「 データーベース :米国シェイクスピア研究学位論文」
か らシェイクスピア=ベ ーコン説を検証する そ の一
草 薙 太 郎
1.は じめに
文部科学省科学研究費補助金や ドル減 らし予算 な どを使 い,富 山大学人文学部 の研究室 に 1990年 頃か ら収集 し,随 時オンライ ンのデーターベース化 に取 り組んでいる米国シェイ ク スピア研究学位論文のコレクシ ョンか ら,米 国の文化的特徴が読み取れる。それを 「『データー ベース :米国シェイクスピア研究学位論文』が表す米国の特徴 その一」1「その二」2と してま とめた。
その成果か らシェイ クスピア=ベ ーコン説の検証が出来 ることを示 してみたい。米国のシェ イクスピア研究は決 してシェイ クスピア=ベ ーコン説 を支持するわけではないにせよ,万 が一 シェイ クスピア=ベ ーコン説が動か しがたい証拠 によって証明された ら,イ ギ リスや 日本の研 究者は衝撃 を受けるであろう。 しか しアメ リカの研究者は 「それ もあ りうる こと」 と平然 とし ているのではなかろうか。その理 由を明 らかに出来るのが,ま さに 「データーベース :米国シェ イクスピア研究学位論文」なのである。
シェイ クスピア=ベ ーコン説を否定す る通説の根拠は,意 外 にコンピュータで証明 した り, 厳密な体系的理論 による 「いわゆる自然科学的」な ものではない。そ うではないけれ ど,か な
り確 固たる基盤 を持つ 「人文科学的感覚」 の上 に成立 した,「文体論」 に基づ くといっていい と思 う。
「人文科学的感覚」 とは,い わゆる学術 の名が冠せ られる学会,大 学 といつた ところの文学 部や人文学部,そ れ らを基礎 とす る大学院の研究科で醸成 されるのが主であるものの,意 外 に ジャーナ リズム も含 まれる。
その ことを分 り易 く認識 させて くれたのは,考 古学の大発見 を続 けていた考古学者の一人が 全 くのイ ンチキをや っていた ことを新聞記者が発見 した ことである。 このイ ンチキ考古学者は
自分のコレクシ ョンを早朝密か に発掘現場 に埋めては 「発見」 と称 していた。
1 富 山大学人文学部紀要第4 0 号 ( 2 0 0 4 ) 。 2 富 山大学人文学部紀要第4 2 号 ( 2 0 0 5 ) .
興味深 い ことに, このイ ンチキは,専 門の考古学会では発見 しにくいものであった。互 いの 詮索 を嫌 う体質が問題だ ともいわれ る。 しか し,そ れは人間関係 としての隠蔽体質だけが問題 ではない。先頃創設 された科学技術論学会の学会誌 には, この問題を厳密に検証すればするほ ど事件 を防 ぐことの困難 さが浮 き彫 りになることを指摘 した事例研究 としての考察 3がぁる。
この考察が掲載 された同 じ雑誌 には同 じ著者 による社会学的考察4もあって,捏 造石器 を専門 家が見破 るのは困難であることが考察 されている。
見破 ったのは考古学の専門家ではな く新聞記者であった。新聞記者は考古学の素人か もしれ ないけれ ど,「人文科学的感覚」 を広 く考 えてジャーナ リズムを含めれば,そ の方面の専門家 といえる。イ ンチキ考古学者 を取材 しているうちに,お か しいと直感 し,早 朝の現場に張 り込 んで 「犯行」 を押 さえた。
もし先述 したように 「通説の根拠はイ ンチキ考古学者を見破った新聞記者感覚」だ とした ら, シェイ クスピア= ベ ー コン説 と,そ れ を否定す る通説 とは, どこか攻守 ところを替える趣 き ( 考古学 の事件では学会の権威 をジャーナ リス トが叩いたのに:シ ェイ クスピア=ベ ーコン説 については,そ れを否定する通説の方がジャーナ リス ト的だ というのだか ら)が 感 じられるか もしれない。実際,シ ェイクスピア=ベ ーコン説 に限 らず,ア ンティ ・ス トラ トフォーデ ィア ン ・セオ リー ( 反ス トラ トフォー ド出身者理論。シェイクスピア=フ ランシス 0ベーコン説も, シェイ クスピア=エ ドワー ド ・ヴィア説 も,ス トラ トフォァ ド 0アポン ・エイヴォンという町 に生れ,ロ ン ドンに出て演劇人 として成功 した,あ のシェイクスピアが一連の作品の真の作者 ではないという意味で,ま とめて こう呼ばれる)の 方が余程 「いわゆるアカデ ミック」な論証 の仕方 をす る。テキス トの異同を論 じ,様 々な新資料を提出し,時 代背景を論 じ,当 時の文化 サ ロンにまで言及 して理論 を構築する。 これ に対 し,通 説の根拠は極めてナイーヴな 「シェイ クスピアの伝記」 に基づ く 「感想」 のよ うな もので,「何 とな くやは リシェイ クスピアは存在 した し,ス トラ トフォー ド出身の人だ と思 う」 といったもので,そ の 「シェイクスピアの伝記」
自体, シ ェー ンボー ンのような厳密な資料の検討を行 うと,か な りの部分 に 「確定ではない」
という留保がついて しまうものである。
しか し,そ れにも関わ らず, こち らの方が通説で, しかも,な かなか強力なのである。
シェイ クスピア= ベ ーコン説 を支持す る人々の多 くは 「シェイクスピアのセ リフに人生の機 微 をえ ぐった哲学的セ リフが多 くち りばめ られている こと」 を挙げる5。
3 山 内保典,岡 田猛,「妥 当性境界の形成過程 に関す る研究―一考古学 における事例研究」,科 学技術論研究 2「 知の責任」,(2003.10).
4 山 内保典,岡田猛,「 妥当性境界形成の力学――社会学的要因の観点か ら」,科学技術論研究 2「 知の責任」, (2003.10)。
5 梅 原猛,「反時代的密語」,(2005年 3 月 2 9 日 付 け朝 日新聞の文化欄 コラム).
