台湾の「南方協力」と 仏領インドシナ
―黄麻栽培を中心に
湯 山 英 子 † Taiwanese Cooperation with Japan and French Territorial Indo-China:
Focusing on Jute Production
Eiko Yuyama
During the time of the mid-1930s to 1945, Taiwanese personnel were transferred by the Japanese Government to French Indo-China in order to manage the cultivation of jute. By focusing on the pro- duction of jute, this paper aims to investigate the true nature and significance of this transfer of Taiwan- ese personnel to French Indo-China.
We had first to re-examine the plans made for jute cultivation by the Central Government of Japan, the Taiwanese Central Government and those private enterprises involved in the project, and then to see what steps they took to transfer Taiwanese personnel to French Indo-China to carry out the work. Our research revealed that while the initial investigation into the prospects for jute cultivation had been a col- laborative effort between the Taiwanese Government-General, private enterprise and the world of Tai- wanese agriculture, and that while Taiwanese technology was the primary factor in the investigation of the prospect for jute cultivation, the training of Taiwanese agricultural engineers had in the first place been entrusted to Japanese industrial organisations as part of the scheme.
When we focus on one specific feature of the Second World War, namely the production of jute, from the standpoint of Taiwanese collaboration with Imperial Japan, we are able to understand more clearly the significance of Imperial Japan
ʼs multi-purpose advance into French territorial Indo-China.
はじめに
本稿は,
1930
年代半ばから1945
年までの期間に焦点をあて,台湾の仏領インドシナ進出および「南方協力」の実態を黄麻調査と人員派遣の両面から明らかにすることを目的とする1。これまでの日 本の研究では,日本対台湾,日本対仏領インドシナ(以下,仏印)という一方向的な対日関係の分析 が主流であり,台湾からの仏印進出は,台湾拓殖株式会社をはじめとする印度支那産業株式会社
(
1938
年設立,台湾拓殖株式会社全額出資)が担い,国策会社としての成立・展開過程が研究の中心 となっている2。一方,台湾史研究においても同様に台湾拓殖の進出先,あるいは対岸の中国地域「南1 南方の具体的な地域としては,1930年代以降は中国南部と東南アジアを意味するが,ここでは東南アジア,とくに仏領イン ドシナへの経済進出に焦点をあてる。
2 疋田康行編著『「南方共栄圏」―戦時日本の東南アジア支配』多賀出版,1995年。疋田康行「戦前・戦時期日本の対インドシ ナ経済侵略について」阿曽村邦昭編著『ベトナム国家と民族』上巻,古今書院,2013年。
† 北海道大学大学院経済学研究院 地域経済経営ネットワーク研究センター研究員 Researcher, Center for Regional Economic and Business Networks, Faculty of Economics and Business, Hokkaido University
支」や海南島などが研究の中心になっており3,仏印をはじめとする各地域別の検討が等閑になってい る。しかし,近年の農業分野の研究では,台湾農業技術の「南方移植」に関する検討がなされるよう になってきた4。
台湾拓殖が東南アジア諸地域への投資額から言っても重要な役割を担ったことは事実ではあるが,
台湾拓殖を取り巻く企業や商店など,そこに関わる人々がどう反応・行動したのか,また進出先での 他機関との摩擦など,さまざまな側面を有していたはずだが,農林分野に関しては,これまで見過ご されてきた部分である。但し,仏印の鉱物資源においては,現地で日本の中央政府と台湾拓殖,現地 商人および各進出企業との統制が思うように取れないといったことは指摘されている5。仏印の農林分 野においても日本軍および中央政府,国策会社が主導していたであろうが,果たして足並みを揃えて 台湾の「南方協力」がなされたのであろうか。
日本の台湾領有以降,台湾は日本の東南アジア進出拠点として位置づけられてきたが,
1930
年代 半ば以降になると,拠点としての役割が薄らいでいた時期でもあり,中央政府と台湾総督府,関わる 民間企業の思惑や利害関係が錯綜していた。それゆえ,この時期の帝国「日本」といっても一様では なく,中央政府から,および台湾側からの両方を視野に入れた検討が必要であろう6。本稿では
1930
年代後半から段階的に実施されてきた台湾の仏印調査を,農林分野での調査内容と 人員派遣の両面から検討する。ここでは,黄麻栽培を取り上げ,事前調査とともに実際の進出,その 後の栽培指導,続く黄麻工場設立までの過程を一事例として考察したい。黄麻(ジュート)は日本が 仏印を資源獲得地域とみなしてから,重点作物として米,綿花栽培とともに国策会社,民間会社など が関与した作物である。また,本稿で扱う台湾の「南方協力」とは,
1941
年6
月24
日の閣議決定「南方政策に於ける台湾 の地位に関する件」7において,台湾総督府は中央政府の指示に従い関係官庁との綿密な連絡調整の下 で積極的に「協力」を行うという,中央政府の主導が明確にされたことを指す。仏印に関しては,そ の「南方協力」が時期によってどのように変化したのか,現地でどう中央政府との調整が図られたの か,またはされなかったのかが課題として残っている。黄麻栽培において,その一側面を示したい。次に,仏印の黄麻栽培に関する先行研究と課題について触れておこう。
3 周婉窈「從「南支南洋」調查到南方共榮圈―以臺灣拓殖株式會社在法屬中南半島的開發為例」『臺灣拓殖株式會社檔案論文集』
國史館臺灣文獻館,2008年。鍾淑敏「臺灣總督府與南進―以臺拓在海南島為中心」『臺灣拓殖株式會社檔案論文集』國史館 臺灣文獻館,2008年。
4 張靜宜「台灣總督府農業試驗所之研究―以「戰爭協力」爲中心」『人文集刊』第5期(2007年7月)。洪紹洋「帝國擴張與 產業南進―試論二戰期間臺灣的角色」『日本帝國與殖民地 人流與跨境』中央研究院臺灣史研究所,2014年10月。
5 仏印のボーキサイトと燐鉱石が代表例である(安達宏昭『戦前期日本と東南アジア―資源獲得の視点から』吉川弘文館,
2002年,199‒205頁。疋田,前掲論文,2013年)。
6 河原林直人「一九三九年・「帝国」の辺境から―近代日本史における「植民地利害」の一考察」『日本史研究』第600号(2012 年8月)。「熱帯産業調査会開催過程に観る台湾の南進構想と現実―諸官庁の錯綜する利害と認識」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』第47巻第4号(2011年3月)。また,該当時期の調査機関については,台湾総督府調査課が活力を失い,代っ て満鉄東亜経済調査局やシンクタンク的な調査機関が発足し南方調査に力を入れるようになった(後藤乾一『原口竹次郎の 生涯―南方調査の先駆』早稲田大学出版部,1987年,137‒139頁)。
7 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023596700,「南方政策ニ於ケル台湾ノ地位ニ関スル件」(1941年6月24日),
公文別録内閣(企画院上申書類)昭和十五年〜昭和十八年,第二巻,昭和十六年(国立公文書館)。
1.
