教材「地図をいろどる」考(1)
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(2) . 灘 謙繍. 翻. 翻. 概. 教材. (1 ). ∪ε 9 。巨 日 Φ暮. q § ぎ § ミ . (H). ﹁地 図 を い う ど る ﹂ 考. > oQε 身 8 .§. 要. ohqgbp 。冨①ω① ピ 9。冨 σqo9σ QΦ 国 山琴 9。菖 oP. 国 蕩 げ一ぎ. 教 材 ﹁地 図 を い う ど る ﹂. 佐. 野. 比呂 己. 北海道 教育大学 釧路校 国語教育講座. 国 qま p。菖 o昌. ω>Z ρ 口 ぼ o巨 一. O p。目 b= °・"= o犀犀巴 島o d 巳 く霞 ω騨 団 亀. 高 等 学 校 一年 上 ( 高等 学校 第 一 学 年 前 期 用 )﹄ ( 柳 田国男監 修. 鏑木 清方 の ﹁ 地 図 を い う ど る ﹂ は 、 ﹃国 語. 察を加 えようとす るも のである。 ﹁ 地 図 を い う ど る ﹂は 、昭 和 三 十 年 (一九 五 五 ). 下、 ﹁ 柳 田監 修 国 語 科 教 科 書 ﹂ と 略 す 。︺ に 所 収 さ れ て い る教 材 で あ る。 こ の教. 本 稿 は、 鏑 木 清 方 の随 筆 ﹁地 図 を い う ど る﹂ に つい て、 教 材 と し て 分 析 ・考. に 発 行 さ れ た 柳 田 国 男 監 修 高 等 学 校 用 国 語 科 教 科 書 に 所 収 さ れ て い る教 材 で あ. 科 書 の単 元 設 定 、 教 材 選 定 に あ た って は、 監 修 者 で あ る 柳 田 国 男 の考 え が か な. 東 京書 籍) ︹ 以. る 。 本 稿 で は 、 柳 田 監 修 国 語 科 教 科 書 に お け る ﹁地 図 を い う ど る ﹂ の位 置 づ け. り の部分 で反 映さ れ てい る。 本稿 では、随 筆 ﹁ 地 図 を いうど る﹂ に ついて、. (一九 五 五) 版. を確 認し、 ﹁ 地 図 を い う ど る﹂ の筆 者 で あ る 鏑 木 清 方 の人 と 業 績 を 整 理 し 、 そ. 教 材 と し て 分 析 ・考 察 す る と と も に 、 柳 田 の教 材 選 定 意 図 も あ わ せ て論 じ た い. 昭和 三十年度. の年 譜 を 附 し た 。 加 え て、 資 料 と し て稿 末 に 、 柳 田 監 修 国 語 科 教 科 書 教 材 本 文. と 考 え る。. ﹁ 地 図 を い う ど る﹂ は 、 柳 田 監 修 国 語 科 教 科 書 の ﹁一 随 筆 ・随 想 ﹂ に 置 か. を 掲 げ た。 教 材 と し て ﹁ 地 図 を い うど る﹂ を 研 究 す る 上 で、 そ の前 提 と な る も の であ る。. れ た 教 材 で あ る。 こ の単 元 の教 材 配 列 は次 の通 り で あ る 。. . ( 栃内吉彦 ) 大 蛇 ・小 蛇 ( 片山広 子 ). 一 浅春随筆 二. 一. 一. 1.
(3) 己 呂 比 野 佐. 四. 三. ろ く を さば く (三 淵 忠 彦 ). か みな り さ ま 談 義. 地 図 を い う ど る (鏑 木 清 方 ) ( 東条操). 五. ﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄ ( 平 凡社. (一九 八 八 )) に は 、 佐 々 木 直 比. 一八 七 八 - 一九 七 二 (明 治 十 一- 昭 和. 昭和 六十 三年. 鏑木 清 方. 古 の次 の よ う な 記 述 が 見 ら れ る。. か ぶ らぎ き よか た 四十 七). ︽東 京 日 日 新 聞 ︾ ︽や ま と 新 聞 ︾ 創 刊 者 の条 野採 菊 (伝 平 、 山 々亭 有 人 。. じ ょ う の さ いぎ く. 日 本 画 家 。 本 名 健 一。 東 京 の神 田 に 生 ま れ る 。 父 は 戯 作 者 、 小 説 家 で 教 科 書 、 及び 指 導 書. 一一 筆 者 ・鏑 木 清 方. 1. 一八 三 一- 一九 〇 一)。 一八 九 一年 、 月 岡 芳 年 の高 弟 水 野 年 方 (一八 六 六. . と な った。 昭 和 期 に 入 って ︽築 地 明 石 町 ︾ (一九 二七)、︽三 遊 亭 円 朝 像 ︾. ︽た め さ る ン 日︾ な ど の力 作 を 出 品 、 十 九 年 の第 一回帝 展 か ら は審 査 員. 女 史 の墓 ︾ を 発 表 。 文 展 時 代 (一九 〇 七- 一八)に 入 って ︽墨 田 河舟 遊 ︾. 会 を 結 成 し 、 浮 世 絵 か ら 本 格 的 絵 画 へ の展 開 を は か り 、 〇 九 年 ︽ 一葉. 崎 紅 葉 、 泉 鏡 花 ら に親 し ん だ 。 一九 〇 一年 大 野 静 方 、 鰭 崎 英 朋 ら と 烏 合. - 一九 〇 八)の 門 に 入 り 、 十 七 歳 こ ろ か ら 新 聞 挿 絵 を 描 い て 知 ら れ、 尾. ﹁ 地 図 を い う ど る﹂ の筆 者 ・鏑 木 清 方 に つい て 、柳 田監修 国語科教 科書に は. けんいち. 次 の よ う に 記 さ れ て い る。. かぶら ぎ きよたか. た いし ゅん き. ◇ 鏑 木 清 方 11本 名 健 一 2 八 七 八1 ︺ 東 京 都 の 生 ま れ。 日本 画 家 、 芸 術 つき じ がわ. 院 会員、帝室 技芸員。 著書に ﹁ 築 地川﹂ ﹁ 槌 春 記 ﹂ など が あ る 。 柳 田 監 修 国 語 科 教 科 書 の教 師 用 指 導 書 に は 、 ﹁筆 者 ・原 典 ﹂ の項 目 お い て 次 のよ う な 記 述 が見 ら れ る。. 鏑木清方. 来 の文 学 性 を 画 面 に 定 着 さ せ た。 一方 、 ︿ 卓 上 芸 術 ﹀ を 唱 え て 絵 巻 ・色 紙. 超 え た粋 の美 し さ 、 肖 像 画 に お け る 心 理 描 写 を み せ、 さ ら に 挿 絵 活 動 以. (一九 三 〇)、 ︽ =某︾ (一九 四 〇 )な ど を 発 表 、 単 な る 風 俗 画 、 美 人 画 を. 治 一 一) 東 京 都 に 生 ま れ た 。 九 歳 に し て 柴 田真 哉 の門 に 入 った が 、 後 、. 形 式 の ︽にご り え ︾ ︽お 夏 清 十 郎 物 語 ︾ な ど を 発 表 し た 。 後 年 の ︽朝 夕. キ ヨカ タ︺ 本 名 健 一。 日 本 画家 。 一八 七 八 年 ( 明. 江 戸 浮 世 絵 派 の水 野 年 方 の門 に 移 り 、 以後 今 日 ま で 風 俗 画 を 描 き つづ け. 安 居 ︾ (一九 四 八)は 明 治 下 町 風 俗 を 愛 惜 し た 清 方 芸 術 の集 大 成 と い わ れ. ︹ カ ブ ラギ. て い る。 現 在 、芸 術 院 会 員 、帝 室 技 芸 員 で あ る。 作 品 に は ﹁花 吹 雪 ﹂ ﹁ 隅. [一八 七 八 - 一九 七 二]. 平 成 六 年 (一九 九 四 )) に は、 玉 轟 玲 子 の次 の. る 。 ︽こし か た の記 ︾ を は じ め 秀 れ た 随 筆 集 も あ る 。 ら. ような記 述が見 られる。. か ぶ らぎ き よ か た. 東 京 日日新 日 本 画 家 。 明 治 一 一年 八 月 三 一日 東 京 ・神 田 に 生 ま れ る。 ﹃. 鏑木清方. ﹃日 本 大 百 科 全 書 ﹄ (小 学 館. 田川 舟 遊 ﹂ ﹁黒 髪 ﹂ ﹁築 地 明 石町 ﹂ ﹁三遊 亭 円 朝 ﹂ な ど が あ り、著 書 に ﹁ 築 地川﹂ ﹁ 槌春 記﹂ ﹁ 藍 の芽 ﹂ ﹁ 鏑木清方 随筆選集﹂ など がある 。. 教 科 書 、 教 師 用指 導 書 と も に 、 清 方 を 知 る に十 分 と は い え な い。 も う 少 し 清. 事 典等. 方 を 詳 し く 知 る た め に 事 典 等 を 確 認 す る こと と す る 。. 2. 一. 一. 2.
