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フンボルトによる教育改革の構想と展開 ―学術委員会の設立と審議に光を当てて―

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カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 1 ─. 1−14頁. Ⅰ.問題設定と研究の目的 「あるゆる者」に教えられねばならない「あらゆること」の規定を問題とする一般陶冶論において,宗. 務・公教育局長官として19世紀初頭のプロイセン教育改革を担ったフンボルト(W. v. Humboldt: 1767- 1835, 長官期 : 1809-1810)の教育改革構想は,今日のドイツにおける教育改革でもなお有効な参照規準と して受容されてきた。フンボルトの教育改革に関するこれまでの研究では,「(彼の改革は)支配的な地 位を得つつあった陶冶理想の純粋な実現以外のなにものでもなかった。それは現実の政治的な要因が容 赦なくこの高尚な命題のもとに服従させられるほどに純粋なものであった」(Spranger 1965, S. 133)とい う20世紀初頭のシュプランガーによるフンボルト理解が支配的となり(vgl. Menze 1975),とりわけ経済 的,政治的論理への移行を強く推し進めたとされる PISA 以降のカリキュラム改革を「脱教育学化」や. 「経済化」と批判する際の論拠先としてフンボルトの「一般的人間陶冶(allgemeine Menschen bildung)」が 頻繁に参照される(vgl. Koch 2003; Ofenbach 2004)程に強い影響を残してきた。. しかしながら,「純」教育学的な改革構想という理解によって,学校が社会的な機関として政治的磁場 の中に存立していることが見過ごされてしまうことが問題視されてきた。ドイツの古典的一般陶冶論を, 純粋な人間理想に終始せず,むしろ「現実の経済的,社会的,政治的な関係に対する譲渡」(Klafki 2007, S. 45ff.)や戦略を考慮して再解釈することが求められ,教育改革の中身の次元から,政治的磁場に置か れた教育改革. 4 4. そのものをそもそもどう捉えていたのかという社会―政治的次元へと研究課題が移行し た (1)。換言すれば,フンボルトの改革に関する研究では,彼の構想ばかりが注目され,純粋に一般陶冶 論にのみ基づく(とされる)構想が,現実の改革過程の中でどう展開されたのか,特にその過程におけ る構想実現のためのフンボルトの戦略や貫徹と転轍の解明には殊検討の余地が残っている (2)。. そうした課題状況に対して「19世紀初頭の一般陶冶構想は経済乖離とか社会乖離なものでは全くなかっ た。むしろ正反対で経済基盤,社会的実践領域,職業活動,さらにいえば市民社会の中で身分封建的関 係を越えられそうなもの,越えようとするもの全てを目指していた改革であった」(Lohmann 1984, S. 74) ことを,多くの行政史料から精密に明らかにしたローマンは,当時宗務・公教育局下に設立された学術. フンボルトによる教育改革の構想と展開. ―学術委員会の設立と審議に光を当てて―. 宮 本 勇 一 (広島大学大学院・日本学術振興会特別研究員 (DC2)). Ⅰ.問題設定と研究の目的 Ⅱ.フンボルトの教育改革の構想 1. 近代社会における普遍的規準の探究と人. 間形成(Bildung)の理論 2. 陶冶理論の公教育論への展開とプロイセ. ン教育改革の基本方針. Ⅲ. フンボルトの教育改革の展開 ―学術委員会の設立とその審議過程の特質― 1.学術委員会の設立の経緯と人選の特質 2. 学術委員会による教育課程一般規準の審. 議過程 3. 学術委員会によって編成された教育課程. 規準にみるフンボルトの方針の貫徹と屈折 Ⅳ.研究の成果と課題. 〔研 究 論 文〕. フンボルトによる教育改革の構想と展開. ─ 2 ─. 委員会(wissenschaftliche Deputation)の活動に改革の駆動源を見出した。学術委員会は,局から独立し た審議機関として,教育課程や学校に関する案件を公教育局と市民社会の両方から引き受け,教育課程 の一般的規準を作成する任務を負った。学術委員会での活動から当時の社会―政治的文脈に着目した教 育課程編成のプロセスに着目した研究はあるが,Lohmann(1984)はシュライアマハーに,池野(1997) はヘルバルトに着目するなど,フンボルトと同委員会の関わりの言及は限定的で,かつ同委員会の具体 的審議過程は全くと言っていいほど等閑視されてきており,本稿の文脈としては検討の余地が大幅に残っ ている。また,Baumgart(1990)のような教育史研究でも学術委員会を通したプロイセン改革の政治的性 格が論じられるが,フンボルトは理念的位置づけに終始し具体的な改革との関与が描かれてこなかった。. その中で,学術委員会における中等教育課程の規準再編に関する審議資料集であるGeheimes Staatsarchiv (GStA)所収の Die Lehrpläne für gelehrte Schulen und die Schulbücher 1810-1816は,フンボルトからの委員 会への方針の通達が収められ,委員の学術的知見と幅広い視野に立った社会情勢の洞察が織り交ぜられ ていく審議と規準形成のプロセスが看取されうるなど,フンボルトの改革構想の貫徹と屈折の一端を観 察できる興味深い資料である。もちろん同改革には教員養成や試験制度など様々な側面から現実的交渉 過程を見ることができるが,本稿ではカリキュラムの規準編成のあり方,という教育改革の本丸とも呼 べる点にあたる部分に光を当て,フンボルトの改革構想と学術委員会への指南を結び付けていくことが 上記の問題設定に取り組む端緒として非常に重要となる。以上から,本稿では,フンボルトの教育改革 のあり方に関する構想をその思想的背景と共に明らかにしたうえで,同資料を頼りに,学術委員会での 教育課程編成の審議過程を局長との不即不離の関係を捉えながら明らかにすることを検討課題とし,フ ンボルトの教育改革の社会―政治的次元における特質を明らかにすることを目的とする。なお,フンボ ルトの著作については,全集 Königlich…(1903-1936)の批判校正版 Flitner/Giel(2010)を用い,所収 ない文献のみ他からあたった。GStA 所収の原典は一部がシュライアマハー全集等に翻刻されているが, 微細な情報の不明瞭点があったため,原典を直接引用した。「Bl.」はアーカイブ保存時につけられたも ので,「葉,枚」を意味する「Blatt, Blätter」の略であり,「頁」を意味する「S. 」に対応する。. Ⅱ.フンボルトの教育改革の構想 1.近代社会における普遍的規準の探究と人間形成(Bildung)の理論 フンボルトが教育改革で,過去の教育の何を改め,新しい時代の教育のあり方を何と規定したのか。. この背景的理解のためには,彼が新しい時代における人間の思考と行為,社会や事物の価値のあり方を 規定する「規準」をどう考えていたかを理解することが必要となる。というのも,「人間は,彼が究極の 目標として一切を従属せしめ,また絶対的規準(Maass stab)として一切を判断できるような何かを探し 出さねばならない。