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〈論説〉14・15世紀のマクデブルク法による裁判--F・エーベル編『マクデブルク法』に依拠しつつ

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(1)1 4・ 1 5世紀のマクデブルク法による裁判. 1 4・1 5世紀のマクデブルク法による裁判 一- F・エーベル編『マクデブルク法』に依拠しつつ一一. 手 商. ヌ じ. 格. 目次 1.はじめに. 2 .1 9世紀以降のマクデブルク法研究の展開. 3 . 課題の設定. 4 . 審理に関与する人々 5 . 民事裁判の種類 6 . 審理過程. 7 . 刑事裁判 8 . 結びに代えて. 1. は じ め に 筆者は,これまでに,マクデブルク参審人の法教示と法判告を主に集め. F r i e d r i c hE b e l ) 編『マクデブル た史料集,フリートリッヒ・エーベル C ク法 C MagdeburgerR e c h t ) J三巻本(1983-95年)の内容について 2本 の拙論を公にしてきたが,本論文もまたその続編にあたる(1)。 これまでの検討から,マクデブルク参審人の法教示と法判告に見られる, いわゆるマクデブルク法は,彼等参審人が独創的に発展させた判例ではな く,彼等参審人並びに訴訟当事者全体による共同作業の成果ではなかった のか, という印象を筆者は持つようになった。すなわち,この史料集に収 められた民事裁判におけるマクデブルク参審人の法教示と法判告を読めば 読むほど,マクデブルク法の内容的な発展は彼等参審人のみによって進行.

(2) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 l号. したのではなく,. r 訴訟当事者側の人々とマクデブルク参審人との聞の法. をめぐるやり取り」に求めるべきであることを強く感じるようになった, という訳である(九なお,筆者は,訴訟当事者側の代言人がその際重要な 役割を果たしていたのではな L、かとも推測しているのであるが,これまで の所これを直接的に証明する史料を未だ見出していない。いずれにせよ, このような訴訟関係者が,どのようにしてマクデブルク法を自生的に作り 上げていったのか,およびその成果であるマクデブルク法がし、かなる特色 を有していたのか,を史料的に明らかにしたいと考えている。しかし,な かなかその核心部分にまでは至らずにいる O その原因の一つは,マクデブ ルク法という名前がよく知られているにもかかわらず,我が国においては 同法についての研究が余りにも少ないということである。従って,我々は, まずはマクデブルク法の言わば周辺部分から徐々に接近していくという方 法を採らざるをえないのである。本稿もまた,そのような基礎的な研究の ーっということになる O 本論に入る前に,本稿で使用しているマクデブルク参審人の法教示と法 判告について,ここで,少し整理しておこう O 法教示と法判告はどちらも 各地からの法的な問い合わせに対するマクデブルク参審人の回答であると いう点において,両者の聞に質的な違いはない。その違いは参審人の回答 の記載の仕方にある。 法教示 ( R e c h t s w e i s u n g ) は,マクデブルク参審人に対して近隣の都市 並びにマクデブルク法都市からなされた法の解釈または適用に関する問い 合わせ(質問)について,彼等参審人が回答を与えたーということが記載 されている一法史料である O 例えば,. 1 4 世紀の,ブレスラウ市の参審人に. 送付された法教示の場合には,史料では,一般的に,冒頭にブレスラウ参 審人による簡単な質問文があり(問い合わせ部分),. この後にマクデブル. ク参審人の回答(回答部分)がくるという構成となっている O このような -2-.

(3) 1 4・ 1 5世紀のマクデブルク法による裁判 法教示の記録は 1 4世紀末まで続いている。他方, 1 6・ 1 7世紀にもマクデブ ルクの近隣の都市に送付された法教示がある。 法教示に対して,法判告 ( R e c h t s s p r u c h ) とは,法に関する適用または 解釈といった簡単な質問に対するマクデブルク参審人の回答というもので はない。多くの場合に「これについて我々マクデブルク参審人は法を語る. ( H i e rups p r e k e nwys c h e p p i nt oMagdeburgeynr e c h t )jt3) という文言 がその回答部分の冒頭に付されることによって,彼等参審人が作成した判 決 ( U r t e i l ) であることが明白に分かる史料である。すなわち,原審にあ たる都市の裁判所において裁判が開始するも,それについて当該裁判所の 参審人が判決を下すことができず,彼らがマクデブルク参審人に-訴訟書 類またはその要約を送付して-判決の作成を懇願し,これに対して彼等参 審人が与えたーこれが明白に確認できる一回答である。法の専門家によっ て下される判断を判決と呼ぶのであれば,マクデブルク参審人が作成した 法判告も-既に彼らは法の専門家と呼びうる程に専門性を高めていたよう に見えるから-判決 ( U r t e i l ) と言ってよいであろう O 以下においては彼 らの法判告も判決と記述しよう O プレスラウ参審人からの判決の懇願は 1 5世紀になるとともに始まるよう である。ただし, 1 4 世紀末の法教示であっても,それは実質的に判決では ないのか,またはマクデブルク参審人に送付されてきた訴訟書類が史料か ら脱落しているだけではないのか, という史料もない訳ではな L、。そうで はあっても,問い合わせた都市から判決を懇願したことが史料に記載され ていないのであれば-簡単な質問文が記載されているだけであれば-我々 はそれらを法教示と見なさざるを得な L '。おそらく法教示の場合であって も,問い合わせをする都市においては,これに関わる裁判が進行しており, 参審人たちが判決を下すことができなかったから彼らはマクデブルク参審 人に法教示を懇願した,ということも十分考えられる。従って,上述のよ. -3-.

(4) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 1号. うに,法教示と判決(法判告)との相違は外形的な相違にすぎないと言わ ざるをえない。換言すれば,マクデブルク法都市や近隣の都市からなされ た問い合わせについて,最初,法教示という形式で回答がなされ,次第に それが判決という回答へと発展していったのではないか,ということでも ある O 問い合わせ部分の記載内容(訴訟当事者による主張と反論)が時代 を下るとともにますます詳細に量的にも増加していくことがこのことを裏 付けているように見える。 マクデブルク参審人に判決の懇願がなされるということは,原審とも言 うべきマクデブルク法都市等の裁判において,その参審人たちが判決を下 すことができないということ,である O または,彼らの判決を訴訟当事者 である原告と被告が納得しないということ,でもある。つまり,判決の懇 願がなされる事例の多くは刑事事件ではなく民事事件である O 刑事事件に. 6世紀以 おいては,少なくとも史料を見る限り,判決の懇願はない。実は 1 降のマクデブルク市以西の近隣の都市からの問い合わせも,刑罰や拷問に ついての適法性に関するものが主であり,訴訟当事者,特に被告が納得し ないから問い合わせをしたということを窺わせる事例はな~ ' 0 例えば,カ. ロリーナ刑事法典の適用についての問い合わせは,マクデブルク参審人の 解釈,すなわち彼らの鑑定意見を求めているように見える。つまり問い合 わせ側はマクデブルク参審人の法学識に期待を寄せているのである。その 回答が直ちに判決として下されたのかどうかについての記載もない。その 回答を判決とするかどうかは,問い合わせする側の判断に委ねられていた, ということであろう。 民事事件について,マクデブルク参審人に法教示または判決を懇願する ということは,その問い合わせをする都市においても,マクデブルク参審 人の裁判において適用される訴訟手続が同様に適用されていたということ になる。それゆえ,このような都市はマクデブルク法都市とも呼ばれる訳. -4-.

