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クレオパトラと共和政ローマ

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Academic year: 2021

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(2) 目. 次. はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  D・…  D・・D…  1. 第1章  プトレマイオス朝におけるクレオパトラ7世             3  第1節 プトレマイオス朝エジプトの歴史とクレオパトラ7世の時代・・・…  3.  第2節 プトレマイオス朝とエジプト人・・・・・・・・・・・・・・・・… 8.  第3節 アレクサンドリア・・…  D・・・・・・・・・・・・・・・…  10  第4節 アレクサンドリアのエジプト人と地方のエジプト人・・・・・・…  13.  第5節 クレオパトラ7世とその神格化・・・・・・・・・・・・・・・…  16. 第2章  共和政ローマとプトレマイオス朝エジプト              20  第1節 共和政ローマの歴史と政治の仕組み・・・・・・・・・・・・・…  20  第2節 共和政ローマの属州統治体制・・・・・・・・・・・・・・・・…  23  第3節 プトレマイオス11世,12世と共和政ローマ・・・・・・・・・・…  26  第4節 クレオパトラ7世とカエサル,アントニウス・・・・・・・・・・…  29. おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  ◎…  35. 註・・噂・・・・・・・・・・・・… D・・・・・・・・・・・・・… 36. 参考文献. 図表.

(3) はじめに.  一般に知られているクレオパトラとはクレオパトラ7世(前69一前30)の事であ る。エジプトのプトレマイオス朝最後の女王(在;前51一前30)であった。共和政 ローマの政治家であるカエサル(1)アントニウス(2)を次々に魅了して王位を保持 したが、最後はオクタウィアヌス(3)に敗れ、絶望して自殺した人である。クレオ. パトラといえば、このようにカエサル、アントニウスを思い浮かべ、才色兼備であっ たと考える人も少なくない。クレオパトラに関する戯曲や映画は現代にも数多く見られ る。.  このようにあまりにも有名である彼女だが、現状では史料は少ない。それは、いま. から1600年ほど前の大地震で、海岸沿いに立ち並んでいたクレオパトラの宮殿や数 多くの神殿など、古代アレクサンドリアの街の中心部が海底に沈んでしまったからで ある。つまりクレオパトラ7世の過ごした都が海に眠っているのである。また、クレ オパトラ7世について記録を残したのは、プルタルコス(4〉、スエトニウス(5)な どの歴史家たちであるが、彼らはクレオパトラ7世よりも後世の歴史家である.その. ため、記述がどこまでクレオパトラ7世の真実を伝えているかは疑問だと言われてい る。また彼らは共和政ローマとの関わりからクレオパトラ7世をイメージしている。 ローマでは彼女は宿敵とされたので、後世の歴史家にとっても誇張される可能性があ. る。よって、クレオパトラ7世の生きた時代や人物像の真実を知ることは難しいと思 われる。.  そこで、本論は彼女の辿ってきたプトレマイオス王朝の歴史を理解した上で、クレ オパトラ7世がどの様な歴史背景の中に存在していたのかを研究する。つまり、クレ. オパトラ7世とカエサル、アントニウスの関係を調べるというよりは、彼女の生まれ るまでの歴史がどの様なものであったかを探るのである。.  研究方法としてはプトレマイオス朝の歴代王とエジプト人との関係、クレオパトラ 7世の暮らしたアレクサンドリアの特徴、共和政ローマとプトレマイオス朝エジプト の関係など様々な角度から考察していく。.  本論の構成は2章立てである。弟1章では、プトレマイオス朝におけるクレオパト ラ7世について見る。ここでは主にクレオパトラ7世の誕生までのプトレマイオス朝. 1.

(4) の歴史に焦点を当て考察する。そこから、プトレマイオス朝における彼女の歴史背景. についてまとめていく.そして、第2章では共和政ローマとプトレマイオス朝エジプ トの関係からクレオパトラ7世がどの様に関わっていくのかについて考察する。. 2.

(5) 第1章、プトレマイオス朝におけるクレオパトラ7世 第1節・プトレマイオス朝エジブトの歴史とクレオパトラ7世の時代(図1,2表1,2参考).  プトレマイオス朝は15代にわたってエジプトを支配した王朝である(前323一前30、 前305から王位を称す).アレクサンドロス大王(6)は、プトレマイオス朝の都となる アレクサンドリアの建設を命じた。彼は再びその地を見ることはなかったが、エジプト. を所領として割り当てられた彼の部下プトレマイオス1世(在;前305一前285)とそ の子孫たちは、アレクサンドリアを首都として選び、市街を急速に建設した。この都市 にはヘレニズム(7)の文化がみられ、それ以前のエジプトにはないものであった。.  この王朝はギリシア=マケドニアによる他民族支配の王朝であった。そのため、ギリ シア系の入植者とエジプト人が混在している。クレオパトラ7世もエジプト人ではなく、 ギリシア系ということになる。.  始祖プトレマイオス1世はラゴス(8)という名の人物の子で、その名をとってこの 王朝はラゴス朝ともいわれる。この王のとき南シリア、フェニキア、小アジアの一部、. キュレネ、キュプロスを支配下におさめ、ギリシア、エーゲ海諸島にも勢力をおよぼし た.また彼はエジプト行政組織を大きく変革し、セラピス神(9)の信仰を打ち出した。. プトレマイオス1世の子孫によるエジプト統治は、紀元前30年にクレオパトラ7世が 死去するまでつづく。.  王朝が開かれたときから、一族は在位中の王と次の王位継承者が国を共同統治するこ とによって王位継承が円滑に行われるよう努めた。さらに、王朝の基盤を安定させる手. 段として血族間の結婚も取り入れた。王朝初の血族結婚をしたのは、プトレマイオス2 世(前285−246)と彼の実姉アルシノエ2世であった.彼女は実弟かつ夫であるプトレ. マイオス2世に対して強い影響力をもっていた。そのため彼女は弟を先妻アルシノエ1 世と離婚させている。アルシノエ2世はクレオパトラ7世の先がけともいえる存在で、 プトレマイオス朝の歴史に名を残した最初の女性であった。  他にもこのプトレマイオス2世はファルサロス島の大灯台の建設、ムセイオン(10)、. アレクサンドリア図書館の創設も行った。.  プトレマイオス朝はプトレマイオス3世(在;前284頃一221〉までの間にシリア戦争 (11)によって在外領土を拡大し、ギリシアヘの影響力をも強めている。この間、中央. 3.

