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魚の眼を獲得する方法について―現実を捉え直す手がかりとしてのコミュニケーション―

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はじめに

  現 代 社 会 に 生 き る 人 間 が 困 難 を 覚 え る 理 由 は 様 々 だ ろ う が 、 い ず れ に し て も 、 困 難 を 乗 り 越 え て い く 過 程 で コ ミ ュ ニ ケ ー ションが一つの決定的な鍵となっていることを本稿で示してい きたいと思う。ただ、そう述べるからといって、それは必ずし も、都市化した大衆社会に埋没した個人が孤独に苛まれ、隣人 とのコミュニケーションを求めている、といったことばかりを 指すものではない。   確かにその場合もコミュニケーションが鍵となるとは言える だろう。もちろん孤立化して孤独になった個人は、概ねその孤 独の程度に応じて、生きるのに困難を感じるだろうし、他の人 間 と の つ な が り や 絆 が 人 間 の 孤 独 を 癒 や す こ と は 事 実 で あ る 。 しっかりと築き上げられたコミュニティーの人間関係の中で支 えられることで、個人個人が生きる意欲を見失わずにいられる 確率が高まると筆者も考える。コミュニティーの人間関係にコ ミュニケーションが介在することは自明である。人を支える人 間関係というものは、頻繁で緊密なコミュニケーションなしに は 作 り 上 げ る こ と が で き な い 。 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の ネ ッ ト ワークを見失ってしまうことが人を孤独にするのである。   ただ、人間関係やコミュニティーが孤立や孤独の問題を﹁解 決する﹂という思考に慣れてしまうと、他の人間と緊密に関わ り合っていれば生きていくのに支障がないというような錯覚に 陥ってしまう。他人と関わり合っていれば人生の問題が解決す るというような予定調和があれば苦労はない。筆者の考えでは、 孤立や孤独からの脱出は、人が人らしく生きるという課題の出 発点に過ぎない。人間関係やコミュニティーがありさえすれば 人は幸せに生きられるというわけではまったくない。その理由 をとりあえず言うとすると、人と人との繋がりは、時に煩わし くもあり、生きることに対する新たな困難を持ち込む元にもな

鈴木

伸太郎

魚の眼を獲得する方法について

現実を捉え直す手がかりとしてのコミュニケーション

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る 、 と い う こ と で あ る 。 人 と 人 と の 繋 が り の 束 と も 言 え る コ ミュニティーの人間関係は、緊密でありさえすればいいという わけではない。

  ﹁自殺希少地帯﹂のコミュニケーション

  農村型の緊密なコミュニティーは、どちらにせよ現代の都会 生活ではおそらくは不可能であろうが、それは狭い地域に人が 集まり暮らし、あまりそこから外部に出かけていかないという ようなことが、都市化された社会の構造上︵相互依存関係の網 の 目 の 拡 大 に よ っ て 巨 大 な 規 模 の 社 会 が 実 現 し て い る 構 造 上 ︶ あまり頻繁には見られないから、というばかりではない。既存 の︵いわば農村型の︶コミュニティーから逃れる自由を獲得で き る の が 都 会 生 活 な の で あ り 、 か つ て の 農 村 地 帯 で あ っ て も 、 現代では概ね都市化の波に洗われているということの理由の一 端はそこにある。固定メンバーのコミュニティーほど安心でき るものはないとも言えるが、同時にこれほど煩わしいものはな いとも言える。ただ、それでもなお、都会生活の中で人は伝統 的な農村社会に似たようなコミュニティーを求めていく傾向も ま た あ る こ と は あ る 。 同 じ 学 校 、 同 じ ク ラ ブ 活 動 、 同 じ 会 社 、 同じ職場⋮といった繋がり、あるいは擬似農村社会的なコミュ ニティーは、常に生成され続けている。   以上のような簡単な考察によっても、コミュニティーと個々 の人間の関わり合いというものが単純なものではなく、むしろ 両義的で相互に背反する性格を持つことがわかる。   この点で示唆に富むのは、ある精神科医による﹃その島のひ と た ち は 、 ひ と の 話 を き か な い ﹄ と い う 本 に 述 べ ら れ て い る 、 主として都会の地域ではなく農漁村型のコミュニティーについ ての観察と考察である。 〝精神科医、 ﹁自殺希少地域﹂を行く〟 、 というサブタイトルにあるように、統計的に言って自殺者が少 ない地域のコミュニティーを著者は訪ねる旅をする。そのよう な、人が生きづらさを感じることの︵相対的に︶少ないと予想 される地域で著者が遭遇したコミュニティーは、どういうもの だったか。人間関係の︵相対的に︶希薄な都会人がしばしば理 想 と し て 想 像 し て し ま い が ち な よ う な 、 誰 も が 暖 か く 親 切 で 、 人の話をよく聞き、人情味あふれるようなものとは少し違って いた。といっても、もちろん冷たく、ささくれ立ってよそ者を 無用に警戒したり、他人に無関心でいたりするというわけでも ない。   旅先で、たいていの場合は私が精神科医であることは言 わない。しかし、自殺希少地域では言わされる。相手に興 味がある態度を受けるので、私はあまり心配せずに自分が そうだと言える。

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  精神科医であることがばれるのは旅の中ではあまり心地 がよいことではない。ちょっと違う目で見られてしまうこ と を 感 じ る の で あ る 。 一 目 置 か れ た り 、 心 を 読 ま れ る ん じゃないかと思われたり、いろいろ相談されたりして旅が 楽しくなくなってしまう。   そういうものなのだが、自殺希少地域ではそんなに構え ずに言える。それは相手が、私がそういう異物だとわかっ たとしても何ら態度を変えずに接してくれるからである。   彼ら彼女らは、そういう異物との対話にとても慣れてい る。   ひとが多様であることをよく知っているから、みんなと 違うものへの偏見が少ない。もう少し言うと、みんなが同 じ だ と は 思 っ て い な く て 、 み ん な 違 う と 思 っ て い る か ら 、 私が精神科医という異なる存在であったとしてもあまり気 にされることがない ︵1︶ 。   著 者 が ﹁ 言 わ さ れ る ﹂ と 書 い て い る こ と に 注 目 し て ほ し い 。 著者によればそれは半ば強制ではあるが、決して自分の職業を あ り の ま ま に 言 う こ と が 不 快 な わ け で も な い 。﹁ そ ん な に 構 え ずに言える﹂ということなのである。面と向かって問うてくる 地元の人は、単に愛想よく当たり障りのない話をしようとする ためではなく、本当に他所から来た旅人に関心があるから聞く のである。そして、聞いてみて意外な答え︵精神科医という職 業 は 、 あ り ふ れ た 職 業 と は 言 え な い だ ろ う ︶ が 返 っ て き て も 、 それによって﹁何ら態度を変えずに﹂接してくれるのである。   そもそもは、もちろん誰がどんな職業に就いていようが、そ してそれが珍しい職業だろうが、あくまでもその人その人の事 情であるに過ぎない。旅人ならなおさらのことで、地元の人間 の生活には直接何の利害関係もない。しかし、地元の人間がそ の旅人に︵精神科医などとしてではなく︶ひとりの人間として 関心を持つのであれば、そしてその人が一定以上の年齢であれ ば、職業などはその人の一部分としていろいろと聞いてみたい 気持ちは理解できる。ただし、聞いてみて﹁なあんだ﹂と無関 心に移行してしまうなら、旅人の方も、話したかいがないだろ う。あるいは、逆に過剰な反応を示して、変に持ち上げてみた り、警戒してみたりという態度をとられるのも愉快でないに違 いない。そうではなく、顔貌や服装が違うのと同様に、その人 間の属性の一部として平静に受け止めてもらえれば、むしろ職 業などを知られたほうが気持ちが落ち着いてくるだろう。職業 以外のことも話してみる気になるかもしれない。そのオープン な態度が逆に相手の安心感にもつながっていく。安心できる人 間関係というものは、相手に興味関心を持ち、相手がかなり異 なった存在であっても、ゆったりと相手のありようをそのまま 受け止める態度が相互的に生じることを基盤にしている。そし

