Author(s)
清水, 史彦
Citation
沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE
HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(40): 61-72
Issue Date
2017-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/22071
沖縄戦下の民間人収容所の展開に関する考察
―米軍基地建設計画と関連して―
清水 史彦 はじめに 本稿は、沖縄戦下の民間人収容所における米軍の民間人管理のありようとその破綻につ いて、米軍基地建設計画との関連において考察することを目的としている。 沖縄戦下の民間人収容所については、先行研究においてたびたび言及がなされてきた。 鳥山淳は、民間人収容所について、「地上戦の渦中で保護した民間人を管理するために 設けられた収容所は、戦場を生き延びた住民の生活を支える場となると同時に、基地建設 工事が展開される地域から住民を隔離する役割を担っていた」と、米軍基地との関係を指 摘したうえで、「このような収容所の隔離生活は、他方では自治の出発点が形成される場 でもあった。それは米軍の指令を受けて着手された営みであったが、人々が新たな統治を どのように受け止め、沖縄の自治をどのように構想しようとしたかを垣間見ることができ る場でもある(1)」として、人々の収容体験を自治の出発点として論述した。 本稿では、鳥山の研究成果に多くを学びながらも、民間人収容所の展開について、米軍 による民間人管理のありようを交えながら、主に米軍側の史料を使って掘り下げていきた い。ただし、米軍政初期の一次資料の現存状況は決して潤沢ではなく (2) 、沖縄戦下の民間 人収容所をめぐる複雑な状況を詳細に描くことは本稿においては不可能であろう。断片的 ではあろうが、本稿が民間人収容所を考察する際の見取り図を提示できたならば幸いであ る。 1.軍政の基本方針~「厳格な管理」~ 1945 年 4 月 1 日、沖縄本島の西海岸から「無血上陸」を果たした米軍は、進撃と同時に、SHIMIZU Fumihiko: A Study of Expansion of Civilian Camp in the Battle of Okinawa: in Connection with Base Development Plan
(1) 鳥山淳『沖縄/基地社会の起源と相克 1945-1956』勁草書房 2013 年 13 頁
(2) 仲本和彦「沖縄における軍政初期(1945 ~ 1946 年)米側資料について」『沖縄県公文書館研究紀要』 第 14 号 沖縄県文化振興会 2012 年
地上戦を生き残った人々を次々と民間人収容所に送り込んでいった。いくつかの文献では、 米軍によって収容された人々を「保護住民」として表記することがしばしば見受けられる が、民間人収容所における軍政の本来の目的は、軍政府自らが報告するように、収容した 人々を保護することにあるのではなく、あくまでも統治することにあった (3) 。 この点について、沖縄島上陸前の段階で策定された「作戦指令」では、次のように定め られている。 第 10 軍配下の各司令官は、占領下の住民に対し、戦争目的、法と秩序の維持、敵対 的な状況における地域の適切な管理のために必要な服従を要求し強制できる。この服 従の見返りとして住民に対し、個人の自由と財産権に対するすべての不必要あるいは 不当な干渉からの自由を与える。第 10 軍によって維持される管理の度合いは、管理 と住民の態度、軍事作戦計画、現行の軍事的、政治的、経済的、その他関連する状況 によって大きく異なる。軍政の目的を達成するため、住民の厳格な管理が実施される。 状況が正常になるにつれて、軍政府が実施する管理は緩和される (4) 民間人に「必要な服従」を要求し、かつ強制することができるなど、占領下の人々を「厳 格な管理下」に置く方針がここでは明示されている。さらに、人々を「厳格な管理下」に 置く根拠として述べられている、「敵対的な状況における地域の適切な管理のために」と の記述からは、沖縄の人々をあくまでも「敵国民」として取り扱うとの米軍の厳格な方 針もまた見て取れるであろう。このような米軍の基本方針は、「軍政の目的を達成するた め」との文言に集約されようが、そもそも軍政の目的とは、「軍事作戦を支援し、国家政 策を推進し、国際法に基づいて占領軍の義務を遂行することにある(5)」とするものであった。 つまり、軍政が軍事作戦を支援することを目的とする限り、米軍の沖縄侵攻作戦は、民事 活動よりも軍事作戦を優先する方針であった。 沖縄の人々をあくまでも「敵国民」としてみなし、「厳格な管理下」に置くという軍政 の方針は、1945 年 4 月に民間人収容所として開設された、沖縄本島中部の北谷村桃原での 事例から端的にうかがえる。 例えば、「headman の任務に関するメイヤーへのメモ」は、民間人収容所であった北谷 村桃原の管理規則とも言うべき内容を有するものであり、それらは主にheadman の任務に
