統計にみる愛知県内の近代「花街」
著者
今村 洋一
雑誌名
椙山女学園大学研究論集 社会科学篇
号
52
ページ
43-57
発行年
2021
URL
http://id.nii.ac.jp/1454/00002880/
統計にみる愛知県内の近代「花街」
今 村 洋 一 *
“Kagai” in Aichi Prefecture: Analysis of the Statistics from the Meiji period to the
Early Showa period
Yoichi I
MAMURA 1.はじめに 1.1 背景と目的 本稿は近代,すなわち明治∼昭和初期の統計から,愛知県内の花街の盛衰を明らかにし ようというものである。「花街」は「かがい」と読み,この呼称は,花の紅と柳の緑の華 やかで美しい艶やかな女性のいる街をあらわす「花街柳巷(かがいりゅうこう)」という 漢語に由来する1)。一般に「お座敷」と呼ばれる宴席の場を提供する三業,すなわち料理 屋(料亭),待合茶屋,芸妓置屋が集まっている都市の一角が花街であり,芸妓の活動す る遊興の場を指す。 また,花街は日本の伝統文化を包括的に継承する空間である。お座敷が開かれる料亭や 待合茶屋などの建築は,和風の数寄屋建築を基本とし,贅を尽くした材や粋を集めた意匠 で造られ,和の美を追求した空間を有する。さらに各部屋には,襖,障子,屏風,床の間 に掛けられる書や絵,生け花など,季節を感じられる和のしつらえがなされている。宴席 では,和食器に美しく盛られた和食をいただき,着物を着て日本髪を結った芸妓を呼び, 邦楽(唄,三味線,太鼓など)に合わせた日本舞踊を鑑賞し,お座敷遊びに興じる。なお, 芸妓は日々お稽古に精進する芸事のプロフェッショナルであり,日本舞踊のほか,唄,三 味線や鼓などの邦楽器,茶道,華道など,和風伝統文化の伝承者でもある。つまり,花街 には,あらゆる日本の伝統文化が詰まっており,花街が存続しているということが,日本 の伝統文化が継承されていることを意味する。しかも,地元の焼き物に郷土料理,地酒, その地域に伝わる唄や踊り,地元ゆかりの作家の書や絵といったように,花街は地域色豊 かである。地域の伝統文化を包括的に継承する空間であるという点において,日本の代表 的な花街として全国あるいは海外にも知られる京都五花街(祇園甲部,祇園東,宮川町, 先斗町,上七軒)や金沢三茶屋街(ひがし,にし,主計町)のみならず,各地の花街に文 化的な価値がある。 * 文化情報学部 文化情報学科しかし,かつては全国 600 か所以上2)あったと言われる花街も,新しいスタイルの遊興 サービスの出現や,宴会や接待に対する世相の変化などの影響により,昭和 40 年代以降 は次々と姿を消し,今では 30∼40 程度にまで減じている。しかも,なんとか生き延びて いる花街であっても,昭和初期と昭和 30 年代の最盛期に比べ,かなり縮小した状況となっ ており,往時を知る人には寂しがられ,実際にはまだ存続しているにも関わらず,ほぼ忘 れ去られている場合もある。例えば,愛知県内では名古屋と安城において,現在も花街が 確認できるものの,往時のような活気を見ることはできない。このように縮退の一途を辿 り,風前の灯火とも言える花街だが,先述したように,地域の伝統文化を包括的に継承す る空間という点で改めて評価されつつあり,それゆえに地域活性化の切り札となる観光資 源や当該都市のアイデンティティとして,まちづくりでの活用が期待されている。実際, 京都や金沢の茶屋街には,訪日外国人も含め,多くの観光客が押し寄せている。また,山 形や新潟などでは,花街の保全と観光活用の取り組みが進められている。 一方で,かつてあった花街のほとんどは,既に消滅してしまっている。愛知県内でも今 や名古屋と安城の 2 都市にしか花街は存在していないが,かつては各都市,ちょっとした 街場にもあったに違いない。かつての花街について,定量的に知ることはできないか。そ こで本研究では,国会図書館に所蔵されている明治∼昭和初期の『愛知県統計書』(愛知 県発行)に記載されている花街関連統計データを整理し,近代における愛知県内の花街の 盛衰を明らかにすることを目的としている。 