(5) 1 4・ 1 5世紀のマクデブルク法による裁判 である o つまり,マクデブルクにおけると同様の裁判手続がマクデブルク 法都市でも繰り広げられたということである O これらの都市の中でも,マ クデブルク参審人の法教示と判決が最も豊富に残されているのがプレスラ ウ市である。 プレスラウ市での法廷を,図式的に説明すると,訴訟当事者の多くはプ レスラウ市民,法教示または判決を懇願するのはプレスラウ参審人,そし てその回答を与えるのはマクデブルク参審人ということになる o 訴訟当事 者の原告であれ被告であれ,彼らは自分たちの主張または反論こそが正し いと思っており,それをマクデブルク法の訴訟原則に基づいて陳述するの である O 彼らには法廷での実務に慣れた代言人も寄り添っている O 後者は まさにマクデブルク法の訴訟手続に通じていたであろう。換言すれば,大 抵の訴訟当事者たちにはマクデブルク法についての十分の知識があり,彼 らはずぷの素人ではないのである。判決を下すブレスラウ参審人も同様で ある O 彼らが自分たちの作成する判決では訴訟当事者が満足しないと判断 するのであれば,判決をあきらめマクデブルク参審人に判決についての教 示または判決を懇願するということになる。すなわち,法廷に登場する関 係者の多くはマクデブルク法に通じているのである。これは史料からも確 実に読み取れる O それゆえ,我々もまた,マクデブルク参審人の法教示にせよ判決にせよ, その内容を的確に理解するためには,彼ら訴訟関係者が利用していた訴訟 手続がどのようなものであったのかを知らねばならないのである。なぜな ら,マクデブルク参審人の判決の多くは,今日的な意味での実体判決では なく,いわゆる中間判決である。訴訟当事者の陳述と立証が訴訟手続に 従っているのかどうかを,あるいはどちらが訴訟手続に従った証明を行え ば勝訴となるのかということを,彼等は回答しているにすぎないのである。 繰り返すまでもなく,これは民事事件と関係するのであり,刑事事件とで. -5-.

(6) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 1号. はなし、。刑事事件に関する史料がそもそも少ないし,刑事訴訟は民事訴訟 から,制度的に,次第に分離自立していったのではな L、かとも考えている。 最初は,刑事事件であれ,民事事件と同様に,被害者側である原告による 訴えとその立証が必要ではなかったのではないか,ということでもある。 本稿での検討も,まずはマクデブルク法に従った裁判,特にその民事裁判 の実態の解明から始めていこう O. 2 .1 9 世紀以降のマクデブルク法研究の展開 筆者は,管見の限りであるが,中世マクデブルク法の訴訟手続に関する 一例えば,手続法等の一法令や法典を見たことはな~,。ザクセンシュピー. ゲルーまたはこれと類似した慣習法ーがその出発点にあり,ここからマク デブルク法がその手続制度を慣行として発展させていったのではないか, と推測している。周知のごとく,中世ドイツの裁判に関する学術文献が近 世以降のドイツにおいては多く登場しているが, もしその裁判手続が確立 したものであり,それが周知の事柄であれば,そのような研究自体も不要 であったであろう。実際には,マクデブルク法研究も近世以来長い研究史 を有している O 本来ならばその先行研究を子細に検討することが必要であ ろうが,上述のような本稿の目的からすれば,これについて言及すること を割愛しても許されるであろう。ここでは, 1 9世紀以降のマクデブルク法 と関係する裁判制度研究を簡単に紹介し,この裁判制度について何がどこ まで解明されてきているのかを論じるに止めよう (4)。. ( 1 ) プランク『中世におけるドイツの裁判手続~ ( 18 7 9年). 我々が今日でも容易に目にする, 1 9世紀の代表的著作と言えば J・W ・ フォン・プランク C J u l i u sWilhelmvonP l a n c k:1817-1900年)の『中. -6-.

(7) 1 4・1 5世紀のマクデブルク法による裁判. 18 7 9年)であろう (5)。その副題は「ザクセ 世におけるドイツの裁判手続J( ンシュピーゲルおよびその関連する法源による (N a c hdemS a c h s e n s p i e g e l. unddenverwandtenR e c h t s q u e l l e n ) J であり,それらの法源は,著者に よれば,マクデブルク,ゴスラール, メン市の中世都市法である (6)。従って,. リューベック,ハンブルク,プレー この限りで, プランクの 2巻,合. 計1 , 3 0 0頁弱からなる大著が,本稿の学問的関心を満足させることになるは ずである。裁判権力の所在から始まり,訴訟関係者,訴訟手続へと続くそ の詳細な論述は,まるで法実務に供される教科書のような様相を示してい るO 例えば,原告が証明した後に,被告はどのように対応するのか。被告 が原告の証明を認める場合はどうなるのか。そしてその史料的な根拠は何 かが指示される。次に被告がこれを否定する場合が論じられ,同様にその 史料的な根拠が列挙される,といった風に,である O 民事訴訟法学者の面 白躍如という印象を受ける O その史料も,上述のように,マクデブルク法 やリューベック法等が挙げられ,我々にはなじみの法史料が登場するので あるから, もはや我々が改めてマクデブルク法の裁判手続について論じる 必要性もないという印象も与える O しかし,法史料的な側面から彼の研究を眺める時,彼は一つの都市の法 史料のみによって中世ドイツの裁判手続を再構成してはいないことに気が 付く。つまり,これはザクセンシュピーゲルと北ドイツの中世都市法から 構成された,極論すれば,理想型としての裁判手続ではないのか,という ことになる O 確かに,彼が明らかにした裁判手続は,ザクセンシュピーゲ ルとそこから派生した都市法にとっての共通の裁判手続であったと言うこ とができるとしても,それはまたマクデブルク法の裁判手続そのもので あったとも言い切れない。さらに,彼の利用する史料は 1 8 7 0年代以前に公 刊された法典類と,学術文献が中心である(九筆者が本稿において主に扱 う法教示や判決もそこでは多くはな L、。実際,後者の史料収集はプランク. -7-.

(8) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 1号. の次の世代から開始すると言っても過言ではな Lゆ。つまり,当時彼が利 用していた法史料以外の史料も,現在の我々の目の前には在るということ である O さらに,本書を読みながら,筆者には素朴な疑問がどうしても湧いてく るO プランクは,審理の際の被告側の証明義務または防御権を重視してい るO しかし,筆者の管見する史料において,審理の際に-それは判決にお いてもそうであるが一重視されているのは,被告ではなく原告の主張とそ の立証である。原告が立証に失敗するのであれば,被告は直ちに勝訴を得 ることはできないとしても,少なくとも原告からの訴えを取り敢えず免れ ることができるということになる O しかしプランクは,原告が立証できな い場合でも,被告には反証の義務があると主張しているようであり,これ こそがゲルマン法に特有の防御権という制度であるとも言いきっている O そして,. これがローマ法の訴訟手続と異なるところであり,なぜなら,. a c t i o ) ローマ法では攻撃側の原告の訴えと立証が重視され,それが訴権 C の体系を形作っているからである,. と述べている (9)。筆者には,. このよう. な図式化に,少なくとも現時点では,与することはできな L、。なぜなら, 筆者が管見する法史料は,むしろプランクの言うところのローマ法的な裁 判手続に従っているようでもあるからである。それは,プランクからすれ ば,史料の中にローマ法が既に混入している,ということになるのであろ うか。しかし,彼がローマ法とは異なるゲルマン法的な訴訟制度を描き出 すために使用した法典類の中にも,既にローマ法的な要素が認められると すれば,もはやゲルマン法とローマ法との対比という図式がそもそも成り 立たなくなってしまう。筆者は,このような実体のはっきりしない「ゲル マン法とローマ法の対比」という定式を実証的研究において過度に重視し てはならないと思う。いずれにせよ,プランクの優れた-そして彼の結論 を再確認することになるのかもしれないが-業績に敬意を払いつつも,彼. -8-.

