Title
戦後沖縄経済復興期の技術導入と伝播構造
Author(s)
友利, 廣
Citation
沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 22(1): 17-28
Issue Date
2000-03-17
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6808
戦後沖縄経済復興期の
技術導入と伝播構造
友利廣
(沖縄大学法経学部教授)
序文
第1章戦後経済復興期の産官軍
廃藩置県以降における沖縄の経済界は、鹿児島 県出身の県庁役人による手厚い庇護を受けた寄留 商人の席巻するところとなった。沖縄出身の企業 経営者は、唯一“明治政府による|日置温存政策の もとで1日来の「既得権益」を保障され”ていた|日 藩支配者層に限られていた。 近代的企業経営に関する確たる経験を欠きなが らも、これら旧藩支配層は“尚泰に与えられた- 割利子付公債”、‘`華族年金,,、“不動産,,等を 原資に果敢な事業展開を図っていく。主たる事業 展開の分野は“輸入防渇政策,,として国策扱いの 甘藷栽培や砂糖の製造販売を中心に、金融、海運、 鉱山開発、地場産業(織物、陶業、帽子)等であった。西里喜行「近代沖縄の寄留商人」ひるぎ社
展開する事業の裾野も広がり経済活動全般活況 を呈するようになるが、寄留商人の独壇場には変 わりはなく旧藩支配層による事業は粁余曲折を極 める。戦前期の地元沖縄側の企業活動は、近代的 企業経営に要する知識や資本の蓄積を行う助走期 間を経ず太平洋戦争に巻き込まれることになる。 そして焦土と化した県士と米軍による統制経済に 遭遇しながら経済復興に着手せざるを得なかった。 以下、本稿では戦後の経済復興の歩みを概観し ながら、当時の沖縄経済界が総力を結集してもな を困難を極めたセメント製造業の事業化の過程を 掘り下げることで、島喚地域における移転技術の 適応過程を明らかにし沖縄型技術移転論の構築を 目指す。 沖縄におけるセメント事業の設立計画は1952 年に始まり、13年後の1965年に製品の初出荷に こぎ付ける。本章では事業の計画から操業に至る 期間の経済状況を概略的に説明する。また沖縄の 経済復興に対し少なからず影響を与えることにな る米国援助プログラム及びセメント需要を概観す る。 1節経済復興期の産業活動 1950年代中頃から復帰時までの僅か15年間に 経済活動の劇的変化が生じている。産業構造では 農業が20%、軍関連が7%と各々構造比を減ら した反面、製造業、建設業が各々4%増加し、製 造業の健闘が指摘できる。一方、県民所得におい ては雇用者所得と法人所得が各々12%、2%と 増加した反面、個人事業所所得は17%減少して いる。生業的事業所に代わって法人企業の躍進が 窺われる。支出部門においては個人消費が12% 減少し代わって政府消費が9%、民間総資本形成 が29%、政府総資本形成が4%と各々増えてい る。特に、経済を取り巻く環境が改善されてきた ことを反映し、民間部門の設備投資が大幅に伸び ている。 次に産業構造の平均値は農業が144%、製造業 が8.3%、建設業が6.9%、軍関係が11.6%となっ ている。戦後暫く農業の占める割合は1955年の2 5.7%から1971年には6.4%まで落ち込んでいるが、 1955年から1957年の減少が最も激しく僅か2年 間に10%の激減である。第2次産業では製造業 の健闘が目立ち、1955年の5.2%から1971年には 179.3%の比率を高め、-時は10%を占める程健闘 する。建設業は1955年の4.7%から1971年には8. 8%に増加する。第3次産業では軍関係が1955年 の16.2%から1971年には9.4%に減少する。 分配所得を構成する項目の平均値は、雇用者所 得が凡そ50%、個人事業所所得が凡そ30%、法 人所得が凡そ4%である。これらの所得で増加傾 向にあるのが、雇用者所得は1955年時点の47% から1971年には59%強、法人所得は1955年の2 %から1971年には4%強を占めるに至る。一方、 個人事業所所得は1955年の凡そ41%から1971年 には23%強と半減する程の減少となっている。 企業活動との関連から、これら分配所得の特徴 を捉えるとするならば、生業的経済活動の比重が 低下し法人形態の企業活動が比重を伸ばしている ことといえよう。この点は後に詳細に検討する。 需要を構成する項目の平均値は、民間消費支出 が凡そ65%で過半数を超えている。他の項目で は公的消費支出が15%、民間の固定資本形成が2 3%、政府の固定資本形成が5%強となっている。 1955年時点で77%を占めていた民間消費支出は 除々に減少し'971年には55%となっている反面、 1955年に8%弱の公的消費支出は17%に増えて いる。また、僅か9%程度に過ぎなかった民間固 定資本形成は1971年には38%に膨れ上がり、民 間部門の旺盛な意欲が現れている。公的資本形成 は1955年の3.4%から1971年には7.5%となって おり、脆弱な政府部門の財政構造を反映して社会 資本の整備が遅々として進まない状況が現れてい る。 表1生産・分配・支出の構成比及び平均値 単位:船
