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1814年~1815年のウィーン会議と音楽 : 演奏会と教会音楽演奏 利用統計を見る

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(1)1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽- 演奏会と教会音楽演奏 The Congress of Vienna and Music (1814-1815): Concerts and Church Music Performances ジェラルド・グローマー Gerald GROEMER. 山梨大学教育学部紀要 第 28 号 2018 年度抜刷.

(2) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号 pp.161-179. 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽- 演奏会と教会音楽演奏 The Congress of Vienna and Music (1814-1815): Concerts and Church Music Performances ジェラルド・グローマー Gerald GROEMER 要約 平和条約を締結するために 1814 年から 1815 年ウィーン会議が催され、ヨーロッパ諸国から数多くの 国王、軍司令官、外交官などがウィーンに集まった。そこには音楽演奏に大きな関心を寄せる者も多 く含まれていた。この研究では、会議が開催された時期のウィーンにおいて、どのような演奏会が開か れたのか、会議参加者がどのような音楽に触れる機会に恵まれたのかについて具体的に分析している。 During the Congress of Vienna (1814-1815) the great heads of state of Europe, along with countless politicians, diplomats, military men, and their entourages came to Vienna to hammer out a peace treaty. Many of these individuals were highly cultured and enjoyed musical performances. This study seeks to uncover the precise nature of the concert scene in Vienna during this period by examining the venues, programs, performers, and occasions of performances. キーワード:ウィーン会議、演奏会、音楽会、コンサート、サロン 1815 年9月より、約 200 のヨーロッパ諸国・諸地域から、君主、軍事指導者、外交官、産業界の代表 者が、続々とウィーンに足を運んだ。この地で開催されるウィーン会議に出席するためであった。人 口約 23 万人のこの都市に、突然おおよそ 10 万人の来客が到着した。これらの来賓によい印象を与える ために、政府は行政機関の建物を塗り替え、公務員に新しい制服を支給し、ホテルは上流人士向けに 改装を進め、ウィーン在住の商人は外国人の需要に応じて種々の品物を仕入れ棚に揃えた。その結果、 長年停滞をかこってきたウィーン経済は、急速に活気を呈することとなった。しかし同時に、物価は 急騰し、好景気にわく商人層の一方でウィーンの一般住民を困惑させる結果となった。 会議の期間中、数ヶ月の滞在予定で訪れた諸国のゲストたちは積極的に娯楽を求め、舞踏会、乗馬 競技会、歌劇、演劇などを進んで楽しんだといわれる。とりわけ大小の演奏会が活況を呈したことは、 1 しかし、会議が開催された7ヶ月間にいった これまで多くの先行研究が指摘してきたところである。. いどのような音楽が実際に演奏され、誰がどこでいかなる曲を奏でたり、何を歌ったりしたのかにつ いては、その全容が具体的に明らかにされてきたわけではなく、不明な点がまだ多く残されている。 以下本稿では、可能な限り現存史料に即して、ウィーン会議の参加者がウィーンで接した音楽文化の 実相を詳しく検討してみたい。 ウィーンにおける演奏会の社会的条件と文化的環境 ウィーン会議が行われる 20 年前の 1795 年に K. ライツェンシュタイン (Karl von Reitzenstein、生没年 不詳 ) がこの都市を訪れ、そこで経験したことを見聞録にまとめている。彼によれば、ウィーンでは声 - 161 -.

