考形成やあとで述べる 企業家活動とフィランソロピー活動の両方に,大きな影響を与えた.

22) Stevens, W. S., (1913) Industrial Combination and Trust, New York, The Macmillan Company.

(8)

 バプティストは,アメリカの大部分を占めるプロテスタントのなかでも最 大の宗派である.バプティストの教義は,成人のみに洗礼を授け,独立精神を 尊重し会衆に精神性が宿ることなど,従来のキリスト教の伝統からかけ離れ ていた.そのために,バプティストはヨーロッパ社会で迫害されただけでなく,

アメリカのニューイングランドのピューリタン社会からも激しく非難された.

 バプティストはピューリタン社会から遠ざかり,特にアメリカの南部に広 がった.そのために,南部と縁の深いアフリカ系の黒人の多くがバプティス トであり,ロックフェラー家の伝統ともいうべき黒人問題に対する関心を,

ロックフェラーは家系から受け継いだのである.

 Abels

(1967)

23)によると,ロックフェラー家のルーツは

9

世紀の南フランス のラングドック地方に住んでいたロクフイユ家(「岩の葉」という意味)に遡り,

プロテスタントのユグノー教徒(フランスのカルヴァン派教徒)だったとある.

また

1685

年ルイ

14

世がナントの勅令を廃止後,宗教的迫害から逃れるため にライン地方のザーゲンドルフへ移住した際に,姓をドイツ風のロッケンフェ ラー,現在のロックフェラーに改めたとある.その後同家のヨハン・ピーター・

ロックフェラー(Johann Peter Rockefeller)が

1723

年にドイツから移民としてア メリカに渡り,ニュージャージー州のソマーヴィルに移住したと述べている.

 ロックフェラーが

3

歳のとき,ロックフェラー家は辺境の開拓地であった リッチフォードから,母親の実家デイヴィソン家の農場が近くにあるニュー ヨーク州モラヴィアの閑静な住宅地に移り住んだ.モラヴィアは,ユナイテッ ド・イン・クライスト派24)の人々が入植した町で,この頃にはすでに禁酒運 動や奴隷解放運動の拠点となっていた.

 ロックフェラーは

7

歳のとき,自分の手で七面鳥の雛を巣から持ち帰り,

育てて売るという事業をおこなった25)

.1848

年カリフォルニアで金が発見さ

23) ロックフェラー家のルーツについては,Abels (1967) op.cit., pp.19-20.(訳書,pp.32-33.)

24) のちに合同メソジスト教会と合同した福音派.

25) ロックフェラーの七面鳥の雛を育てて売るという行為は,グスタフ・スウィフトが9歳の時

に鶏を売り,リーランド・スタンフォードが10歳の時に栗を売ったのとよく似ている.

(9)

れ,ゴールド・ラッシュが始まった頃,すなわち彼が

9

歳のとき,父親のビ ルはビジネスについて彼に教え始めた.ビルから教わった商売についてもっ とも重要なことは,細かく正確に帳簿をつけることと,どのような強引な手 段を使っても,競争相手に勝つことであった.

 あとで詳しく述べるように,最初に競争相手を威嚇して有無を言わさず彼 の意に従わせようとする容赦ない悪名高い取引スタイルは,ビルの教えから 生まれた.後年彼は父親のビルについて一切語らなくなるが,子供の頃の彼 は父親を誇りに思っていた.

 Abels

(1967)

26)によると,ロックフェラーは父親のビルに対して回想録27)の なかで「父が私に実用的な方法というものを訓練してくれたことに対し,非常 に感謝している.父はさまざまな仕事に携わったが,そうしたことについてよ く私に話してくれて,その意味を説明し,事業の原理や方法を教えてくれた」

と述べている.エイベルズはその事実を裏付けるものとして,ビルが

8

歳のロッ クフェラーをシラキュース28)という都会の大きな町に連れて行き,蒸気機関 で走る鉄道を見せて,都会の雰囲気を体験させていることも挙げている.

 小学校でのロックフェラーはとくに優秀な生徒ではなかったようだが,算 数の得意な目立たない無口な子供だった.ただチェスをするとき,彼は自分 でゲームのルールを決定し,必ず勝てるゲームだけをやった.その際彼は熟 考して,考えが浮かぶと一挙に勝負に出た29)

.数字に強く,度胸のあるロッ

クフェラーの姿がここでもうかがえる.

26)  Abels (1967) op.cit., pp.21-22.(訳書,pp.34-35.)

27) 回想録は最初1908年『ワールズ・ワーク』誌に連載され,1909年ダブルデイとペイジにより,

『人と事件について想いつくままの回想録』という題名で出版された.Rockefeller, John, (1973) Random Reminiscences of Men and Events, New York, Aron Press.

28) シラキュースにあるシラキュース大学は,のちにスタンダード社のジョン・D・アーチボル ドの慈善事業先となり,そして同大学の名誉総長ジェームス・R・デイは1907年に出版した『繁 栄への襲撃』で反トラスト訴訟の同社を弁護した.Abels (1967) op.cit., p.269.(訳書,p.289.)

