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ヨーロッパにおける国際関係の出現

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ヨーロッパにおける国際関係の出現

山 田 慎 人

はじめに

国際関係論において、現代の国際システムは、一義的には「主権国家システ ム」と定義される。主権国家とは、国内における排他的な統治権を持ち、対外 的にも自らより上位の主体を認めない存在と定義されるが、現代の国際システ ムは、この主権国家を、唯一ではないとしても最も基本的な単位として構成さ れるシステムだと考えられている。言い換えるなら、現代の国際関係は、世界 政府のような上位権力を持たない無政府状態にあり、主権国家間の対立や争い はかなりの程度不可避だということになる1 国際関係論では、この主権国家システムは、ヨーロッパにおける三十年戦争 の和平条約である1648年のヴェストファーレン(ウェストファリア)条約を契 機として出現したと説明されることが多い。たとえば、非常によくできた大学 生向けのある政治学の教科書の国際関係についての章には、以下のような記述 がある。 中世ヨーロッパの階層的な国際関係を変化させ、西欧的国家システム という新しい国際関係の特徴を誕生させる直接的な契機とみなされるの が、…三十年戦争と、それを終わらせたウェストファリア条約(1648年) であった。…ウェストファリア条約によって、各国王はその領地における 排他的な権利とともに、その領地内の宗教を決定する権限をもつことが認 められ、対外的には国家の主権の平等が認められた。すなわち、ウェスト ファリア条約を契機として、諸国家は中世的な宗教的・普遍的階層秩序か ら離脱し、主権と領土と国民(領土に属する人々)を備えた国家、すなわ ち主権国家の並立という認識を共有するようになったのである2

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このような理解をもとに、主権国家システムはしばしば「ウェストファリア体 制」とも呼ばれる3

しかしながら、国際関係論において広く受け入れられているこのような説明 は、近代ヨーロッパ国際関係史を研究する歴史家の常識とは異なる。一例を 挙げるなら、三十年戦争を研究する歴史家デレク・クロックストンは、1999 年の論文“The Peace of Westphalia of 1648 and the Origins of Sovereignty”におい て、⑴ 教皇の普遍的権威はすでにヴェストファーレン条約を待たずして失わ れており、たとえば、神聖ローマ帝国内においてプロテスタント教の存在はす でに1532年の条約で認められていたこと、⑵ 他方で、神聖ローマ皇帝の権威 は1648年に完全に失われたわけではなく、神聖ローマ帝国はその後も集団的な 主権を持つ存在として生き残ったこと、⑶ ドイツ諸侯の権利についても、領 地内での宗教決定権はすでに16世紀に確保されており、またヴェストファーレ ン条約によって特に強まったことはなく、1648年の意義は大きくないこと、等 を挙げて、ヴェストファーレン条約が主権国家システムを確立したという国際 関係論の定説を否定した4。このような見方は、特に近年の神聖ローマ帝国史 研究にかなりの程度共通するものであり5、クロックストンの論文に意義があ るとすれば、それは歴史的事実に関して新たな発見を付け加えたことではなく、 むしろ歴史家の間ではすでに常識であったことを公にし、歴史学と国際関係論 の懸け橋となることを試みた点にある。 しかし、それなら、現在われわれが知るような国際関係はいつ生まれたのか。 春秋戦国時代の中国や古典古代のギリシアに原始的な国際関係が存在したこと はよく知られている。しかし、『春秋左氏伝』や司馬遷の『史記』にその記録 が残されている古代中国の国際関係は紀元前221年の秦による中国統一で終わ りを告げ、ツキュディディスの『戦史』に描かれた古代ギリシアの都市国家の 間に出現した国際関係も紀元前338年のマケドニア王フィリッポス 2 世による ギリシア征服によって消滅する6。もちろん、古代中国やギリシアの国際関係 が消滅した後、複数の独立国の間に同様の関係が出現しなかったわけではない。 たとえば、ギリシアを征服したフィリッポス 2 世の子アレクサンドロス大王が 作り上げた大帝国が崩壊した後、その後継国家として出現したヘレニズム三王 国(アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エ ジプト)の間には、偉大な征服者の遺産を受け継ぐものとしての共通のアイデ

