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ロダンにおける彫刻の革新 -近代彫刻への移行に関する一考察-

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(1)ロダンにおける彫刻の革新 一近代彫刻への移行に関する一考察一. 学校教育研究科 教科・領域教育学専攻 芸術系コース. MO6258K王明明.

(2) 目 次. 1. 序. 第一章:ロダン以前の彫刻 第一節:新古典主義の流れ一一一一一一一一一一一一一一一一2 第二節:ロマン主義の出現一一一一一一一一一一一一一一一一一一一10. 第二章:ロダンの生涯と彫刻 第一節:早期. 15. 第二節:中期. 22. 第三節:盛期. 26. 第三章=ロダンの評価 第一節:ロダンの彫刻の新しさ一一一一一一一一一一一33 第二節:ロダン以降の彫刻家たち一一一一一一一一一一一40. 結. 44. 注と参考文献:. 45. 図版.

(3) 序. 彫刻家オーギュスト・ロダン(1840−1917、仏)は彫刻 史において、極めて重要な存在である。彼の出現によっ て、彫刻芸術は古くから既存した様式を脱出し、自由な 形態に変化した。また、ロダンによるこの彫刻の革新は 20世紀に入ってから、出現した多種多様な近代彫刻芸術 の原点となり、大きな研究価値を持っている。 本論文は、ロダンが成し遂げたこの革新の本質を究明 するため、ロダンの時代より前の時代に存在した新古典 主義美術とロマン主義美術の彫刻を対象として、ロダン の彫刻作品と比較する。新古典主義美術とロマン主義美 術を比較の対象とした理由の一つは、これらの美術様式. はロダンが生きた19世紀の中期まで併存したことであ り、もう一つは新古典主義美術の影響を直接受けた 19 世紀のフランスのアカデミーが、ロダンの芸術と対立し たことである。. 1.

(4) 第一章:ロダン以前の彫刻 第一節:新古典主義の流れ. 18世紀中期から19世紀の初めにかけて、ヨーロッパ美 術は新古典主義の時代に入った。14世紀のルネサンス初. 期からある、人々の古代芸術に対する尊:敬は長い間に渡 って存続していた。それ故に、古代美術の遺品(主に古 代ギリシャ、ローマ、エトルリア)の発掘は頻繁に行わ. れた。1738年から1748年の間に、紀元前に繁栄し、紀 元1年のウェスウィウス火山の噴火によって埋没された ナポリ湾に面したポンペイやヘルクラネウムなどの古 代都市の遺跡が相次いで発見された。繁栄した時期の現 状がそのまま保存されたような状態で発見されたポン ペイの遺跡は、当時、ヨーロッパ各地で発掘されたどの 古代遺跡よりも、人々に衝撃を与えた。. ポンペイとその近くにあったヘルクラネウムは前8世. 紀頃より、沿岸のギリシャ諸都市の影響を受け、さらに、. 後の前3世紀から前2世紀までの問にヘレニズム文化の 影響も受けた。紀元1世紀、共和政末期の内乱時代にロ ーマの植民地支配を受け、完全にローマ化された。古代 ローマとギリシャの文化が含まれていたポンペイの発 見は、ヨーロッパの人々の古代への強烈な崇拝を一層高 めることとなった。. 地理的に、ポンペイはヨーロッパ大陸の近くにあるた め、遠方にあるギリシャより、もっと古代芸術の愛好家 たちに好まれた。さらに,18世紀の後半から、交通と旅 行の発達と共に、古代ローマ時代の標本であるポンペイ は、より多くの人々に知られるようになった。古代ギリ シャの本格的な遺物は、当時に至るまで少なく、遺跡も 遠方にあるため、人々のそれについての知識は乏しかっ た。1750年代に、二人のスコットランド出身の建築家、 ジェームズ・スチュアートとニコラス・レヴェットが長 い時間をかけ,アテネに滞在して、現地の遺跡について 研究を行った。1762年に、二人はパルテノンやテセイオ ンの実測図も含む『アテネの古代遺物』を刊行し、古代 ギリシャ研究の道を開いた。1この様な古典時期につい ての考査は18世紀後半、飛躍的に発展した。それと共 に新古典主義美術の基盤が形成された。 新古典主義の理論的裏付けを与えたのはドイツの美 術史理論家であるヨーハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン 2.

(5) (1717−1768)であった。彼は1755年に、著作の『ギリ シャ美術模倣論』を刊行し始めた。その後、『ギリシャ 美術模倣論』は彼のもう一つの著作の『古代美術史』と ともに、ヨーロッパの美術界に強い影響を与えつつあっ た。『ギリシャ美術模倣論』の中における、ヴィンケル マンの古代ギリシャ美術に対しての定義である「高貴な 単純と静かな偉大」は、後に新古典主義時代の標語とな った。『ギリシャ美術模倣論』の理論によって、彫刻や 絵画は自然、主に人体を再現する時、自然をそのまま写 すのではなく、自然を理想化し、表現しなければならな い。しかし自然を理想化することはいかにも困難である ため、すでに自然の理想化を達成した古代ギリシャ芸術 を手本として、模倣すべきである。 ヴィンケルマンは『ギリシャ美術模倣論』が刊行され た後、ローマに移住した。1750年代のローマには、ヨー ロッパ各地からやって来た芸術家や、古代芸術の愛好家 たちが集まっていた。彼らは遺跡の溢れる芸術の聖地で あるローマで長い時間をかけて、古典時期の芸術の勉強 や古代遺品についての研究を行った。ヴィンケルマンは すぐこの様なコロニーの、理論的な面での指導者的存在 になった。ヴィンケルマンの影響を受けた人は数多くい た。その影響を受けた芸術家たちは、このローマを発祥. 地とする新古典主義様式を自分たちの祖国へ伝達する. 役割を果たした。. 「新古典主義様式の原動力とは何か」と言う問題につ いては、それぞれの国が異なった答えを見せていた。当 時のフランスにおいては、旧体制と強く結びつきすぎた 美術に対して、人々が倦怠感を抱き始めていた。それ以 外に、ロココ風芸術に対する反感も次第に増えたのであ った。イタリアにおいて、前時代の芸術となったバロッ ク様式への反発は多少あったが、実際、新古典主義様式 への脱皮の原動力となったのはローマに集まった若い 世代の芸術家たちであろう。これ以外にも、ポンペイの 発掘からの刺激もかなりあったと思われる。イギリスと ドイツの場合は、フランスからの影響を受けすぎたこと に関しての反省が、新古典主義へ移行する原動力の中心 となり、さらに、イギリスの場合は、ヨーロッパ本土と 比べて、中世以来、遥かに遅れてきた自国の美術の現状 を、改善し向上させたいと望む姿勢も、新しい芸術へ向 かう動力となった。. 3.

(6) ヴィンケルマンが『ギリシャ美術模倣論』で主張した 理論の論拠になる大部分の芸術作品は彫刻であった。そ の理由は、古代ギリシャと古代ローマの遺品には、彫刻 作品が絶対的分量を占めていたのに対して、絵画は全く なかったと言っていい状況であったことにある。しかし それに限らず、ルネサンス以来、彫刻は長い間、絵画よ り下位にある芸術と見られていた。この様な絵画上位論 の源として辿られるのは、すなわちレオナルド・ダ・ヴ ィンチの『絵画論』であろう。レオナルドによれば、彫 刻とは腕力のいる肉体労働であり、「奴隷の仕事」とさ え指摘した。また、レオナルドは、絵画とは知的労働の 産物であり、彫刻は人体を自然のまま再現することしか 出来ず、絵画は自然のあらゆる様相、つまり空間、明暗、 質感、色彩などの方面から対象を表現することが出来る と主張した。この理論に対して、同じルネサンス時期の ミケランジェロは強く反論した、彼は彫刻が絵画より上. 位であると考えた。その根拠とは、彫刻は実在の立体で あり、あらゆる角度から鑑賞することが可能な芸術であ り、絵画は平面に過ぎないことにあった。ミケランジェ ロのこの理論は絵画の優位を覆すまで至らなかった。そ の理由をあげると、実はヨーロッパ人が古代ギリシャと ローマの彫刻芸術を、もう決して越えられない高度に至 った芸術、または規範と認め、そして同時代の彫刻家た ちはそれと同列に論じないことにあった。 18世紀に入って、絵画が先行し、ある程度の美術市場 が顕著に形成された。注文を受けたものでなくても、芸 術家たちが自由に制作した作品を売ることが可能にな った。この革新的な制作の道は、18世紀前の彫刻家たち には決して当てはまらなかった。その理由は、遥か昔か ら、彫刻の材料として使われた大理石とブロンズは、い ずれも高価であり、注文主がない状況で作品を作ること は、彫刻家たちにとって極めて困難であったからだ。し かしこの状況は美術市場の形成によって,大きな変化を 生じた。. 芸術家たちは特定のパトロン、つまり注文主から離れ て,自分の意識の通りに制作する自由を得た、彼らは個 性と天才を重視し始めた。彫刻家にとって、石膏やテラ コッタという材料は、以前は、習作のときに用いたもの であった。しかし、それらの材料を用いて作品を制作し ても、充分に自分の個性と思想を表現できると考えたた 4.