29) チャーナウは,モラヴィアでの子供時代のロックフェラーを知るミセス.ジョン・ウイル

コックスとのインタビユーなど(Interview with Mrs. John Wilcox, Letter from J. M. Siddall to Ida

Tarbell, November 3, 1903)から,彼を自分の価値観で動く内部指向型の子供っぽさと縁がない

子供だったと述べている.チャーナウ(2000)前掲書,上,pp.38-40, p.76.

(10)

 モラヴィアでの生活は,ビルが町の禁酒委員会の役員を務めるなどして,

市民としてきちんと振る舞い,ロックフェラーの少年時代のなかでも幸せな 時期だった.しかし,ビルが

1849

7

26

日,ロックフェラー家で家事手 伝いをしていた女性に暴行を加えたかどで起訴された.

 この起訴がその後どうなったのかは定かでないが,この事件によって,

1850

年ロックフェラーが

10

歳のとき,ロックフェラー家はモラヴィアから ニューヨーク州の南の州境に近い国際性豊かな町であるオウィーゴに移った.

オウィーゴには蔵書の豊富な図書館や有名な学校があり,彼のビジネスに大 きな役割を果たすことになるエリー鉄道30)が開通していた.

 ロックフェラーは弟のウィリアム・ロックフェラー(William Rockefeller,

1841-1922,以下,ウィリアムと略記)

と共に,親切な隣人の援助を受けながらオ

ウィーゴ・アカデミーで中等教育を受けて,コミュニケーション能力を磨いた.

 一方でロックフェラーは

12

歳の頃,母イライザの提案31)で近隣の農民に

7%

の利子で

50

ドル貸して,その

1

年後に

3

ドル

50

セントの利子を受け取る金 貸しをおこなったというエピソードも残っており,これについてはロックフェ ラー本人も否定していないことから事実であり,父親ビルの影響であろう.「ラ バー・バロン」と呼ばれる人たちに共通していえることだが,彼らはみんな ビジネスや投資に関して早熟である.

 13歳になったロックフェラーは,相変わらず無口で心の奥の感情を表に出 すこともなくすでに子供らしさに欠ける老練な存在だった.彼のスタンダー ド社32)(Standard Oil Company,以下,スタンダード社と略記)時代の冷淡な剛腕企 業家としての顔は,この頃からすでに形成されていた.

 ロックフェラーが

14

歳のとき,ビルの気まぐれによってロックフェラー家

30) エリー鉄道が184961日オウィーゴに開通した.

31) このエピソードに関して母イライザの提案であったとエイベルズとネヴィンズは述べている が,チャーナウは触れていない.このエピソードに関しては,Abels (1967) op.cit., p.25.(訳書,

p.39.)

32) スタンダード・オイル社という社名は,当時不純物が原因で爆発する恐れのあった灯油に対 して,当社の製品(灯油)の品質は均一であることを消費者に宣伝するためにつけられた.

(11)

は,住み慣れたオウィーゴから突然引き離されて,西の辺境にあるオハイオ 州ストロングスヴィルに移った.ストロングスヴィルはグレートプレーンズ のなかの田舎町だったが,北東

20

キロの位置に,彼の企業家活動において重 要な拠点となる,急速に発展していたクリーヴランドがあった.

 エリー湖に面しているクリーヴランド市33)は,五大湖へ運航する蒸気船の 基地と

1850

年代に建設された

5

つの鉄道が結びつき,ミシガン湖の塩や鉄鉱 石などの原材料や農産物の集散地であった.クリーヴランド市の発展を人口 でみると,

1830

年ごろが

1,500

人,

1853

年が

2

3,000

人,

1860

年が

4

4,000

人,

1865

年が

6

1,000

人と飛躍的に増加した.クリーヴランドはロックフェ

ラーの企業家活動の拠点となって,彼の富の集積のための転機となった場所 である.

 1854年ロックフェラーは

15

歳のとき,クリーヴランド市にあるエリー・

ストリート・バプティスト教会でウィリアム・スケッド助祭から洗礼を受け,

この助祭の指導のもと,彼は教会の中心人物になるのである34)

 ロックフェラーは,クリーヴランド市にあるセントラル・ハイスクールに 入学した.彼はここで,のちに彼の妻になるローラ・C・スペルマン(

Laura Celestia Spelman, 1839-1915,

以下,ローラと略記)と出会い,マーク・ハンナ35)(Mark

33) クリーヴランド市の状況と発展については,Abels (1967) op.cit., pp.34-35.(訳書,pp.47-48.)

34) ロックフェラーは21歳で教会の5人の理事という大事な地位のうちの1人に選ばれた.

Abels (1967) op.cit., p.31.(訳書,p.44.)