(3)Island Command Military Government Headquarters“History of Military Government Operation Okinawa, 1 May to 31 May 1945 (L-30 L-60)”10 June 1945『沖縄戦後初期占領資料』第 10 巻 緑林堂 1994 年 54 頁 (4)「作戦指令第 7 号」1945 年 1 月 6 日(『沖縄県史 資料編 14 琉球列島の軍政 1945 - 1950 現代 2
和訳編』沖縄県教育委員会 2002 年 198 頁) (5) 注4同書 197 頁
ついて規定されている。headman への指示事項の一つに、「家屋に収容されている全ての 者はheadman からの指示を受けること。そして家屋に収容されている全ての者は headman に従い、また言われたように実行すること(6)」とあり、桃原ではheadman を通じて収容 所の管理規則が伝達されていたことがうかがえる。また、これらの指示事項は、「全ての headman によって厳格に適用される。そして彼らはその施行にあたって責任を負う。これ らの規則が適用されることを確認することはメイヤーの責務である。軍政府将校は以下の 規則を厳格に施行する責任をメイヤーに負わせる(7)」とされており、このことから、桃原 では、収容所の管理規則の施行についてはheadman が担当し、規則の「厳格な適用」に関 してはメイヤーが責任を負うこととされていたことがうかがえる。 このほかの指示事項から見て取れる点として、「メイヤーを除き、headman、作業隊及 び他の民間人は、配給を受け取る場合や作業を命じられた場合を除き、司令部エリアにい ることは許可されない (8) 」など、司令部エリアへの立ち入りが厳しく制限されていたこと、 あるいは「全ての民間人は 18 時(午後 6 時)から翌朝 7 時 30 分までは家にいること。こ の規則には厳格に従うこと」、「19 時(午後 7 時)に全て消灯し、翌日朝日が昇るまで家屋 で点灯させてはならない」、「民間人はキャンプの周りを徘徊してはならない。家の近隣に 留まること (9) 」など、人々が家屋や収容所から外出することは厳しく制限されていたこと もまたうかがえる。また、「ヘス少佐や他の軍政府将校が民間人に指示を出すために出席 しているとき、headman や作業隊は一列に並び、静かに“気をつけ”の姿勢で立ったまま でいること。このやり方は厳格に適用する(10)」との記述も、軍政が「厳格な管理」を民間 人に向けて求めていたことを示す一例として注目されよう。 このように、民間人収容所として機能していたかに見えた桃原であったが、あくまでも 桃原は、民間人を登録し、尋問し、医療検査するための一時的な「避難所」として選ばれ たに過ぎなかった。事実、1945 年 4 月 28 日には具志川村前原への民間人の移送が行われ、 翌 5 月 1 日には早くも桃原は閉鎖するに至った。この間、桃原に収容されていた人々の態 度については、「明確に協力的」であったとされる。破壊行為、不平不満、あるいは非協 力的な態度は人々の間から見つけられなかったとも記録されている (11) 。
(6)“Notes to the Mayor concerning the Duty of the Headman” April 1945(日付不明)『沖縄戦後初期占領資料』 第 13 巻 緑林堂 1994 年 13 頁
(7) 注 6 同資料
(8)“Notes to the Mayor” 22 April 1945『沖縄戦後初期占領資料』第 13 巻 緑林堂 1994 年 12 頁 (9) 注 8 同資料
(10) 注 8 同資料
2.軍政の失敗~「間接的な管理」~ 一時的であったにせよ、北谷村桃原では、軍政の「厳格な管理」が実行されていたかに 見えた。しかしながら、桃原とは対照的に、沖縄本島北部の収容所では民間人管理が徹底 していたとは必ずしも言えない状況があった。 沖縄本島中部地域同様に、米軍上陸間もない 1945 年 4 月の時点で、仲泊―石川ライン 以北の地域は住民を収容する地区に指定され、とりわけ羽地村田井等を中心とする地域は 大規模な民間人収容地区となっていた (12) 。しかしながら、先ほどの桃原とは対照的に、田 井等に加えて、金武の北側の東海岸沿い、辺土名付近の西海岸沿い、本部半島の海岸沿い では、収容された人々は「間接的な管理」の下に置かれていたと記録されている (13) 。