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東晋詩の対句 - 蘭亭詩を中心にして

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Academic year: 2021

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(1)東晋詩の対句一一蘭亭詩を中心にして 長谷川 滋成 はじめに.  東晋の永和九年(三五三)上巳の日、王義之は会稽郡山陰県(漸江省紹興県)の蘭亭に、 同好の士と宴零した。.  蘭亭は佳山佳水の景勝地で、服食養性には最適であった。王義之はここを終焉の地と定 め、多くの名士と交わった。.  宋の張濃の『雲谷雑記』巻一によると、宴偉した者は四二人で、全員に詩を賦すことが 課せられた。同書には「露語を成す者は十一一人」、「一画を成す者は…・十五人」、「一一十. 六人は詩成らず。各モ罰酒は三胱」とあり、その詩数は三七篇となるが、王義之には他に 四篇(注1)あり、すべて四一一篇となる。.  本稿では、同じ時、同じ場所で、同じ風景を見て作られた、これら蘭亭詩の対句(注2) をとりあげ、その有り様を考察する。.  考察にあたっては、大きく風景と思想とに分け、風景をさらに傭仰、山水、風雲、鳥魚、 色彩に分け、思想を風景・思想、思想、超俗・世俗に分ける。 風景 1 術{rロ.  仰視碧天際  仰ぎて碧天の際を視  傭賃塗水浜  堅して濠水の浜(ほとり〉を緻(み〉る                          (王義之「蘭西詩六首」其二〉  傭揮素波  傭しては素波を揮ひ  仰綴芳蘭  仰ぎては金蘭を綴(と)る                          (徐豊之「蘭亭詩二首」其一).  傭仰対は蘇武の詩(注3)にある伝統的な型である。王栽之の術仰対は視線を上下の二 方向に移動する対だが、徐豊之のそれは二方向に移動せず、或一一、或一一に近い対であ る。王義之は視線を二方向に移動させることによって、異種の天と水(地)に焦点をあて、. 蘭亭の空間を巨視的に詠いあげる。…方の徐豊之は視線を移動させないことで、波・蘭の 小さな風物に焦点をあて、連子の景観を微視的に詠いあげる。.  なお、王畿之の対句は王義之の「蘭亭集詩序」の「仰ぎては宇宙の大なるを観、傭して は品類の盛んなるを察る」に通じ、徐豊之のそれは綴織の「後序」の「乃ち芳草を席(し) き、清流に鏡(て〉らし、卉木を覧、魚鳥を観る」と同趣といえよう。. 2 山水  四眺華林茂  華林の茂れるを四眺し  傭仰清川漢  清川の換(さか)んなるを傭仰す. 一1一.

