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駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882) ─日伊両国の一次史料を中心に─

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(1)駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882). 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と 日伊関係史におけるその役割(1880-1882) ─日伊両国の一次史料を中心に─. Carlo Edoardo Pozzi はじめに 鍋島直大(1846-1921)は幕末に佐賀藩第 11 代(最後の)藩主であり、維 新後、議定・外国事務局輔加勢などの要職を歴任した明治政府の高官であっ た。彼は 1878 年にヨーロッパ滞在から帰国し、翌 1879 年にその頃来日した ドイツ王族ハインリヒおよびアメリカ元大統領グラント将軍の接伴掛を命じ られた。その後、イタリア国王の義理の弟で あったジェノヴァ公トンマーゾ・ディ・サヴォ イア王子(Tomaso Alberto Vittorio di Savoia Genova, 1854-1931)をもてなす責務も負った。 そして、同年 8 月に外務省御用掛に任命され た鍋島は、翌 1880 年 3 月 8 日に駐イタリア 日本特命全権公使となり、7 月 9 日にナポリ へ向けて横浜を出港した。かくして、イタリ アに到着した 1880 年 8 月から 1882 年 6 月に かけて、鍋島直大は特命全権公使として在 ローマ日本公使館を指揮した【図版 1】。 鍋島公使のイタリア滞在に関する諸相はこ れまで岩倉翔子 1、鍋島報效会 2、熊田忠雄 3、 などによって何度か簡単に紹介されており、 1. 図 1 在ローマ日本特命全権公使鍋島 直大写真。「Civico Archivio Fotografico di Milano」所蔵. Cfr. Iwakura (1994). 99.

(2) Carlo Edoardo Pozzi. この課題の公的な詳細は周知のところである。特に、主に日本側の史料に基 づくこれらの先行研究によって、鍋島公使がローマにおいてその継室である 広橋栄子(1855-194)と共に社交界での活動を行っており、彼を「プリンチ ペ・ナベシマ」と呼称していたイタリアの上流社会に好感をもって受け入れ られたことが明らかになった。そして、彼が日本公使館において華麗な夜会 を主催していたことはもちろん、このようなイベントが地元イタリアのマス コミに度々取材され、新聞記事に取り上げられたことも知られている。けれ ども、1880 年代前半における日伊外交関係を軸にして、イタリア側と日本 側の一次史料を両方活用し、鍋島公使の外交活動を詳細に考察した研究は現 在のところ行なわれていない。その結果、鍋島公使が明治初期の日伊関係に おいてどのような役割を果たしたのかまだ明らかにされていない。 そこで、本稿では、イタリア外務省歴史外交資料館に保管されている公簡、 イタリア語での旅行日記や新聞記事などに加え、鍋島直大の侍従であった中 野礼四郎による詳細な伝記 4 の他に、主に外務省外交史料館、国立公文書館、 そして佐賀県立図書館で収集した一次史料(書簡と公文書)を活用し、イタ リアにおける鍋島公使の外交活動について可能な限り包括的な検討を試み る。特に、本稿の主な目的は 1880 年代前半において鍋島公使が日伊関係史 上で果たした役割がどのような歴史的意義を持つのかを証明することであ る。 この目的を達成すべく、中野、鍋島報效会、熊田などにおいて紹介された 要点を押さえた上で、主に前述の記録文書を活用しながら、以下のような順 序で結論へと導きたい。 まず、鍋島直大が日本特命全権公使としてイタリアへ派遣された理由と彼 の置かれていた状況を踏まえた上で、ジェノヴァ公をはじめとするイタリア 王国の王室メンバーと結んだ友情関係を考察する(第1章)。次に、ローマ における鍋島公使の社交界での活動、そして「プリンチペ・ナベシマ」とし てのその人気の政治的意義を考察する(第 2 章)。最後に、当時の日伊条約 2 3 4. 鍋島報效会(編集) (2016)を参照。 熊田忠雄(2017)を参照。 中野礼四郎(1941)と(1942)を参照。. 100 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(3) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882). 改正交渉の際、イタリア側との新条約締結に向けて、鍋島公使がどのように 動いたのかを検証する(第 3 章) 。以上の検証から鍋島公使によるローマ滞 在中の様々な側面を明らかにすることで、イタリア王国に対する日本政府の 外交政策において彼の役割が持つ、戦略的重要性を示唆する一つの判断材料 としたい。. 1.日本の特命全権公使としての任命とイタリア王室との友情関係 何よりもまず、鍋島直大が駐イタリア日本特命全権公使として任命された 理由を理解するために、1879 年から 1881 年の間にトンマーゾ・ディ・サヴォ イア王子(以下、ジェノヴァ公)が蒸気コルベット艦「ヴェットル・ピサー ニ号」の大洋横断航海の中で果たした 2 度目の来日に言及する必要がある。 この来日の際、ジェノヴァ公をもてなす責任があった鍋島は、その東京・横 浜における滞在中の 1879 年 11 月 28 日から翌 1880 年 2 月 1 日までの間、常 にジェノヴァ公に同行しており、 彼との深い友情関係を築き上げた【図版 2】。 この友情関係は、その来 日の際にジェノヴァ公の 附属参謀官兼書記官で あった中佐ルキーノ・ダ ル・ヴェルメ伯爵(Luchino Dal Verme, 1838-1911) により詳細に文書化され ている。ダル・ヴェルメ 伯爵が帰国した後出版し た『 日 本 と シ ベ リ ア 』 5 とい (Giappone e Siberia). う 旅 行 日 記 に よ る と、 1879 年 12 月 2 日に横浜 5. 図 2 鍋島直大・ジェノヴァ公集合写真:前列に座っているのが ジェノヴァ公と北白川宮能久親王。後列左より中佐ダル・ ヴェルメ伯爵、鍋島直大、機関士長ザナポーニ、大尉アク トン、駐日イタリア公使バルボラーニ伯爵、駐日イタリア 領事カルカノ、少佐カンディアーニ。 「Civico Archivio Fotografico di Milano」所蔵. Cfr. Dal Verme (1882). 101.