(3) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. 楽文化は、やはりイタリア ( なかでもナポリ ) には引けを取るが、傑出した器楽演奏文化にはライバ ル都市がない。とくにオーケストラ演奏の素晴らしさに驚嘆している。2 同様に、1809 年1月ウィーン に滞在した作曲家・評論家の J.F. ライヒハルド (Johann Friedrich Reichardt, 1752 年~1814 年 ) もウィーン の音楽文化を高く評価し、次のように述べている。 私がここで毎日聴いている音楽は、いまだどこでも聴いたことがなく、ここで作曲できた音楽も 他所でできたことはない。最近のある日、午前中には一貫して歌劇の作曲に取り組み、ついで I. シュッパンツィク (Ignaz Anton Schuppanzigh, 1776 年~1830 年) が率いる弦楽四重奏団の演奏を聴い た。彼らはB. ロムベルク (Bernhard Romberg, 1767年~1841年) の綺麗な作品、モーツァルトの作品、 あるいはベートーヴェンの弦楽四重奏曲を非常に上手に奏した。そのあと私はロプコヴィッツ侯爵 (Franz Joseph Maximilian Lobkowitz, 1772 年~1816 年) の邸宅で夕食をとり、食後にはまた K. A. サイ ドラー (ヴァイオリニストの Karl August Seidler, 1778 年~1840 年) の名演奏による極めて面白い弦楽 四重奏曲を聴いた。夜には再度、同所において大演奏会が開かれ、皇帝 (フランツ1世) の弟である ルドルフ大公 (Erzherzog Rudoph, 1788 年~1831 年) はピアノでルイ・フェルディナンド王子 (Prinz Louis Ferdinand von Preussen, 1772 年~1806 年) とベートーヴェンの難曲を技巧的かつ正確に、しかも 柔らかく奏でた。3 朝から晩まで音楽に囲まれたライヒハルドにとって、ウィーンはまさにヨーロッパの楽都であった。 ウィーン会議開催が決定されて以降、この都市における演奏会の数が一段と増し、1815 年3月のある 芸術雑誌によると「音楽会が次から次へと催され、1日に同じ楽器を2人が演奏することになるため、 必然的に1人は負けてしまう。それでも演奏家は大きく稼ぎたいがため、町中に広告を貼り演奏会の 宣伝をしている」と報道している。4 1815 年4月ベルリンの新聞にもあるように、ウィーンでは新しい 歌劇の上演は少ないわりには演奏会が多い。「ウィーンは諸種の芸術家の合流地である。最高のヴィ ルトゥオーソたちや最も有名で人気の高い作曲家たちはこの町に住み、頻繁に音楽会を開催している。 目下の事情のため [ つまりウィーン会議の開催 ] 数多くの立派な外国人芸術家もここに滞在している」 と強調している。5 しかし 19 世紀初頭、ウィーンの音楽文化が盛んであった一方、それを充分に育成する環境が欠如し ているという声も多く聞かれた。当然演奏会の供給が需要を大きく上回ると、高額な興行費を負担し た演奏者は赤字を抱えてしまう。さらに、1808 年にある新聞記者が歎いているように、ウィーンの民 家では毎晩必ず弦楽四重奏曲あるいはピアノ・ソナタの演奏に励む者はいるものの、大きなオーケス トラによる交響曲、協奏曲、オラトリオなどの定期演奏に適している施設はどこにもない。管楽器の 値段も上昇しており、供給不足であり、歯止めのかからないインフレのせいでオーケストラ演奏に不 可欠なパート譜の作成さえままならない。音楽の教授、実践、伝承を目的とする音楽院、音楽学校、 コンセルヴァトリウムなどもこの都市には存在していない。6 しかも残念ながら偉大なモーツアルトは すでに没しており、ハイドンは引退し、サリエーリ (Antonio Salieri, 1750 年~1825 年 ) は傑作を作曲し なくなり、ベートーヴェンはいくつかの表現力に富み新味と情熱に溢れる声楽曲を作曲しているが、 また器楽作品もウィーンの誇りであるが、新作は長すぎ、彼が歩もうとしている独断の道は支持者で さえ残念がっている、とこの評論家が判断している。7 こうした評価についての賛否は別として、たしかにロンドン、ライプツィヒ、ハンブルクなどと比 較しても、ウィーンの音楽ホールの発展は遅かった。市井の人々も気楽に入場できるコンサート専用 のホールは 19 世紀前半まで建てられず、王宮、貴族の邸宅内などで行われた音楽演奏は一般公開され ていない。劇場などでは慈善興行の大規模なコンサートは 18 世紀後半から年に数回開かれているが、 - 162 -.

(4) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). 新聞の評論家たちが絶えず非難しているように、よりスケールの小さい演奏会には仕方なく舞踏会場 と会議場、ないしはホテル、レストラン、公共施設に付属する多目的ホール、座敷、大部屋などを使 わざるを得なかった。8 1814 年から 1815 年頃のウィーンに催されたコンサートの実態の概要は以上の通りであったため、無 数の施設で不定期に行われた音楽演奏の全貌を見ることは容易でない。そこで種々の断片的な史料に 掲載されている情報を整理するために、ウィーン会議開催中の7ヶ月ほどの間にウィーンで行われた 主な音楽会に関する基本情報を、新聞などの史資料から抽出し時代順にまとめておいた(一覧表を参 照)。以下にはこの一覧表をもとに、諸々の音楽演奏会の特徴と内容を、会場の種類別に検討してみた い。そうすれば、19 世紀初頭のウィーンにおける音楽文化の重要な一面がより鮮明になり、具体的に 把握することが可能となると思われる。 王宮でのガラ・コンサート ウィーンに集まった諸国の君主と代表者たちにオーストリア帝国の音楽文化の素晴らしさをアピー ルするために、政府は王宮でいくつかの豪華な演奏会を主催した。後述するように、王宮には仮面舞 踏会用の大ホールと小ホール (großer Redoutensaal と kleiner Redoutensaal) が付設され、また冬季乗馬 学校 (Winterreitschule) の広い会場においても大規模なコンサートを開くことが可能であった。なお特 権階級の限られた人数が招待される、より規模の小さい演奏会を行うためには、宮殿の「騎士の間」 (Rittersaal、別名「式典の間」Ceremoniesaal あるいは「音楽の間」Musiksaal) が最適であった。ロシ ア皇帝の誕生日祝いとして催された 1814 年 12 月 23 日の大演奏会、またはロシア皇帝妃の誕生日を祝 い、政治的目的を兼ねた 1815 年1月 25 日のガラ・コンサートもこのホールで行われた。前者にはロ シア皇帝と皇帝妃はもちろん、フランス皇帝、フランスの外務大臣 C. タレーラン (Charles Maurice de Talleyrand, 1754 年~1838 年 )、オーストリアの皇帝と皇帝妃が招かれ、ウィーン会議の大物たちが勢ぞ ろいした。指揮をしたのはヨーロッパ中に名を轟かせた作曲家の A. サリエーリであり、プログラムは 9 以下の通りであった。. 第1部 1. モーツァルト作曲 (の歌劇より) 序曲 2. サリエーリ作曲の合唱曲 3. パエール (Ferdinando Paër, 1771 年~1839 年 ) 作曲の二重唱曲、ミルダー夫人 (ソプラノの Anna Milder-Hauptmann, 1785 年~1838 年)10 とシモーニ (テノールの Giuseppe Simoni, 1764 年~ 1832 年) 演唱 4. プレブル (Joseph Purebl, 1768 年~1838 年) が演奏する [自作の] クラリネット協奏曲 5. リギーニ (Vincenzo Righini, 1756 年~1812 年) 作曲のアリア、ワインミュラー (バスの Carl Weinmüller, 1764 年~ 1828 年)11 の演唱 6. ハイドン作曲の合唱曲『嵐』(Der Sturm, Hob. XXIVa: 8) 第2部 7. ハイドン作曲の交響曲 8. ベートーヴェン作曲の歌曲、ウィルド ( テノールの Franz Wild, 1791 年~1860 年) 演唱 9. マイセーダー (Joseph Mayseder, 1789 年~1863 年) 自作自演 (ヴァイオリンのため) の変奏曲 10. ナソリーニ (Sebastiano Nasolini, 1768 年~1798/99 年) 作曲の [歌劇より] アリア、カンピ夫人 ( ソプラノの Antonia Campi, 1773 年~1822 年) 演唱 12 - 163 -.

