長江 峡 と 峡 ダム
三 峡 ダム 建 設 の是 非,特 に堆砂 問題 につ いて
松 枝 迫 夫
目 次
は じめ に
プ ロ ロー グ 悠 久 の長 江,三 峡 下 り 第1章 三 峡 プ ロ ジ ェ ク トの構 想 第2章 三 峡 ダム建 設 の問 題 点 第3章 ダム建 設 の一 般 的 問 題 点 第4章 ダム の堆 砂 問 題
第5章 ダム建 設 の将 来
は じ め に
1996年7月 末 か ら8月 初 め にか けて 中 国 の 長 江 を重 慶 か ら武 漢 まで 下 る三 峡 下 りの船 旅 をす る機 会 に恵 まれ た。 三峡 下 りの船 旅 は,三 峡 ダ ム の 工 事 の 進 行 上1997年 末 で 打 ち切 りにな る とい うの で 思 い切 っ て ツア ー に参 加 した の で あ る。 この 船 旅 は詩 情 豊 か な景 観 と豪華 客 船 の快 適 な待 遇 で ま こ とに思 い 出 深 い もの で あ っ た。 こ こ は,人 口 に膳 災 され て い る李 白の 「早 に 白帝 城 を 発 す 」 の 詩 で 有 名 で あ り,そ れ だ けで 三 峡 の絶 壁 に立 つ 白帝 城 を思 い,是 非 一 度 は訪 ね た い と憧 れ る三 国志 の 舞 台 で あ る。
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とこ ろで三 峡 は盟 塘 峡,巫 峡,西 陵 峡 とい う三 つ の峡 谷 を総称 す る名 前 で あ るが,こ の西 陵 峡 の 中央 付 近 に現 在 中国 は国 家 の威 信 をか け た大 プ ロ ジ ェ ク トと して三 峡 ダ ム を建 設 中 で あ る。 三 峡 ダム は そ の名 前 を時 に聞 くこ とは あ って も,実 体 は よ くわ か らな い と ころが 多 く,た だ そ の い か に も中 国 的 な, 何 で も世 界 一 とい う規 模 の 巨 大 さだ けが 報 じ られ て い る。 この ダ ム の工 事 現 場 を今 回 の ツ アー で船 上 か ら見 て 中国 人 ガ イ ドの説 明 を聞 きや っ と実 感 を も
った の で あ る。 と ころが,こ の ダ ム は世 界 に前 例 を見 な い 巨大 事 業 の た め, 技 術 的,経 済 的 問題 や 環境 問 題 が 未 解 決 の ま まで あ る にか か わ らず,政 治 的 理 由 に よ り工 事 開 始 決 定 が な され た。 この た め 中 国 国 内 で は三 峡 ダ ム建 設 に は相 当 の 反対 意 見 が あ るが,反 対 意 見 に対 して厳 しい言 論 統 制 が な され て公 に は反対 理 由 は報 道 され ず,専 らダ ム建 設 の狙 い で あ る良 い面,発 電,洪 水 防止,船 運,灌 概 な どの便 益 が 強 調 され て い る。 この旅 で も心 掛 けた の で あ るが,反 対 論 の 資 料 は入 手 で きな か っ た。 とこ ろが折 良 くつ い最 近,中 国 国 内 で の ダム論 争 を集 大 成 した 戴 晴 編 「三 峡 ダ ムー一建 設 の是 非 をめ ぐって の論 争 一 」 とい う 日本 語 訳 の著 書 が 出版 され た。 この本 は中 国 国 内 で は発 禁 処 分 に な った だ け に,0読 して この三 峡 ダ ム建 設 の もつ 問題 特 に環 境 へ 及 ぼ す 影 響 の 大 きさ,深 刻 さが わ か っ た。
この ダム 問題 は,中 国 の完 全 な 国 内問 題 とい う性 質 の もの で な く,地 球 上 で も最 も巨 大 な長 江 の流 域 全 体 に重 大 な影 響 を もっ とい う規 模 か ら も地 球 上 の他 の 国 々 に も関 わ る ばか りで な く,世 界 銀 行 の資 金 援 助 や カ ナ ダ,米 国, 西 欧諸 国 の 企 業,あ る い は 日本 企 業 な どの参 加 は当然 考 え られ る と ころで あ
る。 そ こで,本 稿 で は三 峡 ダ ム建 設 の問 題 点 を環 境 問題 の背 景 の 中 で整 理, 紹 介 し,更 に ダム の もつ寿 命,つ ま り宿 命 的 な堆 砂 の 問題 を と りあ げて検 討 す る。 それ は,か けが え の な い 自然 環 境,生 態 系 を破 壊 す る三 峡 ダ ム が そ の 犠 牲 に見 合 う程 の 便 益 を後 世 に い つ まで も与 え続 け るの で あ れ ば,そ の被 害 も以 て 瞑 す べ き もの と して許 され る場 合 もあ るか も しれ な い が,堆 砂 の た め この ダ ム は,多 分 予 想 す る よ りは るか に短 命 で役 立 た な くな るの で はな い か
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と危 惧 され るか らで あ る。 その 実例 を似 た よ うな 山岳 河 川 を もつ 我 が 国 や イ ン ド等 の ダム に つ い て検 討 す る。
プ ロ ロー グ 悠 久 の 長 江,三 峡 下 り
この 夏1996年7月26日 よ り中 国 へ の旅,長 江 の三 峡 を下 る7泊8日 の 船 旅 に出 か けた 。 船 は最 新 の豪 華 船 北 斗号 で あ る。
三 峡 下 りの 旅 は歴 史 を訪 ね る旅 で もあ る。 劉 備 玄徳 が 三顧 の礼 を もっ て諸 葛 孔 明 を軍 師 に迎 え,天 下 三 分 の計 を実 現 し,蜀 の 国 を建 て た が,そ の 中心 地 四 川 省 の重 慶 を船 で 出発 し,劉 備 が 最 後 に息 を引 き取 っ た 白帝 城 や 関 羽 の 根 拠 地 の荊 沙 市 を見 物 し,更 に赤 壁 を見 て 武 漢 に至 る とい う船 旅 で あ る。
重 慶 は三 国 時代 の 巴国 の昔 か らそ の 中心 で あ った が,中 国 共 産 党 の周 恩 来 ら党 幹 部 も こ こに居 住 し活 躍 した,現 代 政 治史 上 の 重 要都 市 で もあ る。 重 慶 は今 や人 口1400万 人 とい う中 国 最 大 の 都 市 だ とい う(た だ都 市 部 へ の人 口 の 集 中度 は上 海 が上)。 四 川 省 自体 が 日本 の面 積 の1.5倍 あ り,人 口 も1億700万 人 とい う独 立 国 並 の規 模 を もつ。
ガ イ ドが 話 して くれ た 中 国 の笑 い話 に,中 国 に は三 大 か ま ど(炎 暑 の釜) の都 市 が あ る。 重 慶,武 漢,南 京 で あ る。 我 々 が訪 れ た と きは摂 氏38度 以 上 あ った し,長 江 を少 し下 った 豊 都 で鬼 城 を見 物 した と き も40度 近 か った 。 重 慶 市 内 に小 鳥 が い な いが(武 漢 で もい な か った),そ れ は電 線 に止 ま る と熱 く て焼 き鳥 に な っ て落 ち るか らだ とい う。
この 町 は坂 道 だ ら けで荷 物 の持 ち運 び も大 変 だ。 そ こで棒 捧(バ ンバ ン) とい うポー ター の よ うな運 び人 が沢 山 い る。 六 尺棒 一 本 持 っ て客 を見 れ ばす ぐ寄 って来 て しつ こ く運 んで や る とい う。1回2,3元 位 だが,農 村 地 区 か らの 出稼 ぎが 主 で,市 内 に20万 人 もい る とい う。
鬼 城 は重 慶 よ り6時 間位 航 行 した豊 都 に あ る。 前 夜 重慶 を出航 して午 後3 時 頃 豊 都 へ 着 く。 人 の死 後 そ の魂 は こ こに必 ず 集 ま る とい うが,鬼 城 は道 教
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で説 く閻 魔 大 王 の府 で,そ こで罪 科 を裁 か れ る。 道 教 は中国 の伝 統 的 宗 教 で 人 々 の 思考 を支配 して い るが,そ こに は鬼 の像 や 地 獄 の建 物 が あ って人 気 が
あ る。 こ こ もス キ ー用 リフ トで昇 った頂 上 部 分 を残 して大 部 分 水 没 す る。
翌 朝 早 く7時 頃 白帝 城 を見 物 す る。 お 蔭 で朝 食 は6時 とい う薄 暗 い頃 。 白 帝 城 は重 慶 よ り400キ ロ下 流 の奉 節 とい う町 の近 くに あ る。高 さ70メ ー トル で 階段700段 。 足 の弱 い人 の為 駕 籠 が あ る。 往 復200元(3000円 位)か か る。 初 め て箱 根 山 を駕 籠 で 越 えた ら こん な経 験 か。 痩 せ ぎす の 駕 籠 か きの 赤 銅色 の 裸 の 背 中が 痛 々 しい。
白帝 城 は,李 白の 「朝(ア シ タ)に 辞 す 白帝 彩 雲 の間,千 里 の江 陵 一 日に して還 る,両 岸 の猿 声 泣 きて住(ヤ)ま ざ るに,軽=舟 已 に過 ぐ万 重 の 山 」 と い う詩 で っ とに有 名 だ が,こ の 白帝 城 は,関 羽 が殺 され た の を怒 った 劉備 が 復 讐 戦 に乗 り出 し,夷 僚 の戦 い で孫 権 の呉 軍 に敗 れ て この城 に逃 げ込 み,遂
に再 起 な らず こ こで病 没 した と ころ。托 孤 堂 とい う建 物 が あ り,そ こで 死 に 臨 ん だ劉 備 が駆 けつ けた諸 葛 孔 明 に幼 児 二 人 の行 く末 を託 した の で この名 あ り。 自分 の愛 児 の将 来 を孔 明 に託 す に 当 た り,帝 の器 量 あ らば補 佐 して 国 を 盛 立 て よ,そ の器 に あ らず ば孔 明 が 代 わ って帝 とな り国 を治 め よ と遺 言 した とい う。 何 で も世 襲 ばや りの時 世,信 玄 や秀 吉 に比 して も立 派 で は な いか 。 この 白帝 城 も山頂 部 分 を残 して ほ とん ど湖底 とな る とい う。惜 しい。3時 間 の見 学 で北 斗 号 に戻 る。
