Ⅰ
は
じ
め
に
二〇〇四年スマトラ沖地震津波は人類社会にとって突出 した重要性を持つ災害となった。災害や支援活動の規模が 人類史上まれに見る大きさだったためだけではない。この 災害で最大の被災地となったインドネシア・アチェ州で三 〇年に及ぶ武力紛争が災害を契機に和解にいたるという貴 重な事例を提供したためである。 ア チ ェ 州 で は 一 九 七 六 年 か ら 自 由 ア チ ェ 運 動 (G A M) がインドネシアからのアチェ分離独立を主張して運動を展 開してきた。これに対してインドネシア政府は地方分権の 強化などにより対応を試みてきたが、軍事衝突はおさまら ず、 二 〇 〇 三 年 に ア チ ェ 州 全 域 に 軍 事 非 常 事 態 を 宣 言 し た。独立派掃討のためインドネシア国軍主導の統合作戦が 実施され、アチェ州への外国人の立ち入りは制限された。 アチェ紛争の平和的解決に関心を持つ多くの人道支援団体 は現地での活動を断念せざるをえない状況にあった。とこ ろが、二〇〇四年スマトラ沖地震津波を契機にGAMとイ ンドネシア政府は和平交渉を進め、二〇〇五年に両者の間 で和平合意にいたった。二〇〇四年スマトラ沖地震津波の 経験は、自然災害に対する人道支援活動の展開を契機とし て紛争が和解にいたることを示すものだった。 従来、紛争解決は紛争主体に直接働きかけることによっ て図られてき * 1 た。これに対して、アチェでは紛争主体以外 の人々を対象に人道支援が行われた結果として紛争が和解 にいたった。本章では、このような結果をもたらした背景特集
︱1
災害
が
ひ
ら
く
社会
災
害
か
ら
の
復
興
と
紛
争
か
ら
の
復
興
︱
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二
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〇
四
年
ス
マ
ト
ラ
沖
地
震
津
波
の
経
験
か
ら
西
芳
実
として、紛争を支えてきた社会の構造の変化に注目する。 ここで紹介される事例は、自然災害を契機とした人道支援 が災害以外の「人間の安全保障」上の問題の解決に寄与し うる事例としても位置づけられるはずであ * 2 る。 また、紛争下のアチェの人々の暮らしを規定してきた制 約 が 津 波 被 災 を 契 機 に ど の よ う に 変 化 し た か を 見 る こ と で、自然災害の被災が紛争状況にあった社会を精神的に解 放した側面を検討したい。 和平合意や武力紛争の非軍事化は、それそのものだけで は紛争の解決を意味しない。また、災害犠牲者に対する支 援と別に、紛争犠牲者に対する支援を行うべきであり、紛 争犠牲者に対する補償や正義の実現が行われてこそ紛争が 解決したといえるとの考え方もある。アチェ紛争に関連し ていえば、災害犠牲者に対する復興支援と別に行われた紛 争犠牲者に対する支援事業や、和平にいたる政治過程に注 目する方法が考えられ * 3 る。しかし、ここではその方法をと らない。かわりに、災害からの復興をめざすアチェの内外 の人々の営みがアチェにもたらした新しい状況を考えるこ とで、災害からの復興が紛争からの復興を支える環境づく りに果たした役割を検討したい。 本 稿 は、 ア チ ェ の 被 災 と そ の 後 の 復 興 事 業 の 展 開 を ア チェの歴史的社会的文脈のなかに位置づけることで、社会 にとっての被災の意義を検討する試みでもある。そのこと は、被災前の社会の枠組を前提に被災後を検討するのでは なく、被災を契機にあらわれた社会の新しい側面をふまえ て社会を理解する枠組を再編する試みでもあ * 4 る。Ⅱ
ア
チ
ェ
紛
争
の
構
造
︱
︱
武
装
勢
力
に
よ
る
地
域
の
﹁
囲
い
込
み
﹂
紛争の原因をどのように理解するかは、その紛争にどの ように対応するかと結びついている。ここでは、一九七〇 年代に始まるアチェ紛争がどのような性格を持った紛争で あったかを整理することで、二〇〇四年スマトラ沖地震津 波がアチェ紛争に影響をもたらした背景を検討したい。 津 波 を 契 機 に ア チ ェ 紛 争 が 和 平 に 向 か っ た 背 景 に つ い て、津波被災がアチェを拠点とするGAMに大きな被害を 与え、勢力を減じたGAMがインドネシア政府との和平交 渉に応じ、最終的に独立要求を取り下げたためとする考え がある。しかし、この理解では、津波被災直後に停戦を呼 びかけたのがGAMであり、和平合意をふまえて制定され たアチェ統治法によってアチェ州に大幅な自治が認められ たことや、和平後初めての選挙によってGAMとしての活 動歴をもつ州知事が誕生したことを十分に説明できな * 5 い。 また、紛争当事者の勢力関係に注目するこのような紛争理解は、武力による武力の管理を通じた紛争解決につながり うるもので、限界がある。 このことは、アチェで過去に生じた紛争からもわかる。 アチェではアチェ紛争に先立ってさまざまな武力紛争が行 われてきた。アチェ王国への植民地支配をはかるオランダ に 抵 抗 し た ア チ ェ 戦 争 (一 八 七 三 ~ 一 九 一 二 年) に 始 ま り、オランダの植民地支配からの解放を求めるインドネシ ア 共 和 国 独 立 戦 争 (一 九 四 五 ~ 一 九 四 九 年) 、 イ ン ド ネ シ ア・イスラム共和国建設を掲げてインドネシア共和国政府 に反旗を翻したダウド・ブルエによるダルル・イスラム運 動 (一 九 五 三 ~ 一 九 六 二 年) と い う よ う に、 武 力 行 使 を 伴って体制転換を目指す運動が繰り返されてきた。 