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て ﹁ 彼 ら 彼 女 ら は 、 そ う い う 異 物 と の 対 話 に と て も 慣 れ て い る﹂ 。   ロマンチックなコミュニティーの見方でいくと、人間同士の ﹁ 絆 ﹂ と か 、 人 情 の 厚 さ と か 、 親 切 な 思 い や り と か 、 そ の よ う な人と人とを情緒的に結びつけるような事柄が大事だという観 念に行き着きやすい。しかしながら、それはごく親しい人間関 係を、広がりのあるコミュニティーにまで簡単に拡張できるか のように錯覚した見方である。特定の親しい間柄の範囲を超え て、人間が人間たちの間で安らえる場合というのは、警戒せず に話ができるように感じられるときである。偽り無く話す限り、 初対面でも何を話しても大丈夫に感じられ、自然に自分がオー プンな態度をとれるようになっていることに気づくときである。 つ ま り 、﹁ 異 物 と の 対 話 ﹂ に 慣 れ て い る よ う な コ ミ ュ ニ テ ィ ー が大切なのではないだろうか。   これは単に、その人の属性が﹁異物﹂である場合に限らない のではないか。その人の様子がどこか本人の困惑や不足を感じ させる場合に、そのシグナルに敏感に反応するという態度にも つながってくるものではなかろうか。同書の著者が実際に少々 不足を覚えた時の、地元の人の典型的な反応が次のような文章 に記されている。   店主はコミュニケーションに慣れていた。 ﹁櫛、売ってますかね?﹂ ﹁櫛か、売ってないね﹂   そういうと、店主は、少し考え、 ﹁ちょっと待ってな﹂ と言って奥に入っていった。タンスの中から櫛を三つ出し てきて、 ﹁どれがいいかな﹂ と三つの櫛と私を交互に見比べて、 ﹁お兄ちゃんは、黒ね﹂ と言って、また奥に入って水でそれをよく洗って、 ﹁これ、あげるわ﹂ と私に手渡した。手渡された後で、 ﹁えっ?﹂   私はやや遅れて反応した。そのような様子はお構いなし に、 ﹁これ、おばあちゃんの形見の櫛﹂ と言った。私は意味を理解するのに少し時間がかかったが、 ﹁えっ?   いや、そんな、もらえないです﹂   慌ててそう返した。しかし店主は、 ﹁かえって喜ぶから﹂ と全身を使った対話によって私に櫛を渡した。   私はさすがにそれはもらえないと思って少し抵抗したの

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だ が 、 そ の よ う な 抵 抗 は ま っ た く 効 果 は な く 、 店 主 の コ ミュニケーション能力に圧倒されるようにしてそれは私の ものとなった。   見ず知らずのただの客がそんな大事なものをもらうわけ に は い か な い か ら 、 私 は 多 少 抵 抗 し た の で あ る 。 し か し 、 コミュニケーションに慣れている店主の掛け声は、いただ く以外の選択肢を失わせた。   もちろん、櫛がなければ困るから手に入るならとてもあ りがたく、とてもうれしいことだった ︵2︶ 。   都会風ないわゆる﹁常識﹂では、親切の押し売りと解釈され てしまいそうな、一方的な行為であるが、著者は多数の自殺希 少地域で何度も同様の体験をしている。即決の手助け、そして 有無を言わさず相手に受け入れさせる﹁コミュニケーション能 力 ﹂。 親 切 さ や 優 し さ と い う 言 葉 で 想 像 し が ち な 、 柔 ら か く 受 容的な態度ではなく、むしろ強い自我やある種の﹁主張﹂を感 じさせる態度である。しかし現実的に考えるなら、助けられる 側からすると、むしろそうして押しつけに近い形で強い態度で 臨んでもらった方が、心理的な負担が少なく、ありがたいこと が多いのである。   もし本当に必要のないことなら、オファーを受けた側がそう 言えばいい。もちろんそれが額面通り受け止められるというこ とではなく、単なる礼儀として申し出を断っているだけなのか どうか、その言葉や態度の真実味︵本当に櫛は必要ないかどう か︶を、助ける側は感じ取って自分で判断するということであ る。申し出た助けが必ずしも適切ではないということがわかり、 それでも何か別の形で助けになりたいと思ったら、また改めて 違ったやり方で、できることを考えていけばいいのである︵あ るいはさしあたり何もできない場合もあるだろう︶ 。   同書の著者も、自らの支援の体験と重ねながら次のように分 かりやすくまとめている。   あまり支援に慣れていない支援者は、 ﹁どうしますか?﹂ と聞いてしまう。もちろん聞かなければならないことが多 いのだが、どうしますか?と聞かれると、支援を受ける側 は躊躇してしまう。現実的には助けが必要なのだが、相手 に迷惑をかけてまで助かりたいとは思わない。迷惑なのか どうかをいつも考えてしまう。   支援を受けることは正当なことだとどうどうと伝えなけ ればならない。互いに助け合うのが当たり前なのだとどう どうと伝えなければならない。それでも嫌だというのなら、 それは本人の本物の意思だ。駆け引きのない意思とわかる。 そうしたらまた別のことを考えらいい。対話を続けるので ある。

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  こ の 下 蒲 刈 島 で も 、 私 た ち は た く さ ん 助 け て も ら っ た 。 たいていは頼んでいないのに助けてもらった。意向を聞か れる前に助けてもらった。私たちは確かに旅人であって困 りごとがある。そういうのを島のひとたちはよく知ってい て、だからついには、私たちが困る前に私たちの困りごと を先読みして助けてくれた ︵3︶ 。   助 け る と い う の は 、 そ も そ も こ う い う こ と な の で は な い か 。 都会生活をしている私たちの周囲にも助けることが上手な人は いる。相手の困り事を先読みして、時には相手が意識もしない うちに、相手に支援をあてがっていくことができる人たちであ る。先読みもできず、逆にありがた迷惑なものを押し付けたり するようでは、そもそも対人的コミュニケーションのトレーニ ングが足りないということになるのではないのか。助けるべき もの、あるいは助けるに足る能力を持っていて、助ける意思が ある、ということだけが人助けの条件ではない。誰にとっても 立場というものがあり、人に迷惑をかけたくないという社会常 識も持ち合わせている以上は、他人が本当に困っていることを 先読みできる能力、そして適切な援助を申し出ていると確信で き る 時 に は 、 相 手 に 否 と 言 わ せ な い ﹁ コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 能 力﹂が重要である。そういう場合の援助する側の強い意思の発 動は、表面的には押しつけのように見えても、そうではないの である。   援助される側から言えば、自分の状況が他人に的確に読まれ ているということを感じないわけにはいかない。困った事態に 陥ったことを隠そうと思っても読まれてしまうという体験が重 なると、隠すことにあまり執心しなくなる。隠そうとして無駄 なエネルギーを使わず、その分だけオープンな態度がとれるよ うになっていく。それが小規模なコミュニティーであればそこ に ﹁ 溶 け 込 む ﹂ と い う こ と に つ な が っ て い く だ ろ う 。 し か し 、 都会であっても、一般的な態度として普及しても決しておかし くはない。旅人を助ける地元の人の態度は、顔見知りや知り合 いに対する態度ではなく、相手が誰であれ、発動するものとし てそこにあるものである。狭いコミュニティーだから実現でき るというような条件は特にないのではないか。都会では誰もが 身近な人間関係を周囲に持ちながらも、それ以外は互いに﹁旅 人﹂である。繁華街の路上や電車の中の行きずりの関係までは 拡張しなくとも、店側と顧客のような、相手を本当には知らな いが、重要でなくもない関わり合いというものは無数にある。   同書の著者による﹁自殺希少地域﹂の観察は、都会風と農村 風のコミュニティーの違いとか、人口集中地域と過疎地の違い などで私たちがコミュニケーションのありようについて先入観 と し て 持 っ て し ま い が ち な 区 分 を 再 考 さ せ る の に 十 分 で あ る 。 ﹁ 自 殺 希 少 地 域 ﹂ の 人 た ち は 、 コ ミ ュ ニ テ ィ ー の 中 で ︵ 衝 突 を