(4) D く 考 勧 ど % 熱 図 馳 材 教. 田佐 久 間 町 に 生 ま れ た 。 父 は 明 治 初 期 の 小 説 家 、 条 野 採 菊 で あ る。 同. じ ょう の さ いぎ く. 聞 ﹄ ﹃や ま と 新 聞 ﹄ の創 設 者 で 小 説 家 の 条 野 採 菊 の 子 で 、 母 方 の鏑 木 姓. 二十 四 年、 水 野 年 方 に 入 門 し 、 若 く し て新 聞 さ し 絵 を描 いた 。 同 三 十 四. とし か た. を 継 いだ 。 本 名 健 一。 東 京 英 語 学 校 に学 び 、 二 二歳 で 水 野 年 方 に 入 門 。. 院 賞 を う け た 。 ﹁三 遊 亭 円 朝 像 ﹂ な ど の肖 像 画 で は 、 対 象 へ の思 想 的 肉. か ら 審 査 員 と な った。 昭 和 二年. ﹁一葉 女 史 の墓 ﹂ のご と き で あ る。 文 展 時 代 を経 て 、 帝 展 に は 、 創 始. 年 、 烏 合 会 を 興 し 、 浮 世 絵 の伝 統 に 沿 って清 心 の画 風 を 示 し た 。 た と え. と う そん. 品 の挿 絵 や 口絵 を 担 当 す る。 一九 〇 一年 (明 治 三 四) 風 俗 画 研 究 を 図 り. 薄 の 跡 が 見 ら れ る。 自 叙 伝 ﹁こ し か た の記 ﹂ ﹁ 続 こし か た の 記 ﹂ で 語 ら. ば. 清 方 の雅 号 は 年 方 か ら 与 え ら れ た も の で あ る 。 早 く か ら ﹃人 民 新 聞 ﹄ や き く てい. 烏 合 会 を 結 成 す る。 ﹃一葉 女 史 の墓 ﹄ は そ の出 品 作 。 〇 九 年 第 三 回 文 展. れ る か れ の生 涯 は 、 明 治 ・大 正 期 の 文 学 世 界 と 、 ふ か い交 渉 を も った. ﹃読 売 新 聞 ﹄ の 小 説 挿 絵 を描 く ほ か、 泉 鏡 花 や 田 口掬 汀 、 島 崎 藤 村 の作. に 初 入 選 し、 第 八 回 文 展 出 品 の ﹃墨 田 河 舟 遊 ﹄、 第 九 回 文 展 出 品 の ﹃審. 新 し い 風 俗 画 の創 造 に つな が って い た。 同 十 二年 、 芸 術 院 会 員 と な り 、. つき. (一九 二 七 ) の ﹁ 築地 明石町﹂ を出品し. ( 大正五) に金鈴社. 二十 九 年 文 化 勲 章 を 授 与 さ れ た。 四十 七 年 三 月 二 日、 老 衰 のた め 神 奈 川. い ち よう. を 結 成 。 ま た 一九 年 の 帝 展 発 足 以 降 、 審 査 員 を 務 め 、 そ の 後 も 官 展 を. れ ゆ く 村 雨 ﹄ が 連 続 し て 二等 賞 を 受 賞 し た 。 一六 年. ( 昭 和 二 ) の ﹃築. あ かし ち ょう. う こ うかい. 中 心 に 活 動 し た。 昭 和 期 の代 表 作 と し て は、 二 七 年. 県 鎌 倉 市 雪 ノ 下 の自 宅 で 死 去 。 九 十 三 歳 。 東 京 都 台 東 区 の谷 中 墓 地 に 葬. じ. は. 地 明 石町 ﹄、 三 〇 年 の ﹃三 遊 亭 円 朝 像 ﹄、 四 〇 年 の ﹃=某﹄ な ど が あ る 。. ら れ る。. 白風社. 昭和. 教 科書、教 師用 指導書、 事典 類全 てにお いて、 ﹁ 鏑 木 ﹂ の ﹁木 ﹂ を ギ と 濁 っ. 帝 室 技 芸 員 、 芸 術 院 会 員 と な り、 五 四年 (昭 和 二九 ) に 文 化 勲 章 を 受 章 し た 。 昭 和 四 七年 三 月 二 日 没。. て よ ん で い る。. 正 し く は 、 カ ブ ラ ギ では な く カ ブ ラキ と 濁 ら な い で よ む 。. 清 方 は 、 江 戸 時 代 以 来 の 浮 世 絵 を 、 明 治 の 近 代 的 な 情 趣 の う ち に、 新 し い風 俗 画 ・美 人 画 へと 展 開 さ せ た 作 家 で あ る 。 し か し そ の 一方 で ﹁ 卓. 清 方 の 娘 婿 ・山 田 肇 が 編 じ た ﹃鏑 木 清 方 文 集 ﹄ (全 八 巻. . 上 芸 術 ﹂ と いう 独 自 の主 張 を掲 げ 、 本 来 挿 絵 画 家 ・口絵 画 家 と し て 出 発. 五 十 四- 五 十 五 (一九 七 九- 一九 八 〇 ))の奥 書 の ﹁ 著 者 ﹂の 項 目 に は わざ わ ざ ﹁ か. ち ゅ うも ん ち ょう. し た こと も あ り 、 ﹃註 文 帖 ﹄ (一九 二 七 ) や ﹃に ご り え ﹄ (一九 三 四 ) な. 鏑木清 方年譜. あ て た も の であ る。 本 校 で は、 教 材 と し て ﹁ 地 図 を い う ど る﹂ を 研 究 す る 視 点. 清 方 の 年 譜 は多 く 編 ま れ て い る が 、 いず れ も 日本 画 家 と し て の清 方 に 焦 点 を. 3. 傍 点 は稿 者 に よ る。). そ の 英 名 は 、 国筈 霞 9匹 国弓o犀節鐙 冒 ①日o匡巴 ﹀巨 竃 蕩 霊 日 と あ る 。 ( 稿 者注 ⋮. の清 方 旧 居 跡 に、平 成 十 年 (一九 九 八)鏑 木 清 方 記 念 美 術 館 が 開館 さ れ て い る 。. (一九 四 六) か ら 鎌 倉 に 住 ん だ が、 鎌 倉 市 雪 ノ 下. ぶ ら き き よ か た ﹂ と ル ビ が附 さ れ て い る。. 明 治か ら昭 和時. ま た、 清 方 は 昭 和 二十 一年. ど の物 語 や 小 説 に 取 材 し た 小 作 品 も 多 数 制 作 し て い る 。 ま た 随 筆 も よ く. 一八 七 八- 一九 七 二. 平 成 十 三 年 (二 〇 〇 一)) に は、 宮 川. し ﹃こ し か た の記 ﹄ な ど 、明 治 ・ 大 正 の庶 民 生 活 を 写 す 貴 重 な 資 料 に な っ て い る。. ﹃日 本 近 現 代 人 名 辞 典 ﹄ ( 吉 川弘文館. 鏑 木清 方. 寅 雄 の次 のよ う な 記 述 が 見 ら れ る 。. か ぶらぎ き よ かた. 代 に か け て の 日 本 画 家 。 本 名 健 一。 明 治 十 一年 八 月 三 十 一日、 東 京 神. 一. 一. 3.
(5) 己 呂 比 野 佐. 0. 歳. 記. 事. か ら 、 年 譜 の再 構 成 を 試 み る。. 年 、 父・ 条 野 採 菊. 。 母・ 婦 美. 明 治 34 一九 〇 一. 23 春 、 再 び 、 京 橋 木 挽 町 に 住 む 。. 6 月 、 山 中 古 洞 、 都 築 真 琴 、 池 田 輝 方 、 鰭 崎 英 明 ら 十 四 人 の同 志 と 烏合 会を結成。. 泉 鏡 花 ﹃三 枚 続 ﹄ の装 丁 と 口絵 を 依 頼 さ れ 、 鏡 花 と 会 い、 以 後 、 刎. 。 東京神田 佐久間町に生 まれる. 長男. 日本 橋 浜 町 河 岸 に 転 居 。. 絵 を執筆。. 小 山 内 薫 の紹 介 で島 崎 藤 村 が 訪 れ 、 自 費 出 版 の ﹁ 破 戒 ﹂ に 口絵 と挿. 木 挽 町 の自 宅 を ﹁ 紫陽花舎 ﹂と名付 ける。. 8 月 、 烏 合 会 の都 築 真 琴 の妹 ・照 と 結 婚 。. 筆 。 鏡 花 と の コ ンビ が 軌 道 に の り は じ め る 。. ﹁ き ぬぎ ぬ川 ﹂ ﹁ 起 誓 文 ﹂ な ど の挿 絵 を 執. 。 条 野 に は 条 野 松 造・ 北 川 喜 久 次 郎・ 清 方の 三 人の 息 子 が い た. 28. 44. 42. 38. 35. 6月、金鈴社解 散。. 4月、祖母 ふく死去。. 社 を創立。. 5月、吉 川霊華 、結 城素明 、平福 百穂、 松岡 映丘ら 同志 五人と金鈴. ﹃大 阪 毎 日新 聞 ﹄ の菊 池 幽 芳 の連 載 小 説 ﹁百合 子 ﹂ に挿 絵 を 執 筆 。. 34 本 郷 龍 岡 町 に住 む 。. 33 次 女 泰 子 誕 生. 31 2 月 、 長 女 清 子 誕 生 。. 29. ﹃新 小 説 ﹄ の鏡 花 の 小 説. 頸 の友 と な る。. 24. 、 。 条 野 松 造 は 鉄 道 局 に 勤 務 し ﹃ や ま と 新 聞﹄ に も 関 わっ た 次 男 北. 明 治 35. 明 治 44. 一九 〇 九. 明 治 42. 一九 〇 七. 明 治 40. 一九 〇 六. 明 治 39. 一九 〇 三. 明 治 36. 一九 〇 二. 12 月 、 父 採 菊 死 去 。. 7 。 ま と 新 聞﹄ に 勤 務 し た. 。 画 家・ 柴 田 真 哉 に 入 門. 。 。 京 橋 鉄 砲 洲に あっ た 私 立 鈴 木 小 学 校へ 入 学 京 橋 木 挽 町 に 住む. 、 4 月. 。 画業に 専念する. 。 神 田 錦 町 の 私立 東 京 英 語 学 校 に 入 学. 、 。 7月 水 野年方に入 門. 、 家庭の 事情により 学校をやめ こ の 頃 ﹃ や ま と 新 聞﹄ の 経営. 一九 一 一. 、 。 が 悪 化 し 生 活 を 脅か す. 。 師 の 年 方か ら 清方 の 画 号 を も ら う. 明 治 45 一九 = 一. 一九 = 二. 。 年 方 が 連 載 し て い た ﹃ や ま と 新 聞﹄ の 挿し 絵 を 引 き 継 ぐ. 大 正 5. 大 正 2. 、 。 10 月 三 遊 亭 円 朝と 足 利・ 栃 木・ 佐 野 方 面へ 八 日 間の 旅 行 を す る. 一九 一六. 。 本郷 湯島新花町に 住む 。 鏑 木 家の 家 督 相 続 祖 母 と 母 と の一 家 三 人の 生 計 を 担 う た め 画 業 を. 一九 = 一. 大 正 11. 一九 一〇. 大 正 9. 。 京橋南 伝馬町に住む. 、 。 もっ て 立 つ 決 意 を 固め 新 聞 に 挿 絵 を 描 き は じ め る. 、 年末. 25. 。 川 喜 久 次 郎 は 本 石 町 で 帽 子 商 を 営 ん だ 母 の 実 弟・ 鏑 木正 胤 は ﹃ や. 8 月 31 日、. 22. 17. 16. 15. 14. 13. 11. 8. 7. 明 治 11. 一 八七八. 明 治 18. 一 八八五 明 治 19. 一 八八六 明 治 22 一 八八九. 八 九一. 明 治 24 一. 明 治25 一 八九二 明 治26 一 八九三 明 治27 一 八九 四 明 治28 一 八九五. 明 治33 一 九 〇〇. 一. 一. 4.