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ンティティの認識に支えられた、三つ巴の勢力均衡の体系が出現したと言われ る7。しかしながら、このような体系は長期にわたって継続的に発展すること はなく、もちろん現在の国際関係に直線的につながるものでもない。 現代の国際関係の起源に関する一つの有力な説明は、それがルネサンス期の イタリア半島に端を発するというものである。つまり、15世紀頃のイタリア半 島に存在した五つ程のほぼ力の等しい主要国の間に、勢力均衡と近代的な外交 制度の出現によって特徴づけられる国際体系が出現し、これが後に地理的範囲 を拡大し、数百年かけて全世界を覆うようになったというものである8。この 見方に従えば、1648年は、国際関係の発展過程におけるいくつかの重要な道標 の一つにすぎないということになるが、このような1648年の重要性を相対化す る見方は、近代ヨーロッパ国際体系の性格が、国際関係論において一般に信じ られているよりも、はるかに曖昧なものであったという認識につながるであろ う。つまり、主権国家体系はある日突然出現したのでなければ、中世的な秩序 もある日突然消滅したわけではなく、前者の出現と後者の消滅は同時進行的に かなり長い時間をかけて起こったという認識である。本稿では、このような認 識を背景としながら、中世末期から近代初頭にかけてのヨーロッパにおける国 際関係の出現を概観する。

第 1 章 中世ヨーロッパにおける普遍的権威の不在

ヨーロッパにおける近代的な国際関係の出現に関する一般的な説明によれば、 それは、中世の西ヨーロッパ政治世界の中心にあった、教皇権と皇帝権という 二つの普遍的な権威の退場と同時進行的に起こったとされる。国際関係論にお いてヴェストファーレン条約が重視されてきたのも、まさにそれがローマ教皇 や神聖ローマ皇帝の中世的な権威からのヨーロッパの解放を決定づけたと信じ られているからに他ならない9。しかし、実際には、教皇権や皇帝権は普遍を 志向するものであっても、普遍的なものであったことはない。そもそも800年 のカール大帝によるローマ帝国の復興には、復興すべきローマ帝国が、東方で はビザンツ帝国という形でいまだ存続していたという、大きな問題があった。 さらに、コンスタンティノープルの総主教は、カールによる西方での皇帝権の

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復興に大きな役割を果たしたローマ教皇の帝国内での首位権を認めなかった。 結局のところ、東西両帝国の相違は、古代末期の帝国の分裂状況を拠り所にし て、両者がお互いの帝位を相互に承認するという、原理的には皇帝権の本質に 矛盾する妥協によって解決される必要があった。また、カールの「西帝国」は、 北アフリカはいうまでもなく、イベリア半島の大部分やイタリア半島南部、ブ リテン島などを含まず、古代末期のいわゆる西ローマ帝国の領域すら覆ってい なかった。そして、この縮小版西ローマ帝国でさえ彼の死後分裂し、皇帝権 は著しく弱体化した10。たしかに、962年には、オットー大帝の戴冠によって、 西方の皇帝権が再興される。しかし、再興された西方帝国はドイツ王国とイタ リア王国、そして1032年以降はブルグント王国を含むのみであり、カールの帝 国よりさらに小さかった11 さらに、この縮小版の帝国の内部においてさえ、皇帝の支配は安定したもの ではなかった。特に複雑だったのは、ドイツ国王たる皇帝と帝国領イタリアの 関係である。興味深いことに、カール大帝は皇帝権をローマと密接に結びつけ ることに疑念を抱いていたとされる。教皇による戴冠はたしかに皇帝の威信を 増大したが、同時にそれは教権による俗権への介入の機会を与えるものであっ た。また、ローマでの戴冠式はイタリア半島の軍事的支配が前提となり、こ れはドイツを本拠地とする皇帝にとって大きな負担となりかねない。実際に、 カールは治世の末期に皇帝権をローマから切り離そうと努力し、死の前年に アーヘンにおいて教皇の手を借りずに王子ルイを共同統治者として戴冠した12 このように、カールは皇帝権と教皇権の結合の理念と現実の乖離を明確に認識 していたが、オットー大帝による西方皇帝権の再興以降、歴代の皇帝は戴冠に よる普遍的権威の獲得を目指した。しかし、おそらくカールが危惧したように、 すでにオットーの治世において、皇帝の滞在とドイツ兵の駐留なしにイタリア 半島での皇帝の実質的支配は維持できないことは明らかであった。短期間に終 わった951年のオットーの一度目のイタリア遠征は大きな成果を生まず、オッ トーは961年に、北部イタリアの実質上の支配者ベレンガールの脅威に対する 教皇の支援要請にこたえる形で二度目の遠征を行い、その結果翌年帝位を得た が、その後12年の治世のうち10年をイタリアで過ごすことによってのみ、イタ リア半島北部、中部での支配を維持することができた13。事実、歴代の皇帝が 戴冠式の後にアルプスの北に去るたびに、イタリアの帝国領に対する実質的支

