1902-17年(大選挙区制)・政党活動に関する一考察 : 兵庫県を中心として
152
0
0
全文
(2) 第3節 県会議員選挙における公民団体の候捕者. 選定機能の変化. とであるのかを検証するものである。具体的 に検証するのは、都市の中でも港を持ってお. 第4節 公民団体と候補者選定の実例. り、さらに「三府神奈川県区郡部会規則」に. 第1項. 神戸市会選挙の概要. おいて市部の予算が郡部と分けられていた東. 第2項. 競争度の穏やかな区. 西主要都市である大阪市、東京市をその対象. 第3項. 競争度の激しい区. として考察する。研究の結果以下のことが明. 第5節 小括. らかになった。明治政府は、小選挙区制から. 第3章 神戸市と他市との政治状況の比較. 大選挙区制へと選挙区を移行する事によって、. 一東京市・大阪市を中心として一. 地方名望家の復活、さらに政党勢力の減退を. 第1節大坂と神戸の比較. もくろんだが、実際には自由党系、改進党系. 第2節 東京と神戸の比較. の二大政党に更なる伸張の機会を与えること. 第3節 小括. となってしまった。兵庫県下において、自由. 終章 本研究の成果と今後の課題. 党系は、政覚としての発言力を同派地域内政 治団体にその影響力を高めることによって堅. 3、研究の概要. 固な組織的選挙を展開する。また改進党系は、. 第1章では、県下における郡部を中心とし. 党としてというよりむしろ候補者個人と地域. て大選挙区制下における自由党系、改進党系. 内政治団体との関係を深めるようになる。こ. の所謂二大政党化が大きく進展する原因を衆. のように同じ政党といえども選挙活動に顕著. 議院総選挙、県会議員選挙の結果及び、地域. な違いが現れる。そして、同時期から市部と. 内政治団体の候補者選定機能の変遷に於いて. 郡部では、企業利権を主とする地域と、地域. 考察する。本章では、政党支部と地域内政治. 利権を主とする地域とに明らかな差が生まれ. 団体が果たした役割、そして兵庫県の政党の. ているのである。さらに近郊都市間において. 展開における政治的基盤の変化、さらに二大. は、都市の発展に伴い人口の流出が選挙にも. 政党の選挙戦術における相違を明らかにする. 大きな影響を及ぼし、都市間における地域圏. ものである。. を構成していたのである。. 第2章においては、先に明らかにした郡部. 最後に、制限選挙制下では、地域一丸(地. での結果を受け、市部と郡部での政党間の競. 域政治団体を含む)となって候補者を選定. 争率・地域政治団体の選挙における特徴につ. (選定の会議を開く、あるいは予備選挙をす. いて考察する。市部における政治闘争は、地. るなどその形態は様々である)し、そして他. 域的利害対立や利権誘導の抗争というより寧. の地域・同利権組合において支持を取り付. ろ、企業利益を代弁するもの同士の争いであ. ける。言わば地域・同利権組合が、選挙運. ることを明らかにするものである。. 動の主体であったことが戦前の制限選挙下. 第3章においては、前章において明らかに. においては言えるのである。. なった市部選挙の特徴が、本県のみで行われ. 主任指導教官 藤井徳行. ていた特異なことであるのか、若しくは同時. 指導教官 藤井徳行. 期における主要都市の共通に起こっていたこ.
(3) 1902−17年(大選挙区制)・政党活動に関する一考察 一兵庫県を中心として一. 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 教科・領域教育専攻 社会系コース. M99517H中村剛之.
(4) 【凡例】. 1、史料の引用にあたっては、原文に句読点のないものは、そのまま引用した。. 2、史料の漢字については、できる限り原文の旧字体のまま引用するように努 めたが新字体に改めたものもある。 3、史料の平仮名と片仮名については、現在使用されていない仮名も、すべて 史料の通りにそのまま使用した。 4、新聞史料の漢字に読み仮名をつけているものもあったが、読み仮名は省略 した。. 5、史料の表現の中に現在では、侮辱・辱称などを含めた不適切と考えられる 語句も、引用ではそのまま用いた。.
(5) 目次 1. 序章 本研究の目的と意義. 第1章明治後期・大正時代の兵庫県の興部における政治状況一5 一県会議員選挙・衆議院選挙の分析を中心に一. 第1節 衆議院選挙、県議員選挙結果にみる政治勢力の変遷概況一6. 第1項 第2項 第3項 第4項. 選挙制度の概要幡一. ∼. 6. 政党支部・倶楽部等の成立状況. 8. 第7回から第15回衆議院選挙結果の概況. 9. 県会議員選挙結果の概況. 10. 大選挙区制下での郡部の衆議院選挙・県会議員選肇と塑些塾政. 第2節. 11. 治団体の動向. 第1項. 響町における名望家支配状況. 11. 第2項. 大選挙区制下での衆議院選挙・県会議員選挙と地域内政治団. 体の動向 〆’. ①大騨圃下職腿挙と繊内政治団体の動向 区制下県議選挙と地域内政治団体の動向. ②大. 第3節 動向 第1項. 挙区制下の衆議院選挙・県会議員選挙と地域丁丁丁丁鯉 県議会選挙への小選挙区導入. 第二次護憲運動と第15回衆議院総選挙 第2項 第4節 小括. 第2章. 23 23 34. 〆{\ 明治後期・大正時代の兵庫県の市部における政治状況 ・’一ノ. 36 36 37 38.
(6) 一市内(神戸市)における選挙状況の変化を中心として一. 第1節 各選挙における党派別得票議席数と得票率. 第1項衆議院総選挙における党派別議席数 第2項県会議員選挙における各党派別議席数. 第3項. 党派別得票率の状況. 第2節 兵庫県の各市郡における競争状況 第1項 衆議院議員選挙における競争率 第2項 県会・市会議員選挙における競争率 第3項. 投票率との関連. 第3節 公共団体の候補者選定機能 第1節. 公民団体の誕生. 第2節. 衆議院選挙における公民団体の活動. 第3節. 県会議員選挙における公民団体の候補者選定機能 の変化. 第4節 公民団体と候補者選定の実例 第1項神戸市会選挙の概要 第2項 競争度の穏やかな区 第3項 競争度の激しい区. 第5節 小学. 第3彰輪と@》との政治状況の比較. 52 53 53 56 58 61 61 64 73 74 74 75 77 81 81 83 88 97. 118. 一環京市・大阪市を中心として一. 第1節 第2節. 大坂と神戸の比較. 東京と神戸の比較. 第3節 小括 終章 本研究の成果と今後の課題. 119 130 136 142.
(7) 序章 本研究の目的と意義 本研究の目的は、選挙を最大の政治問題する視点から、1902−17 年(大選挙区)の政党活動について明らかにする。. 従来の日本近代政治史研究においては、明治時代の国会開設から政党政 治の実現までを日本憲政史の発展として研究したものや、昭和期から政党 政治崩壊を研究したものがある。. 前者の日本憲政史の発展研究においては、着実に政党が国会における影 響力を強めていった過程、後者の政党政治崩壊の研究では、大正デモクラ シーの未発達さが明らかにされている。. 本研究の時期は、前記した従来の研究の丁度中間点にあたる明治後期か ら大正期の地方政治に焦点をあてることによって、近代日本の地方政治の 実態を明らかにするものである。. さらに、本研究はこの地方政治の対象地域を兵庫県とした。この兵庫県 の近代史研究は、先行研究者の粉骨砕身の努力をもって、様々な歴史的事 実が近来の研究成果により明らかにされてきている。. しかしながら、兵庫県下において未だ解明されていないものが多く存在す るということも否めない事実である。. 兵庫県下における近代政治・政党史の研究に関しては、藤井徳行・石川. 芳己両氏による「兵庫県・第1回総選挙の研究」1および「兵庫県におけ る第1回総選挙」2があり、第1回衆議院総選挙の実施状況・立候補者・ 選挙活動などの実態について、明らかにされている。また兵庫県下におけ る大同団結運動や第1回総選挙での政党活動を明らかにした、藤本百男氏 の研究3や、地域の視点から高砂地方における大正デモクラシーゐ意義と、. それは河合義一を起点展開することを明らかにした小南浩一氏の研究4や、 兵庫県下における改進党系政治運動を明らかにした奥村弘氏の研究5や、. 但馬地方を:事例に1920(大正9)年と1924(大正13)年の総選挙の 青年団体動きを中心に分析し、旧来の地域名望家秩序が動揺し再編されて いく過程を明らかにした伊藤之雄氏の研究6がある。. 1.