(6) D く 考 勧 ど う い を 図 地 r 材 教. 大 正 15 一九 二 六. 昭和 9 一九 三 四 昭 和 12 一九 三 七 昭 和 13 一九 三 八 昭 和 16 一九 四 一. 昭 和 18 一九 四 三. 昭 和 19 一九 四 四 昭 和 20 一九 四 五 昭 和 21 一九 四 六 昭 和 29 一九 五 四 昭 和 36 一九 六 一 昭 和 42 一九 六 七. 48. 56. 59. 60. 63. 65. 66. 67. 68. 76. 83. 89. 住 み 慣 れ た 下 町 を 離 れ 、 牛 込 矢 来 町 に 転 居 。 初 め て の自 分 の持 ち 家 で あ った 1 月 、 母 ・婦 美 死 去 。 ﹃銀 砂 子﹄ ( 岡倉書房 ) ﹃築 地 川 ﹄ ( 書物展望 社) ﹃槌 春 期 ﹄ ( 双雅房). ﹃藍 の芽 ﹄ ( 相模書房 ) ﹃御 濠 端 ﹄ ( 双雅房) ﹃風 俗 画 技 法 ﹄ ( 崇 文堂) ﹃こ し か た の記 ﹄ ( 双雅房) ﹃四 季 し のぶ 草 ﹄ ( 双雅房) ﹃絵 具 筥 ﹄ ( 双雅 房) ﹃東 な ま り ﹄ (双 雅 房 ) ﹃道 中 硯 ﹄ ( 双雅 房) ﹃柳 小 紋 ﹄ ( 畝傍書 房) ﹃清 方 随 筆 選 集 ﹄ ( 双雅房) ﹃連 翅 ﹄ ( 京都芸 艸堂) 4月 、 神奈 川 県 茅 ヶ崎 東 海 岸 に 疎 開 。. 5月 、 東 京 牛 込矢 来 町 自 宅 を 空 襲 で焼 失 。 8月 、 茅 ヶ崎 から 御 殿 場 に再 疎 開 。 谷 崎 潤 一郎 ﹃少 年 ﹄ の挿 し絵 を か く 。 3月 、 御 殿 場 から 鎌 倉 市 材 木 座 に 移 る。 文化勲章 を受章。 鎌 倉 市 雪 ノ下 の新 居 に 移 る。 ﹃こ し か た の記 ﹄ ( 中央公論 美術出版). ﹃続 こ し か た の記 ﹄ ( 中央 公論美術出版 ). 4. 昭 和45 一 九七 〇 昭 和47 一 九七二. 92. 、 。 3 月 2 日 老 衰 の た め 鎌 倉 雪の 下 に 没 す. 2 月、. 。 妻・ 照 死 去. 93. 日本 画 と 清 方. 清 方 が 日 本 画 家 を 志 す こ と に な った き っか け に つい て 、 池 内 紀 は 次 の よ う に 述 べている。. 父 採 菊 は 江 戸 末 期 か ら 明 治 前 半 の文 人 ・小 説 家 であ る。 た ぶ ん、 一つ. の家 に 二 人 の も の 書 き は 無 用 と 考 え た のだ ろ う 。 息 子 の 小 説 家 志 望 を. よ ろ こ ば ず 、 画 工 を す す め た 。 さ い わ い 身 近 に 絵 描 き が いた 。 ﹁や ま と. 新 聞 ﹂ に は 月 岡 芳 年 と 水 野 年 方 が挿 絵 を 描 い て いた 。 芳 年 は 達 筆 だ が 、. 絵 柄 が ま のび し て い る。 年 方 は り ち ぎ な 性 格 そ の ま ま に 描 写 が こ ま か. . い。 一三 歳 の少 年 は、 そ れ な り に 二人 の 画家 を き ち ん と 区 別 し て い た 。. そ し て 年 方 に つ い た。 のち に ﹁ 自 作 を 語 る ﹂ のな か で 述 べ て い る 。. 鏑木 清方﹄毎 日新聞社. 昭 和 四十 六 年. ﹁ 挿 絵 画 家 を 志 し た の も、これ が 文 事 に よ り 近 い か ら の こと で あ った ﹂. 清 方 の 随 筆 ﹁画 心 録 ﹂ (﹃画 集. (一九 七 一) 十 月 ) の 一文 を 引 用 し 、 父 の 条 野 採 菊 の 勧 め に よ り 日 本 画 家 の. 道 に 進 んだ と す る。 し か し 、 採 菊 が ﹁一つ の家 に 二 人 のも の書 き は 無 用 と 考 え. た ﹂ と い う 池 内 の推 測 に は 疑 問 が 残 る と こ ろ であ る。 そ れ は条 野 家 の経 済 的 理. 由 が 大 き い と 考 え ら れ る か ら で あ る 。 日本 画 家 を志 す こと に な った き っか け を 清 方 は次 のよ う に 述 べ て い る。. 一. 一. 5.
(7) 将 来 の職 業 に つ い て 話 し 合 い が 持 た れ た。 父 と し て 息 子 に す す め た の は、 定 収. そ れ ま で 清 方 は、 漠 然 と 文 筆 を 仕 事 に し よ う と望 ん で い た。 絵 を 描 く よ り は. 御 質 問 の中 の 画家 に な つた 動 機 と い ふ も の に答 へま す 。. 程 将 来 に 対 す る志 望 な ど を ハ ツキ リ 有 つた も の は、 マア 勘 か つた と 云 へ. 文 章 を読 む の が好 き で あ った。 し か し 、 最 終 的 に は 挿 絵 画 家 を 志 す こ と に な っ. のあ る挿 し 絵 画 家 の 道 であ った。. る で せ う。 只 漫 然 と 自 分 で は 小 説 家 か何 か 、 文 学 の畑 で 育 ち た い と いふ た のである。. 私 が 画 を 習 ひ始 め た の は十 四 歳 の時 で す が 、 そ の時 分 の少 年 に は 今 日. やうな ことは望 んで居た やうでした。. そ れ が 具 体 化 し 父 の 経 営 す る新 聞 に 挿 絵 を か いた 芳 年 と そ の弟 子 、年方. 画 を習 ふ よ り前 に 、 友 人 と 回覧 雑 誌 ( 勿 論 自 筆 で) を こし ら へて 脚 本 だ の 小 説だ の を真 似 事 を し て 居 た 程 で し た が 家 に資 財 も な く、 あ ま り 長. の いつ れ か に 就 く こ と に な って 私 は 後 者 を 選 ん だ 。. 己 呂 比. よ り 絵 筆 の道 に進 む。 それ は 池 内 の い う 二 つの家 に 二人 の も の書 き は 無 用 と. 清 方 自 身 は 、 文 筆 の道 に 興 味 が あ った よ う で あ る が 、 父 ・採 菊 の強 い 勧 め に. 芳 年 翁 の浅 草 須 賀 町 の住 居 へは 遊 び に も 行 つ て居 る 。 翁 の 愛 嬢 ( 今の. 清 方 は、 芳 年 を 敬 遠 し 、 年 方 を 師 と 選 んだ 理 由 を 次 のよ う に 述 べ る。. を 師 と す る こと を 選 ぶ の であ った 。. で あ った。 採 菊 は 芳 年 、 年 方 の いず れ か に 就 く こ と を 勧 め、 清 方 は 水 野 年 方. 当 時 ﹃や ま と 新 聞 ﹄ に 挿 絵 を 描 い て い た の は 月 岡 芳 年 と そ の弟 子 水 野 年 方. く 学 校 を 続 け る こ と は 見 込 み が な い の で 、 な る べく 早 く 生 活 の 出 来 る 職 業 を 撰 ば な け れ ば な ら な い 羽 目 に な り、 医者 に な れ と も 勧 め ら れ た が 、 これ は御 免 蒙 つて、 新 聞 の挿 画 か き に な る こ と を 目 的 と し て 画 を 習 ふ と. 野. 考 え た ﹂ と い う わ け で は な く 、 ﹁な る べ く 早 く 生 活 の 出 来 る 職 業 を 撰 ば な け れ. 極 め た ので し た 。. 佐. 伊 豆 蔵 の 番 頭 を し て いた 。 山 々亭 有 人 と い う 筆 名 で 人 情 本 を 書 き 、 戯 作 者 と し. 採 菊 は 、 日 本 橋 の庶 民 向 け 出 版 物 を 取 り 扱 う 版 元 に 生 ま れ た 。 本 郷 の 呉 服 商. た いな ど と 思 つ て居 る 内 に 、 芳 年 翁 は 狂 疾 を 得 て 再 び 起 た ざ る に 至 り 、. な眼 鏡 が画 を教 わる とな ると気 詰 まりだ 、習 ふな ら年 方 さん の方 にし. ち や ん は 画 が 好 きだ か ら と い は れ て、 何 か 貰 つた こ と も あ つ た が 、 大 き. 築 地 の錦 楽 の女 主 人 ) に 広 重 や 国 芳 の錦 絵 を 見 せ て も ら つ た り、 翁 に 坊. て名 を あ げ た。 ま た 、 明 治 五 年 (一八 七 二) に 落 合 芳 幾 ら と と も に ﹃東 京 日. 明 治 二十 四 年 七 月、私 は 遂 に 年 方 先 生 の許 に弟 子 入 す る こ と に な つた 。. ば ﹂ な ら な った か ら で あ る。. 日 新 聞 ﹄ を 創 刊 し た 新 聞 人 で も あ った。 (一八 八 六 )、 採 菊 は 自 ら 社 長 と な って ﹃や ま と 新 聞 ﹄ を創 刊 し. 芳年だ と ﹁ 気詰 まり﹂す ることを理由 に挙げ ている。. 明 治十九年. た 。 人情 噺 の名 人 三 遊 亭 円朝 の創 作 を 口述 筆 記 し て 連 載 し、 人 気 の浮 世 絵 師 ・. 清 方 は、 美 術 史 家 の北 川 桃 雄 と の対 談 の中 で、 芳 年 と 年 方 の挿 し 絵 の そ れ. そ う で も な い ん で す 。 錦 絵 は 芳 年 に も よ い も のが あ り ま す け れ ど も 、. ぞ れ の筆 法 に つい て 次 のよ う に 述 べ て い る。. 月 岡 芳 年 に 付 録 の 錦 絵 や 挿 し 絵 を 依 頼 し た の が 二大 看 板 に、 採 菊 自 身 も 筆 を 執 り 、 好 評 を 博 し た。 そ の後 、 ﹃や ま と 新 聞 ﹄ は、 他 紙 と の競 争 に よ り 紙 勢 振 る わ ず 、 そ の経 営 は 苦 し い も のと な って いく 。採 菊 は清 方 の行 く 末 を 考 え 、清 方 の十 三 歳 の あ る 日 、. 一. 一. 6.
(8) D く 考 勧 ど 巧 熱 図 地 r 材 教. き て い て、 少 し 間 延 び が し て い る ん です 。 子 供 の時 分 は そ んな 批 判 は な. 挿 絵 は初 め のう ち は い い ん で す が 、 あ と、 だ ん だ ん 四 條 派 の絵 が 入 って. さ て、 清 方 は 柴 田 真 哉 の も と で 絵 に 関 し て 、 ど の よ う な 稽 古 を し た のだ ろ う. 蒔 絵 を 愛 用 し て い る 関 係 も あ り 、そ の 一ヵ月 後 に 柴 田真 哉 に 入 門 し た と 考 え る。. し 、 池 田家 の婿 養 子 と な って い る 。 稿 者 の憶 測 に 過ぎ な い が、 母 が 池 田泰 真 の. か。. 昭 和 三十 七 年 (一九 六 二) 十 月. せ てご 参 照 いた だ け れ ば 幸 い で あ る 。. 平成十九年. 七頁). (二〇 〇 七) 十 一月. 一- 一三頁 ). ﹁ 教 材 ﹁浅 春 随 筆 ﹂ 考 ﹂ (﹃ 釧路 論集﹄第 三十九号 路校. 北海道教育 大学釧. 教 材 と し て の ﹁浅 春 随 筆 ﹂ に つ い て考 察 を 試 み た こと が あ る 。 本 稿 と 合 わ. 研究所. 大藤 時彦 ﹁ 柳 田 先 生 と 国 語 教 育 ﹂ (﹃ 教 室 の窓 ﹄ 第 十 一巻 第 十 号. 年 方 に 比 す れ ば そ れ ほ ど 大 き い も の で は な か った と 言 え よ う 。. 注. 1. 2. 東 京教育. の連 続 性 は な い よ う で あ る。 日 本 画 家 と し て の清 方 に 与 え た影 響 を 考 え る と 、. 起 さ れ な か った よ う で あ る。 ま た 、 絵 の修 行 に つい て は 、 柴 田 真 哉 か ら 年 方 へ. 清 方 が幼 か った こ と も あ り、 柴 田真 哉 のも と で は 絵 に 対 す る 興 味 、 関 心 は 喚. た と 見 え て 、 あ と は 続 か ず そ れ き り に な って 了 った 。. 筆 と 硯 、 鎭 と 植 木 鉢 の 三 枚 を 習 った こと が あ る 。 稽 古 に は 年 齢 が 早 過 ぎ. 八 、九 歳 の時 、こ の 人 ( 稿 者 注 ⋮柴 田 真 哉 )の手 本 を 貰 って、白 玉 の 椿 、. 面 白 く な い も のだ と そ れ つき り 画 の方 は 興 が 向 か な か つた 。. 氏 の と こ ろ へ行 つて、 筆 に 硯 、 植 木 鉢 に饅 、 白 椿 の 三枚 を 習 つて、 一向. 画 は好 き だ が 画 工 に な る と い ふ 気 は無 し 、 九 歳 の時 柴 田 是 真 の 息 真 哉. ゑかき. か った け れ ど も 、 漫 然 と 筆 の荒 っぽ い芳 年 さ ん の よ り は 、 筆 の描 写 の細 か い年 方 先 生 の絵 が 好 き だ った ん です ね。 習 う ん な らば 年 方 さ ん の方 が い い と い う ん で、 そ れ に 始 終 う ち に も 遊 び に 見 え て い た ん で、 億 劫 で も な か った か ら 、 年 方 先 生 に 入 門 し た わ け で す 。. 芳 年 の 荒 い描 写 よ り も 、 年 方 の細 か い 描 写 が好 み で あ った こと も 年 方 に 入 門 した 理由であ るという。 さ て、 前 述 の教 師 用 指 導 書 に は 、 次 の よ う な 記 述 が あ り 、 年 方 の前 に 柴 田真 哉 に 入 門 し 、 年 方 の門 に移 った と あ る。. 九 歳 に し て 柴 田真 哉 の門 に 入 った が、 後 、 江 戸 浮 世 絵 派 の水 野 年 方 の門. (一八 八 六 ) の項 に は 、 次 の よ う な 記. に 移 り、 以 後 今 日 ま で 風 俗 画 を 描 き つづ け て い る 。. 実 際 に、 柴 田真 哉 の 日記 の 明 治 十 九 年. 鏑 木 こま 子 長 男 健 一入 門 。. 述 が見 ら れ る 。. 四月. も と も と 清 方 の家 と 柴 田真 哉 の 父 で あ る柴 田 是 真 の 一門 と は 親 し い付 き 合 い があ った と いう 。 採 菊 は季 節 ご と に床 の間 に掛 け て あ る幅 のほ と んど が 是 真 のも の であ り 、 母 も櫛 や手 回 り の調度 は是 真 の弟 子池 田泰 真 の蒔 絵 であ った 。 清 方 が、 是 真 一門 の中 で、 な ぜ 柴 田真 哉 の門 を 選 ん だ の か は 、 そ の 理 由 は 明 ら か で は な い。 柴 田真 哉 は 、 明 治 十 九 年 (一八 八 六 ) 三 月 四 日、 池 田泰 真 の長 女 寿 美 と 結 婚. 一. 一. 7.