(4) Carlo Edoardo Pozzi. での海軍兵学校における訪問の後、鍋島は東京における自身の別荘へジェノ ヴァ公を招待し、彼のために、自身の庭で北白川宮能久親王(1847-1895) と陸軍卿西郷従道(1843-1902)をはじめとする明治政府・皇室の様々な上 層部も参加した「打毬」 ( ポロに似た競技)の試合を開催した6。その後、 1880 年 1 月 15 日、鍋島は関西への観光旅行の際に護衛としてジェノヴァ公 に仕えるよう命じられた7。そして、1880 年 2 月 21 日にジェノヴァ公を大阪 駅で出迎え、約 1 週間にわたって彼に京都、大津、宇治、そして奈良を案内 した8。最後に、2 月 27 日に鍋島はジェノヴァ公に駐イタリア日本特命全権 公使に任じられた旨を伝え、1880 年 3 月 8 日に明治天皇からその任命を正 式に受けるために、東京へ戻った 9。 おそらく、外国語の知識と海外生活の長い経験に加えて、ジェノヴァ公と 築いた親密な友情関係は、鍋島が日本特命全権公使としてイタリアへ派遣さ れた主な理由の一つである。 明治政府によるこの決定の知らせは、ジェノヴァ 公とダル・ヴェルメ伯爵からはもちろん10、当時の駐日イタリア特派全権公 使 ラ ッ フ ァ エ レ・ ウ リ ッ セ・ バ ル ボ ラ ー ニ 伯 爵(Raffaele Ulisse Barbolani, 1818-1900)からも好意的に歓迎された11。その任命について、1880 年 3 月 26 日にバルボラーニ伯爵は次のようにイタリア外務省に書いている。「日本 での滞在中ジェノヴァ公殿下をもてなす責任を負い、王子自身(ジェノヴァ 公)に喜ばれた旧大名(鍋島)を自国の全権代表として宮廷へ派遣すること で、日本政府はイタリア国王陛下の政府に敬意を表するつもりでした。新公 使は、与党のメンバーである王族たちと貴族たちだけに授与されている大勲 位菊花大綬章を陛下に賜る重要な任務があります」と記されている12。鍋島. 6. Cfr. Dal Verme (1882: 190-191). 防衛省防衛研究所、陸軍省 - 大日記 -M13-13-42「外務より伊の皇族京摂遊覧の事」大蔵省 大蔵権少書記官志村正義より、陸軍省宛の書簡(1880 年 1 月 15 日付)。出典:JACAR(アジ ア歴史資料センター)Ref. C04028757700。 8 Cfr. Dal Verme (1882: 280-297). 9 Cfr. Dal Verme (1882: 297). 10 Cfr. Dal Verme (1882: 297). 11 日本外務省外交史料館、6-1-5-8_4_001「外務省御用掛鍋島直大特命全権公使伊国在勤任命 ノ件」駐日イタリア公使バルボラーニより、井上馨宛の書簡(1880 年 3 月 17 日付)。出典: JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B16080141600。 7. 102 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(5) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882). 直大を駐イタリア日本特命全権公使に任命する決定と同様に、彼を通じて ジェノヴァ公の従兄および義理の兄であった当時のイタリア国王ウンベルト 1 世(Umberto I di Savoia, 1844-1900)に大勲位菊花大綬章を授与する決定も、 明治政府と皇室がサヴォイア家およびイタリア王国と親密な関係を築こうと していた明確なエビデンスであるとバルボラーニは理解していたと思われ る。実際、日本政府にとっては、この授与の目的は「貴我両国間ニ存スル交 際ノ斯ク日ヲ逐テ益親睦ナルヲ喜ヒ、且陛下ニ対シ特別ノ友情ヲ表」すこと であった13。 このような背景において、駐イタリア日本公使となった鍋島直大は、1880 年 7 月 9 日に外務書記官として随行した洋画家百武兼行(1842-1884)や鍋 島家に仕える成富清風(1838-1882)をはじめとする数名の役員と共に横浜 から出港し、8 月 23 日にナポリ港に上陸した際に、当時の駐イタリア臨時 代理公使中村博愛(1844-1902)からの歓迎はもちろん、その到着を出迎え るためにジェノヴァ公により派遣された海軍士官たちからの歓迎も受けた14。 また、9 月 13 日に鍋島公使は、外務大書記官となった中村および外務書記 官百武を伴ってフィレンツェにあるピッティ宮殿にてイタリア国王ウンベル ト 1 世に謁見し、明治天皇からの国書、そして明治政府からの大勲位菊花大 綬章を国王に捧呈した15。 これ以降、イタリアにおいて鍋島公使は多くの栄誉を受けた。イタリア国 王との前述の謁見と同日、彼は「晩餐会に招待せられ、之に臨んだが、公(つ まり、鍋島公使)を皇帝の左に座らせ、親しく懇談するの機会を与え、特に. イタリア外務省歴史外交資料館(ローマ)、MOSCATI VI、b. 1291、駐日イタリア公使バル ボラーニ伯爵より、イタリア外務大臣ベネデット・カイローリ宛の書簡(1880 年 3 月 26 日付)。 [...] Il Governo Giapponese nel destinare come suo rappresentante presso la R. Corte il Principe Nabeshima, un ex-Daimio, il quale, addetto alla persona di S.A.R. il Duca di Genova durante il suo soggiorno al Giappone, riusciva molto accetto al Principe, ha inteso di far cosa grata al Governo di S.M. il Re. Il nuovo Inviato ha l’incarico lusinghiero di presentare alla Maestà Sua l’Ordine imperiale del Crisantemo, che si conferisce solo ai sovrani e ai Principi di famiglia Regnante [...]. 拙訳。 13 国立公文書館(マイクロ資料)、保存場所:本館 -2A-033-05、請求番号:単 00185100、件名 番号:005、明治 13 年 5 月「大勲位菊花大綬章ヲ伊太利国皇帝ニ贈ル」。 14 Cfr. CORRIERE DELLA SERA (1880: 2). 15 国立公文書館(マイクロ資料)、保存場所:本館 -2A-010-00、請求番号:公 02833100、件名 番号:018、明治 13 年 12 月「全権公使鍋島直大伊国皇帝ヘ謁見勲章捧呈ノ件」。 12. 103.

(6) Carlo Edoardo Pozzi. 食器は皇帝以下皇族同様銀器を用い、公は公使の資格であつたけれど大使同 志の懇遇をして公を優待した」16。このような特別な待遇に貢献した要因の一 つが、鍋島がジェノヴァ公による 2 度目の来日の際に彼をもてなす責任者と して果たした役割であったことを忘れてはならない。同 9 月、イタリア国王・ 王妃17 は、ジェノヴァ公への歓待に対する感謝の印として、鍋島公使のため にミラノ近郊のモンツァ王宮での晩餐会を開いた18。 しかし、さらに重要なことには、日本の天長節に当たる 1880 年 11 月 3 日 に鍋島が在ローマ公使館において開いた初めての夜会の際に、イタリア国王 は彼にイタリア王冠勲一等大綬章19 を授与した点である20。日本公使館での この夜会のために、鍋島公使は、当時のイタリア総理大臣兼外務大臣であっ たベネデット・カイローリ(Benedetto Cairoli, 1825-1889)をはじめ、外務大 輔フェルディナンド・マッフェイ(Carlo Alberto Ferdinando Maffei di Boglio, 1834-1897) 、旧駐日イタリア特派全権公使アレッサンドロ・フェ・ドスティ アーニ伯爵(Alessandro Fè d’Ostiani, 1825-1905)など、多数の賓客を招待した。 11 月 13 日に鍋島公使が当時の外務卿井上馨(1836-1915)に書いた書簡に よると、 「同日(つまり、11 月 3 日)右晩餐ノ時限ニ先チ外務郷ヨリ同省書 記官ビヤンキ氏ヲ以テ伊國皇帝陛下當日我皇帝陛下ノ御誕辰ニ相当リ候ニ付 陛下并ニ本邦ノ幸福ヲ祈ラレ両國ノ交誼益親密ニ至ランフヲ欲セラル、ガ故 ニ伊國一等勲章ガランコルドル、ジタリーヲ拙者ヘ授與セラレ候旨演説セシ メ該勲章ヲ送付有之」と記されている21。これを踏まえて、わずか一ヶ月余 り在ローマ日本公使館に在勤していた鍋島直大にイタリア王一等勲章が授与. 中野礼四郎(1941: 5)を参照。 ジェノヴァ公の姉にあたるマルゲリータ・ディ・サヴォイア(Margherita Maria Teresa Giovanna di Savoia, 1851-1926)。 18 中野礼四郎(1941: 5)を参照。 19 Ordine della Corona d’Italia, 即ち 1868 年にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ 2 世 がリソルジメントによるイタリア統一を記念して制定した騎士団勲章。 20 日本外務省外交史料館、6.2.1.2_5「伊太利皇帝陛下ヨリ鍋嶋特命全権公使ヘ勲章贈与一件」 駐日イタリア日本公使鍋島直大より、井上馨宛の書簡(1880 年 11 月 13 日付)。出典:JACAR(ア ジア歴史資料センター)Ref. B18010083600。 21 日本外務省外交史料館、6.2.1.2_5「伊太利皇帝陛下ヨリ鍋嶋特命全権公使ヘ勲章贈与一件」 駐日イタリア日本公使鍋島直大より、井上馨宛の書簡(1880 年 11 月 13 日付)。出典:JACAR(ア ジア歴史資料センター)Ref. B18010083600。 16 17. 104 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(7) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882). されることが、日本に対するイタリア王国の好意の表れであったことは明ら かである22。ただ、この授与は鍋島公使に対するイタリア王室からの特別な 優遇でもあったということを忘れてはならない23。鍋島自身はイタリア王冠 勲一等大綬章の授与を「無限光栄」とみなし24、公使大礼服の上に同じ大綬 章(右肩のバンド、および左胸の星)を佩用している自身の肖像画を描くよ う書記官百武兼行に命じた【図版 3】。 その後、鍋島公使とイタリア王室との間の友情関係は徐々に親密かつ私的 なものになっていった。例えば、1881 年 4 月 16 日に在ローマ日本公使館で 25 、鍋島は「伊 前述の広橋栄子(大納言広橋胤保の娘)と結婚した際に【図版 4】. 国皇后宮ヘモ内謁見アリタリ。栄子同伴ニテ参内、奥ノ御間ニテ皇帝又大奥 之御間ニテ皇后宮ヘ拝謁シ」26、国王・王妃と対面している。また、翌 1882. 図 3 百武兼行による『鍋島直大像』 。 公益財団法人鍋島報效会所蔵. 図 4 鍋島直大・栄子集合写真(ローマにて):前列左から 斉藤桃太郎、成富清風、北嶋以登子、田中永昌、松 平定教。後列左より尾崎逸足、百武兼行、鍋島桂次郎、 鍋島栄子、鍋島直大、田中建三郎。 公益財団法人鍋島報效会所蔵. 中野礼四郎(1941: 5)を参照。 中野礼四郎(1941: 5-6)を参照。 日本外務省外交史料館、6.2.1.2_5「伊太利皇帝陛下ヨリ鍋嶋特命全権公使ヘ勲章贈与一件」 駐日イタリア日本公使鍋島直大より、井上馨宛の書簡 (1880 年 11 月 13 日付 )。出典:JACAR(ア ジア歴史資料センター)Ref. B18010083600。 25 ちなみに、駐イタリア日本公使に任命された直後(1880 年 3 月 30 日)に妻の胤子(梅渓通 善の娘、1850-1880)と死別したため、イタリアへ出発する前に、鍋島直大は岩倉具視の取り 持ちにより栄子との婚約に漕ぎつけた。栄子は 1881 年 4 月 16 日にナポリに到着した。 22 23 24. 105.