沖縄 本島北部地域の主要な収容エリアについては、必ずしも「厳格な管理」は実施されていな かったことがうかがえる。 これら沖縄本島北部の収容エリアにおける「間接的な管理」について、軍政府のメモラ ンダムには次のように記されている。 今日まで、沖縄北部の一般市民を組織し管理する主要な仕事において、総じて言えば 軍政府は失敗した。ことによると 100,000 人の民間人がいかなる軍政府の管理下にも 置かれておらず、そのうえさらに、現地人は金武や田井等の収容所から勝手気ままに 野山を歩き回っていた (14) 沖縄本島北部の「間接的な管理」の具体的な状況として、実に 100,000 人もの人々が軍 政府の管理下に置かれてすらいないこと、そして収容所の外で「勝手気ままに」野山を歩 き回る人々の姿などがここでは記されている。ここで注目したいのは、このような「間接 的な管理」についての軍政自らの評価として、「軍政府は失敗した」と総括されている点 である。 メモランダムには、「軍政の失敗」について、いくつかの要因が指摘されている。その 要因とは、設備及び輸送手段が欠乏していること、憲兵の数が不十分であること、そして May 1945『沖縄戦後初期占領資料』第 13 巻 緑林堂 1994 年 5 頁 史料によると、1945 年 4 月の時点で桃原が民間人収容所として選ばれたのは、軍事施設と関係する立 地であったこと、そして小屋、水源、食糧が現存していることがその理由として挙げられている。 (12)『名護市史本編 3 名護・やんばるの沖縄戦』名護市史編さん委員会編 2016 年 396 頁
(13)Memorandum “Military Government Operations in Northern Okinawa from 21 April to 28 May 1945” ( No Date)『沖縄戦後初期占領資料』第 17 巻 緑林堂 1994 年 44 頁
軍政府において統一的な政策が欠如していることであるが(15)、なかでも最も重要な要因と して、「軍政要員の全体的な準備不足」が指摘されている。この「軍政要員の全体的な準 備不足」については、戦術経験がないこと、指揮経験がないこと、民間人を統治する経験 がないことなどが挙げられている。特に戦術経験の無さについては、「軍政要員の大多数は、 戦地及び戦闘状態の下での活動訓練を受けたことがない」と具体的に記述され、その結果、 「異常に数多くの精神医学的負傷者や精神異常すれすれの者がおり、おびただしい人格動 揺と不適合は言うまでもなく、統治、品行方正、そして有効的な活動が損なわれた(16)」と 結論付けられている。 沖縄本島北部の民間人収容所を考える上で、指摘しておかなければならない点として、 本島中南部地域からの大量の人口流入を挙げておきたい。このメモランダムにも、1945 年 4 月下旬以降の沖縄本島北部の状況として、民間人収容所の人口が急増していることが記 録されており、石川の収容人口は約 13,000 人に、金武の収容人口は約 15,000 人に達した とされている(17)。 この時期、石川と金武において人口が急増した要因の一つとして、このメモランダムは 次のように説明している。 4 月下旬、軍事的必要性により、楚辺、長浜、喜名、儀間から石川―仲泊ラインより 北側の収容所へと民間人を退去させるよう要求された(18) ここでいう「軍事的必要性」が具体的に何を意味するものかについては、本稿では立ち 入らないが、いずれにせよ、「軍事的必要性」を一つの要因として、沖縄本島北部の収容 所で人口が急激に増加し、ひいては過密化していったのである。このような収容人口の急 激な増加、あるいは過密化が、沖縄本島北部の民間人収容所における「間接的な管理」となっ て反映されたものと考えられよう (19) 。 そしてここで重要なことは、このような状況であるにもかかわらず、1945 年 5 月以降、「軍 (15) 注 13 同書 46 頁 (16) 注 13 同書 47 頁 (17) 注 13 同書 44 頁 (18) 注 13 同書 44 頁 (19) 沖縄本島北部の民間人収容所において人口が過密化した要因は、何も「軍事的必要性」によるものだ けではない。1945 年 4 月 21 日付の史料には、「海兵隊が島の北部を占領するのが迅速だったため、一 般市民を管理することは予想していたよりも幾分困難だった」と記録されており、米軍の予想よりも 早い段階で多くの人々が収容されたことが見て取れる。続けて史料には民間人管理の必要性が説かれ ているが、その理由としては、日本兵が民間人のなかにまぎれていること、そして立入が許可されて いない地域へと人々が移動していたことが挙げられている。人々が立入禁止区域に入域する理由につ いては、食糧、他の所有物、子どもたち、他の関係者、そして丘の壕の中に見捨てられていた多くの人々