これらアチェをめぐる紛争の原因については、紛争の当 事者による説明をもとに、アチェ民族やイスラム教徒とし てのアイデンティティや資源ナショナリズムの枠組で理解 され、その理解に即して、アチェにはイスラム法の部分施 行や地方分権、天然資源収入の再配分といった対応がとら れてきた。しかし、それぞれの紛争がアチェで実際にどの よ う に 進 行 し た か を く わ し く 見 て み る と、 い ず れ の 場 合 も、アチェと外部世界とをつなぐ経路を独占的に管理する 動き、すなわち「囲い込み」をめぐる紛争であったことが わかる。 たとえば、一九四五年に始まったインドネシアの独立戦 争では、他の地域がオランダに再占領される中で、アチェ は最後までインドネシアの独立を掲げてオランダと戦い続 け、一九四九年のインドネシア独立を導いた。ところが、 インドネシアが独立したとたん、アチェは手のひらを返す ようにインドネシア政府に対して反乱を起こした。反乱軍 は ダ ル ル・ イ ス ラ ム (「イ ス ラ ム の 家」 ) 軍 を 名 乗 り、 イ ン ドネシア・イスラム共和国の建設を主張した。このことは 「囲 い 込 み」 と そ れ に 対 す る 抵 抗 と い う 見 方 に よ っ て 次 の ように理解できる。 インドネシアが独立すると、アチェは隣接する北スマト ラ州の一部にされ、北スマトラ州の州都メダンによって管 轄されることになった。同時に貿易制度改革が行われ、そ れまでアチェの港からマラッカ海峡の対岸にあるペナンや シンガポールと直接行われていた取引が制限され、交易は 必ずメダンを経由することになった。ダルル・イスラム運 動 は こ の よ う な「囲 い 込 み」 に 対 す る ひ と つ の 抵 抗 運 動 だったと理解できる。紛争が激化する過程では、アチェか ら北スマトラ州に通じる道路と鉄道が反政府軍によって閉 鎖される動きも見られ * 6 た。 一九七〇年代に始まるアチェ紛争も同様の枠組で理解で きる。一九七〇年代はインドネシアで中央集権化が進めら れた時期であり、とくにアチェでは中央政府主導による天 然ガス開発が進められた。これに対してGAMはインドネ シ ア 政 府 に よ る ア チ ェ 統 治 を 拒 絶 し、 「独 立 す れ ば ブ ル ネ イのようになれる」と主張して、武力によりアチェをイン ドネシアから切り離してスマトラ・アチェ国として独立さ せることをめざした。 アチェ独立をめざすGAMとこれを認めないインドネシ ア政府との紛争は、アチェでは、GAMとインドネシア国 軍のどちらが人々の生活を管理するかをめぐる紛争として 展開した。アチェの住民経済はアブラヤシやコーヒー、木 材、丁子などの域内の一次産品を域外に移出することで支 えられている。それらの産品を域外に輸送する主要な経路 は海岸部の幹線道路に限られており、紛争下では、これら の幹線道路に国軍やGAMが検問所を設けて「通行税」を 徴収した。また、公共事業であるか民間事業であるかを問 わず、紛争下で円滑に事業が進められるよう武装勢力とし て護衛するという名目で国軍やGAMは「護衛料」や「税 金」の支払いを求めた。 国軍とGAMは互いに相手を「住民生活の脅威」と非難 し、 自 ら を「治 安 回 復 の 担 い 手」 「住 民 の 庇 護 者」 と 名 乗って武力衝突を繰り返し、住民生活に対する統制を強め た。そのときどきでどちらの勢力が強いかは異なっていて も、住民にとって紛争下にあることは、武装勢力を経由せ ずに他の勢力と関係を結ぶことが著しく制限された状態に あることであり、紛争下のアチェの人々はGAMとインド ネシア国軍という二つの武装勢力によって囲い込まれた状 態にあった。 このような状況に対して、国際社会の仲介で紛争和解の 試みが行われたが、十分な成果を上げていなかった。イン ドネシア政府とGAMとのあいだに和平の場を設定し、緊 急人道支援を実施して平和の配当を与えることで平和の定 着を図る試みが行われるものの、緊急人道支援の成果が定 着する前に武力紛争が再燃し、人道支援活動を中止せざる をえない事態が繰り返されてい * 7 た。 事態が膠着するなかで、二〇〇三年五月にインドネシア 政府がアチェに軍事非常事態を宣言したことで、この「囲 い込み」の状況は極限に達した。戒厳令翌日にはアチェと 域外との郵便小包みの一時差し止めや検閲の強化のほか、 アチェと域外とを結ぶ中距離バスを国軍が「護衛」すると いった施策がとられた。インドネシア政府は人道支援団体 を 含 め て 外 国 勢 力 の ア チ ェ へ の 入 域 を 制 限 し た う え で、 「非 常 事 態」 を 理 由 に 治 安 当 局 に よ る 行 政 へ の 関 与 を 正 当 化し * 8 た。
Ⅲ
津
波
支
援
を
通
じ
た
紛
争
地
の
開
放
