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一 よ 一 ) の 著者と出版社の承諾にもとづく翻訳である。米
隆(訳)山
69一一『奈良法学会雑誌』第 3巻 1号(1990年 6月〉 目 次 第 一 一 編 私 法 に お け る 普 遍 的 な 法 原 則 の 現 象 形 態 と 法 思 想 の 現 象 形 態 第一章題目の限界と意味 第 二 章 法 律 学 的 な 原 理 の 力 の 場 と し て の 裁 判 官 に よ る 法 の 形 成 ( 以 上 第 一 巻 四 号 ) 第 三 章 我 々 の 問 い か け の 提 起 に と っ て の 比 較 法 の 意 味 の た め に 第 四 章 普 遍 的 法 原 理 の 概 念 と 本 性 に 関 す る 暫 定 的 仮 定 ( 以 上 第 二 巻 四 号 及 び 本 号 ) 第四章 普 遍 的 法 原 理 の 概 念 と 本 性 に 関 す る 暫 定 的 仮 定 案 芭 原理の、のちに行われる分類のこの先取りは、これら三つの基本形式の相違は概念の統一的定義を一般に妨げ、その結果、我々 ︿m )
は、筆者の前に浮動する類型にしたがって、さまざまな定義をするがゆえに必要である。このようにして人々は、例えば、公理的 ( 即 ) 思考形式から、﹁各々のより普遍的な規則はより具体的な規則に対して原理の性格を持つ﹂という月並みの、また、すべての限界 3 づけの苦労をあざける確認に到達する。その場合、原理からより具体的な規則がみちびきだされるということを本質的と考えるこ 日 ( 問 ) &とだけが残るのであり、また単純な問題原理にはいかなる正しい入口もみつけることができないのである。このような原理は論証第3巻1号ーー70 の拘束のない出発点としてのみ取り扱われるのであり、この出発点は明確な規定性を欠如するために具体的規範においてはじめて (山川﹀ 法的性格を取得することができるであろう。この性格づけは公理的思考からみれば、きわめて正当である。﹁真正の﹂原理は公理的 思考のなかに演緯的価値を持っている。しかし、このように特定の法律学的技術えせばめることは思ったよりはやくきたのである。 まずはじめに統一的言語慣用をつくることだけが問題になりうる。この言語慣用に関して、法原理は、それが直接的な、いかなる 拘束的な指示も特定の問題領域に対して含んでいないかぎり、法規でもなく、技術的意義における法規範でもなくして、このよう な指示の司法的あるいは立法的彫りだしを要求し、または、前提とするという、すべての類型にふさわしい消極的文言化が私には 重要と思われる。法規範と反対の法原理は形式と反対の内容であり、その際、形式は本質的なものの附属物であるという法規範の アリストテレス的範曙が我々を誤魔化してはならない。法倫理的﹁内容﹂から論証的に法形式を﹁説明し﹂あるいは﹁無視する﹂ 文化時代が存在するかも知れない。歴史的に、また、現実的に、つねに、形式は、我々がそれを訴訟的に法の保護手段として、あ るいは、実体的に規範として考察しているように、本質的なものであり、この形式のなかでのみあの原理内容は、理由としてまだ 日認識されていないかどうかにかかわりなく、法律学的現実性と意味を保持するので誠一 90 したがって、だから、現代の成文法にお S いても﹁形式的﹂法律要件を放棄しないし、また、同様に、形式化された
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すなわち制度的に確定された│解決を放棄しない。適 当な訴訟えの問いかけは、我々が、すべての権利保護形式は﹁具象的なものをもって理解させる比倫﹂にすぎないものであること、 また、(危険負担、安全配慮義務、忠実義務、告知義務、保護義務等に関する)すべての実体的個別規範はそのなかにある﹁法思 想﹂をもって、そのなかでそれらが歴史的に発展させられ、また、規則正しく特殊化されている制度を越えでているということを 知るならば、その場合もまた(倫理的思考とは異なる)法的思考の基準のままである。﹁指図﹂の概念の一部は、法律要件が最初か ら固定されているものであろうとも、あるいは、││白地規定のもとでl
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取引慣行の承認された基準からあきらかなものであろ うとも、まさに法律要件え言及することである。現代の大陸法体系の法規は﹁適用され﹂なければならないし、いいかえれば、そ の領域とその作用の仕方において、公務員のグループが再検討して与えられたものとして、あるいは、与えられないものとして確 認しなければならない基準を通して確定されなければならない。既にここから大陸的な﹁規範﹂概念のアングロ・アメリカ的﹁ル ール規則﹂概念との相違が示される。裁判官は官僚的に組織化された法的争訟の意義における官吏ではない。彼は、g k r
凶 項 目 開 閉 山 の用語のなかで、伝統的な支配形式の特色を持つであろうが、官僚的な支配形式の特色を持たないであろう。このことは、既に、 何故、大陸的法思考に関して原理と規範との相違が、コモン・ロ l 思考に関して原理と規則との間の距離よりもはるかに大きい効カ尺度を示すかをあきらかにする。そこでは官僚的││技術的な規則の﹁適用性﹂の問題は我々の意義において存立しない。我々 にとって、﹁抽象性﹂あるいは﹁一般的な性格﹂が原理を規範から区別するのではなくして、﹁法規﹂をいいあらわす適用事案が 決定されていることが原理を規範から区別するのである。適用事案の被決定性は制定法上の法律要件を通して与えられるであろう し、その範囲は、できうるだけ多くの個々的事案を規律する法律要件から出発するカズイスティクな方法で、あるいは、制度的に 確定されうるであろうし、適用のための基準は﹁法事実﹂によって、協定・教義学あるいは総体的価値判断(﹁信義誠実﹂のよう な)によって決定されうるであろう││つねに、また、所謂﹁一般条項﹂においても上述の事案群のための法規は、裁判官のため により大きな、あるいは、すり小さな裁量の余地をともなって、指示を与える。原理とは、大陸的表象によれば、それ自体﹁指 2 ( 即 ) ふ一不﹂ではなくして、指示の根拠・基準及び正当化である。したがって、原理は指示のなかに﹁法律の理由﹂として含まれているこ Q U とはもちろんであり、指示の秩序関連における立場を原理が決定するのである。原理が、さらに、個々の事柔のたすけによって具 ( 問 ) 体的な、積極的な指示になることができるかどうかは、演縛可能な体系が存立しているかどうか、あるいは、個別的規範の形成を 普遍的・包括的な法律要件から出発するのではなくして、できうるだけ多くの個々的事案を規律する法律要件から出発する法発見 の方法から確立する方法が存立するかどうかに依拠するのであり、この方法を通して原理の﹁規範的﹂価値、あるいは、﹁構造 的﹂価値が確定されるのである。前者は閉じられた体系における法発見の道であり、後者は判例法及び法典編纂とならんで発展し ている各々の裁判官法のなかにある道である。原理の演鐸関連あるいは問題関連がなければ、すなわち、法律学的な実定的な体系 結合あるいは問題結合への配列がなければ、また、手続に適合した法創造の確定がなければ、指示は先例形式であるか、あるいは、 司法的・もしくは教理的伝統の全くの事実上の権威であるであろうし、恒常性と整合性の担保のない裁判官による規範発展のまま にとどまる。裁判官は立法者のように規範の一般的な忍容性の表象のもとで、すなわち、体系に拘束された忍容性の表象のもとで 規範を創造すべきであるという秩序原則もまた(﹀