〔中略〕問いは,人間に対する事物及び人間の価値を普遍的規準として決定するもの は何かである」(Humboldt 1797, S. 507)と,思想形成初期の思考が全てこれに捧げられていたといって も過言ではなく,近代の社会,人間,事物のあり方や価値を規定しうる根源的規準にこそ,後に構想さ れる新しい教育のあり方も基礎づけられることとなるからである。. フランス革命の観察を通して生まれたこの問題関心は,とはいえ,近代社会における個々人の思考と 行為や社会のあり方の普遍的規準の設定の不可能性の洞察とはじめから結びついていた(vgl. Benner 2003)。フンボルトが革命期フランスで見たのは,「全員が啓蒙の理念を一様に口にしつつ」も,個々人 の思考と行為はばらばらに離散し「個々人が完全にかき消され」「激流に飲まれて」いる「混沌」であっ た(Humboldt 1789, S. 52)。現実の個々人の思考と行為が規準づけられない離散的混沌状況を前にして, 自由平等博愛の統合理念は虚構でしかなく,かつての時代における聖書や封建的家父長制のような「唯. カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 3 ─. 一正当なものとして,何か絶対的で道徳的に必然的なものとみなされていたようなこれまでの哲学的時 代のものから一体どれだけのものがかつてのまま保たれうるかは全く疑わしい」と,普遍的な規準の設 定が不可能であることを洞察したのである(Humboldt 1797, S. 506)。. 事物と人間の価値に関する規準の必要性と不可能性の困難のはざまで,フンボルトは,彼が見たフラ ンス革命そのものから近代的な人間形成の規準づけの方途を見つけることとなる。フンボルトがフラン スで観察した「混沌」状況は,むしろ,啓蒙理念のような「理性の努力」そのものが「その目指してい る対象(フランス市民:引用者)そのものから変化を受け」ることで形成的に変容していくダイナミズ ムそのものと捉えられた(Humboldt 1791, S. 35)。フランス市民にフンボルトが見出したのは,虚構の理 念・規準への諸個人の統合ではなく,むしろ立てられた規準の変容可能性が諸個人に開かれていること であり,世界が個々人に働きかける分だけ,かえって個々人からの主体的な吟味を受けて多様かつ動的 な変容に開かれていくような作用と反作用の文化的な形成力であった,ゆえに,「我々の自我を世界と結 びつけて,最も普遍的で,最も触発しあえる,最も自由な相互作用を保つ」ことだけが「人間の認識の あらゆる諸分野への従事を評価するための真の規準(Massstab)となる」と述べる(Humboldt 1794/95, S. 236)。習得されるべき知識・技能といった具体的・実質的価値内容ではなく,一歩メタ次元に引いた. 「相互作用」こそが個々人の人間形成の新たな規準となりうるというのである。この時,人間の生の規準 は「一定の実質的な目的に導くものではな」くなり,常に「未だ知られざる何か(unbekannte Etwas)」と して,「最後の目的に達した,極限を窮めたというような点は存在しない」(Humboldt 1797, S. 512)もの と捉えられた。. 相互作用という規準は,文化的諸実践の次元にも適用されていた。政治や教育,道徳や経済活動を含 むあらゆる文化実践が宗教的実践へと合目的的・調和的に従属していた前近代社会や,教育の営みを「政 府への参加のために犠牲にする」(Humboldt 1792, S. 104)ような古代ギリシャの社会とは違い,近代社 会では,「芸術が真の芸術であり,哲学が真の哲学であることによってのみ,正確に有益な影響を及ぼす のである」(Humboldt 1797, S. 511)。教育実践もまた,国家の奉仕者や社会職業的慣習に実質的に規定さ れた「特定の徳あるいは特定な存在の仕方」を「考慮することなしに人間を形成しなければならない」. (Humboldt 1792, S. 105ff.)と固有な目的をもった文化的実践の一つとみなされる。政治と経済から自立 した固有な文化実践として,「教育者の運命が,その人自身の活動による成果に依存しているところの方 が,国家に援助を期待することに依存しているところよりもはるかに良い教育者が形成される」(ebd., S. 108),つまり教育固有の目的を達してはじめて政治や労働へと有益な結果をもたらしうるというような, 教育―政治,教育―労働の水平的で互恵的関係を生み出そうとしていた。政治的要求を実質的規準とす る教育では個人は国家権力に追随する「臣下(Unterthan)」としかならないが,人間形成という教育固有 の論理によって教育された個人は,「国家の中で自己活動的になるという有益な結果」を生み,「その国 家の憲法の試金石」として「国家自体の憲法が変更されるという有益な結果も出現する」(ebd., S. 76, 105- 108)。労働―教育の関係もまた,職業訓練という実質的規準への教育では労働は単なる「内的陶冶を目 的としない富の獲得」として自己疎外に陥るが,一般的人間陶冶によって「農民と職人から芸術家を形 成できるかもしれない。即ちその職業をその職業のために愛する人,自発的な力によって自らの創造性 によってその職業をさらに改善し,それによって自分の知的諸力を精錬させ,人格を純化」させること のできる職人を生み出せると言う(ebd., S. 77)。文化的諸実践の差異分化に基づく,互恵的かつ相互規 定的な相互作用関係への再構成を行うことで,教育の相対的自律性と教職の職業的固有性の基礎が洞察 されたのである。. フンボルトによる教育改革の構想と展開. ─ 4 ─. 2.陶冶理論の公教育論への展開とプロイセン教育改革の基本方針 フンボルトにおいて,新しい時代における人間と社会の規準とは,ある特定の徳や価値,知識や技能. といった実質的内容に関連するものではなかった。相互作用すること,自らが人や自然,社会(=世界) に働きかけ,世界から働きかけられ,知識と能力を増す中で,新しい価値観を形成したりすることこそ が根源的で普遍的な規準と洞察された。だからフンボルトが局長となった時,たしかに中等教育課程に ついて,「人間の本質の主要な機能」からなる「体育的教授,美学的教授,教授学的教授」及び「数学的 教授」「言語形式のみによる純粋な哲学的教授」「歴史的教授」の5つを提案したのだが(Humboldt 1809d, S. 188f.),この教授群自体が根源的・普遍的規準であったのではなく,「人間の本質の主要な機能」であ ることだけがそれにあたるとされた。そしてこの人間の本質の主要な機能が,自己―世界関係の媒介項 となる「学問(Wissenschaft)」に見出され,「最も深く最も純粋な見方(Ansicht)に到達させること」が,. 「基礎教育の段階から大学の修了までのプロセス」を貫く「当学校局の最高原理 Grundsatz」(Humboldt 1809f, S. 191),すなわち教育課程の根源的・普遍的規準とされたのである。5つの教授は,その規準に 照らして洞察された領域に過ぎない。実際にフンボルトが自身の教育課程の構想を,国家の中央長官と して一律に全国の教育課程の規準とするような試みを立てたことはなかった。むしろ,「私の主要な努力 はただ単純な原則(「最高原理」:引用者)を立て,厳密にそれに従って行動し,あまりに多くの方法で はなくて決められた,効力を持ったやり方で影響を与え,最初の取掛かりや方向性が必要なものの他は 自然に委ねておくこと」(Humboldt 1809f, S. 211)と限定し,市民社会の自由で多様で触発的な相互作用 を促進することを任務としていた。「教育は国民(Nation)の問題である。