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回避するためなり、互助的・互酬的な緊密な関係を築くなりす るために︶個人個人の区別や意思を曖昧化するようなコミュニ ケーションをしているのではない。むしろ反対に、自分は自分、 他人は他人という強い自我を感じさせるような︵都会の生活で も実現可能なような︶コミュニケーションをしているのである。 同 書 の 著 者 が ﹁ 自 殺 希 少 地 域 ﹂ の あ る 島 で イ ン タ ビ ュ ー し た 、 別の島から来た若い男性によれば、その島の人たちは﹁ひとの 話をきかない﹂という。   数年前に別の島からこの島に来たという若い男性と知り 合った。彼の家に行き、島の話をいろいろと聞いた。彼は もうじき島を出るという。 ﹁島に来て、鍛えられました﹂   何らかの理由があって地元からこちらに来てまた地元に 戻る。彼はたくましくなったと言う。 ⋮︿中略﹀ ⋮ ﹁この島のひとたちは強い。自分をもっている﹂ 私は、さぞ、優しいひとがたくさんいるとか、陰口などが ほ と ん ど な い と か 、 そ う い う 話 を 期 待 し て い た わ け だ が 、 彼の評価はそうではなかった。 ﹁この島のひとたちは、人の話をきかない﹂ というのである。島が好きかと言うとそう言い切れないよ うだった。もちろん感謝もしているのだという。しかしと ても苦労も多かったのだと。 ﹁ た と え ば 、 自 分 が 歌 手 で こ う い う ひ と が 好 き で と 話 し た とします。その場では相手もいいねと言う。しかし興味が なければその音楽は絶対にきかない。これまでの人間関係 だったらいいねと言ったら少しは聴いてみようかとみたい なことになるんだと思うんです。でも島の人は興味がなけ れば絶対にきかない﹂   相手に同調することはない。自分は自分であり他人は他 人である。その境界がとても明瞭であるというのである。 ﹁ 陰 口 な ん か も よ く あ る 。 噂 話 も よ く あ る 。 あ っ と い う 間 に島中に広がる﹂   彼の話だけを聞いていると島には住みたくなくなってし ま う が 、 こ れ は 彼 が 見 た 現 実 に 対 し て の 彼 の 感 想 で あ る 。 私は彼の話を聞きながらひとつの答えに達しようとしてい た。   自殺で亡くなるひとが少ない地域というのは、 ﹁ 自 分 を し っ か り も っ て い て 、 そ れ を 周 り も し っ か り と 受 け止めている地域である﹂   彼 は 別 の 文 化 の 中 で 彼 な り の 価 値 観 の 中 で 生 き て き て 、 そしてこの島で別の価値観と出会い、その中で数年を生き、 そういう意味でたくましくなった、と言った。

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  彼 は き っ と 、 こ れ か ら は 生 き や す く な る の だ 、 と 思 っ た ︵4︶ 。   ﹁自殺希少地域﹂ 、つまり人々がその中での生活に精神的に行 き詰まったり追い詰められたりせずに、自分なりに生きる道を 切り開き、見つけ出すことをしやすい土地では、ある種の均衡 がとれているのである。そこではコミュニティーの中に暮らす 人間や、外部から訪ねてきた人間︵異物︶を親切にというより は、平静に受け入れる。ただし、見知った限りは無関心に放っ ておいたりはしない。時には困っていることを先読みして、過 剰なほど親切であったりもするが、かといって人の自立性を奪 う ほ ど 干 渉 し た り 、 過 保 護 に し た り す る こ と も な い よ う な 、 ︵ 小 さ く ま と め て し ま え ば ︶ 適 度 な バ ラ ン ス が 大 切 で あ る と い うことになるだろう。たとえ小さいコミュニティーであっても、 それぞれの個人の生活上の問題を全部知り、それについて適切 なアドバイスをしていくことなど、到底できるはずがない。そ れぞれの個人はその人の責任においてそれぞれの人生を生きて いかなければならない。ただ、それを突き放して放っておくの ではなく、人としての関心は強く維持しているのである。助け が必要と感じればできる限りのことはするし、それは助けを求 めている本人の心の負担にならないように、むしろ過剰なほど ﹁勝手に﹂援助をしたりするのである。   人の抱えている問題は常に何かしらあり、それは本人の見る 角度でしか現れないものでもあり、最終的には本人が解決を見 出していく他はない。ただ、そうだからといって、他の人の働 きかけや、アドバイスや、理解の姿勢などが意味がないという ことではない。むしろ非常に必要であり、決定的に求められて いるのだとも言えるのである。ただ、アドバイスや理解がその まま解決につながるとは限らない。そこでも不思議な反転があ り、働きかけたりアドバイスしたりした人たちの理解力や考え 方や思惑を超えたところで、解決に結びついたりするものなの である。

期待と現実とのギャップの中で

  誰の人生にも何かしらの問題があるという前提でものを言っ て い る わ け で あ る が 、 そ う い う 捉 え 方 に は 一 定 の 根 拠 が あ る 。 現代に生きる人間の根底の不安を説く思想は様々にあるかとは 思うが、当面の考察には社会学者デュルケームが﹃自殺論﹄に おいて見出した﹁アノミー﹂ということだけ指摘すれば十分か と思う。現代の社会がことごとくアノミー的な状況にあるとい うのは、近代に至って社会的な意味で自由が拡大したというこ ととほとんど同義である。身分制社会が崩壊し、伝統的な農村 的な共同体も崩壊した。宗教や伝統が人の精神を縛り付ける力