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m U A法原理から実定法規と制度への変圧器になることができる。しかし、新しい、閉じられた実定的秩序圏をひろげゆく個々の規 Q U 範を形成するために裁判官は体系外的(観点的﹀原理を頼みとするのである。裁判官に最も広い実定的秩序範囲、憲法が、多かれ 少かれ形式的な秩序原理をその手に与える事案において、裁判官は彼の実体的評価尺度を法倫理的原則の、普遍的確信の、正しい 判断の、前提出夫定的領域からあるいは、コモンロー用語では、公共の政策とコモンセンスからとりださなければならな一明このよ うな現代的な正しい判断による原理は、しかし、既に、規則的な規範選択と法律要件選別の事案処理の基礎になっている。すなわ ち、これは、事案から事案への法的理由づけにおけると同様に三段論法的過程において行われるのである。このような原理は、あ きらかに機械的││論理的な制定法の適用と概念のはたらきを統御する。このことが﹁健全な﹂法感情から分岐するにつれて、 4 ﹁原理﹂は成熟して独立的な新しい規細切成と技術的承認になる。原理はその潜伏期を持ち、また、模範的事案に関して意識闘を ふ通って法律学的思考へ押し入るのである。その際、過程は制定法において、また、判例法において全く類似している。﹁法を越え S る﹂批判的な瞬間は││﹁それは立法者の意思であったことはありえない﹂という論拠が下されるならば、我々のところで、しば しば、あらわれることであるが│iかなり長い意識闘の下を経過しゅく過程へ帰ってゆくのであり、この過程のなかで当該の原理 は、まだ形をつくられないままで、適法に下された決定の不適切によって成長し、また、同様に適法な反対論拠と﹁異説﹂のなか で白からか}表わして行ったのであるルそれまでは照明であり、これが従来からまだ形をつくられないままの思想の発明を、急に確 ( 山 ) 信的な、実定的に存在するものの単純な解釈と構成から距離をとっている文言化を見つけるのである。 p h υ J 窮極的な││すなわち時代的にできうるだけよくl
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実定化された原理の文言化に協働する多面的な司法的、また、教理的 Q U な影響にとってよき事例は、交通安全義務である。全く特殊な状況(公的││法的な責任規範の欠如﹀から、また、普通法的 原理のごまかしの引用をもって、また、この問いかけに傍論をのみ与えた前提決定のごまかしの引用をもって、民法典の不法 行為体系を爆破する原理は、一九O
三年三月二三日の大審院の第六民事部によって実定的法制度として王冠を与えられる。 問 。z
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江 戸 ( S U ω ) 品 目 ω R を参照。そこでは一OO
年以上にわたって﹁眠って いる﹂条文(フランス民法第一一一一八四条第二患が問題発見とともにはじめて生命を持った。両面的に、のちに、教理は、新73一一ヨゼ、フ・エッサー『原則と規範』同 しい、体系需要に好意的な﹁理論﹂を提供したのであり(危険理論、自己の危険にもとづく行為、企業危険論等、なお、私の 訟 の 門 ロ ロ
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∞・告を参照﹀、この理論は、しかし、それ自体、単 純な観点を叙述するのであり、また、責任義務をよろこぶことが必然的な自己責任の限界を熟慮することと戦うことに決定的 に 関 与 し て い な い 。 わ 印 刷 母 国 三 の り ・ 国 ・ 。 混 同 ﹀ 区 民 . の J K 巾 方 向 由 白 血 向 。 門 戸 DC 件、の題目のためのノ l ト の 批 判 、 次 に 、 再 び 、 責任義務保険によって強く影響されたわO
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。イギリス法及びアングロ l アメリカ法は合理的 に安全な条件のなかでの前提を維持することにおいて過失責任の、その問、はるか前に実定化された原理のための戦において ひとしく対立する力を示している。無数の個別的な、土地所有権者、庖主等の義務に関する﹁よく定着した規則﹂から﹁合理 的な注意を彼の土地及び動産の固有の危険からの害を避けるために行使すること、また、彼の既述事項にもとづく他人の行為 からの害を避けるために行使することは﹂統一的原理になったのであり、この原理のなかで伝来的な責任段階はより多くの程( m )
度の被誘引者と破許可者に対して建設されたのはもちろんであるが、この原理は、しかし、全体的にみて、ただ例外的にのみ( m )
避けられうる責任を理由寺つけるのであり、また、固有の危険な仕事においても独立的な契約者のために個々の場合に無過失の 立証を通して排他的な巌格責任を理由づけるのではない。いかにしてこの責任が訴訟を起こしうるようになるかは、後に配慮 することである。過失は訴訟であることができるがハそしてそのとき我々は、阿国同開 ZNd ﹃ 何 回 の が 彼 の 、 一 九 五 二 年 に 出 版 し た 予備研究に表題をつけているように﹁過誤なき過失﹂の自己矛盾を持っている三しかし、また、不法妨害でもありうる。 この発展はまた、もはや、生産された、また、取引にもたらされた価値あるものの占有の安全のための担保責任に関する平行 的発展系列と全く同様に、逆にすることはできないし、また、既に完結されたものでもない(
