原著 論文
坂元彦太郎の保育観をたどる
―岡政との出会いを手掛かりに―
稲田 公子
戦後,文部省で青少年局初等教育課長として幼児教育の普及と発展に大きく寄与した坂元彦太郎で あるが,文部省入省以前に幼児教育について専門的に学んだり,幼稚園に籍を置いて実践したりとい う経歴を持たない。その保育観,理想として語られる保育の臨場感の由来を探るうち,岡政の存在に 行きついた。両者の保育観を比較して岡の残した保育実践が,坂元に多大なる影響を与えていたこと を明らかにしたい。 キー ワード: 坂元彦太郎と岡政,大正デモクラシー,保育観,経験に養われた教育現実感,実際教 育家Th
e Infl uence of Oka Masa on Sakamoto Hikotaro’s View of Childcare
Kimiko InadaIn his role as education manager at the Youth Bureau of the Ministry of Education after World War II, Sakamoto Hikotaro greatly contributed to the development and spread of early childhood education. However, before joining the Bureau he had no professional background in early childhood education and had never worked for kindergartens. When exploring his concept of ideal childcare, I became familiar with Oka Masa. Th is thesis compares the two men’s views of childcare and shows that Oka had a great infl uence on Sakamoto.
Keywords: Sakamoto Hikotaro, Oka Mas, Taisyo democracy, views of childcare, view of educational reality
fostered by experience, practical educator
Ⅰ.問題と目的
坂元彦太郎は教育・保育学者である。幼稚園 を学校教育法に位置づけ,音楽リズムの創設に 大きく関与し,日本の幼稚園教育の源流である お茶の水女子大学附属幼稚園の園長も務めた。 その著書には,幼児教育に寄せる深い思慮が現 在でも決して色あせることなく多くの学びを与 えてくれる。その根底にはゆるぎない保育観が あって,確かに心躍らせ目を輝かせて遊び回る 幼児の姿に触れてきた人であるという印象を受 ける。 しかし,文部省で活躍を始めるまでの経歴を ると大学では社会教育を学び,卒業後は師範 学校の教師となり初等教育に力を注いでいたこ とがわかる。坂元はなぜ,どのようにして幼児 教育に引き寄せられ生涯をかけて力を注いでい くことになったのか。 坂元彦太郎によって創設された領域「音楽リ ズム」は,現代においても幼児にとって必要な 社会福祉法人ふたば会 保育学ねらいと活動を備えており,坂元はその「音楽 リズム」の普及に情熱を傾けていた。その中 で,自身の意図やイメージが十分に伝わらない ことに,忸怩たる思いを抱いていたことを数々 の文献に記している。筆者は坂元の語る「音楽 リズム」から,絵空事ではない,確かな体験に 裏打ちされたような臨場感を感じた。そこで坂 元が伝えたかった「音楽リズム」の本質や構想 の起源を ると,岡山師範学校女子部附属幼稚 園と岡政の存在が浮かび上がった。保育観につ いてはどうだろうか。 倉橋(19491))は文部省時代の坂元について, 幼児教育に果たした功績が未曾有であるとし, その業績について説明しているが,それが教育 行政官としての手腕以上に,坂元の「性格に基 づく児童愛と長き経験に養われた教育現実感と であったことを忘れてはならない」としてい る。さらに坂元が「行政官たるよりも実際教育 家たることに真の興味がある(同上)」といつ も語っていたことに触れ,実際教育家の精神こ そが,その教育行政を命あるものにしたと述べ ている(同上)。このことから,坂元には文部 省入省時には,幼児教育について「教育現実 感」が培われており,「実際教育家」と評価で きる人物であったと言えるのではないか。であ るならば,文部省入省前の岡山師範学校女子部 附属幼稚園での経験は「音楽リズム」のみなら ず保育学者としての「保育観」にも大きく影響 しているのではないか。 坂元に関する研究を見てみると本田(2017) が「学校教育法制定」「保育要領の作成」「幼稚 園教育要領の改訂(1964)」について戦後の幼 稚園教育の法制度の構築という観点から坂元の 果たした役割を示している。また音楽リズムに 関する研究(石川,2013,大畑,1983)では坂元 の音楽リズム創設への寄与について述べられて いる。