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問題 は 「哲 学 的なセ リフ」 で あ る。
二 人が 同時代 を生 きた ことは 当然 シ ェイ クスピ ア=べ ニ コ ン説 を補強す る。 しか し,「哲学 的 なセ リフ」 の方 は, 何 とで も解 釈 で きる面が ある。 シ ェイ クス ピ アの 「人生 の機微 をえ ぐっ た哲学 的セ リフ」 につ いては四百年 の シェイ クスピ ア学 の積 み上げ が あって, モ ンテーニ ュ と の類似 も指摘 され る し,キ リス ト教 の各派 の考 え方か ら様 々な形 の聖書 と関連す る文献,シ ェ イ クス ピ ア ( もしくはベー コ ン) が 目を通 した可能性 の あ る, あ りとあ らゆ る 「哲学 的セ リフ の種 にな りうる」文章が検討 されて いる。そ の結果,シ ェイ クスピアの作 品 につ いて:特 にベー コ ンの影 響が大 だ とい う結論 には至 って いな い。
「人 生 の機微 をえ ぐった哲学 的セ リフ」 を問題 にす る と, そ れ は シェイ クスピ ア= ベ ー コ ン 説 が絶 えな い理 由にな る と同時 に, 通 説が シ ェイ クスピア= ベ ー コ ン説 を一蹴す る理 由にもな るので ある。
端 的な例 と して, ハ ム レッ トの 「生か死 か ( この ままで いるか, い な いか) , そ れが 問題 だ」
で始 まる有 名な独 自がモ ンテーニ ュ とベー コン と, どち らと関わ りが深 いか を論 じれば , この 点 は明 らか にな る と思 う。
それを述べる前に,ま ず これ ら米国シェイクスピア研究学位論文を,基 になったデーターベー ス と同じく,米 国の (1)移 民の国 として様々な価値観が混ざ り合いボーダー レス化す る特徴 (2)そ うはいいつつ も西 ヨー ロッパの文化 の伝統 を色濃 く残 している特徴 (3)競 争社会 と して社会のヒエ ラルキーを駆 け上が リマイ ノリティーがメジャーになろうとする (フェミニズ ムが典型)圧 力のある特徴 を表す ものに,三 分類す る。 このことで,逆 に分類項 目として挙げ た米国の特徴が浮かび上がると考 える。そ こにシェイクスピア=ベ ーコン説 との関わ りを述べ てゆきたい。
なお本稿ではデーターベース項 目のうち (1)移 民の国として様々な価値観が混ざ り合いボー ダー レス化す る特徴 の,さ らに細分 した(a)心理学,臨 床心理学な どと関連す るもの(b)枠 に
とらわれない米国流 自由研究 に対応する部分のみ掲載する。
さらに本稿は,そ のまま学術論文の形式によるデーターベース としての役割 も付すため,脚 注の論文名の後 に富山大学図書館請求番号 を付け加えた。
2。 米国が移民の国 として様々な価値観が混ざ り合いボーダー レス化する特徴
ボーダー レス化 とシェイ クスピア=ベ ー コン説検証 とは深 い関わ りがある。石器捏造問題が 起 きた とき,「時代が時代だか ら」 という声が考古学, 日本史関係者か ら聞かれた。つま り, 同 じ考古学や 日本史で も,時 代が もう少 し新 しければ,ち ょっとした石器 の発見が歴史 を書 き 換えるような事態は起 こらないということである。つま り 「いくら何でも常識で考えて 000」
という発言が出来て, しかもその 「常識」が学者のコミュニテ ィーだけで通用する常識ではな いのである。例えば鎌倉時代以降な ら素人の間で も日本の国 という国家観 と歴史観がぼんや り 出来上がっている。 「質実剛健の武士」 「優雅 にのほほん と暮 らす公家」 という構図は素人の間 で も確固 としている。いくら鎌倉時代の鎌倉で出土 した食器の方が同時期 に京都か ら出土 した ものよ り贅沢であって も,そ のことだけで突然公家 と武士のイメージが入れ替わ りは しない。
どんなに権威ある考古学者が実証 し,力 説 し,専 門家のコミュニティーを説き伏せて も,な お 自説 を通説 とす るには, 日本国民全体 を相手 に,さ らに努力をす る必要がある。
この国家観,歴 史観は, しか し外国人には通用 しない。映画 「ラス ト ・サム ライ」で明 らか なように,か な りの知 日派で も,ア メ リカ人は公家 と武士 を区別 しない。両方 をひっくるめて
「貴族」 と言 う。 あるいは公家や天皇 まで 「サム ライ」 にして しまう。 この感覚な ら,鎌 倉で 出土 した食器の方が同時期 に京都か ら出土 した ものよ り贅沢であるな ら 「鎌倉 の貴族は京都の 貴族 よ り贅沢」 と理解 して終わ って しまう。 「質実剛健」 という武士のイ メー ジが壊れた とも 思わない。
同 じことがシェイクスピア=ベ ーコン説 について も言える。イギ リスでは英文学の古典の作 者 としてのシェイクスピアと,近 代哲学の祖 としてのベーコンのイメージは,か な り確定 して いる。ある程度伝記が分かつていて,そ の著作の評価が定まった二人は,そ れだけで歴史の中 で確固とした存在であ り,二 人 とも常人には及ばない精力的な人生を送った ことか ら見て も, 二人が同一人物であることは考え られない。 しか し,そ れはいわば公家 と武士を区別する旧世 界の感覚である。
旧世界の感覚 とはボーダー レス化が始 まる前の国家秩序があった世界の感覚である。アメリ カはそ うした国家秩序を排 し,科 学技術を尊重 しなが ら,世 界のボーダー レス化を推進 し,ボ ー ダー レス化 の中心勢力 としての 自己を伸ば した。 旧世界の国の一つ として国力を伸ば したわけ ではない。その価値観は徹底 した実証主義 と,プ ラグマティズム, トランセ ンデ ンタリズム と いつた特徴 を持つ信念に支え られている。
実証主義 といえば,先 にも触れた,二 十世紀で最 も尊重 されるシェイクスピアの伝記の一つ にシェー ンボー ンの 『ウィリアム 0シ ェイ クスピア :実証 された伝記』6が ぁる。 これはシェ イクスピアにまつわる伝説 と史実 との境界 を,実 証できる資料 に基いて決めようとした もので ある。そ こで浮かび上がるのはス トラ トフォー ドの田舎か らロン ドンに出て多少は成功 した ら しい演劇好 きの男性の一生であって,英 文学の古典の作者 として確立 したイメージとは違 う。
イギ リスや 日本の旧世界的価値観 を持つ読者は,す ぐにこの伝記の実証の上に英文学古典の作 者 として偉大なシェイクスピア像 を重ねて読む。 けれ ど重ねて読 まない読み方 も出来 る。そ う
6 Schoenbaum, Samuel., William Shakespeare: A Documentary Life, (Oxford:1975).
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思 うと,ア メリカ的価値観 を押 し付 けない見識があって, しか し旧世界的な偏見か らも解放 さ れている 「す ぐれた」著書だ と気付 く。
この著書 に偉大なシェイクスピア像 を重ねて読 まなければ,た とえばベーコンが演劇の着想 を創作 し,筋 書きと,ち りばめるべき哲学的セ リフを指定 した上で, この男性に脚本 を書かせ, すべてに目を通 して上演 させた という,事 実上のシェイ クスピア=ベ ー コン説 も成立 しないわ けで もないように思える。そ ういう感覚 を生 じさせるのは,英 文学古典の作者 として偉大なシェ イクスピア像を支える,旧 世界的秩序の崩壊である。ボーダー レス感覚 とシェイクスピア=ベ ー コン説は密接 に関係す る。
シェイクスピア=ベ ーコン説 を一笑に付す る ことができるのは旧世界的国家秩序 を確かな も の とす る感覚 による。その確かさがゆ らぐとき,シ ェイクスピア=ベ ーコン説は,支 持はでき ないまで も検討 に値す る仮説 になる。
データーベース同様, この項 目はさ らに細分 してla)心理学,臨 床心理学な どと関連す るも の (b)枠にとらわれない米国流 自由研究 (c)映画 に関連するもの (d)多民族国家,植 民地政 策な どに関わ るもの (6)語学的考察 に近いもの (f)実際に演 じる ことか らの論考 (g)ホモセ クシュアル に関わるものに分け考察 してゆきたい。本稿では,そ の うち(a)(b)のみについて と し,「その一」 としたい。
(a)心理学,臨 床心理学な どと関連す るもの
ボーダー レス化の特徴は米国シェイクスピア研究博士論文の 「学際的」考察 にあ らわれ る。
レ トリックを心理学 と言語学の結合 として,シ ェイ クスピアな どを分析す るもの7がぁる。ブ リューゲルの 『イカルスの墜落』 を扉 に掲げ,臨 床心理学的読みで,『尺 には尺 を』 を捉 えた り,デ カル トやセルバ ンテスな どを例 に,哲 学 と心理学の間を紡往 う論考8がぁる。 これな ど は西 ヨー ロッパの文化的伝統 の特徴 も併せ持つ。