(7) め、石膏とテラコッタのような手軽な材料もこの時期か ら大量に彫刻の制作に用いられることとなった。さらに 1737年以降、定期的に開催されたサロンやコンクールの 増加も彫刻家に刺激を与え、彫刻家にとって作品を発表 する機会も増えた。一方、彫刻家が注文主から解放され たこの時期でも、決して彫刻の注文は少なくなることは なかった。18世紀初期から、肖像彫刻は流行/って/して おり、それ以外にも、従来、貴族のために制作されてき た記念碑彫刻は、この時期には、軍人や優れた思想家の ために制作されることも多くなった。従って、新古典主 義時期の彫刻芸術は、この様に,作品の量も多く、自由 な自己表現によって彫刻家よる個々の個性の開花と多 様性の溢れた状態であるといえよう。確かにこの多様性 は新古典主義時代の彫刻に一貫していた一つの特徴で ある。しかしこの多様性を持つ新古典主義の彫刻芸術は ヴィンケルマンの影響を受け、内面に向かう真摯さを持 つ性質を共有している。. この時代の彫刻家の中で、代表的な存在は、フランス のジャン=アンドワーヌ・ウードン(1741−1828)とイ タリアのアンドニオ・カノーヴァ(1757−1822)、そして カノーヴァから受けた強い影響を19世紀までに推し進. めたデンマーク出身のベルテル・トルヴァルセン (1770−1844)の三人である。. ジャン=アンドワーヌ・ウードンはミケランジュ・ス ロッツ(1705−1764)の弟子であった。彼は1761年にロ ーマ賞を得て1764年から68年にかけてローマに留学し た。そこで彼は当時学生としての義務であった古代美術 の模写をする傍ら解剖学を学び、エコルシェ、すなわち 筋肉や靭帯などを現した人体内部の模型を造った。これ は従来のエコルシェに比べて格段に精巧なものであっ たため、各美術アカデミーの必須の教材として用いられ るようになり、ウードンは多くのレプリカ(複製品)の 販売によって、長期に渡って安定した収入を得た。この 留学中に得た解剖学による人体の構造の正確さと、当時 流行っていた古代風の簡素さに、ロココ風の生き生きと した生気を加えたウードンの作風の基本が完成された。 ウードンの作風は年を追って変化すると言うよりは、こ の三つの傾向が交互に現れる形になる。ウードンの全作 の中で、肖像彫刻は大きな割合を占めていた。1771年に 発表された《ドニ・ディドロ像》(図1)はウードンの肖 5.

(8) 像彫刻の最高傑作とされる。この作品の短い髪の毛と端 正な頭部の点からいえば、古代肖像彫刻の形式の模倣を していたが、顔が脇の方向に向くことと、生き生きした 表情の描写からは、明らかに作者がロココ風の要素を加 えたことが判明できる。1779年から1781年にかけて制 作された《ヴォルテール座像》(図2)はウードンの最も 良く知られた作品である。1778年のヴォルテールの死後、 ウードンはそのデスマスクも制作した。これらのウード ンのヴォルテール像は、どれも皆モデルの個性的な容貌 を迫真的に表現している、《ヴォルテール座像》は特に 両手を椅子の肘掛に置き、上半身を屈めて微笑みながら 今にも話し出しそうな印象を与える。衣装は古代風のト ーガではあるが、それを痩せた身体にまとった様子はゆ ったりとした部屋着を着ているようである。この作品は ウードンの有名な代表作であるが、ウードンの新古典主 義の形式性からは遠ざかっていた一点の作品でもあっ た。彼の芸術活動は18世紀末まで続いたが、それ以降 は目立った芸術活動は行っていなかった。2 アントニオ・カノーヴァ(1757−1822)はヴェネツィ アに近い小さな町で生まれた。最初の作品は。理想化を. 施さない写実的な技法の《イカロスとダイダロス》 (1779)がある。彼は、1779年ローマに滞在して、ここ. で古代美術や当時ローマに溢れていた古典志向の雰囲 気に強烈な印象を受け、改めて1781年にローマで活動 を始める。最初の依頼は故郷ヴェネツィアの教皇庁駐在 大使からの《テセウスとミノタウロス》(1783)で少し の動きもない理想化された人物像が評判を呼び、カノー ヴァは新しい傾向の旗手となった。ほどなく教皇14世 と 13世の墓碑彫刻と言う大規模な依頼を相次いで受け. た彼は、精力的に働いて1787年に14世、92年に13世 の墓碑を完成させる。この間1790年に画家ティツィア. ーノの記念碑を構想するが、実現に至らず、その案をも とに1798年から1805年にかけてオーストリアの《マリ ア・クリスティー大公妃の墓碑》(1804−08)(図3)を制. 作する。これらの三点の墓碑に共通するのは、比較的浅 い空間に端正な古典古代風の彫像を整然と配しながら、 人物の表情や身振りにロマンティックと呼び得る様な 甘美な哀愁が感じられる点である。その甘美さは1793 年の『クピトとプシュケ』(図4)においていっそう目立 った特徴となる。この他に、カノーヴァは、ナポレオン 6.

(9) に関わる作品も制作しており、その作品には、《ナポレ オン裸体の立像》(1806)(図5)や《パオリーナ・ボル ゲー二二》(1804−08)や《皇帝の母の座像》(1808)な どがある。これらはいずれも肖像彫刻でありながら古典 主義の理想化を施した作品である。1812年完成の《ウェ ヌス・イタリカ》(図6)は,17世紀以来ヘレニズム彫 刻の最高峰とされてきた《メディチのウェヌス》を原形 としたもので、カノーヴァの自信のほどを物語ると同時 に、同時代のイタリアの誇りともなった作品である。こ の後もカノーヴァは《ラオコーン》の現代版とも称せら れた《ヘラクレスとリカス》(1815)や、イギリス政府 の注文の《スチュアート家記念碑》(1819)や南カロラ イナ州からの注文である、《ローマ時代の将軍の服装を したワシントン像》などを次々に完成させるが、長年の 重労働が重なり、故郷のヴェネツィアで没した。彼の残 した多数の彫刻は、古典古代やルネサンスの美術と並ぶ. 現代の古典として19世紀のヨーロッパ美術界に大きな. 影響を与えた。3. カノーヴァの新古典主義をさらに推し進めて19世紀 に伝えたのはデンマークのベルテル・トルヴァルセン. (1770−1844)であった。カノーヴァは、大理石による 作品で、柔らかな肌や、布地の質感に対する優れた質感 の表現、また、人物に古典的な形態と同時に、柔らかな 哀愁の漂う表情を与えていたのに対し、トルヴァルセン は、より厳格に、古典的な形態を目指していて、彼にと っては、整然たる形態が最重要課題であった。これを一 言でいうならば、彼の方はカノーヴァよりも、一層「プ リミティブ」であったということになろう。コペンハー ゲンに生まれた彼は、1797年にローマに到着した日を自 分の誕生日と呼ぶほど古典美術に心酔した。最初の本格. 的作品はイギリスの収集家に依頼された《イアソン》 (1803−28)(図7)で、従来の新古典主義彫刻が基本的. にヘレニズム彫刻を手本にしていたのに対し、紀元前5 世紀の古代ギリシャ彫刻を思わせる厳格な形態感覚を 示しており、ほとんど抽象的な印象さえ与える。それに. 対し1813年から16年にかけての《ウェヌス》. (1813−1816)には、若い生身の女性の肉体の温かみが 感じられる。この頃には、カノーヴァに次ぐ名声を獲得 していたトルヴァルセンは、1812年にバイエルンの皇太. 子が購入したアイギナのアファイア神殿の古代彫刻の 7.