1.2 花街関連統計の詳細 花街は,料理屋,待合茶屋,芸妓置屋の三業が営業する地区と定義されることもあり, それゆえ東京などでは「三業地」と呼ばれる。この三業は,いずれも警察(公安)の許可 が必要な業種である。また,芸妓置屋に所属する芸妓も同じく,警察(公安)の許可が必 要であった。そこで,警察の取締対象となっていた,これら 4 業種に関する統計を本研究 では分析対象とする。『愛知県統計書』においては,各年末時点での料理屋,待合茶屋, 芸妓置屋の営業者数(軒数),芸妓の人数が,警察取締営業者の欄において,原則,警察 署の管内ごとに集計されている(1)。ただし,年によっては 4 業種すべての統計が揃ってい ない場合もある。 本研究が対象とするのは,国会図書館に所蔵されている明治から昭和初期にかけての『愛 知県統計書』であり,具体的には明治 12 年(1879)∼24 年(1891),明治 26 年(1893), 明治 40 年(1907)∼昭和 16 年(1941)の分である。このうち花街関連 4 業種のうち 1 業種 でも掲載されていたのは,明治 17 年(1884)∼24 年(1891),明治 40 年(1907)∼昭和 16 年(1941)であった。なお,明治 17 年(1884)∼24 年(1891)の統計書では,警察署 の管内ごとではなく,主要都市の市街地ごとや愛知県全体での集計しか掲載されていない。 そのため本研究では,主に,明治 40 年(1907)∼昭和 16 年(1941)の統計を扱い,明治 末期から昭和初期(戦前期)までの花街の盛衰を明らかにすることになる。 1.3 花街関連 4 業種と検番 ここでは花街に関する基本事項として,本研究で着目する花街関連 4 業種(三業と芸妓) と,花街に欠かせない検番について,整理しておきたい。
料理屋(料亭)とは,客室を設け,客の注文に応じて料理を出すことを本業とする。芸 妓を呼んで遊興できる場合とできない場合の両方がある。料理を待合茶屋に提供する仕出 し専門の場合もある。 待合茶屋とは,客室を設け,客が芸妓を呼んで遊興する空間を提供することを本業とす る。料理は料理屋から提供を受ける。待合,茶屋と呼ぶこともある。待合茶屋には女将が おり,料理やしつらえなどの宴席(お座敷)の手配と采配をおこなう。 芸妓置屋とは,芸妓を抱え,求めに応じて料理屋や待合茶屋に派遣することを本業とす る。芸妓屋,置屋と呼ぶこともある。芸妓置屋には女将がおり,所属する芸妓と寝食を共 にしながら,生活全般を教育した。 芸妓とは,宴席(お座敷)において,舞踊や演奏などの芸能を披露し,客をもてなす女 性のことで,地域によって芸者,芸子などと呼ぶこともある(2) 。舞妓も芸妓ではあるが, 一人前の芸妓になる前の修業期間の呼称である。地域によって,舞子,半玉などと呼ぶこ ともある(3)。 花街は三業の分業体制となっているので,これらの間を取り持つ役割が必要であり,そ の役割を検番(見番,券番)が担っている。さらに,芸妓の売上(玉代)の一括管理や花 街の事務局的業務もおこなっている。また,各組合の事務所も検番に置かれることが多い。 なお,芸妓置屋と芸妓は,いずれかの検番に所属することになる。 一般に芸妓を呼んで宴席(お座敷)を開く際は,会場となる料理屋か待合茶屋,あるい は検番に連絡を入れて手配することになる。 2.愛知県全域でみた花街関連統計 まず,料理屋,待合茶屋,芸妓置屋,芸妓について,愛知県全域の総計の推移を見てい きたい。『愛知県統計書』では,それぞれ総計が記載されているが,警察署管内ごとの数 値を合計した値と齟齬のある場合がある。その場合は,警察署管内ごとの数値を合計した 値を採用する(4) 。 2.1 料理屋数の推移(図 1) 愛知県内の料理屋数を把握できる最も古い『愛知県統計書』は,明治 17 年(1884)の もので 908 軒となっている(5) 。これ以降,料理屋数は漸増し,明治 24 年(1891)には 1,351 軒となっている。入手できている『愛知県統計書』は一旦途切れるが,次に把握できる明 治 40 年(1907)では 1,316 軒となっている。