35) マーク・ハンナ(本名マーカス・アロソン・ハンナ)は,同じオハイオ州出身のウイリアム・マッ

キンレー(William McKinley)を共和党選出の第25代大統領(1897-1901)にしたといわれる人 物である.チャーナウ(2000)は,後年ハンナはハイスクール時代のロックフェラーのことに 関して,「どこから見ても健全だ,と言いたいところだが,ひとつだけちがう―彼は金狂いだ!」

と言ったことやこの頃になるとロックフェラーは自分の父親にも,金を貸して利息を取ってい るという金狂いを証明するエピソードを挙げている.(チャーナウ,2000,p.79)エイベルズも

「こと金銭に関しては気違いだったが,その他あらゆるものに関しては正気だった」と同様な内 容を挙げているが,エイベルズはハンナのロックフェラー評に対してどれだけ正しいか疑問に 思うと述べて,作家サラー・ボルトンのロックフェラーの美徳に関するエピソードを挙げている.

エイベルズは,「1884年,クリーヴランドの作家サラー・ボルトンは彼女が準備中のアメリカ著名 人伝記の中に,ロックフェラーを加えようとしたが,彼は助力を一切固辞した.彼女が約束し た彼の美徳の公開をことわって,彼はそのまま世間に知られずにいることに満足していた」と 述べている.(Abels (1967) op.cit., p.166.訳書,p.181.)

(12)

Hanna,1837-1904)

という親友もできた.マーク・ハンナは,のちに共和党の 有力な上院議員となってロックフェラーの企業家活動において政治の面から 後ろ盾の

1

人となった.

 ロックフェラーのビジネスに対する非情さを物語る話として,親友である ハンナの伯父ロバート・ハンナ(Robert Hanna,以下

,

ロバートと略記)のクリー ヴランドにあったハンナ・バスリントン精油所の買収に関するものがある.

 ロックフェラーは他社の買収と同様に感情を一切排除し,機械的なやり方 で最初からロバートを威嚇し,有無をいわせず速く精油所を買収しようとし た36)

.ロバートは彼の強引なやり方に抵抗したが,

鉄道会社が後押しするロッ クフェラーには抵抗できず,7万

5,000

ドルの精油所を

4

5,000

ドルで手放 さざるを得なかった.

 ロックフェラーは,父親ビルの「どんな手段を使っても,競争相手に勝つ」

というビジネスについての教えにしたがって,このような買収方法を得意と した.経営上の競争に関する規制がほとんどなく,モラルも十分に確立され ていなかったこの時代において,仮に競争相手がロックフェラーと同じクリー ヴランドにおいて最大の精油業者で豊富な資金がある立場であれば,彼と同 様な買収をおこなったのではないだろうかと思われる.

1. 2 企業家ロックフェラーの誕生

 この時代のアメリカでは経済的な成功こそが重要であり,学歴はそれほど 必要ではなかった.高等教育を受けられるのはおもに,東部の都市に住む上 流階級の子弟に限られていた頃,ロックフェラーは大学に進学して将来牧師 か銀行家になるつもりでいたが,父親に反対されて断念した.しかも彼は父 親からの仕送りが減額されたことで,卒業まであと

1

年間を残して高校を中

36) この買収はあとから述べる南部開発会社事件の1つであり,ロバート・ハンナは鉄道会社が

後押しするロックフェラーには抵抗できず75,000ドルの精油所を45,000ドルで手放した.マク ウェイグ,(2005)『ピーク・オイル―石油争乱と21世紀経済の行方―』作品社,pp.202- 203.

(13)

退した37)

 Abels

(1967)

38)はロックフェラーに関するチャーナウやネヴンズらの伝記作 家たちと違って,ロックフェラーは始めから大学(単科大学)に進学するつも りはなく,実業界に入るつもりであったと述べている.彼はチェスをすると きと同様に,熟考して一旦決断すると行動はとても早かった.

 ロックフェラーは就職をするために,父親の勧めにしたがってクリーヴラ ンド市にある

E・G・フォルサムズ商業専門学校に入学して,3

ヶ月間複式簿 記や銀行業務の基本,商法など実用的な科目を選択して学んだ.そして

16

歳 になった彼は,夏の暑いクリーヴランドで就職活動を開始した39)

.彼が目指

した就職先は,銀行か鉄道会社もしくは大きな会社の卸売商であった.

 1855年ロックフェラーは

16

歳で,

E

G

・フォルサムズ商業専門学校を辞めて,

クリーヴランド市にある穀物・石炭などの卸売業者ヒューイット・アンド・タ トル商会40)に入社した.彼はこのころから有名な「元帳

A.

(Ledger A.)」41)と 呼ばれる帳面に支出の記録をつけはじめた.彼は当初,倉庫の記帳係として,

週給

6

ドルで働いた.彼はこの会社に,4年間在籍した42)

 ヒューイット・アンド・タトル商会はそれほど大きな会社ではなかったが,

南北戦争前の会社としては珍しいことに,様々な商品(グレートプレーンズの穀 物,ペンシルヴェニアの石炭,ミシガンの塩,スペリオル湖周辺の鉄鉱石など)を販

37) エイベルズは6月期を終えたので卒業まであと1年間を残して高校を中退したと述べており,

チャーナウは卒業まであと2カ月を目前にして高校を中退したと述べている.ここではエイベ ルズを採用した.Abels (1967) op.cit., p.28.(訳書,p.42.),チャーナウ(2000)前掲書,上,p.86.