(10) 修復と復元の仕事を委ねられ、1817年には再びギリシャ のアルカイック後期風の厳格な様式に戻って《希望》を 制作した。だが同じ年に原型の作られた《ガニュメデス とユピテルの鷲》をはじめ、彼の作品の全体としての基 調は、ギリシャ風の端正な形態に、ロマンティックな哀 愁を加味したものと言えるであろう。この後の代表作と しては,《三美神》(1819)や《ショードワール男爵夫人 墓碑》(1818)や《バイロン卿》(1831)や《ピウス7世 墓碑》(1824−25)などがある。 トルヴァルセンは故郷で. 最晩年を過ごしていた。デンマーク史上最大のこの芸術 家のために、生前から計画された彼個人のための美術館 は彼の没後に完成した。中庭に彫刻家の墓所を擁iしたこ の新古典主義建築は、展示された作品群と完壁な調和を 示している。. トルヴァルセンは新古典主義美術時代の後期に活動 した彫刻家として、新古典主義彫刻芸術の影響を19世 紀に推し進めたと同時に、新古典主義と並存しながらも 新古典主義に対して反抗的体勢を示していた新たな芸 術潮流であるロマン主義美術の興起も確かめた。4. 8.

(11) ㈱ ウ 摂. k 塗. 奪. 承ンベイの発掘留38−4$). ㈱. ヴィンケルマンよサ. ギギリシャ模倣論孫蹄く騰. ク. ジェームズと期ラスよ蓼 ジアテネの欝代選物剃行く描の. み ノし. 蓄. ヴ. 愚. ル. k 零 薯. ㈱. 新古典主義年代図5 9.

(12) 第二節:ロマン主義の出現. 広義的と狭義的な定義によって、ロマン主義の出現と 展開に関する解釈は複数ある。しかし、この思潮が 18 世紀末から 19世紀初頭にかけて、ヨーロッパ社会に大 きな影響をもたらし、政治と文化を激しく変貌させたこ とは否定できない。啓蒙思想あるいは合理主義の影響を 受け、産業革命とフランス革命が18世紀後期に相次い で起こった。この二つの革命の後に生み出されたのは、 すなわちロマン主義であろう。つまり、ロマン主義は産 業革命とフランス革命とともに、啓蒙思想、あるいは合 理主義という親が生んだ兄弟である。 「ロマン主義」と言う言葉はもともと、英語の中の「ロ マンティック」から生まれた。現在ではフランス語でも 「ロマンティック」、ドイツ語では「ロマンティッシュ」 と言うが、いずれも英語から入ってきたものである。そ. の「ロマンティック」のもとの意味とは「ロマンスにで もあるような」と言うことである。「ロマンス」とはつ まり「物語」のことに他にならない。6現在、知られて いる限り、英語の「ロマンティック」が登場する最も早 い例は、1650年までさかのぼると言う。やや遅れて、フ ランス語の「ロマネスク」(初出は1661年)、ドイツ語 の「ロマンシュ」「ロマニッシュ」(ともに初出は1663 年)が生まれた。すなわち、17世紀中葉のことである。 ただこの当時の「ロマンティック」(あるいは「ロマネ スク」「ロマンシュ」)は「物語のような」と言う意味の 中に、「架空の」「誇張された」、さらに「馬鹿馬鹿しい」. といったような否定的なニュアンスも強く込められて いたという。718世紀後半になってから、啓蒙主義によ るヨーロッパ社会の価値観の変化が行った。そのため、. 「ロマンティック」という言葉の意味も大きく変化した。 「物語のような」という基本的ニュアンスは変わってな かったが、その背後に込められた意味はもともとの「馬 鹿馬鹿しい」のような悪い意味ではなく、「物珍しい」「心 を捉えるような」そしてさらには「魅力的な」「優れた」 という肯定的で、積極的な意味に変わったのである。 この「ロマン」という命名から、ロマン主義のおおよ その特徴がわかってくる。つまり現実から離れたことで ある。ロマン主義美術が示す三つの趣味があった。それ は中世に対する趣味と、物語に対する趣味(文学趣味) 10.

(13) そして異国趣味といったものである。この三つの趣味は いずれも18世紀末から19世紀にかけて、西ヨーロッパ 諸国で大流行したものであった。一見関係のないような この三つの趣味は、実に密接な関係を持っていた。それ は、いずれもロマン主義の、現実から逸脱するという特 徴を反映していた。従って、3つの趣味についてそれぞ れ述べると、中世への趣味とは、当時代より時間的に遥 か昔への憧憬であり、物語趣味とは、現実より想像の世 界への憧憬であり、異国趣味は空間的に遠方への憧憬で あると解釈することができるだろう。 この三つの趣味以外に、ロマン主義芸術が示す特徴は 幾つかある。たとえばフランス革命とナポレオン革命の 影響によって出現した愛国主義を表現すること、さらに ロマン主義時代の彫刻芸術において、以上の特徴を有す る以外に、動物彫刻というジャンルの確立も一つの例と して挙げられる。. 新古典主義と同じく、ロマン主義も19世紀という彫 刻があふれた時代に恵まれた。しかし、例え、このよう な時代であっても、人々の彫刻に対する見方は変わらな かった。彫刻はすでに古典時期に頂点まで至って、のち の時代において、決してそれを超越することができない という古くからの観念が、人々の意識の中に強く存在し. ていた。. 同時代の新古典主義彫刻と比較し、その結果からロマ ン主義の特徴がより明確に捉えることが出来るだろう。 厳密に言えば、ロマン主義彫刻とは、1831年パリのサロ ンで論議を呼び、その後、1833年のサロンではロマン主 義彫刻があふれ、その翌年からロマン主義彫刻家たちの 追放が始められるという、1830年代に限定された現象で あり、その代表的な彫刻家も、リュード、パリー、プレ オーで、さらに広げても、カルポーといったフランス彫 刻家たちに限られるといった見取り図である。しかも、 同時代には、トルヴァルセン(1770−1844)、ダンネッ カー(1758−1841)、シャドウ(1764−1850)、バルトリ ー二(1777−1850)といった新古典主義の彫刻家も健在 であるという事実があった。8 新古典主義彫刻はヴィンケルマンの『ギリシャ美術模 倣論』を理論的支えとして、古典時期の遺品を手本とし て制作し、静かな平面的構成を持つ理想化された作品に 対して、ロマン主義彫刻は当時代の要請を担っていた。 11.

(14) つまりフランス革命時期に新たな社会勢力として台頭. したブルジョワ階級の思想を基づくものである。従って、 ロマン主義彫刻は19世紀初期に流行した、その「中世、 物語、異国」に対しての趣味を示し、運動性を持つ激情 のある構成を採用した。なお、19世紀中期にかけて、フ. ランスアカデミーは新古典主義の影響を全般的に受け 入れるようになり、サロンで、このようなアカデミーと 対立し戦うのも、ロマン主義彫刻の一つの特徴となる。 ロマン主義彫刻の代表者として挙げられるのはりュ ード、パリーであり、そしてロマン主義彫刻家を拡大し. た範囲で捉えるとカルポーが挙げられる。 フランソア・リュード(1784−1855)はディジョン市 出身の彫刻家である。忠実なナポレオンの崇拝者であっ た彼は、ナポレオンの失脚後に王政復興主義者として、. ベルギーに亡命した。彼が、パリに戻ったのは1830年 であった。彼の最初の成功は《ナポリの漁夫》(1833)(図. 8)で南り、ここで表現された新鮮な若い漁夫の生命感 は、新古典主義との対立を示していた。一方、実際に行 ったことのないイタリアナポリ地方の題材を表現する ことも、ロマン主義彫刻の異国趣味を表す一つの例であ る。彼の代表作には、パリ凱旋門の浮彫《1792年の義勇. 軍の出発》(1832−1836)(図9)、ボンにある《モンジュ 像》(1849)パリにある《ネイ将軍》(1853)がある。中. でも、凱旋門の群像は新古典主義の理想主義を反して、 彼が勝利を収めた作品である。9 パリ出身のアンドワーヌ=ルイ・パリー(1795−1875) は動物彫刻というジャンルを確立させた第一人者であ る。彼は彫刻を始めたのが遅くにもかかわらず、優れた 観察力で動物の動きや筋肉の構造を緻密に捉えた。代表 作として挙げられるのは彼が三十七歳のころに制作し た《蛇と戦うライオン》と《鰐をむさぼる虎》(図10) (両点とも1832)である。パリーは若い時期に動植物館 で務めた経験があり、それは彼がのちに動物彫刻を制作 するにあたって、いい基礎となった。動物彫刻以外に、 パリーは人が動物と戦う題材の作品も数多く制作した。 このような作品はいずれも運動性のあふれた激しい場 面を表現し、新古典主義の静かな高貴さと対立したロマ ン主義独特の特徴を表したのである。10. リュードとパリーよりあとの世代であるパティス. ト・カルポー(1827−1875)はフランス彫刻史において 12.