(6) 集権体制を整え、全国土を王の私有地とみなして強い監督のもとに大量の穀物を確保、 またオリーブ油、パピルス、織物、塩、鉱産物などの産業を独占して国家の管理の下に おき、さらに関税その他の税収入を加えてヘレニズム諸国家中最大の富強をほこった。. 首都アレクサンドリアをギリシア文化の一大中心地としたこと、君主崇拝を国家祭儀と. して組織化したことも注目されている。このような帝国もプトレマイオス4世のときに は衰退に向かっていく。.  プトレマイオス4世(在;前221一前205)は政治をソシビオスという人物に委ね、. 自分は芸術に嵌っていた。このときシリアのアンティオコス3世(12)がコエレーシリ. アを得る為、前217年ラフィアの戦い(13〉でプトレマイオス4世と対立する。この戦 いでエジプト人を初めて兵士として利用することによって、プトレマイオス4世は勝利 をおさめることができた。しかしエジプト人を兵士として使用することによってえられ た勝利は、プトレマイオス王朝に貴重な代価を支払わすことになった。このときからエ ジプト人の民族的自覚が形成されつつあったからである。.  プトレマイオス5世(在前205一前180)の代にはこうした民族意識はより発展して いた。そのため、プトレマイオス5世の即位はプトレマイオス朝初めて、エジプトの古 式にのっとりメンフィス(14)で即位式をあげた。この即位式についてはロゼッタ・ス トーン(15)に記されている。.  プトレマイオス6世(在;前180一前145)の時代、エジプトは2度にわたってシリ アのアンティオコス4世(16〉の侵略を受けた。紀元前168年ローマの政治家ポピリウ. ス(17)がエジプト入りし、デルタ地帯に設営されたアンティオコス4世の大本営を訪. れた。ポピリウスはアンティオコス4世にエジプトから退却を命じ、ローマの絶大な威 力をみせつけた。最初アンティオコスはなかなか決定を下そうとはしなかったが、エジ プトから撤退した。.  このプトレマイオス6世からプトレマイオス10世(在;前107一前88)についての 王家には兄弟同士の抗争が絶えなかった。まずプトレマイオス6世は弟プトレマイオス 8世(在;前170一前1/6)と争い、プトレマイオス8世がキュレネをおさめることで. 落ち着いた。だがその後プトレマイオス8世は王位継承者とされていたプトレマイオス 6世の息子プトレマイオス7世(在;前145)を暗殺し、ローマの介入を得てエジプト の王となる。.  プトレマイオス8世は相反する性格をもち合わせた人物だった。性格や行動には問題. 4.

(7) が多かったものの、他方では高度な教育を受けた人物でもあった。.  紀元前142年以降、プトレマイオス8世は次々と近親結婚を重ねていく。まず実姉で プトレマイオス6世の未亡人となったクレオパトラ2世を妻とし、のちに彼女の娘クレ オパトラ3世とも結婚している。この2人の女性は王家の骨肉の争いの中軸となった。.  クレオパトラ2世とクレオパトラ3世の権力争いは紀元前124年までつづく。すなわ ち、紀元前131年、クレオパトラ2世はアレクサンドリアで反乱をおこし、エジプトか らプトレマイオス8世を追い出した。プトレマイオス8世は、アレクサンドリアを奪回. したのちの紀元前127年にようやくエジプトヘ帰還する。クレオパトラ2世はシリアヘ のがれたが、紀元前124年に帰国。こうしてプトレマイオス8世とクレオパトラ2世、. 3世の統治が再開した。この二重結婚は非常な不評を買い王家の威信を失墜させた。ま た、この時代は対外戦争、宮廷内の内乱、海外市場の縮小が重税となって表れ、エジプ ト人を苦しめ、反乱が頻発した。.  プトレマイオス8世はクレオパトラ3世との間に2人の子どもをもうけた。やがて権. 力を争うことになるプトレマイオス9世(在1前116年一前107年、前88年一前80年) とプトレマイオス10世(在;前107年一前88年〉である。紀元前116年、プトレマイ オス8世が死ぬと、クレオパトラ3世とプトレマイオス9世による統治がはじまる。し. かし、やがてクレオパトラ3世は、上の息子プトレマイオス9世を王座から退かせ、か わりに下の息子プトレマイオス10世を王座にすえた。クレオパトラ3世自身の野心に 荷担してくれるのは下の息子だと判断したのである。.  ところがこの選択は大きなあやまちを生んだ.紀元前101年、プトレマイオス10世 は母であるクレオパトラ3世を殺害し、プトレマイオス9世の娘であるベレニケ3世と. 共同統治をはじめた。プトレマイオス10世が紀元前88年に死去すると、プトレマイオ ス9世が再び権力をにぎった。.  紀元前80年のプトレマイオス9世の死後、王家はふたたび混乱の時期を迎える。王 位を継承したのはプトレマイオス10世の息子、プトレマイオス11世(前80)である。 彼はローマのディクタトル(18)であったスラ(19)の庇護をうけた。スラはプトレマ. イオス11世にベレニケ3世との結婚をしいる。ベレニケ3世は夫プトレマイオス10世 の死後も、そのまま統治をつづけていた。強制された結婚は悲劇を招いた。プトレマイ. オス11世は、妻にしたばかりのベレニケ3世を殺してしまう。すると今度はこの残虐 な行為にいきどおったアレクサンドリア市民が、即位からわずか19日ほどでプトレマ. 5.

(8) イオス11世を殺害した。また、この王は「プトレマイオス朝をローマに託す」と書い た遺言書をのこしたが、この点については第2章で検討する。.  次のプトレマイオス12世(前80−51〉はクレオパトラ7世の父である。かれはプト. レマイオス9世の息子でベレニケ3世の弟である。プトレマイオス11世がローマに対 しエジプトとキプロスをいつでも併合できる権利をあたえていたため、プトレマイオス. 12世はエジプトの王としてローマから承認を受けるまで20年も待っことになった。.  プトレマイオス12世は葡萄酒と音楽を愛する気弱な人物であった。彼は姉のクレオ. パトラ5世と結婚し、2人の娘クレオパトラ6世、ベレニケ4世をもうけた。一族で最 も有名とされるクレオパトラ7世は、クレオパトラ6世との問に生まれた末娘か、ある. いは2人目の妻(氏名不詳)との間にできた娘であろうと考えられている。この氏名不 詳の女王とプトレマイオス12世の問には他に3人の子どもが生まれた。アルシノエ、. プトレマイオス13世、プトレマイオス14世である。.  プトレマイオス12世の時代、エジプトの民衆は王が増税を行ったことに不満をつの らせていた。税金の大半は王朝存続のために使われたからである。大規模な反乱がおこ. り、紀元前58年王はやむなくローマヘ避難した。翌年、娘のベレニケ4世とクレオパ トラ6世が王位をついでエジプトの女王となったが、同年、クレオパトラ6世は死亡す る。.  紀元前55年、ローマはふたたびエジプトに干渉し、プトレマイオス12世を復位させ た。こうして復権を果たしたプトレマイオス12世は、息子プトレマイオス13世と娘ク レオパトラ7世を共同統治者にした。しかし、クレオパトラ7世はこの後、またもロー. マの外圧に悩まされる。それと同時にプトレマイオス13世の妹であるアルシノエとの 権力闘争にも悩まされることになった。.  紀元前48年の春、共同統治に不満を持つプトレマイオス13世がクレオパトラ7世を アレクサンドリアから追放した。おりしも、ポンペイウスを破ってエジプトに入ったカ. エサルはクレオパトラ7世と密会すると、反ローマ勢力であったプトレマイオス13世 を攻撃してナイル川に溺死させた。クレオパトラ7世と敵対していたアルシノエは、ロ ーマ軍に捕らえられ、ローマの凱旋式で引き回された。.  プトレマイオス13世の死後、クレオパトラ7世は別の弟プトレマイオス14世と結婚 して共同統治を再開したが、カエサルとの間に情交を重ね、紀元前47年、息子カエサ リオンをもうけた。プトレマイオス14世との共同統治は、カエサルの後ろ盾を得て成. 6.

