西蝦夷地の地域構造について分析した。また山田は,「江 差沖ノ口備付西蝦夷地御場所絵図」に基づき,政治権力 のコンテクストにおける絵図情報の機能と描かれた地域 像を考察する中で,「西蝦夷日誌」に記載されている地 理的情報を抽出し前図と比較検討した。 しかし「測量日記」については,保柳(1978)5)が伊能 忠敬の測量の種類と性格を分析したり,佐久間(1998a)6) が全国測量の様子や忠敬の人となり等を考察する資料と して用いたものが中心であり,地理的情報を系統立てて 抽出する研究は寡聞である(主要な地理学会誌や大学紀 要)。そこで筆者は先に,これまでの高松藩領を中心と した伊能図および伊能忠敬の測量等に関する研究の一環 として,「測量日記」から地理的情報を抽出し,文化5 (1808)年における讃岐国島嶼部の地域特性を考察する とともに,同日記の資料的有効性について検討してきた (井村:2008,2009a,2009b,2011)7)。その結果,「測量日 記」には,塩飽の支配体制,大型廻船の所有や小豆島の 1.はじめに 伊能忠敬は,寛政12(1800)年∼文化13(1816)年に かけて全国測量を行い,精緻1)な日本全図『大日本沿海 輿地全図』2)(文政4・1821 年)を作製したことで有名で ある。全国測量を進める中で忠敬は,恒星観測記禄,山 嶋方位記やいわゆる「測量日記」等,多数の記録類も書 き残している。なかでも「測量日記」は,測量中の公務 日誌の性格を有しており,各地の地理的情報が忠敬の所 感を交えて記されているため,歴史地理学,地誌学や地 方史等の研究を進めるうえで,一定の資料的価値を有す るものと言えよう。 これまで,記録類から地理的情報を抽出する研究は比 較的蓄積をみる。地理学の視点より「測量日記」とほぼ 同じ近世末期を対象とする研究としては,松浦武四郎の 日誌等に基づく片上(1992)3)や山田(2000)4)の報告が みられる。片上は,「三航蝦夷日誌」・「東蝦夷日誌」・「西 蝦夷日誌」等に記載されている地理的情報に基づき,東
井 村 博 宣
Sokuryo nikki was written by Tadataka Inoh as a official diary of his national survey (1800 ∼ 1816). Tadataka Inoh
had knowledge and informaition about a community, administration and the economy of the all over japan. In addition, he had the scientific power of observation. Therefore sokuryo nikki becomes the document to analyze the regional character-istics. In this paper, the writer analyzed the regional characteristics of Sendai Domain coastal area in the early 19th centu-ry using sokucentu-ryo nikki. The results are as follows;
The complicated shoreline (Rias shoreline) developed at Sendai Domain coastal area. Harbors which treated rice ware maintained in Arahama, Ishinomaki (Ishinomaki, Minato, Kadowaki), Kotakehama (Umanose) and Orihama. In the area concerned, trade with Edo, Choushi and Sawara was carried out in wide area. Kamaya became the inland village as a result that sedimentation advanced after the river improvement projects of Kitakami River.
Keywords : Tadataka Inoh, sokuryo nikki, Sendai Domain, the coastal area, regional characteristic
伊能忠敬「測量日記」にみる
19世紀初頭における
仙台藩領沿岸部の地域特性
The Regional Characteristic of Sendai Domain Coastal Area in the Early 19th Century :
An Analysis of Tadataka Inoh’s Sokuryo nikki
Hironobu IMURA
(Received Octorber 31, 2011)Department of Geography, College of Humanities and Sciences, Nihon University: 3−25−40 Sakurajosui, Setagaya−ku, Tokyo, 156−8550 Japan 日本大学文理学部地理学教室:
き後日清書され一冊ごとに原題の付けられたもの28冊と の2 種類が存在する。昭和27(1952)年の旧文部省(担 当:田山方南技官)による装丁修理の際,前者51冊には 「忠敬先生日記」,後者28冊には「測量日記」の表題が付 けられ,これ以降は,両表題がそれぞれの通称となって いる。 「測量日記」は,全国測量中の公務日誌であり,1 冊目 と2 冊目には幕府との交渉,また 3 冊目∼ 28 冊目には 測量行程が記録されている(表1 )。「測量日記」と「忠 敬先生日記」との間で,記述内容に大きな違いはないが, 「測量日記」では測量した村々の石高・家数・人数・支 配等が省略されている。本稿にて取り上げる仙台藩領沿 岸部の場合,「測量日記」の記述内容は,毎日の天気, 宿の出発・到着時刻,測量区間,測量者,天測の有無, 宿とその主人を定型とし,適宜各地の河川,島,港,集 落,産物,人物,海上からの測量等の事項について特別 に補足の説明を加えている。 親村・子村関係など,当該地域の近世史研究において留 意するべき事項が特記されており,当時の地域特性を分 析するうえで,一定の資料的価値を有することが確認で きた。 他方,筆者は平成23(2011)年 10月に「伊能図でみる 東日本―東北地方を中心に―」展8)を企画・開催し,国 土地理院所蔵「測量日記」(複製)に記載されている仙台 藩領沿岸部について閲覧する機会を得た。そこで本稿で は,国土地理院所蔵本に基づき「測量日記」の仙台藩領 沿岸部記載箇所を活字化するとともに,そこに記載され ている地理的情報を抽出し,19 世紀初頭(享和元年・ 1801年)における仙台藩領沿岸部の地域特性について考 察した。 2.「測量日記」 佐久間(1998b)9)によると,伊能忠敬が記した日記に は,全国測量の時に認められたもの51冊と,それに基づ 表1 「測量日記」と「忠敬先生日記」
Table 1 Sokuryo nikki and Tadataka sensei nikki
表 題 原 題 内 容 基礎となる「忠敬先生日記」1) 測量日記之内一 測量日記之内二 測量日記之内三 測量日記四 測量日記五 測量日記六 測量日記七 測量日記八 測量日記九 測量日記十 測量日記十一 測量日記十二 測量日記十三 測量日記十四 測量日記十五 測量日記十六 測量日記十七 測量日記十八 測量日記十九 測量日記二十 測量日記二十一 測量日記二十二 測量日記二十三 測量日記二十四 測量日記二十五 測量日記二十六 測量日記二十七 測量日記二十八 蝦夷干役志啓行策略完 沿海日記 啓行策略全 寛政十二庚申蝦夷干役志 享和元辛酉歳沿海日記 享和二壬戌歳沿海日記 享和三癸亥歳沿海日記上 享和三癸亥歳沿海日記下 乙丑丙寅沿海日記 元 乙丑丙寅沿海日記 享 乙丑丙寅沿海日記 利 乙丑丙寅沿海日記 貞 戊辰 沿海日記 上 戊辰 沿海日記 下 測量日記 一 測量日記 二 測量日記 三 測量日記 四 辛未壬申測量日記 壬申 測量日記 壬申 測量日記 癸酉 測量日記 癸酉 測量日記 癸酉 測量日記 癸酉 測量日記 甲戌 測量日記 甲戌 測量日記 乙亥丙子量地日記 天 乙亥丙子量地日記 地 幕府との測量許可交渉 幕府との測量許可交渉 第一次測量 第二次測量 第三次測量 第四次測量 第四次測量 第五次測量 第五次測量 第五次測量 第五次測量 第六次測量 第六次測量 第七次測量 第七次測量 第七次測量 第七次測量 第八次測量 第八次測量 第八次測量 第八次測量 第八次測量 第八次測量 第八次測量 第八次測量 第八次測量 第九次測量 第九次測量 第十次測量 日記一 日記三,四 日記六,七 日記十,十一 日記十一,十二 日記十三,十四 日記十四,十五 日記十五,十六,十七 日記十七,十八 日記二十,二十一,二十二 日記二十二,二十三,二十四 日記二十五,二十六 日記二十六,二十七,二十八 日記二十八,二十九,三十 日記三十,三十一,三十二 日記三十三,三十四2) 日記三十四2),三十五,三十六,三十七 日記三十七,三十八 日記三十八,三十九,四十 日記四十,四十一2),四十二 日記四十二,四十三,四十四 日記四十四,四十五,四十六 日記四十六,四十七,四十八 日記四十八,四十九,五十 日記五十一 1)伊能忠敬が測量の際に記した「忠敬先生日記」の表題。 2)佐久間(1998c )によると,「忠敬先生日記」の表題は三十四と四十一が逆に付けられている。 佐久間(1998b・c)より作成。
和元辛酉歳沿海日記)の8 月・9月の箇所にみられる。 「測量日記」を活字化したものとしては,『伊能忠敬 測量日記』(佐久間,1998c)12)がある。これは,全巻活 字化した労作であり,閲覧上の制約や読み難さを軽減さ せたその功績は大きいと評価できよう。しかし,読みや すく活字化する過程で生じた誤字・脱字や細字双行(二 行割り)箇所での部分的脱落がみられ,全文一行化した ことで補足説明箇所の文意が読み取り難くなった側面も 否めない。そこで,本稿では国土地理院所蔵「測量日記」 に基づき,仙台藩領沿岸部の記載箇所について,改めて 最初から全文活字化することにした。 まず最初に,本稿における活字化の要領について触れ ておきたい。「測量日記」(原本)の書誌体裁は袋綴冊子 装,版式が四周短辺,版心が魚尾黒口,有界の毎半葉 十二行,地名・人物等の注記が細字双行となっている。 文章は縦書きにて行を空けず追い込みで,近世文書に多 くみられる句読点を用いない,極力送り仮名を省略した 漢文調を交えたものである。原本は,一部句読点代わり にスペースを用いてるが,ほとんどの場合,各日にち毎 に地名や人名等も隙間なく続けて記載しているため,分 かり難いところもみられる。 本稿では,本誌の編集規定に従い横書きとし,半葉毎 の改頁部に「▽」印を記した(版心側の改頁部は「▼」と した)。ちなみに,8 月17日の記述は版心側(折り目側) の1 行目から始まる。また,各日にち毎に追い込みで 連続して書かれている文章の改行部には「/」印を記し て続け,この間に数字分の文字空きがある箇所には該当 部へ文字数分のスペースを入れた。細字双行部は,原本 の縦書き左右二行割りを,横書き上下割りとした。全般 的に極力原本に忠実な活字化を心がけたが,地名や人名 等については理解しやすいように適宜一字分のスペース を加えた。 さらに,文章中の助詞等は,いわゆる変体仮名や漢字 を交え,「て」は「テ」と「て」,「に」は「ニ」と「爾」,「を」 は「ヲ」と「を」,「は」は「ハ」と「者」,「へ」は「ヘ」と 「江」,「より」は仮名合字の「 」と「よ里」,「にて」は「ニ 而」・「ニテ」・「ニて」,「と」は「ト」と「と」,「の」は「之」・ 「ノ」・「の」,「なり」は「な里」・「ナリ」・「也」,「あり」 は「阿里」と「阿り」,「す」は「ス」と「須」・「春」,「そ」 は「そ」と「楚」,「る」は「ル」と「る」,「れ」は「れ」と「連」 等が,それぞれ併用されている。また,「船」は「舟」と 「舩」,「気」は「氣」・「 」・「 」,「堺」は「堺」と「界」, 同一地名では「松嶋」と「松 」,「分濱」と「分ヶ濱」,「水 戸部村」と「水戸邊村」,「伊里米」と「伊里前」,「越喜来」 は「越喜來」・「越 來」・「越㐂來」,同一人物名では「惣 こうした特記事項は,伊能忠敬を通してみた各地の地 域特性の一つと指摘できよう。