我々は細心の注意を払って, 国家の力をもっと減らして済ますこと,そして国民を我々の関心に引き寄せることに備えをしていれば, 我々は自分たちに託されたものを〔中略〕別の人の手に委ねればよいだけなのである」(Humboldt 1809a, S. 98)。フンボルトは,中央教育局長官が人間の陶冶に欠かすことのできない根源的一般方針の規準の ほかは積極的に実質的規準を自己否定し,市民社会における自由で多様な触発過程に改革を委ねること を重視した。フンボルトが局長として提出した教育課程の規準は,子どもが世界との豊かな「相互作用」 を展開しうる「学問」という大きな原則であり,その具体的な学科とカリキュラムは,既存の課程や社 会の諸専門領域の声を対決させあう―社会・文化領域間の相互作用の―中ではじめて規定されうる。ゆ えに,実質的規準の形成のメカニズム自体を社会の中に作り出すような,メカニズム形成. 4 4 4 4 4 4 4. に中央局の任 務があると考えたのである。ここに,先行研究において描かれてきた,「純」理念的構想とは差異化され うる,社会―政治的次元からみたフンボルトの改革構想を看取できよう。こうした構想は自ずから,フ ンボルト自身を,市民社会の中での教育課程の規準形成のメカニズムを埋め込むことへの努力に駆り立 て,学術委員会の設立に帰結するのである。. さて,以上ではフンボルトの改革構想の思想的・理論的側面に着目して改革の基礎づけを見たが,他 方で当時の現実を考慮してもやはり陶冶理論的に人間の変革力に望みを託すことは必然的な帰結だった。 フンボルトは,煙が充満する悪い排気設備や声が抜ける薄い壁,2,3クラスが一教室の四隅に分かれ て行われ,教師も村からくじで選ばれるなど,当時の学校の外的・物質的困難を綴っている。ティルジッ ト条約以後の政治腐敗や財政困難を前に,「本は無いに等しい。紙,羽ペン,インクも正確に言えば, まったくもって必要ないのです」(vgl. Humboldt 1809f, S. 226)と,フンボルトはじめ当時の誰もが,「外 的」改革ではなく,教育課程規準編成やさらには教育を担う主体の形成といった,内的改革に焦点化す るほかなく,その困難な時代に陶冶理論のような内的人間改革の論理は時宜を得たのである。学術委員 会は物質的充足のための改革ではなく,困難の中でもよりよい学校教育を生み出すための内的改革の端 緒となることが期待されていたのである。. カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 5 ─. Ⅲ.フンボルトの教育改革の展開―学術委員会の設立とその審議過程の特質― 1.学術委員会の設立の経緯と人選の特質 学術委員会は,1808年11月24日の上級行政部門の再編に伴って,それまでの高等学務委員会(Oberschul­. kollegium)を改変した組織として誕生し,1816年まで続いた。(vgl. Flitner/Giel 2010, Bd. V., S. 549)。フン ボルトは,1809年10月1日付の文書で,学術委員会は,ベルリン,ケーニヒスベルク,ブレスラウに置 かれ,その任務を①局の諸指示に目を通す②委員会に対して公衆の個々人から送られてきた計画や諸提 案について検証にかけ応答する③既存の施設や,発見された悪用,可能な改善方策などについての考え を,局からの要請がなくても提出するの3つとし,さらに具体的な業務として①新しい授業方法ないし 教育システムの検証②新しい教育課程の構想と既存の教育課程の判断③局が指定した教科書の選択と新 しい教科書編纂に必要な手続きの遂行④人事提案と局が発行した文書の判断の4つとした(Humboldt 1809c, S. 201ff.)。総じて同委員会は,宗務・公教育局と市民社会の両者から自立しつつ両者に学校教育 に関する諸問題に助言や諫言を行う機能が付与された。. 学術委員会の活動とフンボルトの構想の接点として何よりも特徴的なのが人選である。同文書でフン ボルトが規定した員数は,正規委員6名と委員長1名,他に正規外委員を必要に応じて任命できるとい うものであった。公教育局は「なによりもまず一般陶冶の促進を主眼に据えている」ことに鑑み,「個別 知識をはじめて学問へと高めることができ,個別的なものを目指した博学を本当の知的陶冶へと移行さ せ,精神に実り豊かなものをもたらすことのできるあらゆる形式的学問を包括した諸教科の内で,哲学, 数学,文献学,歴史研究に身をささげている人を正規委員として選ぶ」こととし「学問上重要でない専 門分野のために,代表的な教科がなくなることがないように第一に配慮されていなければならない」と された(ebd., S. 202)。(後に自然科学も加わる(Humboldt 1809e, S. 197))。正規委員の任期は一年であ る。その理由として,ある教科の選択とその内容規定に関する特定の見解の独占や固定化を防ぐものと もともとはされていたが,フンボルトはむしろ「教養ある方々があまりに長期にわたって彼らの純粋な 学問研究から遠ざけられないようにするのがなによりもの委員交代の理由である」と述べている(ebd.)。 一般陶冶を促進するために必要な教育課程として,同委員会を構成する人選規定に前提化されているの は,新しいカリキュラムは,様々な専門諸学問の代表者による学術的知見の相互参照によって作られう るということである。後に見る審議過程では,学問という原則を指示するほかは委員の議論に任せたの に対し,人選だけは最後までフンボルトはこだわりぬいていた。とりわけ,何が主要な学問分野である のかについては,はじめはフンボルトは化学や生物学などは「実に不愉快」な学問と述べ,美学を主要 部門に入れるか,あるいは文献学を言語学と古典語の二分野に増やすことなどを委員長候補であったヴォ ルフに相談するなど,学問の教育課程上の実質的選択を直接的に避けつつも,人選のレベルでフンボルト の判断を入れていた(vgl. Leitzmann 1895, S. 406)。また,この人選は,同時に設立構想中のベルリン大学 への招聘も多く兼ねるこ ととなった。結果,表1 のような人選となった。. 予定通りベルリンの正 規委員には文献学,哲学, 数学,歴史学,自然科学 から代表者が選ばれてい るが,ケーニヒスベルク では, 統計学や博物学. 表1:学術委員会の人選(1809-1810年)(出典:Lohmann 1984, S. 7-14) ベルリン委員会 ケーニヒスベルク委員会. 正規委員正規委員 非正規委員 Schleiermacher ★※ (哲学) Karsten (鉱石学) Hüllmann ★ (歴史学). SpaldingL (文献学) Willdenow (植物学) Vater (神学) Tralles (数学) Klaproth (薬学) Herbart (哲学). BernhardiDL (教育実践家) Ideler (天文学) Gaspari (統計学) ErmanDL (一般自然科学) Hirst (考古学) Schweigger (博物学). Woltmann (歴史学) Gotthold (文献学) ★:委員長 D:ギムナジウム等の校長 L:教員経験 (※ Wolf★ D から途中交代). フンボルトによる教育改革の構想と展開. ─ 6 ─. (Naturgeschichte)なども選ばれ,地域の実情や新興諸学問へのオープンさが反映されている。ベルリン 委員会の非正規委員には,ウランやチタンの発見者でもあるクラプロートや,石炭工場や亜鉛工場の設 立に携わったカーステンなど,それぞれの分野の第一線で活躍した細かな諸専門領域の研究者が混ざっ ている。