このようにいずれも戦後の活躍について 取り上げたものはあっても,文部省に入省する までに坂元がどのようにして保育観を育んでき たのかを示したものは見当たらない。 そこで本研究は坂元の生涯を残された文献か ら概観し,その人となりを示しながら保育観に 関わる記述を中心に整理していく。次に附属幼 稚園での岡の実践と保育観を明らかにする。そ して両者の保育観を比較しながら,その「出会 い」が坂元の保育観の生成に大きく影響し「保 育学者,坂元彦太郎」の誕生に寄与したことを 示したい。坂元が岡との出会いを経たからこ そ,法整備や音楽リズムの創生に向かう情熱が 得られたのだと考えるからである。坂元の保育 観は岡の確かな実践と結びついたものであり, 彼が保育学者たる所以は,法整備などの業績以 上に,保育者に向けられた愛情あるまなざしで 描かれた数々の文献の中にあると考えるからで ある。
Ⅱ.坂元彦太郎と岡政の保育
1)坂元の誕生から師範学校教員時代 坂 元 は 1904 年, 東 京 都 の 生 ま れ で あ る。 1926 年東京帝国大学文学部社会学科を卒業し, 兵庫県姫路師範学校の教諭となった。そこでは 次第に小学校の教育,特に低学年(幼学年)に 興味を持つようになり,幼児教育の研究実践家 であった倉橋の評伝を読み感銘を受けたことも 記している(坂元,1985)。 1933 年滋賀県女子師範学校教諭兼舎監,付 属小学校の主事となった。その頃の研究内容に ついて「仲間の明石の及川さんとか志賀の木下 さんといったような方々がやっていらっしゃる 生活本位というか総合的な教育のことを自分で も実践していました(坂元 19892))」と記してい るように,小学校教育の研究において,生活本 位,総合的教育という幼児教育にもつながる視 座を有していたことがうかがわれる。 1940 年には岩手県師範学校に移り盛岡市仁 王小学校の校長となっている。赴任直後,諸学 振興委員会の第一回総会に選ばれて発表した。 幼稚園の代表として倉橋,小学校の代表として 坂元,中等教育については岡山出身の教育者で ある高畑浅次朗が出席し発表を行った(同前)。翌 1941 年から山梨県の地方視学官として勤 務後,1943 年岡山師範学校女子部長,岡山県 第二岡山高等女学校長兼岡山県女子青年学校教 員養成所長となる。 2) 岡山師範学校女子部附属幼稚園との鮮烈な 出会い 坂元は「昭和 18 年 4 月,私は岡山に着任し たのであったが,附属幼稚園の室や庭の夢のよ うな美しさにうたれた。かいどうの花の咲きこ ぼれた姿を今でも私は忘れることができない が,そうした環境が桃源郷であっただけではな かった。ここは,新しい教育がまだ生き続けて いる学園でもあった」と,岡山師範学校女子部 附属幼稚園(以後附属幼稚園と記載)との鮮烈 な出会いを記している(坂元,19643))。 「第 2 次世界戦争がはじまってから私は岡山 にいったのであるが,もはやそのころは,私が 一生の仕事と感じていた初等教育の新しい研究 を,ほとんど小学校にもちこむことができなく なっていた。それで,戦争が盛んなときの唯一 のかくれ場を,幼稚園と小学校低学年との連絡 をなめらかにする,ということに見いだした。 両主事や先生方とも話し合って,時には先生を 交換したりなどして,少しは研究をすすめたの であったが,ついに戦災にあって,すべてが灰 になってしまった」(同上)と幼小連携をすす めようとしていたが,戦時中で頓挫したことを 記し,当時の状況を振り返っている。 これらから,幼児教育との出会いとして,目 指していた小学校の研究ができなくなった時代 背景から幼小連携を目指し,幼稚園にいりび たって具体的な幼稚園のあり方を覚えた(⑻参 照)ことと,附属幼稚園の持つ絶対的な価値に 触れたことの 2 つの要因が垣間見える。 ただ附属幼稚園における幼小連携は坂元の研 究が発端であったわけではない。同附属幼稚園 は東京女子師範(以下女高師と表記)附属幼稚 園や倉橋とも深いかかわりを持ち,坂元が着任 するずっと以前から,幼小連携を実践してきた 園であった。1916 年にはすでに雑誌「夫人と 子ども」に当時附属幼稚園の主任保母であった 岡政の「幼稚園と小学校への連絡」という記事 が発表され,研究会の相互参加なども行われて いた土壌があった。以下,坂元の心をとらえた 附属幼稚園での岡の保育について見ていく。 3)附属幼稚園での岡の保育 岡は 1908 年 3 月,女高師を卒業し,同年 4 月,附属幼稚園に主任保母として赴任した。岡 は女高師在学中,その主事であってその年, 『幼児教育法』を出版した和田実の「幼児を生 活の中心にして保育をする」という考え方に強 い共感を覚えた。また東京帝国大学で心理学を 専攻した倉橋が,岡の在学中,女高師附属幼稚 園で幼児心理の研究に従事していた縁もあっ て,倉橋による和田の生活保育の考えを拡充, 進化させた理論からも啓発された。倉橋がその 後女高師の主事となり,新しい保育理論を展開 するにつけて,岡は倉橋の保育を岡山の附属幼 稚園で実践していったのである(岡山大学教育 学部附属幼稚園,19844))。