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も衰退した。社会生活の諸分野の中で経済分野が着実に重要度 を増していき、政治すらも経済発展を図るという至上命題の実 現を最優先させざるを得なくなっている。そして経済的な分野 は市場経済による競争的な環境が当然のことと考えられるよう に な っ た 。 以 上 の よ う な 指 摘 は 、 格 別 独 創 的 な 主 張 で は な く 、 現代社会ではすでに言い古され、常識化された事柄に属するこ とだろう。宗教の位置づけなどに少々の異論はあり得るかもし れない。しかし、エマニュエル・トッドも指摘しているように、 フランスにおいて宗教実践の衰退は着実に進行している。   カ ト リ ッ ク の 宗 教 的 実 践 の 緩 慢 な 衰 退 は 、⋮ ︿ 中 略 ﹀⋮ フ ランスではすでに六〇年代初頭の転換期に目についていた。 カトリック信者で規則的にミサに行くと答えた者のパーセ ン テ ー ジ は 、 一 九 四 八 年 に は 三 七 % で あ っ た の が 、 一九六八年には二五%、次いで一九八八年には一三%にま で減少した。二〇〇七年には八%に落ちている。調査対象 は、一般に自分の実践レベルを高く見積もるものであるか ら、実際の比率はもう少し低くなるはずである。二〇〇七 年の八%は、おそらく現実には五%を少し切るぐらいのと ころになるだろう。しかもその多数はすでに老齢に達した 者である。一九四八年の全国平均三七%というのは、カト リックの浸透度が高い周辺部諸州では、五〇%をはるかに 越 え る 多 数 派 的 実 践 を 意 味 し て い た こ と に な る 。⋮ ︿ 中 略 ﹀ ⋮   フランスでは人目につきにくいが、文明の衝突よりさら に古い理論が、イスラームを問題として名指すのに貢献し ている。それは、一九八五年にマルセル・ゴーシュが提示 した、キリスト教は﹁宗教から抜け出す宗教﹂であるとい う理論であるが、その後これを活用する者たちはこれを単 純 化 し 、 イ ス ラ ー ム 圏 を 攻 撃 す る 武 器 と し て 転 用 す る に 至った。すなわちキリスト教は、自分自身を超出する力を 持つがゆえに他の宗教とは異なる、というのだ。この歴史 観は、西洋世界に、実際は存在しない独自性を付与するも のである。そのことを確かめるには、イスラームについて 考察するまでもない。日本は、明治初年に始まった宗教危 機以前は、本質的に仏教国であったが、今日ではヨーロッ パと同様に、いかなる宗教的信仰にも無関心である ︵5︶ 。   現代の日本社会においては、新興宗教やカルトへの関心の高 まりという問題はあるにせよ、特定の仏教なら仏教という宗教 的信仰が強い﹁宗教的実践﹂を伴って社会に共有される状況に はない。あるいは、アメリカ社会では日本やフランス以上にキ リスト教の宗教的実践がなされているという可能性もある。あ るいはイスラム圏では国によってはまだまだ人々に強力な精神

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的影響力を振るっているのかもしれないが、話を日本社会など に限るとすると、宗教に対する関心が一般に強いとはとても言 え な い し 、 フ ラ ン ス の 例 で も 明 ら か な と お り 、︵ ト ッ ド の 逆 を 指摘することになるが︶日本が世界から孤立しているわけでは ない。   その結果として個人の存在はどうなってしまったかといえば、 少なくとも、数々の自由な選択の前に立たされることになった と い う こ と は 間 違 い な く 言 え る 。 身 分 制 が 完 全 に 崩 壊 し て し ま っ た 以 上 、 個 人 は 個 人 と し て 扱 わ れ る 他 は な い 。 も ち ろ ん 、 個人を純粋に個人として扱うことに障害が全くなくなったと言 えば言い過ぎかもしれない。現代社会に残存する様々な形の差 別の構造を問題にすることは、それはそれで重要である。差別 とは、論理的には、個人を決して単なる個人として見なさない から成り立つものである。個人ではなくて、例えば肌の色や性 別という﹁集団﹂の一員として人を見るということがあるから 差別が起こるのである。そうでないなら﹁差別﹂というものは 成 り 立 ち 得 な い 。 そ し て 事 実 、 現 代 社 会 の あ ち ら こ ち ら に は 、 まだ陰湿な形で差別の構造は残存しているだろう。ただ、現実 は理想通りにはいかないとしても、それなら差別は正当なもの かと問うたときに、真剣に差別の必要性を主張するということ は、現代では誰にとってももはや不可能であろう︵移民の制限 の声の高まりを排外主義や人種差別の文脈で語る論者もあるが、 それはむしろ政治的言説というべきものであろう。移民問題で 問われるべきものがあるとすれば、人種や民族の差別ではなく、 近 代 的 な 国 民 国 家 の 枠 組 み で あ る ︶。 そ し て 、 様 々 な 努 力 を 通 じて差別の構造が少しずつ影薄くフェードアウトしていくもの であるとすれば、それは、差別から︵現状よりも︶解放された 個人を、さらに現状よりも多様な選択肢の前に立たせるという こ と に な る の は 確 実 で あ る 。﹁ 集 団 ﹂ の 一 員 と し て 扱 わ れ な い で﹁個人﹂として扱われるということは、何を実現するのも本 人次第。本人の選択や努力や考え方などに応じてそれぞれの人 生が決まっていくということにならざるを得ない。   自由の余地が少なかった社会の﹁利点﹂といえば、まさに人 生 に 選 択 の 余 地 が 少 な い と い う こ と な の で あ る 。 そ の 分 だ け 、 つまり身分や伝統や慣習に縛られていればいるほど、個人個人 の存在は安定したものとなる。少なくとも、人は自分の境遇を 疑ったり否定したりすることがあまりなくなるのである。社会 的なポジションが高くても低くても、社会が一定の安定を保っ ている限り、そのポジションは変動しにくいものとなり、そし てそうであればあるほど、それぞれの人間には社会の中に確固 とした居場所があることを意味する。もちろん近代以前の社会 は、例外なく現代の経済先進国の生活よりも貧しいし、それだ け︵そういう経済面での、あるいは公衆衛生や平均寿命という 面での︶人生は厳しかったかもしれない。しかしながら、少な

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くとも、近代以前において、人は自分の社会的な位置づけにつ いて、迷うことはなかったのである。現在の社会では決してそ うではない。   率直に自問自答すれば誰もが理解できると思うが、現在地点 で、自分の社会的ポジションは何によって決まり、支えられて いるかといえば、自分の実績︵学校の成績から仕事上の成果に 至るまでのもろもろの事柄︶というほかはない。どういう親の 子どもか、どういう階級の出身か、ということが問題にならな い以上、あとは個人の﹁メリット﹂しか残らない。 ﹁メリット﹂ とは、突き詰めて言うなら、他人による自分の評価である。学 校の先生や職場の上司・同僚などがいかに自分を評価するかと いうことが﹁次﹂につながっていく。評価のポイントや基準は 様々かもしれない。しかし試験にせよ面接にせよ、日常の振る 舞いにせよ、本人以外の誰かが、その人を評価して、それが社 会的な立場に反映されることになる。そのような構造が、現代 社会にはある。また、そうでなければ社会意識の中でもはや公 正とは感じられないだろう。例えば、社会に存在する様々な差 別を問題にする人は、論理的には、本人の﹁メリット﹂で人を 評 価 せ よ 、 と 主 張 し て い る こ と に な る 。﹁ 肌 の 色 や 性 別 の よ う な、本人の努力ではどうしようもないことによって人を判断す るのは公正ではない﹂と主張するということは、人を判断する のは﹁本人の努力﹂で何とかなるものでなければならないとい うことである。勉強の成果であったり、仕事の実績であったり、 人間関係をうまく形成していって、周囲の信頼と支持を得てい く こ と で あ っ た り 、 い ろ い ろ な ケ ー ス が あ る に せ よ 、 総 じ て ﹁本人の努力﹂で変わってくる﹁あるもの﹂が問題なのである。   ﹁ 私 は と に か く 運 が よ か っ た ﹂ と い う 人 も あ る だ ろ う が 、 ﹁運﹂だけで安定的な社会的ポジションはつかめないであろう。 最低限それを下支えする実績︵他人からの評価︶が自分になけ れば、 ﹁運﹂を生かすこともできない。   今のところ、自由と引き換えに現代人が得たものは、他人の 評価に支えられた自分の社会的な位置づけなのである。社会と いうものが組織化され、構造化され、複雑な﹁システム﹂とな ればなるだけ、それぞれの位置に個人をどのように振り分ける かが問題となり、現代社会の回答は﹁それは、個人個人にどれ だけのメリットがあるかということによる﹂というものである。 現代の社会正義の基本のひとつは、ふさわしい地位にふさわし い人が就いているということであり、それは、その人が受けて い る 他 人 か ら の 評 価 に 基 づ く ほ か は な い 。︵ 差 別 等 の 問 題 を 克 服するなどして︶そういう社会正義が実現されればされるほど、 個人個人は他人の評価に支えられている自分を意識せざるを得 ない。   一 見 す る と 、﹁ メ リ ッ ト ﹂ は た だ 単 に 社 会 編 成 上 の ポ ジ シ ョ ンの問題のように見えてしまうかもしれない。政府組織でも企