(8) Carlo Edoardo Pozzi. 年 2 月 2 日に直大・栄子の娘が生まれ、 「イタリアの都の子」という意味の 伊都子(1882-1976)と命名している。鍋島の娘の誕生のニュースを早くに 聞いたマルゲリータ王妃はその誕生を祝うために、自身の使を鍋島夫妻に遣 わし、プレゼントを贈った27。その上、同 1882 年 4 月中旬、鍋島夫妻は帰任 のためクイリナーレ宮殿(つまり、 ローマにあるイタリア国王の公式な宮殿) へ挨拶に訪れた際に、鍋島がウンベルト 1 世より聖マウリッツィオ・ラザロ 一等勲章を贈呈され28、栄子に対しては王妃から腕輪が贈呈された29。最後に、 帰国する前、1882 年 4 月下旬に鍋島夫妻はトリノへ赴き、前 1881 年 9 月 20 日に蒸気コルベット艦「ヴェットル・ピサーニ号」上の大洋横断航海からイ タリアへ戻ったジェノヴァ公を訪問した30。その際に、鍋島は「焼の食器を贈っ て在任中優遇を受けたるの謝意を表した。ヂェノア公(つまり、ジェノヴァ 公)夫妻は大に之を喜び、栄子夫人にダイヤモンド入の腕輪を贈って之に答 えた」31。. 2.ローマにおける「プリンチペ・ナベシマ」の社交界での活動 とその人間的成功 1880 年 8 月から 1882 年 6 月までのイタリア滞在中、鍋島公使は、イタリ ア王室と強固な友情関係を築くことに加えて、現地の上流階級との交流にも 力を入れ、 「夜会・舞会・晩餐・訪問等殆ド虚タナク実ニ日伊両国政府ノ交 誼親睦ヲ厚フセリ」32、社交界で非常に積極的に活動した。また、鍋島公使だ けでなく、ローマの日本公使館での結婚後、その夫人になった栄子も様々な 佐賀県立図書館、 『鍋島家文庫』 (公益財団法人鍋島報效会所蔵)、鍋 113-36「鍋島弸斎翁小傳」。 鍋島報效会(編集) (2016: 13)を参照。 27 中野礼四郎(1941: 7)を参照。 28 日本外務省外交史料館、6.2.1.2_5「鍋嶋全権公使伊国駐箚解任帰朝ニ付同国皇帝同公使ヘサ ンモリス、エ、ラザル第一等勲章ヲ百武書記官ヘ王冠第三等勲章ヲ松平員外書記生ヘ王冠第 五等勲章ヲ寄贈一件」外務書記生齊藤桃太郞より、井上馨宛の書簡(1882 年 4 月 15 日付)。 出典:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B18010083800。 29 中野礼四郎(1942: 9)を参照。 30 日本外務省外交史料館、6.2.1.2_5「鍋嶋全権公使伊国駐箚解任帰朝ニ付同国皇帝同公使ヘサ ンモリス、エ、ラザル第一等勲章ヲ百武書記官ヘ王冠第三等勲章ヲ松平員外書記生ヘ王冠第 五等勲章ヲ寄贈一件」外務書記生齊藤桃太郞より、井上馨宛の書簡(1882 年 5 月 2 日付)。出 典:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B18010083800。 31 中野礼四郎(1942: 9)を参照。 26. 106 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(9) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882). 要人と接し、鍋島夫妻はローマ社交界で活躍した33。イタリアの首都で過ご したその多忙な日々については、鍋島自身は後年の回顧録で次のように記し ている。 「晩餐夜会日々之如ク盛ナル事ニテ、 栄子ヲ伴ひ同車ニテ処々ヘ行キ、 舞踏ヘ加ハリタル事モアリ。又見物シタリ。初メテ先年来ノ思ひの如く外交 之高等社会ニ連ナリシ事モ出来タルヲ思ひケリ」34。そのため、「プリンチペ・ ナベシマ」としてローマの上流階級に好意的に迎えられた鍋島は、「夫婦一 同ニ外交官ノ上等の地位に列シタルハ、実ニ年来ノ宿志ヲ遂ゲタル也」と考 えており35、在ローマ日本特命全権公使として自らの立身に誇りを感じてい た36。 確かに、鍋島公使がローマの上流階級から受けた多大な配慮、またこの配 慮が外交官としての前述の社会的な地位に対して与えた好影響は、イタリア 王室と築いた友好関係の結果であったといえよう。すでに 1880 年 10 月 14 日にその随行である成富清風が述べたように、鍋島公使は「御着任公務御引 継當国皇帝(ウンベルト 1 世)并ニ皇宮陛下ニ謁見被為済、首尾能御奉務被 遊候」37。その上、明治維新の間に天皇に仕えた旧大藩の領主として鍋島公使 の声望は、 イタリアの首都における彼の人間的成功に非常に貢献した。実際、 随行成富清風は、 「元来旧肥前太守ニテ維新之際皇室ニ御勤労被遊候始末等 追々新聞帋ニ布告、全国貴族たる事承了致し、随而待遇も殊ニ厚く日祖以来 積善之餘徳終ニ好結果ヲ得可賀之至也」と述べている38。 さらに、1880 年 8 月 24 日にイタリアに到着し、同年 9 月 13 日にウンベ ルト 1 世に謁見を許されて以来、王室と上流階級においてばかりか、鍋島公. 佐賀県立図書館、『鍋島家文庫』 (公益財団法人鍋島報效会所蔵)、鍋 910-2「集書」、「公使館 舞会概略」。 33 熊田忠雄(2017: 48-52)を参照。 34 佐賀県立図書館、 『鍋島家文庫』 (公益財団法人鍋島報效会所蔵)、鍋 113-36「鍋島弸斎翁小傳」。 鍋島報效会(編集) (2016: 13)を参照。 35 佐賀県立図書館、 『鍋島家文庫』 (公益財団法人鍋島報效会所蔵)、鍋 113-36「鍋島弸斎翁小傳」。 鍋島報效会(編集) (2016: 13)を参照。 36 鍋島報效会(編集) (2016: 13)を参照。 37 佐賀県立図書館、 『黒土原成富家資料』第 1 巻、黒成 0161「成富清風書簡」、成富清風より、 成富種武宛の書簡(1880 年 10 月 14 日付)。山口久範(2009: 70)を参照。 38 佐賀県立図書館、 『黒土原成富家資料』第 1 巻、黒成 0161「成富清風書簡」、成富清風より、 成富種武宛の書簡(1880 年 10 月 14 日付)。山口久範(2009: 70)を参照。 32. 107.