そこで「岡山大学教 育学部附属幼稚園 100 年のあゆみ(同文献から の参照はページ数のみ記載)」をもとに岡の保育 の特徴である「保育観と生活保育」「自由保育 と環境整備」「幼小連携」と,坂元に特に影響 を与えたと思われる「音楽リズムに関連する遊 戯」の4つの観点から説明していきたい。 ① 保育観と生活保育 岡は大正デモクラシーに啓発されて,自由な 保育思想を持っていた。和田や倉橋からの影響 もあって,幼稚園の生活はデモクラシーの要件 である自由と共同をもって,幼児の実際の生活 を考えていくという姿勢を見せ,当時の幼稚園 にあったすべての形式的束縛を脱することが必 要であるとした(岡,1924)。 実際には①全園を開放しての全幼児移動生 活,②年齢,知能,性別によらない遊び集団を 中心にした全幼児自由生活,③用途に合わせた 保育室(畳敷き家庭室,製作室,図書室,独立し
た遊戯室など)の設置,④遊びを遮断するベル の廃止,⑤米を持参して炊飯を行う昼食の共 食,⑥寝食を共にする宿泊保育の実施などを 行った(岡,1931,)(p10)。 ② 自由保育と環境整備 岡は保育者主体の幼児に与えたりさせたりす る保育ではなく,幼児の生活に保育の目的を近 づけていく保育を実践していった。それまでの 小学校教育を形だけ模したような環境を大きく 変えていった(p9)。 明治 42 年頃からは,今まで丁重に扱われて きた恩物を単なる遊具として幼児に自由に取り 扱わせることとした(同上)。倉橋が恩物を籠 にまぜこぜにして積木玩具として幼児に扱わせ たという神格化された逸話があるが,はるか以 前に彼の弟子である岡がこのことを英断してい たのである。 岡は自然の豊かな環境を整えていった。園庭 に芝生を植え片隅には藤棚をつくり,野菜や 花,果樹を植えるなどして幼児の自然への関心 を高め,大正 3 年に入ると運動場には山,池, 林,竹やぶ,果樹園,花壇がつくられ,自然界 の縮図のように整える工夫がなされた。さらに ヤギや鶏も飼育するなど,幼児が自分から好き な遊びを選んで没入することができるように取 り組んでいった(p15)。 そして自由遊びでは,のびのびと遊ぶことと 同時に創造性を育てようとするならば,保育者 が選択した保育領域に裏付けされ,その保育領 域に基づいたねらいを潜めた万全の環境設定が 必要であると考えた(p15)。 幼児が思いのままに遊ぶ時間が自由遊びであ るとしても,保育者は自由遊びを見守り,時に 一緒に遊びながら必要に応じて援助をする。た とえば全体またはグループで遊びを共有したほ うが効果的な場合は,取り出して一斉に保育す る。それが設定保育であり,保育者が特別の目 的をもって園児の遊びを発展させて保育に当た ろうとするものであるとした(p12)。このよう に自由遊びから設定保育の課題が生まれ,設定 保育でなされたことがまた,自由遊びに生かさ れる。自由遊びは保育の出発点であり,帰結点 でもあると考えていた(同上)。 ③ 幼小連携 幼小連携について岡は,「幼稚園と小学校へ の連絡(岡,1916)」で幼稚園教育は学校教育 の重要な基礎を担っており,教育一系統の中に あって,学校教育と別物ではないとした。さら に家庭と学校の中間に立つべき大切なものであ るが,小学校にとってすべて都合の良いもので あるとは限らないとした。そして幼小連携に とって大切な 3 点について言及している。 1 点目,保育者は,幼稚園での保育のみを考 えるのではなく,卒園後小学校で受ける教育に ついて知る。そこから保育理論を学びなおして 教育全般の知識を得ると共に,実際の小学校の 授業についても知っておく必要がある。その方 法として,附属幼稚園では保育者が,小学校 (特に低学年)の研究授業を参観し批評も聞く。 幼稚園の研究保育には小学校からも来てもら い,遊び中心の生活についての意見も聞くよう にしていることを紹介している。 2 点目は,まず幼児をどうやって学校教育に うまく連絡させるかということである。幼稚園 の保育と学校の教育では理想とする点に違いが あるが,幼稚園は家庭教育を斟酌し,学校教育 の方針に矛盾しないように実施細目を作って学 校教育へ滑らかに入っていけるように努めなけ ればならないとする。 3 点目は保育細目である。保育は学校教育と 全く性質が違うので,規定を作ってそれ以外は 認めないとか,学校の教科と直接連絡を図ると いうようなものではない。幼稚園教育そのもの の目的を達成するために,保育者の経験を活か して,遊びや生活体験の中に,学びの芽を意図 的に組み込んでいくことが必要であるというこ とを,例を挙げて示している。 ④ 音楽リズムに関連する遊戯 当時の幼稚園で多く行われていた,「曲に合 わせた振り付けをみんなで えて行う遊戯」は