二〇〇四年スマトラ沖地震津波が発生したのはこのようなアチェでだった。死者・行方不明者一六万五〇〇〇人と いう甚大な被害を受けたアチェには救援復興活動のために 外部世界から大量の支援が寄せられた。二〇〇五年一月九 日 に は、 各 国・ 国 際 機 関 の 支 援 表 明 額 が 五 〇 億 一 五 〇 〇 万米ドルに、民間援助が一六億八〇〇万米ドルにそれぞれ 達した。インドネシア政府の発表によれば、津波直後の時 点でアチェに入った外国の援助団体は三八〇あった。各国 政府機関・民間団体のアチェでの活動を調整する国連人道 問 題 調 整 支 援 室 (O C H A) に 登 録 し た 団 体 は 同 年 四 月 二 〇日の時点で五三五にのぼった。津波への対応に窮したイ ンドネシア政府と治安当局は外部世界からのこれらの支援 を受け入れた。津波を契機として、それまで閉ざされてい たアチェは一気に外部世界に開放されることになった。 ア チ ェ の 津 波 被 災 者 支 援 事 業 は、 被 害 の 甚 大 さ に 加 え て、アチェが紛争地であったことからさまざまな困難が予 想された。緊急人道支援段階の初期においては、救援物資 を運ぶ人道支援活動家に対して国軍が護衛料や「通行税」 を要求したとの事例が数多く報告された。空港や港に運び 込まれた援助物資を国軍が差し押さえた事例や、災害救援 に 欠 か せ な い 地 理 情 報 を 秘 匿 す る と い っ た こ と も 見 ら れ た。 治安状況も不安定だった。国軍はGAMが活動している と し て 軍 事 作 戦 を 継 続 し、 発 砲 事 件 や 銃 撃 戦 が あ い つ い だ。外国人支援スタッフに対する「誤射」事件も起きてい る。 しかし、結果として、災害からの復興が進められるなか で、紛争からの復興も進められることになった。この過程 で、津波を契機に被災地入りした人道支援団体はどのよう な役割を果たしたのだろうか。 こ こ で は、 地 震 の 震 源 地 に 最 も 近 か っ た ア チ ェ 州 西 ア チェ県で事業を展開したある日本の人道支援団体の経験を 紹介することで、紛争下に囲い込まれていたアチェを津波 支援が開放したことの意味を考えた * 9 い。 西アチェ県は、震源地に近く、広範囲にわたって大きな 被害を受け * 10 た一方で、州都のバンダアチェと比べて交通ア クセスが不便であり、資金力のある人道支援団体が中心と なって支援事業が行われた。なかでも、オクスファムやイ スラミック・リリーフなど大手の人道支援団体が道路事情 がよく被害の集中した沿岸部の津波被災地での事業を確保 した。このため、この日本の団体は他の人道支援団体が事 業を展開していない内陸部に支援対象地を探したところ、 当時、支援団体の事業地の調整を行っていたインドネシア 国軍に、内陸部は反政府勢力の勢力が強く危険であり、内 陸では事業をしないようにとの指導を受けた。そこで、国 軍から立ち入りを禁じられた地域に隣接する地域で支援事 業を実施した。 しばらく活動をしていると、立ち入りを禁じられた地区 を 管 轄 す る 国 軍 兵 士 が「内 陸 の 地 域 に も 支 援 を し て ほ し い」と申し出てきた。反政府勢力の勢力が強い地域で危険 な の で は と 尋 ね る と、 国 軍 兵 士 は た だ 笑 っ て 答 え な か っ た。立ち入りを禁じられた地区がどういう地域なのか地元 の 住 民 に あ ら た め て 尋 ね る と、 「国 軍 の 影 響 力 が 強 い 地 域 である」との回答を得た。 西アチェ県はブキットバリサン山脈とインド洋とのあい だの平野部が比較的広い。海岸部から進められた開発は内 陸 部 に 十 分 に 及 ん で お ら ず、 未 開 拓 地 域 が 多 い。 国 軍 が 「反 政 府 勢 力 が 強 い」 と い う 理 由 で 立 ち 入 り を 禁 止 し た 地 区は、地元では国軍の影響下で開発が進められている地域 と し て 知 ら れ て い た。 「反 政 府 勢 力 が 強 い」 地 区 と は、 国 軍による治安回復が最優先の課題とされる地区であり、国 軍がその地区の物流や情報を統制してその地区を「囲い込 む」ことを正当化するものだった。西アチェ県に限らず、 反政府勢力が活発に活動しているために危険であるとされ た地域はアチェ州各地に及んだ。アチェ州が紛争地である こ と の 実 態 は、 多 く の 場 合 こ の よ う な 状 況 を 意 味 し て い た。 この団体が支援事業を実施したのは、その地域の行政上 の中心となる町だった。定期的に市が開かれ、周辺地域か らも人の出入りがあった。この町で支援事業を実施したこ とは、立ち入りを禁じられた地区を含めた地域にこの支援 団体の存在を知らせることになった。外国の団体が内陸に 支援事業地を広げる一方で、国軍が立ち入りを禁じた地区 で事業が行われないという状況は、結果として「反政府勢 力が強い」地区は支援の対象とならないとのメッセージを 伝えることになった。国軍兵士が人道支援事業の実施を求 めたことは、支援事業の対象となるために「反政府勢力が 強い」という説明を取り下げたことになる。国軍が人道支 援団体の立ち入りを認めたことで、この地区は他の勢力に 開放されることになった。この事例は、紛争地に隣接する 地域で展開された津波被災者に対する人道支援事業が国軍 により「紛争地」として囲い込まれていた地域を開くもの となったことを示してい * 11 る。
Ⅳ
死
者
の
弔
い