(10) Carlo Edoardo Pozzi. 使はローマの諸新聞をはじめとする全国紙およびイタリア社会においても 「プリンチペ・ナベシマ」として人気を博した。特に、イタリアの世論は、 西欧の文化・マナーに関する鍋島公使の詳しい知識に加え、アンドレオッツィ 宮(Palazzo Andreozzi, Via della Mercede 12, Roma)での日本公使館において彼 がエレガントな方法で度々開催していた舞踏会や晩餐会にも深い感銘を受け た。本稿の第 1 章では 1880 年 11 月 3 日の夜会について言及したが、それよ りもイタリア世論に大きな印象を与えたのは翌 1881 年 2 月 26 日の催しであ る。この日、まだ妻不在の鍋島公使は、王室をはじめ、各国の大使・公使、 イタリア王国の大臣など、多数の賓客「ヲ公館ニ招キ舞会ヲ催サントシテ、 折東ヲ以テ諸賓ヲ招請セラレシ事凢三百五十人ナリ」39。すると、参加者を迎 えるために準備された扇子や団扇などの日本の伝統工芸で装飾を凝らしてい た公使館においては、鍋島公使「及書記官生ハ始終接待ニ意ヲ注ガレ、甚思 慮ヲ労サレシ故、愛度盛会ヲ終リタルハ、廿七日午前四時三十分ニゾアリケ 40 。当時、このような大舞踏会は非常に大きな評判を得て、「羅馬ノ諸新 リ」. 聞紙中ニ皆其盛筵ヲ称賛」した41。例えば、2 月 27 日に発行されたローマの 仏字新聞によると、日本公使館においては「活発美麗ナル夜会ノ舞踏ヲ催サ レタリ。 [中略]鍋島公使始メ同館ノ書記官・書記生ノ諸君ハ欧羅巴ノ風習・ 人情を熟知セラレ、接待ノ厚意ヲ尽クサレ故ニ、十分愉快ヲ得テ来集ノ諸賓 ハ皆満悦ノ意ヲ表シタリ」と記されている42。また、ウンベルト 1 世が参加 した様々な夜会に関する、3 月 6 日に出版された新聞、『Illustrazione Italiana』 の記事において、イタリア人ジャーナリストのウゴ・ペシ(Ugo Pesci)は 2 月 26 日の日本公使館での大舞踏会、そしてその際に鍋島公使の接待が賓客 に残した印象を以下のように報じた。. 佐賀県立図書館、『鍋島家文庫』 (公益財団法人鍋島報效会所蔵)、鍋 910-2「集書」、「公使館 舞会概略」。 40 佐賀県立図書館、『鍋島家文庫』 (公益財団法人鍋島報效会所蔵)、鍋 910-2「集書」、「公使館 舞会概略」。 41 佐賀県立図書館、『鍋島家文庫』 (公益財団法人鍋島報效会所蔵)、鍋 910-2「集書」、「公使館 舞会概略」。 42 佐賀県立図書館、『鍋島家文庫』 (公益財団法人鍋島報效会所蔵)、鍋 910-2「集書」、「伊太利 新聞訳」。 39. 108 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(11) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882) [前略]我々の各大臣が熱心に参加しているパーティと外交官向けの昼食会の中で は、旭日章受章者でイタリア国王陛下のもとで日本のミカド睦仁聖上の特命全権公 使である「プリンチペ・ナベシマ」によって土曜日の夕方に行われたパーティは特 筆に値するのである。[中略]毎月わずか 50,000 フランの年金しか受け取っていな い「プリンチペ・ナベシマ」は真の紳士としてローマの上流階級、社交界のエリー ト、外交官、貴族などを歓待できた。私は、「その貧しい黄色がかったプリンス」 を陰で嘲笑するつもりで、午後 10 時に家を出た複数の女性を知っている[中略]。 真夜中に彼女らは(鍋島公使について)意見を変えた上に、喜んでそれを告白して いた[中略] 。彼女らは、女性客たちを手厚くもてなすために、完璧な貴婦人で、 43 ソンニーノ男爵の娘として生まれ、バイエルン特命全権公使 の妻であるタウトプ ロイウス男爵夫人を(ホステスとして)選択できた完璧な紳士の家にいることに気 づいた。 [中略]それに、いくつかの優雅な扇子に加えて、女性たちは日本の公使 館で非常に楽しく過ごした夕べの思い出とともに、そして、プリンスが東京に残し た婚約者がローマに着き、彼の新婦になってから、同様の別の夕べを過ごしたいと 44 願って帰路についた。[後略]. イタリア王国における鍋島の人気をさらに高めることとなった他の重要な イベントは、翌 1882 年 3 月 15 日に彼が栄子夫人と共に日本公使館で催した 別の晩餐会であった。熊田忠雄(2017)によると、この晩餐会は鍋島公使夫 人の栄子が「主催者として初めて手掛けるビッグイベントである。[中略] 45 。1881 年 2 月 26 日 栄子はバラの生花を大量に手配し、招待客を驚かせた」. に行われた大舞踏会と同様、この時も日本公使館に招待されたイタリア王国. ルドルフ・フォン・タウトフォイウス男爵(Rudolf Edgeworth Josef von Tautphœus, 1838-1885) 。 Cfr. Pesci (1881: 146-147). [...] Fra tutte le feste, fra tutti i pranzi diplomatici, ai quali accorrono tutti i nostri ministri con lodevole zelo, merita però un particolare ricordo la festa data sabato sera dal principe Nabeshima, commendatore dell’ordine del Sole nascente, inviato straordinario e ministro plenipotenziario di Sua Maestà Imperiale Moutsu-Hito, Mikado del Giappone, presso S. M. Il Re d’Italia. [...]. Il Principe Nabeshima afflitto da 50.000 franchi mensili di rendita ha saputo ricevere da gran signore la migliore società di Roma, la cour et la ville, la diplomazia e l’aristocrazia. Ne conosco più d’una, delle signore partite da casa alle 10 coll’idea di ridere un pochino alle spalle di quel povero principe giallognolo [...]. A mezzanotte erano convertite, e lo confessavano volentieri [...]. S’erano accorte di essere in casa di un gentiluomo perfetto, che aveva saputo scegliere una gentildonna perfetta, la baronessa Tautploeus nata baronessa Sonnino, moglie del ministro di Baviera, per far gli onori di casa alle dame. [...] Ed oltre ad alcuni graziosi ventagli le signore hanno portato via dalla legazione giapponese il ricordo di una serata passata benone ed il desiderio di passarne qualcun’altra simile quando sarà giunta a Roma e sarà diventata sua sposa la fidanzata che il principe ha lasciato a Tokyo. [...]. 拙訳。 45 熊田忠雄(2017: 52)を参照。 43 44. 109.