(15) 独特な存在になる彫刻家である。ヴァランシェンヌ出身 の彼は十五歳のころにパリにある「プティ・エコール」 に入学し(のちにロダンもこの学校に通った)、ロダン と同じ時代に活動した彫刻家のカリエ・ベルースとのち の建築家のシャルル・カルニエと知り合う。さらに1844 年に彼はグランド・エコールに進学することができた。 そこで、彼は厳格的フランスアカデミーの教育を受け、 1846年からリュードの下での修業も行った。1852年か ら、三年間連続サロンに出品し、入選された。1854年の サロンに出品した《神にわが子の守護を祈るヘクトル》 によってローマ賞を獲得し、ローマへの留学を果たした。 ローマに滞在した間に、彼はミケランジェロの影響を受 け、代表作の《ウゴリーノ》(図11)を制作した。この 作品によって、カルポーは名声を得て、帰国後もナポレ オン三世に招かれて、テユイルリ宮のオレンジ園のひと 隅にアトリエを持ち、貴族たちの肖像彫刻を制作した。 その後、彼は代表作であるテユイルリ宮のパピヨンの浮 彫《フローラ(花神)》(1865)とパリオペラ座の正面の 浮彫《ダンス》を制作した。カルポーの最後の代表作に なる噴水彫刻の《地球を支える世界の四つの部分》は 1872年に制作された。その後、彼は神経痛のため手術を 受けたが、病状はさらに悪化し、1875年にパリの近郊で 世を去った。カルポーはアカデミー教育を受け、さらに ローマ賞の獲得まで至ったが、作品からアカデミーの新 古典主義風を一切に感じなく、むしろ貴族の偏愛を受け、 生き生きしたロココ風の装飾性を捨てされなかった。こ の角度から、カルポーは拡大されたロマン主義の彫刻家 と言えるだろう。l1. 13.

(16) 毒7椥. 髪. 雲 蓼ノ. 愛 選. バ. Y. 墓. 《. 響. ㈱. 懲. 畢 日マン露翻彫糞嫁 たちがサ綴ンで活. 讐. 蜘した時期(30醸代). 多. 鋤. 茎. §. ロマン主義年代図12 14.

(17) 第二章=ロダンの生涯と彫刻 第一節:早期 1840年11.月12日、フランソワ・オーギュスト・ルオ・ ロダンは、パリのアルバレート3番街で生まれた。彼が 生まれたこの街には多くの貧しい家族が住んでいたが、 フランスの普通の貧民街とは違っていた。この一帯はパ リで最も古く、そして生気がある地域の一つだった。中 世以来、この地区は職人と労働者の街であり、パリ大学 のソルボンヌ学寮もここに設置された。この地区には、 数多くの中世ゴシック風の建築と、ルネサンス時代の建 築、そして当時、18世紀中期のフランスの記念碑的な建 築物がある。歴史文化の雰囲気が強く感じられるこの生 活環境はロダンに無数の思想をもたらしたのである。 ロダンの両親はパリに出てきたばかりだった地方出身 者で、彼らは労働階級よりは上だったが、ブルジョア階 級ではない地位であった。綿商人の息子だった父のジャ ン=パティストは出世しようとノルマンディーの小さな 町から出てきて、パリ監獄の下級官吏、続いてパリ警視 庁の書記になった。母のマリー・シェフエール・ロダン は一人制忠実なカトリック教の信徒であった。 幼いころ、オーギュストが受けた最初の教育は、カト リック教の学校においてであった。三年間の初期教育で、 彼は難しいフランス語の文法などの知識をほとんど覚え ず、いつもデッサンばかりやっていた。10歳のとき、オ ーギュストは父の兄弟がボーヴェ町で経営している小さ な中級学校に送られ、三年間の中級教育を受けることと なった。この三年間においても、彼の意識は変わらず、 勉強ではなく、デッサンにしか興味を持っていなかった。 彼が勉強を嫌いな理由は、彼自身も自覚のない原因がひ とつある。それは、オーギュストがひどい近視の持ち主 であったからである。 三年間の中級教育が終了して以降、ロダンは二度と正 式な教育を受けなかった。当時のロダン家の貧しさから 言えば、オーギュストが高等教育を受けるのは不可能な ことであった。将来のため、彼は図案を描く職人という 夢を抱いていたが、父に反対された。しかし姉マリアの 口添えによって、結局認められることとなった。ロダン が入学した応用美術及び装飾のための官立職業学校、プ ティ・エコールは、主に商業的な画工および彫刻の下彫 15.

(18) り(言付け)工の養成所であった。彫刻の下彫り工とは、. 石の裁断と仕上げをする職人である。この学校で、14歳 から17歳まで、ロダンは「自分の生涯で唯一の」とも言 える教育を受けた。. プティ・エコールでは、学生たちは18世紀の装飾芸術 家たちの作品を模写することを通して、職人としての腕 をみがいた。その中にはフランソワ・ブーシェ(1703− 1770)のような有名な作家の作品も幾つかあった。そこ での教育は一見アカデミックではあるが、教授陣に、当 時の独創的で進歩的な美術教育者であるオラース・ルコ ック・ド・ボワボードランが加盟していたおかげで、生 徒たちは単なる模写より、それ以上の可能性を持った。 ボワボードランの教育法は、対象を根本的に研究するこ とで、機械的な模写を避けようとした。その例とは、ま ず、生徒たちに石膏像や古い版画をよく観察させ、次に その記憶だけに頼って制作させる方法や,また、対象を 見せて、一日おいてから制作させる方法などが行われた。 そして、ボワボードランの授業には、生徒たちに、戸外 の自然から感受したイメージをアトリエの中で制作させ る機会も与えた。ボワボードランの教育方法はロダンの 芸術思想の成長に欠くことの出来ない影響を与えた。す なわち自然と記憶に基づいて制作すること、そして伝統 をしっかり味わいつつも、それを模倣するのではなく、 自らの創作の欲望を満足するため、自発的に芸術制作を 行うようになった。. 一方、プティ・エコールで美術の勉強を進めたオーギ ュスト・ロダンは、ボワボードランの教育によって、職 人になる以上の野心も芽生えた。しかし、当時の状況で は、それは完全に不可能なことであった。家族の経済状 況を考えれば、自立して食べていかなければならなかっ た。ロダンはその自覚を持っていたが、彼自身は諦めよ うとはしなかった。. 三年間のプティ・エコールでの勉強はロダンにとって、 生涯初めてのまともな美術教育であり、重要な意義を持 っている。それから何年かの間は、ロダンの芸術制作意 欲が満ち溢れていた時期であり、自由で、装飾性の強い 基調もその時期に授けられたと考えられる。1857年に、 ロダンは優秀な成績を持って、プティ・エコールを卒業 した。粘土彫像で一等賞をとり、素描で二等賞を取った。 ロダンは再び自分の芸術家としての野心を燃やした。彼 16.