さらに,ギムナジウム等での教員経験を持つ人物が多くを占めているのも特徴的である。当時 は未だカント・フィヒテ・ヘーゲルなどの哲学と人文主義の優位が目立つ時代にもかかわらず,積極的 に自然科学の諸専門分野を積極的に取り入れていることは特質あることである。専門諸学問の特質ある 意見の相互交流による規準形成のメカニズムを生み出そうとする仕掛けを,このフンボルトの人選規定 に見ることができる。. 2.学術委員会による教育課程一般規準の審議過程 ベルリン委員会の審議は,フンボルトら局員も参加可能な形で定例会を開いていた。会前に書簡で委. 員の誰かが発議し,他の委員に事前に回覧する。定例会までに諮問内容について回答を委員会に送付し, 集まった書類をもとに定例会を開くという流れである。. さて,同委員会の会議の開始に際して,フンボルトは次のような通達を送っている。「教育は必ず諸部 門に従って人間の自然の基礎的な力を把握するものである。〔中略〕そうすることで,彼の彼自身に対す る関係,神に対する関係,世界に対する関係の中に生き,自分自身の素質と自分自身の生き方の規準を 弁えるようになり,それを自らの意のままに扱うことができるようになるのである」(Bl. 3)。フンボル トは学術委員会の審議において,子どもが自己―世界の関係を自ら規準づけ,意識化することへ,別の 言い方では「全員が成人性を獲得した人間となるまで発達させられ陶冶させられる」(ebd.)ためのカリ キュラムを作成すること,それは学問的諸部門によってなされなくてはならないと述べ,「学問の見方へ の到達」という最高原理は外されえない規準として審議に先立って提示されている。. 子どもの陶冶を促進するための学問に基づく教育課程を,という大きな原則は,委員会の審議の中で 多面的に吟味されることとなる。1810年6月18日の定例会のために,シュライアマハーから提示された 4つの問い(6月6日)は次のものである。①「教養学校(gelehrte Schule)の教育課程では,特別な宗 教の授業をするべきか」②「フランス語が教育課程で一般的に扱われる唯一の近代言語であるべきか。 英語やイタリア語あるいは両方ともが,教養学校で授業されるべきか」③「古語の発音とアクセントは 何か一般的に定められるべきか,校長が各々の機関でしたいようにさせるべきか,あるいは各教師が教 室でしたいようにさせるべきか」④「教育課程では,通常の配分の仕方―各教科がその他の教科との割 合に従って,毎週必ず授業されるように配分されるやり方―が,覆すことのできない確定されたものと して基礎づけられるべきか。それとも,より大きなまとまりで教科を交換させていく別のやり方〔中略〕 も自由にやれるように一般的に決裁しておくべきか」(Bl. 9)。. 各委員の学術的知見と社会状況の両者の観点が織り交ぜられた回答が寄せられた。紙幅の関係で,と りわけ各委員が多角的な視野を持って議論に臨んだフランス語の審議に焦点を当てたい。文献学よりシュ パルディングは「フランス語が唯一の新言語だというのは私にはとてもはっきりとしていることのよう に見える。その一般的有用性,状況に合わせた必要性が,国家が市民に新言語の習得への一般的機会を 作り出さねばならないという市民に対する義務の根底にある」と,社会一般の要請に基づいてフランス 語を必修にすることに賛意を示す。「学校の諸案件において決まり文句となっている「一般陶冶を考慮せ よ,身体の保養と生活の必要に迫られ日暮らし生きている人たちをそれぞれの自己へと立ち戻らせよ」 という観点」からみて,「フランス語における一定程度の完成が公教育を受けている生徒たちが卒業する 前までに達成されていなければならない」と,当時多くの子どもが中退して社会に出ていく状況をこそ. カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 7 ─. 一般陶冶論は考慮すると主張し,具体的には「文法的に間違いのない文章を綴り,正しい発音と理解で ヴォルテールとラシーヌを読めるようになると規定したい」と言う(Bl. 15)。. しかし他の委員からは基本的な賛成の下で留保や代案の提示が顕著である。ヴォルトマンは「現代芸 術と中世の芸術家たちの精神に対する趣味陶冶」を「完全に到達させる」ことができる「イタリア語を 優先すべき」と言う(Bl. 30f.)。文献学のより厳密な議論は,ベルンハルディによってなされており,言 語の国民性と歴史性がより重視されている。とりわけ特徴的なこととして,「私の学校では諸教科を普遍 的対象とその陶冶手段および国民的対象とその陶冶手段という2つに区分している」と,自身の学校実 践を参照しながら,表2のような「相対的対置づけ」を描く。「私の見方では,ギリシャ語に対置される ものがないというのがこの区分からわかる。これはロマンス語系全体で補われるだろう」(Bl. 21)と述 べ,フランス語が,かつての社会的共通語であったラテン語に対応する現代の主流言語という位置づけ を有し,α にあたる他のロマンス語系もフランス語と同等に重要としている。. 表2:ベルンハルディのギムナジウムにおける言語教育体系(Bl. 21). A:古代の国民形式 B:現代世界の国民形式. α: 純粋な古典的国民形式:ギリシャ語 α:―. β:古代の主導的国民形式:教養言語でもあったラテン語 β:現代の主導的国民形式:政界言語でもあるフランス語. 他方で自然科学系の委員からは消極的な意見が寄せられている。エアマンは,フランス語が「教授科 目に加わる対象になりうるかを,その内的本質的な性格を根拠に言うことはできず,むしろ外的状況と 慣習によってでしか引き受けられえない」と,この話題は社会慣習の問題で一般陶冶に非本質的なもの だと一蹴する。「確実に言えるのは,この類の対象はどうでもいいという風にだけ捉えられるべきだとい うこと,そして対立が起きたら他のものとまるごと取り換えてしまえということである。経験が教えて くれているのは,教科編成の際は,どうしても学校の教育課程に本質的に備わる教科にあまりに不十分 な時間しか充てられていないということなので,こうした新言語群について頭を悩ませるよりも,余っ て自由に使える時間はみな,本当になくなってしまった諸対象やとりわけ数学のために使うほうがよほ ど賢明だ」と,より本質的な教科群の邪魔になるくらいならば無い方がましであると回答する(Bl. 11f. トラーレスも同様の見解を述べている。Vgl. Bl. 32)。. 限られた授業時数の中に近代言語は本当に必要か,イタリア語や英語も学ぶ価値があるとされる中で, 多くの委員から,一つの言語を極めることがそもそも重要だという見解が示される。「教養学校でフラン ス語を練習し,他の言語も教えるべきかどうかという問いに関して,なんの大げさなことはない。言語 習得の基礎にある必要な事柄を洞察するか,それを学ぶ際のより簡単な方法を見抜ければよいのである」. (ヴォルトマン Bl. 31),「際立った成果もなくただたくさんの言語に取り組むよりも,一つの言語に熟達 するほうがよほどいい」(エアマン Bl. 11f.)。どの言語でも言語の本質的理解に到達することは可能なの で「別の近代言語でも授業してよいかどうかは自由裁量に任されている」が,「しかしこうした自由が あった所で主要な教授対象の正統性に迫れない。フランス語の代わりに他のロマンス系言語を置き換え ようという考えは,歴史的傾向への反論というきわめて不愉快」(Bl. 29)とシュライアマハーが強調す るように,言語学的に等価であっても時代的要請が各言語の価値に偏差をつけていることを見欠かさな いよう訴えている。