事的必要性」がより一層強化されていったことである。 3.民間人の退去をめぐって 沖縄戦の特徴の一つとして、大規模な人口移動が挙げられよう。地上戦を生き残った人々 が次から次へと収容所を渡り歩いた大規模な人口移動は、戦闘地域からの退避ということ だけではなく、先ほどの石川、金武の事例に見るように、「軍事的必要性」に伴う民間人 退去としての側面を持っていた。 この点について、1945 年 5 月 14 日付の米軍政府の史料には、次のように記述されている。 沖縄北部でのすべての狙撃兵及び日本軍を一掃する目的のため、第 27 師団と軍政府 司令部アイランドコマンドとの間で作成された、沖縄北部の現地人を軍政府の実効支 配下に置く計画の承認が必要である。この計画が、表明された任務を完遂する即座の 目的のためであると了解されるはずである。そして基地建設の長期的計画が決定され たのであれば、民間人の退去が必要になることも了解されるはずである(20) この史料が作成された 1945 年 5 月という時期を振り返ってみると、アイスバーグ作戦 の第 3 段階として位置付けられていた、沖永良部島、久米島、宮古島、喜界島、徳之島を 占領する計画が、破棄されるかもしくは無期限に延期されていた (21) 。そしてアイスバーグ 作戦第 3 段階に取って代わって、統合参謀本部は B-29 の発着が可能な滑走路を沖縄本島 に 18 本、伊江島には 4 本建設することを計画していたのであった (22) 。 作戦計画の変更に伴って、1945 年 5 月 12 日には「基地展開計画」が改訂され、読谷飛行場、 嘉手納飛行場、泡瀬飛行場、那覇飛行場、ボーロー飛行場、普天間飛行場、与那原飛行場、 金武飛行場、アギナ飛行場、牧港飛行場、テラ飛行場、伊江飛行場に計 18 本の滑走路を、 そしてそれらに加えて海上航空基地を建設することが計画された (23) 。基地建設計画の改訂 に伴い、米軍は沖縄本島、伊江島を日本本土に対する最終決戦を遂行するための「跳躍台」 を求めていたためであると記録されている。
Memorandum to General Crist “Military Government Operations Carried on by the Ⅲ Phib Corps on Okinawa Jima during the Period 1 April to 21 April 1945” 21 April 1945 『沖縄戦後初期占領資料』第 17 巻 緑林堂 1994 年 40 頁
(20)Headquarters Military Government“Proposed Plan for Bringing Civilians in Northern Okinawa under Effective Military Government Control” 14 May 1945『沖縄戦後初期占領資料』第 38 巻 緑林堂 1994 年 70 頁 (21)Headquarters 5223rd Engineer Construction Brigade “Okinawa Base Command Historical Report” 21 March
1946(“A-153 General, Okinawa Base Command Historical Report” 沖縄県公文書館 U00002099B) (22)“The War in the Pacific Okinawa; The Last Battle” Historical Division Department of the Army Washington,
D.C., 1948 pp.419-420
とすべく要塞化を進めていったが、沖縄の要塞化とともに、大規模な人口移動の必要性も また明確化していった (24) 。 大規模な人口移動のほか、1945 年 5 月の基地建設計画の改訂によって生じたもう一つの 重要な点は、上陸前に策定されていた軍政計画―米軍政府の月例報告書によれば、沖縄本 島を 6 つの軍政地区に分割する計画―が破棄を余儀なくされたことである(25)。 1945 年 1 月 27 日の時点でのアイスバーグ作戦における軍政計画では、沖縄本島を第 1 地区から第 6 地区までの 6 つの軍政地区に分割し、伊江島には第 7 地区を、東部諸島には 第 8 地区を、慶良間列島には第 9 地区をそれぞれ設置することが計画されていた(図 1)。 また、沖縄本島のそれぞれの軍政地区には「本部」を設置することも計画されており、第 1 地区は那覇に、第 2 地区は摩文仁に、第 3 地区は神里に、第 4 地区は首里に、第 5 地区 は島袋に、第 6 地区は名護に、そ して伊江島にも「本部」を設置す る計画が立てられていた(26)。 