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業 組 織 で も 、 そ の 他 の 団 体 で も 、﹁ 誰 を ど の よ う な ポ ス ト に 就 けるか﹂という配置の問題に直面せざるを得ず、現代では社会 正 義 に か な っ た 方 法 と し て 、﹁ メ リ ッ ト ﹂ に つ い て の 評 価 を 基 準にするという考え方が基軸になるが、厳密にそれだけであれ ば 、 職 場 を い っ た ん 離 れ れ ば 、﹁ 自 分 は 自 分 ﹂ と 言 え る 。 し か しながら、身分や地縁共同体や、宗教的共同体の中に包摂され ない個人にとって、職場を離れたからといって、戻っていく場 としては、家族や友人・知り合いなどの親しい人間関係だけで ある。そこで個人個人の存在を支えるものは、家族や友人の絆、 他人に︵例えば話し相手として︶認められること、他人に︵話 の分かる人間として︶評価されることなどになってしまうので はないだろうか。厳密に﹁それだけ﹂かどうかは分からないが、 職場や様々な意味での社会的地位などとは評価軸は異なるかも しれないとしても、やはり他人に認められ、承認されることが 重 要 に な っ て し ま う 。﹁ 何 を や っ て も ダ メ 、 誰 も 相 手 に し て く れない﹂と客観的に言えるかどうかはともかく、本人がそう確 信してしまえば、生きていくことの立脚点が見失われてしまう。   例 え ば 大 学 入 試 に 失 敗 す る こ と が 、 本 人 に と っ て 大 変 な ショックになり得るのは、そういう状況が背景となる。高校時 代の周囲の評価と入試結果に大きなギャップを生じれば、それ だけ衝撃は深刻な打撃となるだろう。なぜなら、私たちの社会 的ポジションは他人の評価によって決まり、この場合は試験の 結果で決まると感じてしまいやすいからである。入試に失敗し たという場合、そのような﹁格下げ﹂の状況は、他人の評価で しか自分を支えられない現代人にとってはまことに辛いもので ある。ここでも、入試の客観的な成功や失敗自体が問題なので はない。受験前の自分に対する周囲の評価︵そして、それに由 来する自分の自分に対する評価︶とのギャップが問題なのであ る。勉強が苦手と自他共に認める人間が、相応の失敗をしても、 自 分 も 他 人 も 当 然 と 受 け 止 め る 余 地 が あ る 。 問 題 は ﹁ 格 下 げ ﹂ な の で あ る 。 言 い 換 え れ ば 、 自 分 が ﹁ 期 待 ﹂ し て い た 事 柄 が ﹁ 現 実 ﹂ に よ っ て 崩 壊 す る こ と 、 ま た は 期 待 と 現 実 と の ギ ャ ッ プが現代人に大きな苦痛をもたらすのである。   もっとも、狭い意味での﹁他人の評価﹂だけが辛いギャップ をもたらすとは限らない。他人の評価とは別に、自分の人生に 対する無意識の﹁期待﹂というものが自ずとあるからである。   勉学や仕事の実績だけの問題ではない。突然の事故などで身 体に障害を持つことになった時点の衝撃なども、一般的にはた いへん大きいものとなる。健康で障害のない身体で実現できた かもしれない楽しい暮らしの多くを断念せざるを得ないという こ と は 、 人 生 に 対 す る ﹁ 期 待 ﹂ と 、 直 面 せ ざ る を 得 な い ﹁ 現 実 ﹂ と の 大 き な ギ ャ ッ プ に 見 舞 わ れ る と い う こ と な の で あ る 。 自己の基盤が掘り崩されてしまった現代人にとっては、それは

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ひとしお耐えがたい経験となってしまう。深刻な病気を宣言さ れ た 場 合 も 同 様 の こ と が 起 こ る 。 高 齢 者 の 健 康 へ の 懸 念 に も 、 ﹁ 期 待 ﹂ と ﹁ 現 実 ﹂ と の ギ ャ ッ プ に 対 す る 不 安 が 潜 ん で い る と 考えられる。健康な身体がどこかしら害される衝撃は、実際の 苦痛や不都合以上に現代人にとって苦痛なのである。   就職や結婚の失敗なども、人生への﹁期待﹂が裏切られたと 感 じ ら れ た 場 合 、 大 き な 衝 撃 を も た ら す と 考 え ら れ る 。﹁ 人 並 みの人生﹂から脱落してしまったというような感覚といってい いであろう。他人と比較して自分の人生を眺めることはあまり 賢明なことではない、という良識も、まことにもっともではあ るが、自由と引き換えに自己の基盤がこのように脆弱化してし まった現代人にとって、ちょっとしたきっかけで自分の人生が ﹁ 失 敗 ﹂ だ っ た と 感 じ る こ と は 、 よ く あ る こ と な の で あ り 、 そ れは現代人の置かれている自由な社会の環境においては、一定 の確率で人が見舞われる心理となっているとも言えるであろう。 私たちはそのような衝撃に対してある種の気構えを持つように して、現代社会に適応していく必要があるのではないかと思わ れる。   私たちの常識的な観念では、人生の成功こそ望ましいもので ある。ところが、期待とギャップの図式で考えてみれば、何ら かの意味で成功するということは、人生に対する期待が高まる という意味では、失敗の可能性を高めていることになる。日頃 60点の点数をとる生徒は、成績が 60点前後であれば﹁普通﹂と 思うだろう。しかし、努力するなどして成績を向上させて日頃 80点の点数をとるようになったとしたら、 70点はもう失敗とい うことになる。 80点が平均値となると、成績への期待が自然に 高 ま っ て い っ て し ま う か ら で あ る 。 こ れ は 単 純 な 例 で あ る が 、 人生における成功が、人生をかえって脆弱にしてしまうという こ と を 分 か り や す く 示 す も の で あ る 。 そ れ が わ か っ た か ら と いって、成功を望まないでいることなどはできないだろう。積 極 的 に 成 功 を 勝 ち 取 ら な い ま で も 、﹁ 人 並 み ﹂ と い う 感 覚 が す で に 苦 悩 の 種 を ま い て い る と も い え る 。﹁ 人 並 み ﹂ か ら 転 落 し てしまうことが苦痛となってしまうからである。典型的には健 康が損なわれたり、大けがをしたりするような場合である。健 康 を 失 っ た と き の 苦 痛 の か な り 大 き な 部 分 は 、﹁ 人 並 み ﹂ で な くなったことについての悲しみである。   アダム・スミスが二五〇年も前に書いていることが、現代に も通じる洞察となっている。   人間本性の構造からいって、苦悩は決して永遠のもので はありえない。もし人が苦悩の発作に耐えて生き続けるな らば、彼はまもなく、何の努力もなしに通常の平静さを享 受するようになる。木の義足をつけた人は、疑いなく苦し むし、自分が生涯、非常に大きな不便を被り続けなければ