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配は失われた。11世紀に半島北部及び中部において数多くのコムーネ(自治都 市)が皇帝権からの実質的独立を達成したのは、まさにこのような状況におい てであった14 もっとも、これらイタリアのコムーネも、当初は皇帝の法的な支配権を認め ていた。特に、11世紀末以降ラヴェンナとボローニャの 2 大学においてローマ 法研究が盛んになり、『ユスティニアヌス法典』が帝国内の民法の基盤として 広く認められるようになると、そこで世界の唯一の支配者とされている皇帝の 地位に法的に疑義を呈することは不可能になる。しかし、14世紀に入り、ロー マ法を現実の社会に適用せんとする志向を強く持つ注解学派がローマ法研究の 主流になると、このような状況に変化が生じた。初期のローマ法研究において、 法と事実が一致しない場合、法の解釈と一致するように事実が修正されねばな らないと考えられたのに対して、注解学派の創始者バルトールスは、法が事実 と一致するよう修正されねばならないと主張し、実質的独立を達成していたイ タリアの諸都市に対する皇帝の法的権限を否定したのである15 皇帝権の弱体化は、当初、教皇を利するかに思えた。実際に、歴代の教皇 は、皇帝によるイタリア半島の支配を阻止して、イタリア中部の教皇支配地 (教皇領)を拡大することを目的とし、このような政策は12世紀から13世紀に かけて一定の成功を収めた。特に、シュタウフェン家のフリードリヒ 1 世のも とで皇帝権が力を盛り返し、北イタリアの支配を要求してイタリア半島に侵攻 した12世紀後半には、教皇は自らの仲介で北部の諸都市が形成した「ロンバル ディア同盟」を支援し、イタリア史に名高い1176年のレニャーノの戦いにおけ る同盟の勝利と、 7 年後のコンスタンツの和約における皇帝によるコムーネの 自治権の承認に大きく寄与した16。さらに、1197年にフリードリヒの息子で後 継者のハインリヒ 6 世が死去すると、翌年教皇の座に就いたインノケンティウ ス 3 世は、ドイツ王位つまり帝位をめぐるシュタウフェン家とヴェルフェン家 の対立を利用してイタリア半島における勢力を拡大し、教皇権は最盛期を迎え た。1215年にフリードリヒ 1 世の孫がフリードリヒ 2 世として帝位につくと、 イタリアの支配をめぐる皇帝と教皇の争いが再燃したが、その後約半世紀にわ たって続いた争いは、13世紀後半にシュタウフェン王家の終焉によって決着し た。つまり、1250年にフリードリヒが死去し、その 4 年後に後継者のコンラー ト 4 世が死去するとドイツにおけるシュタウフェン王朝は終わりを告げ、ドイ

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ツでは弱小な国王や二重選挙が続いて王権が著しく弱体化したいわゆる大空位 期が到来した。イタリア半島におけるシュタウフェン家の野望は、フリードリ ヒ 2 世の庶子でシチリア王のマンフレートによって受け継がれるが、教皇はフ ランス国王の弟アンジュー伯シャルルの支援を求め、1266年にシャルルはマン フレートとの戦いに勝利してシチリア王国の支配者となった。 このように、13世紀の末には、帝権と教権の対立を生き残ったのは後者であ るように見えた。しかし、皇帝と教皇の対立は、それ自体、帝権と教権が調和 的に結合してラテン的キリスト教世界の頂点に立つという、両者の優越を正当 化するための理念の崩壊を意味し、究極的には皇帝権のみならず教皇権の没落 を招くことになる。教皇はいかに力を強めようとも世俗の支配者の後ろ盾を必 要とし、結局のところ、原理的に教皇による権威付けを必要とする皇帝は、そ のような後ろ盾として最もふさわしい存在であった。この意味で、教皇が13世 紀の後半に、アンジュー家との同盟を通じて、自らの権威を必要とするところ の少ないフランス王権への依存を強めたことは、極めて危険であった。事実、 14世紀初頭には、フランス国王フィリップ 4 世が、教会財産への課税をめぐる 対立から、教皇ボニファティウス 8 世の捕縛をはかって憤死に追い込み、教皇 権の凋落を白日の下にさらした17 教皇権の俗権への介入のみならず、皇帝のフランス国王に対する優越をも否 定したフィリップ 4 世の挑戦に直面して、皇帝ハインリヒ 7 世と教皇クレメン ス 5 世は和解し、ハインリヒ 7 世のイタリア遠征と1312年のローマでの戴冠が 実現するが、ハインリヒはすでにイタリア半島における実質的支配が不可能で あることを認識しており、彼の遠征の目的は、イタリア諸都市における対立す る諸党派の間の仲裁者として振舞い、これら都市への皇帝の法的な権限の確認 を得ることに限られた。しかしながら、このようなささやかな要求ですら、北 イタリアのいくつかの都市やアンジュー家のナポリ王ロベルト 1 世によって拒 絶される。ナポリ遠征の準備を急いだハインリヒは翌1313年に急死するが、彼 の死後、イタリアを皇帝の支配下に統合し、普遍的皇帝権を再興しようとする いかなる試みももはや成功しないことは明らかであった18。この10年ほど後に は、パドヴァのマルシリウスが、有名な著書『平和の擁護者』の中で、政教分 離の考えを明確に打ち出し、教権の世俗社会への介入を拒絶した19 教皇権と皇帝権という中世ヨーロッパの二つの「普遍的」権威は、普遍的な