(9) 1 4・ 1 5世紀のマクデブルク法による裁判 の研究がマクデブルク参審人の裁判手続をすべて解明し尽したという訳で はない, と言えそうではある。. 0年前の 1 8 5 7年に,ゲルマン法学者ホー なお,プランクの文献よりも約 2 マイヤー ( C a r lGustavHomeyer:1 7 9 5 1 8 7 4年)がザクセンシュピーゲ. 4世紀に JohannvonBuchによって編纂された-いわゆる R i c h t ルの異本一1 s t e i gLandrech tを利用して,その裁判制度を詳細に論じた研究を出版し 。彼の研究も看過できないものではあるが,マクデブルク法は, ている ω ザクセンシュピーゲルまたはこれと同様の慣習法に由来するとは言っても, 後者からさらに発展した法でもあり,両者は全く同ーの法制度とは言えな L、。ここではホーマイヤーの研究に立ち入らな L 。 、. ( 2 ) ブフダ「中世ザクセン法における証明 J( 19 6 5年) 2 0世紀に入るとマクデブルク法関係の史料収集が本格化するが,第 2次 世界大戦後のマクデブルク法の裁判手続の研究は東西ドイツの分裂という 政治状況の中でしばらく停滞した。そのような状況ではあっても,西ドイ ツでは,中世ドイツの裁判制度研究がその研究対象を広げていき,. 1 9 7 0年. 代以降には多くの優れた業績が公にされるようになった。一方,東ドイツ にも着実にマクデブルク法研究を進めた研究者がいた。それがイエナ. ( J e n a ) 大学の G ・ブフダ ( G e r h a r dBuchda:1 9 0 1 7 7年)である側。彼 は,プランクとは異なり, しばしばその論文に『ザクセン法 ( s a c h s i s c h e s. Recht)J という副題をつけたように,その対象とする地域はザクセン, チューリンゲン,アンハルトであり,そしてその法源もマクデブルク,ハ. レ( H a l l e ) およびライプツィヒ ( L e i p z i g ) 市の参審人の法教示や法判告 類に限定していた問。彼の研究は,本稿が対象とするマクデブルク法とも かなり重複している。実際,筆者は彼の研究成果から多くの学問的な示唆 を受けてもいる Q 3 )。. -9-.

(10) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 l号. 彼の裁判手続に関わる論文の中で,初心者にも分かりやすい,簡潔な内 容となっている論文は, 1 9 6 5年に発表された「中世ザクセン法における証 。その対象時期は 1 2 0 0年頃から 1 5 0 0年頃であり ω,その論拠と 明」である ω して,マクデブルク参審人の法教示や判決も多用されている。つまり,彼 はプランクと異なり,ここでは,その証明手続の発展をドイツ慣習法の法 的発展としても捉えようとしているようである O 実際,この論文の中では ローマ法について言及されることはない。ただし,これはこの論文につい. 5世紀以降のローマ法の てのみ当てはまることであり,彼の他の論考では 1 継受について論じているから,彼が後者の影響を全く考慮、していないとい うことではな~ ' 0. ブフダも,その民事訴訟手続を論じるにあたっては,基本的に,プラン クをその出発点に置いているのであるが,細かい点において後者との違い を見せる O プランクによれば,被告側の証明義務または防御権がまさにゲ ルマン法特有の訴訟原則であるとされた。しかし,プフダは被告側の立証. a l s が,すなわち「被告訴人として弾劾を雪ぎ,告訴人から逃れるため C V e r ・ k l a g t e rs i c hv o nd e rB e s c h u l d i g u n gz ur e i n i g e nunddemK l a g e rz u e n t g e h e n ) J J に行われることを認めつつも,他方で立証が「告訴人として 被告訴人を承服する C a l sK l a g e rd e nV e r ・ k l a g t e nz uu b e r w i n d e n )Jため に利用されていることも付け加えている ω 。後者は, プランクによれば, ローマ法的な訴訟原則として挙げられていたものである。 彼の研究業績は極めて実証的であり,それらは我々の学問的な関心をか なり満足させてくれる O しかし, このような評価を与えるためにはその読 者がマクデブルク法の法教示と判決を既に熟知していることが前提である O もし我々に,実際の審理がどのように進行していったのかについての知識 が欠けているのであれば,彼の研究は,中世のある特定地域の証拠法につ いて個別・実証的な研究であるにすぎない, という印象を与えるだけであ. -10-.

(11) 1 4・1 5世紀のマクデブルク法による裁判 ろう。. ( 3 ) ツィーコウ『法と訴訟手続J0986年) 1 9 8 3年. F ・エーベル ( F . E b e l)によってマクデブルク参審人の法教示. と判決についての最初の史料集「マクデブルク法 ( MagdeburgerR e c h t )J が公刊された。これは副題を「第 1巻. ニーダーザクセンのための法判告. (Band1D i eR e c h t s s p r u c h ef u rN i e d e r s a c h s e n )Jとしているように,現 在のニーダーザクセンの諸都市ーマクデブルク市とマクデブルク大司教も 含めてーに送られたマクデブルク参審人の法教示と判決を蒐集したもので ある. O. この『マクデブルク法』の第 2巻(ブレスラウ宛ての法教示と法判. 9 8 9年(第 1分冊)と 1 9 9 5年(第 2分冊)の 2回に分けて出版さ 告)は, 1 れた。おそらく,この第 2巻の編纂作業が進行している頃であろうか,プ レスラウ参審人宛ての判決についての一つの実証的な研究が現れた問。] ・ ツィーコウ ( JanZiekow:1 9 6 0年一)の『法と訴訟手続J( 1 9 8 6年)であ る。その副題は. 1 1 5世紀のマクデブルク参審人の判告に依拠した中世法の. 問題についての研究」となっている O その研究対象はマクデブルク参審人 が下したとされる 1 5世紀の一つの判決である U S )。ツィーコウはその作成年 を特定してはいないが,この法史料はエーベルの『マクデブルク法』の第. 2巻の第 l分冊にも収録されており(第 3 8 0番),こちらでは 1 4 3 7年より後 ( n a c h ) にブレスラウに送られた判決とされている ω 。とりあえず,本稿で. 5世紀半ば頃の判決としておこう O は,この法史料は 1 その判決の内容は,以下の通りである。原告 A l l e x i u s (女性)が,死亡 した兄(弟) M i c h e lの子供 J e r e m i a (死亡)の遺産の引渡しを求めた事案. i c h e lの姉(妹)。彼女の他に,彼女の未成人の である O 原告は死亡した M 子供およびその後見人 ( M i c h e lと同じ家名の者)がいる。被告は M i c h e l の寡婦で,現在は再婚して第三者 ( H e n c z e ) の妻となっている。原告の主 -11-.

(12) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 l号. 張は,被告は M i c h e lが彼の子供 J e r e m i aに遺贈した遺産を所持している から,それを原告に引渡せ,というものである。なぜなら,その財産は死. i c h e l が子供の J e r e m i a に遺贈した世襲財産であり,その子供 亡した M Jeremiaも死亡し,原告がその世襲財産の最近親相続人となったからであ. . 審理過程,にお ると。この訴えに対して,被告は,原告に一後述の, 6 eremia いて言及する-訴訟保証を求める O しかし原告はこれを拒否し, J に遺贈された財産は世襲財産であること, J eremiaの死後 l年と 1日以内. e n c z eに贈与 に,原告は,最近親相続人として,その遺産を被告が夫の H したことについて異議を唱えたこと,を再度主張する O 被告はこれに対し. e r e m i aの遺産は世襲財産であるが,その遺産相続は既に完了し,それ てJ はもはや世襲財産ではなく,自分に帰属した財産であると反論する O 原告 の主張と被告の反論(被告の主張と表記すべきであるが,本稿ではこのよ うに表記する。〉には,すべて証拠書面が付けられている。マクデブルク 参審人の判決は次のようなものであった。すなわち,原告は訴訟保証を被. e r e m i aの遺産相続が完了して 告に提示すべきであり,その後に,被告が J いることを裁判証人によって証明するのであれば,被告は原告の訴えに応 じる必要はない, というものであった。原告敗訴というのが,マクデブル ク参審人の判断であろう。 ツィーコウは,この判決について,原告被告の両方の訴訟当事者が利用 している代言人,原告が利用している後見人,被告が原告に求める訴訟保 証,父 M i c h e lが子供 J e r e m i aに行った遺贈,についてそれぞれ分析を加. 0 0 える O ここでは一つの事例のみが対象となっているから,本書も本文が 1 頁程度の小品ではある O しかし,我々の眼から見れば,史料集であるエー ベル編『マクデブルク法』を基にした,我々が今後果たすべき研究を先取 りしていたように見える。この限りで,この作品は先行研究として評価さ れるべきである。もっともツィーコウ自身は,その後,法史学的な研究に. -12-.