彼においては,フランス語を教えるという歴史・社会的要請が言語の本質という一 般陶冶と何ら矛盾対立するものではなく,むしろ接続可能であるとさえ言われており,殊勝な見解を見 せている。. フンボルトによる教育改革の構想と展開. ─ 8 ─. 「(社会の)一般的有用性」,「政界言語」,「歴史的傾向」,時間的制約,学校の実践事例,学校を中退す る子どもへの考慮,同時に言語の「国民言語」性,文芸的世界の「趣味陶冶」,文献学的な知見,これら 様々な角度からの吟味を経て,18日の最終的な決議をヴォルトマンが議事をつけてまとめている。「第二 の問いについて,全会一致で,今日的状況ではフランス語が外されてはならないこと,しかし他の新し い言語がこれに加えて教えられるのは適していないということが決議された。その理由としては,時間 不足が挙げられ,ともすれば他の不可欠な諸学問の時間が引き下げられなくてはならないから,また, フランス語の簡単さと単純さが挙げられ,その簡単さゆえに子どもたちが私立学校にもっといけるよう になり,子どもたちのやる気をより簡単に引き起こすことができるからである。唯一の打開策として提 案されたのは,フランス語の授業を三級までに終わらせることであった,三級までに,公立学校で達成 されるべきフランス語の知識が得られたならば,残りの高学年の2年間ではフランス語のかわりに他の 新しい言語を入れる余地ができる。全体としては,フランス語以外の他の新しい言語の授業は要求され るべきでない」(Bl. 33)。. 3.学術委員会によって編成された教育課程規準にみるフンボルトの方針の貫徹と屈折 専門的知見の交流によって生まれた教育課程の一般規準が表3である。表3では,教育課程を言語系. と学問系の二つの領域に分けている。1788年のあるギムナジウムと比較した Lohmann(1984)の分析(表 4)を参考にすると,言語系教科が全体的に増加しているのに対し,ラテン語だけ時間数が減っている こと,またとりわけ着目すべき点として,諸学問系全体が78%も増加しているだけでなく,数学,物理, 博物学は倍以上増加しており,諸学問の専門分化を念頭に置いた教科設計がみられる。フンボルトら局 の立てた原則が,専門学者らの多角的知見によって貫徹・屈折させられつつ,一般規準に色濃く反映さ れたことが読み解れる。第一に言語系については,古語についてラテン語からギリシャ語への重みづけ の変化がみられる。教養学術言語としてのラテン語から,ドイツ文化特に新人文主義的時代の文化的ルー ツと見なされていたギリシャ語への変更は,古語の学習で教養学術的世界への導入よりも,子ども自身 の母語と母国文化の起源への認識と洞察による人間形成的意義に審議会が重きを置いていたと理解され. 表3:学術委員会作成の中等段階の教育課程計画 (1811) (左表 (Bl. 147)) および 表4:Friedrichs Werderschen Gymnasium の教育課程 (1788) との比較 (右表 (Lohmann1984, S. 148)) 一級(Prima) 二級(Sekunda) 三級(Tertia) 四級(Quarta) 五級(Quinta) 六級(Sexta). A. 言語系 A. 言語系 A. 言語系 A. 言語系 A. 言語系 A. 言語系. a)ラテン語 (8) a)ラテン語 (8) a)ラテン語 (8) a)ラテン語 (8) a)ラテン語 (6) a)ラテン語 (6). b)ギリシャ語 (8) b)ギリシャ語 (8) b)ギリシャ語 (6) b)ギリシャ語 (6). c )フランス語 (2) c )フランス語 (2) c )フランス語 (4) c )フランス語 (4) c )フランス語 (4) c )フランス語 (4). d)ドイツ語 (4) d)ドイツ語 (4) d)ドイツ語 (4) d)ドイツ語 (4) d)ドイツ語 (9) (書字 (3) 含む). d)ドイツ語 (9) (書字 (3) 含む). B. 諸学問系 B. 諸学問系 B. 諸学問系 B. 諸学問系 B. 諸学問系 B. 諸学問系. a)数学 (6) a)数学 (6) a)数学 (6) a)数学 (6) a)数学 (6) a)数学 (6). b)歴史 (2) b)歴史 (2) b)歴史 (2). c )地理 (1) c )地理 (3) c )地理 (3) c )地理 (3). d)物理 (3) d)物理 (3) d)物理 (3). e)博物学 (3) e)博物学 (3) e)博物学 (3). f )図画 (2) f )図画 (3) f )図画 (3). g)宗教 (2) g)宗教 (2) g)宗教 (2) g)宗教 (2) g)宗教 (2) g)宗教 (2). 共通の 教科カノン. 1788年 (100%). 1811年 (増減率). 言語系 105 130(124%). ラテン語 54 44( 81%). ギリシャ語 10 28(280%). ヘブライ語 4 4(100%). フランス語 13 20(153%). ドイツ語 24 34(141%). 諸学問系 46 82(178%). 数学 14 36(257%). 物理 1 9(900%). 博物学 4 9(225%). 歴史 8 6( 75%). 地理 10 10(100%). 宗教 9 12(133%). 総 時 数 170 222(131%). カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 9 ─. る(vgl. Bl. 48f.)。他方でフランス語の増加やヘブライ語の維持などは子どもの社会生活への考慮が反映 されたとみることができる。第二に諸学問系については,諸学問が人間にどのような世界理解と行為形 成をもたらしうるかという学問と陶冶の関係に関する強調的な意見書をフンボルトが委員会に送るほど に強く方針づけされていた。しかし同じ問いに対する多視点的な審議が進み(vgl. Bl. 59-70, 81-91),6 級から1級までの進級の系統的発展も具体的に吟味される(特に博物学と図画の教授が物理教授の基礎 とされていた)など,フンボルトの5つの教授構想は審議過程の中で大いに屈折されていったのである。 第三にこの一般規準もまた,「全ての教養学校の授業組織と教科に応用されるべき一般的な原理を打ち立 て」つつも,「しかしそれぞれの学校で,地方それぞれの異なる手段,あるいは時期的状況などに応じて 偏差していくのが認められる」(Bl. 1)ようにして,さらなる屈折と変容を可能にする枠組みでなければ ならないとフンボルトは委員会に直接訴えていた。以上から学術委員会による教育課程案は「委員会の 参加者の頭の中にすでに完成されたイメージと構想があって,それが現実の中に与えられた条件に合う ようにただかみ砕かれていった」という「妥協の結果」ではなく,「参加者の共通理解が過程それ自体の 中で初めて生まれてきた〔中略〕共同的な意見形成過程の産物」なのである(vgl. Lohmann 1984, S. 65)。 市民社会の成員同士の相互作用による教育実践の改善と漸進的変容というフンボルトの立てた規準が実 現するような戦略が学術委員会における人選―審議過程の中で徹底されていたのである。. Ⅳ.研究の成果と課題 本研究では,社会―政治的次元からみた,フンボルトの教育改革の構想と展開過程を学術委員会の設. 計を手がかりに明らかにしてきた。フンボルトは,近代社会における人間形成の規準を,自己―世界関 係を不断に形成し行く相互作用に見出した。