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資料:USCAR,,RMyu 注:琉球銀行「戦後湘 AR sU 2節戦後の経済復興と援助プログラム 戦後の沖縄経済復興の歩みは米国の援助プログ ラムに依存しながら展開する。1946年7月から 始まるガリオア援助(Government&Reliefin OccupiedArea)は、飢餓的状況に直面していた 島民に食料品や穀物を援助し基礎的生活を支援す る救済的性格の強い戦後処理プログラムであった。 同プログラムは占領地における経済復興プログラ ムであるエロア(EconomicRehabilitationin OccupiedAreas)資金の投入が始まることで、そ の役割を除々に終えていく。戦後沖縄経済史、PP、85 88P274 本格的な経済復興に着手する時期は、沖縄の本 格的統治を狙った占領地域経済復興プログラムで あるエロア(EconomicRehabilitationin OccupiedAreas)資金の投入に始まる。エロア資 金には占領地域である沖縄の経済復興に必要とされる工業建築資材、工業施設・部品、車両・部品
等が投入される。戦後沖縄経済史、PPB5-88,P274これら経済復興援助プログラムは基地建設ブームの
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資料:USCAR,CiviIAffairsActivitiesintheRyukyulsIands,VoIMNo、1,P、4 注:松田賀孝「戦後沖縄社会経済史研究」東京大学出版会、P16より作成。 始まりという状況変化の下で、1955年の4,958万 ドルをピークに除々に減少していく。 戦後の本格的な経済復興の時期はアジアや中近 東における紛争があった時期と重なる。1950年 6月に勃発した朝鮮動乱は沖縄においても基地関 連の膨大な軍需を誘発し、1951年~1953年には 基地関連収入が対外受取の80%以上を占めるま でになる。わが国の景気同様に沖縄でも戦後初の 好景気をもたらす。1956年7月にはスエズ動乱 の影響もあってスクラップブームが起こり、輸出 に占める鉄・非鉄金属スクラップが輸出全体の 60%を占める。 軍需景気が下火になってくると、曰本政府によ る恩給等の支払いやプライス法に基づき1956年 には軍用地代が3倍に膨れ上がり、これらに加え 自治体の土木建設工事、校舎建設、台風災害復旧 工事に対する米国援助金が支給されるなど多くの要因があり、再度好景気となる。久場政彦「戦後沖
縄経済の軌跡一脱基地・自立経済を求めて」ひるぎ社,P、31 同時に以下の制限事項が設けられる。 1.事業を開始し、あるいは列島間貿易に従事 する者は、民政府に申請して免許証を受ける こと。 2.指定重要物資の列島間取引は禁止する。 3.軍輸入物資に関しては従来どおり配給制に するが、価格は類似島産品に準ずる。 4.非琉球人との売買は、指定された場所で行 う。 5.米軍物資の取り扱いは禁止する。 6.専売物資の製造・販売は禁止する。 7.売買の決済は、B型軍票のみとする。 8.政府職員に対しては賃金が釘づけにされる ため特設売店を設けて特別価格で販売する。 同制度発足にともない1950年代初頭には米軍 政府の現業部門の民営化に加え、民間企業の設立 が相次ぐことになり、また1950年12月の米軍政 府計画による琉球列島経済計画が策定される。沖 縄経済にとって黎明期と称するに相応しい時期と なる。因みに、1950年2月には琉球海運、同年 4月に琉球復興金融基金、6月に琉球火災保険、 7月に沖縄食糧、9月に琉球石油が設立きれる。 次いで1952年6月には琉球生命保険、同年10月 に琉球水産が設立され、今日沖縄経済を牽引する 中核企業に成長している。 これらの中核企業の設立を含め、“自由企業制,, 3節企業の設立動向 1948年10月26日(実施は11月l曰)、米軍政 府特別布告第33号で「琉球人は誰でも列島間貿 易を含めて自由企業をはじめ、かつこれに従事す ることが許される」とする“自由企業制”が発足 し、戦後の企業活動に対する統制が緩和されると 19発足に伴う1950年10月時点における免許総件数 は1万9,070件(資本総額4億9,400万円)に達す る。内訳は、雑貨商6,476件、飲食店842件、理 髪店697件、洋裁業695件、食料品店688件で、
171業種を数える。琉球銀行「戦後沖縄経済史」pl43
さらに、これまで隔離状態の群島間物流を廃止 し全琉一円の物流を自由化し、それに伴い貿易庁 の機能を海外貿易に向けて準備することになる。 また、自由企業制度の補助機関として布告第33 号7条に基づき「琉球経済委員会」を設ける。 1955年6月には経済振興のさらなる強化を狙 い、琉球政府による経済振興第1次5カ年計画と金融緩和が実施される。それに伴い製粉、飼料、
ビール、畜産加工、缶詰、伸鉄、サルベージ等の 企業が設立され、大型分蜜糖工場、食料品加工業、 パイン、製紙、煙草等に関しては設備拡張や改良 が行われることになる。また、1956年1月には 琉球政府による重要産業育成審議会でセメント事 業を重要産業に指定する方針が決定され、1959 年10月には自由貿易地域制度が発足する。 堰を切ったように企業設立が相次ぐことになる が、その中から今曰、沖縄経済の牽引役を果たし ている拓南製鐵、オリオンビール、琉球セメント 等の中核企業が現れる(3社の設立は、拓南製鐵 が1956年6月1日、オリオンビールが1959年10 月24日、琉球セメントが1959年9月28)。 技術パッケージを押しつけられ、また「技術契約」 の制限条項のため資本財、原料、競合技術の供給 を予め決められてしまうことである。更には付随 的技術でも当初の技術供給側に依存し、主体的 “選択”を奪われ「技術的従属」を強めることに なる。 1960年代後期頃になると従来の発展途上国の 開発戦略として“技術援助,,策に代わって“技術 移転',策が執られるようになるが、その契機とな るのが1969年の「ピアソン報告」である。同報 告では発展途上国の自立的成長が新技術や新知識 に依存するとしながらも、それらの移転が途上国 の実状を考慮していないことを指摘し、「開発途上国の自立的成長にとって技術の重要性」を強調