(13) 1 4・1 5世紀のマクデブルク法による裁判 手を染めてはいないようであり,これは残念ではある ω 。 この研究において彼が導き出すのは,中世法の厳格な形式主義がどのよ うに緩和されていくのか, ということである。さらに彼は,代言人と後見 人という制度によって当事者も彼らの発言内容に拘束されていくようにな るということ,訴訟保証制度が訴訟を一定の方向へコントロールしていく 役割を果たすようになるということ,並びに遺贈という制度が相続の主体 を被相続人から相続人へと修正していくということ,を明らかにし, 1 1 5 世紀半ばには,中世ザクセンの裁判手続が近世の思考構造を明白に示して いることである口(それは)一部は固有の発展において,一部はローマ・カ. e rM i t t ed e s1 5 .J h s .d a s ノン法的な伝統から(生じたの)であるCind m i t t e l a l t e r l i c h es a c h s i s c h eG e r i c h t s v e r f a h r e nd u r c h a u sS t r u k t u r e nd e s n e u z e i t l i c h e nDenkensv o r z e i c h n e t e-t e i l sa u se i g e n e rEntwicklung, t e i l s a u sr a m i s c h k a n o n i s c h e nT r a d i t i o n e n )JとL、う結論を導き出している ω 。 一つの事例から,このような結論が引き出し得るのかという懸念もないわ. 5世紀半ばのマクデブルク参審人の判決から, けではないが,少なくとも 1 彼らの判決が時ともに次第に発展を示していること,つまり常に同じ法原 則または論理に従って判決が下されていなかったことを明らかにした,と いうことは評価できるであろう。. 何 ) F ・エーベル「我々は法として語るーマクデブルク参審人法につい. 2 0 0 4 年) ての試論J( 上述のツィーコウの個所でも指摘しておいたように,マクデブルク法研 究にとって画期的な成果を残したのがエーベル ( F . E b e l:1 9 4 4 2 0 0 5年) である。彼が中心となって編纂した史料集『マクデブルク法』の三巻本は, 同法研究の基本史料として後世に名を残す労作である。従って,エーベル はどちらかと言えば実証に力点をおいた法史家ではある O しかし他方で, 一. 1 3-.

(14) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第. 1号. 彼は膨大な法史料に対する理論的な分析も試みており,その論稿も多数残 している O その中でもマクデブルク法について最も包括的に,裁判制度や. 0 0 5年の前年の 2 0 0 4年に, 訴訟制度に論及した彼の論文が,彼が亡くなった 2 彼の弟子らによって編纂され出版された彼の著作集の中に収められてい る ω。 80頁を越えるこの論文のタイトルは「身々は法 é~ てi!fõ- マクデ. ブルク参審人法についての試論」 ωとなっている。この論文は,その公刊年 から推測すると,上記の「マクデブルク法』の出版が完了してからーただ. 0年後に書かれたことにな い編纂作業自体は未刊の可能性もあるが-約 1 るO その史料的な根拠として『マクデブルク法』からの引用も当然少なく はなし、。いわば,後者の史料集についての彼の総括という様相も呈してい るO 筆者には,これが,彼の父ヴィルヘルム・エーベル が『リューベック市参事会判決集. C W i l h e l mE b el ). C L u b e c k e rR a t s u r t e i l e )I Jの 4巻本 α955. -67年)を公刊した後に出版した『リューベック法 C L u b i s c h e sR e c h t ) 1I J0971年)を思い出させる ω 。残念ながら,息子であるフリートリッ ヒ・エーベルが父の業績を意識していたかどうかは今となっては分からな l ' o. ここでは,この「我々は法として語る」論文の中の,裁判制度と訴訟手 続に関わる部分を少し紹介しよう O 彼が主に使用する史料は,ザクセン シュピーゲル・ラント法,. 1 3世紀のマクデブルクからマクデブルク法都市. に送付された都市法(条文),. および近隣都市や前述のマクデブルク法都. 市の参審人に対してマクデブルク参審人から送られた法教示と判決である。 記述もこの順番でなされ,マクデブルク法が古来の慣習法の形式主義と厳 格さを,いかに緩和し発展させていったのかが,裁判制度さらに各法分野 と関連づけられながら述べられて L、く。訴訟手続では,まず,裁判手続の 迅速化が進み,これに役立ったのは訴訟保証の原則であったこと,さらに. 1 1 8 8年の大司教ヴィヒマンの特許状でも既に訴訟の厳格さが緩和の傾向に -14-.

(15) 1 4・ 1 5世紀のマクデブルク法による裁判 あること ω ,そしてザクセンシュピーゲル・ラント法の「死手の証明」は, 死者の債権者が彼の債権をその相続人に対する証明手段のみに利用される ものとなっていたこと,証人も行為が実際に行われたという事実を見聞し た 者 (Geschäftszeuge) に代って~'\ったこと等である。刑事訴訟でも,非 合理な神判は急速に消滅し,. 1 5 0 0年頃からはカロリーナ刑事法典に見られ. る糾問訴訟へも徐々に近づいていく,ということである O ローマ法につい. 3世紀以来侵入してきているが,マクデブ ては,私法の面で,遺言制度が 1 5世紀末頃からである, ルク参審人がこれを認めるのは 1 る民相続法では,. ということであ. ラント法の法定順位が,獲得財産の自由な処分によっ. て緩和され,夫婦財産制も,都市住民の信用制度にとって必要なものとし て発展し,それに伴って契約法の分野でも取引の自由から,定期金売買, 運送契約等の新たな契約類型が発展していった,. ということである的。相. 続法に続いて,物権法については都市帳簿制度がまさに都市法の新たな制 度であり,これは証拠法においても重要な意義を有していったことが指摘 されている。エーベルは,この後に,刑罰法についての新たな発展につい ても言及している。ブフタ論文においても指摘した「決闘に値する傷」と 関係する法教示と判決もここでは紹介されている ω 。 以上, このエーベル論文から見えてくるのは,マクデブルク参審人の法 教示と判決においては,従来の慣習法の質的な発展が見られるということ, あるいは少なくともエーベルはそれを重視している,ということである O これが彼の基本的視点であるように思われる。因みに,前述のプランクの 研究については,エーベルはこれを近代におけるマクデブルク法研究の晴. 2世紀から 1 5世紀のマクデブルク 矢として高く評価しつつも,プランクは 1 の訴訟制度を不変的な均質的なものとして把握した, と批判している快 周知のごとく,. 1 9 6 0年代以降のドイツ法制史を牽引したのは K・クレッ. シェルであり,彼がドイツ法史の独自性を否定し,ローマ法的な要素が中. -15-.

(16) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 l号. 世以来認められることを実証的に明らかにしたことは我が国でもよく知ら れている ω 。このような潮流は,無論,言わばドイツ法史の独自性を体現 すると見倣されたマクデブルク法研究にも影響を与えている。プランクに おいても見られたローマ法とゲルマン(ドイツ)法との対比は,このエー ベル論文でもかなり後退している。上述のように,エーベルも,ローマ法 的な起源を有する遺言制度は 1 3世紀以降にマクデブルク法にも見られるこ と,あるいは,. 1 6世紀以降には刑事法はカロリーナ刑事法典へと徐々に接. 近すると述べてはいる。 しかし筆者の印象では,実証史家としてのエーベルにとって,ローマ法 とゲ、ルマン(ドイツ)法との対比という定式は重要であったようには思わ れな L、。彼の研究の目的は,マクデブルク法がどのように発展していった のか,ということの解明に尽きると言ってもよ~,。筆者も本稿の冒頭にお. いて指摘したように,往時のマクデブルク参審人および訴訟関係者にとっ て,彼らのマクデブルク法がローマ法なのかゲ、ルマン(ドイツ)法なのか, ということが極めて重要であったとは思われな L、。彼ら参審人の主たる関 心事は,どのような判決であれば訴訟当事者が納得しうるのか,または訴 訟当事者の主張または反論のいずれがマクデブルク法に適っているのか, について判断を下すことにあったように見える。確かにマクデブルク参審 人は 1 5世紀にローマ法について判断することを拒否しているが,それは彼 らにとってローマ法が未知の法で、あったからであり,後者に対する彼らの 反発によるものではないと言える O なぜなら,彼らはローマ法と並んで, 教会法そして市民によって独自に定められた自治制定法の判断さえも拒否 しているからである O つまり,ローマ法とゲルマン(ドイツ)法の問題は, 彼等ではなく,後代のドイツ法史研究者にとっての,その分析視角とその 評価に関わる問題であったと言えないであろうか。我々の世代の研究者に とっては, もはやこの問題関心は次第に後退していると言ってよ L、。さら. -16-.