ボーダー レス化 しなければ,「英文学」 「英国の近代哲学」 という一国の研究領域 をしっか り 認めるだけで シェイ クスピア=ベ ー コン説は払拭で きる。そ の ことを,先 述 のハム レッ トの
「生か死か (このままでいるか,い ないか),そ れが問題だ」で始まる有名な独 自がモンテーニュ とベーコンと, どち らと関わ りが深 いかを論 じることで説明 したい。
ハム レッ トの 「生か死か (このままでいるか,い ないか),そ れが問題だ」で始 まる有名な
7 Czerniecki,Krystian Mare,7ん θrんθιοric o/mθJαんcんοり 山大学図書館請求番号9 0 2 . 2 1 1 C 9 9 1 1 R h ( 以下 同様)
8 Lezra, Jacques, ■ αrじs ´θαごjんgf tr叩ら ιrαじ醜α, αんご Dθscαrι ,(1990)。90211L59111c
iSんαたθttθαre RαCじηα κιθjsι,(1991).富 θυθんι じん Sんαんθttθαre CIθrυαηιθs, αηご
独 自は,父 の敵討 を決行すべきか どうかで悩む文脈の中で,撃 って出て運命 と刺 し違えるのは いいにして も,ふ と死 を想 うとため らうとして,死 への恐れを語 り,あ の世への旅人は三度 と 戻 つて来ないといった告 白が続 く。
これはほぼ同時期 に 『随想録』 を残 したモ ンテーニュの 「穏かな懐疑主義」 に似ているとい われ,い わゆる通説 もそれを支持する。
ではベー コンは どうだろうか。ベーコンにも 「死 について」 と題す るエ ッセイがある。その 書 き出 しを少 し引用 してみよ う。
人は死 を恐れ る,子 供が暗が りを恐れるように。子供のそ うした 自然な恐れが物語 を聞かさ れ ることで助長 されるよ うに,人 々の死への恐れ も助長 される。確かに死 を罪の報いとし,あ の世へ行 く過程 とし,死 について黙考することは尊 く宗教的である。 しか し自然への貢ぎ物 と しての死への恐れは人を弱 くさせる。 さらに宗教的な黙考では, しば しば虚栄 と迷信の入 り混 じりがある。
「科学者」ベーコンらしい,現 代人 も説得できる正確な文章である。 あたか もハム レッ トの 独 自を,独 自な正確 さで評価 し,評 論 した ものとも見える。 さらに以下の くだ りがある。
復警は死 に勝利 し,愛 は死 をものともせず,名 誉は死 にあこがれ,悲 しみは死 につきまとい, 恐れは死 を満た し,オ ッ トー皇帝が 自殺 して以来,同 情 (感情の中でももっともやさしいもの) は,た だ元首への共感か ら真の追従者 として沢山の殉死 を生む8
このエ ッセイの最後は 「死は良き名声への扉 を開き,嫉 妬を消滅させる」 ということである。
私はそ こに命 を賭けて勢力ある人々がせめぎあい,そ の中の一人の死が一定の政治的効果 を生 む政治の現場 にいたベーコンの立場 も読み取れると思 う。外交 を含む争いごとに心をくだ く哲 学者の思 いもそ こにある。
さて以上を踏 まえてハム レッ トの独 自に近いのはモ ンテーニュかベーコンか という問題 を考 えれば,具 体的な 「文言」については,モ ンテーニュの 『随想録』 とハム レッ トの独 自で,は っ き りした対応点 を見つけるのは難 しいのではなかろうか。概括的な類似の指摘ではない具体的 な 「文言」 の類似 を指摘 した研究 を寡間にして私は知 らない。通説は全体 の調子 を見て類似点 を指摘す るというよ り論 じるのだ。 ここで見てきたように,ベ ーコンのエ ッセイの方が遥かに 多 く具体的ではっき りした 「文言」 の類似 を指摘できるし,他 の作品 との関連 も論 じ易い。 し か し,根 本的な一点が違 うと私は思 う。
つま り,ハ ム レッ トの独 自は,キ リス ト教を信 じようとしてなお死後の世界 について懐疑 を
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払拭出来ない姿勢がある。それはモンテーニュに似た,一 種 「おずおず した態度」なのだ。ベー コンのような 「宗教的な黙考では, しば しば虚栄 と迷信の入 り混 じりがある」 として憚 らない 態度ではない。 ましてや死 について十分考察 した上で 「死への恐れは人を弱 くさせる」 と断 じ る態度ではない。 「死への恐れが我 々を臆病者 にす る」 とは,ま さに問題 の独 自中のハム レッ トの文句で,シ ェイクスピア=ベ ーコン説の 「証拠」 とも見 えるものなのだが,ハ ム レッ トが 信仰 と懐疑 に揺れ動 く 「おずおず した態度」で言 うのと,ベ ーコンが 「科学者」 として 「断定 す る」 の とでは,印 象がまるで違 う。
信仰 と懐疑 に揺れ動 く 「おずおず した態度」 は,「英文学」のひ とつの立場 として登録 され, 同 じ 「文学」 として も読める参考資料 としてモ ンテーニ ュの 『随想録』が注記 される。それ に 対 しベー コンが 「科学者」 として 「断定す る」,死 を恐れ る人間心理,死 の政治的効果 の分析 と,死 を恐れる心理 を克服するための提言な どは 「近代哲学」 に分類 され,別 系統 とす る。 こ うした 「英文学」 「英国の近代哲学」 という専門領域 区分 に安住できるな らシェイクスピア=
ベー コン説は一顧の必要 もな くなる。
しか し 「専門領域分類」 を離れ,単 に資料分析 の立場でながめれば,『ハム レッ ト』 の作者 シェイ クスピア と 「エ ッセイ」 の作者ベーコンという,死 についての考察で類似する 「文言」
の多い同じ国の劇作家 と哲学者 との関係を希薄 とみな し,類 似する 「文言」があるわけで もな いし言語 も違 う異国の思想家モ ンテーニュとシェイクスピアとの関係を重視するのはおか しい と感 じる。
この問題は 「文学」 という 「専門領域」 の抱える問題 を浮 き彫 りにす る。それはシェイ クス ピア作品の登場人物 を臨床心理学の 「患者」 にして しまう以下の米国シェイ クスピア研究博士 論文 にも現れている。
「中年以後 の欝」 という観点か らの論考9は臨床心理学 の応用である。影 の領域へ入 る完璧 を求めたアンジェロ,お となになることを拒絶する トロイ ラス,原 始的魂アニマの女性ヘ レナ (終わ りよければ.…)欠 陥両親 を持つ落胆 (ハム レッ ト)と いつた規定 を行 い,ユ ング的人生 の不幸 を克服す る視点でのシェイ クスピア論Юがある。ユ ングは西 ヨー ロッパの文化的伝統 に 深 く関るものの,臨 床心理学の実践でユ ング派の活躍 を想起 させ る点がアメ リカの文化的ボニ ダー レス社会の特徴 を示す。 また主人公の 自己客観化 に寄与す る良きカウンセ ラーを辿 り,ハ ム レッ トにホ レイ シ ョ, リアにケ ン ト,ま た 『アン トニー とクレオパ トラ』 のエ ノババス,
『コ リオ レイナス』のメネニウスな どを分析す るものHは,実 践的な臨床心理カウンセ リングが
9 Feak, Marcus David, 10 Porterfield, Sally F。 ,
93211Sh‖Po
ll Datta,Pradip Kumar, 930.2811ShllDat
Aspects of Kleinian Life Span Psychology, (1995). MFll189ll7
Inner players: a Jungian reading of Shakespeare's problem plays, (1992).
The role of the good counselor in selected Shakespeo,rean Tragedies, (1991).
盛 んな米 国 の実状 を反映 して いる。
ただ, 米 国 の実情 が どうで あれ 「文 学」 がそれ で成立す るのか とい う疑 間が生 じる。 シェイ クス ピア作 品 を 「臨床心理学症例集」 に変 えて しま う試 みが, 果 た して 「文学研 究」 な のか と い う疑 間はつ き ま とう。 この疑 間のひ とつの回答 として,シ 土イ クスピア作 品 に描かれ た 「民 衆 の革命 的 なエ ネルギ ー」 を, 臨 床心理学 を手段 として浮 き彫 りに して いるのが米 国 シ ェイ ク ス ピ ア研 究博士論文 だ とい う考 え方 がで きる。
幼児が母親か らミル クを与え られるときに,願 望の実現 と思 つた り,実 現せず にベ ビーベ ッ ドを蹴飛ばす代償行為 に及んだ りすることを幼時体験 として論 を展開するフロイ トの分析 をも とにして,思 考が現実化すると信 じる魔力的思考 を分析 し,『マクベス』な どに適用する論考2 もある。そ こで浮 き彫 りになるのは現実 を変えたいと願 う 「民衆 の革命的なエネルギT」 であ り,そ れ を個人の視点で表現すれば 「アメリカの夢」実現願望である。