岡のよしとするところではなかった。全員の手 足が乱れなく うことを遊戯の目的とはせず, 幼児たちが楽しく踊ることを重視したので,幼 児たちは課題と曲に合わせて自由に創作表現を 楽しむ事ができた(pp16-17)。 附属幼稚園では遊戯のための音楽や振り付け などは中央(女高師附属幼稚園)で幼稚園のた めに作られたものを利用するだけでなく,保育 者たちが自ら音曲を選んだり振り付けを考えた りした。また,幼児の作った歌をピアノで弾い てやるようなことも珍しくなかった(同上)。 これらのことから保育者の作曲やピアノの演奏 能力の高さがうかがえる。 岡が行った遊戯の中の音楽表現について,と もに保育を行った従野(p17)は岡の遊戯指導 について,極めて進歩的な扱いであったこと, 岡自身が創作意欲旺盛で,周りの保育者も自然 と創作意欲が高まっていったことを記している。 さらに岡自身が,幼児の歌の創作について, 保育者が童謡をつくって聞かせる→幼児が自ら 童謡をつくる→そこに保育者が曲をつける→幼 児が喜んで歌う→家庭で母に聞かせるという実 践を紹介している(p11)。ここには教師の誘導 による,幼児の自発的な音楽創作活動が読み取 れるであろう。 以上見てきたように岡が附属幼稚園に残した 保育は①和田や倉橋の理論を実践し幼児の生活 を重視した保育を実践した。②幼児が自由にの びのびと遊ぶことにこだわりながら,自由遊び には保育者の保育領域に基づく意図と,遊びを 発展させるための設定保育が必要であるとし た。そのために園庭の整備をはじめ,可能な限 り幼児が心躍らせて生活できる環境を整えた。 ③幼児の幼稚園での生活のみではなく,就学後 も見通して小学校との連携とそれを見据えた保 育計画の必要性を示し実践した。④音楽表現に 関しては,型通りのお遊戯ではなく,創作や自 由に楽しむことを重視した,という 4 点が挙げ られる。 岡はその後,昭和 8 年まで,25 年にわたり 附属幼稚園の主任保母を務めて体調不良のため 退職した。その保育は附属幼稚園のみならず岡 山の幼児教育に多大な影響を与え同年,内閣よ り幼児教育界で初の勲 8 等の叙勲を受けてい る。戦後には再び幼児教育の場に戻り,保育者 養成にも関わって活躍している。 4)楽園の経験が持つ意味 坂元が岡山に赴任したのは岡の退職した 10 年後であるが,「先生が残された伝統は,苦心 して経営された環境とともに生き残って,幼稚 園とはまことにこのようなものである,と私は 感動した(みどり会,19755))。」と綴り,その頃 には,岡が元気になり「ちょくちょくお会いす ることができた」「私が現在に至るまで,何と か幼児教育に専心するようになったきっかけは この時であり,この時の先入観が一生付きま とっているのだ,ということを今さら感じるの である」と自身が岡から啓発されたことを記し ている(同上)。 1943 年,岡山で坂元が見た桃源郷は,岡が 和田と倉橋の教えを礎として育んだ附属幼稚園 の 保 育 で あ り,『 楽 園 の 再 興 』( 坂 元,19606)) の結びの中で,「かつて「楽園」と呼んだのは 幼稚園一般のことではあるが,附属幼稚園が桃 源郷のように楽しいのを楽園にたとえ,それを 象徴しているのが幼稚園と考えた(同上)」と している。つまり附属幼稚園こそ坂元の目指し た幼児教育を表現している幼稚園であり,この 附属幼稚園,ひいては岡の保育に啓発されて, 幼児教育に深くかかわるようになったといえる のではないか。
Ⅲ.戦後の坂元彦太郎の活躍と保育観
1)岡山から大阪へ(親としての経験) 1946 年 11 月,坂元は大阪第一師範学校教授, 同女子部長となった。このために坂元は大阪市 平野に移り住んだ。 坂元には当時年長児となる女児があって,岡 山の附属幼稚園にも在園していたが,坂元が大阪に赴任し大阪第一師範学校女子部附属幼稚園 に第 54 期生として入園させている。54 期生は 4 月 9 日に入園したものの,強まる戦火に 6 月 1 日をもって休園をやむなくされ,11 月に再開 されたばかりであった(大阪教育大学附属幼稚 園,1993)。このことについて坂元は「私の上 の娘は岡山での最後の園児であり,大阪では再 開最初の園児であるという幸運に浴した」と し,「私の子どもが関係していたことが,私の 関心度を増したかもしれないが,私の仕事のう ちでごく小部分を占めると言っていいことに, 本気になって考えた(坂元 19667))」と幼稚園の 再開後の支援に力を尽くしたことを記してい る。 これら親としての視点が加わったことで,坂 元の幼児教育に向ける思いも深まったのではな いか。後の保育要領の中の項目に出てくる「家 庭」という内容では,この時代であれば「母」 と書かれても不思議ではないところ,「父母」 と記載されていることもこれらの経験の所以だ と思えるのである。 翌 1947 年,坂元は文部省に招聘される。 2)文部省時代(1947 ∼ 坂元は当時の文部大臣阿部能成から呼び出さ れて「青少年教育の振興を頼む」と言われた。 その理由として,「戦前は批判をうけたことも あった附属幼稚園での「実験」を認めていた人 があるのだろう」と振り返る(坂元,19858)) 。 文部省に名が届くほど,幼稚園との関わりが深 かったことが見て取れる。 ① 幼稚園を学校教育法へ 坂元は文部省青少年教育課長在任中,学校教 育の中でまだまだその重要性が認知されない幼 稚園を学校教育法の中になんとか位置づけよう と心を砕いた。坂元が耐え難く感じていた学校 教育として認められていないが故の先生たちの 待遇や資格など,差別待遇の解消を願ったこと が原動力となったという(坂元 1976)。