(5) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. - 164 -. 第 28 号.

(6) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. - 165 -. (ジェラルド・グローマー).

(7) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. - 166 -. 第 28 号.

(8) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. - 167 -. (ジェラルド・グローマー).

(9) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. - 168 -. 第 28 号.

(10) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. - 169 -. (ジェラルド・グローマー).

(11) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. - 170 -. 第 28 号.

(12) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. - 171 -. (ジェラルド・グローマー).

(13) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. - 172 -. 第 28 号.

(14) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). 11. サリエーリ作曲の四声合唱曲 12. ヘンデル作曲のオラトリオ『ティモテーウス』より「雷合唱曲」(Donner-Chor)13 まず以上のプログラムに加わった演奏者について述べよう。王宮音楽庁 (Hofmusikgraf) が 1818 年 に刊行した名簿にはカペルマイスターのサリエーリの名前はもちろん、歌手のシモーニ、ワインミュ ラー、ヴァイオリンのマイセーダー、クラリネットのプレブルの名前も確認できる。つまり彼らは皆 王宮御用音楽家であることが明らかである。14 王宮御用でなくとも、完全無欠の演奏が期待できる、 ウィーンの著名な演奏者だけがこのコンサートに採用され、なかでもベートーヴェン自身がピアノで伴 奏した歌曲「アデライデ」(Adelaide, op. 46, 1795 年の作品) は、人気絶頂で 24 歳の F. ウィルドが歌唱 し客を魅了した。 前述した通り、1815 年1月 25 日の夜7時に開かれた2回目の演奏会はロシア皇帝妃の誕生日を記念 するイベントであり、今回もロシア皇帝と皇帝妃、オーストリア皇帝と皇帝妃、ウィーン在住の錚々た る顔ぶれが出席した。演奏者とプログラムの構成は 1814 年 12 月のコンサートに類似しており、オペラ 15 からの抜粋、合唱曲、オーケストラ作品など計 13 曲が各国の会議参加者に披露された。. 第1部 1. ケルビーニ(Luigi Cherubini, 1760 年~1842 年)作曲のオペラ『ロドイスカ』(Lodoiska, 1791 年 パリで初演)より序曲 2. グルック(Christoph Willibald Gluck, 1714 年~1787 年)作曲のオペラ『アルチェステ』(Alceste, 1767 年ウィーンで初演)より合唱曲 3. パエール作曲の [ オペラより ?] アリア、ミルダー夫人の演唱 4. チェロのための「ロンド」、クラフト(Antonín Kraft, 1752 年~1820 年)の演奏 5. モーツァルト作曲の歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』(Cosi fan tutte, K. 588, 1790 年ウィーン で初演)より三重唱、ミルダー夫人、クリーバー女(Therese Klieber)、ワインミュラーによる 演唱 6. マイセーダー作曲のピアノとヴァイオリンのための変奏曲、マイセーダーとチッビーニ夫人 (Catherina Cibbini-Kozeluch, 1785 年~ 1858 年)の演奏・演唱 7. アベ・シュタドラー([Maximilian] Abbé Stadler, 1748 年~1833 年)作曲のオラトリオ『エルサ レムの解放』(Die Befreyung von Jerusalem, 1813 年ウィーンで初演)よりアリアと合唱曲、ウィ ルドと合唱団による演唱 第2部 8. サリエーリ作曲の歌劇『ダナイーデン』(Die Danaiden, 1784 年パリで初演)より合唱曲 16 9. ハープのための変奏曲、ミュルナー夫人(Maria Josepha Müllner-Gollenhofer, 1768 年~1843 年) の演奏 17 10. リギーニ作曲のアリア、クリーバー女の演唱 11. ロード(Pierre Rode, 1774 年~1830 年)作曲のヴァイオリンのための変奏曲、マイセーダーの 演奏 12. ベートーヴェン作曲の歌劇『フィデリオ』よりカノン、ミルダー夫人、クリーバー女、ウィル ド、ワインミュラーによる演唱 18. - 173 -.