ユ ング派の臨床心理学でな くとも,イ コン,エ ンブ レムなど,イ メージャリーに関わる考察 があった り,宗 教 について考察 し,聖 俗 の感覚のあるものは,す べて,極 めて広義な意味で
「′い理学」 と関わ るのがアメ リカの特徴ではなかろうか。その こととシェイ クスピア作品に内 包す る 「民衆の革命的なエネルギー」 との呼応関係は,「′い理学」 の持つ革命性 を説明すれば 明 らかになる。
西欧を 「支配す る側の文化」 として君臨 したのは 「ヘブライ ・ヘ レニズム文化」である。平 た く言えばキ リス ト教 とギ リシャ ・ローマの古典文化なのだ。そ こに資金面か らも権力との親 交 を必要 とす る科学技術がす り寄 ってゆ くに して も,「文化の内容」 については,明 らか に衝 突 し,革 命 を起 こす面があった ことを否定できない。 またイギ リスの庶民には 「ヘブライ ・ヘ
レニズム文化」では捉えきれない,人 間臭 く,エ ネルギーに満ちた文化がある。
ベーコン自身,父 が大法官である家に生まれ,ア リス トテ レス哲学などを教育され,そ れに 対す る反発があった といわれ る。そ こか ら独 自の 自然哲学 を切 り開いていった。
こう考えると,「支配する側 の文化」 に対抗 し,革 命 を起 こす方向にあると,ベ ーコン哲学 を見なせ る。学問の中の革命 と,ロ ン ドン市民な ど民衆 と手を結ぶ革命的傾向である。
この 「革命的傾向」 を追及すれば心理学的分析 とシェイクスピア=ベ ーコン説の関わ りのあ る面をつかむ ことができる。そ こで, しば らくこの 「革命的傾向」 について考察 したい。
同じ 「革命的傾向」 といって も二つの傾向がある。一つは権力の締め付けに対 し,武 器を取っ て戦 うか否かで途巡 し,個 人を解放 したい欲求 と,権 力が押 し付ける拘束 との間で板挟みになっ て狂気 に至ることを,舞 台藝術 として 「美」 とともに表現す る行 き方である。他方で,あ っさ り武器 を取 って戦 うことにして,反 乱 を起 こし,勝 利するか否かを力強 く表現する行 き方があ
12 Favila, M. C., Magical thinhing in Shakespeare's tragedies, (1995). MFll189ll52
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る。 「美 と狂気」か 「民衆のエネルギー」か, と言 い換 えて もよい。
シェイ クスピア作品は後者の革命的傾向だけで出来ているわけではない。ハム レッ トが狂気 と言われ,近 代人 として悩み邊巡する。そのハム レッ トが恋人のオフィー リアを 「尼寺へ行け」
と傷つけ,オ フィー リアは水死 し,そ の花 に囲まれ水面によ こたわる姿がエバ レッ ト ・ミレー の絵画 になって後世の人々の記憶 に残る。
これは 「民衆のエネルギーが起 こす革命的傾向」だけでは説明がつかない。ハム レッ トは民 衆の リーダー としての革命者 とみなせないことはない。 しか しオフィー リアはそ うはいかない。
「美 と狂気」の世界である。 『マクベス』の魔女や歴史劇の血み どろの争いの果ての人間像など;
「美 とい うよ り異形」 を描 く民衆的なエネルギーはシェイ クスピア劇 にも他方では存在す る。
『ヘ ンリー六世』三部作 中のグロスター公爵は,無 残 に父を殺 されたがゆえに人間性 と距離 を お く,ル ネ ッサ ンス として新 しいタイプの悪党だ とす る論考R も
, シ ェイ クスピアを臨床心理 分析で映画的 に蘇 らせた趣 きがある。一応映画 を大衆藝術 とみなせば, 「民衆 のエネルギーが 起 こす革命的傾向」 になる。
心理分析含みの映画の問題は, しか し 「狂気の大衆化」 という要素をは らんでいる。 これ に ついては改めて論 じるとして, これ まで旧世界の国家秩序 に属する感覚が西欧の 「文学研究」
として専門領域 を構えていたのは,「ヘブライ ・ヘ レニズム文化」基調の 「支配す る側の文化」
傾向であつた ことは否めない。 「民衆 の革命的傾向」 を他者 として受容 して も, イ ギ リスでい えば基調は中流階級 の伝統的嗜好なのだ。 「美 と狂気」 を尊重 して も 「異形 と革命的動乱」 は もう二つ得意 としない。
「′い理学」が革命的なのは 「ヘブライ ・ヘ レニズム文化」 を基調 として評価基準を設定する 旧世界的 「文学研究」 に対 し, 評 価基準 を崩壊 させ, あ らゆる宗教的道徳的考察 を相対化す る 作用があるか らである。その例 を米国シェイクスピア研究博士論文で挙げてみよう。
最終章で1 2 世紀 フランスのキ リス トが踊 るイ コンとエ ンブ レムを掲げ, ユ ーモア, 楽 しさに 神意が現れ ることを提示 し, 禅 な ど, キ リス ト教以外 にも例がある ことをいう論文M がある。
聖なる道化の概念 をシェイクスピアに導入 し,道 徳劇か らの発展 を道化論 に適用す る。 フェス テか らリア王付きの道化への発展で, 狂 気 を制御す る道化 を指摘 し,ハ ム レッ ト,ハ ル王子な どの道化性 も,聖 俗 のバ ランスをとる者 との立場で解析す る。 「祝祭喜劇」論 と道徳劇, エ ン ブ レム論の結合 した論考 といえる。
貧乏人が犯罪や疫病の巣 として嫌われた り, 同 時 に労働力源 として尊重 された りす る社会情
13 Evans, Christopher W., Deterrnined to Proue a Villain: A Reexamination of Shahespeare's Duhe of Gloucester, (1995). MFll189ll14
14 Pyle, Sandra Jean, Holy Madness: The Ministry of Shahespeare's Fools, (1996). MFll194ll12
勢 の変化 に対応 して, 文 学で も貧 乏 を悪 とす る ものや徳 とす る ものが現 れ る。 1 6 0 0 年前後 のイ ギ リス につ いて こう した観点 で の考察 を行 な い,金 持 ちの境遇が変わ って初 めて知 る貧 乏 を分 析する ことを主題 とす る 『リア王』 のような作品が生まれる傾向は長続きせず,す ぐステ レオ タイプの貧乏人 を描 く物語 りが登場す るとす るもの馬は,貧 乏 という観点で西欧 にこだわって いる。西欧への こだわ りは西欧的思考のシステムヘのこだわ りと紙一重で,広 義の心理学的論 考 ともいえる。
この 「貧乏 に徳があるか」 といった発想はベー コンが 「逆境 につ いて」 とい うエ ッセイで
「金持 ちの徳は穏やか さ,逆 境の徳は堅忍不抜」 と書 いた ことそのものである。 これ とシェイ クスピアの 「情熱の奴隷でないよ うな人間がいた ら連れて来い」 (『ハム レッ ト』三幕二場) を比較すれば,「人生がままな らぬ庶民」 シェイ クスピアと 「国家 を担 うエ リー ト」 ベー コン との差 を感 じる。衣食足って礼節を知 り,あ る程度経済的に豊かになって穏やかさを知 り,国 家 を論 じられる。 シェイ クスピアのように没落商人の息子で ロン ドンに出てきた青年は,同 時 に 「情熱の奴隷」 にな らぎるを得ない心情 を知 っている。穏やか さを知 り,国 家 を論 じられる には,シ ェイクスピアのような演劇成金で もまだ駄 日で,「共同体の締め付け」そのものを何 とか出来 るベーコンのような立場が必要ではなかろうか。そ して 「共同体 の締め付け」そのも のを何 とか した新世界アメリカの博士論文は, この意味でもベーコンの子孫だ と思 う。
ただ し,シ ェイクスピア本人が 「情熱の奴隷」であったかは疑問な点がある。アン ・ハザウェ イ と 「出来ちゃった結婚」 した頃まではそ うか もしれない。 しか し,そ の後二人の関係 には死 ぬまで 「情熱の奴隷」的な側面は見 られない。 シェイクスピア本人は 「愛 について」 もベーコ ンと同 じ考え方で,た だ大衆 に受ける台詞 としてのみ 「情熱の奴隷でないよ うな人間がいた ら 連れて来 い」 と書いたのだろうか。 あるいは 自らの生い立ちか ら 「若気の過ち」 として反省 を こめた劇作 をしたものの,虚 構 と実人生は別 という態度であったのか もしれない。虚構 と実人 生を峻別 し,明 らかに他者である哲学者ベーコンを利用できる文学の才能の持ち主がシェイク スピアであった。
米国シェイクスピア研究博士論文 には,シ ェイクスピア,ジ ョンソン,ミ ドル トンばか りか, アフラ ・ベンまで加え, 17世 紀英国の資本主義が封建体制を崩壊させていくことを,レ ヴィ ・ ス トロースの文化人類学的視点や,各 種の社会学,社 会哲学,心 理学的視点で考察 した論文局 がある。
