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教材「ろくをさばく」をめぐって

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Academic year: 2021

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(1)Title. 教材「ろくをさばく」をめぐって. Author(s). 佐野, 比呂己. Citation. 国語論集, 7: 6-35. Issue Date. 2010-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2396. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 教 材 ﹁ろ く を さ ば く ﹂を め ぐ って. はじ め に. 昭 和 四 十 八 年 (一九 七 三 )十 月 ). ﹁ 教材 ﹁ ろ く を さ ば く ﹂考 ( 1)﹂執 筆 後 、小 林 俊 三 の﹃私 の会 った 明 治 の名 法 曹 物 語 ﹄(日 本 評 論 社. を 入 手 した 。小 林 は、戦 前 は 第 二 東 京 弁 護 士 会 会 長 を 務 め るな ど. 北 海道 教育 大学 釧 路校. 国語教 育講 座. 佐 野 比呂己. ﹁ ろ く を さ ば く ﹂考 ( 1)﹂の内 容 を 補 完 でき る 記 述 も 少 な く は な い。. 本 稿 は 小 林 の研 究 を 生 かし ﹁ 教材 ﹁ ろく を さ ば く ﹂考 ( 1)﹂を 全 面 的 に書 き 直 そ う と す るも のであ る 。. して 三 淵 忠 彦 が 取 り 上 げ ら れ て お り 、忠 彦 に ついての記 述 は 、実 に. 与 え た 二 十 五 人 の法 曹 が 取 り 上 げ ら れ ている。裁 判 法 曹 の 一人 と. し、発 展 途 上 であ った 日 本 の司 法 制 度 に各 方 面 か ら 大 き な 影 響 を. る。﹃私 の会 った 明 治 の名 法 曹 物 語 ﹄には 、法 曹 界 に お いて 巨 歩 を 印. 所 判 事 を 歴 任 し 裁 判 法 曹 と して 法 曹 界 に お いて活 躍 し た 人 物 であ. ている 。本 稿 では 、随 筆 ﹁ ろ く を さ ば く ﹂に ついて、教 材 と し て分 析 ・. た っては、監 修 者 で あ る 柳 田 国 男 の考 え が かな り の部 分 で反 映 さ れ. 所 収 さ れ ている 教 材 であ る。こ の教 科 書 の単 元 設 定 、教 材 選 定 に あ. 五 )版. 学 校 第 一学 年 前 期 用 )﹄( 柳 田国 男 監 修. 三 淵 忠 彦 の﹁ ろ く を さ ば く ﹂は 、﹃国 語. 昭 和 三 十 年 度 (一九 五. 高 等 学 校 一年 上 ( 高等. 一 教 材 ﹁ろ く を さ ば く ﹂. 全 四 百 五 十 一頁 中 五 十 八 頁 に わ た ってお り 、最 も 多 く の頁 を 割 い. 考 察 す ると と も に 、柳 田 の教 材 選 定 意 図 も あ わ せ て論 じ た いと 考. 弁 護 士 法 曹 と して、戦 後 に な って 東 京 高 等 裁 判 所 長 官 、最 高 裁 判. ている 。小 林 に と つて忠 彦 が ど れ だ け か か わ り の深 い人 物 だ った かと. える。. 東 京 書 籍 )︹以 下 、﹁ 柳 田 監 修 国 語 科 教 科 書 ﹂と 略 す 。︺に. いう こ と を う か が い知 れ よ う 。当 然 のこと な が ら 、そ こに は ﹁ 教材. ω個 く.

(3) ﹁ ろく を さ ば く ﹂は、柳 田 監 修 国 語 科 教 科 書 のコ. 随 筆 ・随 想 ﹂. に置 かれ た 教 材 であ る。この単 元 の教 材 配 列 は 次 の通 りであ る。. 柳 田 監 修 国 語 科 教 科 書 の教 師 用 指 導 書 には 、﹁筆 者 ・原 典 ﹂の項. 大 蛇 ・小 蛇 ( 片 山広 子). 年( 明 治 = 二) 福 島 県 に生 ま れ た。 一九 〇 五 年 ( 明 治 三八 ). 三淵 忠 彦 ︹ ミブチ. 目 お いて 次 のよう な 記 述 が 見 ら れ る 。. 二 地 図 を いうど る ( 鏑 木 清方 ). 京 都 大 学 法 学 部 を 卒 業 し 、後 、大 審 院 判 事 、最 高 裁 判 所. 浅春 随筆 ( 栃 内 吉彦 ). 三 かみ な り さ ま 談 義 ( 東 条操 ). 長 官 を 歴 任 した 。著 書 に ﹁ 信 託 法 通 釈 ﹂﹁ 民 法 概 説 ﹂﹁ 日常. 一. 四 ろくを さばく ( 三淵 忠彦 ). タダ ヒコ︺司 法 官 。法 学 者 。 一八 八 〇. 五. こ の記 述 だ け で は忠 彦 は 法 曹 界 のエリ ー ト コー スを 歩 ん でき た 人. 生 活 と 民 法 ﹂﹁ 世 間 と 人 間 ﹂な ど が あ る。. 編 に ついて は 、教 科 書 改 訂 後 も 引 き 続 き 、所 収 さ れ て いる 。こ のこと. 間 と 思 わ れ か ね な い。し かし 、実 際 は 最 高 裁 判 所 長 官 にな るま で か. こ の 五 編 のう ち 、 ﹁浅 春 随 筆 ﹂﹁大 蛇 ・小 蛇 ﹂﹁ろ く を さ ば く ﹂の 三. か ら も 、 ﹁浅 春 随 筆 ﹂﹁大 蛇 ・小 蛇 ﹂と 同 様 に 、柳 田 の ﹁ろ く を さ ば. な り の紆 余 曲 折 が 見 ら れ る 。ま た 、教 師 用 指 導 書 に お いて ﹁ 法学. 2. 三 淵 忠 彦 について の資 料. の生 涯 、人 と な り を 確 認 す ること は、必 要 不 可 欠 な こと であ る 。. る こと は 否 め な いと ころ であ る。﹁ ろ く を さ ば く ﹂を 読 む 上 で、忠 彦. これ ら のこと から も 、筆 者 の情 報 と しては 、は な は だ 不 十 分 で あ. に 不 確 かであ る と 言 わざ る を 得 ない。. 慶 応 義 塾 大 学 に 出 講 し ていたこと だ け を 根 拠 と し ている な ら ば 、誠. 者 ﹂と す る に は微 妙 な 点 が あ る 。忠 彦 を ﹁ 法 学 者 ﹂と した 点 に ついて、. 実 務 家 と し ては 、な かな か有 能 な 人 で あ った ﹂と 述 べる よ う に ﹁法 学. 者 ﹂と し ている が 、長 男 ・ 乾 太 郎 が ﹁父 は 、法 律 学 者 では な か ったが 、. く ﹂に 対 す る 思 い入 れ の強 さ を う か が い知 る こ と が で き よ う 。. 一一 筆 者 ・三 淵 忠 彦. 1 教 科 書 、及 び 指 導 書 ﹁ ろく を さ ば く ﹂の筆 者 ・三 淵 忠 彦 に ついて、柳 田 監 修 国 語 科 教 科 書 に は次 のよ う に 記 さ れ ている。 み ぶち ただ ひ こ. ◇ 三 淵 忠 彦 11 ︹一八 八 〇 1 一九 五 〇 ︺福 島 県 の生 ま れ 。大 審 院 判 事 、最 高 裁 判 所 長 官 を 歴 任 した 。著 書 に ﹁民 法 概 説 ﹂﹁日 常 生 活 と 民 法 ﹂な ど が あ る 。. のω く.

(4) ﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄(上 田 正 昭 ・ 西 澤 潤 一・平 山 郁 夫 ・三 浦 朱 門. ま ず は、事 典 類 にあ る忠 彦 に関 す る 項 目 を 掲 げ てお く 。. 年 (一九 四 〇 ) ま で在 職 した 。そ の後 悠 々自 適 の生 活 を 送 ってい. 裁 判 官 を 辞 し、三 井 信 託 銀 行 法 律 顧 問 に迎 え ら れ 、昭 和 十 五. た が 、昭 和 二 十 二 年 八 月 四 日 、片 山 内 閣 によ り 発 足 直 後 の最. 平 成 十 三 年 (二 〇 〇 一)十 一月 )には、コニ淵 忠 彦 ﹂. 監修. 高 裁 判 所 の初 代 長 官 に起 用 さ れ た 。新 しい憲 法 の下 で 裁 判 所. 講談 社. の項 目 に 次 のよ う な 記 述 が あ る 。. は 国 民 の権 利 を 擁 護 す る ﹁ 国 民 の裁 判 所 ﹂でな け れ ば な ら な い. と 説 き 、裁 判 所 の民 主 的 運 営 の基 礎 固 め に 尽 力 し た 。ま た 最. む. 高 裁 誤 判 事 件 (昭 和 二 十 四 年 )に ついて 最 高 裁 裁 判 官 の誤 判. む. 88 1 95. 明 治 - 昭 和 時 代 の裁 判 官 。. 明 治 13年 3月 3 日 生 ま れ 。大 審 院 判 事 、東 京 控 訴 院 部 長 と. 責 任 を 厳 し く 問 う 立 場 を と り 、裁 判 官 のあ り 方 を 示 した 。昭.     . し て民 事 を 担 当 し た 。大 正 14年 に 退 官 し 、三 井 信 託 法 律 顧 問. 和 二 十 五 年 三 月 定 年 退 官 。同 年 七 月 十 四 日 病 没 し た 。七 十.  ユ. のかた わ ら 慶 大 な ど で 講 義 。昭 和 22年 最 高 裁 初 代 長 官 にえ ら. 歳。. 著 書 と して﹃信 託 法 通 釈 ﹄﹃世 間 と 人 間 ﹄な ど が あ る。. ば れ 、新 憲 法 下 での司 法 制 度 の確 立 に つく した 。昭 和 25年 7月 14 日 死 去 。70 歳 。福 島 県 出 身 。京 都 帝 大 卒 。著 作 に ﹁ 信 託法 通 釈 ﹂な ど 。. れ ﹂、﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄で は ﹁ 福 島 県 出 身 ﹂であ ると しているが 、小. 忠 彦 の出 生 地 に ついて、教 科 書 、教 師 用 指 導 書 では ﹁ 福 島 県生 ま ま た 、﹃日 本 近 現 代 人 名 辞 典 ﹄(臼 井 勝 美 ・高 村 直 助 ・ 鳥海靖 ・ 由 平 成 十 三 年 (二 〇 〇 一)七 月 )で. 田 中 は 岡 山 に お いて 出 生 で あ る と して いる 。大 正 十 一年 (一九 二. 吉 川 弘 文館. う に岡 山 出 生 が 正 しい。. ① 三 宅 正 太 郎 ﹃裁 判 の書 ﹄牧 野 書 店 四 二 )十 一月. (一九 五 〇 )三 月. ② 三 淵 忠 彦 ﹃世 間 と 人 間 ﹄朝 日 新 聞 社. 昭 和 二十 五年. 昭 和 十 七 年 (一九. た 私 と 云 ふ 男 ﹂には ﹁私 は 明 治 十 三 年 に岡 山 で 生 ま れ た 。﹂と あ るよ. 二 )十 一月 七 日付 で忠 彦 が 後 妻 ・ 静 の兄 ・ 白 鳥 尭 助 に送 った ﹁ 私 の見. 小田. 井 正 臣編. 明 治 から 昭 和 時 代 に か け て の司 法. 中 聰 樹 は ﹁三 淵 忠 彦 ﹂の項 目 で次 のよう に説 明 を 加 え ている 。. 一八 八 〇 1 一九 五 〇. 官 。最 高 裁 判 所 初 代 長 官 。明 治 十 三 年 (一八 八 〇 )三 月 三 日 岡 山 に お いて三 淵 隆 衡 の長 男 と し て出 生 。同 三 十 八 年 京 都 帝 国 大 学 法 科 大 学 卒 業 。同 四 十 年 東 京 地 方 裁 判 所 に 任 ぜ ら れ 、 そ の後 同 部 長 、大 審 院 判 事 、東 京 控 訴 院 部 長 な ど を 歴 任 し、 民 事 裁 判 官 と して名 声 を 馳 せ た。大 正 十 四 年 (一九 二 五 ) 六月. の㈹ く.