(2)                         (裳喬之「蘭亭詩二首」其二)  林栄其欝  林は其の欝(しげ)みに栄え  浪激其隈  浪は其の隈(くま)に激す.                              (華茂「蘭亭詩」)  林と川、林と浪の、この山水対は占くからあり、蘭亭の風景を詠うにも欠くことはでき なかった。王義之の「蘭亭集詩序」に∫此の地に崇山・峻嶺・茂林・修竹有り。又た清流・. 激濡の左右に映帯する有り」とあるように、蘭亭には高い山、険しい嶺、茂った林、長く 伸びた竹、清らかな流れ、早瀬があった。.  裳喬之も華茂も山を静的に、水を動的に詠うが、衰喬之の山水は広がりがあって全体的・ 巨視的に詠われ、華茂のそれは狭められて部分的・微視的に詠われる。ここに二人の山水 対の違いがある。.  対句に風物を多く詠う詩を二例引こう。. 回沼激中堅  回沼は中蓬(ちゅうき)に激し 疎竹間修桐  疎竹は修竹に間(まじ)はる (孫統「蘭亭詩二首」其二). 修竹蔭沼  修竹は沼を蔭(おお)ひ 旋瀬榮丘  幹骨は丘を榮(めぐ)る (孫紳「蘭亭詩二首」其一一).  孫統・孫緯は兄弟。沼・竹の風物は共通で、他に逡・桐・瀬・丘がある。兄弟の詠う蘭 亭の風景は似ているが、仔細にみると異なる。.  兄は竹を疎、弟は修ととらえ、沼を兄は疎竹の対にするが、弟は修竹に配し、その修竹 を旋瀬と対にする。沼と竹、竹と瀬の対は、先の山水対と同じ。兄弟の句を重ねると、蘭 亭の竹は疎にして修く、修い桐と一緒に生えて沼の傍にある。そういう景が浮かんでくる。.  こうした景を兄は二句に分けて写すが、弟は上句でこれを写し、下句には視線を移動さ せて別の景を写している。そのために弟の景には広がりがある。このことは結果的には先 の裳喬之・華茂の山水の景に通じることになる。 3 風雲「.  風と雲、これもしばしば対になる。風も雲も天上にあることでは同種だが、風は聴覚で、 雲は視覚ということでは異種である。. 薄雲羅景物  薄雲は景物に羅(かか)り 微風翼軽質  微風は軽士を翼(たす)く (謝安「蘭亭詩二首」其二). 流下川西渚  流風は柾渚を払ひ 停雲蔭九皐  停雲は九皐を蔭ふ (孫緯「蘭亭詩二首」其二).  謝安の雲は薄くて風は微か、少量同士の対。一方、孫緯の風は流れて雲は停まる、動と 静の別個の対。王義之の「蘭亭集詩序」の「是の日や、天は朗らかに気は清み、恵風は和 一2一.

(3) 暢す」とあり、流亡とはいえ渚を払う程度であった。同士・別個の違いはあるが、応安も 孫緯も雲は地の景物・九皐に配し、風は水の航・渚に配している。.  両詩の…字目と四字目に注目すると、薄と微、流と停は対だが、景と軽、柾と九は対に なりきっていない。その点ではひの対句は未熟ということになろう。  なお、風を気と対にする詩もある。 鼠盤柔風扇. 気麺(いんうん)として字面は扇(ふ)き. 煕恰和気淳. 煕恰(いい)として和気は歯し (王凝之「蘭詠出二首」其二). 温風起東谷. 温風は東谷より起こり. 和気振柔磁. 和気は山隠を振ふ      (郡曇「蘭亭詩」).  両詩の対はよく似ているが、郡曇の対が即物的・写実的である。. 4 鳥魚  蘭亭に鳥や魚もいたことは前掲の王義之の「蘭亭集詩序」に見えるが、これも対(注4) になる。. 鶯語調修竹  鶯語は修竹に吟(うた)ひ 游鱗戯瀾濤  游鱗は瀾濤に戯る (孫紳「蘭亭詩二首」其二). 翔禽撫翰游  油画は翰(つばさ)を撫して游び 騰鱗躍清冷  騰鱗は清冷に躍る (謝万.「蘭亭詩二首」其二〉. 遊羽扇雷  遊羽は雷〈おほぞら)に扇(おこ〉り. 鱗血清池  鱗は清池に躍る (王徽之「蘭亭詩二首」其二〉.  鶯と鱗、禽と鱗、羽と鱗の、鳥と魚とを対にする意識は見えるが、対句になりきってい ない。これを次の播磨の対句と比べてみる。.  帰鷹映蘭持  帰鷹は蘭痔に映じ  游魚動円波  游魚は円波を動かす                          (播岳「河陽県作二首」其二)  映・動に注目すると、上句は静的で、下句は動的である。しかし生態的には動的なのは 鷹で、静的なのは魚。これを逆にしたところにこの対の巧みさがある。また、上二字に注 目すると、上句は膓、下句は魚で、天と水(地〉の上下を対にするが、下三字では上句も 下句も水(地)で対にする。これは冒頭にあげた王義之の傭仰対の天と水(地)よりも手 の込んだ高度な技法で、当室の修辞の第一人者溢岳の手法の一例である。.  ところで、孫緯らの鳥魚の三例は、対句にしょうと思えばできたのに、あえてしなかっ たと仮定すると、対句にしないことで調和・融合を破り、鶯・鱗・禽・鱗・羽・鱗の一つ 一つの風物を際立たせようとしたのであろう。そうすることが蘭亭の鳥や魚を詠うのにふ 一3一.