船 は間 もな く有 名 な三 峡 の 最 初 の奇 観,盟 塘 峡(ク トウキ ョウ)を 通 過 す る。 雄 偉 絶 景 で あ る。 つ いで 昼 過 ぎに巫 山 の 町 に着 く。 こ こか ら小 三 峡 とい う景 勝 の 峡 谷 を小 舟 に乗 り換 えて見 物 。
小 三 峡 は大 寧 河 とい う長 江 の支 流 を遡 る約3時 間 半 の 船 旅 で あ る。 長 江 と 違 っ て清 流 で あ る。 龍 門 峡,巴 霧 峡,滴 翠 峡 とい う,文 字 を見 た だ けで 中 国 人 の好 み そ うな奇 勝 の 地,こ の 眺 め の素 晴 ら し さ は本 旅 行 の 白眉 で あ る。 し か し,こ れ も三 峡 ダム が 完 成 す る と相 当 の高 さ まで水 没 し様 相0変 す る はず で あ る。龍 門 峡 の 入 口 に龍 門 大 橋 とい う長 さ1985メ ー トル,高 さ102メ ー トル
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の橋 が 架 か って い るが,こ の橋 桁7メ ー トル下 まで水 没 す る とガ イ ドが説 明 して くれ た 。
蜀 の 桟 道 とい う言 葉 が あ る。 どん な道 か疑 問 を も って い た が よ くわ か っ た。
険 阻 な 岩壁 に張 り出 して懸 けた道 で,岩 に20セ ンチ位 の穴 を うが って あ るの が わ か る。 この穴 に木棒 を差 し込 み そ の上 に渡 し板 を敷 い て簡 易 道 路 とす る。
これが 延 々 と蛇 が 張 り付 いた よ うに続 く感 じで あ る。 は るか に見 れ ば人 か猿 か 区別 もつ くまい。小 三 峡 の桟 道 が特 に有 名 で長 さ120キ ロ も続 く。人 間 の生
き る執 念 と努 力 を見 る。
小 三 峡 の 見 物 を終 わ って6時 頃北 斗 号 に乗 り移 る と間 もな く第2の 峡 谷 の 巫 峡(全 長55キ ロ)を 通 る。 この 山 々 は巫 山 一 二 峰 とい い,一 際 高 くそ び え る神 女 峰 な ど奇 峰 の連 続 で あ る。 巫 山 とい え ば楚 の懐 王 と巫 山 の神 女 の物 語 を思 い 出 す。 懐 王 の昼 寝 の 夢 に 出 て きて懐 王 と親 し くな った神 女 が 去 る にあ た り,「 私 は巫 山の 神 女,朝 は霧,夕 は雨 とな る1と 言 った 。 その せ い か小 三 峡 見 物 の際,時 々雨 が 降 った 。小 舟 に は天 蓋 が あ っ た が,巫 山 の 雨 が 晴 れ る
とガ ラ ガ ラ と開 け る。 す る と青 空 と奇 峰 の 岩 肌 が よ く見 えた。
夕食 後 希 望 者 は,戦 国 時 代 の憂 国 の詩 人 屈 原 の 故 里 の梯 帰(シ キ)を 見 物 す る。 これ に は疲 れ た 一 行 の半 数 が参 加 。 バ ス で 暗 夜 の道 を 山上 の記 念 館 ま で上 が るが,道 路 を 曲が る都 度 使 わ な いバ ス の 片側 の 照 明 灯 は消 した。 途 中 も電 灯 が な い の で真 暗 闇 。 お まけ に記 念 館 につ い た ら係 員 が 家 に帰 っ て門 が 開 か な い。 大 分 待 た され て い らい ら して い る所 へ係 員 が悠 々 とや っ て来 て や
っ と案 内 して くれ た。
屈 原 は楚 の懐 王 に仕 えた が 中傷 され て追 放 され,時 世 を憂 えた 多 くの 詩 を 作 り,最 後 に泪 羅(ベ キ ラ)に 身 を投 げて死 ん だ。65歳 で あ っ た。
この よ うな気性 の 激 しい詩 人 は 日本 で は生 まれ な い よ うに思 う。
翌 朝 早 朝6時 頃 に最 後 の峡 谷 た る西 陵峡(全 長66キ ロ)を 通 過 す る。 この 辺 りは か な り水 量 も多 く流 れ も急 流 とい う程 で は な い。 昔 は急 流 で危 険 な所 と して恐 れ られ た。 こ こを遡 る船 は遅 々 として進 まず,人 力 で 引 っ張 っ て も
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らわ ね ば な ら な い 。 李 白 は こ この 黄 牛 峡 の 辺 りで,「 三 峡 を上 る」と題 し次 の よ う に 詠 ん だ 。 「巫 山 晴 天 を 爽(サ シハ サ)み,巴 水 流 れ る こ とか くの 如 し。
巴 水 忽 ち 尽 くす べ き も,晴 天 に 至 る 時 無 し。 三 朝 黄 牛 を 上 り,三 暮 行 く こ と 太(ハ ナ ハ 〉 だ 遅 し。 三 朝 又 三 暮,覚 えず 髪 糸 と成 る。」
西 陵 峡 の 中 間 辺 の 三 斗 坪 とい う所 に三 峡 ダ ム を作 っ て い る。 この 工 事 現 場 を 船 上 よ り見 学 す る。 こ こ を過 ぎ て こ の 世 と も思 え ぬ 景 観 に終 わ りを つ げ, 三 峡 出 口 の 宜 昌 に 向 か う。
宜 昌 市 は上 海 か ら1850キ ロ の 位 置 に あ り,既 に1988年 に 完 成 し て い る葛 州 土覇ダ ム の 町 と して 有 名 。 三 峡 ダ ム は こ の ダ ム の40キ ロ上 流 に 位 置 す る 。
三 峡 ダ ム ー こ の 長 江 をせ き とめ る世 紀 の 大 事 業 が 完 成 す れ ば文 句 な し に世 界 一 の 巨 大 ダ ム 。 興 味 を も っ て い た が,あ い に く早 朝 で 霧 が か か っ て い た こ
と も あ り,船 か ら は 工 事 現 場 の 全 体 像 が よ くつ か め な か っ た 。「建 設 三 峡 開 発 長 江 」 の 大 看 板 とい か に も中 国 ら し い 「一 流 的 質 量,一 流 的 管 理,0流 的 文 明 施 工 」 の 大 文 字 が 見 え る 。 こ の 辺 りは 川 幅 が 狭 く,全 長1983メ ー トル, 高 さ185メ ー トル の 壁 を作 り,流 れ をせ き とめ る とい う ス ケ ー ル も実 感 が わ か な い 。 川 の 真 中 に 中 墜 島 と い う 島 が あ り,そ こ ま で の 半 分 の 工 事 が 進 捗 して お り,来 年 一 杯 で,今 度 は残 り半 分 の 工 事 に と りか か る 。 そ うす る と三 峡 下 りの 船 の 遊 覧 も 中 止 に な る とい う。 三 峡 ダ ム が2009年 に 完 成 す る と水 位 が 今 よ り100メ ー トル 以 上 も上 が る と い う か ら 白帝 城 も ほ とん ど水 没 し,小 三 峡 も 一 変 す る こ と に な る。
三 峡 ダ ム は 多 目 的 ダ ム で,発 電 用,洪 水 防 止 用,灌 瀧 用,船 運 用 だ とい う。
発 電 量 と して は1820キ 「ロ ワ ッ ト(佐 久 間 ダ ム の52倍)と い う世 界 一 の 規 模 。 洪 水 を 防 ぐの に も偉 大 な 効 果 を あ げ る こ とが 期 待 さ れ て い る。 しか も黄 河 の 水 不 足 解 消 の た め 運 河 を 通 し て 黄 河 に 送 水 す る と い う 。 こ の 三 峡 ダ ム が 完 成 す る と洞 庭 湖 ク ラ ス の 湖 が 出 現 し,環 境 が 変 わ っ て 一 度 気 温 が 上 が る。 生 態 系 も破 壊 さ れ る。 既 に 葛 州 煽 ダ ム の た め長 江 に の み 生 息 す る チ ョ ウ ザ メ は 生 き ら れ な くな る恐 れ が あ り,人 工 飼 育 を実 施 中 。 歴 史 的 遺 跡,遺 物 は 水 没 。
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住 民120万 人 以 上 を立 ち退 か せ る。
と こ ろで,今 回 の三 峡下 りは洪 水 の 物 凄 さの一 端 を見 せ て くれ た。 旅 行 出 発 直 前 に主 催 旅 行 会 社 よ り連 絡 が あ って,長 江 洪 水 の た め宜 昌 か 荊 沙市 か ら 下 流 の 方 へ は航 行 で きな い の で下 船 して 陸路 を行 くこ とに な るか もしれ な い と言 わ れ て い た。 と ころが 三 峡 の濁 流 が 少 し減 水 し始 めた 後 で あ っ た た め無 事 通 過 し・ 三 峡 出 口 の三 峡 ダ ム の 工 事 現 場 や 葛 州 煽 ダ ム を過 ぎて,宜 昌 の町 を通過 す る と川 幅 が 広 くな り,悠 々 と黄濁 した 流 れ が 果 て しな く続 く。 李 白 が 「荊 門 を渡 っ て送 別 す 」 で 「山 は平 野 に随(シ タ ガ)っ て尽 き,江 は大 荒 に入 りて流 る」 と詠 ん だ 辺 りで あ る。 周 囲 は山影 もな く一 面 の平 原 だ が,や が て沙 市(荊 沙 市 と もい う)に 着 く。 この荊 沙 市 は 「千 里 の江 陵 一 日に して 還 る」 とい う江 陵 で あ る。 こ こは三 国 時代 夷遼 の戦 い の故 地 で あ る。 街 並 が 整 い,戦 国 時代 の楚 といわ れ た 国以 来 の重 要都 市 だ け に歴 史 の 風 格 を感 じさ せ る。 ここへ上 陸 して関 羽 が 支 配 して い た荊 州 古城 を見 る。 市 内 に荊 州 博 物 館 が あ り,そ こ に瑞 々 しい 生 きて い る よ うな男 性 の ミイ ラが あ る の に は驚 か
され た 。