前節では、紛争下のアチェで見られた物理的な「囲い込 み」 が 津 波 後 の 人 道 支 援 活 動 に よ っ て 解 か れ た 事 例 を 見 た。次に、紛争下の精神的な「囲い込み」が津波後の状況 のなかでどのように解放されたかを、死者の弔いの側面か らとりあげたい。 被災から二年半が経過した二〇〇六年八月は、二〇〇五年八月一五日にヘルシンキで結ばれたインドネシア政府と GAMとの和平合意一周年を祝うイベントでアチェ州各地 が賑わっていた。そのなかで、バンダアチェ市郊外の墓地 で探しものをする二人の女性の姿があった。イスラム教で は墓参りは断食月明けに行うので、彼らは時期はずれの訪 問者である。津波で亡くなった知り合いが最近この墓地に 埋葬されたと聞いて墓を訪ねてきたという。墓地には、二 〇〇四年一二月二六日を命日とする真新しい墓標がいくつ かあった。新しく盛り土された墓のわきには、あとは遺体 を埋葬すればよいだけになった穴が二つ掘られてそのまま になっていた。 地震津波被災直後のアチェ州で、被災者の住宅再建とな らんで大きな課題となったのが遺体の処理だった。津波で 死 亡 し た 人 々 の 遺 体 は 津 波 に よ っ て 流 さ れ た。 バ ン ダ ア チェのような都市部では、津波がひいたあと、数多くの遺 体が市街地のあちらこちらに残されており、これらの遺体 をどう処理するかが復興支援に取り組むための課題となっ た。津波直後に現地入りしたボランティアたちの多くが遺 体処理に取り組むことになった。津波によって遺体は被災 した場所から遠くに運ばれており、身元の確認は困難をき わめた。他方で、遺体の状況は悪化し、放置しておくこと はできなかった。津波の日を境に行方不明になった家族を 探すため、人々は新聞や公共の場所に顔写真と名前と連絡 先 を 記 し た 捜 索 願 い を 掲 示 し た (写 真 1 ) 。 だ が、 多 く の 遺体は身元を確認されないまま遺体収容袋に収容され、ト ラックに積み込まれ、空き地に埋葬された。遺体が埋めら れたところに墓標はなく、更地のままとされた。何かしる し が あ っ て も「大 人」 「子 ど も」 と い っ た お お ま か な 区 分 が示されているだけである。周囲が柵に囲まれ、入り口に 看板が掲げられていることで、かろうじてそこが埋葬地で あ る こ と が わ か る (写 真 2 ) 。 こ の よ う に し て つ く ら れ た 集団埋葬地はバンダアチェ市周辺に一〇ヵ所ある。 これらの集団埋葬地では、毎年、命日に当たる一二月二 六日に津波被災追悼式典が開かれる。多くの遺族は自分の 写真 1 バンダアチェ市郊外の空港に設置され た尋ね人の掲示板(2005年 2 月、筆者撮影) 知人や家族の遺体に対面しないまま、どの埋葬地に葬られ て い る の か 確 信 が 持 て な い ま ま ど こ か し ら の 埋 葬 地 を 訪 れ、 「津 波 犠 牲 者」 と し て 葬 ら れ て い る は ず の 知 人 や 家 族 を追悼した。被災から二年半が過ぎ、生活が落ち着いてく ると、運よく家族や知人の遺体を見つけてどこに埋葬され たかを知ることができた遺族が遺体を掘り返し、自分たち の村の墓地に埋め直す動きが出てきた。名前と命日を刻ん だ墓標を立て、断食明けの前後に墓を訪れ、墓をきれいに し、 遺 体 の か た わ ら で ク ル ア ー ン (コ ー ラ ン) の ヤ シ ン の 章 を 詠 む と い う、 死 者 に 対 す る 通 常 の 弔 い 方 が 可 能 に な る。 遺 体 の 再 埋 葬 は、 「津 波 犠 牲 者」 と い う 一 般 名 詞 の 下 に葬られた人々に名前を取り戻し、自分の家族や知人とし て 弔 お う と す る 行 為 で あ り、 津 波 被 災 に よ る 不 慮 の 死 を 「固有名詞としての死」に位置づけなおすものである。 被災から二年半が経過し、津波犠牲者を自分の家族や知 人として弔うことができるようになったことは、紛争下の アチェで紛争犠牲者の死を十分に弔えない状態にあったこ とを考え合わせると大きな意味がある。 紛争下のアチェでは、国軍とGAMという二つの武装勢 力の対立が激化するなかで、さまざまなかたちの不慮の死 があった。一九八〇年代末から行われた国軍によるGAM 掃討作戦では、GAMの構成員や支持者と目された住民が 国軍に連行され、翌日遺体となって道端に放置されること がしばしばあっ * 12 た。遺体は家族に返されるとは限らず、別 の地区で身元不明遺体として発見されたり、他の遺体とと もにどことも知れない場所に埋葬されたりした。スハルト 体制が崩壊して国軍の情報統制が維持できなくなった一九 九八年八月に、アチェでは「骸骨の丘」と地元で呼ばれて いた場所が掘り返され、国軍の掃討作戦の犠牲となったと 思われる住民の遺体が発見されてい * 13 る。 息子を国軍兵士に連行され、そのまま行方知れずとなっ たある母親は、自分の息子が国軍兵士の暴行によって殺さ れ、おそらくその場所に埋められているということを知り ながら、紛争中はその場所を訪れることができなかったと 写真 2 バンダアチェ市郊外の集団埋葬地。津 波犠牲者の遺体が埋葬されていることを示す記 念碑があるだけで墓石はない(2005年12月、筆 者撮影)