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支配を実現したことはなく、中世の後期には理念としても批判を受けた。もち ろんこのことは、中世ヨーロッパにおける教皇権と皇帝権の重要性を否定する ものではない。両者の調和的結合による普遍的秩序という理念は確かに存在し、 理念として強い力を持った。しかし、それは事実というよりはむしろ実現すべ き理想であり、実際に決して実現することはなかったのである。

第 2 章 イタリア半島における近代的国際関係の出現

前節で見た皇帝と教皇の間の緊張と闘争の構図は、普遍的理念に依拠する階 層秩序という伝統的な中世ヨーロッパの政治世界像がきわめて不十分なもので あることを示している。それはむしろ、つねに複数の力の中心が存在し、その うち一つが一時的に優越を達成しても他の勢力によって抑え込まれ、その狭間 で各地の政治勢力の独立が維持されるという、近代ヨーロッパの国際関係との 連続性さえ感じさせる。 実際に、隣り合う国が特定の領土の支配をめぐって時に戦うといった状況を はるかに超える、より複雑な国家間関係は、中世のヨーロッパにおいて当たり 前のように見られた。たとえば、12世紀後半から13世紀初頭には、ドイツ諸侯 の勢力争い、イタリア半島を中心に繰り広げられた皇帝と教皇の対立、後の英 仏百年戦争につながるプランタジネット朝とカペー朝の対立が絡み合い、西 ヨーロッパ規模の同盟と対立の構図が出現した。特に、先に触れたように、12 世紀に 3 代にわたって皇帝を輩出したシュタウフェン家のハインリヒ 6 世が 1197年に死去し、同家とヴェルフェン家の間にドイツ国王位すなわち帝位をめ ぐる争いが発生すると、フランス国王がシュタウフェン家を、イングランド国 王と教皇がヴェルフェン家を支持して対立した。しかし、1208年に皇帝となっ たヴェルフェン家の皇帝オットー 4 世が皇帝権の強化を図ると、教皇は一転し てシュタウフェン家支持に転じた。1214年には、フランス王フィリップ 2 世が、 イングランド国王と同盟したオットー 4 世をブーヴィーヌの戦いで打ち破り、 これによってシュタウフェン家が帝位に復帰した。フランス国王の軍隊が皇帝 軍を打ち破って帝位の帰趨を決定づけたことは、皇帝権の弱体化を象徴する出 来事であったが、先に触れたようにシュタウフェン朝が終焉を迎えた13世紀の

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半ば以降には、英仏両国王をはじめとする外部の世俗の支配者や教皇がドイツ 内の諸勢力と手を結んでドイツの政治に介入することは常態化していく20 しかしながら、ここに挙げたような中世西ヨーロッパの複雑化しつつあった 国家間関係を現代の国際関係の直接的な起源とみなすことは、むしろ稀である。 より一般的な説明に従えば、現代の国際関係の原型は、15世紀頃のイタリア半 島に出現したとされる。この理由としてよく挙げられるのは、第一に、当時の イタリア半島で勢力均衡の体系が明確に出現したこと、第二に、近代的な外交 制度の基礎が形作られたことである21。第一の勢力均衡については、その主要 なアクターの間にはかなりの性格の違いがみられた。まず半島の北部、中部で は、11世紀以降数多く出現した自治都市は当初共和制をとった。しかし、これ らの都市では、土地の名家を中心とした派閥間の抗争が絶えなかった。さらに、 13世紀に入ると、急速な経済発展と人口増加のなかで、ポーポロ(人民)と呼 ばれる、同業組合の連合体として組織された新興平民層の政治勢力が勃興して、 旧来の派閥と対立した上に、各都市の派閥抗争がこの時期に共に力を盛り返し た皇帝権と教皇権の間の闘争と結びつき、政治的混乱と秩序の崩壊を経験した。 13世紀半ばには多くの都市で政治的安定への希求が高まり、シニョーレと呼ば れる終身統治者が登場したが、さらに14世紀から15世紀になると、世襲の支配 者に権力が集中するシニョリーア制と呼ばれる体制に移行する。しかし、主要 な政治勢力の中でも、13世紀後半に支配を確立したヴィスコンティ家が1395年 に公位を獲得したミラノのような典型的なシニョリーア制を採った国もあれ ば、15世紀になってようやくメディチ家によるあくまでも非公式のシニョリー ア制が成立した国、あるいは、ヴェネツィアのように共和制を維持し続けた国 もあった。最近の研究は、シニョリーア制の下での支配も実際には被支配者の 合意にかなりの程度依存したこと、共和制をとった国でも徐々に寡頭制的な傾 向が強まったことを挙げて、両者の類似性を強調する傾向が強いが22、少なく とも形の上では、社会的変動が各国の政治体制に与えた影響にはある程度の差 があった。さらに、大土地所有制によって特徴づけられる、北部とは全く異な る社会経済的条件を持つ半島南部では、はやくも12世紀にはノルマン人による 王国が成立して封建制が導入されたが、その後イタリア南部とシチリア島から なるシチリア王国は、シュタウフェン朝による支配を経て、1266年には、先に みたように、アンジュー家の支配に入る。しかし、1282年にシチリア島でシチ