当然,伊能忠敬といえど も記録者としての客観的な吟味が必要である。忠敬は, 測量・地図作製において誤差の最小化に徹するととも に,大坂の大図を代表として,例え大都市の市街地の中 心部のように存在が明白な周知の場所であっても自ら確 認したところ以外は空白に残したり,図上で明確に識別 できるよう絵画的に表現するなど,当時には珍しく科学 的な姿勢を貫いている。また,公儀御用にて全国を巡り 代官や村役人等から地理的情報を得られる立場にあり,加 えて家業の米穀販売業・酒造業・舟運業・貸金業や農業 等の経営においても優れた業績を残した経営者としての 経歴も持つため経済事情にも詳しく,名主を勤めた経験 から地方行政にも明るい。さらに景利10)の影響を受けて 記録の重要性も十分認識していたと解される。もちろ ん,高橋至時に弟子入りして,天文学を学び,全国を測 量し極めて高い精度の実測図を作製した偉業から,忠敬 が優れた記憶力,理解力,分析力等の持ち主であること は言うまでもあるまい。すなわち,「測量日記」に記載 された特記事項は,当時としては最も全国の諸事情に詳 しく,科学的な観察眼を持つ忠敬が,その地域について 関心を示したものであり,一定の客観性を示すデータと 言えよう。 伊能忠敬記念館所蔵「測量日記」は,平成22(2010) 年6 月に伊能忠敬関係資料として国宝の指定を受け,ま た日本学士院が所蔵する大谷亮吉氏による写本(肉筆) も,平成16(2004)年から重要図書扱いとなっており, その閲覧には制約がある11)。国土地理院所蔵「測量日記」 も閲覧に制約があるが,今回は展示企画にて特別に閲覧 の機会を得た。これは伊能忠敬記念館所蔵「測量日記」 を原本とする写真撮影による複製である。その複製の特 性から,原本に極めて近く,忠敬の筆遣いもほぼ正確に 読み取ることが可能であり,本稿の特記事項より地域特 性を考察する趣旨から言えば,一次資料とほぼ同等レベ ルの情報を得ることができる貴重な資料である。 3.仙台藩領沿岸部の記載内容 伊能忠敬が仙台藩領沿岸部を測量したのは,享和元年 8 月17日(1801年 9 月24日)∼享和元年 9 月24日(1801 年10月31日)である。その記述は,「寛政十三年辛酉年 三月伊豆国よ里奥州まて 蝦夷地連續の海邊地図し奉 蒙 台命 まつ當国 相刕豆刕江発向しける 四月二日 朝より曇天五ッ頃 平山郡蔵同宗平伊能秀蔵尾形慶助嘉 助ヲ供し上下六人冨ヶ岡八幡宮を参謁し直ニ出立」にて 始まる第二次測量を綴った「測量日記」四巻(原題:享
着 直ニ塩竈明神 道路方位を測ル 三人の者夜ニ入て着 止宿 勘助 此夜/ ▼ 曇天不測量 此所 南部領 宮古迄先触を出す 同廿二日 朝 曇る 朝六ッ半後塩竈村出立 不残乗 舩 外ニ舟/二艘を用テ方位を測 海上長引縄を以 舟 續ニ測 海上至て/靜なれ共尺取らす 七ッ頃塩竈松嶋 の堺 都嶋ニ至る 夫より/松嶋地を測る 松嶋役人迎 舩と共ニ来ル 測量残る 七ッ後/松嶋ニ着 宿 棟右衛門 同廿三日 朝 曇天 昨日測量残より初 松嶋持の海を 磯崎/濱まて測ル 松嶋ニ逗留 此日少雨あり 同廿四日 朝 曇天度々小雨 六ッ後松嶋出立 舟ニて 磯崎/村 手楢村を長縄又ハ岡を小縄ニ而測ル 冨山へ 手楢村之内 三浦大仰寺/ 登 て 嶋 々 を 測 手楢村ハ宮城郡 大塚濱ハ桃生郡なり 大 塚 濱へ 七ッ後ニ着/止宿 新右衛門 ▽ 同廿五日 終日終夜雨 逗留 同 廿 六 日 朝 雨 四 ッ 頃ニ至 る 逗 留 四 ッ 後 雨 止 大塚持東名迄海面/を測 八ッ頃ニ済 夫 大塚濱の 山ニ登て嶋々を測 夜晴テ測/量の所急ニ曇り不測量 同廿七日 前夜半 續朝も晴天 六ッ頃大塚濱出立 東 名濱 大塚濱 之内 /迄乗舩 郡蔵 宗平ハ手分 大高森江遣し遠 測成しむ 東名 /海岸を測り 野蒜ノ内龜岡ニ到ル 夫 野 蒜 村 新 町 濱 市 村 /野蒜村 濱市村之間 トサノ湊と云舟渡し 丑 網 村 矢 本 村 大曲村 是迄桃生郡深谷 此間大川あり 定川と云/門脇村 是 牡鹿郡 此村ハ 則 石巻ノ内也 入口ニ釜濱あり 門脇村之内 七ッ後ニ着 大高森江/手分の者 マ のマハ夜ニ入て 着 止 宿 彦 四 郎 此 夜 曇 ル 五 ッ 後 雲 間ニ測ル/ 宮戸四ヶ濱ハ 里濱 月濱 大濱 室濱なり 則 桃生郡深谷 朴嶋 野々嶋 寒風澤 桂嶋 石濱ハ 則 宮城郡高城 右海中の村々ハ 遠測 同廿八日 朝 曇ル 逗留 ▼ 同 廿 九 日 朝 曇 天 朝 五 ッ 前 門 脇 村 出 立 石 巻 村 門脇村と 軒を並 川を 北上川ノ流則湊 /渡て湊村 則石巻 の内なり 門脇村 石巻村 三ヶ村を石巻港と云 夫より/渡ワタノハ波町 根岸村 之内 田濱 佐須濱 小竹濱 此所石巻 荷物積 立出帆を見合港なり/馬ノ背と云小嶋ありて舟掛の所 三四丁四方もあり 深も三四尋程なり 折濱 是も小竹濱ニ續て 深三尋程ある港なり 桃浦七ッ前ニ着/此日 田濱中食の頃小雨 無程止 七ッ頃 降出し夜ニ至ル 止宿 弥右衛門 田濱 指ヶ濱迄遠嶋と云 同晦日 朝曇 五ッ前出立 舩中引縄を以測る 無程雨 あり 月浦/侍ヶ濱 荻ヲキ濱 小積濱 牧マキ濱 竹濱 狐崎 濱 / 七 ッ 前 着 止 宿 検 断 佐 十 郎 此 日 度 々 雨 月浦ハ前ニ小手嶋 海際引縄ニ而測 あり 二三丁四方深三四尋ありて港なり/此夜晴天測量 九月朔日 朝 晴 六ッ後出立 舩ニ而海岸引縄を以測量 ス/福貴浦 小網倉濱 大原濱 給分濱 小渕浦 此所ハ上港なり前ニ鮫嶋あり / 湊入口巾 三百間 二百間 夫 段々巾狹村中へ入込ム 居浦 十四丁三十五間 深七八尋 村中ニ而三尋二尋 小渕浦ハ給分濱ノ分郷なり 七ッ後 ニ着/ ▽ 兵 」と「宗兵 」等異なる漢字を使用する事例がみら れる。このほか,「 」・「乘」・「國」等は複数のくずし 方がみられる。 本稿では,これらも極力原本に忠実な活字化を心がけ た。但し,前掲の「爾」・「者」・「阿」・「里」・「須」・「春」・ 「楚」・「連」等については,いわゆる変体仮名であるため, 通常の仮名表記とした。原本にて小さく書かれている助 詞等はポイントを落とした(二行割り箇所は視覚上の問 題から同じポイントで表現している)。