後に述べている。その場所に埋められていると認めること は、息子が国軍兵士に殺されたことを認めることであり、 息子がGAMに加担していたと疑われた事実を認めること にもなるためであ * 14 る。 国軍への協力が疑われた住民が拉致・殺害されることも あった。GAMの勢力が拡大した一九九八年から一九九九 年にかけては、GAMに関する情報提供を行うなどして国 軍に協力していたと思われる人々が何者かに拉致され、遺 体となって発見される事件があいつい * 15 だ。ここでも遺族は 「不 慮 の 死」 の 原 因 を 探 り、 明 ら か に す る こ と は 困 難 だ っ た 。 な ぜ 拉 致 さ れ 殺 さ れ な け れ ば な ら な か っ た か を 問 え ば 、 家族や知人が国軍に協力し、GAMに加担したと思われる 住 民 に 対 す る 拉 致 や 殺 害 に 関 与 し た 可 能 性 を 考 え な け れ ばならない。 このように、紛争下のアチェでは、誰が家族や知人を拉 致し、殺したかがわかっていても、それを追求したり語っ たりできない状況にあった。なぜ攻撃の対象になったのか や、なぜ死ななければならなかったのかを問えば、敵・味 方 に 分 か れ て 対 立 す る 関 係 の な か に 自 ら を 置 く こ と に な る。紛争に巻き込まれて不慮の死を遂げた人について遺族 や 周 囲 の 人 々 が 語 る 際 に、 「あ る 日 あ る 晩 家 に 軍 服 を 着 た 人 が あ ら わ れ て 家 族 を 連 れ 去 っ た」 「道 端 で 何 者 か に 拉 致 され暴行を受けた」といったあいまいな語り方がされ、原 因をつくった人物が名指しされないのは、実際に誰がやっ たのかわからないためばかりではない。行為者を特定する こ と は 殺 さ れ た 理 由 を 示 す こ と に な り、 そ れ は 結 果 と し て、不慮の死を遂げた人が対立するどちらかの勢力に属し ていたことを認めることになるためである。それはただち に、もうひとつの勢力の敵となることを意味する。 遺体が見つからず、ただ行方不明になった場合でも、そ れを語ることははばかられた。どこかで殺されている可能 性のほかに、国軍の掃討作戦の対象となることを恐れて域 外に避難した可能性があり、いずれの場合もGAMの関係 者であると認めることになる。先述の母親は息子の遺体の 場所をほぼ探し当てたが、それは運がよいほうで、多くの 場合は家族が行方不明になっても探すことすらできなかっ た。 このように、紛争下のアチェでは身元不明の遺体を弔っ た り 行 方 不 明 者 を 探 し た り す る こ と が 困 難 な 状 況 が あ っ た。家族や知人を失った人々は、その喪失を社会のなかに 位置づけ弔うことができないという思いを抱えて暮らして いた。 津波もまた、多くの身元不明遺体と行方不明者をもたら した点で、紛争と同じ側面を持っている。しかし、津波の 犠牲者は「津波犠牲者」として集団埋葬地に葬られ、毎年 行 わ れ る 記 念 式 典 で 追 悼 の 対 象 と な っ て い る。 こ の こ と は、紛争下で長らく死者を弔えなかったアチェに、死者を 弔える時代がもたらされたことを意味している。津波被災 を契機に行われるようになった災害犠牲者の弔い方が、身 元不明遺体や行方不明者を弔えないという課題を抱えてい たアチェの人々を精神的に解放したといえる。
Ⅴ
結
び
二〇〇四年スマトラ沖地震津波に被災した後のアチェの 展開は、アチェ紛争がアチェをめぐる経路の「囲い込み」 をはかる二つの軍事組織による争いであり、アチェ社会を 理 解 す る う え で 経 路 に 注 目 す る こ と の 有 効 性 を 示 し て い る。被災後にアチェで始められた個々の人道支援事業の実 践は、アチェをめぐる経路のあり方を変えた。紛争を支え る構造を変えるような働きかけが可能になった背景には、 外部世界がアチェに関わる際の原理が「紛争地」から「被 災地」に変わったことがある。被災は、このような意味で アチェ紛争という被災前の課題に手をつけやすくしたとい える。津波は紛争を支える構造を変え、それと同時に紛争 を理解する枠組を変える契機となった。 また、このようなアチェの経験は、紛争解決の捉え方に 新たな視角を提示するものである。武力紛争は互いに両立 しないアイデンティティをめぐる争いであるとの理解にも とづけば、紛争解決は当事者に大きな妥協を促すかたちで 行われることになる。あるいは、一定の基準に照らし合わ せて正義を行使することで紛争を裁定しようとすれば、勝 者と敗者をつくることになる。紛争には互いに異なる立場 や主張を持つ人々がそれぞれに関わっており、特定の立場 や主張を正しいとする形で決着しようとすれば、それに納 得しない人を必ず生み出すことになる。これに対して、武 力紛争は経路をめぐる争いであるとの理解に立てば、武装 勢力によって囲い込まれにくい経路を設計することで、武 力に訴える形で紛争が発展することを回避することができ るだろう。 また、災害からの復興と紛争からの復興が重なるかたち で進行したことは、紛争解決にあたっては、紛争当事者の 和解や武力の管理といった側面から働きかけるだけではな く、 紛 争 に よ っ て 自 由 を 奪 わ れ て い る 紛 争 当 事 者 以 外 の 人々のつくる社会のありように働きかけることも重要であ ることを示しているように思われる。 ◉注 * 1 紛 争 の 重 層 性 や 紛 争 の サ イ ク ル 性(し た が っ て 予 防 可 能 性) 、 紛 争 解 決 の 際 の 非 政 治 的 領 域 の 確 保 の 重 要 性 な ど が 指 摘 さ れ る 一 方 で、 紛 争 解 決 の た め の 方 法 は 依 然 と し て 第 三 者の 働 き か け の も と で 紛 争 当 事 者 の 対 話 を 促 し、 実 質 化 す る た め の 方 法 探 し と な っ て い る よ う に 思 わ れ る。 