(19) は当時の芸術家の養成校となるグランド・エコール(エ コール・デ・ボザール)への進学を希望した。最初に父 のジャンは強く反対していたが、当時の代表的な彫刻家 であるイポリット・メンドロンの推薦があると聞き、承 諾した。また、家族の中で、ロダンの唯一の理解者であ る姉のマリアはロダンの学資を準備するためにも、外で 働くことにした。しかし、ロダン本人の自覚があるなし にせよ、このグランド・エコールの受験は彼にとって大 きな打撃であり,ロダンの行方を決定づけるものであっ た。. 1857年の受験の失敗を初めとして、1858年と1859年/. の三年間にわたりグランド・エコールはロダンを拒んだ。 この受験の失敗はロダンが才能のない受験生だと意味し たのではなく、グランド・エコールの生徒に対しての好 みを示したものである。新古典主義の荘重さを好んだ当 時のグランド・エコールの試験官がロダンのプティ・エ コールで身に付けた軽快で、18世紀風の芸術手法を強く 軽蔑していたため、ロダンは連続三年間も落第したので ある。1859年以降、ロダンは受験することを諦めて、自 活しなければならなかった。 グランド・エコールを受ける以前、ロダンはマンドル ピースに飾る小さな小像を作って、銀細工家や装飾家の 所へ売りに行ったこともあったが、1959年以降、正式に 装飾の仕事を受けるようになった。彼は安い給与をもら って、装飾家たちに古代遺品の模写を作ったり、宝石職 人のために耳飾りやベルトの装飾部分を作ったりした。 プティ・エコールで勉強した18世紀風の軽快な装飾の能 力はこのころに活かされたが、知らないうちに、ロダン は中産階級と市民階級に好まれる艶かしい芸術にも手を 染めた。ロダンの生まれつきの芸術に対しての執着心と 逞しさはまもなく彼を一人前のまじめな装飾職人に成長 させたのである。作品の完成度は装飾品の要求によって、 次第に高まっていた。その時期、彼は自分の職人として の腕を十分に磨いたが、そのまま装飾職人であるだけに 終るつもりはなかった。もっと広い空間で芸術を探求し たいという意欲は、装飾職人としての腕前を鍛えること と同じく高まっていた。しかし、それは結局不可能なこ とであった。. この様な自立生活は二年間ほど続いたが、ロダンが22 歳の時に途切れる事となった。ロダンの芸術制作と学校 17.

(20) 生活を長い間支えてくれた唯一の人物であった、姉のマ リア・ロダンは1862年に人生の終焉を迎えた。最初に、 マリアはロダンの学校の友人と恋に落ちて、別の女の出 現により、その男に捨てられた。その後、厳格に育てら れ、厳しい性格を持っていたマリアは、女子修道院に入 り、その後、腹膜炎で死んでしまった。 自分の姉に不実 な男を紹介したことがすべての原因だと思い込んだロダ ンは、深い自責の念にかられた。深く愛した人を失って、 彼は芸術を捨てると決意をし、装飾の仕事をやめて、「ペ ール・デュ・トレ=サン=サタルマン」修道院に入った。. しかし、一時の衝動で決めたこの決断は、全くロダン が進みたい方向ではなかった。当時の「ペール・デュ・ トレ=サン=サタルマン」修道院の院長であるエイマル 神父は最初からロダンのこの様な心境を理解していた。 眼識があるこの神父はロダンを励まし、彫刻を続けるよ うに促した。感謝する気持ちを伝えるため、エイマル神 父の肖像彫刻を作った。それはすなわち現在の資料に記 録されているロダンの最初の代表作と見られる《エイマ ル神父像》である。. 《エイマル神父》像はロダンのすべての作品の中で、 完成度の高い一点である、服装や髪の毛までも忠実に再 現したこの作品は、ロダンの装飾職人としての腕前を表 していたが、顔面の部分からも当時のアカデミーが主張 している新古典主義風の理想様式と相対的であったロダ ンの独特さが見える。光に横から射された場合、作品の 顔の部分には、激しい凹凸が溢れている。この平な繊細 な描写はロダンが対象を徹底的に観察することを示して いる。このことだけを捉えると、《エイマル神父》はロダ ンのアカデミーとの対立する運命を示しているだろう。 ロダンの生涯の早期での芸術との接触の仕方や、受けた 教育などが、彼のこの様なアカデミーとの対立を決めた のである。装飾の仕事を務めたのはひとつの例といえよ う。もうひとつ、より大きな原因は、すなわちプティ・ エコールでの美術教育、そしてこの学習によってのグラ ンド・エコールへの進学の失敗である。プティ・エコー ルで芽生えたロダンの独特な才能は、アカデミーに操縦 されたグランド・エコールに抹殺されるに間違いないだ ろう。. 1863年に、ロダンは再び仕事場に戻った。彼はこの時 にこそすべてを整えて、まじめに彫刻と向き合うように 18.

(21) なった。いくらかの余裕が出来たロダンは,この年に初 めて、自分のアトリエを借りた。年額120フランで借り たアトリエはカルチェ・ラタンのはずれのループラン通 りにある馬屋だった。暖房のないこの場所で、寒さと暑 さから、制作途中の作品を守るため、たくさんの無駄な 時間をつぶしたとロダン本人は回想している。石膏で型 をとるお金がなく、いつも湿布でまだ粘土状態の作品を 包んでいた。それでも作品があまりの寒さに耐えられな く、崩れてしまう事故が絶えなかった。ロダンはその時 について、こう述べていた「私がどれほどのものを失っ たかは、とても信じられない。」13このことから推測する と、彼はこの時期に、商売上の品物だけではなく、自分 のための作品にも取り組んでいたと思われている。 アトリエで仕事をしない時、ロダンはロマン主義彫刻 家の一人の代表人物であるパリー(アンドワーヌ=ル イ・パリー1769−1875)が指導する自然史博物館の教室に も通った。この教室に通うことをきっかけとして、ロダ ンの芸術界においての交際もさらに広がるようになった。 彼は応用美術の向上に関心を持った著名人の集まりであ る装飾美術中央組合に加盟するように招請を受けたこと である。この団体の集会で、ロダンはアングル、 ドラク ロワ、大アレクサンドル・デュマ、テオフィル・ゴーデ ィエ、彫刻家のカルポーなどの芸術家と出会った。一年 間を過ごして、1864年に入って、ロダンは当時のフラン スにおいて芸術品の大量生産を務めている装飾彫刻家の アルベール=エルネスト・カリエ=ベルースと出会った。 ロダンはこのフランス芸術界の売れっ子である人物のも とで、意匠師として15年間働いた。そして、1864年に ロダンの初期の芸術において最も重要な作品である《鼻 のつぶれた男》(図12)が制作された。 《鼻のつぶれた男》はロダンの人生の初期において、 まじめに彫刻芸術と向き合う、ひとつの起点であると言 えよう。起点といえる大きな理由は、この作品の完成は、. ロダンが初めて自分の芸術の独特さ、または自分の個性 を凝縮した様式を世の中に見せた点にある。作品のモデ ルを務めたビビと言う老人について、ロダンはこう言っ た「彼の頭は美しかった。どんなに獣のようになってい ようとも、かたちと言う点では、かれは美しい種族の人 間だった。」14新古典主義の影響を受けついだ当時の時代 においては、かたちという点で対象を繊細に観察するロ 19.

