Title
宇井さんと沖大
Author(s)
新崎, 盛暉
Citation
沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(15): 31-33
Issue Date
1998-03-01
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5822
沖縄大学紀要第15号(1998年)
宇井さんと沖大
新崎盛暉
宇井さんが、最初に沖繩とかかわったのは、復帰直前の琉球セメント煤塵反
対闘争のときだというが、ぼく自身と宇井さんとの初めての直接的出会いは、
金武湾闘争のころである。1970年代中期、金武湾を埋め立てて巨大なCT
S基地をつくろうとする動きに地元住民が強く反対し、ぼくたちが「CTS阻
止闘争を拡げる会(後の琉球弧の住民運動を拡げる会)」を組織して、その支
援・共闘に乗り出したときの話である。
公害問題の権威を招いて、闘いの盛り上がりを図ろうとしたのは間違いない
が、どんな企画をしたのかは、まったく覚えていない。ただ、空港に出迎えた
初対面の宇井さんの顔色が、東奔西走で疲れ切っていたのか、あまりよくなかっ
たことだけが強く印象に残っている。その後、大学改革に対する基本的姿勢が共通していることもあって、宇井さ
んは、ごく自然に沖大応援団の-人になって、自分が出演するラジオ番組など
で、「便所が-つしかない小さい大学の新しい試み」を吹聴してくれるように
なった。井の中の蛙大海を知らずで、便所が-つしかない大学にどっぷりつかってい
ると、便所が-つしかないことを不思議に思うゆとりはないのだが、外から沖
大を見た宇井さんにとっては、便所が-つしかないことは、まさにある種のカ
ルチャーショックでもあったのだろう。これだけ様がわりしてしまうと、昔か
らいたメンバーでも、当時のことを思い出すのは困難になってしまっているが、
たしかに当時の沖大は、学生たちが「マッチ箱三つ」と自潮したように、本館
ピル、大学ピル(現在のサークル棟)、学生会館(現在食堂などがあるところ)
の三つの建物しかなく、本館の二階には、学長室、教員控室、教務、学生部、
経理、総務、ぼくが来たころは施設までが同居し、三階が図書館で、その外
(現在ガジュマルを植えてあるところ)に唯一の二階建て便所があって、その
-31-沖縄大学紀要第15号(1998年) 上に、八重山芸能クラブや、囲碁クラブが巣くっていた。 そんな状態から抜け出そうとして、馬鹿げた大学移転計画を立て、それが大 破産して給料も払えなくなったところから、新生沖縄大学の再出発が始まる。 落ちるところまで落ちていただけに、どん底で居直った大学再生への「新しい 試み」は、多少誇大宣伝のきらいはあったものの、それなりに迫力をもってお り、沖縄を越えて、一定の社会的評価をかち得た。宇井さん以外にも、林武こ さん、尾形憲さん、もるさわ・ようこさんなど、身銭を切って講演などを申し 出てくれた人たちも少なくない。当時まだ千葉に住んでいた佐喜眞美術館館長 の佐喜眞道夫ざんの寄付金で、大学ピルと唯一の便所を結ぶ陸橋を架けたこと を知っている者が、いまこの大学に何人いるだろうか。こうした社会的良識に 支えられてこの大学がようやく再生し得たという歴史的事実は、現在では、む しろ、意図的に抹殺されようとしているかに見えるが、わたしがヤマト逆上陸 作戦、つまり、沖縄で最初の県外での学生募集を思いついたのも、多分、沖大 改革に対するヤマト社会の反響であったような気がする。 そうこうするうちに、宇井さん自身が沖大に来たい、ということになった。 給料は毎月出せるようになっていたが、ボーナスもない時代の話である。この ときは、宇井さんの事情で話は立ち消えになったが、次にこの話を持ってきた のは、沖国大の玉野井芳郎さんだった。「宇井さん本人から話があれば考えま しょう」と苦笑いして答えておいたが、実は、玉野井さんも、東大を定年になっ て、地域主義研究の場を沖縄に構えようとしたときに、まず声を掛けてきたの は沖大だった。東風平学長、安良城経済学科長のときである。まず無理な話だ とは思ったが、玉野井さんの意向は安良城学科長に伝えておいた。安良城さん は、熱心に執行部に働きかけたようだが、言を左右にされて、うまくいかなかっ たらしい。ぼくは、玉野井さんに、「琉大を考えられた方がいいですよ」と進 言しておいたが、結局沖国大に落ち着いた。その玉野井さんが、明治学院大の 新設学部に移ることになり、その後釜に宇井さんを入れようとして失敗したら しい。 ともかく、宇井さん本人の申し出を受けて、教授会に「宇井教授採用の件」 を提起したが、もちろん、すんなりといったわけではない。「なぜ大学解体論 -32-
沖縄大学紀要第15号(1998年) 者を大学に入れるのか」から始まって、「沖大の教員採用は全国公募が原則の はずだ」まで、例の如く、腹に一物あっての形式主義的議論が執勧に繰り返さ れた。全国公募の原則が確立したのは、安良城学長時代だが、その目的が、あ くまで、いい加減な縁故採用を排し、沖縄大学にとって、あるいは、沖縄社会 にとって必要な人物を求めることにあったのは、いうまでもない。 すったもんだのあげ〈、ようやく宇井さんは、教授会の過半数の同意を得て (ついでにいえば3分の2には満たなかった)全国公募によらざる教員採用第 1号となった。その後の宇井さんの学内外における活躍については、多くをつ け加える必要はないだろう。 この10年近く、ぼくと宇井さんは、教育改革委員会の委員である。かつて は、教革といえば、各種委員会の中でももっとも忙しい委員会であったが、最