(9) 3. 教材 とし ての ﹁ 大 蛇 ・小 蛇 ﹂ に つい て 考 察 を 試 み た こ と が あ る。 本 稿 と 合. ま し ひ ﹄ (ア テネ 文 庫. 弘文堂. 昭 和 二十 六 年. (一九 五 一))、 ﹃近 代 劇. 昭 和 二十 八 年 (一九 五 三 ))、﹃山 田肇 演 劇 論 集 ﹄ ( 白. 平 成 十 三 年 (二〇 〇 一)十 一月 ). 平 成 七 年 (一九 九 五 ) 七 月 ) な ど が あ る 。. 平 成 二十 一年 (二〇 〇 九 )五 月. 二四 八 - 二四 九 頁. 平 成 九 年 (一九 九 七 ) 三 月 ). 郷 愁 の色 ﹂ ( 日 本 ア ー ト セ ン タ ー 編 ﹃鏑 木 清 方 ﹄ 新 潮 新 潮社. 条 野採菊. 一八 三 ニー 一九 〇 二. であ った。﹂ と 読 点 は 施 さ れ て い な い 。. げ さく. じ ょ う のさ いぎ く. 天保 三- 明 治 三 十 五. ﹁ 画心録﹂ では、 ﹁ 挿 絵 画家 を 志 し た のも これ が 文 事 に よ り 近 い か ら の こと. 日 本 美 術 文 庫 31. 池 内 紀 ﹁明 治 の 夢. 清 方 の幼 少 期 か ら 明 治 末 年 ま で が 回想 さ れ て い る。. 昭 和 三 十 六 年 (一九 六 一) の ﹃こ し か た の 記 ﹄ は 自 叙 伝 の要 素 が強 い 。. る が 、 本 書 は 新 た に 起 稿 し た も の であ る。. ﹁こ し か た の記 ﹂ の 題 名 は 、 嘗 つて 自 分 の 随 筆 本 の な か でも 用 い て い. に述 べている。. 刊 さ れ て い る。 そ の こ と に つ い て、 清 方 は ﹁あ と が き ﹂ の中 で次 の よ う. 昭 和 十 六 年 (一九 四 一) に 同 名 の 随 筆 集 ﹃こ し か た の 記 ﹄ (双 雅 房 ) が 発. 文芸社. 土 谷 桃 子 ﹃江 戸 と 明 治 を 生 き た 戯 作 者 - 山 々亭 有 人 ・条 野 採 菊 散 人﹄ 近 代. (﹁山 田 肇 ﹂﹃日本 人 名 大 辞 典 ﹄講 談 社. 風社. 十 二講 ﹄ ( 未來 社 北海道 教育. 一1 = 頁 ). ﹁ 大 蛇 ・小 蛇 ﹂ 考 (1)﹂ (﹃ 釧 路 論 集 ﹄ 第 四十 号 平 成 二十 年 (二〇 〇 八) 十 一月 7. 11. 10. 9. 8. わ せ てご 参 照 い ただ け れ ば 幸 い で あ る。 ﹁ 教材 大学釧路 校. 昭. ﹁ 教材 ﹁ 大 蛇 ・小 蛇 ﹂考 (2)﹂ (﹃北 海 道 教 育 大 学 紀 要 ( 教 育 科 学 編 )﹄ 一- 一六 頁 ). 全﹄ ( 東 京書 籍. 明 治 四十 - 平 成 五. 高 等 学 校 一年. 平 成 二十 一年 (二 〇 〇 九 ) 二 月. 一六 頁 頭 注. 第 五 十 九 巻 第 二号 4. ﹁ 国 語 ﹂ 研 究 会 ﹃﹁ 国 語﹂指 導 の研究. 一九 〇 七- 一九 九 三. 一五 頁 ). 5. 山 田肇. 和 三十 二年 (一九 五 七 ) やまだはじ め. 卒 、 昭 和 七 年 (一九 三 二) 東 京 帝 国 大 学 美 学 科 卒 、 在 学 中 か ら 心 座 に. 6. 演 劇 学 者 、 明 治 大 学 名 誉 教 授 。 明 治 四十 年 (一九 〇 七 ) 東 京 府 牛 込. 己 呂 比. 関 わ り、 新 興 劇 団協 議 会 書 記 局 員 、 鏑 木 清 方 の長 女 と 結 婚 、 杉 山 誠 と. 区 に 医師 の長 男 と し て 生 ま れ る 。 昭 和 四 年 (一九 二九 ) 第 =口 同等 学 校. 野. (一九 四 六 ) 新 演. 親 し い。 昭 和 十 三 年 (一九 三 八 ) 明 治 大 学 で 西 洋 演 劇 を 教 え 、 昭 和 (一九 四 五) 文 芸 科 兼 任 教 授 、 昭 和 二十 一年. 佐 二十 年. 劇 人 協 会 事 務 局 長 、 昭 和 二十 二年 (一九 四 七 ) 年 木 下 順 二 ら の ﹁ ぶど (一九 四 八 ) 築 地 小劇 場 代 表 取 締 役 、. 戯 作 者 、 新 聞 人 。 天 保 三 年 (一八 三 二) 九 月 一日 江 戸 に 生 ま れ る 。. う の会 ﹂ に 参 加 、 昭 和 二十 三年. 昭 和 二十 四年 (一九 四 九 ) 明 大 文 学 部 創 設 に よ り 正教 授 と な る。 昭 和. 本 名 条 野 伝 平 。 山 々 亭 有 人 な ど の別 号 が あ る 。 江 戸 の生 ま れ 。 幕 末 、. さ んさ ん ていあ り んど. 三 十 年 (一九 五 五 ) ガ ル シ アHロル カ ﹃ベ ル ナ ル ダ ・ア ル バ の家 ﹄ を. 朧 月 亭 の 別 号 に よ る ﹃春 色 恋 廼 染 分 解 ﹄ (万延 元 年. こう こ. 一八 七 四) を は じ め ﹃と り か へば や ﹄ (明 治 二 十 二 年. おう ち. 一八 八 九 ). な った 。 こ の 間 、 小 説 家 と し て も 実 録 風 の ﹃近 世 紀 聞 ﹄ (明 治 七 年. こ い の そ め わ け. 岡 倉 士 朗 と 演 出 。 昭 和 三 十 六 年 (一九 六 一) ﹁ ぶ ど う の会 ﹂ を 脱 退 、. 他 の 人情 本 作 者 と し て 知 ら れ た。 慶 応 四 年 (一八 六 八 ) 福 地 桜 痴 ら と. ろう げ つて い. 劇 団 風 を 旗 揚 げ 。 昭 和 四十 四- 四十 八 年 (一九 六 九- 七 三) 明 治 大 学. ﹃江 湖 新 聞 ﹄ を創 刊 、明 治 五 年 (一八 七 二) に は ﹃東 京 日 日 新 聞 ﹄ を 、. 一八 六 〇 ) そ の. 人 文 科 学 研 究 所 所 長 。 昭 和 五十 三 年 (一九 七 八 ) 明 治 大 学 名 誉 教 授 。. さ ら に そ の 後 明 治 十 九 年 (一八 八 六 ) ﹃や ま と 新 聞 ﹄ を 設 立 、 社 長 と 昭和 モ ス ク ワ 芸 術 座 のた. 至 文堂. スタ ニ スラ フ ス キ ー の翻 訳 で 知 ら れ 、 岸 田 国 士 戯 曲 賞 選 考 委 員 を 第 一. (一九 五 一))、 ﹃ス タ ニ ス ラ フ ス キ イ. 回 か ら 務 め た 。 著 書 に ﹃近 代 劇 ﹄ (日本 文 学 教 養 講 座 二十 六 年. 一. 一. 8.
