洋務運動時期 における中国近代技術産業 の導入 と発展 の研究 ( ‑)
田 育 誠
目 次 はじめに
‑.洋務運動 と中国近代産業革命 二.軍事産業 と機械産業
≡.鉄鋼産業
四.造船産業 と海運産業 五.鉱山産業
六.紡織産業 七.鉄道技術産業 A.電気産業 と電信産業 九.軽工業技術産業 十.民用産業 十一.民族産業
十二.中国の工業化初期の産業技術者労働者 結 び
は じめに
中国清末の洋務運動 (1861年‑1895年)は清朝政府主導で,西洋 を学び近 代化 に向かって歩 きは じめた運動である。その主要な内容 は,西洋近代技術 を謙虚 に学び,大量 に西洋技術書 を翻訳 し,誠意 を持 って西洋技術者 を招い た,様式工場 を積極的に導入 ・展 開させたの産業革命である。
387
それは中国産業近代化 の到来 を促進 させ ただけではな く,その うえ東洋産 業近代化 に大 きな影響 を及ぼ した。中国産業の近代化 と日本産業の近代化 と は共通点が多い。洋務運動 の後期,中国は 日本 の近代軽工業 も導入 した。
この論文 は近代技術史の学術 的価値 を備 えているだけではな く,それに現 在 中華産業経済圏及 び東洋産業発展の参考 となるであろう。そのために筆者 はここに論述す るのである。ある産業 を十分 に論述比較す るために
,1 8 9 5
年 か ら1 9 1
1年 までの出来事 に も触 れ, 日中両国近代鉄鋼産業発展 な ども比較 を 試みた。拙 い本文が長 さにわた りま したので,数回に分 けて発展す る ものである。
‑.洋務運動 と中国近代産業革命
1.洋務運動 と中国近代産業
日本 では,一八六〇年代 の後半 に明治維新が始 まるが,ほぼ同 じ時期 に, 1) 中国で も 「洋務運動」 と呼ばれる 「近代化」 の時期 を迎 えたのである。
洋務運動 とは,一八六一年か ら一八九五 まで三十五年間の中国近代 の歴史 である。学術界で通常 「洋務運動」期 とよばれている。ここでの 「洋務」は, 西洋諸国にならった さまざまな事業,改革 を包括す る意味 をもっている。洋
2) 務政策 に関係す る事務 の北京 における主管機 関は総理衛 門であった
。1 8 6 1
(成豊
1
1年)年清政府 は総理各 国事務衛 門 を設立 した。 この機 関は洋務事務 の処理 の中央機 関であ るので, この年 は洋務運動 の開始 の年 といわれてい る。この時期,清朝の上層支配 グループと地方官僚 グループの国内外政策 に比 較的大 きな変化が現 われ
,
「洋務 を輿耕す」 と称す る35
年 の熱 さ風潮が巻 き 起 こった。「洋務」 の内容 には,外 国 との交渉のほか,主 に鉄砲 ,大砲,軍 艦 ,戦艦 な ど武器 の購 入 と設置 ,近代企業 の移植 ,工場 や鉱 山の経営 ,秩3)
道 ・電信 の整備 ,科学技術書籍 の翻訳館 の設置 な どがある。洋務派の主要 リ 388 国際経営論集 No.23 2002
‑ダーは,西太后 と緊密 な関係があった恭親王突訴,文禅 ,曽国藩,李鴻章, 左宗某,劉坤一,沈藻禎,張之洞, と盛宣懐 な どの トップたちである。
洋務運動 と李鴻章 は深 く結 びついている。洋務派 は全体的にみる と上層部 には突訴,文祥等がお り,下層部 には李鴻章並 んで曽国藩,左宗某,張之洞 4) 等がいたが,李鴻章が洋務運動の中心 を担 ってお り,終始一貫 して携 わった。
いい換 えれば洋務運動の総師は李鴻章であった。
この西洋 を学ぶ運動 は後世への影響か ら見れば時間の推移 に伴 って,歴史 的な重要 さは 日毎 に増加 している。実 に洋務運動 とは,中国における近代化 への第一歩 と言 って も過言ではない。封建大帝国である清王朝 は,初めて西 洋の 「船堅砲利」 の技術 と産業 を認め,技術 と産業の側面か ら西洋が優位 で あることを初めて認めた。そ して西洋の技術 と産業 を利用 して,清王朝 は自 強の道 を図ろうとしたのである。
洋務運動 の熱気が中国中を駆 けめ ぐっているまさにその とき, ヨーロ ッパ の科学技術 ,す なわち新式織機か ら原動機 としての蒸気機 関,各種 の機械製 造機械 か ら新式的転炉や平炉 による鋼鉄精錬法,電信 ,汽船,機関車 な ど近 代 的交通通信手段 に至 る。科学技術 と技術産業が次々 と中国に伝入 した。時 期 を同 じくして,各地 に説書館 などの機 関が設立 され, ヨーロッパ近代科学 技術書が数多 く翻訳 出版 された。洋務運動期 が中国近代科学技術産業史上,
5) 重要な時期 となるのは, まさにこのことによる。
西洋近代技術 を導入す るために
,1 87 9
年1
1月か ら1 8 81
年9
月 まで,技術専 門家翻訳者 として徐建寅が駐 ドイツ大使館二等参事官名誉 で命令 を受 けて,ドイツ,フランス,イギ リスの軍事工場,機械工場,化学工場,炭鉱 ・鉱 山, 造船所三年かけて考察 し, また二隻の鉄製の軍艦 を購入の契約 した。20か月 あま りの滞在 の中,彼 は80余 の工場,科学技術研究機 関 と200項近い工芸設
6) 備 をも視察 した。そ して 『欧遊雑録』 を写 して,清政府 に提 出 した。
洋務運動 は大体二段 階 に分れ る
。1 861
年か ら1 871
年 まで第一段 階で,
「自 強」運動 を中心 に,西洋先進技術 を採用 して,近代軍事工場 を作 った。洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展 の研究 389
1871年か ら1895年 までが第二段階で
,
「求富」運動 を中心,主 な内容 は引 き続 き軍事工業 を発展 させ,同時に民間企業及び交通運輸事業 を興 し発展 さ せた。洋務運動 は中国が古い封建社会か ら資本主義近代化の方 に向かった最初で ある。洋務運動期 に,中国は三方面の新 しい成果が出ている。
(1) 近代軍用工業 を創立 している。全部で19個あ り,その中に江南製造局, 福州船政局,金陵製造局,天津機械局,湖北槍砲局 などの五つの企業の規模 が比較的大 きい。
(2) 近代民用工業鉱山業 を創立 している。全部で29個あ り,その中に炭鉱 が11個,各種の金属鉱が12個,鋼鉄工場2個,紡織工場が4個あ り,その中 に開平炭鉱,漠河金鉱,漠陽製鉄廠 ,上海織布局 と湖北官布局 などが比較的 規模の大 きい ものである。
(3) 近代運送事業 を創立 している。その中に二十膿あま り,五万 トン近い 汽船 を持 っている輪船招商局 を含んでいる。 もう敷設 している台湾鉄道及び 京奉鉄道の天津か ら山海関 まで全部で364キロメー トル も含 んでいる。全国 の主要の行政区の電報及び郵政業 を通達 している。上 に述べている新 しい成 果が中国早期近代化 に始めの土台 を築いた。
税関税 は大型洋務企業の主要な財源 になっている。1860年代 中期か ら続続 と創立 している江南製造局,福州船政局,天津機械局 などの大型近代軍用工 業は,洋務運動の重要企業である。見積 もりによって清政府 はこれ らの企業 を創立することに全部で四千万あま りの銀両 を投資 している。 この巨大 な資
7) 金は主 に税関税か ら来たのである。
中国近代産業は1840年 (清道光二十年)アヘ ン戟争以降やっと現われてき た,そ して中国で最初 に現われた近代企業は外国の資本で興 し,経営 された。
言い換 えれば,1840年か ら1860年 までは中国近代産業の発生期であ り,1861 年か ら1894年 までは中国近代産業の発展期であ り,1895年か ら1911年 までは
8) 中国近代産業の再発展期である。
390 国際経営論 集 No.23 2002
工場労働者数の増加。 中国近代 産業労働 者数 は
,1 870
年代 に約 1万名 ,1 88 0
年代 には約4
万5
千名,1 89 4
年 まで約1
0万名 になった。1 91
1年の統計 によると中国産業労働者総は
8 0
万一1 0 0
万人に増加 した。1 8 61
年か ら1 91
1年 までの半世紀 は中国近代技術産業革命期であ り,それは かな り複雑であったので緩慢で,艶難 に満ちた ものになった。 しか しそれは 当時及びそれ以降中国技術産業発展 に対 してはか り知れない影響 を及ぼ した ことは疑いない。洋務運動が今 日の中国の 「改革 ・開放」政策 に至 る過去一世紀有余の中国 の全構造的な 「受容 と自己変革 ・自己保存」の過程の原点 として とらえるこ とがで きるのである以上,洋務運動 と近代技術産業の研究は今 日において も その意義 を失 ってお らず,やは り積極的に行 なわれるべ きことであるといえ
9) よう。
2.