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印 ∞ ・ 6 ( 川) MNNH を参照﹀。それにもかかわらず、手引書のなかで、相変らず、多くの決定が、所有者はいかなる事故の保険者でもない、と ( 問 ) いうことを強調した慰めにみちた文章が読まれるのである。しかし、このような発展は固有の社会学的重力の法則に従うので ある。﹁人間的な法の道﹂のための第十六章三を参照。 我々が、今日、あの倫理的原理とコモンセンス原理の根拠を観察するならば、我々はこの根拠は広汎に宗教的影響と哲学史的影 響によって暫定的に整理されているのがわかるのであり、この影響はこの根拠のなかに彼等の沈澱物をためていたのであった。ス第3巻1号一一74 トア的、アリストテレス的、合理主義的、及び、功利主義的思考が原理形成の準備態勢と方法に及ぼす影響は他面において、かつ て特殊な理念史的に高い立場から叙述されている。我々の関心をここで呼びおこすのは、いつも変ることのない思考形式であり、 このなかで前法律学的価値判断と原理の真の法評価への変換が類型的に行われるのである。特殊法律学的解釈基礎と論証基礎を交 付し、また、それとともに、法技術的思考を社会的な価値の尺度にむすびつけることを閉じられた組織において、また、関かれた ( 悶 ) 組織において許容するのは四つの基本表象である。すなわち、自然の理法と﹁事物の本性﹂、衡平と所謂法論理
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ーより後のもの ( 問 ) は、それが公理的演緯技術であるのみならず、法概念のなかに保持された事物の論理と評価を模写するかぎりにおいてである。法 論理の役割は本質規定的意味を持つことはできないが、しかし、事実上は持っているのであり、この役割は最終的な評価と正義の 7 ( 問) 日決定を反映しないであろう。このことは評価にふさわしく﹁地位を与えられた﹂概念からの出発を通してのみならず、目的思想と 論理的文言の絶えざる平行路線を通して行われるのであり、論理的文言は法的適当性を単純化して思考必然的確認として描写する のである。この﹁必然性﹂は、したがって、単に演縛された、意味に条件づけられた必然性である。このようなきまり文句の純粋 に問題解決の価値は、例えば、それらの多面的な使用可能性のなかに示される。﹁あるものは一回以上私のものでありえない﹂は ﹁論理的に﹂二重の譲渡行為を余計であると宣言するのみならずして、既に自由に獲得された権利に附加的に負担がかかる可能性 を避けてゆく。﹁一本の道を選んではいったらほかの道にはいれない﹂は訴訟類型にしたがって著しく種々異なる保護利益を法典 化する学問的根拠である。 同様に、教義学的あるいは技術的法概念は、その規則正しい取扱いが長い発展の終結にみせかける固有の価値を持つものではな い 。 訴 の 文 一 一E
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分離された、あるいは、個別例の法律要件││普遍的あるいは﹁自然的﹂原理││法律要件の教義学的範鴎形成 と体系化││局部解剖学的、また、機能にふさわしく特殊化された、技術的法概念。この法概念の記号価値を誤認する世紀の変り 目の概念法学においてさえ、どこでも、この法概念は、怒意的な思いつきの体系的な遊びゃ道具の対象ではなくして、いたるとこ ろで、根拠として与えられ、たとえ学理的に外観を装われているとしても、法律学的な点描画法と立法的な独裁に対する事物関連 と課題関連の保護者である。すなわち、この法概念は、まさに、以前には概念的にまだ﹁括弧に入れられて﹂いない、問題にむす ( 山 川 ) びつけられた、また、事物適合的な﹁法思想﹂を代表している。 個々の法律要件からは原理への発展のシュ l ル バ イ ス ピ ィ l ルは不法行為の訴と不当利得の責任である。コモンローは、我75一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』同 々に、本来、義務を負わされていない権利保護事案(特殊不法行為の個々の訴、及び、はじめて教理的に﹁不当利得﹂という 包括的な姿に溶解した課題のもとにある、今日なお、散漫な救済方法﹀、につき最もあきらかな像を与えるのであり、我々自身 の民事法上の不法行為の法律要件と不当利得の法律要件は﹁根本思想﹂と普遍的な要素を顧慮しないことへの包括的傾向を示
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訂している。最近の二O
年は、原因ならびに不当利得返還請求権の概念の古典的及び後期古典的性質に関する一朕の注意深い研 究をもたらしたのであり、この研究はできうるだけ多くの個々の事案を規律する法律要件から出発するカズイスティグな方法 ( 山 ︺ の優位をひとしくうみだしている。私は司同 HZB 民間以 F P ω n E C F N w ∞ ﹀ Z2F 弔 問 ν 。等の労作を指示する。したがって、本来、原因 ││概念の非技術的、また、﹁非体系的﹂使用、同様に、民事上の不当利得返還請求権の﹁不当利得思想﹂への関連性のない ことは確定しているといってよいであろう。このことのためには、いかにして確定した金銭の訴にはひとしい状態になること の訴がはじめて法務官により歩みよっているか、いかにして、次には、ピザンチンの机上の知識はキリスト的及びアリストテ レス的な全思想のみならず、より古い通俗哲学的(ストア的)全思想を、古典主義者の修辞学的 1 1 観点的な傍論から﹁正当な 原因﹂が今やはじめて特別な意味を持っと同様に、P
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の意義における一般的不当利得返還請 求権が溶解させられることにより、有効にするかは開示的に意味ゆたかである。すくなからず意味ゆたかであるのは、現代的 体系形成と註釈学派(とくに宮﹀5
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における不当利得禁止の﹁普遍的原理﹂を思弁的に取得するための原因の意味のな かにある中世における原因(目的など)のスコラ的に起草された範腐の発見であり、この発見にもとづいて、 U P 4 ︿ 印 。Z
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によれば、後期註釈学派はより多くイタリヤ的に(名をあげれば切﹄問、吋。E
印のもとで﹀不当利得体系学の彼等の構成を うちたてることができたのであり、この構成はその歴史的に無批判的な﹁正当性の確定﹂にもかかわらず、あるいは、まさに、 そのために、この構成の表現として誤解された本文の個所から、例えばパリーのより批判的な学派よりも、パンデクテンの現 代的慣用の発展のためにより実りの多い土壌を与えたのであった。コモンロー、特にアメリカ合衆国における今日の類推状況 のために、以下の一九O
頁参照、アメリカ合衆国では返還法のリステイトメント(﹀B
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が法律要件的 不当利得規則の完全に﹁非歴史的﹂体系を学理的にもはるか以前にすりへらされ、また、溶解させられた訴権形式の代りにし ている。訴権体系を過少評価することは、ここでは、官由同EE
の ロ l マにおけると同様に、実体法的原理の形成と回有の実 体的法体系一般の形成のための前提である。イギリスのコモンローに関して、上述のリステイトメントがその第一章を叶 D 古 山 口 HJU 三q