(22) ダンは、当然、前衛な人物であった。 《鼻のつぶれた男》のモデルになる老人ビビのそのし わだらけの顔をロダンは気にいった。忠実な再現を目指 したため、完成作品の表面は激しい凸凹ばかりになって いる。溶岩の波のような模様は作品に生き生きとした生 命感を吹き込んだ。さらにロダンは台座と肩を取り除い た、これは明らかにその時までの伝統を破ったのである。 《鼻のつぶれた男》にあたっては、ロダンに影響を与え た理由が幾つかあった。そのひとつは、パリの個人コレ. クションの中に、ミケランジェロの弟子であるダニエ ル・ダ・ヴォルテルラが作った師ミケランジェロの胸像 と思われる。ダニエルが作った胸像がミケランジェロの 晩年の時期である。苦労にさいなまれたミケランジェロ はある意味、内面的にロダンのモデルの老人ビビと共通. している。ロダンはこの像をサロンに出すことを決めて、 石膏で型を取った。しかしアトリエの寒さに耐え切れず、. 石膏の後半部が破損した。そんな状況にあっても 1864 年のサロンに、ロダンは残った前半部分を持って姿を現 した。この仮面のような作品を目にした審査員たちは即 座にこの作品をしりぞけた。彼らにとって、これはロダ ンの悪ふざけに見えたのであろうが、ロダン自身にとっ ては、サロンにビビの像を出品したのはパリ美術界に対 しての初めての挑戦であった。. ロダンが彫刻家兼装飾家のカリエ=ベルーズと出会っ たのも1864年であった。そのアトリエに入って、二人の 間には共通点が多く、ロダンはすぐ職場に馴染んだ。ロ ダンと同じように、カリエも当時フランスアカデミーの 新古典主義の無感覚さより、18世紀風の軽快な装飾を好 んだ。そして多才な彼は彫刻だけではなく、時計やシャ ンデリアのデザインなど、様々な仕事を請け負った。カ リエの第一助手として、ロダンは数多くの楽しい仕事を 手がけた。. この様な経済的安定を得た生活が終わりを迎えたのは、 1870年であった。1870年の七月に、普仏戦争が起こった。 ロダンはフランスの国防軍に招集されたが、ひどい近視 のため、すぐ除隊された。しかしその後、彼は家族を養 う職も失った。それはカリエが戦争の勃発と共にパリを 離れ、富める中立国のベルギーへ逃げたためである。彼 はブリュッセルにある証券取引所の装飾彫刻の仕事のた め、ブリュッセルに滞在した。その証券取引所の仕事は 20.

(23) 大規模であったので、カリエはパリでの失業中の助手を 改めて雇うようにした。ロダンはその中の一人であった。 それからの六年間に、ロダンは国外で過ごした。この時 期はロダンにとって激しい転機のあった時期であり、フ ランスにとっても大きな変化のあった時期であった。. 21.

(24) 第二節:中期. ブリュッセルで様々な仕事をしたあと、ロダンは1875 年の冬に、ようやく念願のイタリア旅行のための資金が 出来たため、ブリュッセルから旅立った。ロダンの生涯 において、このミケランジェロの作品と出会ったイタリ アへの旅は、彼のその後の芸術を決定する出来事であり、 重要な意義がある。この年の冬、イタリアへ向かう前に、. ロダンの新たな時期の始まりを代表する作品の制作も行 われた、それはすなわち《青銅時代》(図13)である。6 月中に、ロダンはブリュッセル当地の兵士をモデルとし て雇い、《青銅時代》の制作に着手した。. ロダンがその際に書いた手紙の内容によると、彼は南 へ向かってアルプス山脈を越え、ジェノヴァを通過し、 フェレンツェに至った。ロダンはフェレンツェに着いた 瞬間からミケランジェロを研究し始めた。彼はミケラン ジェロの技法を理解するために、昼は作品の前で観察し、 夜になるどその記憶によってたくさんのスケッチを描い た。そんな彼が、メディチ家の墓碑の前に立ったとき、 かってないほどの強い感銘を受けた。「彼の作品は私がす っかり身に付けていると信じていた真理のすべてと、つ ねに矛盾していた。…かといって、ミケランジェロが間 違うはずがない!」15と言うロダン本人の発言のように、 ミケランジェロは作品のすべてを自分の経験と判断に託 したのである。激しく胴体を曲げたりしている彼の彫刻 は、現実と相違している点が数多くあり、しかしそれら はすべて自然に存在していた。こうして現実の模倣から 逸脱したミケランジェロの作品は、より激しい感情が入 るようになる。この点はすなわちロダンを過去の世界か ら解き放した。. フェレンツェを出て、ロダンはナポリとヴェネツィア をまわり、三ヵ月後、ベルギーへ戻った。そして彼はす かさず《青銅時代》の制作に取り組んだ。装飾の仕事の 合間に、彼はモデルを務めたオーギュスト・ネイを観察 し、無数の粘土模型やスケッチを制作した。彼は人体の 動きを最大限に理解し、そしてイタリアで得たものを自 分の作品に活かしたいと考えていた。イタリアへ旅立っ 前の1875年の6月に、この作品の制作に着手してから、 約一年が経った1876年に、完成した。完成した際、ロダ ンはこの作品に「敗者」と言う題名を付けた。その寓意 22.

(25) とは1871年の二仏戦争でのフランスの敗北を記念する ということである。この作品に対して、当時のある伝記 作者は「敗れる英雄を賛美したもの」16と書いたが、の. ちにロダンは「自然からあらわれ出た男」と考えて、「青 銅時代」という題名を最終的に付けた。題目の通り、人 類が原始の時代に歩き出し、やがて、文明に恵まれる姿 を現した。. 1877年に《青銅時代》が始めてブリュッセルで展示さ れた。しかしこの作品が世に出されたと同時に、嵐のよ うなスキャンダルも巻き起こった。それらのスキャンダ ルの中に、《青銅時代》の表現に対して起こったものもあ れば、制作方法に対するものもあった。限定された様式 で対象を表現した彫刻に慣れていた当時の人々にとって、 《青銅時代》は、下品な角度から対象を解釈した異例の ものであった。明らかにこの新たな表現は、当時の人た ちには、まだ受け止められなかったのである。最初に、 「なぜこの男は自分の頭を掴んでいるのだろう、何で両 足がまっすぐに立たないのだろう。」と言う作品のポーズ に対して疑問を抱いた人がいた。その後、《青銅時代》の 表面はあまりにも本物に記すぎていたため、生きている 人間から直接型を取ったのではないかと疑う人もいた。 この様な攻撃に、ロダンは何よりも傷ついた。ブリュッ セルの次に、《青銅時代》はパリのサロンに出品され、審 査員はこの作品をすれすれで入選させたが、偽造のうわ さが広まるにつれ、それを展示場所から取り払えと言う 意見もあった。怒ったロダンは抗議文を新聞社に送り、 これらの疑いを晴らすために、《青銅時代》のモデルをつ とめたネイの写真を取らせて、美術局に公式の調査と弁 明を要求した。多くの芸術家が彼を擁i護するために集ま り、まもなく事実は立証された。. 1877年の秋に、ロダンは、6年も離れていた故郷のパ リに戻った。6年間、ブリュッセルで経験を積み重ねた ロダンは、イタリア旅行で高まった制作意欲をパリに戻 ってからの二年間に、存分に解放させた。パリで、政府 が主催した様々な彫刻の競技会に出品した。1878年に、 《鼻のつぶれた男》はようやくサロンに入選した。入選 しただけで何の賞も貰えなかったが、サロンに認められ たことを証明した。. 1877年から79年にかけて、ロダンの二二かの力作も 誕生した。1878年に、ロダンの《青銅時代》に継ぐ代表 23.

(26) 作である《歩く人》(図14)と《説教する聖ヨハネ》(図 15)が完成された。《歩く人》はもともと《説教する聖ヨ ハネ》の習作であり、後の時代に独立した作品となった。 この二点の作品は《青銅時代》と同じ、静的彫刻ではな く、動勢に満ちている彫刻である。動勢を言及すれば、 彫刻芸術において決して新鮮なことではなかった。ミケ ランジェロやドナテッロ、ベルニー二などの彫刻の「動 勢」について研究を重ねた大家が、ロダンより以前の時 代に大勢いた。でも、ロダンはこれらの人より、彫刻の 動勢にもう一つの要素を加え、成功した。つまり時間と いう概念である。《歩く人》と《聖ヨハネ》を観察する人 は、これらの作品が表現されている、上半身が左右に揺 れ、それを支える両足は大きく前後に開かれ、その筋肉 は緊張しているという動作は現実において不可能である ことに気付く。ロダン本人の話によれば、彼が表現した かったのは「実際に連続した形でしか見られないものを 同時に表す」17ということだった。つまりロダンが考え ていた動勢とは動きの瞬間ではなく、動勢の最初から最 後までの一つの過程である。《歩く人》は、習作に留まら ず、後に、独立の作品となるのは偶然ではなく、ロダン の意図であった。ロダンは人体の全体に限らず、部分に 対しての興味も深かった。1877年に、ブリュッセルから パリへ戻ったころ、ロダンはアトリエにある作品の大部. 分をパリへ持って帰った。19世紀70年代のヨーロッパ では、彫刻の運送は、馬車か貨物鉄道に頼るしがなかっ. たので、作品の破損は決して珍しいことではなかった。 ロダンは一部の破損した作品を修復したが、幾つかの作 品は、破損した状態を気に入り、破損したままで保存し ていた。そしてイタリア旅行の際には、彼はローマの古 代遺品の断片や、ミケランジェロの未完成の作品に対し ても愛着を持っていた。数年後、《歩く人》について「な ぜ頭がないの」とロダンに問いかけた人がいて、「歩くの に頭はいらない」とロダンが答えた。この解答からも、 ロダンは明らかに人体の何れの部分でも、生命感を表す ことが、可能であると考えた。しかし彼は「青銅時代」 の経験を持って、《歩く人》がいわゆるアカデミーの観点 と遥かに外れるのを承知し、この作品を1900年までアト リエに押し込んで、公開しなかった。《聖ヨハネ》の場合 は頭も腕もあり、さらに男性器のところに葉も付いてい たので、1800年のサロンに出品された。この作品の迫力 24.