文中の「釡」・ 「 」・「 」・「 」・「 」・「 」・「 」・「 」等の略字・ 異体字等は,それぞれ「 」・「竈」・「此」・「網」・「眞」・ 「氣」・「氣」・「喜」等の活字に置き換えている。また「 」・ 「乘」・「國」等については,これらの行書体に比較的近 いものに旧字(「 」・「乘」・「國」),くずし方のより大 きいものに新字(「衛」・「乗」・「国」)を当てた。 【「測量日記」国土地理院所蔵(写真撮影複製),原本:伊 能忠敬記念館所蔵】 ▼ 同十七日 朝晴六ッ半後 原釜村出立 今神濱 是 仙臺領/ 今泉村 大戸濱 鉤ママ師濱 木崎村 磯濱 中濱之内/中 濱 是 亘理郡 新濱 笠野濱 花釜濱 吉田濱/七ッ頃 着 宿組頭善蔵 此夜曇天 同十八日 朝 終日曇天 朝六ッ後吉田濱出立 大畑 濱 箱根田濱/荒濱 是迄亘理郡 米穀積立ノ湊 蒲崎濱 従是名取郡 長谷 釜濱 二ノ倉濱/相野釜濱 下野江村之内 北釜濱 閖上濱 此濱入口ニ名取川落口 入海江會して大河と成 八ッ半頃ニ着 止宿 金右衛門 此夜曇天 同十九日 朝大曇 閖上濱六ッ後ニ出立 直ニ前大沼 乗舩 此所 ニ而ハ/加末津可川と云フ井戸濱迄續 直ニ大風雨 測量の者海邊江出る 大難儀なり/藤塚濱 井土濱 是迄名取郡 大風雨測量なら ざるニ付 藤塚濱 /荒濱泊の急触を出す 依之 荒濱 国分荒濱と云 前荒濱を名取 荒濱と云 是 宮城郡ニなる/ ▽ 急止宿 宿新助 同廿日 未明小雨朝六ッ頃雨ハ止 大風 六ッ半頃荒濱 出立 新濱/蒲生村 弥大風ニ成測量不成 蒲生村止宿 とす 大風ニ而村方へ/渡舩難成 時刻を移して風の間ニ 渡ル 松雜木所々ニ而折レ又ハ/倒る 漸四ッ後ニ着 午中 頃 風も段々と凪ナキ 八ッ後 空も晴テ/夜測量 同廿一日 朝曇ル 六ッ半前蒲生村出立 湊濱 松ヶ 濱 夫 /菖蒲田濱 花渕 吉田濱 代ヶ崎濱 東宮濱ニ 13) 至る 是 我等ハ/舟ニ而塩釜 ママ 江海上を見る 宗平 秀 蔵 慶助ハ此所 海邊を/東 一 宮ゴ濱を測る 海邊山越不 宣ニ付 舟ニ而引縄を以 測量を/成 仙臺領海中間 数引縄の初めなり 吾等と郡蔵ハ塩竈/村へ七ッ前ニ
駕難可るへし 余ハ交易の為ニ銚子港又ハ東都江/幾度 も往来す 其行路なれハ必尋子問んと約して別れぬ/ ▼ 夫 よ り 年 を 経 ぬ れ と 互タカヒニ音 信 も せ さ り しニ此 度 / 台 命 を 蒙 り 國 々 の 海 邊 を 来 往 し け る 此國の守よりも/令ありて止宿の事迄も沙汰せら れけるニ 不思議ニ 此分ヶ濱なる/秋山惣兵 なる 者の家ニ舎 トマ り会ぬ 眞ニ深き因縁ニてそ/ありける 終 夜往事を語り合ヒ 指を屈すれハ安永七戊戌の歳/ニて 二十四年ニそなりける 主じも別離を惜ミ 此先の 泊々/二三日之間送別しける 同 九 日 朝 晴 又 曇ル 六 ッ 半 後 分 ヶ 濱 出 立 水 濱 唐桒あり雄勝濱之内 なり /雄勝濱 此所ニ硯石あり高嶋ニ少劣れり 明神濱 小嶋濱 大 濱 立濱/桒ノ濱 熊澤濱 大須濱 七ッ頃ニ着 止宿仲兵 夜 測量 同 十 日 朝 曇ル 荒濱 舟越濱之内 舩越濱 名振濱 尾崎濱/ 長面濱 是迄桃生郡 分濱 此濱迄十四濱なり 釜谷濱を加テ十五濱ト云 今ハ釜谷濱ハ岡となり海邊ニあらす 此前 肝入長沼甚蔵村々付添フ/ ▽ 仙臺領も村役人送迎案内ハ 外々ニ同し 所ニより村役人之外 棒突役人案内す 又右肝入数ヶ村 又ハ数十ヶ村支配なし 其支配の村々 肝入検断一両人出して 組村を案内せしむ/ 八ッ頃ニ着 止宿 清兵 七ッ過 曇ル 同十一日 前夜 大雨午前ニ至ル 逗留 午後ニ雨止 夜 晴ル 同十二日 朝 曇ル 六ッ後長面濱出立 舩中引縄ニ而測 ル 郡蔵 秀蔵/大指濱 寺前濱迄陸地を測る 是 本吉 郡十三濱と云/追波濱 北上川の流あり 此所迄秋山惣兵 送別 吉濱 月濱 立 神濱 長塩尾濱/白濱 小室濱 大室濱 小泊濱 相川 濱 小指濱/大指濱 小滝濱 是迄本吉南方 十三濱と云 長清水濱 滝 濱 / 水 戸 部ママ村 七 ッ 半 後ニ着 此 夜 曇ル 止 宿ハ義 内 十三濱 より /村内の小濱々を除 本村計出ス 以下同し 同十三日 朝晴 六ッ半後水戸邊村出立 郡蔵 秀蔵 手分ニ而/陸地 折立村 志津川村を量ル 宗平 慶助ハ 舩ニ而 海面引縄ニ而/ ▼ 荒戸濱 清水濱を測る 是 本吉北方なり 歌津村之内 韮ノ濱/寄木 伊 イ 里 サト 米 マイ 町 八ッ半頃ニ着 舟測量ハ七ッ前 夜曇ル 同十四日 朝晴ル 六ッ頃伊里前 マヘ 町出立 郡蔵 秀蔵ハ 歌津村之内/稲渕 泊濱 中山 名足 石濱の陸地を 測る 我等 宗平 慶助ハ/舩ニ而引縄を以 田ノ浦濱 湊濱 小泉村之内 蔵内濱/廿一濱 赤崎まて測ル 此 所 平磯村止宿迄陸を測ル/八ッ半頃ニ着 宿庄蔵 此夜 晴 測量 同十五日 朝六ッ後平磯村出立 岩尻村 波ハ路ジ上カミ村 長 磯村/最知村15) 岩月村 松崎村 赤岩村 氣仙沼八ッ 後ニ着/此日曇 八ッ半後 雨 夜更て晴ル 止宿 日除 儀右衛門 此主も/先年米交易之事ニて佐原村へ罷越し 夜 晴 測 量 此日大原濱ニ而桒原氏門人佐藤玄達ニ 逢 此所の産なり 止宿江見舞ニ来る 止宿 惣左衛門/ 此邊海中 田代濱あり 嶋ニて仙臺罪人をも流所なり 縦横十八九丁も ありと云 /此所 網 ア ジ 地へ渡るニ一里半ありと 網代 長 フタ 渡共ニ長一里半横十八九丁と云 九月二日 小渕浦六ッ後出立 舩中引縄海岸測量 十ク八ゞ成ナリ 濱/鮎川濱 八ッ後ニ着 止宿 肝入勘四郎 此朝郡蔵を手分鮎川濱より山鳥の渡まて測量ニ遣す所/ 明日測量行路都合不宣ニ付 鮎川 山道一里五六丁新山濱へ測量 此 日 曇 天 夜 小 雨 あ り 此海中ニ網地 長渡 二 あり 實ハ一嶋なり 同三日 朝 曇天小雨 金華山渡海不成 逗留 夜少晴 て測量 同四日 朝曇天 五ッ前鮎川濱出立 乗舩金華山江渡る 登山/愈曇て遠山遠岬不見 夫 新ニイ山濱 迎舩ニ乘テ昼後 ニ着/小雨あり 宵曇 五ッ頃 晴ル 止宿 三右衛門 同五日 前夜 西風 朝ハ晴ル 夫 曇ル 六ッ後 新山濱 出立 泊濱/舟引縄ニ而測ル 泊濱 西風強 海上舩ニ而測 難ク 宗平 秀蔵/ ▼ 慶助 泊濱 谷川濱迄陸を測る 郡蔵ハ谷川濱 陸 鮫浦 迄/測る 谷川濱の前ニ谷川濱持の 井濱 あり 又同村持の大谷川濱あり 郡蔵ハ九ッ頃 予ハ八ッ 頃 宗平 秀蔵/慶助ハ七ッ頃ニ着ぬ 鮫浦止宿 肝入善兵 此夜 測量 同六日 曇天 朝六ッ半前 