する。しかし従来の技術援助における知識やノウ ハウの移転が先進国の技術や教育の単なる形式的 な移転に止まった結果として、内発的発展を弱め ると批判されてきた。その後「ティンバーゲン報 告」では、発展途上国の経済拡大と近代化のため 科学技術化活動の確立強化、促進の必要性が指摘 される。後に同報告は「第2次国連開発10年の ための国際開発戦略」の基礎となる。 「技術移転」が強調された時期は,発展途上国 への多国籍企業の直接投資が増加した時期と一致 しており、発展途上国への直接投資の増加に伴っ てこれらの国での歪みが発生する。技術的従属を つくりだす背景には、導入技術に対する代替技術 開発能力の欠如に加え、いわゆる契約制限条項に より高い間接コストを負担させ、技術の国内伝播 の阻害がある。更には、「技術的従属」関係のた め要素賦存等条件の不適合による“不適合性の問 題,,に加え、技術導入による国内の格差拡大や環 境破壊を惹起する“逆機能性の問題”の露呈があ る。第2章開発論と技術移転の接点
1節技術移転論の変遷 既往文献を介し技術移転の理論と現場の変遷過 程を整理し理論の予備的考察を行う。 1950年代から1960年代にかけて発展途上国が 逢着した経済開発戦略は、国内産業を保護育成し ながら輸入代替的工業開発を推進することであっ た。“技術援助,’はそのために欠かせない前提条 件であった。恒常的輸入超過を改善する政策とし ては至極自然の開発戦略の選択といえる。しかし 係る開発戦略が実効性を有するかの決め手は先進 国側の対応次第といえるが、結果が如実に語るよ うに先進国の対応は発展途上国の経済開発を困難 にしするものであり、追い詰められ挙げ句の果て 相次ぐ破綻を惹き起すことになる。 「技術援助」の問題点は、援助の過程で受け手 側の技術選択能力の欠如が腫路となり、不必要な 2節技術移転の解釈と現状 技術を“テクニックに関する体系的知識”であ り“経済活動において使用される定型化された方 法または物に体化された手段,,とすると、技術移 転とは“人間を媒介とする知識の移転,’であり “技術の計画的移動”であると定義できる。そし て、導入された技術が当該社会へ広く浸透してい く「技術伝播」は「技術の自然的移動」のプロセ スとする。 技術の導入過程を今少し詳細に検討する。受入 20側では「選択(selection)」、「獲得(acquisition)」、 「適用(application)」、そして「適応(adaptation)」 という其々の段階に対応した行動を呈する。 ここで改めて技術導入に際してのそれぞれのプ ロセスで発生する内容を整理する。まず、技術を “獲得”する段階では“輸出制限条項,,、“内国 向け生産条項”、“ひも付き取引,,等のため、技 術導入コストを高め技術“獲得,,を阻害する傾向 がある。即ち、技術の独占的状況そのものが技術 の価格設定メカニズムを介して“獲得”を阻害す るのである。 “獲得”された技術を国内の具体的目的や問題 解決に“適応',する局面でも、受入国の内部事情 によって伝播を遮る場合がある。よしんばこれら の障害をクリアし獲得した技術であっても、その 次の段階での「適応」では「獲得」技術を地方・の ニーズや現地の環境に合うような自前の改良・修 正が必要だが、改良技術の未熟さのため適応でき
ない事態が生じ多くの課題が残る。嶋田実「国連の
開発協力における技術移転の概念に関する研究」東工大社工論 文梗概集,1986. i()のの、ほぼ70%台を維持し3年後の到達水準 も高い。移転技術に関連した操業実績を踏まえ、 現地に根付いたと判断する目安を70%におく達 成率の捉え方をしている。 操業技術の現地浸透度は生産活動を左右するも のであり、これらの技術の有す特'性からして現地、 企業の何れも懸命になるものであり、そのせいも あって高い水準を達成することになる。反面、 “設備開発',や“新製品開発,,、“金型・治工具 開発,,等の応用技術は決して高くはない。低い理 由は現地側の問題というよりは進出国側の企業の ブーメラン効果に対する懸念を反映したものであ る。 4節技術移転の円滑化策 操業技術や工程管理等、生産現場の基礎技術と 新技術導入、新製品開発、新設備開発等の応用的 な開発技術を含むシステム全体を現地従業員に伝 達理解させる際、マニュアル方式とOJT(職場 内訓練)方式がある。NIESやASEAN諸国 で日系企業が採っているトレーニングは基礎技術 の段階ではOJT方式が支配的であり、マニュア ル方式は応用的開発技術の現場で採用されている。 移転技術の態様にもよるが、生産現場における 操業や工程管理技術は、現有設備の生産活動を規 定し単純かつ基本技術であるだけに、実地訓練方 式がより効果的であり即効的である。その顕著な 効果は既に見たとおりである。因みに、“生産ラ インの操業技術,,等の施設操業技術のトレーニン グは63.9%の現地日系企業がOJTに頼っている。 しかし、新技術導入等の高度技術になるとOJT 採用は3割以下になっていると報告されている。 技術の蓄積が進んだ高度技術の開発段階ではO JTを補完するものとして現地語マニュアル、小 3節技術移転の事例研究 表3は移転技術の難易度を低度から高度の10 段階に分け、これらの技術が経済発展の違いのあ るNIES(新興工業経済群)とASEAN(ア ジア諸国連合)でどのような浸透度を示すかを表している。日本産業消費研究所「技術移転とアジア経済」