幼稚園 が学校化することを危惧した反対意見もあった が,それを正しいと認めたうえで「今後の学校 を,特殊教育とか幼稚園も含めた中身ややり方 の全く違う形の学校という意味で仕組めばよ い 」 と 議 論 し た と 明 か し て い る( 坂 元, 19769)) 。 その結果,1947 年の学校教育法の制定によ り,幼稚園は第1条に規定する学校体系の一環 として位置付けられ,学校制度の最初の段階と して扱われることとなった。 その制定にあたって,大正 15 年の幼稚園令 では「幼稚園ハ幼児ヲ保育シテ其ノ心身ヲ健全 ニ発達セシメ善良ナル性情ヲ涵養シ家庭教育ヲ 補フヲ以テ目的トス」とあった条文の趣旨を受 け継ぎ,違った意義から保育の意義を明らかに しようと「幼稚園の教育は幼児を保育し,適当 な環境を与えてその心身の発達を助長するのを 目的とする」という文言を産み出した(坂元, 1964a)。 坂元の脳裏には岡の「苦心して経営された環 境」である附属幼稚園の情景があったと考えた くなる。そして「適当な環境」は現在でも幼児 教育の場で最重要視されているものである。 ② 保育要領の策定と音楽リズム 1948 年,小学校の学習指導要領に倣って, 保育の法規としての保育要領が策定された。坂 元は策定において中心的な役割を担う。保育要 領には保育項目だけでなく幼児の生活環境とし て,運動場・建物・遊具について細かくその在 り方を示している。また家庭と幼稚園という項 目では①父母と先生の会,②父母の教育,③父 母教育の指針など,家庭との連携について示さ れている。④小学校との連絡としては有効な連 絡法を述べる余裕がないとしながらも就学前と 就学後の教育とはともに一貫した目的と方法を 持たなければならないと書き添えている(保育 要領,1948) さらに著書『幼児教育の構造(坂元,1964)』 の中で「『音楽リズム』のなりたちについて」 と,いう章を設け,音楽表現のあり方について 述べている。音楽リズムを保育内容として重視
し,その内容が保育要領に加えられることを切 望し,尽力したことがうかがえる。 刊行された保育要領には「2 リズム」「5 音 楽」と語を分かち取り入れられた。それを中途 半端に産み落としたと感じて,何とか成長させ ようと人選を苦心して研究会を立ち上げた。そ の結果,昭和 28 年文部省から『幼稚園のため の指導書 音楽リズム』が刊行されることとな る。しかし坂元はその刊行を待たずに,どの文 献にも詳細は語られていないが,事情があって 文部省を離れ東京を後にすることになる(同 上)。そして運命に導かれたかのように再び岡 山大学へと赴任したのである。 3)岡山大学教育学部長時代 1949 年 6 月,坂元は岡山大学教育学部長と して着任した。この年の 7 月に全国保育連合会 (会長―倉橋)の第 2 回大会での決議として坂元 に感謝の言葉が送られ,同会の副会長にと乞わ れ引き受けている(坂元,1960)。大学の教員と 言いながら,幼児教育とのかかわりはさらに深 まったと言える。 ① 楽園の再興 そのうえ戦前にかかわった附属幼稚園を再興 する奇縁に恵まれた。そのことを「私が 4 年ほ ど大阪や東京をさまよっていた間には,この幼 稚園が再建されないで,偶然にも私がここの学 部長師範校長として着任するまで,眠ったまま で私を待っていてくれたような,ふしぎな気持 ちがしてならない」「灰になったあの幼稚園が 私を招きよせたのだ(坂元,19609))」とアニミ スティックに回想している。 坂元は精力的に幼稚園の再建を目指し「私が とりあえずつくる幼稚園は,昔のそれに比べた ら,雲泥の相違があるといってもいいくらいみ すぼらしい建物をつかうほかはない。しかし私 は私の「職権」をひそかに濫用して,できるだ けの設備をしてやろうと思う。戦災復旧という 名目で国がくれる費用の多くの部分をこの美し い復旧に投げ込もうと思う。(同上)」と,いた ずらっ子のようにその計画を練っていた様子も 綴っている。 実際に坂元は附属幼稚園主事として柴山剛を 任命し,岡から学んだ従野静江を附属幼稚園の 教諭として呼び寄せた。従野は園舎の改造につ いて計画を任され,2 ∼ 3 年で新園舎を建設の 予定のため予算を抑えるようにという指示を受 けたが,幼児は 1 年で卒園するため今年の幼児 をないがしろにはできないと申し出て,結果 70 万円という当時にしては多額の費用を獲得 している。教具の中には打楽器,ピアノ,電蓄 など音楽リズムの活動に必要な物が多く取り えられた(pp34-35)。坂元が再興した附属幼稚 園で,これらを活かして岡の精神を受け継いだ 従野の豊かな保育が展開されていったことであ ろう。 ② 幼稚園教員の養成 また坂元は教育学部の入学志願者が少なく, ことに女子が少ないことを口実にして県下の主 だった女子の高等学校を遊説した。教育学部に は 2 年の課程があって,小学校課程は 2 年の コースでも幼稚園教員の免許状がもらえるよう に仕組み,自分でも「幼児教育」の講座を持と うとするなど,幼稚園教員の養成にも心を砕い ていた(坂元,1960)。