(9) 立していたため、このときからクレオパトラ7世の単独統治となった..  紀元前46年、クレオパトラ7世とカエサリオンは、凱旋して独裁官に就任したカエ サルに招かれ、ローマに滞在した。カエサルの庇護の下に平穏な日々を過ごすローマ滞. 在であったが、紀元前44年、カエサルが暗殺されると、クレオパトラ7世はカエサリ オンを連れてエジプトに帰国した。.  クレオパトラ7世は、カエサリオンがカエサルの後継者になることを望んでいたが、 カェサルはカエサリオンを指名することはなかった。カエサルは姪の子ガイウス・オク. タウィウス・トゥリヌス(後のオクタウィアヌス、初代皇帝アウグストゥス)を後継者 に定めていた。.  クレオパトラ7世の帰国直後、名目上の共同統治者であったプトレマイオス14世が 死去すると(クレオパトラ7世の毒殺説もある)、クレオパトラ7世は幼いカエサリオ ンを前44年共同統治者に指名した。.  エジプトとローマの同盟関係はクレオパトラ7世とカエサルの個人的信頼関係によ るところが大きかったため、エジプトはローマとの同盟政策を見直すことになった。カ. エサル暗殺の混乱を経てオクタウィウスとアントニウスの間に権力闘争が開始される と、クレオパトラ7世はアントニウスに接近し、彼と同盟した。アントニウスが近接す るシリアなどの東方地域に勢力を持っていたため、クレオパトラ7世はアントニウスと. 利害が一致し、これと同盟した。また、クレオパトラ7世は、小アジアのエフェソスに 逃げ込んでいたアルシノエを、アントニウスに頼んで殺害させた。.  エジプトと同盟したアントニウスは、政略結婚していたオクタウィアヌスの姉オクタ ウィアと離婚し、アレクサンドリアでクレオパトラ7世とエジプト式の結婚式を挙げた。. その後、2人の間には紀元前39年に双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオスと、ク レオパトラ・セレネが、紀元前32年にはもう一人の男の子のプトレマイオス・フィラ デルフォスが誕生し、アントニウスはローマに帰還することなくアレクサンドリアに滞 在し続けた。エジプト人のように振舞っているというアントニウスの噂に失望したロー マ市民は、アントニウスとの決戦を望んでいたオクタウィアヌスを強く支持した。.  紀元前31年、クレオパトラ7世とアントニウスはオクタウィアヌスが率いるローマ 軍がギリシアのアクティウムで激突した。この海戦に敗れたアントニウスは、戦線を離. 脱してエジプトに帰還するクレオパトラ7世の船を追って敗走した。ローマ軍から、部 下を置き去りにし、女を追って戦場を後にしたと嘲笑されたアントニウスは、さらに追. 7.

(10) 撃してきたローマ軍に完敗して、アレクサンドリアに逃げ込んだ。.  敗走の中でクレオパトラ7世死去の誤報に接したアントニウスは、自殺を図り、瀕死 の状態でクレオパトラ7世の元に送られ、.自、を引き取った。クレオパトラ7世自らはオ. クタウィアヌスに屈することを拒み、墓の中でコブラに身体を噛ませて自殺したと伝え られる。.  エジプトを征服したオクタウィアヌスは、紀元前30年、カエサリオンを処刑し、プ トレマイオス朝を滅亡させ、エジプトを属州にした。.  以上が滅亡までに至るプトレマイオス朝の歴史である。プトレマイオス朝に於けるク. レオパトラ7世の時代を考察するには、プトレマイオス4世、5世、8世、1!世、12世. にっいて詳しく見て行く必要がある。これらの王のうち、4、5、8世について次節で順 番に詳しく見ていく。プトレマイオス11世、12世については共和政ローマとの関係か ら第2章で取り扱うことにする。. 第2節・プトレマイオス朝とエジブト人.  第1節で述べたように、プトレマイオス4世の時代にラフィアの戦いが起こった。ま ず、この戦いについて詳しく見ていく必要がある。.  ラフィアの戦いは紀元前217年セレウコス朝(20)の王アンティオコス3世がプトレ マイオス朝の支配下にあったシリア南部コイレーシリアの支配権獲得を目指してプト レマイオス朝の領土に侵攻したことではじまった戦争である。ラフィアの戦いでアンテ. ィオコス3世は敗れ、セレウコス朝の南部シリア方面への拡大政策は頓挫し、プトレマ イオス朝は自国領土を防衛することに成功した。.  史料であるトログス(21)『地中海世界史』29巻一1節によると次のように書かれて いる。.  「エジプトは、プトレマイオスが父母を殺してそれを手に入れ、彼にはその悪行の罪 から父を愛する(ピロパトル)という別名があった」. この史料で出てくるプトレマイオスについて合坂(22)は次のように述べている。. プトレマイオス4世のことである。プトレマイオス4世は統治にだらしなかった。ラ. 8.

(11) フィア戦争でシリア王アンティオコス3世を撃破。この戦争で2万人のエジプト人兵士 が活躍。その結果、王の統治下で原住民の意気が昂揚し、上エジプトではエジプト人の 叛乱に発展。はじめてこの王のときにエジプト人のカを借りて勝利する。  重要なのは、エジプト人による勢力がここから増していくことである。他に浅香(23). もプトレマイオス4世の時代に民族自決の形成がみられると報告している。小川(24). はラフィアの戦い以降はプトレマイオス朝のギリシア的要素は薄れていくと報告して いる。また金澤(25)によれば、エジプト人からギリシア化よりもギリシア人からエジ. プト化した形跡が、前2世紀に急速に見られる。エジプト人と混血婚を繰り返すことに よって、エジプト化を促進したと述べている。つまり諸氏の見解からも分かるように、. ラフィアの戦い以降はエジプト人の勢力が増していくと考えられる。では歴代王が変る に連れてエジプト人はどのように変化していったのだろうか。.  プトレマイオス5世はロゼッタ・ストーンによるとエジプト流の即位式を挙げている。. つまり、これはプトレマイオス朝がギリシア系の王朝であったが、この王からエジプト. 化していく様子がロゼッタ・ストーンから窺える。次にプトレマイオス8世について見 ていく。.  プトレマイオス8世については史料のトログス『地中海世界史』38巻一8節に以下の ことが述べられていた。.  「プトレマイオス8世は外国人兵士にあらゆる方法での民衆の殺害を許し、流血の 日々が続いた。民衆は各地へ脱け出し、そして殺害の脅威を感じて祖国をすてて亡命 者となった。プトレマイオス8世は市民達によっては冷酷な人間であり、ローマにと っては笑うべき人間であった』.  これはプトレマイオス8世がエジプト入の反乱を外国人兵士に頼って抑えている様 子である。つまり、この王の時代のエジプト人勢力は、より増していたと思われる。そ のため王だけでは抑えることが出来なくなったと考えられる。.  またストラボン(26)の『ギリシア・ローマ世界地誌』17巻一4節に以下のことが書 かれている。. rプトレマイオス3世以後の王はすべて放蕩に身を滅ぼしその分だけ王国の統治も. 9.

(12) 劣っていたが、統治ぶりが最低だったのは4世、7世、最後の12世だった」.  っまり、プトレマイオス3世以後の歴代王は、エジプト統治にもだらしなかったよう である。エジプトの知識や言葉をあまり理解することはなかったと考えられる。.  以上のことから、プトレマイオス4世を境にしてエジプト人の勢力が増していく様子 が理解できる。また同時に混血婚によってエジプト化が促進され、エジプト人の人口は 王が代わるに連れて増加していったとも考えられる。.  クレオパトラ7世の父であるプトレマイオス12世も統治にだらしないとストラボン は述べている.こうした統治にだらしのないプトレマイオス3世以降の歴代王や父のプ トレマイオス12世を見てきたクレオパトラ7世は、増加し反乱を繰り返すエジプト人 を見ては、エジプトの知識や言葉を身に付け、エジプト人との友好を取りたかったのだ. ろう。このことについては第5節で史料を提示しながら見ていくことにする。.  しかしエジプト人にも2種類いたようである。それは首都アレクサンドリアに住むエ ジプト人と地方に住むエジプト人である。.  そこで、他民族支配のプトレマイオス朝においてエジプト人がどの様な存在であった かを明らかにするため、次節でクレオパトラ7世の暮らしたアレクサンドリアを紹介し、. 第4節でアレクサンドリアのエジプト人、地方のエジプト人について考察していく。. 第3節アレクサンドリア.  浅香とジャンーイヴアンプルール(27)はアレクサンドリアについて次のようにまと. めている(図3参考)。アレクサンドリアはアレクサンドロスによって前332年、ナイ. ル川のデルタ地帯(三角州)に建設され、プトレマイオス2世の時代に完成した。プト レマイオス王朝末期には、人口は少なくとも50万あるいは100万人と推定する学者も いる。都市はファロス島とマレオティス湖の間にあり、北は地中海に通じ、南は運河に よってナイル川に通じていた。.  ファロス島の東端には世界七不思議の1つといわれる高さ160メートルに及ぶ大塔 代がそびえ、ランプの放つ光は海上遠く350マイルからでも望見されたといわれている。. アレクサンドリアとファロス島とはヘプスタディオンと呼ばれる堤防によって結ばれ、. 堤防の西側に2つの港があった。東側の港は大港といわれ、商港および軍港として使用 10.