中国の近代産業革命産業革命 とは。手工業か ら工場製機械工業への転換のことを産業革命 とい う。世界で最初 に産業革命 を開始 したのはイギ リスであ り,それは一七七〇 年 ごろのことであった。革命 とい う表現か ら,飛躍的な変化 をイメージする か もしれないが,実際の産業革命 は,かな り長い時間をかけての緩慢 な成長 であった。中国の近代産業革命は,一八六一年の 「洋務興す」 と呼ばれる企 業の新設ブームに始 まり,洋務運動後一九一一年 ごろに完了 したとみ られる。
この時期の経済成長率は年数パーセ ン ト程度であった。 しか し経済成長だけ で変化の大 きさを測 ることはで きない。アメリカの経済史家 ロス トウは,産 業革命 とい う用語のかわ りに離陸 (テイク ・オフ) とい う言葉 を用いたが, 飛行機の離陸になぞ らえて説明するとわか りやすいか もしれない。飛行機が 離陸するとき,最初 はゆっ くりと上昇するに して も,離陸で きずに地上 を走 っているの ときは本質的に違 う。同様 に,産業革命 は,経済成長率が さして 高 くな くて も,質的に大 きな変化 なのである。それ まで道具 を用 いていた
洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 391
人々が,機械 を用いることによって人力 の限界 か ら解放 されたことは, まさ に革命 的な変化であった。
イギ リスの産業革命 は
,1 77 0
年 ごろに始 ま り1 8 3 0
年代 に完了 した。 イギ リ スの1 8 41
年の職業人 口でみ る と,木綿工業で37
万8
千人であるのに対 して, 毛織物工業では1 6
万7
千人。炭鉱業1
1万8
千人,製鉄業2
万9
千人であった。西欧の産業革命か らほぼ一世紀,中国の近代産業が始 まる。
日本 の近代産業革命 も西欧の産業革命か らほぼ一世紀, 日本 の近代産業が 始 まる。明治政府が, 日本 の西 欧先進諸 国へ の仲 間入 りのため にめ ざ した
「富国強兵」 は,経済基礎 となる産業 の導入 と振興 を前提 としていた。その ため明治政府 は,みずか らが リーダーシ ップをとり各方面 にわたる官営事業 を展 開す るとともに,欧米か ら近代 的な諸制度 を導入 し,民間産業育成 に努 めた。それ らが,あい まって, 日本 に近代 的な諸産業が生 まれ,機械化が急 ピッチで進 んでい く。 日本 の産業革命 は 日露戟争後の一九〇五年 ごろに完了 した とみ られる (石井寛治 「日本 の産業革命」朝 日新 聞社。)
中国の近代工業文明化の始 ま りは ヨーロッパ とちが っている。 ヨーロッパ
図1 イギリス産業革命期の製鉄所
(1770ごろに始 ま り1830年代 に完了 したイギ リスの産業革命 の核 は,1735年 ダー ビーが発 明 したコークス製鉄法 だった。) 392 国際経営論集 No.23 2002
の第一次工業革命 はまず紡織工業か らは じまった。工具機つ ま り紡織機の改 革 を起点 として,蒸気機の絶え間ない発展が導かれた。手工業 による小規模 生産か ら,機械化 された大規模生産に しだいに切 り替わった。それに紡織工 業の機械化 は石炭採掘業,治金業,造紙業,印刷業 などの部門の機械生産へ 移行 してい った。それ に商業 と貿易 の興 隆は運輸革命 を爆発 的 に進 めた。
1 807
年 アメ リカのフル トンは世界で始めての実用性 のある蒸気船 を発 明 し た。1 81 4
年イギ リスのステイヴンソンは世界で始めての実用性のある蒸気機 関車の発明に成功 した。1 8 25
年 イギ リスは世界で始めて鉄道 を敷設 した。蒸 気機関を応用 したことによって仝社会の生産力の巨大発展 を実現 した0中国の近代化 は軍事工業か らは じまった
。1 8 6 0
年代 に清政府の突訴 をは じ め とす る一部の洋務派官僚 は一つの軍事近代化 をめ ぐる 「自強」 とい うスロ ーガ ンを掲 げた。沢山の資本 を投入 し,西欧諸国の技術設備 と技師 を導入, 数多の近代軍事工場が建設 された。そ して中国の近代工業技術 はまず軍事工 業の中に出現 した。一切の洋務事業はすべて軍事工業 を中心 として建て られ た。例 えば石炭採掘業,鉱石採掘業,治金業,交通運輸業,紡織業,電気 ・ 電信業 などであった。それに翻訳館,武備学童,船政学童,工芸学童,留学 生 を西欧に派遣 し,技術産業 を学ばせて等全部 に着眼 し,近代的軍事施設 を 建設 した。その後次第に民間企業 を創 りは じめた。日本近代洋式工場諸相。
(∋紡績工場 日本の産業革命期 に,民間工場の うちで最 も大規模 であったの は,紡績工場である。 日露戦争後の時期 には三〇〇〇人か ら四〇〇〇人の職 工が働 く工場がい くつ も出現 していた。一八八三年七月に操業開始 した大阪 紡績株式会社の工場 は,一八八六年か ら自家発電 による電灯照明を導入 し労 働者 の昼夜交替製 を実現 した。 こうして,欧米か ら輸入 された電力 とい う新 技術 と,先進国では過去の もの とな りつつあった深夜業 などの過酷 な労働条 件 とが組み合わさって,国際競争力 をもつ高い生産性が実現 されたのである。
大阪紡績三軒家工場。イギ リス製の最新紡績機 を導入,水力全盛の当時,動
洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 393
図2 中国 ・武漢の漢陽製鉄廠 (洋務運動時期) i;r"弓j
力 に初めて蒸気 を利用 した。
②軍工場 は紡績工場 よ りも規模が大 きく,最大の呉海軍工廠 が二万人 もの 職工 を雇 っていた。軍工廠 は軍艦 ・小銃 ・火砲 (大砲) などの兵器 を生産す る国営の工場であ り,鉄鋼業や機械工業が未熟 な段階では,素材の鉄鋼や工 作機械 の製造 まで も行 なった。 しか し, こうした大工場 は,全 国の工場のな かではご く一部であ り,小規模 な工場や家内工業が数の上では圧倒 的に多か った。製糸工場 はおおむね小規模 で,養蚕地帯 に散在 していた。 また織物業 の大部分 は農家の副業 として営 まれていた。
日本の軍工場。軍直属の官営軍事工場。海運工廠 は一八六六年,幕府が設 けた横須賀製鉄所 と一八七一年 明治政府 が接収 した石川 島造船所 を基礎 と し,一九〇三年の海軍工廠条例 によ り神奈川県横須賀 と広 島県呉 の海軍工廠 などが整備 された。陸軍工廠 は一八七九年 に東京 と大阪 に設置 された砲兵工 廠 が一九二三年合併 し,陸軍造兵廠 となる。
③官営八幡製鉄所。鉄鋼 を国内で 自給することは,富国強兵 をめ ざす明治 国家 にとっての最 も重要 な課題 の一つであった。大島高任が中心 になって進
394 国際経営論集 No.23 2002
図 3 1300馬力の蒸気機関制作中の芝浦製鉄所 (1895年)
めていた南部藩の製鉄事業 を引 き継いで,明治政府 は一八七三年 に官営 の釜 石製鉄所 を設立 した。釜石製鉄所 はお雇 い外 国人の指導の もとに,近代 的な 高炉二基 を設置 した ものの失敗 に終わった。その後 田中長兵衛 とい う商人が この製鉄所 を借 り受け四八 回 もの試作 の末 に, ようや く一八八六年 に銑鉄 の 生産 に成功 し,翌年,政府か ら払 い下げを受 けた。 これは 日本 において近代 的な製鉄業が定着 した とい う意味では画期的なことではあったが,田中製鉄 所の生産規模 は,急速 に伸 びつつある国内需要 を満 たす には小 さす ぎた。
明治政府 は国営の製鉄所の建設 を意図 して,一八九二年 に製鉄事業調査委 員会 を設置 した。政府 は三井や岩崎 (三菱) にも製鉄事業 を興す よう呼びか けたが,三井や岩崎 は,巨額の資金 を投入する大事業 は危険が多す ぎる とみ て,進出を蹟跨 した。 ようや く一九〇一年 に, ドイツか ら設備 ・技術 を導入 して建設 された官営八幡製鉄所が操業開始の運 びにいたった。鉄鉱石 は国内 で採掘 される量では とて も足 りなかったので,中国の大治鉄 山か ら鉄鉱石 を 輸入す る長期契約 を結 んだ。