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弘 同 0250 片 山 口 昨 日 C ロ)(訴訟手続、救済方法と第3巻 1号一一76 訴訟の方式)のようにうちたてているということは、なお今日、聞かされていない。概念、すなわち、ここでは﹁原因﹂概念 の技術化において、法律要件的基準の形成は、はるかにいちじるしく先行しているけれども、民事法から伝えられた方途が模 倣されていないことはもちろんである。(下記の一九
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頁 以 下 ) 。 さて、個別的な法資料において、このような概念技術的、また、教義学的よそおいの程度、またそれとともに、形式的、法論理 的、類型的な継続している問題の﹁解決﹂可能性の程度は、一つの規則をまもることの伝統、安定性の必要と政治的動揺にしたが って、全く異るものである。しかし、学理的に強固にされた分野、例えば、刑法論、あるいは、債権法の分野においでさえ、たん に学問的な認識を取得するための教説によってのみ教説の文言と概念文言に翻訳された法思想は、制度目的を超える法倫理的実体 9価値とともに目ざめて起きているのである。このことは、また、一般的に二つの﹁学説﹂の絶ゆることのない二律背反につきあき 幻らかにならないところでも、あてはまるのであり、これらの学説は多数の衝突する価値と要求をあきらかに代表しているのである。 いたるところで、そのつど価値決定が重要であるということがあきらかになり、この決定は、前法律学的、すなわち、倫理的、主 た、社会政策的な尺度にさかのぼるのであり、この価値の決定は現存する実定的な妥当の演縛関連に適するために、法真理への変 形を必要とするであろう。一OO
事案のうち九九においてこの課題は伝来的な解説方法を通して克服され、また、原則的な意義に おいて前法律学的価値設定と規範刻印の関係の疑問全部が解説問題としていいあらわされることができる。しかし、あきらかに充 分に考えぬかれた閉ざされた体系においでさえ、裁判官が前法的な真理を公理的接合なくして法律学的な原理へ移さなければなら ないあきらかな評価の問いかけが残ったままである。 それゆえ、以上のことは、何が経済的なもののなかで機能であるか、また、何が倫理的なもののなかで要求であるかという ことになるという確認は、法律学的性質と制度のなかで、民事法における原因││概念、あるいは、刑法における行為概念な どのように、前法律学的利益と価値判断を変形する概念について妥当するのみならず、問題に方向づけられた原理、規則、格 言、力強い簡潔な形式で表わした法規及び、その他の判決例について妥当する。この確認は裁判官の作った法、同様に、慣習 法の、また、制定法の法規についても通用するのであり、また﹁記述的﹂法律要件、あるいは、あきらかに再検討を必要とす る法律要件においでさえ、﹁規範的な﹂法律要件のもとでよりも、すなわち、技術的に固定された法的に意味のある基準のな77一ーヨゼフ・エッサー『原則と規範』肖 かでかためられた法律要件においてよりも、さらに容易にその真実であることが証明される。﹁ひらかれた評価﹂は記述的な メルクマールのもとにも存在するのであり、同様に、暴利・錯誤・詐欺的表示・あるいは、契約目的の無効化のような記述的 なメルクマールのもとに法律学的な性質の評価がある。ところが、一般的法律要件、または、特殊的法律要件を使用しても、 ここでは、いかなる違いをつくるのではない。規範的に両者は固定されることができ、また、前者は、わが法(民法第八一一一一一 条第一項、第八二一条参照)のつくりあげられた概念技術において、古く、あきらかな、歴史的な訴権の法律要件を反映しゅ く個別的な規律︿民法第八二四条、第八二五条)よりも、しばしばより範鷹的である。じっさいに、一般的法律要件は完成さ れた訴権構想の克服を叙述しているが、しかし、この法律要件がはじめて強調する﹁原理﹂は純粋に法律学的なものである。 この原理は思考の平面の上での倫理的
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政治的なものを反射するのであり、この平面の上で価値の争い、また、価値の特殊 な法律学的な秩序要求との関係は既に文言にもたらされるのである。このような排列はつねに必ずしも成功するものではない ということは周知である。ここで、その場合、ひらかれた法律学的文言、例えばご般的詐欺の抗弁﹂をまとわされた倫理的 価値はそれ自体動かされることのない法律学的な秩序価値、例えば、﹁法的安定性﹂の前に二律背反的に立ちとどまっている 。衝突の﹁解決﹂、すなわち、ここで、法律上、承認されるべきであるが、倫理的には判決の﹁詐取﹂のために非難されるべ き既判力の効果を害のないようにする﹁解決﹂は、その場合、表面的なものである。この解決は﹁法と権利行使﹂の平面で教 義学的に実行されることができるが、形式的な法原理と倫理的な原理の不一致はあきらかなままである。 倫理的なもの、あるいは、政治的なものを、法律学的な正しい判断という伝来のあきらかな、証明を要しない手段のたすけをも って、法的なものへ翻訳する作業は、自然法的に理解された法と倫理の一元論の代表者のうそを責めるのである。この作業は、同 O ( 郎 ﹀ 日じく、すべての﹁超法律学的なもの﹂に対する実定的な、規則と法形態の自分よがりの自律的な性格に関する歴史的、あるいは、 国家的な表象を反駁する。裁判官の作業は、倫理的な実体的価値(自然法的要素、の弓ミの意義における簡略化され得ない自然法﹀ と法律学的な形式価値と制度価値との聞の意思疎通の絶えず、新しくされた更新を意味す一明この統一の事象の意味にとって、こ の事象が人に気づかれないままに解釈過程において行われるか、あるいは、あらわに行われるかはどうでもよいことである。この ( 郎 ) 事象は倫理的要求の﹁良俗﹂の法平面への転義、政治的原理の公の政策、すなわち、公序の基準への転義を通してl