教え子たちが一人でも多 く志を同じくしてほしいと願い,教育学部の学 部長としての職務も果たしながら,幼児教育へ の願いは貫かれている。 ③ 幼児教育の研究活動 研究活動として,岡山県保育史編集委員会 (1964)によると,昭和 26 年度文部省主催の中 国地区幼児教育研究集会を附属幼稚園で開催し た。指導者として CIE アンブローズ,坂元, 岡がその名を連ねている。1954 年には第 1 回 全国国立公立幼児教育研究大会を岡山大学で開 催し,附属幼稚園を含め3園で保育を公開する など,参加者 900 名(うち県外 300 名)を集め た。また昭和 30 年度幼稚園教員養成学部教官 研究集会も開催し,全国 48 大学の関係教官が 岡山大学に集まった。このような研究会を開催
することによっても岡山の幼児教育はますます 磨かれていったといえよう(同上)。 坂元にとって大学教授としての苦労も多かっ たようではあるが,1954 年からは放送教育の 分野で学校放送中央諮問委員会委員(日本放送 協会)となり,この分野は後にNHK放送文化 賞を受賞するなど,坂元のもう一つのライフ ワークともいえるものとなっていく。後に幼児 教育における視聴覚資料の活用方法を検証した り模索したりしている(坂元 1964)。 岡山時代は坂元にとって幼稚園の再興,幼稚 園教員の養成,幼児教育の研究大会の開催な ど,さまざまな経験を積み,知見を蓄えた時期 となった。 4)お茶の水女子大学附属幼稚園長時代 坂元は 1959 年に赴任したお茶の水女子大学 附属幼稚園(以後お茶の水幼稚園と記載)につい て,そのとりえは,日々の素朴な幼児たちと先 生 と の 間 の 素 直 な 交 流 に あ る と す る( 坂 元 1969)。施設や設備も特に贅を凝らしたり,新 奇だったりするものはないが,とりえは緑豊か な園庭の広さと,各保育室に備えた自由に使え る遊び道具となる材料だけだとする。特別に, 歌や,絵や,踊りなど技術をしこむわけではな く,教育課程や指導計画に特別な趣向をこらし たりすることはさらにないという(同上)。た だ,保育者と一人一人の幼児とが信頼と愛情の きずなを作り上げることを何よりも優先し,幼 児に真剣に向き合うところにお茶の水幼稚園の 伝統を感じていた。坂元はその保育者と幼児が かかわる姿から学ぼうとしていた。そしてその すべてを写真に収めようとした。坂元のまなざ しが捉えた,豊かな環境で生き生きと遊ぶ幼児 の写真がお茶の水幼稚園の 90 周年記念に「お 茶の水大附属幼稚園の生活:目で見る教育課程 ( お 茶 の 水 女 子 大 学 文 学 教 育 学 部 附 属 幼 稚 園, 1967)」として刊行されている。 倉橋が育てた注目を浴びることの多い伝統あ る幼稚園で,坂元は岡山の時とは違い先頭に立 つのではなく,幼児や先生たちに寄り添い導こ うとしていたのかもしれない。
Ⅳ. 坂元の文献に見る岡山大学附属幼
稚園・岡の影響
1)岡の保育と坂元の保育の比較 岡の保育を①保育観と生活保育,②自由遊び と環境整備,③幼小連携,④音楽リズムに関連 する遊戯の点から見てきたが,それらの実践・ 保育観と坂元の保育観とを比較しながら見てい く。 ① 保育観と生活保育 岡は論文でも明言していたように大正デモク ラシーに啓発された自由な保育思想を持ってい た。坂元も自らを「新教育運動(大正デモクラ シー)の残党(前掲(5))」としたように,自由 な保育観を打ち出していった。岡は幼児の生活 に保育の目的を近づけていく生活保育を実践し たが,幼児の思いを重視するあまり一切の束縛 を廃した。対して坂元は幼児の個性を引き出す には,一般化,社会化も必要であるという相違 した考えを持っていた。一方で,社会化は個性 化と両立するとして,幼児が自己解放して伸び 伸びと個我の活動を自由に営めるようにするこ とが教育のねらいである(坂元 1968)ともして いる。しかし保育の構成においては,担任との 1 対 1 の交流を重視し,毎日のルーティンとな る学級単位の活動の必要性を唱えた坂元の主張 は岡と相違している。 ② 自由遊びと環境整備 坂元は幼児の活動が,それを通じて明確で具 体的なねらいを達成できるようになっているこ とが必要であるとする。それは日常生活と無理 なくつながるものでありたいが,意図なくして 経験しないようなことを,あたかも日常生活の 中で経験するのと同じような自然さで経験させ る仕掛けや工夫が必要であるとした(同上)。 このことは岡が,自由遊びを発展させるための 仕掛けであり工夫として幼児が好きな遊びを選 んで没入することができる環境を整えたことに通じる。自由遊びは幼児が思いのままに遊ぶ時 間であるとしても,それは保育者が選択した保 育領域に裏付けされていなければならないとし た岡の考えと一致している。 また坂元は前述したように附属幼稚園を桃源 郷と表した。それは岡が運動場に山,池,林, 竹やぶ,果樹園,花壇を作り,自然界の縮図の ように整える工夫がなされた環境である。坂元 はその環境を幼稚園の象徴のように考えてい た。 