しかしながら、基地建設計画の 改訂に伴って、上陸前の軍政地区 計画は破棄に至った。1945 年 5 月 下旬、米軍は民間人を収容するた めの「恒久軍政エリア」を以下の ように設定した。 a. Kin river から島の北端に かけての東海岸沿いの狭小な 細長い土地 b. 北部西海岸の辺土名の周辺 地域 c. 東海岸の石川の周辺地域 82 頁 なお、本文に引用した飛行場のうち、北から伊江、読谷、嘉手納、牧港、与那原、那覇の各飛行場は、 旧日本軍が建設した飛行場を原型として、米軍が整備・拡張したものであることをここに付記しておく。 『沖縄県史ビジュアル版 5 空から見た沖縄戦 沖縄戦前後の飛行場』沖縄県教育委員会 2000 年 (24)Island Command Military Government Headquarters “History of Military Government Operations on Okinawa,
1 May to 31 May 1945” 10 June 1945『沖縄戦後初期占領資料』第 10 巻 緑林堂 1994 年 45 頁 (25) 注 24 同書 46 頁 (26)「作戦計画 1-45(案)アイスバーグ 付属文書 15 軍政府計画」1945 年 1 月 6 日、「付属文書 15 軍 政府計画 付録 7 第 2 段階」1945 年 1 月 27 日(『沖縄県史 資料編 12 アイスバーグ作戦 沖縄戦 5 和訳編』沖縄県教育委員会 2001 年 340-358 頁) 図1 軍政府地区区分図 (出典 : 『沖縄県史 資料編 12 アイスバー グ作戦 沖縄戦 5 和訳編』 沖縄県教育委員会 2001 年 358 頁)
d. 勝連半島と泡瀬との間に位置する東海岸区域 e. 屋我地島や慶良間列島などのような、沖縄本島に近隣する小さな数々の島々(27) 上記の 5 項目を見て分かるように、1945 年 5 月の時点で、「恒久軍政エリア」が沖縄本 島北部を中心に設定されている一方で、米軍の各飛行場の近接地域である沖縄本島中部の キャンプコザ、比嘉、島袋、安谷屋、野嵩などの収容所が、そして単独の民間人収容所 としては最大規模の収容人口を抱えていた本島北部の田井等までもが、「恒久軍政エリア」 に含まれていないことが分かる。言い換えるならば、1945 年 5 月の段階で、上記 d 項を除 く本島中部の各収容所、そして本島北部の田井等までもが、すでに民間人退去の対象とし て構想されていたのである。また、上記の「恒久軍政エリア」全体としての面積は、沖縄 本島の総面積のわずか 10%ほどしかなく(28)、人々はきわめて狭隘なエリアに収容されるこ とになるのである。 ところで、先に引用した 1945 年 5 月 14 日付の史料では、「基地建設の長期的計画」と 記述されてはいるものの、実際のところ、沖縄戦を通して、米軍の基地建設計画は短期間 で頻繁に改訂されていた(29)。1945 年 5 月の時点での基地建設計画は、計画として決して確 定されたものではなかったのである。そして何より重要な点は、基地建設計画の不確定さ と連動して、軍政府の使用が確保されるエリアについても徹底的に変更されたことであ る (30) 。つまり、基地建設計画と連動するように、軍政エリアについてもまた不確定さを孕 んでいたといえよう。例えば、「恒久軍政エリア」とされた石川、前原においても、1945 年 7 月の時点では、「恒久エリア」として残存するかどうかは未確定であった (31) 。したがって、 基地建設計画の行方によっては、多くの人々が石川、前原から退去させられた可能性は十 分にあり得たであろう (32) 。
(27)Ascom Ⅰ Military Government Headquarters Memorandum “Resettlement Program, Report on” 17 August 1945『沖縄戦後初期占領資料』第 38 巻 緑林堂 1994 年 91 頁
(28) 注 27 同書 91 頁
(29) 注 23『暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地‐基地形成史の共通性』73-82 頁
(30)Island command Military Government Headquarters “Report on General Conduct of Military Government, Southern Area, from 1 April to 15 July 1945” 14 July 1945 『沖縄戦後初期占領資料』第 17 巻 緑林堂 1994 年 71 頁