(15) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. 13. ヘンデル作曲のオラトリオ『サムソン』(Samson)第2部より大合唱、オーケストレーション はモーゼル(Ignaz Franz von Mosel, 1772 年~1844 年)によって拡大、モーゼルは [ ピアノで オーケストラに加わり ] 伴奏 このガラ・コンサートに登場したハープのミュルナーもやはり王宮御用演奏者であり、チェロ のクラフトはロプコヴィッツ公爵に仕えた。政府が 1815 年2月 22 日同所に開催した「室内余興」 (Kammerunterhaltung)の演奏者もほぼ同じ顔ぶれであったと推測され、プログラムはより小規模の編 成を要する楽団によって演奏されたであろう。 以上の2つのコンサートの長さは現代の感覚ではかなり長いものであった。非常にスムーズに行わ れていても、また第1部と第2部の間にあったと想定される休憩時間が短くても、それぞれの演奏会 は3時間以上もかかったであろう。この時代には聴衆は沈黙の中に真剣に演奏に耳を傾けたというよ り、数多くの蝋燭で照らされた部屋でやや静かにしゃべりながら、あるいは立ちあがり、好きな曲と 贔屓する音楽家が登場するときにはじめて演奏に集中し、現代の聴衆と比較してかなり自由に行動し たと想像される。プログラムの構成を見ても、長編な一曲を一貫して深く鑑賞してもらうというより も、楽器編成と音楽様式を矢継ぎ早に変え、聴衆を退屈させない、軽いエンタテーンメントを提供す ることが主たる目的であったことが分かる。それがゆえ、リギーニ、ナソリーニなどのイタリアの作 曲家、あるいはケルビーニ、パエールなどフランスで活躍したイタリア人作曲家の軽やかで単純なオ ペラ作品の序曲と抜粋がプログラムの大きな比重を占めていると思われる。すでに別稿で述べた通り、 当時のウィーンに続く対話をまじえたフランス系の喜歌劇(opéra comique)が上流社会に流行し、会 19 一方、ソロ演奏では自作自演の曲が多く、演 議に出席した貴族たちなどもそれを好んだに違いない。. 奏者は人気の高い歌劇の主題による変奏曲で聴衆を魅了しようとした。多くの場合聴衆がすでに主題 を知っていたので、曲を理解するためにはそれほどの集中力は必要なかった。また、2つの演奏会に はウィーンに縁の深い作曲家のグルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シュタドラー、 サリエーリの作品も多く取りあげられた。結論としていえるのは、両コンサートはウィーンの音楽文 化を中心に据えているが、イタリアとフランスの音楽も無視されておらず、オーストリア政府が実現 しようとしていたオーストリア帝国を中心とするヨーロッパの新秩序の理想を如実に反映している。 主催国にとって会議にふさわしいプログラムが構成されたと強く感じられる。 アウガルテンにおける音楽会 以上のような演奏会は上流社会のメンバー以外の者は招待されず、一般市民はそれを堪能すること はできなかった。より広い社会階級に開かれたコンサートの最も重要な施設の一つはアウガルテン公 園にあった。この公園はすでに 1775 年以降に皇帝ヨーゼフ2世によって正式に一般民衆に開放され、 ウィーン人に親しまれた散歩地となった。20 ウィーン会議の正式な開会直前の 1814 年 10 月6日にアウ ガルテン公園にて乗馬ショー、競馬、民俗舞踊などの上演があり、同年 12 月 29 日には英国のスミス提 21 1833 年の記録によれば、この 督(Sydney Smith, 1764 年~ 1840 年)主催の舞踏会もここに開かれた。. 公園には音楽演奏会に使用された2つのホールを含む建物が存在し、それぞれのホールは約 285 平米 と約 265 平米の広さを誇った。中国からの絵画や彫刻が飾られられ、ホールの奥にはヨーゼフ2世の 22 両ホールを抱える建物は「王宮アウガルテンサール」(k. 肖像画がかけられた豪華な施設であった。. k. Augartensaal、現在の2区 Obere Augartenstraße 1、図1参照) と称された。会議開催中にどれほどの コンサートがここで行われたのかに関しては史料がほとんど残っていないようであるが、施設自体は ウィーンの器楽演奏文化を支える大きな柱のひとつであったので、その歴史的役割を少し検討してお こう。 - 174 -.

(16) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). 1782 年にヨーゼフ2世から特別な許可を得た興行師の P. J. マルティン(Philipp Jakob Martin, 生没年 不詳)がモーツァルトと組んで夏期の日曜日に開かれる 12 回の連続演奏会を企画した。シリーズの入 場料は比較的安価な 2fl. であった。23 2年後の 1784 年にはウィーンの有名レストラン経営者であった I. ヤーン(Ignaz Jahn, 1744 年~1810 年、詳しくは註 62 参照)がアウガルテンサールを改装し、開演時間 を異例な午前7時から8時としたため、聴衆は音楽を楽しみながら朝のコーヒーを飲み、料理を注文 し、優雅な時間を過ごした。モーツァルトとマルティンの演奏会が実際に何回行われたのかは不明で あるが、後年にはヴァイオリニストと指揮者のルドルフ(Anton? Rudolph, 1770 年~ ?)がそれを監督す ることとなった。遅くとも 1798 年から1799 年、その役は シュッパンツィクが引き継ぎ、演奏会は益々 24 19 世紀初頭には毎週木曜日にプロと素人の演奏者がアウガルテンサールに集まり演奏会を 繁昌した。. 開き、やはりヤーンが料理を用意した。また昼食の時間帯にはレオポルドシュタット劇場のオーケス トラが音楽を奏でることもあった。25 シュッパンツィクがいつまで演奏会の監督者であったのかは定か でないが、1816 年にはロシアに出発し、1824 年までは帰国しなかった。室内のコンサートに加えて、 アウガルテンでは 1847 年まで毎年5月1日に五月祭(Maifest)が開かれウィーン市民が公園に群集し、 晴天の場合は屋外での大演奏会を楽しんだ。. 図1 1834 年~1837 年の「王宮アウガルテンサール」。 C. F. Strahlheim 画。 1802 年に行われたアウガルテンの朝の演奏会のプログラムは、ハイドンの交響曲、アン・デア・ ウィーン劇場のプリーマ・ドンナであった A. カンピ(Antonia Campi, 1773 年~1822 年)がアリアを 一曲演唱、ベートーヴェン作曲の「バレエ」(おそらく『プロメテウスの創造物』Die Geschöpfe des Prometheus, op. 43)の序曲、そしてモーツァルトの交響曲で終了した。26 さすがにシュッパンツィク らしい選曲であり、以上見た王宮の「騎士の間」に提供された構成とは趣向が大きく異なっている。 アウガルテンの昼と夜の演奏会については、マティアス・ペルトも日記で簡単に記録している。1808 - 175 -.