38) Abels (1967) op.cit., p.28.(訳書,p.42.)

39) ロックフェラーの就職活動についてはAbels (1967) op.cit., p.29.(訳書,p.43.),チャーナウ

(2000)前掲書,上,pp.87-89.

40) ヒューイット・アンド・タトル商会はクリーヴランドで多くの不動産を所有し,クリーヴラ ンド・アイアン・マイニング・カンパニー(クリーヴランド鉄鋼採掘会社)の創業者であった シニアパートナー(上級共同経営者)のアイザック・L・ヒューイットとジュニアパートナー(下 級共同経営者)のヘンリー・B・タトルによって設立された.

41) 「元帳A. (Ledger A.)」の最初の記入は「伝道のため(Missionary Cause.)」の10セントの寄付 であった. Abels (1967) op.cit., p.32.(訳書,p.45.)

42) ロックフェラーのヒューイット・アンド・タトル商会時代に関しては,Abels (1967) op.cit., pp.29- 30.(訳書,pp.43-45.),チャーナウ(2000)前掲書,上,pp.89-97, pp.114-116.

(14)

売していた.また,同社は鉄道と電信という,当時のアメリカ経済に大変革 をもたらした

2

つの技術を活用していた.特に鉄道はこの時代のアメリカの 経済発展に非常に大きな役割を果たす一方で,投資関連の事件や不正な取引 を引き起こして,社会に大きな悪影響をあたえた.

 ヒューイット・アンド・タトル商会は,幼い頃から取引や事業に興味を持っ ていたロックフェラーが若き実業家になるための,絶好の修行の場所であっ た.彼は同商会で倉庫業務(保管

,

入出庫

,

在庫管理)

,運送業務,販売業務など

の経験を積むことで,取引の実情を把握した.彼は特に,運送,貯蔵といっ た物流業務に力を発揮した.

 あとになってロックフェラーは,貯蔵用タンクを建設する際の資材(木材,

鉄,生ゴムなど)の調達の方法や石油の形状が液体であることから荷姿を考え て,原料輸送だけでなく製品輸送もパイプラインに活かし,同業他社のコス トを常に下回り,製品の価格競争に打ち勝った.

 ロックフェラーは努力と天性の暗算能力を生かして帳簿係となり,1857年 にタトルが退職すると帳簿係主任に昇格し,それまでタトルがおこなってい たほとんどの仕事を担当するようになり,翌年には弟ウィリアムも彼の下で 帳簿係として働いた.

 ロックフェラーはサイドビジネスとして,ヒューイットの所有する不動産 の賃借料を集金することや自分名義で小麦と豚肉の取引を始め,クリーヴラ ンドの港では名前も知られるようになり,必ず「ミスター・ロックフェラー」

と呼ばれるようになった.

1. 3 恐慌とロックフェラー

 独立のチャンスをうかがっていたロックフェラーは,クリミア戦争43)の終 結によるオハイオ生命保険や信託会社の破綻が引き金となっておこった

1857

43) クリミア戦争(1853-1856)はクリム半島でオスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ 連合軍と,トルコ領内のギリシャ清教徒保護を名目に南下政策を進めるロシアとの戦争.1856 年パリ条約が結ばれ,ロシアは南下を阻まれた.

(15)

年の恐慌44)の煽りで,ヒューイット・アンド・タトル商会が倒産するかもし れないとわかるとすぐに退社して,次の行動を開始した.彼は儲からない会 社にしがみついて,時間を浪費するような人間ではなかった.

 恐慌(経済恐慌,Panic)45)は,ロックフェラーの企業家活動において重要な 転機となった.この論文のなかで関係する彼にとって転機となった大規模な

5

つの恐慌を年代順に挙げると,1837年,1857年,1873年,1893年,1907 年である.特にロックフェラーの企業家活動において転機となった大規模な 恐慌は後者の

4

つであり,ここで先に簡単に述べておきたい.

 その前に恐慌(経済恐慌,

Panic)

に関して,恐慌の定義付けのためにブルナー

/

カー(2009)およびキンドルバーガー

/

アリバー(2005)を引用する.恐慌の 重篤度については,Calomiris and Gorton

(1991)

の恐慌の重篤度に関する分類 について述べる.

 ブルナー

/

カー(2009)46)は,「恐慌は,恐怖心に駆り立てられた預金者が 突如銀行預金を引き出すことによって生じる銀行や金融システム全体に及ぶ 流動性の危機的状況を示す」と述べている.

 キンドルバーガー

/

アリバー(2005)47)は,「恐慌とは,理由のわからぬ恐怖 が資産市場で発生する,あるいは,流動性の低い有価証券から現金や政府発 行債への乗り換えが急激に進むこと.そこにはいつでも貨幣を製造すること ができる政府は破産しないだろうとの人々の確信がある」と定義している48)

 Calomiris and Gorton

(1991)

49)

1814

年から

1914

年の間にアメリカ国内で

44) ブルナー / カー(2009)前掲書,p.17.