(13) され、西の港は漁港用とされた。市街は碁盤の目のように区画され、大きく3つの区域 に分けられていた。1つは北東隅にあったユダヤ人地区。2つ目は市の中央にあるブル. ケイオン地区。3つ目は市の西南隅にあったラコティス地区。このラコティス地区でエ ジプト人がすんでいた。アレクサンドリアの住民はユダヤ人とギリシア人とエジプト人 を主要な人種構成としており、さらにペルシア人、リビア人、アルメニア人、後にはロ ーマ人などが住み、アレクサンドリアは国際性豊かな都市であった。.  プトレマイオス朝の基盤はプトレマイオス1世によって確立され、それから3世まで 王朝の国運は隆々たるものであった。国王はエジプトに対しては厳格な官僚政治と統制 経済によって巨大な富を築き、国際貿易の中心となって多くの利潤をあげ、その国力を 不動のものにした。.  またストラボンはアレクサンドリアを訪問し記録を残した人である。そこで、ストラ ボンによるアレクサンドリアの姿はどの様なものであったかを以下から紹介する。.  ストラボン・『ギリシア・ローマ世界地誌』第17巻一3節には地形と気候に恵まれた 交易市について次のように書かれていた。.  海の利と運河網については以下のように書かれている。.  「適地性はさまざまに現れている。まず、この地は2つの海が両側から打寄せる。す なわち、北の方からのエジプト海と南からのマレオティス湖でナイル河が数多くの運河 を通って上流からも側面からも湖水を満たしている』.  輸出入商品については以下のように書かれている  「運河を経由して運びこむ品物は海から入る物よりはるかに多量で、この結果、湖に 面した港は海側の港より裕福になっていた。また、港経由でアレクサンドリア市から積 出す輸出品の量も輸入品をはるかに上まっている』.  気候については以下のように書かれている。. 「海沿いの港と湖水の港の双方へ運びこまれる品物がもたらす富に加えて、気候がほど. 良いことも注目してよい点で、当の気候がよくなるのも、両側を波が洗うのに加えて格 好の時期にナイル河が増水するからである。.  すなわち、湖岸に位置する市でもここ以外の諸市の場合、夏期の焼けつくような暑さ. 11.

(14) のなかでは空気が重くよどんで息づまるようになる。これは、湖岸近くでは太陽熱で水 分が蒸発するため湖が沼地状になるからで、結果として泥まじりの蒸気がひじょうに大 量に立ち昇るため、被害を引き起こす。.  ところが、アレクサンドリア市では夏期がはじまるころになるとナイル河が溢れて湖 水をも溢れさせるからで、沼地が出来ていやな蒸気を立ち昇らせる余地などまったく残 さない。.  また、その頃には季節風も北方のひじょうに広い外海から吹く。. だから、アレクサンドリア市民は夏の間をこの上なく快適に過ごしている』.  王宮と市街の様子については以下のことが書かれている。.  「市の敷地の形は軍衣に似、そのうちの長辺にあたるのが両側からの海が洗う側面で、. その差し渡しは約30スタディオン(5.4キロ)になる』.  市街の街路については以下のことが書かれている。.  「市は全域を馬や車を駆けるのに適した道で分割し、一番広い道は2本で道幅が1 プレトロン(30メートル)以上に広がる』.  王宮については以下のことが書かれている。.  「市にはこの上もなくりっぱな公共の神苑と王宮があって、その割合は市の周壁全体. の4分の1、あるいは3分の1まで達する。歴代の王はそれぞれが壮麗さを好んで公共 の奉納物郡にいわば飾りを加えると共に、現に建っている建物郡に加えて独自に館を建 てめぐらせるのを常とした。」.  王宮の位置について以下のことが書かれている。.  「大港の入口の右手に島とパロス灯台、もう一方の側に岩礁とロキアス岬があって、. 岬に王宮が建つ。船が港に入ると、左手には岬内の王宮地区に連なるようにしてさらに 内側の王宮地区があり、彩り豊かな数多くの居住建物も見られる』. 王専用の港についても以下のことが書かれている。. r王宮地区の下に海底を掘った屋根付きの港があって王家専用. 12.

(15) となり、この掘削港の前方にアンティロドスという名の小島があってここに王宮建物 とちいさな港がある。小島の呼び名は、ロドス島に匹敵するほどの島という意味でつ いた』.  ストラボンによる史料からもアレクサンドリアは環境や地域性に優れていた街であ ったことが読み取れる。また王宮も街全体の3分の1から4分の!を占め、王室専用の 港もあったと書かれている。つまり歴代の王にとっては住みやすい環境であり、快適な 生活を送るには最高の場所であったようである。.  浅香はこのようなアレクサンドリアにもエジプト人が住むと述べている。また、スト ラボンは他にも第17巻4節で次のように述べていた。.  「アレクサンドリアには3とおりの人間が住む。第1はエジプト人で地元の種族、激 しやすいところがあり市民らしくない』.  つまりアレクサンドリアにもエジプト人の居住区域が史料からも判断できる。しかし、. なぜ他民族支配のプトレマイオス朝がこのような高級感のあるアレクサンドリアにエ ジプト人区域を必要としたのかは疑問である。ここで暮らすエジプト人はいったいどの 様な入達であったのだろうか。.  浅香はアレクサンドリア市にラコティス地区があり、ここにエジプト人地区があると 述べている。つまり、この地区はエジプト人でも優れたものが暮らせるのではと考えら. れる。クレオパトラ7世とエジプト人との関係を知るうえでも、彼らがどの様な存在で あったかを見ていく必要がある。.  そこで、第4節ではアレクサンドリアに住むエジプト人について考察する。. 第4節 アレクサンドリアのエジプト人と地方のエジプト人.  浅香はラコティス地区にエジプト人居住区域があったことを述べている。プトレマイ オス朝は他民族支配であったが、なぜエジプト人の居住区域が存在するのか。そのため、. アレクサンドリアに住むエジプト人とそうでないエジプト人の違いを理解しておかな ければならない。これについては金澤、柘植(28)、小川から考察していく。. 13.