(10) D く 考 勧 ど 巧 熱 図 馳 材 教. 12. 13. 14. な ど の 作 が あ る。 三 遊 亭 円 朝 の速 記 を ﹃や ま と 新 聞 ﹄ に 載 せ 、 河 竹 を ふ る った 。. し て の立 場 を 鮮 明 に 打 ち 出 し 、 自 由 民 権 派 の政 論 新 聞 に 対 抗 し て 健 筆. も く あ み. 勢 は 変 わ らず 、 明 治 二 十 一年 (一八 八 八) 七 月 福 地 は 社 長 の座 を 関 直. に は 勢 力 挽 回 の た め、 わ が 国 で初 め て朝 夕 刊 発 行 を 一年 間 試 み た が 形. ら ﹃東 京 日 日 新 聞 ﹄ の 勢 力 は失 墜 し 始 め た。 明 治 十 八 年 (一八 八 五 ). 明 治 十 五 年 (一八 八 二 ) 福 地 が 政 府 支 持 の 帝 政 党 を 組 織 し た こ ろ か. 地 の主 権 在 君 論 や漸 進 主 義 は、し だ い に ﹁ 御 用 記 者 ﹂と の批 判 を強 め 、. し か し、 自 由 民 権 運 動 が 盛 ん に な る と と も に 政 府 批 判 が 高 ま り 、 福. 黙 阿 弥 に 脚 本 の 題 材 を 与 え も し た。 明 治 三 十 五 年 (一九 〇 二) 一月. 八四頁) 天 保 四- 明 治 三 十 七. 二. 平 成 六 年 (一九 九 四)、. 二十 四 日、 前 年 か ら 患 って い た 心 臓 病 が 原 因 で 死去 。 ( 岡 保生 ﹁ 条 野採 菊 ﹂﹃日本 大 百 科 全書 ﹄小 学館 注7土谷前掲書). 昭 和 五 十 四 年 (一九 七 九 ) 十 一月. 鏑 木清 方 ﹁ 初 め の志 望 ﹂ 昭 和 六 年 (一九 三 一) 五 月 (﹃鏑 木 清 方 文 集 明治追懐﹄ 白鳳社 落 合芳幾. り か え 、 紙 面 を 刷 新 し て、 大 幅 に 部 数 を 伸 ば し た が、 内 外 の 策 動 で. 彦 に 譲 り、 退 社 し た。 関 は そ れ ま で の御 用 新 聞 主 義 か ら 中 立 主 義 に 切. 芳 に ま なび 、同 門 の 月 岡 芳 年 と な らび 称 さ れ た。 明 治 五 年 (一八 七 二). 明 治 二十 四 年 (一八 九 一) に退 任 し 、 伊 東 巳 代 治 が社 長 と な った 。 同. (一八 三 三) 生 ま れ。 歌 川 国. 一八 三 三 - 一九 〇 四. お ち あ いよ し いく 幕 末 ・明 治 時 代 の 浮 世 絵 師 。 天 保 四年. ﹁ 東 京 日 日 新 聞 ﹂、 明 治 八 年 (一八 七 五 ) ﹁ 東 京 絵 入新 聞 ﹂ の創 刊 に 参. 年 朝 比 奈 知 泉 が 入社 、 論 説 を 担 当 す る よ う に な って か ら は 伊 藤 博 文 、. よ しと し. 加 、 新 聞 紙 上 に 挿 絵 を と り い れ た 。 美 人 風 俗 画 や役 者 似 顔 絵 な ど を 得. 年 (一九 〇 四) 三菱 の手 に 渡 る が 欠 損 が 続 き 、 加 藤 高 明 が 社 長 と な っ. は 、 伊 藤 の 政 策 を支 持 、 最 後 ま で 対 露 外 交 交 渉 を 説 い た 。 明 治 三 十 七. 三 井 資 本 な ど の支 援 も あ った が、 長 州 閥 系 紙 と な る。 日 露 開 戦 の と き. 井 上 馨 、 山 県 有 朋 ら の 長 州 閥 の機 関 紙 と 化 し た 。 伊 藤 博 文 、 井 上 馨 、. 東 京 日 日新 聞. (一九 一 一) 三 月 ﹃ 大 阪 毎 日新 聞 ﹄ の経 営 下 に 入 り、 全 国 紙. て 以 後 、 次 々と 社 長 が 変 わ る が、 経 営 不振 は 打 開 で きず 、 つい に 明 治 四十 四年. 昭和六十 三. へと 発 展、 題 字 は 存 続 さ せ た ま ま ﹃毎 日電 報 ﹄ と 合 併 し た 。 以後 同 紙. ( 浮 世 絵 師 )、 西 田 伝 助 ( 本 屋 の番 頭 ) に よ っ. や ま と新 聞. ﹁ 東 京 日 日 新 聞 ﹂ ﹃日 本 大 百 科 全 書 ﹄). ﹁ 東 京 日 日新 聞 ﹂ ﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄ 平 凡 社. 菊 ( 戯 作 者 )、 落 合 芳 幾. やま としんぶ ん. 年 (一九 八 八 )、 春 原 昭彦. ( 山 本武利. は 、﹃大 阪 毎 日 新 聞 ﹄ と と も に 不偏 不 党 の全 国 紙 の方 向 へと 発 展 し た 。. の 日刊 新 聞 で、 現 在 の ﹃毎 日新 聞 ﹄ 東 京 本 社 の前 身 に あ た る。 条 野 採. 明 治 五 年 (一八 七 二) 二 月 二十 一日 に創 刊 さ れ た東 京 にお け る 最 初. と う き ょう に ち に ち し ん ぶ ん. (﹁ 落 合 芳 幾 ﹂ ﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄). 出 身 。 通 称 は 幾 次 郎 。 号 は 一恵 斎 、 朝 霞 楼 。. 意 と し た。 明 治 三十 七 年 (一九 〇 四) 二 月 六 日 死 去 。 七 十 二歳 。 江 戸. 15. て 設 立 さ れ た 日報 社 よ り 発 刊 し た 新 聞 だ が 、 翌 明 治 六 年 (一八 七 三 ) ほ き や ま. 甫 喜 山 景 雄 、 岸 田吟 香 が 入 社 、 明 治 前 期 に は 末 松 謙 澄 も 活 躍 し た 。 岸 田は 明 治 七 年 (一八 七 四) 五 月 台 湾 出 兵 に 初 め て従 軍 、 紙 上 を に ぎ わ わ せ た。 つ い で福 地 桜 痴 が 入社 、 十 二 月 二日 か ら 社 説 を 掲 載 す る と と. 第 二次 世 界 大 戦 前 、 東 京 で 発 行 さ れ て い た 日 刊 紙 。 明 治 十 七 年. おお. もに ﹁ 太 政 官 記 事 印 行 御 用 ﹂ を 掲 げ て権 威 を 高 め、 代 表 的 大 新 聞 と し. (一八 八 四 ) 年 十 月 ﹃東 京 日 日新 聞 ﹄ 創 刊 者 の 一人 で あ る条 野採 菊 に. だ じ ょう かん. て の性 格 と 地 位 を 固 め た 。 以 後 、 福 地 の 論 説 は 政 府 な ら び に 各 界 に 影. よ っ て ﹃敬言察 新 報 ﹄ と し て 創 刊 さ れ 、 お も に 警 察 ダ ネ を 掲 載 す る 小. こ. 響 を 及ぼ す と と も に 、 政 府 の官 報 の役 割 を 果 た し た。 政 府 御 用 新 聞 と. 一. 一. 9.
(11) 月 一日 ﹃日 出 国 新 聞 ﹄ と 改 題 し た が、 明 治 三 十 七 年. (一九 〇 四 ) ふ た. (一九 〇 〇 ) に は新 聞 経 営 者 で 政 治 家 の 松 下 軍 治 の経 営 に移 り 、 十 一. ず 、 明 治 三 十 年 (一八 九 七 ) に 子 爵 高 島 靹 之 助 に譲 渡 、 明 治 三 十 三 年. 向 け の編 集 方 針 で 評 判 を 博 し た 。 し か し 他 紙 に お さ れ て 紙 勢 振 る わ. 新 聞 で あ る。 三 遊 亭 円 朝 そ の 他 有 名 な 芸 人 の 話 や 講 談 を 連 載 、 庶 民. 助 ら ﹃東 京 日 日 新 聞 ﹄ の 関 係 者 が 、 ﹃敬言察 新 報 ﹄ を 改 題 創 刊 し た 大 衆. 新 聞 で あ った 。 明 治 十 九 年 (一八 八 六) 十 月 七 日、 条 野 採 菊 、 西 田 伝. 十 七歳 のと きに衰 微す る三遊 派 の再興 を期 し て芸名 を 円朝 と改名 し. た 。 の ち、 や は り 落 語 家 で身 を た て る こ と に し 、 二代 円 生 門 に 復 帰 、. 学 にも励 んだ。 これ が後世 に おけ る円朝 の怪談 噺創 作 に強く 影響 し. も 病 を 得 て 帰 宅 し 、 玄 昌 の住 む 谷 中 の長 安 寺 に 母 と 同 居 し 、 仏 教 の修. に な った 芝 居 噺 の道 具 を 作 る際 に 大 い に 役 立 つ こ と に な る が、 こ こ で. に 浮 世 絵 の修 業 を積 ん だ 。 こ の と き の修 業 が 、 のち に 円 朝 の売 り も の. な って帰 宅 し 、 改 め て 玄 冶 店 ( 現 在 の 日 本 橋 人 形 町 あ た り)の歌 川 国 芳. で 休 席 し、 池 の端 の 紙 商 兼 両 替 商 葛 西 屋 へ奉 公 し た。 し か し 、 病 気 に. しんぶん. た び 旧 題 号 ﹃や ま と 新 聞 ﹄ に 復 し た 。 松 下 軍 治 社 長 時 代 は、 福 地 桜 痴. て 場 末 回 り の真 打 に 昇 進 し た。 安 政 六 年 (一八 五 九 )の ﹃累 ヶ淵 後 日 怪. り. ば. げ んや だな. (源 一郎 )や 朝 比 奈 知 泉 ら の老 言 論 人 を擁 し て い た。 政 治 的 は藩 閥 の山. 談( 真 景 累 ヶ淵 )﹄ の自 作 自 演 を 手 始 め に 、 多 く の 創 作 噺 で 人 気 を 得. こ. けいしゃ. あわ た くち しめ す ふえ たけ. か えも ん. (一八 六 四) 二十 六歳 で 両. な り ひら ぶん じ ひ ょうり ゅ うき だん. あた みみや けいで ゆのき きがき. み さお く ら べおん な が っこう. 々. ふた つち ょう ち ょう. かた き うち ふだ し ょ. ﹃霧 隠 伊 香 保 湯 煙 ﹄ ﹃熱 海 土 産 温 泉 利 書 ﹄ ﹃政 談 月 の鏡 ﹄ ﹃闇 夜 の 梅 ﹄. き り が く れ いか ほ のゆ け む り. ﹃文 七 元 結 ﹄﹃粟 田 口 露 笛 竹 ﹄ ﹃ 業 平文治 漂流奇談﹄﹃ 敵 討札所 の霊験﹄. ぶん しち も っと い. 雪 の 子 別 れ ﹄、 伝 記 も の で は ﹃月 謡 荻 江 一節 ﹄、 人 情 噺 で は. つき に うた う お ぎえ の ひと ふし. め 、 芝 居 噺 で は ﹃菊 模 様 皿 山 奇 談 ﹄ ﹃緑 林 門 松 竹 ﹄ ﹃双 蝶. み どり のは やし か ど のま つた け. 淵 ﹄ ﹃怪 談 乳 房 榎 ﹄ ﹃怪 談 牡 丹 灯 籠 ﹄ の 長 編 怪 談 噺 三 部 作 を は じ. 多 数 の 円 朝 の 創 作 の な か で 代 表 的 な も の は 、 前 述 の ﹃真 景 累 ヶ. やなか. 県有 朋 ・ 桂 太 郎 系 と み な さ れ 、 大 正 二年 (一九 一三) の憲 政 擁 護 運 動. た 。 と く に 天 保 の改 革 以 後 、 芝 居 が 江 戸 の 中 心 か ら 離 れ た 浅 草 観 立旦裏. と. で は 民 衆 の焼 打 ち を う け た 。 大 正 三年 (一九 一四) の シー メ ン ス事 件. の猿 若 三 座 に 限 ら れ、 一般 大 衆 が 手 軽 に見 物 に 行 け な く な った こ と も. ま. で は 山 本 権 兵 衛 内 閣 を 批 判 、 山 本 権 兵 衛 内 閣 打 倒 の急 先 鋒 と な り 、 松. あ って、 派 手 な 衣 装 や 道 具 を 使 用 し て歌 舞 伎 の雰 囲 気 を 持 ち こ ん だ 芝. や. 下 は 同 志 記 者 会 の 代 表 格 と し て 活 躍 し た。 大 隈 重 信 内 閣 擁 立 に 力 を 尽. 居 噺 は、 い っそ う 人気 を 集 め た。 元 治 一年. 天 保 十- 明. かさねがふち. 己 呂 比. く し た が、 こ の こ ろ が 最 盛 期 で、 大 正 四 年 (一九 一五 ) 松 下 が 亡 く な. 国 垢 離 場 の昼 席 の真 打 と な り、 以 後 年 と と も に 名 声 を あ げ 、 三 遊 派 の. 一八 三 九- 一九 〇 〇. しんけい. 野 る と 衰 退 に 陥 った。 昭 和 六 年. 実 力 者 と な った 。. 日 本 大 百 科 全 書 ﹄) さ ん ゆ う て い え ん ち ょう. 三遊 亭 円 朝. ( 有 山 輝 雄 ﹁や ま と 新 聞﹂﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄、春 原 昭 彦 ﹁ や まと新聞﹂. 日 ま で 発 行 が 確 認 さ れ て い る。. に 移 り、 国 防 思 想 の 普 及 に 努 め た 。 昭 和 十 九 年 (一九 四 四) 四 月 三 十. (一九 三 一) 一月 か ら は 四 ぺー ジ 建 て の. 佐. 夕 刊 新 聞 と な り、 昭 和 に 入 る と、 右 翼 大 化 会 の指 導 者 岩 田富 美 男 の手. 16. 治 三十 三. ま つ のみさ お. ﹃松 と藤 芸 妓 の替 紋 ﹄ ﹃操 競 女 学 校 ﹄ ﹃梅 若 七兵 衛 ﹄、翻 案 も の で は ﹃名. え いこく こうし. 落 語 家 。 本 名 出 淵 次 郎 吉 。 二代 三 遊 亭 円 生 門 人 の橘 家 円 太 郎 こと 出. 人 く ら べ﹄ ﹃西 洋 人 情 噺 英 国 孝 子 ジ ョー ジ ス ミ ス之 伝 ﹄ ﹃松 操 美 人 の. こがね. ﹃ 鰍 沢﹄ ﹃ 大 仏 餅 ﹄ ﹃黄 金 餅 ﹄ ﹃死 神 ﹄ ﹃心 眼 ﹄. かじかざわ. ふ く ろく じゅ. 淵 長 蔵 の子 と し て 天 保 十 年 (一八 三九 ) 四 月 一日 江 戸 ・湯 島 切 通 し に. 生 埋 ﹄ ﹃欧 州 小 説 黄 薔 薇 ﹄ な ど で あ り 、 ﹃ 福 禄寿﹄など 北海道 で取材し. こう し ょう ひ. 生 ま れ る。 父 と 同 じ く 二代 円 生 に 師 事 し、 七 歳 の と き 小 円 太 と 名 の っ. たも のもある。 このほか. いき うめ. て 初 高 座 を つと め 人 気 者 に な った が、 異 父 兄 の臨 済 宗 の僧 玄 昌 の忠 告. 一. 一. 10.