な お、 近 年 の 紛 争 解 決 学 で 紛 争 サ イ ク ル や 地 元 文 化 に ね ざ し た 紛 争 解 決 の 重 要 性 が 指 摘 さ れ て い る こ と は、 災 害 復 興 研 究 で 災 害 サ イ ク ル や 地 元 文 化 に ね ざ し た 復 興 モ デ ル 形 成 の 必 要 性 が 指 摘 さ れ て いることと類似しており興味深い。 * 2 な お、 自 然 災 害 被 災 地 に 対 す る 人 道 支 援 事 業 が 被 災 地 の 紛 争 を 必 ず 解 消 す る わ け で は な い。 ア チ ェ と 同 様 に 長 年 に わ た る 武 力 紛 争 で 知 ら れ て い た ス リ ラ ン カ も 二 〇 〇 四 年 ス マ ト ラ 沖 地 震 津 波 の 被 災 地 と な っ た が、 人 道 支 援 事 業 は 紛 争 の 和 解 に は つ な が ら な か っ た。 ま た、 二 〇 〇 八 年 の ミ ャ ン マ ー・ サ イ ク ロ ン 災 害 の 際 に は、 ミ ャ ン マ ー の 軍 政 批 判 と 国 際 社 会 に よ る 人 道 支 援 事 業 が 結 び つ け て 理 解 さ れ、 災 害 が「政 治 化」 さ れ た た め に 国 際 社 会 と ミ ャ ン マ ー 政 府 の 連 携 に よ る 災 害 支 援 の 実 施 が 滞 っ た こ と が 指 摘 さ れ て い る(岡 本 二 〇 〇 九) 。 * 3 ア チ ェ 紛 争 の 犠 牲 者 の 生 活 再 建 や 元 G A M 兵 士 の 社 会 統 合 促 進 を 含 め た ア チ ェ 紛 争 後 の 平 和 構 築 支 援 事 業 に つ い て は ( MSR 2009 ) で 概 観 で き る。 二 〇 〇 五 年 八 月 に G A M と イ ン ド ネ シ ア 政 府 が ヘ ル シ ン キ で の 和 平 合 意 に い た る 過 程 の 舞 台 裏 に つ い て は、 和 平 協 議 の 関 係 者 や 取 材 を 担 当 し た 記 者 に よ る手記( Farid 2007; Hamid 2008; Kingsbury 2006; メリカリ オ 二〇〇七)がある。また、アチェ紛争の開始からヘルシン キ で の 和 平 合 意 に い た る 経 過 を 概 観 し た も の に( Hasjim et al. 2006 )がある。 * 4 二 〇 〇 四 年 ス マ ト ラ 沖 地 震 津 波 災 害 お よ び そ の 被 災 地 に 対 す る 人 道 支 援 事 業 の 展 開 を 通 じ て イ ン ド ネ シ ア 社 会 に あ ら わ れ た 新 し い 社 会 状 況 が イ ン ド ネ シ ア 変 革 の 契 機 と な っ て い る こ と に つ い て は、 (一) ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 の 活 発 化、 (二) 国 軍 に よ ら ず に 大 規 模 自 然 災 害 の 被 災 と い う 非 常 事 態 に 対 応 し た 経 験、 (三) 二 〇 〇 六 年 ア チ ェ 統 治 法 の 制 定、 の 三 つ の 側面から別稿(西 二〇〇九)で論じている。被災が被災前の 社 会 の 課 題 を あ ら わ に す る と 同 時 に、 被 災 が 地 域 社 会 に 新 た な 戦 略 や 組 織 化 の 契 機 を 与 え、 住 民 が 被 災 後 の 状 況 に 柔 軟 に 対 応 す る こ と で 住 民 の 力 を 強 め て い く 側 面 に 注 目 し た 研 究 と し て は、 二 〇 〇 四 年 ス マ ト ラ 沖 地 震 津 波 被 災 地 と な っ た タ イ の土地問題の事例を扱った(佐藤 二〇〇八)がある。また、 被 災 後 の 人 道 支 援 事 業 の 展 開 が 地 域 社 会 に も た ら し た 負 の 側 面に注目した研究には、北アチェ県の事例を扱った(佐伯 二 〇〇八)がある。 * 5 アチェ統治法については別稿(西 二〇〇八)を参照。 * 6 ア チ ェ の ダ ル ル・ イ ス ラ ム 運 動 の 経 済 上 の 背 景 に つ い て は( Nazaruddin 1985 )を参照。 * 7 国 際 N G O で あ る ア ン リ・ デ ュ ナ ン・ セ ン タ ー(H D C) の 仲 介 に よ り、 二 〇 〇 〇 年 五 月 に イ ン ド ネ シ ア 政 府 と G A M は 戦 闘 の 一 時 休 止 合 意( Joint Understanding on Hu -manitarian Pause for Aceh )にいたった。しかし、戦闘の休 止 状 態 は 数 ヵ 月 し か 持 続 せ ず、 イ ン ド ネ シ ア 政 府 は 二 〇 〇 一 年 四 月 に 軍 事 作 戦 を 再 開 し た。 