はじめに
亜酸化窒素は歯科治療に麻酔薬として使用を試み
られてから 160 年以上もの長い年月を経過した現在
においても臨床で用いられているガス性吸入麻酔薬
である.一方,亜酸化窒素は温室効果作用とオゾン
層破壊作用を有するため,環境に及ぼす影響を考慮
してその使用を中止した麻酔科医も多いと思われ
る.日本でのレミフェンタニル発売以降は,亜酸化
窒素の鎮痛作用という存在意義がさらに小さくな
り,使用頻度が激減している.研修の現場において
亜酸化窒素の使用経験がほとんどない若手麻酔科医
も存在する.
ここでは,まず亜酸化窒素の欠点である種々の有
害作用と利点である臨床上の有用性について述べ
る.次に亜酸化窒素および揮発性吸入麻酔薬の地球
環境に及ぼす影響を示す.最後に亜酸化窒素併用麻
酔が予後に及ぼす影響について最近の知見を紹介
する.
Ⅰ 亜酸化窒素の有害作用と有用性
亜酸化窒素はこれまでの長い臨床使用経験から物
理化学的あるいは薬理学的な性質が解明されてい
る
1).種々の副作用や欠点を理由に亜酸化窒素の臨
床での使用に否定的な見解
2)がある一方で,その安
全性や鎮痛作用などの利点を根拠に使用継続に肯定
的な見解
3)もある.
1. 亜酸化窒素の有害作用亜酸化窒素の有害作用を表 1 に示す.このガスの
欠点としてまずあげられるのが,その血液溶解度が
窒素よりも高いために体内の閉鎖腔の容積を増加さ
せる性質を持つということである
1).そのため,イ
レウス手術,空気塞栓や気胸の可能性のある手術,
鼓室形成手術においては禁忌と考えられる.気管チ
日本臨床麻酔学会第 32 回大会シンポジウム
日臨麻会誌 Vol.33 No.5, 730 〜 735, 2013吸入麻酔薬
亜酸化窒素の生き残る道
萬家俊博
* [要旨]亜酸化窒素はこれまで長年にわたって臨床で用いられてきたガス性吸入麻酔薬であるが, その環境に及ぼす影響や種々の有害作用のために臨床で用いられることが少なくなってきた.日本 におけるレミフェンタニルの臨床導入がさらに拍車をかけている.亜酸化窒素の地球温暖化への悪 影響がことさら強調されてきたが,実は揮発性吸入麻酔薬も個々に温暖化係数を有する.デスフル ラン単独よりもデスフルランと亜酸化窒素併用の方が地球温暖化への影響を低減できるとの試算も ある.患者の背景因子と手術上の禁忌要件の有無を考慮して,亜酸化窒素を低流量で併用すること は,これからも手術室における全身麻酔の一つの方法として生き残るものと考える. キーワード:亜酸化窒素,副作用,鎮痛作用,温室効果ガス,地球環境 著者連絡先 萬家俊博 〒 791-0295 愛媛県東温市志津川 愛媛大学医学部附属病院手術部 *愛媛大学医学部附属病院手術部ューブやラリンジアルマスクのカフ内圧を上昇させ
るため注意が必要である.また,網膜硝子体手術後
早期に眼内にタンポナーデガスが残存する患者へ亜
酸化窒素を投与した場合に不可逆的な失明を引き起
こす危険性
4)があることを十分認識しておかなくて
はならない.
亜酸化窒素はビタミン B
12のコバルト原子を不可
逆的に酸化する.そのため,亜酸化窒素吸入により
ビタミン B
12を補酵素として必要とするメチオニン
合成酵素が不活化され,葉酸やメチオニンの代謝へ
影響を及ぼし,巨赤芽球性貧血,末梢神経障害,脊
髄障害を誘発する危険性が指摘されている
1).
メチオニン合成酵素の抑制により亜酸化窒素は血
中のホモシステイン濃度を上昇させる
5).2 時間以
上の亜酸化窒素吸入でホモシステインの血漿レベル
が上昇するといわれ,また,亜酸化窒素併用麻酔後
1 週間は高ホモシステイン血症が続くともいわれて
いる.高ホモシステイン血症は血小板凝集亢進や第
Ⅴ因子の活性化などの凝固能亢進を誘発し,周術期
の心筋虚血,脳血管障害の危険性が高まると考えら
れている
1).
Badner ら
6)は,頸動脈内膜剥離術を受けた患者
における術後の心筋虚血の発生率が,亜酸化窒素併
用麻酔群で有意に高かったと報告した.また,心筋
虚血の持続時間や発作の頻度も亜酸化窒素併用麻酔
群において有意に高く,亜酸化窒素吸入による血中
ホモシステイン濃度上昇が原因と考えられた.
Myles ら
7)による ENIGMA(Evaluation of Nitrous
Oxide in the Gas Mixture for Anesthesia)trial とい
う多施設,前向き,二重盲検の研究によると,亜酸
化窒素を用いた麻酔を受けた群では術後の嘔吐,創
感染,気胸や無気肺,肺炎の発生率が有意に高いこ
とが示された.なおこの研究においては,術後心筋
梗塞,死亡率,術中覚醒については亜酸化窒素の有
無による差はなかった.