黄麻栽培に関する先行研究と台湾農業分野においては,前述したように張靜宜や洪紹洋によって台湾農業技術の「南方移植」に関す る研究が進められ,仏印への関与が少しずつ解明されてきている。なかでも洪紹洋は,帝国の拡張と して仏印の亜麻栽培を分析し,亜麻栽培は終戦によって未完に終わったものの,植民地台湾で培った 技術をさらに仏印で応用しようとしたことを明らかにした8。
一方,日本の研究では,吉沢南が仏印での黄麻栽培を取りあげた。吉沢は,この黄麻栽培が日本に よる強制栽培であったことを当時従事した人々の証言によって明らかにしており,その功績は大き い9。吉沢は,台湾から多くの指導員が動員され,それが現地での強制栽培の一端を担わされたと述べ ている。また,古田元夫は,ベトナム北部のフンイエン省フゥオントン村(現:フゥオンチュウ村)
に設立された大南公司経営のジュート工場(以下,黄麻袋工場は黄麻工場に統一して表記)と現地農 民の黄麻栽培による「
1945
年の飢餓促進要因」との関連性を現地住民の証言から明らかにした10。それらの課題としては,栽培に至るまでの段階的な検討がなされていないという点にある。そもそ も,なぜ台湾から技術と人員が動員されることになったのか,黄麻栽培がなぜ仏印に課せられたので あろうか,その背景をみていこう。
本稿で対象とする
1930
年代の台湾の状況は,黄麻製品の製造11が推進されたものの依然,製品お よび原料は輸入に頼る状態であり,各国の経済ブロックの影響を受けて「非常時貿易戦に直面」して いると糖業の専門家である田中重雄は『台湾時報』で訴えていた。台湾にとって黄麻を原料とする包 装袋が重要物資と位置づけられ,その背景には,台湾で生産される米や砂糖の包装袋としての需要が 大きいことによる。1920
年代から1930
年代にかけて,包装袋(ガンニー袋)の需要が伸びた要因を 分析した平井健介の研究がある。平井は,1934
年以降稲作から黄麻栽培への作付転換を奨励する動 きが見られたものの,原料の黄麻も製品も輸入に依存していたと指摘している12。当時の危機感を田 中重雄が次のように述べている。黄麻製品の利用は実に大衆的で,本邦のみならず世界的に重要視せられている。その製品中で 最も需要の多いものではガンニー袋とシアンクロースで(中略)。本邦,満洲等を合わせるとガ ンニー袋の需要は約
5
千5
百万枚,シアンクロースは1
千万ヤードに達している。黄麻製品は追 年本邦人の手によって製造供給するようになったが,尚その半数は輸入に俟つの状態である。(中略)之の原料は本邦並びに満洲の生産は微々たるもので,殆ど印度及び支那に仰いで居り,
年額
6, 7
百万円に及んでいる。(中略)各国の経済ブロックの尖鋭化は益々濃厚になってくる。殊に日印通商問題は悪化する13。
8 洪,前掲論文,16頁。
9 吉沢南『私たちの中のアジアの戦争―仏領インドシナの「日本人」』朝日新聞社,1986年。
10 古田元夫「ジュート工場のあった村の1945年飢餓―ベトナム北部フンイエン省フゥオントン村」『東京大学大学院総合文化 研究科地域文化研究専攻紀要』第1号(1997年3月)。
11 黄麻製品はガンニーとヘッシアンに分けられ,包装用麻袋はガンニー袋となる。黄麻袋工場,ジュート工場,精麻工場など 資料によってはいろいろな表記があるが,本稿では精麻も含め包装用袋を製造する「黄麻工場」に統一して使用する。
12 平井健介「包装袋貿易から見た日本植民地期台湾の対アジア関係の変容」『アジア経済』第51巻第9号(2010年9月),22頁。
13 田中重雄「台湾に黄麻栽培を提唱す―非常時貿易戦に直面し」『台湾時報』第166号(1933年9月。田中重雄は,『明日の 台湾糖業』(1939年)『砂糖の話』(1954年)などの著書がある。シアンクロースは,ヘッシアンクロスのこと。
台湾では,
1930
年代になると黄麻の生産量が少しずつ増えていった。1933
年までの微増状態から1934
年には作付面積,収穫量が大幅に増加した。1933
年から2
年後の1935
年には作付と収量は2
倍以上も増えた14。増加の要因としては,台湾総督府が増産計画を実施したことによる15。そして,1935
年台南市に台南製麻株式会社が民間資本によって設立され,黄麻袋の島内自給を目指すことに なった。これまでの台湾の製麻業界は,台湾製麻株式会社が主力であり,主に日本からの資本(主要 株主:安田善三郎・安田保善社総長,取締役社長:山下秀実・帝国繊維社長)によって1907
年に設 立された16。一方,台南製麻は上海東亜製麻(日綿,日清紡出資)が主要株主となり,取締役として 上海の山田五郎が就任するといった,いわば中国大陸からの出資である17。そして,台湾ではこの
2
社が麻袋製造の主力となった。そのほかにも,古くは葫蘆墩製麻会社18な どがあったが,1937
年には主力2
社である台南製麻と台湾製麻が日本の製麻組合に加入した。組合 加盟企業は,小泉製麻株式会社(神戸市灘),大阪製麻株式会社(兵庫県尼崎),東洋麻絲紡績株式会 社(和歌山),満洲製麻株式会社(大連)の4
社に台湾の2
社が加わったことで,日本,満洲,台湾 といった日本帝国内での供給態勢を整えたことになる。この背景には,インドからの黄麻および麻袋 の輸入が激減し,日本,満洲,台湾において帝国内自給体制を整える必要があったからである。しかし,前述したように台湾では原料の黄麻も製品も輸入に依存しており,
1939
年度の試算では,包装用砂糖袋と米袋の必要量が
2,130
万枚であり,台湾製麻が600
万枚,台南製麻が600
万枚製造し ても930
万枚の不足が生じ,工場増設の必要があることが指摘されていた19。それだけに台湾島内の 増産だけでなく,インド以外の黄麻および製品の供給元を確保することが課題となっており,仏印が 栽培に適した土地として注目されるようになった。但し,台湾製麻においては,1942
年頃から黄麻 の入手が困難になったことから徐々に経営が悪化し,軍需工場としての事業転換に迫られ,帝国繊維 株式会社から社長が就任することになった。その間,1941
年には亜麻事業に着手し,1943
年には総 督府の亜麻増産計画に呼応する形で工場を建設した。最終的には1944
年2
月には帝国繊維と合併す るに至った20。そこで,次に台湾の仏印黄麻調査からみていこう。
2.