(5) 昭 和 二 十 五 年 (一九 五 〇 )五 月. 二九. ③ 小 泉 信 三 ﹁三 淵 さ ん の随 筆 ﹁ 世 間 と 人 間 ﹂﹂﹃朝 日 評 論 ﹄ 第 五巻第 五号 - 三 一頁. 昭 和 二 十 七 年 (一九 五 二 )六. ④ 茶 谷 半 次 郎 ﹁三 淵 さ ん の憶 ひ 出 ﹂﹃心 ﹄第 五 巻 第 六 号 平 凡社. 五 七- 六 二 頁. 心編 集委 員 会 月 昭和. 昭和. 昭 和 三十 六年. ⑤ 石 渡 荘 太 郎 伝 記 編 纂 会 編 ﹃石 渡 荘 太 郎 ﹄非 売 品 二十 九 年 (一九 五 四 )十 一月. 六八- 七 〇 頁. ⑥ 三 淵 乾 太 郎 ﹁父 と 法 律 ﹂﹃法 曹 ﹄法 曹 会 (一九 六 一)七 月 十 四 日. 一- 三 頁. ⑦ 三 淵 忠 彦 ﹁私 の見 た 私 と 云 ふ 男 ﹂﹃法 曹 ﹄法 曹 会 三 十 六 年 (一九 六 一)七 月 二 十 日. ニー 三 頁. 判 例時 報社. 昭 和 三 十 八 年 (一九 六 三 )七 月. ⑧ 三 淵 乾 太 郎 ﹃﹃父 、三 淵 忠 彦 を 語 る﹄( 1)L﹃判 例 時 報 ﹄ 三 三九 二十 一日. ニー 三 頁. 判 例時 報社. 昭 和 三 十 八 年 (一九 六 三 )八 月. ⑨ 三 淵 乾太 郎 ﹁ ﹃父 、三 淵 忠 彦 を 語 る﹄( 2)﹂﹃判 例 時 報 ﹄ 三 四〇 一日. 判例 時 報 社. 昭 和 三 十 八 年 (一九 六 三 ). ⑩ 三 淵 乾太 郎 ﹁ ﹃父 、三 淵 忠 彦 を 語 る﹄( 3 ・完 )﹂﹃判 例 時 報 ﹄三 四 一. 三頁. 一月 一日. 二三三 八- 二四 四〇 頁. ⑫ 福 島 県 総 務 部 文 書 広 報 課 ﹃福 島 百 年 の先 覚 者 ﹄福 島 県. 昭 和 四 十 四 年 (一九 六 九 )三 月. 昭和五十. ⑬ 高 橋新 吉 ﹁ 三 淵 忠 彦 追 憶 ﹂﹃ヒュー マン・ タ イ ムス﹄昭 和 四. 十 六 年 三月 号 ( ﹃高 橋 新 吉 全 集 皿 ﹄青 土 社. 七 年 (一九 八 二 ) 四 = ニー 四 一七 頁 ). ⑭ 小 林 俊 三 ﹃私 の会 った 明 治 の名 法 曹 物 語 ﹄日 本 評 論 社. 昭 和 四 十 人 年 (一九 七 三 )十 月. ⑮ 三 淵乾 太郎 ﹁ 最 高 裁 判 所 三 十 年 に想 う / 父 ・三 淵 忠 彦. 一六 六. 総 合 特 集 シリ ー ズ ﹄日. 昭 和 五 十 二 年 (一九 七 七 )十 二 月. の思 い出 ﹂﹃法 学 セミ ナ ー 増 刊 本 評論社 - 一六 七 頁. 司 法 界 再 建 の旗 手 ﹂﹃法 学 セ ミナ ー 増 刊. 総合. ⑯ 山 本 祐 司 ﹁歴 代 長 官 プ ロフィー ル ( 記 者 の眼 )/ 三 淵 忠 彦. 平成 六年. 昭 和 五 十 二 年 (一九 七. 一八 〇1 一八 三 頁. 特 集 シ リ ー ズ ﹄日 本 評 論 社 七 )十 二 月. ⑰ 山 本 祐 司 ﹃最 高 裁 物 語 ﹄( 上 巻 )日本 評 論 社 (一九 九 四 )五 月. 秘 密 主 義 と 謀 略 の時 代 ﹄. 平 成 九 年 (一九 九 七 )四 月. ⑱ 山 本 祐 司 ﹃最 高 裁 物 語 上 講談 社. ① は、厳 格 公 正 な 司 法 の世 界 の裁 判 官 であ った 三 宅 正 太 郎 が 、訴. 人 月 十 一日. ⑪ 三 淵 乾太 郎 ﹁ 父 の味 覚 ﹂﹃判 例 タ イ ムズ﹄第 十 四 巻 第 十. 訟 の実 際 に ついて自 身 の体 験 を 織 り 込 ん で述 べた 書 であ る。三 宅 は 、. 判 例 タイ ムズ社. 昭 和 三 十 八 年 (一九 六 三 )十. 三号. ω㈲ く.

(6) 駆 け 出 し の判 事 で あ った時 、東 京 地 方 裁 判 所 に お いて忠 彦 の教 え を. 思 わ れ る。. も のであ る 。福 島 県 に ゆ かり のあ る 先 覚 者 三 十 人 を 選 び 、そ の業 績. ⑫ は 、年 号 を 明 治 に 改 元 して 百 年 を 記 念 し て福 島 県 が 出 版 した. ② は 、本 稿 で論 じ る ﹁ ろ く を さ ば く ﹂の原 典 で あ り 、項 を 改 め て詳. を 紹 介 し ている。戊 辰 戦 争 に 敗 戦 し、この百 年 間 は 福 島 県 にと って、. 受 け ている 。. 述 す る も のであ る。忠 彦 は ② を 出 版 した そ の年 の七 月 に 亡 く な って. 克 服 の歴 史 を 保 存 す る 意 味 で 発 行 している 。忠 彦 の伯 父 ・ 萱野権兵. 福 島 県 に 関 係 す る 人 々に と って大 き な 苦 難 の連 続 であ った 。苦 難 の. ③ の筆 者 で あ る 小 泉 信 三 は 忠 彦 の友 人 であ る 。忠 彦 が 慶 慮 義 塾. 衛 は 当 時 、会 津 藩 の家 老 であ り 、朝 敵 の全 責 任 を 負 う た 人 物 で あ. いる。. 大 学 に 出 講 した 際 に 知 遇 を 得 ている。忠 彦 の② の著 書 の書 評 と と も. る 。そ の弟 であ る 忠 彦 の父 ・ 安 之 助 も 多 く の難 難 を 乗 り 越 え ている 。. ⑬ は 、ダ ダ イ ズムの詩 人 と して名 高 い高 橋 新 吉 が 、忠 彦 と の戦 中. に、忠 彦 の人 柄 、死 の直 前 の忠 彦 の様 子 が 記 さ れ ている。 ④ は 、﹃文 楽 聞 書 ﹄の著 書 で知 ら れ る 茶 谷 半 次 郎 が 、晩 年 の忠 彦. ⑭ は 、戦 前 は 第 二 東 京 弁 護 士 会 会 長 を 務 め るな ど 弁 護 士 法 曹. 戦 後 に おけ る交 流 を 綴 った も のであ る。. ⑤ は、戦 前 戦 中 に 活 躍 した 政 治 家 ・石 渡 荘 太 郎 の伝 記 であ る。忠. と し て、戦 後 に な って 東 京 高 等 裁 判 所 長 官 、最 高 裁 判 所 判 事 を 歴. と の交 流 を 綴 った も のであ る。. 彦 は京 都 帝 国 大 学 法 科 卒 業 後 、石 渡 敏 一宅 に 寄 宿 す る 。そ の際 、. に お いて巨 歩 を 印 し、発 展 途 上 であ った 日本 の司 法 制 度 に各 方 面 か. 任 し裁 判 法 曹 と し て法 曹 界 に お いて活 躍 し た 小 林 俊 三 が 、法 曹 界. ⑥ 、⑧ 、⑨ 、⑩ 、⑪ 、⑮ の筆 者 で あ る 三 淵 乾 太 郎 は 忠 彦 の長 男 で. ら 大 き な 影 響 を 与 え た 二 十 五 人 の法 曹 が 取 り 上 げ ら れ ている 。裁. 敏 一の長 男 ・ 荘 太 郎 と 同 部 屋 であ った 。. あ る 。忠 彦 と 同 様 に 法 曹 の道 に 進 み 、甲 府 地 方 裁 判 所 所 長 、浦 和. 判 法 曹 の 一人 と して 三 淵 忠 彦 が 取 り 上 げ ら れ てお り 、忠 彦 に ついて. ⑯ 、⑰ 、⑱ の筆 者 で あ る 山 本 祐 司 は、最 高 裁 判 所 の歴 史 を 追 い、. 地 方 裁 判 所 所 長 な ど を つと め た。これ ら の文 章 は、最 も 身 近 な 存 在. ⑦ は 、忠 彦 本 人 が 書 き 残 し たも のであ る。これ は 長 男 の乾 太 郎 が. ⑯ に お いて、そ の初 代 長 官 であ る 忠 彦 を 取 り 上 げ ている 。⑰ は 最 高. の記 述 は、実 に全 四 百 五 十 一頁 中 五 十 人 頁 にわ た って お り、最 も 多. 忠 彦 の死 後 、遺 品 整 理 の際 に 発 見 し た。原 稿 には 本 人 が ﹁ 大正十 一. 裁 判 所 を め ぐ って敗 戦 か ら 平 成 ま で の五 十 年 間 の歴 史 を 描 き 出 し. であ る 長 男 と し て、法 曹 界 の後 輩 と して 、忠 彦 の生 涯 、人 柄 、趣 味. 年 十 一月 七 日 夜 記 ﹂と 表 記 し てあ る ので、忠 彦 の四 十 二歳 の時 点 で. た も のであ る 。山 本 は⑰ で平 成 七 年 (一九 九 五 )、ジ ャー ナ リ スト 界. く の頁 を 割 いている。. の半 生 記 と いう こと に な る 。この原 稿 は 白 鳥 家 に 保 存 さ れ て いたも. の最 高 の賞 であ る 日 本 記 者 ク ラブ 賞 を 受 賞 している 。⑱ は ⑰ を 加 筆. な ど を 記 している。忠 彦 を 知 る上 で最 も 詳 細 な 資 料 であ る。. ので あ り 、白 鳥 静 と の再 婚 前 に 静 の兄 ・ 白 鳥 尭 助 に 手 渡 し た も のと. ω① qq.