(4) さわしいと考えたのであろう。.  なお、魚を鳥ではなく、花と対にするものがある。.  鮮竈祭林薄  鮮繭は林薄に暎(うつ)り  游観曲馬渠  游鱗は清渠に戯る                          (王彬之「蘭亭詩二首」其二)  花と魚を対にする用例は管見に入らず、謝万も花を詠うが、謝万は林と対にする。  碧林輝翠曹  碧林には翠:曹(すみがく)輝き.  紅距擢新茎  紅龍には新茎擢(い〉づ                           (謝万「蘭亭詩二首」其二)  これを王彬之と比べると、王彬之は謝万の二句の内容を上句で詠ってしまい、下句に魚 を詠う。これは前述の孫統・孫紳兄弟に似ている。花と林を対にするこの二句の内容は反 復的で、新鮮さに欠ける。.  これに対して王彬之の花と魚の対は突飛で、意表を衝く。通常、花の対になるのは草木 や鳥だが、その型を破るからである。花は植物で魚は動物、花は静的で魚は動的、花は陸 にあり魚は水にいる。異質の要素の多い素材を対にすると、要素数以上の効果を発揮し、 新しい世界を創りだすことになる。. 5 色彩  佳山佳水の景勝地、蘭亭を詠う手法として色彩対の多用が予想されるが、色彩対は次の 詩だけである。.  儒林輝翠曹  碧林には翠薯輝き  紅飽擢新茎  紅聴には新茎擢(い)づ                           (謝万「蘭亭詩二首」其二)  碧と紅が色彩対。これで生き生きした春の景を創りあげるのだが、色彩対は二つの色彩 が映じ合い、響き合って、二つの色彩以上の力を発揮し、詩の情趣を高める効果がある。.  ところで、この詩の上句の四字目は色彩語の翠であるが、それと対になる新は色彩語で はない。蘭亭詩にはこうした色彩語の使い方が多い。たとえば傭仰対に引いた王義之の上 句は碧で下句は濠、徐豊之の横句は素で下句は芳。次の詩もそうである。. 魔羅騎紬  青羅は軸(みね〉を磐(かく)し 修竹冠寄  修竹は答(みね)に冠(おほ)ふ (謝万「蘭亭詩二首」其一〉. 玄曙吐潤  玄鰐は潤(みつ)を吐き 罪霧:成陰  罪霧は陰を成す.                                    (同前)  これらは色彩対ではないが、色彩語と対になる修・罪に注目すると、それらは色彩を感 じさせる語である。こうした対は色彩対とは異なる別の効用があるが、対句としての巧拙 を同日に語ることはできない。. 一4一.