(27) を認めた審査員は彫刻部門の三等賞を与えた。《聖ヨハ ネ》という題名を付けたが、これについてロダンは、全 く深く考えていなかった。モデルをつとめたのはロダン 本人の話によれば、一人のイタリアの農夫だった。《聖ヨ ハネ》という宗教的題名をつけたのはロダンの文学的興 味にすぎなかった。《歩く人》と《聖ヨハネ》においては、. 彫刻の動勢の表現もロダンの本来の意識ではなかった。 彼はただモデルを見た瞬間に受けた印象を正しく表した かったのである。つまり、すべての原因は単なるロダン の芸術的衝動である。. 25.

(28) 第三節:盛期. 1880年、アカデミーから公認されたかどうかに関わら ず、ロダンはもはや、フランス美術界で無視できない存 在になった。彼に関する論議が各地で上がり、その《青 銅時代》の作者としての名声によってロダンのもとへ訪 ねて来た人は大勢いた。ブリュッセルでロダンと決裂し た、前の雇い主であるカリエ・ベルースからも和解の手 が伸ばされた。この時、セーヴル国立製陶工場で美術監 督に就任していたカリエは、ロダンを再び助手兼デザイ ナーとして雇った。安定した仕事を得て、ロダンも再び 自分の好んだ装飾の仕事に取り組むことが出来た。 1756年、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール貸入の示唆 によって設置されて以来100年以上の歴史を持つ、セー ヴル国立製陶工場は,工場というより、才能のある職人 たちの集落であった。ロダンはそこで装飾用の花瓶のデ ザインに熱中していた。そして彼の才能がこれらの装飾 品を通して、さらに広く知られ、ようやく彼は社交界の 目を引いた。最初に、ロダンの多才な魅力に興味を持っ た社交界の婦人と文学者たちは、彼を追い回すようにな り、その後、かれは幾つか有力なサロンに迎えられ/。/,. 美術局次官のエドモン・テユルケがロダンに注目したの もこの時期だった。. テユルケは、以前ロダン《青銅時代》の一件で美術局 に訴えたとき、その調査を命じ、ロダンの主張を支持し てくれた人物である。彼は美術の専門家ではなかったが、 美術保護の広範な権限を持った役職であった。彼は新傾 向の芸術を愛し、他の官僚と違って極めて公平な心の持 ち主だと、ロダンは語っている。テユルケとロダンはす ぐ友人になった。その後、間もなく、テユルケはロダン に最初の重要な公の注文を与えた。彼の生涯での大作と なるその作品は、計画中のパリ装飾美術館の正門で、そ の一対の扉は記念碑的な規模で彫刻された。のちに《地 獄の門》(図16)と名付けられた、この大構想に、ロダ ンは自身が没するまでの二十年も懸けて制作した。しか し、ロダンにとって,最初にこの注文を受けたことの狙い は、広いアトリエを無料で使用することだった。テユル ケはロダンにセーヌ左岸ユニヴェルシテ通りにある大理 石貯蔵所に一部をアトリエとして割り当てた。そこは政 府が有能な芸術家に与える大理石の貯蔵所で、すぐ後ろ 26.

(29) には何人かの芸術家の仕事場があった。そこのアトリエ を使うことができる芸術家は、石炭の提供を得る以外に、. 多少の名声も得られた。. 1880年に友人テユルケの助けによって、政府から受け たパリ装飾美術館の門扉を制作する注文に,ロダンは 1880年に着手してから、37年間、断続的に取り組んだ。 装飾美術館は結局政府の資金不足のため、完成されなか ったが、幸い、《門》の制作の資金の投入は切れることは なかった。制作の条件であるユニヴェルシテ通りにある アトリエを無料で利用することも変更されなかった。も し装飾美術館の計画が政府から中止されなかったら、そ れは織物、磁器、卓上装飾品、などを展示する華やかな 場所になっていただろう。しかし最初の構想にせよ、ロ ダンが没する直前の未完成品にせよ、ロダンの《門》は、. そのような華やかな場所の入り口には相応しくないもの だった。美術局次官のテユルケからは、ただの大きな一 対の門扉を制作するという依頼しか受けなかったとして も、ロダンがこの門についての永遠に地獄へ落ちる人々 の群像という構想は装飾美術館の門扉という注文の内容 に対して、かけ離れていた。. ロダンのこの大作において、一番影響を受けたのはル ネサンス時期の詩人ダンテの『神曲』の『地獄篇』だと 思われる。テユルケから《門》の依頼を受けた以前から、 読書家であったロダンは『神曲』を愛読し、その中の人 物をモチーフとして制作していた。ロダンにとって、ダ ンテの『神曲』は、ミケランジェロのシスティナにある 天井画の《最後の審判》と匹敵できる素晴らしい宇宙観 を持っていた。しかし『神曲』は《門》の出発点に過ぎ なかった。ロダンが《門》で表現した、たくさんの人物 像の中には、『神曲』の登場人物は極めて少なかった。カ ルポーも同じく表現した《ウゴリーノとその息子たち》 以外に、禁断の恋に落ちた男女、パオロ・マラテスタと、 その義妹であるフランチェスカ・ダ・リミニのイメージ をロダンは繰り返し表現した。この他、有名な《考える 人》を含め、数多く名もなき苦痛や絶望の人物像をロダ ンの手によって制作された。後に、その中から、独立し た作晶となって、さらに、ロダンの代表作となるものも あった。従って、《門》とはロダンが創造した人間の苦悩 に主題を合わせた作品であった。 1880年代はロダンにとって、人生の一番順調な時代と 27.

(30) はいえる。しかし、それにも拘らず、彼は《門》におい て、極めて悲劇的な題材を表現したのである。ロダンは 彼が持つ社会に対しての反発を《門》を通して、表出し たのである。《門》に登場した莫大の数の人物は、社会に 既定された規則を違反したため、絶望に落ち込んだ状態 である。ロダンもこのような人間であった。グランド・ エコールの受験失敗があり、生涯の前期の作品も社会に 認められなかった。世俗の成功はある程度手に入れるこ とが出来たが、彼の、この社会に対しての反抗の声は抑 えられなかった。. ロダンの没までの間に、《門》は彼の創作の試験場とし ての役割もあった。たとえどんな大きな注文を受けても、 彼は最終的にこの試験場に戻るようにした。そしてロダ ンはこの試験場での試行を通して、彫刻においての運動 を研究することができて、《門》からもいろんな霊感を得 た。一方,試験を続けたと同時に、ロダンはこの作品の完 成という目標を諦めた。それは、おそらく、彼がこの作 品は完成できない作品であることが分かっていたからだ ろう。しかしこの巨大な未完成の断片に、ロダンは完成 品と同様の価値を与えた。 1880年代後半に入って、ロダンの因習の規範を打破す る意欲は、彼の代表的作品を通して強く表された。彼は 既定のことを打破したいと思ってはいたが、社会に衝撃. を与えようとする意識は持っていなかった。しかし1880 年代から1890年代の後半にかけて、彼のその代表作はい ずれも急進的であるため、激しい論争の中心となった。 1884年に着手し、1889年に完成した《カレーの市民》 (図17)は、その最初の例となる。この作品についての 始まりは平和であった。ドーヴァ海峡に向かうカレー市 では、まちの14世紀の英雄を記念するため、何十年にも 渡って、町中に彼らの記念像を建てる計画を図っていた。 その英雄とは14世紀の年代記作者のフロワッサールに よって記述された人物である。1347年に行われた百年戦 争における英仏の最初の決戦であるクレシーの戦で、フ ランスがエドワード三世の率いるイギリス軍に敗北した のち、カレー市は一年ほどの包囲を耐えたが、ついに降 伏した。エドワード三世は戦闘停止の代価として、町の 6人の重要人物を処刑することを要求した。カレー市の 長老エゥスタージュ・ド・サン=ピエールと市長ジャン・ デールを先頭に、六人の男が処刑人に身を委ねた。田そ 28.