45)  恐慌の歴史に関しては,Mishkin, Frederic S., (1991) Anatomy of a Financial Crisis, Cambridge, MA: National Bureau of Economic Research, working paper 3934, 4; published under. Anatomy of a Financial Crisis, Journal of Evolutionary Economics, 2(2), pp.115-130.

46) ブルナー / カー(2009)前掲書,p.319.

47) Kindleberger, Charles and Robert Aliber, (2005) Mania,Panics, and Crashes: A History of Financial Crises, 5th ed., New York, Wiley & Sons, p.94.

48) ブルナー/カー(2009)前掲書,pp.319-320.

49) 恐慌の重篤度の分類に関しては,Calomiris and Gorton, (1991) The Origins of Banking Panics:

Models, Facts, and Bank Regulation. in R. Glenn Hubbard (ed.), Financial Markets and Financial Crises, Chicago, University of Chicago Press. p.99.ブルナー / カー(2009)前掲書,p.17.

(16)

起きた

13

回の恐慌の重篤度に関する分類をおこない,その重篤度に応じて

3

つのタイプに分類した.彼らは重篤度の高い順から「一時停止」

「一時停止 を見越した協調」

「協調の必要性が認識される恐慌」と分類をおこなって,

1873

年,1893年,1907年の恐慌を重篤度のもっとも高い「一時停止」に分 類した.そのなかでも彼らは,1907年の恐慌を最悪の部類に入れた.

 19世紀のアメリカにおいて恐慌が何回か起こっているが,そのなかでも大 規模な恐慌は

4

回である.南北戦争以前に起こった恐慌は

1837

年と

1857

年 の

2

回であり,戦後は

1873

年と

1893

年の

2

回であった.

 ロックフェラーは

19

世紀最初の

1837

年の恐慌が起こってから

2

年後に生 まれ,クリミア戦争の終結による生命保険や信託会社の破綻が引き金となっ ておこった

1857

年の恐慌のときに,独立した.詳細はあとで述べるが,彼は

1872

年の「クリーヴランドの大虐殺」と呼ばれる精油業者の強引な買収をお こなったあとに,南北戦争のつけがまわったことや放漫な鉄道会社の経営な どの影響から,金融会社が破綻して起こった

1873

年の恐慌50)のときを見据 えて,精油業界の全米支配をめざし,一段と同業者の買収を強引におこなった.

 ロックフェラーは鉄道会社の破綻や銀採鉱業界の資産価格の下落から引き おこされた

1893

年の恐慌51)のせいで,人々の注目が不況に集まったことも あって,世間のトラスト批判をかわし,スタンダード社を一層盤石なものに したのである.

 1906年のサンフランシスコ大地震が引き金となったといわれる

1907

年の 恐慌52)のとき,ロックフェラーとスタンダード社は連邦政府によって,石油

50) 1873年の経済恐慌は,南北戦争のつけが回ったことやズーリ・カンサス・アンド・テキサス

鉄道が期限内に支払いできなかったことから,ジェイ・クック社などの金融会社の破綻から引 き起こされた.(同上書,pp.12-13, p.17.)

51) 1893年の経済恐慌はフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道,ナショナル・コーディッ

ジ社などの鉄道会社の破綻と銀採鉱業界の資産価格の下落が原因で引きおこされた.(同上書,

p.17.)

52) ヘンリー・クルーは2009年の恐慌について分析を行っており,9つの原因を挙げている.

Clews, Henry, (1973) Fifty Years in Wall Street. New York, Amo Press, p.799. (originally published in 1908.)ブルナー/カー(2009)前掲書,p.17.

(17)

産業における独占企業体であるという理由53)から反トラスト法違反で訴訟を 起こされ,マスコミからは社会の敵として非難されていた.

 このときロックフェラーは,1907年の恐慌を鎮める対応を行っていた「金 融王」ジョン・P・モルガン54)(以下

, J.P.

モルガンと略記)を訪問して,自主的 な支援を申し出ている.ロックフェラーの申し出はユニオン信託会社(Union

Trust Company)

1,000

万ドルを預金し,必要ならば

4,000

万ドルを上限に追

加の資金を預けるという内容であった55)

2 水平結合・垂直統合戦略とスタンダード社の設立

2. 1 南北戦争と石油産業の誕生

 1859年

3

月ロックフェラーは,同業者であり友人であったオーティス・ブ ラウネルという物産商に勤めていた

28

歳の英国人モーリス・

B

・クラーク(Morris

B. Clark,以下 ,

クラークと略記)とパートナー関係を結んで,最初の合名会社で

ある卸売商社クラーク・アンド・ロックフェラーをクリーヴランドで設立した.

 ロックフェラーが以前に勤めていたヒューイット・アンド・タトル商会と 同じ業務内容の致富へと繋がるクラーク・アンド・ロックフェラー社は当初,

小麦・豚肉・塩の売買を事業とした.この商売への出資金は各人

2,000

ドル のため,ロックフェラーは自分の貯金から

800

ドルと,父親ビルから残りの

1,200

ドル(10%の利率)を借りて出資したと思われる.