沙 市 を夕 方 出 航 した北 斗 号 は,翌 日朝9時 半 頃 赤壁 の辺 りを通 過 した。 大 増 水 の た め赤 壁 の 岩壁 は水 没 して い る とい うの で立 ち寄 る計 画 は 中止 。 ガ イ ドが 甲板 よ りあ の辺 りが 赤壁 で す と指 さす 彼 方 に は,お ぼ ろ に対 岸 が 見 え, た だ 荘 漠 た る濁 水 が広 が って い るだ け だ っ た。 この辺 りを過 ぎた後 は にわ か 湖 水 の 一 見 単 調 な風 景 が ど こ まで も続 き,我 が北 斗 号 で は太 極 拳 の レ ッス ン が始 ま った 。 老 い も若 き も神 妙 な手 付 き腰 付 きで 身体 を ひね っ て い るの は可 笑 しか った。 この 川 と も湖 と も分 明 な らざ る荘 と した風 景 は遂 に武 漢 まで変 わ る こ とは な か った。 か くて 午後2時 半 長 い船 旅 の終 着 点 武 漢 につ い て全 員 下 船 した 。 か つ て武 漢 三 鎮 といわ れ て いた 漢 口,漢 陽,武 昌 の三 地 区 を併 せ た街 で あ る。 こ こに は有 名 な黄 鶴 楼 が あ るが,こ こで李 白 の時 代 の よ うに飲 食 で き るわ けで は な い。 崔 頴(サ イ コ ウ)が 「昔人 已 に黄 鶴 に乗 りて去 り, 此 の地 空 し く余 す 黄鶴 楼,黄 鶴 一 た び去 って また返 らず,白 雲 千 載 空 し く悠
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悠 」 と詠 ん だ楼 閣 も外 形 だ け似 せ て建 て替 え られ て観 光 客 を吸 い寄 せ る。 こ の名 詩 を楼 の壁 に 見 つ け て,さ す が の李 白 も筆 を折 っ た とい う。 日本 人 を VIPと す る土 産 販 売 の 特 別 室 が あ っ た。
さ て,洪 水 の話 で あ るが新 聞報 道 だ けで は実感 が わ か ない が誠 に百 聞 は一 見 に如 か ず で あ る。 距 離 で い う と重 慶 と武 漢 の間 は お よそ1300キ ロで,そ の 中 間 にあ た る所 が 宜 昌 と沙 市 の辺 りで あ る。 従 っ て沙 市 か ら武 漢 へ の数 百 キ ロ を航 行 す るわ けで あ る。 我 が 船 旅 で は この50年 ぶ り とい う洪 水 の惨 状 を一 幅 の絵 を見 る よ うに船 窓 か ら眺 め る。 この両 岸 が いた る所 で堤 防 決壊 し見 渡 す 限 りた だ一 面 の湖 の よ う に な って い る。 も と も と川 岸 に堤 防 の な い所 もあ る よ うだ が,多 分 堤 防 が あ る と思 わ れ る所 も柳 か ポ プ ラの樹 が 植 わ っ て い て そ れ の半 分 また は梢 の 一 部 が 見 え るの で,長 江 の岸 と湖 水 の よ うにな った部 分 の境 界 が や っ と認 め られ るの で あ る。 ガ イ ドの 説 明 に よ る と,時 に は意 図 的 に,農 作 物 の被 害 が比 較 的 少 ない 地域 の堤 防 を決壊 させ,よ り重 要 な農 作 地 域 を防護 す る こ と もあ る とい う。
川 幅 何 キ ロ とい う大 河 が 酒 浴 と流 れ る長 江 だ が,上 流 の雪 融 け水 に今 年 は 50年 振 り とい う大 雨 が 加 わ っ た為 の洪 水 だ とい う。 こ う した 異 常 な増 水 量 は 想像 を絶 す る もの で,人 力 で どう にか な る とい う もの で は あ る まい。 古 来 中 国 人 は洪 水 に見 舞 わ れ続 け(規 模 の大 小 を問 わ な けれ ば ほぼ毎 年),自 然 の 巨 大 な力 を思 い天 命 思想 を発 展 させ た 。 三 峡 ダ ム に は色 々批 判 が あ りなが ら も,
この よ う な洪 水 の 大惨 害 を何 とか した い とい う為 政 者 の執 念 が ダム建 設 を決 行 させ た もの で あ ろ う。 しか しな が ら,ダ ム に流 れ込 む長 江 の 土 砂 の量 は も
の 凄 い量 で,遠 か らず土 砂 で埋 ま って し ま う可能 性 が 高 い。 黄 河 をせ き止 め た 三 門 峡 ダ ム は もう大 分 埋 まっ て来 て い る。 この土 砂 堆 積 を排 除 す る技術 が 開発 され な い限 り,ダ ムの 寿 命 は余 り長 くな く,や が て 自然 破 壊 を残 した ま ま万 里 の長 城 の よ うに無 用 の長 物 とな るの で あ る。 この とき中 国 の人 々 は老 子 の無 為 自然 の教 え を ど う受 け止 め るの で あ ろ うか 。
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第1章 三 峡 プ ロ ジ ェ ク トの 構 想
1三 峡 ダ ム の 規 模
ダ ム サ イ トは ・ 長 江 の 上 流,三 峡 の 宜 昌 に近 い 三 斗 坪 とい う場 所 に あ り , 長 江 本 流 を堰 止 め て,高 さ185メ ー トル(通 常 水 位175メ ー トル),堤 頂 の 長 さ 1983メ ー トル,貯 水 容 量 は393億 立 方 メ ー トル,洪 水 防 止 貯 水 量 は221.5億 立
1)
方 メ ー トル,の コ ン ク リー ト重 力 式 ダ ム を建 設 期 間18年 で 建 設 す る と い う の
̀L)
が,三 峡 プ ロ ジ ェ ク トで あ る。 ダ ム建 設 の 目的 は,洪 水 防 止,発 電,農 業 用 灌 瀧用 水,航 路 改善 で あ る。 特 に電 力 供 給 は,1768万KW(年 間840KWh) の 電 力 を生 み 出 し,華 中 の み な らず 華 東(上 海)方 面 に も送 電 す る。 発 電 能 力,貯 水 容 量 は世 界 最 大 で あ り,貯 水 容 量 は奥 只 見 の65倍,貯 水 地 面積1084 平 方 キ ロ(琵 琶 湖 の1.6倍),発 電 能 力 は佐 久 間 ダ ム の52倍 で あ る。 発 電 所 に は,68万 キ ロ ワ ッ トの 発 電 能 力 を持 つ発 電 機26台 を備 え る。 三 峡 プ ロ ジ ェ ク トの総 事 業 費 は当初 の 見積 りが159億 元,そ の後 何 度 も修正 され ,1993年 の全 国 人 民 代 表 会 議(全 人 代)で の 決 議 後 は751億 元 とな っ て い る。751億 元 の 内 訳 は,ダ ム ・発 電 所 建 設 費383億 元,送 電 工 事 費131億 元,立 ち退 き対 策 費237 億 元 で あ る。 この 立 ち退 き費 には,土 砂 堆 積 な どの結 果 必 要 に な る二 次 立 ち 退 き者 へ の対 策 費 は含 まれ て い な い。 この対 策 費 は,開 発型 移 住 の た め の費 用 で,立 ち退 き者 個 人 に補 償 費 が ど うな るか保 証 され て い な い。
住 民 立 ち退 きは113万 人,二 次 立 ち退 き を見 込 む と130万 人 といわ れ ,ダ ム で の立 ち退 き人 数 と して は空 前 の もの で あ る。
水 没 地 域 は,農 地98.753ヘ クタ ール,市 町村 の 数 は1505,工 場 の数 は657 , 史 跡 は40で あ る。
船舶 の航 行 はパ ナ マ運 河 の よ うな間 門 式 とな り,二 線 式5段 階船 舶 ロ ック (一 段 階 当 た りの昇 高 高度 は20メ ー トル)と,垂 直 船 舶 リフ ト(昇 降 高 度113 メ ー トル)が 備 え られ る。
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2三 峡 プ ロ ジ ェ ク トの 沿 革
長 江 は 黄 河 と共 に洪 水 に悩 ま さ れ て き た 大 河 で あ る 。 古 来 よ り洪 水 を制 す る も の は帝 王 の 資 格 あ り,伝 説 に い う 禺 王 も四 川 省 出 身 で 長 江 や 黄 河 の 治 水 に成 功 して 夏 王 朝 の 祖 とな っ た の で あ る。 さ て 長 江 で は大 き い 洪 水 は10年 に
1回 位 の 割 合 で 襲 い,特 に1860年 と1870年 の 二 度 の 大 洪 水 は 中 流 域 に 大 惨 害 を もた ら し た 。20世 紀 に な っ て か ら,1931年,1935年,1954年,1981年,1991
年 と大 洪 水 が 発 生 した 。1954年 の 洪 水 で は 約3万 人 の 死 者 が 出 た 。 治 水 こ そ 中 国 政 治 の 根 本 と さ れ て きた 理 由 が わ か る とい う もの で あ る。
中 国 革 命 の 父 とい わ れ た 孫 文 が1919年 三 峡 ダ ム 建 設 を提 唱 し,水 力 発 電 と 航 路 の 改 善 の 必 要 性 を訴 え た 。
孫 文 の 提 唱 後,国 民 党 政 府 は 現 地 調 査 を 行 い,1933年 「長 江 上 流 水 力 発 電 計 画 」 を発 表 した 。
専 門 家 に よ る検 討 は,国 民 党 政 府 の 依 頼 で 現 地 調 査 を行 っ た ア メ リ カ の 内 務 省 開 墾 局 の ジ ョ ン ・サ バ ー ジ(JohnL.Savage>の 「揚 子 江 三 峡 計 画 予 備 報 告 書 」(PreliminaryReportforthePlanofThreeGorgesofYangtze
River)と し て 発 表 さ れ た 。 こ の 内 容 はz三 峡 に 高 さ200メ ー トル の コ ン ク リ ー ト重 力 式 ダ ム を建 設 し,1056万 キ ロ ワ ッ トの 発 電 を行 う とい う もの で あ っ た 。
1945年 に こ の 「サ バ ー ジ計 画 」 を 実 現 す る た め,国 民 党 政 府 は 三 峡 水 力 発 電 計 画 技 術 研 究 委 員 会 を組 織 し,50名 の 技 術 者 を 米 国 に 派 遣 し て 設 計 作 業 を 進 め た 。