(5) 思想. 1 景物・思想  二二擁逸許. 巌を望みて逸許を塊ぢ.  三流想奇荘. 流れに臨みて奇荘を想ふ (孫嗣「二三詩」). 望巌憶三三  巌を望みて展(くっ)を脱ぐを憶ぢ 臨川謝三竿  川に臨みて竿を掲(あ)ぐるを謝(や)む (魏湧「蘭二二」〉.  巌と川を対にする発想は右の二人にはじまり、臨川の用例は以前の何勘・播尼にあるが、 望巌はない。. 臨川三歎. 川に臨みて三歎し. 酸涕露願. 二二して噸を回す                   (何勘「志水祖王公応詔詩」.). 斗酒足二七.  斗酒は歓びを為すに足るに. 臨川胡独悲.  川に臨みて胡(なん)ぞ独り悲しむ                    (溢尼「.三月三日洛水作」).  臨川して何勘が三歎し、播尼が胡弓干する思いになるのは、                      『論語』子二丁の「子は川 の上に在りて曰はく   、逝く者は斯くの如き夫、昼夜を舎(お)かずと」をふまえていると 思われる。.  ところが、孫嗣は臨流して想奇荘、魏湧は臨川して謝掲竿している。奇荘とは奇士荘周 のこと。流と荘周との関係については、r荘子』秋水篇に「荘f 恵子と濠梁の上に遊ぶ。 (略)荘子曰はく、請ふ其の本に循はん。子日ふ、女(なんぢ)安くんぞ魚の楽しむを知 らんと云ふ者は、既巳に吾の之を知るを知りて、我に問へり。我之を濠の上に知るなりと」. とあり、掲竿のことは庚桑楚篇に「若(なんぢ)規規然として父母を喪ひて、竿を掲げて 諸を海に求むるが若きなり。汝は亡人なるかな、個潤然(ばうばうぜん)たり」とある。.  望巌して何勘が椀ず逸許とは、帝尭時代の隠者許由のこと。巌と隠者とは密接な関係に あり、『史記』巻六一一伯夷伝に「巌穴の士、趨舎に時有り」とあり、望巌して魏榜が憶ず 脱.雇のことは、 r漢書』巻二五上郊祀志上に「嵯乎、誠に黄帝の如きを得ば、吾妻子を去. (す)つるを視(しめ)すこと、展を脱ぐが如きのみ」とあり、注に「言ふこころは、其 れ二巴にして顧みる所無きなり」という。.  孫嗣・三三は巌や川の景物に触発されて、神仙思想・老荘思想を想起し、それを見事な 対句にしたてて表現する。東野の詩は玄言詩といわれるが、それが蘭亭詩にも見られるの である。これは臨川して「逝く者は斯くの如き夫」と歎じ、悲しむ何勘・播尼と決して同 じではないσ. 2 思想  景物に触発されないで、思想だけを対にするものがある。.  高浪濠津  荘は濠の津に浪(さまよ)ひ. 一5一.

(6)  巣歩頴淵  巣は頴の淵(みぎわ)に歩む.                         (王凝之「蘭亭詩二首」其一)  荘は荘周。荘周がさまよう濠水の津は、前掲の『荘子』秋水篇に見える。濠水は安徽省 鳳陽県の東北を流れる川。.  巣は巣父。今町時代の隠者。鴫野がぶらつく二水の漏は、『史記』巻六一平門警砲に引 く『高士伝』に「時に開平有りて禎(うし)を牽きて之に飲ましめんと欲す。由の耳を洗 ふを見て、其の故を問ふ。対へて曰はく、亮は我を見て九州の長と為さんと欲す。其の声 を聞くを悪む。是の故に耳を洗ふと。巣父曰はく、子若(も)し高岸深谷に処りて、人道 の通ぜざれば、誰か能く子を見ん。旧故(もと)より浮游するは、其の名誉を求めん欲す ればなり。吾が檀の口を汚せりと。憤を上流に牽きて之を飲ましむ」とある。頴水は安徽 省頴上県を流れる川。.  荘周・野爪は老荘思想・神仙思想の対で、これは同類対と見てよかろう。また濠津と頴 泪も同類対と見てよい。この対によって、王凝之の平野・巣父に対する憧れを強調する。.  神子宇宙内  神は宇宙の内に散じ  罷工下梁津  形は骨梁の津に浪ふ                               (虞説「蘭亭詩」)  神と形は心と身、精神と肉体のことで、支配者と被支配者の対であり、宇宙内と濠梁津 も対である。これらは異類対と見てよかろう。宇宙内はr荘子Jiに「余は宇宙の中に立つ。 (略)日出でて罪し、出入りて息ふ。天地の聞に営門して、心意自得す」とあり、骨梁津 は前掲の濠津に同じ。この対によって、虞説の老荘思想への強い憧れを訴える。.  王凝之・虞説が神仙思想・老荘思想を対にして詠いあげるのは、玄言詩の極みであり、 こうした詠い方は従来にはなく、ここに束晋詩の対句の新開拓がある。  蘭亭は忠言詩を作るのにふさわしい地であったということができよう。. 3 超俗・世俗  王凝之・下説以上の対句を作った詩人がいる。次の庚薙の対句がそれである。.  仰想盧舟説  仰ぎて三舟の説を想ひ  傭歎世上賓  傭して世上の賓を歎ず                               (庚薙「蘭亭詩」)  僻仰対についてはすでに説いたが、下句の想と下句の歎を見ると、反対(はんつい)で ある。.  虚舟は『冊子』列興宮篇に「巧者は労し知者は憂ふ。無能なる者は求むる所無く、飽食 して浮遊す。汎として繋がざるの舟の虚にして、遜介する者の若し」とあり、繋がれずに 水に漂う舟のことで、無心の世界に迫下すること。それを想い憧れるというのである。.  世上の賓は世俗の客人のこと。言い換えるとこの世に仮に生きている人のことで、次の 詩の方外賓の逆。.  尚想方外賓  方外の賓を尚(こひねが)ひ想ふも. 一6一.