日本経済新聞,1992.7.17-8.10 同表によれば、現地における生産設備の操業に 欠かせない“操作技術,’から“工程管理”の4項 目に関しては、NIES諸国では70%台の達成 度を示し3年後にはほぼ90%台に到達している。 ASEAN諸国の達成率にしても僅かな差はある 表3日本企業の期’日本企業の期待する現地化達成率 単位:船 厨注:技術の現地化達成度は“現場で実際に取り仕切きる,,現地従業員の割合で評価する。
21集団活動、現地研修が続くことになる。日系企業 が実施している本国研修に対する評価は予想以上 に低い。このように技術移転にはそれを支える組 織、制度の移転に加え現場主義の視点が不可欠で あることを示している。 ここではセメントの需給動向を整理しながらセ メント業界の発展過程をみていこう。 図1で県内のセメント需要と琉球セメントの需 要の推移を概観する。まず、1950年代初頭から 始まる県内セメント製品に対する需要は、1956 年まで順調に伸び1957年には半減する。需要が1 956年の水準に回復するのは4年後の1960年であ り、その後の需要は僅かの落ち込みをみるものの )|頂調に伸びる。 次いで琉球セメントとの関連で捉えると、196 5年段階のセメントの市場規模は32万4千トンで あり、その後顕著な伸びで推移し復帰前年の197 1年には63万6千トンになり、6年間でほぼ2倍 に達する。一方、琉球セメントの市場占有率は31 %(9万9千トン)から53%(33万9千トン) まで増加する。そして72年の61%をピークにそ の後は40%前後で推移する。 少し詳細にみていく。1968年7月から翌年7 月の総販売量は30万1379トンで前期に比ぺ8万 9千トン(42%)の増加を示す。1969年7月か ら翌年6月の総販売量は36万トンで、うち24万3 500トン(67.5%)を島内販売、11万7387トン (49.4%)を海外販売。うち7万3千トンをオー ストラリア、グアムに4万4千トンは競争入札で P&Cを介して米軍へ販売する。1973年2月か らフル操業に移行し、県内需要74万トンに対し4 2万4千トン(57%)を琉球セメントが供給する こととなる。
第3章経済復興期の市場環境と企業立地
1節経済復興期の市場環境 戦後経済復興期の進展状況を表す有力な指標は 米政府援助プログラムである。これは経済復興を キャッシュフローから担保するものである。いま ひとつはセメント製品に対する需要である。主な 需要先は軍関係建設工事と公共事業だが、軍関係 建設工事は冷戦構造の影響を受けた米軍の基地恒 久化の意図を反映したものであり、膨大な需要が 発生する。基地建設が一段落してくると公共事業 がとって代わり需要を牽引することになるが、戦 後経済発展をストック面から担保するものである。 ところでセメント事業の具体化の機運は、セメ ントの原料である石灰石の埋蔵量が豊富であるこ とに、比較的安定した需要と経済復興策を模索し ていた行政、経済界、米軍の考えが一致したとこ ろでスタートする。因みに、琉球セメント設立に 関連し米民政府が談話で、「輸入代替効果として は、年間(1960年度)2万トンの輸入量、輸入総 額FOB365万2千ドルに対し、琉球セメントの 事業計画によれば年間15万トンで島内需要の約 60%を充たし、FOB価格換算で250万ドル相当 のドル流出を抑制できる」として「雇用効果とし ても185人の直接雇用」が期待できるとした指摘 に現れている。 2節琉球セメント社歴と市場環境 琉球セメント社の設立は1959年だが同社の設 立の経緯は次のようなものであった。琉球政府工 000 765}
10.000 8.000 一m■□佃年 40 #三L-1Il
6,000 30 4000 20 2.000 10 0 0 19531955195719591961196319651967196919711973 1975 資料:琉球政府「琉球統計年鑑」、琉球セメント「沖縄にありて」より作成。 注:1953年~1964年は琉球統計年鑑、1965年以降は「沖縄にありて」による。 22業部副部長の任にあった宮城仁四郎が1947年に 軍政府に対する意見書「沖縄工業の将来」におい てセメント事業の可能性を指摘したことが始まり である。 セメントの事業化に関しては県内で初めての発 言だが、その先見の明もさることながら沖縄経済 の復興の要に製造業を位置づけ将来に対する青写 真を描いていたことは、戦後の灰儘にきした当時 の状況を思えば慧眼の至りといえよう。因みに、 後に同事業のフイジピリテイと関連して指摘され た内容は、同事業の稼働によって“木材、鉄筋、 セメント等の輸入建設資材は約350万ドルに達し、 セメント自給で200万ドル節減できる,'とする指 摘でも明らかなように、内発的発展にとって必要 不可欠な措置であることはいうまでもない。 その後、本部村長吉元栄真らが琉球政府経済部 長の呉屋春信の提案を踏まえ1952年に「セメン トエ場設立計画」を立案し、さらに小野田セメン ト、日本セメント等の県外企業による事業化調査 でその有望性が指摘きれてから、1959年の設立 総会にこぎつけるまで実に12年の歳月を要し、 1964年の工場操業までさらに5年を費やすこと になる。 事業化に至る最大の臘路として立ちはだかった のは、桁違いの事業規模であった。これまで最大 の事業は1959年の分蜜糖500トンエ場であり、同 事業への開発金融公社の融資額は96万5千ドル であった。セメント事業に要する資金規模151万 ドルは沖縄にとって未曾有のものであった。 許認可権を握る米民政府は、事業の重要性及可 能性を認識しながらも付帯条件で厳しさを極めた。 まず、企業設立に向けた付帯条件として事業資金 の過半数を域内調達で賄うとする内容は当時の沖 縄経済界の実力からして困難の極みであった。 次に工場設備の国際入札時から基礎工事、操業 を経て復帰前年頃までの出来事を詳細に辿ってい