(7) 修 正 し た も ので あ る 。 ⑱ のカ バ ー に は 、こ の 資 料 に ついて 、次 のよ う な 記 述 が な さ れ て い る。. 期 す べく 、司 法 界 に 人 を 求 めて物 色 し ていた。目 に 止 ま った のが 忠 彦 だ った わ け であ る 。. 山 本 祐 司 は 、三 井 信 託 入 社 のいき さ つに ついて、次 のよ う に 述 べて. 男 た ち の熱 き 闘 い、新 憲 法 制 定 の知 ら れ ざ る 人 間 模 様 、. 何も ﹁ 木 こり 事 件 ﹂ば か り では な い。ど こかで冷 静 に割 り 切 ら. 実 社 会 は複 雑 であ り 、判 決 のた びに 暗 い気 持 ち にな る のは. いる。. 命 を か け 正 義 を 貫 いた 裁 判 官 餓 死 事 件 、狼 褻 事 件 、そ し. な け れば 裁 判 は成 立 し な い。. 昭和 ・ 激 動 の時 代 の大 疑 獄 事 件 、﹁司 法 の独 立 ﹂を め ぐ る. て 日 本 中 を 震 憾 さ せ た あ の事 件 。再 起 不 能 と いわ れ た 筆. だ か ら 法 曹 界 の重 鎮 で あ る 弁 護 士 ・ 原 嘉 道 に転 職 の話 を. 持 ち か け ら れ た と き 、後 ろ 髪 を ひ かれ る 思 いを 残 し な が ら. 者 が " 奇 跡 の生 還 "を 遂 げ 、脳 出 血 の後 遺 症 と 闘 い執 筆 、 8年 の歳 月 を かけ た 入 魂 の名 著 。司 法 記 者 が 書 か れ ざ る. た のだ 。大 正 一四 年 (一九 二 五 )、三 淵 は 働 き 盛 り の四 五 歳. も 新 しい世 界 へ飛 び 込 む 決 心 を す る。原 は こん な ふ う に 誘 っ. 最 高 裁 の内 幕 と 驚 愕 の真 実 を 鋭 く え ぐ る ! ら ㎜ 年 度 ・日 本 記 者 ク ラブ 賞 受 賞 作 品 。. だ った。. ﹁日 本 に も 欧 米 の信 託 制 度 が で き た 。信 託 と いう も のは 、. ひと た び 運 用 を 誤 る と 脱 法 行 為 に な る 恐 れ が あ る 。優 秀 な. 三井信 託株 式 会社 大 正 十 二 年 (一九 二 三 )四 月 には 今 の最 高 裁 判 所 に あ た る 大 審. 専 門 家 に 指 導 願 いた いと 三 井 信 託 か ら 頼 ま れ た 。日 本 で も. 3. 院 判 事 に 抜 擢 さ れ 、大 正 十 三 年 (一九 二 四 )十 二 月 に は 東 京 控 訴. は じめ ての仕 事 な ん だ。君 一つ、や ってみ な いか ﹂. 時 、大 正 十 二 年 (一九 二 三 )一月 一日 に 信 託 法 、及 び 信 託 業 法 が. 退 官 した 忠 彦 は 、三 井 信 託 株 式 会 社 の法 律 顧 問 に 就 任 す る 。当. 関 係 も あ り 、忠 彦 の三 井 信 託 への入 社 を 強 く 働 き か け たこと が 推 測. 時 、三 井 信 託 取 締 役 、三 井 報 徳 会 会 長 な ど も つと めていた 。そ ん な. 三 井 信 託 入 社 のき っか け を つく った のは 原 嘉 道 であ る 。原 は 、当. 三 淵 は 迷 う こと な く 実 業 の世 界 のほう を 選 んだ 。. 院 上 席 部 長 に 任 ぜ ら れ 、司 法 界 のエリ ー ト コー スを 歩 む 。と ころ が 、 大 正 十 四 年 (一九 二 五 )六 月 には 、忠 彦 は判 事 の職 を 辞 し 、実 業 界. 制 定 さ れ たが 、この法 律 は と も す れ ば 脱 税 法 に曲 用 さ れ る のでは な. でき る 。. に転 じる 。. いかと いう 懸 念 が あ った 。このと き 三 井 信 託 では、そ の正 しい運 用 を. DD qq.

(8) 忠 彦 は、三 井 信 託 に 入 社 した こと に ついて、次 のよ う に述 べている 。. 日 本 に 英 米 式 の信 託 制 度 が 出 来 た 。信 託 制 度 は 日 本 には 全 く 新 しい制 度 で、これ が 運 用 を 誤 れば 、信 託 と 云 う も のは 、. 財 産 の管 理 に は 、信 用 の置 け る 受 託 者 を お く 必 要 が あ る が 、受. 託 者 が 個 人 であ る 場 合 、病 気 や 死 亡 す る 危 険 性 が あ る 。そ こ に信. 託 会 社 の必 要 意 義 が あ ると す る のであ る。. 決 して病 気 にな る こと のな い。死 ぬこと のな い。そ し て信 用. け れ ど も 信 託 会 社 であ り さ え す れ ば 、ど の会 社 でも す べ. や が て 総 て脱 法 行 為 と な る 虞 が あ る 。そ こで 民 間 に 新 し く. 原 嘉 道 氏 が 私 に是 非 三 井 信 託 に 入 る様 にと 勧 め ら れ た 。原. て信 用 のあ る 、経 験 のあ る 、そ して安 全 な 、確 実 な 、誠 実 な 、. のあ る経 験 のあ る信 託 会 社 と 云 ふ も のが 起 つて来 て、信 託 の. 嘉 道 氏 と は 判 事 、弁 護 士 と して 法 廷 で相 対 す る 以 外 に何 の. 堅 実 な 、信 託 の引 受 人 であ ると 申 す わ け には 参 り ま せ ぬ。そ. 出 来 る 信 託 会 社 に 、法 律 の専 門 家 を いれ て指 導 さ せ 、信 託. 交 渉 も な か つた が 、私 は 氏 の希 望 と 勧 め に応 じ て 三 井 信 託. の中 で 最 も 確 実 、堅 実 な 信 託 会 社 を 選 ん で、こ れ に 信 託 を. 引 受 を 営 業 す るや う にな つて来 るのであ り ま す 。. に 入 り 、昭 和 五 年 ま でそ こに 居 つた 。三 井 在 職 中 に 民 間 の多. す る 必 要 が 生 じて参 り ま す 。. 制 度 に 正 道 を 歩 ま せ 度 い。こう 云 う 希 望 を も つて 、弁 護 士. く の人 を 識 り 、種 々な ケ ー スにぶ つか つた わ けだ 。. 良 き 信 託 会 社 は ま こと に 誠 実 な 財 産 の管 理 人 であ つて、. 確 実 な 財 産 上 の顧 問 で あ り ま す 。信 託 を 依 頼 す る 人 は 、手. を 操 いて 財 産 の管 理 や 利 殖 を し て貰 い、安 心 して 一切 を 託. 益 々信 託 の利 用 は拡 ま ること であ り ま せ う 。信 託 制 度 の確. 忠 彦 は、こ の信 託 制 度 に ついて、財 産 保 護 の視 点 から 意 義 を 見 出 す。. 現 代 の民 法 は 前 にも 申 し ま した 通 り 、財 産 の保 護 に ついて. 立 に よ つて、財 産 の保 護 は始 め て安 全 確 実 にな る ので あ ら う. す る こ と が 出 来 ま す 。信 託 の応 用 は 非 常 に 広 い。恐 ら く. は 、実 に 周 到 な 規 定 を 設 け て居 り ま す 。け れ ど も 財 産 の管. と 思 は れま す 。. 指 す 忠 彦 の熱 意 が う か が え る 。し か し、実 際 に 三 井 信 託 で ﹁ 民間の. ﹁ 安 全 ﹂﹁ 確 実 ﹂﹁誠 実 ﹂﹁ 堅 実 ﹂﹁ 安 心 ﹂の ﹁ 良 き 信 託 会 社 ﹂作 り を 目. 理 と 云 ふこと は、非 常 に困 難 な こと が あ り ま す 。人 は 総 てが 財 産 管 理 の技 能 を 有 し てゐ る と 云 ふ わ け に は 参 り ま せ ぬ。 ( 中略 ) そこで信 託 の制 度 と 云 ふも のが 起 つた のであ り ま す 。. 多 く の人 を 識 ﹂る 以 外 に 、ど のよ う な 仕 事 を した か に ついて は確 認. 幻勿 qq.

(9) す ること はでき な か った。 他 方 、忠 彦 の長 男 ・乾 太 郎 は 、三 井 信 託. ま た、小 林 俊 三 は、三 井 信 託 への入 社 に ついて、胸 奥 に 別 な 強 い動. う です から 、裁 判 所 に 居 づ ら く な つた事 情 が あ つた と も 思 え. す 。当 時 和 仁 東 京 控 訴 院 長 か ら も 絶 対 の信 任 を 得 て いた よ. つたと も 聞 いていま す け れ ど 、断 れ な い理 由 はな か つた 筈 で. いた と いう こと はわ か り ま す し、原 嘉 道 氏 の強 力 な 推 挽 があ. 信 託 法 が 施 行 した ば かり で、信 託 会 社 が 法 律 家 を 欲 し て. 聞 く )が あ ったと いう こと が 加 わ るであ ろ う 。そ して三 淵 氏 は当. であ ったろ う し 、そ れ に 加 え て待 遇 に格 段 の差 ( 年 俸 一万 円 と. た 信 託 法 と いう 新 しい法 の世 界 を 開 拓 す ること の魅 力 も 十 分. に はいる のでは な く 全 く 顧 問 と いう 自 由 闊 達 な 地 位 であ り 、ま. か と いう 論 も あ ろ う が 、三 井 信 託 と いう 会 社 の中 の人 的 序 列. 三 井 信 託 の顧 問 な ら な お 使 用 人 に す ぎ な いでは な いだ ろ う. 因 と して忠 彦 の自 由 精 神 が あ ったと して 次 のよう に述 べている 。. ま せ ん。私 は 、父 が 官 を 辞 し て 野 に 下 つた のは 、専 ら 経 済 的. 初 は 新 聞 記 者 に な ろ う と いう 切 望 が あ ったと いう か ら な お さ. 入 社 の理 由 と して、経 済 的 事 情 が あ ったと し ている。. 理 由 に よる も のだ と 思 つていま す 。当 時 の裁 判 官 の報 酬 では 、. ら であ る。. 最 高 裁 判 所 長 官 就 任 の経 緯. 忠 彦 は 、はじ め から 最 高 裁 判 所 長 官 に な る こと が 決 ま っていた わ. け ではな い。最 初 は 最 高 裁 判 所 判 事 の候 補 者 リ ストに す ら 挙 げ ら れ. 4. 子 供 ら に専 門 の教 育 を 受 け さ せる こと は、容 易 では な か つた のでし ょう 。父 が 裁 判 官 の報 酬 が 少 な す ぎ る と 云 つていた の は 、自 ら の体 験 に 基 いた 実 感 か ら き た も のと 考 え ま す 。. 乾 太 郎 が 予 備 判 事 と して水 戸 に 赴 任 し たころ から 、忠 彦 は ﹁ 裁判. 高 司 令 部 (以 下 ﹁ GHQ ﹂と 略 す )最 高 司 令 官 ダ グ ラ ス・マッカ ー サ ー. 高 裁 判 所 長 官 にな ってか ら も 、裁 判 官 の報 酬 に 関 して 、連 合 国 軍 最. 言 い、乾 太 郎 は 終 戦 時 ま で忠 彦 の援 助 を 受 け 続 け ていた と いう 。最. さ れ 、翌 昭 和 二 十 二 年 (一九 四 七 )五 月 三 日 に 日本 国 憲 法 が 施 行 、. 所 は、昭 和 二 十 一年 (一九 四 六 )十 一月 三 日 に 日 本 国 憲 法 が 公 布. 立 法 、行 政 の三 権 分 立 に 基 づく 民 主 主 義 国 家 を 目 指 す 。最 高 裁 判. 敗 戦 に より 天 皇 の名 に よ る裁 判 が 崩 壊 し、GHQが 日本 を 司 法 、. ていな か った 。. に宛 てて昭 和 二 十 三 年 (一九 四 八 )三 月 二 十 九 日 付 で書 簡 を 出 し 、. そ してそ の年 の八 月 四 日 に 忠 彦 が 長 官 に 就 任 し、スタ ー トす る わ け. 官 の待 遇 が 悪 す ぎ る 、待 遇 を 五 割 は 上 げ る べき だ ﹂と 口癖 のよ う に. 裁 判 官 報 酬 制 度 確 立 に 道 を 開 く ので あ る 。これ も 、裁 判 官 の地 位. であ る 。. 忠 彦 が 長 官 と な る 三 ヶ月 前 の五 月 には 、裁 判 官 任 命 諮 問 委 員 会. にふ さ わ しい報 酬 を 与 え る べき だ と いう こと が 念 頭 に あ った から で ある。. ω紛 qq.