明治 45 年(1912)の 2,137 軒まで増加傾向が 続いた後,料理屋数は落ち着き,プラスマイナス 200 軒程度の増減はあったものの,大正 期は 2 千軒前後で推移している。大正 14 年(1925)から再び増加傾向が顕著となり,昭和 4 年(1929)には 3,076 軒と 3 千軒を上回った。その後,『愛知県統計書』の残る昭和 16 年 (1941)まで 3 千軒超を維持するが,ピークは日中戦争が開始された昭和 12 年(1937)の 3,456 軒であり,それ以降は漸減傾向となった。 料理屋数が連続して分かる明治 40 年代以降,昭和初期まで料理屋数はおよそ増加傾向 にあり,大正期は 2 千軒前後,昭和初期は 3 千軒超で推移していたことが分かる。
2.2 待合茶屋数の推移(図 1) 本研究が対象とする『愛知県統計書』では,明治 40 年(1907)∼昭和 9 年(1934)まで, 待合茶屋数の記載がある。昭和 10 年(1935)∼12 年(1937)については,待合茶屋の欄 はあるものの数値は非記載,昭和 13 年(1938)以降は待合茶屋の欄もない(6)。明治 40 年 (1907)では 23 軒となっており,明治 45 年(1912)の 18 軒まで 20 軒前後でほぼ横ばいで 推移している。大正期に入ると急増し,大正 6 年(1917)には 153 軒になっている。それ 以降は,ほぼ横ばいから減少傾向へと移り,統計が残る最終年である昭和 9 年(1934)に は 58 軒となっている。なお,大正 11 年(1922)のみ 173 軒と突出しているが,その理由 は不明である(7)。 待合茶屋数は,ピークとなる大正後期であっても 150 軒程度であり,昭和初期に 3 千軒 を超えていた料理屋に比べると,その 20 分の 1 程度と非常に少ない。しかも,大正末期か ら減少傾向に入り昭和初期には急減している。愛知県内では待合茶屋がそれほど発達しな かったということであろう。 2.3 芸妓置屋数の推移(図 2) 本研究が対象とする『愛知県統計書』では,大正 6 年(1917)∼昭和 16 年(1941)まで, 芸妓置屋数の記載がある。最も古い統計である大正 6 年(1917)で 848 軒あり,その後の 大正期は大正 9∼10 年(1920∼21)を除き増加傾向にある。しかし,昭和期に入ると芸妓 置屋数はほぼ横ばいとなり,ピークである昭和 15 年(1940)の 1,698 軒まで 1,600 軒超で 推移している。 2.4 芸妓数の推移(図 2) 本研究が対象とする『愛知県統計書』では,明治 19 年(1886)∼明治 23 年(1890)と 大正 5 年(1916)∼昭和 16 年(1941)に,芸妓数の記載がある。最も古い統計である明治 19 年(1886)では 293 人だが,翌年には 431 人と急増し,少なくとも明治 23 年(1890)ま 図 1 愛知県内の料理屋数及び待合茶屋数の推移
では 4 百人台を維持していた。明治後期から大正初期にかけての統計はないが,大正 5 年 (1916)には 2,755 人となっていることから,この間に芸妓数が数倍増加したことが分かる。 以降,昭和初期にかけて増加傾向が続き,大正 12 年(1923)年には 5 千人を突破(5,113 人), そして昭和 5 年(1930)には 7,126 人でピークを迎えている。その後は 6 千人台で推移して いたが,昭和 13 年(1938)の 6,814 人から減少傾向となり,昭和 16 年(1941)には 5,520 人となっている。 大正期から昭和初期にかけての芸妓数の推移は,芸妓置屋数の推移とほぼ一致している。 芸妓は芸妓置屋に所属している(住み込んでいる)のであるから,当然であろう。芸妓数 を芸妓置屋数で除して,芸妓置屋 1 軒当たりの芸妓数を算出すると,どの年も 4 人程度で ある(8)。 3.昭和初期における警察署管内ごとの花街関連統計比較 ここでは花街が最も賑わっていたと考えられる昭和初期,特に愛知県の芸妓数がピーク であった昭和 5 年(1930)を対象として,各警察署の管内における花街関連 4 業種の営業 者数を比較する(表 1)。 