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な ら な い こ と を 予 見 す る 。 し か し な が ら 、 彼 は ま も な く 、 その不便を公平な観察者たちがそれを見るのとまったく同 じように見るようになる。すなわち、彼は、そのような不 便 を 背 負 っ て も 、 一 人 で い る と き に 得 ら れ る 普 通 の 喜 び 、 そして仲間といるときに得られる普通の喜びを、ともに享 受できると考えるようになる。彼は、まもなく自分自身を 胸中の理想的な観察者と同一視し、彼自身が自分の境遇に ついての公平な観察者になる。弱い人がはじめのうちはそ う す る こ と が あ る の と 違 っ て 、 彼 は 、 も は や 泣 か な い し 、 嘆かないし、悲嘆にくれない。公平な観察者の見方が完全 に習慣的なものとなるため、彼は、何の努力もなしに、自 分の悲運を、公平な観察者以外の見方で見ようとはしなく なるのである ︵6︶ 。   障害のない身体でこれから先も生きるという﹁期待﹂と片足 を失ったこと直面せざるを得ない﹁現実﹂との大きなギャップ。 自由な人間として生きてきた人ほど、一時的にたいへんな精神 的な苦痛に見舞われるであろう。しかし、時間が経つにつれて、 人間は現実に適応する術を学ぶ。この点についてのスミスの信 念 は 非 常 に 強 い も の が あ る 。 ス ミ ス の 言 い 方 で 言 う な ら 、﹁ 公 平な観察者﹂の視点で自分の境遇を眺めることができるように なる。そして、足が不自由になった以外の点で、自分が以前と さほど極端には違わない人生を体験できることに気がつく。友 人たちと飲み食いしながら雑談に興じるようなとき、足の状態 は本質的には関係がないのである。実際に、障害を持つ人たち が 毎 日 泣 き 暮 ら し て い る わ け で は な い こ と は 明 ら か で あ る ︵﹁かわいそうな人たち﹂という先入観で見ないようにしなけれ ば な ら な い ︶。 人 生 の 楽 し み は 、 障 害 の 有 無 に 関 係 な く 訪 れ る であろう。そして、発想を変えて眺めてみれば、いわゆる健常 者の生活であっても、何らかの﹁障害﹂は伴っているものであ る。お金が十分にあるのか、満足のいく仕事に就いているのか、 そして、自分が自分を評価してほしい程度に他人が自分を評価 し て く れ て い る の か ⋮ 。 考 え て み れ ば 、﹁ 上 ﹂ を 見 れ ば き り が ない。しかしそれでも、私たちの日常が不幸に閉ざされている ということはない。誰もが人生の普通の楽しみをそれなりに享 受して生きているのではないか。身体的、経済的、職業的、そ の他の条件の階梯を一段、一段上に登っていくとしても、登る 前と本質的にはほぼ変わらない喜びや楽しみが待っているので はないだろうか。   ﹁ エ ピ ル ス の 王 ﹂ の 話 と し て 紹 介 さ れ て い る 内 容 は 、 興 味 深 い。   エピルスの王の寵臣が王に言ったことは、人間生活の普 通の境遇にうるすべての人びとにあてはまるだろう。王は、

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その寵臣に対して、自分が行なおうと企てていたすべての 征服を順序だてて話した。王が最後の征服計画について話 し 終 え た と き 、 寵 臣 は 言 っ た 。﹁ と こ ろ で 、 そ の あ と 陛 下 は何をなさいますか﹂ 。王は言った。 ﹁それから私がしたい と思うのは、私の友人たちとともに楽しみ、一本の酒で楽 しく語り合うということだ﹂ 。寵臣はたずねた。 ﹁陛下が今 そうなさることを、何が妨げているのでしょうか﹂ 。   空想の中の最も輝かしく最も高貴な境遇において、われ われが真の幸福を引き出しうると期待する快楽は、現実の つつましい境遇において、われわれがいつも手近にもって いて自由になる快楽と、ほとんどの場合、同じなのである。 虚栄と優越感というつまらぬ快楽を除けば、最も高い地位 が提供するあらゆる快楽は、最もつつましい地位において さえ、人身の自由さえあれば、見つけることができるもの である。そして虚栄と優越感の快楽は、真実で満足のゆく 享楽の原理であり基礎である完全な平静さと、めったに両 立しない。真実で満足のゆく快楽は、われわれが憧れる輝 かしい境遇においては、われわれが熱心に捨て去ろうとす る現実のつつましい境遇においてと同じ確実さをもって獲 得されるとは限らないのである ︵7︶ 。   友人と酒を酌み交わして楽しむということは、世界の征服者 になろうとなるまいと、本質的には変わらない。それは、野望 を遂げた満足感が付け加わったりはするだろうが、そういう条 件がないと友人との酒がおいしくないということは、本当はな いだろう。しかし、むやみに野望に囚われていたり、あるいは 自分の野望が叶わないと思い知らされたりするようなことがあ れば、王は友人と楽しむことが全くできなくなるだろう。それ は︵ちょうど片足を失った直後の心境のように︶本人の考え方 に 責 任 が あ る の で あ り 、﹁ 友 人 と の 酒 ﹂ に 何 か 良 く な い 点 が あ るわけではないのである。   同じ現実であっても、私たちの﹁考え方﹂によって、様々な 受け止め方になるということは、疑いのない事実であろう。と いうことはつまり、前述のような﹁期待﹂と﹁現実﹂のギャッ プ の よ う な 衝 撃 が あ っ た と し て も 、 私 た ち が 柔 軟 に ﹁ 考 え 方 ﹂ を変容させることができるなら、必ずしも私たちが絶望する必 要はない、ということになるのではないだろうか。私たちの現 実の見え方は、物理法則に従ったようなものとは違う。客観的 には同様な現実が、私たちの﹁考え方﹂次第で、別の様相を示 す の で あ る 。﹁ 期 待 ﹂ と ﹁ 現 実 ﹂ の ギ ャ ッ プ に 悩 ま さ れ が ち な 現 代 人 に と っ て 重 要 な こ と は 、 時 間 が か か る と し て も 、﹁ 辛 い 現実﹂と見えたものを固定観念で捉え続けることのないように していくことなのである。当初は非常に辛いと感じた出来事を、 ﹁ 公 平 な 観 察 者 ﹂ の 視 点 か ら 見 る こ と が で き る よ う に な る こ と

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が肝心なことであり、そのように見方を転換する力は、誰にで も 備 わ っ て い る 、 と い う の が ス ミ ス の 言 い た い こ と で あ ろ う 。 なぜなら、私たちは﹁公平な観察者﹂の視点に身を置くことが、 ︵少なくとも理論上は︶いつでも可能なのである。

魚の眼で見る

  ﹁ そ う 言 わ れ て も 、 自 分 の 見 方 を 転 換 し て い く こ と は 簡 単 で はない。方法が分からない﹂という声が聞こえてきそうである。 ここからは、この問題を考えてみたい。   例えば私たちが四方を壁に囲まれた部屋の中で、壁に向かっ て直進したときに、壁は私たちの前進を阻み、容易で乗り越え がたい障害として立ち現れるかもしれない。しかし、そのよう な受け止め方は、実は人間の身体に備わった﹁自然な﹂見方か ら生じる先入観のなせる技なのである。ユン・ウンデの書いて いることを見よう。   人の数だけ考え方はある。だから、特定の基準を設けて 善 し 悪 し を つ け る な ど 至 難 の 業 の は ず だ が 、﹁ こ の 考 え 方 はいいが、あれはダメだ﹂といったことをしょっちゅう私 た ち は 行 っ て い る 。 し か し 、 不 思 議 な こ と に 、 そ も そ も 、 ﹁ そ の も の の 見 方 は 何 が 決 定 し て い る の か ? ﹂ に つ い て は あまり考えないようだ ︵8︶ 。   といっても、マルクス主義的な分析をここで持ち出すという の と は 違 う 。 な ぜ な ら 、﹁ 特 定 の 基 準 を 設 け て 善 し 悪 し を つ け るなど至難の業﹂であるだけでなく、ここでの問題は、社会や 人間についての﹁真理﹂を見出すことではないからである。個 人個人にとって壁として立ちはだかる問題に、いかに柔軟に取 り 組 む か 、 個 人 的 に 絶 望 的 と 見 え る 状 況 に い か に ﹁ Yes ﹂ と 言 うかということが問題だからである。ただし、 V・フランクル が﹃夜と霧﹄でナチスの強制収容所について語るような、誰に とってもほぼ等しく、途方もなく困難に見える状況には焦点を 当てていない。平均的な﹁公平な観察者﹂には名案が浮かばな いような、そのような困難な状況に対しては、また︵フランク ルが見事にして見せてくれたような︶それにふさわしい深い洞 察が必要だろう。ここでは、期待と現実のギャップに直面した 個人が、いかに社会一般の公平な視点、あるいは常識的な平衡 感 覚 を 取 り 戻 す か と い う こ と が 課 題 と な る 。 あ く ま で も 、﹁ 公 平な観察者﹂の視点に立ち戻り、人生の喜びがまだ自分を去っ てしまってはいないという感覚を取り戻し、現実世界の豊かさ を再び見出していくことが問題である。   私たちが世界のあり方について語り出すとき、そこには