(10) が 、長 官 に は 国 務 大 臣 ・金 森 徳 次 郎 、司 法 大 臣 ・木 村 篤 太 郎 、元 大 審 院 院 長 ・霜 山 精 一から 選 ぶ べき だ と 答 申 し ている。 そ れ を 砕 いた のは、GHQであ る。﹁ 司 法 の独 立 ﹂を 重 視 す る GHQ が 、大 審 院 院 長 ・ 細 野 長 良 の最 高 裁 判 所 入 りに 固 執 した から だ。 そ ん な 中 、政 変 が 起 こ る。昭 和 二 十 二 年 (一九 四 七 )四 月 二 十 日 に第 一回 参 議 院 通 常 選 挙 に お いて 社 会 党 が 第 一党 に な る 。さ ら に 、 同 月 二 十 五 日 に 第 二 十 三 回 衆 議 院 総 選 挙 に お いても 社 会 党 が 第 一党 に 進 出 す る。結 果 、吉 田 内 閣 は解 散 し 、五 月 二 十 四 日 に片 山. 戦 前 に は 、東 京 地 方 裁 判 所 判 事 だ ったころ 、社 会 主 義 的 色 彩 が. 強 いアント ン・ メ ンガ ー の﹃民 法 と 無 産 者 階 級 ﹄(一九 〇 三 )を 翻 訳 し. て、大 山 郁 夫 、長 谷 川 如 是 閑 ら が 主 宰 す る﹃我 等 ﹄に 寄 稿 している 。. 片 山 が 始 め た 民 衆 法 律 相 談 所 の講 演 会 ﹁ 法 律 の民 衆 化 ﹂に 吉 野 作. 造 、牧 野 英 一と 演 壇 に立 つこと も あ った 。敗 戦 直 後 に は忠 彦 を 社 会. 党 政 調 会 顧 問 にす る話 ま であ った のであ る。. ね. 忠 彦 の最 高 裁 判 所 長 官 就 任 を 片 山 に推 薦 した のは、当 時 の司 法. 法 律 の民 主 化 を 叫 ぶ 運 動 が 起 こ り 、片 山 も 忠 彦 も そ のメンバー と な. 忠 彦 は 片 山 と は 旧 知 の間 柄 で あ った 。大 正 八 年 (一九 一九 )ご ろ. う と 方 向 転 換 し 、選 挙 前 の答 申 を 白 紙 に 戻 し てし ま った のであ る 。. に 遅 れ た た め 、最 高 裁 判 所 長 官 、判 事 の選 定 は 新 し い内 閣 が 行 な. に 巧 み で、人 心 の機 微 を 察 し 、被 告 の心 服 し 得 る 裁 判 に 終. 家 と して法 の解 釈 に 一頭 地 を 抜 き 、裁 判 官 と し て法 の運 用. じ ら れ ていた が 、三 淵 氏 は進 歩 的 な 人 であ った。し かも 法 律. 動 は学 生 時 代 か ら よく 知 っていた 。裁 判 は 保 守 的 な も のと 信. 私 自 身 も 法 曹 界 に身 を 置 く 一人 だ が 、三 淵 氏 の幅 広 い活. 大 臣 であ り 、白 河 出 身 の鈴 木 義 男 であ った。. っていた 。片 山 は 、当 時 、簡 易 法 律 相 談 所 の構 想 、法 律 民 衆 化 、労. 始 し た 。そ し て私 は 深 く 私 淑 し た ので あ る 。戦 後 、私 は 政 界. 哲 内 閣 が 誕 生 す る 。GHQは最 高 裁 判 所 判 事 の任 命 作 業 が 予 想 外. 働 法 の制 定 、家 族 裁 判 所 の設 置 な ど を 主 張 し ていた。こ の・ 王張 に対. べき 最 高 裁 の長 官 を 誰 に す る かで 法 曹 界 の代 表 的 な 方 々 の. に 転 じ 、はか ら ず も 法 務 総 裁 の重 任 に ついた 。そ して 発 足 す. ま た 片 山 は星 島 二郎 の応 援 のも と に 日 比 谷 の 一角 に 同 志 と と も. 助 言 を いただ いた結 果 、小 田 原 隠 棲 の三 淵 氏 に 出 盧 を 願 う. し、忠 彦 も 裁 判 官 と いう 職 に あ り な が ら 進 んでこれ に 同 調 す る 。. に中 央 法 律 事 務 所 を 設 け 、﹃中 央 法 律 新 報 ﹄を 発 刊 す る 。忠 彦 はこ. ほ かはな い. 七 月 二 十 二 日 、忠 彦 は 裁 判 官 任 命 諮 問 委 員 会 が 選 んだ 百 三 十. そ れ を 推 し 進 め た のであ る 。. 片 山 は、鈴 木 の推 薦 を 受 け 、たち ど ころ に最 適 任 であ ると 決 定 し 、. と 決 定 した しだ いであ る。. れ に も 進 ん で 寄 稿 し ている 。片 山 の事 務 所 関 係 の設 備 は 関 東 大 震 災 で 大 打 撃 を 受 け るが 、忠 彦 ら と ﹁二火 会 ﹂と いう 会 を つく り 毎 月 第 二 火 曜 に 会 合 し、法 律 制 度 を 通 じての意 見 を 交 換 す る。ここだ け は 言 論 の自 由 を 確 保 し よ う と 談 論 風 発 し たと いう 。﹁二 火 会 ﹂は 戦 争 中も続 く。. のの qq.

(11) 九 人 の最 高 裁 判 所 判 事 候 補 者 の中 に 入 り 、最 高 裁 判 所 長 官 候 補. に 墜 落 す る。故 に 新 司 法 部 にあ っては、裁 判 官 に は裁 判 に の. 俗 中 の俗 中 な る も のであ って、これ に 怨 念 を 煩 わ さ れ れ ば 遂. 忠 彦 のこの提 言 は最 高 裁 判 所 に おいてそ のま ま 取 り 入 れ ら れ るこ. 務 総 長 を 置 き 、人 事 はこれ に掌 ら しむ べし。. み 専 念 さ せ 、別 に 従 来 の司 法 大 臣 に 相 当 す る も のと し て事. と して急 に注 目 さ れ る。 ま た 、以 前 、大 審 院 でと も に 働 いた 藤 田 八 郎 、島 保 、岩 松 三 郎 、 井 上 登 も 忠 彦 の最 高 裁 判 所 長 官 に な る こと を 後 押 し す る 。彼 ら は. 訪 ね 説 得 す る 。この四 名 のう ち 、藤 田 、島 、岩 松 の三 名 は 裁 判 官 任. と と な り 、そ の初 代 事 務 総 長 に 本 間 壼三 が 就 任 す る こと にな る 。そ. 細 野 の最 高 裁 判 所 長 官 就 任 を 避 け る ため 、忠 彦 の小 田 原 の自 宅 を. 命 諮 問 委 員 会 委 員 であ り 、昭 和 二 十 二 年 (一九 四 七 )八 月 四 日 に. のいき さ つに ついて 三 淵 乾 太 郎 は次 のよう に述 べる 。. 参 議 院 議 長 ・松 平 恒 雄 が 裁 判 官 任 命 諮 問 委 員 会 委 員 であ った こ. て 就 任 し ていた だ いた 方 であ る 。本 間 さ ん は、父 が 東 京 地 裁. 初 代 の最 高 裁 事 務 総 長 本 間 喜 一さ んは 、父が 特 に懇 願 し. ゆ. はこ の四 名 は 十 五 名 の最 高 裁 判 所 判 事 と して 任 命 さ れ 、忠 彦 と と. と も 三 淵 長 官 実 現 に 大 き な 意 味 を 持 つ。松 平 恒 雄 は会 津 藩 主 ・ 松. の部 長 であ つた 頃 から の識 合 いで、父 は そ のお 人 柄 に 傾 倒 し. も に働 く こと にな る 。. 平 容 保 の四 男 であ った 。戊 辰 戦 争 後 、松 平 の父 ・ 容 保 も 、忠 彦 の父 ・. て いた し 、本 間 さ ん も 、父 を 敬 愛 して お ら れ た よ う で あ る 。. む. 安 之 助 も と も に、惨 憺 な る 境 遇 に 陥 る わ け であ る 。委 員 会 の中 で、. た であ ろ う し 、ギ コチ な い点 も 多 々あ つた こと だ ろ う 。. 全 般 の運 営 に は 、苦 労 を した り 、失 敗 し た り した こと も あ つ. れ ば 、そ れ にな じま な か つた 長 所 が あ つた と し ても 、裁 判 所. ても よい 二 人 が 乗 込 ん だ のだ から 、旧 来 の随 習 が あ つた と す. 新 憲 法 と と も に 発 足 した 最 高 裁 判 所 に、いわ ば 素 人 と 言 つ. こと に ついては 、お 互 いに 、よく は 知 つていな か つた に違 いな い。. な ら れ た のであ る から 、昭 和 にな つてから の裁 判 所 の内 部 の. 本 間 さ んも 永 く は裁 判 所 に お ら れ ず に 、東 京 商 大 の教 授 に. 判 官 を し ていた と は 云 え 、父 は大 正 末 期 に 裁 判 所 を 去 り 、. 二 人 は 、実 に よく ウ マが 合 う 仲 だ つた 。二 人 と も 、東 京 で裁. 交友 関 係. 最 高 裁 判 所 長 官 に忠 彦 を 強 く 推 薦 したこと は いう ま でも な い。. 5. ( 1)本 間 喜 一 忠 彦 は 司 法 大 臣 ・鈴 木 義 男 に 渡 し た 最 高 裁 判 所 に ついて の意 見 勧 告 書 の中 で次 のよう な 提 言 を 行 な っている 。. 裁 判 官 た るも の 一切 の名 利 に悟 淡 と し て、常 に 明 鏡 止 水 の心 境 に おいて 裁 判 に 従 事 す べき で あ る 。人 事 行 政 の如 き は. ωゆ qq.