鮫浦出立 寄 ヨツリ磯濱 塚 濱 飯子濱/野々濱七ッ頃ニ着 止宿 肝入久兵 夜曇 ル 雲間測量 舩中引縄ニ而測ル 同七日 曇晴 朝六ッ半頃 野々濱出立 大石ヶ原濱 横 浦/高白濱 小乗濱 鷲神濱 女ヲナ川濱 九ッ前ニ着 夜曇 ル/止宿 大肝入丹野勇吉家作よし 此日も舩中引縄ニ而測ル 同八日 曇天 朝六ッ後 女川濱出立 舩中引縄を以測 ル 宮 ヶ 崎 / 石 濱 桐 ヶ 嶋 竹 浦 尾 浦 出 イツ 嶋 指 ヶ 濱 是 迄 牡鹿郡 /分濱 是 桃生郡 此濱 十五濱と云 七ッ頃ニ 着 止宿 秋山宗ママ兵 /此夜測量 海中ニ江ノ嶋あり 家八十六 14) 軒あり 仙臺領の流人嶋のよし / ▽ 余 先年奥刕松ママ遊覧しけるニ 頃ハ皐月末の八日 佐原を出立/鉾田と云所まて乘舩す 風波ありて尺取 らす 漸ニ串挽江/着て舩泊りしける傍ニも旅人乗し舟 ありける 笘越しに物語/れハ 松 ママ より遠記分ヶ濱 と云所の秋山惣兵 と云者ニて/交易の事ニ銚子港へ 来り 復 其国へ歸りけるなり 彼人云けるハ/一 人旅の物寂しけれハ 願くハ同伴し賜へかしと乞し 程ニ 此 コ ナ タ 方も/旅馴ぬ身の幸と同道しけるニ 日々驛 次 止宿の事などいと/懇ニ執斗ひける 十日程を経 て仙臺の城下ニ着けるニ 此所の/名所なと案内し 且 酒食迄も篤く饗應しける 別ニ望て/宗 ママ 兵 云けるハ 貴邦ハ吾鄕を去る事 百里余の山海を隔テ/ぬれハ 抂
4.「測量日記」にみる地域特性 伊能忠敬は,仙台藩領沿岸部の測量について,8 月の 「同十七日 朝晴六ッ半後 原釜村出立 今神濱 是 仙臺領」の記述にて相馬藩領から仙台藩領入り(図 1 ) した後,9 月の「同廿五日 朝六ッ後唐丹濱出立 此日 曇天 南部領閇伊郡平田村」にて南部藩領へ出る(図 2 ) まで,4,431 文字ほどを費やして測量行程を認めている。 厳密に文字数で記載内容に濃淡をつけることはできない が,公務日誌としての性格を考慮すれば,文字数の多少 から一定の傾向や重要性を,ある程度推し量ることはで きよう。 その内訳をみると,分け方にもよるが概ね41.2%(1,824 文字)が毎日の天気,宿の出発・到着時刻,測量区間, 測量者,天測の有無,宿とその主人等を記した統一的基 準に基づく定型の記述内容であり,残る約58.8%(2,607 文字)が特記事項に関する補足説明となっている。特記 事項の詳細は,地域の補足説明が約18.0%(797 文字), 測量の補足説明が約16.9%(747 文字),人物の補足説明 が約13.0%(575 文字),先触・役人等の補足説明が約 9.2%(408文字),海況等の補足説明が約1.8%(80文字) となっている(図3 )。この特記事項の中に,地域特性 を読み取る地理的情報が記載されている。 (1)地域の補足説明にみる地域特性 地域に関する補足説明は,地図に掲載するために必要 な地理的情報と,直接必要としない関連情報とに分けら れる。 地図に掲載するために必要な地理的情報には,国境・ 郡境を示す「是 仙臺領」・「是 亘理郡」・「是迄亘理 郡」,集落の所属郡・村等を示す「従是名取郡」・「下野 江村之内」,親村子村関係を示す「小渕浦ハ給分濱ノ分 郷なり」・「谷川濱の前ニ谷川濱持の 井濱あり 又同村 持の大谷川濱あり」,同名集落を識別する地元の慣用名 称を示す「国分荒濱と云 前荒濱名取荒濱と云」,地域 名称を示す「宮戸四ヶ濱ハ里濱 月濱 大濱 室濱な り」・「 田濱 指ヶ濱迄を遠嶋と云」・「此濱 十五濱と 云」,河川名称等を示す「此間大川あり 定川と云」・「北 上川の流あり」,あるいは記述上の留意点等を示す「十三 濱より 村内の小濱々を除 本村計出ス 以下同し」・ 「濱々 おほし」などであり,これらで地域に関する補 足説明の約46.0%を占めている。 しかし,地図作りに直接必要でないにもかかわらず, 補足説明の加えられている例がみられ,この関連情報の 方に地域特性は強く表れていると言える。その主な補足 説明は,次の商業港,特殊な島,特産品,岡の集落等に 我等宅へも相見舞/我等ニも對面せしと云り 是も不思 議の事なりき ▽ 同十六日 朝五ッ前出立 舩ニ乗引縄を以測る 鹿折 村 則 本吉郡 北方と云 /唐桒村ノ小舘浦 九ッ後ニ着 止宿 肝入 文左衛門 此夜測量 同十七日 朝 晴ル 海陸手分六ッ半頃出立 小舘浦 乗舩 引縄ニ而海岸を/測 御崎明神へ立寄 此岬ニ而遠測し 神主方ニ而昼飯ス 陸ハ御崎 /小原木村 大澤濱 迄測 六ッ半ニ 着 舩測量ハ 御崎明神迄測夫 陸を歩行 七ッ半ニ/着 宿 肝入十左衛門 陸 測量ハ残 同十八日 朝 曇天 朝六ッ後 大澤濱 出立 郡蔵 秀蔵ハ 昨日測量残を測 小原木村 大澤 濱 /より海岸舩引縄ニ而 長部村 是より氣仙郡 今 泉 村 海 邊 を 測 る 夫 / 高 田 村 是 陸ノ海邊 を測る 濱 田 村 今泉 高田 濱田 人家ハ岡ニあり 勝 木 田 村 小 友 村 / 迄 陸 を 測ル 止 宿 仮肝入 与兵 家もよし 貞實者 八ッ後ニ着 夜亦曇ル 同十九日 朝晴 六ッ後小友村出立 廣田村 泊濱 同村之 内なり 迄海上引/縄ニ而測り 夫 陸地を大野濱迄測 又 海上末マツ崎村迄測量/ ▼ 郡蔵ハ朝 手分 小友村 直ニ末崎村門の濱へ測ル 八ッ半 頃 門の濱 /着 止宿 肝入治五兵 夜曇 同廿日 終日雨 逗留 同廿一日 朝五ッ前末崎村 門 ノママ濱 出立 手分 郡蔵 秀蔵ハ陸地ヲ大舩/渡村 測る 宗平 慶助ハ海上引縄ニ而 赤崎村 綾里村迄測 郡蔵/秀蔵ハ六ッ頃ニ着 舩中の測 ハ 岬回り外海ニ成 波浪立て難儀ニ/及へり 此村ノ入口 村内迄測量残り 五ッ少前ニ着 此夜晴天なれ共/遅着 不測量 綾里村 湊濱 肝入与平治 同廿二日 朝 曇ル 六ッ後出立 宗平 慶助ハ昨日の残を測り 直ニ越㐂來ヲ測 余と郡蔵 秀蔵ハ唐舩番所ニ而所々を測ル / 越喜キ來村 濱々 おほし 七ッ後ニ着 止宿 肝入善左衛門 此夜雲中測ル 同廿三日 越喜來村出立 手分 郡蔵 秀蔵ハ朝早く 七ッ半出立 我等 宗平 慶助ハ六ッ後ニ立 吉 濱 村 / 唐 丹 村 唐丹村之内 大石濱 舩ニ而引縄測ル 是ヲ終トス 七 ッ 頃ニ着 止 宿 西村善太郎 肝入 周蔵 ▽ 同廿四日 前夜より風雨今四ッ頃ニ至る止ム 逗留 午 後 晴ル 夜測量/ 氣仙郡大肝入 高田村検断忠兵 濱々付添案内 此所ニ至り南部領大槌町役人と 對談し 是迄仙臺領の止宿 首尾合 村々濱々役人案内 大肝入 其支配の手配り 肝入検断/ 付添之儀 領主 村触 並ニ難所道繕等迄委細ニ通達す 然ル所南部領ニは 公儀触ハ 勿論 領主より此度之御用触無之由ニ付 急ニ大槌支配の南部役人江申遣し候よし 夫より/ 海邊村々掛役人江大槌町支配 申合 其支配之間村役人ヲ別ニ一両人宛付添 止宿 人足 等之儀執斗ける 仙臺領案内忠兵 並ニ唐丹濱の役人 かけ合なくハ 南部領ニ而ハ / 止宿等之差支ハ無覚束候 唐丹 平田村山越 此間仙臺領南部領界 是迄氣仙郡 是 閇伊郡 此堺より大槌町支配付添案内 佐助 清助なり 村々役人送迎ハ同前 同廿五日 朝六ッ後唐丹濱出立 此日曇天 南部領閇ママ伊 郡平田村/肝入市兵 と云 家作大ニよし 此所ニて中食す 釜石村 九ッ頃ニ着 止 宿 肝煎 宇右衛門/家作 大ニよし 昼後晴測器仕立夜ニ入大曇