53) スタンダード社は石油産業における独占企業体であり,同社が取引制限や価格差別などに関 して不当な悪意の取引を行ったという理由で連邦政府や州政府から反トラスト法違反で訴訟を 受けた.反トラスト法違反の理由に関して,岡部直祐,(1965)「反トラスト政策の基本構造

―取引制限と独占を中心に―」『経済学雑誌』(大阪市立大学)第523号,pp.41-69.

54) ジョン・P・モルガン(John Pierpont Morgan,1837-1913)とロックフェラーの企業家活動の 接点についてはU. S. Steelにおける鉄鉱石鉱山であるメサビの買収や鉄道買収,個別的金融資 本などがある.J. P.モルガンに関して代表的なものとしては,チャーナウ(1993)前掲書.J.P. ルガンとロックフェラーの個別的金融資本に関する日本語文献では,晴山英夫,(1976)「第一 次大戦前のアメリカにおける企業支配―その準備的一考察―」『商経論集』(北九州大学)

121号,pp.37-74. 玉置紀夫(1967)「スタンダード石油トラストの形成・展開・解体―個 別的金融資本の成立過程に関する研究―」『経済学年報』(慶応義塾大学)第10号,pp.193- 246.

55) ブルナー / カー(2009)前掲書,p.153.

(18)

 2ヶ月後,クラークがオーティス・ブラウネルにいたときの同僚で,クリー ヴランドの名家の出身だったジョージ・W・ガードナー56(George W. Gardener,

以下,ガードナーと略記)が,クラーク・アンド・ロックフェラーの共同経営者 に加わった.

 この

3

人の共同経営は大いに成功し,その年の純利益は

4,400

ドル57)であっ た.彼らが事業を拡張して扱い品目も水産物,飲料水,石膏,石油精製品58)

にまで拡大し,彼らの会社を順調に伸ばしていたときに,アメリカ合衆国の 政治・経済における南北の主導権をめぐる対立が深刻化した.

 1861年からアメリカ国内が南北に分かれて,南北戦争59)(The Civil War,

1861-1865)

が始まった.その戦争において,戦略上重要なクリーヴランドにあっ

た彼らの事業は,軍需景気も相乗してさらに発展した.

 南北戦争では,経済力に優る北軍60)(United States of America,U.S.A.と略記)

が南軍(

The Confederate States of America,C.S.A.

と略記)を軽く見ていたことや,

先のメキシコ戦争61)(Mexican-American War,米墨戦争,1846-1848)において,

56) ジョージ・W・ガードナーはクリーヴランドの名家の出身で,のちにクリーヴランド市長や クリーヴランド・ヨットクラブの会長を務めた.

57) クラーク・アンド・ロックフェラー社は1859318日に設立され,初年度の利益は4,400

ドルであった.Abels (1967) op.cit., p.35.(訳書,p.48.)

58) ランプの燃料は鯨油であったために,米国は鯨油目当てでクジラを乱獲した.その結果1860

年代には,クジラは激減し鯨油は高騰した.ランプの燃料は鯨油から石油精製品である灯油に 代わった.当初,灯油は硫黄の臭いがしたが,安全性とともに品質が改善され,鯨油と比較し て明るくて安価だったので一挙に普及した.

59) 奴隷制による綿花などのプランテーション経済を基盤とするアメリカ南部諸州の11州が合衆

国から脱退して,北部23州と奴隷制を巡って国内の主導権争いの内戦となったのが南北戦争で ある.アメリカ合衆国以外の国では自国の内戦と区別するためにAmerican Civil Warと記載する.

60) 北軍(U.S.A.)と南軍(南部同盟政府,C.S.A.)の国力を大雑把に比較すると(左側がUSA,

右側がCSA).人口(奴隷人口を含まない)1,850万,550万,鉄道,2万マイル,9千マイル,

工場数,11万,2万,銀行預金,19万ドル,47千ドル,小麦生産,1億1千万ブッシェル,

3千万ブッシェル,トウモロコシ生産,39千万,28千万,馬,340万頭,710万頭,肉牛,

540万頭,700万頭,豚,1,030万頭,1,550万頭.これらは一部の項目であるが,USAが圧倒 的に有利であり,USAが当初楽観的に考えていたと思われる.猿谷要,(2004)『検証 アメリカ 500年の物語』平凡社,pp.127-128.

61) 米墨戦争とは1846年〜1848年の米国・メキシコ間の戦争.米国は国境紛争を利用し,メキ

シコを挑発して開戦.米国の軍事的勝利によりメキシコはテキサスを放棄,ニューメキシコと カリフォルニアを1500万ドルで譲渡した.これによりアラスカを除く米国の大陸領土はほぼ完 成した.ウェイミユレール,フランソワ,(1999)『メキシコ史』白水社,pp.117-119.

(19)

実戦経験を積んだ将軍たちが南北にわかれて戦ったために,長期化して

60

万 人以上の戦死者62)を出した.

 開戦当時

21

歳だったロックフェラーは奴隷制廃止論者であり,北軍(連邦 軍)を支持していたが,カーネギーや

J.P.