プ ラ トンか らロラン ・バル トまでの肉体論 を展開す る中で,『尺には尺を』 な ど,シ ェイク
15 Pories, Kathleen Gail, Fashioning the Face of Pouerty in Early Modern England, (1995).
MFil189il44
16 Roh, Seung-Hee, Determinate Contradictions in Seuenteenth-Century Drama: Inheritance, Gender, and Exchange in Shahespeare, Jonson, Middleton, and Behn, (1995). MFll189ll72
一‑10‑一
スピアの作品 もとりあげ る論文17がぁる。
これ らはすべて 「ヘブライ ・ヘ レニズム文化」基調の価値基準 を崩壊 させ る。ア リス トテ レ ス的な 「徳の基準」 に対抗す るよ うにベーコンの 「金持ちの徳は穏やか さ,逆 境の徳は堅忍不 抜」がある。それ にまた反論す るように 「情熱の奴隷でないような人間がいた ら連れて来 い」
というハム レッ トの台詞がある。それはシェイクスピアの本音なのか本音 とは別の虚構なのか, 定かでない。その ことは次項の 「ワークシ ョップ (創造工房)」と関わつている。
その前に, この項 を短 くまとめれば心理学的分析は旧世界的価値観 を崩壊 させる作用があ り, ヘブライ ・ヘ レニズム文化 に反発 して近代 自然科学 を創始 したベーコンには対応 して も,旧 世 界的価値観 と格闘 して狂気 に至 るハム レッ ト像 を描 いたシェイ クスピア とは,少 しずれた面が ある。 フロイ トがシェイ クスピア作品か ら臨床心理学を組み立てた として も,そ れはシェイ ク スピア作品の 「ベー コン部分」 (ベーコンの問題意識 に対応す る部分)に のみ反応 した ことか もしれない。心理学的分析が盛んなアメリカは,シ ェイクスピア作品に,旧 世界よ り強 くベー コンの影 を見ている, といった ことになる。
(b)枠にとらわれない米国流 自由研究
机上の 「文学」 とは別 に,「ワー クシ ョップ (仕事場の意味か ら演劇では準備段階での様 々 な活動,講 習会 をさす)の 創造性」 といったものが存在す る。アメリカは国 として この考え方 を支持す る。
シェイ クスピア 自身 もワークシ ョップ と関係が深 い。 これ については,す く゛
後で説明す る。
ベーコンも 「科学実験室」 という名のワークショップと関係 していた。 この二人のワークシ ョッ プの質の違 いを考察す ることはシェイクスピア=ベ ーコン説検証 に役立つ。
まず 「ワークシ ョップの創造性」の具体例 を見てみよ う。 ロン ドンとニュー ヨークで上演 し た ミュージカル 「ライオ ン ・キ ング」 の演出ではイ ン ドネシアの影絵 を取 り入れ,演 出家ジュ リー ・テイモアが評判 になった。彼女がシェイ クスピア濠Jを初めて映画化 した 『タイタス』 の 冒頭はお もちゃの兵隊を追力ある画像 にしたようだ。彼女の創造の秘密は 「アメリカの仕事場」
にある。お もちゃか ら大工道具までをひっくり返 したような仕事場環境一― ワークシ ョップで アメリカ的創造性は生まれ,彼 女の才能はそ うした環境の申し子だ と思 う。イ ン ドネシアの影 絵発掘はワークシ ョップを屋外 に押 し広げたフィール ドワークという活動か ら生まれた。その 傾向は米国シェイクスピア研究博士論文 にも反映す る。
17 Liberta,Angelo M。 ,Lι んθA犠滋θo/ιんθ Bο6りfrん θB。の jんDjSθοじrsθ/rοtt PJαιο ιo Bαrιんθs αんα Bの οんこ (1996)MFI1194117
1 5 9 0 年代 に歴史的文学的哲学的現象 としてセ ネカ的伝統 が確立 した とし(p.24),セネカ的オー ヴ ィ ッ ド的 ヴ ァー ジル 的聖書 的イ ンター テキス トが復讐 悲劇 の象徴 的枠 にな り(p.H8),「彼女 は女 だ, ゆ え に求愛せ られ るべ き 。・・」 といった引用 を してセ ックス と暴 力 につ いて論 じる ( p . H 9 ) もの‖
が あ る。 西 ヨー ロ ッパ文化 の伝統 が あ る ことは確実 なが ら,そ こか らさ らにセ ッ クス と暴 力が荒れ狂 う米 国 自身 を照射 し, この ジュ リー ・テイモ アが監督 し,パ ー トナー のエ リオ ッ ト・ゴールデ ンサルが音楽 を担 当 した映画 『タイタス』(1999)の解釈根拠 にして もいい よ うな論文 という意味で,移 民を受け入れ, 自由の国 としてのクリエイティヴ重視の伝統 に分 類できる。
こうした ことか らも伺われることなが らワークシ ョップの本質を一言で言えば 「統一的な権 威がない場での創造」 ということだ と思 う。 この ことを逐次指摘 してゆきたい。
さてベー コンのワークシ ョップについては当時の 「学者 と職人 との結合の運動」が重要であ る。 これ に携わった人物 にエ リザベス女王の侍医ギルバー トがいて,ギ ルバー トは地球が磁石 である ことを,女 王の前で実験 して証明 してみせた りした と紹介す る科学史Юの書物がある。
その後で次 の記述 になる。
「人間の知識 と力 とは合一す る」 (「知は力な り」)と いうF.ベ ーコンの言葉 もまた,当 時 ロン ドンで進行 していた学者 と職人 との結合の運動 を哲学的にいい表わ したものであった。
これは 「実験諸科学の成立」 と題 した第 4 章 3 項 の 「フランシス ・ベー コンと実験」 という 第 3 小 項 目の書 き出 しの一文である。 「知は力な り」 くらい有名なベー コンの言葉はない。 し か し,そ れがア リス トテ レスの 「最高善」のような 「統一的な権威」がある知識 とは異なるこ とは,あ ま り意識 されていない。ベーコンはア リス トテ レスを批判 し職人 と結ぶ。職人 と結ベ るということは 「統一的な権威」がない場で,わ いわいがやがや試行錯誤 を繰 り返 して真理 に 達 しようとす る, ま さにワークシ ョップ的な知のあ り方 を示 している。
つま り後 に近代哲学の祖 として権威付け られて も,意 外な ことにベーコン自身も 「実験」重 視の人であ り, そ の意味で 「現場感覚」 を持 った哲学者であった。では, ここで言 う 「学者 と 職人 との結合の運動」 とは何だろうか。
同書 によると, エ リザベス女王, ジ ェームズー世の時代 ( つま リシェイ クスピアが活躍 した 時代) は 「マニ ュファクチ ャア的工業生産が始 ま り, これに呼応 して世界貿易の中心がイギ リ スヘ と移 った時代」2 0 でぁって,「スコラ論議 にあけ くれるオ ックスフォー ド,ケ ンブ リッジ大 18 Sutherland, Jean Murray, Sん αんθspθαrθ αんα Sθんθcαf α り 腕bOιjc Jαんgじαgθ /Or ιrαgeの ,(1985).
930.2811Sh‖Sut
1 9 山 崎俊男他編纂,『科学技術史概論』,(オ ーム社,1978).
20 1bid.p.64.
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学 に飽 きた らぬ市民が学者の知識 と職人や船乗 りの諸経験 とを結びつける運動 を起 こした」 と いう。 「その中心が ロン ドンのグ レシャム大学 (カレッジ)」で 「た とえば天文学の教授は船乗 りに航海器具の使 い方 を実物で教え」 た りして,「 ここか ら自然の探求方法 として実験的方法 が生れたのである」 とす る。
次 にシェイクスピア とワークシ ョップの関係 を論 じたい。台詞 まわ しの言葉の才能が紛れ も な くシェイ クスピアのものだ ということとの辻棲 を合わせ るため,ル ーベ ンスエ房な らぬシェ イクスピアエ房なるものを提唱 し,全 体の作成は弟子がやつて,台 詞 をち りばめることだけシェ イクスピアがやつた といつた極 めて高名な演劇評論家がいた。その 『お気 に召す まま』 の構成 がフランス演劇 に親 しんだ感覚か ら見てあま りに杜撰だ という趣 旨である。 ここで浮 き彫 りに なるのはワークシ ョップ と権威 の関係である。全 く統一的な権威がな くなれば,せ っか くの集 団的な努力が無駄 になる可能性がある。演劇 という 「ワークシ ョップ」は権威 と無関係では決 してない。
絵画 と違 って当時の演劇は劇団監修の台本 も出版 され,大 家 には全集の出版 もあった。 出版 登録制度 もあれば,「著者」 の概念 (現在 ほ ど著作権 がやか ましくはなかったにせ よ)も あっ た。 「オーサー」 の権威 を示す シェイ クスピア 自身の句 もある。 コ リオ レイナスが母や妻 の請 願 をはねつけようと 「本能 に従 うほど青二才 じゃないぞ。男は男の著者 自身で他 の人種は知 ら
ないという程 に耐えてみせ る」(「1l never/Be suCh a gOsling to obey instinct,but stand, /AS if a man were author of himself/And knew no other kin.)(『コ リオ レイナス』