その後 も鉄鋼 の生産は,技術 的な困難 な どか ら,必ず しも順調 には進 まな
洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 395
図 4 呉海 軍 工廠
(1889年,兵器製造所 として出発 ,後 に軍艦 の建 造 を行 なうようになる。)
かったが,一九一〇年 ごろには一応生産が軌道 に乗 った。 このころには,氏 間資本のなかにも製鉄業 に乗 り出す ものが出て きた。
大治鉄鉱山と八幡製鉄所。中国湖北省 にある中国で も有数の鉄鉱山で,漢 冶洋公司 という中国企業が経営 していた。 日本の九州での八幡製鉄所の原料 基盤 として重要な位置 を占め,製鉄所の開業 も一八九九年の大治鉄鉱石一五 年継続買入契約の成立 に負 うところが大 きかった。一九〇四年以降, 日本政 府 は合計四五〇〇万円に達する借款供与 により大治鉄鉱山を独 占的に支配す る政策 を推 し進め,一九四四年 までの大治鉄鉱山給生産量の八割が 日本 に供 給 された。
大治鉄鉱山の鉄鉱石が漠陽港か ら上海港,そ して長崎港 まで連ばれ,貨物 船で上海港か ら長崎港 までわずか
2 6
時間と距離が近いので,特 に漠陽か ら水 路 と海路は長崎 までの距離は北海道か ら長崎 までよ り近いのである。④工場労働者数の増加。一八八六年工場労働者総数は
7
万4956
人であ り, その うち官営工場労働者 は1 5 . 7%
を占め,一九〇
〇年工場労働者総数 は4 2
万396 国際経営論集 No.23 2002
図5 官営八幡製鉄所
(建設 には ドイ ツ人技 師 を招 き,機械 も ドイツか らプラ ン トを輸入。 4年 の歳月 をかけ,当時 としては最新鋭の設備で1901年操業 を開始す る。総工 費1919万円で,年産9万 トンの一貫設備 だった。写真 は中央汽缶場 (ボイ ラー)0)
4 5 3 3
人であ り,その うち官営工場労働者 は8 . 5%
を占め,一九〇九年工場労 働者数 は8 0
万9 4 8 0
人であ り,その うち官営工場労働者 は1 4. 5%
を占めた。(日本歴史大系 より)。
二.軍事産業 と機械産業
アヘ ン戦争の失敗 は,清王朝が国家の最優先の課題 を軍事産業の発展 とし て契機 となった。洋務運動の指導的な地位 にあったのは曾国藩 と李鴻章であ るが,彼 らは兵器の製造 に際 し,伝統的な中国手工業 には限界があ り,機械 を製造する機械が不可欠であること,また外 国人技術者の招晴が必要である 洋務運動時期における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 397
ことをよく認識 していた。
まず曽国藩は安慶 に兵工廠 を設立 したい。昔時,曾国藩の幕中には各方面 の才能にひいでた人材が集 まっていて,数学者の李善蘭,張文虎,工学者の 華衛芳,徐寿,察国祥,張斯佳 らもその中にあったが, この立場 もかれ らの
10) 建策 によった ものだろう。
洋務派の先駆者である曾国藩が一八六二年 (同治元年)に,安徽省 の安慶 市で軍械所 (兵器整備工場) を設立 した。手工業の作業で蒸気機関を推進力 とした小 さな船 を試みに造 った。その結果は 「速度 と操縦,両方 ともにうま く行かず,その遣 り方 を得 た とは言 えない
。
」 (『曾文正公全集 ・奏稿』巻二 七,一〇頁) とい うことで,全面的に西洋の新式機械 を導入することを決意 した。その理由は,伝統的な中国手工業の技術 では 「機械 を製造する機械 を 作 る」 ことが出来なかったか らである。もう一人の洋務派の リーダーである李鴻章 は朝廷 に次の ような提言 をし た。「必ず外国か らその機械 の全部 を購入 し,外 国人職人 を同時 に招精 しな ければならない」
,
「外 国人の得意 な兵器 を製造す る技術 を身につけるには, 機械 を製造する機械 を捜 して買い求めることより大切 なことはない」 (『葦弁 洋務始末 ・同治朝』一一三頁)。1 8 6
4年1
月,李鴻章は蘇州洋砲局 を創立 した。つ まり,彼 はイギ リス人経 営 される蘇州機器製造工場 を購入 し,鉄砲,大砲 を製造 した。 これは中国最 初 に外国機器 を使 って,運営 された官営近代企業である。1 8 6 0
年代以降,外 国資本勢力 はすでに中国で次々 と数多 くの近代技術企業 を創設 した。特 に上海に創設 された機器 と船舶工場 は最 も多 く,1 8 65
年 まで に二十社余 りに達 し,上海に近代機器設備 と技術者 を引 き集めただけではな く,その うえ数多 くの技術労働者 を養成 した。同時に西洋科学技術知識の導 入 と伝達 に伴い,中国最初の技術者団を誕生 させた。それゆえに,江南製造ll) 局の創立 にあた り一定の生産技術条件 を満た した。
そ して同治四年 (一八六五年) に,李鴻章の提言で,アメリカ人が上海に 398 国際経営論集 No.23 2002
設けた 「旗記鉄廠」 を全部買収, この工場 を基盤 として,同治四年 (一八六 五年)に有名な江南製造局は上海虹口に創立 された
。1 8 6 7
年アジア最大の軍 辛,機械製造工場 となった。曽国藩の幕 中にいた技術者たちは,上海に工場 を建設することを曾国藩に 説
き
,外 国の事情 にあかるい客 間 を推薦 したが,曾 国藩 はその意見 をいれ12) て,工作機械 を購入するために客 間 をアメリカに派遣 した。
この江南製造局は,その経費 として上海の海関収入の二割があて られ,一 八七三年 (同治一二年) にいたる間に,二百八十八万余両 を費 して,江南製 造局の事業基礎 になったのは,上海にあったアメリカ人 トマス ・ハ ン ト経営 の造船所旗記鉄廠 ,及びイギ リス,アメリカか ら購入 した工作機械類,また すでに蘇州 にあった工場 などを結集 した ものであった。官営の軍事工場 とし て組織 させた。
江南製造局
( 1 8 6 5
年6
月成立)の前身は,上海市内の虹口にあ り,アメリ カ資本の 「旗記機器鉄廠」であった。局の敷地が狭かったため,アメリカか ら購入 した百台あま りの機器 を置 くことがで きなかったので,1 8 6 7
年夏,虹 口か ら上海城南高昌廟鋲 に移転 した。新 しい高昌廟江南製造局は1 8 9 1
年 まで に,併せて十三の工場 と一つの工程処 を有 し,当初約五ヘ クタールであった 面積が約二十七ヘ クタールまで拡が った。有 した機械設備 は六百六十二台, 蒸気動力機三百六十一台,蒸気炉三十一炉。高昌廟鎮 は大南門か ら直線 に して約三キロ。 ここと県城 ・租界 とのあいだ には幹線水路 も幹線陸路 もない し,建設 もされなかった。輸送はもっぱ ら黄 浦江の水運 によったのである。そ もそ も虹口か ら移転 した理由は,租界内で の軍需工場は危険であるとして外 国人の反対があったこと,地代 ・家賃が高 かったこと,租界の繁華街 に近 く労働者 との トラブルの発生 を心配 したこと, 敷地がせ まかったこと,などであ り,租界 ・都市 との隔絶 こそが江南製造局
13) が成長する条件 なのであった。
江南製造局 は一八九四年 まで約三十年間の発展 を経 て,機械製造,鋳鉄,
洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 399
輪船 (汽船),鉄砲 ,大砲,火薬,水雷,鋼鉄 な どの分工場 を持 ち,東 アジ アの最大規模の軍事工業 と機器製造工業の工場 となった。機械の数量 と職人 の数か らその規模の大 きさを窺 うことが出来 る (表 1)0
江南製造局は五つの特色があった。一つ 目は先 に武器,弾薬の製造, さら にのちに造船 を開始 した。二つ 目は技術者はほとんど外国人であった。三つ 目は翻訳館 を置いて,盛 んに西洋の技術書 を翻訳 出版 した。四つ 目は技術人 材 を養成のために,江南製造局 は附属 の (広方言館 (外 国語学童))機械学 堂 を設立 した。五つ 目は科学技術雑誌 『格致江編』定期出版 された。