(12) D く 考 勧 ど 巧 熱 図 地 r 材 教. ぜ ん し ょうあ ん. みみ し. る 。 円朝 は 、怪 談 噺 、芝 居 噺 、人 情 噺 、落 し 噺 な ど 江 戸 落 語 を 集 大 成 し 、. る が 、 谷 中 の全 生 庵 に あ る 墓 碑 に は 上 五句 が ﹁ 聾 ひ て﹂ と 改 作 さ れ て. たけ. 文 久 年 間 (一八 六 一- 一八 六 四)か ら条 野 採 菊 、 仮 名 垣 魯 文 な ど の戯. 近 代 落 語 発 展 への道 を 開 い た が、 こと に 人 情 噺 と い う 高 度 な 話 芸 を 完. ﹃士 族 の商 法 ﹄ ﹃に ゅ う﹄ ﹃笑 い 茸 ﹄ な ど 多 く の落 し 噺 も 口演 し て い る. 作 者 、 三 世 瀬 川 如 皐 、 二世 河 竹 新 七 (河 竹 黙 阿 弥)な ど の狂 言 作 者 を は. 成 し て落 語 の次 元 を 高 め た 功 績 は 大 き い。 ま た 、 山 岡 鉄 舟 の も と で 禅. い る。 ﹃真 景 累 ヶ淵 ﹄ ﹃怪 談 牡 丹 灯 籠 ﹄ な ど で 描 写 し た 因 果 応 報 や 輪 廻. じ め とす る 文 人 た ち が ﹁ 粋 狂 連 ﹂ と い うグ ル ー プ を つく って 三 題 噺 を. に 傾 倒 し、 井 上 馨 ら と も 親 交 し、 そ の話 芸 は 迫 真 軽 妙 の極 に達 し て 朝. が 、 彼 の高 座 に はす べて 聴 く 者 の胸 を打 つよ う な 技 巧 と 手 法 が 考 案 さ. 自 作 自 演 し て流 行 さ せ て い た が 、 これ に 参 加 し て落 語 の題 材 や 演 出 法. 野 の名 士 に 愛 さ れ 、 落 語 家 の社 会 的 地 位 を 向 上 さ せ た。 な お 、 二代 目. の 思 想 を 背 景 に 、 円 朝 が 到 達 し た 解 脱 の境 地 が こ の 句 に 示 さ れ て い. な ど 多 く のも の を 学 ん だ 円朝 は 、 落 語 界 に 新 風 を起 こし 、 そ の 地 位 を. は 大 正十 三 年 (一九 二 四) に初 代 三 遊 亭 円 右 が 襲 名 し た が、 高 座 に 上. じ ょ こう. 確 立 し て い った。 明 治 五 年 (一八 七 二) 新 時 勢 に か ん が み、 道 具 入 り. を 見 て 円 朝 自 身 も新 聞 種 を 口 演 し 、 さ ら に 実 録 人 情 噺 の分 野 開 拓 を め. は 扇 子 一本 の素 噺 に 転 じ た 。 実 録 物 全 盛 と な った 当 時 の講 談 会 の動 向. 与 さ れ た のだ が 、 そ の 由 来 は つぎ の事 情 に よ る。 円 朝 は 陸 奥 宗 光 の. う そ も 云 は る る﹂ の歌 も あ る。 こ の 号 は 嵯 峨 天 竜 寺 の滴 水 和 尚 に 授. 円 朝 は 無 舌 居 士 と 号 し、 ﹁閻 王 に 舌 を 抜 か れ て 是 か ら は 心 の ま ま に. え ん おう. ざ し て実 地 調 査 を 試 み 、 ﹃後 開 榛 名 梅 ヶ香 ﹄ ( 安 中 草 三 郎 )、 ﹃ 塩 原多助. 父 、 伊 達 千 広 に 禅 を 学 び 、 山 岡 鉄 舟 や 高 橋 泥 舟 と も 知 り 合 った。 明 治. つ こ じ. 一代 記 ﹄ を 自 作 自 演 し た 。 ま た 、 モ ー パ ッサ ン の ﹃親 殺 し ﹄ を 翻 案. 二十 三 年 (一八 八 〇 ) 九 月 、 鉄 舟 の侍 医、 千 葉 立 造 の 新 宅 披 露 宴 に 招. ぜ. らず まもなく病没 した。. し た ﹃名 人 長 二﹄、 同 じ く サ ル ド ゥー の ﹃ト ス カ ﹄ を 翻 案 し た ﹃錦 の. か れ 、 同 座 の滴 水 和 尚 に ﹁ 舌 を動かさず に口を結 んで話を聞 かせてほ. すはなし. 舞 衣 ﹄ な ど も 手 が け た 。 門 下 に は 円 喬 、 円 右 、 円左 、 小 円 朝 、 円 馬 、. し い﹂ と 言 わ れ 、 ﹁と て も で き ま せ ぬ ﹂ と 答 え た 。 鉄 舟 は 円 朝 を 別 室. あん な か. 円 遊 な ど の 名 手 が そ ろ い 、 明 治 の落 語 黄 金 時 代 を 成 し た 。 ﹃怪 談 牡 丹. へ伴 い ﹁禅 の 心 得 も あ る の に 無 舌 と い う 公 案 ぐ ら い 解 け ぬ はず は な. お くれ ざき は る な のう め が か. 灯 籠 ﹄ を は じ め と し て 円 朝 の噺 は お り か ら 盛 ん に な った 速 記 術 に よ っ. い﹂ と 二 時 間 あ ま り も 対 座 し た。 そ こ で 円 朝 は 師 千 広 の講 義 を 思 い 出. に 口演 す る こと が で き た と い う。. せ ん こう. て全 国に普及し ( 速 記 本 )、 そ れ ら は 明 治 の 新 文 学 に も 影 響 を 与 え た と. し て よ う や く 悟 る こ と が で き た。 以 後 滴 水 和 尚 に参 禅 し て開 眼 し 、 高. まい ぎぬ. いわ れ る。 円 朝 に よ って落 し 噺 、 人 情 噺 、 芝 居 噺 、 怪 談 噺 な ど の江 戸. 座 へ出 て も 客 の多 少 や 動 作 な ど に 心 を動 か さ れ る こ と な く 、 心 安 ら か. 円 朝 は 明 治 二十 四 年 (一八 九 一) 五十 三 歳 の と き 高 座 を退 き 、 座 敷. 天保 十- 明 治 二十 五. ( 興津 要 ﹁ 三 遊 亭 円 朝 ﹂ ﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄、 関 山 和 夫. 一八 三 九- 一八 九 二. 専 門 の数 年 間 を送 った 。 明 治 三 十 一年 (一八 九 八) に 門 弟 支 援 のた め. 月 岡芳年. ﹃日本 大 百 科 全 書 ﹄、 ﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄) つき お か よ し と し. 江 戸 末 期 か ら 明 治 の浮 世 絵 師 。 天 保 十 年 (一八 三 九 ) 三 月 十 七 日. てんぽ う. ﹁ 三遊亭 円朝﹂. 落 語 の 各 分 野 が集 大 成 さ れ 、 近 代 落 語 隆 盛 への道 が 開 か れ た。. む. 噺 の道 具 を 弟 子 円楽 に ゆ ず って 三 代 三遊 亭 円 生 を襲 名 さ せ、 みず か ら. れ て い る の で、 いず れ も 人 情 噺 的 な 性 格 を 具 備 し て い る。. 17. 高 座 に復 帰 し た が、 めぼ し い寄 席 を 巡 回 し た のち 発 病 し 、 明 治 三 十 三 したや. 年 (一九 〇 〇 ) 八 月 十 一日下 谷 車 坂 町 の 自 宅 で没 し た 。 六 十 二 歳 。 辞 世とし て ﹁ 目 を閉 ぢ て 聞 き 定 め け り 露 の 音 ﹂ と い う 句 が 伝 え ら れ て い. 一. 一. 11.