五幕三場)と 言 う。 シェイクスピア作品では人格が本に喩え られる。その本の著者がさらに権 威 を持つわけである。
劇評 ジャーナ リズムで論争さえあった。ルーベ ンスエ房のよ うなシェイクスピアエ房があつ て共 同制作で演劇 を作 つた とは思 えないものの,シ ェイ クスピアが次 に述べ るような意味で
「現場の人」であった ことは確かだ。
考古学では中央 の大学 を出て独 自の理論 を持 った研究者ばか りではな く,発 掘の助手 を長 く やった人の中か らす ぐれた研究が出て,そ の人が著名な考古学者 になることもある。科学技術 探求の場で も中央の大学 を出た者だけがす ぐれた研究 をす るわけではない。技官や助手 といつ た現場 に密着 した存在か ら叩き上げてす ぐれた研究 をす ることも多い。だか らといって,あ ら ゆる権威が否定 されるわけではない。
ときに現場の発見が歴史 を書き換えることもある。その魅力に取 り付かれたのが,あ のイ ン チキ考古学者であった。 「神の手」 を持つ といわれた 「権威者」であつた。それは ともか く本 当に現場の人が歴史 を動か した例 の最たるものはウィリアム ・シェイクスピアであった といえ るか もしれない。特別な学問の研鑽 もな く,特 別な生まれがあるわけで もないのに歴史 を動か す ことが出来 るとなれば,成 功者に対す るやっかみ も強い。 シェイ クスピア=ベ ーコン説が絶
えな い理 由には,そ れ もある。
同 じ現 場 が歴史 を動かす にせ よ,ベ ー コ ンほ どの学識 が あ る人物 な ら許せて も,無 学か もし れ な いウ ィ リアム 0シ ェイ クス ピアでは我慢 がな らな い とい う大衆心理が ある。 けれ ど,そ う した嫉妬が絡む こととは別 に,シ ェイ クスピアの演劇 とベー コンの科学実験室では ヮー クシ ョッ プ の質 が違 う。
ベーコンには じまる近代哲学は 自然哲学 としてニュー トンを経て科学技術探究の学問にな り, その方法論が確立 した。現場の発見は厳密な方法で検証 され大発見な ら歴史 を動かす。その方 式 にまず狂 いはない。そ こに学歴差別 (欧米では博士号 を必須 とする資格審査はあるにせよ) はない。ゆえに,学 歴な どの階層秩序に対する現場 による革命は継続する。博士号さえあれば, 誰 もが世紀の発見 に挑める自由競争社会なのだ。
同 じことがシェイ クスピアについて も言える。基本的にはオ ックスフォー ドかケンブ リッジ かの大学 を出た才人が机上で執筆 した台本を劇団が買い切って興行に持ち込むのが常であった。
しか しシェイクスピアだけは劇団側の人間 として常に現場 にいて,現 場感覚で台本を作成 して いた ことは確かである。 『お気 に召す まま』な どはイヴェン トとしての レス リング,放 逐 され た公爵 とその家来たちが森の中で車座になって歌 う歌な ど,場 面展開の興行的ア トラクシ ョン があって,複 数のカ ップルが成立する祝婚の大団円への盛 り上げ を主眼に構成 された ものであ る。その過程で肝腎のヒーローの存在が希薄 になるな ど,通 例の演劇構成では考え られないこ とが起 きている。
『お気 に召す まま』は 『十二夜』 と並ぶ シェイ クスピアの初期の喜劇の傑作で,作 者の目が 隅々まで届 いていない ということはあ りえない。 しか し,『タイタス ・アン ドロニカス』 につ いて, この作品は成立 自体 「現場 に振 り回されて成立 した」可能性がある。第一幕だけピール の 「文体」である ことが証明された。第一幕の 「文体」が違 うという議論が従来か らあった。
構造上は第一幕 もその他の部分 も整合するのに,第 一幕だけ 「文体」がシェイクスピアの先輩 作家であるジ ョージ ・ピールの作品のようだ というのである。 この ことは,英 語 を母語 とする シェイ クスピア研究者たちの感覚だけではな く,コ ンピュータで裏付け られる (この点 につい ては後述す る)点 もあった。 『お気 に召す まま』 は,「振 り回された」か どうかは ともか く,
「現場か ら生れた作品」である ことは先述の通 りである。
同時にこのことはコンピュータという道具が 「ワークシ ョップ」の本質 と関わることを示す。
コンピュータを使った研究は書物のような 目的,方 法論,著 者の権威 とは無縁のところで研究 が出来 る。 シェイクスピア時代の 卜書きを全部調べた結果第一幕だけピールの 「文体」である ことが証明された。 コンピュータソフ トで 卜書きばか り調べるというのは研究者の直観以外の 何物で もな く,全 く自由な 「ワークシ ョップ」的発想 と言える。
また 『タイタス ・アン ドロニカス』 は,主 人公の悩みを現す台詞 に 「私は海だ」 (I am the
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s e a ) ( 三幕一場)と いうのがあって,そ れは独特の発展 をする。つま りのっぴきな らぬ悩みの 表現 として 「海」があることである。
以下は全体 として 『タイタス ・アン ドロニカス』がシェイクスピアのものであることが間違 いないことを示す と同時に, この作品でヒーローが悩む とき 「海」 を口にすれば効果があつた ことに味をしめて,シ ェイクスピアが何度 もその手 を使 うという,例 えて言えば漫才の即興芸 での 「おは このネタ」 のような感覚があることも示 して くれる。
ハム レッ トの 「生か死か ( このままでいるか,い ないか),そ れが問題だ」で始 まる有名な 独 自の 「武器 を とって海 のよ うな災厄 と戦 うか」 ( t a k e a r m s a g a i n s t a s e a o f t r o u b l e s )
という表現や,『 リア王』 中の台詞 「熊 を避 けて逃げた ら猛 り狂 う海があれば, ま だ熊 に食わ れ るのが ま しか もしれぬ」 (Thou'ldSt shun a bear;/But if thy flight lay toward the r a g i n g s e a , / T h o u ' l d S t m e e t t h e b e a r r t h e m o u t h e ) ( 三幕三場)への発展 ということであ る。
ベー コ ンのエ ッセイ に海が 出て くる と,そ れ は戦略 と結びつ く。 ア ン トニーが敗北 したアク チ ュウム の海戦が語 られ, ア メ リカは海 の向 こうで発見 され た ことで あ り, 国 家 を論 じ, 戦 略 を語 る ときに海 が登場す る。イギ リスが海洋立 国で あ り, 国 家 として の行 く末 は海 にあ った。
「あいつ らを俺 の東 と西 のイ ン ド会社 に して両方 を取 引す る」 ( t h e y s h a l l b e m y E a s t a n d W e s t / 1 n d i e s , a n d l w i l l t r a d e t o t h e m b o t h ) ( 『ウインザーの陽気な女房たち』一 幕三場)というのは二人の女性 を手玉にとるつ も りのフォールスタッフの台詞である。 シェイ クスピアもべ∵コンと同じく海洋立国イギ リスの国際政治経済が頭 にあった ことは確かだ。 し か し,そ の関心は愛欲である。
「政治経済 の人」ベー コンと, 「愛欲 と文学の人」 シェイ クスピアが ワー クシ ョップ とい う
「統一的な権威がない ことによる解放感」 とどう関わるかが問題なのだ。
シェイ クスピア と同時代の 「大学出の才人」 と呼ばれた作家たち との違 いもそ こにある。つ ま り作者 と現場 との距離が問題なのだ。大学出の才人の場合は, そ の 「文学」への個人 として の態度が現場 と関わ りな く確立 していて,最 終的に興行段階で現場 との調整が必要にな り妥協 す ることもあるか もしれない。 しか し, あ くまで現場か ら独立 した別個 の存在である。 という ことは現場 という 「統一的な権威がないことによる解放感」 とは遠 く, イ ギ リス という国家 を 支配す る 「統一的な権威」であるヘブライ ・ヘ レニズム文化 と一人書斎で向き合いなが らの作 業 ということになる。
こうした現場 と個人の問題は演劇だけでな く考古学や科学技術探求 の場で も起 る し,別 の
「文学」 の現場 について も起 る。
演劇 をや るのに資格は要 らない。一見 自由競争社会 に見 えて, 不 思議な ことに, そ の成果が 演劇 ワークシ ョップを拘束す る面がある。た とえばハム レッ トがつ とまる名シェイクスピア役
者 として,ギ ルグ ッ ドやオ リビエの名が浮かぶ。湖れば十九世紀のアーヴィング,十 八世紀の ギ ャリック,シ ェイクスピアと同時代のバニベ ッジもシェイクスピア演劇の伝統 に連なる。た だ し,シ ェイクスピア時代にはケンプやアー ミンといった喜劇役者は尊重 され,当 時の評価で は,尊 重 というよ り尊敬に近いほどであった とも推定 される。ハム レッ トと並んで,フ ォール スタ ッフがつ とまる役者 も尊重 される。二十世紀で もシェイクスピアを離れると,チ ャップ リ ンや ロー ワン ,ア トキンソン (ミスター ・ビーン役で一世を風靡)は 後世に名を残すであろう。