(31) の堂々たる態度がエドワード三世と王妃を感動させ、エ ドワード三世から命を許された。ロダンが好む中世のモ チーフで、大規模な注文を、逃したくない気持ちから、 ロダンはカレー市にいる友人にこの注文の情報を得ると すぐ当時のカレー市市長のオメール・ドヴァヴランをア トリエに招いて、多くの作品を見せた。感動した市長は その場で注文を与える気になった。 《門》の世界観を持ったロダンは、《市民》の作品にお いて、人間性を最も重視したいと考えた。その発想によ って、六人は各自の感情を持つ。死を覚悟したうえ、イ ギリスの軍陣に向かう同じ運命を持つ六人の、絶望、恐. 怖、緊張など、それぞれ、固有の内心を表すべきである。. そしてロダンはこの六人の中で中心人物を設定し、その 人物を強調するのではなく、六人を対等にすると主張し た。しかし19世紀のカレーの市民が期待していたのは、 決してロダンが考えていたような記念像ではなかった。 記念像を計画する委員会の意思によれば、六人の中の最 年長者であるエゥスタージュ・ド・サン=ピエールをこ の事件の中心人物として表現することを求めていた。こ の記念像について、六人を対等にし、同じ高さの台に配 置するというロダンの考えを、初めて聞いた委員会は極 めて不安を感じていた。19世紀における、記念像につい ての常識とは、一つの台に、一人の像だけを置く、ある いは一人目人物が他に比べ、目立つ位置に配置する構図 を持つものである。ロダンの作品は異常なものになるの ではないかと委員たちが心配していた。確かに、1885年 に、ロダンが作った模型の一つを見た後、委員会は激怒 した。自分たちの先祖のイメージと全く違うものを見た 委員会はロダンに像の大きさを変え、そしてもっと優美 にやり直すことを求めた。しかし、この要求を聞いたロ ダンこそ、強く怒った。「優美」とは彼がもっとも嫌いな 言葉であった。この委員会との衝突は、カレー市市長ド ヴァヴランによって、納まった。 《市民》は《門》と同じ、ロダンの彫刻の運動につい て、研究する時間を与えた。そして、この作品が持つも う一つ大切な意義は、やはりロダンの新しい記念像への 挑戦である。伝統のピラミッドのような構図と違い、六 人の像を同じ高さに配置し、六人の個性を重視したこと によって、《市民》は非常に劇的な構成を示した。六人の 個性が表現されたと同時に、主題もいきいきと見る人に 29.

(32) 伝えられた。《市民》の制作中に、ロダンは六台の像の個 性を表すため、自分の息子のオーギュストを含め、たく さんのモデルを使った。さらに、彼は展示の方法につい て、人々がより親しみを持って観察できるように、この 作品を地面に置くことを提案したが、この当時のカレー 市においては想像すらできない提案でありすぐに拒否さ れた。1895年に、《市民》はカレー市で除幕された。し かしロダンが提案した、「地面に設置する」と「人がよく 通る市庁二二の広場で展示する」という二つの要求はい ずれも果されなかった。作品は大きな台の上に置かれて、 人の少ない公園の高い樹木の中に建てられた。 1891年に制作依頼を受けた《バルザック像》(図18) はロダンにとって「私の芸術の要約」であり、ロダンの 作品の中で最も論争されたものでもあった。バルザック によって創立されたソシエテ・ジャン・ド・レットル(文 芸家協会)が最初にこの制作を依頼したのは、ロダンよ り年長で、より保守的な彫刻家アンリ・シャピュだった. が、シャピュはこの仕事があまり進まないうちに、1891 年置没した。その後任をロダンに委ねたいと考えたのは 当時フランスの最も有名な現役作家であるエミール・ゾ ラだった。文芸家協会の会長をつとめたゾラは、数多く 峻烈なレアリズム小説を創作したと同時に、様々な自由 で新しい芸術を擁i護した。. 《バルザック像》の制作に着手する時に、ロダンはす ぐ幾つかの問題に直面した。フランス小説の巨人である バルザックはロダンにとって、自身が10歳の1850年に、 この世を去った遠い時代の偉人である。人々にこの文学 者に対しての印象がまだ残っているため、彫刻はバルザ ック本人の実際の様子を尊重しなければならなかった。 しかし、残された数少ない写真や劇画の観察によって、 バルザック本人はかなり肥満な体型であることが分かっ た。それに足も短かったので、あまりにもリアルに表現 すると、記念像として良い役に立たないのではないかと いう恐れがあった。. よりバルザックを理解するため、ロダンは多くの手段 を尽くした。彼はバルザックを描写した文章を読んで、 その外見だけではなく、精神面の特徴も懸命に捉えよう とした。さらに、彼はバルザックの生地であるトゥール ンまでも訪れ、バルザック本人と体つきが似た人を探し た。そしてロダンはバルザックの肥満な体型を隠すよう 30.

(33) に、作品を着衣像にすると決めた。そのため、彼は実際 にバルザックの服を仕立てたことがある店に行き、服の 寸法を聞き出したりした。これほど大量に情報収集をし、 準備を行ったため、この作業にかなりの時間を費やした。 18か月という約束の期限が特に過ぎていたため、パリの 街では、文芸家協会に見せられるものを出せなかったロ ダンに対する非難の声が次第に高まった。その後、1893 年の夏になり、ようやく協会側が派遣した調査員がロダ ンのアトリエに入り調査することが許された。だが、ロ ダンの制作した肥満な裸体の習作などを見て調査員は、 激怒し帰って行った。それから、文芸家協会の中の保守 派がこの件について、ついに忍耐の限度に達したのは 1894年の春であった。改めてロダンのアトリエを訪れた 代表団は前よりさらなる侮辱を感じた。彼らが見たのは 着衣によって体を覆われたバルザック像であり、彼らが 同僚に報告した言葉によると「かたちをなさない塊であ り、巨大な胎児」19のような作品だった。協会内部で、 怒り出した者たちからは、ロダンを契約不履行で訴え、 さらに、ロダンに完成の作品を24時間以内に提出するこ とを求めよというような厳しい声もあったが、これらの 命令は協会の進歩的会員の調停によって撤回された。 強 い衝撃を受けたロダンではあったが、諦めたりしなかっ た。彼は協会内部にいる彼に反対する者たちの声を治め るように、契約金として受け取った一万フランを返却し、 さらに時間をくれるよう懇願した。ゾラの協力を得て、 ロダンは二年間の時間を勝ち取った。そして,1898年の サロンに、この作品を出品することについても、協会側 の同意を得た。. 1898年のサロンで,ついにロダンのバルザック像が世 に出された。ゆったりとした部屋着を着ているバルザッ クの頭は天を仰ぎ、体は後ろに反らされた。作品の表面 や、体の細部についての描写は一切なく、唯一強く感じ るのは、その部屋着に包まれた強い存在感を持つ量であ る。しかし、この作品は一つの爆弾のように、社会に大 きな波乱を起こした。観衆はロダンがこの作品を見た人 をからかっていただけだと思った。マスコミの反響はよ り猛烈であった。ロダンが新しい芸術への挑戦と信じた. この作品は、新聞によって「雪男」、「わいせつ物」、「袋. に入ったヒキガエル」と罵られ、19世紀末に「われわれ が行き着いた精神異常の程度」を示す証拠とされた。結 31.

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