(31)Memorandum “Resettlement Program, Civilian” 19 July 1945 『沖縄戦後初期占領資料』第 38 巻 緑林堂 1994 年 83-86 頁 (32) なお、「恒久軍政エリア」に関して、1945 年 5 月 22 日の軍政府の会議録には、軍政エリアの割り当て に関する「最終決定」についての発言記録が確認できる。史料には、宜野座、石川などの北部東海岸、 前原を含む勝連半島を「恒久エリア」として軍政府に割り当て、島袋周辺を「暫定エリア」として軍 政府に割り当てるとされている。いずれのエリアの割り当てについても「最終決定」であると記述さ れている一方で、「これが最終決定であることを望む」との記述も見て取れる。基地建設計画と同様に、 軍政エリアについても不確定なものであるとして、軍政スタッフに認識されていたのかもしれない。 “Minutes of Conference RE MG Gen C and Staff Officers” 米国国立公文書館 RG407/427/1014
このように、基地建設計画とその不確定さに連動して、民間人退去が次々と強行されて いくのである。 4.管理の破綻 表 1 は、1945 年 4 月 20 日 か ら 7 月 15 日にかけての民間人の収容 人口の推移を示している。表は南 部エリア、北部エリア、外郭諸島 の三つに大別されているが、7 月 5 日を除き、5 月 31 日以降は北部エ リアの人口が南部エリアの人口を すべての月日で上回っており、北部エリアの人口が増加する一方であることが確認できる。 6 月 15 日から 30 日にかけては、日本軍の組織的戦闘が終了した関係からか、南部エリア の人口が急増しているが、7 月 15 日になると南部エリアの人口が減少する傾向が表れ始め ている。 このような傾向は、1945 年 7 月の 1 ヶ月間に限定した人口動態でより明らかである(表 2)。おおむね人口が増加傾向にある沖縄北部のなかでも、とりわけ北部東海岸の「宜野座 エリア」の人口が突出して急増しており、1945 年 7 月のわずか 1 ヶ月間でほぼ倍増してい る。一方の沖縄南部の野 嵩、安谷屋、喜舎場、コ ザ、島袋では 1 ヶ月間で 人 口 は ほ ぼ 半 減 し て お り (33) 、表 1 及び表 2 のデー タから、多くの人々が基 地建設によって沖縄本島 南部から沖縄本島北部に 退去させられたことがう かがえる。 しかしながら、基地建 設による民間人退去は沖 (33) 表 2 で分類されている「沖縄南部」の字名であるが、玉城、新里を除けば、すべて沖縄本島中部の民 間人収容所を表している。このような分類の現れは、石川―仲泊ラインで沖縄本島の南北を区切った 米軍の方針が反映されたものであると考えられる。 表1 民間人収容人口の推移 1 南部エリア 北部エリア 外郭諸島 合計 4 月 20 日 60,000 人 30,000 人 ― 90,000 人 5 月 6 日 77,300 人 47,100 人 ― 124,400 人 5 月 31 日 56,200 人 87,400 人 3,800 人 147,000 人 6 月 15 日 64,400 人 98,300 人 9,500 人 172,200 人 6 月 30 日 122,600 人 126,800 人 11,100 人 260,500 人 7 月 5 日 132,000 人 122,500 人 11,100 人 265,600 人 7 月 15 日 120,700 人 155,400 人 14,400 人 290,500 人 『沖縄戦後初期占領資料』 第 17 巻 緑林堂 1994 年 72 頁より作 成 表2 民間人収容人口の推移 2 7 月 1 日 7 月 11 日 7 月 21 日 7 月 31 日 沖縄南部 野嵩、安谷屋、喜舎場 23,000 22,000 25,500 12,500 コザ、島袋 22,000 16,000 12,000 11,500 桃原、具志川 38,500 41,500 41,500 42,000 玉城、新里 15,000 36,000 30,000 24,000 計 98,500 115,500 109,000 90,000 沖縄北部 田井等 57,000 36,000 60,000 64,500 石川 19,000 23,500 24,000 24,500 宜野座エリア 65,000 83,500 101,000 117,700 計 141,000 143,000 185,000 206,700 外郭諸島 粟国 3,500 3,500 3,500 3,500 平安座 8,000 8,000 8,000 8,000 伊平屋 3,500 6,500 6,500 7,500 慶良間列島 4,000 4,000 4,000 4,000 久米 1,000 1,000 1,000 1,000 計 20,000 23,000 23,000 24,000 総 計 259,500 281,500 317,000 320,700 『沖縄戦後初期占領資料』 第 11 巻 緑林堂 1994 年 21 頁より作成