(17) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. 年夏にはアウガルテンの大ホールで舞踏会が催され、小ホールではヴァイオリニストの F. クレメント (Franz Joseph Clement, 1780 年~1842 年)が指揮する演奏会が行こなわれた。屋外にはいくつかの大き なテントが張られ、その中で参加者が踊り、この祭りのようなイベントは夜8時に始まり終了したの は0時を過ぎてからであった。27 ウィーン会議開催中にも以上のようなコンサートはアウガルテンで行われたと考えられるが、プロ グラムなどはほとんど見つかっていない。しかし、会議が終わろうとしていた頃の 1815 年5月1日午 前には、シュッパツィク監督、市の治安当局(k.k. Stadthauptmannschaft)主催の慈善コンサートがアウ ガルテンのホールで開かれたことは確かである。ウィーンの一騎当千の歌手が揃い、王宮御用のカペ ルマイスターであった A. ギロウェッツ(Adalbert Gyrowetz, 1763 年~1850 年)作曲のオペラからの抜粋 などが発表された。さらに 1815 年から1817 年にウィーンの様々な演奏会で活躍した J.N. フンメルの弟 子であった9歳の神童 J. サライ(Joseph v. Szálay, 1800 年 ?~1860 年)も登場し、御師が作曲した「ロ ンド」(おそらくピアノとオーケストラのための Rondo brilliant, op. 56)を弾き、聴衆に深い感銘を与え 28 た。. 諸劇場における音楽会 スケールの大きい公開コンサートを催すには、劇場が至適であった。しかし、それを借用するには 施設の経営者あるいは監督者に個人的な「コネ」がなければ不可能であった。そもそも秋から春にい たるまで劇場はオペラと演劇の上演・リハーサルで埋まり、演奏会のために割くことができる時間は 非常に少なかった。29 高価な入場料が負担できる富裕な貴族などは、夏は避暑地で悠々と過ごしたた め、音楽会を楽しむためだけにはなかなか都市には戻らない。さらに、政府と教会は日にちについて もあらゆる面倒な制限を設けたため、結果としてコンサートは歌劇の上演禁止期間であるクリスマス 前の一週間(Advent、降臨節)と復活祭前の一週間(Charwoche、受難週、1815 年は3月 19 日から26 日 30 あるドイツ人の旅行者が 1797 年から1799 年にその事情を次のよ にあたる)に集中するようになった。. うに描写している。すなわち「当地では謝肉祭の季節に開かれる舞踏会より [それに続く] 四旬節(復 活祭の約 40 日前から始まる断食の季節)に行われる音楽演奏会の方が多いようである。断食の季節は 悲しみの期間と見られており、つまり遊楽休止の季節である。この陰気な季節の期間中において人々 の退屈しのぎとして様々な催しが行われ、市民は好んで多種の演奏会に没頭し、断食中の娯楽で多く の人々は正気を失うほどの満腹感を感じているようである」と皮肉や誇張した表現を交えながら解説 している。31 市内の由緒ある演奏会場の役割を兼ねていたもっとも重要な劇場は、ブルク劇場(Theater an der Burg, Theater nächst der Burg)とケルントナートーア劇場(Theater am Kärntnertor)であった。32 1772 年以降、両劇場では現役を退いた演奏者とその家族(とくに未亡人と孤児)を支援するためのオラト リオあるいは演奏会形式のオペラなどが上演される慈善音楽会が定期的に開かれた。この企画の発案 者は 1771 年に音楽家協会(Tonkünstler-Sozietät)を創立した作曲家の F. L. ガスマン(Florian Leopold Gaßmann, 1729 年~1774 年)であった。33 この寄付興行は通常復活祭の前に2回、クリスマス直前に2 34 当初はこれらの演奏会のために作曲された新曲が頻繁に発表されたが、ウィーン会議 回行なわれた。. の時期には古典的な作品が中心をなし、とくに 1797 年に名誉会員となったハイドンが作曲したオラト リオが定番であった。1814 年 12 月 22 日にもハイドン作曲の『天地創造』(Die Schöpfung, Ho6. XXI:2) がブルク劇場において「いつも通り 200 人の演奏者」によって上演されたが、この年は通常行われた 翌日の音楽会がウィーン会議に絡む王宮での大行事と重なったため、音楽家協会はそれを実現できな かった。会議で慈善活動の邪魔をすることを不本意と考えた皇帝(フランツ1世, 1768 年~1835 年) は、損失の補填として協会に 800fl. に寄付した次第である。35 - 176 -.