台湾の仏印黄麻調査台湾における各機関の南方調査に関しては多くの研究蓄積がある21。近年では,日本の「学知」に
14 原静『実験麻類栽培精義』養賢堂,1943年,330頁。
15 「農業に関する総督府施設の概要」『台湾農会報』第3巻12月特別号(1941年12月),183頁。
16 『帝国製麻株式会社五十年史』帝国製麻株式会社,1959年,7‒8頁。
17 『台南製麻株式会社設立目論見書事業予算書並に定款(昭和九年十一月一日)』『第一回事業報告書(自昭和十年三月二十三 日至昭和十年五月三十一日)』『第十七回事業報告書(自昭和十七年十二月一日至昭和十八年五月三十一日)』。同書によると ハノイ出張所開設は1943年1月10日,黄麻栽培開始(1942年12月8日大東亜大臣下命)となっている。
18 『臺灣寫眞帖』臺灣總督府官房文書課,1908年,39頁。
19 山田酉蔵『民国35年10月豊原廠四十年の回顧(台湾製麻会社を語る)』帝国繊維株式会社台湾事業部,1946年,46‒47頁。
20 山田,前掲書,29‒33頁。帝国製麻は,1941年に帝国繊維,1950年には帝国製麻と社名を変更している(『帝国製麻株式会 社五十年史』帝国製麻株式会社,1959年)。また,帝国繊維は,1943年ハノイ出張所を開設し,亜麻の栽培を行った。さら に黄麻の試作を始めたようで,黄麻栽培協会に入会を要請したものの1944年9月分は不許可となっていた(「仏印に於ける 黄麻と麻袋生産の現状」『台湾委員会パンフレット共栄圏彙報(5)』財団法人東亜経済懇談会台湾委員会,1944年7月)。
21 中村孝志『日本の南方関与と台湾』天理教道友会,1988年。後藤乾一『原口竹次郎の生涯―南方調査の先駆』早稲田大学出 版部,1987年。横井香織「日本植民地期台湾における『南洋』調査活動の展開」『現代台湾研究』第17号(1999年3月)。
関する研究によって各研究機関の役割が明らかになってきた22。しかし,いずれの研究も仏領インド シナ調査の特徴までは言及しておらず,東南アジア各地域別の検討が必要であろう。筆者は,台湾に おける仏印調査および進出の初期段階を検討し,台湾が
1900
年代はじめから1920
年代にかけて継 続的に仏印調査を担っていたことを明らかにした23。それが,どう変化したのかは課題として残って おり,1930
年代になると台湾の東南アジア調査がどのように進められていったのか,ここでは仏印 の黄麻調査から検討を加えたい。1930
年代後半以降になると,台湾では台湾山林会大会と熱帯林業大会・協議会(全国大会:1938
年5
月)が開催されるなど,台湾農林界の動きが活発化する24。では,台湾がどこで存在感を示そう としていたのだろうか。それは,1935
年に台湾で開催された熱帯産業調査会に遡る。先行研究で繰 り返し強調されてきたように,1935
年に熱帯産業調査会が開催された。これを契機に台湾拓殖が創 設され,その事業が東南アジアの諸地域に拡大していくことになる。この熱帯産業調査会は,台湾島内の工業化を主目的にしていたことが先行研究で指摘されてい る25。繊維工業部門である黄麻については,第一特別委員会の答申案に含まれており,委員会で決議 された。次のような内容であった。
本島に於いては草棉,黄麻,苧麻,サイザル,萱等の各種繊維植物の生育良好なるのみならず バガスの生産亦豊富なるを以て将来之が増産を奨励すると共に之等を原料とする各種工業を一層 盛ならしめ以て島内の需要を充足し更に南支南洋への輸出を図るを要す26。
この段階においては,島内増産を進め工業化を図り,輸出を目指していたことになる。しかし,次 第に原料の黄麻が不足するようになる27。そして,この熱帯産業調査会開催の直後に,台湾総督府は 黄麻調査をハノイ領事館宛てに依頼した。これが,台湾からの仏印黄麻調査の初動となる28。
表
1
の1
を見てみよう。仏印資源調査団(1941
年10
月〜1942
年6
月)の派遣前から,台湾総督 府外事部では民間企業の技師を仏印に派遣し,調査結果を第一報(1941
年6
月)として発表した。続いて,
1942
年2
月と5
月に第二報と第三報が出されている。この第一報は,仏印資源調査団派遣 の前に実施され,一連の調査の基本となっていた。まさに,調査そのものは1941
年6
月24
日の閣 議決定前のことであり,中央政府主導というよりも台湾独自に実施した調査と推測できる。調査結果 は,北部が栽培に適した土地であること,3
月〜4
月が播種時期であること,黄麻の土壌としてはト ウモロコシに対しても適地であること,黄麻工業は未熟であり製品は輸入に依存しており,栽培して22 末廣昭編著『「帝国」日本の学知―地域研究としてのアジア(第6巻)』岩波書店,2006年。田中耕司編著『「帝国」日本の 学知―実学としての科学技術(第7巻)』岩波書店,2006年。
23 湯山英子「台湾の仏領インドシナ調査と事業経営―南亜公司と日仏製糖会社を中心に」『臺灣學研究』(國立臺灣圖書館)第 20期(2016年12月)。
24 「熱帯林業大会協議会々議録」『台湾の山林』第148号(1938年8月),129頁。
25 久保文克『植民地企業経営史論―「準国策会社」の実証的研究』日本経済評論社,1997年,215頁。
26 台湾総督府『熱帯産業調査会会議録(昭和十年十月)』,1935年,145‒150頁。
27 台湾における黄麻の耕作面積と収量は,1941年になると極端に減少する(洪,前掲論文,15頁)。
28 1936年1月台湾総督府依頼黄麻調査(ハノイ総領事),JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B09041172100,各国ニ於ケ ル農産物関係雑件/麻ノ部 第三巻(E-4-3-1-5-9_003)(外務省外交史料館)。
も販路がないことが指摘されていた。いわゆる黄麻市場が育成されておらず,この時点では,工場建 設に関しては専門家による追加調査が必要であると報告している29。