(16)  金澤はまずヘレニズム現象とエジプトの文化を次のように述べている。.  rある超越した勢力を持つ文化が、それよりカの弱い、もしくは成熟度の低い文化に 侵入したとき、両者の間にはどのような応答が起こるか。勢力を持つ文化をヘレニズム とし、力の弱いものをエジプト文化とする。また強弱の関係からする文化変容は、通商. や植民などの平和的接触からも起こり得る。大規模かつ圧倒的な力関係で起こる文化扶 植とそれを受ける側の文化変容という関係は、征服とそれ故の原住民支配によってもた らされるものが最たるものである。そしてかかるものの中でも、広大無辺かつ数世紀に もわたるまさに世界史的規模での文化変容こそヘレニズムという現象である。」と述べ、. エジプトとギリシアの文化の関係を念頭に置きながら研究を進めている。そのため、エ ジプトのアレクサンドリアと地方は違ったものとして捉えている。.  っまりプトレマイオス朝治下ではアレクサンドリア以外の都市をコーラ(地方、冗ω ρα)とよび、この地方に住む者をエジプト人と金澤は考えている。.  首都アレクサンドリアはマケドニア=ギリシア人の感覚ではエジプトではなく、常に 「エジプトに向い合っているアレクサンドリア」と呼ばれ、制度上もエジプトすなわち. コーラとは隔離された取り扱いを受けていたとされる。アレクサンドリアはギリシア人 の都市であり、エジプトとは別個のものとして考えている。つまり、アレクサンドリア とエジプトは違った国として考えている。そのためアレクサンドリアはギリシア文化で あり、エジプトの土着文化の存在はないとされる。.  また、ギリシアから職をもとめてこのコーラに移住した者もいた。彼らはエジプト人 と混血婚を繰り返すことによって、エジプト化を促進した。前述でも述べたように、こ. れは前2世紀急速に見られる。しかし逆のパターンもあるとされる。社会的上昇志向を 目的にエジプト人からギリシア化するものも出てきた。良き経歴を得るため、エジプト 人がギリシア語を取得した例もある。.  つまり金澤はコーラに住む者でも社会的上昇志向を目的にエジプト人がギリシア語 を習得したことを述べている。よってアレクサンドリアに住むエジプト人はギリシア語 も話せたと考えられる。.  また柘植もエジプト人の官僚、つまりプトレマイオス朝の地方行政機構による官僚に っいて研究している。.  柘植はプトレマイオス朝の地方行政は複雑であり、アレクサンドリアを中心と考えて いる。プトレマイオス王朝は都市領域と海外属領は別として、地方つまりコーラの行政. 14.

(17) についてはエジプトにおける従来の県制度を踏襲し、エジプト全土をおよそ30有余の 県に区分し、県は郡に、郡は村にとさらに小区分して、各行政区にそれぞれ系統を異に する役人を配置したとされる。行政機構の系統は大別して、①行政、②財務、③司法警. 察の3っに分けられ、役人はこのいずれかの系統に属せしめられる。しかしこれらは曖 昧とされている。.  官僚組織の頂点はディオイケテスとよばれていた。プトレマイオス朝にとってエジプ トは私有地であり、王は一家の長として家事百般を営むことができるとされ、全国土か. らあがる生産物・利益はすべて王の収入となった。このディオイケテスは王の家政の大. 番頭として国家の財政の一切をとりしきった。このディオイケテスの下に各行政区にそ. れぞれ県長官および王の書記、郡長および郡書記、村長および村書記が任命され、上級 官庁の命令伝達、人口・職業・不動産の登記事務等を主管し、それらの詳細な台帳を作 成した。このうち登記事務はとくに書記の仕事であり、かれらは人口台帳、土地その他. の不動産がどのように住民に配分されているかの記帳、各行政区における一切の秘書 的・統計的業務にたずさわる。.  これらの官職の大部分はマケドニア人・ギリシア人によって占められ、エジプト人は ただ村長や村書記の下級官僚、およびダム・運河・道路・農場の見張りをする番人とし. てプトレマイオス行政機構の末端に連なったにすぎず、村長や村書記の官僚も王の利益 に奉仕する責任者としての役割が多かったようである。.  かつてアレクサンドロスはエジプトを征服したときエジプト人の県長官に再任を許 したが、プトレマイオス1世はこれを廃止し、代わりにマケドニア人やギリシア人を任 命した。エジプトを統治していくにあたってファラオ時代(29〉の行政組織に依拠した プトレマイオス王朝がそれに改革を加えたところがあるとすれば、それはこの県長官そ の他の上級官職へのマケドニア人・ギリシア人の任用ということであった。.  このように柘植はエジプト人の官僚はプトレマイオス行政機構の末端に連なったと 述べている。金澤は社会的上昇志向によりギリシア語を身に付けたと述べている。.  つまり、2人の見解から地方官僚またはアレクサンドリアに住むエジプト人はエジプ ト語とギリシア語を話すことが出来たと考えられる。.  またここで述べておきたいことがもう一つある。そこでストラボン第17巻4節で述 べるアレクサンドリアの住民構成をもう一度取り上げる。. 15.

(18)  「アレクサンドリアには3とおりの人間が住む。第1はエジプト人で地元の種族、激 しやすいところがあり市民らしくない」.  このように書かれていた。つまりアレクサンドリアのラコティスで暮すエジプト人は 市民らしくないことから、コーラからの住民と考えられる。.  その他にもストラボンは『ギリシア・ローマ世界地誌』第17巻3節で守備隊につい ても次のように書かれている。.  「歴代の王はアレクサンドリアに見張りを置き、近づくものがあれば追払えとラコテ ィス地区住民に告げていた」.  史料からラコティス地区に住むものは守備隊でもあった。小川によればラフィアの戦 い以後ナイル川上流域を中心とする原住民の反乱が盛んになり、アレクサンドリアの宮 廷ではクーデタが頻発したと述べている。つまり守備隊の役割はアレクサンドリアの外、. つまりコーラから侵入するエジプト人も追い払っていたと考えられる。.  ここで、第4節をまとめると、ラコティス地区に住むエジプト人は、エジプト語とギ リシア語を話せる人たちであったと思われる。また、このエジプト人は、アレクサンド. リアの守備隊でもあった。クレオパトラ7世までのプトレマイオス3世以降の歴代王た ちが、この頻発するエジプト人の反乱を抑えるには、言葉が分かり、戦える部下が必要. であったのであろう。次にもっと具体的にクレオパトラ7世の歴史背景についてまとめ る。. 第5節クレオパトラ7世とその神格化.  まず史料を提示する。プルタルコス『英雄伝』のアントニウス伝27節に以下のこと が書かれている。.  「彼女(クレオパトラ7世)の声音にはまた甘美さが漂い、その舌は多くの絃のある 楽器のようで、容易に彼女の語ろうとする言語にきりかえることができ、非ギリシア人 とも通訳を介して話をすることはきわめて稀で、大部分の民族には、エチオピア人、ト. 16.

(19) ログロデュタイ人、ヘブライ人、デラビア人、シリア人、メディア人、パルティア人の. いずれにも自分で返答した。その他の多くの民族の言語をも彼女は習得していたと言わ れているが、彼女より前のエジプトの諸王はエジプト語を学ぼうとは努めなかった』.  ここから次のことが読み取れる。クレオパトラ7世はエジプト語を話すことができた。. だが彼女以前の歴代の王たちはエジプト語を話せなかった。この違いは重要である。ク. レオパトラ7世がエジプト語を話せないといけない環境にいたと考えられるからであ る。では、なぜこのような環境となったのだろうか。.  その答えは第2節で述べたことにある。第2節ではプトレマイオス4世以降、歴代の 王が変るにつれエジプト人の人口が増加し、同時に勢力も増して反乱が多いことが分か った。つまりプトレマイオス朝末期には、エジプト化していく人が増加した。そこで、. クレオパトラ7世は歴代の王が話すことが出来なかったエジプト語を習得し、エジプト 人との友好関係をとったのである。.  また、彼女以前の王がエジプト語を学ばなかったことから、常にエジプト人の通訳が 必要であったことも史料から想像できる。つまり通訳となれた人物は重要な地位として 認められたと思われる。.  この答えが第3節・第4節である。アレクサンドリアのエジプト人と地方コーラのエ ジプト人について見てきた。ギリシア語を話せたエジプト人は社会的上昇志向を持った. 地方官僚または、アレクサンドリアのラコティス地区の住民であった。ラコティス地区. に住む者は守備隊であることも理解できた。プトレマイオス朝のクレオパトラ7世まで の歴代王はこのラコティス地区に住む者を部下とし、通訳や戦闘に遣わしたと考えられ る。.  しかし、クレオパトラ7世は、アレクサンドリアに住むエジプト人に対しても、コー ラに住むエジプト人に対しても友好的な手段をとったようである。.  これらを決定付ける証拠には、クレオパトラ7世がエジプト女神として神格化され、. イシスとして描かれることがある(図4参考)。このことついてはメアリー・ヘイマー (30)が研究している。.  イシス神はエジプトの典型的な妻および母の美徳を要約したような女神と考えられ ている。オシリス(31)の妹であり妻でもあって、またホルス(32)の母でもあること から、ホルスの地上における化身とみなされていたエジプト王の、象徴的な母となった。. 17.