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リアの晩鐘という名で知られる島民の反乱が発生し、これに乗じてアラゴン王 ペドロ 3 世がシチリアを奪った。こうして、イタリア本土南部(通称ナポリ王 国)を支配するフランス出身のアンジュー家と、シチリア島(シチリア王国) を支配するスペインのアラゴン家が、南イタリア全域の支配をめぐって争うと いう、15世紀半ばまで続く構図が出現した23 上に見たような国々と、すでに前章で見た教皇領は、政治体制の違いはあれ、 15世紀の初頭までに、他の多くの勢力を押さえて、イタリア半島の国際関係の 主要なアクターとして出現してくる。これらの国々の中で、14世紀後半から15 世紀初頭にかけて特に力をつけたのは、周辺の地域に領土を拡大するのみなら ず、当時の基準で言えばかなり集権的な国家を建設した、ヴィスコンティ家が 支配するミラノであった。しかし、ミラノ強大化の立役者ジャン・ガレアッ ツォ・ヴィスコンティが1402年に死去すると一時的にミラノは弱体化し、北イ タリアでは、その後20年ほどの間にピサやリヴォルノを含め地中海沿岸地域で 領土を拡大したフィレンツェ、イタリア本土北東部で大きな領土を獲得した ヴェネツィアを含む、三つ巴の勢力均衡が出現する。 その後、1420年代初頭には、ミラノがジェノヴァやブレッシアといった近隣 都市を占領し再び勢力を拡大するが、1425年に締結されたヴェネツィアとフィ レンツェの同盟はミラノの拡大を封じ込めるのに十分なものであった。ミラノ と近隣諸国の対立は、1430年代半ばには、半島南部の諸国も巻き込むさらに複 雑な闘争へと発展していく。イタリア南部では、14世紀の後半以降、ナポリを 支配するアンジュー家とシチリアを支配するアラゴン家が対峙するという伝統 的な構図に、アンジュー家内部の王位継承をめぐる争いが加わり、複雑な様相 を呈していたが、さらに1435年には、ナポリ獲得を狙うアラゴン家のシチリア 王アルフォンソが、北部での勢力拡大を諦めないミラノの支配者フィリッポ・ マリア・ヴィスコンティと、お互いの野心を実現するために同盟関係に入った。 これに対して、再びヴェネツィアとフィレンツェが同盟し、ヴィスコンティと アルフォンソの野心の実現が両者に挟まれた教会国家の存続を危うくすること を恐れたローマ教皇も、この同盟に支持を与えた。この戦争の結果として、北 部でのミラノの大幅な拡大は阻止されたが、南部ではアルフォンソが1442年ま でにナポリを征服し、アルフォンソによる教皇領攻撃を恐れた教皇はこれを認 めた。

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しかし、アルフォンソは北部へのさらなる勢力拡張を狙ってフィレンツェ 攻撃を決意し、1447年には、ナポリ=ミラノ同盟とヴェネツィア=フィレン ツェ同盟の間で戦争が再発する。ところが直後にミラノ公フィリッポ・マリ ア・ヴィスコンティが死去したことで、15世紀イタリア版の外交革命が起こる。 フィリッポ・マリアの後継者として有力な候補者の一人は、彼の一人娘ビアン カ・マリアの夫フランチェスコ・スフォルツァであったが、フィリッポ・マリ アがアルフォンソとの間に自らの死後ミラノを譲るという密約を交わしていた という噂も広く流布していた。当時のイタリアで最も有能な傭兵隊長の一人で あったスフォルツァの下で、ミラノが近隣への拡張政策を継続することを恐れ たヴェネツィアが、スフォルツァによるミラノ支配に反対したのに対して、ア ルフォンソによるミラノ支配により大きな脅威を感じ、また同盟国ヴェネツィ アの力を恐れ始めていたフィレンツェの支配者コジモ・デ・メディチはスフォ ルツァを支持した。1450年にスフォルツァはミラノの支配権を掌握し、ここに ミラノ=フィレンツェ同盟とヴェネツィア=ナポリ同盟の成立という、同盟の 組み換えが実現した。1452年に始まる両同盟間の戦争は1453年には行き詰り、 同年にコンスタンティノープルを攻略したオスマン=トルコの脅威や、同じく 同年に百年戦争に勝利したフランスによるイタリア半島への大規模な介入の危 険に直面した北部 3 国は、教皇の仲介で1454年に和平に至り、半島における領 土的現状の維持や、外部勢力の攻撃に対する相互援助を約したヴェネツィア条 約に調印したが、その後翌年 1 月までに教皇やナポリを含むすべてのイタリア 諸国がこれに参加し、いわゆるイタリア同盟が成立することになった24 このような諸国の対立の中で、15世紀のイタリア半島では、国家間関係を力 の均衡によって分析することが一般的になってくる。1439年には、ヴェネツィ アの人文主義者でミラノとの戦争でも活躍したフランチェスコ・バルバロが、 自国をイタリア半島における勢力均衡のために働く主要勢力であると評したが、 M.S. アンダーソンによれば、これは、知られている限りでは、勢力均衡に対 する明確な言及がなされた最初の例である25。もっともすでに見たように、こ れ以前のヨーロッパでも、各地の勢力が自らの力だけに頼らずに、同盟などの 手段で力の均衡を操作して自国の力や安全を高めようとすることは、きわめて 一般的であった。ヨーロッパの国際関係が長い時間をかけて徐々に発展したと すれば、それが確立された年代を特定することは困難である。しかし、一つ確