(8) 以上のような地方政党の研究は、地域の利害対立や利権誘導がその中心 的テーマとして扱われてきた。. その際に、ある地域ある特定の問題に焦点があてられて、その問題に対 する各政治勢力の動向が描かれ、その結果が選挙にどのように表われるの を追究する手法が用いられている。この手法は非常に有意義である。. しかし、本稿では上記のような手法と別に、特定の問題に焦点を置かず に、選挙自体を最大の政治問題として捉え、各政党における候補者選定の 仕組みや競争の仕方に注目することによって、大選挙区下における兵庫県 の政党活動の浸透について考察することとしたい。. また、従来の衆議院総選挙を中心とした研究では、川人貞史氏の研究7が. ある。同氏はその著書『日本の政党政治 1890−1937年』におい て地方における選挙を主体とした研究が困難であり、その研究の可能性に 対して否定的である。しかし、近年の季武嘉也氏8や櫻井良樹氏9の研究成 果により、今まで困難とされていた地方における選挙自体を主体とした研 究が可能となったのである。. 本研究は、上記の研究成果を踏まえて対象地域を兵庫県として研究をす るものである。. 次に、兵庫県を考察する意義について述べる。兵庫県は周知の通り、廃 藩置県後、摂津国川辺以西の五郡、播磨国、但馬・丹波三郡、淡路二二な どの全く異なった地域を統一して出来た県である。. 成立時に関しては、「寄せ集め」的な背景を持つ兵庫県であるが、戦前 の日本屈指の貿易港である神戸港が存在することによって、市部と郡部の 二極化も進み、その結果として三部制経済を取ることになる。. このような大きな地域差のある郡部と神戸市のような大都市を持つ兵 庫県は近畿圏地域の縮図と捉えることが出来るからである。. さらに、1902−17年の大選挙区制下を中心にしたのは、市部と郡部の 差があるが、県下を大きく二区に分け選挙戦をすることになる。. これに勝利するためには、地域を越えた提携、若しくは地盤区における 徹底した票の確保が重要な課題となってくる。. しかし、県下では明治22年∼23年大同団結以降、自由派系政党、改進. 2.
(9) 派系政党の二派に二分されているのである。. この二派がどのようにして県会、衆議院選挙を通して政党活動をしたの かを述べるものである。. 以下は、第1章より順に本研究の内容について略述する。. 第1章では、県下における郡部を中心として大選挙区制下における自由 党系、改進党系の所謂二大政党化が大きく進展する原因を衆議院総選挙、 県会議員選挙の結果及び、地域内政治団体の候補者選定機能の変遷に於い て考察する。. 本章では、政党支部と地域内政治団体が果たした役割、そして兵庫県の 政党の展開における政治的基盤の変化、さらに2大政党の選挙戦術におけ る相違を明らかにするものである。. 第2章においては、先の1章で明らかにした郡部での結果を受け、市部 と郡部での政党間の競争率・地域政治団体の選挙における特徴について考 察する。. 本章では、郡部と市部の違い、つまり市部における政治闘争は、地域的 利害対立や利権誘導の抗争というより寧ろ、企業利益を代弁するもの同士 の争いであり、市部の特殊な政治体制を明らかにするものである。・. 第3章においては、前章である第2章において明らかになった市部選挙 の特徴が、本県のみで行われていた特異なことであるのか、若しくは同時. 期における主要都市の共通に起こっていたことあるのかを検証するもの である。. 具体的には、都市の中でも港を持っており、さらに「三府神奈川県区郡 部会規則」において市部の予算が郡部と分けられていた東西主要都市であ る大阪市、東京市をその対象として考察する。. 最後に、研究を進める上で、地方政党選挙史料に関する制約が多いため に、主に地方有力紙である『神戸三新日報』を中心として『毎日新聞大阪 版』『神戸新聞』その他の地方新聞の記載を中心に考察するものである。. 論文の構成は3章立てとする。各章において各選挙の得票分析とさらに 各地方党派における候補者選定過程を考察する事によって研究を進めて いくものである。. 3.
(10) 1藤井徳行・石川芳己r兵庫県・第1回総選挙の研究一公民教育基礎資料. 一」『学校教育研究』学校教育学会 第3巻 1992年 149∼17 7項 2藤井徳行・石川芳己「兵庫県における第1回総選挙一氷上・多紀郡を中. 心として一」『選挙研究』日本選挙学会年報 8号 1993年 102. ∼118項. 3藤本百男「兵庫県における第1回総選挙の研究一兵庫県第六区を中心と. して一」『法政論叢』日本法政学界第32巻 1996年143∼15 4:項及び、同氏f明治2ユー23年・兵庫県の政党活動に関する一考察」 『兵庫教育大学大学院修士論文』 平成5年 4小南浩一「大正デモクラシーと河合義一 一東播磨高砂地方を中心とし て一」『兵庫教育大学大学院修士論文』平成5年 5奥村弘「兵庫県にける改進党系政治運動の展開過程」『神戸の歴史』2. 0号 1990年. 6伊藤之雄『大正デモクラシーと政党政治』山川出版社 1998年 3. 73項. 7川人貞史『日本の政党政治 1・890−1937年』東京大学出版会 1. 992年. 8季武嘉也「戦前期の総選挙と地域社会」『日本歴史』544号1993年 9櫻井良樹「東京市における『予選体制』について」『ヒストリア』164号 1999年. 4.
(11) 第1章 明治後期・大正時代の兵庫県の郡部における政治状況 一県会議員選挙・衆議院選挙の分析を中心に一. 5.
(12) 本章においては、兵庫県の郡部における衆議院議員総選挙と県会議員選 ドロハロ. ロ ロ. ザ. 挙の頒埜慰とによって・麟齢と繊瞳塗団体が果たし廻 及び県下の政党の展開における顧基盤2∼.変副堕.明ちかにするものであ る。. 第1節 衆議院選挙・県議会選挙結果にみる政治勢力の配置と変 遷の概況. 第1項 選挙制度の概要 まず、本項で選挙制度の概要について確認しておきたい。衆議院選挙制. 度については、その当初厳しい制限があり、選挙権は満25歳以上、被選. 挙権は満30歳以上の男子で1年以上のその府県に本籍を定め住み、さら に引き続き住むもので、満一年以上直接国税15円以上を納入し、直引き 続き納入しうる者という厳しい要求がつけられていた1。. その後1900(明治33)年、1919(大正8)年の二度にわたり、納税 要件の引き下げがあり,1925(大正14)年の選挙法の全面的改正(所謂 普通選挙法)により、ようやく男子普通選挙が実現した。制限選挙下での兵. 庫県では、1917(大正6)年時点で、県人口に対する有権者数の比率は 2.82%にすぎなかったのに対して、1920(大正9)年の改正で5.60%と なり約倍近くの人間に選挙権が広げられ、全体から見ると少数とはいえ広. い社会層の人間の主張が世論として政治の中に反映される結果となった のである。. 選挙区に関しては、その当初原則として小選挙区制度が採用され、選挙. 区の分割がなされていたが1902(明治35)年8月に実施された第七回. 総選挙から1917(大正6)年4月の第13回総選挙までの計7回につい. 6.
(13) ては、全県を郡部と市部に分ける大選挙区制度2(定数十四)が敷かれた。1. 920(大正9)年5,月実施の第14回総選挙以降は再び小選挙区制が敷かれ 県内を14区に分割し選挙(定数18名)が行われた。. 次に県会議員選挙制度の概要について見てみたい。1878(明治11) 年制定の郡区町村編成法・府県会規則・地方納税規則の所謂地方新法が公. 布された3。このことによって、全国的に府県議会が設置されることとな った。こうして下郡役所管轄区域に選挙区が敷かれたのである。翌年の初. 期議会の選挙では県下を1区33郡に分かち、各区とも定員は2名ないし 3名で総定員74名としたのである4。その後数回にわたり、抽選による 半数改選や人口の増加によって定員の増加が行われたのである。この中で 県下の当時唯一の区である神戸区は、開港場として他の郡部とは異なる発. 展をしたのである。人口においては、1878(明治11)年に4万であっ たのが1881(明治14)年では6万人台となり、実に3年で1.5倍の急成 長をしていったのである。当然、神戸区は他の郡部と異なった政治組織が. 必要となった。それに対応して1881(明治14)年の県会で所謂三部経 済制5が成立し、その後三部制が神戸区では取られていくのである。この ように郡部と異なる発展過程をとった市部は、その地域政治団体の組織に. おいても郡部のものとは明らかに異質である。この点に関しては、第2章 において考察する。. その後は府県制・郡制が公布、改正され、1899(明治32)年3月16 日の府県制・郡制公布で大きくその内容が変更された。その要点としては 府県を法人とし、複選制の廃止、知事の統括代表権の明確化など(従来の府 県制廃止され、従って議員の半数改選も廃止となった)がある。これによっ. て府県会議員選挙は直接選挙によって行われることになり、「府県内ノ市町 村公民ニシテ市町村会議員ノ選挙権ヲ有シ、且其ノ府県内二巴テー年以来直接. 国税年額三円以上ヲ納ムル者」6になったのである。同年7月1日に府県制 (明治32年法第64号)施行により議員一同失職し、府県制及び勅令(明治. 32年第285号)により議員定数が市部12名、郡部40名となる(総定員52 名)。その後同年9月25日に県会議員選挙が行われる7。. さらに大きな変化としては1922(大正11)年の府県制改正公布によっ. 7.