そこでは様々な文化的諸実践が,宗教や政治などの論理に 回収されることなく,それ自体の特質ある固有な発展を認められ,相互に制約・交渉・作用しあう中で たえず変容や発展しゆくことが期待されていた。ゆえに教育という文化的専門領域の改革においては, まずは教育の目的としての一般陶冶を固有の論理として据え,子どもの相互作用を支え豊かにしうる学 問が教育課程編成の核心となることをフンボルトは説く。しかし改革の過程でフンボルトは,学問とい う規準を示しはするものの,教育の論理を政治,経済,社会からの制限や要求と折り合いをつけながら, 具体的な実質的規準を形成するメカニズムの形成 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4. を重視し,改革のプロジェクトを練り上げていった。 本稿ではそのプロジェクトの第一歩となる学術委員会の人選―審議過程に光を当て,様々な専門的・学 術的知見が相互に応答されうるような仕組みづくりをフンボルトが人事や通達を通して仕掛けたこと, 委員が学術的知見から社会的要請までを幅広く見る中で,社会や時代の要請に応答しながらも一般陶冶 の目的を最大限実現しうるような教育課程規準を形成していった過程を明らかにした。. 以上の検討から,「社会的経済的現実に対する認識の不十分」と言われてきたフンボルト像が再構成さ れよう。シュプランガーから今日まで支配的であったフンボルト像は,教育の「経済化」と「脱教育学」 批判のために,その「純」理念的な部分を取り出すことにばかり終始してきたが,本稿の検討を通して, フンボルトにおいてはその理念的規準の社会―政治的磁場の中での変容を見通した相互作用論を掲げ, 市民社会の相互触発のプロセスを重視していたことを観察することができた。. 現代ドイツ教育改革の歴史的根拠づけを担ってきたフンボルト像を再構成したことは,そのまま現代 ドイツ教育改革の論点を再吟味することにつながる。本稿では研究成果の展望として,とりわけ学校教 育内容の「規準」をめぐるカノン(Kanon:Bildungskanon)の問題におけるフンボルト受容の再検討から, 今日の教育改革のあり方を別様に開く論点を得たい。. カノンは,「長い間,文化内容のうちで必ず修めるべき領域を問うものとして理解され,〔中略〕一般. フンボルトによる教育改革の構想と展開. ─ 10 ─. 陶冶の実質的な核を構成してきた」(Klafki 2007, S. 56)。教育内容の選択と配列の根源的な「規準」を意 味する語として,教育課程の原理論的な問いを提起してきたカノンであったが (3),学校教育で教えられ るべき事柄の根拠を文化に還元して不問としてしまう「文化的恣意(arbitraire culturel)」が内在化されて いることが明るみに晒されて以来(ブルデュー・パスロン1991参照),カノンの問い(Frage)は,疑義 がかけられた問題(Problem)と診断されるようになった。いわく,カノンには,「文化」という一語を 根拠に特定の政治的・社会的・歴史的条件を「普遍化」させ,「いつでもどこでも誰によっても理解され るよう教えられねばならない」「妥当な伝統」を並べ,「高文化」の具体的内容や価値(「実質カノン. (materialer Kanon)」)を「必修として(verbindlich)」指定し,「知識の状態を永久に固定」する「伝統保 持機能」が刻印されている。ゆえに「文化生成への自律的参加」や「学習主体」を本旨とする教育学と の,そして偶然性と不確実性が刻印された現代社会との激しい乖離が観測されたため,カノンの名のも とに学校教育の内容選択・配列の決断を委ねることの妥当性が疑われるようになったのである(vgl. Musolff 2003; Prange 2007)。. ところがポストモダンの隆盛と社会の複雑化・多様化・国際化の更なる進展,東西ドイツ統一といっ た複雑化が進行する1990年代に入ると,むしろカノンの現代化の試みが積極的に行われ,その際の準拠 先として頻繁に参照されたのがまさしくフンボルトであった(vgl. Neuner 1999; Benner 2001; Tenorth 1994 (4))。特にテノルトに顕著なように(vgl. Tenorth 1994, S. 123, 174),世紀転換期のドイツ教育学を牽 引した人物らのカノン現代化の試みが集光する焦点として,フンボルトは今日にも有効な学校教育内容 の実質カノンとなって現代に蘇ったのである。それはやがて Schwanitz(1999)による,西洋的文芸知識 を中心とする「知っておかねばならない全てのこと」の百科全書主義的カタログ化に,さらには PISA 後 のコアカリキュラム論へと繋がっていくのである(vgl. Strobel-Eisele/Prange 2003)。. 彼らがポストモダンの時代的潮流の中で人文主義的伝統から新しい教育課程の根拠づけを言い当てた ことの特色と意義は認められる一方で,本稿で明らかになったフンボルトの改革構想では,文化と伝統 の実質的保持の為の教育課程の規準づけをむしろ排除することに努めていたことが理解できよう。「Kanon」 という語をフンボルトは改革期の文献に用いたことがなく,公教育を司る国家が,文化圏を代表して教 育内容の固定的な実質的規準を形成することにむしろ禁欲的でなければならないということを最大限強 調していた。リースマン(2017)が,「数百ぺージ足らずで説明され」,「パーティで知識人を気取られる にすぎない」教養の実質的規定は「新人文主義的教養構想の本質を誤解」しており,フンボルトの構想 は「知っておかなければならないことを確定することとはまったく関係がない」(15-17頁)と指摘する 通り,フンボルトを現代教育課程の「実質的規準の提供者」ではなく,市民社会内の相互作用を触発す る「形成のメカニズムの形成者」と理解するべきである。. フンボルトの読み直しから,カノン問題は,教育内容の実質的規定をめぐる問題から,カノン形成の 4 4 4 4 4 4. 枠組みそれ自体の形成の問題へと論点が開かれる 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4. 。現代カノン論争の中で教育学者を悩ませた単純なカ ノンの相対化と異なり,あるいはまたシュヴァニッツのような単純な実質的規準の設定とも異なり,フ ンボルトを手掛かりに再構成されるカノン論は,社会成員の専門的知見の相互作用による,変容に開か れた規準形成に重点を置き,各学校の自由裁量の拡大を提案するものとなった。もちろん,陶冶理論に 基づく未規定的かつ動的な規準形成のメカニズムは,結局のところそのつど変容する一般意志的な「文 化」総体にカノンの準拠先を求めていることに変わりないと言われれば(vgl. Musolff 2003),本研究の フンボルト解釈も,「良い意味での文化的恣意」を示すという隘路を抜ける他ないのかもしれない。しか し,その隘路の先の帰結として,テノルトが舵を取った教育内容のスタンダード化の方向ではなく,教 育実践に専門的に関わる具体的個人(教師)間の相互作用・触発というミクロな過程へと関心が向くこ. カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 11 ─. ととなる。フンボルトと学術委員会が繰り返し強調した,地方の実情や各学校の判断に委ねることは, 個々のカリキュラム実践の意義を強調するような教師論へと接続されうるのではないか。