(17) 1 4・1 5世紀のマクデブルク法による裁判 に言えば, 日本に住むマクデブルク法研究者はこの問題にかなり冷静に対 処しうるし,またそうであるべきである O. ( 5 ) ラントヴェーア「下部司教区ミュンスターのデーズムにおけるゴー. 裁判の旧来の裁判手続から新たな裁判手続への移行J( 2 0 0 4 年) マクデブルク参審人の法教示と判決についての研究については以上であ るが,ザクセンシュピーゲルというマクデブルク法と共通の法が普及して いた北ドイツ地域における同様の裁判研究についても少し言及しておきた. 。 、. L. ニーダーザクセン州のオルデンブルク ( O l d e n b u r g )市とオスナブリュッ ク( Osnabruck) 市の中間付近のミュンスターラント (M u n s t e rl a n d )に. Desum) という小さな丘陵地がある O ここでは中世以来-この デーズム ( 教区での主要裁判 ( H a u p t g e r i c h t ) として,さらには,周辺地域も含めた 下部司教区 (N i e d e r s t i f t ) ミュンスターの上級審 ( O b e r g e i c h t ) としてー ゴー裁判 ( G o g e r i c h t ) が開催されていたことが知られている。現在の地 図でも,その地名は,. Cloppenburg) 市とヴェヒタ クロッペンブルク (. (Vechta) 市の聞において確認することができる O しかしそれが史料上で 言われている裁判場所としてのデーズムと同一であるかについては異論も ある。いずれにせよ,このゴー裁判において下された法判告は,他の場所 におけると同様に,近世以降の戦災の中で散逸したが, 1 5 7 8年から 1 6 5 2年 までの民事法関係の史料 ( P r o t o k o l l e ) はこれを免れ,それらはオルデン ブルク州立文書館 ( S t a a t s a r c h i v ) に保管されている。この史料をベール. (Hans-JoachimBehr) を中心とする歴史家や法史家たちが分析し,その. 0 0 0年に「オルデンブルク=ミュンスターラントのデーズムにおけ 成果が 2 るゴー裁判』という書名とともに公刊された ω 。上述のように,. この法史. 料は時期的に言えば中世ではなく近世に属する史料ではあるが,この地帯. -17-.

(18) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 1号. は農村地帯でもあり,ザクセンシュピーゲルの本来の地域からそれほど離 れてもいないから,おそらく後者と同様の慣習法が支配していたのではな いかと想像され,中世法研究者もこれに少なからず関心を寄せていたので ある。同書の後半部分には裁判史料が収録され,その前半部分には,この 研究に参加した歴史家などの寄稿論文が収録された。その研究者の 1人が 法史家のラントーヴェーア ( G o t zLandwehr)であった。 彼の寄稿論文の論文名は「デーズムのゴー裁判での追放手続における領 主,農民,債権者の法的地位 ( D i eR e c h t s s t e l l u n gd e rG u t s h e r r e n,d e rH o f b e -. s i t z e rundd e rG l a u b i g e ri ndenA b a u s s e r u n g s v e r f a h r e nv o rdemGog e r i c h ta u fdemDesum)J である自由。この論文もラントヴェーアらしい, 極めて実証的で明快な作品となっているのではあるが,ここではその紹介 は割愛しよう O なぜなら,その後,彼は,我々にとってさらに有意義な, ゴー裁判に関する,特に裁判手続についての論文を執筆しているからであ る。それは 2 0 0 4 年に発表した「下部司教区ミュンスターのデーズムにおけ. D e rGangd e sn e u e nundd e sa l t e nG e r i c h t s るゴー裁判での新旧裁判手続 ( v e r f a h r e nv o rdemG o g e r i c h ta u fdemDesumimN i e d e r s t i f tMunster)J という論文である ω 。この中で,. ゴー裁判での裁判手続を,普通法訴訟制. 5 7 1年のミュンスター司教領裁判所令の前 度の導入を意図して制定された 1 後に区分して,彼は論じている O 我々には,この裁判所令よりも前の裁判 手続,すなわち,中世の裁判手続に関する言及が興味深い。なお,ここで 参考論文として掲げられているのは,彼自身がかつて書いていた論文帥, 法令集および判告集である旬。これらを駆使して彼は中世のデーズムのゴー 裁判手続を描き出すのであるが,それはザクセンシュピーゲル・ラント法 のそれとほぼ一致していると言ってもよい。すなわち,原告の訴え,被告 の反論,判決発見人による判決発見,代言人,判決非難,証明であり,そ れが順に論じられている。位)のエーベルまでの研究が,どちらかと言えば,. -18-.

(19) 1 4・ 1 5世紀のマクデブルク法による裁判 訴訟手続自体ではなくそこで適用される諸原則を理論的に論じていたのに 対して,ラントヴェーアは裁判の審理過程をより具体的に我々に明らかに してくれるのである O ここで,彼の言説を詳細に紹介することはできないが,その中で,厳格 な実証主義者のラントヴェーアには珍しく,中世初期から中世盛期への理 論的な展望も論じているから,これについてのみ言及しておこう O これは 中世の訴訟原則とも関係する。第一に,中世よりも前の時期の裁判が集団 と集団(フェーデ,血讐)または集団内での紛争解決であったが,中世に 至って訴訟が個人的なものに変化したということである C l n d i v i d u a l i s i e r u n g. undP e r s o n a l i s i e r u n g ) ω。これを直接的に裏付ける証拠はないが,裁判集 会出席義務と判決発見人の判決にその痕跡が見出されると彼は言う。そし て,この紛争解決の個人化によって中世には裁判が原告と被告という個人 の争いに変化したというのである。これが中世的な裁判の成立ということ になるのであろうか。第二に,ラントヴェーアは,その裁判の場の代言人 が本来的に法に詳しい,判決発見人に匹敵する人物であったこと,及び彼 ら代言人は中世末期に至って幾つかの都市で、は判決発見人との兼職を禁じ られるようになる,. ということも指摘している叱第三に,裁判における. 証人の証明について,それは,実際に何が起こったのかという事実につい ての証明ではなく,裁判に係わる訴訟当事者の人物的な信頼性についての, すなわち,原告被告がそれぞれどのような声望を得ていたのかについての, 証明であったということを論じている ω 。エーベルによれば,マクデブル ク法では,証拠法の発展があったとされるのであるから,この地域では, むしろ旧来の法原則が存続していた,ということを意味するのであろうか。 いずれにせよ,このような,ラントヴェーアが示してくれた理論的な見通 しは,我々の研究にとっても有益な示唆となる ω 。 なお,ラントヴェーアは,この論文では殆ど言及してはいないのである -19-.