(18) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). 1815 年3月 19 日(教会暦では聖ヨーゼフの祭日で、3月 26 日にあった復活祭の前の受難週の初日で あった)にブルク劇場において、ハイドンのオラトリオ『四季』(Die Jahreszeiten, Hob. XXI:3)が聴衆 に喜びを与えた。そして翌日の3月 20 日には同じくハイドン作曲の『十字架上のキリストの最後の7 つの言葉』(Die sieben letzen Worte unseres Erlösers am Kreuze, Hob. XX:2)が満員御礼で演奏され、それ に続いてウィーンにも活躍したヴァイオリニストと作曲家であった R. クロイツァー(Rudophe Kreutzer, 1766 年~1831 年)作曲の『ロンド』も弾奏された。ヴァイオリンの独奏は 1790 年以降ウィーンに住 んでいた名ヴァイオリニスト・指揮者であった F. ペハーチェック(Franz Pechatschek または František Pecháček, 1763 年~1816 年)が担当した。同プログラムにサリエーリが創作した『4つの愛国的な合唱 曲』(Vier patriotische Chöre)も紹介され、その作品は戦争の辛さと平和の恵みを表現するウィーン会 議に集まった国内外の聴き手を意識して工夫されたようである。各曲が歌われる前に、バス歌手のワ インミュラーがその歌詞を朗々と読みあげた。36 モーゼルが 1827 年に執筆・刊行したサリエーリの伝記 によれば、サリエーリは元来5つの愛国的合唱曲を作曲したが、このコンサートには1曲が省かれた。 37 ところが、同じ演奏を聴いた雑誌の評論家は、聴衆が曲 それでも演奏は絶大な反響を呼んだとある。. を評価した主な理由はサリエーリがウィーンの第一のカペルマイスターという最高の地位にあったの に加えて、歌詞が愛国心に溢れているからであると指摘していた。その音楽は実は、「だれにも感動を 与えなかった」ほどのつまらないものであったと判断していた。38 ウィーン会議の開催期間中、ケルントナートーア劇場においては9回のコンサートが催された。10 月中旬以降、会議開会直前の3つの演奏会は、おそらく会議出席者の参集を期待してウィーンの著名 な演奏者が自主企画したものであった。それに続く 11 月 11 日にも北ドイツにあったメクレンブルク= シュトレリッツ(Mecklenburg-Strelitz)公爵領の宮廷オーケストラコンサートマスターを務めた L. トマ 39 しかし新聞によれば、 ジーニ(Luigi Tomasini, 1780年前後~ 1858年)が注目された演奏会を主催した。. 多数の一流ヴァイオリニストが今ウィーンに滞在しているところ、トマジーニは彼らに及ばない。彼 はまずまずの技術の持ち主であるとはいえ、テンポの遅い旋律にはマンネリが目立ち、テンポが早く なると調子外れの演奏となり、自作の曲も興ざめであった。他方、共演者の名テノールのウィルドが 歌った「アデライデ」は、下手なピアノ伴奏にもかかわらず素晴らしい出来栄えであった。コンサー トに出演した他の歌手も上手であり、役者などによる朗読も効果的に行われたと評論家が伝えてい 40 る。. 大掛かりな慈善興行もケルントナートーア劇場で実行され、その大半はやはり歌劇の上演が禁止さ れた祭日に催された。ウィーンでは「聖レオポルドの日」として祭られた 1814 年 11 月 15 日には「朗 読と音楽による夜の娯楽」(deklamatisch-musikalische Abendunterhaltung)が開催され、リスボンとイタ リアで活躍した M. プルトゥガル(Marcos Portugal, 1762 年~1830 年)作曲のアリアが歌われ、次いで 彼の歌劇『ジネブラ・ディ・スコーチア』(Ginevra di Scozia, 1805 年)からの二重唱なども聴衆を楽し 41 いくつかの器楽曲とケルビーニの声楽曲も披露され、有名な演劇からの抜粋も朗読された。 ませた。. もう一つの寄付興行は「灰の水曜日」にあたる 1815 年2月8日に開らかれ、収益はウィーンの捨て子 の支援に宛がわれた。指揮者のギロウェッツ、ピアノの I. モシェレス(Ignaz Moscheles, 1794 年~1870 年)、ヴィアオリンのペハーチェック、歌劇場からの人気歌手たちなどウィーン音楽界の大物たちが勢 ぞろいし、計 12 の器楽曲・声楽曲が演奏された。プログラムは先に見た王宮での演奏に類似しており、 高い入場料を支払うことを惜しまない上流社会の聴衆が訪れたに違いない。また同年「受難週」にあ たる3月 21 日に、企業家、慈善家、王宮附属劇場の副理事長であった P. ブラウン(Peter Gottlieb von (Armenkasse für Theaterarme または Fond für Braun, 1758 年~1819 年)が設立した「劇場貧民の救貧基金」 42 その一 Theaterarme)への出資を目的とする演奏会が営まれ、プログラムも同類のメドレーであった。. 週間後の3月 26 日(復活祭の日)にも更なる慈善興行が行われ、数多くの著名な演奏家が参加した。 - 177 -.