(14) て市町村の公民であって、一年以来その府県内について直接国税を納める 者に、選挙権を与える事として納税額の制限を撤廃し、選挙権を広げたの. である。これによって有権者数は約270万人から530万人となり、従来の 倍の有権者数となったのである8。. 最後に1926(大正15)年の府県制、市制、町村制各改正公布では、前 年の所謂男子普通選挙法(1925(大正14年)成立を受けて、これと同様 に選挙権・被選挙権の制限を撤廃したのである。9. 第2項政党支部・倶楽部等の成立状況 すでに国会開設直前から大同団結運動10が大規模に展開され、来るべき 衆議院選挙に向けて政治活動が一段と活発になった。. 先の大同団運動で1889(明治22)年に分裂した大同倶楽部と大同協 和会11やその他、愛国公党(高知県の自由民権派であるが兵庫県人も多数 参加している)、兵庫県同志会、播磨倶楽部、関西倶楽部、氷上自由倶楽部、 山陽二会(刑事事件を起こし解散)、兵庫倶楽部、自由同盟、自由党勢力と、. 交誼会、加東郡正義会、牛神倶旧館、湊川倶楽部各市郡に自由党系、改進 党系の神戸倶楽部、湊東倶楽部、神門倶楽部などの政治団体が多数存在し 12、各回単位で、自由党系、改進党系倶楽部が成立が見られるようになっ. た。こうして1890(明治23)年8月に結成された立憲自由党(愛国公党、 自由党、大同倶楽部、九州同志会の4派により結成)に県下自由党諸団体の. 指導的メンバーが加盟することとなる。なお、改進党系は当初より地主的 な性格を持ち地方名望家や名士などが中心であった。. その後、中央政党の流れを概略的に説明すると、改進党系は、自由党勢力. に対抗すべく、立憲改進党中心の進歩党が1896(明治29)年に結党さ. れ、1898(明治31)年に憲政本党となった。また、自由党系は、政党 否認を捨てた伊藤博文が自由党系の憲政党を吸収して立憲政友会を結成. し、二大政党対立する事になる13。県下においては、1901(明治34) 年7月に政友兵庫支部(自由党系)の発表会が行われ、三野耕三が三会の理. 8.
(15) 事を努めていた。これに対して憲政本党(改進党系)は、その他諸派と合同. して1910(明治43)年三月に立憲国民党を結成し、政友会(自由党系) と対立姿勢を見せた。同年四月には国民党兵庫県支部の発表式が行われ、 会長に鹿島秀麿就任することになったのである14。. 以上のように、明治中期・後期を通じて市、郡単位での政党組織の強化が. されるように至ったのは、1902(明治35)年実施の第七回総選挙以降、 全県市国別の大選挙区制が導入され、選挙を戦うために、市郡レベルでの 政党組織の強化と浸透を必要としていたからであった考えられる。. 第3項第七回から第十五回衆議院議員総選挙結果の概況. 表1の1衆議院議員選挙政党別獲得議席数 自由 改進 そ の. シ. }系 }系. 備考. 選挙名. 実施年月日. 第七回. 1902(明治35)年8月10日. 5. 8. 1. 第八回. 1903(明治36)年3月11日. 7. 6. 1. 第九回. 1904(明治34)年3月1日. 5. 7. 2. 第十回. 1908(明治41)年5月15日. 4. 6. 4. 第十一回. 1912(明治45)年5月15日. 3. 0 0. 第十二回. 1915(大正4)年3月25日. 2. 5. 5. 2. 第十三回. 1917(大正6)年4月20日. 2. 7. 4. 1. 第十四回. 1920(大正9)年5月10日. 7. 6. 3. 2. 第十五回. 1924(大正13)年5月11日. 6. 5. 2. 5. 10. 無所属. 注1)改進党系とは、憲政本党→国民党→同志会→憲政会の系統をくむ 政党・政派に属する衆議院議員の当選者の数を示している。. 9. 0 0 0. 1.
(16) 注2)本知は、自治省編『衆議院総選挙の実績 第1巻 一宿1回∼第二十回 一』及び、遠山茂樹,安達淑子『近代日本政治史必携』岩波書店1961年251 項より作成。. 表1の2衆議院議員選挙政党別得票:. フ回. 8回. 9回. 自由党系. 13093. 1793. 894. 改進党系. 1フ112. 1614. 14091. その他. 2249. 18. 405. 無所属. 5969. 75. 60. 38423. 3502. 合計. 27698. 10回. 11回. 稔回. 13回. 14回. 15回. 1511. 11655. 10058. 10633. 43745. 37495. 25179. 38757. 17796. 2385. 35818. 34363. 2142. 23135. 1611. 1548. 21361. 15389. 3432. 874. 463. 1262. 3168. 55682. 55986. 59731. 5523. 107671. 124903. 注)本表は、自治省編『衆議院総選挙の実績 第1巻 一第1回∼第20回一』. 及び遠山茂樹,安達淑子『近代日本政治史必携』岩波書店1961年251項より 作成。. 限られた部分ではあるが、ここで衆議院議員選挙の結果を概観する。ま. ず表1の1、2により、1902(明治35)年8月実施の第7回総選挙か ら1924(大正13)年5月実施の第15回総選挙までの概況をみる。す でに「選挙制度の概要」でも述べたが、第7回総選挙(1902(明治35) 年8月)では、これまでの原則小選挙制を改め、全県を市部と郡部に分け3. 区として14議席を争い、選挙が戦われた。第7回総選挙と憲政本党が優 勢であったが、それから僅か7ヶ月後に実施された第8回総選挙(1903 (明治35)年三月)では政友会が僅差で優勢となった。. ところが第8回総選挙後に開会された第18議会で政友会総裁伊藤博 文と桂内閣が、海軍拡張費の財源をめぐって妥協を独断で進めているとし て尾崎行雄らは自由党系の政友会を脱会した。また伊藤に反対する強硬派. は除名され、彼等と無所属議員13名で新たに政友倶楽部を結成した。県. 10.
(17) 内選出議員でも第8回総選挙前後から政友会(自由党系)を除名又は脱会15 し、政友倶楽部に入る者が現れた。こうして兵庫県の政友会では、各地の ト ゆコ. 活動家に脱退が相次ぎ、8月から11,月にかけて土佐派16の20名前後の 県会議員、元県会議員、後の県会議員、代議士、元代議士が脱退した。こ れは、政友会兵庫県支部においても大きな問題となった17。. こうして、政友会兵庫県支部は、このような脱退者を出し大きな打撃を受 けたのである。. この直後に戦われた第9回総選挙(1904(明治37)年3月)では当然、 政友会は勝利を収めることはできず、得票率で32,4%(前回51,5%)、5議. 席(前回7議席)を獲得するにとどまった。しかしながら、これはそのまま 憲政本党(改進党系)の勢力の拡大に直接には結びつかず、憲政本党は投票 率で51,1%と前回(46,3%)にくらべて僅かに伸ばし、獲得議席数も7議席 (前回6議席)となり、議席を1議席伸ばすに止まった。. これに対し表1の1を見るとその他の政党から議席が増えており、無所 属の当選者がいない点が注目される。この選挙は、政友会の混乱の最中に 行われたにもかかわらず、憲政本党もあまり伸張することはできなかった。. これは憲政本党の選挙活動が、政党支部としての活動を離れて代議士の個. 人的基礎力に立脚した政党活動が成否を決定したといえよう。表1の2を 見ると第8回・第9回の政友系・元政友系の合計得票率にそれほど変化が ないことは、この時期党派性よりも人的結びつきによる得票の高さを示し ているのである。. 次の第10回衆議院総選挙1908(明治41)年5月15日)では、現住 人口と有権者数の割合が前回(第9回総選挙)1.83%であったのが3.52%と. なり有権者数が倍近くになっている18。この有権者増大の背景には、神戸. 市などを中心とした瀬戸内海沿岸地域の経済的発展によるものと考えら. れる。この影響を受け、政友会4議席、憲政本党6議席、その他4議席と なり両党派とも議席を減らしているのに対して、中間派(その他)の議員が 議席を伸ばしていることも無視できない。その後国民党(改進系)が結成19. されてから迎えた第11回衆議院総選挙では、政友会は全国的には優勢で. あったが兵庫県では、大きくその地盤を失い政友会3議席、国民党10議. 11.