3.1 名古屋市内の花街関連統計比較 まずは,名古屋市を管内に含む 8 つの警察署の統計をみてみたい。8 つの警察署のうち, 鍋屋,江川,熱田の各警察署では名古屋市に近隣接する周辺町村も管内となっているため, これら名古屋市外の町村の営業者も含まれる可能性があることに留意しなければならない が,当時既に現住人口が 100 万人超の大都市であった名古屋市が大半を占めているとみて 図 2 愛知県内の芸妓置屋数及び芸妓数の推移
よいだろう(9)。8 つの警察署管内の合計では,料理屋 1,047 軒,待合茶屋 100 軒,芸妓置屋 659 軒,芸妓 2,979 人が確認でき,愛知県内の料理屋の 34%,待合茶屋の 97%,芸妓置屋 の 39%,芸妓の 42%を名古屋市内(及び近隣接町村)の営業者で占めていたことになる。 特に,待合茶屋については,殆ど名古屋市内で見られた業種である。その他の 3 業種につ いては,愛知県内の 3∼4 割が名古屋市内ということになる。 警察署管内ごとにみてみると,港湾区域の治安維持を任務とする名古屋水上署の管内に 営業者がいないことは当然として,他の 7 つの警察署管内ではいずれも料理屋,芸妓置屋, 芸妓の営業者が確認でき,名古屋市内の各所に花街があったことが,この統計からも推察 できる(10)。料理屋に関しては,新栄,門前,熱田の 3 警察署管内で 200 軒を超えており, 鍋屋署管内も 180 軒と比較的多い。待合茶屋に関しては新栄署管内に集中しており,他の 警察署管内では殆ど見られない。芸妓置屋に関しては新栄署管内が 300 軒で名古屋市内の 45%を占め,門前署管内も 139 軒と比較的多い。芸妓に関しては,芸妓置屋と同様の傾向 であり,新栄署管内が 1,227 人,門前署管内が 620 人となっている。また,鍋屋,江川の 各警察署管内も 300 人を超え,熱田署管内も 300 人近くの芸妓がいたことが分かる。 3.2 名古屋市を除く警察署管内ごとの花街関連統計比較 名古屋市以外を管内に含む警察署は 24 あり,これらの警察署管内の合計では,料理屋 2,029 軒,待合茶屋 3 軒,芸妓置屋 1,029 軒,芸妓 4,147 人が確認でき,愛知県内の料理屋 の 66%,待合茶屋の 3%,芸妓置屋の 61%,芸妓の 58%を名古屋市以外の営業者で占めて いたことになる。待合茶屋については殆ど名古屋市内の営業者であるが,料理屋,芸妓置 屋,芸妓については,愛知県内の 6∼7 割を占めており,しかもいずれの警察署管内でも 営業者が確認できることから,名古屋のような大都市だけでなく,中小都市やちょっとし た街場にまで花街があり,花街関連業種が成立していたと推測される。 次に,警察署管内ごとにみていきたい。料理屋に関しては,一宮,半田,安城,大浜, 西尾,岡崎,御油,豊橋の 8 警察署管内で 100 軒を超えている。待合茶屋に関しては,一 表 1 昭和 5 年(1930)の警察署管内別の花街関連 4 業種の営業者数 名 古 屋 市 警察署 料理屋 待合茶屋 芸妓置屋 芸妓 管轄区域 名古屋水上 名古屋市の新堀川,堀川及県下沿海一帯 新栄 230 95 300 1227 名古屋市の内東区の一部,西区の一部,中区 の一部 鍋屋 180 57 387 名古屋市の内東区の大部,愛知郡の内猪高村, 西春日井郡の内萩野村 江川 63 1 74 370 名古屋市の内西区の大部,西春日井郡の内庄 内町 笹島 51 26 59 名古屋市の内西区の一部,中区の一部,南区 の一部 門前 290 4 139 620 名古屋市の内中区の大部,南区の一部 熱田 212 52 293 名古屋市の内中区の一部,南区の大部,愛知 郡の内下之一色町,日進村,天白村,鳴海町, 豊明村,東郷村 築地 21 11 23 名古屋市の内南区の一部 小計 1047 100 659 2979