江南製造局及び全国各近代企業新 しい西洋技術資料 を提供するために技術 書 を翻訳 しなければな らない。翻訳事業 は徐寿,華肴芳 らの中国科学技術 者の提案 によっては じまった
。1 8 6 8
年江南製造局 に翻訳館 を設置 した。製造 局はイギ リス人J
・フライヤー (英名FⅣe r ・ J
中国名侍蘭雅),イギ リス人A
・ワイリー (英名Wyl i e・A
中国名偉烈亜力),アメリカ人J
・マクガワン図 6 江南製造局高昌廟総局
400 国際経営論集 No.23 2∝)2
図7 江南製造局龍葦鎮分局
図8 江南製造局高昌廟総局
図9 黄浦
江より眺む江南製造局高
昌 廟 総 局洋務連動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 401
図10 江南製造局大門 (正面)
図11 江南製造局大砲製造工場内部
図12 江南製造局火薬製造工場
402 国際経営論集 No.23 2002
図13
清 代・諌允恭著 『江 南 製造局記 』
龍華公園と船廠路の一帯が 昔 の龍 華 鎮 分 局になる。
江 南 造 船廠 と製 造 局 路 の一 帯 が昔の高昌廟 総 局 に な る。
洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 403
(英名
Ma c go wa n・J
中国名璃高温), ア レン (英名Yo ungJ o hnAl l e n
中国名 林楽知), クライヤー (英名Ca r lT.Kr e ye r
中国名金槽 理) らを招 き,の ち に 日本 人藤 田豊八 を招 い た。 この江南製造局翻訳館 は西洋 人,東 洋人, 中国 人技術 翻訳 者が数十人数十年 間数多 く西洋諸 国の科学技術書 が漠約 され出版された。 この科学技術翻訳館 は成立 した時 中国 と東洋最大 であ った。
『江南 製造局記』 (光緒31年,1905年 ) は,製造局 での出版物 は178点 を挙
表1 上海江南製造局一覧表
年代 分廠名 機械数量 職人の人数
技工 一般労働 者 管理員 1867年 機器廠 86 300 19 8 1867年 木工廠 10 24 16 3 1867年 鋳鋼鉄廠 200 26 29 4
1867年 熟鉄廠 12 61 19 4
1867年 船廠 5 108 72 6
1867年 鍋炉廠 59 62 44 4
1867年 槍廠 209 407 8
1869年 抱廠 202 174 128 5 1874年 火薬廠 86 139
l l
6? 銅引廠 58 64 6 4
1875年 槍子廠(弾丸場) 296 242 234 12 1879年 砲弾廠 16 241 42 9 1881年 水雷廠 ? 74
1891年 煉鋼廠 123 158 107 10
404 国際経営論集 No.23 2002
げてい る。 その うち翻訳 とは思 われ ない もの
2 6
点 を差 し引 くと, 同治9
年( 1 8 7 0
年)か ら光緒3 1
年( 1 9 0 5
年) まで1 5 2
点が翻訳 されている。 イギ リス人 フライヤー( 1 8 3
9‑1 9 2 8
年) は,1 8 6 1
年2 2
歳 の とき香港 に きて,聖 ポウロ学 院で2
年 間教 えたのち,北京 同文館 の英語教習 に転 じ, さらに2
年後上海 に 移 って F上海新報』の編集 に携 わ り,イギ リス人 フライヤー( 1 8 3
9‑1 9 2 8
年) は,1 8 6 8
年か ら2 8
年 間,江南製造局翻訳館 に勤務 した。3 5
年 間の中国滞在 中, 最 も長 い期 間 を製造局 で過 ご し,1 41
点 とい う最 も多数 の科 学技術書 を翻訳した人物 となった。かれが手掛 けた最初 の訳書が 出た
1 8 7 0
年 か ら1 8 8 0
年 まで の間に,3
万部 の訳書が売 れた と述べ てい る。1 8 9 6
年 に, フライセ‑は5 7
歳 でアメ リカのカ リフォルニア大学 (バ ーク レー)の最初 の中国語 中国文学 の 教授 となった。江南製造局 出版 した科学技術書が 中国国内で広 め るだけではな く,東 アジ アと東南 アジアに も広 めてい った。 日本在駐 中国大使 であ った柳原前光 は上 海江南製造局 を訪問 しただけではな く,柳原大使 は 日本 の国内西洋科学技術 資料 を提供す るため,江南製造局翻訳館翻訳 された西洋科学技術書 F運規 目 指』
,
『製火薬 法』, F汽機発動
』,
『開媒 要法』, 『航 海簡法』,
『御風 要術 』等を購入 した。
日本 の 『征西戟記塙』 とい う書物がある。陸軍参謀本部 の編集。一八七七 午 (明治一〇年)の西南 の役 は新 たに成立 した明治政府 に とって大 きな試練 であった。 しか もその戦 闘はほぼ近代 的 な火器 に よって行 われたのであ る。
この西南 の役 の全貌 を記録 した もの と して この書 は有名 である。その巻二四 は弾薬消費 とい うテーマ となってい る。西南 の役最大 の激戦地であ った田原 坂で,政府軍 は弾薬三二万発 を消費 して,以後 の弾薬 の不足 が心配 され る状 況 となった。 そ こで次 の ような文があ る。 「後装銃弾薬 は砲 兵本廠 よ り購 求 して支那地方 よ り二百六十万発 ,凡 そ二週 間内 に長崎神戸へ。欧州 よ り五百 万発 ,凡 そ七旬 間に横 演へ抵 るべ し,此他大蔵省 よ り購 求せ しもの欧州 よ り 三百万発 ,凡 そ百 日間 に横 演 に抵 る と言ふ」。 明治政府 は全力 をあげて,令
洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展 の研究 405
方面か ら弾薬 を輸入 しようとしていたのだった。 この うち支那地方か ら二百 六十万発 とあるのが 日をひ く。 この注文先は どこであったか。恐 らく上海の
14) 江南製造局 もそのひとつであろう。
江南製造局で様式の黒色火薬の生産がは じまるのは,一八七四年 (同治一 三年)か らで,年産約八万ポ ン ド, また林明敦 (レミン トン)銃用の弾薬は 約五四万発 とある。一八七六年 になると,火薬 は一一.五万ポ ン ド, レミン トン銃薬 は一二一万発 に増加する。そのあと七七年 には七九万二千発,七八 年は七三万発 とほぼ一定 した生産量 をしめている。 しか しこの数量では, と て も日本側の要求 を満 しうるものではない。そこで上海あた りへ輸入 される 弾薬類 について も日本 は考慮 したらしい。事実 『征西戦記稿』は,イン ド駐 在のイギ リス軍の使用する弾薬 を 「購買する能はさかる」 とい う意見す らあ
ったことを述べている。
これ らの数字 を見た上では,弾薬売 り上げ高が一番多い一九〇〇年では
2 0
億両近 く。 この年,上海税関の収入は六十八万両余 り,弾薬売 り上げ高が上 海税関収入の三分の一 を占める。 もし蒸気船の建造 と修理の収入十万両余 りを加 えれば,一九〇〇年江南製造局商業性収入は三十万両余 りに達 し,上海 税関収入の五分の二以上 を占める。 これは江南製造局の生産品が流通界 に投 入 される比重はかな り大 きい とい うことを表わ している。
李鴻章が上海の江南製造局 を創立 したの翌年 (一八六六年) に,洋務派の メンバ ーである左宗某が福建省福州市付近の馬尾で福建船政局 を設立 した。
左宗某 は次の ように朝廷‑提言 した。造 った船は 「無事 (平和)の時には, 以て運輸のことなどを謀 り,そ して千里以外で も近庭 と同 じく商業運輸 をす れば,商店街 に百貨 を提供す ることが出来る‑,戦時では,以て兵隊の調道 にも使 われ,南方の軍隊を即座 に北方 に集め られる」
,
「まず各種類の機械 を 全部購置 して,西洋人職人 も同時に招聴する。 これ らの機械 を利用 して‑将 来は鉄砲,爆弾 は勿論,造幣,水利 などの民間 日常の応用の もの も次第に製 造す ることが出来 る」 (『船政奏議匪編』第‑集,一,三頁)。左宗某が狙 っ406 国際経営論集 No.23 2002