1947年 に 国 共 内 戦 が 始 ま り,こ の プ ロ ジ ェ ク トの 作 業 は 中 止 とな っ た 。 1949年 に 中 華 人 民 共 和 国 が 成 立 し,政 府 は1950年 に 国 務 院 に 「長 江 水 利 委 員 会 」 を 設 置 し た 。 こ の 委 員 会 は ソ 連 と 協 力 し て 予 備 調 査 を 行 い,1963年 早 期 着 工 とい う 方 針 を 決 め た 。
この 方 針 に対 し,水 利 電 力 部 の 副 部 長 だ っ た 李 鋭 は異 議 を唱 え,1958年 毛 沢 東 は 李 鋭 を 支 持 した 。 そ れ に対 し,推 進 派 は巻 き返 し に 出 て,建 設 批 判 派
64国 際経営論集No.121997
を失脚 させ る こ とに成 功 し,1960年 に は長 江 水 利 委 員 会 は高 さ200メ.̲....トル 案 で進 め る こ とに した 。 そ の後 中 ソ対 立 や文 化 大 革 命 が起 きて プ ロジ ェ ク トは 中止 とな って い た。
文 化 大 革 命 後,1981年 に中 国政 府 は米 国 の ダ ム専 門 家 の意 見 を聞 いた が, 専 門家 の意 見 は三 峡 ダ ム の計 画 に批 判 的 だ った 。即 ち,ダ ム建 設 は,洪 水 問 題 の解 決 に役 立 た な い こ と,船 舶 航 行 に も悪 影 響 が あ る こ と,ダ ム建 設 は地 滑 り及 び地 震 を誘 発 す る恐 れ が あ る こ と,軍 事 攻 撃 の 目標 とな る こ とな どの 問題 点 を指 摘 し,む しろ長 江 の支 流 に複 数 の小 規 模 ダ ム を建 設 す る こ とを提 案 した。
しか し,中 国 政 府 の水 利 電 力 部 は建 設 推進 の考 えを捨 て ず,貯 水 池 の通 常 水 位 の 高 さ(128メ ー トル 案 か ら260メ ー トル案)の 論 議 を戦 わ した。1982年 に長 江 水 利 委 員 会 は ダム の 高 さ150メ ー トル 案 を提 案 した。これ で は船 舶 航 行 に支 障 が あ る とい うの で重 慶 政 府 や 交通 部 が 反対 した。
1984年 国務 院 は,ダ ム の高 さ を170メ ー トル とす る案 を承 認 し,「 長 江 三 峡 行 程 開発 公 司 」 を設 立 す る こ とを指 示 した。
こ う した建 設 推 進 に対 し,批 判 的意 見 が 「中国 人 民 政 治 協 商 会 議(全 国政 協)」で 強 ま り,1985年 に は現 地 へ調 査 団 を送 って ダム建 設 反 対 の報 告 を出 し た。
そ こで国 務 院 は1986年 三 峡 プ ロ ジ ェ ク トの 論 議 を や り直 す こ とに し,「三 峡 行 程 論 指 導 小組 」 が 組 織 され た。 この論 証 作 業 に は専 門 家412名 が 参加 した。
しか し この 専 門家 の 大 部 分 は推 進 派 の水 利 電 力 部 の 関係 者 で あ った。 従 っ て, 1988年 に論 証 の結 論 が 出 され た が ,建 設 を可 と し,早 期 着工 とダ ム の高 さ185
メー トル,通 常 水 位175メ ー トル を妥 当 とした。
中 国政 府 は国 際 的 な専 門 家 グ ル ー プ の調 査 を求 め,1986年 に カ ナ ダ国 際 開 発 庁(CIDA)に 対 し フ ィ ジ ビ リテ ィ ・ス タ デ ィの実 施 を依 頼 し,ま た 世 界 銀 行 は1986年 専 門 家 グル ー プ を現 地 に派 遣 した。
他 方y建 設 反対 の動 き として,全 国政 協 は1986年 現 地 調 査 を行 い,プ ロ ジ
長 江 三 峡 と三 峡 ダ ム65
エ ク トの実 施 延 期 を共 産 党 中央 委 員 会 と国務 院 に提 案 した 。 そ の理 由 として は,(1健 設 コ ス トが 過 小評 価 され て お り,実 際 は3倍 とな る こ と,② 長 江 の 中 ・下 流 の洪 水 防 止 に役 立 た な い ばか りで な く,か え っ て上 流 域 で洪 水 の 発 生 を招 く恐 れ が あ る こ と,(3)堆 砂 問題 を解 決 す る有 効 な方 法 が な い こ と,(4) 船 舶 航 行 の妨 げ とな る こ と,(5)発 電 利 益 は,建 設 コス トの 大 き さ に釣 り合 わ
ず,ま た利 益 を得 るた め に は,建 設 期 間 が 長 す ぎ る こ と,⑥ ダ ム建 設 は,地 滑 り と地 震 を誘 発 す る恐 れ が あ る こ と,が あ げ られ て い る。
長 江 水 利 委 員 会 は この提 案 も無 視 して準 備 作 業 を進 めた 。 そ こで,全 国 政 協 は1988年 に も182名 の科 学 者 らの現 地 調 査 団 を派 遣 した。調 査 団 に加 わ っ た 北 京大 学 の学 長 の 周培 源 は,「 下 流 受益,上 流 損 益 」の従 来 のや り方 はや め る こ と,三 峡 ダ ム建 設 は 「投 資 多,工 期 長,見 効 慢 」 で あ るか ら これ に代 えて
「工 期 短,投 資 少,見 効 快 」 の 長 江 上 流 の水 源 開 発 に着 手 す べ き旨 を提 案 し た。
1989年3月 に全 人 代 で三 峡 問題 が審 議 され た 。 この会 議iの前 に,中 国 人 ジ ャー ナ リス トの戴 晴 の編 集 したr長 江 長 江 一 三 峡 行 程 論 争 」が 公 刊 され,ダ ム建 設 に批 判 的意 見 を開 陳 した 。全 人代 で は272名 の代 表 の名 で三 峡 プ ロ ジ ェ
ク トの早 期 実 施 の反 対 意 見 の報 告 書 が提 出 され た 。
こ う した批 判 を考 慮 し,同 年4月 ダム 建 設 の決 定 を5年 延 期 す る こ とを副 首 相 が 発 表 した 。 そ の直 後 天 安 門事 件 が 発 生 した。 この事 件 の直 後 の7月, 戴 晴 は逮 捕 され10カ 月拘 留 され た。
この戴 晴 の逮 捕 は水利 部 の 「長 江 流域 企 画 弁 公 室 」(長 弁)の 働 きか けに よ る とい わ れ,そ の後 長 弁 は 「長 江 長 江 」 を発 売 禁 止 にす る よ う働 きか け,同 年10月 発 売 禁 止 とな った。 理 由 は,「 騒 乱 を扇 動 した 」 とい う もの で あ った。
こ う して 反対 意 見 が抑 圧 され た状 況 下 で,1990年12月 の共 産 党 中央 委 員 会 (七 中全 会)で 建 設 決 議 が 採 択 され,1992年4月,全 人代 で 「三 峡 プ ロ ジ ェ ク
ト建 設 決 議 」 が 採 択 され た。 た だ し この 決議 に対 して は出 席者2633名,賛 成 1767名,反 対177名,棄 権664名,投 票 ボ タ ンを押 さな い人25名 で,約3分 の
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1が 反 対 や 批 判 派 だ った 。
こ う して 中 国政 府 は三 峡 ダ ム建 設 を着 工 す る こ とに し
,1994年12月 三 斗坪 で着 工 式 を行 い,現 在 工 事 を進 め て い る。
三 峡 プ ロ ジ ェ ク トに対 す る批 判 は,今 や 中 国本 土 で は報 道 され な い が,唯 一 の有 力 な批 判 書 で あ る戴 晴 の 「長 江 長 江 」 は中 国 国 内
で2万5000部 売 れ た と ころ で発 売 禁 止 とな って 回収 され て し まい,香 港 版 と台湾 版 が 中 国 の内 外 で 出 回 って い る。 この 書 の英 語 版 が カ ナ ダ で 出版 され
,我 が 国 に は1996年6 月 に鷲 見 一 夫 他 の 日本 語訳 「三 峡 ダ ムー 建 設 の是 非 を め ぐっ て の論 争 一」(築 地 書館)が 出版 され た。 本 章1及 び2の 説 明 は この本 に従 った もの で あ る
。
3三 峡 ダム の 構 想 を生 ん だ 背景 q)長 江 の災害の歴 史
長 江 は,悠 久 の昔 か ら現 在 まで,毎 年 洪 水 害 ,内 水 害,旱 害,住 吸血 虫 病 に よ っ て人 民 を悩 ま して きた。 例 え ば,水 害 を例 に とっ て み て も,そ の物 凄 さ は 日本 国 内 の我 々 か らは想 像 を絶 す る。 従 って,そ の 治 水 へ の熱 意 は並 大 抵 で な く,そ の た め大 きい ダ ム程 大 きい効 果 が あ る と考 えが ち に な る面 が あ
るの で はな いか 。
ヨラ
そ の 実 状 の 一一端 を 「長 江 水 利 史 」 に よ っ て み て み よ う
。
① 洪 水 害
1931年 か ら1949年 の18年 間 に 荊 江 地 区 は5回 ,漢 江 中 下 流 地 区 は11回 水 没 し,重 大 な 損 害 を蒙 っ た 。
1931年 の 夏 はy湖 北,湖 南 な ど7省 の205県
,被 災 面 積15万 平 方 キ ロ,農 地 の 水 没 面 積 は5000万 畝(ム ー 〉,被災 者 数2800万 人
,洪 水 に よ る 死 者 は14万5000 人 で 洪 水 後 の 飢 鰹 と疫 病 に よ る死 者 は 数 え 切 れ な か っ た
。 江 漢 平 原 で は,9県 で500万 畝(ム}の 農 地 が 水 没 し
,被 災 者 数 が300万 人,そ の う ち 溺 死 者1万2000人 以 上 だ っ た 。 武 漢 三 鎮(長 江 と漢 江 の 合 流 点) で は市 区 内 の 大 部 分 で 水 深 が 数 尺 か ら1丈 余(3メ ー トル 余)に 達 した(筆
長 江 モ峡 と三 峡 ダム67