(18) 席、その他1議席と国民党に圧倒され、国民党の地盤区となってしまうの である。. 大正時代に入り、師団増設問題、財政・時局問題をきっかけに第一次護. 憲運動がおこり桂太郎は護憲運動への対応策として立憲同志会を組織し た。国民党の改革:派は同志会に参加した20。県下においても1913(大 正2)年)2月4日に「閥族打破と二大政党政治樹立のため、国民党と異名同 体の新党にあえて参加し、責任内閣制の確立をはかる意志」を宣言して、大. 森与三次、柴崎鹿之助、肥塚龍、丸尾光春、伊藤英一、横田孝史、小寺謙 吉、平野亀吉、斎藤隆夫などの国民党議員が脱退し、新党(立憲同志会)に 入党する事件が起こった。. また、県下政友会支部においては、桂内閣が倒れた後に、成立した薩派 海軍大将山本権兵衛が政友会と提携して内閣を組織したことに反対し、党. 員の約30人が脱退する事件が起こった。 しかし、改野耕三を中心とする有力な代議士達は、この行動には加わらず 静観の態度をとっていた。. こうした混乱の中、戦われた第12回総選挙(1915(大正4)年3月) では同志会5議席、国民党3議席、大隈伯後援会・無所属2議席、政友会 2議席と同志会(改進系)が勝利を収めた、各党ともに、脱退のさわぎが多. く混乱した選挙であったが、結局、改進党系の地盤の強さが大きく影響し. た。さらに1916(大正5)年10月には、憲政会(旧同志会、中正会、公 正倶楽部)が結党し、総裁には加藤高明が就任する事となった。さらに同年. 12月には憲政会兵庫県支部結成され、憲政会に成立によって再び政友会 (自由党系)、憲政会(改進党系)の二大政党が樹立したのである。第13回総. 選挙(1917(大正6)年4月20日実施)で政友会2議席・憲政会7議席・. その他(国民党・無所属)5議席はそれぞれ19%、44%、37%の得票 率を得ている。このことはこの時点ではまだ、兵庫県下は改進党系地盤で あった事を示すものである。. しかし、納税資格引き下げと小選挙区制が採用された第14回総選挙(1. 920(大正9)年5月)では、政友会7議席、憲政会6議席、国民党その他 5議席となり、今まで減少しつつあった政友会勢力は、圧倒的な勝利を収. 12.
(19) めるにいたったのである。その後所謂第二次護憲運動の最中に県内政友会. 所属代議士7名のうち6名が脱会し、政友会本党に参加した。これは県内 政界を揺るがす大事件となった。こうして政友会本党と護憲派(政友会・憲 政会・:革新倶楽部)が激しく選挙戦を戦い、支持者を二分する形で第十五回. 総選挙(1924(大正13)年5月)が戦われた。その結果、政友本党6名、 憲政会5名、革:新倶楽部2名の結果となり、従来改進党の地盤区とされて. いた兵庫県はこの第14回、15回選挙の後、政友会の地盤地域として変 化していくのである21。. 第4項県会議員選挙結果概況 表2 県議員選挙政党別獲得議席数. 選挙名. 実施年月日. 自由党. 改進. 無所. その. n. }系. ョ. シ. 定数. 県会選挙. 1899(明治32)年9,月25日. 26. 25. 1. 県会選挙. 1903(明治36)年9月25日. 16. 29. 0. 7. 52 52. 県会選挙. 1907(明治40)年9月25日. 22. 30. 0. 0. 52. 県会選挙. 1911(明治44)年9月25日. 12. 38. 2. 0. 52. 県会選挙. 1915(大正4)年9月25日. 県会選挙. 1919(大正8)年9月25日. 県会選挙. 1923(大正12)年9,月25日. 0. 16. 17. 12. 53. 16. 17. 11. 10. 54. 35. 6. 5. 8. 8. 備考. 54. 注1)改進党系とは憲政本党一国民党一同志会一憲政会の系統をくむ政党・政 派に属する県会議員の数である。また自由党系は政友会一民友会の系統をくむ ものである。. 13.
(20) 注2)本表は、『神戸又新日報』、1899∼1923年9月28日の選挙結果の記事、 兵庫県議会事務局『兵庫県議会一世紀の歩み』昭和51(1978)年及び、兵庫県 史編集委員会『兵庫県百年史』1967年620項より作成したものである。. 資料の制約上県会議員選挙の各党・政派の得票数を網羅的に示す事は不 可能であるが、獲得議席数を示す事は可能である。それが表2である。ま. た1899(明治32)年の以前の県会選挙では前回にも述べたが抽選によ る半数改選をしていたので、それ以降から所謂普通選挙直前の1923(大. 正12)年9月25日までの概況をみる。. 1899(明治32)年9月25日実施の選挙では政友母系県会議員(自由 党系)が26議席、憲政本党(改進党系)25議席、無所属1議席と2大政党 が対立している。ところが県会議員選挙にも国政の動向から影響を受けな いわけにはいかず、前記したように 1903(明治36)年2,月26日に政友 会兵庫県支部の坪田十蔵、魚澄惣一郎、清水市太郎らは、中央政友会の方 針に意見が一致せず、同感を脱会していったのである。このような情勢の なかで、これまでと同じような選挙戦が行われるはずもなく、同年9月に. 実施された県会議員選挙では、政友会16議i席にとどまり、憲政本党29 議席、その他7議席と政友会惨敗、憲政本党の大勝利に終わった。 その後、政友会は、1907(明治40)年9,月の県会議員選挙で一時的にその. 勢力が回復するが、同年11月15日の議員汚職事件の容疑者として、政 友会の党員の多くが上げられた。. そして翌年3月25βに裁判の結果、議員12名失職するという事件を境 に、県議会での政友会勢力は衰退の一途をたどる事になるのである。これ に対して国民党(改進系)は、着実にその勢力を広めて、1913(大正2)年2. 月4日に桂が同志会を結成した時にしても国民党の代議士の多くは新党 に入党したにもかかわらず、県下の党員は何等動揺も見せなかった。. そして1913(大正2)年には52議席中、38議席を国民党が占める こととなった。しかしその後、参事会更新のときに県会議員を5名除名し. た為、この処分に不満を抱く議員13名が大正会を組織、またこの除名さ れた5名は政友会と手を組んで県政研究会を設立した。. 14.
(21) その結果県会は国民党20議席、大正会13議席、県政研究会19名と なったのである。それから一年後大正会は解散し、国民党一本にまとまっ たのであるが、しかし大隈重信内閣の支持をめぐって西播地方をはじめ激. しく対立して、結局1916(大正5)年2月に再び国民党は分裂する事に なるのである22。. その後、この分裂した一方は憲政会となり県下でその勢力を振るう事と なるが、国民党は政友会と組んで1919(大正8)年5,月兵庫県民友会を組織. した。しかし、同年9月の県議会選挙においては、政友会16議席、憲政 会17議席、国民党10議席、無所属11議席となったのである。しかし、 両党あわせて26議席は過半数を取れないので、結局中立議員を憲政会と. 奪い合い10,月の臨時国会前にして民友会31・憲政会18・中立5とな りようやく安定を見たのである。その後1923(大正12)年の県会議員 選挙において甲声会35議席、憲政会6議席、:革新倶楽部5議席、実業同 志会3議席、無所属5議席となり、政友派圧勝となったのである。. 第二節 大選挙区制下での郡部の衆議院選挙と地域内政治団体 の動向. 第1項 大選挙区制下の各郡部における名望家の支配状況 この節では主に兵庫県下の郡部を中心に考察する。市部に関しては前記 しているように2章で扱うものとする。. 明治政府が各郡部の郡長に期待していたことは、所謂地方新三法の一つ である郡区町村編制法(1879(明治11)年)の施行に見られるように、郡 長が府知事・県令と郡下町村を結ぶものとして、摩擦なく町村統治を果た す事であったのはいうまでもない。. また、本県でも1896(明治29)年7月1日から郡制が施行されるよ うになり、これによって丁丁や郡参事会が開設され郡財政が立てられたの. 15.