(7)  這超有余聞  追追として余聞有り                              (曹茂之「蘭亭詩」)  方外は『荘子』大宗師篇に「孔子曰はく、彼は方外に遊ぶ者なり。回るに.丘は方内に遊. ぶ者なり」とあり、方内は世上のこと。世上賓は孔子のような人で、荘周のような人では ない。そういう人を嘆かわしく思うというのである。.  逆の内容の虐舟説と世上賓とを対にし、上句が超俗で下句が世俗。世俗を否定して超俗 を称賛する。これを玄言詩という観点から見たとき、蘭亭詩四・一一篇中の最高の対句という ことができよか。.  このことは郭瑛の「遊仙詩七首」其一一の、.  京華遊侠窟  京華は遊侠の窟(いはや)  山林隠遊棲  山林は隠逝の棲(すみか) この対句の作法に比肩するものとして注目したい。 おわりに.  蘭亭詩における対句は量的には多くないが、質的には注目すべきものがあった。傭仰、. 山水、風雲、立論、色彩等の対は従来からの踏襲であるが、花鳥の対は目新しいものであっ た。.  こうした中でなかんずく注目すべきは、神仙思想、老荘思想を対にしていることである。 その最たるものが、庚糖の「仰ぎて心血の説を想ひ、酸して世上の賓を歎ず」であった。  従来は自然の風物を対句にすることが多く、思想を対句にすることは多くなかった,,し かし蘭亭詩には、思想の対が現れた。このことは東晋詩が西晋の修辞技巧を継承しつつ、. それが思想の表現にも及んだことを意味する。言い換えれば玄言詩にまで入り込んだとい うことになり、対句の新開拓として評価されてよい。 (注)1四篇は『右軍書記』所収。.  2四一篇の内には、対句をまったく用いないものもあるし、一篇すべて対句というのも あるが、大半は一篇の一部に用いるものである。.  3「漏しては江漢の紛るるを観、仰ぎては浮雲の翔けるを視る」(「詩四首」其四)。  4蘭亭詩以前の用例としては、「遊魚は濠水に潜み、翔鳥は天に薄(せま)りて飛ぶ」 (辻噺「情詩」)、「論深ければ魚は淵(しづ)かに潜み、矯設けらるれば鳥は高く飛ぶ」 (誠心「詠懐詩八一卜二首」其七六),,.                              (平成九年一月一九日〉. 一7一.

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