者 の個 人 体 験 で も1996年7月 武 漢 を訪 れ た と き,嵩 上 げ した 長 江 の堤 防 が 辛 う じて増 水 した 長 江 の水 を防 い で い た)。 漢 口市 区 は,「 大 船 が蛙 の よ うに水 面 に浮 か ぶ,小 船 は至 る所 に蟻 の よ うに漂 う」 とい う有様 で 直 接 浸 水 被 害 者 は78万 人 だ った 。 浸 水 は4カ 月 に及 ぶ。 多 くの被 災 民 は鉄 道 の両 側 と亀 山, 蛇 山 を仮 住 まい とし,冬 の12月 まで 家 に帰 れ なか った 。 この洪 水 に よ り,長 江 下 流 の両 岸 の 本 支 流 の 堤 防 は多 数 決 壊 した。 安 徽 の場 合,各 河 川 の水 位 が
1丈 余(3メ ー トル余)上 が り,農 地 の 水没,家 畜 の 溺死 は無 数,人 間 の死 体 も至 る所 に浮 いた 。長 江 両 岸 の蕪 湖 市 で は,当 地 の溺 死 者 や家 畜 を埋 め終 わ らな い うち に,上 流 か ら次 々 と これ らが 流 れ つ き,一 時 は 「腐 臭 薫 天 」 と
い う有 様 だ った 。
1935年7月 の集 中豪 雨 で は,長 江 の 中下 流6省 が被 災 し,被 災面 積 は2万 9000平 方 キ ロ,水 没 農地 面 積 は2200万 畝(ム}余,被 災 人 口約1000万 人, 死 者 は約14万 人 以 上 に達 した。
この年,荊 江 両 岸 も集 中豪 雨 に よ り壊 滅 的 な被 害 を受 けた 。 江 陵 県で は7 月上 旬 に2,3日 暴 風 雨 が 続 き,堤 防 が 決 壊 して,江 漢 平 原 が洪 水 とな り, 荊 州 城 内外 の交 通 は断絶 した。 最 高水 位 は1931年 の水 位 を1メ ー トル 以 上 上 回 り,城 内 の 民 家 は屋 根 上 まで 水 没 した 。 被 災 民 は城 壁(こ こ は筆 者 も この 夏 訪 れ た)の 上 に避 難 した が,飲 まず食 わ ず で雨 と太 陽 に さ らされ た 。荊 州 城 外 の農 村 で,溺 死 者 は人 口の3分 の2に 達 し,命 拾 い した者 も木 に登 り,
屋 根 に また が り,高 台 に立 っ た りして,水 で死 な な か った者 も飢 えで死 ぬ と い う こ とに な り,人 を食 う者 さ えい た とい う有様 だ った 。
中 国 の近 代 は西 欧 の 列 強 に よ る半 植 民 地 化 と日中戦 争 に よ る混 乱 と戦 争 の た め,治 水,利 水 対 策 も う ま く行 わ れ な か った 。1949年 の 中華 人 民 共 和 国 の 成 立 後,治 水 と水 利 に力 を入 れ て来 た た め大 きな成 果 を あ げた 。 特 に毛 沢 東 は長 江 の出 身 で あ り,農 村 出身 で洪 水 の惨 害 を十 分 に知 って い た の で陣 頭 に
の
立 っ て 治 水,水 利 建 設 を指 示 し た 。
そ の 結 果 「洪 水 防 御 の 方 面 で は 長 江 中 下 流 の3100kmの 本 流 堤 防 と3万 68国 際経営論集No.!21991
kmの 支 流 堤 防 の す べ て に つ い て嵩 上 げ,堤 防幅 の増 加 が行 わ れ,特 に本 流 堤 防 で は ほ とん どの部 分 が1954年 の 実 際 の 洪 水 位 よ り1m以 上 高 くされ た
。ま た一 連 の 洪 水貯 留 と開 墾 を兼 ね た工 事 が行 わ れ,さ らに下 荊 江 の洲 子 と上 車 湾 の2ケ 所 で捷 水 路 工 事 が行 わ れ た 。 灌 慨 の方 面 で は,流 域 内 に数 万 の大 中 小 型 の貯 水 池 と引 水,揚 水 施 設 が建 設 され ,灌 概 水 量 は1000億 立 方 メ ー トル 以 上 に達 し,灌 慨 面積 は解 放初 期 の6000万 畝(ム ー)か ら2億 畝(ム ー)以 上 に増 加 した。 多 くの民 衆 は水 利 の建 設 と巻 貝 の撲 滅 を と もに達 成 し
,60%
の 県 で は基 本 的 に吸 血 虫 病 が消 滅 した.」 とい う程 の改 善 が進 ん だ の で 瀦 。 長 江 水 利 史 の原 書 は1978年 刊 行 の もの で あ り,当 時 葛 洲 煽 プ ロ ジ ェ ク トを 施 工 中 でy同 書 は この事 業 を 「長 江 を征 服 しよ う とい う人 民 の英 雄 的気 概 を 表 して い る。」と賞 賛 し,ま た三 峡 プ ロ ジ ェ ク トにつ い て は,当 時 「すで に建 設 日程 に登 っ て い る。 … … 中 国共 産 党 は中 国 人 民 を指 導 して新 た な長 征 を正 に行 っ てお り,四 つ の現 代 化 の加 速 に よ り,長 江 の水 利 電 力事 業 の前 途 は限 りな く広 が り・ さん ぜ ん と光 り輝 い て い る.」 とそ の開 発 に熱 を入 れ て い6)。
この よ うな党,政 府 の姿 勢 か らみ て,三 峡 プ ロ ジ ェ ク トは,環 境 へ の悪 影 響 とか技 術 的未 熟 とい うよ うな反 対 論 は全 体 の潮 流 を変 え る力 を な か なか もち え な い雰 囲 気 で あ り,本 プ ロ ジ ェ ク トはす ぐれ て 中 国 の政 治 問題 で あ る とい う こ とが よ くわ か る の で あ る。
② 内水 害
長 江 の 堤 防 が 決 壊 す る場 合 の惨 状 を上 述 した が ,内 水 害 もひ どか った。 洪 水 の よ う に集 中 的 で な いが,必 ず 毎 年 あ り,発 生 回 数 も多 く,継 続 時 間 も長 く,分 布 面 積 も広 い た め,農 業 が 受 け た損 失 は大 きか った。 内 水 害 の原 因 は, 中,下 流 平 原 地 域 は低 湿 で,毎 年 高水 位 の と き,特 に夏 の多 雨 季 に,長 江 の 水 位 が堤 内 の水 位 よ り高 くな る時 期 が100〜150日 に及 ぶ の で,内 水 を排 除 す る こ とが で きず,低 湿 地 区 で はす ぐ内水 害 を生 じた。 洞 庭 湖 地 区,江 漢 平 原, 太 湖 地 区 が 特 に ひ どか っ た。
一 般 の年 に 内水 害 の被 害 農 地 面積 は約1100万 畝(ム ー)で ,1931年 の場 合
長 江 三 峡 と三 峡 ダ ム69
は農 地 の60%が 被 害 を受 けた 。湖 南 で は,多 年 の内 水 害 の総和 は,洪 水 害 の
7)
損 失 量 よ り大 きか った 。
② ダム建設 と水利 ・治水 との 関係
まず,ダ ム建 設 の是 非 を論 ず る場 合 に は っ き り と区別 して お か な けれ ば な らな い の は,治 水 や利 水 には古 来 よ り現 代 まで 多 くの手 段,方 法 が あ り,現 代 の ダ ム建 設 は その一 方 法 で あ り,万 能 の 手段 で な い こ とで あ る。 我 が 国 の 建 設 行 政 で も,洪 水 や 灌 概 とい う場 合 はす ぐダム を造 れ ば よい と考 え る安 易 な傾 向が あ る。 これ は,ひ と り我 が 国 の み な らず,米 国,中 国 で も然 りで あ る。
しか し,最 近 は米 国 の ミシ シ ッピー 河 の大 氾濫 が あ って,ダ ムが 決 して 洪 水 を防 ぐ手 段 と して 最善 で な く,む し ろ巨大 洪 水 は防 ぎ得 な い もの で あ る こ
と,い か に それ の被 害 を少 な くす るか の制 御 の多 角 的手 段 を用 い るべ きで あ るか とい う方 向 に方針 転 換 した 。
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こ う した こ とは,我 が 国 で も釜 無 川 の信 玄 堤 や輪 中 の例 に見 られ る よ う に 先 人 が 色 々 洪 水 対 策 を工 夫 して きて い るの で あ る。
三 峡 ダ ム に対 す る批 判 も,洪 水 防 止 の方 法 として 巨大 ダ ム を造 れ ば万 事 解 決 す るか の 如 き議 論 に対 し,い か な るダ ム で も完全 に洪 水 を防 ぐ こ とはで き
な い こ と,む し ろ小 規 模 ダ ム を造 る こ との 方 が 遥 か に環境 へ の 悪 影 響 が 少 な くて,し か も十 分 効 率 的 に洪 水 を防 ぎ う る こ と,洪 水 対 策 として はダ ム は一 手 段 に過 ぎ な い こ と を認 識 して,小 規 模 ダム の建 設 と堤 防 の築 造,遊 水 池 の 整 備 等 他 の手 段 を組 み合 わ せ て行 うべ き こ とを指 摘 して い るの で あ る。
また,三 峡 ダム 建 設 の意 図 は,こ の よ うな洪 水 防止 と共 に工 業 化 の た めの 電 力 を生 み 出 す 目的 を もって い るが,こ れ また 小規 模 ダム を多 く造 る こ とで,
そ の 目的 を達 し うる道 の あ る こ とが 指 摘 され て い る。
で は,と りか え しの つ か な い環 境 破 壊 を伴 う三 峡 ダム の建 設 に あ えて 突 き 進 む原 動 力 は何 で あ ろ うか 。 この点 につ いて,戴 晴 の 「長 江 長 江 」 は,そ れ は建 設 推進 に よっ て利 益 を得 る集 団 や 官 僚 機 構 の活 動 で あ り,ま た世 界 最 大
70国 際経営論集No121997
で今 世 紀 最 後 の事 業 とい う名 誉 あ る事 業 にか けて 国 家威 信 の発 揚 を望 む党 と 政府 の方 針 で あ る こ とを示 唆 して い9)。
第2章 三峡 ダ ム建 設 の 問 題 点
中 国 政府 に よ る三 峡 ダ ム建 設 の決 定 に対 して は,政 府 側 に立 つ推 進 派 と反 対 派 とで激 し く意見 が対 立 して い る。 しか し1992年4月30日 の全 国 人 民 代 表 会 議 で 「長 江 三 峡 プ ロ ジ ェ ク ト建 設 決 議 」 が3分 の1と い う異例 の 反 対 票 を 抑 え て正 式 に採 択 され て か らは,現 実 に は建 設工 事 は着 々 と進 め られ て い る