関するものである。 商業港の補足説明としては,「米穀積立ノ湊」,「石巻 村 門脇村と軒を並 川を 北上川ノ流則湊 渡て湊 村 則石巻の内なり 門脇村 石巻村 三ヶ村を石巻港 と云」,「小竹濱 此所 石巻 荷物積立出帆を見合港な り 馬ノ背と云小嶋ありて舟掛の所 三四丁四方もあ り 深も三四尋程なり 折濱 是も小竹濱ニ續て 深三 尋程ある港なり」,「月浦ハ前ニ小手嶋あり 二三丁四方 深三四尋ありて港なり」,「此所ハ上港なり 前ニ鮫嶋あ り」,「湊入口巾 三百間 二百間 夫 段々巾狹村中へ 入込ム 居浦 十四丁三十五間 深七八尋 村中ニ而三 尋二尋」など,多くの記述がみられる。当時,江戸で流 通する米の約3 分の 2 は,仙台藩から供給される米(江 戸廻米)であった。忠敬は元々米穀商を家業としており, その知識もあって特記したものと解される。 特殊な島の補足説明としては,牡鹿半島周辺の島々が 多い。特色的なものは,地元で 2 島とされている島が 実際には 1 島である旨を記した「此海中ニ網地 長渡二 ママ あり 實ハ一嶋なり」や,仙台藩の流刑地がある田代 浜(島)と江ノ島の2 島について記述した「此邊海中 田代濱あり 嶋ニて仙臺罪人をも流所なり 縦横十八九 丁もありと云」と「海中ニ江ノ嶋あり 家八十六軒あ り 仙臺領の流人嶋のよし」である。フランス伊能中図 をみると(図4 ),「網地 長渡二 」については,鮎川 浜沖の絵画的に描かれた1 つの島に「網地濱」と「長渡 濱」との2 つの浜名を記入することで処理している。「田 代濱」と「江ノ嶋」とは,牡鹿半島を挟み,それぞれ東 西(図 4 中では上下)に描かれている。 特産品の補足説明としては,雄勝硯について「此所ニ 硯石あり 高嶋ニ少劣れり」と書いたものである。当時, 雄勝硯は,熊野那智硯,近江高嶋硯,長州赤間硯等と並 び,高い評価を受けており,仙台藩は原石の採掘場所一 帯を「お留め山」とし,その保護に努めていた。雄勝硯は, その後時を経て,昭和60(1985)年には国の伝統的工芸 品の指定を受けている。その特徴は,バランスの良い鋒 鋩,豊かな艶と滑らか石肌をもつ黒・暗藍色である。一 方,忠敬が比較した高嶋硯は,鮮やかな虎斑をもつ青黒 色が特徴である。 そして岡の集落については,9 月 10 日に「今ハ釜谷濱 ハ岡となり海邊ニあらす」と,同18日に「今泉 高田 濱田 人家ハ岡ニあり」との記述がみられる。とくに釜 谷浜は,「分濱 此濱迄十四濱なり 釜谷濱を加テ十五 濱ト云」と併せれば,かつて海に面しており十五浜と言 われていたが,今は岡(内陸)となり,海辺ではなくなっ たと解される。フランス伊能中図をみると,釜谷濱の地 図 1 仙台・相馬藩境周辺地域(フランス伊能中図) Fig. 1 Sendai Domain - Soma Domain border region
(French Inoh middle scale map)
(日本大学文理学部所属「伊能中図原寸複製,奥羽」 〔原本:イブ・ペイレ氏旧蔵,日本写真印刷株式会社現蔵〕) ※以下,図 2 ・4・5も同様. 海況等1.8% 先触等 9.2% 人物13.0% 測量16.9% 地域18.0% 定型41.2% 図 2 仙台・南部藩境周辺地域(フランス伊能中図) Fig. 2 Sendai Domain - Nanbu Domain border region
(French Inoh middle scale map)
図 3 記載項目の割合
Fig. 3 Composition ratio of items mentioned
名はなく,長面濱の分濱側スペースに「自分濱至長面 濱 加岡村曰十五濱」と記載されている(図5 )。かつ ての釜谷濱は,旧北上川河口付近で追波湾の湾奥部に面 していたものとみられる。一方現在,釜谷の集落は,河 口から数Kmほど上流側にある。平成23(2011)年 3 月 11 日の東日本大震災の際,大津波で全人口の約 4 割を 失い,集団で避難中の児童が痛ましい被害を受けた石巻 市立大川小学校の所在地である。また,今泉 高田 濱 田は,広田湾の湾奥部に位置する現在の陸前高田の集落 である(図6 )。ここも東日本大震災の際に,集落は大 津波で壊滅的被害を受け,国指定の名勝「高田松原」の 松も1 本を残し流失したところである。なお,釜谷の 集落が「岡」(内陸)化した要因としては,江戸期に実施 された北上川の改修事業により河口付近で堆積が進んだ ためと解される。また,今泉・高田・濱田の集落が「岡」 (内陸)に立地した要因としては,海辺に気仙川が形成 した小規模な三角州性低地(農地),潟湖(古川沼)や海 抜高度の低い砂州(高田松原)が分布し,立地に適さな かったためと言えよう。 このほか,「此所ニ而ハ加末津可川と云フ 井戸濱迄 續」・「野蒜村 濱市村之間 トサノ湊と云舟渡し」など の河川・舟渡に関する記述もみられる。両者とも,アメ リカ伊能大図・フランス伊能中図とも加末津可川,トサ ノ湊の記載はない。また「此濱入口ニ名取川落口 入海 江會して大河と成」の記述は,名取川の下流部が,海岸 線と平行に伸びるラグーン(潟湖)に入った後,太平洋 へ注ぐ地形的な特色を補足説明したものである。 (2)測量の補足説明にみる地域特性 伊能忠敬の測量は,基本的に導線法を用いて陸上から 海岸線を測る。この場合,「測量日記」の記述は,測量 区間の地名が列記されるのが定型である。