(20) イシスと現実の王座そのものとの関連性は、彼女の名のもともとの意味が「座」であっ た可能性と、この女神が頭上に戴いている標章がヒエログリフ(33)の「王座」という 文字であることから推測できる。.  イシスはr呪術大いなる者」でもあり、イシスに祈れば幼児の安全を守ってもらえる と信じられており、子どもが怪我をした場合にも、イシスに祈りが捧げられた。.  しかしながら、イシスはまた、その医術の腕前を狡滑さと結びつけて用いることもあ った。太陽神ラー(34)がヘビに咬まれたとき、イシスはラーに向かって、秘密の名前 を教えてくれれば傷を治そうと申し出たと言われている。ラーの秘密の名前を聞き出し. たイシスは、rラーをその特有の名によって知る神々の女主」となり、その知識を息子 のホルスに伝えたために、ホルスは大きな権力を獲得することができた。これがイシス 神である。.  以上がイシスの姿であるが、ヘイマーはクレオパトラ7世とイシスとの関連性につい て次のように述べている。.  王権の神格化はクレオパトラ7世にいたるまで、歴代の王たちによって受け継がれて きた。プトレマイオス朝の女王たちは土着の宗教における数々の女神と結び付けられる. ようになるが、プトレマイオス2世の妻アルシノエ2世はイシスと同一視された最初の 女王であった。このつながりをクレオパトラは利用したとされる。.  イシス崇拝は、プトレマイオスー族がエジプトにはじめてやってきたとき、すでに 2000年も続いていた。この女神は、崇拝後期には多くの属性をもつようになるが、初 期のイメージは母子についてのものであったとされている。.  ラムセス2世(35)時代に書かれた物語はプトレマイオス朝の時代には古典とされて いた。それによれば、イシスは息子ホルスをケンミスの島に隠して育て、殺害された父 神オシリスの復讐を果たせるようになるまで力を貯えさせた。紀元前1000年ころには、 イシス崇拝は精緻化されていったとされる。.  クレオパトラ7世時代のイシスとホルスの母子象は、子を養う母としてイシスを表象 している。エジプトにギリシア人が到来したとき、エジプトの女神イシスは彼らにとっ てなじみぶかいものであった。.  以上がヘイマーの見解である。つまりクレオパトラ7世は古来エジプトでも人気のあ り、馴染み深いイシスと自らを同一視させることでエジプト人との距離を縮め友好を図 っていった。. 18.

(21)  またそのイシスに神格化した姿には、「母」としての姿勢強調もあった。彼女には、. カエサルとの間に息子のプトレマイオス15世(カエサリオン)がいたのである。この 母として神格化した姿も、エジプト人にとっては受け入れやすかったのだろう。.  以上から第1章をまとめる。プトレマイオス朝の歴代の王たちは宗教を除いて、エジ プトの歴史や文化などの知識、言葉を身に付けなかったが、クレオパトラ7世はそうで はなかった。エジプト語を話し、エジプト人にとって馴染み深い宗教を崇拝するなどし. て、エジプト人との距離を縮めた唯一の女王であった。よって歴代王の中で最もエジプ ト人と友好関係を築いた女王であると考えられる。.  以上1章ではプトレマイオス朝エジプトにおけるクレオパトラ7世を見てきた。次章 では、共和政ローマとプトレマイオス朝の関わりからクレオパトラ7世がどの様に関わ っていったのかをみていく。. 19.

(22) 第2章、共和政ローマとプトレマイオス朝エジプトの関わり.  クレオパトラ7世の時代は共和政ローマと関わりがあった。ローマが王政から共和政 になったのは、紀元前509年であり、クレオパトラ7世が生まれるほぼ470年も前のこ とである。この470年の歴史を詳しく振り返ってみる必要はないが、プトレマイオス朝 と共和政ローマとの関係性や共和政ローマの政治と属州について見ていく必要がある。. これらを理解していないと、クレオパトラ7世の生まれた時代と共和政ローマ末期との 関係が理解できないからである。そこでまず、長谷川の研究(36)をもとにして共和政 ローマの歴史について以下まとめ、共和政ローマがどのようにしてプトレマイオス朝エ ジプトに干渉していったのかを考察していく。. 第1節、共和政ローマの歴史と政治の仕組み.  ローマは前509年に王政から共和政となった。だが注意しなければならないことは、 ローマは決して「民主政」に変ったのではないということである。つまり貴族政的な共. 和政なのである。そのため、政治の中心を形づくるのは貴族であった。ところが、貴族 といってもそれは時代によってずいぶんと違っていたようである。共和政になったころ. は、ローマ人は貴族(パトリキ)と平民(プレブス)とに分かれて、貴族が政治の実権 をにぎっていた。なによりも役職につけるのは彼らだけだったとされる。ところが、平 民は貴族に対して身分闘争をくりひろげて、とうとう政治的に、そして社会的にも貴族 と同等の権利を得ることになった。これを定めたのがホルテンシウス法(37)と呼ばれ る法律である。.  そして、この頃までにほぼイタリア半島を平定したローマは、ますます支配領域を拡 大していった。まず、北アフリカのカルタゴとの3回に及ぶポエニ戦争(38)があった。. それは紀元前3世紀から前2世紀なかばまでの大戦争であり、勝利したローマは西地中 海を制覇した。.  このように外にむかっては地中海全体を支配するようになったローマでは様々な問 題が生じてくる。それが共和政末期に繋がっていった。とくに共和政ローマの政治機構 に大きく関わりがあった。そこで以下から政治の仕組みを見ていく。.  ローマが領土、支配領域を拡大してゆけたのは、ローマを支える3本の柱がしっかり. 20.