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かに言えることは、15世紀頃のイタリア半島では、国家間の関係がそれ以前の 時期のヨーロッパと比較してはるかに緊密で恒常的なものとなり、また、その お陰で勢力均衡の概念がそれまでになく明確に理解され、実際の政策により意 識的に適用されるようになったということである。当時のイタリア半島に現代 の国際関係の原型がすでに存在したことに疑いはない。 15世紀イタリア半島の国家間関係を現代の国際関係の原点とみなす理由とし て、勢力均衡の概念の定着と並んで重視されているのが、当時のイタリア半島 における近代的外交制度の出現、特に常駐外交代表の制度の出現である。残存 する不確かな資料から、15世紀前半までのイタリア諸国の外交関係に関して現 在得られる情報はきわめて不完全なものにすぎないが、少なくとも14世紀末に は、ミラノの支配者ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティがピサやフェッ ラーラ、ペルージャ、シエナなど中部イタリアの自治都市に外交使節を駐在さ せていたことは明らかなようである。また、1420年代半ばには、フィリッポ・ マリア・ヴィスコンティと神聖ローマ皇帝でもあったハンガリー王ジグモンド が外交使節を交換し、これは両者のヴェネツィアを敵とする同盟関係が消滅し た1430年代初頭まで続いた。対するヴェネツィアも、1430年代半ば以降、継続 的に教皇庁に外交使節を維持するようになる。しかし何と言っても、イタリア 半島で常駐外交代表の交換が普及したのは、1450年代に入ってからであった。 1452年に対立する二つの同盟の間で戦争が始まると、多くの国が自らの同盟国、 そしてこの戦争において中立を保った教皇庁に外交使節を常駐させるように なった。1454年の和平は同盟国間の戦争協力の終焉を意味したが、和平に続い て締結されたイタリア同盟は、加盟国間で戦争の危険が生じた際に彼らが即座 に協議を行うことを定め、おそらくこの規定が一つの重要な理由となって、む しろ戦後のイタリア半島において常駐外交代表の制度は定着していった26。こ のように、常駐外交代表の制度は、同盟を組んだ国々が連絡を密にする必要か ら普及したものであったが、逆に言えば、この制度が15世紀半ばに普及したこ とは、この時期にイタリア諸国の関係が絶えざる連絡と協議、そして相手国の 情勢の観察を必要とするほど密接になっていたこと、つまり一つの体系を構成 するようになったことを、如実に示している。 15世紀頃のイタリア半島に、現在の国際関係の原型とみなしうるような国家 間の関係が出現した理由としては、まず、この頃のイタリア諸国、特に北中部

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の国々が、当時の基準でいえばかなり集権的な領域国家へと成長しつつあった ことが挙げられるであろう。イタリア諸国がアルプスの北の主要な国々と比較 して規模が小さかったという事実は、これらの国々の統一性を高めることに貢 献したと思われる。また、イタリア半島自体がヨーロッパ全体から見れば地理 的に限定されていたことも、通信や移動の技術がいまだ未発達であった時代に、 これらの国々が戦争や外交を通じて密接な関係を築くことを容易にしたであろ う。国内の統治体制や外交制度の発展に関して言えば、ヨーロッパの文化的先 進地であった当時のイタリアでは、行政官や外交官を務められる教養をもった 人々の割合が比較的高かったことも重要である27