く。琉球セメント「沖縄にありて」PP42~103
1962年2月、レポール式プラントの国際入札 で神戸製鋼所、川崎重工業、独ポリシュース社が 応札しポリシュース社が決定する(尚、ポリシュー ス社との契約には機械の据付・運転から採算ベー スに対する責任まで契約事項として扱われていた)。琉球セメント「沖縄にありて」P58その問、1961年7
月機械技師2名を2ケ月滞在きせ6回の説明会を 開催するなど終始細かい対応がある。琉球セメン ト側も同社プラント視察で韓国訪問している。そ の後、同社のプラント入荷は1963年4月2日か ら9月3日までに8回に分け輸送ざれ総重量 2,455トンに達するものであった。 1963年8月13日には工場建設の起工式があり、 基礎パイル打ち、メインプラントの機械基礎、建 屋建設工事、機械据付、社宅、倉庫、修理工場、 パッキングプラント、セメントサイロ、事務所、 試験場、電気工事、設計監査等を地元業者で取組 むことになる。尚、公社側はインテコ社に設計審 査を依頼している。さらに同年10月には、パー マネント社と技術、投資契約を結び、21万ドル の外資導入を決定し総資本金は151万2千ドルと なり追加工事分も決定する。 1963年12月には機械の据付工事監督であるポ リシュース社土木技師の来島に伴いキルン、ミル プラントの据付準備工事が地元業社により開始さ れる。そして'964年2月、セメントエ場全般に 対する状況掌握のため琉球セメント、請負会社の 選抜者は台湾セメント高雄工場の視察研修を2週 間行う。1964年4月から2ヶ月間をかけプラン ト本体の据付工事が終了する。しかし1964年6 月時点での全体の工事進捗状況は、建物建設工事 約75%、機械据付工事62%であり8月時点でも 前者82%、後者75%であり全体の完成がずれ込 むことが予想された。1964年7月来島したカイ ザー社(旧パーマネント社)総支配人が現場の遅 れにごうを煮やし海外採掘技術者を充てることを ほのめかすことになる。しかし1964年12月に はようやく工場落成火入れ式が行われる。総工費 526万7700ドル、2年6ケ月の工期であった(尚、 工場操業に備え1964年3月には米パーマネント社 で20名余りが3ヶ月間採鉱研修を受けるが、火 入れ式に係る操作は彼らによって行われる)。 生産計画では、当面日産450トン、年間15万ト ンで島内需要50%を供給し、3年後の1967年に は工場増設で43万トンにし東南アジアの市場化 を目指すが、これらの計画は思いのほか順調に展 開する。 1965年4月には、薄色セメントに対するユー ザーからの不評があり、米工兵隊工業検査機関、 琉球工業研究指導所で化学分析、物理試験からの 品質検査が実施ざれ良好としてお墨付きを受け、 逆に営業実績を伸ばすことになる。 1965年12月には総工費655万ドルを投じた2号 23キルン増設が第2期工事として始まる。増設によ り日産400トンの生産量は800トンへと飛躍的に 増加し年間生産量も43万トンとなることが見込 まれた。建設工事に必要な資材を石川播磨重工業 に発注する。調達設備はキルン(石播のフンポル ト式SPキルン)、ロウミル、セメントミル及び プレヒータである。工事は1966年11月着工で19 67年には土木基礎工事全て完了し、石播の機械 据付も進み9月には第2号キルン火入れ式、2号 クラッシャ12月工事完了。技術提携先のカイザー はレポールキルン方式(半乾式)、SPキルン式 はわが国2番目の導入であり操業には独自の取り 組みが必要となる。 第2期工事は第1期工事で得た技術を下に短期 問で終了しており、ざらに拡張工事着手の頃には 技術養成のため残っていた独技師も帰国し工場運 転は地元従業員のみで行う。 第2期工事が生産能力向上を対象としていたの に対し第3期工事は販売網、輸送設備の改善にお かれた。輸送港湾整備、バラセメント輸送設備、 牧港サイロ、パッカー設備の整備でった゜ 1969年に煤塵問題が発生、1971年には補償問 題は解決した。同時に集塵装置整備計画が組まれ、 1号キルン電気集塵器、1号、2号リンカークー ラ-用バックアップフィルター、小型バックフィ ルター、クラッシャ集塵設備、防塵壁整備等が対 象となり1971年には完成した。工事費用は120万 ドルであった。 表4琉球セメント社の社歴 社歴 沖縄 229布令第13号「琉球政府の設立上 同第68号「琉球政府竃典」を公布 4.1群島政府解消、琉球政府発足 セメント工場設立計画の立案 1022安和一帯をセメントエ増建設対象地として11日間鯛査を行う。 11.15屋部村がエ場設置を琉球政府、立法院に鯖願谷を提出。 11.25屋部村、琉球興発と石灰石山、粘土山及びセメントエ増用地頁収契約 6.1オグデン副長官、屋部村視察の暗セメントエ期建設健力要鯖。 818斑球輿発、セメントエ増設立懇談会を開き地元の協力を求める 1953 昭和28年 1954 昭和29年 1955 昭和30年 4.3布令第109号「土地収用令」施行 1.7アイゼンハワ大統領沖縄基地無期限保持声明 3.7米軍地料一括払い方針発表 3.18労働組合は民政官盟可制となる 1023プライス鯛査団来島 1.セメント工場建設計画が宮城仁四郎に引き継がれる。 515琉球セメント固立事務所を那覇市の大東苗集ビル内に置く。 527星部材、セメントエ場土地委員会で土地死目の賭準備を整える。