第二報は,台南製麻の大島二郎が派遣され,栽培地と工場設置はベトナム北部のナムディンが適地 であると報告している。ナムディンの理由としては,紅河の支流に運河岸があること,米の大市場で あり商業の中心地であること,さらに河川,国道,鉄道が敷設されており,ハイフォン港への連絡が 良好であることを挙げている。農民の取引については,黄麻を直接消費者に売る場合もあるが,大部 分は「生産者→集荷人→商人→貯蔵者→仲買人→行商人→加工者→消費者」の順になっており,他の 商品作物のように先物契約や前払いなどはなく現物売りを行っている。その理由として,黄麻の栽培 そのものが不安定で,貧農が多いこの地域では貯蔵倉庫の設備がないためと指摘している。提案とし ては,指導機関,および民間による買収機関を設置し,前貸制度を利用し生産物を確保する必要性を 訴えていた。さらに現況のトウモロコシ栽培面積
9
万ha
のうち,2
〜3
万ha
を黄麻栽培に転換する ことは,仏印当局の協力如何で難しいことではないと主張している。第三報になると,仏印の各栽培 地域を回り,北部では又一株式会社,南部では大南公司の試作状況が報告されている30。29 『(外事部調査第十三)仏領印度支那に於ける黄麻栽培に関する報告書(第一報)』台湾総督府,1941年6月,29‒30頁。
30 『仏領印度支那に於ける黄麻の生育状況視察報告書(仏印黄麻調査第三報)』台湾総督府外事部,1942年5月,6, 15頁。
表1. 仏印黄麻調査一覧(
1941
年〜1944
年)発表・提出時期 現地調査 調査・発行主体 タイトル
1 1941年6月 塩水港製糖(株)の福田辰治・平
野彰を派遣,調査(依嘱)。1941 年4月7日〜40日間トンキン,
コーチシナ,カンボジア
台湾総督府外事部 『(外事部調査第十三)仏領印度支那に於ける黄麻 栽培に関する報告書(第一報)』
2 1941年10月 上記1とほぼ同内容 台湾総督府外事部 「仏領印度支那に於ける黄麻の栽培調査」『台湾農
会報』第3巻10月号 3 1941年12月
(提出)
仏印資源調査団黄麻班,名前記 載なし。調査時期:1941年11 月23日〜12月5日
仏印資源調査団 「仏印黄麻調査概報」(極秘)(1941年12月9日)
4 1942年2月 台南製麻株式会社の大島二郎を
仏印に派遣,調査
台湾総督府外事部 『(外事部調査第二十九)仏領印度支那に於ける黄 麻栽培並に黄麻製品工場設置に関する調査報告書
(仏印黄麻調査第二報)』
5 1942年5月 台湾総督府農業試験所嘱託鈴田
巌を仏印に派遣
台湾総督府外事部 『仏領印度支那に於ける黄麻の生育状況視察報告 書(仏印黄麻調査第三報)』
6 1942年5月 市原豊吉(嘱託) 外務省南洋局 市原豊吉(嘱託)『黄麻対策ニ関スル研究』
7 1942年9月 1941年,既に現地調査済み 台南製麻株式会社 『南方共栄圏に於ける黄麻栽培並に当社計画』
8 1943年3月 仏印資源調査団農林四班(黄麻)
岸武八,犬飼圓碩,岡本勇,阿 度曉明,瀧山源三郎(通訳)
調査時期:1942年2月
仏印資源調査団
(黄麻班)
大東亜省南方事務 局
『仏印資源調査団報告第二号(其一)農産資源』
(1943年3月発行)
*『仏印資源調査総括報告書』(1942年7月)が あるが,同内容かは未確認。
9 1944年7月 「仏印河内よりの通信」とあり,
現地からの報告と思われる
財団法人東亜経済 懇談会台湾委員会
「仏印に於ける黄麻と麻袋生産の現状」『台湾委員 会パンフレット共栄圏彙報(5)』
出所:各報告書を元に筆者作成。3は,JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B09040768400,仏領印度支那資源調査団派遣関 係一件/資源調査書 第二巻(E-4-0-0-13-1_002)(外務省外交史料館)。
続いて,
1942
年9
月の台南製麻の報告書によると,具体的な工場建設の計画が示され,「製麻会社 は原料を買い入れて製品製造を行うだけでなく,種子の斡旋,栽培技術指導,前貸制のための金融,自社直営農場で試験研究をする」ことが盛り込まれていた。仏印は,台南製麻の経営ノウハウを実践 できる場でもあったと言える。また,農民の不安の要因として収穫と納税時期の問題があった。毎年
6
月が納税時期であり,通常であればトウモロコシの収穫後に換金し税に充当するが,黄麻の収穫時 期が7, 8
月であるため納税に間に合わなくなることが不安材料となる。しかし,これは前貸し制度で 解決可能であると述べている。栽培は,大規模プランテーションよりも農家の自家労力が適当であ り,この時点では,現地農民に考慮した計画だった31。調査主体別にみてみると,官では台湾総督府,民では台南製麻が積極的に調査を行ったことが確認 できる。台湾総督府が台南製麻の専門家を仏印に派遣して調査を行うこともあり,官民両者が協力関 係にあったと言えるだろう。台南製麻にとっても,工場進出の商機と成り得た。
一方で台南製麻は,仏印だけではなくインドネシア,フィリピンの調査を実施したものの,実際の 進出は仏印だけである。仏印の工場設立計画書には,
1
万ha
程度の黄麻栽培を行い,年産能力600
万枚程度の工場を設置し,漸次栽培面積の拡大,工場設備の拡張を意図し,資金は500
万円見当とし ていた。この時点では,名義だけでもフランス側資本を入れた合弁事業とし,直営農場と工場を稼働 させたいと計画していた。会社側は農家に対して種子の補給と前貸金の運用などの助成手段を講じた いと考えていた32。こうした進出計画の背景には,1941
年11
月23
日〜12
月5
日にかけて仏印資源調 査団が黄麻調査を開始した直後に「仏印黄麻調査概報」(1941
年12
月9
日)として仏印黄麻会社設 立計画が提出されており33,何としても台南製麻が食い込んでいきたかったと推測できる。そして,台南製麻は
1942
年には試験栽培を始め,1943
年1