二 〇 〇 二 年 一 二 月 に は 日 本 を ホ ス ト 国 と し、 A S E A N、 E U、 米 国 を 共 同 議 長 と す る 準 備 会 合 が 開 か れ、 再 度 H D C の 仲 介 で 敵 対 行 為 停 止 の 枠 組 合 意( Cessation of Hostilities Agreement ) が 結 ば れ た。 イ ン ド ネ シ ア 政 府、 G A M、 H D C の 三 者 か ら な る 合 同 治 安 委 員 会(J S C) が 設 立 さ れ た が、 二 〇 〇 三 年 三 月 か ら J S C に 対 す る 襲 撃 事 件 が 相 次 ぎ、 J S C は ア チ ェ 州 内 の 事 務 所 を 閉 鎖 し た。 ア チ ェ の 停 戦 を 監 視 す る 目 的 で ア チ ェ に 駐 留 し て い た 国 際 監 視 団 も、 治 安 の 悪 化 の た め に ア チ ェ か ら の 撤 退 を 余 儀 な く さ れ た。 戦 闘 の 一 時 休 止 合 意 が 持 続 し な か っ た 要 因 に ついては(
Aspinall and Crouch 2004
)を参照。 * 8 公 共 交 通 の「護 衛」 だ け で な く、 G A M 兵 士 の 逃 亡 を 防 ぐ 目 的 で マ ラ ッ カ 海 峡 の 監 視 と 陸 路 に お け る 検 問 が 強 化 さ れ た。 ま た、 軍 事 戒 厳 令 で は、 外 国 人 や N G O、 ジ ャ ー ナ リ ス ト の ア チ ェ 入 域 と ア チ ェ に お け る 活 動 が 大 幅 に 制 限 さ れ た。 外 国 メ デ ィ ア に よ る 取 材 に は 外 務 大 臣 の 許 可 が、 国 内 メ デ ィ ア の 場 合 は 地 域 軍 司 令 官 の 許 可 が 必 要 と な っ た。 報 道 に あ た っ て は、 G A M 側 を 情 報 源 と す る 記 事 は 掲 載 し な い よ う に と の 指 示 が 出 さ れ た。 ア チ ェ 滞 在 中 の ド イ ツ 人 が 国 軍 兵 士 の 「誤 射」 に よ っ て 死 亡 す る 事 件 や、 米 国 人 ジ ャ ー ナ リ ス ト が ス パ イ 容 疑 で 逮 捕 さ れ る 事 件 が 起 こ っ た。 二 〇 〇 三 年 九 月 に は 滞 在 許 可 期 限 が 切 れ た 世 界 保 健 機 関(W H O) 職 員 が ア チ ェ か ら 出 境 し、 こ れ に よ っ て ア チ ェ に は 国 際 援 助 ス タ ッ フ がいなくなった。 * 9 以 下 の 記 述 は 二 〇 〇 五 年 八 月 に 西 ア チ ェ 県 で 実 施 し た 調 査にもとづく。 * 10 西 ア チ ェ 県 で は 被 災 前 の 人 口 が 約 一 九 万 五 〇 〇 〇 人 だ っ た の に 対 し、 死 者 は 一 万 八 七 四 人、 行 方 不 明 者 は 二 九 一 一 人、 避 難 民 は 七 万 二 六 八 九 人 だ っ た(二 〇 〇 五 年 五 月、 国 連 調べ) 。 * 11 国 軍 に よ る「干 渉」 に 対 す る 人 道 支 援 団 体 の 対 応 と し て は、 紛 争 地 を 支 援 し な い こ と の ほ か に、 自 前 の 輸 送 経 路 を 確 保 し た り、 個 々 の 支 援 団 体 や 機 関 が 持 つ 情 報 を 集 め て 公 開・ 共 有 し た り す る こ と が 見 ら れ た(西 二 〇 〇 九) 。 な お、 人 道 支 援 団 体 の 側 に も 支 援 対 象 と な る 被 災 者 を「囲 い 込 む」 動 き が 一 部 で 見 ら れ た が、 こ れ に 対 し て 被 災 者 側 は ポ ス コ と 呼 ば れ る 支 援 の 受 け 入 れ 窓 口 を 組 織 し、 こ れ を 柔 軟 に 活 用 す る こ と で 外 部 か ら の 支 援 者 に 対 す る 交 渉 力 を 維 持 し て い た。 ポ ス コについては本特集の山本博之論文及び(山本 二〇一〇)を 参照。 * 12 こ の よ う な ス ハ ル ト 統 治 時 代 を ア チ ェ の 人 々 が 振 り 返 っ た 言 葉 に「山 に 行 け ば 虎 に 食 わ れ、 川 に 行 け ば 鰐 に 食 わ れ、 海 に 行 け ば 鮫 に 食 わ れ、 村 に 帰 れ ば 同 胞 に 殺 さ れ る」 と い う も の が あ る。 こ こ に は、 同 胞 に 非 人 道 的 な 扱 い を 受 け る こ と に 対 す る 衝 撃 と 同 時 に、 安 心 し て 休 め る 場 所 が ど こ に も な い ことへの深い絶望感が示されている。 * 13 G A M 掃 討 作 戦 を 実 施 し て い た ス ハ ル ト 政 権 が 崩 壊 し、 一 九 九 八 年 八 月、 イ ン ド ネ シ ア 国 家 人 権 委 員 会 は イ ン ド ネ シ ア 国 軍 の 兵 士 に よ る ア チ ェ 住 民 に 対 す る 人 権 侵 害 の 実 態 調 査 の た め に ア チ ェ 州 北 海 岸 部 の 三 県(ピ デ ィ 県、 北 ア チ ェ 県、 東 ア チ ェ 県) を 視 察 し た。 そ の 際 に、 国 軍 兵 士 が 反 政 府 軍 関 係 者 を「処 刑」 し た 遺 体 を 遺 棄 し て い た と さ れ る 地 区 が 調 査 さ れ、 大 量 の 人 骨 が 発 見 さ れ た。 こ れ ら の 状 況 を ふ ま え て、 イ ン ド ネ シ ア 国 軍 司 令 官 は ア チ ェ 州 に お け る 国 軍 兵 士 の「行 き 過 ぎ」 行 為 を 謝 罪 し、 一 九 九 八 年 八 月 に ア チ ェ 州 で の 軍 事 作戦を停止して非常駐部隊を撤退させた。