。 しか し,今 世 紀 最 後 に して最 大 といわ れ る大 工 事 は その社 会 的 影 響 や 環 境 破 壊 の規 模 も桁 外 れ で あ る上 に一 度 完成 した ら二 度 と自然 を回復 す る こ とが で き ない とい う性 質 上,こ の推 進 論 と反 対 論 の論 争 点 を慎 重 に検 討 して み る必 要 が あ ろ う。
以 下 に,こ の論 点 を よ く整 理 し ま とめ て あ る陵 欽 侃 氏 の 「三 峡 プ ロ ジ ェ ク
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トに関 す る十 大 論 争 点 」 に基 づ い て そ の 問題 点 を説 明 す る。
1建 設
推 進 派 ダム 完 成 後 は,洪 水 防止,発 電,船 運 な どの面 で 著 しい便 益 が あ る。 我 々 の世 代 で,「 高 峡 出平 湖 」(高 く讐 え る峡 谷 の 間 に平 らな湖 が 出現 す る)と い う高 遠 な理 想 を実現 しな けれ ば な らな い。
反 対 派 三 峡 プ ロ ジ ェ ク トに は膨 大 な投 資 が 必 要 で あ り,ま た工 期 も長 く,100万 人 を越 す よ うな住 民 を立 ち退 か せ な けれ ば な らな い。ダム 完 成 後 に は,土 砂 堆 積 が 船 舶 航 行 の 障 害 とな り,上 流 で の洪 水 災 害 が増 加 し,生 態 系 環 境 も また 破壊 され る恐 れ が あ る。
長 江 流 域 の具 体 的 な状 況 か らは,「 先 支後 幹 」(支 流 を先 に,本 流 を後 に) の 原則 に則 っ てs当 面 は支 流 の 開 発 を先 に すべ きで あ る。 即 ち,支 流 での 水 力 発 電所,平 原 地 帯 で の洪 水 防止 プ ロ ジ ェ ク ト,航 路 の整 備 な ど,効 果 が 早
長 江 三峡 と三 峡 ダム71
く現 れ る プ ロ ジ ェ ク トを優 先 させ るべ きで あ る。 軍 事 的 に も,三 峡 ダ ムが 軍 事 攻 勢 の対 象 とな り爆 破 され る よ うな こ とが あ れ ば,末 曾 有 の大 災難 とな ろ
う。
2洪 水 防 止
推 進 派 三 峡 ダム は貯 水 池 に水 を蓄 える こ とに よ り中流 域 で の水 没 損 失 を減 少 させ る こ とが で き る。 これ に代 わ り得 る代 替 案 はな い。 万 一,1870年 の よ うな大 洪 水 が発 生 す れ ば,荊 江 大堤 が 決壊 し,数 十 万 人 に及 ぶ死 者 が 生 ず る恐 れ が あ る。
反 対 派 長 江 の洪 水 は上 流,中 流,下 流 の そ れ ぞ れ に基 因 す る。 三峡 プ ロ ジ ェ ク トは,単 に上 流 域 の 「川 江 」の洪 水 を制 御 す る こ としか で きず,中 ・ 下 流 の 多 くの 支 流 の洪 水 を制 御 で きな い。
も し も1954年 の よ うな全 流 域 にわ た る大 洪 水 が 発 生 した ら,三 峡 ダム で は, ご く上 流 の部 分 で の洪 水 量 の分 水 ・蓄 水 に代 替 す る役 割 しか果 た せ な い。中 ・ 下 流 で は依 然 膨 大 な洪 水 量 が 分 水 ・蓄 水 され な けれ ば な らな い こ とに な る。
武 漢 は長 江 の氾 濫 か ら守 るべ き重 点 都 市 とい わ れ るが,三 峡 ダム に は武 漢 の洪 水 水 位 を低 め る力 はな い 。 ま して下 流域 で の洪 水 防 止 に は無 力 で あ る。
1870年 の洪 水 の と きの 調 査 に よ る と,今 よ りず っ と脆 弱 だ っ た荊 江 大 堤 も 監利 の上 流 で は決 壊 しな か っ た。 今 は大 幅 に堅 固 に な って い るの で,数 十万 人 に及 ぶ死 者 が発 生 す る とい うよ うな こ とは あ りえ な い。 また1870年 に は重 慶 の洪 水 水 位 は,1981年 洪 水 に比 して4.74メ ー トル も高 か った。 もし三 峡 ダ ム 貯 水 池 に洪 水 が 蓄 え られ,土 砂 が堆 積 す る と重慶 の水 位 が一 段 と高 ま り, 四川 省 の洪 水 災 害 の度 合 い が一層 増 え る。
長 江 の大 洪 水 は5年 か10年 に1回 の割 合 で発 生 す る恐 れ が あ るた め,堤 防 を 「加 固加 高 」(堅 固 に し,高 め る こ と)す る こ とに関 心 を払 い,分 洪 区 と遊 水 区 で の安 全 施 設 を整 備 し,ま た 引 き続 き支 流 で貯 水 池 を建 設 し,上 流 域 で 水 土保 全 事 業 を強化 す る こ とが 大 切 な こ とで あ る。
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3電 力
推 進 派 長 江 流域 で は,水 力 エ ネル ギ ー資 源 は大部 分 西 南 部 に あ って東 部 に は比 較 的 に少 な い。 また 石炭 資 源 も この流 域 に はな い。 三 峡 ダム は そ こ か ら華 中,華 東 に送 電 す るの に恰 好 の場 所 で あ る。 現 在 の ダ ム案 で は,発 電 能 力 は1768万kWで あ り,ま た 毎 年 火 力 発 電 所 で の4000万 トンの石 炭 の燃 焼 に代 替 で き る。
反 対 派 三 峡 プ ロジ ェ ク トの工 事 は極 めて 長 く,着 工 後12年 で発 電 可能 とな り,全 面 稼 働 は20年 後 で あ るか ら,近 い将 来 の長 江 流域 の深 刻 な電 力 不 足 を解 決 で きな い。
そ こで,当 面 は規 模 が 比 較 的小 さ く,工 期 が比 較 的 短 く,効 果 の早 く現 れ る支 流 の水 力発 電 所 を建 設 す る と共 に,各 地 に火 力 発 電 所 を建 設 して,電 力 需 要 に応 ず べ きで あ る。
4船 運
推 進 派 三 峡 ダ ム貯 水 池 で は,バ ック ウ ォー タ ー が重 慶 まで遡 り,危 険 な浅 瀬 が 水 没 し,勾 配 と流 速 が減 少 す るた め,現 在 の3千 トン級 の船 隊 か ら 1万 トン級 の船 隊 が航 行 で き る よ うに な り,運 輸 コ ス トが 低 まる。 同 時 に, ダ ム貯 水 池 で の 流量 調 整 に よ り,渇 水 期 の 流 量 が増 加 す るた め,宜 昌 の 下 流 で の 船 運 も改 善 す る。
反 対 派 三 峡 ダム貯 水 池 で は,万 県 の下 流 にお け る周 年 的 なバ ッ ク ウ ォ ー タ ー水 域 で の船 運 を大 幅 に改善 す る こ とが で き るが
,上 流 の 先端 部 分 で は バ ック ウ ォー タ ー が変 動 す るた め に,貯 水 池 の 水 位 が下 が る時 に は 自然 の 河 道 が露 出 す る こ とに な る。 しか も,そ こで は大 量 の土 砂 が 堆 積 す るた め,元 の状 況 よ り悪 くな り,船 舶 航 行 の 障 害 とな る。
ダ ム貯 水 池 か ら排 出 され る 「清水 」(澄 ん だ水)は ,河 床 を浸 食 す るた め, 宜 昌 の水 位 を低 め る こ とに な る。 その場 合 に は,葛 洲 煽 ダ ム の 「三 江 」 で は 既 に建 設 され て い る船舶 問 門 の水 深 が足 りな くな り,正 常 の船 運 に影 響 を生
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ず る恐 れが あ る。
もし も 「川 江 」 の 船運 を発 展 させ よ う とい うので あ れ ば,時 期 を分 けて航 路 を整 備 す れ ば,現 在 の年 間 運 輸 量500万 トンを2000年 に は年 間1800万 トン, 2015年 に は年 間3000万 トンへ増 大 させ る こ とが で き る。 この方 が ダ ム の船 舶 閾 門 を建 設 す るの に比 して投 資 はず っ と少 な い。 そ の上,船 運 の必 要 性 とい うので あれ ば,本 流 と支 流 の す べ て を整 備 す る こ とに よって こそ,効 果 的 な 船 運 網 が形 成 され う る。
5堆 砂
推 進 派 長 江 の土 砂 含 有 量 は,黄 河 よ り少 な い。 近 来3上 流 域 で は森 林 の乱 伐,急 峻 な斜 面 の 乱 開 発,水 土 流 失 の 問題 が深 刻 化 して い るが,土 砂 含 有 量 に は,明 瞭 な形 で の変 化 は見 られ ない 。
三 峡 ダ ム貯 水 池 で は,「 蓄 清 排 渾 」の運 用 方 法(毎 年 の増 水 時 期 に貯 水 池 の 水 位 を低 めて 泥 水 を排 出 し,増 水 期 の後 に 「清 水 」 を蓄 え る こ とに よ り,船 運 と発 電 の要 求 を満 た す方 式)が 採 用 され るの で,大 部 分 の 堆 砂 を排 出 で き
る。 貯 水 池 に は一 定 程 度 の 土砂 が 堆積 す るが,貯 水 池 が使 えな くな る こ とは な い。
た しか にバ ック ウ ォー タ ー の上 流 の重 慶 港 区 で は深 刻 な堆砂 の問題 に直 面 し,ま た嘉 陵 江 との合 流地 点 で は 自然 の 堆 砂 ダ ムが 出現 す る可 能 性 が あ り, 従 って 重慶 の洪 水 水位 が 著 し く高 ま る恐 れが あ るが,「 優 化 水 庫 調 度 」(貯 水 池 の推 量 調 整 を適 性 化 す る)方 式 の採 用 に よ り,ま た 港湾 の 改造,整 備 及 び 竣 喋 な どの措 置 に よ り問題 を解 決 で き る。