(13) 的 作 者 で、 日 本 美 術 協 会 のほ か、 岡 倉 天 心 に 認 め ら れ て 日本 青 年 絵 画. ぎ ょ くお う ろう. 江 戸 に 生 ま れ る。 本 名 吉 岡 金 三 郎 、 通 称 米 次 郎 。 別 号 に は 玉 桜 楼 、 た い そ. 協 会 に 入 り 明 治 三十 一年 (一八 九 八 ) に は 日 本 画 会 評 議 員 と な り 、 同. い っか いさ い. く に よし. 一魁 斎 、 魁 斎 、 咀 華 亭 、 子 英 、 た い そ 、 大 蘇 な ど を 用 い た 。 月 岡 雪. こ うと う のな いし. 年 の 日本 美 術 院 創 立 に は 賛 助 会 員 、 審 査 員 と し て参 加 し た 。 歴 史 画 を. ただのぶさ んかんず. 斎 の 名 跡 を つぐ 。 嘉 永 三 年 (一八 五 〇 ) 十 二歳 のと き 歌 川 国 芳 の 門. よ く し、代 表 作 に ﹃佐 藤 忠 信 参 館 図 ﹄﹃ 勾 当 内 侍 ﹄﹃石 清 水 ﹄な ど が あ る 。. か ぶら きき よ かた. に 入 り 、 芳 年 と 名 の る。 三 年 後 に 早 く も 処 女 作 を 発 表 。 慶 応 二 年. 歌 川 国芳 ・月 岡 芳 年 と 続 く 歌 川玄 冶 店 派 を つぐ 。 門 下 か ら 鏑 木 清 方 、. よ し いく. (一八 六 六 ) に 兄弟 子 の落 合 芳 幾 と と も に 描 い た ﹃英 名 二十 八 衆 句 ﹄. し ょう えん. 池 田輝 方 、 池 田蕉 園、 荒 井 寛 方 ら 風 俗 ・美 人 画 の名 手 が 輩 出 し た 。 明. 明 治追 懐﹄ 白風 社. 一八 九 九 - 一九 六 九. 一〇 〇1. 明 治 三十 ニー 昭 和. 昭 和 五 十 四 年 (一九 七 九 ) 十 一月. 北 川桃 雄. 四十 二歳 で 卒 業 。 共 立 女 子 大 教 授 と な り、 美 術 評 論 に 健 筆 を ふ る う 。. 本 美 術 史 を 専 攻 す る。 在 学 中 鈴 木 大 拙 の英 文 ﹁ 禅 と 日本 文 化 ﹂を 邦 訳 、. 師 を つと め 、 志 賀 直 哉 の勧 め で東 京 帝 大 美 学 美 術 史 学 科 に は い り 、 日. 経 済 学 部 卒 業 後 、 京 都 第 一工業 学 校 (現 京 都 府 立 洛 陽 工業 高 等 学 校 )教. れ 。 父 は 小 説 家 の橋 本 埋 木 庵 。 仙 台 の第 二高 等 学 校 を 経 て、 京 都 帝 大. 昭 和 時 代 の美 術 史 家 。 明 治 三 十 二年 (一八 九 九 ) 三 月 三 日東 京 生 ま. 四十 四. き たが わ も も お. 一〇 一頁 ). 二. ﹁ 年 方 先 生 に 学 ん だ 頃 ﹂ 大 正 十 二 年 (一九 二 三) 八 月 ( ﹃鏑 木 清 方 文 集. 本 近 現 代 人 名 大 辞 典 ﹄). (二階 堂 充 ﹁ 水 野年 方 ﹂ ﹃日 本 大 百 科 全 書 ﹄、細 野 正 信 ﹁ 水 野 年 方 ﹂ ﹃日. て るか た. の残 酷 絵 シリ ー ズ で 一躍 人 気 絵 師 と な った 。 菊 池 容 斎 に 私 淑 し 、 歴 史. 20. 治 四十 一年 (一九 〇 八 ) 四 月 七 日 、 四十 三 歳 で没 し た 。. 慶 応 ニー 明 治 四 十 一. 昭 和 四 十 六 年 (一九 七 一). 一八 六 六- 一九 〇 八. (一八 六 六 ) 正 月 二 日 、 江 戸 神 田 つき おか. 21. 画 を 学 び 、 さ ら に洋 画 法 も 摂 取 し 、 多 様 な 画 風 を こ な し た が、 幕 末 か ら 明 治 初 年 に か け て は 歴 史 画 に 傾 注 し、 維 新 後 は時 事 報 道 の 分 野 に 新 生 面 を み いだ し 、 ﹃郵 便 報 知 新 聞 ﹄ ﹃絵 入 自 由 新 聞﹄ ﹃や ま と 新 聞 ﹄ な つき ひ ゃくし. ど の新 聞 挿 絵 に 活 躍 し た 。 ま た こ の こ ろ 百 枚 に 及 ぶ ﹃月 百 姿 ﹄ を は じ と し かた. め ﹃ 風 俗 三 十 二相 ﹄ な ど の美 人 画 の大 作 も 発 表 し て い る 。 水 野 年 方 な. (一八九 二) 六 月. ど 多 く の門 人 に も 恵 ま れ た 。 明 治 五 年 (一八 七 二) こ ろ に精 神 に 障 害 を き た し、 そ の後 、 快 癒 す る こ と な く 明 治 二十 五 年. 十月 みず の と し か た. 水 野年 方. 鏑木 清方 ﹁ 画 心 録 ﹂﹃画 集 鏑 木 清 方 ﹄毎 日新 聞 社. 本 大 百 科 全 書 ﹄、 ﹁月 岡 芳 年 ﹂ ﹃日本 人 名 大 辞 典 ﹄). ( 松 木 寛 ﹁月 岡 芳 年 ﹂ ﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄、 永 田 生 慈 ﹁月 岡 芳 年 ﹂ ﹃日. か いゆ. 己 呂 比 九 日没 し た 。 五十 四 歳 。. 佐. 野. 18. 19. 明 治 時 代 の 日 本 画 家 。 慶 応 二年. う た がわ. 昭 和 三十 一年 (一九 五 六)八 月 、中 国 対 文 化協 会 の招 き で 中 国 に 行 き 、. く めじ ろ う. し ょう てい. 山 本 町 の 左 官 職 の家 に 生 ま れ る 。 通 称 粂 次 郎 。 浮 世 絵 歌 川 派 の 月 岡 にし き え. 戦 後 日 本 人 と し て 初 め て は るば る敦 捏 の 旧 蹟 を訪 ね 、 ﹃敦 煙 紀 行 ﹄ を. よし と し. ( 大 蘇 ) 芳 年 に 錦 絵 、 三島 蕉 窓 や 渡 辺 省 亭 に 花 鳥 画 を 学 ぶ 。 一時 山. 著 し た。 昭 和 四十 四 年 (一九 六 九 ) 五 月十 九 日 死 去 。 七 十 歳 。 東 京 出. た い そ. 田 柳 塘 に 就 い て 陶 器 画 を 描 く が 、 再 び 芳 年 の も と で 研 鐙 し ﹃や ま と. 身 。著作 に ﹁ 室 生 寺 ﹂(土 門 拳 撮 影 、毎 日 出 版 文 化 賞 )な ど 。 ( 鏑 木清方 ・. 四 三- 四 五 頁 )、 ﹁ 北 川 桃 雄 ﹂ ﹃日. 新 聞 ﹄ ﹃新 小 説 ﹄ ﹃都 の 花 ﹄ ﹃文 章 世 界 ﹄ な ど に 多 く の 口絵 や 挿 絵 を 担 て ん じ く と く べえ. (一九 六 九 ) 七 月. 奥 平 英 雄 ・三 輪 福 松 ・藤 本 紹 三 ﹁ 追 悼 / 北 川 桃 雄 ﹂ (﹃一 二彩 ﹄ 二 四 六 号. ふ く ち お う ち. 昭 和 四 十 四年. 当 し 明 治 の新 聞 挿 絵 に 一生 面 を 開 く 。 福 地 桜 痴 の ﹃天 竺 徳 兵 衛 ﹄、 ひぐち いちょう. 樋 口 一葉 ﹃う も れ木 ﹄ な ど の挿 絵 も 手 が け た 。 明 治 期 風 俗 版 画 の代 表. 一. 一. 12.
(14) D く 考 勧 ど % 熱 図 馳 材 教. 22. 23. 24 25. 26. 本 人 名 大 事 典 ﹄). 一八 五 八- 一八 九 五. 二四九頁). 安 政 五- 明 治 二 十 八. (一九 七 八) 一月. 北 川 桃 雄 ・鏑 木 清 方 ﹁ 清 方 閑 談 ﹂﹃世 界 ﹄昭 和 三 十 一年 (一九 五 六 )三 月 号 (﹃紫. 柴 田真 哉. 陽花舎随 筆﹄六興 出版) 昭和五十三年 しば た し ん さ い. を学び、 天保元年. (一九 三 〇 ) 二十 四歳 の 春 、 京 都 に 遊 学 し 、 南 嶺 の. たんぜん. 紹 介 で 四 条 派 の 画 師 岡 本 豊 彦 に つく 。 ま た 頼 山 陽 と 交 わ り 、 和 歌 を. かわ り. 香 川 景 樹 学 ぶ 。 二十 七 歳 の と き、 南 嶺 よ り 号 是 真 、 字 値 然 を贈 ら れ 、. せ いが いは. これ ま で の号 令 哉 を 改 め た 。 弘 化 年 間 (一八 四 四- 一八 四 八)に 変 塗 り. 工夫 し て、 是 真 流 の漆 芸 を 完 成 さ せ 、 江 戸 町 人 の好 尚 に あ った漆 工 品. の青 海 波 塗 り を 復 活 さ せ 、 青 銅 塗 り 、 石 目 塗 り な ど の 新 し い漆 塗 法 を. と し て生 ま れ る。 四 条 派 の流 れ を く む 父 是 真 の も と で 、 幼 い 頃 か ら 天. を 制 作 す る 。 明 治 初 年 に は 和 紙 に 彩 漆 で 絵 を 描 く 漆 絵 を 試 み、 油 絵 を. (一八 五 八 ) 六 月 二 日、 柴 田是 真 の次 男. 才 的 才 能 を 育 んだ 。 のち 土 佐 光 文 、 山 名 貫 義 、 黒 川真 頼 ら に師 事 し て. 彷 彿 さ せ る 是 真 独 得 の画 法 と さ れ る。 彼 の 漆 器 制 作 は す ぐ れ た 画 技 に. 明 治 時 代 の画 家 。 安 政 五 年. 研 鐙 を積 み 、 内 国 勧 業 博 覧 会 、 絵 画 共 進 会 、 美 術 展 覧 会 、 世 界 万 国 博. よ って 下 絵 か ら 仕 上げ ま で自 ら 行 う 独 自 の も の で、 奇 抜 な 趣 向 の 器 形. いろ うる し. 覧 会 な ど に 出 品 し て 多 く の賞 を 獲 得 、 内 外 に そ の才 能 を 発 揮 し た 。 明. 図 額 ﹄も 現 存 し て い る 。 のち 明 治 六 年 (一八 七 三 )政 府 の推 挙 で ウ ィー. 現 は 江 戸 中 の人 気 の 的 と な った。 王 子 稲 荷 社 に は代 表 作 の ﹃ 茨 木童子. 女 図 額 面﹄ を 制 作 奉 納 、 そ の迫 力 あ る筆 致 と 気 塊 に満 ち た みご と な 表. 徳 講 の依 頼 で 王 子 稲 荷 神 社 に 江 戸 住 吉 明 徳 講 の依 頼 に よ り 、 絵 馬 ﹃鬼. い な り. と 意 匠 が よ く あ って い る 。 天保 十 一年 (一八 四〇 ) 二月 、 江 戸住 吉 明. 一五 頁. 昭和. 治 二十 八 年 (一八 九 五 ) 六 月 二十 三 日自 刃 に よ り 死 去 。 三十 八 歳. 全﹄. 開 花期 の 異色 画家 ﹄ 鹿 島 出 版 会. (一九 七 八 ) 五 月). (鹿 島 卯 女 編 ﹃柴 田 真 哉 五 十 三年 高 等 学 校 一年. ン 万 国博 覧 会 に ﹃冨 士 田 子 浦 蒔 絵 額 面 ﹄ を 出 品 、 進 歩 賞 牌 を受 賞 し て. 