(12) Carlo Edoardo Pozzi. および外国の多数の貴顕紳士は翌日未明まで踊り、美しい日本製の贈答品を 受け取った46。それに、3 月 15 日の晩餐会も非常に評判を得て、それについ ての情報がローマの各新聞によって広められた47。また、その成功の結果と して、同年 3 月 19 日、現在でもイタリアの最も重要な新聞の一つである 『Corriere della Sera』 において、 長い記事、 「日本とイタリア」 (Il Giappone e l’Italia) が掲載された48。その記者(名前は未記載だが、新聞記事の終わりに「up」 と記載されていることから、おそらく前述のウゴ・ペシと思われる)は、3 月 15 日の晩餐会に関するニュースを知ったこととダル・ヴェルメ伯爵によ る前述の『日本とシベリア』の読書をこの記事を書く動機として説明し、賞 賛で日伊間の友好関係(とその歴史)を扱った。この記事の冒頭を以下に挙 げよう。 ちょうど日本に関する非常に楽しい本を読んでいた時期に、私はローマの各新聞に おいて日本公使館で催された、ある舞踏会に関するいくつかのニュースを見た。 1879 年 3 月 31 日、 [中略]ルキーノ・ダル・ヴェルメ伯爵はジェノヴァ公に指揮 されていた蒸気コルベット艦「ヴェットル・ピサーニ号」へ王子(つまり、ジェノ ヴァ公)の当直将校として乗船した。彼と共に極東の海を訪れた後、ダル・ヴェル メ中佐は「ヴェットル・ピサーニ号」から離れ、日本からウラル山脈までアジア大 陸を越えて、イタリアに戻った。帰国すると、彼は旅行の詳細および日々の印象を 公表した[中略]。さて、日本の舞踏会に関する今日のニュースを知って私は、 1858 年以前にほとんど知られていなかったが、現在はイタリア王国が非常に人気 49 である国(つまり、日本)について話したくなった。[後略]. 中野礼四郎(1942: 9)を参照。 中野礼四郎(1942: 9)を参照。 48 Cfr. CORRIERE DELLA SERA (1882: 2). 49 Cfr. CORRIERE DELLA SERA (1882: 2). Ho visto nei giornali di Roma alcune notizie di un ballo dato alla legazione giapponese mentre stavo appunto leggendo un libro dilettevolissimo intorno al Giappone. Il Conte Luchino dal Verme [...] partiva il 31 marzo 1879 a bordo della Vettor Pisani comandata dal duca di Genova in qualità di aiutante di campo del principe. Dopo aver visitato con esso i mari dell’estremo Oriente, il colonnello Dal Verme sbarcato dalla nave fece ritorno in Italia attraversando il continente asiatico dal Giappone ai monti Urali. Arrivato in patria egli ha pubblicato i particolari del viaggio e le impressioni d’ogni giorno [...]. Oggi le notizie del ballo giapponese m’hanno fatto venir la voglia di parlare d’un paese di cui prima del 1858 si sapeva pochissimo o nulla e dove oggi si pronunzia con tanta simpatia il nome d’Italia. [...]. 拙訳。 46 47. 110 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(13) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882). 上述の記事の分析から明らかになるように、駐イタリア日本特命全権公使 としてのその任命ばかりか、イタリア世論における鍋島直大の人気もジェノ ヴァ公の 2 度目の来日と密接に関連していた。また、同じ記事で、その記者 は両国の外交官による活動を中心に、日伊友好関係の歴史を簡潔に説明して いる。特に、彼は日本社会においてイタリア王国とイタリア人が博した人気 を強調し、この成功をそれぞれ第 2 代と第 3 代駐日イタリア特命全権公使で あるフェ・ドスティアーニ伯爵とバルボラーニ伯爵の功績にしている。それ から、彼は領事中山譲治(1839-1911) 、全権公使河瀬真孝(1840-1919)、代 理公使中村博愛(1844-1902) 、鍋島公使自身など、1873 年から 1882 年の間 にイタリアに派遣された日本外交官たちについて詳細に言及した50。鍋島公 使に関しては、記者は彼が高貴な家柄であることおよび明治維新に重要な役 割を果たしたことを強調している。その新聞記事によれば、「「プリンチペ・ ナベシマ」は帝国(つまり、日本)で最も輝かしい家系の一つに属している [中略] 。プリンスの父上(つまり、鍋島直正、1815-1871)は最も先見の明 のある大名の一人であり、 新しい時代の傾向に合わせて自分の息子を育てた。 従って、1868 年、その当時まだ非常に若い現職公使(つまり、鍋島公使) 51 。さらに、 は彼から領土主権を奪った自由主義の原則を守るために戦った」. 同じ新聞記事で、 「「プリンチペ・ナベシマ」は現在 36 歳または 37 歳であり、 2 年前、つまりイタリアへ向けて出発する前に、非常に高貴でイタリア人の 目から見ても美しいと言える若い女性と婚約に漕ぎつけた。プリンス夫妻は アンドレオッツィ宮の一階に住んでおり[中略]、同宮に外交団やローマの 上流階級をヨーロッパらしいエレガンスで歓待している」と記されている52。. 50. Cfr. CORRIERE DELLA SERA (1882: 2). Cfr. CORRIERE DELLA SERA (1882: 2). [...] Il principe Nabeshima appartiene ad una delle più illustre (sic.) famiglie dell’Impero [...]. Il padre del principe era uno dei più illuminati daimios (sic.) ed aveva educato il figlio secondo le tendenze dei nuovi tempi, sicché l’attuale ministro ancora giovanissimo combatté nel 1868 in difesa dei principi liberali che lo privavano della sovranità [...]. 拙訳。 52 Cfr. CORRIERE DELLA SERA (1882: 2). [...] Il principe Nabeshima ha oggi 36 o 37 anni e si è ammogliato due anni sono (sic.), prima di partir per l’Italia con una signorina giapponese, nobilissima anch’essa, e che può chiamarsi bella anche guardandola con occhi italiani. Il principe e la principessa abitano il primo piano del palazzo Andreozzi [...] e vi ricevono il corpo diplomatico ed il fior fiore della società romana con un garbo veramente europeo [...]. 拙訳。 51. 111.

(14) Carlo Edoardo Pozzi. 以上を踏まえ、鍋島直大はもちろん、日本との友好関係もイタリア支配階 級とイタリア社会から高く評価されていたことが明らかになる。そのため、 1882 年 4 月に鍋島公使が日本へ向けてイタリアを離れた際、彼の滞在はイ タリア王国に非常に良い印象を残したわけである。この印象に関しては、同 年 5 月 22 日に当時の駐日イタリア代理公使ランチャレス(Eugenio Martin 53 が井上外務卿に以下のように記した。 Lanciarez, 1835-?). [前略]鍋島公使在職中ハ其勉励老練ナル以テ、我伊国政府ヲシテ満足サシメラレ 候故、既に我外務御(つまり、外務大事パスカーレ・マンチーニ)ハ親ラ右満足ノ 旨ヲ同氏ニ向テ陳述被致候。珠ニ、同公使ハ挙動丁重ニシテ、感覚亦高尚ニシテ、 機ニ臨ミ、数々之ガ確証ヲ表彰セラ候、就中勇偉ノ進退ヲ以テ其本国ニ名代シ、且 其令室(つまり、鍋島の継室である広橋栄子)ノ之ヲ補佑セラレシガタメ、十八ケ 月間在留中ハ我諸官省其他同僚及伊国社会ノ紳士等ノ親愛友誼ヲ得ラレ候。故ニ、 54 其出発ヲ聞クヤ人々皆愛惜ノ情ニ堪ヘス候。[後略]. 結論として、本章で述べた、鍋島公使による社交界での活動およびその人 間的成功の政治的意義を強調する必要がある。特に、鍋島公使の外交戦略に おいては、彼が出席していた多数の社会的イベント、そしてローマの日本公 使館において彼が行った舞踏会や晩餐会などがイタリア王国の支配階級と親 密な人間関係を確立するための重要な手段であったと考えられるべきであ る。確かに、各国の外交官と同様、特命全権公使としての任務を遂行すべく、 鍋島直大も公式手段を通じてだけでなく非公式会談を通じてもイタリアにお いて外交活動を行っていた。というのは、それが日本向けの利益を得るとい う政治的かつ外交的目標を達成するための有効な機会になり得たからであ る。それゆえ、情報を収集し、重要な問題に対処するためにも、鍋島公使が 得意の社交術をもってイタリアの政治家、要人との交流に力を入れ、彼らと の非公式な出会いを利用したことは不思議ではない。それは、鍋島公使がイ ちなみに、1881 年 3 月 5 日に健康上の理由でバルボラーニ伯爵はイタリアに戻ったため、 1881 年 4 月 27 日からランチャレスは代理公使として在東京イタリア公使館を指揮した。 日本外務省外交史料館、6-1-5-8_4_001「元老院議官浅野長勲特命全権公使伊国在勤任命及 鍋島公使元老院議官兼式部頭ニ転任ノ件」駐日イタリア代理公使エウジェニオ・マルティン・ ランチャレスより、外務卿井上馨宛の書簡(1882 年 5 月 22 日付)。出典:JACAR(アジア歴 史資料センター)Ref. B16080141800。 53. 54. 112 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(15) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882). タリア側と進めた条約改正交渉の検討から明らかになる。. 3.イタリア外務省との条約改正交渉とその終結 鍋島公使の在任中、日本政府による外交政策の主な目標の一つは、幕末に 幕府が欧米諸国と締結した、 いわゆる「不平等条約」の改正であった。特に、 1880 年代に入ると、1879 年 9 月 10 日に寺島宗則の後に外務卿に就任した井 上馨は、関税自主権の獲得(税権回復)を最優先課題にしていた前任者と異 なり、税権のみならず治外法権の撤廃(法権回復)をも条約改正交渉の舞台 に引き出した55。1880 年に井上外務卿は、主に税率の増加および法権の一部 回復(特に、居留地における外国人が日本の法律を遵守し、同法律に基づい て各国領事裁判所で裁判されること)を自身の条約改正方針の骨子とし56、 同年 7 月 6 日、この骨子を基に準備された「修好条約改正案」および「通商 航海条約改正案」をアメリカ・清国両公使を除く駐日各公使に送付した57。 そして、同日、井上外務卿はこの改正案に関してそれぞれの本国政府への通 達を彼らに依頼する同時に、 「右草案ニ基キ新条約締結之運ニ到リ候様致度 就テハ、貴政府ニテ全権案員ヲ選定サレ、東京デ速カニ談判ガ始メラレルヨ ウ希望スル」旨を伝えた58。彼は、6 月 10 日に各国駐在の日本公使に書いた 書簡において、任国政府に前述の草案の主意を懇ろに説明し、条約改正会議 を行う目的で、 「速ニ全権委員を東京ニ派出被致旨ヲ同政府ヘ速ニ御請求」 するように訓令した59。 五百籏頭薫(2010)が強調したように、本省の統制力を確保しようとして いた井上外務卿は、 「草案の文面からどの程度譲歩するか、といった実質的 な交渉は自らが東京で行うつもりであり、公使の使命はもっぱら日本の要求 の正しさを主張し交渉着手に合意させることに限定されていた」60。鍋島公使 藤原明久(2004: 13)を参照。 石井孝(1977: 356)を参照。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 84-85)を参照。井上馨によ る 1880 年条約改正案の内容についての詳細は津田多賀子(1987:13-15)を参照。 58 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 82)を参照。 59 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 72)を参照。 55 56 57. 113.