月には出張所をハノイに開設した。仏印資源調査団報告には,長期的目標として日仏合弁の工場設立までが提案されているものの,差 し当たりの課題としては栽培と指導者派遣に関心が注がれた。最大の問題は,技術者と栽培指導者の 確保にあった。
また,仏印資源調査団のトウモロコシ班から,「黄麻生産増加には限度があり,政府の奨励があっ たとしても,ある程度のトウモロコシ減産も止む得ない」といった意見もあった34。もう一つ,仏印 資源調査団が入手していた事前調査資料のなかに,西口逸馬技師の現地調査報告書を元にした「仏印 ノ農作物ト其ノ改良」(
1941
年9
月)が含まれており,その記述には人的機構として日本人技手のほ かに「傭」として「台湾人と安南人」を配置し,事業を遂行することが成否に関わると述べてい る35。これが,吉沢南の指摘する「日本人→台湾人→農民」36の構造に繋がるのであろうが,仏印資源 調査団の報告書には,この点は反映されていなかった。31 『南方共栄圏に於ける黄麻栽培並に当社計画』台南製麻株式会社,1942年9月。
32 台南製麻株式会社,前掲書,26‒27頁。
33 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B09040768400,仏領印度支那資源調査団派遣関係一件/資源調査書 第二巻(E-4- 0-0-13-1_002)(外務省外交史料館)。
34 「仏印ニ於ケル玉蜀黍ニ関スル調査」,台湾大学所蔵,磯永吉文庫5:2350109。
35 「仏印ノ農作物ト其ノ改良」,台湾大学所蔵,磯永吉文庫5:2350110。西口逸馬技師による実際の調査期間は,1941年3月 28日〜6月3日までとなっていた。
36 吉沢,前掲書,68頁。
3.
仏印資源調査団の農林調査仏印資源調査団による農林調査は,
1941
年10
月から1942
年6
月まで「農林第一班(米,トウモ ロコシ)」「農林第二班(ゴム)」「農林第三班(棉花)」「農林第四班(黄麻)」「農林第五班(林業)」「農 林第六班(皮革畜産)」の6
班に分かれて実施された。調査団全体では,総勢150
人を超える大がか りのものとなった37。仏印資源調査団に関する先行研究には,田渕幸親,白石昌也,立川京一,安達宏昭などがあり,こ れらの分析対象は,①調査団結成までのフランス側との政治的な交渉過程,②調査内容の評価,③調 査資源と実際の進出内容,この
3
つに分けられる38。その結果,鉱物資源については仏印側の資料に 依拠していたこと,鉱山資源供給地(および新規の大規模鉱山開発)として仏印は価値が低いことが 指摘されている39。先行研究での共通した認識は「フランス側資料に依拠した調査だった」ことであ るが,農業分野においては異なっており,独自の調査が盛り込まれていた。立川京一は,調査後の投 資について「鉱物とは対照的に農林資源はいづれも有望との結論が下されていた」ことを指摘してい る40。前述した黄麻調査の内容から見ても,台湾独自の調査が実施され,それが意見書にも反映され ていた。そして,結果的に日本関連の仏印農林分野への投資が仏印投資額全体の30
%近くを占める に至った41。それでは,この農林分野における仏印資源調査と実際の進出および「協力」はどういったものだっ たのだろうか。ここでは,調査員数とメンバーから検討を加えたい。表
2
は,農林分野における農林 調査員の所属を示したものである。これを見ると,台湾総督府の農業技師・技手,会社所属の専門家 などの台湾関係者が農林分野においては約35
%を占めていたことが確認できる。また,仏印資源調 査団結成以前に,台湾では領有した海南島の調査を段階的に実施した。そのメンバーである農林第1
班の磯永吉,鈴木進一郎,農林3
班の三浦博亮,農林6
班の山根甚信らが両方の調査を担ったことに なる42。また,もう一つの特徴として台湾からのメンバーのうち,北海道帝国大学卒業生(在台湾)が
1/3
を占めていた。名前を挙げると,農林第1
班(農業一般・米・トウモロコシ)の磯永吉(農業試験所 技師・所長,台北帝大教授/農学科1911
年卒),鈴木進一郎(台湾総督府技師/農学科第二部1920
年卒),農林第4
班(黄麻)の犬飼圓碩(台湾総督府技師/農業経済学科1927
年卒),農林第6
班(皮 革畜産)の山根甚信(農業試験所技師/畜産科1913
年卒),荘保忠三郎(農業試験所技師/畜産科 第二部1940
年卒)らであり,植民地台湾と北海道帝国大学が人材面において強固に結びついている37 「佛印資源調査団名簿(昭和十六年九月)」によると,団員数は151人(九州大学附属図書館付設記録史料館産業経済資料部 門所蔵『戦時資源資料』請求番号・232)。
38 田渕幸親「日本の対インドシナ「植民地」化プランとその実態」『東南アジア―歴史と文化』第9号(1980年2月)。白石 昌也「第二次大戦期の日本の対インドシナ経済政策」『東南アジア―歴史と文化』第15号(1986年5月)。安達宏昭『戦前 期日本と東南アジア』吉川弘文館,2002年。立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ―「日仏協力」の研究』彩 流社,2000年。
39 立川,前掲書,197‒201頁。
40 立川,前掲書,197頁。
41 立川,前掲書,199頁。疋田『「南方共栄圏」』,792頁。
42 葉碧苓『学術先鋒―台北帝国大学興日本南進政策の研究』2010年,217‒218頁。
ことは繰り返し指摘されてきた通りで43,仏印資源調査団の農林班メンバーにもそれが色濃く反映さ れていた。
団員全体において,どういった基準で人選がなされたのかは,現資料では解明できていない。しか し,台湾から多くの専門家や技術者が仏印資源調査団に参加し,その調査力で台湾のこれまでの農林 研究・技術の蓄積が発揮できたものと推察される。黄麻調査に関しては,台湾総督府と民間企業が協 力して事前調査を行っていたことがその後の調査の前提としてある。
4.