おわりに

結局のところ、現代の国際関係の起源となるような、国家間の関係がヨー ロッパに出現したのはいつのことであったのか。すでに示唆したように、ルネ サンス期のイタリア半島は、一つの有力な候補である。力のバランスを巧みに 操作して、自国の力や安全を高めようとした当時のイタリア諸国の外交政策は、 かなりの程度合理的で戦略的な考慮に基づいていたように思われる。すでに14 世紀において、イタリア半島における絶えざる戦争の原因となった諸国の領土 拡張の努力は、商業ルートの確保に死活の利益を持ったヴェネツィアの例に典 型的に示されるように、大部分戦略的計算や経済的利害によって説明できると される28 しかし、これまで見てきたすべてのことにもかかわらず、当時の国際関係の 近代性を強調しすぎることも正しくないであろう。何よりも、近年の研究が明 らかにしたように、ルネサンス期のイタリア諸国の集権化、近代性の程度には 限りがあった。このことは、各地に大土地所有者である独立性の強い貴族が割 拠し、国王の権力が地方まで及ばなかったナポリやシチリアでは、特に当ては まった。当時の基準で言えばかなり集権的な国家を建設することに成功したと される、ミラノのような国についても、ある程度同じようなことが言える。す でに述べたように、1395年に公位を得たジャン・ガレアッツォの支配の下で14 世紀末に強大化したミラノは、彼の死とともに一挙に統一を失い、多くの都市

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や領土の支配を失った。15世紀初頭にヴィスコンティ家は勢力を盛り返すが、 その後15世紀を通じて、ミラノ公の権力基盤が根本的に強化されることはな かった29。また、14世紀末にジャン・ガレアッツォはミラノ公の地位を得るこ とによってヴィスコンティ家の支配を安定させようと試みたが、それから半世 紀後、ジャン・ガレアッツォの次男フィリッポ・マリアが男子の後継者を残さ ず死去した後にミラノの支配者となったフランチェスコ・スフォルツァは、自 らの公位獲得への皇帝の承認を得ることによって自らの支配の正統性を高める ことを望み、それを領土拡張に優先する外交政策の目的とした30。15世紀半ば に至っても、皇帝の権威が完全には失われていなかったことを、よく示す事例 である。さらに、教皇権についても、同じようなことが言える。たとえば、教 皇はシチリアおよびナポリが自らの封土であると主張し、両地域の政治的支配 者を自らの封臣とみなしたが、教皇がアルフォンソの庶子フェランテによるナ ポリ王位の継承を認めなかったことが、1458年のアルフォンソの死後、ナポリ における内乱とアンジュー家による攻撃を招いたように、かなりの実力を持つ 世俗の支配者にとっても、教皇との対立は決して望ましいことではなかった31 このルネサンス期イタリア半島の国際関係は、1494年のフランス国王シャル ル 8 世のイタリア侵攻を一つの重要な契機として、15世紀末から16世紀初頭に 西ヨーロッパ全域へと拡大する。しかし、その後西ヨーロッパで見られた国際 関係は、15世紀イタリアのそれと比べても、むしろ中世的色彩の濃いものとな る。つまり、近代初頭の西ヨーロッパ諸国の多くは、同一の君主を戴くことに よってのみ結ばれた、政治的、経済的、文化的統一を持たない領土の寄せ集め にすぎず、これらの国々の外交政策は、国家の経済的利益や安全保障を高める ことよりもむしろ、君主個人の、あるいは王家の名誉や栄光を高め、所有地を 増大することを重視するものとなった。その後ヨーロッパ国際関係は徐々に近 代的な性格を強めていくが、その過程は数百年に及ぶ緩やかかつ複雑なもので あった。近代的な国際関係が出現し、確立していった過程を探る道程はまだ当 分続く。

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Notes

1.このような視点から書かれている国際関係論の概説書の好例として、ジョ セフ・S. ナイ・ジュニア、田中明彦、村田晃嗣訳『国際紛争:理論と歴 史[原書第5版]』有斐閣、2005年、3⊖5頁、久米郁男、川出良枝、古城佳子、 田中愛治、真渕勝『政治学』有斐閣、2003年、135、139⊖41頁。 2.同上書、140頁。 3.中西寛『国際政治とは何か』中公新書、2003年、22頁。

4.Derek Croxton, “The Peace of Westphalia of 1648 and the Origins of Sover-eignty”, The International History Review, vol. 21 (1999), pp. 569⊖91.

5.たとえば、Michael Hughes, Early Modern Germany, 1477-1806 (University of Pennsylvania Press, Philadelphia, 1992) ; Ronald G. Asch, The Thirty Years War:

the Holy Roman Empire and Europe, 1618-48 (Palgrave, Basingstoke, 1997) ;

Peter H. Wilson, From Reich to Revolution: German History, 1558-1806 (Palgrave Macmillan, Basingstoke, 2004).