(16) Carlo Edoardo Pozzi. に対しても例外ではなかった。井上外務卿の政策に沿って、他の日本公使と 同様に、彼も、税率の増加および法権の漸進的・部分的回復を基に、任国政 府との交渉に入り、主に東京での条約改正会議のための自国の全権委員を任 命するようにイタリア外務省を説得しなければならなかった。 確かにイタリア政府を説得することは簡単な任務ではなかったが、前述の 目的を達成するために、鍋島公使はイタリアの支配階級の影響力のある人物 たちとの強固な繋りを利用することが可能であった。この点で、日伊間の条 約改正に関しても、駐イタリア日本公使としての鍋島直大の任命はジェノ ヴァ公による 2 度目の来日と密接に関連した決定の結果であったとみなされ るべきである。というのは、その来日の際にサヴォイア家の重要なメンバー であったジェノヴァ公と深い結びつきがあった鍋島直大を特命全権公使とし てイタリア王国へ派遣することで、井上外務卿はスムーズに日本側の要求に 対するイタリア政府からの支持を得られるは ずであったからである。しかし、さらに重要 なことには、鍋島と深い友好関係を築き上 げ 61、彼と共にジェノヴァ公による同来日を 準備・指揮した当時の駐日イタリア公使バル ボラーニ伯爵は、その頃日本において積極的 に条約改正問題の解決に従事していた人物 だった点である【図版 5】。 すでに 1879 年 1 月、バルボラーニ伯爵は、 輸出税を廃止することや、イタリア人向けの 内地開放と引き換えに、関税自主権の獲得と 沿岸貿易管理権の他に、内地に入るイタリア 人による日本の民事・刑事裁判権の完全な遵 守も認めようとする急進的な新条約案を当時 の外務卿寺島宗則に提示し、それをめぐって. 60 61. 五百旗頭薫(2010: 92)を参照。 Cfr. Di Russo(2002: 164).. 114 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年). 図 5 第 3 代駐日イタリア特命全権公 使ラッファエレ・ウリッセ・バ ルボラーニ伯爵写真。Meiji Portraits, http://meiji-portraits.de/img/ 870/20090527093402531_1_2_3_ 97_16_3.jpg[2020/03/24].

(17) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882). 彼との交渉を開始した62。しかしながら、イギリスの圧力を受けたイタリア 政府の反対のため、結局、同年 10 月にバルボラーニ・寺島間の交渉は暗礁 に乗り上げた63。にもかかわらず、バルボラーニ伯爵は、寺島宗則が外務卿 として辞表を提出してからも、 イタリア国民向けの内地開放の取得を中心に、 条約改正問題に高い関心を示し続けた64。そのため、寺島外務卿との交渉の 際に税権の完全回復や法権の漸進的回復などを認めようとしていたバルボ ラーニ伯爵は、翌 1880 年 6 月に井上馨が開始した条約改正交渉にも積極的 に参加し、 明治政府の対外政策において再び重要な位置を占めたわけである。 このような観点から、ジェノヴァ公をもてなす責任があった鍋島が駐イタリ ア特命全権公使に任命されたことは、以前にサヴォイア家のメンバー、そし て、日本と新条約を締結しようとしていたバルボラーニ自身との深い友情関 係を樹立した人物を通じてイタリア王国との条約改正交渉を進めようという 決定による結果であったと考えられる。 さて、1880 年 10 月 2 日、鍋島公使は当時のイタリア外務少輔アウグスト・ ペイロレーリ(Augusto Peiroleri, 1831-1912)と初めて会見し、イタリア人向 けの内地開放と引き換えに日本内地において法権回復を認めていたバルボ ラーニ伯爵による前述の草案 65 を取り上げ、次のように述べた。「最前在我 貴公使(バルボラーニ)ヲ以我内地開商ノ儀ニ付云々御申出相成。右ハ双方 便利即「グードウイル」ヲ以て御申出相成候事ニテ我政府於テモ相好ミ候事 66 。それを踏まえ、鍋島公使は「開港場ニテモ内地同様治外法権ヲ御 ニ有之」. 解相成候ハ、 [後略]今般御受取相成候草案(つまり、同年 7 月 6 日に井上 外務卿が送付した草案)ハ無効ノ者ト致シ、 別段草案可相立候」とペイロレー リに提案した67。ところが、それに対して、ペイロレーリは「右ハ我公使一 己ノ見込ヲ以テ申出タル義ニ付政府於テ更ニ関係無之候」と回答した68。す. 62 63 64 65 66 67 68. ポッツィ(2017: 133-137)を参照。 ポッツィ(2017: 140-143)を参照。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 127-134)を参照。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1941: 837-840)を参照。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1203-1204)を参照。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1204)を参照。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1204)を参照。 115.