(20) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第. l号. が,ローマ法的な用語や制度に類するものが,既に中世盛期のドイツにお いても認められることを否定してはいな L、。そもそもローマ法対ゲ、ルマン 法という図式から彼は論を立てていなし、。彼が重視するのは実証性であり, 既存の法史料から中世の裁判を再構成すれば上記のようになる,というこ 。 とである ω 以上,筆者が管見した論文について言及してきたが,おそらく,この他 にも広い意味でマクデブルク法,さらにはザクセンシュピーゲルに関する 優れた研究も多数あるであろうが,本稿の紙幅の関係もあり,そのような 研究の紹介は割愛する O. 3 . 課題の設定 前節におけるマクデブルク法を中心とした中世ドイツの裁判制度研究の 概観から,我々は,その史料的な根拠がザクセンシュピーゲルに代表され る成文法の条文から,次第に裁判事例へと変化していることを知る。マク デブルク法研究にのみ限定して言えば,最近のツィーコウ論文そしてエー ベル論文は,エーベル自身が中心となって編纂した『マクデブルク法』に 収録された法教示や判決を多数引用するようになってきている O このよう. 0世紀初頭から本格化したマクデブ な裁判史料に基づく研究動向は,特に 2 ルク参審人の法教示と法判告の収集作業ーその潮流の中にエーベルも含ま れるーによるものであることは明らかである O それと同時に,このような 裁判事例を基にした研究が,中世のマクデブルク法は決して固定的で不変 的なものではなく,時代が下るとともに次第に変化・発展していったこと を明らかにすることにもなる。その原因を,学問的な外国法の影響,また はローマ法の継受によるとし,これが慣習法の世界いわゆるゲ、ルマン法の 世界に定着するに至ったという見解もなお有力であるが,このような見方. - 20-.

(21) 1 4・ 1 5世紀のマクデプルク法による裁判 はむしろ後退している。ローマ法の継受を認めつつも,ローマ法または慣 習法のいずれの法が優位するのかを問うことなく,参審人や代言人などの 訴訟関係者がその発展の原動力であったと見るようになってきている,と 言えるようである。 このようにまとめることができるとしても,我々は相変わらずある種の 隔靴掻庫の感を感じないわけにはいかな L、。それは,彼我のいずれの研究 においても,審理が実際にどのように進められたのかという法廷での実態 はほとんど言及されず,法判告から帰納論的に導き出された抽象的な訴訟 原則のみが論じられている,にすぎな L、からである O 確かにラントヴェー アの研究はその訴訟原則を具体的な審理過程と関連させっつ論じているが, しかし残念ながら,彼が扱っているのは,デーズムという北西ドイツの農 村におけるゴー裁判の事例であり,ここでの裁判手続がマクデブルク法の 都市における裁判でも同様であったとは言い難い。マクデブルク法に従っ た裁判の具体的な審理過程は,これを論じるドイツの研究者にとって常識 の範囲内の事柄であるか,または改めて論じるまでもないものとされてい るように見える O つまり,これについての記述は-最初のプランクを除い て一見当たらな L、。しかし,我々に決定的に欠けているのが,実はこの審 理過程についての知識なのである O つまり,どのようにして裁判は聞かれ, どのように審理が進められていったのか,が我々にとっては,極論すれば, 未知の世界なのである。我々がこれについての知識を一定程度有している のであれば,エーベルの言説を肯定的にまたは否定的に評価することも可 能であろう。それが我々に不足している限り,我々は彼の言説にただ振り 回されるだけということにもなりかねない。筆者が,裁判は実際にどのよ うに行われていたのかにこだわるのかもここにその理由がある。多少とも マクデブルクの法教示と判決を見ていくと,本稿の冒頭で述べたように, マクデブルク参審人法が,彼らが自主的に,言わば天才的な能力によって. -21-.

(22) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 1号. 発展させたのではなく,彼らに訴えてきた訴訟当事者とその関係者一代言 人ーが,判決案を彼等マクデブルク参審人に突き付けてその判断を迫って いったことが,その発展にとって重要な意味をもっていたのではないか, ということも見えてくるのである民 マクデブルク法に従った裁判についての訴訟原則は,前述のように,マ クデブルク参審人の法実務の中で慣習的に形成されており,それが,いわ ば民事訴訟法典として編纂されることは一筆者の管見する限りーなかった ようである。従って,我々は,エーベル編「マクデブルク法』に収録され た法教示と判決から,訴訟手続に関する断片的な言説を取り出し,これを 言わば繋ぎ合せて,その裁判像を再構成しなければならないのである。 ただし「マクデブルク法』に収録されたすべての法教示と判決が,この 作業のために利用できる訳ではない。なぜなら 1 4世紀半ばまでの収録され た多くの史料は,主にマクデブルク参審人が,マクデブルク法都市からの 条文の解釈や適用についての問い合わせに対して簡潔に回答した-残され ている史料による限り一法教示にすぎない。つまりどのような事情から問 い合わせがなされたのか必ずしも明らかではない。従って,これらの法教 示から,裁判手続に関する言説を引き出すことも容易ではない。他方,今 度は時代が下って,. 1 6世紀頃になると,その法史料には,明らかに,所謂. ローマ法の継受,すなわち,普通法訴訟的な手続の導入が看て取れ,訴訟 当事者はこれまでとは異なる訴訟方法に基づいて提訴または応訴するよう になっている。このように,こちらの時期の訴訟手続はそれまでのマクデ ブルク法に基づく訴訟手続とはかなり異なるから,我々はこの時期の法教 示と判決も基本的にその検討の対象からはずさざるをえな L、。この二つの 時期の中間部分,すなわち 1 4世紀後半から 1 5世紀末までが,マクデブルク 法都市がこれまでのマクデブルク法を独自に発展させた時期として-少な く『マクデブルク法』に収録された法教示と判決からはー扱ってよいであ. - 22-.

(23) 1 4・1 5世紀のマクデブルク法による裁判 ろう。 エーベル編『マクデブルク法」の第 1巻は,マクデブルクの近隣ニー ダーザクセンの都市に送付された法教示と判決を主に収録している。これ らの法教示と判決の時期は,個々の都市毎にかなり異なっており,それら を統一的に論じることも難しい。これに対して第 2巻 ( 2分冊)は,ほと んどプレスラウ市に送付された 1 2 6 1年の法教示から 1 6世紀末までの判決を 収録している O こちらの巻が,マクデブルク法の発展を追跡するには容易 であることは明らかであろう。本稿の検討対象も主に第 2巻の法教示と判 決が中心となる。無論,必要に応じて第 1巻からの引用も行う予定である O この時期の裁判手続きがどのように行われたのかを,本稿では,次のよ うな順序で再構成していこう O まず第 lに,訴訟関係人として,原告と被 告および代理人,代言人,保証人,参審人とはどのような人々であり,彼 らはどのような役割を果たしていたのか,について言及する O 第 2に,民 事訴訟にはどのような種類の裁判があったのか,第 3に,裁判はどのよう に進行するのか,特に,第 4に,訴訟当事者による証明はどのようになさ れるのか,第 5に,判決の付与,そして判決非難,マクデブルク参審人へ の法の教示と判決付与の懇願についてはどのように記載されているのか, を論じて l 'く。さらに,以上の民事裁判とは別に,数は少ないのであるが 主に第 1巻に登場する刑事裁判についても,その特徴を指摘することにし ょう O. 4 . 審理に関与する人々 ( 1 ) 訴訟当事者とその関係者. ①. 原告と被告. 訴える者が原告で,訴えに応じる者が被告であることは自明のようにも. - 23-.

(24) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 1号. 思えるが,実際にはどちらが原告または被告であるのか,が争われている. 2 6 1年の法教示 ( W e i s t u m ) の第 5 3条 ことがある。既にプレスラウ市宛の 1. ωが加害者(日の所に来て後者⑩に負傷を負わせ,そ. でも,負傷した被害者. ωが叫喚告知をするも,被害者ωがその負傷のために裁判に出頭 できない聞に,加害者⑪が彼の負傷を理由に訴えた場合,被害者ω は,彼 が負傷した日に叫喚告知をしたことを証人によって証明すれば,被害者ω れから彼. は加害者⑪に優先して後者を訴えることができる,ということが規定され. ωの優先. ている。ただし,当日ではなく,一夜を経過した場合には被害者 権は失われる,. ともされている帥。この事例は刑事事件であるが,民事事. 件の場合であっても,訴訟当事者が互いに自分こそが原告であると主張す る場合がある。一見すると,原告であることが,そもそも審理の駆け引き において有利であるとは思えないのであるが,自分の主張を相手方に先ん じて判断してもらいたいという意向が訴訟当事者の双方にあったのであろ うか。例えば, 1"自分が原告で,彼らが被告であるCi c heyna n c l a g e rben. 5 2 7番 0436-52年))とか, 1"自分が原告であ unds i eanworters e i n )J( s oben り被告ではない。しかし彼(被告)は原告になろうとしている ( i c hdacheyna n c l e g e rvndn i c h teyna n t w o r t e r, vndh e rw i leyna n c l e g e r s e i n )J(第4 3 7番 ( 1 4 5 1年))という主張が登場する ω 。原告であるというこ とが,裁判において,より実質的意味を有していたことを窺わせる事例も ない訳ではな L、。第 6 3 3番 0471年)では,原告が被告に応答の前にその 訴訟物を自分に引渡す ( o b i r a n t t w o r t h ) ように求めており,この主張を マクデブルク参審人も認めている ω 。すなわち,原告に訴訟物が訴訟に先 立って暫定的に引渡されるという仕組みがあったようである。この制度が 時期的にいつまで遡るのかは分からない。いずれにせよ,原告であるのか 被告であるのかということは,訴訟当事者にとって無意味ではなかった, と言えるであろう O. -24-.