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2日本セメント社、7千万B円の投資を役員会で決定 5.セメント企業目飴見谷作成(第1回) 5.宮同行政主席、米財務省開発資金貸付局へ借入申鯖杏送付 5.融資の目途つかず株式公募を見送る 3.セメント企乗目践見ご作成(第2回) 4.1株式公募(第1回)を行う 61星部材、工場醗致につき各部落ごとに株のtiB力を求める 69厘部材、3ヶ月間名腰、コザ、那囚方面で琉球セメントの株式勧勝 928会社設立 11.6日本セメント社6名来村、安和及び本部町塩川一帯を明査 11.14屋部村、地元へのエ場建設勝致陳情 1128工俎建設用地、星部材安和に決定 2410.9山筋山の実地測且を行う(28日まで)図面を作成 11.28政府鉱山係、山筋山地寅鯛査実施(12月8日迄) -エ増子定地地盤軟弱で位置変更(17窟ボーリング岩盤に運せず) 1961 昭和36年 215キヤラウエイ高等弁務官着任 112公社直接融資150万兇、延払保匝193万';,$,決定(1月30日決定通知) 125プラント国際入札を行う 2.20プラント、西独ポリシュース社に決定 3.地盤軟弱で工場レイアウト変更(設計変更結果を西独に送る) 4.4トーマス.B・ポーン社原料山テストボーリング(5月10日迄)実施。 インテコ東京本社による原料分析結果を質、丑とも優秀と胖価 6.9エ場敷地造成エ事の入札を行う 6.20エ場敷地の地鎮祭 629ゲツツ.ブラザース社21万兇の外資導入で21万'ミルの払込完了 6.29公社理事会において融資の最終決定 32oケネディ大統領沖縄新政策を発表 615日本政府第1次餌査団来島 7.17民政官マキユーン着任住民福祉政策協鯛 10.4ケネデイ大統領、プライス法修正案署名(沖縄 援助年間600万兇から1200万見地) 1962 昭和37年 3.造成エ卒完了 4.2プラント第1船入港(2船523船624船6225船6296船7.17船788船93) 8.10エ増建設事務所股H al3工場の超エ式を行う 8.17基礎建設エ卒着エ、並行してパイル打ちエ事始まる 8プラント位回の地下に洞穴発見、補強エ卒施エ 9.4倉庫、修理エ卒の建設始まる 10.8米、パーマネント社(後のカイザー&ジブサム社)との投資契約締結 10.25臨時株主総会を開催、パーマネント社21万ドル外資導入決定。資本金を 46万2千ドル増資し、総資本金197万4千兇の決騒 11ポリシュース社建設技師到着、以後エ事進捗に合わせ来沖 1220キルン基礎No.3コンクリート打ち(1228No.112.30NO2) 5.20キヤラウエイ旋風吹く 5.27隔日給水実施(後にダム建設につながる) 6.26高等弁務官、本土への集団就職中止命令 11.1在沖米軍ベトナム派兵本格化 1963 昭和38年
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221製品初出荷、沖縄本島主要都市でパレード 4.6当社セメント、米軍エ兵隊及びエ藁研究指導所の規格試験に合格 219重要産業場に指名 3.8バラセメント用400トンサイロを銃谷村に設置 420関連会社琉球生コン設立 6.29女子及び新入社貝の教育講座開く、社員教育の魁 7.7機構改革、企画部を新設し企画・人事・渉外業務を担当(人事課は総 務部より企画部へ移管) 8.1生産設備増設に伴いエ務課を新設 924字部興産社よりクリンカーを輸入し生産アップを図る 930エ増増設(2号キルン)工事地伎祭 1015ポメロイ建設社嘉手納飛行場拡躯エ事へ大且販売。滞貨掃ける 6.23管理・監督者研修(課長以上21名出席、本格的研修の始まり) 9.192号キルン火入れ式(1012落成式) 10.12山筋山砕石エ増2号クラツシヤー増設 10.山筋山採鉱且5万トン/月となる 12.シユラムドリル(C42HA)、ダンプトラック(ユークリツド22トン車)2台購入 2.6講和前補償1回分101万1567'九支払 9.16パスポート、南速発行(国籍琉球から日本) 117米大統領、プライス法改正案署名(沖縄援助 1750万Mこ) 125佐願緯理沖縄返還3年以内と表明 M新しい民裁判所制度発足 3.1初の日米館間委員会を開く 5.1米民政府、物品税布令を廃止、民立法移管 9.18日本エ集標準化制度沖縄適用 1120高等弁務官にランパート中将任命 1967 昭和42年 27グアム■に初の海外輸出(袋結セメント) 412安和港セメント積出岸壁エ事起エ式 4.20販売強化のための教育国11鰊行う 525琉球セメント労働組合発足 9.パワーシヨベルP&H955購入 1968 昭和43年 25101組織規程の改正 本社経理部企画部労務福祉謀新設営業部輸送1.2煤建設部廃止 エ旧総務部総務・経理資材・輸送媒新設乗務次長を製造次長に改称 1o、1枚港セメントセンターエ事若エ(蝕谷サイロ移設) 1.6安和港落成 1.7バラセメントタンカー船タイバン号就航しグアム、オーストラリア定期輸送 7.6安和・勝山区煤煙対策委員会と交渉開始 9.