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常に﹁人間的なものの見方﹂という限定を表すタグがつい ているはずだ。人間は、鳥や虫や魚の視点で世界を捉えて いないのだから。   そ れ に 気 づ い た 途 端 、﹁ 人 間 的 な 視 点 ﹂ と は 何 な の か 、 ひどく気になってきた。鳥や虫や魚と人間の視点を分ける のは、知識の多寡ではない。そこでまず、魚はどういうふ う に 周 囲 を 見 て い る の か を 考 え て み る こ と に し た 。⋮ ︿ 中 略 ﹀⋮ 魚 の 眼 は 体 側 に あ る の で 、 視 界 に 自 分 の 体 が 映 り 込 まないだろう。ということは、人間とは違って、自分と周 囲の境目がはっきりしない可能性が高い。 ⋮︿中略﹀ ⋮   これは、常に世界と自分とを分けて捉えている人間とは 大 き く 異 な る 感 覚 だ ろ う 。 も し か し た ら 、 魚 は ﹁ 自 分 の 体﹂という意識が、人間に比べてかなり希薄かもしれない。   そ こ で 私 は 、 紙 に 穴 を 二 つ あ け て 、 自 分 の 体 が 視 界 に 入ってこないようなマスクをつくってみた。すると、自分 の体が見えなくなったことによって、空間の認識は確かに 変 化 し た 。⋮ ︿ 中 略 ﹀⋮ マ ス ク を つ け る と 、 自 分 の 体 が 見 え な い も の だ か ら 、﹁ 自 分 ﹂ と い う 意 識 の せ り 出 し が 控 え め になる。同時に、空間を秩序立てて見る力が薄まって感じ ら れ た 。﹁ た だ コ ッ プ を 感 じ る ﹂ と い う よ う な 把 握 の 仕 方 に変わったのだ。   ふたつめの発見は、こうして自分の体が映り込まないよ う に す る と 、 視 覚 以 外 の 感 覚 が 鋭 敏 に な る と い う こ と だ 。 マスクをつけると、部屋の匂いや質感、音にならない音み たいなものが、気になるようになった。視覚の圧倒的な優 位が崩れ、あらゆる感覚器官の声が聞こえるようになるの だ ︵9︶ 。   紙に穴を二つあけたマスクをつけるという単純な仕掛けをし ただけで、私たちのものの見方は変化してしまうという。魚の 眼を完全に追体験することなどもちろんできないが、ここで重 要なことは、私たちの先入観、固定観念が非常に強固のように 見えて、実はそう大したものではないこともあるという事実を 確認することである。自分の体が視野に入るかどうかという程 度の条件を変更するだけでも、すぐに変化してしまうのである。 例えば私たちの前に立ちはだかる壁についてである。   マスクをつけてみていちばんおもしろかったのは、立っ た姿勢で壁に向かって進んだときだ。   通常、壁みたいな自分の行く手を阻む物に近づくと、胸 のあたりが詰まるような圧迫感が高まる。満員電車の扉近 くに立っていて、もうこれ以上は入れないと思っているの に、それでも果敢に乗り込もうとする人が接近するときの あの感じだ。けれども、マスクをつけたら、ほとんど圧迫

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感を感じなくなったのだ。   マスクをつけると、壁は空間を構成するただの一要素に なった。もちろん、どんどん前に進めば壁にぶつかるのは 変わらない。物理的にすり抜けることもできない。しかし、 接近しても圧迫感が生まれない。これはどういうことなの か。   視界に自分の体が映り込んでいるときに、目の前に壁が 現れると、自分と壁との関係だけに注意が集中してしまう。 それがプレッシャーを生むのではないか。そのとき意識は 前方だけに囚われている。   しかし、マスクをつけると、前方の壁だけに気をとられ ず、頭上、足元、横、後ろに自由な空間が広がっているこ と を 体 感 で き た 。﹁ 前 ﹂ と い う 方 向 は 、 別 に 壁 に 向 か っ て 固定されているわけではない。くるりと転身すれば、どこ でもそれが前になるはずだ。私が向かう先が前で、それは いつだって自分次第なのだ。自分の周囲にはいつも空間が 広がっているのだから、本当は自由に動けるはずだ ︵ 10︶ 。   私 た ち は 、︵ 目 が 見 え る 場 合 に 限 っ て だ が ︶ 前 方 に 囚 わ れ て しまいがちである。こんなことは、指摘されれば当然のことな のに、普段はすっかり忘れている。だから前方から壁が迫って きたと感じると、空間がどんどん狭まっていくという観念に囚 われて圧迫感を覚えることになる。しかし、前方以外にも︵視 覚とは限らないが︶注意を向けることができれば、空間は上下 左右、そして後方に、いくらでも広がっているのである。仮に そちらの方にも均等に注意を払えるのであれば、前方から接近 し て く る 壁 に む や み に 圧 迫 感 を 覚 え る 必 然 性 は な い の で あ る 。 あるいは、 ﹁くるりと転身すれば﹂ 、私たちの前方に広がる空間 を存分に認識できるはずである。魚なら、上下左右に転身でき るであろうし、実際、水槽に入れられた魚が圧迫感を覚えてい るようなそぶりは見られない。諦めて泳ぐのをやめたりもしな い。彼らは壁に向かって泳いできては簡単に転身し、身を翻し て壁を当たり前のように楽々と回避しているのである。   壁というのは、もちろん私たちが直面する様々な困難の象徴 である。物理的な壁が、前方にばかり気をとられているために 圧迫感をもって立ちはだかるように見えるだけだとしたら、日 頃 乗 り 越 え が た い と 感 じ る よ う な 困 難 に 象 徴 さ れ る ﹁ 壁 ﹂ も 、 単に私たちの先入観のために﹁立ちはだかる﹂ものに感じられ ているだけなのかもしれない。   そのことに気づいたとき、妙に自信が湧いてきた。腹の 底 か ら 力 が み な ぎ っ て く る 類 の 自 信 だ 。 そ れ は 、﹁ こ れ も できるし、あれもできるようになったし、この前も大丈夫 だったから今度もきっとうまくやれる﹂と頭で確かめるよ

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うな心細い自信ではない。   私 た ち は 、 何 か を す れ ば 、 何 か を 知 れ ば 自 信 が つ く と 思っているけれど、それはかなり見当違いなのかもしれな い。新たに何かを獲得するべく努力するよりも、身につけ てしまった思い込みを外しさえすればいいのではないか。   それに、いざというときに、得たものを確認してから行 動を起こすのでは、全然いざという緊急事態に間に合わな い 。 思 い 込 み を 外 し て お け ば 、 い つ だ っ て 楽 々 と 動 け る 。 自信のなさは人から自由を奪う最大の枷かもしれない ︵ 11︶ 。