モルガンら他の裕福な若者と同様に 兵役を免れた63)

.ロックフェラーとクラークは,南北戦争の特需をフルに活

用して彼らの事業を拡大させ,1862年の会社の純利益を

1

7,000

ドル64)に 伸ばした.これは開戦前の年間利益の

4

倍に相当し,この頃から彼らは石油 精製業に乗り出した.

 そしてその年末にロックフェラーは,クリーヴランドの名家としてのガー ドナーのネームバリューがビジネス上いらなくなると,最初から肌の合わな かったガードナーを会社の共同経営者から排除した.彼はその後も南北戦争 のおかげで北軍との契約によって,軍服を縫製するためのミシンや兵糧用の 農機具まで扱うようになり,軍需景気にもあずかって新しい事業に投資する 資金を手にした.

 ロックフェラーが最初の合名会社クラーク・アンド・ロックフェラーを設立 した

1859

年に,ニューヨークの弁護士だったジョージ・ビセル65)(George

Bissel)

に石油鉱床の発掘のために雇われた元鉄道員のエドウィン・L・ドレー

66)(Edwin L. Drake,以下

,

ドレーク大佐と略記)が,アメリカのペンシルヴェ

62) 南北戦争の戦死者618千人(北軍USA 36万人,南軍CSA 258千人)(猿谷要,2004,

前掲書,p.126.)

63) ロックフェラーたちは300ドルを支払って代わりの兵を雇い,軍に必要物資を提供して兵役

を免れた.300ドル説と,当時の都市の労働者の2~3倍であった850ドル説がある.

64) クラーク・アンド・ロックフェラー社の18613月期決算は17,000ドルの利益でロックフェ

ラーの取り分は6,000ドルであった.Abels (1967)op.cit., p.37.(訳書,p.51.)

65) ジョージ・ビセルは母校ダートマス大学の研究室で,「ロック・オイル」の神秘的な標本を見

たとき,照明用油脂としてはコール・オイルよりもロック・オイルの方が適切だと直感的に思っ た.彼はペンシルヴェニアの土地に眼をつけて,ニューヘブン銀行の頭取だったジェームズ・

タウンゼント等をパートナーとして,ペンシルヴェニア・ロック・オイル・カンパニー(のち のセネカ石油会社)を設立して油田開発を進めた.ダルモン,エティエンヌ/ジャン・カリエ,

(2006)『石油の歴史―ロックフェラーから湾岸戦争後の世界まで―』白水社,pp.13-16.

66) タイタスヴィルの住民からの冷やかしにも負けずに,深さ21メートルの地下まで掘るという

「ドレーク大佐の愚行」があったからこそ,石油鉱床の発掘を可能にしたと言われている.同上 書,pp.13-16.

(20)

ニア州タイタスヴィルで,石油の鉱脈を深さ

21

メートルの地下で掘り当てた.

これが史上初の油田開発67)となり,この年の原油の生産量は

2,000

バーレル,

総出荷価格

3

2,000

ドル,原油の年間平均価格は

16

ドル

/

バーレルであっ た68)

 この当時原油を精製して得られるもので売り物になったのは,石油ランプ の燃料とされた灯油69)で,ほかに少量であったがナフサと潤滑油があった.

揮発性の高いガソリン70)は薬以外に用途がなく,ほとんど廃棄物であった.(原 油の留分とその用途に関しては第 1 表を参照願いたい.)

 クラーク・アンド・ロックフェラー社において石油製品を扱っていたクラー クとロックフェラーはこのニュースを聞いて,タイタスヴィルに何度も足を 運び,直接に見聞して石油の将来性を探っている.石油産業には大きくわけて,

原油生産(産油)

,精油,販売の 3

つの部門があるが,彼らは多額の投資の伴 う山師的な石油採掘ではなく,地味であるが長期的な成長が期待でき,のち に副産物の利用(ケミカル・エコノミー)を積極的におこなう石油精製の分野に 目をつけて,それに対する投資を開始した.

67) アイダ・ターベルはドレーク大佐が石油の鉱脈を掘り当てる以前のオイル・ロックに関係し たビジネスの先駆者たち,サミユエル・キィーア(Samuel M. Kier)キィーアの仲間たち,ジョー ジ・ビセル,ドレーク大佐の具体的な発掘状況や1850年代に原油がエネルギー源になる研究が されていたことについて述べている.タイタスヴィルでの油田開発によって,18614月に石 油の生産が日量3,000バーレル可能となり,史上初の自噴油井を実現した.Tarbell Ida M., (1904) op.cit., Vol.1, pp.8-12.

68) American Petroleum Institute, (1928) op.cit., p.104.

69) 1850年スッコットランドでジェームズ・ヤングが石炭から硫化水素を抽出して,それを乾留

し,ナフサ,灯油およびパラフィンを製造する特許を得ていた.エイベルズは灯油に関して,「最 初は精製工程の効率が非常に悪かったので,原油からの灯油産出割合はわずかに55パーセント であったが,揮発油やガソリンを少し混合することにより,容易に65パーセントまで増加する ことができた.そのような品質の低下した灯油を使用すると,爆発によってやけどをする危険 性が多分にあった」と述べている.クルース,H. E / C.ギルバード,(1974)『アメリカ経営史』

,東洋経済新報社.p.310.