しかし,海辺 が断崖絶壁となっており,陸上から近付けない場合は, 特別な対処法として,海上から船を用いた引縄測量が行 われ,「測量日記」の記述にも旨の補足説明が加えられ ている。仙台藩領沿岸部では,その補足説明が585 文字 にも及び,8 月21・22・23・24・26・27・30日,9 月1・ 2・5・6・7・8・12・13・14・16・17・18・19・21・ 22・23 日に記述がみられる。これは,悪天候等で測量 ができなかった日数を除いた,実質的な領内測量日数で ある31日中のうちの74.2%(23日)にも達している。こ の海上から船を用いた引縄測量に関わる補足説明の多さ は,山地・台地が沈水し,人を寄せ付けない断崖絶壁を もつ複雑な海岸線が広がる南三陸のリアス式海岸や松島 湾の多島海が,仙台藩領沿岸部における海岸地形の地域 特性であることを顕著に示すものである(図7 )。 図 4 牡鹿半島とその周辺の島嶼部(フランス伊能中図) Fig. 4 Oshika Peninsula and neighboring islands(French
Inoh middle scale map)
図 5 桃生郡十五浜(フランス伊能中図)
Fig. 5 Jugohama in Monou-gun(French Inoh middle scale map)
図 6 広田湾周辺地域(アメリカ伊能大図)
Fig. 6 Hirota bay and neighbourhood area(America Inoh large scale map)
(米国議会図書館所蔵伊能大図「陸奥 大槌 気仙沼」, 日本地図センター編『伊能大図総覧』(2006)より)
江戸へ積入申候よし」と記されている。一方,気仙沼の 止宿主人の日除儀右衛門は,9 月 15 日にあるように, 忠敬と同じく米穀商を営み,佐原村の伊能宅へも訪れ, 対面した経験を持つ人物である。この両者に関する特記 事項は,当時,仙台藩領沿岸部(人々・集落)が前掲の 商業港(荒浜,石巻,馬ノ背等)だけに留まらず,より 広範囲に亘り,江戸・銚子や佐原との間で交易を行って いたことを示している。 佐藤玄達は,忠敬の後妻・信(ノブ)の実父の弟子に 当たる。信の父親桑原隆朝は,仙台藩江戸詰藩医である。 なお,当該地域の周辺において「佐藤玄達」といえば, 華岡清州に師事し全身麻酔技術を伝えた一関藩の藩医16) が有名であるが,別人である。 (4)先触・役人等の補足説明にみる地域特性 第二次測量では,勘定奉行から沿道の村々へ人馬の差 し出し17)の触れが出されていた。9 月10日の「仙臺領も 村役人送迎案内ハ 外々ニ同し 所ニより村役人之外ニ 棒突役人案内す」にみられるように,仙台藩領では測量 の際,測量隊へ協力指示が行き届いており,該当区間の 村役人が次の村まで付添案内していた。 南部藩領については,忠敬自身も8 月 21 日に塩竈か ら宮古まで先触を出し,「此所 南部領 宮古迄先触を 出す」と記述している。ところが 9 月 24 日,南部藩領 へ入る間際になって,同藩領では勘定奉行・藩主からの 触が届いておらず,唐丹(仙台藩領)の役人の掛け合い にて,急遽,大槌町支配の役人が宿や人足等を手配する 次第であった。忠敬は,このことを8 行(二行割り形式) に亘って,公務日誌たる「測量日記」に記録している。 ちなみにその後,八戸藩領では村役人から村高を教えて なお,海上から船を用いた引縄測量に対して忠敬が用 いた文中の表現は,「舟ニ而引縄を以 測量を成」・「仙 臺領海中間数引縄の初めなり」・「海上長引縄を以 舟續 ニ測」・「海を(略)測ル」・「舟ニて(略)長縄(略)ニ而 測ル」・「海面を測」・「舩中引縄を以測る」・「舩ニ而海岸 引縄を以測量ス」・「舩中引縄海岸測量」・「舟引縄ニ而測 ル」・「舩中引縄ニて測ル」・「舩中引縄ニ而測ル」・「舩中 引縄を以測ル」・「舩ニ而 海面引縄ニ而(略)測る」・「海 上引縄ニ而測り」・「舩ニ乗引縄を以測る」・「乗舩引縄ニ 而海岸を測」・「舩測量ハ」・「舩中の測量ハ」・「舩ニ而引 縄測ル」など多様である。海上から船を用いた引縄測量 の最も多い表現は「舩中引縄」(にて・を以て,測る)で ある。但し,用語として用いる場合は,忠敬の使用した 「舩中引縄海岸測量」もしくは「舩測量」が適切であろう。 その作業については,8 月 22 日に「不残乗舩 外ニ 舟 二艘を用テ方位を測 海上長引縄を以 舟續ニ測」 と記されている。天候や測量場所によっては,9 月 5 日 の「舟引縄ニ而測ル(略)泊濱 西強風 海上舩ニ而測 難ク 宗平 秀蔵 慶助 泊濱 谷川濱迄陸を測る」 や,同11日の「宗平 慶助ハ海上引縄ニ而赤崎村 綾里 村迄測(略)舩中の測ハ 岬回り外海ニ成 波浪立て難 儀ニ及へり 此村ノ入口 村内迄測量残り」などの記述 のように,困難な作業であったことが理解できる。ま た,9 月 19 日の「廣田村 泊濱 同村之内なり 迄海上 引縄ニ而測り 夫 陸地を大野濱迄測 又海上末崎村迄 測量」の如く,太平洋(外海)に突き出たリアス式海岸 の半島の測量は,岬の先端に出るのを避け,ある程度船 測量したところで,陸路にて半島を横断(ショートカッ ト)し,半島の逆側の海辺へ出て船測量に戻っており(前 掲図6 ),ここからも当該地域における測量の難しさが 伺えよう。アメリカ伊能大図をみると,松島湾や三陸海 岸では,測線(朱色の線,測量したライン)が頻繁に海 上を通っている。 (3)人物の補足説明にみる地域特性 人物に関する補足説明は,秋山惣兵 を中心に,日除 儀右衛門,佐藤玄達等について575 文字と多くを費やし ている。このうちの秋山惣兵 と日除儀右衛門は,共に 仙台藩から指定された分浜と気仙沼における止宿の主人 である。分浜の秋山惣兵 は,9月 8 日で 2 ページに亘 り詳述しているように,忠敬が安永7(1778)年に妻の 達(ミチ)と松島を旅行した時に,鉾田で偶然出会い, 仙台まで同行し歓待してもらった人物である。彼につい ては「余ハ交易の為ニ銚子港又ハ東都江 幾度も往来 す」と話した旨の記述があり,また忠敬の『奥州紀行』 には,もう少し詳しく「此仁肴商売致し廻船を持 銚子 図 7 松島湾(アメリカ伊能大図)