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しかし、全 く一般的に特殊な法律学的観点、例えば、自然の理性、衡平及び事物の論理を通して行われるのである。第3巻l号一一78 日その際、我々は﹁法﹂と﹁道徳﹂とのこの融合事象の意味をあきらかに純粋の技術的な平面において過少評価してはならない。 S これは実-証主義的制定法信仰の克服のためでもなく、希望のない、非現実的な、制定法と倫理との二元論の克服のためでもない。 法律学的概念と論拠の範層的独立性は、法律学的方法が、あの自明の論理的、あるいは、社会的な力に縮限された倫理的真理を同 化することなくしては不毛のままにとどまらなければならないであろうという呪であろう。倫理的真理は、今日、むしろ、﹁社会 学的真理﹂として承認されるということは、やはり、つねに、思弁的な自然法思考による後見に対する拒否的地位から由来してい る。しかし、それで充分であるのではない。我々は、今日、法律学的││制度的思考の自己価値をあの法規の形式的な質のなかに おいても認識するのである。(例えば、害山法上の前提を通して)あの法規の政治的到達距離と間接的な法効果にもかかわらず、法 規の﹁より高い﹂順位、あるいは、﹁より低い﹂順位は実定的な法体系を問いかけることにとどまるのであって、倫理的││政治 的な資格づけを問いかけることではない。法倫理的前提にとって単に手の届かない法の平面において、また、留保なくして手の届 かない法の平面において、この要求を任意にだすことによって﹁形式的な﹂法的体系形成と原理形成をさげすむことは暗黒面を持 つことであり、この面を我々は﹁観念論的な﹂白然法の誘求の印象のもとで、たんに、時間蕗しながら述べるにすぎないのはもちろ ( 則 ) んである。我々は、人々が学問的な法律学の真の権威喪失に関係するのではなく、また、人々が制度的なものを任意に倫理的なも のによって価値を少くみるか、または、評価を改めるならば、法と道徳の秩序平面の混合から生ずる﹁遠い損害﹂は、今なお、あ まりに少く査定されるということを信じている。倫理的原理は規範の目的拘束と法体系の﹁倫理的基準﹂を述べるが、しかし、そ の制度的な構造を述べるのではない。ここに実定的なものの安定性が存在するのであり、また、その範囲において、形式を遵守す ることは悶有の価値であり、この価値は、内的な心意の問いかけを排除すると同様に、法的真理と法的な価値判断の原理に固有の 次元を各々の道徳家ぶる倫理的な干渉主義に対して保障するのである。二元主義は、しかし、基準を与える観点のところでもあら 川 M ( 問) 山われるのであり、その最もよく知られた二律背反は心意から行為へのそれであるか、ないし、動機から行為目的へのそれである。 倫理的な観点すなわち、格率と前提にこのような法的な形式を与えることをまもること、規則通りに取得され、また、文一一一同化さ れた目的設定の妥協を尊重することは実証主義的な法思考の功績であり、この法思考はその範閤内で倫理化しゅく、しかしまた調 和しゅく自然法理論を深く誤認している。しかしながら、同様に、自然法の内容を実証主義的な理論の構成作業のために真実に持 とうと欲しないこの理論の反応もまたあきらかでないのである。このようにして、一元論的な﹁自然法学者﹂と二元論的な﹁純粋﹂ 実証主義者は不毛の二律背反的な文言化のなかで互いにしのぎ合っているのであり、その各々は敵対的なものの片面性(﹁方法論的
な原則性﹂)から充分な論拠を含んでいるのであり、その結果、自己固有の欠点を蔽いかくすのである。裁判官による媒介する観点 を通しての変形の中心的な意味は、教義学的な世界にとって、また、概念世界にとって、この意味のために法的な固定しゅく原理 3であろうとも、両面において看過される。このようにして、人々は、﹁善意﹂、あるいは、﹁信義誠実﹂のような特殊な変更重要地点 幻が法形成事象のために現実に意味するものにつき現実に近い表象に到らないのである。人々は、ここで、法的妥当に関する倫理的 尺度が法律学的秩序世界へ﹁侵入すること﹂││極めて手の届くことのない変形過程の像を認識すると自分勝手に思うのである。 法の価値判断の統一性は、その場合、次のような神秘的な表象をもって維持することが試みられる。すなわち、法と道徳は﹁規範 的な紋差点誠一成し、ここでは紋盤を﹁切断する﹂ことなくして、﹁さまざまな規範内な糸が区別され﹂なければならないことは も ち ろ ん で あ る 。 ところで、我々は、これらの変更重要地点の一つに法実定化の変形事象のなかで時間の制約のない意味を決して帰属させてはな らない。変更重要地点もまたその出生時間、普遍的な法律学的理解域へのその拡張、また、特殊領域へのその縮少を持っているの であり、この特殊領域は完全に公理と確定された法典編纂、例えば(オーストリア民法典とやはり異なる﹀ドイツ民法典において、 むしろ忍容された留保のようにはたらくのである。法典編纂の﹁閉じられた体系﹂の理念は、ドイツ民法典と同様に、教理的にす べてを包含する普通法に関する民事法学に支えられることができたのであり、この民事法学の欠絞のないこと、及び、完全性の幻 想に際して、この特殊な観点を高くあげることを通してのみ、事物適合的な解決を、すなわち、評価概念、白地形式及び一般条項 において、したがって、司法的法発展の﹁重要な条文﹂となった規範のなかで、ドイツ民法第一三八条、第一五七条、第二四二条 などで、許容したのである。ところが、この理念は、裁判官による規範形成を、﹁解釈作業﹂あるいは問題解決発見の個別的事情の ﹁功績をみとめること﹂として軽くあしらった。欠飲の問いかけを原則的に承認するオーストリア民法第七条は別異であり、また、 裁判官の﹁補充しゅく﹂評価作業に関係するスイス民法第一条、また、﹁公平な裁量﹂、﹁制度の本質の一般的功績をみとめること﹂、 ﹁重大な事由﹂などのような観点を新しい形成への司法的な関与として従来から強調しているスイス民法第一条は別異である。し かし、パンデグテン的な概念完全性の遺産を通して欠絞のない演鐸可能性の幻想を維持することができたこの制定法実証主義の束 縛のもとにおいでさえ、事物の論理、公平と自然の理性は取り消されないままに残ったのであり 1 1 現在は、﹁解説課題﹂に制限 印されたままであることはいうまでもない。そして、この限界もまた、第一一
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世紀のよりよく動かされた社会生活が発展させられた 特別法をもって、例えば、労働法と経済法から、体系全能の幻想を除去したとき、拡大した。これらの、個々の問題とその新奇性 79一一ヨゼフ・エッサー「原則と規範」同第3巻1号一一80 にひらかれて発展させられた特殊像は、法血︿編纂技術が観点的な思考を置いたあの束縛を再び解いたのであった。 以上述べたことと異なることではないが、この時代において、公平思想は、それがイギリス法において歴史的に経験した 学派結合を粉砕したので、この思想は、形式的に、また、伝統主義者的に硬直化して、裁判所法(一入七一二/七五)までコ モンローとならんでその国有の存在を分離された体系として、営なまなければならなかった。最後に公平思想から反対に作用 する法形成の正義の要素が、そのつど歴史的に取得された形式(訴訟﹀において、個々的により最後の要素のなかへ流れこむ まで、この法形成はそれ自体、歴史的に巌格法と同様に硬直化するにちがいないので、政治的に、また、構造的に独立的な法 形成は硬直化しなければならないということは法律学的なものの本質の一部である。形式的に公平は名誉による法と同様に固 有の権利の集合のままであり、裁判所法はいかなる体系の融合を意味するのではなくして、抗一んに裁判所の構成を意味するに すぎない。しかし、物的に、法における救済方法とさまざまな衡平上の救済方法が利用される。