事実,フンボ ルトはペスタロッチのいるイヴェルドンへの教員派遣政策に積極的に関わり(大崎1991参照),ペスタ ロッチのメトーデを改善することに取り組んでいたプラーマンやヘルバルト,彼らの指導の下にいた学 生への資金援助を試みる(Humboldt 1809f)など,教育の内容と方法の規準を創出しようとする主体形 成に惜しみない支援を試みていた。「教師に教師がもつ固有の価値を伝えなければならない」(vgl. Menze 1975, S. 176)といった教師の地位向上や財政難への現実的問題意識を抱えながら陶冶思想を軸として, フンボルトの改革は教員研修へと展開されるのである。. 規準の普遍化の問題から市民社会の成員の相互作用への信頼と要求へと転回されるフンボルトの構想 は,単純な楽観的放任にではなく,学術委員会を端緒としつつ,研修制度・養成制度へと地盤を固める 改革プロジェクトへと着実につながっていった。カノン論を,フンボルトを経由することで教師論と教 育課程編成の諸アクターへの着目へと通ずる回路を示しうるというのは,「それ自体に価値があるような 精神的な内容をいまだ信じているとはっきりと公言するのにあまりに臆病となってしまった」(Liessmann 2012, S. 448f.)今日の教育改革に対して,スタンダードやコアカリキュラムとも異なる,教師による教 育内容と陶冶価値への規範的な語りへ期待を寄せるリベラルな道を開く。その意味でも,本稿で扱った 学術委員会を踏まえて,時代状況の中での教員養成・研修改革の構造を解明することが,社会―政治的 次元におけるフンボルトの教育改革に関わる今後の検討課題である。. 〈付記〉 本研究は JSPS 科研費 JP19J12404の助成を受けたものです。. 〈注〉 ( 1 ) フンボルト改革に関する国内の研究は長田(1936)など戦中に始まる豊富な蓄積があるが,どれ. もシュプランガーの影響が色濃い。フンボルトの提唱した「一般的人間陶冶」の論理の中にすでに 「市民相互の自由な諸社会関係を保障する」市民社会論が内在していることも指摘されてはきた(川 瀬1972, 194頁 ; 宮寺1969)が,どれを見ても身分制から統一的一般教育制への転換という制度論の 構想次元に留まり,「社会的経済的現実に対する認識の不十分」(砂沢1955, 86頁)という烙印のも と,具体的にどのようにして市民社会に学校教育の教育課程編成を委ね促進したのかの展開過程は 等閑視されてきた。加えて Benner(2003)のようなシュプランガー以後の研究が日本では踏まえら れておらず,本稿は日本のフンボルト改革の研究をドイツ水準に上げると同時にそれをも越えてい くという2重の課題に向き合う必要がある。. ( 2 ) 「フンボルトが十九世紀初頭の時点で,どのような現実に対峙しながらいかなる改革を実行しよう としていたのか,という,ある意味では極めてシンプルな問いを立てて,フンボルトの教育改革を 検討しようとした研究が意外と少ない」(太田2003, 28頁)。しかし太田もフンボルトの学校計画案. (Humboldt 1809d)の参照に終始し,改革の展開過程への言及には乏しい。 ( 3 ) Kanon の語義と問題圏,宗教史的背景及び「規準」という訳に関しては吉田(2010)参照。 ( 4 ) フンボルトら新人文主義的伝統が,単純な知識の普遍化に禁欲的であったことについてはテノル. トやノイナー,ベンナーらも自覚的であり,「基礎内容と反省性」(テノルト)や「認識次元と陶冶 次元」(ノイナー),「非実定性」(ベンナー)等の鍵概念と共に一般陶冶論再編を試みたことは看過 できない(吉田2007; 吉田2010も参照)が,それでもなお三者揃って実定化への積極的歩みを進めて. フンボルトによる教育改革の構想と展開. ─ 12 ─. いった立場の一元性を鑑みれば,フンボルトの陶冶規準に関する洞察の再構成は本稿の成果から引 き受けることのできる重要な検討課題のように思われる。. 〈引用文献〉 Geheimes Staatsarchiv Preußischer Kulturbesitz. I. HA Rep. 76 alt, Abt. X. Nr 18: Die Lehrpläne für gelehrte Schule. und Schulbücher 1810-1816. Flitner, A./ Giel, K. (hrsg.) (2010) Wilhelm von Humboldt. Werke in fünf Bänden. Darmstadt: WBG.. Humboldt, W. v. (1791) Ideen über Staatsverfassung, durch die neue französische Constitution veranlasst. Humboldt, W. v. (1792) Ideen zu einem Versuch die Grenzen der Wirksamkeit des Staats zu bestimmen. 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This paper examines a socio­political realization process of the concept of educational reform developed by Wilhelm von Humboldt at the beginning of 19th century. Over 100 years history of research on Humboldt has formed an unshakable understanding that Humboldt remained within the realm of ideal construction of human­ istic education and that, however, had never shown his interest in the actual political negotiation during educa­ tional reform in 1809­1810. This traditional image on Humboldt (Humboldtbild) is to be relativized in order to find a new way to reconstruct Humboldt’s educational reform, which would have a quite significant impact on current educational reform after PISA shock in German.. Establishment of the Delegation of Science (“Wissenschaftliche Deputation”) is the focused case to be examined. With reviewing Humboldt’s philosophy on “Bildung”, which emphasized the interactive process as the fundament of professionalization and autonomy of every cultural practice such as politics, economics, esthet­ ics or education, this paper will