(25) 1 4・1 5世紀のマクデブルク法による裁判. 1 5世紀になると,プレスラウ参審人が,訴訟当事者のいずれが原告であ るのかまたは被告であるのかを,マクデブルク参審人に送付する一件書類 。1 4 9 1年になると「原告 に記載するようになる ω 人物名に付されるようになり(第 6 4 7番),被告. ( c l e g e r)J という肩書が. I ( a n t w u r t t e r )Jの肩書も. 3年後から記載されるようになる(第 6 4 9番)働。このような記載の変化は 訴訟書類を作成するプレスラウの参審人ーまたはその書記ーの個人的な判 断によるものであるかもしれないが,訴訟内容をより鮮明にするという目 的に基づくものであることは間違いない。これも訴訟手続における一つの 発展と考えてよいであろう O. ②. 市外民,ユダヤ人,女性,未成年者. プレスラウ参審人の面前において訴訟当事者になるのは,成人の男性の (プレスラウ)市民だけではない。他の都市から来た市外民とか,ユダヤ 人,女性,未成年者も登場する。いずれの場合であれー少なくとも史料に よる限り一成人男性のプレスラウ市民が相手方になったとしても,後者が 審理において有利に取り扱われていることはーユダヤ人が訴訟相手方であ る場合を除いてーないようである。 市外民の事例から見ていこう。例えば,賭け金をめぐる争いについての 第4 2 5番(14 4 7年)の事例では,原告(市民?)は被告に賭け金を貸与し たことを 2人の証人によって証明する O しかしマクデブルク参審人は,被 告(ポーランド人)が原告の証人と同じ人数の証人によって-おそらくそ の返済について一反証すれば原告の訴えを免れる,. と判決している貝原. 0 0番(14 4 1年)) 告が(プレスラウ?)市民,被告は農民という事例(第 4 もある。原告は,未払いの地代について訴え,被告はその地代(収取)権 が原告に,被告らの同意なく,売却されていたことを誓約しようとする。 原告は,誓約する被告の中に,世襲シュルトハイス - 25-. ( e r b s c h u l t i s )-農民.

(26) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 1号. 身分ではないということであろうかーではない,単なるシュルトハイス ( s c h u l -. t i s ) の者がいるとして非難する。被告はその者は領主 ( e r p h i r r ω によっ て任命されたシュルトハイスであるから,世襲シュルトハイスと異ならな いと反論する。判決は,被告の反論を認めている。 なお,この事案では,領主が農民の同意なく地代権を市民に売却したこ と自体が問題ともなっている。領主による地代権の売却にも隷属農民の同 意が必要とされているのである O 確かに小作人が地代額以上に,領主に対 してなされる差押えを甘受する必要がないことはザクセンシュピーゲル・ ラント法の 1・5 4・1やレーン法の 6 5・7にもあり,領主の農民支配も絶 対的なものではなかったことを窺わせ,これも興味深い ω 。いずれにせよ, このような事例から,市外民であることが裁判において必ずしも不利に働 いた訳ではない,ということも想像させる。無論,彼ら市外民も自ら法廷 に立っているのではなく,多くの場合に-おそらくブレスラウ市民でもあ ろうが一代言人を利用しているから,後者の代言人の利用が彼ら市外民を 。 、 不利な立場に追いやることを阻止していたのかもしれな L. 1 6世紀になると,代言人という記載に代わって裁判補助人(r e c h t s v o r 4 7番 ( 1 4 9 1 h e l f f e r ) という用語が史料において使用されるようになる O 第 6 年)では,. r 代言人および裁判補助人」と並列的に記載されており,. これ. 7 1番(15 0 6年) が代言人の文字が登場する最後の事例でもある働。既に第 6 では訴訟当事者ーポズナン ( Posenn) 市民の代理人(被告),プレスラウ 市民(原告)ーは両者とも裁判補助人をしている側。なお,. この事案は,. 訴訟当事者である市外民のために通常の裁判よりも迅速に短期間に審理さ れる,いわゆる市外民裁判である O この裁判については,後述の. 5 . 民事. 裁判の種類において,再度触れることにしよう O 原告によれば,被告がポ ズナンで差押えた第三者の商品の中には原告の商品も含まれているから, 被告はそれを原告に引き渡せというものである O 原告は,さらに,これを. - 26-.

(27) 1 4・ 1 5世紀のマクデブルク法による裁判 証明せよという判決が自分たちには既に下されているから,それに従って 裁判書面によってこれも立証したと主張する。これに対して,被告は,当 該商品が原告のものであるということは証明されていないと反論する O 判 決は,原告であるプレスラウ市民の勝訴であった。ただし,この争いはそ の後も係属し,半年後に再度マクデブルク参審人によって判決が下されて いる(第 6 7 3番(15 0 6年))。被告は,それがポズナンで差押えされた際に, 原告はそれが自分の商品であるとは誓約してはいないから,これは判決の 履行にあたらない,として反論する O マクデブルク参審人は,被告は当時 原告にその誓約を免除していたとして,被告の反論を退けてはいる刷。 第6 7 6番(15 0 7年)は市外民対市外民の事案である O 両者とも裁判補助 人を使用している O 原告の主張は,確かに自分は 2人目の証人を被告に通 知することなく裁判に召喚したが,これはプレスラウの慣行では許される ものであり, しかもこの証人も最初の証人と同じ内容の証言をしたのであ るから,被告もこの証言を受け入れるべきである,というものである。被 告は,市外民にはプレスラウの慣行は適用されず,証人についての通知が 被告にされてはいな L、から,その証言も無効であると反論する O マクデブ ルク参審人の判決は. 2人の証人の証言が平穏に行われ,その内容も一致. 。これは,原告側の 2人 しているから,原告が勝訴すると判決している ω の証人の証言内容を重視することによって,結果としてブレスラウの慣行 が市外民にも適用されることを認めているようにも見える O 訴訟当事者が女性または未成年者であるとしても,彼らは後見人または 代理人を利用し,後者はさらに代言人を利用しているからであろうか,女 性や未成年者が訴訟当事者であったとしても裁判において直ちに不利益を 被ることはなかったようである。なお未成人の男性の場合,成人となる年 齢は,. 1 2 6 1年の法教示の第4 9条ω ,第 2 0 6番(13 6 3 8 6年 四 そ し て 第 2 8 3番. )( 14 0 0年頃)闘によれば 1 2歳であるが,第4 3 0番(14 4 7年)(00および第 のd 一. 2 7-.