注 5 ﹃﹁国 語 ﹂ 指 導 の研 究. 以 来 、内 外 の 展 覧 会 で多 く の賞 牌 を 受 け る。 明 治 二十 三年 (一八 九 〇 ). 一六 一頁 ). 清 方 の 本 名 は 健 一で あ る。 採 菊 の 三 男 で あ る が、柴 田 の 日 記 に は ﹁長 男 ﹂. 十 月 帝 室 技 芸 員 に任 命 。 明 治 二十 四年 (一八 九 一) 七 月 三 十 日 病 没 。. 開 花 期 の異 色 画 家 ﹄. と 記 さ れ て い る。 これ は清 方 の戸 籍 に は 父 に つい て の記 載 は な く ﹁ 母鏑木. ﹁ 柴 田 真 哉 日 記﹂ (注 23 ﹃柴 田 真 哉. 明治 の四季﹄岩 一= 九 頁) 長 男 は条 野 姓 、 次 男 は 北. 婦 美 男 ﹂ と あ るだ け だ と い う 。 ( 山 田肇 ﹁ 後 記 ﹂ ﹃随 筆 集 (一九 八 九 ) 四 月. 八 十 五歳 。 漆 器 の作 品 は 、 器 形 の妙 味 と、 蒔 絵 や 漆 塗 り の加 飾 が よ く. 平成元年. 波文庫. ろ. 調 和 し て 粋 な 江 戸 趣 味 を 表 し た 作 品 を制 作 し 、 絵 画 は 俳 味 の あ る 略 画. 継ぎ、 門弟には池 田泰真ら がいる。. 特 色 を も った 作 品 が 残 って い る。 令 哉 、 真 哉 、 隆 真 の 三 子 が父 の 業 を. が あ る。 絵 画 で は 小粋 な 題 材 や ユー モ ラ ス な 内 容 の俳 味 のあ る も のに. う. 川姓 であり、清方 は鏑木家 とし ては ﹁ 長 男 ﹂ に 当 た る こ と に な る か ら であ. 一八 〇 七- 一八 九 一 文 化 四- 明 治 二十 四. に 面 白 い 作 品 が あ る。 代 表 作 に ﹃烏 鷺 蒔 絵 菓 子 器 ﹄( 東 京国立博 物館) 柴 田是 真. ろう 。 しば た ぜ し ん. 幕 末 ・明 治 時 代 の漆 工、 蒔 絵 師 、 絵 師 。 文 化 四 年 (一八 〇 七 ) 二月. ちん り ゅう て い. 七 日江 戸 両 国 橘 町 に 生 ま れ る。 父 市 五郎 、 母 ま す 。 幼 名 亀 太 郎 、 のち た いり ゅう き ょ. ( 郷家忠 臣 ﹁ 柴 田是 真 ﹂ ﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄、郷 家 忠 臣 ﹁ 柴 田 是 真 ﹂ ﹃日. れいさい. 順 蔵 。 号 は 令 哉 、 対 柳 居 、 枕 流 亭 。 時 に 古 満 を 名 の る。 文 化 十 四 年. 本 大 百 科 全 書 ﹄、﹁ 柴 田是 真 ﹂ ﹃日本 人 名 大 辞 典 ﹄、郷 家 忠 臣 ﹁ 柴 田是真﹂. こ ま か ん さ い. ﹃日本 近 現 代 人 名 辞 典 ﹄). (一八 一七 ) 十 一歳 のと き 蒔 絵 師 古 満 寛 哉 ( 坂 内 重 兵 衛 ) に蒔 絵 を 学 なんれい. び 、 文 政 五 年 (一八 二 二) 十 六 歳 のと き 円 山 派 の 画 師 鈴 木 南 嶺 に 絵 画. 一. 一. 13.
(15) 27. いけだた いしん. 池 田泰 真. 一八 二五 - 一九 〇 三. 文政八- 明治三十 六. 幕 末 ・明 治 時 代 の 蒔 絵 師 ・漆 工家 。 通 称 久 三 郎 。 三 河 国 ( 愛 知県) 西 尾 藩 士 の子 。 文 政 八 年 (一八 二五 ) 七 月 七 日 江 戸 に 生 ま れ た。 天 保 六 年 (一八 三 五)十 一歳 のと き 江 戸 の著 名 な 蒔 絵 師 ・柴 田是 真 に 入 門 、 二十 五年 間 工房 で 働 き な が ら 蒔 絵 お よび 絵 画 を 習 得 す る。 そ の後 、 安 政 六 年 (一八 五 九 ) 独 立 し て 江 戸 薬 研 堀 に 一家 を な し た 。 そ の 後 は 内 外 の博覧 会 に出 品し て たび たび受 賞、 また そ の審査 員 を つとめ たほ か、 数多 く の門下 生 を熱 心に指 導 し てすぐ れ た蒔絵 師 を養成 し た の やげ んぼ り. で 、 そ れ ら は 世 間 か ら 住 居 の地 名 を と って 薬 研 堀 派 と 称 せ ら れ た 。 作 風 は 師 是 真 の影 響 を 受 け て、 師 是 真 の作 風 を 忠 実 に 継 承 し て い る 。 蒔 絵 額 面 、 漆 絵 と い った 是 真 と 同 種 の作 品 を 制 作 し て い る が、 い った い. 己 呂 比. と し て 明 治 二十 九 年 (一八九 六 ) 帝 室 技 芸 員 と な る。 代 表 作 は ﹃秋 田. わ わ せ る が 、 個 性 的 で は な く、 温 厚 な 作 品 が 多 い。 漆 工界 の有 力 作 家. に 手 軽 な 小 品 に佳 作 が み ら れ、 伝 統 的 な 器 物 に 江 戸 風 を 小気 味 よ く 味. 野 蒔 絵 小 箱 ﹄、 明 治 二十 六 年. ﹃日本 近 現 代 人 名 辞 典 ﹄) 鏑 木 清 方 ﹃こ し か た の 記 ﹄ 中 公 文 庫 六〇頁 注 20 ﹁ 年 方 先 生 に 学 んだ 頃 ﹂ 九 九 頁 注 28 ﹃こし か た の記 ﹄ 六 七 頁. 昭 和 五 十 二 年 (一九 七 七 ) 一月. 本 大 百 科 全 書 ﹄、﹁ 池 田泰 真 ﹂ ﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄、富 山 秀 男 ﹁ 池 田泰真﹂. ( 郷家忠 臣 ﹁ 池 田泰 真 ﹂ ﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄、郷 家 忠 臣 ﹁ 池 田 泰 真 ﹂ ﹃日. 之 島 蒔 絵 額 ﹄。 明 治 三十 六 年 (一九 〇 三 ) 三 月 七 日 死 去 。 七 十 九 歳 。. (一八 九 三 ) シカ ゴ 万 国 博 覧 会 出 品 の ﹃江. 佐. 28. 29 30. ※尚 、 引 用 に 際 し、 旧 字 に つい て は 、 適 宜 新 字 に 改 め た 。. ◇鐡蒋滞潔差 名 けんいち 健 一 2 八七八1 ︺ 東 京都 の生まれ 。日 本 画家、芸術 院会 員 ・帝 室 技 芸 員 。 つきじがわ 著 書 に ﹁築 地 川 し たいしゆんき ﹁裾 春 記 ﹂ な ど が ある。. か. な がわ. 三. 地 図 を いう ど る. 鏑 木 清 方. あ る晩珍 しく約 束 の客 もな いの で、早 く食事 をす ま せて から、私 は茶 の間 の電 燈を手 元近 く. ま でおろ して、 大き い食 卓 の上に ひろげ た数 枚 の五万分 の 一の地 形図 を、赤 と青 の二本 の色 鉛. を下 に置 くと い っし ょに、 ﹁ま るで小 学校 の生徒 み た いですね 。﹂と笑 いな がら そ のう ち の 一枚. 筆 で いう どり はじ めた。 かた わら で夕刊 を読 み ながら ち ょいち ょ い横 目 で見 ていた妻 は、 新聞. を取 りあげ て、 静脈 と動 脈 とこ も噛 、 }も通 え るに も似た 、陸路 ・、 水 路 の糸筋 の ごとき をた ど って 5 な がめ て いる。. 言 わ れて みれば 、 これは ま ことに幼げ な手 す さび で、う そに も絵 の道 でな んの なにが しと か. いわれ るも のが、細 い線 と線 の問 を はみ出 さな いよう に、塗 り にく い色鉛 筆 をお ぼつか なく な. す り つ け て ゆ く 形 は 、 お よ そ 似 つ か わ し く な い も の に ち が いあ る ま い。 し か し や っ て い る当 人. に し て み れ ば 、 た だ 単 に 気 ま ぐ れ な も の好 き で ば か り 、 鉛 筆 を も て あ そ ん で い る わ け で も な い。. よ. 時 とは ま ・で別 な讐. を示 す よ・ ・に な. ・よ・に、奔流 の瀬・な・瀧・な・、・た低£. 15. ・. かつしか ロ *莫飾ー 古く は下 近 ご ろ 私 は東 郊 葛 飾 一帯 に ひ ど く 興 昧 を ひ か れ て い る の で 、 こ の 日 も朝 の う ち に 上 野 のデ パ 総 の国の古郡名 で、 *むさし *しもうさ *ひたち 時代 によ ってそ の 1 ト で 買 っ て き た 、 武 蔵 ・下 総 ・常 陸 に わ た る五 万 分 の 一の 地 図 の墨 一色 刷 り の も の が 、 老 眼 地域や 区分に変遷 を重ね た。現在 は に 娃 、 いっち ゃ に な って 見 に く い と こ ろ か ら 、 ま す 水 陸 の わ か ち を つ け よ う と し て 、 川 の 流 れ 、 5 東京 ・千葉 ・埼玉 の三都県 に分属し 湖 水 や 沼 を 青 い 色 鉛 筆 で 塗 り だ し た の が 始 ま り で 、 そ れ か ら は 一度 通 った こ と の あ る 道 を 赤 鉛 て いる。 *武蔵ー 国の名。 筆 で し る し づ け て い っ た の だ が 、 こ う し て わ す か に 水 の あ る と こ ろ を 明 ら か に し た だ け で 、 地. った. 図 の表 はにわ かに いき いきと し てき て、 墨刷 り のまあ. コフ. は貧 し い主観 でも のの形 を描 く絵画 など で は、 し ょせ ん見 いだす こ と のでき そう にもな い流動. つ いて流 るゐ形 は曲行 紆余 し て窮 ま ると ころ なく 、変幻 自在 の水 のあ や をな して いる。 そこ に. 水・瞥 入れて落 ・た必 ・ ・もあろ・か毒. こ と は ち ょ っと 思 い の ほ か な こ と で あ った 。 そ れ は た と え ば 、 新 し く で き た 運 河 に 初 め て. 鹸野 鰹 剛藩. 豪. がる。 *下総ー国 の名。. 肝糠 羅. *常陸ー国の名。 い ばら ポ 茨城県の大部。. の美 しさが感 ぜ られ て、宇宙 のお のす から にし て成 るも のは、 どう して こう も無理 がな く、わ. だ かま りだ の、滞 りだ ののな い、り っぱ な線条 が成 り立 つ のか と、青鉛 筆 の手 を控 えて しばら. 一七. 盤 に水 を たた えて、 墨 や紅 を水 面 に落す と色 が散 る、 それ へ紙を 浮 かし てそ のあや を写 しと. く 見ほ れ ていた のであ った。. 三 地図をいうどる. 曹. 一. 一. 14.
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