縄本島南部に限ったことではなかった。1945 年 5 月に基地建設計画が改訂されたことに よって、本島北部の収容所もまた民間人退去の対象となったのである。 その一例が金武であった。先に述べたように、金武は楚辺や喜名から退去させられる人々 の移送先であったが、金武もまた民間人退去の対象となっていた。 表 3 は、1945 年 5 月 20 日から 8 月 15 日にか けての漢那の収容人口の推移を示している。表 を見る限り、6 月 19 日から 7 月 1 日にかけて 人口が最も急増していることが分かるが、この 背景には、金武飛行場の建設工事と、それに連 動して金武収容所が取り壊され、金武に収容さ れていた人々が漢那への退去を余儀なくされた ことが反映されているのである (34) 。 このような短期間での退去のあり様は、民間 人収容所の管理にも大きな影を落とした。1945 年 7 月 19 日付のメモランダムには、次のよう に記されている。 今後 90 日以内に、おおよそ 130,000 人の民間人を島の様々な区域から立退かせ、島 の北東部の区域に定住させなければならない。この文書を書いている時点で、これら の民間人のための利用可能な避難小屋及び衛生設備はゼロである (35) 民間人退去の対象となった 130,000 人もの人々が生きるために必要とするであろう、避 難小屋、そして衛生設備が実に「ゼロ」であるという状況は、「軍事的必要性」を何より も優先した米軍の方針の産物であるといっても過言ではないだろう。 こうした状況であるにも関わらず、1945 年 8 月には、知念半島、野嵩、キャンプコザ、 具志川の「暫定エリア」から、知念半島の 2 万 5,000 人、野嵩の 7,000 人、キャンプコザ
(34)Team C-4 “Interview with Lt. Cmdr Vaughm B. Driggs at Kanna on 23 August, 1945, by F.P. Todd” 米国国立 公文書館RG407/427/1014 金武収容所における民間人退去の背景には、軍政チーム単独としてではなく、軍政による民間人の動 員があったことを付記しておきたい。軍政チームは金武収容所の一時的なメイヤーとして、金武村の 元郵便局長を任命した。この元郵便局長が果たした任務には、収容された人々にレーションを配給す ることだけではなく、金武飛行場の滑走路を整地するため、墓の所有者と墓の移動の取り決めをなし たことも含まれており、軍政将校から大きな負担を取り除いたとの評価がなされている。
HQRS Military Government Kin Mura “Notes on Occupation and MG Organization of Kin Mura” 8 May 1945 米国国立公文書館RG407/427/1014 (35) 注 31 同書 83 頁 表3 漢那の収容人口 男性 女性 子ども 計 1945/5/20 416 230 363 1,009 5/27 518 668 963 2,149 6/2 564 769 1,135 2,468 6/7 567 777 1,153 2,497 6/14 645 1,147 1,680 3,472 6/18 667 1,222 1,770 3,659 6/19 747 1,550 2,205 4,502 6/25 1,101 3,045 4,143 8,289 6/28 1,279 3,786 4,851 9,916 7/1 1,410 4,283 5,343 11,036 7/15 1,484 4,558 5,624 11,666 8/1 1,800 4,192 5,341 11,333 8/15 1,816 4,268 5,403 11,487
“Interview with Lt. Cmdr Vaughm B. Driggs at Kanna on 23 August, 1945, by F.P. Todd” (米国 国立公文書館 RG407/427/1014) より作成