(18) Carlo Edoardo Pozzi. ると、鍋島公使は、イタリア政府が井上外務 卿による草案を基にして既存条約を改正する つもりであったかどうかとペイロレーリに尋 ねたが、それに答えて、ペイロレーリはイタ リア政府に「於テハ英独ノ両国ト申合ノ上ナ ラデハ改正ト申譯ニハ難相成候」と鍋島公使 に述べた69。 その後鍋島公使は、イタリア外務省から日 本側の要求に対して明確な答えを得られな かったため、1870 年から 1877 年の間、第 2 代駐日イタリア特派全権公使であったアレッ. 図 6 第 2 代駐日イタリア特命全権公 使アレッサンドロ・フェ・ドス ティアーニ伯爵写真。Jurnal du Japon, https://www.journaldujapon. com/2017/03/19/mission-iwakuratour-occident/[2020/03/24]. サンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵の援助 に頼ることにした【図版 6】70。1873 年 2 月にフェ・ドスティアーニ伯爵は自 発的に日本の法権回復と内地旅行の交換条件をめぐる日本政府との交渉を行 い、バルボラーニ伯爵と同様に日伊間の条約改正関係において重要な役割を 果たした71。その上、同 1873 年 5 月に彼は鍋島直大が留学生として加わった 岩倉使節団をイタリアで案内し、恐らくその頃鍋島との友情を築いていっ た72。そのため、1880 年 11 月 3 日に在ローマ日本公使館で行った前述の夜 会の際に、鍋島公使は日本との条約改正問題に対するイタリア王国の外交政 策のことでフェ・ドスティアーニ伯爵に内密に相談することにしたわけであ る。この点について、11 月 13 日に井上外務卿に書いた書簡に、鍋島公使は 以下のように述べている。 [前略]我条約重修ノ義、先便申上候処、同掛リ外務少輔「ペーロリー」氏ヘ過日 重テ同談致候処、只今取調中ノミニテ、其口気只英政府ノ様子ノミ相窺居。容易に 不相運様被存候ニ付、向後ノ手段種々相考居候処、幸ヒ此節在我舊伊公使コントブ エー氏来府致居。同人は我国情ヲモ能ク承知致居、当国(つまり、イタリア)政府. 69 70 71 72. 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1204)を参照。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1205)を参照。 ベルテッリ(2007: 63-64)を参照。 Cfr. Iwakura (1994: 81).. 116 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(19) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882) ニモ頗ルインフルエンス有之人物ニ付、同氏ヲシテ間接ニ相頼ミ候事モ可能有之ト 存シ、天長節ノ夕当国外務卿 大少輔 等ト共ニ晩餐ニ相招キ候処、食事後却テ同 73. 74. 人ヨリ、我条約ノ儀何故コント、バルボラニー氏ノ説ヲ用ヒラレサリシ哉相尋候ニ 付、伊政府於テハ英独両政府ト内約相成居、直ニ重修ノ義ニ着手相成間敷旨申述置。 [後略]. 75. すなわち、フェ・ドスティアーニ伯爵との密談のおかげで、鍋島公使は、 その頃イタリア政府にはイギリス・ドイツとの「内約」があり、そのため直 ちに日本政府との条約改正交渉に着手してはならないことを知ることができ た。それを踏まえ、彼は、日伊関係が「特別親密」になりつつあったにもか かわらず、イタリア王国が東京での条約改正会議に参加しないことを恐れ た76。そこで、11 月 6 日に日本公使館において外務大臣カイローリ、外務大 輔マッフェイ、そして外務少輔ペイロレーリと会見した際、鍋島公使は、条 約改正問題に対するイタリア政府の意思を日本政府に知らせ、条約改正会議 のための自国の全権委員を任命するように彼らに圧力をかけた77。結局、外 務大輔マッフェイが「一応英独両政府ノ模様問合セ候上、委員下命候事ニ可 致候」と約束したが、それにもかかわらず、鍋島公使は、イタリア政府が「其 実英独政府ノ方向ヲ窺ヒ都テ之ニ順シ相運候様」と考え、全権委員の任命を ローマ外務省に催促し続けようとした78。 しかしながら、数ヶ月間、イタリア政府は全権委員の任命に関する決定を 継続的に延期しており、そのため鍋島公使とローマ外務省の間の交渉は進展 がなかった。条約改正問題に対するイタリア政府の態度に関して、1881 年 4 月 9 日、その頃改めて対面したペイロレーリの申し立てを考慮して、鍋島公 使は次の結論に至った。すなわち、 「当国(つまり、イタリア)於テ旧条約 ノ内幾分カヲ改正スル方可然様存スルト申モ、内実英政府ヨリ勧奨候事ト被 79 。 存、若シ右様各国於テ団結候時ハ偏ニ困却ノ事ト存候」. 73 74 75 76 77 78. 総理大臣兼外務大臣ベネデット・カイローリ。 外務大輔フェルディナンド・マッフェイおよび外務少輔アウグスト・ペイロレーリ。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1205)を参照。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1205)を参照。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1206-1207)を参照。 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1207)を参照。 117.

(20) Carlo Edoardo Pozzi. 鍋島公使が解釈したように、イタリア政府は条約改正問題に関してイギリ スの決定を遵守する慎重で受動的な姿勢をとっていた80。というのは、その頃、 イタリア政府(特に、ローマ外務省)は、イタリア国内の経済的な問題を解 決することを優先しており、自国に本質的ではない問題に関してはほとんど 他の欧米列強の決定に追随しそれを遵守していたからである81。実際、イタ リア政府にとっては、獲得されたばかりの国家統一を守るために、日本に対 しても、絶対に他国の利益に干渉せずに国際的な舞台では非常に慎重に行動 する必要があった82。さらに、1879 年から 1881 年まで当時のイタリア総理 大臣兼外務大臣であったベネデット・カイローリは、フランスがイタリアに とって経済的かつ戦略的な重要性を持っていたチュニスとチュニジアに自国 の権限の範囲を拡大することを恐れており83、この地方におけるイタリア王 国の利益を守るために、イギリスからの支援を受ける必要があると考えてい た84。これを踏まえると、カイローリ首相の指導下であったローマ外務省が、 イギリスとの摩擦を回避する意向をもって、東京での「条約改正会議」向け のイタリア全権委員の任命に関する決定をできる限り延期しようとしていた ことは理にかなっていたわけである。 その上、1881 年 5 月上旬にフランスによるチュニジア侵攻が行われ、同 年 5 月 12 日にバルドー条約でチュニジアがフランスの保護領となったため、 5 月 29 日にカイローリが総理大臣兼外務大臣として辞表を提出し、その結 果起こった新内閣の変革の最中、鍋島公使との条約改正談判も一時的に中断 外務省との公式交渉を再開できるようになるのを待つ間に、 された85。そこで、 鍋島公使は家族や健康上の理由により 1881 年 4 月下旬頃に帰国したバルボ ラーニ伯爵と共に条約改正問題をめくる議論を非公式に続けることにした86。 その後、1881 年 5 月 29 日に新内閣が樹立された結果、パスクアーレ・マ. 79 80 81 82 83 84 85. 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1210-1211)を参照。 Cfr. Zavarese (2007: 151-152). Cfr. Chabod (1951: 537). Cfr. Chabod (1951: 531-532). Cfr. Ministero degli Affari Esteri (1991: 230-231). Cfr. Ministero degli Affari Esteri (1991: 602-604). 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1211)を参照。. 118 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(21) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882). ンチーニ(Pasquale Stanislao Mancini, 1817-1888)が外務大臣カイローリの後 任者となった。マンチーニが就任したおかげで鍋島公使たちは以前よりス ムーズにローマ外務省との条約改正交渉を進められると考えていたことが次 のように記されている87。1881 年 7 月 21 日に書記官百武兼行が井上外務卿 に書いた書簡によれば、 「外務卿マンチニー氏任職以来、条約重條談判モ自 ラ新敷姿ニ相成、尤同氏儀前外務卿ニ比スレバ、餘程(残り)談話ノ都合宜 88 。また、1881 年 7 月 23 日にイギリス外相グランヴィル伯は日本提出の 敷」. 条約改正案による条約改正会議の代わりに東京での予備会議開催を当時の駐 英日本公使森有礼に提案し、それに対してドイツは同意見であったため、他 の各国ならびにイタリアもこれに追随した。そして、外務大臣マンチーニの 体調不良および議会の夏閉鎖のためにイタリア政府との条約改正交渉が改め て延期された後89、同年 11 月 11 日、外務少輔ペイロレーリは鍋島公使にイ タリア政府が東京での予備会議のための全権委員として前述の駐日イタリア 代理公使エウジェニオ・マルティン・ランチャレスを指名する旨を伝えた90。. おわりに イタリア側と鍋島公使が進めた条約改正交渉の検証から、対日イタリア王 国の外交政策に関する情報を収集し、イタリア政府を東京での会議に出席す るように説得するために、鍋島公使が全力を尽くしたことは明らかである。 事実、鍋島公使の尽力が 1882 年 1 月に東京で開かれた「条約改正予備会議」 のためのイタリア全権委員の任命へ多大に貢献し、そのため井上外務卿自身 に高く評価されたと言える。というのは、1882 年 7 月 25 日に帰国後、鍋島 直大が元老院議官を兼ねて宮中の式部頭に任じられ、 翌 1883 年に東京でオー 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1211)を参照。特に、鍋島公 使は、当時の駐イギリス日本特命全権公使森有礼による提案を基に、外国人法律家が日本の 裁判官として雇われ、日本人の裁判官と共に裁判を行う見込みを考慮して、領事裁判権に関 する条款を調べ直す可能性についてバルボラーニ伯爵と論じた。 87 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1212)を参照。 88 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1212)を参照。 89 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1212)を参照。 90 日本学術振興会(編集) 『条約改正関係 日本外交文書』 (1942: 1212-1213)を参照。 86. 119.