(12) 残 務 整 理 を して から 引 き 揚 げ 、昭 和 二 十 一年 (一九 四 六 )五 月 、旧. GHQが 東 亜 同 文 書 院 大 学 そ のま ま の大 学 では 認 可でき な いと 条 件. 学 生 ・教 職 員 を 収 容 す る 新 大 学 を 国 内 に 設 立 す る こと を 決 定 す る 。. しな が ら 仕 事 を 進 め ていく 。忠 彦 にと って本 間 はよ き 女 房 役 であ っ. を つけ た ため 、京 城 帝 国 大 学 ・台 北 帝 国 大 学 を 含 め る 形 で ﹁ 外地の. 国 民 に 信 頼 さ れ る 最 高 裁 判 所 づ く り のた め 、忠 彦 は 本 間 と 相 談. たと も いえ る。小 泉 信 三 が 長 官 退 任 直 前 の忠 彦 を 病 室 に 訪 ね た 際 、. 学 校 か ら 引 き 揚 げ た学 生 ・ 教 職 員 を 収 容 す る 大 学 ﹂と の位 置 づけ で. 忠 彦 は 明 治 三 十 八 年 (一九 〇 五 )京 都 帝 国 大 学 卒 業 後 、東 京 に. ( 2)石 渡 敏 一. 官 と と も に、本 間 も 事 務 総 長 を 退 任 している。. 昭 和 二 十 五 年 (一九 五 〇 )三 月 二 日 、忠 彦 の最 高 裁 判 所 長 官 退. 月 、愛 知 大 学 開 校 三 年 の祝 賀 会 に挨 拶 を 寄 せ ている。. そ んな 関 係 も あ って か、忠 彦 は 、昭 和 二 十 四 年 (一九 四 九 )十 一. に 抜 擢 さ れ た わ け であ る 。. 立 さ れ る 。愛 知 大 学 設 立 か ら 一年 も た た な い中 、本 間 は 事 務 総 長. 昭 和 二 十 一年 (一九 四 六 )十 一月 に 愛 知 大 学 が 愛 知 県 豊 橋 市 に 設. 在 任 の 二年 半 を 回 顧 し次 のよ う に 語 った と いう 。. 小 泉 さ ん 、私 は就 任 の始 め に 事 務 総 長 の本 間 君 に 向 つて 言 ひま した 、吾 々は 天 下 の大 道 を 行 か う 。よ し や 抜 け 道 や 裏 通 り が あ つて、そ れ を 通 つた 方 が 便 利 だ と いふ こと が 分 つ て ゐる 場 合 が あ つても 、そ れ はよ さ う 。河 に 橋 が な け れ ば 橋 を 架 け 、或 は 船 を 用 意 して、さ う し て渡 ら う よ 、と いひま し た 。退 任 の日 が 近 づいた ので 、先 日 、本 間 君 を 呼 んで、ねえ 、 本 間 君 、君 は覚 え てゐ る かい、就 任 の始 め に私 がこ れ これ 言 つた こと を 、と き いた ら 、本 間 君 はよ く 覚 え てゐる と いいま し た。. 戻 り 、石 渡 敏 一の家 に 寄 宿 す る 。. のは 本 間 が 先 であ る。本 間 に 東 京 商 科 大 学 教 授 の職 を 世 話 し た の. 本 間 も 忠 彦 同 様 、中 途 で裁 判 官 の職 を 辞 している。裁 判 所 を 去 った. 辰 戦 争 の全 責 任 を 負 い、朝 廷 から 死 を 賜 る 。萱 野 家 断 絶 の命 を 受. 郡の父 ・ 権 兵 衛 は 実 の兄 弟 と いう こと に な る 。郡 の父 ・権 兵 衛 は 戊. 兵 衛 の四 男 であ り 、忠 彦 は 郡 の従 弟 に あ た る 。忠 彦 の父 ・安 之 助 と. 石 渡 の妹 、登 美 が 郡 寛 四 郎 に 嫁 ぐ 。郡 は、会 津 藩 の老 中 ・ 萱 野権. は忠 彦 であ った 。そ の後 、本 間 は 中 国 に 渡 り 、昭 和 十 八 年 (一九 四. け 、権 兵 衛 の子 ら は 郡 姓 を 名 乗 り 、安 之 助 は 三 淵 姓 を 名 乗 る こと. 本 間 は 忠 彦 が 東 京 地 裁 の部 長 を 務 め ていた と き の裁 判 官 であ り 、. 三 )か ら 二 十 年 (一九 四 五 )にか け て東 亜 同 文 会 が 上 海 に 設 立 し た. にな る 。. 経 緯 は 不 明 であ るが 、郡 は 十 四 歳 のと き から 石 渡 家 に養 わ れ る 。. 東 亜 同 文 大 学 の第 三 代 学 長 を 務 めている 。 敗 戦 に と も な い東 亜 同 文 書 院 大 学 は 廃 校 に な る 。本 間 は上 海 で. ω④ qq.

(13) 妹 ・登 美 の婿 と な る のであ る 。そ ん な 郡 の従 弟 にあ た る と いう 関 係. そ し て、郡 は 、そ の才 覚 を 敏 一の父 ・ 栄 治 郎 か ら 見 込 ま れ 、敏 一の. う ので そ ち ら へ行 つた 。そ う し た ら 花 田 さ ん は 京 都 へお 帰 り. か\り たいと 申 し ま した ら 、浜 町 の宿 屋 に 泊 つている か ら と い. の西 本 願 寺 へ行 つて 、京 都 か ら 来 て いる 花 田 さ ん に お 目 に. 数 だ け れ ど 、も う 一・ へん 西 本 願 寺 へ行 つて花 田さ ん の住 所 を. で、忠 彦 は 石 渡 家 に起 居 す る こと にな る。石 渡 家 に 寄 宿 す る こと で、. 敏 一は 清 貧 に 甘 んじ 、多 く の子 ど も が お り 仕 事 部 屋 が な く 、子. 聴 いて 為 替 で送 り 返 して く れ と いう ん です 。ず いぶ ん 厄 介 な. に な り ま し た と いう 。そ の旨 先 生 に 報 告 す る と 、そ れ じ や 手. ど も が 寝 ついて から 、玄 関 に 一閑 張 り の机 を 持 ち 出 して仕 事 に取 り. こと だと 思 つたけ れ ど も 、そ れ を 為 替 で送 り 返 しま し た 。そ. 忠 彦 は敏 一の影 響 を 強 く 受 け る。. 組 む 姿 を 目 の当 た りに した と いう 。. こで 私 は 役 人 と いう も のは 、こう いう ふ う に しな け れ ば な ら. 忠 彦 は 役 人 と し て 人 間 と して ﹁ 決 して利 慾 のた め に 動 いち や な ら. ぬも のだ と 、つくづ く 感 じた しだ いで す 。. 西 本 願 寺 が 監 獄 の教 謳 師 と いう も のを 一手 に 承 つて 出 し. ぬも のだ ﹂と いう 生 き 方 を 敏 一か ら 学 ぶ のであ った 。忠 彦 は ﹁ 終生石. 忠 彦 は 、敏 一の教 え に感 謝 して いると し 、次 のよ う な 思 い出 を 語 る。. て お つた。そこで教 謳 師 の講 習 会 と いう よ う な も のを 西 本 願. 渡 さ ん か ら 受 け た 薫 陶 を 忘 れ ず 、先 生 と 云 つて 敬 意 を 表 し ﹂ていた. 父 ・忠 彦 の死 後 、三 淵 乾 太 郎 は そ の思 いを 次 のよ う に 綴 っている 。. ( 3)長 谷 川 如 是 閑 ・ 松 永 安 左 工門 ・ 佐 々木 惣 一. と いう 。. 寺 が 開 いたこと が あ りま す 。 そ のと き に、石 渡 敏 一先 生 は 監 獄 の方 のこと も 詳 しい人 で、 殊 に ヨー ロッパを 廻 つて監 獄 のこと を 見 て来 た も のだ か ら 、頼 ま れ て講 習 会 で 一席 話 さ れ た わ け です 。す る と 先 生 が 留 守 の問 に 、西 本 願 寺 か ら 、講 習 会 のお 礼 だ と 言 つて花 田 凌 雲 ( 稿 者 注 ⋮ 仏 教 学 者 、龍 谷 大 学 学 長 )と いう 人 が 来 て、金 一. 監 獄 の講 演 を す る のは自 分 が 監 獄 のこと を 知 つて る か ら 講. れ が 心 残 り であ る。墓 はそ の寓 居 の裏 に あ って、三 渕 忠 彦. さ ん と の旧 交 を 暖 め るだ け の命 を 保 た せた か った と 思 い、そ. せ め て 一度 だ け で も 、長 谷 川 如 是 閑 さ ん や 松 永 安 左 工門. 演 を す る ので、む しろ 自 分 の方 から 進 ん で講 演 した いく ら い. 之 墓 と いう 文 字 は 、父 の京 大 時 代 か ら 親 交 が あ った 佐 々 木. 封 を 置 いて いつた。や が て役 所 か ら 石 渡 先 生 が 帰 つて 来 ら れ 、. な んだ 。頼 ま れ てや つた か ら と いつて 、お 礼 を も ら う はず は. 惣 一さ んに お 願 いして書 いていただ いた。立 派 な 書 であ る。.  マ マ  . な い。こ のお 礼 を 返 し てき てく れ と いう わ け で す 。私 は築 地. のの qq.

(14) ここに、著 名 な 言 論 人 ・ 長 谷 川 如 是 閑 、実 業 家 ・ 松 永 安 左 工門 、リ ベラ ル派 で名 高 い佐 々木 惣 一の三 人 の親 友 の名 が 記 さ れ てる。彼 ら と は忠 彦 と 自 他 と も に 認 める 親 友 同 士 であ った 。 ﹃世 間 と 人 間 ﹄に は、長 谷 川 、佐 々木 と の鼎 談 も 掲 載 さ れ て お り 、 天 皇 の詔 勅 、裁 判 所 を め ぐ る 問 題 、選 挙 に 対 す る意 見 、食 糧 管 理 法 に 対 す る考 え な ど が 忌 悼 な く 述 べら れ ている 。三 人 の間 柄 が いか に親 しいも のであ った かを 証 明 す るも のであ る 。 ま た 、当 時 、忠 彦 の自 宅 が あ った 小 田 原 には 松 永 の茶 室 や 長 谷 川 の住 居 が あ る こと から 、二 人 と は頻 繁 に 交 流 している 。 特 に 、長 谷 川 と は、前 述 の通 り 長 谷 川 が 主 宰 す る ﹃我 等 ﹄に寄 稿. 長 谷 川 と は 親 友 の間 柄 では あ るが 、文 章 の随 所 に長 谷 川 に 対 す. る尊 敬 の念 を 感 じ さ せる も のであ る。. 注. 明 治 二 十 一-. 平 成 二 十 一年 ( 二 〇 〇 九 )八 月. 1 佐 野比呂己 ﹁ 教材 ﹁ ろく を さば く ﹂考 ( 1)﹂( ﹃北 海 道 教 育 大 学 紀 要 ﹄. ( 教 育 科 学 編 ) 第 六 十 巻 第 一号 一- 一六 頁 ). 2こば やしし ゅんぞ う 小 林 俊 三 一八 八 八- 一九 八 二 昭和五十七. 明 治 二 十 一年 (一八 八 八 )六 月 三 日 東 京 ・ 麻 布 区 新 堀 町に生 ま れ る。. 東 洋 協 会 大 学 教 授 小 林 郁 の弟 。大 正 三 年 (一九 一四 )東 京 帝 国 大. 退 社 し弁 護 士 を 開 業 し弁 理 士 を 兼 ねる。昭 和 七 年 (一九 三 二)法 政. した り 、長 谷 川 が 忠 彦 の自 宅 に 遊 び に 泊 ま り に来 た り す るほ ど 親. 長 谷 川 が 著 作 集 を 刊 行 す る 際 、忠 彦 は 文 章 を 寄 せ ている 。忠 彦. 大 学 講 師 、昭 和 十 四年 (一九 三 九 )中 央 大 学 教 授 、元第 二東 京 弁 護. 学 独 法 科 卒 業 。卒 業 後 三 菱 合 資 会 社 に入 り 明 治 五年 (一八 七 二 ). の書 架 に は 長 谷 川 の著 作 を 概 ね 網 羅 して お り 、こ の著 作 集 を 座 右 の. 士 会 会 長 と なる 。昭 和 十 六 年 (一九 四 一)ゾルゲ 事 件 で尾 崎 秀 実 の. 密 な も のであ った。. 書 と し たいと も 述 べている。. 官 選 弁 護 人 。戦 後 は東 京 裁 判 で松 岡 洋 右 の弁護 人 を つとめ た。昭 和. 知 識 と 卓 抜 な 翁 の識 見 と 、そ して そ れ を 貫 く 透 徹 せ る翁 の. も 、随 筆 でも 、大 抵 のも のは読 んだ つも りで いる。該 博 な 翁 の. 調 停 協 会 連 合 会 理 事 長 、法 の支 配 法 曹 協 会 顧 問 、臨 時 大 学 問 題 審. かかわ った。昭 和 三 十 三 年 (一九 五 八 )日 本 法 律 家 協 会 会 長 、日 本. (一九 五 一)十 月. 二 十 二 年 (一九 四 七 )十 二 月 東 京 高 等 裁 判 所 長 官 、昭 和 二 十 六 年. 論 理 と に は 、いつも 敬 服 して 、そ の都 度 何 等 か の示 唆 を 受 け. 議 会 会 長 、三 菱 銀 行 監 査 役 など も つと めた。昭 和 五 十 七 年 (一九 八. 私 は 久 し い長 谷 川 翁 の愛 読 者 の 一人 で、論 文 でも 小 説 で. る のを あ り が たく 思 つていた 。翁 の著 作 は 私 に と ってほんと う. 二 )六 月 三 日 死 去 。九 十 四 歳 。著 作 に﹃私 の会 った 明 治 の名 法 曹 物. 最 高 裁 判 所 判 事 と な り 、チ ャタ レイ裁 判 な ど に. に 心 の糧 であ つた 。. 9鋤 qq.