(22) である。. 弓長は官選(奏任官)で、三会の議長になり、議案を発し、議決を執行し、. 参事会とともに町村に対する監督権を掌握するようになっていた。噛郡の費 用は町村に分賦され、町村はこれを町村税として賦課徴収した。. さらに三会議員には郡内町村において選出された議員と大地主の問で 選出された議員の2種類があり、前者の議員の被選挙権は町村公民で、町 村会議員にのみ与えられていたが、選挙権は町村会議員にのみ与えられた。. これは著しく限定された複選制であった。後者の議員は前者の議員定数の. 3分の1であって、地価1万円以上の所有地をもつ郡内の大地主によって 互選された。つまり当時の政府は地主勢力で郡会を固める政策をとってい たのである。この理由としては「穏健なる地主層」を地方行政に参画させ ることによって、安定した地方体制を確立し、中央政界の党派勢力の波及 を食い止める意図がある23。. そのために郡長または郡会議員は、地域への支配力・郷土連帯(地場産業 などを含めた生活共同体を通じて)を持つ地方名望家が望ましいとされ、ま. たそのような人物が郡下・郡会議員となるのも当然の帰結と言えよう24。 したがって郡長・郡会議員が特定の政党に属することは、本来の主旨か ら異なる事であり、またこれと同様に地方名望家が就任することを期待さ. れた府県会議員や町村議員が党派の浸透による政争に巻き込まれること は明治政府としては、好まざる事態であったと考えられる。. さて、1890(明治23)年に制定された府県制・郡制の中で、特に郡 下は、初めて郡会の設置を正式に認めた法令として特筆されている25が、 この両法の大きな特長と言えるものは、府県会議員、三会議員、町村会議 員の選出方法に、複選制を採用した点をあげることができる。. つまり、郡会議員は郡下町村議員の中から、府県会議員は府県下郡会議 員の中から選出するという間接選挙制度であったことである。. これは当初、党派性を超越した地方名望家の中から、さらに有力なもの が、上級の議会の議員として選出することを意図しているからである26。 しかし実際には、すでに府県会議員の政党抗争が下部の郡会議員選挙、町 村会議員選挙に及んでいたのである27。. 16.
(23) このような実情を踏まえ、1899(明治32)年に府県制・郡制の改正が おこなわれ、問題となった府県会議員制・三会議員の複選制は廃止された ことによって、党派性を無くすことはもはや不可能であった。. 以上のような事を踏まえ、明治政府が意図していたと考えられる所謂地 方名望家支配というものが、どの程度維持または機能されたのかを県下を 事例として検証する必要がある。. この分野の先行研究として、季武嘉也氏は、大選挙区制下の衆議院議員. 選挙(第7回総選挙∼第13回総選挙)を2つの期間(前期第7回∼10回 と後期第11回∼13回)に分けて、全国にわたって分析している。全国都 道府県の各市郡区を一候補独占型(A型)市郡区、二候補対立型(B型)市郡区,. 混戦型(C型)市郡区の三類型に分類し、その中で兵庫県を前期においては. B型の出現市下野の多い二候補対立型選挙区と位置づけ、後期においては 一候補独占型(A型)市郡区としている28。. 兵庫県が前期二候補対立型選挙区であるということは、二大政党政治制 を連想させる。つまり政友会(自由党系)系統と、憲政本党(改進党系)一国民 党(第十一回総選挙)一同志会(第十二回総選挙)一憲政会(第十三回総選挙). の憲政会統の二三であるが。両方とも中央にしっかりとした党の基盤を持 ち、この二大政党が時間の経過と共に切磋琢磨しながら地域に勢力を浸透 させていった結果、票を2思する事になったのは当然の帰結といえよう。 また、中央の政治組織とは無関係に地域において対立が発生する場合も考 えられる。例えば、郡内また数郡にまたがって有力者名望家同士が地域内 の問題や名誉を争って対立する場合であるが、これが選挙において現れれ ば必然的に選挙区の郡内が二分するのである。このように考えると、この. B型には中央の党に原因のあるものと、下からの自生的な対立の2っ原因 が混在しているのである。この点に関しては地域内政治団体のかかわり中 心に述べてゆく。. さらに第11回以降は一候補独占型(A型)市郡区となっている。これに ついては各政党間において差があるにせよ、小選挙区制下時代に形成され ていた周辺地域による政治的結束もしくは、各政党支部を中心として得票 の貸し借りなどを含むネットワークが確立した結果、従来とは異なった選. 17.
(24) 挙運動システムが確立したことが考えられるのである。. しかし、これらはあくまでも全体的な傾向であるが、選挙運動システム の変化を自由党系地盤区、改進党系地盤区の代表的な郡ごとに分析を加え ていけば、各回でそれぞれ独自の傾向を見出す事ができるのである。. そこで各回ごとに選挙状況を分析すると、県下25郡の状況は以下の通. りになる。後に掲載する・表1に示す通り第7回総選挙(1902(明治3. 5)年)では県下25郡のうち、11郡がA型、10郡がB型、残る4郡が C型となって特定の名望家が票を集めているものが最多である。続く第8. 回総選挙(1903(明治36)年)では10郡がA型、12郡がB型、3郡がC 型となっている。また第9回総選挙(1904(明治37)年)では、9郡がA型、. 10郡がB型、6郡がC型となり徐々にB型が増えてきている。第10 回総選挙では、5郡がA型となり数は激減している、そしてB郡の少な くなっており8郡となっている。これに対してC型は12郡となり激増し. ている。前半の合計ではB型が多くのがわかる。後半第11回総選挙 (1912(明冶45)年)では、A型が激増して12郡となり、B型は減少して4 郡、C型も減少して9郡となった。第12回総選挙(1915(大正4年)では、. A型は12郡となり高い数値を維持している、B型は六二とやや数を増や し、C型は7郡と数を減らしている。さらに後で掲載する表二に示す通り. 第13回総選挙(1917(明治6年〉でA型は数を減らし7郡、B型が5郡に数 を減らし、C型が急増し13郡となっている。以上のように一候補独占型 であるA型郡が、年によって多少の上下がありながらも高い数字を維持し、 これに対立するかのように二候補対立型(B型)郡と混戦型(C型)郡が存在. する事から考えれば、先にも述べた全三一致に近い形で有力候補者が指示. されうるような新しい選挙運動システムへほぼ確立していたことが明ら かである。. さらに各回を選挙区とした県会議員の在任期間を表3に示す。表3は、 県会議員が連続して在任した期間を三二・年代別に一覧したものである。 表中の○囲み数字は各回の定数、在任議員数はその期間中に存在した議員 の数を示している。さらにその在任議員を在任期間ごとに以下のように区 分した。連続して三期以上県会議員になった者、同様に連続二期県会議員. 18.
(25) になった者、さらに1期のみに終った者の三つに区分している。. また本志は、1880∼1889年、1889∼1896年、1896 ∼1924年の三期全体を区分した。1880∼1889年は町村制施行 以前のもの、1889∼1896年は町村制:施行後から府県制・郡制施行. 以前のもの(兵庫県では1896(明治29)年に実施)、1896∼1924 年には府県制・郡制施行後ものと考えていただきたい。. そこで本表をみれば、1879∼1890年については連続三;期以上任 期存在した者の数が最も多い、また一期のみという任期が多いのも特長と. いえる。これに対して1889∼1896年については連続三期のものが 大幅に数を減らしている。さらに1896∼1926年については、ほと んど一期のみとなり、連続三期以上のみならず二期連続で県議に当選した ものがあまり見られないのが特長である。. このように、連続して県議会に当選するものは減少する傾向にあり、特. に府県制・二子が施行された1896(明治29)年を境に、大幅な選挙区 改正おこなわれ県会議員の持続性はほとんど見られなくなった。ごく稀に 田澤熊江(武庫郡、四期在任)や飯塚重雄(飾磨郡、四期在任)や多田菊太郎(宍. 粟四期在任)のような例外もみられるが、ほとんど一期目みの在任である。. その後、前記したが、1899(明治32)年府県制の改正により選挙法自 体も大きく変化した事も大きく影響している。. このことは一体何を意味しているのであろうか。ここから、少なくとも 特定の有力者が、長期にわたり県議会の職に独占的に在任することが不可 能な状況になりっつあること、言い換えれば郡下に圧倒的な影響力を及ぼ. しうる単一の地方名望家が消滅しつつあった事実を窺い知ることができ るのである。しかし、一期か二期か県議会に在任したのち代議士になって 転出していくケースもないことはないが、これは表4を見ても明らかなよ うに全体からすればそれはごく一部の事例にすぎないのである。 さらに県下全体としては以上のような傾向(武庫郡、飾磨郡、宍粟郡など がこの傾向をもつ)を示しながらも、各郡ごとの状況をみれば明らかに違い. があることがわかる。例えば佐用郡や赤穂郡は連続三期の在任者がやや多 く、他の郡に比較すると在任一期のみの者はやや少なめである。これに対. 19.