衡平法││救済方法の﹁補充 性﹂は、わが国で殆んどの領域は信義誠実、権利外観、危険原理などによって貫通させられていると同様に、公平原理によっ て貫通させられない領域は殆んど存在しないのちには、単純な教理にとどまるままである。﹁訴の原因はその性質において法 的なものであるか、または、衡平法上のものであるかどうかの学派の問いかけ﹂、いいかえれば、資料が﹁衡平法上の性質﹂ を示すかどうかの学派の問いかけは、﹁法における相当な救済方法﹂が存在しないならば、衡平法上の救済方法の適用を妨げ ない。部分的に、コモンロー裁判所の衡平法権力の個々の州の制限が存立し、また、いかに広く厳格法関係(例えば、有価証 ( 叫 山 ) 券法)に際して、﹁利用できる法的救済方法は使用されなければならないか﹂という実際が不統一であるアメリカ合衆国にお いてもまた、連邦裁判所においては各々の衡平法上の防禦が許容される。なぜかといえば、衡平は、もはや(単に﹀﹁法律学 の体系﹂ではなくして、同時に﹁体系の基準の原理﹂を意味するのであって、この原理は法的体系のなかへ、人々が既に、 ( 町 ) ﹁衡平であること、及び、不衡平であることは公正であること、及び、不公正であることを意味する﹂と述べたほど広く侵透 しているのである。公平ということは、したがって、次のような変遷を経過している。国王裁判所の宰相の個人的な基礎にも とづく自由な判例(衡平は大法官の靴の大きさに依拠するという格言は、歴史的に││方法論的にではなくして 1 1 1 我々の好 みの講義の﹁冗談﹂よりもより多く根拠を持っているのである。すべての公正に、また、正義に従って考えゆく、判決する部 の連邦裁判官の儀礼感情に矛盾するものは倫理に反する)は純粋に手工業的なツンフトにふさわしく条件づけられた極桔を持 つ厳格法の硬直性に対する緩和剤として存在する。開門言回
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おお¥怠)以来大法官裁判所の制変化、担門町田丘ロ(第一回S.65 世紀の末﹀以来教説と先例││拘束による構造化、第一七世紀以来第一八世紀の自由な、理性法的自然的正義の意義における 一 時 的 な 弛 緩 ( 戸 。 問 。 冨 ﹄
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﹀、裁判所の構成からの同化、一八七三年以来原理の純粋なコモン・?
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資料の領域への同 ( 川 ﹀ 化、第一次世界大戦以来社会学的な方向を通しての実証主義的な分析学派の我々の発展と解消への一致。 普及び衡平の観点の多種多様な、人倫的市民観の論拠に対する関係においてこの観点がなければ、我々の民事法教義学の有効性 は始めから幻想的であろう。それゆえ、我々は、一般条項をあの観点とともに﹁信義誠実﹂のように裁判官による制度形成のため ( 問 ) の授権として使用することに慣れなければならなかった。このこともまた、厳格法と衡平判例との聞の歴史的区別をますます多く 消すことに貢献した。衡平は、したがって、その本来、領域的に限界づけられた優先権を、大部分、﹁衡平思想﹂にゆだねたので あり、この思想は刑法をゆるやかにすること、また、実体的正義の衡量と期待可能性の衡量をもって刑法を貫徹することに役立っ ている。その結果、衡平は、今日、全く、もはや、特殊な性質の倫理を与えゆく法原理として承認されるのではなくして、同じ秩 ( 捌 ) 序体系の内部にある社会的正義の必然的な視野として承認される。 81-一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』同 S.66 ( 加 ) 既に古央ロ l マ法における衡平と市民感覚の間の社会学的関連のためには同句沼 ν J 閉 段と衡平の訴訟的機能を完全に分離することはもちろんであるが、それにもかかわらず両側の﹁底流﹂をロ I マ市民の生活感 情のなかに見ている。法律学的な形式厳格のための人倫的対抗としての、また、﹁法律行為の本質﹂の社会的視野としての、 はじまりゆく、法の内容と法の形式の範時間分離としての、非古典法における教説上の衡平の強調(﹁すべてのものにおいて、 しかし、もちろんきわめて法においては公平を注目すべきである﹂ U ・S
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は、したがつて、司P
阿 ろで強-調調しているように、ピザンチン的であるかも知れない。衡平一般を東ロ i マ的思考の一片として説明することは、しか しながら、机上の知識の形成力とこの知識の教説の形成力を全体主義国家において過大評価することを意味したのであり、知 ( 加 ) 的立場の根拠と造形を一つにすることを意味したのである。それゆえ、﹁正しい公平は存在する﹂という観点は形式上かくさ れることなくアリストテレス的(文字通りにいえば﹁正しいことは自然に存在するという﹂ことにみならって)であることは ( 加 もちろんであるが、ベェイル l トやピザンチンの思考の産物では決してないのである理念の歴史は機能の歴史ではない。ギ リシャ哲学的な自然法概念の彼方にある寓民法の構成のなかにある﹁自然理性﹂の観点の持つコモン・センス的な意味にとっ第3巻1号一一82 ( 加 ) てガイウスの法学提要は最も広い教授材料を提供する。しかし、また時間的にみても、﹁事物にふさわしい﹂という意義にお 内 川 ( 加 ) 山ける﹁正しい衡平﹂の観点は特定の時期に限定されるのではない。原始的取得行為の領域における﹁自然的所有権取得様式﹂ の表象は、古代
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マ法において、例えば、ガイウスにおいて引渡取得を寓民法として理由づける同じ思考の一片である(巴・ 台 ・ ア タ ω ﹀。この一片は現在学校教材の形式を維持してきたにすぎないのであり、また、新しい一義性、ここでは、例えば、 意思ドグマから、﹁自分のものを他人にゆずることをのぞんでいる主人の意思を有効とみとめられること以上に自然公平にふ さわしいものはない﹂と論証することができる。 近代における法と衡平の二元主義の発生、発展及び超克のためには我々はひとしく少数の暗示に限定されなければならない。 この二一克的学校教材思考が同じ法体系のなかでの多面的な問題思考に復帰することがあきらかになることが望まれるならば、 このような発展の頂点は、例えば、イギリス法においてリ l ディングケェイスにおいて述べられなければならないであろう。 このようなものとして、例えば、硬化した衡平││体系を法倫理的﹁自然的正義﹂をもって補充する段階のために、宮g