(23) していたからである。.  この3本は元老院、民会、政務官という官僚の制度であった。はじめはこの3本の釣 り合いがたもっており、3本のうちの1つだけが発達せず、機能しないというようなこ とはなかった。ローマが他の国よりすぐれているのはこの点であるとギリシアの歴史家 ポリビオス(39)は述べている。この3本のうち1番重要とされたのは元老院であった。. この議員は終身であった。そして彼らは、一種の身分のようなものを構成していた。こ. れはローマで1番高い身分の人たちであった。  もっとも古いころ、ローマが王政だったころは、王のまわりの長老の人たちが元老院 をつくっていた。ところが、時代がたつにつれて、高級の役人に就任した人が元老院議 員になることになった。この高級の役人というのは、後で述べる官僚制度の中心をなす 人たちであった。.  元老院の仕事はことを決定してゆく機関でもなく、またことを行ってゆく機関でもな かった。立法や行政には直接関係がない。一種の諮問機関にすぎないのである。特別な ことがらについて、どうしたらよいのか聞き出されると、それにこたえるという機関で. あった。形の上では受身の組織である。そのような諮問機関が、ローマでもっとも重要 なものまでに成長したのは、一度元老院議員になったものは、一生議員の椅子について. いられるというシステムであった.役人は、原則として任期が1年、しかも同じ役職を 1人で占めるのではなく、いつも複数制だったので、彼らは行政権をにぎったとしても、. 絶対的な権力を持つようにはなれない仕組みだった。それに加えて、高級の役人が、結 局そのまま終身の議員である元老院議員になるのである。.  このように元老院・元老院議員の力は強かった。とくにこの機構は、外国との関係に おいて大きな意味をもち、重要な役割を果たした。役人は毎年変るが元老院議員はかわ らずそのままである。そこでローマは、元老院によって不動の外交政策をおし進めるこ. とが出来たとされている。またそのときの国家全体の立場にたち、その方向を見定めて 的確な判断を下した。.  次に役人・政務官についてまとめていく。これまで述べてきた元老院の役割から考え ると、役人=政務官の地位や発言力が低いようにみえるが、そうではない。高級の役人 の位についた人が、そのまま元老院議員になったとされ、両者の関係は密着したもので あった。そこでローマ人は役人・政務官として立身出世したかったのである。役人は、. 任期1年、しかも同じ官職に、いく人かの人が一緒に就任した。これは、1人の手に権. 21.

(24) 限が集中するのを防ぐものであった。役人二政務官には段階があって、順序を踏んで上 の官職に就任してゆくシステムであった。しかも、高級の役人は選挙によって民会で、. つまり全民衆によってえらばれた。段階をふむことと選挙ということは、国民の意思に 支えられることの重要性を示している。.  最高の政務官は、コンスル、日本語で統領または執政官と訳される。これは2人であ った。その下がプラエトル、日本語で法務官と訳されるが、その権限は司法関係にとど. まらない、もっと広いものであった。最初は2人、次いで6人、と増えていった。カエ. サルの時代には16人まで増やしている。このコンスルと法務官の2つの官職に特別な 権限が付随していた。この両ポストの人たちのもっ権限は命令権(インペリウム〉とい われた。命令権とは文武の大権とされている。文というのは、民会や元老院を召集でき る権限、武とは、外にむかって「軍指権」をふるえる権限であった。.  ローマの政治家の昇進のコースは、財務官→(護民官→)按察官→法務官(プラエト ル)→執政官(コンスル)という順序であった。そのなかでは、法務官とコンスルが別. 格で、文武の大権を持っていた。またこの上には5年に一回選出される監察官や国家非 常の際設けられる独裁官などがあった。.  次に重要なのは、政務官は給料をもらわなかったことである。だから彼らは無給であ った。官職が無給だったから、政務官になれるのは、ある程度以上の財産をもった人に 限られていた。そのためローマの政治体制の、本質は貴族政ということになる。.  原則的には役人イコール軍人であった。とくに高級の政務官になることは、軍隊を率 いて戦うこと、軍人として武勲があげられることを意味した。つまり役人になり、国家 最高の官職につくこと、それがローマ人の理想であった。  次に民会についてまとめていく。民会は選挙・立法の機関、それに司法機関でもある。. 民会にはいくつかの種類があった。ある1つの民会でことがうまくゆかなくなると、ま た別の民会をこしらえる。だからといって、前からある民会は民会でそのままのこして おく。したがって、同じく市民の総会といっても、いくつかの民会が並存することにな る。時代に適合しなくなった古い制度や機構でもそのまま残し、新しいものが必要なら ばそれにプラスしてゆくものであった。.  また民会といっても、実際は全ローマ市民の意思がそこに十分に反映されていたとは いえない。実に巧妙に、貴族のおもうままに運営され、なによりも民会は市民の発議で 催されるのではなく、召集するのは、役人であったとされる。. 22.

(25)  つまり共和政ローマの政治は貴族による支配が大きいと思われる。次にこれらの制度 の崩壊についてまとめる。.  元老院・政務官・民会の柱が保っている限り、問題はなかった。ところが、それが紀 元前3世紀末ごろからあやしくなってくる。.  ローマの拡大を支えたのはこの3本の柱であったが、3本の柱の釣りあいを崩すのも ローマの拡大によるものとされる。.  ここで、役職の数を見る必要がある。コンスルの数は2、法務官は6(カエサル時代 には16まで増える)、按察官は4、財務官は8、護民官は10であった。.  しかも、このうち、法務官の2名、財務官の2名、按察官と護民官の全員が中央ロー マでの政務にあたらなければならなかった。よって軍務や属州支配には、ただ10人強 の政務官しか割り当てられなかった。任期延長などの手段も講ぜられたが、それではど うにもならなかった。都市ローマ、イタリア、属州、さらに対外関係、これらはすべて 元老院で審議され、それが政治的決定の一切を支えることになった。.  このようにして3本の柱が崩れていく。もともと地位や発言力の大きかった元老院あ るいは元老院議員がさらに高まり、新しい身分が誕生した。それは元老院議員身分とい われる身分が登場してくる。.  次に、属州の拡大が影響を及ぼしてくる。在来の官僚組織では膨大なローマの支配領 域を統治していくことはむずかしくなった。またローマの拡大が、ただ単に政治機構だ けでなく、ローマの社会構造の変化もうながしたとされる。.  では次に属州とは具体的にどのようなものであったかについてまとめていく。. 第2節共和政ローマの属州統治体制.  属州とはイタリア半島の外のローマの支配領域をさす。属州はコンスルや法務官の権 限の及ぶ範囲といわれていた。ところが政務官の数は限られていたが、属州は増加して いった。そのためコンスルや法務官の職についた人が、それらの官職を退任したのち、 コンスル代理または法務官代理となり、統治地域として属州を割り当てられた。.  属州は法的には降伏した外国、すなわちローマの支配領域であり、その点、根本的に イタリアとは異なっている。同僚制の枠が無く政治家は属州では絶対的な権限がふるえ た。. 23.

(26)  そのために、属州はローマの政治家にとって搾取の場となった。政治家には金が必要. となる。本章第1節でもみてきたように、政務官としても元老院議員にしても俸給はも らえず、ローマでの役職は経済的にマイナス以外のなにものでもなかった。人気とり政. 策のために借金もかさむことになる。そのため、ローマでの官職を終えたのちに割り当 てられる属州での統治を借金の穴埋め場とした。その巨万の富は選挙に使い、この繰り 返しによって政界を一歩一歩上がっていったとされる。.  後に述べるがカエサルは属州ガリアを、彼の政敵ポンペイウス(40)は東方とスペイ ンを地盤とした。また属州に対してどのようにほどこすかが、政治家の腕であったとさ れる。.  このように、ローマの政治と属州は密接に関連している。このような、共和政ローマ にとってエジプトはどの様な存在であったかを史料を提示しながら以下から見ていく。.  まずプルタルコスr英雄伝』ポンペイウス伝50節は次のように述べている。. 「ローマ市住民への穀物補給を統轄する地位に立ったポンペイウスは、到るところに部. 将・腹心を派遣し、またみずからはシシリー、サルディニア、アフリカを経めぐって穀 物を集めた。乗船にあたって、海上に大風がすさみ、水夫から逡巡の色を見せたときに は、彼は衆人に先んじて船に乗り込み、水夫らに船をやることが必要なのだ。生命など 必要ではないと一喝した。かくも盛んな意気に幸運を兼ね具えたポンペイウスは、取引. 所という取引所を穀物でみたし、海という海を船で充たすほどの成果を収め、やがて豊. かに集められた穀物はローマ市以外の住民にも恩恵を与えて、そのさまは渡々とあふれ 出る泉が惜しみなく万人をうるおすのに似ていた』. スエトニウス『ローマ皇帝伝』アウグストゥス伝42節 「私は穀物の無償配給という公の制度を、永久に廃止したい衝動を覚えた。なぜなら、. これに依存して畠の耕作が放棄されているのだから。しかしこの衝動を維持できなかっ. た。いずれまた民衆の好意を得るために復活されることは間違いないと確信したからで ある』.  このプルタルコスとスエトニウスの史料からは、ローマ人にとっていかに穀物が重要 であったことが読み取れる。エジプトは穀物の宝庫とされている。そこで、ローマの政. 24.