(19) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. 3月 19 日~26 日の受難週には歌劇の上演が禁止されたため、珍しく郊外のレオポルドシュタット劇 場にも 19 日に演奏会が催された。名クラリネット奏者で若い頃にはレオポルドシュタット劇場のオー ケストラにも加わった C. リュッティンガー(Christoph Rüttinger, 1776 年~1830 年)が色とりどりの曲か ら構成されたプログラムを市民に提供した。43 もうひとつ郊外にあったヨーゼフシュタット劇場におい ても 19 世紀を通して様々な音楽演奏会が開かれたが、ウィーン会議開催中には相変わらずジングシュ ピールなどが上演されたものの、コンサート会場となったかどうかは更なる調査が必要である。44 (続く) 註 ウィーン会議の頃のウィーン音楽文化の概略は Wilhelm Freiherrn von Weckbecker, “Die Musik zur Zeit des Wiener. 1 . Congresses” 参照。19 世紀前半のウィーンにおける演奏会文化全般について Alice Hanson, Musical Life in Biedermeier Vienna の研究が最も優れているが、Hanson は主に 1820 年代以降の時代に主眼を置いている。 Karl von Reitzenstein, Reise nach Wien, 253 頁。. 2 . Johann Friedrich Reichardt, Vertraute Briefe geschrieben auf einer Reise nach Wien, 第 1 巻、293-294 頁。. 3 . Morgenblatt für gebildete Stände, 1815 年4月 15 日(90 号)、359-360 頁。. 4 . Zeitung für die elegante Welt, 1815 年4月 20 日(76 号)、607 頁。. 5 6 . 1817 年に声楽のレッスンを提供する音楽院が設立され、その2年後音楽の基礎知識、ヴァイオリンの演奏法など が教えられたコンセルヴァトリウムが設立された。Mittheilungen aus Wien, 1832 年(原本には間違って 1833 年と ある)第2巻、15-27 頁参照。. 7 . Vaterländische Blätter, 1巻6号(1808 年5月 27 日)、41-43 頁。 Allgemeine musikalische Zeitung (Leipzig に刊行され、以下 AmZ と略。別にウィーンに刊行された同名の新聞も存在. 8 . した)、6巻 28 号(1804 年4月 11 日)、470-471 頁。 Feyerlichkeiten bey der Rückkehr Sr. Maj. Des Kaisers von Österreich nach Wien im Jahre 1814, 128-129 頁。. 9 . 彼女の評価については Vaterländische Blätter, 1巻7号(1808 年3月 18 日)、49 頁を参照。. 10 11 . 彼の評価については同上 50 頁を参照。. 12 . 1808 年にはアン・デア・ウィーン劇場に所属していたカンピの評価については同上 49 頁参照。. 13 . この曲はオラトリオの第2部にある伴奏付きのレチタティーヴォが新しく付け加えられ、ウィーンに演奏される 際それに含まれている政治的意味と人気については Nicholas Matthew, Political Beethoven, 104-106 頁を参照。 Kalender zum Gebrauche des Oesterreichisch-Kaiserlichen Hofes für das Jahr 1819, 頁番号欠。. 14 . Feyerlichkeiten, 143-145 頁。. 15 . 1808 年の Vaterländische Blätter(1巻6号、42 頁) によればサリエーリのこの作品はパリのみで上演された模範的. 16 . で古典的な歌劇であった。 ミュルナーの評価については Vaterländische Blätter, 1巻7号(1808 年3月 18 日 )、52 頁参照。. 17 . 第1幕の「カノン四重唱」とも称された “Mir ist so wunderbar” のことである。. 18 19 . ジェラルド・グローマー「1814 年~ 1815 年のウィーン会議と音楽-オペラ、ジングシュピール、バレエ」参照。 Ursula Reisinger, “Geschichte des Augartens,” 26 頁。すでに 1730 年にアウガルテンは夏中少なくとも一部の人々に. 20 . 開放されたようであり、夕方になるとウィーンの上流社会に属する人々がそこで散策などを楽しんだ。Johann Küchelbecker, Allerneueste Nachrichten, 386-387 頁参照。 Feyerlichkeiten, 58-59, 134 頁。. 21 . 寸法については Isis, 1833 年(Heft IV)、313 頁参照。アウガルテンの歴史とそこに行われた音楽会については、. 22 . Jahrbuch der Tonkunst, 74-75, 84, 98 頁 ; Hanslick 前 掲 書、70-75 頁 ; Reuther, “Beethovens Konzerte,” 83-84 頁 ; Rudolf Klein, “Musik im Augarten”; Ursula Reisinger, “Geschichte des Augartens” を参照。 Wolfgang Amadeus Mozart, Briefe und Aufzeichnungen, 第3巻、208-209 頁(1782 年5月8日 ); Nowak, “Musikalische. 23 . Tradition im Augarten,”44-45 頁も参照。 Jahrbuch der Tonkunst, 52, 74, 84 頁によればシュッパンツィクはすでに 1795-1796 年にアウガルテンの演奏会を監. 24 . 督するようになったが、詳細は不明である。Rudolph(または Rudolphe, Rudolff) については不明な点が多く、名前 - 178 -.