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( 加 ) 冨尽な門戸田口事件が登場するであろうし、この白然的正義は、かつて法的制度を衡平教理の観点を通して徐々に弱めることを 可能にし、また、それを強いて行うべきであった。回復問題の領域で、こののちに否認された冨﹀5
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卿の突進は、衡 平思考を通しての(持ったし、また、受領した金銭のための)法における唯一の訴訟への最初の進入を意味しているのであり、 この衡平思考は、もはや大法官の衡平の歴史的I
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技術的体系にしたがって方向づけられるのではなくして、再び、第一八世 紀が新しく生命を与えている善及び衡平の、本来、非技術的概念にしたがって方向づけられる。実証主義の反動のためには、 そ の 場 合 、 例 え ば 、ω
山 口 円EBF
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における∞ C F 言問問卿を参照。彼は﹁持ったし、また、受領した金銭﹂を準契約 のもとにおける金銭に関するコモンローの立場へ帰るように示しており、また、いかなる黙示の約定も擬制されることができ ないところでは、法における解決を放棄し、また、学校らしい衡平上の救剤方法の適用を要求している(彼はこの適用を、み ずから、再び、その近代法的発展可能性の要求にもとづいて、ここでは、﹁法定信託﹂に際しての﹁追跡﹂にもとづいて選ぶ のはもちろんである!﹀。法の緩和と強化、倫理化と形式化が意味するこの位相の韻律は断じて同じではなく、また、全体的に 追求しうる法の倫理化(ロ 17 に お い て 、 お そ ら く 、 ﹀ ﹄ 己5
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の と- 5
の悪意に関する訴権に関して紀元前の最後の世紀の第 六O
年以来)は法文化のなかで継続的な経過ではなくして、つねに、出発点に帰ってゆく段階を体験している。矛盾対立する影 響、すなわち、教会の倫理化の影響と封建社会の形式化しゅく影響は、イギリスの例が示すように、秩序体系の重なり合いに至83-ーヨゼフ・エッサー『原則と規範』伺 ることができる。大陸の支配形式の多様性と侯及びラント、ギルト及び市、王位及び教会の自立的な法形成の多様性において、 このような多元論は﹁有機的なもの﹂の性格を持っていた。しかし、民族国家理念と経済的な中央集権主義は体系の併存を寛恕 するのではなくして、すなわち統一体系、例えば法典の内部で衡平を倫理的な観点に使用されないままにとどまることを強要 するのであり、そのために理性法教理が両側から予備作業を行ってきたのである。﹁解釈過程﹂における観点的
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問題的観 察の剰余価値性は、今や、厳格法と衡平法の二元主義に代わるのであり、ここから成育した表象がただ残るにすぎないのであ 8 出しかし、アングロサクソンの裁判官法もまた、司法組織の統一化とともに秩序原理の新しい法の概念へのこのような融合 ρ り 包化のはじまりをも体験したにすぎないのであり、この法のなかで衡平教理と救済方法は 1 1 ますます破壊され││うしろへ押 ( 捌 ) しやられ、この法は衡平と善自体による体系から自由な判決のために仲裁裁判官にいかなる余地も許容しないのであり、この 場合には、当事者意思が衡平と善によるということを合意しているのではないからである(ハ 1 グ常設国際可法裁判所規程第 三十八条第二項を参照)。﹁衡平﹂という術語は、それゆえ、二重の意義、技術的i││体系的意義と非技術的l
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法倫理的意義 において使われていることはもちろんである。しかし、また﹁人々が事情によって公正であり、また、合理的であると考える もの﹂としての衡平のこの観点的意味はいかなる自由裁量も法律上適法と認めるのではなくして、衡平1l│思想によって豊富 ( 川 ) にされた実体的法規範(規則)の適用のみを是認するにすぎない。衡平とならんで、さらなる、上に述べた意味の転換原理が より小さな注目を動かすことはもちろんであるが、少からざる方法的関心を動かすのである。同じく、特にもてはやされる変 形概念、合理性、自然理性、法論理と事物論理、また、とくに﹁事物の本性﹂があげられるのであり、これらの変形概念は、 ( 加 ) ︹m )
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﹀ ︿ E Z 吋以来法律学的案出技術の窮児の観点、いな、民事法上の体系思考の範憶になり、また、開旬。開 Z E C 回 何 回 一 の も と で 立 ( 出 ) 法上の戴冠式を経験した。人々は、また、ここで、再び、机上の知識と法生活を一つのもののなかへ置いてはならないのであ り、況んや、真実の理論の洞察を概念的に分肢しゅく教義学の手工業技芸の下に配列してはならないのであり、この教義学の 過度の評価に我々はそのように多くのごまかしの問題を我々の法典編集のなかで負っている。しかし、たしかに誇張された、 概念論理的法律実証主義の相続回復請求権が依拠する、所謂、第一九世紀の﹁学問的﹂実証主義が学校教材的仮定論であると すれば、我々の研究所の真正の成果は、まさに、民法典体系学のもとでは説明できないままにとどまるであろう。今日、概念 的構成のあの業績に対する安価な過少評価の判断はロ i マ法的伝統の外国の民事法学派によって共通に使われない。概念法学 のコモンロー理論における定着化のためには以下もまた参照。前実定的観点の欠如がこの方法に熔印を押したのではなくして、第3巻1号一-84 利益法学によってはじめて再び鍵をあげられた公理の演鐸体系のなかでのこの方法の硬直化が熔印を押したのであった。 (山﹀このようにして既に
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問問。はこの彼の好きな仕事の学術用語をすなわち、論理学の哲学的概念として、また、正義の実質的原則として、 種々なる意義において使用しているのであり、その際、再び、法の命令は法律学の観点的原理とストア倫理学の格率の問を媒介するのである、 ︿ 包 ・ U O H K O 問 F E m -M -N ∞ ロ ロ ι ロ 向 。 E B 5 ・ F 品 M ・5
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且 同 N E 回 国 d o 同 ( Z -ω 3 g H -今 日 異 な っ た こ と は 行 わ れ て い な い 。 dN 間 ﹁ 凶 。 C F K F Z の 開 問 ︿Z ・ ω 由 ﹀ 明 日 開 ﹃ ・ E H H 品 m H V 向 O Z H C 回 ( Z ・ N K H ) M U 由 ・ ( 川 川 ) 凶 o m p g Z H C 目 白 ・ 田 ・ 0 ・ ( ω ) 公理的見解l