* 14 国 軍 兵 士 に 身 内 を 殺 さ れ た 遺 族 の 置 か れ た 状 況 に つ い て は、 た と え ば ド キ ュ メ ン タ リ ー 映 画『戦 後 の 沈 黙』 ( Silent After War 、 マ ウ ラ ナ・ ア ク バ ル 監 督、 二 〇 〇 九 年 制 作、 イ ンドネシア)を参照。 * 15 こ の よ う な 拉 致・ 殺 害 事 件 は、 ア チ ェ 州 か ら イ ン ド ネ シ ア 国 軍 の 非 常 駐 部 隊 の 撤 退 が 決 定 さ れ た 一 九 九 八 年 八 月 以 降 に 相 次 ぐ よ う に な っ た。 国 軍 の 軍 事 作 戦 へ の 協 力 者 は イ ン ド ネ シ ア 語 で チ ュ ア ッ ク( cuak ) と 呼 ば れ、 こ れ ら 一 連 の 事 件 の 一 部 は「チ ュ ア ッ ク が 正 体 不 明 者 に 襲 わ れ る」 と い う 見 出 しで地元紙でも報道された。 ◉参考文献 ア ン ダ ー ソ ン、 B・ メ ア リ ー(二 〇 〇 六) 『諸 刃 の 援 助 ―― 紛 争地での援助の二面性』大平剛訳、明石書店。 岡 本 郁 子(二 〇 〇 九) 「ミ ャ ン マ ー・ サ イ ク ロ ン 被 災(二 〇 〇 八年)――政治化された災害と復興支援」 『アジ研ワールド・ トレンド』第一六五号、一一―一四頁。 佐 伯 奈 津 子(二 〇 〇 八) 「グ ロ ー バ ル 援 助 の 問 題 と 課 題 ―― ス マ ト ラ 沖 地 震・ 津 波 復 興 援 助 の 現 場 か ら」 幡 谷 則 子・ 下 川 正 嗣 共 編『貧 困・ 開 発・ 紛 争 ―― グ ロ ー バ ル / ロ ー カ ル の 相 互 作用』上智大学出版、一四九―一八〇頁。 佐 藤 仁(二 〇 〇 八) 「タ イ 津 波 被 災 地 の モ ラ ル・ エ コ ノ ミ ー」 竹 中 千 春・ 高 橋 伸 夫・ 山 本 信 人 編『市 民 社 会』 慶 應 義 塾 大 学 出版会、三六一―三七八頁。 清 水 耕 介(二 〇 一 〇) 「現 代 に お け る 紛 争 解 決 の 理 論 的 地 平」 長 崎 暢 子・ 清 水 耕 介 編 著『紛 争 解 決 暴 力 と 非 暴 力』 ミ ネ ル ヴァ書房、三―二三頁。 大 門 毅(二 〇 〇 九) 「平 和 研 究 に お け る セ ン の 貢 献 ―― 社 会 選 択 論 の 立 場 か ら」 『ア ジ ア 経 済』 第 一 二 巻 第 二 号、 六 二 ― 七 五頁。 西 芳 実(二 〇 〇 一) 「ア チ ェ 紛 争 ―― ポ ス ト・ ス ハ ル ト 体 制 下 の 分 離 主 義 的 運 動 の 発 展」 比 較 政 治 学 会 編『民 族 共 存 の 条 件』早稲田大学出版会、一〇三―一二一頁。 西 芳 実(二 〇 〇 七) 「ア チ ェ 紛 争 の 起 源 と 展 開 ―― 被 災 を 契 機 と し た 紛 争 の 非 軍 事 化」 『O D Y S S E U S』 第 一 一 号、 五 一―六三頁。 西 芳 実(二 〇 〇 八) 「二 〇 〇 六 年 ア チ ェ 統 治 法 の 意 義 と 展 望 ―― マ レ ー 世 界 の リ ー ジ ョ ナ リ ズ ム」 『地 域 研 究』 第 八 巻 第 一号、一一六―一二七頁。 西芳実(二〇〇九) 「スマトラ沖地震・津波/インドネシア(二 〇 〇 四 年) ―― 変 革 の 契 機 と し て の 自 然 災 害」 『ア ジ 研 ワ ー ルド・トレンド』第一六五号、一九―二二頁。 西 芳 実(二 〇 一 〇) 「裏 切 ら れ る 津 波 被 災 者 像 ―― 災 害 は 私 た ち に 何 を 乗 り 越 え さ せ る の か」 林 勲 男 編『自 然 災 害 と 復 興 支 援』 み ん ぱ く 実 践 人 類 学 シ リ ー ズ 九、 明 石 書 店、 三 八 三 ― 四 〇二頁。 メ リ カ リ オ、 カ ト ゥ リ(二 〇 〇 七) 『平 和 構 築 の 仕 事 ―― フ ィ ン ラ ン ド 前 大 統 領 ア ハ テ ィ サ ー リ と ア チ ェ 和 平 交 渉』 脇 阪 紀 行訳、明石書店。 山 本 博 之(二 〇 一 〇) 「人 道 支 援 活 動 と コ ミ ュ ニ テ ィ の 形 成」 林 勲 男 編『自 然 災 害 と 復 興 支 援』 み ん ぱ く 実 践 人 類 学 シ リ ー ズ九、明石書店、三六一―三八二頁。 ラ ム ズ ボ サ ム、 オ リ バ ー ほ か(二 〇 〇 九) 『現 代 世 界 の 紛 争 解 決 学 ―― 予 防・ 介 入・ 平 和 構 築 の 理 論 と 実 戦』 宮 本 貴 世 訳、 明石書店。 Aspinall, Edward & Harold Crouch ( 2004 ) The Aceh Peace Pro
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