表
2
江南製造局兵器弾薬売価年代 銀数 (単位両) 年代 銀数 (単位両)
1 8 8 4
年4 60 6 00 0 0 0
両1 8 9 6
年7 51 1 92 1 2 4
両1 8 8 6
年77 8 67 0 0 0
両1 8 9 8
年2 60 6 13 1 1 2
両1 8 8 7
年5 21 2 40 0 0 0
両1 8 9 9
年7 31 8 37 9 3 4
両1 8 9 0
年63 6 88 1 2 1
両1 9 0 0
年1 9 18 4 38 8 5
4両1 8 9 1
年1 00 7 07 9 2 0
両1 9 0 1
年22 0 00 0 0 0
両1 8 9 2
年63 6 88 1 21
両1 9 0 3
年5 39 6 33 2 0 0
両1 8 9 3
年63 6 88 1 2 1
両1 9 0 4
年7 26 0 84 7 4 0
両1 8 9 4
年6 87 3 54 1 6 4
両1 9 0 5
年4 28 8 68 0 0 0
両た目的は李鴻章 と同 じである。二十世紀の初期 まで, この福建船政局 は,上 海の江南製造局 と並 び,設備が完壁 な近代 の軍事工業 と機械製造工業の工場 であった。
清朝政府が設立 した工場 は,開設時,大部分が洋務派の主唱 した兵器工場 である。工廠 の開設 は
1 8 6 0
年代初期 に始 ま り,曾国藩の安慶軍械所( 1 8 61
年) が最 も早い,ついで江南製造局( 1 8 6 5
年),金陵製造局( 1 8 6 5
年),福州船政 局( 1 8 6 6
年),天津機器局( 1 8 6 7
年),湖北槍砲廠( 1 8 9 0
年) など,比較的大 規模 な工場が開設 され, また全国各地 に も中小 の兵器工場が設立 された。官 営の兵器工場 はほ とん どが ヨーロ ッパの先進機器 を導入 してお り,その うち 少なか らぬ機器 は当時の技術水準か らみて もかな り先進的であった。先進機 器の導入 は中国の近代技術 の発展や各種人員の訓練養成 に とって,一定の作 用 を果 た したことは確 かであ り,一群の官営工場 は中国の近代技術産業史上,きわめて重要 な働 きを した とい うことがで きる。
洋務運動の三十年 間には,江南製造局 と福建船政局の ような軍事産業 を主
洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展 の研究
4 0 7
として設立された工場は 中国全国の各地方にも次々に設立された。そして 軍事産業と機械製造産業の近代技術も次第に全国に拡がっていった。これら の工場とその創設年代は表3の通りである。
図15 金陵(南京)製造局機械工場内部
図16 天津機器局
408 国際経営論集 No.23 2002
表3 洋務運動期間軍事工業概況表
局廠名称 設立年 所在地 叢話 創立者 規模
安慶軍械所 1861年 安慶 不 詳 両江総督 曽国藩 小型 上海洋砲局 1862年 上海 不 詳 江蘇巡撫李鴻章 小型 蘇州洋砲局 1863年 蘇州 不 詳 江蘇巡撫李鴻章 中型 江南製造局 1865年 上海 16981974 曽国藩李鴻章 大型 金陵製造局 1865年 南京 2430000 両江総督李鴻章 大型 福州船政局 1867年 福州 15422590 間断総督左宗菓 大型 天津機器局 1867年 天津 7792099 孟宗悪書歪宗 厚 大型 西安機器局 1869年 西安 不 詳 陳甘総督左宗菓 小型 福建機器局 (壬…673;) 福川 142655 開漸総督英桂 小型 蘭州機器局 1872年 蘭州 不 詳 挟甘総督左宗業 小型 広州機器局 1874年 広州 527320 両広総督瑞麟 中型 広州火薬局 1875年 広州 不 詳 両広総督劉坤‑ 小型 山東機器局 1875年 済南 834800 山東巡撫丁宝禎 中型 湖南機器局 1875年 長 沙 不 詳 湖南巡撫王文詔 小型 四川機器局 1877年 成都 1045870 四川総督丁宝禎 中型 書林機器局 1881年 書林 420000 太僕寺卿呉大激 中型 金陵火薬局 1881年 南京 不 詳 両江総督劉坤‑ 小型 漸江機器局 1883年 杭州 380000 漸江巡撫劉乗埠 小型 神機首機器局 1883年 北京 1000000 醇親王突課 中型 雲南機器局 1884年 昆 明 不 詳 雲貴総督琴硫英 小型 山西機器局 1884年 大原 不 詳 山西巡撫張之洞 小型 広東機器局 1885年 広州 不 詳 両広総督張之洞 小型 台湾機器局 1885年 台北 122466 台湾巡撫劉銘伝 小型 湖北槍砲廠 1890年 漠 陽 2100000 湖広総督張之洞 大型 奉天製造局 1894年前 盛京
新彊機器廠 1895後 新彊 江西銃弾廠 1898年 商昌 河南機器局 1899年 開封
孫硫某編 F中国近代工業史資料j第1輯 r洋務運動』第4冊1957年。祝慈寿著 F中国近代 工業
史
j第262頁‑263頁重慶出版社1989年。張国輝著 F洋務運動と中国近代企業j第24頁 中国社会科学出版社1979年。劉克祥主編F清代全史」第10巻r清代科技史1第333頁遼 寧 人民出版社1993年版。並木頼寿,井上裕正著F中華帝国の危機l中央公論社1997年初版.による。
洋務運動時期における中国近代技術産業の導入と発展の研究 409
図17 清末の主な官営近代技術企業と鉱山
/ムハ〉ヘー→/俣河
太原
。蘭州 市
三.鉄鋼産業
イギリスで, 1760年にスミトンは新しい逆送風の送風炉を発明して,鉄鋼 製錬技術は飛躍的に伸びました。 1783‑1784年技術師カートは石炭と酸素混 和して新しい製鉄技術を確立した。つまりこの新しい方法というのは銑鉄を 高温状態にして,熟鉄あるいは鋼にすることである。機器製造に使られる。 1790年イギリスワットが蒸気機関を応用して,鉄鋼製錬を開発した年である。 鉄鋼の生産量は年年上げて,鋼鉄の発展はイギリスを近代世界中で鋼鉄工業 発達国にして,そのう元イギリスは世界で初の機器大生産国になった。その 後,世界工業の中心的な国になった。
イギリス製鉄業における発明と改良は 18世紀中にそのほとんどが達成さ れていた。ナポレオン戦争 (1793‑1815年)は,銃砲製造鎖および錨製造な
410 国際経営論集 NO.23 2002
どの軍需品製造部 門でのイギ リスの製鉄業が大陸諸国の製鉄業 よ りも優れて いたことを明 らかに したのである。戦争終了後 しば らく不況がお とずれ,新 たな需要 として建築,橋梁,機械,運河ボー ト,ガス水道管,ガス灯 の柱 な どに鉄需要 を兄 いだ したけれ ども,その伸 びはたい した もの とはいえなかっ た。 イギ リスの製鉄業 に再 び活況 をもた らしたのは
,1 8 3 0
年代 と4 0
年代二度 にわたって有利 な投資先 を求めた 「鉄道熟」 といわれる鉄道建設 ブームの到 来であった。この大いなる鉄需要 にこたえる技術 的な発 明は
,1 8 5 0
年か ら1 8 7 0
年代 の間 に,パ ッセマ‑ (英),ジーメ ンス (狗),マル タン (仏) な どによって製鉄 技術 に飛躍的な進歩が もた らされた。ベ ッセマ‑製鋼法の開発 によ り鋼の大量生産が可能 とな り,構造材料 ある いは鉄道用 レール として鋼 は次第 に多 くの方面 に使用 されるようになった。
1 8 6 5
年 にはフランスのマル タンは平炉製鋼法 を発 明 した。それはベ ッセマ 一法 よりもす ぐれていた。 ドイツのジーメンス もマル タンと協力 したので こ の新 しい製鋼法 はジーメ ンス ・マルタン法 と呼ばれている,その後,大発展 する製鋼法の基礎が築かれたのであった。この ように して
1 8 7 0
年代 は製鋼法が急速 な進歩 を遂 げ,全世界 の鉄鋼業 に 大 きな影響 を及ぼ し,当時世界 の鋼生産量 はわずか7 0
万 トン程度であったの15) が
,1 9 0 0
年 には約2 0 0 0
万 トンにもなった。1 8 5 0
年 には, イギ リスの蒸気機 関は1 2 0