(26) して美嚢郡や加西郡はもともと連続三期以上在任したものが多くなく、か. つ1896(明治29)年から1924(大正13)年では県議会在任者のほ とんどが一期のみの者となっている。. このように特に1896(明治29)年以降、二期以上連続して在任する 者がほとんどいなくなるということは、郡内の政治団体内部での立候補の 輪番制や、党派対立の激化が日常的な光景になっていることを示している。. さらにその候補者選定や調整を行うための組織・機関であったのが地域内 政治団体であり、その役割がますます大きくなるのは当然の帰結であると 考えることができる。特に衆議院議員選挙や県会議員選挙で、小選挙区制 が採用された大正期以降は、これら諸団体が候補者選定に際して担った役 割は、以前にも増して大きくなっているはずである。そこで大選挙区制か ら小選挙区一期にかけて、自由党系、改進党系の地域内政治団体が、候補 者選定に際してどのような行動を取っていったのか、またそれによって両 者には、どのような差異がみられるのかを次項において明らかにする、さ らに各政党の地盤区においても具体的に検証を行うこととする。. 表3 県会議員在任期間人数一覧 在任期間. 1879−1889. ¥3. 0 定. 蓮続在任期間. 1889瑠1896. 1896∼1923. 0定. 0定. 連続在任期. ヤ. 連続在任期間. 煤A在. 煤A在. 煤A在. C議員. C議. C議. 3期. 3期以上、. 1期. 2期、. 1期. 1期. ネ上、. 武庫・人部. ②、9. 2. 3. 4. ②、5. 0. 4. 1. ②→. @ ・上原. ②、8. 2. 3. 3. ②、7. 0. 3. 4. B→. @ ・武庫. ②、7. 2. 2. 3. ②、5. 0. 3. 2. C、17. 20. 1. 0. 16.
(27) 川辺. ③、11. 3. 3. 5. ③、5. 2. 2. 1. ②→. 1. 4. 8. @→ A、13 有馬. ②、10. 2. 3. 5. ②、3. 2. 0. 1. ①、7. 0 2. 5. 明石. ② →. 2. 4. 7. ③、8. 0. 4. 4. ②→. 0. 3. 11. @、14. B、13 美嚢. ②、8. 1. 2. 5. ②、7. 0. 3. 4. ①、10. 0. 1. 9. 加東. ②、6. 2. 1. 3. ②、8. 1. 1. 6. ①、10. 0. 3. 7. 多可. ②、11. 3. 3. 5. ②、5. 1. 2. 2. ①、6. 0. 2. 4. 加西. ②、10. 1. 4. 5. ②、4. 2. 1. 1. ①、8. 0. 3. 5. 加古. ②、7. 2. 1. 4. ②、4. 2. 1. 1. ②、12. 2. 1. 9. 印南. ②、9. 2. 2. 5. ②、3. 1. 2. 0. ①、8. 1. 1. 6. 飾磨・飾東. ③、9. 4. 3. 2. ③、8. 2. 1. 5. ②→. 2. 3. 7. @ ・飾車. ②、12. 3. 4. 5. ②、7. 0. 3. 4. B→ 0. 5. 9. 1. 4. 17. 2. 3. 7. A、12 神崎・神東. ②、6. 2. 1. 3. ②、5. 2. 0. 3. ②→. @ ・神西. ②、10. 1. 5. 4. ②、4. 1. 2. 1. @、11. 揖保・揖東. ②、13. 3. 1. 9. ②、7. 0. 3. 4. ③碑. @ ・揖西. ②、14. 2. 4. 8. ②、3. 1. 2. 0. A→ @、12. 赤穂. ② →. 1. 5. 6. ③、9. 1. 2. 6. ②→ @、12. B、12 佐用. ②、8. 3. 2. 3. ②、5. 1. 1. 3. ①、4. 1. 2. 1. 宍粟. ②、11. 3. 2. 6. ②、5. 0. 3. 2. ①、5. 1. 2. 2. 城崎・城崎. ②、10. 3. 1. 6. ②、3. 1. 2. 0. ②、13. 2. 2. 9. @ ・美含. ②、10. 3. 2. 5. ②、4. 1. 2. 1. @ ・気多. ②、9. 3. 3. 3. ②、5. 0. 3. 2. 出石. ②、10. 2. 4. 4. ②、4. 1. 2. 1. ①、6. 0. 1. 5. 養父. ②、10. 2. 3. 5. ②、5. 2. 0. 3. ①、7. 0. 1. 6. 21.
(28) 朝来. ②、8. 3. 2. 3. ②、6. 0. 3. 3. ①、8. 0. 1. 7. 美方・七美. ②、6. 2. 0. 4. ②、5. 1. 2. 2. ρ①、7. 0. 1. 6. @・二方. ②、10. 1. 4. 5. ②、5. 0. 4. 1. 氷上. ③、10. 4. 4. 2. ②、6. 3. 0. 3. ②、14. 1. 3. 10. 多紀. ②、13. 1. 5. 7. ②、6. 1. 3. 2. ①、8. 1. 2. 5. 津名. ④、19. 3. 7. 9. ④、6. 3. 3. 0. ③、22. 1. 3. 18. 三原. ③、10. 4. 3. 3. ③、7. 1. 3. 3. ②、25. 1. 2. .1. Q. 注1)本表では補欠選挙で当選し県会議員に在任した期間も1期としている。 注2)本表は兵庫県会事務局県会史編纂室『兵庫県議会史』第1輯兵庫県及び、. 同書第2輯より制作したものである。. 表4県会議員の辞職失格失職及死亡調査(明治三十五∼大正十年十一月まで). 22.
(29) 注)本四は兵庫県会事務局県会史編纂室『兵庫県議会史』第1輯兵庫県および 同書第2輯より制作したものである。. 第2項 大選挙区制下衆議院選挙・県議員選挙と地域内政治団体の動向. ①大選挙区制下衆議院選挙と地域政治団体の動向. 本項では、主に第7回総選挙(1902(明治35)年)から第13回総選挙 (1917(大正6)年)までの大選挙区制度下での選挙と地域内政治団体の 動向を分析の対象とする。. これは、初めて大選挙区制のもと選挙が行われるようになった第7回総. 選挙(1902(明治35)年)と最後の総選挙となった第13回総選挙(19 17(大正6)年)の郡別得票状況を、次の表5、7に見たい。なお、表中の 郡に付け足されたA型、B型、 C型とは、先に述べた季武嘉也氏による選 挙状況の分類を参考にしている。. 大選挙区制が採用された最初の選挙である第7回総選挙では、表5の選. 挙区地盤郡数からもわかるように当選者11名のうち4名が、その選挙地 盤とする郡を1つしか持たない29。 特に一候補独占型(A型)郡である飾磨を選挙地盤とする川口木七郎は、. 全得票数のほとんどをわずか1郡から獲得している。. また旧小選挙区(県内10区)重ねあわせてみると、加東郡・多可郡・加 西郡が旧6区であり、また加古郡・印南郡は旧5区であることを考えると、 この地域から再選をはたしている西村真太郎(旧6区)と平岡万次郎(旧5. 区)はこの表で見ると選挙地盤は2区間なっているが実質的には1区当選. と考えることができ、選挙地盤数が1つの議員は当選者11名中、実に6 名ということになる。. このように大選挙制がしかれていたとはいえ、その当初は依然として特 定の郡にほぼ特定の候補の得票が集中しているのである。. 23.