仏印への「南方協力」前述したように,
1941
年6
月24
日の閣議決定「南方政策に於ける台湾の地位に関する件」以降,台湾においては中央政府が関与した「南方協力」が実施されていった。表
3
の要員派遣実績仏印関係 分を見ていくと,①蔬菜栽培指導員の派遣,②黄麻関係技術員の派遣並びに種子の送付,③米穀検査 指導員の派遣,④安南語通訳・英語通訳の派遣,⑤労働者の供出,⑥運輸関係要員の派遣,⑦糖業関 係要員の派遣,⑧共栄会仏印支部設置,⑨博愛会診療班の派遣,⑩映画事業調査員の派遣,⑪米・ジュート増産指導員の派遣,以上の実績が確認できる。農業技術者,運輸会社社員,労働者など多く の人員が供出されたことは表
3
の人員数からも明らかである。また,仏印資源調査団の意見書には,
1942
年度にすでに実施した応急施策が記載され,(1
)黄麻 種子200
石提出,(2
)内地4
人,台湾人50
人の技術指導員の派遣,(3
)バクニン省800
ヘクタール に指導員を派遣し台湾産種子約80
石を播種栽培し,同種子約120
石を仏印側に分与した(仏印側は,仏印種子を
1200
ヘクタールの土地に栽培),(4
)「日本種子」に依り生産した黄麻は精洗麻として日43 岡部桂史「農業技術の移植と人的資源」須永徳武編著『植民地台湾の経済基盤と産業』日本経済評論社,2015年。山本美穂 子「台湾に渡った北大農学部卒業生たち」『北海道大学文書館年報』第6号(2011年3月)。呉文星「札幌農学校と台湾近 代農学の展開―台湾総督府農事試験場を中心として」中京大学社会科学研究所編『日本統治下台湾の支配と展開』社研叢書
15, 2004年,479‒522頁。),呉文星「札幌農学校卒業生と台湾近代糖業研究の展開―台湾総督府糖業試験場を中心として
(1903〜1921)」松田利彦編『日本の朝鮮・台湾支配と植民地官僚』国際日本文化研究センター,2008年,89‒105頁。
表2. 仏印資源調査団団員(農林
1
〜6
班)班 人員 内台湾関係者 台湾関係者(所属)
農林一班(米,トウモロコシ) 12 5 磯永吉(台府技師),鈴木進一郎(台府技師),衣斐三郎(大日本製 糖),前田長太郎(台府技手),関牟田勇(台府雇)
農林二班(ゴム) 7 0
農林三班(棉花) 7 3 三浦博亮(台府技師),青砥正次(台南州立農事試験所技手),松延 繁(台府雇)
農林四班(黄麻) 6 2 犬飼圓碩(台湾総督府技師),岡本勇(塩水港製糖株式会社技師)
農林五班(林業) 8 3 関文彦(台府農業試験所技師),永山規矩雄(台府農林試験所嘱託),
黄紹栗(台府雇)
農林六班(皮革畜産) 5 3 山根甚信(台府農業試験所技師),矢口斉(台湾南方協会技手),荘 保忠三郎(台府農業試験所技師)
合計 45 16
出所: JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B09040772900,仏領印度支那資源調査団派遣関係一件/調査団報告 第二巻 (E- 4-0-0-13-2_002)(外務省外交史料館)から作成。
本に輸出し,仏印産穀類輸送の麻袋として利用すること,が記されていた44。前述したように,人員 に関しては再三の派遣要求が出ており,それに対して台湾側は応えていたことが理解できよう。
前記①
,
②,
⑪の農業関連技術者派遣については,台湾島内で盛んに農業実務などの教育が実施さ れていた。表4
は,農業技術員の養成機関を整理したものである。これによると,台湾総督府拓士道 場,台湾総督熱地農業技術練成所,南方棉作技術員養成事業,拓南農業戦士訓練所の4
つの養成機関 の存在が確認できる。台湾総督府拓士道場については,「内地人」を対象にしており,1940
年1
月に 開始していたことから,1942
年6
月24
日の閣議決定前には機能していたことになる。しかし,蓋を 開けてみると当初予定の「内地」からの台湾農業移民養成というよりも,南方諸地域への希望者が多 かった(表4
参照)。現資料では各機関がどうすみ分け,どう連携していたかはわからないが,台湾総督府拓士道場以外 は
1942
年から順次,農業技術者養成に取り組んでいたことになる。次に実際に仏印に派遣された黄 麻(ジュート)栽培指導員について,どういった送り出し方法が採用されたのかをみていこう。5.