(15) 語﹄。 帝 国秘密探 偵社. 昭和. コ九 頁 、谷サ カヨ編 ﹃大 衆 人 事 録 ﹄第 一四版. ( 猪 野 三 郎 編 ﹃大 衆 人 事 録 ﹄昭 和 三 年 版 二 年 (一九 二七 )十 月 昭 和 一八 年 (一九 四 三 ) 三 九 四 頁 、廣 瀬 弘. 筆. 昭 和 三十六 年. 昭 和 三 十 六 年 (一九 六 一). 全 ﹄東 京書 籍. 随 筆 ﹂に 所 収 さ れ ている 。配 列 は 次 の通 り で あ る 。.   九 五 八 )四 月 三 十 日 文 部 省 検 定 済 A O8 尚 、こ の改 訂 に よ り 、柳 ユ 田 は 国 語 科 教 科 書 づ く り か ら 手 を 引 く こ と と な る 。﹁浅 春 随 筆 ﹂は. 単元二 一 随. 大 蛇 ・小 蛇 (片 山 広 子 ). 浅 春 随 筆 (栃 内 吉 彦 ). 二. 紙 (幸 田 文 ). 一. 三. 昭和 三 十 二年. 奥 書 、上 田 正 昭 ・ 西. 帝 国秘密 探 偵社. 帝 国秘 密探偵 社 監 修 ﹃大 衆 人 事 録 ﹄第 十 九 版. 昭 和 四 十 八 年 (一九 七 三)十 月. (一九 五 七 ) 三 二 五 頁 、小林 俊 三﹃私 の会 った 明 治 の名 法 曹 物 語 ﹄ 日本 評 論 社. 六八頁. 二頁. 明治 二十. 大 正- 昭 和 時 代 の司 法 官 。元大 審 院 部 長 。劇 評 家 と しても 知 ら れ. - 昭 和 二十 四. 11 みや けし ょう た ろ う 三宅 正 太 郎 一八 八 七 - 一九 四九. (一九 六 一)七 月 二十 日. 10 三 淵 忠 彦 ﹁ 私 の見 た 私 と 云 ふ 男 ﹂﹃法 曹 ﹄法 曹 会. 七月十四 日. 9 三淵 乾 太 郎 ﹁父と 法 律 ﹂﹃法 曹 ﹄法 曹 会. 昭 和 三 十 二年 (一九 五 七) 二 五- 二六 頁. 8 ﹁国 語 ﹂研 究 会 ﹃﹁ 国 語 ﹂指 導 の研 究. 7 二八 頁 頭 注. ろ く を さ ば く (三 淵 忠 彦 ). 一- 一三 頁. 高 等 学 校 一年. 四. 七頁. 東. 平成. 澤 潤 一・ 平 山郁 夫 ・三浦 朱 門 監 修 ﹃日本 人 名 大 辞 典 ﹄講 談 社 十三年 ( 二 〇 〇 一)十 一月). 昭 和 三 十 七 年 (一九 六 二)十 月. 3 大藤時 彦 ﹁ 柳 田 先 生 と 国 語 教 育 ﹂﹃教 室 の窓 ﹄第 十 一巻 第 十 号 京教育 研究所. 合 わ せてご 参 照 いただけ れば 幸 いであ る。 ﹁ 教材 ﹁ 浅 春 随 筆 ﹂考 ﹂﹃釧 路 論 集 ﹄第 三 十 九 号 平成十九年 ( 二 〇 〇 七 )十 一月. 北海道教育. 教 材 と しての ﹁ 大 蛇 ・小蛇 ﹂について考 察 を 試 み たこと があ る。本 稿. 大学 釧路校. 北海道教育. 4 教 材 としての﹁浅 春 随 筆 ﹂に ついて考 察 を 試 み たこと があ る。本 稿 と. 5. と 合 わせ てご 参 照 いただけ れ ば幸 いであ る。 ﹁ 教材 ﹁ 大 蛇 ・小蛇 ﹂考 ( 1)﹂﹃釧 路 論 集 ﹄第 四 十 号. 一1 = 二頁. た。. 平成 二十年 ( 二 〇 〇 八 )十 一月. 大学 釧 路 校. 明 治 二 十 年 (一八 八 七 )六 月 二 十 七 日、東 京 都 港 区 芝 生 まれ 。学 習. 三 )五 月 に判 事 任 官 後 、十 一月 東 京 地 方 裁 判 所 判 事 。大 正 七年 (一. 七 月 、東 京 帝 国 大 学 独 法 科 卒 業 。司 法 官 試 補 。大 正 二 年 (一九 一. 院 初 等 科 、東 京 府 立 一中 、 工局を 経 て、明 治 四 十 四 年 (一九 一 一). ﹁ 教材 ﹁ 大 蛇 ・小 蛇 ﹂考 ( 2)﹂﹃北 海 道 教 育 大 学 紀 要 ﹄( 教育科学 一. 昭 和 三 十 三 年 (一. 平 成 二 十 一年 ( 二 〇 〇 九 )二 月. 総 合 編 一﹄東 京 書 籍. 編 )第 五 十 九 巻 第 二 号 - 一六 頁 6 柳 田 国 男 編 ﹃新 編 国 語. ωの qq.

(16) 四 五)十 月 に大 阪 控 訴 院 長 。昭 和 二十 一年 (一九 四 六 )二 月 に退 職 。. 和 十 六 年 (一九 四 一)九 月 に大 審 院 部 長 。戦 後 の昭 和 二十 年 (一九. 控 訴 院 長 な ど を 経 て、昭 和 十 五 年 (一九 四 〇 )司 法 次 官 。以 後 、昭. (一九 三 七 )一月 大 審 院 部 長 、昭 和 十 四 年 (一九 三 九 )六 月 に長 崎. 判 所 長 、昭 和 十 年 (一九 三 五 )五 月 に 札 幌 控 訴 院 長 。昭 和 十 二 年. 年 (一九 二 九 年 )大 審 院 判 事 。昭 和 九 年 (一九 三 四 )に 東 京 地 方 裁. 臣 官 房 秘 書 課 長 。昭 和 二年 (一九 二七 )名 古 屋 控 訴 院 部 長 、昭和 四. 司 法 省 参 事 官 、五 月 に兼 任 外 務 書 記 官。大 正 十 三年 (一九 二 四)大. 九 一八 )四 月に 東 京 地 方 裁 判 所 部 長 。大 正 八 年 (一九 一九 )四 月 に. 当 した 。大 正 二年 (一九 一三 )刊 の﹃ジ ェヲンス. 義 塾 の教 授 とな り 、経 済 原 論 、経 済 学 史 、社 会 問 題 など の講 義 を 担. く にマルク ス主 義 研 究 に 専 心 した 。大 正 八 年 (一九 一九 )に 帰 国 して. としてドイ ツおよびイギ リスにおいて理 論 経 済 学 お よび社 会 思 想 、と. に 同大 予 科 教 授 と な り 、大 正 元 年 (一九 一二 )ヨー ロッパに留 学 。主. 明 治 四 十 三 年 (一九 一〇 )大 学 部 政 治 科 を 卒 業 、母 校 に残 り、直 ち. 学 問 的 感 化を 強 く 受 け 、マルクス主 義 批 判 の闘 将 として育 っていった。. た。普 通 部 から 慶 応 義 塾 に学 び 、大 学 部 では福 田徳 三 の指 導 のも と 、. 男 と して明 治 二十 一年 (一八 八 八 )年 五 月 四 日に東 京 三 田で生 まれ. 界 の要 職 を 歴 任 し 当 時 慶 応 義 塾 塾 長 ( 第 二 代 )だ った 小泉 信 吉 の長. のぶ きち. 三 月に 弁 護 士 、貴 族 院 議 員 、中 央 労 働 委 員 会 会 長 。七 月に 公 職 追. 代 経 済 学 中 の重 要 な 体 系 的 著 作 の初 の完 訳 書 と して著 名 。大 正 九. 立 し、大 正 十 二 年 (一九 二 三 )刊 ﹃価 値 論 と 社 会 主 義 ﹄等 所 収 のマル. 経 済 学 純 理 ﹄は、近. た. 放 。昭 和 二 十 四年 (一九 四 九 )三 月 四 日、東 京 都 港 区麻 布 の自 宅 に. 年 (一九 二〇 )刊 の﹃社 会 問 題 研 究 ﹄で社 会 思 想 家 としての名 声 を 確. み. て死 去 。六 十 三 歳 。劇 評 家 と して も 知 ら れた 。著 述 に ﹃法 官 余 談 ﹄ 昭 和 九 年 (一九 三 四 )十 一月 )、﹃嘘 の行 方 ﹄( 中央 公論. クスの価 値 ・ 価 格 論 をめぐ る マルクス経 済 学 者と の論争 でも 著 名 だが、. ( 大 正 十 五年. 一九 二〇 )、﹃近 世 社 会 思 想 史 大 要 ﹄. はじ め. くし だ. 一九 二 六 )な どを 執 筆 す ると と もに 、マルクス主 義 に. て﹃社 会 問 題 研 究 ﹄( 大 正九年. 経 済 学 博 士 。また 彼 は、わが 国 におけ る社 会 思 想 研 究 の先 駆 者 と し. 完 訳し た。さ ら に、昭 和 九 年 (一九 三 四 )﹃リカ アド オ研 究 ﹄を 著 し、. 昭 和 三 年 (一九 二八 )リ カー ド の主 著 ﹃経 済 学 お よび 課 税 の原 理 ﹄を. 経 済 学 研 究 の本 領 は リカ ー ドを 中 心 と す る 古 典 派 経 済 学 に あ り、. 昭和 十 昭 和 十 七 年 (一九. 昭 和 十 三年 (一九 三 八 )十 月 )、﹃わが随 筆 ﹄( 武蔵書房. ( 新 小説社 社. 七 年 (一九 四 二 )八 月 )、﹃裁 判 の書 ﹄( 牧 野書店. 昭 和 二十 年 (一九 四 五 ). 昭 和 二 十 五 年 (一九. 昭 和 二 十 三 年 (一九 四 八 )八 月 )な ど. 四 二 )十 一月 )、﹃そ のを りを り﹄( 鶴書 房 十 一月 )、﹃雨 後 ﹄( 木曜書 房 が あ る。. 好学 社. 二 七 八- 二八 〇 頁 、﹃日本 人 名 大 辞 典 ﹄). (﹁ 年 譜 ﹂﹃三 宅 正 太 郎 全 集 ﹄第 三 巻 五 〇 )八 月. 対 す る容 赦 な い批 判 者 と して、河 上 肇 、櫛 田 民蔵 らと ﹃資 本 論 ﹄の. 内 容 を めぐ って活 発な 論 戦 を 展 開 し、﹃価 値 論 と 社 会 主 義 ﹄( 大 正十. 明 治 二十 一-. 昭和四十 一. 12 こいず みし んぞ う 小 泉 信 三 一八 八 八- 一九 六 六. 一九 三 三 )な. 二年. 一九 二 三 )、﹃マルクス死 後 五 十 年 ﹄( 昭和 八年. 経 済 学 者 、社 会 思 想 家 。教 育 者 。福 沢 諭 吉 に直 接 指 導 を 受 け 金 融. ω① 包包.