枚港セメントセンター落成、2号サイロ、貯蔵能力800トンパツカ施設併設 11.8安和・勝山区煤匝対策委貝会に1970年10.30まで集座設備設固誓約 P&Cの入札(米軍向け出荷、19657~1970.12) 金融緩和により公共・民間エ卒とも発註再開) 1969 昭和44年 1.11米民政府、総合労■布令公布 3.17郡覇新港4カ所建設工事開始 4.1経済成長率大幅ダウン(8.5%) 619束海丸、尖閣列島海底油田鯛査 99税関入城手続き簡素化 1.12エ旧機構改革 副エ場長新設エ務部設計腺新設生産計画次長新設 7.1本社機構改革秘谷腺新設財務・阪完計画・労務厚生腺廃止 8.26当社セメントが南西賭BWU資に指定 1115集臣殴借完成 1970 昭和45年 3.31復帰施策大綱閣膿決定 4.23国政参加法案成立 7.7本±政府、水資源総合開発DB査団派近決定 11.19郡覇市民会飽落成 11.20政府、第1次復帰対策要綱決定 323第2次復帰対策要綱困騒決定 420臨海エ乗地帯に金武湾を選定 6.17沖縄返還協定、日米同時明印 8.15二クソンシヨツクで沖縄経済混乱 12.3o沖縄軍用地確保法等4法成立 3.15沖円返還tiB定の批准谷交換 5.12沖円関係緒法案成立 5.13通貨交換レート1ドL=305円に決定 5.14日本復冊 1Cl本土とのダイヤル式西鱈開通 12.12(財)沖縄県開発公社発足 3.県中小企業振興対策容臓会発足 5.3若亘国体開催。以後沖縄観光ブームとなる 628海上航路貨物運賃22.5%アップ 8.29政府、軍用地料大幅増額(50%) 8.三菱鉱業セメント社、沖縄SS営集所開設 3.1生産管理強化のためエ俎に主任園度実施 5.販売キャンペーンを行い月間島内販売丘3万4千トンを速成(目視3万トン) 7.17安和・勝山区煤庄対策委貝会と公害問題円満解決 8.沖縄復帰妃念国体決定以後、公共・民間エ卒でセメント需要増 10.部間採鉱泪開鉱若手 1971 昭和46年 4.16資本金353万8290児に増資 4.16日本セメントと資本提携 720販売強化のため営業部内教育脱線 1o、Ⅲカイザー社所有の優先株便通(減資) 1012株式額面1株1300円に変更。復帰に伴う通貨換算で1株1281円となり 差額19円を資本準借金から資本金に組入れる。資本金9億4042万円 1972 昭和47年 2.1機構の改称 本社石灰岩卒案部を新設(海津博に備え)、輸出腺廃止 エ泪部制強化。生産計画を委員会策定。技術、電気塵新設、設計廃止 2.12虹集権麗可 2復帰記念卒案(国体、海洋樽)、建築関係好四でエ場フル操案 2.9W要に対応するため日本セメント社より緊急輸入 5.201号(ダプルバス)、2号(セメントミルセパレータ)、キルン改良工事着エ 6.1実働7時間制に移行 6.採鉱関係を全面下筋け採掘に移行 7.東部間採鉱場の開触に着手 10301号、2号改良エ事完成(生産能力年48万トンに増) 12先■ヘフレコン輸送開始(1トン詰め) 12.バラ輸送のタンクローリを完全下購け移行 1973 昭和48年 部間山堅坑起エ式(竪坑エ卒完了5月14日) コンピュータ導入を計画 エ場機構改革(75年4月の4組3交代制導入に伴う)。製造部・ 工務部統合し生産部、焼成腺・粉砕課統合で製造媒、技術際 及び工務部車両課を廃止、管財課を庶務蝶管財係とする。 1974 昭和49年 1.21 1. 8.20 8.1バスレーンがスタート 12.20先島とのダイヤル通賭が開通 年間観光客数74万人 1B九州大学高橋教授、本部町塩川の天然配念物塩泉と当社の石灰石 採掘餌査で何ら形容なしの結飴 a28新川ダム定礎式(当社セメント使用) 4.1生産部4組3文代側へ移行 一政府引き締め政策、物価抑制餌整政策に公共.民間エ卒停滞 1975 昭和50年 3.4県、軍用地転用計画策定へ 6.10平和記念会館オープン 9.3海洋博関連企業の倒産続出 12.フ観光収入、’75年1257億円 年間観光客数156万人 1.19沖縄海津博閉幕 4.1県観光握興局を新設 91県観光開発基本計画策定 114基地確保法案が廃案 年間観光客数84万人
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262.2エ増生産部、NSP関係の研修会(14日まで) 2.23販売強化のための販売講習会 4.1本社資材蝶を廃し経理課資材係とする 414控務部の電算乗務を経理部に移管 421二次製品エ泪へのJIS取得指導開始 1117技衡サービスの強化のため営乗部にコンクリート試験室を股面 一宇部興産社と共同体制で技衡カアップの技術研修 9.6政府地鰭法制令を決める 観光客数120方任 1977 昭和52年 5安波ダム本体エ事始まる 7307.30交通方法変更実施 10.1沖縄平和妃念像、摩文仁に完成 年間観光客数150万人 3.14南、北大東囚の竃鱈自動化 3.29郡覇地裁、CTSエ事差止め却下 7.5下地■空港供用 10.1琉球大学に医学部設置 年間観光客数181万人 3.部門採鉱旧竪坑閉鎖 727クリンカーサイロ(貯蔵能力1万5千トン)エ増内に建設 12.11.12月の販売丑、連続して5万2千トンを突破 1978 昭和53年 2号キルン改造エ事決定(省エネ.