黄麻指導員の派遣前掲表
3
の派遣実績にあるように,1943
年までに「技手・属4
人,技術者50
人の派遣済」となっ ており,第一陣として1942
年3
月に日本人技術者の江副辰次(台南州技手),友寄栄次郎(台南州 物産検査員),有村増蔵(台南州郡技手),松本寿一郎(台南州雇)の4
人と台湾人指導員50
人(う ち2
人が日本名)が仏印に送られた45。派遣まで急を要していたようで,1942
年2
月時点で台湾軍か44 大東亜省仏印資源調査団『仏印資源調査団各班報告に対する意見書集』外務省,1942年11月,56頁。
45 外交史料館「外国旅券下付表一件」J-2-2-0, J13-7。
表3. 「南方協力」要員派遣実績・仏領印度支那(
1943
年8
月まで)協力項目 要請 実施実績(人員)
蔬菜指導員派遣 台湾軍経理部 農業技術員5人 推薦・派遣した 黄麻関係技術員派遣・種子送付 仏印大使府 技手・属4人,技術者50人の派遣済
紅皮種50石,青皮種200石送付済 米穀検査指導員の派遣 台湾軍経理部 技術員3人派遣中
安南語通訳派遣 台湾軍司令部 本府関係職員11人,民間銀行職員7人派遣した(用務完了帰還)
英語通訳の派遣 台湾軍参謀長 島内学校職員22人出発済み
労働者の供出 仏印派遣軍
目的:軍施設設営
台湾労務奉公団組織(府嘱1人,労働者1000人供出した)
運輸関係要員の派遣 台湾派遣軍 台湾運輸会社社員58人逐次派遣した 糖業関係要員の派遣 仏印派遣軍 塩水港製糖会社社員3人派遣した
共栄会仏印支部設置 軍 チョロンに支部設置。啓発宣伝工作:巡回映写,印刷物頒布,日語普及 博愛会診療班の派遣 在仏印特派大使府
(外務省を通じて)
診療班派遣(2人),医院開設(ハノイ,サイゴン:医師2人)
映画事業調査員の派遣 満鉄映画株式会社神戸支社長・森久を本府嘱託として派遣。調査先を折衝中 米,ジュート増産指導員の派遣 台拓:ハノイ近傍に米,ジュート試作場を開設するための調査,本府技
師1人派遣した
出所:『南方協力要員提要』台湾総督府外事部,1943年8月,111‒114頁から作成。
ら増員要請が出ており,その内容は,「現地自活に必要なる本島人
64
名(叺縄製作者)及黄麻増産の 爲技術者内地人4
名,本島人50
名(約6
ヶ月間)差出しを再三要求」「3
月22
日高雄港から増産要 員が出発予定」46となっていたことから,現地では技術者不足が顕著であったことが理解できる。前 述した再三の派遣要請から,実際に旅券が発行されたのは同年の3
月に入ってからになる47。第二陣は
1942
年9
月〜10
月の仏印資源調査団(仏印資源調査団附雇)としての継続派遣である。第一陣としてすでに仏印に派遣されたメンバーのうち,江副辰次と有村増蔵の両技手,江本義雄と芳 田上池の指導員,台湾指導員の黄燦銖,郭龍都,黄全甲,陳王輝,豊田慶隆,張錦燦,廖遠足,黄炳 垣,陳昆崙,張藤旺,黄錦川の合計
11
人が第二陣として「仏印資源調査団附雇」という形での継続 派遣となった。そのほかにも第一陣の郭開,甘祺珍,李逢源,曽海波,蘇阿環,楊金獅,王徳成らの46 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01000146300,昭和17年「陸亜密大日記」第10号1/3(防衛省防衛研究所)。
47 外交史料館,前掲,「外国旅券下付表一件」。
表4. 農業技術員の養成機関一覧
名称 開始年 対象 訓練地(機関)
【台湾総督府拓士道場】
*日本青年協会 1940年〜
1年間
内地人:100定員
甲種:満21〜35歳未満。台湾 の官営農業移民として採用。
乙種:満15〜30歳未満。南支 南洋進出
⇒実際は(1942年7月現在)
内地68,島内19。大部分が 南方諸地域を希望。
台中州北斗郡北斗街東北斗 応募先:
内地,日本青年協会。
台湾,台湾総督府殖産局野農務課。
経費:全員寄宿舎。授業料,食費,その他経費は官 給。
【台湾総督府熱地農業 技術練成所】
南方送出本島人農業技 術員練成事業 主管:総督府 委託:各試験所場長
1942年〜
1年間
*第2予備金 42万円。
南方農業に従事する原住民を直 接指導すべき適切なる下級農業 技術員(本島人農業者中南方進 出適格者,南方送出)
18〜35歳未満。農業経験者。
【計画】9ヵ所
府農業試験所70(一般50,畜産皮革20)府嘉義農 業試験所40(一般20,棉作20)
府鳳山熱帯園芸試験支所50(果樹及蔬菜園芸40, 農産加工10),台北州立農事試験場40(一般25, 蔬菜15),新竹州立農事試験場40(一般),台中州 立農事試験場55(一般40,棉作15),台南州立農 事試験場40(一般,主に黄麻作),高雄州立農事試 験場40(一般,主に苧麻作),府棉作指導所120(棉 作),合計495。
南方棉作技術員養成事 業の受託(日本棉花協 会)
1942年6月〜
6ヵ月間 80定員
南方送出棉作技術者養成。 6月27日入所式(合宿所建設中,7月20竣工),研 修期間105日。83人(鐘ヶ淵紡績会社外40,台湾 拓殖会社外39, 14会社及日本綿花栽培協会3,拓士 道場1)18〜45歳。
【拓南農業戦士訓練所】
拓務省南方農林技術員 練成事業の一部練成受 託
1942年8月〜 第一:高雄州潮州郡潮街様子脚,第二:台中州立実 践農業学校,第三:員林実践農業学校,第四:新榮 愛国青年研修所,第五:虎尾農業専修学校,第六:
北門専修農業学校,第七:東石専修農業学校。
出所:「南方農業開発に対する台湾総督府の協力施設概要」『台湾農會報』第4巻11月号,1942年11月,2‒8頁。「南方送出本島 人農業技術員の鍛錬計画」『台湾農會報』第4巻8月号,1942年8月,98, 99頁。「南方棉作技術員養成講習会経過」『台湾 農會報』第4巻10月号,1942年10月,95‒100頁。加藤邦彦『一祖同仁の果て』勁草書房,1979年,251頁。これらを 参考に筆者作成。
7
人もまた継続して農業指導員となった48。前者
11
人がなぜ「仏印資源調査団附雇」とされたかは,不明であるが,あえて推測するならば,現地では黄麻をはじめとする農業技術者が継続して必要であり,旅券発行を迅速に行いたかったもの と考えられる。また,中央政府から台湾総督府に課せられた仏印資源調査団費用の問題があり,第二 陣の継続技術者および指導員を仏印資源調査団の台湾総督府経費で賄いたかったとも推測できるが,