(20) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). が Anton であったかどうかも定かでない。Constant von Wurzbach 編、Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich, 第 26 巻、225 頁参照。1815 年の Gottfried Johann Dlabacz 編、 Allgemeines historisches Künstler-Lexikon, 第2巻、603604 頁にはアウガルテンでオーケストラをリードしているヴァイオリニストの Rudolf に関する項目が見られるが、 苗字しかあげていない。1814 年 10 月 16 日に上演されたヘンデルのオラトリオ『サムソン』にも「王宮と裁判所 の弁護士」(Hof- und Gerichtsadvokat) の Rudolph がコンサートマスターを務めており(Hesperus, 1815 年 1 月、2 号、 12 頁 ; Feyerlichkeiten bey der Rückkehr Sr. Maj., 75 頁 )、同人であった可能性もある。 Ernst Moritz Arndt, Reisen durch einen Theil Teutschlands, 第1巻、148-149 頁。. 25 26 . Julius Wilhelm Fischer, Reisen durch Oesterreich, 第1巻、71-78 頁参照。 Perth, Tage-Buch, 1808 年8月 25 日条。. 27 . (1815 年6月 21 日) 、423-424 頁 ; Bertuch, Carl Bertuchs Tagebuch, 181-182 頁 ; Friedensblätter, vol. 1 AmZ, 17 巻 25 号、. 28 . (1815 年), 224 頁。 29 . AmZ, 6巻 28 号、1804 年4月 11 日、470 頁。. 30 . 教会の禁止によって、1814 年 11 月 25 日から 12 月 26 日の間には公開の舞踏会もご法度であったので、その前日 の 11 月 24 日に市内と郊外の諸舞踏会場が満員であり、ヤーンもこの日にアウガルテンで 1200 人が参加した大 舞踏会を企画した(Friedensblätter, 1814 年 12 月3日、67 号、276 頁)。ところが貴族の邸宅は別で、舞踏会が通 常通り開かれた。例えば 12 月6日ラズモフスキー邸で豪華な舞踏会が開催され、会議出席者の多くが参加した. (Friedensblätter, 1814 年 12 月 15 日、72 号、296 頁)。 Carl Küttner, Reise durch Deutschland, 第3巻、407 頁。. 31 . ブルク劇場における音楽演奏全般については Otto Erich Deutsch, “Musik im Burgtheater” 参照。. 32 . 正式名称は「未亡人と孤児を支援するための音楽家協会」(Gesellschaft der Wiener Tonkünstler zum Unterhalte ihrer. 33 . Witwen und Waisen) であった。この組織の歴史については Carl Ferdinand Pohl, Denkschrift aus Anlass des hundertjährigen Bestehens der Tonkünstler-societät と Eduard Hanslick, Geschichte des Konzertwesens in Wien, 6-28 頁を参照。 音楽家協会の演奏会の大半はケルントナートーア劇場で行われたが、ブルク劇場も利用された。 34 . こうした日には教会が本格的な歌劇の上演を禁止したため、演奏会形式のオペラの演奏が人気を呼んだようであ る。 Pohl 前掲書、52 頁。. 35 . Pohl 前掲書、69 頁。. 36 . Ignaz Franz von Mosel, Ueber das Leben und die Werke des Anton Salieri, 179-180 頁。. 37 . Morgenblatt für gebildete Stände, 1815 年4月 15 日(9巻 90 号 )、360 頁。. 38 39 . このトマジーニは作曲家でハイドンがエステルハージで率いたオーケストラのコンサートマスターを務めていたヴァ イオリニストの同名の息子であった(Wiener Theater-Zeitung, 1814 年 12 月3日、7巻 132 号、Ergänzungsblatt, 525 頁)。彼はソプラノ歌手のソフィー(Sophie、旧姓Croll)と結婚し、二人はドイツなどで共に演奏活動を展開した。 1812年の音楽会についてはBerlinische Nachrichten, 1812年2月11日(18号)、同1812年2月18日(21号)を参照。 二人については Großes Sängerlexikon, 第4巻、4733 頁も参照。. Wiener Theater-Zeitung, 1814 年 12 月3日、7巻 132 号、Ergänzungsblatt, 525-526 頁。. 40 . 1815 年2月8日の同劇場の演奏が示すように、当時同じ題目を持つドイツ人の S. マイヤー(Simon Mayr, 1763 年. 41 . ~1845 年 ) が作曲したオペラも人気が高かったため、どちらの曲であったのかは定かでない。 ブラウンについては Mittheilungen aus Wien, 1834 年、第1巻、73-80 頁を参照。救貧基金のための初の慈善興行は. 42 . 1796 年 12 月 25 日に王宮の舞踏会場(Redoutensaal) に上演され、皇帝はそれ以降にも同月同日に同様の音楽会を 許可した(AmZ, 24 巻 19 号、1822 年5月8日、301 頁 )。1808 年以降王宮の役人であった企業家で慈善家の J. ハ ルトル(Joseph Hartl, 1760 年~1822 年) も同基金の運営に大きな役割を果たしたようである。Alexander Wheelock Thayer, The Life of Ludwig van Beethoven, 第2巻、127-128, 148-149 頁参照。 43 . 彼は 1805 年以降ブルク劇場のクラリネット奏者であり(AmZ, 25 巻 34 号, 1823 年4月 26 日、271 頁)、1807 年~ 1830 年には音楽家協会の会員でもあった。息子の Johann はピアニストでありクラリネットも吹いた。Pohl 前掲書 109, 111 頁 ; Martin Harlow, Viennese Chamber Music with Clarinet and Piano, 第1巻、198-199 頁参照。 ヨーゼフシュタット劇場と音楽演奏の歴史については Otto Erich Deutsch, “Musik in der ‘Josefstadt’” 参照。. 44 . - 179 -.

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