identify Humboldt’s struggle to create an autonomous arena for educational practice free from (but mutually communicating with) other cultural forms. Humboldt’s concept for educational reform claimed a liberal social interaction where individual practitioners and thinkers in the educational field were expected to produce uniquely designed ideas on education. Such uniquely produced ideas and practices would bring about the significant cultural means of education that were considered as the birth of professional­ ism in education. Humboldt determined his mission to create such an independent arena only for education and to stimulate interactive discussions among educational agencies. His struggle on reform is then found in his design of the Delegation including negotiation for recruiting delegates and his directions to them. The Delegates were to provide a kind of stimulant to such social interaction by canonical curriculum based on the latest scien­ tific perspectives. The delegates from various fields worked as Humboldt expected in the way of providing their critical and peculiarly professionalized opinions to the discussion on what students had to learn in school. Results of detailed analysis on discussions in the Delegation show that social needs, political situation and industrial concerns were taken into consideration for designing canonical school curriculum as wells as the humanistic educational perspective and latest findings in each subject of science and arts. At the end of the dis­ cussion, curriculum made by the Delegation embraced a unique structure that more natural scientific subjects had to be taught in spite of the well­known fact that drastic development in natural science starts from the 1830s. As such, under the direction by Humboldt, the Delegation contributed to stimulating social discussions on education.. Detailed analysis on the concept and practice of educational reform by Humboldt focusing on establishing the Delegation of Science will pave a way to reconstruct the image of Humboldt, which suggests a radical transformation in the logic of the current curriculum reform in German. The results of the examination in this paper allowed this paper to discuss how canon (Kanon: Bildungskanon) could be reinterpreted. Many pieces of literature mainly 1990’s, the era of post­unification, mentioned Humboldt as the founder of modern curriculum structure. Humboldt was deified for legitimizing the traditional canonical knowledge and skills against the postmodern and unstable society. Although such legitimization of canonical knowledge with Humboldt Renaissance certainly proposed an important notion for curricular development, this paper finds an alternative interpretation that Humboldt never worshipped the canonical knowledge but devoted to promoting interactive and transformative process of canonical knowledge. Liberal ideas by Humboldt would tell another canonical norm that discussion on curriculum and education should never end this transformative process so that educa­ tional practice could continually enrich meaningful thoughts and practices for education.. This work was supported by JSPS Grant­in­Aid for JSPS Research Fellow JP19J12404.

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