(30) つまり、これまでの大選挙区制であっても、明治小選挙区制と同様、A 型郡のように1郡内で圧倒的な得票数を獲得すれば、ほぼ当選する見込み があったのである。. 次に大選挙区制下最後に実施された第13回総選挙(1917(大正6) 年)の郡別得票状況を示した表7をみると、選挙地盤回数はほとんどが複数 以上になり、票が分散するようになったことがわかる。. 揖保郡選出の土井構大(自由党系)は、全得票数の5154票のうち、4. 7%以上を占める2461票を揖保郡で獲得しており、揖保郡内全投票数 の約58%の支持を得て、さらに他郡で残りの32%での上積みを持って 当選しているのである。. このような状況は他の議員に関しても同じことがいえるのである。. つまり7回にわたる大選挙区制下の結果、以前は有効であった、1郡内 で圧倒的な支持を獲得しようとする旧小選挙区的な戦術だけでは、もはや 通用しなくなっているのである。. 選挙において当選するためには、他候補者の支持地盤区割りや票の貸し 借りなどを積極的にしたり、また政党県支部の推薦や他郡内の政治団体の 支援を受けなければ当選は容易ではない。. つまり郡レベルへの政党組織の浸透に伴って、このような他郡政治団体 との協定が必要不可欠になっているのである。. しかし、その他郡政治団体との協定も考え方としては2通りあり、一つ 目は政党という組織単位で、政党支部中心に行われたものと、2つ目は政 党には属しているが候補者自身の力において協定が行われたものがある。 そこで当該時期の郡レベルの地域内政治団体を事例として、代表的な政 友会(自由党系)と改進党系(憲政本党一国民党・大隈重信伯後援会一同志会. 一憲政会)四団体の動向を取り上げる。またこの時期に現れるようになった 輸入候補の動向についてもあわせて述べる。. 24.
(31) 輯 140. 652 200. 塾。. α. 表6、第11回総還挙候補者郡別得票数一覧 五 五. 五. 1212 1070.
(32) 。り. “ 個管一 個. 。り▼一▼一. 創G「c円. 耐¶一 ,. 碧. o. 卜rび 陣 曽 09 00CM 曽 」ゆめ ロ 寸 。ゆ 。 。 尉 eり 。騨■ ヒ ト 。鴎 。り 。り ヒ 守』◎ Ψ マ. 00 0o. ooo ワ學争闘. 。嶋 。団。つ. Fo oo. 曽 。 創 ド ゆ 創 。. o. 。 創 。り. }. oo. oo. 。. r一・c闇. o. o 寸 卜oo. ¶■卜噛. ”. 。り. ,. 一 論 一 r申巳Ω創 二 鴎 創 ㎝ , 』 ●o 二 個 頃 一 , oo 創 創. 11. o. ρ’. o. o. o. ゆ }. o o o 卜o o. oo. ◎o. ト 卜. ▼甲r『. 卜 uつトr 創 。 ,. 守守. ド 尉 09. oり. 一. 偲. 個 }一〇 。 ヒ マ 一 .、. o o. oo o. o. r『o 尉w口. 。. ▼一〇 卜《つ. q. 。つoa oo. ぐ 。. 09 ゆ の 卜 。り ,. Po 。卜 o 寸o. oo. 。り. ”. 個. o. 。りo oo ▼一〇 ¶一〇〇〇〇 噂 的 マ. oo 卜 姻. o. ooo. 。σ). eり. OD. ,. ,. o. ocつ ◎oo. 噂 ,一〇 。 ①. ●り. 創 ▼一〇LD ぐ. 芦. ヒ 。. 。創 「Ψ】D. 噂 oo ooF oo卜 o o, 。マ一 oo o▼一 一 o F 。」D “ o o 二 。曜つ 貯 一 一 eり. o. 引 糟 守. 。 個 “ 。り. 09. oo o r『o. 噂 邸. o. o. oり. ,. o F. .Ω. 一. o oo o o o. cつ「㍉ oり. oり. モKo. oo. 。. o. o. 寸 。 ,. F. e噛。つ. 個 o. 。 嶋 劇. 尉 , 二 oo o創r宇。闘 一 ◎} oo 卜. o. 、. , ” 二. o噂. 引. 目. ●り. 創. 己. 』 目. 凹 o. “ ,. o. , め. o◎. ooo. o. 無( 田=塁。 牒. 裳ll. 卜 ロ , , 。 尉 一 。り. 器 織lll. o. 1. e. o. 曙. oo 一 o▼椰. ◎}oo 守▼幽. F㍉o 創. oり. oり. oo 寸 ロ 州 o▼一 守 , 一 , ,. o. ◎◎. ゆ. oc縛 創. o o F o 一 5. oり. o o o o 卜 o 卜 oり. 。 ,. oう. マ ,. 噂 創. 創 o▼一 創 ゆ 〇 曽. 〇. ぐ 。 , ゆ. o oo め ,. 頃 一 頃 。 尉 ” 日 cつ。 oり 耐 創 oり. oo o. 卜 ,. 守 ド 。 噂 。っ5 個 。 卜 一 噂. o F. 尉 ◎o 。 , , 鳴 個. 卜 ▼一〇 脚 同 一 尉 oo oo 寸 。 , マ 創 一 一. o, oo o o ,. ト , ゆ ゆ oo 創 “ サ 一 oo. oo oo ◎り 個 に ト Ψ ODC噂。剛 OD 。り 。う「ず ゆ 尉 嗣 ド 。貯 ド 卜 一 , 曽 , ,. o. o. oN. 26 ,、省. 艦,. グ. ト. oo oo. r卜。「. o. r『c闘 一. 卜卜 Lゆeり 「㌧トも oc間 ,. oog oo ocり cつoo o ワ oo 。 一. oう. ミ 』. o. ,. 一 。 創 創. 駅. 一 一 鰹. o. ゆ ,. uつ頃 ▼一σ》 cつoo ε. 1. r『c閲. ゆ. Or守 rぴト・. o 創. o. 卜 r『UD 。 卜 ① 09 , 創 。 己. o oマ N o o. ooo oo o ” ,. 。. oo マ N oo 卜 ooo u陰o. oり. , ,. ρう. F 一. ー. σり. o. 卜 創 卜 , oo 盲 o 創 尉 , 一 一. 只. 。「」o 四. 尉. 。▼一 oo oo. マ 卜 尉. 一 鴎 oo. 。舶■ 糊. o. 創 創. oo. o o. 。 個 曽. .寸. 卜 頃 。. 。 二 。▼一 ゆ 創 ぐ oo 創. 偲. o. cつ. o o ト. 雫一】ゆ. o卜 ド ぐつ。 oo守 。 寸. 曽 , 一 。 ド oo 寸 一. o. ぐ 咽. 8. 【 1乙4. 圏3 、. 田. ヨ [1 ミ. 繍円一4」 憤ピ.. o「.
(33) 注1)A型は1候補独占型、B型は2候補対立型、 C型は混戦型を示す。 注2)本四は、自治省編『衆議院総選挙の実績一丁一回∼第二十回一』第1巻 自治省及び、遠山茂樹,安達淑子『近代日本政治史必携』岩波書店1961年251. 項及び、『神戸三新日報』1902(明治35)年∼1917(大正6)年の各選挙 結果の記事より作成したものである。. 注3)表5と表7の選挙地盤とは、各選挙の得票数が15%程度以上の得票数 を占めた郡の数である。. 《自由党系地域内政治団体、淡路地方を中心に》. 淡路地方は、神戸などの市部からは近い位置にありながら瀬戸内海によ って隔てられた島である。その海による閉鎖的環境から兵庫県郡部の典型 的な地方として考えることができる。淡路地方は、選挙区において津名郡 と三原郡の2区に分けられておりの全体としては自由党系が強かった。し かし三原郡では改進党系がやや優勢であった。第2回衆議院総選挙におい て、立候補者であった加集寅次郎(改進系)が調停によって佐野助作(自由系). を押した30こ口からもわかるように、政策や政見よりも人脈による傾向が 強かった31ということができ、またこのことも郡部特有の選挙形態を有し ていたといえよう。. さらに淡路より選出された衆議院議員は1902(明治35)年までは、 佐野助作、浜田儀i一郎、高津雅雄と自由党系が強く、1902(明治35) 年の第七回衆議院総選挙において淡路政友会の政友倶楽部内の予選32を した結果、高鍋篤郎を政友会公認候補として立候補させることになった33 が選挙の結果、彼は落選し、改進党系の立候補者選定の結果34野上嘉平(憲. 政会本党)立候補者となりが当選した。次の第8回総選挙では前回敗れた政. 友倶楽部が巻き返しをはかるべく、奥野小四郎を立候補者とし、清野の総 理事を筆頭に高鍋篤郎、高津雅雄、濱田の諸氏選挙参謀として倶楽部幹事. を10回目委員を40名の計50名前後の運動員で、前代議士である憲政 本党の野上嘉平35に対抗したのである36。. 選挙の結果、奥野小四郎2437コ口野上嘉平2377票37の得票となり、 両者共に当選をはたした。しかし結果的には淡路を二分して選挙が行われ. 27.