万馬力以上 に匹敵す るエネルギー を生産 してお り, これは ヨーロ ッパが生み出すエネルギーの半分強 に相当 し た。 イギ リスでは2 5 0
万 トンの鉄鉱石 を溶解 していたが, これ も ドイツの1 0
倍 だった 「世界の工場」 とい う異名 をとるイギ リスは,並外 れた経済成長の 時期 を迎 え世界で最 も裕福 な国 となった。実際,イギ リスの工業製品は世界 市場のほぼ半分 を占め,世界の総生産の約3
分 の 1に達 していた。洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 411
イギリス製鉄業銑鉄産出高 (千 トン) 1850年‑1854年 3398
1870年‑1874年 6378 1890年‑1894年 7285 1909年‑1913年 9616
清朝政府 は,造船,製砲 ,鉄道敷設 のために,外 国か ら鉄鋼 を購 入 した。
例 えば,1867年約8250トンの鋼 を輸入 し,1885年 には輸入量 は約
9
万 トンに 達 した。江南製造局 の著明な技術専 門家徐寿 は 「開煤錬鉄」,
「自設鉄所」 を提案,その内容 は中国国内の石炭 と鉄鉱石の資源 を充分 に利用す ることで き, 西洋の新 しい技術 を導入 して, 自国の鉄鋼製錬所 を創立 し,中国近代技術産
16)
業の発展 を促進 を可能 にす る ものである。 この戦略は美事上 を確 かに実現す ることとなった。
軍需工場が数多 く設立 され, また軍艦 ・汽船 をもつ ことが多 くなる と, ち っとも必要 になるのが鉄 と石炭である。中国には土法 による鉄 ・石炭の産出 はあるが,それは近代 的産業の需要 をみたす ことはで きないか ら,輸入 にた よらざるをえない。鉄 は主 としてイギ リスか ら,石炭 はイギ リス,オース ト ラリア,アメリカ, 日本 ,台湾か ら輸入 された。
中国で もっとも早 く近代 的な製鉄 を計画 したのは左宗菜である。彼 はジケ ルの建策 によって,鉄 ・石炭 をともに産す る地域 に製鉄所 を建設 し,福建船 政局の必要 とする鉄 を自給す るようにする計画であったが, これは実現 しな かった。これについて鉄 ・石炭の近代 的な採掘 を計画 したのは李鴻章である。
李鴻章 は リヒ トホ‑フェ ン
( Ri cht ho f e n,Yon)
が上海の外 国人商業会議所 の依 嘱 をうけて,中国の鉄 ・石炭資源 を調査 し終 ったころである。彼 は一八 七〇年のは じめ以来,ほ とん ど中国全土 を踏査 したのである。 こうした外 国 人の うごきに対処す るために も,中国 自身によって鉄 ・石炭 の近代的開発 を す る必要があったのである。一八七六年 (光緒二年)李鴻章 は招商局の総雛 唐 廷 梶 に命 じて 開平 を調 査 させ た。彼 は イ ギ リス の砿 山技 師 モ ー リス412 国際経営論集 No.23 2002
( Mor r i s )
とともに踏査 して,次の結論 に達 した。開平の北二〇中国里 にあ 17)る風 山の山麓 に鉄 ・石炭 ・石炭岩 を産 し,製鉄 に好適である。
近代の製鋼 ・製鉄技術 と産業 を最初 に導入 ・成立 したのは,一八八六年一 一八九〇年 に創立 された貴州の 「青硲鉄廠」であった。一八八六年 イギ リス か ら熔鉱炉 ・ベ ッセマー転炉 ・圧延機械 ・蒸汽機関などを全部購入 し, とり つけて,一八九〇年に操業 を開始 した。その 日産量 は銑鉄二五 トンで,ベ ッ セマー転炉二台,三十分間に鋼鉄‑ トンの産量であった。圧延機械 も十三台 あ り,熔鉱か ら圧延 までの中国における最初のコンビナー トであった。 しか し資金不足 と燃料の長途運輸 などの問題で,発足後 まもな く失敗 した。一八 八八年 に,天津機器局 にも製鉄の分工場の創設 を企 て,やは りイギ リスか ら 技術 を導入 し,一八九三年か ら操業 を始めた。
江南機器製造局総局 は
1 89 0
年,製鋼所 を設立 し,1 5
トンの酸性平炉1
基 を 建築 し,毎 日3
トンの鋼鉄 を生産 した。おそ らくこれが中国最初の製鋼平炉(反射炉)である。
1 89 3
年 には湖北 に漠陽鉄廠 が設立 された。1 8 66
年 (光緒十二年)清朝政府 『貿易総冊』掲載 された。各省の鋼鉄輸入 総額 は二百四十万余 (級)両で,鋼鉄輸出総額はわずか十一万八千 (銀)両 余で,輸入の二十分の一にも及ばなかった。張之洞は 「石炭採掘 と製鉄 こそが,確 に今 日急務であって,海外各国でこ のことを注 目しない国はなかった」と言 った。張之洞は製鉄所 を作 る理由は, 近代化企業増加 にともない鋼鉄の需要が増加 したことである。その うえ工業
は富国の基礎 と認識 したためである。「今 日国 を強 くするために,大砲,秩 砲,蒸気船,蒸気機関,列車,鉄道,電絶等,及び民間 日用工業,農業機械
18) 等 を製造するため,製鉄 を最優先 に した
。
」0製鉄所 における鉄鋼砂 と燃料 の需要 を解決するため,張之洞が ドイツ人技 師を大治県で調査するために派遣 した。大治の鉄鉱石は地面露出するほど豊 富 にあった。調査の結果 「毎年一万 トン採掘で きて,二千年後 まで採掘で き
洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 413
るだけの量があるだろう。」その うえ鉄鉱石の純鉄度が64%も含有 している。
彼 は順 に大治五三石炭鉱,道士状炭鉱,江夏馬鞍 山炭鉱 を開発す ることを 命令 した。 しか し石炭の質が よくないので,その後漠陽製鉄所所在地湖北省 の隣 りの湖南省 の洋郷炭鉱 を拡大 して石炭 を購入 した
。1 89 4
年6
月下旬 に漠 陽製鉄所の大規模 な製錬炉 を稼働 した。漠陽鉄廠,湖北省東部,漠水 と長江の合流点の南岸 にあ り,古 くか ら要衝 の地 とされた漠陽に,洋務派の張之洞が築造 した製鉄所。軍需用鋼鉄 を国内 で 自給す る目的で造 られた。漠陽鉄廠 は
1 00
トンの高炉二基 と8
トンの平炉 (酸性) 1
基 をもち,中国最初の近代 の高炉は1 89 4
年,生産 を開始 した。1 9 0 8
年2
月には,漠陽鉄廠 と大治鉄鉱( 1 8 9 0
年建設,中国最初の機械採掘 の露天鉄鉱所) と揮郷煤鉱が合併 して,
「漠冶洋煤鉄廠鉱公司」 を設立 した。か くして
1 00
トンの高炉2
基 と5 0
トンの平炉6
基 と圧延機4
基,横桟化 され た鉱山などを擁す る鋼鉄連合企業‑ コンビナー トが成立 した。張之洞の創立にかかる 「漠陽鉄廠」が洋務運動期 に創立 された工場のなか では最大規模 を誇 った。 イギ リスのメーカーに注文 されいた。銑鉄
1 00
トン を出す溶鉱炉二基,ほかに煉鉄炉,煉鋼炉 などである。そのほかの機器 は, 漠陽に設置 を決定 したのち, ドイツか ら輸入 した。イギ リスの分が銀四十万 両, ドイツの分 は一一六万両である。そ して ドイツ人,グス タフ ・トッペ を 首長 とする技師,工員団四一人が招かれて建設 を開始 した。さて,張之洞の購入 した製鉄設備が到着 して,一八九一年 (光緒十七年) 八月 より漠陽の線走地 に設置 しは じめ,十九年五月には製鉄 ・製鋼工場が完 成 し,その秋 には全工場の工事が完成 した。製鋼 はベ ッセマ (月塞麦),シ ーメンス (西門子)両法の製鋼設備 をもっていたのである。は じめて熔鉱炉 一基 を操業 (は じめたのは
,1 89 4
年 (光緒二十年)五年であ り,その銑鉄 を もって鋼鉄 を試錬 し,鋼材 を試作 した とい うか ら,つ ま り製鉄所が完成 した のは,一八九三年九月で,二年一〇か月を要 している。翌年の五月二五 日, 最初の火入れが行われ二十七 日に出銑 した。 この 日上海では新聞の号外 まで414 国際経営論 集 No.23 2CX)2
図18 現在の武漢製鉄所 (旧漢陽製鉄所)
(漠陽 ・漠陽製鉄所。長江 と湊水 に鉄 まれた地区である)