結び

  私 た ち の ﹁ 思 い 込 み を 外 し て ﹂ く れ る も の は 何 か 。 例 え ば 、 こ の 引 用 の 文 章 そ の も の で あ る と も 言 え る 。 つ ま り 、 他 者 の ︵ で き れ ば 柔 軟 で 知 恵 に 満 ち た ︶ 物 の 見 方 に 触 れ る こ と が 私 た ちの先入観を相対化してくれるのである。私たちの日常の意識 は 、﹁ 思 い 込 み ﹂ の 宝 庫 で あ る 。 自 分 で も 何 が 現 実 に 即 し た 見 方 で 、 何 が ﹁ 思 い 込 み ﹂ で あ る の か 区 別 が な か な か つ か な い 。 私たちをそこから脱出させてくれるものは、まずは他の人間の 見方、他の人間の知恵であろう。   相対的に知恵のある人間という存在もあるが、私たちの﹁思 い 込 み ﹂ は 、﹁ 期 待 と 現 実 と の ギ ャ ッ プ ﹂ を 含 め て 非 常 に 個 人 的な性格が強いことを思えば、誰であれ、私たちと少し考え方 の異なる人間の考え方を知れば参考になると言えるのではない か。スミスの言う﹁公平な観察者﹂というのは、社会の人々の 中に普遍的に存在していると考えられる良識、健全なものの見 方という意味に受け取ることができる。足が不自由な人という のは、良識と健全なものの見方に従えば、ただ足が不自由なだ けで、もちろん人間的な喜びから見放された存在などではない。 ﹁ 自 分 は 足 が 不 自 由 に な っ て し ま っ た ﹂ と 嘆 く 人 は 、 無 理 も な いことではあるが、社会の良識とのコミュニケーションから一 時的に隔絶されてしまった存在である。通常私たちはは﹁時間 が解決する﹂という言い方をするが、それは﹁苦悩の発作﹂が 収まるとともに、周囲の人間とのコミュニケーションが回復し て、自分の境遇を冷静に受け止める視点が獲得できるという事 態を表わしている。   ﹁自殺希少地域﹂が促すものは、この種の、 ﹁思い込み﹂を取 り払うコミュニケーションであると考えられる。人が自殺に追 い込まれるという場合、その人が﹁公平な観察者﹂に近い見方 をしているということはあり得ない。それでは社会に生きる人 間がことごとく自殺してしまう。個人的事情は様々でも、やは りそれはスミスの言う﹁苦悩の発作﹂であり、何らかの原因で ︵ 典 型 的 に は 前 述 の よ う に 期 待 と 現 実 と の ギ ャ ッ プ な ど に よ っ て ︶﹁ 公 平 な 観 察 者 ﹂ か ら 疎 外 さ れ 、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が 絶

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た れ て し ま っ て 、 自 分 の 直 面 す る 現 実 を 再 解 釈 す る 柔 軟 性 を 失ってしまっている状態と考えられる。つまりは、乗り越えが たい壁に直面していると本人は感じて、他の見方ができないま まに絶望していくと考えられる。   しかし、客観的に見れば、自由な社会であり、豊かな社会な の で あ る 。﹃ 夜 と 霧 ﹄ の よ う な 状 況 な ど め っ た に あ る も の で は ない。現在の日本社会において、強制収容所のような絶望的な 状況というものがそこら中に存在していると考えるのは合理的 な想定とは言えない。もちろん、苦悩がリアルでないと言いた いのではない。受験の失敗や、スポーツチームでレギュラーを 外されたりしたときの苦悩にしても、特に年少者には非常に辛 いものでありうる。失業や仕事上の失態であっても同様だろう。 いじめやパワハラも後を絶たない。ただ、そうであっても、強 制収容所のような絶望的状況とは全く比較にならない。苦悩す る本人には直接は通じない︵あるいは直接告げるべきでもない か も し れ な い ︶ が 、﹁ な ん だ 、 そ れ ぐ ら い ﹂ と い う 見 方 は ほ と んど常に可能なのである。社会には、そのような見方ができる よ う な 人 間 が 常 に 多 数 存 在 し て い る 。 両 者 の 見 方 を 橋 渡 し は 、 可能なはずであるし、時間はかかっても、橋渡しする価値があ る。スミスの言うように苦悩は一時的なものであり、本人の現 実の解釈の仕方の問題であり、本人が現実の見方を変えること で乗り越えられるものが大半なのである。コミュニケーション を回復する道筋が重要である。   ﹁ 自 殺 希 少 地 域 ﹂ を 歩 き 回 っ た 著 者 の 言 葉 が リ ア リ テ ィ ー を 持 っ て 迫 る の は こ の た め で あ る 。﹁ 自 殺 で 亡 く な る ひ と が 少 な い地域というのは、自分をしっかりもっていて、それを周りも し っ か り と 受 け 止 め て い る 地 域 で あ る ﹂。 職 業 の こ と な ど を 隠 さ ず に ﹁ 言 わ さ れ る ﹂ よ う な 地 域 で あ り 、﹁ 異 物 と の 対 話 に と ても慣れている﹂地域である。そして人の苦境をすぐに理解し て押しつけるようにして支援する地域なのである。単純にオー プ ン な 対 話 が あ る と い う だ け で は な く 、 苦 悩 が 見 過 ご さ れ ず 、 必要とあれば自分の意思を押しつけるようにして介入するよう な地域なのである。そのような環境では、個人個人が自分の狭 い思考に囚われたまま放置されることは少ないに違いない。   現代社会を生きるということは、少しのきっかけですぐに不 安定化するような自己を抱えて生きるということにならざるを 得ない。そうだからといって、自由で豊かな社会を否定するこ とは不可能である。そうであれば、私たちは柔軟な現実の見方 を絶えず失わないように努めるほかはなく、その有力な手段が、 現実に豊かな意味を付与する私たちの優れた能力を、お互いに 交換することでさらに強化していくことである。すなわち﹁自 殺希少地域﹂がひとつのモデルを示してくれているような方向 でコミュニケーションを活性化することであり、これが現代社 会の切り開いた可能性をさらに前進させていく条件であると考

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えられるのである。 ︵ 1︶   森 川 す い め い ﹃ そ の 島 の ひ と た ち は 、 ひ と の 話 を き か な い﹄青土社二〇一六年   一五六︱一五七ページ。 ︵ 2︶   同書、一〇一︱一〇二ページ。 ︵ 3︶   同書、一三六ページ。 ︵ 4︶   同書、一六一︱一六三ページ。 ︵ 5︶   エ マ ニ ュ エ ル ・ ト ッ ド ﹃ デ モ ク ラ シ ー 以 後 ﹄ 藤 原 書 店 二〇〇九年   四一︱四二、六一ページ。 ︵ 6︶   ア ダ ム ・ ス ミ ス ﹃ 道 徳 感 情 論 ﹄︵ 上 ︶ 岩 波 文 庫 ︵ 訳 文 は 、 堂 目 卓 生 ﹃ ア ダ ム ・ ス ミ ス ﹄ 中 公 新 書 二 〇 〇 八 年   二 八 〇 ページ。 ︶ ︵ 7︶   堂 目 卓 生 ﹃ ア ダ ム ・ ス ミ ス ﹄ 中 公 新 書 二 〇 〇 八 年   二八二︱二八三ページ。 ︵ 8︶   尹 雄 大 [ ユ ン ・ ウ ン デ ]﹃ 体 の 知 性 を 取 り 戻 す ﹄ 講 談 社 現 代新書二〇一四年   一四六ページ。 ︵ 9︶   同書、一四六︱一四九ページ。 ︵ 10︶   同書、一四九︱一五〇ページ。 ︵ 11︶   同書、一五〇︱一五一ページ。

参照

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