  Abels (1967) op.cit., p.18.(訳書,p.31.)

70) 自動車が発明されるまではガソリンは原油から灯油を精製する際のバイプロ品であり,何年 もの間,薬として一部使用される以外大部分が廃棄物であった.ガソリンが最も揮発性が高か くて,その次には揮発油,ベンジン,灯油,潤滑油およびパラフィンができ,最後にタールと 残涬が残った.Abels (1967) op.cit., pp.17-18.(訳書,p.30.)

(21)

 アメリカ合衆国の初期の石油工業を第 2 表,第 3 表,第 4 表,第 5 表の

4

表から分析すると,1862年の合衆国の原油の生産量・精製油生産量・石油総 輸出量は次のようになる.

 1862年の合衆国の原油の生産量は

305

万バーレルであったが,貯蔵および 運送途中の消耗によって原油の実質出荷量は原油の生産量の

4

分の

1

75

万 トン,総出荷価格

321

万ドル,年間平均価格

1.05

ドル

/

バーレルであった.

初期の石油工業において原油の貯蔵および運送途中の消耗についてはあとで 述べるが,石油の貯蔵と輸送が重要な問題であった.実質出荷量のうち,国 内の原油出荷量は

57

万バーレルで生産量の

76%を占め,原油輸出量は 18

万 バーレルで

23%と 4

分の

1

以下であった.

 1862年のアメリカの精製油生産量は

33

万バーレルで,そのうち精製油国 内出荷量は

24

万バーレルと精製油生産量の

72%を占め,精製油輸出量は 9

万バーレルで

28%と 4

分の

1

を超えていた.原油と精製油を合わせた石油総 輸出量は

27

万バーレルで,そのうち原油輸出量が

18

万バーレルで

66%を占

め,精製油輸出量は

9

万バーレルで

34%と石油総輸出量の 3

分の

1

を占めて いた.原油および精製油の輸出先はヨーロッパであり,メインは英国であった.

 合衆国からの最初の石油輸出は,フィラデルフィアのピーター・ライト・アンド・

サンズ商会(Peter Wright and Sons)が,1861年

12

月に原油約

3,000

バーレルを積 第 1 表 原油の留分とその用途

名称 炭素数 沸点(℃) 色 用途

ガス留分

1

5

30

― 石油ガス

ナフサ,ガソリン

4

12 30

200

無色 乗用車,航空機燃料

灯油

10

18 150

300

無色〜淡黄色 石油ストーブ用燃料

軽油

18

23 200

350

無色〜茶褐色 ディーゼルエンジン用燃料

重油

18

以上

350

〜 褐色〜黒褐色 船舶用燃料,潤滑油 アスファルト 蒸留残渣 黒色 道路舗装用,防水剤

(出所)安井伸郎,(2005)『エネルギーの科学』三共出版,pp.44-49.

(22)

第 2 表 原油精製処理量及び精製油生産量(1860-1873年)

(単位:1,000バーレル)

年 原 油 生産量

原油の貯蔵 および損耗

原油の 純出荷率

原 油 輸出量

原油精製 処理量

総精製油 生産量

精製油生産量の配分 国内市場 外国市場

1860 500

1861 2,114

1862 3,056

−2,306

750

−182

568 335 240 95

1863 2,611

−984

1,802 202 1,425 855 350 505

1864 2,116

+227

2,343

−233

2,110 1,266 722 544

1865 2,498

−111

2,387

−137

2,250 1,336 727 609

1866 3,600

−120

3,480

−270

3,210 2,049 633 1,416

1867 3,347

+495

3,842

−132

3,710 2,418 773 1,545

1868 3,646

+1,448

5,094

 194

4,900 3,410 1,131 2,279

1869 4,215

+845

5,060

−360

4,700 3,267 1,089 2,177

1870 5,261

+428

5,689

−289

5,400 3,875 1,292 2,583

1871 5,205

+460

5,665

−269

5,396 4,050 930 3,120

1872 6,293

−393

5,900

−390

5,510 4,200 1,380 2,820

1873 9,894

−394

9,500 468 9,032 6,750 1,850 4,900

(出所)Williamson, H.F. and A.R. Daum,(1959) op.cit., pp.737-738.

(出所) American Petroleum Institute, (1928) op.cit., p.104.

第 3 表 合衆国における原油の生産量と価格 年 生産量(1,000バーレル)

A

総出荷価格(1,000ドル)

B

バーレル当たり年間 平均価格(ドル)B/A

1859 2 32 16.00

1860 500 4,800 9.60

1861 2,114 1,036 0.49

1862 3,057 3,210 1.05

1863 2,611 8,226 3.15

1864 2,116 20,897 9.88

1865 2,498 16,460 6.59

1866 2,598 13,455 5.18

1867 3,347 8,067 2.41

1868 3,646 13,217 3.63

1869 4,215 23,730 5.63

1870 5,261 20,504 3.90

参照

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