このようにさまざまな禁忌要因や副作用のために
臨床的に制約が多いことが,亜酸化窒素の大きな欠
点であり,使用頻度が減少している原因の一つと考
えられる.
2. 亜酸化窒素の有用性亜酸化窒素が有益であると考えられる作用を表 1
に示す.亜酸化窒素は血液溶解度が低く,麻酔の導
入,覚醒が速やかであること,化学的に安定してい
て他の物質と反応して有害物質を生じないこと,生
体内代謝率が低いこと,など吸入麻酔薬として望ま
しい条件を有する
8).また,呼吸抑制作用,循環抑
制作用,不整脈誘発作用などが少ないこと,肝障害,
腎障害の危険性が小さいこと,悪性高熱の危険性が
ないこと,などの特徴も有している.これまでの長
期間の臨床使用実績からその安全性がおおむね確立
表 1 亜酸化窒素の有害作用と有益作用 有害な作用(欠点) 有益と考えられる作用 巨赤芽球性貧血 高ホモシステイン血症と心筋虚血 神経・脊髄の障害 中枢神経への影響 術後悪心・嘔吐(PONV) 体内閉鎖腔の拡大作用 低酸素誘発 無気肺 催奇形性と職業暴露 免疫抑制 鎮痛作用 短時間作用性 術中覚醒の予防効果 長期間安全に使用されてきた実績 〔文献 1)より引用・改変〕している
8).
亜酸化窒素の最小肺胞濃度(minimum alveolar
concentration:MAC)は 104%と高く,実際の麻酔
では単独で用いられることはなく,他の揮発性吸入
麻酔薬と併用されてきた.亜酸化窒素が主たる揮発
性吸入麻酔薬の MAC を小さくさせる(MAC sparing
effect)という効果が知られている
1).主たる揮発性
吸入麻酔薬の総使用量や大気への排出量を減らすこ
とができる.
亜酸化窒素の鎮痛作用の機序として,内因性オピ
オイドペプチド(エンケファリン,エンドルフィン,
ダイノルフィン)の放出を介して,下行抑制系を活
性化すると考えられている
9), 10).下行抑制系の活性
化は一次感覚神経から脊髄神経細胞への痛覚情報伝
達を阻害することにより,鎮痛作用を示す
9), 10).こ
れらの経路の中で,κオピオイド受容体への作用
10)や N-methyl-D-aspartate(NMDA)受容体への拮抗
作用
11)が重要な役割を果たしていると考えられてい
るが,すべてが解明されてはいない.
術後の痛みの成立には創部などからの痛覚刺激入
力による NMDA 受容体活性化が重要な役割を果た
しているといわれている.全身麻酔に併用されるレ
ミフェンタニルは,強力な鎮痛作用を有するが,手
術後においては NMDA 受容体活性化を促進して,
かえって術後痛覚過敏を増強すると考えられてい
る
12).NMDA 受容体拮抗作用を有するケタミンが
この術後痛覚過敏を改善することが臨床的に認めら
れている
13), 14).亜酸化窒素もケタミンと同様に
NMDA 受容体拮抗作用を有しており,術後痛覚過
敏を抑制することが示されている
15), 16).このことは
亜酸化窒素の臨床上の利点として重要なものと考え
られる.
Hopkins
3)は,亜酸化窒素が術中覚醒の防止効果
があることを一つの根拠として,亜酸化窒素の使用
継続を肯定的に論じている.動物を用いた研究では,
亜酸化窒素は有害な刺激についての健忘作用がイソ
フルラン,セボフルラン,デスフルランおよびハロ
タンと比較して最も強いと報告された
17).亜酸化窒
素が術中覚醒を少なくする理由としてこの健忘作用
が考えられる.一方,多施設,前向き,二重盲検に
よる 2,050 例の研究において,術中覚醒について亜
酸化窒素の有無による差はなかったという報告
7)も
ある.
Ⅱ 亜酸化窒素の地球環境に及ぼす影響
亜酸化窒素は温室効果ガスの一つである
18), 19).ま
た物理化学的に安定しており,いったん大気に放出
されると長期間分解されずに存在する
20), 21).これま
での経緯では亜酸化窒素の地球温暖化への悪影響が
ことさら強調されてきたが,実は現在用いられてい
る揮発性吸入麻酔薬も個々に温暖化係数を有す
る
20)∼ 22).表 2 に示すようにデスフルランの地球温
暖化効果は大きい.また,亜酸化窒素,ハロタン,
エンフルラン,イソフルランにはオゾン層破壊作用
もある
20).