(17) 一九 六 八- 一九 七 〇 ) があ る。昭 和 四 十 一年 (一九 六 六 )年 五. 勲 章 受 章 。﹃小 泉 信 三 全 集 ﹄(二十 五巻 ・ 別巻 、昭 和 四 十 三- 四 十 五. 戦 後 思 想 にも 大 き な 影 響 を 与 え た。昭 和 三 十 四年 (一九 五 九 )文 化. た。マルクス主 義 批 判 家 、経 世 的 ・ 啓 蒙 的 名 随 筆 家 等 と して、日本 の. 明仁( 現 、天 皇)の美 智 子 妃 と の成 婚 を はじめ 、皇 室 の近 代 化 に努 め. た。昭 和 二 十 四年 (一九 四 九 )東 宮 御 教 育 常 時 参 与 と な り、皇 太 子. 応 義 塾 塾 長 。そ の間 、昭 和 十 八年 (一九 四三 )には学 士 院 会 員 と な っ. どを 著 している 。昭 和 八 - 昭 和 二 十 二年 (一九 三 三- 一九 四 七 )慶. 同 年 七 月 に 小磯 内 閣 の大 蔵 大 臣 を つと め、貯 蓄 増 強 と 軍 需 金 融 の. 済 顧 問 を つと め 、そ の後 昭 和 十 九 年 (一九 四 四)二月 に 東 条 内 閣 、. な った 。昭 和 十 七 年 (一九 四 二 )中 国 南 京 の江 兆 銘 政 権 の最 高 経. り、さ ら に 、昭 和 十 六 年 (一九 四 一)三 月 、大 政 翼 賛 会 事 務 総 長 と. ついで昭 和 十 五 年 (一九 四 〇 )一月 、米 内 内 閣 の内 閣 書 記 官 長 と な. 四 年 (一九 三九 )一月 平 沼 内 駅 一郎 閣成 立に際 し、大 蔵 大 臣に就 任 。. 事 件 特 別 税 法 、支 那 事 変 特 別 税 法 など を 事 実 上 立 案 した。昭 和 十. 軍 少壮 幕 僚 と接 す る。昭 和 十 二年 (一九 三七 )大 蔵 次 官と な り北 支. 記 官 長 と な り 、ま た 六 月 に宮 内 大 臣 と な って終 戦 処 理 に あ た った。. おうち ょう めい. 年. 円 滑 化 に 力 を 注 いだ 。昭 和 二 十 年 (一九 四 五)二月 には 再び 内 閣 書 昭 和 六 十 三 年 (一. こ い そ. 月 十 一日没 。 (早坂 忠 ﹁ 小 泉 信 三 ﹂﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄平 凡 社. そ の間 、昭 和 十 五 年 (一九 四 〇)七 月 から 二十 年 (一九 四 五 )六 月ま. で貴 族 院 議 員 ( 勅 選 )在 任 。このよう に多 面 な政 治 活 動 は注 目 す べき. 平成 六. 九 八 八)、 飯 田鼎 ﹁ 小泉 信 三 ﹂ ﹃日本 大 百科 全 書 ﹄小学 館 年 (一九 九 四)). 律 学 科 英 法 卒 。同 年 大 蔵 省 入 り、税 務 監 督 局 配 属 さ れ る。主 と し. ( 旧制) を 経 て、大 正 五 年 (一九 一六 )五 月 東 京 帝 国大 学 法 科 大 学 法. 長 男 と し て東 京 京 橋 に生 ま れ る。学 習 院 中 等 科 、第 工局等 学 校. 幕 臣で第 一次 西 園 寺 公 望 内 閣 の内 閣 書 記 官 長 を務 め た 石渡 敏 一の. 昭 和 時 代 の政 治 家 、官 僚 。明 治 二十 四 年 (一八 九 一)十 月 九 日 、旧. 四- 昭 和 二十 五. 米 内 光 政 と と も に 日独 伊 三 国 同 盟 に 反 対 を 貫 き 、そ の決 定 を 延 ば. の書 記 官 長 でも この問 題 に取 り 組 み、外 務 大 臣有 田 八 郎 、海 軍 大 臣. 持 ち 越 さ れ た 日独 伊 三 国 同 盟 締 結 の可 否であ ったし、後 の米 内 内 閣. と して各 政 権 で重 用 さ れ た 。平 沼 内 閣 の政 治 課 題 は 近衛 内 閣 から. 彼 は文 麿 の期 待 を 容 れることが多 か った 。税 務 ・ 経 済 のスペシャリスト. 問 官 であ って文 麿 の父篤 麿 と 親 交 が 深 かったこと と 関 係 す る。こと に. 石 渡が 近 衛 文 麿 と 学 友 であ り 、父が 司 法 次 官 ・ 貴 族 院 議 員 ・枢密 顧. であ り、官 僚 出 身 者 と しては 異 色 であ った。そ の政 治 行 動 の 一面 は. て税 務 に 関 係 し、司 税 官 、税 務 監督 局 事 務 官 、国 税 課 長 を 経 て、昭. した。東 条 内 閣 末 期 の大 蔵 大 臣就 任 は対 外 経 済 問 題 のためであ り、. 明治 二十. 和 九 年 (一九 三 四)主 税 局 長 、賀 屋 興 宣 、青 木 一男 と と も に ﹁ 大蔵. 小 磯 内 閣 に 引 き継 が れて留 任 した。この調 整 役 が 昭 和 二十 年 (一九. 13 いし わ た そ う た ろ う 石 渡 荘 太 郎 一八 九 一- 一九 五 〇. 省 の三 羽烏 ﹂と 謳 われ たが 、昭 和 十 一年 (一九 三 六 )内 閣 調 査 局 ( 企. 四 五 )二月 に 膠 斌 事 件 に処 して大 蔵 大 臣 から 内 閣 書 記 官 長 に移 る. み ょうひん. 画院 の前 身 ) に 調査 官と して転 出 、事 実 上 の左 遷 と な る。革 新 官 僚 、. DD 包包.

(18) と いう 異 例 の人 事 に発 展 し、と ら わ れな い性 格 に対 す る嘱 望 が次 に. の食 糧 管 理 法 に ついて 次 のよ う に 述 べ、父 の苦 難 を 推 測 し て いる 。. 和 二 十 五 年 (一九 五〇 )十 一月 四 日 病 を得 て没 す 。五 十 九 歳 。. だ 。そ のと き 一日 に 玄 米 一合 ず つの配 給 に な つた 。こ のと き は 寒. 広 漠 不 毛 の原 野 へや ら れ ち や つて 、木 の実 、草 の実 を 食 つた そ う. 私 の親 父 の時 代 の連 中 は 会 津 戦 争 で負 け て ね 、南 部 恐 山 の下 、. ( 坂 本 雅 子 ﹁石 渡 荘 太 郎 ﹂﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄、西 村 紀 三 郎 ﹁石渡 荘. さ のた め に 死 ん だ り 、腹 が 減 つて 死 ん だ のも あ る。ぼ く ら は ど う. 宮 内 大 臣 へと道 を つけ た。第 二次 世 界 大 戦 後 、公 職 追 放 と な り 、昭. 太 郎 ﹂(臼 井勝 美 ・ 高村 直助 ・ 鳥 海靖 ・ 由 井 正 臣 編 ﹃日 本 近 現 代 人 名. や ら 生 き 残 つた 者 の 子 供 な ん だ 。そ れ か ら 見 る と 今 の配 給 は あ り が た いよ 。. 昭. 平 成 十 三 年 (二 〇 〇 一)七 月 、﹃日本 人 名 大 辞. 辞 典 ﹄吉 川 弘 文 館 典 ﹄). (﹁撫 然 た る 世 相 の弁 ﹂﹃週 刊 朝 日 ﹄第 五 十 二 巻 第 二 十 号. 和 二 十 三 年 五 月 十 六 日 (﹁談 片 三. 安 政 六- 昭 和. 十二. 長 谷 川 如 是 閑 鼎 談 ﹂(一九 四 八 )五 月 ( ﹃世 間 と 人 間 ﹄朝 日 新 聞. 14 いし わ た び んいち 石 渡 敏 一 一八 五 九- 一九 三 七. 司 法 官 、政 治 家 。安 政 六 年 (一八 五 九 )十 一月 江 戸 に 生 ま れ。父 は. 社. 昭 和 二 十 五 年 (一九 五 〇 ) 二 四 ニ ー 二 四 三 頁 )). 佐 々木 惣 一・三 淵 忠 彦 ・. 幕 末 の航 海 術 の権 威 、石 渡 栄 治 郎 。石 渡 荘 太 郎 の父。明 治 十 七 年. 年 (一九 〇 〇 )ベルギー の万 国 監 獄 会 議 に出 張 。明 治 三 十 五 年 (一九. (一八 八 六 )欧 州 に留 学 、帰 国 後 東 京 地 方 裁 判 所 検 事 、明 治 三 十 三. 県 の生 れ 。八 幡 浜 商 業 学 校 を 卒 業 目前 に中 退 。福 士 幸 次 郎 の詩 集. 大 正 ・昭 和 期 の詩 人 。小 説 、美 術 評 論 、仏 教 研 究 の著 述 も 多 い。愛 媛. 昭和六十 二. 明 治 三 十 四-. 〇 二)民 刑 局 長 、明 治 三 十 六年 (一九 〇 三 )司 法 省 総 務 長 官 を 歴 任。. ﹃展 望 ﹄を 読 み 、詩 作 への関 心 を 深 め た 。大 正 九 年 (一九 二 〇 )﹃ 万. 16 た か は し し ん き ち 高 橋 新 吉 一九 〇 一- 一九 八 七. 明 治 三 十 八 年 (一九 〇 五 )法 学 博 士 。明 治 三 十 九 年 (一九 〇 六 )第. 朝 報 ﹄紙 上 のダ ダ イズム宣 言 の記 事 に衝 撃 を 受 け 、大 正 十 二年 (一. (一八 八 四 )東 京 帝 国 大 学 英 法 科 卒 業 、司 法 省 に 入 る。明 治 十 九 年. 一次 西 園 寺 内 閣 の内 閣 書 記 官 長 、辞 任 後 明治 四 十 一年 (一九 〇 八 ). 九 二 三 )辻 潤 の編 集 に な る 詩 集 ﹃ダ ダ イ スト 新 吉 の詩 ﹄を 刊 行 、詩 壇. つじ. や わたはま. 貴 族 院 議 員 に勅 選。大 正 八 年 (一九 一九 )東 京 瓦 斯 会 社 社 長 に就 任 、. に 強 い衝 撃 を 与 え 、日 本 に お け る ダ ダ イ ズ ムの先 駆 者 と な った 。僧 侶. よろず. 同 社 の整 理 に努 力 。昭 和 九年 (一九 三 四 )枢 密 顧 問 官 。昭 和 十 二 (一. に な ろ う と し た 経 歴 を 持 つが 、そ のダ ダ イ ズムも 、仏 教 的 世 界 観 を 根. 十 一年. 一九 四 二 )、﹃胴 体 ﹄(昭. 一九 三 四 )、﹃新 吉 詩 抄 ﹄(昭 和. 一九 三 六 )、﹃霧 島 ﹄(昭 和 十 七 年. 活 躍 。詩 集 は ﹃戯 言 集 ﹄(昭 和 九 年. 底 と し た 独 自 のも のと いえ る 。﹃歴 程 ﹄、﹃日 本 未 来 派 ﹄の 同 人 と し て. ちょう ほう. 九 四 二)十 一月十 八 日 没。七 十 九歳 。 昭和 二十九 年 八- 一六 頁 、﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄). ( 石 渡 荘 太 郎 伝 記 編 纂 会 編 ﹃石 渡 荘 太 郎 ﹄非 売 品 (一九 五 四)十 一月. 15 忠 彦 は佐 々木 惣 一、長 谷 川 如 是 閑 と の鼎 談 の際 、戦 後 まも な い頃. 幻勿 包包.