(22) Carlo Edoardo Pozzi. プンした鹿鳴館の幹事長としていわゆる「不平等条約」の改正を目指してい た明治政府の広範な計画に再び組み入れられたからである。熊田忠雄(2017) が述べたように、 鹿鳴館は 「明治政府の進める不平等条約の改正交渉をスムー ズに行うため、欧米人たちに日本を文明国と思わせる必要があるとし、国賓 や外国の外交官らを接待する社交場として建設されたもの」であった91。日 本の対外政策に関してこのような重要性があった鹿鳴館においては、1884 年にその幹事長となった鍋島は天長節に当たる 1885 年 11 月 3 日に行われた 夜会をはじめとする多くの盛大なイベントを主催し、1884 年 10 月 27 日よ り毎月曜日に「東京舞踏会」と命名された踏舞練習会も開催した92。また、 鍋島だけでなく、鹿鳴館活動では栄子夫人も大いに活躍した。栄子は「外国 で身に付けた語学力、接待術、ダンスなどは余人をもって替え難いとして、 女性幹事長とでも言うべき立場に推され、内外の貴夫人たちの世話にあたっ 93 。彼女は、1888 年に駐米日本公使となった外交官陸奥宗光(1844-1897) た」. の妻である陸奥亮子(1856-1900)と同様に、 「鹿鳴館の華」と謳われた94。 そのため、イタリア側との条約改正交渉と並行して在ローマ日本公使館にお いて舞踏会や晩餐会などを開催していた鍋島は、 「条約改正予備会議」 (そし て、1886 年に開かれた「条約改正会議」 )の全権委員たちを含む外交官らが 参加していた鹿鳴館での舞踏会の際に何度もホスト役を務めるなど栄子夫人 と共にその牽引役として活躍することで、確かに同館を軸にした井上外務卿 の外交政策(いわゆる「鹿鳴館外交」95)において重要な位置を占め続けたわ けである。 本稿では、日伊両国の様々な一次史料を活用し、イタリアにおける鍋島公 使の外交活動について可能な限り包括的な検討を試みた。その結果、条約改 正問題の解決を重視していた井上外務卿の外交政策に沿って、鍋島公使が明 治初期において日伊間の外交関係を深めることを目指した戦略的かつ積極的 熊田忠雄(2017: 54)を参照。 富田仁著(1984: 164; 170)を参照。 熊田忠雄(2017: 55)を参照。 94 鍋島報效会(編集) (2016: 28)を参照。 95 つまり、「駐在して日夜条約交渉に必死でとりくむ若い外交官たちのひたむきな社交活動も 含め、国際社会を舞台に広く展開された国際礼譲外交」。犬塚孝明(2009: 164)を参照。 91 92 93. 120 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(23) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882). な役割を果たしたという結論に至った。検討内容は以下のとおりである。ま ず、鍋島公使は、ジェノヴァ公の 2 度目の来日に当たりジェノヴァ公と、そ して自身の在任中にはイタリア国王・王妃と強固な友情関係を築き上げ、イ タリア王室から手厚い待遇を受けた(第 1 章) 。また、西欧の文化・マナー に関する詳しい知識、そして在ローマ日本公使館において彼がエレガントな 方法で度々開催していた舞踏会や晩餐会のおかげで、鍋島公使は王室と上流 階級において「プリンチペ・ナベシマ」として人気を博し、当時のイタリア の新聞にも取り上げられ、イタリア社会においても非常に良い印象を残して いた(第 2 章) 。その上、公式手段を通じてだけでなく非公式会談を通じて も鍋島公使は、旧駐日イタリア特派全権公使アレッサンドロ・フェ・ドスティ アーニ伯爵をはじめとするイタリア王国の支配階級の影響力のある人物たち との強固な人脈を利用し、1880 年代前半に日伊間の条約改正交渉において 非常に積極的な役割を担った(第 3 章) 。 けれども、駐イタリア日本公使鍋島直大による日伊外交関係への重要性、 そしてこの二国間関係に対する彼の影響力の程度をきちんと確認するため に、条約改正問題を中心にし、鍋島公使の在任中および退任後イタリア側が 日本に対してどのような外交政策をとろうとしていたのか詳細に考察する必 要がある。そこで、1880 年代前半における日伊間の条約改正交渉の様子は、 現在のところまだ十分に検討されていないため、主にイタリアの公文書館に ある未刊の一次史料を活用しながら、これを今後の課題としたいと思う。 . ⿢ 文献一覧 【引用参考文献】. Dal Verme L. 1882 Giappone e Siberia: note di viaggio, Milano, Ulrico Hoepli. Di Russo M. 2002 Un principe di Casa Savoia e un diplomatico del Regno d’Italia conquistano la Corte Meiji, in «Atti del XXVI convegno di Studi sul Giappone», Torino, 157-174. Chabod F. 1951 Storia della politica estera italiana: dal 1870 al 1896, Bari, Laterza.. 121.

(24) Carlo Edoardo Pozzi CORRIERE DELLA SERA (ed) 1880. Telegrammi Stefani, in «Corriere della Sera» 25 agosto 1880, 2.. 1882. Il Giappone e l’Italia, in «Corriere della Sera» 19 marzo 1882, 2.. Iwakura S. (A cura di) 1994. Il Giappone scopre l'Occidente: una missione diplomatica, 1871-73, Roma, Carte segrete:. Istituto giapponese di cultura. Ministero per gli Affari Esteri (A cura di) 1991 I Documenti diplomatici italiani: Serie 2, 1870-1896, vol. XIII (3 maggio 1880-28 maggio 1881), Roma, Libreria dello Stato. Pesci U. 1881 Il Re all’Università, in «Illustrazione Italiana», Anno VIII – I Semestre, Milano, Fratelli Treves, 146-147. Zavarese F. 2007 Commercio e diplomazia: le occasioni perse dall’Italia con il Giappone negli anni 1873-1889. Parte II, in «Il Giappone» XLIV, Roma, 135-161. ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ 2007 「駐日イタリア公使アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵と外国人内地 旅行問題について─明治初期の日伊外交貿易関係を軸に─」,『日本語・ 日本文化』 ,第 33 号,55-81. 藤原明久 2004 『日本条約改正史の研究:井上・大隈の改正交渉と欧米列国』,雄松堂出版. 犬塚孝明 2009 『明治外交官物語:鹿鳴館の時代』,吉川弘文館. 五百旗頭薫 2010 『条約改正:法権回復への展望とナショナリズム』,有斐閣. 石井孝 1977 『明治初期の国際関係』,吉川弘文館. 熊田忠雄 2017 『お殿様、外交官になる:明治政府のサプライズ人事』,祥伝社. 鍋島報效会 (編集) 2016 『侯爵鍋島家と東京:徴古館第 76 回企画展』,鍋島報效会. 中野礼四郎 1941 「鍋島直大公略伝(五)」,『肥前協会』,昭和 16 年 12 月号,肥前協会,3-7. 1942 「鍋島直大公略伝(六)」,『肥前協会』,昭和 17 年 4 月号,肥前協会,9-13. 日本学術振興会 (編集) 1941 『条約改正関係 日本外交文書』第 1 巻,日本外交文書頒布会. 1942 『条約改正関係 日本外交文書』第 2 巻,日本外交文書頒布会.. 122 イタリア学会誌 第 70 号(2020 年).

(25) 駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882) ポッツィ・カルロ・エドアルド 2017 「駐日イタリア公使ラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニ伯爵と明治政府 との条約改正交渉について(1879 年)─日伊両国の未刊行公文書を中心. に─」 , 『イタリア学会誌』,第 67 号,125-149.. 富田仁著. 1984 『鹿鳴館:擬西洋化の世界』,白水社. 津田多賀子 1987 「井上条約改正の再検討─条約改正予議会を中心に」, 『歴史学研究』,第 575 号, 12-31. 山口久範 2009 「成富清風に関するいくつかの資料」,『佐賀県立佐賀城本丸歴史館研究紀要』, 第 4 号,62-76.. 123.

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参照

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