(34) たのである。. その後、第9回衆議院総選挙では前回代議の奥野小四郎が立候補を断念 した38為、自由党系は、立候補者選定難に見舞われて、結局、高鍋篤郎が. 最終的に立候補下した。しかし淡路政友倶楽部の足並みが乱れ、結局対立 派である改進党系の野上嘉平39の当選となったのである。. また第10回衆議院総選挙で自由党系は、立候補の公認候補者として、. 広岡宇一郎と前回落選した高鍋篤郎の2名の名前が上がっていたが予選 会40の結果広岡宇一郎を立候補者として選挙41に挑んだけれども、対立 派進歩党系の野上嘉平の後任である佐野春五に431票差をつけられて佐野 二五は当選、広岡宇一郎は落選してしまう。. このように旧改進党系が衆議院総選挙で比較的有利に勝利収めてきた。 明治の終わりころより政友会と国民党の対立時代に入った。このような中. で、始まったのが第11回衆議院総選挙である。淡路政友倶楽部は、公認 候補者として広岡宇一郎と高鍋篤郎の2名の名前が上がっていたが、広岡 宇一郎は但馬で北田が立候補する事から、同地での集票が難しいことから 辞退を申出ており、また高鍋篤郎も同様に他地域での集票が難しいことか ら辞退を申出るというように立候補者難に見舞われていた42。. この理由としては、『神戸又新日報』43は以下のような分析を行ってい. る。まず両者共に選挙資金が乏しく、また仲が悪いのが1点目、2点目は 先にも述べたが大選挙区制なってから改進党系の人間がほとんど当選し ており、今回も自由党の勝算の見込みが薄いこと、そして3点目は淡路政 友派の慣例として各市町村の有志が集会を開いた時の経費は候補者自身 が負担することにより、資金が多いことになっている点をあげている。. 結局、淡路地方の自由党は但馬地方の自由党と協力して1人の候補を選 出することとなり、北田氏が立候補をとりやめて淡路の高鍋篤郎が彼の但 馬の票を上乗せする事が決まり44、高鍋篤郎は立候補し見事、当選するこ ととなる。ここで特筆すべき点は季武氏の方法を用いて著者の作った第11. 回総選挙の表6を見ていただければ判るように確かに但馬地方から高鍋 篤郎にまとまった数の票が得られている。このことからもわかるように、. 例え地盤地域で対立候補当選に必要な票数が得られなくとも他地域との. 28.
(35) 交渉次第で当選可能であり、またこのような方法が淡路政友倶楽部では始 め、自由党系の地域内政治団体で取られていたのである。まさにこれは、 選挙運動システムの転換期であると考えることができるのである。. 第12回衆議院総選挙に於いては、現大隈内閣を支持する大隈重信伯後 援会が現れ、淡路地方の選挙区にもその影響があり、大隈の影響力に国民 党は、分裂し大隈党を支持するものは候補者擁立のため脱党した。その結 果、残った国民党は単独で選挙に臨むのは難しいとして、淡路政友会と共 同して選挙戦に挑む事とになった45。そして淡路政友倶楽部は広岡宇一郎 を公認候補として選挙選に望んだのである46。. また、他区域に地盤区を持つ下岡忠治、多木粂次郎、横田孝史の三派も. 淡路地方選挙区内で選挙戦を繰り広げるようになり混戦した状況になっ ていた47。. その結果、同志会の鹿島秀麿と政友会の広岡宇一郎が激戦となり、鹿島 秀麿と広岡宇一郎の両者が当選したのである。ここからもわかるように大 正期にはいって、地盤区とは関係のない地域で選挙運動も重要な勝因とな ってきたのである。. 1915(大正4)年9月の県会議員選挙(定員2名)で政友会(自由党系) と同志会(改進党系)が激しい競争をし、前代未聞の不祥事といわれた多数. の違反者を出し当選した政友会の武田真一が失権した。淡路地方選挙区の 郡内の政党勢力はほぼ同志会(後の憲政会)6割、政友会4割であった48。. 淡路地方選挙区の中で三原郡から、改進系の正木照蔵と政友会の広岡宇一. 郎49の2名が立候補し他の選挙区からの横田孝史や素麺組合の関係で土 井権大が淡路地区で選挙運動を繰り広げたが、やはり、地元推薦の正木、 広岡両名が地域の票を二分していた50。. 結局、正木照蔵と広岡宇一郎の2名が当選した。このことによって郡内 両政党の仇敵感情が一掃されつつあったと考えられる。. 以上の結果からもわかるように明治小選挙区制下に淡路地方において 大きな政治的影響力を築いていた淡路政友倶楽部にとって大選挙区制下 における選挙戦は、政友:会の勢力の伸び悩みにともなって大きな試練とな ったのである。. 29.
(36) これまでの明治小選挙区制での選挙戦は、もはや通じずいかに長い歴史を. 持つ淡路政友倶楽部といえども積極的に他郡の自由党系政治団体との選 挙協定を結んでいかなければ、当選者を出すことはできなかったのである。. この一例をもって兵庫県下全ての自由党系政治団体に当てはめること はできないが、他の地域においても遅かれ早かれ、同じよう傾向があった. と前掲門下の表5∼7を見ても明らかであるがわかる。さらに政友会は、 このような選挙活動で行うためその統制力強い、つまり支部の影響力が選 挙において中心的な役割を担っていたのである。. 《改進党系地域内政治団体、揖保郡を中心に》. 県内で改進党系(憲政本党一国民党・大隈重信伯後援会一同志二一憲政 会)諸団体の勢力の優勢なものを扱う。改進党系の地盤区が多いのは前掲載. の表5,6,7を見ていただいてもわかるように、姫路を中心とした西播 地方(飾磨、揖保、佐用、神崎など)である。この地方における有力者な改. 進党系衆議院議員肥塚龍の地盤区であった揖保郡の動向を中心に考察し てゆく。. 第7回衆議院総選挙の初めに、肥塚龍の運動者宗野重次郎以下6名が選 挙違反の摘発を受け罰金刑となった51。当然これは肥塚龍にとって余り、 さいさきの良い始まりでなかったことが想像できる。またその後開かれた. 憲政本党支部会において代議士候補者選定会52が行われたが調整が難航 して地域によっては改進党系の代議士同士による同士討ちになる地域も. 出てくるありさまであった53。さらに旧第8区54ではその後、高川定次 郎(改進党系)は伊藤俊介に立候補を譲る事を表明し55、肥塚龍56と伊藤i俊. 介と改野耕三(自由党系)の対決となった。選挙戦は激烈化し、反対党の批 判、若しくは相手の信奉する宗教に対して攻撃を始めるまでとなっており、. その混乱ぶりが窺える57。結果は肥塚龍、伊藤俊介、改野耕三の得票順で. 3名とも当選している。次の第8回衆議院総選挙では、肥塚龍派と改野耕 三派の選挙参謀が候補者選定の協議58の結果、自由党、改進党の両派共同 で選挙運動をすることになった59。しかし、結果竹野耕三は当選し、肥塚. 30.
関連したドキュメント
第二章 固定資産の減損に関する基本的な考え方 第一節 はじめに 第二節 各国の基本的な考え方と基礎概念との結びつき 第一項 米国基準 第二項 国際会計基準 第三項
都市計画法第 17
第2項 5分間放射 第3項10分閻放射 第4項 15分聞放射 第5項 小・ 括 第2節 「ベナ」注射群
第1節 灸 第1項 膣 重 第2項 赤血球歎 第3項 血色素量 第4項色素指激 第5項 白血球数 第6項 血液比重 第7項血液粘稠度
このように資本主義経済における競争の作用を二つに分けたうえで, 『資本
12―1 法第 12 条において準用する定率法第 20 条の 3 及び令第 37 条において 準用する定率法施行令第 61 条の 2 の規定の適用については、定率法基本通達 20 の 3―1、20 の 3―2
3.BおよびCライセンス審判員が、該当大会等(第8条第1項以外の大会)において、明
能率競争の確保 競争者の競争単位としての存立の確保について︑述べる︒