上 記 以 外 勝川 86 32 133 東春日井郡の内勝川町,守山町,小牧町,鳥 居松村,篠木村,坂下町,高蔵寺町,味岡村, 篠岡村,鷹来村 瀬戸 76 34 146 瀬戸市一円,東春日井郡の内品野町,旭村,志 段味村,水野村,愛知郡の内幡山村,長久手村 西枇杷島 18 2 7 西春日井郡の内西枇杷島町,川中村,山田村, 楠村,豊山村,北里村,師勝村,西春村,春 日村,清州町,新川町 布袋 45 38 145 丹羽郡の内布袋町,岩倉町,古知野町,千秋村, 西成村,丹陽村,大口村 犬山 57 31 134 丹羽郡の内犬山町,扶桑村,池野村,羽黒村, 楽田村,城東村 葉栗 25 12 32 葉栗郡一円 一宮 137 3 71 453 一宮市一円,中島郡の内奥町,起町,萩原町,祖父 江町,大和村,今伊勢村,朝日村,平和村,長岡村 稲沢 16 7 21 中島郡の内稲沢町,明治村,千代田村,大里村 津島 76 30 148 海部郡の内津島町,神守村,七宝村,美和村, 甚目寺村,大治村,富田村,南陽村,蟹江町, 永和村,佐屋村,立田村,八開村,佐織村 弥富 10 3 12 海部郡の内弥富町,市江村,十四山村,鍋田村,飛鳥村 半田 139 49 162 知多郡の内半田町,阿久比村,亀崎町,東浦村,小 鈴谷村,野間村,内海町,豊浜町,師崎町,篠島村, 日間賀島村,河和町,富貴村,武豊町,成石町 横須賀 89 29 87 知多郡の内大府町,有松町,大高町,上野村, 横須賀町,八幡町,岡田町,旭村,三和村, 大野町,常滑町,西浦町,鬼崎村 安城 150 79 300 碧海郡の内安城町,依佐美村,六ツ美村,上 郷村,高岡村,富士松村,桜井村,知立町, 刈谷町,矢作町 大浜 147 55 134 碧海郡の内大浜町,高浜町,新川町,棚尾町, 明治村,旭村 西尾 148 94 349 幡豆郡一円 岡崎 202 114 442 岡崎市及額田郡一円 挙母 21 15 58 西加茂郡一円 足助 34 11 42 東加茂郡一円 田口 36 24 53 北設楽郡一円 新城 79 33 109 南設楽郡一円 御油 166 117 396 宝飯郡の内御油町,豊川町,牛久保町,三谷町, 蒲郡町,赤坂町,国府町,小坂井町,形原町, 御津町,長沢村,塩津村,西浦村,萩村,八 幡村,一宮村,大塚村,前芝村 豊橋 164 118 641 豊橋市一円,渥美郡の内二川町,高豊村,老 津村,高師村,牟呂吉田村,宝飯郡の内下地町, 八名郡の内下川村 田原 83 23 131 渥美郡の内田原町,福江町,野田村,泉村, 神戸村,杉山村,赤羽根村,伊良湖岬村 富岡 25 8 12 八名郡の内大野町,七郷村,山吉田村,舟着村,八 名村,金沢村,賀茂村,大和村,三上村,石巻村 小計 2029 3 1029 4147 総計 3076 103 1688 7126
宮署管内の 3 軒に限られた。芸妓置屋に関しては,岡崎,御油,豊橋の 3 警察署管内で 100 軒を超え,一宮(71 軒),安城(79 軒),西尾(94 軒)の 3 警察署管内も比較的多い。 芸妓に関しては,豊橋署管内が 641 人,一宮署管内が 453 人,岡崎署管内が 442 人で多いが, 安城,西尾,御油の各警察署管内も 300 人以上となっている。他に,瀬戸,犬山,津島, 半田なども含め,100 人以上の芸妓がいた警察署管内は 15 にものぼる。 なお,料理屋数,芸妓置屋数が 100 軒超でかつ芸妓数が 300 人超であったのは,岡崎, 御油,豊橋の 3 警察署管内である。このうち,岡崎署と豊橋署は,城下町を起源とし,当 時既に市制を施行していた岡崎市,豊橋市を管内に有しており,都市部に比較的大きな花 街があったことが推測される(11)。他方,御油署管内には,そのような都市部はなく,東 海道の宿場町であった御油町と赤坂町,豊川稲荷の門前町である豊川町,温泉地である三 谷町など,一定規模の複数の花街が管内の街場に点在していたと推測される。 4.警察署管内ごとにみた花街関連統計の推移 4.1 対象とする警察署管内と花街関連統計 花街の神髄は,芸妓を呼んだ宴席(お座敷)である。それ故に各花街の盛衰は,芸妓数 によって語られることが多い。そこで,花街関連統計の中でも芸妓数に着目して,その推 移を追ってみたい。