(27) 治家は、穀物を欲しがる民衆の支持を得るために、穀物の豊かなエジプトを狙っていっ たのだろう。.  またこの他にも、第1章第1節でも少し触れたが、ローマがエジプトに干渉するのは、. プトレマイオス6世以降である。そこで以下にその史料を提示する。. トログスr地中海世界史』31巻一2節  「シリア王アンティオコス(4世)は彼の姉妹の上の息子、エジプト王プトレマイオ ス(6世)に対して戦争を仕掛けた。このエジプト王は全くのろまで、毎日の贅沢でだ れ切っていたので、王位の義務を放榔したばかりでなく、肥えすぎて人間的感覚をも失 っていた。それ故、彼は王国から追放されて、弟のプトレマイオス(8世)のところへ、. 逃亡した。そして弟と王国を共有し、使者をローマヘ、元老院に向けて送って援軍を求 め、ローマが同盟の義務を忠実に果たすよす懇願した。この兄弟の願いは元老院を動か した。』. トログスr地中海世界史』31巻一3節  「そこで、アンティオコスの所へ、エジプトから手を引き、もし既に侵入した後なら 引き揚げるように、と命ずるために、使者ポピリウスが派遣された。』.  つまりこの2つの史料から読み取れるように、プトレマイオス朝はセレウコス朝シリ アの攻撃から自国を守るために、ローマの政治家ポピリウスに頼ったのである。この出. 来事により、プトレマイオス朝はローマに助けられたのである。またこの出来事からプ トレマイオス朝はローマに干渉されやすい国となったと考えられる。.  以上のことからエジプトにローマが関わってくるのは、1つは穀物を狙ってたからで あり、もう1つは、プトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス6世の時代にローマの. 力を借りて、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世から逃れることができたからで ある。.  このようにして、エジプトはローマによって干渉されるようになり、エジプト属州化. への秒読みが開始されるのである。そのため、プトレマイオス6世以降から、王の地位 は不安定となり、クレオパトラ7世にも影響していったのだと考えられる。.  そこで次に、クレオパトラ7世の直前に王位についた、プトレマイオスU世とプト 25.

(28) レマイオス12世について、共和政ローマとの関係をみていく。. 第3節 プトレマイオス11世、12世と共和政ローマ.  以下では浅香の研究によりながら、プトレマイオス11世、プトレマイオス12世とロ ーマとの関わりについて考察する。.  第1章で述べたように、ローマの権力者スラが、プトレマイオス9世の後継者として、. プトレマイオス10世の息子プトレマイオス11世を王位につけた。プトレマイオス11 世は自分のいとこに当たり、しかも父10世の王妃であったクレオパトラ=ベレニケと 結婚したが、わずか19日で彼女を殺害した。そのため、アレクサンドリア市民は、11 世の暴行に怒りプトレマイオス11世を殺害してしまう。.  その結果11世のいとこに当たるプトレマイオス12世が王位についた。彼の治世に妙 な事件がおきている。プトレマイオス12世は、ローマとの相談なしにアレクサンドリ. ア市民によって、王位につけられた王であったが、前65年、11世の遺言状なるものが 発表され、その内容は王国をローマ国民に託すというものであった。この遺言状なるも. のがはたして11世によって書かれたものであるかは疑わしいが、ローマ側にとっては 有利なものであった。ローマはこれを12世にほのめかすことによって巧みに懐柔する ことができた。そのためプトレマイオス12世の地位は不安定なものとなった。  エジプト人は、運命がいつもローマの元老院かローマ国民の決定に依存し、しかもか. かる横暴な態度に対してただ嘆願と贈与によってのみしか対応できない臆病な国王に. 対して憤慨を感じざるをえなかった。そこでプトレマイオス12世はエジプト人の勢力 を恐れ、それに対抗するために外国の勢力に頼ろうとした。彼は自己の地位の安全を確. 保するため、パレスティナ地方を征服していたポンペイウスに8000人の騎兵を提供す べく国庫の支出を考えていた。これはエジプト人にとって、明らかな裏切り行為と思わ. れた。アレクサンドリアには12世に対する反対の空気が広がっていった。恐れをなし た12世はポンペイウスの援助を求め、多くの贈り物や衣料、貨幣を贈り、アレクサン ドリアの安定を期待した。しかしポンペイウスは贈り物を受領したが、アレクサンドリ. ァヘの進駐を断った。彼はエジプト問題についてはきわめて微妙であり、感謝されるこ とはないと考えていたからである..  だがローマ人の干渉の噂だけでアレクサンドリアの動揺を一時的に鎮めることがで 26.

(29) きた。一時的であるにせよプトレマイオス12世は急場をしのぐことに成功したが、彼 はより確実な自己の地位の保証を必要とした。それは、上述で紹介した、プトレマイオ. ス11世の遺言状の解決であった。この遺言状により、いつもプトレマイオス12世は地 位が不安定であった。.  プトレマイオス12世はローマに秘密の連絡員を派遣して、つねにローマの政界の動 向に注目していたが、前60年に第1回三頭政治(41)が成立し、プトレマイオス12世 が頼りとしていたポンペイウスまでが、カエサルおよびクラッススと同盟し、ローマ政. 界を支配した。つまり、プトレマイオス12世の地位が危うくなった。.  そこで、プトレマイオス12世は自己の将来を案じて三頭政治と取引をはじめた。彼 らはローマ民衆の支持を確保するための費用が必要であったので、カエサルは6000タ. タントンの金を要求した。プトレマイオス12世はこの金額で、プトレマイオス王の地 位を確保し、正式に「ローマ国民の同盟者にして友邦者」となった。プトレマイオス. 12世は前80年プトレマイオス朝の王位について以来20年ぶりではじめて正式にロー マからその地位を認められたことになり、実に長い年月と多額の費用を必要とした。し かしエジプトはまだ属州にはいたっていない。.  このようにしてプトレマイオス12世は安定した地位を得た。だがこれは束の問の夢 であった。.  カトー(42)にキュプロス島をローマに併合せしめる法案を、三頭政治が出したので ある。これは三頭政治にとって、共和主義の立場を堅持しようとする保守派のカトーを. 遠ざける目的であった。そのほかにもこの法案提出には理由があった。前67年ポンペ イウスによって平定されるまで地中海を荒らしまわっていた海賊に対して、プトレマイ. オス12世の弟にしてキュプロス王であったプトレマイオスが援助を与えていたからで ある。.  これにより、プトレマイオス朝はキュプロス島を失うこととなり、12世の弟である プトレマイオスは自殺した。多くの財宝がローマに運び込まれ、キュプロス島は前58 年にローマの属州となった。.  この間プトレマイオス12世はどのようにしていたのか。第1章でみたように彼は統 治にだらしながかった。プトレマイオス12世はr笛吹き」とよばれたほどに日ごろの 行状は放将であった。キュプロスの支配者であった弟プトレマイオスに対して積極的援 助を与えなかった。また、カエサルの要求に応ずるためきびしい租税を徴収した。その. 27.

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