目の当たりにした附属幼稚園を想起して坂元 が学校教育法に「幼児に適当な環境を与え」と したことは想像に難くない。 岡もまた最上の保母は自分で直接幼児を導く のではなくて,保育理解に導かれての意図的, 計画的に整えられた環境物を通して間接的に幼 児を保育する(あゆみ p13)として保育におけ る環境の重要性もあげている。このことは保育 者が環境を操作する,同化することであると言 える。坂元も物的環境だけでなく,社会的,人 的環境が重要であると考えており(坂元,1964) その意味においても同じ意図が感じられる。 ③ 幼小連携 岡は幼稚園と小学校は教育の一系統であると しながらも幼稚園・小学校ともそれぞれの目的 に依っているため,幼稚園が学校の教科と連絡 することは必要ないとし,幼稚園教育そのもの の目的を達するために,保育者の経験と通常の 計画の中で,幼稚園教育の独自性を生かした小 学校への連絡の方法を探ろうとしている。 坂元もまた幼小連携について,小学校に入っ てからの教育がスムーズに行われる準備が必要 としながら,小学校の教科学習の内容と直結 し,知識技能の初歩を授けるようなことではな く,幼児の時代にこそ経験しておかねばならな い,幼児らしい生活を送ることが,後の生活に とって望ましい基礎的な習慣の芽生えを養うこ とになると考えていた(同上)。幼小連携の考 え方は一致している。 ④ 音楽表現に関する遊戯 幼児の望ましい表現活動について,岡は曲に 合わせた振り付けをみんなで えて行う遊戯を 嫌い,手足を えることより自由に表現するこ とを重視していた。幼児の自発的な創作活動を も支えていた。呼応するように坂元も,教師が 教え込み,形を えることを重視した遊戯を, いくつかの文献で「さるまわしみたい」と表現 し,幼児の心や体の中から湧き出た動きを,心 から楽しみながら遊び回るようなものにしたい (同上)と願った。それらは机上の論理ではな く,附属幼稚園の幼児達の自由な表現に感銘を 受けたことから発したのではないかと思える。 幼児の創造的で自発的な表現を保障したいと 願ったことが,ライフワークであったとも言え る音楽リズムの創設につながったのではない か。 これらを下図に示す。
Ⅴ.まとめと今後の課題
坂元の幼児教育への貢献として①教育機関と して幼稚園を学校教育法に位置づけたこと,② 幼児教育の最初の手引書ともいえる保育要領の 策定に尽力したこと,③その際音楽リズムとい う新しい概念と領域を創生し,指導書「音楽リ ズム」の刊行を企画したこと,④戦後の混乱期 に幼児教育に携わる人材育成をめざしたこと, ⑤幼稚園教育要領の改訂に携わったことなどが 挙げられる。それらは紛れもない坂元の功績で ある。それらを扱った研究は論理的で理路整然 としている。一方で坂元が保育者に向けて残し た保育観や文献について取り上げられることは 少ない。だが,見方を変えればそれらは幼児の 健全な成長を願うからこその,①幼稚園そのも のの必要性と妥当性の周知,②そこで行うべき 幼児の教育についての整理,③表現活動からの 幼児理解と従来の価値観の変革,④保育者とい う職業への憧憬,⑤幼児教育の追求(保育者に 意図を届けるための奮闘)であったと考える。 だからこそ筆者は坂元が何をどのように感じ,何を目指してどのように歩んだのか,その使命 感や願いはどこから来たのか,保育学者坂元彦 太郎を産み出した,必然のようなものに触れた いと願った。そしてそれが岡という偉大な保育 者の存在であったと論じてきた。そう考えるに つけ,その出会いがなければ,坂元の情熱は幼 児教育ではなく,夢であり願いであった幼年学 校の設立に向けられたかもしれないし,社会科 教育,放送教育,障害児教育などのライフワー クに取り組む比重がより高まっていたかもしれ ない。たとえ文部省で倉橋と交流を持つことが あり,よき仲間・理解者となっても,これほど 全身全霊を傾けるようなかかわりを持つことは なかったかもしれないとすら思える。 坂元は自らの幼児教育に奉じた人生を振り返 り,その成果は教育学や心理学などを学んだり 教職的な教養を積んだりということがほとんど なく,体当たりで試行錯誤しながら現場で体得 したものであるという(坂元,1981)。そして理 想的な特定の立場から現実を見るのではなく, 現実の具体の中で自ら筋道を立てていく,とい う自身の方法が,実はほんとうに生きた教育の 姿にふさわしいのではないかと振り返ってい る。お茶の水女子大学の学長であった波多野か 表 1 岡政と坂元彦太郎の保育観の比較 項目 岡政 坂元彦太郎 考察 保育観と 生活保育 ・大正デモクラシーによる自由と共同 の精神 ・幼児の生活に保育の目的を近づけて いくことを重視し,一切の束縛を廃し た ・全幼児移動生活・全幼児自由生活で 担任も固定しない ・大正デモクラシーによる自由な発想 ・個性を引き出すために,一般化,社 会化も必要であるとした。但し社会化 は個性化と両立するとした。 ・担任との交流,学級での活動も必要 であるとした ・一致している ・相違している 戦前と戦後の社会情勢の 違いも影響していると思 われる ・相違しているが,岡の 保育は認めている 自由遊びと 環境整備 ・好き勝手に遊ばせるのではなく,保 育者が選択した保育領域に基づいて遊 びが展開されるよう,環境構成などを 工夫しなければならない ・園庭に幼児たちの豊かな経験を誘う 自然環境を整えていった ・保育者が意図をもって明確で具体的 なねらいに基づいて想定し,幼児が自 ら遊び出せるような仕掛けや工夫をす ることが必要とした ・環境による保育を提唱した ・保育要領の環境に附属幼稚園を想起 させる環境を具体的に示した ・一致している 坂元は後に自由遊びの捉 えを説明しておりそれは 教育要領に依り,岡と異 なる ・一致している 岡の作った環境は坂元の 中で理想のモデルとなっ ている 幼小連携 ・幼稚園は学校教育の一環であるがそ の内容は独自のものである ・小学校の内容と同じにすることはで きないが,保育内容を活かして就学を 滑らかにすることを工夫した ・幼稚園を学校教育の一環であるとし ながら,内容やしくみはちがってよい とした ・小学校の内容を先取りするのではな くて,幼児期に経験しておかなければ ならない経験を積むことが就学への力 となるとした ・どちらも一致している 附属幼稚園での研究で得 られた知見を用いて 31 年の幼稚園教育要領が曲 解されたことに対して解 説している 表現活動 ・形ではなく,幼児の表現する意欲を 重んじ,創造的な表現活動を行った ・動きを えることを嫌い,幼児の湧 き出る生命のリズムを表現させたいと 願い,「音楽リズム」を創設した ・一致している 岡の残した保育に啓発さ れて想起したと思われる
らその方法を「実学」だと評価されたことを喜 び,それは生きた幼児の現実や具体的な保育の 実態にアプローチしたいと願ってきたことだと 受け止めた(同上)。これらから自らが倉橋と は全く違った道筋で保育を考えてきたことを誇 示しているようにすら感じる。 「実学」と考えてみれば,坂元が情熱を傾け た音楽リズムは,現場である附属幼稚園で理想 とする姿を目の当たりにして,その臨場感ある 保育の実際を論理的な文章にして伝えようと苦 労していたのだと考えることができる。すると 坂元の 藤も腑に落ちる。坂元は附属幼稚園で の 2 年弱の経験で,そこに残された岡の保育観 にふれ,また実際に現場を退いていた岡とも交 流を持ちながら,幼小交流の名のもとに焼け落 ちる前日まで幼稚園に通い続けた。そこで実践 しながら検証したことが,坂元の保育観の核と なりその後の生き方を方向づけた。保育学に覚 醒したのである。坂元が明治・大正・昭和の時 代に自らの信じる保育を貫いた岡政の保育に出 会ったことは,その後の岡山大学への赴任も含 めて,日本の幼児教育の発展にとって,もはや 必然であったとも感じられるのである。 研究者としての坂元のありようも,保育の現 場と指導者と目される学者の間に微妙なずれや ギャップを感じており,それを埋めることが自 らの使命でもあると考えていた(同上)。それ は自らが保育の現場や実践者である岡から率直 に学び,現場で互いに尊重し合い理解し合って 学ぶことの意味を体得したからではないか。そ のことは坂元が主張する通り,難しい言葉を多 用しないで,現場の保育者にとってもわかりや すい言葉で書かれた数々の文章にあらわれてい る。実際は,多少耳の痛い指摘もあるが,それ も含めて坂元の幼児と保育者に対する敬愛が貫 かれている。 保育学研究は誰のためにあるか。坂元はその 生涯を通して,研究者は保育実践を肌で感じ取 り見取ることが必要であり,どんな形にせよ実 践者がその研究を享受し,幼児の幸福に繋がっ ていくことを目指さなければならないというこ とを示していると受け止めた。 今後は坂元の保育観を現在の幼稚園教育要 領・保育所保育指針等と照らし,実際の保育に どのように生かしていくことができるか,保育 実践に返した研究を課題としたい。また,岡の 保育についても研究を深めていきたい。 引用文献 ⑴倉橋惣三 (1949) 坂元彦太郎君を送る.幼児 の教育,48(9),23. ⑵坂元彦太郎 (1989) 戦後の保育,光と陰.現 代保育,37(9),18. ⑶坂元彦太郎.(1964)岡山の幼児教育と私. 岡山県保育史.309-312. ⑷附幼 100 周年記念誌編集委員会(編)(1984) 百年のあゆみ.岡山大学教育学部附属幼稚園 ⑸坂元彦太郎 (1975)岡政(秀)先生のことど も.みどり会 美登里会 4. ⑹坂元彦太郎 (1960)楽園の再興.フレーベル 館.205. ⑺坂元彦太郎 (1966) 終戦後における幼稚園教 育.初等教育資料,203,32. ⑻坂元彦太郎・立川多恵子・中村悦子・守永英 子・本田和子 (1985) 坂元彦太郎先生を囲ん で(第一回).幼児の教育,84(11),38. ⑼坂元彦太郎・森上史郎 (1976) 楽しい幼児教 育への道.保育専科,4(8),10. ⑽前掲⑹.19. 謝辞 本研究にあたり,ご指導・ご助言賜りました 兵庫教育大学の石野秀明教授に心より感謝をい たします。 付記 本論文は,兵庫教育大学大学院 人間発達教 育専攻 幼年教育コースに平成 29 年度の学位 論文(修士)として提出した論文の一部を修 正,加筆したものである。