6.中国の春秋戦国時代の国家間関係を簡潔に描写した研究として、Cho-yun Hsu, “The Spring and Autumn Period”, in Michael Loewe and Edward Shaugh-nessy, ed., The Cambridge History of Ancient China (Cambridge, Cambridge University Press, 1999), pp. 545⊖86; Mark Edward Lewis, “Warring States: Politi-cal History”, in Ibid., pp. 587⊖650. 古代ギリシアに関しては、Donald Kagan,

The Peloponnesian War (London, Penguin Books, 2004); Jonathan M. Hall,

“International Relations”, in Philip Sabin, Hans van Wees and Michael Whitby, ed., The Cambridge History of Greek and Roman Warfare, volume I: Greece, the

Hellenistic world and the rise of Rome (Cambridge, Cambridge University Press,

2007), pp. 85⊖107.

7.Richard Billows, “International Relations”, in Ibid., pp. 303⊖24, at pp. 303⊖5. 8.代表的な例として、M. S. Anderson, The Rise of Modern Diplomacy, 1450-1919

(London, Longman, 1993), especially, pp. 1⊖3.

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東京大学出版会、1989年、13⊖50頁)21頁。 10.ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修、浅野啓子、小倉欣一、佐久間弘展 訳『西欧中世史事典Ⅱ―皇帝と帝国―』ミネルヴァ書房、2005年、20⊖23、 138⊖9、141⊖3頁。 11.同上書、31頁。 12.同上書、140⊖41、230⊖32頁。 13.同上書、144⊖51頁。 14.クリストファー・ダガン、河野肇訳『イタリアの歴史』創土社、2005年、 56⊖7頁。

15.Quentin Skinner, The Foundations of Modern Political Thought, Volume 1: The

Renaissance (Cambridge, Cambridge University Press, 1978), pp. 1⊖12.

16.Ibid., p. 12.

17.シュルツェ『西欧中世史事典Ⅱ』189⊖206頁、ダガン『イタリアの歴 史』66⊖70頁 ; Peter Denley, “The Mediterranean in the Age of the Renaissance, 1200-1500”, in George Holmes, ed., The Oxford Illustrated History of Medieval

Europe (Oxford, Oxford University Press, 1988), pp. 235⊖96, at pp. 235⊖43. イ

ンノケンティウス 3 世からいわゆるアナーニ事件に至る教皇権の歴史を 簡潔に描写した研究として、J. A. Watt, “The Papacy”, in David Abulafia, ed.,

The New Cambridge Medieval History, Volume V: c. 1198-c. 1300 (Cambridge,

Cambridge University Press, 1999), pp. 107⊖63.

18.シュルツェ『西欧中世史事典Ⅱ』209⊖13頁 ; John Law, “The Italian North”, in Michael Jones, ed., The New Cambridge Medieval History, Volume VI: c.

1300-c. 1415 (Cambridge, Cambridge University Press, 2000), pp. 442⊖68, at pp.

442⊖4; David Abulafia, “The Italian South”, in Ibid., pp. 488⊖514, at pp. 488⊖90; Peter Herde, “From Adolf of Nassau to Lewis of Bavaria, 1292-1347”, in Ibid., pp. 515⊖50, at pp. 529⊖37.

19.Skinner, Foundations, pp. 18⊖22.

20.シュルツェ『西欧中世史事典Ⅱ』189⊖97頁; Michael Toch, “Welfs, Hohen-staufen and Habsburgs”, in Abulafia, ed., The New Cambridge Medieval History,

Volume V, pp. 375⊖404, at pp. 375⊖82, 392⊖400.

(16)

22.この点に関しては、Michael Mallett, “The Northern Italian States”, in Christo-pher Allmand, ed., The New Cambridge Medieval History, Volume VII: c. 1415-c.

1510 (Cambridge, Cambridge University Press, 1998), pp. 547⊖70, at pp. 559⊖63;

Denley, “The Mediterranean”, pp. 272⊖3. 23.ダガン『イタリアの歴史』56⊖77頁。

24.Mallett, “The Northern Italian States”, pp. 550⊖9; Alan Ryder, “The Papal States and the Kingdom of Naples”, in Allmand, ed., The New Cambridge Medieval

History, Volume VII, pp. 571⊖87, at pp. 573⊖9; Vincent Ilardi, “The Italian League,

Francesco Sforza, and Charles VII (1454-1461)”, Studies in the Renaissance, Vol. 6 (1959), pp. 129⊖66, at pp. 129⊖44.

25.Anderson, The Rise of Modern Diplomacy, p. 151.

26.Garrett Mattingly, Renaissance Diplomacy (New York, Dover Publications, 1988), pp. 61⊖77.

27.Ibid., pp. 50⊖52; Anderson, The Rise of Modern Diplomacy, p. 3. 28.Law, “The Italian North”, p. 450.

29.Ibid., pp. 465⊖8; Mallett, “The Northern Italian States”, pp. 561⊖2. 30.Ibid., pp. 558, 566.

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