反対 派 長 江 の 年 間 の 土 砂 の搬 送 量 は,世 界 の大 河 川 の うち で も,黄 河, プ ラマ トラ川,イ ンダ ス川 に次 い で第4位 で あ る。 近 年 の 土砂 搬 送 量 は,明
らか に相 当 な増 大 傾 向 を示 して い る。 それ故,水 土保 全 事 業 を強 め る こ とに よ り,水 土 流 失 を抑 え な けれ ば な らず,そ う しな けれ ば三 峡 ダ ム の堆 砂 問題 は ます ます 深 刻 化 す る。
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ダ ム貯 水 池 に は洪 水 防 止 の役 割 が あ るか ら,大 洪 水 が 発 生 す る年 に は洪 水 を蓄 え な けれ ば な らな い こ とか ら,貯 水 池 の水 位 は高 ま り,同 時 に土 砂 も堆 積 す る こ とに な る。
従 っ て 「蓄 清 排 渾 」 方 式 は機 能 しな い の で あ っ て,貯 水 池 の上 流 先 端 部 分 で は土 砂 堆 積 が 大幅 に増 加 す る こ とは避 け られ ず,船 運 に も悪 影 響 が生 ず る。
三 峡 ダ ム の土 砂 堆 積 を,実 際 上 いか に解 決 す るか につ い て 目下 の と こ ろ具 体 的 な方 法 等 は存 しな い。
貯 水 池 か らは比 較 的 に澄 ん だ水 が排 出 され るの で あ るが,か か る 「清 水 」 は,宜 昌 の下 流 の 河床 を浸食 し,荊 江 大 堤 の洪 水 防止 の安 全性 を脅 かす 恐 れ が あ る。 か か る浸 食 に起 因 す る粒 の粗 い土 砂 は,城 陵 磯 か ら武 漢 まで の 間 の 河 床 に堆積 し,洞 庭 湖 と武 漢 地 区 の洪 水 防 止 に も有 害 で あ る。
6住 民 移 住
現 在 の計 画 で は,移 住 を余 儀 な くされ る住 民 の 数 は,2008年 まで に113万 人,更 に土 砂 の 堆積 に よ る水 位 上 昇 後 は20万 人 以 上 の 移住 が 不 可 避 で あ るか
ら,総 計130万 人 以 上 とな る。
推 進 派 「開 発性 移 民 」(開 発 型移 住)の 方針 の 下 で ,=補 償 金111億 元 の 支 給 に加 え,自 力 更 生 と辛 苦 に耐 え る創 業 的精 神 が 発i揮され れ ば,ダ ム建 設 着 工 後20年 で移 住 を完 了 で きる。 また,発 電 の 開始 後 ,1kW当 た り三 厘(リ ー) を徴 収 して この 資金 を もって 残 され た問題 の処 理 に あて る。貯 水 池 の予 定 地 域 の 県,市 は す べ て移 転 を希 望 し,早 期 解 決 を求 め て い るの で,早 く実施 す
る こ とに よ り,貧 困 か ら脱 し豊 か にな る こ とを望 んで い る。
反 対 派 ダ ム建 設 で か か る大 量 の住 民 移 住 は国 内 外 で も前 代 未 聞 の事 柄 で あ る。 外 国 で は最 も多 くて も10万 人 で,い くつ か の プ ロ ジ ェ ク トで は人 数 が 多 す ぎ て計 画 を放 棄 して い る。 国 内 で も移 住 数 の多 か っ た の は,三 陵 峡, 新 安 江,丹 江 口 の ダ ムの 場 合 で立 ち退 き者 数 は それ ぞれ30万 人 余 だ った が , 今 日で も幾 多 の 問題 が 未 解 決 で あ る。
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三 峡 ダム貯 水 池 の予 定 地域 の両 岸 は,す べ て丘 陵地 で・ 既 に人 工 過 剰 の状 態 で,過 度 に開 墾 され,食 糧 自給 もで き ない の で,百 数十 万 人 を再 定 住 させ る こ とは現 在 の受 容 能 力 を超 えて し ま う。 現 在,「 開発 型 移 住 」の方 針 の下 で 多額 の移 住 費 の 支 出 が 約 束 され て い るた めsそ の受 け入 れが 歓 迎 され る傾 向 に あ り,更 に も とは この予 定 地 域 の住 民 で な い者 まで 「若 要 富,下 水 庫 」(豊 か に な りた けれ ばダ ム貯 水 池 の 予 定地 域 に行 く)と 言 い 出 して い る。
しか し,実 際 に移 住 の時 に な れ ば,数 多 くの深 刻 な 困難 が発 生 す るで あ ろ う。
7生 態 系
推 進 派 三 峡 ダ ム の生 態 系環 境 へ の影 響 は,有 利 な面 と不 利 な面 が あ る。
有 利 な面 は,例 え ば中 流 にお け る分 洪 区,遊 水 区 の水 没 に よ る損 失 を減 少 さ せ る こ と,ま た 水 力 発 電 とい うク リー ンな エ ネ ル ギ0源 の 開発 に よ り,火 力 発 電 で 石 炭 の燃 焼 に よ る汚 染 を減 少 させ る。
不 利 な面 は,例 えば貯 水 池 に よ る水 没 に よる影 響 で あ る。 しか し,移 住 民 の再 定 住 計 画 と都 市,農 村 の建 設 計 画 を適 切 に策 定 す る こ とに よ り,生 態 系 の 良好 な循 環体 系 を作 り出 す よ う促 す こ とが で き る。 三 峡 の景 観 につ い て は, 水 没 す る文 化 財 や 史 跡 を移 転 ・再 建 す れ ば よ い。
局 地 的 な 気候,水 質 と水 温,河 の 生 態 系 な どに対 して の影 響 は大 き くはな
い 。
反 対 派 生 態 系 環 境 と天 然 資 源 に対 す る三 峡 プ ロ ジ ェ ク トの 及 ぼす 影響 は甚 大 で あ る。 例 え ば,土 地 は い った ん水 没 す れ ば 回復 不 可 能 で あ る。 現 在 案 の 下 で は,35.7万 畝(ム ー)の 農 地 と7.4万 畝(ム ー)の 柑 橘 栽 培 地 が 水 没 す るが,こ れ らの水 没 農 地 は,こ の地 域 の最 も肥 沃 な耕 地 で あ る。
三 峡 ダ ム貯 水 池 予 定地 は19の 県 に また が るが,丘 陵 地 と山岳 地 とが96%を 占 め,平 原 地 は4%で あ る。比 較 的 平 坦 な耕 地 と都 市 が 水 没 させ られ た後 に は,丘 陵 地 と山岳 地 が 開墾 され ざ る を えな い が,そ の結 果 植 生 が破 壊 され,
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水 土 の 流 失 が増 大 す る こ とに な ら ざ る を え な い。
三 峡 と小 三 峡 の 自然 の 美観 が 影 響 を受 け る。 また,文 化 的 史 跡 の大 多 数 は 水 底 に沈 ん で し ま う。
ダム貯 水 池 の 予 定 地 域 の両 岸 に は,地 滑 りに よ る崩 壊 の危 険 地 帯 が214カ 所 もあ る。 こ う した脆 弱地 に水 が 浸 透 し,地 盤 を軟 化 させ,こ れ に浮 力 作 用 が 働 くこ とに よ り,往 時 の地 滑 りが復 活 す る こ とに な ろ う。
貯 水 池 の水 深 が100メ ー トル以 上 に も達 す る巨大 ダ ム の場 合 ,地 震 を誘 発 す る可 能 性 が あ る。 も し も誘 発 され た地 震 と地 滑 りに よ る崩壊 とが 相 互 に触 発 し合 う こ とに な れ ば貯 水 池 の安 全 性 が 脅 か され る こ とに な って こよ う
。 この ほか,も し戦 争 が 発 生 し,ダ ム が核 攻 撃 を受 け る よ うな こ とにな れ ば
, ダ ム決 壊 に よ る流水 量 は,長 江 の歴 史 に まだ か つ て見 な い規 模 の もの とな ろ う。 そ の結 果,下 流 の葛 洲fダ ム,宜 昌市,荊 江 両 岸 の広 大 な平 原,そ れ に 武 漢市 は壊 滅 的 な大 災 害 を受 け よ う。
8技 術
推 進 派 三 峡 プ ロ ジ ェ ク トの根 幹 的技 術(例 え ば,発 電y船 舶 閾 門技 術, 仮 ダ ム の大 き さ,コ ンク リー ト量 等)は 中 国 自身 の経 験 と外 国 技 術 の導 入 に
よ り解 決 し う る。
反対 派 幾 つ か の根 幹 的 技 術 は,こ の ダム建 設 の規模 が 国 内水 準 を は る か に超 えて お り,し か も世界 水 準 を さ え も超 えて い る こ とか ら,極 め て多 く の 困 難 が あ る。
9規 模
三 峡 プ ロ ジ ェ ク トにお け る ダム の高 さや貯 水 池 の通 常 水位(海 抜)の 高 さ は,工 事 量,貯 水 量,発 電 施 設 能 力 な どの建 設規 模 の主 な指 標 で あ るか ら
, これ を ど う決 め るか の問 題 は ず っ と争 わ れ て きた 。 通 常 水 位 が 高 い と,洪 水 防 止 ・ 発 電 ・ 船 運 の点 で の 便益 が 大 きい反 面,水 没 損 失 ,住 民 移 住,環 境 へ
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の 影響,投 資 も大 き くな り工 期 も長 くな る。
か つ て 孫 文 が 提 案 し た 構 想 は,単 に 三 峡 に堰 堤 を 建 設 す るか,ま た は 小 規 模 の 階 段 式 の 通 航 ・発 電 施 設 の 建 設 だ っ た 。 そ の 後1940年 代 に米 国 の サ バ ー一
ジ が 通 常 水 位200メ ー トル と い う高 位 ダ ム を 提 案 し,1950年 代 に は ・政 府 の 一 機 関 「長 弁 」が235メ ー トル の ダ ム を 提 案 した 。 そ の 後1958年 に 党 中 央 委 員 会 は200メ ー トル を超 え て は な らな い と決 定 し,更 に1980年 代 初 頭 に は150メ ー トル に 低 め ら れ た 。しか し最 近 は 水 利 電 力 部 で は ダ ム 高 を175メ ー トル に 引 き 上 げ た 。