Fig. 7 Matsushima Bay(America Inoh large scale map) (米国議会図書館所蔵伊能大図「松島 荒浜」,日本
生産,北上川の改修事業による堆積の進展で内陸化した 釜谷の岡の集落等がみられ,それぞれの場所における地 域特性と言えよう。 (4)測量に関する補足説明としては,海辺が断崖絶壁と なり陸上からは近付けない場合の特別な対処法である, 海上から船を用いた引縄測量(「舩中引縄海岸測量」・「舩 測量」)についての記述が,実質的な測量日数31 日のう ちの74.2%(23日)にも及んでいる。当該地域における 地形的な地域特性が,南三陸のリアス式海岸や松島湾の 多島海であることが,「測量日記」からも読み取れる。 (5)人物に関する補足説明としては,当時,仙台藩領沿 岸部(人々・集落)が前掲の商業港(荒浜・石巻・小竹濱・ 折濱等)だけに留まらず,より広範囲に江戸・銚子や佐 原との間で交易を行っていたことが,地域特性として表 れている。 (6)このほか,先触・役人等に関する補足説明では,伊 能忠敬の全国測量に対して積極的に協力する仙台藩と, 消極的な南部藩・八戸藩との違い,また海況等に関する 補足説明では,南三陸海岸付近の海域が難所であったこ との一端を伺い知ることができよう。 なお,以上述べてきた特記事項は,概ね地形学や歴史 地理学等にて理解されている当該地域の地域特性と比べ て大きな齟齬がなく,「測量日記」が当時の地域特性を 考察するための資料として,一定の価値を有することが 確認できたと言えよう。 付記 本稿を作成するにあたり,国土交通省国土地理院・(財) 日本地図センターおよび伊能洋氏からご協力をいただきまし た。ここに記して厚くお礼申し上げます。なお,この度の東 日本大震災で被害を受けられた地域の方々の一日も早い復興 を心よりお祈り申し上げます。 もらえなかった。これらは,伊能忠敬の全国測量に対し て積極的に協力する仙台藩と,消極的な南部藩・八戸藩 とのいわゆる「温度差」の一端を示していると言えよう。 (5)海況等の補足説明にみる地域特性 金華山以北の三陸海域は,夏季の海霧と冬季の波浪 で,現在においても海難事故の発生しやすいところとし て有名である。またリアス式海岸は,岬付近に岩礁の分 布も顕著である。かかる状況を受け,「金華山渡海不成」 や「舩中の測量ハ岬回り外海ニ成 波浪立て難儀ニ及へ り」など,南三陸海岸付近の海域が当時の航海術にとっ て難所であったことの一部が垣間みえる。 5.まとめ 本稿では,伊能忠敬の「測量日記」に記載されている 地域的な地理的情報に基づき,寛政13(1801)年におけ る仙台藩領沿岸部の地域特性について考察した。その結 果は,以下のように要約される。 (1)伊能忠敬の「測量日記」は,当時最も全国の諸事情 に精通し,かつ科学的な観察眼を持つ忠敬により,幕府 の命令を受けて実施した全国測量の公務日誌として綴ら れたものであり,その記載内容は一定の客観性を有する 史資料と言えよう。 (2)仙台藩領沿岸部は,享和元年 8 月 17 日∼同年 9 月 24 日の箇所に記載されており,地域特性を読み取る地 理的情報は概ね特別に補足の説明として認められてい る。当該地域において特記された事項としては,地域, 測量,人物,先触・役人等,海況等の補足説明などがみ られ,このうちの地域,測量,人物に関するものに地域 特性がよく表れている。 (3)すなわち,地域に関する補足説明としては,荒濱・ 石巻・小竹濱(馬ノ背)・折濱等における商業港の発達, 田代浜(島)と江ノ島の流刑地,雄勝における硯(工芸品) 7) 井村博宣(2008):「高松藩領における伊能忠敬の測量」, 香川地理学会会報,28,29−41. 井村博宣(2009a):「伊能大図(米国)彩色図における讃 岐国安戸池の地形表現」,日本大学文理学部自然科学研 究所「研究紀要」,44,37−44. 井村博宣(2009b):「伊能忠敬の測量作製と讃岐の伊能 大図」,香川地理学会会報,29,20−29. 井村博宣(2011):「伊能忠敬「測量日記」にみる讃岐国 島嶼部の地域特性」,香川地理学会会報,31,35−44. 8) 平成 23(2011)年 10 月 1 日∼ 30 日に,日本大学文理学 部資料館で実施.主催は日本大学文理学部・日本大学文 理学部資料館,後援機関は国土地理院・世田谷区・世田 谷区教育委員会,協力機関は(財)日本地図センター・ 注・参考文献 1) 第 2 次測量(享和 2・1802年)で算出した緯度 1 度の長 さの誤差は,わずか0.2%に過ぎない. 2) 箱の標題は『実測輿地図』,「輿地実測録」凡例は『大日 本沿海実測全図』,明治政府発行の借用証は『輿地実測 (大図)』となっており,統一をみない. 3) 片上広子(1992):松浦武四郎の調査記録による蝦夷地 の地域構造の分析,歴史地理学,158,22−36. 4) 山田志乃布(2000):幕末蝦夷地の絵図にみる地域情報 の把握―「江差沖ノ口備付西蝦夷地御場所絵図」を事例 として―,歴史地理学,198,1−21. 5) 保柳睦美(1978):伊能忠敬「測量日記」にあらわれた測 量の種類と性格,測量28−9. 6) 佐久間達夫(1998a):『新説 伊能忠敬』,大空社,398.
伊能忠敬記念館.詳細は「伊能図にみる東日本―東北地 方を中心に―」(展示図録)を参照されたい. 9) 佐久間達夫(1998b):測量日記(抄),東京地学協会編『伊 能図に学ぶ』,237−254. 10) 伊能景利は,忠敬の 4 代前の当主で,地域の重要事項 をまとめた記録書を多数残している. 11) なお本稿の脱稿後,伊能忠敬記念館所蔵「測量日記」を 原本とする『伊能忠敬測量日記(DVD)』(伊能忠敬と伊 能図の大事典をつくる会)の刊行をみた。 12) 佐久間達夫(1998c):『伊能忠敬 測量日記』,大空社, 全6 巻. 13) 双行書き右の行の「二」の右横に「東宮濱」と記載されて いる. 14) 「六」は二度書きのため不鮮明で「七」とも読める. 15) 「最」の右横に「 」と記載されている. 16) 一関藩の藩医佐藤玄達(1792 ∼1859)は,和歌山県那賀 町平山で採取した薬草標本32 点「紀州名手平山取處薬 草」を残している. 17) 伊能忠敬の費用負担ながら人足二名・馬一疋・長持一棹 等のが利用が認められていた.