現資料では経費の分担まではわからない49。
次に,どういった派遣ルートを使って現地で農業指導にあたったのか,実際に派遣された人員から 検討を加えてみたい。
【事例
1
】:廖遠足(1922
年生)第一陣・第二陣陳文添が実施した聞き取り調査によると,廖遠足は「拓南塾(台南)」50で技術研修を受けたことに なっており,その後台南州農業指導員試験に合格(
1941
年11
月)した。1942
年1
月,江副技師(台 南州農会)と共に仏印で黄麻栽培(6
カ月間)に従事した。廖遠足の口述によると,1942
年1
月か ら6
ヵ月間の派遣は,台湾から50
名の指導員が4
班に分かれて仏印で黄麻栽培の指導を行い,同年8
月に契約が切れた24
人が帰台し,26
人が残留したとある。これは,第一陣派遣と仏印資源調査団 に組み込まれた第二陣残留組みと符合する51。渡航時期が記憶と若干異なっているものの,廖遠足は 残留組みとなり,台湾拓殖の子会社である印度支那産業に現地採用となった。現地での黄麻栽培にあ たっては,台湾種,マドラス種を使用した52。【事例
2
】:莊百泮/林文荘(1924
年生)吉沢南によると林文荘(本名:莊百泮)は,台湾総督府熱地農業技術錬成所を
1943
年3
月に修了 し,1943
年5
月28
日サイゴンに向かった(農業指導員40
人ほどが高雄から乗船と記憶)。6
月5
日 ハノイ大使館に集合し,現地企業の大南公司に割当られた。そして,バクニン省イエンフォン県イエ ンラン村で黄麻栽培指導に従事した。終戦でベトミンに逮捕され(1948
年釈放),その後ベトナム人 女性と結婚した。日本には1980
年にインドシナ難民として家族とともに上陸し,定住した。バクニ ン省では,大南公司(1942
年バクニン事務所開設),台南製麻ほか2
社が省内を地域割していたと記 憶していた53。48 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B09040766500,仏領印度支那資源調査団派遣関係一件 第二巻(E-4-0-0-13_002)
(外務省外交史料館)。芳田上池指導員については,1942年3月の旅券下付では確認できていないが,1942年9月〜10月の 任命では継続として扱っている。また,台湾指導員の何人かは派遣を取り消されたりしているものの,最終的には11人プ ラス7人が1942年9月以降も継続して仏印派遣となる。
49 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023597100,「仏印ニ於ケル現地機関ノ整備ニ関スル件」(1941年7月21日),
公文別録内閣(企画院上申書類)昭和十五年〜昭和十八年,第二巻,昭和十六年(国立公文書館)。
50 拓南農業戦士訓練所と思われる。
51 外交史料館,前掲,「仏領印度支那資源調査団派遣関係一件 第二巻」。
52 陳文添「ある台湾拓殖海外支店経験者の証言」台湾オーラルヒストリー研究会編『台湾口述歴史研究』第4集,2011年3月。
53 吉沢,前掲書,122‒125頁(文中,林文荘)。そのほかに北野典夫『南船北馬―天草海外発展史(後編)』みくに社,1982年,
174頁にも記述がある。
【事例
3
】:嘉義農林学校卒業生6
人(南部仏印)54*括弧は嘉義農林学校での回生①謝添印(
2
回生)江商株式会社:ミモット(サイゴンの近く)に勤務。台湾で採用(大阪の江商勤 務経験有り)②陳斗桂(
15
回生)台湾拓殖:クラチェ(カンボジア)に勤務③張岳揚(
17
回生)江商株式会社:チャムカアンドン(カンボジア・コンポンチャム)に勤務。台 湾で採用④郭孟協(
19
回生)江商株式会社⑤沈天賜(
20
回生)三井物産⑥官來平(
20
回生)三井物産【事例
3-1
】③張岳揚(1923
年生)嘉義農林学校(
1940
年卒:17
回生)卒業後に台湾総督府米穀局に勤務した。その後,総督府を退 職し,江商株式会社(台湾)で南方行き要員として採用された。採用されたものの,乗船待機(約1
年間)があり,実際に出発したのは1945
年1
月の船であり,サイゴンに到着してからコンポンチャ ム近く(カンボジア)のフランス人経営のゴム園・チャムカアンドン(契約)にて綿花栽培を開始し た。終戦を迎え,サイゴン市内の江商事務所で待機し,チョロンにあった台湾同郷会の支援を受けて 台湾に戻った55。【事例
4
】:呉連義(1923
年生)日本名「新井良雄」嘉義農林学校(
1943
年卒:20
回生)。1944
年5
月に台湾拓殖の社員として仏印に赴任した。北部 タインホア省農業試験場で地元農民に綿花,黄麻の栽培を指導した。戦後,ベトナムに残留(日本の 引揚者対象とならない)56。呉連義の手記によると,1943
年1
月に台湾拓殖に入社し,子会社の台湾綿 花株式会社の嘉義練綿工場農業系勤務となり,綿花作の研修を行ったとある。1944
年5
月にハノイ に到着し,台湾拓殖ハノイ支店タインホア農業試験場(所)の勤務となった57。これらの事例から,嘉義農林学校の卒業生が主要な役割を担っていたことが確認できる。そして,
謝添印と張岳揚は(上記【事例
3
】①と③),台湾で採用されてから仏印に赴いた。仏印の農業分野は,嘉義農林学校卒業生の吸収先でもあった。張岳揚の口述によると「兵隊で南方諸地域に行くよりも,
専門の農業指導で赴きたかった」という。限られた条件下での職業選択であったと言えよう。謝添印 もまた江商への就職は,南方派遣要員という条件付きだった。また,嘉義農林学校で学んだ農業技術 者の場合,黄麻栽培だけでなくカンボジアの綿花栽培にも携わっていた。張岳揚によると,「基本と なる栽培方法は学校で習得していたため,両方の栽培が可能だった」と口述している58。
54 筆者聞取り(2014年10月6日張岳揚氏),嘉義大学校史室黄氏・卒業年確認(2014年10月13日)。
55 筆者聞取り(2014年9月23日,10月6日の2回,張岳揚氏)。
56 新聞記事,水野孝昭(戦後50年特集)「狭間の群像―ふたりの日本人」(朝日新聞1994年11月:全6回)。
57 呉連義『日本が私を捨てた−越南残留台湾人元日本軍属の望郷』私家版,2001年10月。蔣為文「滞越台籍日本兵呉連義之 案例研究」『台湾風物』(2010年)。
58 筆者聞取り(2014年9月23日,10月6日の2回,張岳揚氏)。