また,併せて芸妓が所属する芸妓置屋数の推移も追っていく。前述し たように芸妓に関しては大正 5 年(1916)より,芸妓置屋に関しては大正 6 年(1917)より, 昭和 16 年(1941)まで,毎年末時点での各警察署管内の営業者数を把握できる。 本研究が対象とするのは,まずは,名古屋市内に所在する警察署管内である。複数の警 察署があるが,それらの統計の数値を集計して名古屋市内の警察署管内とする。この他に, 芸妓数の多い,一宮,安城,西尾,岡崎,御油,豊橋の 6 警察署管内を対象とする(12)。 4.2 芸妓置屋数及び芸妓数の推移 (1)名古屋市内の警察署管内(図 3) 愛知県内の 4 割程度を占めるということもあって,名古屋市内の警察署管内を合計した 芸妓置屋数と芸妓数の推移は,愛知県全域とほぼ同様である。芸妓置屋数に関しては,最 も古い統計である大正 6 年(1917)の 382 軒から大正末期までに約 1.5 倍に増加して 600 軒 を超え,昭和期に入るとほぼ横ばいとなり 600 軒程度で推移している。ピークは昭和 5 年 (1930)の 659 軒でその後やや減少するが,再び増加傾向に転じ,昭和 14 年(1939)には 639 軒となっている。芸妓数に関しては,大正 5 年(1916)の 1,225 人から大正末期までに 倍増して,ピークとなる昭和 5 年(1930)には 2,979 人と 3 千人に迫った。その後は緩やか な減少傾向となり,昭和 16 年(1941)には 2,152 人となっている。 (2)一宮署管内(図 4) 一宮署管内では,芸妓置屋数は外れ値を除き,ほぼ横ばい 70∼80 軒で推移している。 芸妓数に関しては大正 5 年(1916)の 234 人から大正 11 年(1922)の 377 人へと急増し, 一旦横ばいとなるも昭和 4 年(1929)には 400 人を超え,その後もほぼこの水準を維持した。 ピークは,昭和 8 年(1933)の 477 人と昭和 14 年(1939)の 476 人である。
図 3 名古屋市内の警察署管内(合計)の芸妓置屋数及び芸妓数の推移
図 4 一宮署管内の芸妓置屋数及び芸妓数の推移
(注) 外れ値(前後の年と営業者数に大きな差のある統計)の要因は不明である。『愛知県統計書』 の誤記の可能性もある。図 5,図 7 も同様。
(3)安城署管内(図 5) 安城署管内では,芸妓置屋数は外れ値を除き,ほぼ増加傾向が見られる。ピークは昭和 13 年(1938)・14 年(1939)の 93 軒であり,大正 5 年(1916)の 20 軒の 5 倍近い。芸妓数 に関しては大正 5 年(1916)の 58 人から 2 年で倍増し,大正 12 年(1923)までは 100 人前 後で推移していたが,大正末期に急増して昭和 3 年(1928)には 300 人に達している。そ の後はほぼ横ばいで推移するが,昭和 8 年(1933)に 338 人のピークに達した後に増減を 繰り返して昭和 16 年(1941)には 213 人まで減少している。 (4)西尾署管内(図 6) 西尾署管内では,芸妓置屋数も芸妓数も大正末期にかけて急増している。芸妓置屋数に 関しては昭和元年(1926)に 130 軒でピークを迎えた後に減少し,昭和 4 年(1929)以降 は 100 軒を少し下回る水準で推移している。芸妓数に関しては大正 5 年(1916)の 106 人 から昭和 2 年(1927)には 371 人と 3 倍超に達し,その後はほぼ横ばいで推移している。 その後,昭和 14 年(1939)に 413 人のピークを迎えた後は急減している。 (5)岡崎署管内(図 7) 岡崎署管内では,芸妓置屋数は,大正 6 年(1917)の 56 軒から 2 年で倍近くまで急増し た後にほぼ横ばいとなり,大正末期から漸増傾向となっている。ピークは昭和 10 年(1935) の 139 軒であり,それ以降はやや減少して 120 軒程度で推移している。芸妓数に関しては 大正 5 年(1916)の 141 人から翌年には倍以上の 301 人となり,外れ値を除けばピークと なる昭和 12 年(1937)の 499 人まで漸増傾向が見られる。なお,統計からは,芸妓数の急 図 5 安城署管内の芸妓置屋数及び芸妓数の推移