コスト低減のため) 蛍光X線分析義■を導入 中庸熱セメント製造開始(第1回) 安波ダム本体エ事開始、中庸熱セメント納入始まる 2号キルン改造起エ式 エ期生産部、宇部興産伊佐エ場でNSP関係研修(廷26名、108迄) 資本金12億5300万円に増資 2号キルン改造エ卒完成 1979 昭和54年 3.3 3. 6.19 6. 6.29 722 11.1 12.3 10.13電気料金、日本一商い県となる 年間観光客数181万人 石灰使用計画(爆料転換)、取締役会で承浬 2号キルン改造落成式 困立20周年配念式典開催(26日中・南部関係、27日北部関係) は山保安に対し通産大臣表彰受〈 石灰使用計画エ事着工 石垣セメントセンター開設(貯蔵能力2千トン) 斑仁丸就航(新造船) 1980 昭和55年 5665 10 2221 23 ■●●●●P● 2225789 資料:琉球セメント20年史糧集委日会侶「沖縄にありて-琉球セメント20年の歩み」ダイヤモンド社 注:原表を再構成した。 げられる。これらの評価軸を基準に琉球セメント の導入技術への適応・修得状況を辿る。 琉球セメントの会社設立にこぎ着けるまでの経 緯、工場用地選定、プラントの国際入札から据付・ 火入れ式、そして生産出荷に至る足跡を辿りなが ら、技術移転側と受入側の相互対応をみてきた。 軒余曲折を得ながらも成功裏に生産出荷体制まで 辿りつき、県内における市場占有率を優位に堅持 し続け、短期間に海外への輸出体制を構築した実 績は高く評価できよう。以下、技術導入のそれぞ れの段階での状況をみていく。 1961年から1964年の第1期工事では設計及び 設計審査、地質調査、プラント据付監督、工程管 理は外国企業の技師が担当しているが、地盤テス トボーリング、地盤強化パイル打ち等の基礎工事 全般に加え、電気工事、溶接、機械据付工事にわ たって県内企業が担当する。基地建設で相当実績 を積んできたとはいえ、セメント製造工場という 未経験の分野とけた違いの規模から工事は難渋を 極めるが、1964年の暮れに火入れ式を行う。工 事の大半は地元業者で受注施工し完成きせる。 工場長、現場の責任者としては独人の化学、機 3節琉球セメント社にみる技術移転 戦前期有って然るべき近代的企業の設立が戦後 に始まった経緯は、既に第1章で概略論じたとこ ろである。戦後になって輩出する近代的企業は、 米軍の基地機能の安定的維持管理策と産業界の果 敢な取り組み、行政の支援体制の強化が重なり合っ た結果であった。経営に関する実務経験や知識に 何らの蓄積もなく取組むセメント事業は文字通り 未踏の分野であり冒険でもあった。従って、設立 資金調達、近代的企業経営に関する実務、工程管 理を含む移転技術の吸収・伝播、新製品開発等、 あらゆるものは戦後になって取り組んだものであ る。 一方、技術移転論の変遷や移転技術の現場にお ける浸透状況に関する研究実績は数多くある。こ こではこれらの研究実績を踏まえながら、セメン ト事業の展開過程における移転技術の体現化状況 を論ずる゜ ところで受入企業の導入技術に対する適応・修 得状態を評価する軸として操作技術、保守点検、 品質管理、工程管理、技術改良、新技術導入、設 計技術、新製品開発、設備開発、労務管理等が拳 27
械、燃焼技師が監督するが、カイザー社で研修を 受けた地元技師は比較的短期間に操作に慣れ、第 2期工事が終了する1967年には工場操業に加え 工場全般の管理を地元側で担当することになる。 ところで第2期拡張工事ではわが国2番手とな る最新設備を導入するが、第1期工事の実績は顕 著に表れ工期の短縮、最新設備の操作及び工場全 体の管理を地元側で行うまでになる。 この間、品質に対するユーザーの不評に対する 迅速な対応、問題解決は商品の品質管理に対する 優れた対処能力を既に身につけていたことを示し ている。 参考文献 1)西里喜行「近代沖縄の寄留商人」ひるぎ社 2)琉球開発金融公社「琉球開発金融公社10年史」 1972.4.30 3)藤優著「技術開発論」文眞堂 4)藤優著「技術移転」文眞堂 5)嘉陽安春箸「沖縄民政府」久米書房,PP214-225 6)林達也箸「技術移転」文眞堂 7)小林達也箸「続技術移転」文眞堂 8)斎藤優箸「技術移転の国際政治経済学」東洋経済新 報社 9)萩原晋太郎著「日本工業技術史」新泉社,PP122‐ 123,PR215-217 10)松田賀考著「戦後沖縄経済社会史研究」東京大学 出版会,1981.2.27 11)琉球銀行調査部編「戦後沖縄経済史」 12)古波津清昇著「沖縄産業史」文教図書株式会社, 昭和58年 13)琉球セメント20年史編纂委員会「沖縄にありて ‐琉球セメント20年の歩み‐」 14)具志堅宗精著「続自伝なにくそやるぞ」 15)具志堅宗精著「続々自伝なにくそやるぞ」 16)日本経済新聞「技術移転とアジア経済一基礎コー ス」1992年7.17-8.10 17)日経産業消費研究所「日本企業のアジア諸国企業 に対する技術移転アンケート(1992)」 18)大野昭彦「在タイ日系企業における労務管理組織 と従業員の組織適応(I、Ⅱ)アジア経済」アジア 経済出版会,VOL34,N01,199212,19931 19)劉仁傑「台湾製靴工業の経営戦略と技術蓄積(ア ジア経済)」アジア経済出版会,VOL31,N010, 1990,10 20)同「台湾工作機械工業の経営戦略と技術蓄積(ア ジア経済)」アジア経済出版会,VOL32,N0.4,1991.4 21)洞口治夫「フィリピンの乗用車市場構造と日系アッ センブリー・メーカーの役割(アジア経済)」アジア 経済出版会,VOL32,N012,1991.12