10投 資
推 進 派 三 峡 プ ロ ジ ェ ク トに要 す る投 資 金 額 は大 きい が,こ れ は算 定 時 期 と建 設 規模 で 異 な っ て くる。 施 工 期 間 の利 子 を考 慮 に入 れ るか否 か で も大 き く異 な る。 最 近 の水 利 電 力部 の論 証 で は,通 常 水位175メ ー トル案 として, 1986年 末 の物 価 で総 計360億 元(現 在 は2500億 元 と見積 もる見 解 もあ る)と 見 積 も られ て い る。 しか し,こ れ は静 態 投 資 で あ って,借 り入 れ 資金 に対 す る 利 息 は含 まれ て い な い。
推 進 派 必 要 資金 は多様 な方 式 で進 め る。 以 下 に記 す 方法 が あ る。 外 資 を導 入 す る。 国 内 で も建 設 債 券 を発 行 す る。 エ ネ ル ギ ー源 を石 油 か ら石 炭 に 切 り換 え て,余 剰 の石 油 を海 外 に売却 して 資 金 を稼 ぐ。 葛 洲tダ ム の建 設 資 金 の借 り入 れ返 済 を延 期 して,こ の発 電 所 の収 益 全 部 を充 当 す る。 発 電 開始 後 の収 益 を充 当す る。
反 対 派 三 峡 プ ロ ジ ェ ク トの静 態 投 資 は360億 元 だ が,中 国 最 大 の基 本建 設 項 目で あ り,工 期 も極 め て長 いの で,資 金 を寝 かせ て お くこ とに な り,利
息 を考 慮 に入 れ た 動 態 投 資 で計 算 す る必 要 が あ る。
この金 額 も,よ く政 府 工 事 に見 られ る よ う な内 輪 に見積 も られ て い る こ と が 多 くy特 価 上 昇 や予 期 しえ な い支 出(移 住 費,補 償 費 の増 大 な ど)が あ り
うる。
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中 国 の国 家 財 政 か ら見 て,こ れ だ けの 資 金 を動 員 で き るか ど うか 問題 が あ りsま た い った ん三 峡 プ ロ ジ ェ ク トが着 手 され れ ば,こ れ へ の資 金 確 保 が最 優 先 され,他 の様 々 な 重 要分 野 の建 設 ,研 究 等 が 犠 牲 とな ろ う。
資金 の調 達 方 法 に つ い て も問 題 が あ る。 国 内 外 の 債 券 の利 率 は極 め て 高 い か ら対 外 債 券 の外 資 を ど うや っ て返 済 す るの か,ま た 葛 洲 煽 ダム と三 峡 プ ロ ジ ェ ク トの収 益 が 元 本 と利 息 の返 済 に充 当 され ず に建 設 資 金 に充 当 で きるの か な ど,す べ て の 点 に問題 が あ る。
第3章 ダム建 設 の 一 般 的 問題 点
1ダ ム建 設 の 大 義 名 分
河川 にダ ム や堰 を作 る こ とは,通 常 二 つ の 目的 を もって い る。 水 害 を 防 ぐ
「治水 」 と水 を生 活 用,工 業 用 に役 立 て る 「利 水 」で あ る。 古来 人 類 の 歴 史 は い か に河 川 を役 立 たせ るか の 自然 へ の働 きか け と戦 い で あ
っ た。 洪 水 を防 ぎ, 農 業 灌 概用 の水 を引 き,ク リー ンな電 力 を起 こす た め とい う大 義 名 分 が あ る
。 この よ うな 目的 か ら,世 界 的 に ダム は沢 山造 られ て きて い る
。 そ の建 設 数 をみ て み よ う。
我 が 国 の ダ ム建 設 の状 況 で あ るが,戦 後 の 工 業 化 と都 市 へ の 人 口集 中 に よ り生 ず る膨 大 な水 需 要 に応 ず るた め,膨 大 な 数 の ダム が 造 られ た
。 そ の数 は, 大 正 年 間 は3,昭 和20年 に26(高 さ40メ ー トル以 上 の ダム)が
}昭 和63年 に
1l)
は650と い う物 凄 い増 加 で あ る。
他 方,米 国 で は ど うか 。1902年 か ら1930年 ま で の 間 に,米 国 連 邦 政 府 は, 約50の ダ ム を建 設 し,1930年 か ら1980年 の 間 に1000以 上 の ダ ム を建 設 し た
。 しか し,1980年 代 か ら ダ ム 建 設 に 反 対 す る意 見 が 強 くな り
,単 に 環 境 保 護 論 者 の 間 の み な らず,一 般 人 に も広 が り,1980年 以 降,連 邦 ダ ム は 実 際 上 一 っ
12)
も造 られ て い な い。
しか し,昨 今 の ダ ム ばや り と自然 環 境 を考慮 しな い河 川 改 修 をみ る と ,現
長 江 三峡 と 三峡 ダム79
在 の 方 法 に問 題 が 多 い こ とが わ か る。 治 水 ・利 水 の必 要 性 を認 め る こ と とそ の実 現 の手 段 ・方 法 とは別 の 問題 で あ る こ とを認 識 し,よ り問題 の少 な い方 法 を選 択 す べ き もので あ る。
2ダ ム建 設 の 影 響
ダ ム に は どの よ うな問 題 が あ るの か検 討 して み よ う。
近 年 の ダム は,三 峡 ダム もそ うで あ るが,大 抵 多 目的 ダ ムで,そ のた め河 川 の 流 水 と土 砂 を堰 止 め て貯 水 池 を作 る。 この土 砂 の た め ダム は遠 か らず埋 まっ て し ま う運 命 にあ る。 貯 水 能 力 も洪 水 調 節能 力 も衰 え て行 き,や が て 滅 ぶ の で あ る。 この ダム に寿 命 が あ る こ とを何 よ り も十 分 認 識 して そ の短 期 間 の効 用 と,他 面 引 き起 こす 自然 崩壊 や マ イナ ス影 響 を比 較 す る こ とが,計 画
に あた って大 切 な こ とで あ る。
ダム の もつ 不 都 合 な影 響 として は,下 記 に9点 を指 摘 し,更 に その 中 の若 干 の点 を簡 単 に補 充 説 明 す る。
(1)上 流域 や貯 水 池 に土 砂 が 堆 積 し,貯 水 機 能 を失 わせ る。 また,水 害 を 引 き起 こす。
② 上 流域 に貯 水 が 浸 透 して土 砂 崩 れ を誘 発 す る。
(3)下 流 域 の流 れ の浸 食 と土 砂 の堆 積 のバ ラ ンス が 崩 れ,堤 防 が崩 れ や す くな った り,河 口の海 岸 が 削 り取 られ た りす る。
(4)下 流 域 に水 害 を引 き起 こす。
(5)地 震 を誘 発 し,地 盤 災害 を発 生 させ る・
⑥ 貯 水 池 の 水 質 が 悪化 し,ま た,放 出 され る水 質 も悪 化 す る。
(7)河 川 の流 れ の量 が 減 少 し,自 然 力 に よ る水 質 浄 化 が で きな くな る。
(8)流 れ が分 断 され るの で 魚類 が遡 れ な くな り,魚 類 の 生 態 系 が 破壊 され る。
⑨ 河 川 に棲 息 して い た 昆虫,動 植 物 は生 き られ な くな り,生 態 系 が破 壊 され る。
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3水 害 の発 生
何 故洪 水 を防 ぐた め の ダ ム が か え って 水 害 を引 き起 こす の か
.そ れ はダ ム 建 設 予 定 地 周 辺 の森 林 の伐 採 ・ ダム 建 設 の時 の予 想 値 を超 え る水 や 土 砂 の流 入 が必 ず 発 生 す る こ と,利 水 を優 先 させ,放 水 の 管 理 を誤 る こ と,な どの た め で あ る。
4誘 発 地 震,地 盤 災害 の 発 生
何故 地震 を引 き起 こ触 について は科学的 に+分 解明 され ていないカ§
, 次 の よ うな三 つ の見 解 が あ る。
① 岩 盤 の割 れ 目 に水 が しみ こみ,岩 盤 自体 が 軽 くな り,岩 盤 の重 み で押 さ えつ け られ て い た地 震 のエ ネル ギ0が 放 出 され や す くな る
。
② 地 中 に浸 透 した水 に よ り,そ れ まで乾 燥 して い た岩 石 が湿 潤 状 態 に な る と,小 さ な圧 力 が加 え られ た だ けで も岩 石 が壊 れ て し まい
,地 震 が 起 こ りや す くな る。
③ 岩 石 の不 連 続 面 を通 して流 水 が浸 透 す る と,そ の不 連 続 面 に沿 っ て岩 壁 が すべ り,地 震 が起 こ りや す くな る。
い ず れ にせ よ,地 中 へ 浸 透 す る水 に よ って地 震 が発 生 しや す い状 態 に な る こ とは否 定 で きな い事 実 で あ る。 しか も現 在建 設 され て い る ダム の 多 くは, 岩 盤 の よ くな い と ころ に あ るの で一 層 危 険 性 が あ る。
5下 流 域 へ の 悪 影 響
これ らの悪 影 響 は,す べ て 「川 は流 れ る もの で あ る」 とい う生 態 系 の 法 則 撫 視 して・ 「堰 止 め る」とい う こ とか ら生 ず る結 果 で あ る.そ こで,こ の難 点 を克 服 す る方法 の ヒン トは滋 賀 県 の芹 川 ダ ム に あ る。 この ダム 湖 は芹 川 自 体 を堰 止 め な い で,こ の本 流 の水 を引 い て造 った 大 きな溜 池 だ が
,こ の ダ ム 湖 は上 記 の悪 影 響 を もた ら して い な い の で あ る。 昔 の人 の 自然 を大 切 にす る
エ4)
す ぐれ た 発 想 で あ る。
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