図 6 西尾署管内の芸妓置屋数及び芸妓数の推移
減・急回復が 4 回確認できるが,要因は不明である。 (6)御油署管内(図 8) 御油署管内では,芸妓置屋数は昭和 10 年(1935)の 148 軒まで,芸妓数は昭和 13 年(1938) の 673 人まで,多少の増減はあるがほぼ一定のペースで増加傾向が続き,ピーク後は緩や かな減少傾向となっている。芸妓置屋数に関しては大正 6 年(1917)の 44 軒からピークに 至るまでの 18 年間で約 3 倍に,芸妓数に関しては大正 5 年(1916)の 123 人からピークに 至るまでの 22 年間で約 5 倍になっている。なお,名古屋市内の警察署管内を除くと,昭和 8 年(1933)以降,御油署管内が最も芸妓数の多い管内となっている。御油署管内では, 昭和 14 年(1939)に豊川海軍工廠が開庁し,工員ら多くの流入人口があったはずだが, 統計からその影響は見て取れない。 (7)豊橋署管内(図 9) 豊橋署管内では,芸妓置屋数は大正末期まで 60∼100 軒程度で増減していたが,昭和 3 年(1928)に 128 軒でピークを迎え,その後は減少して 100 軒前後で推移している。芸妓 数に関しては,大正 5 年(1916)の 310 人から昭和 2 年(1927)の 626 人へと倍増し,昭和 4 年(1929)に 641 人でピークを迎えた後は漸減傾向となった。なお,名古屋市内の警察 署管内を除くと,昭和 8 年(1933)に御油署管内に抜かれるまで,最も芸妓数の多い管内 となっている。豊橋署管内では,大正 14 年(1925)に陸軍第 15 師団が廃止となり,多く の軍人が流出したが,芸妓置屋数,芸妓数ともに,昭和に入って間もなく漸減傾向となっ ているのは,その影響もあると考えられる。 図 8 御油署管内の芸妓置屋数及び芸妓数の推移 (注) 大正 10 年(1921)の芸妓置屋数は欠損(『愛知県統計書』に記載なし)。
5.まとめ 一般に,戦前における花街の最盛期は,松川二郎の『全国花街めぐり』4)が出版された 昭和 4 年(1929)前後とされるが,『愛知県統計書』の芸妓数のピークから,愛知県にお いてもそれが跡付けられることが明らかになった。特に大正後期から芸妓数が急増してお り,この十数年の期間に花街が相当拡大したと考えられる。また,昭和 10 年代になっても, 芸妓置屋数や芸妓数が高止まりし,料理屋数は寧ろ増加している点から,少なくとも太平 洋戦争開戦となる昭和 16 年(1941)頃まで,愛知県では花街の隆盛が継続していたと考 えられる。なお,待合茶屋はほぼ名古屋市に限られ,愛知県内では一般的な業種ではなかっ たこと,しかも大正期の一時期に拡大し昭和期には縮小した業種であり,料理屋に比べれ ば非常に少ないマイナーな業種であったことが明らかになった。 警察署管内ごとの統計からは,名古屋市のほか,一宮,岡崎,豊橋といった都市部を含 む管内だけでなく,安城,西尾,御油の各管内では芸妓数が多く,小規模な都市や街場で も花街が発達していたことが窺える。当時,日本のデンマークとして全国から農業視察を 受け入れていた安城では,接待の場としての花街が発達したとも聞く。また,西尾や御油 の管内には温泉地も多く,いわゆる温泉芸者が多数営業していたことも推測される。芸妓 置屋数や芸妓数の大正期以降の推移は,例えば,一宮署管内ではほぼ横ばい,御油署管内 では昭和 10 年代まで増加傾向が続くといったように,警察署管内によって異なり,愛知 県内の花街の隆盛は一律でなく,都市や地域によって差があることが明らかになった。 謝辞 本稿は,科学研究費補助金(課題番号 16H04471)の助成を受けたものである。ここに記して 謝意を表したい。 図 9 豊橋署管内の芸妓置屋数及び芸妓数の推移