洋務運動時期 における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 415
図
1 9
貝塞麦炉( 1 8 5 9
年発明) 図2 0
平炉( 1 8 6 4
年発明)ベ ッセマ‑鉱炉
(漠陽製鉄所 は,同型錬綱炉 を導入 した。)
ガス釜 Sb 蜘
逆転弁
ジーメンス‑マル タン炉 (漠陽製鉄所 は,同型錬綱炉 を導入 した。)
出 され,アジア最初 の大製鉄所の完成 をたたえた。た しか にこの漠陽製鉄所 は,当時はアジア最大で, 日本 の八幡製鉄所 よ り八年 も前である。
漠陽製鉄所はアジアでは じめての鉱石生産,石炭生産,鉄鋼製錬 の大型連 合企業であった。漠陽製鉄所 は製鉄鉄分工場,製熟鉄分場,製具色麻 (ベ ッ セマ‑)鋼分場,製西 門士 (ジーメンス)鋼分場,製鋼軌 (レール)分工場, 造鉄器分工場 な ど六つの大分工場があ り, また機器分工場,鋳鉄分工場 など 八つの分場がある。鉄鋼製錬 は錬鉄炉二基,錬鋼炉
4
基があった。投産 した 約‑午,銑鉄生産量5660トン,製鋼量 は,具色麻鋼が940トン,馬丁鋼 (平 炉鋼)が450トン,鋼筋,鋼薄板が1700トンであ った。すで に世界一流の技 術 レベルにあった。冶金 の技術 レベルについては,漠陽鉄廠 は20世紀初頭,高炉4基 をもち, 古 い第 1と2号炉 は容積248m3,新 しい第3と4号炉 は容積477m3か らなる。
41 6
国際経営論集 No.23 2002高炉 4基はいずれ も外 国製であ り,性能は以下の表のごとくである。漠陽鉄 廠の高炉の性能は当時の世界水準か らみて もかな り進んでいる。
そのほか張之洞は漠陽製鉄所の人事,財務の決定権 を一手 に掌握 し,その うえ彼 は製鉄所の鉄鋼製品の販路 を拡大するために,張之洞は建設計画中の 産湊,奥漠 と川漠鉄道に需要な鉄鋼 を漠陽製鉄所で製錬することを皇帝 に奏 話 した。 この事 は張之洞が中国独 自の工業体系設立への第一歩 を踏み出 した
ことを示 している。 したがって漠陽製鉄所の創立は重要な意義があった。
張之洞 による漠陽製鉄所の創立の特徴 は二点ある。第‑,外 国の先進的な 設備 を導入 し,外国の技術専門家 を招 き入れた。1889年4月イギ リスか ら製 鉄所用の重要な設備 を導入 した。ボイラー,プロアなどを ドイツか ら購入 し た。張之洞は大胆 にも ドイツか ら製鉄所の総監督 と技師,炭鉱 と鉄鉱の地質 師,鉱師を招いた。第二, 自国の技術者 を養成。張之洞 は頻繁 に中国の技術 者 を外国に学ぶために派遣 し,さらに湖北で 自強学童,工業学童 を設立 した。
1902年 日本へ留学のため31人を派遣 した。その後91名の留学生 を米,独,仏, 露に派遣 した。
1896年張之洞は盛宣懐 を漠陽製鉄廠 の社長 として招 きいれた。生産拡大の ために,社長 として盛宣懐 は大治鉄鉱山,浄郷炭鉱,漠陽製鉄聯合併 を提言 して,1907年8月‑ 9月に 「漠冶薄給合会社」 を設立 した。1908年3月 「漠
表4 漢陽鉄廠高炉の性能
第1, 2号炉 第3, 4号炉 容積 240m3 477.5m3
高さ 18.125m 20.450m
送風口数 4 8
1日の生産量 夏90トン/冬100トン 夏230トン/冬250トン 熱風の温度 600^ 80oC 700℃
洋務運動時期における中国近代技術産業の導入 と発展の研究 417
冶洋総合会社」書類 を農工商部 に提出 した。盛宣懐 は社長 に政府か ら正式 に み とめ られた。本社 は漠口と上海両方置 き,販売点は漠口,武昌,大治,揮 郷,株州,昭山,長抄,岳州及 び上海,鎮江,江寧 (南京),蕪湖,九江等 の都市 に置かれている。漠冶洋総合会社興 した後,生産 と販売の両方は順調 であった。例 えば,1909年 に漠冶洋 は鉄製産量 は七万四千 トンを生産 し,そ の うち一万六千八百 トンを上海 と他都市 にはこぼれ,二万三千七百 トンを日 本 に輸出され,三千八百 トンをアメリカに輸出 していた。
漠陽製鉄廠 は商耕後,1908‑ 1910年の鉄生産量 は次の ように表 を見 ると鉄 の生産量 は毎年増 えている。
年代 産量 (トン) 1908年 66410 1909年 74405 1910年 119396
日本の八幡製鉄所 は,この漠陽製鉄廠 より少 し遅れて, 日清戦争後の明治 二十九年 (一八九六年) に建設 に着手 し,百六十 トン高炉二基,製鋼用二十 五 トン平炉四基 を中心 とす る工場 を建設 し,一九〇一年 (明治三十四年)二 月第‑熔鉱炉 に点火 した。しか し,雷初 は技術未熟のため操業は順調でな く, 良好の域 に達することがで きたのは,一九〇四年 (明治三十七年)頃か らで あった とい う。
官営八幡製鉄所。鉄鋼 を日本で自給することは,富国強兵 をめざす明治国 家にとっての最 も重要な課題の一つであった。大島高任が中心 になって進め ていた南部藩の製鉄事業 を引 き継いで,明治政府 は一八七三年 に官営の釜石 製鉄所 を設立 した。釜石製鉄所 は,お雇い外国人の指導の もとに,近代 的な 高炉二基 を設置 した ものの,失敗 に終わった。田中長兵衛 とい う商人が この 製鉄所 を借 り受け四八 回 もの試作の末 に,ようや く一八八六年 に銑鉄の生産 に成功 し,翌年,政府か ら払い下げを受けた。 これは日本 において近代的な
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製鉄業が定着したという意味では画期的なことではあったが,田中製鉄所の 生産規模は,急速に伸びつつある国内需要を満たすには小さすぎた。
明治政府は,国営の製鉄所の建設を意図して, 一八九二年に製鉄事業調査 委員会を設置した。明治政府は,三井や岩崎(三菱)にも製鉄事業を興すよ
う呼びかけたが,三井や岩崎は,巨額の資金を投入する大事業は危険が多す ぎるとみて,進出を鷹躍した。
八幡製鉄所の官設は一八九五年(明治二十八年)の明治政府第九次会議に おいて「兵器を主眼とし,傍ら各種の鋼材を製造する」目的で設立を決定す ることになり,一八九六年官製公布,翌一八九七年六月着工をへてようやく 一八八二年(明治十五年)以来強い関心と熱心な論議の的となった製鉄事業 独立の問題が,ひとまず結実をみたのである。そして一八九六年の創立予算 に設備費として計上された主要な項目は,器械工場費二百二十七万円,建築 土木費九十六万円であり,機械設備としては六十トン高炉三基,七トンベツ セマ一転炉二基,十五トン平炉四基,錬鉄炉六基,ダンクス炉一基,水圧鍛 鋼機および各種圧延機,士甘塙炉一基のほかに兵器材料製造機械も含まれ,工 場設計者はドイツ人リュールマン ダーレン マルツ等に一任することが予 定せられた。
この計画もいよいよ建設に着手されると,内外の情勢から,更に著しい変 更を加える必要を生じた。例えば,当初年間六万トンの鉄鋼供給が目標とな っていたが,直ちに鋼材九万トンに変更せられ,建設予算も当初の四百九万 円にたびたび追加が要求され,結局創立事業費一千四百七十万円,これに運 転資金四百五十万円を加えれば約一千九百二十万円の巨額に達したのであ る。機械設備についても最初の予定設備六十トン高炉三基は百六十二基にな り,七トン転炉二基は十トン高炉二基に,十五トン平炉四基は二十五トン平 炉四基に変更されるというふうに,急激に超大化したのである。
一八九七年,八幡製鉄所は開庁されたが,その設計・計画には, ドイツの リュールマンやダーレンがあたり,またト ツペを始めとするドイツ人技師や
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職工が来 日して,工程の指導 にあたった。当時は,国際的には第二次産業革 令 (第二次産業革命 を開始 したのは ドイツである)が最初の頂点にたっした 時期であ り,なかで も ドイツ技術の躍進はめざましい ものがあったが,八幡 製鉄所 における ドイツ技術の導入は,第二次産業革命 の波が, 日本 にも大 き く被 さって きた もの とみることがで きる。従 ってまた,製鉄所の技術 的設備 ち,産業革命期の水準 にあった官営釜石鉱山のそれ とは一変 してお り,ベセ マ‑炉やジーメンス炉が,今 はパ ッ ドル炉 にとって代 っているのであった。