温室効果ガスの主体は二酸化炭素であり,日本に
おける麻酔用途の亜酸化窒素の全温室効果ガスに対
する割合は約 0.02%程度である
18), 19).一方,イソフ
ルラン,セボフルラン,デスフルランの地球環境に
及ぼす影響を換算した報告
23)によると,これらの麻
酔薬の年間の放出量は二酸化炭素換算で乗用車 100
万台,または火力発電所 1 基からの放出量に相当す
る地球環境への影響があると推測された.地球全体
表 2 吸入麻酔薬の大気中での残存期間(Lifetime)と地 球温暖化係数(GWP) Compound Lifetime(年) GWP20 Carbon dioxide(CO2) 1 Sevoflurane 1.2 349 Isoflurane 3.6 1,401 Desflurane 10 3,714 Nitrous oxide 114 289 GWP20:20-year global warming potential(20 年間の地球温 暖化係数,CO2を 1 とした相対係数) 〔文献 22)より引用・改変〕の産業活動の影響力を考えれば,揮発性吸入麻酔薬
の影響は小さいが,臨床の中で,麻酔薬の選択に考
慮すべき要因ではある.
Ryan ら
22)は,新鮮ガス流量を 2L/min として,酸
素・空気・6.0%デスフルランで麻酔を行った方が,
40%酸素・60%亜酸化窒素・2.4%デスフルランで麻
酔を行うよりも 20 年換算の温暖化効果が大きいこと
を示した(表 3).このことは,MAC sparing effect
を有する亜酸化窒素併用によりデスフルランの維持
濃度を下げれば地球環境への影響を少なくすること
ができることを示している.レミフェンタニルなど
のオピオイドを併用することもデスフルランの排出
量を減らすことにつながるが,要は複数の薬剤をう
まく組み合わせることで,環境への配慮を行うこと
が可能であるといえる.
Ⅲ 亜酸化窒素併用麻酔と予後
前述した亜酸化窒素が高ホモシステイン血症に関
連して周術期の心筋虚血や脳虚血の危険性を高める
という報告以降,亜酸化窒素を併用した麻酔を受け
た患者の周術期合併症や予後を検討する研究が行わ
れている.Myles ら
7)が行った ENIGMA trial にお
いて,術後心筋梗塞発生率,死亡率については亜酸
化窒素の有無による差はなかった.
この研究は周術期の短期的な調査であるが,同じ
研究グループが行った長期予後との関連を調査した
研究
24)においても亜酸化窒素麻酔の有無によって,
手術,麻酔後の遠隔期の死亡率に差はなかった.高
齢,男性,腹部手術,長時間麻酔などが,死亡率に
関する有意な関連因子であった.
Sandersら
25)は,GALA(General Anaesthesia com-pared with Local Anaesthesia for carotid surgery)
trial の対象となった症例から全身麻酔を受けた症例
を抽出し,亜酸化窒素併用の有無によって 2 群に分
け,手術後 30 日以内の死亡率,脳血管障害,心筋
梗塞の頻度を解析した.亜酸化窒素の有無による有
意差は見出せず,亜酸化窒素は手術後早期の死亡率,
脳血管障害,心筋梗塞に影響しないと結論づけた.
また最近,手術中に亜酸化窒素を使用した症例に
おいて,術後 30 日間の死亡率と入院中の死亡率,
合併症罹患率が低下することを示す論文
26)が発表さ
れた.亜酸化窒素特有の,そしてよく知られた禁忌
要件を鑑みても,この研究の結果は臨床の麻酔から
亜酸化窒素を排除することを支持しないと結論づけ
ている.この研究では軽症で全身状態のよい症例に
亜酸化窒素を併用した傾向があり,今後の臨床研究
表 3 頻用されている吸入麻酔薬の地球温暖化への影響の比較 吸入麻酔薬(濃度) Carrier gases CDE20(g/h)
Ratio N2O/O2: air/O2 Sevoflurane 0.8% 2.0% Isoflurane 0.5% 1.2% Desflurane 2.4% 6.0% 60% N2O/40% O2 Air/O2 60% N2O/40% O2 Air/O2 60% N2O/40% O2 Air/O2 40,940 6,980 44,610 15,551 113,022 187,186 5.9:1 2.9:1 0.6:1
CDE20:20-year carbon dioxide equivalent of inhaled drug with air/oxygen(O2)or
inhaled drug + N2O
(新鮮ガス流量 2L/min で 1 MAC-Hour 相当を亜酸化窒素併用の有無で比較)
で同様の結果が出てくるのかどうか,待ちたいとこ
ろである.
まとめ
過去に臨床の現場から消えていった揮発性吸入麻
酔薬は,肝障害や腎障害などの臓器毒性という決定
的な副作用を有していた.亜酸化窒素には,体内閉
鎖腔の容積増加,ビタミン B
12の不活化による神経
障害や心筋虚血の危険性,術後の悪心・嘔吐への影
響などの副作用はあるが,その使用を中止するまで
の決定的な因子ではない.
麻酔関連で使用される薬剤のうち副作用のないも
のは皆無である.薬剤を効果的に組み合わせて使用
し,それぞれの薬剤の副作用を最小にするように麻
酔計画を立てることが,臨床的に妥当な考え方であ
る.したがって,患者の背景因子と手術上の禁忌要
件の有無を考慮して,低流量で亜酸化窒素を併用す
る麻酔法は,これからも手術室における全身麻酔の
一つの方法として生き残っていくと考える.
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