その尊重 され具合は,喜 劇役者尊重のアングロ ・サ クソン的伝統 をまざまざと見せる。
これ らの名優たちが世に出る当初の環境は,そ れぞれ現場の人が資格の要 らないワークショッ プで努力 し,や がて一世を風靡する自由競争社会であ り,現 場 による革命であったか もしれな い。けれ どそれが名優 として伝統 を成す とき,そ れを継続 した革命 と呼べるだろうか。 この点 がシェイ クスピアとベーコンのワークシ ョップの違 いである。
イギ リス中流階級 の 「ヘブライ ・ヘ レニズム文化」 による支配があって,「文化の内容」 に ついては,明 らかに衝突 し,革 命 を起 こす面がベーコンの 「近代哲学」 にあった ことを否定で きないと先述 した。 またイギ リスの庶民には 「ヘブライ ・ヘ レニズム文化」では捉えきれない, 人間臭 く,エ ネルギーに満ちた文化があるとも述べた。
ベーコンの 「近代哲学」はニ ュー トンを経て科学技術革命を起 こし続ける。技術革新 によっ てアメリカは発展を続ける。一方,演 劇のワークシ ョップは,そ うした事柄 とは微妙に違って, 常 に変わ らぬ 「ヘブライ ・ヘ レニズム文化」 と,人 間臭 く,エ ネルギーに満ちた文化を足 し合 わせたアングロ ・サ クソン文化の伝統 に吸収 されて しまう面がある。演劇 ワークシ ョップは, 革命 の継続 というよ り,伝 統が伝統 を維持するための リクルー ト 0シ ステムに過ぎないか もし れないのだ。
ベーコンは,あ くまで 「ヘブライ ・ヘ レニズム文化」圧力への反抗,革 命 として独 自の美意 識 を打ち出 した。科学技術開発 と深 く結びついたベーコンの美意識は,む しろず っと後のアメ
リカの藝術 に近いものか もしれないと思 う。
これ に対 し,演 劇人であるシェイクスピアは 「美」や 「愛」 に興味があった。ベーコンもこ れ らに興味があって も 「美」や 「愛」 に 「狂 うほど」 の関心ではなかった。 シェイクスピアは 美少年 を女性役 として舞台 に登場 させ,微 妙な心理状況を表現 させ, ときに 「狂 うほどの美」
を実現 して喝采 を浴びよ うとす る。 どんな形にしろ 「美」が一つの秩序感覚である以上,シ ェ イ クスピア時代の初期 には 「革命的」であったか もしれない美意識が,伝 統の積み上げ によっ て,一 つの 「拘束」 になるのは仕方がない。 また当初か ら観客 にも美 しいと感 じるものを舞台 上に実現す るには, どうして もその時代の美意識のルール を踏襲 しないではい られない保守性 がある。
以上 を踏 まえて米国 シェイ クスピア研究博士論文 をながめる と,「アメ リカのワークシ ョッ
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プか ら生まれた」 と感 じさせ られる研究論文は多い。その中でベー コンのワークシ ョップか ら 派生 した として見れば頷けて も,シ ェイ クスピアのワークシ ョップの延長 としては首 を傾げざ るを得ないものも多い。
Gallows humbrを シェイ クスピアの作品について追及す る,文 字 どお り処刑 について考察 す るものがある。赦 しも含め政治的 というよ り宗教的な面 もある論考劉である。カ トリックの イメージがあるかないか も論 じるので,チ ャールズー世処刑を強 く連想させ られる。枠にとら われない考察がボーダー レスのアメ リカの特徴 を表す。ただ し,シ ェイ クスピアの演劇か ら処 刑ばか りを集めるのは演劇構造の解体である。む しろ大法官ベー コンのエッセイな ら処刑に関 心 を集 中す ることもあ り得 るし,事 実処刑 を前面 に出さず とも 「裁判官 の職権 について」 とい
うベーコンのエ ッセイは これ に当たると思 う。
ベー コンの このエ ッセイではカ トリックヘの強 い反感が示 される。 「裁判官たるもの,ロ ー マ ・カ トリック教会が勝手 に聖書 をね じまげるように法をね じまげてはな らない」 といった調 子でエ ッセイは始 まる。西欧全体へのカ トリックの精神的支配か らイギ リスが脱 しようとす る 心意気が感 じられ る。ただ し,ヨ ー ロッパ大陸のシステムが厳密 に体系だつた法であることに 比べ,英 米法の慣習法や経験論的解釈が複雑 に入 り組む有様はまた独特のものであって,必 ず しもベー コンの言 い方が正 しい とも言 い切れない。 「裁判官たるもの,イ ギ リス人が勝手 に法 をね じまげ るようにね じまげず,聖 書 と同じ価値 を持つカ トリック教会の神学のように厳密で 体系だつた法解釈 を行わねばな らない」 と大陸の同時代の法曹界の誰かな ら反論 したか もしれ ない。問題はカ トリックが支配 した大陸 とイギ リス とどち らが正 しいかではな く,強 力な権威 にすがるのか,権 威か ら脱 しようとするのか ということだ と思 う。
イギ リスは 「馬の地獄,召 使の牢獄,女 性の天国」 と言われ る傭兵の祖国であつた。法体系 を弄ぶ 「貴族 ・僧侶の天国」ではなかった。 この ことは 「(g)ホモセ クシュアル に関わるもの」
の項で詳述す るとして,「馬の地獄」 について言えば馬術の観点でシェイクスピア作品解析す るもの22も,そ れだけな ら英国の伝統研究 になる。 しか し,そ の背景にカウボーイ文化の視点 があることを考 えると,む しろ枠 にとらわれない米国的考察の領域 になる。ただ しカウボーイ とシェイ クスピアを結びつけることは,少 な くとも英国中流階級 の文化の視点か らは疑間を感 じないではい られない。そ こに反逆 しアメ リカを夢見たベーコンな らまだ しも頷 ける。
つま リアングロサ クソン民族はシェイクスピア時代頃か ら 「海 に乗 り出す荒 くれ男」 のワー クシ ョップを,全 世界相手 に繰 り広げた といえば いいか もしれない。 「海 に乗 り出す」方向は, やがて西部開拓のフロンテ ィア ・スピ リッ トにな り,シ ェイ クスピア作品の背景 にある,ベ ー
21. Spencer, Janet Marie, The politics of mixed-genre drama : the cornic treatment of punishment spectacles in Shahespeara (1990). 930.281 lShllSpen
22 Nelson, Barbara (Barney), Shahespeare's use of horsemanship language, (1991). 930.28llShllNel
コンによる 「密かな文化革命」 の精神 を受け継 ぐともいえる。
しか し,同 じく東西イ ン ド会社 による貿易で儲 けようとする欲望 とフォールスタ ッフの愛欲 を重ね合わせるシェイクスピアの 「海」 と,カ ウボーイの開拓精神は,直 接は結びつかない。
以下 に挙げ る 「アメ リカ流 自由研究」のような論文は,英 国中流階級の文化 を様々な視点か ら 解体す るもので,英 国本国のシェイ クスピア的伝統 に反逆 し,ベ ーコンによる 「密かな文化革 命」 の伝統 にな ら合致 しないで もないといった ものである。
モ ラル,罪 ,性 な どに関わ るエ ンブ レムをロマ ンス劇か ら集めて論考す るもの器がある。 ロ マ ンス劇 をエンブ レムで読み解 くのは西 ヨー ロッパの伝統にたつものなが ら,モ ラル,罪 ,性 な どに関わるものを集める点 に米国流 自由研究の趣きがある。ハム レッ トの内面の問題 (オエ デ ィップス 0コ ンプ レックス,デ ィレイな ど)を , どこか犯罪心理学のように考察す るもの2
も同様である。
この人間の内面 と外面の問題がアメリカでは深刻な問題になる。たとえ旧世界の住人で も, モ ラル,罪 ,性 な どに関わるとき,人 間の内面 と外面の関係について考察せぎるを得ない。け れ ど,旧 世界の場合は,西 欧であれば教会 と国家がある程度の道筋をつける。国家が主 として 人間の外面的な部分 を規定 し,教 会が内面を指導す る。アメリカはまず 旧世界の西欧国家群の 支配 を逃れて新天地 を開拓 し,「アメ リカ」 という国家は,必 ず しも人間の外面 を規制す るこ とを目的 としたものではない。 また,キ リス ト教 ということでは西欧旧世界 もアメリカもほぼ 同 じ信仰を持つ。 しか し,内 面をローマ 0カ トリックが千年以上支配 した結果のような強い規 制力がアメ リカで も働 くであろうか。
神の遍在はカ トリックが古来説 くところで西欧人は幼少よ り叩き込 まれる考え方だ。 しか し, 人間の内面 にも外面 にも存在す る神 と,そ うした神への祈 りは,実 際に悩みをかかえる個人の 救済 について考 えると西欧旧世界 とアメ リカでは違 った様相 になる。
食物で作品を解析 し,タ イモ ンは拒食症であるとし,『冬物語』の人間関係を 『ソネ ッ ト集』
の食物の比喩で表された支配構造のように解析 し,ヘ ンリー四世をめぐる父子関係も 『じゃじゃ 馬馴 らし』 も食物 と支配関係で読み解 ける とす る論考%は実践的な臨床心理学か心身症治療 と 文学論の結合 になる。