(19) 和 三 十 一年 一九. 一九 五 六 )ほかが あ るが 、しだ いに仏 教 的 、東 洋 的 観. 信 州 須 坂 藩 足軽 小 頭 原 茂 作 の長 男 。大 学 予 備 門 、第 工局等 中 学 校. 年 (一八 六 七 )二 月 十 八 日信 濃 国 高 井 郡 ( 長 野 県 須 坂 市 )生 まれ 。. 念 の深 いも のと な っていった。ほかに 小 説 ﹃ダ ダ ﹄( 大 正十 三年. を 経て明 治 二 十 三 年 (一八九 〇)東 京帝 国 大 法 科 大 学 英 法 科 卒 。同. 年 農 商 務 省 に入 り、東 京 鉱 山 監 督 署 長兼 大 阪 鉱 山 監 督 署 長 に まで. 一九 三 六 )、﹃ダ ガ バジジ ンギヂ 物 語 ﹄. 一九 六 五 )、美 術 論 集 ﹃す ず め ﹄11 10 (昭 和 三十 六. 昇 進 。明 治 二十 六 年 (一八 九 三 )退 官 して弁 護 士 を 開 業 、花 形 民 事. 二 四)、﹃狂 人﹄( 昭 和 十 一年 ( 昭和 四十年 一九 六 一- 一九 七 〇 )や 、﹃参 禅 随 筆 ﹄( 昭和 三. - 昭 和四 十五年. 弁 護 士と して活 躍 した 。刑 事 事 件 にも 関 与 し、と くに検 察 当 局 の人. 権 侵 犯 を 非 難 して、友 人 の京 都 府 知 事 木 内 重 四 郎 を 弁 護 した 豚 箱. 一九 五 八 )な ど 仏 教 関 係 の著 作 も 多 い。﹃高 橋 新 吉 全 詩. 集 ﹄( 昭 和 四十 七 年. 事 件 は、小 林 芳 郎 大 阪 検 事 長 を 辞 職 に追 い込 んだ 。明 治 四 十 四 年. 十 三年. ( 飛高 隆夫 ﹁ 高 橋新 吉 ﹂﹃世 界 大 百科 事 典 ﹄ 大 塚 博 ﹁ 高 橋 新 吉 ﹂﹃日. (一九 一 一)東 京 弁 護 士 会 長 と な り 、三 期 勤 め、そ のあ と 引 き 続 き. 一九 七 二)によって芸 術 選 奨 を 受 賞 した。. 本 大 百 科 全 書 ﹄). 八 六 )脳 出 血 で倒 れ るが " 奇 跡 の生 還 "を遂 げ 、懸 命 のリ ハビリを 続. 部 デ スク、横 浜支 局 長 を 歴 任 。社 会 部 長 時 代 の昭 和 六 十 一年 (一九. 業 し、毎 日新 聞 社 に入 社 。十 年 間 司 法 記 者 クラブ に在 籍 ののち社 会. 中 国 奉 天市 に生 ま れ 、山 口県 萩 市 に 育 つ。早 稲 田 大 学 法 学 部 を 卒. (一九 三 八 )同 副 議 長 、昭 和 十 五年 (一九 四 〇 )同議 長 を 歴 任 、太 平. と も に 辞 任 。以 後 昭 和 六 年 (一九 三 一)枢 密 顧 問 官 、昭 和 十 三 年. 刑 を 加 重 した 治 安 維 持 法 改 正 の責 任 者 と な った 。田中 内 閣 瓦 解 と. 同 時 弁 護 士 資 格 を 取 り 消 す 。司法 大 臣 と しては 最 高 刑 を ﹁ 死 刑 ﹂と. 師 と な る。昭 和 二年 (一九 二 七 )田 中 義 一内 閣 の司 法 大 臣 に 就 任 、. 第 一東 京 弁 護 士会 長 を 二 期 勤め る。この間 学 習 院 、早稲 田大 学 の講. け 八 年 が かり で本 書 執 筆 に挑 み 、ジャー ナリスト 界 最 高 の賞 と さ れ. 洋 戦 争 開 戦 にあ た っては 天皇 側 近 と して枢 機 に参 画 した。ま た 昭 和. 昭 和 十 一-. る 日本 記 者 クラ ブ賞 を 受 賞 。ペンを 衝 き 動 か す 記 者 魂 は燃 え 続 け 、. 五 年 (一九 三 〇 )から 昭 和 十 三 年 (一九 三 八 )まで中 央 大 学 総 長 を つ. 17 やま も とゆ う じ 山 本 祐 司 一九 三 六-. 現在 フリ ー ライタ ー として活 躍 。著 書 には﹃東 京 地 検 特 捜 部 の内 幕 ﹄. に関 与 した。原 嘉 道 述 ・ 黒 沢 松 次 郎 編 ﹃弁 護 士 生 活 の回 顧 ﹄があ る。. に近 く 、大 正 十 二 年 (一九 二 三 )の平 沼 駄 一郎 によ る国 本 社 の創 設. 十 八 歳 。人物 は冷 徹 、非 妥 協 的 な学 究 肌 で、思 想 的 には 国家 主義 者. 十 九 (一九 四 四 )八 月 七 日 、在 職 のまま 死 去 、男 爵 を 授 けら れ る。七. 護 士 並 み に下 げ るよう 主 張 したが いれ ら れな かったと いわれ る。昭 和. とめ た。陪 審 制度 の導 入 に尽 力 し、また 司 法 相 時 代 に検 事 の席 を 弁 平. ( 世 界 文 化 社 )、﹃巨 悪 は眠 ら せない﹄( 角 川 文庫 )など があ る。 秘 密 主 義 と 謀 略 の時 代 ﹄講 談 社 四 一九 頁 ). ( 山 本 祐 司 ﹃最 高 裁 物 語 ㊤. 一 三 二頁. 成 九 年 (一九 九 七)四 月 18 注 17. 慶 応 三- 昭和 十 九. 明 治 から 昭 和時 代 前 期 にかけ ての法 曹 家 、弁 護 士 、政 治 家 。慶 応 三. 19 は らよ し みち 原 嘉 道 一八 六七 - 一九 四 四. ω紛 包包.

(20) (長 尾 竜 一﹁原 嘉 道 ﹂﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄、由 井 正 臣 ﹁原 嘉 道 ﹂﹃日 本. く 、第 一に 、憲 法 の規 定 す る ﹁ 相 当 の報 酬 ﹂たるべき であ り 、第. あ る。( 中 略 )余 は、裁 判 官 の報 酬 については、米 国 に おけ るが 如. に ついてこの両 者 を 失 う な らば 、日 本 の裁 判 官 の地 位 は、依 然. れ 決 定 さ れ るべき であ ると信 ず る。何 故な ら ば 、裁 判 官 の報 酬. 二 に、検 察 官 を も 含 む 一般 官 吏 の俸 給 と は全 く 別 個 に考 慮 さ. 近 現 代 人 名 辞 典 ﹄、﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄) 昭和 二十二. 大 正 十 五 年 (一九 二 六 ). 二〇 三- 二 〇 四 頁). 20 ﹁談 片 一﹂久 米 、西 塚 両 婦 人 弁 護 士 執 筆 訪 問 記 節 録 年 (一九 四 七 )十 月 (注 11 21 三 淵 忠 彦 ﹃日 常 生 活 と 民 法 ﹄開 発 社. と して 検 察 官 そ の他 の 一般 官 吏 の地 位 と 同 視 せ ら れ 、現 実 に. おいて、過 去 の日本 に おけ るが 如 く 一官 僚 た る地 位 に甘 んず る. 一九 四 - 一九 五 頁 22 注 21. 外な いと 考 え ら れるから である。. 一九 八 - 二 〇 〇 頁. 23 山 本 祐 司 は ﹁実 業 界 では 成 功 し た と は いえ ず ﹂と 記 し 、次 のよ う に. 昭和 四十八. 法曹会. ( 鮫島真 男 ﹁ 裁 判 官 、検 察 官 の報 酬 、俸 給 の改 訂 問 題- 第 三. 十 一回 国 会 に おけ る﹂﹃法 曹 時 報 ﹄第 十 一巻 第 五 号. 述 べている 。 四 五 歳 の働 き 盛 り のと き で、" 会 津 っぽ "の剛 直 な 血 を 引 いて. 昭 和 三 十 四年 (一九 五 九 )五 月. 五七頁). いる う え 、裁 判 官 と し て は 、ま じ め でゴ マカ シが 一切 通 用 せ ず 判. 26 注 24. 二頁. 決 の論 理 も 精 緻 な こ と から 、﹁司 法 界 の諸 葛 孔 明 ﹂と 呼 ば れ てい. 年 (一九 七 三 )十 月. 明治 十九. な ど を 経 て、昭 和 九 年 (一九 三 四) 岡 田 啓 介 内 閣 の法 制 局 長 官 と な. け いす け. 英 法 科 卒 。柳 田国 男 の後 を 受 けて法 制 局 に勤 務 し、法 制 局書 記 官. やなき た くに お. 屋市 に生 まれ る。明 治 四十 五年 (一九 一二)東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学. 憲 法 学 者 、官 僚 、政 治 家 。明 治 十 九 年 (一八 八 六 )三 月 十 七 日名 古. - 昭和三十 四. 28か な も り とく じ ろ う 金 森 徳 次 郎 一八 八 六- 一九 五 九. 二九 三 頁. 27小 林 俊 三 ﹃私 の会 った 明 治 の名 法 曹 物 語 ﹄日本 評 論 社. 司法界 再. た が 、そ の性 格 か ら 実 業 界 の風 と は あ ま り 肌 が あ わ な か った よ うだ。 (﹁歴 代 長 官 プ ロフィー ル (記 者 の 眼 )/ 三 淵 忠 彦. 二頁. 判. 総 合 特 集 シリ ー ズ ﹄昭 和 五 十. 一八 一頁 ). 建 の旗 手 ﹂﹃法 学 セミ ナ ー 増 刊 二 年 (一九 七 七 )十 二 月. 昭 和 三 十 八 年 (一九 六 三 )八 月 一日. 24 三 淵 乾 太 郎 ﹁﹃父 、三 淵 忠 彦 を 語 る ﹄( 2 )﹂﹃判 例 時 報 ﹄三 四 〇 例時報社. 25 書 簡 の内 容 は 次 の通 り であ る 。. 一九 二 一) は高 等 文 官 試 験 の. 参 考 書 と しておお いに読 まれ たが、そ の天 皇 機 関 説 は美 濃 部 事 件 に. る 。著 書 ﹃帝 国 憲 法 要 綱 ﹄( 大正十年. て 、重 要 な ステ ップ を ふ み つつあ る こと に 関 し 、と く に 貴 下 の注. 際 して攻 撃 さ れ 、昭 和 十 一年 (一九 三 六 )辞 職 。戦 後 昭 和 二 十 一年. 余 は 、日 本 政 府 が 、現 在 、裁 判 官 の地 位 を 決 定 す る 上 に お い. 意 を 喚 起 し た い。そ れ は 裁 判 官 の報 酬 に 関 す る 法 律 案 の立 案 で. のの 包包.

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