(28) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 1号. 5 5 3番 ( 1 4 5 7年)帥では, 1 3歳 6ヶ月となっている。その変遷理由はわから な~ ' 10 ここではとりあえず後者を成人年齢としておこう O な お,. 月になれば,自ら自分の後見人を選ぶことができるが, 見人となることはできな~ ' 10. 市宛ての法教示によれば,. 1 3歳 6ヶ. しかし他の者の後. 1 4 5 0年頃のヘルムシュテット ( H e l m s t e d t ). 1 3歳 6ヶ月以下の未成年者に対しては誓約を求. 8 0 めることもできないとされている 6. このように,プレスラウまたはマクデブルクの参審人たちは,訴訟当事 者のどちらかに意図的に肩入れするということはなかったように見える。 この限りで,訴訟当事者は公平に扱われたと言えそうである O 訴訟当事者 が市外民であれ,女性であれ,未成人であれ,上述のように,多くの場合 に彼らは代理人,後見人,代言人または裁判補助人を法廷において利用し ており,後者はプレスラウであればブレスラウ市民でもあったから,この ことが参審人の公平さをひき出していたのかもしれな L 。 、 ただし,訴訟当事者の一方がユダヤ人の場合は,少なからず彼らは不利 益な取り扱いを受けていたように見える O 第 1 8 2番. 0363-86年)では,. キリスト教徒の誓約がユダヤ人の誓約に優先するとされ, 1"決闘に値する 傷」等の刑事事件では,ユダヤ人は,現行犯であるキリスト教徒を. 6人. のキリスト教徒の証人によって,有罪とすることができるとされている民 ユダヤ人の証人では有罪にはできないということであろうか。. 1 5世紀に. 入っても,基本的な変化はな L、。例えば,ユダヤ人(原告)が,彼がフラ ンケンシュタイン. ( F r a n k e n s t e i n )市に融資した金額について被告-原告. によれば岡市の市参事会員ーにその返済を求めた事例が第 3 4 6番. 0 4 3 3年. 頃)にある。被告は,市が原告ユダヤ人から融資を受けた際にそれを受領 すべく原告の所にやって来た者である。被告は,これに対して,自分は単 なる受領者にすぎず,その受領の際にそのような返済を約束してはいな かったと反論する O 判決は,被告にその雪完誓約を認めるものであった 6 0 0. - 28-.

(29) 1 4・1 5世紀のマクデブルク法による裁判 第4 7 6番. 0436-52年)ではユダヤ人の寡婦(原告)が被告に一理由は不. 明であるがー第三者の世襲財産である不動産を引き渡すように求めている O 被告は,それは,差押え後,公示により,別の者の財産となり,既に l年 と 1日が経過し,さらにその財産は転売された。そして,その間,原告は 異議を唱えることもなかった,と反論する。なお,この事案については既 にマクデブルク参審人による判決があり,それによれば被告が反証すれば 勝訴する,というものであった。原告と被告は,ここでは,被告の証明が このマクデブルク参審人の判決に適ったものかどうかを争っている。判決 は,被告が原告ユダヤ人の寡婦よりも先に占有指定されていたことを証明 しており,第 4回の裁判日においてこれが公示されたものの,原告はその 。一見すると,公平 間も沈黙していたとして,原告の訴えを退けている ω な裁判のように見えるが,原告は,その訴えの中で訴訟物は世襲財産であ り,これを処分するには最近親相続人の同意なければならないはずである, と主張していたが, これは判決では全く考慮されていない。 これらのユダヤ人が敗訴した事例から,我々はユダヤ人が法的に不利に 取り扱われていたのではな L、かと推測する O そうであったとすれば,この ような法的に不利な状況にも拘らず彼らユダヤ人が果敢に裁判の場に立っ ていることには驚かされるであろう。. ③ 後見人,代理人 妻や未成年の子供のために任命されるのが後見人である。多くの場合, 妻の夫(ザクセンシュピーゲル・ラント法の. 3・4 5・3),子供の父親が. これを務めている。彼らが死亡しているのであれば,または彼らに後見人 職を果たせない事由があるのであれば,伯父や叔父がこれを務めることに なる。女性は,その年齢の知何を問わず,裁判において訴訟当事者になる ためには後見人を必要とする O 従って,母親が子供の後見人になることは 一. 2 9-.

(30) 近 畿 大 学 法 学 第6 2巻第 1号. ない。子供(被告)の中に成人した者と未成人の者がいる場合どうか。第. 5 7 1番(14 6 0年)では,成人した子供が未成人の子供に代って応訴せよと いう判決が下されている民では後見人に相応しい親類縁者が見当たらな. 9 1番 い場合はどうであろうか。おそらく第 1. ( 1 3 6 3 8 6年)がこれに当た. るであろう。これは独身の(成人?)女性の財産処分を認める事例である。 それによれば,彼女は財産を裁判の面前であれば処分でき,その際に彼女 は代言人を後見人にすることができる,とされている O この史料はマクデ ブルク参審人からの法教示という形式をとっており,プレスラウ参審人か らの問い合わせ内容自体は記載されていな L、。おそらく,彼女には後見人 に相応しい成人の男性がいなかったか,あるいは後者を訴訟の相手方が認 めなかったということであろう。プレスラウ参審人からの問い合わせの内 容も,法教示の懇願ではなく,この事例についてどう判断すべきか,とい 。 う判決を懇願するものだったのかもしれな L例 次に,訴訟当事者が自ら裁判に出頭できない場合に,利用されるのが代 理人である。代理人は本人に代わる者であり,一般的にその親類縁者, 友人または知人がこれを務めたようである O 彼らもまた,多くの場合に, 代言人を利用している。このことからも,代言人が,職業的な,言わば 「法の専門家」であったことを窺わせる。. 3 0番(14 3 6年) 代理人に関わる事例を紹介しよう。最も早い事例は第 3 である O ここでは,原告は被告に第三者の債務の支払いを求めているが, 被告は,自分にはその第三者から代理権を与えられていないとして応答自 体も拒否している。マクデ、ブ、ルク参審人は,代理権の内容を問うことなく, 第三者が判決によってその支払いを命じられていたとして,原告の訴えを 認めている ( ω。代理権の付与と関係するのは第 5 0 5番. ( 1 4 36-5 2年)である. O. 「原告が立証できるのであれば,原告が勝訴する」というマクデブルク参 審人の判決を受けて,被告が原告代理人にその証明を求めている事例であ - 30-.

(31) 1 4・1 5世紀のマクデブルク法による裁判 る。これに対して,原告代理人は証明すべきは当事者本人であり,自分で はないと拒否する。被告は,さらに,原告代理人が自分の知らない所で代 理人となっていたのであるから,その代理証書を提示せよと迫る O マクデ ブルク参審人は,原告代理人から懇願された猶予を認める O そして,その 期間内に原告代理人がこれを証明しないとしても直ちに原告敗訴とはなら ないが, しかし,最終裁判期日を訴訟当事者双方が決定し,それまでには 原告は証明するようにと,命じている倒。この事例から一少なくともこの 頃の慣行として一代理人を立てる場合には,訴訟相手方にその代理人がど のような権限を持つのかを,裁判の場でまたは代理証書によって知らせる 必要があった,ということが読み取れるであろう (690 妻から夫への代理権の授与は,夫が妻の後見人である場合には,本来的 には必要ではなかったようである(第 5 2 8番(14 5 2年頃))例。しかし,その 授与を証明する書面が,次第に夫にも求められるようになる。第 6 1 9番. 0 4 6 5年)では,原告は次のように主張する. O. すなわち,彼(買主〉は被. 告(売主)と被告の住宅を購入することについて売買の約束し,なおかつ,. I e i n k a u f)も飲んだ際に,被告は自分が-当該 人々の面前で手打ちの酒 C 住宅は彼の妻の世襲財産であったのであろうか-彼の妻の代理人であるこ とも認めていた,と。これに対して,被告は,自分は単に妻の代理人であ ると言ったにすぎず,妻の代理証書も所持していなかったから,その売買 は無効であると反論する。マクデブルク参審人は,原告の訴えを認め,被 告に当該売買について妻の同意を得るか,さもなくば原告に対する売買と 同様のことーおそらく補償ーを履行するようを求めている倒。さらに,そ. 0 0年以上後になるが,ゴスラール市宛ての判決(第 2 5番 ( 1 5 8 2年)) れから 1 では,マクデブルク参審人は,原告である妻の代理人(夫)に,その代理. r a t i f i c a t i o n ) を明らかにするよう求めてい 権を妻が承認していること ( る( ω )。. - 31-.

参照

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