つま リアメリカのシェイクスピア研究は,心 身症治療 といった現代人の悩みを直接 シェイク スピアにぶつける傾向がある。 これ を一笑に付す ことは旧世界の住人がす ることである。 アメ
23 Cho, Kwang Soon, A 24 Russell, John Joseph,
theory to Shahespearean 25 Janes, Nanette Hazel
Workes of Shakespeare,
study of emblems in Shakespeare's last plays, (1990). gSzllshllCho Hamlet and lt{arcissus : on the releuance of contempora,ry psychoanalytic
tragedy, (1991). g32llshllHa--Rus
Nurturing Process and the Creation and Stabilization of Self in Selected (1995). MFil189il34
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リカ人 の心 の悩 み解決方法 として様 々 に論 じられ る。それ をま とめれば ( 1 ) 祈 り ( 2 ) 自 分 との和解 ( 3 ) 内 面 と外面 のつなが りを意識す る ことではなか ろ うか。
葬式 とは限 らず,死 を嘆 く場面 をシェイクスピアの作品か ら集め,感 情中心の分析 を行 う論 考別がある。学部卒論 レベルな らどこの国でもあ りそ うな研究方法なが ら,そ れで学位が取れ るところが米国な らではではなか らろうか。
おそ らく身近な人の死があつて,そ の悲 しみを乗 り越えるためにシェイクスピア研究論文 を 書 くということがアメ リカでは認め られ るのだ と思 う。 旧世界では どれか一つに作品を絞 らず に死 を嘆 く場面ばか り集めることは,あ まり共感 を呼ばないと思 う。 旧世界では身近な人の死 を嘆 く悲 しみを乗 り越えるために,祈 るにして も,祈 り方は宗派 によって決 まうている。嘆 く 自分 自身 との和解 といつて も,内 面は教会の指導の下 にあ り,外 面は国家が管理 して久 しい。
内面 と外面のつなが りでいえば,確 かにローマ ・カ トリックも英国教会 も超越神 を信 じる。 け れ ど,そ れがいつのまにか ローマ教皇やカンタベ リー大僧正 もしくは英国王が頂点 に立つ組織 が支える神 にす りかわることは否めない。
その組織か ら脱 したアメ リカでは神が超越神であるというよ り,超 越す るものであって初め て信仰の対象になる傾向もある。いわゆる トランセ ンデ ンタ リズムである。非在存在 (そこに はない虚 のイメージ)を シ ドニー,シ ェイクスピア,エ ミリー ・デ ィキ ンソンな どを材料 に, 読者,作 者,愛 しあ う二人の関係 を主 に考察す るもの"は
屈折 した トランセ ンデ ンタ リズム を 思わせ る。
内面 も外面 も固定 した規制がないことは,国 家や教会の枠 を超 える思考習慣ばか りか,哲 学 のボーダ早 レス化 も促す。 ラカンやベーコン,ロ ック,ア リス トテ レスな ど交えたバ ロック藝 術論で,ダ ンの詩や 『嵐』 もバ ロックで括 るところに意味があると考 え られ る論考囲は,人 生 哲学のボーダー レス化 といつた観 を抱かせ る。
これはアメ リカの反映であると同時に,シ ェイクスピア自身,ロ ーマ ・カ トリックの支配 を 脱 し,、 ブライ ・ヘ レニズム文化 の拘束か らも自由になる精神的環境の中で,常 に自分 とは何 かを問い続ける作品を生み出 した解説になると思 う。 シェイクスピアは 自分を問うという形で, 当時の国家 を問い,教 会の精神的支配 を問う思考 をしていた ともいえる。
シェイ クスピアの 『ソネ ッ ト集』 のテキス トが,必 ず しも著者,"I"で 語 られる主人公の詩 人が一致 したオーサー シップの概念で とらえ られないことを論 じることで詩論 を展開す る。そ
26 Kazaian, Albert I., Shahespeare's representations of mourning in seuen plays, (1990). 930, 281 lshl lKaz
27 Martin, Maggie, The Transcendental Element in the Absent Presence, (1995). MFll189ll46 28 Bornhofen, Patricia Lynn, Cosmography and Chaography: Baroque to Neobaroque A study in
Poetics and Cultural Logic, (1995\. MFll189ll16
れ を他のルネ ッサ ンスのソネ ッ ト (ペトラルカ, ドレイ トンな ど)に も適用す る論文29がぁる。
「礼儀正 しさ」 を観点 に,貴 族である ことと,紳 士の概念のずれな どを歴史的に考察 し,
「礼儀正 しさを説 く文献」 を手がか りに,ハ ル王子の成長や 『十二夜』 を読み解 く,イ ギ リス 的 自己知論や成長論 を,大 陸的カ トリシズム背景の考察 に置 き換 えたよ うな議論 をす る論文30 がある。 『ペ リクリーズ』 をめ ぐるオーサーシップ,作 品の評価な ど,様 々な問題 を, 19世 紀, 20世 紀 に絞 って著名な英文学者,批 評家の意見 を中心 に,ま とめた もの制がある。英国 人にとって内面 も外面 も規制 され るマナーを,マ ナーに規制されないアメリカ人が論評するこ とで,個 人 と国家,個 人 と広 い領域 を支配する教会の関係 を追及 した ものともいえる。
『ル ク リース』 『タイタス ・アン ドロニカス』 だけでな く,シ ェイクスピアの詩的表現 の根 幹 に 「強姦」(レイプ)があつて,「略奪愛」 (ラヴィッシュメン ト)と 女性の同意 を無視 し女性 を家父長の財産 とみなす法体系では同一視 され,『オセ ロ』や 『マクベス』 (ダンカン王殺 しが, まるでタルキ ンがル クリース を強姦 したように描かれる)に までそ うした考察対象が広がると す る論考認
がある。男性 の性欲はその都度充足す るのに女性の性欲は悪魔でさえ満足 させ られ ないので女性 を魔女 とみなす取 り扱いが出て くる, といった観点か ら,シ ェイクスピアの初期 のコメデ ィを分析。祭 りで終わるのは男性の性欲充足を隠 しているといった鋭い指摘 をする論 文33もある。
こうした男女の性欲,特 にレイプ くらいアメ リカ人が悩みの解決法 として持ち出す 「自分 と の和解」 に密接 に関わるものはない。古来西欧キ リス ト教が原罪 として根源的な問題にしてき た ことではある。 けれ ど,ロ ーマ ・カ トリックやイギ リス国教会 といった組織か ら離れ,ア メ リカの広大な 自然の中で超越的な存在 と対峙 し,同 時に世界を相手にテクノロジーを武器 に市 場経済 を制 し,軍 事大国 として君臨する国の個人の悩みとしてみれば,ス ケール と迫力が増す。
原作以上の迫力を付与す る点がアメ リカのシェイ クスピア研究 にあるともいえる。
これ らはすべてシェイクスピアの作品ではな くベーコンのエ ッセイ と結びつけて論 じた方が よ り説得力を持つ と私 には思われる。つま り着想が部分的にす く゛
れていて も収飲する旧世界文 学 としての価値基準がないので悪 く言えば 「シェィクスピアをめ ぐる思いつきの羅列」 になる。
それな らシェイクスピア的伝統 という英国中流階級の基準 に反逆する革命性 をベーコンか ら得
29 Cusk, Sarah, Scattered Readers, Scattered Rhyrnes: Authorship, Publication and the Renaissance Lyric Sequence, (1997).MFll194l16
30 McCarney, Margaret R, Renaissance Courtesy Theory and Deuelopment of English Dranna, (1995).MFil189il81
31 Skeele, David Bradley, "Thwarting the Wayward Seas": A Critical and Theatrical History of Shahespeare's Pericles in the Nineteenth and Twentieth Centuries, (1995).MFll189ll83
32 Faherty, T. J., Shahespeare's Poetics of Rauishmen, (1995).MFll189ll60
33 Handelsman, Hilary, Death and Disire/power and Eros in Shahespeare's Comedies, (1995).MFll189l
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