の 1 万 1,600 人、具志川の 6,500 人の約 5 万人を「恒久エリア」である「大宜野座エリア」 へと退去させ、同じく「暫定エリア」である田井等の 6 万 4,000 人を「喜如嘉―辺土名」 の「恒久エリア」へと退去させる計画が構想された(36)。このときキャンプコザの移送先となっ た久志、瀬嵩は、軍政要員にとっても「美しく風光明媚であるけれども、比較的不毛な地」 として認識されていた(37)。 民間人退去がピークに達した 1945 年 8 月、知念半島、野嵩、具志川から約 3 万 5 千人 の退去が行われた(38)。田井等の場合、民間人退去は行われなかったとはいえ、1945 年 8 月 20 日の時点で、「軍政府は田井等地方を住民居住地として維持すべく許可を得ることに努 力している。然し軍事上の必要は果して可能ならしむや否や判然としていない(39)」とあって、 依然として不安定な状況が続いていた。沖縄本島以外の民間人退去の事例としては、1945 年 5 月下旬の段階で、すべての伊江島民の慶良間諸島への退去がすでに完了していた(40)。 おわりに これまで見てきたように、基地建設計画が不確定であったことと連動して、軍政エリア の割り当てについてもまた不確定さを孕んでいたのであった。換言するならば、民間人 収容所の分布と展開自体が、「基地問題」としての側面を持っていたとも言えるであろう。 収容所をめぐる民間人退去のあり様については、民間人管理よりも軍事作戦を優先させた 米軍の沖縄侵攻作戦の一端が指摘できるばかりではない。そこからは「基地問題」に呻吟 してきた「戦後沖縄」の原型もまた浮き彫りになることであろう。 謝 辞 本稿には、関東学院大学教授である林博史先生との共同調査として、2016 年 2 月にアメ リカ国立公文書館にて収集した史料が含まれています。林先生はこれらの史料を使って本 稿を執筆することを快諾してくださいました。この場を借りて林先生に心より厚く御礼申 し上げます。
(36)“Movement of Civilian” 8 August 1945 『沖縄戦後初期占領資料』第 38 巻 緑林堂 1994 年 87 頁 (37)Military Government Det. C-1 “History of Operations” 米国国立公文書館 RG407/427/1014
(38)Army Service Command Ⅰ Military Government Headquarters Okinawa “Report of Military Government Activities for August” 25 September 1945『沖縄戦後初期占領資料』第 11 巻 緑林堂 1994 年 41-42 頁 (39)『沖縄県史料』戦後 1「沖縄諮詢会記録」沖縄県教育委員会 1986 年 22 頁
(40)Island Command Military Government Headquarters “History of Military Government Operation Okinawa, 1 May to 31 May 1945 (L-30 L-60)”10 June 1945『沖縄戦後初期占領資料』第 10 巻 緑林堂 1994 年 50 頁
参考文献 大城将保「第 32 軍の沖縄配備と全島要塞化」『沖縄戦研究Ⅱ』沖縄県教育委員会 1999 年 川平成雄『沖縄空白の一年 一九四五-一九四六』吉川弘文館 2011 年 我部政明『戦後日米関係と安全保障』吉川弘文館 2007 年 平良好利『戦後沖縄と米軍基地 「受容」と「拒絶」のはざまで 一九四五-一九七二年』法政大学 出版会 2012 年 鳥山淳「軍用地と軍作業から見る戦後初期の沖縄社会~ 1940 年代後半の『基地問題』~」『浦添市 立図書館紀要』No.12 浦添市立図書館 2001 年 鳥山淳『沖縄/基地社会の起源と相克 1945―1956』勁草書房 2013 年 中野好夫・新崎盛暉『沖縄戦後史』岩波書店 1976 年 林博史『沖縄戦と民衆』大月書店 2001 年 林博史『沖縄戦が問うもの』大月書店 2010 年 林博史『米軍基地の歴史 世界ネットワークの形成と展開』吉川弘文館 2012 年 林博史「米軍基地建設と住民強制退去―その植民地主義と人種主義―」『アメリカ史研究』第 36 号 日本アメリカ史学会 2013 年 林博史『暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地―基地形成史の共通性―』かもがわ出版 2014 年 林博史編『地域のなかの軍隊 6 大陸・南方膨張の拠点 九州・沖縄』吉川弘文館 2015 年 宮里政玄『日米関係と沖縄 一九四五-一九七二』岩波書店 2000 年 若林千代「占領初期沖縄における米軍基地化と『自治』、1945―1946 年」『国際政治のなかの沖縄』 国際政治 120 有斐閣 1999 年 若林千代『ジープと砂塵 米軍占領下沖縄の政治社会と東アジア冷戦 1945―1950』有志社 2015 年 沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室編『沖縄県史ビジュアル版 5 空から見た沖縄戦 沖縄戦 前後の飛行場』沖縄県教育委員会 2000 年 読谷村史編集委員会編『読谷村史 第五巻 資料編4 戦時記録 下巻』読谷村役場 2004 年 名護市史編さん委員会編『名護・やんばるの沖縄戦』名護市役所 2016 年