補注 ( 1 )大正 11 年(1922)∼昭和 12 年(1937)については,料理屋の欄が,和料理と西洋料理に分 けて記載されている。また,昭和 13 年(1938)∼15 年(1940)については,料理屋の欄が, 営業所と給仕婦に分けて記載されており,営業所が店としての料理屋を,給仕婦が料理屋で働 く給仕婦を表していると考えられることから,料理屋数として営業所数を採用する。そして昭 和 13 年(1938)の統計書には昭和 4 年(1929)∼12 年(1937)までの料理屋の営業所数も掲 載されているが,これが各年の統計書の料理屋欄の和料理の料理屋数と一致することから,和 料理と西洋料理に分けて記載されている場合は,和料理の数値を料理屋数として採用する。 ( 2 )主に関東で芸者,関西で芸子と呼ぶことがあるが,近代花街においては芸妓が一般的な呼 称とされる。 ( 3 )半玉という呼称は,かつて舞妓を呼ぶ際の費用(玉代)が一人前の芸妓の半分ですんだこ とに由来する。 ( 4 )料理屋数については,明治 45 年(1912),大正 5 年(1916),大正 8 年(1919),昭和 10 年(1935), 昭和 15 年(1940),芸妓置屋数については,昭和 7 年(1932),昭和 15 年(1940),芸妓数につ いては,大正 8 年(1919),昭和 8 年(1933),昭和 15 年(1940)において,警察署の管内ごと の数値を合計した値を採用している。 ( 5 )明治 17 年(1884)と 18 年(1885)については,料理屋と芸妓のみ統計があり,愛知県全域 の総計と,主要都市として,名古屋,熱田,岡崎,豊橋,西尾の各市街と,尾張国(名古屋熱 田市街を除く),三河国(岡崎豊橋西尾市街を除く)の数値が掲載されている。明治 17 年(1884) の料理屋数については,岡崎市街の欄に「?」が記載されており,主要都市ごとの数値を合計 した値を算出することができないため,総計と齟齬があるかどうか検証できていないが,総計 の数値を採用している。 ( 6 )例えば,昭和 12 年(1937)発行の『歓楽の名古屋』(稲川勝二郎,趣味春秋社)には,名 古屋市内の待合茶屋が 45 軒掲載されていることから,昭和 10 年(1935)以降の統計はないも のの,愛知県内に待合茶屋は存在していたと考えられる。 ( 7 )警察署の管内ごとの待合茶屋数をみると,鍋屋町が大正 11 年(1922)に 28 軒となっている。 他の年の鍋屋町の待合茶屋数は,大正 12・13 年が 1 軒,それ以外は 0 軒であるので,大正 11 年 (1922)だけ 28 軒もの待合茶屋があるのは不自然である。 ( 8 )芸妓置屋数と芸妓数の双方が把握できる大正 6 年(1917)∼昭和 16 年(1941)で,昭和 16 年(1941)の 3.46 人が最少,大正 10 年(1921)の 4.24 人が最多であった。 ( 9 )『昭和 5 年愛知県統計書第一編』によれば,昭和 5 年(1930)12 月 31 日現在で名古屋市の現 住人口は 1,042,319 人となっている。 (10)当時の名古屋市内には,芸妓の組合である「連」が 16 も設立されており,その連の事務所 の周辺に花街が形成されていたとされる。詳しくは拙稿 3)を参照。 (11)岡崎市街では松本町(松應寺界隈),豊橋市街では上伝馬町・札木町が花街として知られて いる。 (12)このうち,一宮署管内には,一宮市の他に美濃路の宿場町であった起町などの街場も含ま れる。安城署管内には,安城町の他に城下町であった刈谷町や,東海道の宿場町であった知立 町などの街場も含まれる。西尾署管内には城下町であった西尾町の他,在郷町であった一色町 などの街場も含まれる。なお,昭和初期に市制を施行していた都市として,他に瀬戸署管内の 瀬戸市と半田署管内の半田市があるが,芸妓数はそれほど多くないため,本研究では対象とし ていない。
参考引用文献 1 ) 松田有紀子他(2020)『花街と芸妓・舞妓の世界』誠文堂新光社 2 ) 加藤政洋(2005)『花街 異空間の都市史』朝日新聞社 3 ) 今村洋一(2020)「近代名古屋における花街空間の実態」2020 年度日本建築学会学術講演梗 概集(都市計画), pp. 11―12 4 ) 松川二郎(1929)『全国花街めぐり』誠文堂