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誤って﹁スコラ的﹂と呼ばれているーーも同様であるが││この見解は合理主義的に色づけられるのみならず、有機体的に 色づけられることができるのはもちろんである。同じく、例えば、回開FEEは彼の論文を次のようにはじめている。すなわち、ロ唱江田円目立。 問 B O S H O ︽E H ・ 0向 。 E a ︿ E s -. 。 注 目 g B g z z g 吉 田 N 山 口 曲 目 白 (KF ロ ロ ロ 田 ユ 。 佳 品 目 戸 市 。 ョ 唱 -m 丘 え 邑 即 日 。 岡 山 色 -M 斗 ︹ H g H ︺ M 回 目 ﹀ 、 こ れ は 次 の 文 章 といっしょになっている o す な わ ち 、 = d ロ o E 山 口 同 同 国 自 由 件 。 目 。 目 。 ロ ロ 副 司 = E g g g 同 品 目 ぐ 回 -z g N 向 。 口 町 岡 山 口 回 同 国 間 ︾ 世 田 仲 0・ 開 加 器 包 円 。 ヨ 玄 白 血 一 口 。 山 口 = 口 円 。 ロ 1 2 8 2 窓 口 町 円 。 問 。 3 3 E g g s z 。 司 品 目 E g -第 一 文 は : ‘ = ロ ミ e g s 巾 三 % に 関 し て 体 系 の 統 一 が 前 提 さ れ る か ぎ り 既 に 多 義 的 であり、この体系の統一を我々が、我々の法源の複数主義、﹁最高の法のもつ価値﹂の歴史的な交叉と必然的な二律背反の際決して真実である ことを一証明することができない。ところでこの原理的要請に有機的に同質の﹁建築﹂に関する神話が連結するのであり、この建築は地下室とし ての特殊から普遍への同国 ω己 注 目 r 、一階としての法律要件規範、最上階における一般規則、屋根としての原理3
・ M M S ! を と も な っ て い る 。 原理はまた再び僧侶の住むような清潔な建物のなかで互いに向き合って存立することはいうまでもないことである。歴史的意義における認識源 と法源は一つのなかにおかれるのであり、また、合目的々に多くの段階を持つ規範組織の技術的現実から形而上的な本質決定が生ずる。原理の 階 層 性 の 表 象 に 反 対 し て 適 切 で あ る の は 印 H Z O Z H C 回 白 ・ 同 -。 ・ N 8 ・ ﹁ 最 高 の 原 理 と い う も の は 存 在 し な い 。 な ぜ か と い え ば 、 法 の す べ て の 課 題 はそのつど二律背反的に作用する原理において表現されるからである。 ( 川 川 ﹀ 多 く の 場 合 に た だ 漠 然 と 表 現 さ れ る に す ぎ な い 。 ︿ 弘 ・ω
叶 ﹀ J 2 ・ F 叩 国 冨 ロ 含 E E Z 色 ﹄ 5 9 2 2 H 申 N 叶 ﹀ 明 由 ・ す な わ ち 、 ﹁ 法 律 の 原 理 は 正 確 さを欠如するということによって法律の規則と異なるのである﹂ o 同様にして漠然とそのとき再び公理的原理概念が忍び入る。法における原理 は﹁複数の法律の規則の基礎に関する﹂あるものである公・白・。 -Y 同様にして原理と法規開2FZSR(忠弘ろとは区別されるのであるが、 このことは決して公共財産ではない。︿包-EEE , ( Z ・ ロ 由 ﹀ 印 叶 印 す な わ ち 、 ﹁ こ れ は 規 則 で あ る が 、 他 方 で は そ れ を 支 配 す る 一 般 的 ま た 重 要 な規則である﹂。このような素朴な文言化は決して危険がないものではない。その理由は、この文言化は実定法の限界を消すことに役立つので ありーーまた、河同市開問↓自身の労作が証明しているように、これを消すことに役立つはずである。単に各々の命題の到達距離のみが知られてい るならば(Z-NPM合)、概念の限界づけは決定的なものではないという留富。zd聞の慰めは、人々が実定化されなかった原理を法創造的に手 かけることを告白することもなく││そして、それとともに管理することもなくー!単に実定法の規範として取り扱うならば、あまりおそく来85一一ヨゼブ・エッサー『原則と規範』同 る の で あ る 。 ( 川 ) ︿ 包 ・ 品 目 。 ﹀ ロ
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誤っているのは各々の適法の法発見原理のない事情であるにすぎないのであ り、この事情は演鐸のこころみを正しくないものに強いてするのであり、また、先例の事実上の作用効果を統御できないものとするのである。 ︿ 川 ) こ の こ と を 河 弔 問 問 、 吋 ハ 2 ・ さ ﹀ は 債 務 法 に お け る 倫 理 的 原 理 の 実 定 化 の た め に 証 明 し て い る の で あ る が ︿ ︿ 包 ・ 田 口 門 町 図 。 思 室 開 同 ︹ 2 ・ 怠 ︺ Y M M R V 司法上の創造行為を世間で謂われているように独立的に作用する倫理的原則のために無視する特記された傾向をともなっていることは もちろんである。全体的にみて、私ならば彼の事案記述から移行の道順を次のように総括するであろう。すなわち、倫理的原則は実定法の一部 になる。例制度の構造え組み入れて一体化することを通して、ω
新しい構築原理または体系原理の形成を通して、例制定法規範、あるい は、この規範の理由のなかえ解説的に溶けこむことを通して、ω
世間でいわれているようにより多くの法の形相に共通でああるところの所謂 法思想の挿入を通して、例閉ざれた体系の白地規範と一般条項に法律学の外的体系の観点を許容する﹁窓﹂を通して、川自由な裁判官によ る倫理上の義務を法上の義務に翻訳することを通して令包・口三885
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宮 J 、また、同間接に演鐸価値に関する学問上の教説、あるいは、教義上の概念の形成を還 して。(これは多くの場合において最後の局面である。﹀ (川)﹁争訟によって発展させられる各々の重要な原理は、事実からみて、また、根底からみて、多かれ少かれ、明確に理解された公序良俗の成 果である。最も一般的に言って、たしかであることは、実践と伝統のもとで本能的により好むこととことばではいいあらわすことができない確 信 の 無 意 識 の 成 果 で あ る が 、 し か し 、 最 後 の 分 析 に お い て 公 序 良 俗 に 起 源 を 発 す る こ と が 少 な い も の で は な い 。 ﹂ ハ 出 。 F Z 開 印 ︹ Z -a 品 由 ω ω 町 、 ︿ ︿ 開 ・ ・第3巻1