八幡製鉄所が ドイツ技術の導入だけではな く, ドイツの技師 も招いて,八 幡製鉄所の技術監督 は大島高任 (釜石製鉄所 の技術監督)息子大島道太郎で ある。
そ して八幡製鉄所の高炉 に火入れ されたのは一九〇一年の二月五 日であっ た。 この高炉のデザインは大島高任の子道太郎が ドイツで,輸入設備のメー カー, ヒュ ッテ社で完成 した。そ してこのデザインを八幡で実現するに当っ ての技師長 に,漠陽製鉄所の建設 を終 えた, トッペ を雇い入れたのである。
しか し日本では トッペは評判がわるかった。そ してついには 「本邦技師を指 導若 しくは指揮するの実力なき」理由で,期限前 に解雇 されたのである。
鉄鉱石は, 日本国内で採掘 される量ではとて も足 りなかったので,作業開 始 を目前 にひかえた一八九九年 (明治三二年)四月,伊藤博文 と第二代製鉄 所長官和 田維四郎 によって,中国の漠陽鉄政局督弁 (長官)盛宣懐 との間に, 同国の大治鉄鉱石 に関 し長期 (一五 カ年)購入契約が成立 し, ことにアジア 大陸か らの輸入鉄鉱石 を最有力の鉄鉱資源 としてゆ くうえで,北九州の八幡 は, きわめて有利 な立地条件 となった。
大治鉄 山。中国湖北省 にある中国で も有数の鉄鉱山で,漠冶洋公司 という 中国企業が経営 していた。八幡製鉄所 の原料基盤 として重要な位置 を占め, 製鉄所の開業 も一八九九年の大治鉄鉱石一五年継続買入契約の成立 に負 うと
ころが大 きかった。一九〇四年以降, 日本政府 は合計四五
〇
〇万円に達する 借款供与 により大治鉄 山を独 占的に支配する政策 を推 し進め,1 9 4
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図21 大島道太郎 (中央)と鉄鋼視察団の一行
大治鉄 山総生産量の八割が 日本 に供給 された。
中国の大治鉄 山か ら鉄鉱石 を輸入す る長期契約 を結 んだ。その後 も,鉄鋼 の生産は,技術 的な困難 などか ら,必ず しも順調 には進 まなかったが,一九 一〇年頃には一応,生産が軌道 に乗 った。
八幡製鉄所 は全力 を鉄道お よび一般産業用建設資材 の生産 に傾注 しうるに いたった。 もっ とも直接 的な軍需生産 は行 わなかった として も,当製鉄所生 産能力の二分の一 を占めた鉄道用材料 のほか,建築 ・造船用材 も広 い意味で は国防上の要請 に合致す る ものにほかな らない。一九〇一年 (明治三十四年) 度 には, この ように して国内生産の銑鉄53%,鋼材82%を供給 しうるにいた
った。
八幡製鉄所銑鉄生産は一九〇四年 (明治三十七年)三三千 トン,一九〇五 年八八千 トン,一九〇六年一〇一千 トン,鋼材生産は一九〇四年四一千 トン,
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図22 圧延設備
(官営八幡製鉄所創業当時,動力は石炭だ きの蒸気エ ン ジンだった。動力が電気になるのは1923年以降。)
図23 頼光 か ら見 た八幡製鉄所建設現場 (1901年)
喜 喜 要 撃 莞 壷 岳 喜 喜 重 責
一九〇五年四六千 トン,一九〇六年七〇千 トン。明治末期 よ り大正初年にか けて急激 に増加す るのである。 この時期 に八幡製鉄所 はきわめて重要な役割 をはた し, 日露戦後年産十八万 トンの計画 を樹立 し,一九〇六年 (明治三十 九年)に起工 して一九〇九年 に第一期拡張計画 (経費一千八十八万円)が完 成するのであるが,続いて一九一一年 (明治四十四年)か ら生産三十五万 ト
ンのいわゆる第二期拡張計画 を実行 し,一九一五年 (大正四年)に完成する ことがで きた。 このために銑鉄 においては国内産額 の
47. 8%
(一九〇四年) を供給す るにす ぎなかった ものが,一九一四年 (大正三年) には7 3. 8%
に達 し,鋼材 については国内需要に対する供給比率 を一九〇四年の1 9%
か ら,一 九一五年 (大正四年)の48. 8%
に高めることが可能 となった。 この間,すで に一八九九年には,同製鉄所の重大問題であった鉄鉱原料の補給 を,中国大422 国際経営論 集 No.23 2002
冶鉄 山よ りの輸入 によって解決 し, また灰分の少 ない良質骸炭 を使用す る必 要か ら一九一〇年 (明治四十三年) には本渓湖,開平 など大陸炭 を配合 して 高炉作業の能率 を高めた。か くて,一九〇七年呉工廠 で初 めて進水 した戦艦 安芸の船体用諸鋼材 は,すべ て八幡製鉄所 の製造 にかかわる ものであ った。
同製鉄所 は, この頃 よ り躍進著 しく,造船,建築,鉄道,橋梁 に要す る諸鋼 19)
材供給の一大本源 となるにいたった。
漠陽製鉄所設立 した こ とに よ り
,
「漠陽製鉄所 が 中国で急速 に発展 して, 英米両国 と世界市場 を競合す るのは必至である」 と西洋人 を驚惜 させ た。 日 本人は 「漠陽製鉄所が二十世紀 中国雄廠」 と言 った。なぜ 中国の漠陽製鉄所 と日本の八幡製鉄所が ドイツ人の招 いたか,それは, 次の理由である。
1851年か ら1900年 までの50年 間,イギ リス, フランス,アメ リカ, ドイツ の四カ国は基礎科学 と技術科学方面で重大 な成果 を挙 げた。 イギ リス は106 項, フランスは75項,アメ リカは33項, ドイツは202項 の成果 を挙 げた。 こ の四カ国を比 らべ れば, ドイツは他 の三 カ国 よ り大型進歩 している国だ とい える。
20世紀最初 の約20年 間は, ドイツの科学技術 は相変わ らず世界 をリー ドす る地位 にあった。20世紀最初の20年間における,英 ・仏 ・独 ・米四カ国のノ ーベル賞授賞者数 は, フランス11人,イギ リス 8人, アメ リカ 2人 に対 して
ドイツは20人 にのぼる。
1870年 に ドイツの工業総生産 はすでにフランス を超 えている。1880年, ド イツの主要工業の発展速度 はすで にイギ リス を上回った。1895年 ドイツの工 業の各分野の生産量 はイギ リス を上回った。世界経済の中心 もそれに したが って ドイツに移 った。1913年 になる と ドイツの工業総生産はイギ リス を超 え
20) て,世界一 になった。
1850年 ころか ら鉄鋼 の生産量 は世界全域 にわたってめ ざま しい発展 を遂 げ,1850年 ころの世界 の最多鉄鋼生産国はイギ リスであった。1873年,イギ
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リスにおける鋼生産量 は65万3500トンでアメ リカの 3倍以上であったが,そ の後,アメ リカにおける銅生産 は次第 に増加 し,1900年 にはアメ リカでは約 1000万 トン以上の生産量 とな り世界 の先頭 に立 った。 この ときイギ リスの生 産量 は約490万 トンであった。当時,アメ リカに次 ぐ鋼 の生産国は ドイツで, 800万 トン以上の生産 を していた。
従 って 日本 と中国は, ドイツ製鉄所 (莱)の将来性 を考 えて, ドイツの技 術指導者 を招いた と言 える。
注
1)並 木頼 寿 ,井 上裕 正 著 F中華 帝 国 の危機j中央公 論 社,1997年初版 。 図24 ドイツのクルップの工場群 (エッセン)
(19世紀, クル ップの名 は, ドイツの製鉄業 ・軍需産業のシンボルになった。 この世紀初 頭 に誕生 したばか りの工場の従業員は,わずか10人だった。それが,1873年 には7000人に まで増大 していた。ルール地方の鉄鉱 山 と炭 田の開発 のおかげで,クル ップは製鉄業,金 属工業,造船業 コンビナー トをライン川沿岸 に建設 した。)
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